[掲示板へもどる]
過去ログ [ 0000 ]

過去ログ:
ワード検索:
条件: 表示:  

タイトル夜道のジャックの感想
記事No: 215 [関連記事]
投稿日: 2006/09/24(Sun) 14:27
投稿者模造の冠を被ったお犬さま

 ARADO196さん、ありがとうございます。
 「こりゃ、どー見ても人間なんじゃない?」と思い、「お題読んでないのか!」とまで心配になったのですけれど、なるほど人間ではないですね。
 お題に対してこう切り返されるとはちょっと考えていなかったので、新鮮に読むことができました。視点が人間ではないことで、見方がガラッと変わる。主人公と相手役が入れ替わった、というと言い過ぎでしょうか。こんなに早く面白いものを書いてもらえるとは思いませんでした。
 読んでいて気になった点は【その目には揶揄じみた光が宿っている】と【グルアガッハの瞳には、絶対帰らないという色が浮かんでいる】です。少々回りくどく、よく似た表現方法をこの短いショートショートの中で二度使われるとしつこく感じました。
 そしてこれも私の感覚なのですけれども、作中の音の割り振りがバランスが悪いですね。主人公側に『静』、相手側に『動』ときっちり分けたほうがよいと思いました。
 具体的には。主人公側の地の文は『静』になっているのですけれど、会話の文量が多くて『静』に徹しきれていません。相手側の文は光と速度は『動』であるのに、肝心の音が描かれていません。
 と、まあ、難癖をつけるのが得意の模造の冠を被ったお犬さまです。難癖つけてても面白かったことは変わりありません。
 ご参加いただき、ありがとうございました。


タイトルRe: SS求む
記事No: 214 [関連記事]
投稿日: 2006/09/24(Sun) 12:11
投稿者目黒小夜子

カンムリーヌさん、初めまして。以前、“バタ”という作品を拝読して以来、カンムリーヌさんには特殊な何かを感じている目黒です。めぐろって呼んでいただけたらうれしいです。敬称なんていりません。

さて、面白いスレを立ててくださいましたね! 興味津々です☆
人間以外の視点でSS、というお題も面白いですね。
私も、まずは読み手にまわって、書けるようになったら書きたいと思います(自分勝手)。このスレの繁栄を願って……☆


タイトル夜道のジャック
記事No: 213 [関連記事]
投稿日: 2006/09/24(Sun) 03:41
投稿者ARADO196

「ねぇジャック、行くの?」
 樫の木によりかかったグルアガッハが濡れた金髪を掻き上げながらぽつりと言った。雨を吸いこんだ服が体に張り付き、豊満な胸がはっきりと見えていることも気にしていないようだ。
「雨がやんだからな」
 さっきまでは木葉に当たる雨音でうるさいほどだったのに、今は枝からしたたり落ちる滴が水溜まりに波紋を起こすぐらい。いつもの静寂が支配する森に戻っている。木々の間から見える空にも瞑い雲はなく、澄んだ空気の遙か向こうには芥子粒のような星の光が僅かに見えるだけ。
「あんた雨が嫌いだもんね。雨が降るたびに空を眺めて呪いの言葉を吐いてばっかりでさ。そんなに雨が嫌いならさぁ、いい加減対策を講じればいいじゃない。進歩がないよ」
 グルアガッハは頭上の小枝についた滴を指で弾きながら、呆れたというような表情で俺を見る。その目には揶揄じみた光が宿っている。
 俺だって雨が降ることは仕方がないとは思っている。それに雨上がりの夜の森の風景は嫌いじゃない。いつもなら闇に沈んでしまう木々の一本一本が鮮やかな黒の陰影を見せてくれるし、雨上がりの透き通った空気も気持ちがいい。ぴんっ! と、水溜まりに落ちる滴が奏でる音が森に吸いこまれる瞬間は、俺の錆びついた心でも美しいとすら感じられる。
 だが、今日は待ちに待った新月なのだ。
「余計なお世話だ。グルアガッハには関係ないことだ」
「あんたって本当に保守的だよね。ボルヴォなんか日本に行って頑張っているっていうのにさ、あんたもTPOとか考えなきゃ時代に置いていかれるよ」
「それこそ余計なお世話だ」
 確かに俺はボルヴォのような器用さはない。人に好かれるような性格でもないことも自覚している。だが、今さらこの性格も生き方も変えたいとも思わない。現状に満足しているわけじゃないが、俺は俺のやり方でやるしかないんだ。
「俺はもう行く。じゃあなグルアガッハ」
「待ちなよジャック。どこに行くつもりさ。まさかタラニス街道じゃないよね?」
「ああ、タラニスにはもう俺のいる場所はないから、こんどはセクアナ街道に行ってみるつもりだ」
「やめた方がいいよ」
 グルアガッハは美しい顔を少し歪め下を向いてしまう。
「なにかあるのか?」
「ううん。あたしも直接見たわけじゃないけど、最近のセクアナ街道って、あんまりいい噂を聞かないから」
「バカらしい、しょせん噂だろう。今から俺が行って確かめてきてやる」
「そう……」
 押し黙ってしまったグルアガッハに背を向け、俺はもう一度「じゃあな」と別れの言葉を言った。




