やはり自分の作品と似た作品を知ってしまい一気に冷めてしまったので、新しい作品を考えようと思います。
やあ、こんにちは。> 私的に言わせて貰えば,,私は読み手目線で読み,ときに感想を書かせていただきますが,,読み手目線がすべてファンというのは納得がいきません.> ファンは,要するに自分好みの読み方しかせず,ときに盲目的です.> 好きなジャンル・文体についてはとくに.そういう読み手は散見されますが,すべてではありません. では一読者さんはどのような目線で感想を書いていらっしゃるのでしょうか? そこを明らかにしていただけないと、私としても返事が書けません。> ファンからのラブコールも,ときには必要でしょう.> なにより励ましになる.また,プレッシャーにもなるでしょうが.> 一般からの反応は,刺激になると思います. その通り。>“自分ならこう書く”だのなんだのというのは,ただの余計なお世話にしか聞こえない. 私がそのような“自分ならこう書く”といった感想を書いて、相手が「余計なお世話」だと書いてきたら二度とその相手にはそのような感想は書きませんが、“自分ならこう書く”という姿勢の感想が悪いものだとは思えません(感想を書く人間の技術力が低ければ、余計なお世話というのもさもありなん)。実際、その手の感想を喜んで受ける書き手もいます。> 互いに技術を磨き上げること目的とするなら.> 主張ではなく批評です.あくまで,客観的に述べる必要があると思います. 一読者さんのいう『技術』が技法のような方法論だけを指すのでしたら同意します。 それだけで書き物の巧拙を判断できるような広義の『技術』を指すのであれば反対します。あくまで書き物は読んでもらうものである以上、読み手を楽しませるのは前提であり、その『楽しさ』の主観は書き手としての感想であっても必要だと考えます。> ときおり,おもしろいと感じるのが,下記のような書き方です.> “皆様に質問させていただきます”> この皆様とは,書き手を対象としたものでしょう.> とくに,断りなく書き手を皆様とするのは,ここに参加しているのは,書き手であることが大前提という了解が,参加者間で成り立っている現れでしょう.> どうも,ここには読み手の立ち位置がありませんなあ. なるほど。読み手だけの利用者もいるということを失念しておりました。不快感を与えてしまったようならば申し訳ありません。
遅くなって「こんにちは」。ん? 「ごめんなさい」でございましょうか。 『作品』どころか、『小説』という言葉だって使うのは稀です。ほとんど『書き物』で統一しています。書き物の多くは『作品』と呼べるほど『品』がないし、『品』が良くない。辞書を引いてみると、『作品』と呼ばれるためには『芸術性』が必要なようです。『小説』って言葉をを使わないのは、『小説』の言葉の意味を知らないから。『小説』ってなんです? こちらもちょっと立ち止まったのは【メグサイ】ですね。『面倒くさい』の打ち損じでしょうか。よくよく調べてみると、方言で【メグサイ】がありました。『岩手弁:不細工』『八戸弁:みっともない』『津軽弁:恥ずかしい』。調べてみると面白いですね。 ミノタウロスさんのお話の調子を聞いていると、なんだか京○さんを思い出してしまってむせびますね。『人間の言葉を知りたい』。羨ましいですよ。どうしたら、そんな仙人みたいな考え方に辿り着けるでしょう。ぜひ、私もその考え方を理解したい。そして、できることならその考え方で書き物と向かい合ってみたい。 排除するされるの話をするなら、私が排除される形になりました。ミノタウロスさんの意見を取り入れようとしたのですから。この結果は、ミノタウロスさんからしたら「してやったり」になるのでしょうか。返答はされないようなので、ないこと前提に訊いてたりします。私は別に、悔しいとか思ったりはしないです。ホ、ホントなんだからねッ! んで、『書き手としての感想がなぜ書き手同士の対抗と感じられるか』ですけれども。“書き手の理念がそうさせる”。私は書き物を書く人を『書き手』と表現しますけれど、それに対してある人が「あなたの言う『書き手』はあなた自身にしか適用されない」と書かれたことがあります。書き手の理念をひっくるめて『書き手』と表現するならば、私と同じ理念をもってなければ同じ『書き手』にならない。理念が違うのだから、書き手同士で全面的な合意は決してしません。【書き手として相手のこの表現が素晴らしい】と思ったことはありますけれど、相手にそう感想で伝えたことはありますけれど、相手のためを思ってやったことじゃないですよ。正確には“相手のためだけを思ってやったことじゃない”かな。自分の変化のために(『成長』とは書かない)感想を書くことを『書き手としての感想』と思うのです。相手と理念が同じで、かつ相手の方が先に進んでいるのなら、現在地を相手の地点まで変化させる手段として『素晴らしい』と書くような感想になります。(登竜門に来たばかりのころは『素晴らしい』って賛辞の感想もよく書いていたけれど、理念が固まってきた最近はほとんどそんな感想は書かないです)
こんばんは、座席です。 心の底から言われるのが嫌ならば、あきらめるのが最も早い方法だと思います。 ですが、パクリだ、似ている、しか言えないような浅はかな読み手の人を一々気にしていても仕方がないとも私は思います。その一方で、どうしようもないほどに被ってしまっている事から、普段は言わない人からも、影響作品では、ととられることも、あると思います。 テーマ性が同じものなのですから似ることもあるでしょうし、あとは猫舌さんの作風次第だと私は思います。 今となっては完全なオリジナル作品を作り上げることが難しいですね。その中で似通ってしまったり、別の作品に影響された模倣のものであったとしても、私的にはその中に個性さえあればいいと思います。その個性が模倣に負ける場合もあるのが困りものなんですが(笑)
