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タイトルRe: 小説公募について(大変遅くなりました)
記事No: 615 [関連記事]
投稿日: 2009/07/08(Wed) 19:40
投稿者ミノタウロス

中村ケイタロウ様、こんにちは。
そうですね、どうも行き違いが多いようですね。私は、貴方様との果てしない距離を感じています。
返事が遅くなって済みませんでした。本当は一つ一つお話したいのですが、わたくしにはその時間がありません。時間を惜しんでいるのではありません。わたくしは文章を考える時間、書く時間、読む時間、理解する時間に、他の人より相当時間がかかる上、今、自由な時間が余りありません。
それにこれ以上、わたくしのいらぬ発言によって更なる距離が出来るのを避けたいのです。
ただ、もし『この質問にだけは答えてほしい』と言う物があればお答えしますので、改めてご質問下さい。お願い致します。
本当に遅くなって申し訳ありませんでした。


タイトルRe: ふぐっ
記事No: 614 [関連記事]
投稿日: 2009/07/05(Sun) 00:59
投稿者夢幻花 彩

あら、ミノタウロスさんに返信したはずのやつがない……。またなにか間違えたのか私。

お忙しいのにありがとうございます。
大抵のことは思い込みじゃないかしら。ご自分にとっての「余程のこと」なら、だれがなんと言おうとミノタウロスさんにとっての「余程のこと」だと思いますよ。


> 自分の書き物には皆さん愛着あると思います。「面白い」にも色々な意味がこもっておられると。上手いとか下手とかは余り関係ないですよ。

えっと、「面白い」と「自信がある」の違いはわかってるつもり。
水芭蕉さんに申し上げたことと被るのですけど、いろいろな意味って具体的にどんな感じなのでしょう。例えば好きな漢字とか、単語とか、どう考えても好みに合わないものは、確かに自分の書いたものにはありません。そういう意味なら「あぁそうだよね」って頷けるのです。
 ただ、私は私の書いたものの良くない部分を誰よりも知ってるから、「面白い」とは思えない。展開の単純さ、文章の稚拙さは言うまでもありませんが、さらっと書いたように見せかけている工程の、誰も気がつかないような細部に払った注意の厭らしさに辟易するし、一生懸命書けば書くほど、自分の生臭い臭気を感じて吐き気がする。でも、それすら私は鏡に映さないと見れないのです。この憎たらしいヤツが、人様にはいったいどんなふうに映っているか。想像しただけで頭がくらくらする。
だからごめんなさい、愛着はないです。愛憎はあるけど。



 小説がストレスになるんですか? め、めからうろこ。びっくり。プロか誰かに強要される人だけかと思ってました。
 文章をストレスにしたことが無いので、新鮮な感覚です。どんなに忙しくても熱があっても寝る暇がなくても、一行も何も書かないで終えた日は、15年ほどはありません。多分、文字が無くなったら私は発狂します。今の世に生まれておいてよかったよかった。



 横から。
 中村さんのお話にやたら感動してしまいました。首を縦に振りすぎてもげかけました。(すみません、ただの感想文です)

 私も相当乱れた日本語を使う口なので耳は痛いのですが、流石に高校の担任の口から「お米を洗う」を聞いた時は耳を疑いました。その人は世界史の教師です。彼女の作ったプリントには、「ボーリング大会」なる謎の大会が印字してありました。地質基準に基づいて点数を競うのでしょうか。何故か、実施されたのはとある球技でしたけど。


タイトルRe: ふぐっ
記事No: 613 [関連記事]
投稿日: 2009/07/05(Sun) 00:21
投稿者夢幻花 彩

水芭蕉さん☆じゃなくて、人様から見てどうなのかが判らないっていうか、自分の書いたものの悪いところを一番知ってるのは自分だと思うので(あの、あくまでも私の場合ですよ)、読むものとしてみた場合、そんな悪いところだらけのを面白い、って思うことができないだけなのです。


