小説掲示板 雑談板
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こんばんは、浅田です。
なんかしばらく見ていないうちにおもしろそうなことを……というわけで今さらながら私も少々参加させていただきますww
個人的にはキャラクターではないのですが、石田衣良さんが書く短編恋愛ものに出てくる登場人物はかなり人間くさくて魅力的だと思います。あとは個人的趣味が入りますが狼と香辛料のホロとかですかね。
これらに共通するのは先ほども言った通り「人間くさい」というもの。物語の中の登場人物としてではなく、物語とは別にそのキャラとして個性が確立していると言えばいいのでしょうか。
キャラクターを人間たらしめるものは何か。あえて言えば行動の一貫性でしょうか。物語の流れで行動するのでなく、主人公に都合がいいように行動するのではなく、あくまでもそのキャラとしての行動理念を貫く。それこそキャラが生きているというものではないかと私は考えています。
故に私は魅力的なキャラを数値化出来るとは思っていません。どれほど魅力的な設定を考えても、物語に流されて行動の一貫性を失くしてしまえばそれは絶対唯一の「キャラ」ではなく物語を構成する「ピース」になってしまうからです。逆に地味で目立ちようがない設定でも、行動に一貫性があり、「キャラ」を確立していればそれは魅力的なキャラクターとなり得るのではないでしょうか?
そもそも、私は小説の醍醐味はいかにその世界にのめり込むかにあるか、というところにあると考えている人間です。つまり、読者に「俺が主人公だったらここでこうするなぁ」と思わせることが出来たら作者の勝ち(?)と言う訳です。キャラ萌えはその延長線上でしかありません。なぜか。キャラに萌えるのはそのキャラに物語があるからです。(もっとも、猫耳ブルマという単語だけでお祭りを始めるような人種の場合は別ですが)
故に魅力的なキャラクター、読者をひきつける物語と言うのは、頭にすんなりと文章が入り、キャラにリアリティーがあり(リアリティー=ノンファンタジーではないので悪しからず)、世界に調和があるのならば、必然的に魅力的なキャラが出来るのではないか、というのが持論です。
マネしようとしてマネできる類ではないので、あえて手の内を暴露(しても喜ぶ人がいるとは思えませんが)しますが、私の場合は物語の「種」、つまり中心核となる単語を一つ書きだし、そこから物語を作っていきます。例えば、以前にピンク色伯爵さんに感想を頂いたLive of dollsでは「人間」を種として物語を作っていました。
それでは長々と失礼しましたノシ
雄矢さんこんばんは。
雄矢さんのおっしゃる条件は企画の制約に反するものではありません。
常連でないことは好ましいと判断できるでしょう。
私は雄矢さんの参加を望みます。
>>模造の冠を被ったお犬さま
初めまして。雑談掲示板への投稿は初めてになります。雄矢という者です。
流れからは大変遅れてしまったのですが、企画『輪舞曲』に興味を持ってしまいました。
現時点で投稿されている作品を見ると、ずば抜けた発想はできないかもしれませんが、プロットの時点で既に先読みができる状態でも、ワクワクできる話を書きたいです。
(そういう意味で物凄く意欲掻き立てられる企画だと感じています)
そういう訳で、是非私も挑戦させて頂きたいですが、私のような常連でない者で、しかもここまで遅れての参加でもまだ間に合いますでしょうか…。
朝起きたらPCを開いてメールをチェックする習慣があるんです。
今日はたまたま家に食べるものが無くて、朝飯を抜いた代わりに浮いた時間でちょこちょことコメント書いたのでした。あとで職場の机でカロリーメイト食べましたよ。あれって意外と腹持ちいいんですよね。なんか口の中がぽそぽそしますけど。
>パラメータはある。しかし世界とのリンクがそれを複雑化させている。
ていうか、パラメータ自体が世界とのかかわりにおいて生成する、という意味です。さんざん言い古されたことだけど、そもそも「個としての人間」「主体としての人間」という概念自体がちょっと嘘くさいじゃありませんか。特にこの国の自然と社会の中においては。
>『現実の人間をサンプルにする』というネットに転がっているありふれた意見とどう違うのでしょうか。同じだというのでしょうか。
つまるところ、同じなんじゃないですか。たぶん。ネットに転がってる意見を見たことが無いのでわからないですけど。
現実に接した人間、(とりわけ自分自身)、過去に読んだ小説や、映画や、漫画で触れたキャラクターなどなどが、自分なりの人間観を作り上げている諸要素なのでは?