「なんでお前がついてくるんだ?」
「どうだって、いいじゃない」
 グルアガッハはめんどくさそうに答えると、小走りで俺の横を通り過ぎていく。
 森を出てから何度この問いかけをしたろう……そのたびにグルアガッハは答えになっていない答えを返すばかりで俺をはぐらかす。俺が帰れと言っても馬耳東風で、何が面白いのか分からないがずっとついてきている。
「ほら早く上ってきなよ、ジャックはのろまなんだから」
「俺は荷物を抱えていて、お前みたいに身軽じゃないんだ」
 俺の声に反応するように鎖がガシャリと音をたてた。
「この丘を上ればセクアナ街道が見えてくるはずだよ」
 丘の中腹まで駆け上ったグルアガッハは、おいでおいでとばかりに手を振っている。
「もう帰れ。ここから先は俺の領分だ」
「嫌よ!」
「グルアガッハにはグルアガッハの仕事があるように、俺には俺の仕事があるんだ」
「あたしは噂を確かめにいただけなんだから、ジャックの邪魔はしないよ」
 グルアガッハの瞳には、絶対帰らないという色が浮かんでいる。
 こんなところでグルアガッハと言い争っている時間はない。俺にはやるべきことがあるのだ。俺はふてくされて地面を蹴っているグルアガッハを追い抜く。心なしか肩に掛かった鎖がいつもより重く感じられる。なんなのだこの感情は……俺が悪いのか…………。
「勝手にしろ」
「うん。勝手にする」
 妙に明るい声が返ってきた。


 俺たちは無言のまま丘を上り続ける。さっきまで色々しゃべっていたグルアガッハも、上るにつれ口数が少なくなり、いまは口を閉じたまま上を見つめている。響くのは俺の鎖の音だけ。
 ガシャリ、ガシャリ。
 丘の頂上に藪が見えてきた。この藪を越えれば南北に伸びるセクアナ街道が眼下に広がっているはず。
「本当に行くの?」
 藪に入る寸前、グルアガッハが俺の鎖を引っ張って聞いてきた。声には心配と憐憫が滲んでいる。
 グルアガッハがどんな噂を聞いてきたのかは知らない。だが、俺は俺のために行かなければいけないのだ。迷っていても仕方がない。
「当然だ」
 俺はグルアガッハのこたえを待つことなく藪に足を踏み入れた。
 …………。
 …………。
 眼下には煌々と輝く高速道路が地の果てまで伸びていた。闇を打ち消すキセノン灯が幾本も立ち並び、昼間さながらの明るさを投げかけている。片側二車線の道路にはもちろん人の姿はなく、無粋なトラックが目にも止まらないスピードで過ぎ去っている。
「明るいね……」
「ああ」
「誰もいないね……」
「ああ」
「高速道路になるって噂は本当だったんだ……」
「ああ」
 俺はバカのように「ああ」と答えるのが精いっぱいだった。
「暗闇もないし、人もいないよ。どうするのさ。ジャックの居場所なんてないじゃない」
 グルアガッハの声がやたらと遠くに感じられる。
 闇がない……。
 俺はジャック・イン・アイアン。街道の暗闇に潜み、鎖の音をガシャガシャを響かせ旅人を驚かせ、襲う化け物が俺だ。闇と恐怖こそが俺の存在意義。
 なのに……高速道路には闇も人もない。俺がどれだけ鎖を鳴らそうとも怯える人もいない。もうセクアナ街道に恐怖の存在する場所はなくなったのだ。