>  よく見えないのは私も同じです。よく見えないけど、それを直視してしまっては、もう生きていけません。

その感覚がよく判らないのです。というか、直視したいのはやまやまなのですが、よく見えないので直視もできません。でも人様は直視なさってる訳で、私にできることはその方々に「どう? ねぇどう? 悪いとこ言って言って言って」ってお願い申し上げるか、穴があくまで鏡を見つめて、左右反転した平面の顔を眺めることぐらいなので。


>  正直酷い文章だなぁと思うことも多々あります。面白くねぇなぁとも思うことはよくあります。でも、どこをどうすれば面白くなるか。と考えて書いてるのも「自分の話は面白い」に繋がってるかもしれません。面白くしようと四苦八苦することそのものが、結果、私の話は結構面白いじゃないか。なんて(あぁ、何か怒られそう)

「こうしたらちょっとは面白いのかなぁ」「いやあざといのは嫌い読みたくない」「じゃあ直球でいくか」「うわぁ酷いなぁ」「どうしてこうかなぁ」「じゃぁどうすんのよ」「うーんうーん」というのは私もよくやります。というかそれしかやっておりません。それがやりたくて書いているのです。だから書くのは好き。
 ただ、私の場合(しつこい)それは「私の話は面白い」に結びつきません。好みからは外れていない、嫌いな漢字が使われなくて、好きなひらがなが使われている、が関の山で。もしかして、面白いってそういう意味なのでしょうか。

>  自分が面白くない話は書けない。自分の話は面白い。というのはそういうとーっても広い意味です。
>  価値観は人それぞれで、誰が何をどう思いながらモノを書いてるのかは別として、作者様は皆、自分でも面白いと思える話を書こうとして、自分の作品を愛しながら四苦八苦しているのではないかと思ってます。
面白い、っていう言葉自体がすごく広いので、どのぐらい広いのか見当がつかないのですけれど、少なくとも「面白い話を書こう」とはしているのです。それは間違いなく。 ただ、「よし、世界記録を出そう」と思って私が100メートル走っても、20秒を切るのかもちょっとあやしいです。一生懸命走ることは、間違いなくできますが。
 それと、ちょっと脱線しますが、もし私が自分で「これ面白い」と思えるものを書いてしまったら、折角の面白いものを誰かに見せて、駄目だしされても嫌なので、誰にも読ませずに自分の為にとっておきます。で、また面白いものを書けるか自信がないので、もう二度と何も書けないんじゃないかなと思います。
 それを、みんなに見せたい、読んでほしい、って思う方も、もちろんいらっしゃるのでしょうけど。
 
 えーと、あの、私が言いたかったのは、「そうなんだ、みんな結構自分の書いたものを面白いと思えてるのね、良いなぁ凄いなぁ羨ましいなぁ」っていう単純な感嘆なので、もし「なんて失礼なヤツだ」って思われたらごめんなさい。判らない判らないってめっちゃ言ってますけど、だって本当にわかんないんだもん。水芭蕉さんが怒られるだなんてとんでもない、むしろ私が怒られそうですけど、できれば「そうかそうか判んないのかお馬鹿だなぁ」って思っていただけると嬉しいです。

 


タイトルRe: 小説公募について
記事No: 612 [関連記事]
投稿日: 2009/07/04(Sat) 21:21
投稿者ミノタウロス

ん? 初めましてではありませんので、こんにちは、rathi様。
現在進行形で応募中との事、頑張って下さい。
見返してやるって、物凄くエネルギーが必要ですが、貴方様にはそれに負けないバイタリティがあるようなので大丈夫でしょう。…でも、貴方様を嘲笑する野郎はいないと思いますよ。

『設定を考え、キャラクターを作り、あーだこーだと展開させ、最終的に昇華させるこの行為は、もはや止められませぬ』←なんだかとっても愉しんでる感じが伝わってきました。そうそう、小説書くのって、【もはや止められませぬ】ですよね。
『己惚れは勿論アウトですけどね』←自分では自惚れてるつもりはないのですが、私なんかは、人様から自惚れてるって思われているかもです。
『私の場合は、「面白いと言うことで、保険を捨て、逃げ道を無くしている」という感じです。
 自分を追い詰めた方がより面白いモンが書けているのは確かなので』←強いですね。胃が痛むくらいですむのは、それなりの芯の強さがなければ、続きません。私はすぐにへこたれる甘ったれなので、メンタル面で強くなりたいです。