>中村様、もっと突っ込んでいきましょうよ!
いやあ、ちょっと僕の頭ではそろそろ限界です。あんまり理屈で考えるとこんどは小説が書きにくくなるし。
とりあえず僕が心にとめているのは「神は細部に宿る」という金言です。エレメントの抽出とか、グランドセオリーの言語化とか、そういうことはどうも僕には向いていないみたいです。それに僕は、理性の力より無意識に宿る力のほうが優れていると信じたいんですよね。
改めまして、挨拶します。こんばんは、中村様。
いや、朝早くの投稿驚きました。自分、あの時間はまだ寝ているんですよ。ぐうたらな人間で7時半にならないと体が起きないのです。こんなんで社会に出られるのだろうか……。
さて、まずは今までの議論の内容を反芻したいと思います。
・魅力的なキャラの作成法。彼らはどうして魅力的なのか。
→キャラクターを作成する上で情景(世界)というものは必要不可欠で、情景を思い浮かべたときにキャラクターは大方決まっている。そうして生まれたキャラクターは何故か魅力的になる。
→キャラクターは世界とセットで考えるべきであり、そうすることで魅力が高まるのではないか。世界とセットにすることで、キャラクターが人間のように動き出す、これを『営み』とした。
←しかし、キャラクターは独立して魅力的になれるとは考えられないのか。キャラの個別の魅力、これを『カリスマ性』とする。カリスマ性を備えたキャラクターは魅力的ではないのか。
具体例が出てきて、一見答えが見えてきたかに思えたが、魅力的なキャラクターは単なるキャラクターにすぎず、それをどうすれば物語の中で「生かせる」のかがわからず、この考え方では方法論的に手詰まりになる。
→『カリスマ性』はキャラクターの特質にすぎず、紙面に表現するには、物語とリンクさせることが絶対不可欠だということが分かった。キャラクターと世界とは一体なのだという説に戻り、魅力的なキャラクターとはなんなのかをもっと本質的に考えていくことにした。
→猫説によると、キャラクターに世界を語らせるのだという。まずキャラクターが存在している。彼らにに独自の価値観を持たせたのち、彼らの目を通して世界を「創る」。
こうすることにより、世界はよりリアリティを増し、同時にキャラクターの個性が光るようになる。キャラクターの独自の価値観、考え方が大きなカギとなるのである。
→上野説によると、キャラクターに「信念」「個性」を持たせるのだという。こののちに物語と符合させるようにすれば、それは一本の芯が通った物語になり、厚みが増す。ただしこの場合、物語が魅力的になるかどうかは分からない。一方で、主体はキャラクターなのだから、自然、キャラクターは魅力的になりうるのである。
また留意点として、現実の人間を指標にすることで、キャラクターが崩壊するのを防ぐための『抑止力』とすることができる。
→猫説の逆、世界があって、キャラクターを作るのだという説はありえないのか。
疑問点
・猫説、上野説をかんがみれば、そこには一定の方法論があるように見える。これを掘り下げることで、小説家の創作における無意識的思考プロセスをトレースすることは可能ではないか。
・「人型」を作る際、キャラの世界とのリンクの様をその構築過程に入れられないか。入れられるとすればそれはどのような構築法か(つまり関係論をそのまま反映させることは不可能なのか。関係のさせ方をコピー・一般化することはできないのか)。
・生きたキャラクターの中でも特に『カリスマ性』のある者を作ることはできないか。またできるならその具体的な要素は何か。
→物事の「知っている」こと。
→肉体的魅力。
→ノーブルさ。ブルーブラッド的要素。
・小説を書く段になって、美しい文章で引き込むにはどうすればよいか。うまい人の無意識的思考プロセスは分析可能か。可能なら、それを真似ることはある程度までなら可能と言えるか(理論を理解したのち「あ、(文章が)かわった」と気づけるか)。
その思考プロセスとして、『音読すること』は重要なファクターになりえるか。また他に重要な要素はないのか。
(個別具体説)→カリスマ性→→BAD END個別具体説は行き止まり。
(一体説)→情景→『営み』→世界とのリンク→猫説→???
→上野説→???
→逆猫説?
→???
