目黒さん度々ありがとうございますです。 何ていうのかなあ、「技巧」って、先入観としての否定的な語韻を持った言葉なんでしょうね。日本特有なのかなあ。 僕は同業者に対する想いとして、言葉にどんなネガティブなものを抱いてもかまわないと思うけれど、実際それを自分の中に取り込まず先入観で是非を定めてしまうのはやってほしくないなあというの、あるんです。それがあるからここでこんな方向性でやっているところがありますね。 自分が表現する上で、こういう考え方もあるんだという選択肢が増えるならばとてもうれしいんですね。それを選択するかどうかは自由。だけれども選択する余地があるだけ、作品と自分自身の可能性は広がるわけですからね。 ただまあといっても、あんまりフンパンモノならこそこそ逃げ出そうかなとも思っておりましたが(笑) おだてていただきましたので、ネタがあるうちはもうちょっとだけはやろうかなと(笑) 手塚治虫氏の話は大いに同感。やっぱり一流の他媒体というものには、常日頃から触れないとならないですね。またその作り手とも触れ合えれば更にいいと思う。そういう中の雑談ですら、自分の肥やしになるんですね。
私も、雑談の仲間に入れてください(笑) rathiさんのおっしゃりたいこと、わかります。感じたことをそのままやっていった方が、楽しいですから。自分が。でもそれって、タカハシさんのおっしゃるとおり、発想に限界がくると思います。それに、自分だけが楽しくても皆の心に響かないと面白くないじゃないですか。若いうちは感受性が豊かだから、きっと感覚のまま作っても、それなりの作風に仕上がるのだと思います。 でも成長(老けるも含む;;)につれて、そういうものって薄れちゃいますから。感覚だけでいくと崩れてしまうものってあると思います。あ、もちろん、知識や技巧にがんじがらめになっても同じことは言えますが(笑) だから私は、感性の強い若いうちから、知識や技巧での裏づけ(基礎づくり)することは大切だと思います。 あ、ちなみに。 感受性の話をするうえで必要かと思ったので、こんな話を。 故・手塚治虫さんは、こんなことを言っていたそうです。「一流の漫画家になりたければ、一流の小説を読んで、一流の映画を観て、感受性を磨きなさい」 手塚さんは週に3〜4回は映画を観に行ったらしいですよ。〆切間近でも、「作品が仕上がるまで」とホテルに閉じ込められても脱走して(!)、映画館に駆け込んでは映画を観たらしいです。 やり方は人それぞれですが、感受性を磨くことって、知識や技巧方面を磨くことと同じくらい大切だと思います。感受性を磨けば、感覚だけでいっても面白い作品になるかもしれませんしね。きっと、どっちも大切だけど、どっちかっていうと縁遠くなってしまう知識・技巧面を、今回タカハシさんが楽しく語ってくれたんじゃないかなぁと思います。 パズーがトランペットを吹いたりハトを飛ばした真相はわかりませんが、そういった技を自分のものに取り込める機会を見逃したくないので(笑)これからも、こういったものを期待させていただきますよ<タカハシさん
ぶっちゃけ、んなもんわかったってしょうがねえじゃねえかっていう気分って、僕自身昔持ってたんですよ(笑) 小難しい理屈となえてもしかたないじゃないかっていうね。 そのくせ、作家とかがインタビュー受けてたり、対談とかしてるのを読んで、彼らの使っている摩訶不思議な理屈にビビってしまったりね(笑) 悩みも多々でしたよ。結局、プロの連中がみんなそういう理屈を習得してるなら、オレなんてとってもムリだとかってアタマ抱えてたこともあったし、そういうのが怖くて仕方がなかったのです。 でも冷静になってみればわからないのは当たり前で、わかるところから一歩一歩やってかなきゃならない。だからしょうがないから勉強するか、という感じで。 僕の場合、勉強がイヤだったのです(笑) 努力することも好きじゃなかったのだけれど、それ以上に、勉強することで自分自身の現状と直面するのが怖くて仕方がなかったわけなのですよ。学んでないんだからわからないのは当たり前なのにね。 そんな状態で僕が用いていた感性とか感覚って、つまるところエクスキューズでしかなかったんですね。自分を守る防波堤かな。 そんなんだから、肝心の感覚も感性も一度枯渇して、何にも浮かんでこなくなった。書きたい気持ちがあっても何も書けない。小説読んでもイライラするばかりでちっとも面白くない。しょうがないや、書くのやめるか、それともアクマに魂売ってでもなお書き続けるか。そんなことがあったから、学んだり考えたりし始めたんですね。 それで意を決して色々学んでみたら、これが案外面白かった。作風も変わった、というより、あきらかにハバが増えたんですね。だから結構実感こもった論になってますね。