色々ご回答頂き、嬉しいです。書き込み有り難うございました。


タイトルRe: ふぐっ
記事No: 611 [関連記事]
投稿日: 2009/07/04(Sat) 21:17
投稿者ミノタウロス

書き物をする事は、私たちの生きる糧。どれ程救われたかわかりません。
面白くしようと四苦八苦することが、大事なんですよね。結果、わずかでも成長出来るのではないでしょうか。
そうですね、作者様は皆、自分の作品を愛しながら四苦八苦しているのだと、私も思います。


タイトルRe: 小説公募について
記事No: 610 [関連記事]
投稿日: 2009/07/03(Fri) 22:41
投稿者中村ケイタロウ

 こんにちは。

 どうも行き違いがあるようですね。「煽られた」つもりなどありません。そこまで感情的にはなっていないつもりですし、「直接的な言葉」を避けて何事かをほのめかしたりもしていません。「あなたのような方は応募すべきではない」などとは、全く言っていませんし、思ってもいません。なぜそのように解釈なさったのか、戸惑うばかりです。

「どのレベルじゃなければいけないと思っているのか」というお尋ねですが、そのような問いに、答えなどありえないのではないでしょうか? そんな基準なんて、あるはずがないと思います。そういった意味合いで「世界は学校ではない」と申し上げたのです。
 ただひとつ言えることは、なにごとにせよ、レベルが低いよりは高いほうがいい、ということです。「このレベルで充分」などと思った瞬間に、私たちの書くものは魂を失うのではないでしょうか。「どのレベルまでとすればいいのでしょう」などとお尋ねにならないでください。だって、力の及ぶ限り高め続けるよりほかに道は無いのではありませんか?

 それから、「文学的価値のあるものだけが出版に値する」などと、私は一言も申しておりません。文学的価値の高い文学作品や、娯楽的価値の高い娯楽作品など、さまざまな意味で価値のあるものが出版されるべきです。もうちょっと踏み込んで申し上げれば、芸術と娯楽との間に本質的な相違はないと私は考えているのですが、でもその話は本題からそれるのでやめておきましょう。
 とにかく、私が娯楽作品を蔑視しているようには思っていただきたくないものです。最高の文学も、最高の娯楽小説も、最高の漫画作品も同様に尊敬していますし、最低の文学も、最低の娯楽小説も、最低の漫画作品も、同じように蔑視しているつもりです。ジャンルの「低俗」さなどで差別するつもりは毛頭ありません。

 つぎに、「文化の質は誰が決めるのでしょう」とのお尋ねに関してですが、言うまでもなく、「誰が決めるのでもない」というのが私の答えです。
 ミノタウロスさんもおっしゃったとおり、多くの人々の見方がぶつかり合い、やがて合意が形成され、時代の変化によってその合意も壊される。そのような混沌としたプロセスそのものが文化の発展なのであり、そんなぐしゃぐしゃの塊のようなものが、入れ替わり、乗り越え、乗り越えられながら移ろってゆくのが歴史というものなのですから。
「質の高さをこれだと決めてしまうのは、かえって文化の低迷につながる」。まったくおっしゃるとおりです。100%同意します。いったい、私が、文化の質を「これだ」と決めるような基準をどこかで提示しましたか? それから、「文化はそうした様々な人々の、切磋琢磨の積み重ねの結果ではないでしょうか」とおっしゃっていますが、それを否定するようなことを私がひとことでも言いましたか? 文化が「切磋琢磨の積み重ね」であることなんて、当たり前ではありませんか。誰もそれを否定しないでしょう。私ももちろん否定しません。
 あのですね、ミノタウロスさんはいったい私を何だと思っておいでなのでしょうか?