さて、本題に入ります。
なるほど、中村様はキャラクターと物語とは個別に考えることはできないから、「人の型」を作ることは原理的にできないとおっしゃるのですね。パラメータはある。しかし世界とのリンクがそれを複雑化させている。むしろ重要なのはキャラより世界である。したがってキャラクターだけ取り上げて型を作るのは不可能であると言わざるをえない。このような理解でよろしいでしょうか。
そしてそして、さら素晴らしい意見が飛び出してきました。
『キャラクターというものを(中略)関係論的にとらえるべきだ(中略)。そのテクストにおいていかなる表現がなされているか。それだけが問題なのだと僕は考えます。』
素晴らしいです。思わず僕も「なるほどお」と頷いてしまいました。
キャラクター? そんなものは頭の中とノートの切れ端に原液としてのものがあるだけで、紙面に表現したとき初めてあらわれるものなのだ。
型は出発点に過ぎず、キャラクターは、自然な思考の中で「勝手に動き出す」これを錯覚することで僕たちはそこに人間がいるのだと思い込んでいるわけですね。
方法論なんかない。書いてゆけばよいのだ。それもまたありな意見であります。ですが……、
僕は認めないけどねッ!☆
ではその紙面に表現する方法何なのか。中村様はそれを言葉の細部にリアリティを持たせるとおっしゃっています。でもそれって、『現実の人間をサンプルにする』というネットに転がっているありふれた意見とどう違うのでしょうか。同じだというのでしょうか。もし同じならば、結局、どうすれば魅力的なキャラクターを書くことができるのでしょうか。
この議論の表面的な目的は、確かにキャラクターを簡易に量産できるかであります。しかしその根底にある真の狙いは、どうすれば魅力的なキャラクターが書けるか、その方法を抽象的に模索していこうというものです。何が言いたいのか。つまりですね、中村様、もっと突っ込んでいきましょうよ! ってことです。
紙面にてリアリティを持たせる段にこいつならこうすると考えるとありますが、それは前提として、作者がそのキャラクターを理解していなければできないのではありませんか。キャラクターの確かな『実体』『関係論上のそのキャラクターの立ち位置関係(つまり世界とのかかわり様)』を理解していなければ不可能ではないのかと僕は思うわけです。
じゃあそいつらがなんなのか分かれば、キャラクターの魅力が分かるのではないでしょうか。
この記事を読んでいる皆様、中村様は僕たちに新たな指標を与えてくださいました!
命名、中村説です!
現在位置分かりますか?
一体説→世界とのリンク→猫説→キャラクターとの対話独自性を持たせる→独自性って何?
→上野説→???
→逆猫?
→中村説→???
中村説は紙面にてキャラが発現するとのこと。しかしその前段階として、作者である 中村様は何らかのイメージを持っていらっしゃるはずです。これが分かれば中村ルートはエンディングに近づくのではないでしょうか。
さて、作家ごとに色々な考え方がありますよね。でもどこか共通する部分があるのはなぜだろう。それこそがキャラの魅力の根幹なのではないでしょうか。
以上であります。中村様、返信が大変遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
中村様はもちろん皆様の議論の参加をお待ちしています。
追伸、結局、音読はどうなったんだ! 誰か教えてくれー!!!
ピンク色伯爵でした。
中村様、おはようございます。
ですが、すみません、今から講義が入っております。内容は確認しましたが、返事が遅くなってしまう可能性があります。お許しください。
この期に及んで言います。皆様の議論の参加をお待ちしています。
>肉眼で見たときに観察者を騙せるくらいうまく「人の型」を作りたい、というのが僕の願いなのであります。それは果たして可能だと思いますか
それは原理的に不可能だというのが僕の立場です。キャラクターと物語とを分離して考えること自体がそもそも無理だと考えるからです。キャラクターというものを実体論的に捉えることがおかしい。小説全体の中で関係論的にとらえるべきだと思うのです。「型」なんてものは、書き手の頭(とノート)の中にしか存在しません。読者の前に実際に存在するのは小説のテクストのみです。そのテクストにおいていかなる表現がなされているか。それだけが問題なのだと僕は考えます。
そのへん、キャラクタ単体でもビジュアライズ可能な漫画やアニメとは違うんじゃないでしょうか。漫画やアニメなら、少なくともキャラクターの視覚的特性は、「設定資料」みたいなもので記述することができます。しかし小説のキャラクターは小説の記述の中にしか存在し得ない。