はい、お早い返事どうもです。やっぱり分かってましたか(笑 多分分かっているだろうなぁと思いつつも、敢えて書かせてもらいました。まぁ、最初の記述を私がきちんと理解していなかったのが原因のようです。申し訳ない。 いやはや、小説家目指してるのに、そういった文系的な説明にはとんと弱いもので。 なんだか本当に先生と話しているような気分になってきます。はい。 ではでは〜
はい、はじめまして。 さてさて、あなたのおっしゃることはわかるのですが、僕はそれを見越してこの演習の冒頭に、 全く技術、技巧を用いていない小説というものは存在しませんね。言葉、それ自体がそもそも技巧的であり、僕らはそれを技術、知識として習得した上で感性の中に取り込んでいる。 ただ、それがあまりに自然であるために、殊更に技術的、技巧的なものを感じず、無意識のままに用いているということが非常に多いわけです。 だから技巧的な作品というのは、技巧を用いている作品という意味でなく、技巧が表面上目につく作品ということができるかもしれません。 と、書き記しておいたのですね(笑) 何となくそれがいいと感じる、というその何となくの感覚、センスというものは、天然自然に生まれもって我々の中に備わっている、というわけではなく、後天的に日常生活を送る中で、現実やさまざまなフィクションとふれあい、知らないうちに我々の中に培われたもの、と考えることができます。 これを僕は、無意識の技術、無意識の技巧と考えます。この段階に達すると、感覚との境界線が曖昧になるものですね。 例えばご飯を食べた後で歯を磨く。それは、衛生や健康のためという実利がそうさせるものですが、しかしそんな理屈を考えないでしょう。習慣となっている。もしくは、それが当たり前すぎるほどの習慣になっているから、磨かないと気持ちが悪い。だけれどもそれは家庭での躾け、そうしろと教え込まれて長い年月かけて、それがそういうものになっている。そんな段階に進んでいるわけです。感覚というのはそれが実在しているようでいて、確かに実在しているのだけれど、天然自然に持っている感覚というものの他に、培われて我が物にしているものもある。特に今回の演習で言及しているようなものが、仮に製作者の無意識の所為であるならば、それは後者であるわけですね。 もっとも、実際に宮崎駿氏がそれを意識的にやったか、無意識的にやったか、それはたいした意味がないのです。これは犯人探し、トリック暴きのミステリではないのです(笑) 僕らにとってごく当たり前な、無意識で、なんとなしに感覚で処理している作業、それを敢えて意図的に、知という尺度で光を与えて再認識するという作業なのですよ。当たる必要はない。理屈で考えて理屈で解き明かそうとする行為が重要なのです。あたった、外れた、ではなく、そういう考え、そういう方法があるのかと別角度のアプローチがこの世にあることがわかれば十分。 無意識でやる、感覚でやるというのは、必ずその発想力に限界があるのです。 それも、個人が潜在的に持っている限界値のはるか手前で止まってしまうものだと僕は思います。 イヤラシイたとえを用いれば、同じくらいの学力がある子が、片方は一生懸命勉強し、もう片方は適当に授業だけ聞き流すだけで勉強をせず、それで二人してテストをうけるとなると、どうなるかということですね。一回や二回は、勉強しない子がセンスだけでいい点を取るかもしれない。だけれども長い目で見れば、しない子が低位につくのは火を見るより明らかなのです。 無意識、センス、そういうものを曖昧に信奉するというのは、よほど隔絶した感性、感覚というものを有しない限りは、ほとんど意味を成さないものです。逆にそういう特殊な人間というものに対して畏怖を覚えればこそ、そうでない人は必死に学ぶものですよ。 といって僕は、センシティブな作品、発想というものを、否定しているのではないのです。 それを用いるか用いないかは書き手の自由なのですが、知、理屈というもので万物を把握し、それまで未知であった自分の領域を広げていけば、自ずから自分の感覚というものも研ぎ澄まされるものなのです。 その上で、理詰めで窒息しそうになりながら作品を組み立てていくか、知の領域を知った上でさらに足元からこんこんと湧いてくる感性の井戸を掘り進めるか、いずれにしても知として考え学ばぬよりはるかに豊穣な世界がそこにはある。 まあアプローチの仕方は万人違うわけです。ただ、短絡的に価値判断するんでなくて、口に合わなくても様々なものを口にして咀嚼してみれば、それだけでも自分の幅は広がるし益があると思いますよ。