 ただ、「切磋琢磨」には必要不可欠な前提条件があります。
 それは、「すべての作り手が、『よりよいもの』『より高いもの』を目指している」ということです。
 各々が自らの信じる高みを目指していないかぎり、「切磋琢磨」にはなりません。
 そのためには、各人独自の尺度であってもかまいませんから、なるべく一貫した客観的基準によって、作品の価値が判断されなければならないでしょう。そして、共通の価値判断基準を打ち立てるための努力(永遠に完成されない努力)がなされなければなりません。そのプロセスこそが「切磋琢磨」だからです。
「どんなに稚拙でも、一人の心が震えれば、それは読むべき価値ある作品」「人間性を垣間見ることが出来れば、いい作品」というのでは、結果的に、名作も凡作も駄作も全てが等価となり、同一平面上に並ぶことになります。(前回申し上げたとおり、どんなにひどい作品でも、一人くらいは感動させることが出来るし、作者の人間性や人柄は深く刻印されているからです)
 そのような「悪しき」平等思想が支配的になれば、「なんで向上なんかしなきゃならないんですか」「私は私のままでいいんです」「だって、僕は感動したんだもん」などと、個人的な好き嫌いと普遍的価値判断とを区別しようともせずに居直る人々が増え、「人は人、私は私」「みんなちがって、みんないい」(←この言葉自体は、いいのですが)とばかりに、人々は合意形成への努力を回避し、切磋琢磨は起こらず、文化レベルは低下の一途をたどることになるのではないでしょうか。近年の文化状況を鑑みるに、そのようなプロセスはもうすでにかなり進行していると私は思っています。
同意していただけるとは思いませんが。
 
 最後に一つだけ。「言葉は生きている為、私の嫌う言葉使いが主流になり、受け入れる必要が出ます」とおっしゃいますが、私は「受け入れる必要がある」とは思いません。「お米を洗う」などとは、死んでも口にしたくない。私は、反時代的であることを厭いません。厭うべきではないと思っています。自分の価値観をもつというのは、そういうことではありませんか?


タイトルRe: 小説公募について
記事No: 609 [関連記事]
投稿日: 2009/07/03(Fri) 17:51
投稿者ミノタウロス

中村ケイタロウ様。
もっと直接的な言葉の方がいいかもしれません。
私のような者は、応募すべきでない、そう聞こえたのですが、それで間違いございませんか? その為、私の言葉の端々に棘があったと思います。そしてそれ故に貴方様を煽ってしまったかもしれません。ごめんなさい。
目標値、嫌味での発言ではありませんが、正直、どのレベルじゃなければいけないと思っているのかという疑問からでしたし、プラス、否定されている事への反発もありました。
あと、面白い、についてと、価値、について。この話を混ぜるべきではありませんでした。
面白い=自信と捉えて欲しくなかったのです。
価値、これはについては……、文学的価値あるものだけが出版などに値する、とは言えませんよね。大衆文化はもっと間口が広くても全く問題無いと思います。芸術と一般娯楽は同一線上で話すべきではないと考えています。
『いかに豊かな感受性や感動があったところで、正しい表現や正確な言葉を持ち合わせなければ、いったいどうやってそれらを伝えうるでしょうか?』←勿論それは重要です。ただ、どのレベルまでとすればよいのでしょう。
『「読んだ価値があった」とは言えても、「読む価値がある」とは言えない。』←後者を決めるのは一人一人の読者であって、一般化は出来ないと思いますし、文化の低下になるとは思いません。何故低下になると思わないか。文化の質の高さとは誰が決めるのでしょうか? 貴方でもあり私でもあり文学者でもあり数学者でもあると思いませんか? 質の高さをこれだと決めてしまうのは、かえって文化の低迷に繋がると考えます。例えば、私は言葉の乱れを危惧します。けれども言葉は時代とともに生まれたり消えたり変化します。勿論、それを正し、修正させるのを間違いだ等とは思っていません。しかし、言葉は生きている為、私の嫌う言葉使いが主流になり、受け入れる必要が出ます。
例えば、数十年前まで低俗文化であった漫画。あれは本当に低俗ですか?
私の考えを否定する事も必要です。私はそれを受け入れたり拒否したりして私を見つめ直します。文化はそうした様々な人々の、切磋琢磨の積み重ねの結果ではないでしょうか。違うかな、違うかもしれません。一週間後には違う事をいっているかもしれません。
前回、無責任な発言をしてしまったかもしれません。今回もそうです。ただ、私は登竜門はそうした場だと考えています。自分の考えや意見を述べあう場だと。個人の作品に対してもそうした行為を繰り返し行う場だと考えています。意見を書かなくなるのは実に勿体ない事です。貴方様のような方がいるから、低迷や堕落を防げるのだと考えます。
常に冷静さと激情とを併せ持ちながら、意見交換が出来る場であって欲しいと思いました。
最後に、不快な思いをさせてしまって済みませんでした。まだまだ言葉が足りない事もお詫びします。