ちなみに、人物を人物らしく見せるために僕が用いている方法は、「型」を用いるのではなくて、言葉や行動の細部にリアリティを持たせることです。「こういう言動は人間として自然だろうか」「こういうときに人はこういうことを言うものだろうか」という観点から。
内面? 内面や性格については、とりあえず括弧の中に入れておきます。だって、現実世界においても、他人の内面を直接知る方法は無いわけですから。
人間の人間たるゆえんを、その言葉や行動の中に見出す習性を、我々の脳は有しています。キャラクターの振る舞いや言動にリアリティがあれば、そこに「人間がいる」と、我々の脳は錯覚してしまうのではないでしょうか。
錯覚するのは読者だけではありません。作者もまたそこに「人間がいる」と錯覚してしまいます。その錯覚が記述にフィードバックされた結果、キャラクターは「勝手に動き」始める。「こいつはこんなことしないよな」とか「この子はこんな子じゃない」とか、そんなふうに作者は考え始めるのです。「型」なんてのは、最初の出発点でしかないんじゃないかなあ。
……などと言っておりますが、これは僕がそれに成功していることを意味しているのではありませんので、「お前の小説にリアリティなんて無いやんけ」というつっこみは、くれぐれもご容赦願います。あくまでも理想であり目標です。ごめんなさい。はい。
以前からあった疑問だったんですよ。貴女方はキャラクターが勝手に動き出すと言っている。僕にはそれが理解できなかったわけであります。
さて、真打登場と言うか、なんとなくそんな方法論ないのよ。若いわね、青いわねーと僕が説き伏せられる構造になってきました。ちょ、ちょっと待ってよ皆! だってこの人たちはキャラクターは勝手に動き出すって言ってんだぜ! そうしたら面白い物語が出来上がりました☆って言ってんだぜ! これで納得しちゃっていいんですか? いやダメでしょう。
そんな方法論ない。小説というのは色々な要素をかんがみて初めて書けるものなのよ。
うん、正論です。
確かに小説書くにははそれくらい年季のいるのでしょう。しかし、僕から見た小説家の文章はプロアマ問わず簡単だ。それを簡略化することで表象を真似るようにして本質まで丸のみするのは絶対に可能だ!
さて、僕の考えを再確認した上で、上野様の意見を見ていきましょう! さあ皆様、行きますよぉ〜。
1 上野様は博愛主義だそうです。しかし彼女はピンク色に方向性を示してくれました! 上野様の列挙した登場人物については、申し訳ありませんがググってください。特に知らなくてもこの議論には差し支えないと判断したので、省略させてもらいます。
『ただ、忘れてはならないのは、キャラクターの行動の是非はともかく、そういう登場人物だからこそ魅力的な物語であるということです。』
これは大切だ。書いた本人が言っているんだから線引いとかなきゃ! どうです、皆様。やはり彼女も物語(世界)とキャラクターとは密接に関連していると言っていますね。
・上野様は猫ルートなのか。
注意深く彼女の意見を読んでください。似ているようで全然違います。そもそも焦点を当てているところが違います。対比してみましょう。
水芭蕉猫様「キャラから世界を語らせる」
上野様 「キャラクターの行動の是非はともかく、そういう登場人物だからこそ魅力的な物語であるということです」
上野様は物語のあり方自体を論じているのであります。水芭蕉猫様の論じて下さったことは物語を作る方法論の一つですね。
しかしこれでは彼女がどの立場なのか分かりません。全く新しい見地の可能性もあります。
注意して読んでください。彼女は「信念」「個性」というものを書いています。どうでしょうか。これは方法論猫説の第一段階、『キャラクターに独自の価値観を持たせる』ことと同じではないでしょうか。
しかし、ここで早合点してはいけません。彼女は、『キャラクターに独自の価値観』を持たせ、そうすることによって物語は輝くと言っています。
つまり、猫説の工程2と3を書いていないわけであります。そこは分からない、だけど、とりあえず工程1をすることによって物語は綴られるとしているのです。
これは新たな見地でしょう。彼女の場合は世界(物語)が先にあって、そこに個別部品として主人公を寄り添わせるといっているのです。もちろん、世界と主人公はパズルの正しいピースのようにぴったりと符合するわけであります。
彼女自身も言っていますが、物語の魅力を彼女は語っているわけではありません。キャラクターの魅力について語っているのです。ですから、右のように僕が解釈したのは彼女に対して失礼なことかもしれません。って何冷静に分析してんだ! すみませんすみません。生意気言いました;
まとめてみましょう。
つまり彼女は中村様と同じ立場に立っていて、世界とキャラは密接に関連していると言っているのです。
うん、そのとおりですね!