タカハシジュンさんが仰っている講義とは路線が違うのですが、こんな形もある、という事を知ってもらいたく、今ここに書いております。 話の腰も折っているし、別に否定している訳でもありません。まぁ、反論(意見)あってこその話題だと思うので、一個人の意見として受けてやってください。 いきなり私的意見で申し訳ないのですが、私は知識や技巧云々ではなく、ほとんど感覚で書いています。 知識は重要です。技巧も重要です。でも一番大事なのは、「それ」を感じ取る事なんだと私は思ってます。 今こうして漠然的な言い方をしているのも、この何となく感を、見ている人に味わって欲しい為です。「頭で考えるな。身体で感じろ」 そのまんまですな。 で、面白い作品(だれもつまらない作品を作ろうだなんて思わないと思いますが)を作ろうと思ったとき――まぁこれは私の場合ですが――技法云々ではなく、八割方感覚で書いている訳です。 つまり、「あーした方が良い」、「こうした方が格好良い」程度な訳で。 話を「ハトが飛びだった理由」に繋げますと、単に宮崎監督はハトを飛ばしたかっただけなんじゃないかなーと思ったり。 ハトが飛び立つ事によって町を一望出来ますし、演出的にも綺麗なので、「こうした方が面白そうだ」という結論になったのではないかと。 まぁ、結局はそれが「演出の技法」というヤツなんだと思いますが、やはり根っこの部分はそれなんじゃないかと思うわけで。 根拠も何もありません。えぇ、「感覚」で言ってます。 いろいろと生意気な事言って申し訳ないです。 ではでは〜
目黒さんはじめまして。どうぞよろしくお願いします。 ご感想ありがとうございます。試みにこんなものを書いてみたのですが、何か興味でも覚えてもらえればありがたいです。 さて、ほんの僅かのシーンについて解析を施して、これだけの情報量になってしまったんですが、とにかく作りこまれた意図、作品戦略というものが半端じゃないですね。こういうのって何の気なしに漠然とやれるはずはないと思うんですよ。とにかく考える。徹底的に考える。それも決して芸術のような高峰に鎮座しているものではないですね。宮崎作品は基本的にエンターテイメントで、ラピュタはその中でも一二を争うくらいのエンタメですから。とにかく配慮が行き届いています。 こういった紹介をやって、それが直接小説を書く上での技法の向上になるかどうかというと、それは個々人に依存する部分が多大ですからね。何とも言えない。それに小説の技術というものはとかく普遍性を欠くもので、全ての書き手に等しくその技術が適合するとは限らず、むしろ書き手の固有性においてのみ用いることのできる技術というものが多いようにも見受けられます。 それは医者が、学理を学んでも臨床上手になるとは限らないのと似ているかもしれないですね。 ただ、当然過ぎるほど当然ですが、医者としてのお勉強ができても腕前は藪という人が存在するように、いくら臨床が上手だとはいっても学理がない医者というのに、僕らは命をゆだねることはできないわけですね(笑) 学理は直接臨床の向上には役立たないかもしれない。だけれども、だからといって学理なんてやる必要はないんだ、ということにはならないと思うんですね。 まあ文学はそこが曖昧だから、ついつい勉強をおろそかにしがちなんだけど。 まあ勉強といっても、学校の勉強とは違いますから、何か楽しんでこういうことをこれからもやれればなあと思います。まあ独りよがりになっては仕方がないので、ご希望あるうちはあるぶんだけこそこそやっていければなあと(笑) というわけでして、どうぞよしなに。
まるで、心理学の授業を受けているかのような気分です。ラピュタの世界を分析すると、確かに良く作りこまれていて、無駄が無いんですね!観る側に、キャラの気持ちになって考えさせるなんて……すごい技です。そして、ラピュタの凄さを教えてくれたタカハシジュンさんの視点にもびっくらです。これからも、こういたった講義を密かに期待しています(笑)