 俺はまたひとつ居場所を失った。

 *       *        *

 【ジャック・イン・アイアン】鉄枷のジャック。ヨークシャー地方に出る邪精霊。鎖を身に纏いガシャガシャと音をたてる。暗い夜道に潜み旅人などを襲う。
 【グルアガッハ】スコットランドやアイルランドに住む妖精。金髪の美女で、雨の日に人家を訪れ濡れた体を乾かせてくれと頼む。頼みを聞くと幸運が訪れるとも言う。
 【ボルヴォ】沸騰する水、温泉に関係するガリアの神。



 参加させていただきます。


タイトルSS求む
記事No: 212 [関連記事]
投稿日: 2006/09/23(Sat) 18:19
投稿者模造の冠を被ったお犬さま

 こんにちは。模造の冠を被ったお犬さまです。『模造』から『さま』までがハンドルネームですので略さないで呼んでください。その代わり、敬称は要りません。どうしても私のハンドルネームが長いと感じる場合は『カンムリーヌ』と呼んでください。その名前で呼ばれた場合、私も相手の名前を省略して呼ぶことにします。

 長い自己紹介でしたが(それもハンドルネームだけの)、私はこの場で言いたいのは「ピリッとしたショートショートが読みたい」ということだけです。

 登竜門メインの力ある書き手さんは長編を書くことが多いですね。あんまり他人の書き物に時間をかけて読みたくない私としては(ハッキリ書きすぎ)、一発ですぐにわかる明快な『ピリッとしたショートショート』を読みたいのです。歴史もそれを望んでいます(誰の歴史だろう)。

 と、いうことでこのスレッドにレスとして書き物を書いてください。お願いします。
 以前は、こういう趣向のスレッドがよく立ったものですが、最近はめっきり見ません。立てる人がいなくなってしまいました(地○○行さんやココ○さんの代理というわけじゃないけれど)。

 自由に書いてもらって構わないのですけれど、何もなしではかえって書きづらいと思いますのでちょっとした『しばり』を作ってみます。

 『人間以外の視点』。

 動物でも家具でも乗り物でも何でも構いません(人体の一部というのもあったな)。人間以外の視点で書いてみてください。
 「いいだしっぺのお前が書いてみろ」? 別にいいですけれど、トップバッタを頂くのは何かと気が引けますし、このスレッドに誰も書き込まなかったときに胸のイタさが十割増になるので止めておこうと思います。賑わったときには、こそっと書かせてください。

 注意してほしいこと。
 このスレッドにレスしてくれた方には基本的にレスをしますし、書き物を載せてくれた方には感想を書きます。しかし私は日本語以外の言語が堪能ではないため、と言うよりもまったくわからないため、日本語以外の書き込みには適切なリプライを返せないことがあります。ご了承ください。

 それでは、未来の作家先生・筆に自信がある方・書くことが好きで好きでたまらない書けなかったら死んじゃうとのたまう方・それ以外の方も、どうかよろしくお願いいたします。

 あ、そうだP.S.。
 私以外の方もぜひぜひ感想を書いてください。何かがもらえるわけではありませんが、感想を読んだ人のあなたへの心証がよくなると思います。


タイトル表現すること
記事No: 211 [関連記事]
投稿日: 2006/09/23(Sat) 13:39
投稿者タカハシジュン

 自分が小説を書くということはどういうことかというと、まったくまっしろなところから組み立てているわけじゃないですよね。
 同じ小説という媒体と限らず、ゲームやマンガや、現実にあったことなどが元になって、それにアレンジを加えているのが創作ということなんだろうと思うんです。
 では、アレンジとは何か。
 元にあるものに対して、つくりての自分が、ここはいいとか、ここはちょっとなあとか、そういうものを集合させて行っている行為ですね。
 この、ここはいいとか、ここはちょっとなあと、意識的に、あるいは無意識的に自分が感じるというのは、まったく感想に他ならないわけです。そしてものをつくるというのが、マキシマムにしろミニマムにしろアレンジであるということを考えると、感想や批評というのは、単に他人様の作品をどうのこうのということでなく、自分がものをつくるということと直結しているのですね。