……………………。見事に納得させられました。つかさっきその結論にたどり着いたところだったんだよぅ! これは司会進行失格なんじゃないでしょうか;
ピンク色いらねってなったら誰か代理お願いw
2、半ば解説キャラになり下がっているピンク色ですが、あとでちゃんと私見を述べます。悪しからず。
さて猫説で少し明らかになった魅力的なキャラ。上野様の意見を分析していきます。
確かにキャラクターには分かりやすい型がある。しかしその型を真似るだけならそれは陳腐なものになってしまう。
さて、この辺で解説キャラの仮面は脱ぎ捨てましょう。議論の再開です。
上野様、貴女は、僕のいう『魅力的なキャラクターを作る方法論』はクッキーの型だとおっしゃりたいわけですね。つまり分かりやすく記号化するのと、『方法論』は同義だと。うん、確かに僕の書き方ではそうとられても仕方ないですかね。ですけど、それは違います。僕は断じてキャラクターを安易な型を作ることによって量産しようとしているわけではありません。言い換えます。ツンデレやヤンデレなどの安易な型ではなく、『人間としての型』を作るためにこうして議論しているのです。その方は顕微鏡で見れば細部に至るまで複雑でしょう。しかし肉眼で見れば、それは紙面に書きうつせるほど簡単なのではないでしょうか。
三角四角のように簡易な型ではない。きちんと人の形はしている。しかし人が細部に至るまで複雑であることを理解した上で、「人の型」に見えるよう体裁を整える方法を模索しているのです。作家が紙面に表現するまがいものの人。その方法を盗みとろうとしているのです。
その「人の型」の作り方で一例として挙げられましたのが、水芭蕉猫様の猫説であります。人物に独自の考え方を持たせる。こうすることでキャラクターに厚みが増す。
肉眼で見たときに観察者を騙せるくらいうまく「人の型」を作りたい、というのが僕の願いなのであります。それは果たして可能だと思いますか?
ある程度型を複雑にすることで限りなく人間に魅せる(誤字ではありません)。これは可能なのではないでしょうか。
非常に抽象的な話になりました。具体的な話をしましょう。つまり、世界があって、確固たる意志を持つ登場人物がいたらよいと。その二つがうまい具合に符合すると魅力的なキャラクターができると。
そうしたキャラクターを描くにあたって注意すべき点が、キャラがあまりにも人間の常識を外れた範疇の行動をしないために『抑止力』としての現実の人間の模倣があるのだと。上野様の意見は以上のような内容ですね。
「こういった性格の『現実の人間ならどう決断する?』」
これは上野様の議論の中に無意識に出てきた文言でしょう。つまり貴女は、キャラクターになりきって物語を書いている。このような理解でよろしいでしょうか。
では、そうすれば書けんじゃね? というのが僕の考えです。
皆様、現在位置は分かりますでしょうか?
→カリスマ性→→BAD END
→情景・世界→『営み』→キャラを通して世界を見る(猫説)
→世界があって、キャラがある(逆猫)
→上記二つは不明確。しかしキャラには独自性アリ(上野説。つまり猫説よりの一体説)
重要なのは上野様も水芭蕉猫様もキャラクターに個別の価値観を持たせることを強調していることです。そしてその方法論も彼女たちはぽろぽろとおっしゃっていました。つまり、上記のようにキャラと世界とをリンクさせたとき、キャラは魅力的になると彼女たちは言っているのです。もう一歩踏み込んだところで、水芭蕉猫様はキャラクターに世界を語らせると言い、上野様は現実の人間はキャラクターの行動の指標でしかないのだと言っているのです。(上野様、このような理解でよろしいのでしょうか?)
しかし依然、彼女たちの言うことを守れば小説を書けるような気がしますね。上野様をはじめ熟練の作家様方がどのように考えてキャラクターをひいては物語を生み出しているのか。型はあるように僕は思えます。
実際まがいなりにも型として作家が紙面に表現している以上、我々がそれを方法論的観点から模倣すれば、それは不可能ではないでしょう。
その型はそんなに複雑である必要はあるのか? ――僕は問いかけます。
小説に見る人間はそれほど複雑か? ――複雑そうに『見える』だけではないか。
もしそうなら、型を真似る方法論があるのではないか?