タイトルRe: 小説公募について
記事No: 608 [関連記事]
投稿日: 2009/07/03(Fri) 13:58
投稿者rathi

 ども、初めまして。
 何か盛り上がっているようなので、祭り火に誘われる人の如くにやって来ました。

>1.応募した事があるか?(してみたいと思ったことはあるか)

 まぁ、一部の方は既にご存じですが、思い出すのも恥ずかしい、とある公式HPに応募して連載してました。
 ド素人さんでも参加できるものなので、ハッキリ言って凄くも何とも無いので悪しからず。
 んで、今また新たに現在進行形で応募中です。やるだけやってみる、です。
 まぁ嘲笑する野郎が居るのなら、プロになって嘲笑してやり返したいと私は思いますねぇ。……我ながら性格悪いなぁ。

>2.なぜ、貴方は小説を書いているのか?

 そりゃまぁ、ひとえに楽しいからですな。やりたいことがあるから書いているワケで。
 設定を考え、キャラクターを作り、あーだこーだと展開させ、最終的に昇華させるこの行為は、もはや止められませぬ。

>皆さんはご自分の小説をどう思ってますか? 面白いと思っていますか?

 当然面白いと思っています。そうでなければここで公表しないし、応募なんかしませんし、作品を書けもしないです。
 己惚れは勿論アウトですけどね。けど、自分の作品は面白さの欠片も無いって自己否定ばかりしてたら、何も書けなくなってしまいますし。
 私の場合は、「面白いと言うことで、保険を捨て、逃げ道を無くしている」という感じです。
 自分を追い詰めた方がより面白いモンが書けているのは確かなので。
 胃が痛むのであんまりオススメはしませんが(笑

 参考になれば幸いです。


 ではでは〜


タイトルRe: ふぐっ
記事No: 607 [関連記事]
投稿日: 2009/07/02(Thu) 21:44
投稿者水芭蕉猫

 いや、人様から見てどうなのかはまったく解らないですけど、私にはもうコレしかありませんし、文字書きが無くなったら、本当に私には何も無くなってしまうと思うと、恐ろしくて恐ろしくて、とても自分の文章は面白くないはと言えません。マジで。
 よく見えないのは私も同じです。よく見えないけど、それを直視してしまっては、もう生きていけません。
 正直酷い文章だなぁと思うことも多々あります。面白くねぇなぁとも思うことはよくあります。でも、どこをどうすれば面白くなるか。と考えて書いてるのも「自分の話は面白い」に繋がってるかもしれません。面白くしようと四苦八苦することそのものが、結果、私の話は結構面白いじゃないか。なんて(あぁ、何か怒られそう)

 自分が面白くない話は書けない。自分の話は面白い。というのはそういうとーっても広い意味です。

 価値観は人それぞれで、誰が何をどう思いながらモノを書いてるのかは別として、作者様は皆、自分でも面白いと思える話を書こうとして、自分の作品を愛しながら四苦八苦しているのではないかと思ってます。