 感想を書くのは難しい。
 批評はもっととんでもなく難しい。
 だから今一歩踏み出せない。
 そういうのはどれも全部正しいことだと思うんです。だけれども、本来であればそれらは、自分がものを作るということと、首尾一貫、ワンセットになっているものですね。そして、自分が感動することなく他人に感動を伝えることは不可能ですし、自分の感動を表現できなければ、他人を感動させる表現もまたなしえないものです。
 他人の作品に触れて、そのとき感じた、言葉にすることが難しいなにかモヤモヤとしたもの、それを、どうにか言葉にしようと悪戦苦闘するというのは、自分が作品を書く上で悪戦苦闘するのと全く同じことですね。
 大変だからと、それを断念するのは、作品を書く上でも断念していることと同じだと僕は思うのですね。
 もちろん、全ての作品を読んで感想をつけるのは非常に難しいですし、また今すぐそれをするにもいろんな準備や気持ちの問題があるでしょう。時間的な制約もたくさんあるはずです。だけれども、感想を書くということを何より自分のために行ってもらいたいと僕は思います。


タイトルRe: 感想が少ない
記事No: 210 [関連記事]
投稿日: 2006/09/18(Mon) 10:14
投稿者勇壬

自分の小説書いていても……確かにそうですね。

感想を書き込まないでも、読者さまの心に残ればいいのかもしれません。


タイトル機能としてのキャラクター
記事No: 209 [関連記事]
投稿日: 2006/09/02(Sat) 06:43
投稿者タカハシジュン

 目黒さんいつもありがとうございます。拙論、いつもまず楽しいものに仕上がればいいがなあと思いつつ書いておりましたので、まずはほっと一安心もあります。

 さてさて、おっしゃるとおりでラピュタには様々な登場人物が配置されていますね。そして、これは人によっては憤慨されるかもしれないけれど、フィクションの作り手としてはやはり機能としてのキャラクターというのはなければおかしいと思うんです。
 登場人物には、必ず何らかの意図がある。また逆に明確な意図を有さずに何となくで登場させたキャラクターは、必ず作品を散漫にさせる。
 この作品の意匠は、熟練と熟考の基に成立しているわけですから、意味もなくキャラクターを水増ししていることは考えにくく、やはり機能が付与されていると思います。
 それで海賊船のじっちゃんですが、このじっちゃんのことを考える前に親方とおかみさんの意味性を考えてからのほうがよろしいと思いますので、先にこちらに触れてみます。
 親方はパズーにとって父親同然ですね。ある意味冒険を始める前のパズーにとっては理想のロールモデルと言える存在でしょう。
 その親方に対しておかみさんは、親方の完全無欠の部分を解体する存在として配置されています。「その破れたシャツは誰が縫うんだい?」というセリフひとつ。これでこの夫婦が全く見事にカカア天下であることを示していますよね(笑)
 ここ、コミカルで面白い部分なんですけど、ひとつには、僕は親方の持つ父性の解体を目論んだものだと思います。
 全く完璧な父性、子供が躊躇なく依存しまたそれに値する父性ならば、パズーはなにも裏口から逃げ出す必要もないんですね。でもそれでは冒険は始まらない。親方のように、頼りがいはあるのだけれど、海賊と殴り合いに夢中になったり、シャツを破いてお上さんに怒られてしまったりするような、ちょっと鍋底に穴が開いている性格で、つまりはパズーが冒険に出かけるのを押しとどめたり、躊躇させたりするようなことから回避させているのですね。
 少年少女が冒険に旅立つという物語における基本的な条件として、親という存在の無力化もしくは喪失というものがあります。虚構に於いても現実に於いても、親は子供を庇護する代わりに冒険という荒海に乗り出そうとする子供に待ったをかける存在ですね。
 もちろんそうでない親というのもいます。だけれどそれは、そうでない親の描写に相応の配慮やウェイトをかけないとならないですね。小気味よく冒険とアクションとが流れていくにはデッドウェイトになる。
 ラピュタの場合、パズー、シータ共に「親なし」であること。更に庇護してくれる大人たちが無欠ではなく、ある意味どこか抜けている存在だということ。(そのため鉱山の町に於いてパズーを助けてくれる機関車の機関士さんやボムじいさんは、壮年ではなく力の横溢から一歩後退している老人なのですね) この二人の自由な冒険を妨げる要素は慎重に排除されているわけです。