こんばんは、上野文です。 あれ、なんかギスギスしてるよーな。 模造の冠を被ったお犬さま の設問、恐縮ですが『書き手として』とか『読み手として』じゃ、両者分けちゃってるので、『アドバイス』と『感想』どっちが嬉しい? の方が無難だったと思います。 だって、書き手としての忠告にも、読み手としての感想がまじること多いし、読み手としての感想にも、こうすればいいのにって思うことありますから。 私は、『私の小説を読んでどんな風に感じた?』を知りたいので、後者よりかな? どんな感想だっていただければ、嬉しいし、勉強になります。 トマトママ様の仰るとおり、感想は読者が抱くものですし、何より書き手にとって、いただいて何より嬉しいものだからです。
はじめまして。トマトママと申します。簡潔に書きます。欲しいのは前者。間然するところがない作品というのを、一度は書いてみたいものです。ところで、感想とは求めるものなんでしょうか。重要なのは、作者がどんな感想を望むかではなく、読者がどんな感想を抱いたかだと思うのですが。
はじめまして。猫舌ソーセージ様。上野文と申します。「わたしの頭の中の消しゴム」と言えば、日本のドラマ『Pure Soul 〜君が僕を忘れても〜』の丸パクリ、いえ、リメイクでしたっけ? ハリウッドはちゃんと原作とか、〜のオマージュと公表する場合が多いのですが、韓流はうちが本家いうから、わけわからなくなる。 と、そんなことはおいといて、気にしないほうがよろしいかと。 〜に似てる、〜の影響を受けている。 そんなの、人間が考えることですから当たり前です。 元ネタが同じなら、展開が似てくることもあるでしょう。 世界各国の神話がどれほど似ていることか。 でも、うちが本家とか、うちこそ元祖と大騒ぎして、しまいにゃ「サンタクロースは〜国起源ではありません」と釘を刺されるような国は少ないでしょう? プロの方でも、好きな作家や脚本家の影響は当然受けているでしょうし、あるいはオマージュとして作中に出すこともあるでしょう。 『Pure Soul 〜君が僕を忘れても〜』自体、そこまで特異なドラマではなく、忘却症の悲劇を扱った物語はたくさんあります。 要は、自分なりに素材を料理し、味付けし、素晴らしいと思える作品を作ることが大事なのではないでしょうか?
> 登竜門の皆様方、ご機嫌麗しゅう。模造の冠を被ったお犬さま、略して模造の冠を被ったお犬さまです。> 私には大変思い悩んでいることがあります。それは、書き手としての皆様がどのような感想を求めているのかわからないことです。いったい、どのような感想をお求めになっていらっしゃるのでしょうか。ここにいる方々の多くは、書き手としても読み手としても立派な方たちばかりです。書くばかりで読まない方もいらっしゃることでしょうけれど、それは“登竜門において”であって、市販の小説は多く読んでいることでしょう。そう願いたいものです。> このように登竜門の利用者は書き手としても読み手としても活動できる以上、感想の書き方も二つの立場で対応できるわけです。つまり、読み手として感想を書くか、書き手として感想を書くか。読み手として、というのはわかりやすいですね。ファンです。面白くないものは読みませんし、感想なんて書くはずがない。面白いものに「面白かった」と書いて、続きを強請るわけです私的に言わせて貰えば,,私は読み手目線で読み,ときに感想を書かせていただきますが,,読み手目線がすべてファンというのは納得がいきません.ファンは,要するに自分好みの読み方しかせず,ときに盲目的です.好きなジャンル・文体についてはとくに.そういう読み手は散見されますが,すべてではありません.(強請る=ねだる。当て字じゃありません。本当に変換されます)。このような感想ばかりだと、感想の数=人気という構図ができそうですね。もうひとつは、書き手としての感想。これのいちばんわかりやすい例は「私だったらここをこう書きます」といった感想でしょうか。トラブルが起きやすい感想ですね。書き手VS書き手なので無理からぬことです。主張の違いは大いにあるでしょう。その切磋琢磨があればこそ上達できる、といった考えの方もいることでしょう(かくいう私がそうです)。> 私も、感想はどちらでも対応できるます(書き手としての感想のほうが書きがいを感じますけれど)。そこで皆様に質問をさせていただきます。『読み手としての感想』と『書き手としての感想』と、どちらの感想が欲しいですか(「欲しいですか」であって「勉強になりますか」とか「友達になれそうですか」ではありません。理由として挙げるのは構いませんが、「読み手としての感想のほうが嬉しいけれど、書き手としての感想のほうが上達できる」といった折衷案を聞いているのではありません。『あなたが』『どちらを』『好ましいと思っているか』です)。> ご回答お願いします。ファンからのラブコールも,ときには必要でしょう.なにより励ましになる.また,プレッシャーにもなるでしょうが.一般からの反応は,刺激になると思います.また,書き手からの感想は,,批評でなくてはならないでしょう.“自分ならこう書く”だのなんだのというのは,ただの余計なお世話にしか聞こえない.同じ目線で読むのなら,感想は批評でなくてはならない.互いに技術を磨き上げること目的とするなら.主張ではなく批評です.あくまで,客観的に述べる必要があると思います.それが,なかなか,できない.............ときおり,おもしろいと感じるのが,下記のような書き方です.“皆様に質問させていただきます”この皆様とは,書き手を対象としたものでしょう.とくに,断りなく書き手を皆様とするのは,ここに参加しているのは,書き手であることが大前提という了解が,参加者間で成り立っている現れでしょう.どうも,ここには読み手の立ち位置がありませんなあ.