つまりそれが『魅力的なキャラクターの作り方』なのです。
議論をまとめましょう。
→カリスマ性→→BAD END
→情景・世界→『営み』→キャラを通して世界を見る(猫説)
→世界があって、キャラがある(逆猫)
→上記二つは不明確。しかしキャラには独自性アリ(上野説。つまり猫説よりの一体説)
※注意点として、現実の人間の範疇をキャラの行動の『抑止力』として使う。
疑問点
→小説家が紙面に表現するように、魅力的な人間を魅せるのは可能ではないか。
→その方法とは。
→その一般化。あるいは魅せるにあたって絶対に必要なものの選別。
+音読。その他の秘訣。(←繰り返しますが、これは小説を書く段になってからのお話ですね)
以上であります。上野様、どうもありがとうございました。失礼なことを言って申し訳ありませんでした。議論が若干ややこしくなってきましたが、簡単なこと、思ったことで良いので、皆様の意見をお待ちしております。
ではでは。ピンク色伯爵でした。
torrentファイルがあれば落とそうと思ったんですが、すぐには見つかりませんでした。どうも、ピンク色伯爵です。
『教授の魅力はカリスマ性です。他人の内面を見抜く能力が凄いんですよ。』
つまり、個別具体説ルートの先のハテナがとりあえず消えましたね。
魅力的キャラ→カリスマ性?→(具体例)本質を『知っている』こと?
※一般化はまだできていない。
なるほど教授に関して言えば、次のように付け足すことができますね。
魅力的キャラ→カリスマ性?→(具体例)本質を『知っている』こと?
→(具体例)華族の血を引き、肉体的魅力に溢れている。
しかし肉体的魅力にあふれているというのが曖昧ですね。蓼食う虫も好き好きですし。またこれを毎回キャラに入れるとなるとワンパターン化しますし、難しいところですね(肉体的魅力をいれないという手もある。あくまで選択肢)。
だんだん明らかになってくる実体。具体例を一般化すればこのルートはコンプリートしたと言えるでしょう。ということは、ここらで隠しシナリオを発現させるべきですね。
カリスマ性→(具体例)→???(その魅力をどう臭わせるか?)
日本の古典のように「うつくしゅうていたり」とか言っちゃうのはNGでしょう。曖昧では伝わらない。しかし全面的に押し出すのではその人物の器が知れるでしょう。
つまりそいつを『人間らしくする』にはどうすればよいのでしょうか。
今の現在位置は、なんとなく魅力的だなあ、という『言葉』を並べているにすぎません。どうすればその男は動き出すんでしょうか?
……………………あれ??
この説って魅力的なキャラクターを作っただけで、物語に活かす方法を全く考えていなくねえか?w 誰だ、個別具体説おっ立てた奴、出てこい。――僕ですね、すみませんw
いけない。個別具体説だけじゃいけない。
皆様はどう思います? 良いキャラを作った。でもそれを紙面に表現するにはどうすればよいのか分からない。陳腐な言葉で伝える? それとも「私はこうする!」のまとまりのない方法列挙で議論を終えてしまう?
このルート、限界じゃないでしょうか? 僕は限界があると思います。
ただし、カリスマ性のある人物を生み出すのが全くの無駄だったわけではありません。やはり一体説に戻って、「世界の中で生かしてやる」ことが道ではないかと僕はパラダイムシフトします。どうだろう、このルートで小説化にまでこぎつけられる人いますか?
水芭蕉猫様もやはり世界は必要だとおっしゃっていますね。
ここで僕の考えを整理します。
・キャラクターの魅力は何か?
→カリスマ性だ!
→個別的な要件を挙げた。しかし、これをどう紙面に表現するのか。やはり言葉だけでは陳腐になってしまう。
→こちらのルートは行き止まりだ。仕方がないから一体説に逃げよう。
→一体説は『営み』だと言っている。ここにカリスマ性→(具体例)を備えた人物を登場させればよいのではないか。
急に議論が簡単になってしまいましたね。つまりキャラを魅力的にしているのは世界でもあり、カリスマ性であるが、カリスマ性だけを考えていけば、方法論的に行き止まりになる。だからより明確に公式化するためには世界・環境・イメージを一緒に考えていく必要がある。
どうでしょうか。何か意見がある方はいらっしゃらないでしょうか。急に議論がありふれたものになってきましたね。しかし、ありふれた意見の踏み込めていない部分に踏み込むことが大切でしょう。議論を続けます。
・水芭蕉猫様はどう考えているのか。
キャラから世界を見せてもらうというのは彼女の方法論でしょう。すなわち、彼女なりの方法であります。そのやり方を分析すれば何か見えてくるのでしょうか。
『キャラじゃなければ世界の見かたが解らないからです。』
なるほど、キャラクターを世界の一部と捉えています。ただ、ここで従来の僕の意見とは異なる点が出てきました。それは、
『世界があってキャラがいるのではなく、キャラから世界を聞くのです。』
つまり世界があり、キャラがあるのではなく、キャラがあって世界はあるのだと彼女は主張しています。
視点を変えてみましょう。
『(魅力的な)キャラクターは、世界を独自の価値観を持って見ている』
どうでしょうか。
今現在位置分かります?