 さて、肝心の海賊船のじっちゃんの話です。
 これはあとでまたちゃんとまとめようと思うのですが、パズーにとってグレートマザーであるのはドーラです。
 物語の中盤から終盤にかけて、ドーラはパズーという男の子が、大切な女の子を守り通そうとする一人前の男に成長していく姿を見守る母親の役割を付与されています。(ドーラというキャラクター造形は、宮崎駿氏の母親の影響が色濃く出ているといわれています)
 パズーを主軸としたラピュタという成長物語にとって、いい意味で距離を置きその成長を見守り、成長した姿を認める母的な極というものは不可欠ですね。事実ドーラはその役割を果たします。
「急に男になったね」
 ラピュタで捕縛されていたのをパズーに助けられるドーラのセリフ。満足げな表情は母親のそれと同一ですね。ここの部分は、観る側の心の代弁でもあるでしょう。『やるなあパズー』と、ドーラと一緒になってパズーに感心する魔力があるわけです。
 さて、ここで厄介な問題が生じてきます。
 成長物語における成長を見守る母という機能と、冒険活劇における自由な冒険を志向する子供に対しての阻害要因の母。この背反するふたつの要素をドーラというキャラクターに盛り込まねばならないわけですね。もちろんドーラと別のキャラクターにそれを背負わせるという分離もなくもないのですが、そうなれば作品が水増しされて散漫になるんです。そもそも、ドーラのようにいい味を出している人物を散漫にするなんて、そんなもったいないことはできないですね。
 このため、八方破れでエゴイスティックで強欲のドーラを描きつつ、それを「いい人」であるように解体しなければならない。ドーラは二重の意味性を持つ存在に造形していかなければならないんですね。 
 その解体のためのキャラクターが、じっちゃんだと僕は思うんです。親方のおかみさんと一緒で、ドーラの演出のための装置である。
 ただし、これは編集段階でいくらかカットされているせいかもしれませんが、じっちゃんの立ち位置それ自体は、やや不鮮明ですよね。
「行けよ、ママより怖いんだ」
 と海賊の息子にささやかれ、
「でっけえ声出すねえ! 聞こえとるわい」
 と偏屈そうに怒鳴る。
 これだけでじっちゃんを偏屈ものに見せようとしていますが、不足ですね。すぐにチェスのシーンで、ドーラがいい人であることを説明する役目を負い、同時にじっちゃんもいい人間であるという解体が為される。
 じっちゃんを偏屈者にしたてあげたのは、ひとつには海賊船に乗り込む人間だからそれなりのものというのがありますし、他方にはドーラと対抗し、ドーラの毒を解体するにはなまじの人間じゃ勤まらないという必然性があるのですが、いかんせんドーラとはそれまで縦横に作中で活躍してきた強烈なキャラクターですから、じっちゃん単体では解体が不能であるわけですね。そのため、じっちゃんに頼りきりでなく、要塞からのシータ奪還から始まって、じっちゃんを経て、見張り台でのパズー・シータの話の盗み聞きに至るまで、段階を踏んで、ドーラの解体を行っているわけですね。
 そちらのほうにウェイトをおいているわけですから、ファンクションとしてのじっちゃんは一過性で、じっちゃんそれ自体の造形の掘り下げは切り捨てざるを得なかったと思いますし、その判断は正しいと考えますが、一方においてやはり散漫かなとも思いますね。ラストシーンで、わしのかわいいボロ船が、トホホ……と嘆くのは、じっちゃんの職人気質を説明する後付のセリフのようにも思えますが、作品のどん詰まりに至るまで画策しなければ苦しかったというのってあるんじゃないかと感じちゃいます(笑)
 
 さて、これはまた後ほど書きたいと思うのですが、パズーはヒーローですね。そして、最初からヒーローだったわけじゃない。一回挫折してるんです。だから隔絶した存在でなくて親近感が湧くんですよね。


タイトルRe: 見つめる視点
記事No: 208 [関連記事]
投稿日: 2006/09/02(Sat) 00:29
投稿者目黒小夜子

 いつもながら、タカハシさんの視点にびっくらの目黒です。
 いや、それにしても……なるほど。

 全開、“シンメトリなふたり”でムスカとドーラについて語った時、こう感じました。

 ラピュタには、登場人物が多い。

 主用キャラは
 パズー
 シータ
 ムスカ
 ロボット(入れていい?)