もしも、自分で考え書上げたものが、既存のプロの作品と似ていると気付いたらどうしますか? 私は以前から痴呆、アルツハイマー病に関して興味があり、色々なサイトや本で調べたりしている内に、これをテーマに作品を書こうと思い、途中まで書いていたのですが、偶然「わたしの頭の中の消しゴム」という作品に出会い、信じられない程私が書いている作品に酷似していました。私はその作品を一度も見たことがなかったので、影響されたということはなく自分なりにいい作品を書いていると思っていたので、諦めるのがもったいない。でも、投稿してもパクりだ、影響受けているでしょうなどの感想がつくことが容易に想像できて。諦めて違う作品を考えるべきでしょうか?
『ここで終らせていただきます』ってことは、「私の意見に疑問を挟んでも答えないよ」って意味ですか? 悲しいなー。 はい、こんにちは。模造の冠を被ったお犬さまです。回答ありがとう。 【やはり人それぞれに表現の仕方が違うからです】の部分、『表現の受け取り方が違うからです』の方が適当だと思ったのですが、どうでしょう。晃さんの言いたいことを私なりに理解し、解釈し直した結果です。 私が嫌いな言葉ですけれど『十人十色』って言葉があります。喧嘩の仲裁なんかでよく聞かれます。「人はみな別の生きものだから感じ方が違うしその発露の仕方も違う。君たちはそのことを知るべきで、もっと他人を慮った行動をすべきだ。もっと大人になりなさい」なんて偉そうに垂れちゃったりしてますね。これを実行すると、とんでもなくツマランものができあがりそうです。でも、私はそーゆーの嫌いじゃありませんよ。そーゆーお人形はぜひ手元に置いときたいです。愛してあげます。 晃さんの言葉にもありますけれど【『自分らしさ』という土台を残したまま】というのが条件に必要ですね。そして、【自身の技術向上=読み手からみた時の読みやすさが上がる】の図式にも賛同します。 ただし、技術向上と言ってられるのは低水準の間までだと思いますよ? あなたは小説が巧くなりたいですか→はい 日本語で小説を書きますか→はい 純文学を書きますか→いいえ ライトノベルを書きますか→はい 改行を多くしますか→はい 漢字はできるだけ使用しません→はい キャラクタはステレオタイプ→いいえ 主人公は♂ですか→はい 熱血モノですか→いいえ もしかして、ヤオイ?→はい 日本語に精通するのは、いわゆる国語を学べばいいのだし、ライトノベルで上達したいのならそーゆー本をたくさん読めばいい。そーしてできた書き物に、読み手が書き手の意図をつかんで「これはライトノベルだな」とわかれば、ライトノベル嫌いが最後まで読むことはないでしょう。つまり、とんちんかんな感想は書きません。でも、キャラクタを上手に造形して書いても『キャラ萌え』しない読み手は「キャラクタ描写に対して情景描写がずさんすぎる。もっと背景を書き込むべきだ」ととんちんかんな感想を書くだろうし、ヤオイを知らない人が読めば「なにこれキモイ」で終わってしまう。 多数決を採ってマジョリティに残ったとしても、それはマイノリティの意見を否定していることになり、切り捨てていることに変わりはない。『あなたは小説が巧くなりたいですか』の質問にたいして疑問なく『はい』を答えられたとしても、『熱血モノですか』など細部に至る深化した質問には迷うでしょう。(小説を『多く』の人間に読んでもらいたい。ツッコミを『たくさん』入れてもらいたい。ツッコミによってもっと巧くなる。そう考えるなら、中国語で書くべきである。中国語だけだとほとんど中国人が読むだけで『いろんな』ツッコミはもらえない。そう考えるなら英語で書くべきである。目的と方法の関係を考えれば、それがいちばん自然) 【悪いところだけを改善すれば、自然と技術は向上すると思います】と書かれていますけれど、なにを『悪いところ』とするのでしょうか? 意地の悪い質問ですけれど、あとがきで「多くの人に読んでほしいです」と書いてあって、私が「だったら中国語で書け」って感想を書いたら、晃さんならどう反応します?