キャラの魅力→カリスマ性→具体例→行き止り(←それをどう表現するのかが「?」)
※個別具体ルートは行き止まり。
→情景・世界→『営み』→キャラがあって、世界がある(猫ルート)
→世界があってキャラがある?(逆猫)
→もっと別の何かがあるのではないか?(?ルート)
↑ルート分岐したわけですね。
注意してほしいのは、今論じていたのは物語の作り方だということです。魅力的なキャラクターというのは、カリスマ性があり、『営み』があり、その中で猫説を採るなら『世界に対して独自の価値観を持って生きている』ということです。
猫説に従うのなら、このような人物を表現できれば、それは小説の中における『人です』。猫ルートはエンディングが見えそうですね!
キャラに自分を憑依させるとありますが、これを具体的に分解していきます。
つまり、
1、キャラクターに独自の価値観を与える
2、そのキャラクターなら世界をどう見るのかを考える。
3、世界を『創る』
ここで難しいのは、世界を『創る』前に何で見ることができるんだということです。
皆さん、僕はですね、ここは額面通り受け取ってはいけないように思うのです。
多分世界はある程度はあるんです。異世界なり、現実であり、中世世界でありです。しかしそれを見て、紙面に書くには、キャラの目を通すべきだと水芭蕉猫様はおっしゃっているのです。すなわち、各人世界の捉え方は千差万別、当たり前ですね。そのようにすれば、キャラクターに確固たる考えを持たせることができ、それがキャラクターの魅力となり、そのキャラクターならどう動くか? を考えるときの一例となるとおっしゃっているのです!(……です、よね……?)
猫ルート、見えてきましたね、エンディングが。
【キャラと世界は連動している】
【キャラクターは世界に対する独自の価値観があり、それが人間たらしめている】
【また価値観により、そのキャラの思考プロセスを紙面に表現しやすくなる】
僕が提示した三角関係、誰誰が好き嫌いは世界の一部なのです。そこにキャラクターの独自の思考プログラムを介在させることで、物語は深みを増し、一石二鳥なことにキャラクターも映えるのだそうです。
これは大きく動きましたね。つまり、その結果として僕のような変態が萌えるか萌えないかが決まってくると。
では、「人」を「そばで見ていて萌える人にするためには」どうすればよいのでしょうか。これは新たな論題ですね。
また猫ルート以外にエンディングはないのか? 水芭蕉猫様は好きだけど、猫ルートは好きになれないという人いませんか? あるいは猫ルートよりももっとエキサイティングなルートがあるぜ! って人いませんか??
さああ、面白くなってきましたね! 僕が勝手に盛り上がっているだけですがね!
あと、音読は必要なのか。これは実際に小説を書く段になってのお話ですね。どうすればすらすらとした日本語が書けるのか。教えてうまい人! この点も議論していきたいところであります。
以上であります。水芭蕉猫様、ケイタイからわざわざありがとうございました。
水芭蕉猫様はもちろん、皆様の意見をお待ちしております。
内容はどんなものでもオーケー! どうすればエッチなお姉さんが書けるのかとかでもいいです。というかそれなら大歓迎です(殴)。
ではでは。ピンク色伯爵でした。
面白い議題ですね。
参加しよう。…と思ったら書きたいことを全部中村ケイタロウ様が書かれていた!
と、撤収するのもなんなので、かぶりますが私なりに書いてみたいと思います。
1 自分が思う魅力的なキャラクターについて
色々挙げれますが、ぶっちゃけ全員個性がバラバラです。私は復讐者も調停者も凡人も天才肌も、魅力的な人物なら大好きです。
って、それじゃ参考にならないでしょうから、方向性をば。
私の場合、ノベルゲーで言えばEVER17の倉成武(致死性ウィルスが蔓延する海底の閉鎖空間という極限状態で、嫁と生徒とガキ二人守るために死力を尽くし、最後まで生存を諦めなかった)や、シュタインズゲートのオカリン(どう足掻いても絶望、乙! な運命で、なにもかも背負って最後まで足掻き続けた)のようなタイプを好意的に評価します。
一方でクラナドの岡崎朋也のような、一番必要とされている時に責任を放棄したタイプは、一段評価が落ちます。
ただ、忘れてはならないのは、キャラクターの行動の是非はともかく、そういう登場人物だからこそ魅力的な物語であるということです。
仮に朋也が「俺は妻の忘れ形見と一緒に生きる」と腹すえるタイプなら、そもそも物語が成り立たない、でしょう。
FATEで衛宮士郎について「あんなおかしな信念(妄執)に取り付かれた主人公がいるか!」と批判する人はいても、そもそもその”狂った”と弾劾される信念といかに向き合うかが主題のひとつだろうから、仮に彼の個性を抜いたら物語が根本から変わるでしょう。
彼や彼女という登場人物が「その物語という世界で生きているからこそ」物語は輝くのではないでしょうか?