 だけですが、背景には
 親方(パズーの親方)
 おかみさん(守っておやり、裏からお逃げ、で有名)
 マッジ(海賊? 見る〜、で有名)
 ボムじいさん(だったと思う。洞窟の中に居たおじいさん)
 汽車のおじいさん(途中で助けてくれる人)
 ドーラ(さぁ皆、しっかり稼ぎな! で有名)
 ドーラの息子たち(ところでシャルルってどの人だろう)
 じっちゃん(でっけぇ声出すな! 聞こえとるわい、で有名)
 閣下(もしもしもしもし? こら、ムスカ! で有名)


 などなど、たくさんの人が居ますよね。
 その人達には何か意味があるんだろうか、と思っていたのですが。なるほど。おかみさんとボムじいさんにはそんな意味が……!!
 では、じっちゃんが持つ意味は何でしょうかね? パズーが腕利きの整備士(兼操縦士)であることの証明でしょうか? それとも、ドーラが本当は良い人であることを観客に教える役目でしょうか(チェスのシーンにて)?



 さて、そんなことはひとまず置いておいて。
 シータが話の核であり、パズーはその話を上手く導くんですね! でも、ただのバスガイドではなく、危機に陥れば皆を助けるヒーローになるんですか。うーん、やっぱり凄いですね!
 続きを楽しみにしています。


タイトル見つめる視点
記事No: 207 [関連記事]
投稿日: 2006/08/31(Thu) 02:10
投稿者タカハシジュン

 あれは作品構造上やむをえないことだなと思いつつも、僕が「風の谷のナウシカ」で残念だと思うのは、冒頭のあの説明字幕なのですね。まあナウシカの場合、元々二時間映画のフォーマットとして作られたものではないので、世界観を字面で示してしまうのはある種やむをえない。でもそれは芸がない。ラピュタはドラマ進行の中でちゃんと世界観が語られているんですね。この点、僕はラピュタは「カリオストロの城」と比肩すると思う。
 いわゆるプロローグ、本編では表現しきれずにやむを得ずその体裁をとるもの、というのを妙に信奉して、定型的に用いるというのは考え物です。本来であれば一切本編に梱包して表現しなければならないし、そのために技術を縦横に駆使しなければならない。読む場合に、同業者として僕はそういう辺りにどういった工夫をしているのかを見ます。また定型的なスタイルに対してどういう自覚を書き手が有しているかを見つめます。そこに配慮が行き届いているかどうかというのは、極端な話作品全体に配慮が行き届いているかどうかということを示すでしょう。
 さて、先回の続きです。
 
 シータが飛行船から落下するところでオープニングテーマに入りますね。一番いい切れ方。これからどうなるか先行き全く不透明のちょんぎれ方です。
 それと同時に、このオープニングテーマの前後で、重要なことが説明されていますね。そう、落下するというルールと、(シータだけ)飛行石で救済されるというルールです。これは作品全編を通じての主要な取り決めごとですね。
 ファンタジーですから、それぞれの世界によって常識が異なってきます。もちろん全ての常識が違っているということはできないわけですから、何が異なっていて何が重なるか、そこを明確にする必要が出てきますね。
 その点に関し、ラピュタは段階を踏んだ説明を進行させます。以下図示します。

 1、シータ落下(恐怖あり。飛行石の力に無自覚)
 2、シータ気絶。飛行石の力、発動。
 3、(朝のシーンで)パズー、飛行石を使用し失敗。
 4、(鉱山落下のシーンで)パズーとシータ、二人で手に手をとって落下。 