冒頭すぐ後、朝日が昇り白々と夜が明けていくシーンがありますね。主人公の男の子パズーがトランペットを吹くシーンです。実に軽快な、ちょっとだけ物悲しい、そして元気な曲で、キムタクが着メロにしていたんだっけ? 耳に残る曲です。 このシーンについて解析してみましょう。 ハトが飼われています。巣穴からパズーがハトを外に出してやると、ハトは飛び立ち、夜明けの空に向かってパズーがトランペットを吹く。 ハトが空を飛んでいきます。空を飛び、パズーの住む町並み、峡谷を背に飛んでいく。 はい、ここでストップです。 何でこんなシーンが挿入されたのでしょう? ここは感性で回答してはダメなのですね。知的に考えていく必要がある。 まずここは紹介のパートなのです。パズーの住む町並み、これはこの後に続くドーラ一家やムスカの軍隊との対決の重要な舞台になって行きますね。 その舞台の様子を紹介するために、ハトがそれら光景をなぞって飛翔しているのです。 海賊に追いかけられて大喧嘩になっていく町並み、線路から落下して飛行石の力で着底する鉱山の鉱床の大穴。そういうものがここで紹介されている。しかも、殊更に強調するやり方でなく、あくまでさりげなく、なのですね。 逆算して考え、我々が舞台の説明を強いられる側に回ったとして、どうするか。 安直な発想としてはナレーションを入れたり、字幕で説明を挿入する方法ですが、これはいかにも説明くさくもあり、話の流れとして突然解説役が顔を出してくることも不自然である。 これより多少知恵を使いますと、キャラクターに説明作業を押し付けて、彼らにセリフを主体にして説明させるという手段となるわけですが、これも会話それ自体とすれば奇妙になってしまうことでしょうし、やはり絵で見せないと弱いというのがあります。 そこでハトが飛ぶのです。実にいいアイディアです。 もちろん、何故ハトかということも考える必要がありますね。 何かを飛ばす時に、例えばスズメならば、ちょっとちっちゃくて弱々しすぎる。ツバメだったら何だか速すぎて気ままそう。若いツバメなんてちょっとアヤシゲな表現もありますからマイナスイメージです(笑) ワシはワイルドすぎますし、大体ムチャですよね。タカも同様(笑) 大体、舞台となっているのはフランスとか、西欧の田舎という感じでしょうか。一方観ている我々は日本人である。ツルだのキジだのという和風っぽい鳥が飛んだらイメージぶち壊し。さりとて西欧人だけが知ってる鳥が飛んでも、私たちはよくわからんわけです。それでハト、というチョイスになる。 更にあります。パズー少年は飛ぶこと、飛行することに憧れを持った少年ですね。そういう少年が獰猛な鳥とコンビを組んじゃ、彼の志望が狂って見えちゃうんですね。ハトを飼っていて、望むままに空を飛ぶハトに自分の願望や憧憬を向けているということで、パズー少年の心優しい造形を間接的に行うこともできるのです。 そして彼の吹くトランペットの音色。 冒頭でも書きましたが、軽快で、ちょっとだけ物悲しくて、でも元気で、そういう曲調ですね。これはまさにパズーのキャラクターを示してもいますね。 この曲が静かでオシャレでジャジーな感じだったら、パズーはもっとアダルトな雰囲気になってしまうし、ネコふんじゃっただったら道化になりますね。ドラクエのテーマならゲームオタクになるし、六甲おろしだったら阪神ファンになる。まあここまで露骨でなくても、一歩曲調を間違うと、途端にパズーはキザすぎちゃうんですね。朝イチでラッパ吹くなんて、キザ過ぎでしょう(笑) でもそういう風には連想できない。これは曲のチョイスが秀逸であるからです。 ジメジメとして、陰気で、陰険でもある、そんな人間、或いはそういう人間のように造形しようと思う場合に、こういうさわやかな曲は吹かせられないですね。さらに朝日とのマッチング。さわやかさが更に際立つわけです。 ここまで整理。 ハトが飛ぶことによって町並み、舞台の説明を為し、ラッパの音色でパズー少年のキャラクターの説明をやっている。ひとつのシーンで二度おいしい絶妙の説明パートです。 さあ続きです。 ラッパが鳴り響く中で、シータが目覚めますね。視点はパズーの家の中に転換する。当然だけれども音色は小さく、くぐもって聞こえます。(こういう細かい部分は、一人で書いていてつい忘れがちなのです) ここのエフェクトは奇妙といえば奇妙なのですが、画面にシータを映し、シータが階段を上っていく、そのことによって、我々の視点もシータと同じになっちゃうんですね。 屋根の上にシータが顔を出す。ハトが攻撃してきて(笑) 笑い声がして、少年が登場する。「あなた、誰?」 シータはそう思ったでしょうね。そしてそれは観る側我々の気持ちと全く合致しているわけです。 ここはシータ視点で進行させ、パズーを外から描くという流れになって行きます。シータを見つけ、握手しながら自己紹介を始めるパズー。ここで観る側にパズーに関する必要な情報が、過不足なく実際に自己紹介しているのと同じ程度の量として提供されるわけですね。 注目すべきは、パズーに関して謎めいた、ミステリアスな部分はあまり存在しませんし、したとしても速攻でその謎を解決させているところです。中盤までリュシータ・トエルなんたらと本当の名前を隠していたシータとは大違いですね。パズーの父親のことはラピュタの存在の説明とフィットさせて、さっさとかたをつけているわけです。 