また上記は、キャラクターの魅力について書いたもので、物語としての魅力をどうこういうものではないので悪しからずご了承ください。
2 キャラクター論について
たとえば、小説のキャラ作りをクッキー作りに例えるなら、大事なのは「卵とバターと小麦粉(キャラクター自身の魅力)」と、「焼き加減(書き手の文章)」であり、既存のテンプレート…
ツンデレやのヤンデレやのクールやのセクシーやのロリやの鬼畜めがねやのワイルドやの小動物やの男の娘やの漢女やの
を、私は型に過ぎないと考えています。
記号、と言い換えてもいいですね。
キャラクターを作るとき、分かりやすいほうがいいよね。(読み手が展開予想しやすく、感情移入の敷居低いよね)といった目安にはなるけど、それ自体が魅力の根幹を成すわけではないと思います。
だって、世のライトノベルにせよ、ノベルゲーにせよ、そんな記号化したキャラは山ほどありますよね?
じゃあ、その全部が面白いかというと、面白いのは一握りで、後は「orz」だったりする。
もし記号がキャラクターの魅力を保障するなら、そんなことが起こりえるでしょうか?
3 魅力的なキャラクターを数値化することで量産可能か?
以上のように、私は数値化、というか、個性という枠だけで魅力を表現することも、また量産することも不可能だと考えます。
では、中身、私が例えた「卵とバターと小麦粉」、おそらくは、ピンク色伯爵様が求めるものはなんなのか。
それは、キャラクター自身です。
……ふざけんな、なにその詭弁?
と思われるかもしれません。
これは私が以前経験したことですが。
私は――
『ある所に悲惨な待遇の20人の姉弟がいました。姉は恋と植えつけられた使命感の板ばさみになって歪み、黒幕にそそのかされて妹を殺そうとしました。一方、情けを知らない妹は、養父への依存から生きるために姉に抗い、互いに傷を負った二人は、多くの兄弟の屍の上で別れました』
という悲劇を書いていました。
が、実際に出来上がったのは。
『ある所に悲惨な待遇の20人の姉弟がいました。姉は恋を知ったことで、植えつけられた使命感を返上し、妹を守ろうとしました。一方、養父の愛情を得た妹は、大切な姉と兄弟を守ろうと抗い始めました。二人、いえ、20人の姉弟は黒幕を打ち倒して生き延びたのです』
という、正反対の代物でした。
――どうしてこうなった!?
後から分析すれば、一人馬鹿を放り込んだのがきっかけでした。でも、決定的だったのは、姉も、妹も、”成長してしまった”からです。
劇中の分裂闘争の時点で、二人にとっては「お互いを大事に思い、そのために決断する」の方が、当初の予定通り殺しあうよりずっと自然だった。
現実にいる人間をモデルにすれば、良い登場人物ができるわけではないでしょう。ルパン三世のような規格外キャラはそうそう現実には見あたらない。
ですが、行動の自然性という意味で、『現実の人間をモデルにする』ことは大きな意味をもちます。
こういった状況に置かれた時、こういった性格の『現実の人間ならどう決断する?』
そこにフィクションを加味しても、もはやそれは虚構だけではない。設定だけではなく、育って”存在する”キャラクターがいるからです。
無論、どんな登場人物もそこまで育つとは限りません。このときは姉妹とも、いい感じに筆が乗ってくれた。
この時の娘たちは、私が設定した存在ではなく、読み手や物語の流れによって成長した存在に変化していたのですから。
実際に読み手が評価するかはわかりません。誰もが異なる感性をもつ以上、ひとつのものさしは、ひとつのものさしにすぎません。それでも、キャラクターの魅力とは、物語との兼ね合いで、時に読み手との意見交換で、自然と育ってゆくもの。そういう風に、私は考えています。
それはそれとして、『カスタム小説2011』はやってみてもいいんじゃないですか? 面白そうですよ♪