 ここで重要なのは、まずシータが飛行石の効果について無知であることです。
 観衆にすれば、シータが不思議な力を使ってもまゆ一つ動かさないようでは、面白くもなんともないですよね(笑) シータが不思議とか神秘と思うからこそ観衆にもそれが伝わってくる。
 不思議な石であることは知っているんですね。いろんなおまじないも教わっている。石に対する予備知識は当然パズーや観衆に比べたら持っているんです。でもそれ以上ではない。
 この、パズーや観衆に比べるところの若干の先行性というもの、ここの表現が巧みですね。シータというのはミステリアスな存在で、その見えないところは飛行石とその秘密による部分が大である。といってシータの人物造形としてはちっともミステリアスではないんですね。いい子で信頼できそうな感じなのです。親方のおかみさんが「いい子じゃないか。守っておやり」と言うだけの、変人そうなポムじいさんが容易に心を開いてしまうだけの、いやみのない素直な性格です。両親をなくしているけれど陰りのない、おばあさんの回想のシーンが示すとおり、むしろ十分な愛情に包まれて育ったことがわかるまっすぐなキャラクターですね。
 そこを破綻させない。それでいてシータには秘密がある。それを解き明かす。ストーリーの展開はそちらの方向に向かっていきます。
 最初の落下でシータが気絶する、これが絶妙ですね。
 飛行石の力について、シータはパズーや観衆よりむしろ一歩後退するポジションに位置し、鉱山への二度目の落下ではむしろパズーや観衆のほうが飛行石の発動をちゃんと計算に入れている。落下で、まごつき恐れるシータと楽しげなパズーのコントラストがよく示していますね。
 中盤以降、シータはパズーと共に飛行石とラピュタの「謎」に挑みます。そのためには当然ながらそれらが謎、不明でなければならない。それでいて、終末につながっていくキーパーソンとして特殊な知識を有してもいる。この辺り、こう書くとおそらく錯綜とした印象になると思うのですが、錯綜としているものを見事に表現しているのだから全く困ってしまうわけですね。



 観衆は、そんなシータとは同化したり、また距離を置いたりの繰り返しをしています。シータの無知な部分について同化、言い伝えのような彼女が潜行して取得している知識については距離を置いて彼女を見つめるわけですね。
 そんなシータを「見つめる」という視点を提供するのが、パズーの役割のひとつでもあります。
 パズーは、物語の展開を見つめるべき時はシータと共にそちらを向いてくれ、シータの謎がかかわってくる時にはシータ自体を見つめてくれる、ある意味におけるワトソン役を担っています。
 固定化されたワトソン役でないことは以前にも若干触れました。必要に応じて冒頭シータに視点をシフトしてパズーを外側から見つめてもいますね。ところがそのモーションは最小で早々にケリをつけてしまっている。冒頭以降パズーの視点というものがほぼ安定して作品を見据えてくれるわけですね。これで作品が非常に安定する。
 観衆にとっては、パズーはこの作品世界のガイドなんですね。特にファンタジーにおいてはガイド役、解説役のキャラクターの設置は極めて有効な手段と言えます。
 もちろん、ただガイドをするだけではない。パズーは傍観者じゃないですね。アクションによって動かしがたい状況を動かしてしまうヒーローでもあります。


タイトルシンメトリなふたり
記事No: 206 [関連記事]
投稿日: 2006/08/28(Mon) 18:49
投稿者タカハシジュン

 自分の論を省みると、技術演習と銘打ちながらどうも特に冒頭に特化した論考になっているような気がしますね。僕自身そこまで先鋭的な意識は正直持っていなかったのですが、あらためて、冒頭というのは技術の結晶であり技術そのものかもしれない。それくらい作り手が頭を悩ませる部分かな、と思います。特に宮崎作品のようなファンタジーならばなおのこと。
 さて、内容に入りましょう。

 朝のシーンを紹介した後に、その前にさかのぼるのだから困ったものです(笑)
 冒頭です。一番トップです。夜、雲海の中をタイガーモス号が航行するところから、先回の朝のシーンの直前まで、ちょっと今回はハバがあります。ここまでの内容を把握した後、一旦アタマのめぐりをストップさせて考えてみましょう。
 さて僕らはちょっと考え込んでみます。
 例えばあなたは作り手のほうである。手の中にはラピュタという作品の設計図がある。(観てない人は最後までとりあえず観てください) とりあえずムスカというのは最後は悪いやつになって、海賊のドーラというオバサンは最初は敵だったが後から味方になる。そのふたつの狭間で主人公が動いていく。そういう基本的な流れが設計図に書き入れてあるとする。
 それならば冒頭に於いては何を描くべきなのでしょうか。
 この作品の魅力に、ムスカが徐々にその悪辣な野望を垣間見せていく流れと、それとシンメトリックにドーラが段々と人情味を見せていく流れというものの交錯があるわけですね。記号的に書き記すと、