タイトルRe: 小説公募について
記事No: 606 [関連記事]
投稿日: 2009/07/01(Wed) 22:40
投稿者中村ケイタロウ

 ミノタウロスさま、こんにちは。

 ミノタウロスさんが誠実で真摯な気持ちでおっしゃっていることはよく分かりますが、私はそのご意見には全く賛同できません。そのような考え方は、真摯で誠実でありながら、いえ、真摯で誠実であるからこそ、文化の質の低下を招くものだと考えます。

 どう思っておいでかは分からないけれど、私は決して技術や技法の信奉者ではありません。しかし、それらの重要性を否定することもできないと思っています。媒体の無いところに伝達はありません。いかに豊かな感受性や感動があったところで、正しい表現や正確な言葉を持ち合わせなければ、いったいどうやってそれらを伝えうるでしょうか?
 書けない人には、書けないのです。書けなくたっていいんです。それで何がいけないのでしょう? 誰もが小説家であり得る必要などありません。私がいかなる意味でも野球選手ではないのと同じです。
 人間は、家族や友人や満ち足りた生活さえあれば、それで十分なはずです。小説なんか書かなくたっていい。にもかかわらずわざわざ小説というものを書いている私達にとっては、小説という媒体に固有の意味があるはずではありませんか? (もちろん、野球には野球に固有の意味があるでしょう。ほとんどやったことないから、それがどんなものか分からないけど)

 いったい、世の中には優れた作品とそうでない作品との差異というものはないのでしょうか。私の小説も、ドストエフスキーやカフカの小説も等価なのでしょうか? 私の絵とセザンヌの絵は同じなのでしょうか? たとえば、明日私がビデオカメラ(ほとんど触ったこともありません)を買ってきて、二時間の映画を一生懸命撮ったとしたら、それがヴィム・ヴェンダース監督の作品と同じ価値を持つのでしょうか? もしそのような考え方があるとすれば、私にはそれは、創意と経験の蓄積としての文明全体の価値を否定する、悪しき平等主義としか思えません。

 おっしゃるように、取るに足らない書物が人を深く感動させることもあるでしょう。どんなものからでも、人は感動や救いや啓示を得る事ができます。道端の石や、子供の歌や、猫の鳴き声。どんなものからでも、です。それはそれで素晴らしいことです。しかしそれはその人の人生の素晴らしさであって、作品固有の価値とはまた別のものだと思います。「読んだ価値があった」とは言えても、「読む価値がある」とは言えない。
 私にも、「小説としての価値は低いと思うけど大好きな本」が何冊もあります。また、私自身、たった一匹の猫の子の存在に、どれだけ救われたか分かりません。しかし客観的に見れば、一匹の猫は一匹の猫に過ぎないのです。

 「目標値」などと皮肉をおっしゃらないでください。私はそこまで愚かではありません。世界が学校ではないことくらい、私にも分かっています。数値化できる基準などあろうはずがない。それが目に見えるなら誰も苦労しないでしょう。
 にもかかわらず、たとえば私の作品と、たとえばサリンジャーの作品とのあいだには、表現の水準にも、その内容の深さにも、目のくらむほどの落差があります。小説の読み手なら、本当はだれでも知っているはずのことです。 

 一人の人間としての私を面白いといっていただけるのは、とてもうれしいことです。ですが、私の小説を全く読まない友人達も、私という人間をいくらか面白がってつきあってくれています。それだけでいいのなら、それだけで完全に満たされるのなら、私はあえて小説を書こうなどと思わなかったでしょう。

 人間の人間性を垣間見るためには、本を捨てて街に身を置くほうがよほど有意義だと思います。しかしそれでは得られないものも、書物の中にはあるのではありませんか?
 いつの日か、私の小説は、私自身を超えなければなりません。そうでないなら、書く意味など無いと思っています。「そこまでの水準」とは、そういう意味です。

 なんか嫌な人間みたいな文章になってしまいましたが、率直な意見を書いたつもりです。率直に書けるのは、感想を書くのをやめたおかげかもしれませんね。個別の作品が対象でなければ、思ったとおりのことが言いやすいです。

 それでは、失礼いたします。おじゃまいたしました。どうもありがとうございました。


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