これはバランス感覚ですね。主人公二人、いずれも謎をいつまでもウジウジ抱えていては整理がつかなくなる。一方はヒミツ、もう一方は明朗会計。これによって、パズー視点からシータを見つめるという手法が発動しやすくなります。ヒミツのあるキャラクター、何を考えているのかよくわからない人物は、説明焼くとしては全く不適格です。その視点が正しいのかどうかあてになりませんからね。そういう意味で、流れとしては、パズーを一刻も早く説明役に仕立て上げるために、彼に付きまとうヒミツは徹底的にここから始まるタイミングで消し去っている。この辺りの処理の巧妙さは、強盗犯が自分の足跡を手際よく消していくのに似てますね。 更にハトがもう一度活用されます。 エサをやるシーン。パズー、シータ共に実に楽しそうに、無邪気にハトにエサをやりますね。 これね、実にほほえましい、いいシーンなんですけど、一面ではリスクマネジメントでもあるんですね。 発想をかえるとね、例えばパズーとシータがもう五歳くらいも年上であったことを考えてみてください。男の子の家で一泊、朝日昇ってお目覚めでございましょう。途端にどうしようもなく生臭いものが生じてくるわけですね。 そういう要素というのは、徹底的に排除されなければならないんですね。微塵たりともそういう連想、邪推を観る側にさせてしまってはならないわけです。ここはそういう可能性を完全に消しにいくために、二人の無邪気さ、子供っぽさが強調されねばならないところなんですね。そのための小道具としてのハトなんです。お陰でそういうことを連想する人は、100人に1人もいないと思います(笑) この後、飛行石のルール確認(シータが使わなきゃダメ)、ラピュタの説明など、この作品世界の重要な部分の紹介が続いていきます。観る側に自然にそういうものが入っていくよう、冒頭の説明パートは実にうまい具合に作りこまれております。
全く技術、技巧を用いていない小説というものは存在しませんね。言葉、それ自体がそもそも技巧的であり、僕らはそれを技術、知識として習得した上で感性の中に取り込んでいる。 ただ、それがあまりに自然であるために、殊更に技術的、技巧的なものを感じず、無意識のままに用いているということが非常に多いわけです。 だから技巧的な作品というのは、技巧を用いている作品という意味でなく、技巧が表面上目につく作品ということができるかもしれません。 ところで僕らが小説を書く上達を望む場合に、様々なその登山路があると思いますが、もっともわかりやすいものはそれを知識として習得することです。別の言い方をすれば何らかの事物を習得、伝播しやすくフォーマットしたものが知識であるとも言える。そして、小説というものの本質が上記のとおりであるならば、表現における技術、技巧を知識として習得するということは、無意識的に用いている、あるいは無意識の領域で作用しながらも意識のレベルでは見過ごされている、そういう技術、技巧を顕在化することであるともいえるでしょう。 でありますので、技術演習と銘打って、少しばかり考えを巡らしてみたいと思います。小説サイト、文学サイトですから、表現における技術技巧についての検討会というのは無益ではないと考えますので、ご希望の方はどうぞレスにて活発にご参加ください。 さて、当然演習にはテクストが必要になりますが、これは敢えて小説表現を用いるのではなく、映画、それもアニメーションを取り上げようと思います。理由はいくつかありますが、ひとつには小説技法の習得といってもそれが困難であるのは、レトリックのレベルからプロットのレベルまでが渾然一体となってとかく見えにくいのが小説であること、またそれら技術技巧に普遍性があるかといえばそうとも断言できず、書き手本人に特化し本人にのみ用いることのできるスキルである場合が多いことなどが挙げられます。また実写の映画の場合、どうしても感覚的で明確な意味性を見つけにくいままに流れていく映像というものがありますが、アニメーションの場合はまずもって「描かれる」、漫然としたものの頻度を低くすべきである表現媒体であるということがあります。さらに、プロットレベル、演出、意味性の連環というレベルにおいて、小説表現に大きな示唆を与えてくれる効果も期待できますし、要は模倣しようとした場合、小説表現よりよほどそうしやすい。テクストとして向いているということが挙げられます。 それで取り上げるテクストは、宮崎駿作「天空の城 ラピュタ」とします。非常に巧緻な、巧妙なプロット立てが為されている、勉強になる作品です。ご覧になられていない方はネタバレにもなろうかと思いますので、以後の内容にご注意ください。