 ムスカ:不鮮明→悪
 ドーラ:悪?→味方

 となる。
 このふたつの要素はこのように推移していく。となれば、そのはじまりにおいては、

 ムスカ:不鮮明
 ドーラ:悪

 とだけ描けばOKなのでしょうか。
 さあどうだろう。あながち、そうとも言えないですね。
 何故ならば作り手はこの先の展開を読み通し、ここに布石を打たねばならない。ムスカの変貌、ドーラの変化、観る側がそういうものを楽しみつつ、その意外さに驚かされつつも、チグハグではない、つまり展開として変転しながらも十分に説得力のある造形を当初から為していないとならないのです。しかも、それが過剰であれば設計図ごと観客に洞察されてしまう。あくまでひそやかに石を置いておく。
 もちろんその配慮も十分に行き届いています。
 さあ、どんな石が置かれているか、確認してみてください。


 サイレンが鳴って、覆面姿のドーラが映って、フラップターという羽のついた乗り物でシータの乗る飛行船を襲撃しますね。一方のシータはムスカとその部下と同じ部屋にいて、差し出された食事を拒みます。
 この間サイレント。まずここです。ムスカ、ドーラ、そしてその中点に位置するシータ、この三人がしゃべらないんです。観衆に余計な情報を一切与えない。冒頭です。本来であれば作品世界に関する情報を過剰に与えなければならない部分です。逆手にとってます。あたかも主要な人物に対して、観るこちら側の心の中に真空ができ、そこに我々の類推が流れ込んでいくようですね。どういう人々なのか、どういう関係なのか。何があるのか。全く開示されない。
 それでいて、説明くさい説明の段階には移行しない。始まるのは活劇ですね。ドーラ一家が襲撃する。サイレントは突如として銃撃戦に移るわけです。観客の疑問は宙ぶらりんのままアクションが開始されます。
 そのくせ、ここが全く感服するのですが、アクションに移行しながらアクションの中でキャラクターの説明がなされていくのですよ。 
 先頭になって突入するドーラ、まずこの表情を見てください。実に楽しげに闊歩するという印象ですね。その前の、大砲ぶっ放すシーンの表情は実に悪辣そうなんです。そこを見せておいて、だけれども爽快なピカレスクのようなこのダッシュ(笑)
 対になっているムスカも負けてはいません。バリケードから冷静に迎撃。そして、部下に任せて自分はモールス信号を打つために部屋に引っ込む。ここです。実にムスカらしい。
 後のシーンを見ると、ムスカは平然と自分の部下を見殺しにしています。利己主義的で冷血なんですね。冒頭、そこまではわからない。だけれどもムスカの目的達成主義というのは十分に伝わってきます。破綻がないのですね。ここがあるからこそ、後でムスカが部下を見捨てても、「ああ、アイツならやりかねない」とこちらも納得する。
 そしてこのふたつ、ドーラ、ムスカ、双方とも、その冒頭での悪と、不鮮明な立場というものは、破綻してないですね。

 電信を打つシーン、ちょっと矛盾があります。そうです。音がしないんです(笑) 扉の向こうで銃撃戦をやっているわけだから大騒ぎなんですけど、それが聞こえない。
 イジの悪い言い方をすると、ここでインチキがひとつ為されているわけですね。作品構成上、銃撃戦という動が来たあと、一旦また静を出すというのは緩急の妙があります。それを選択し、リアリティを捨てたわけです。
 もっとも、一概にここは破綻と言えないかもしれません。
 というのはシータですね。ここは平明で誰に対しても公正な視点での描写というより、シータに同化するシーン。シータの息遣いと共に息を飲んでしまうシーンですね。得体の知れないオッサンのドタマかち割って飛行石を奪還するために勇気を搾り出しているシーンです。
 であるから、外の銃撃戦の音なんてシータには聞こえてないかもしれない。
 サイレントなのは、シータの心象に照らし合わせてみれば、リアリティがあるのです。ですから一概に矛盾とばかりは言えない。
 作り手には作品進行の義務感、使命感がありますが、作品中における矛盾というものは作り手の使命感やスケジュールとは関わりなく襲ってくるものですね。それにやむなく目をつぶらざるを得ないパートというものも、構造上存在し得ます。
 そういう要素を削り落としてリアリティにかなう造形も存在します。
 この部分は、シータの要素を使って展開上の静寂を採用したと言えるかもしれないですね。
 さて、モールスの音が聞こえ、シータの息遣いと、決死の行動が続きます。
 そして大砲の音、同時にシータがムスカをぶん殴る。
 このアイディアが絶妙。絶妙すぎますが、これは同時にあと少し間延びすれば膠着してダレてしまう状況を一変させ、電信のサイレントから再び活劇が再開されるきっかけとなります。
 


| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 |