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タイトル1:『鉄塔広告』
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投稿日: 2014/09/08(Mon) 22:35
投稿者天野橋立

私の生まれた町は、日本海に浮かぶ日本で三番目に大きな島である毬之島の中央部にある、毬島市と呼ばれるところです。これは意外と知られていないことですが、毬之島は対岸に位置する新潟県に属しているわけではなく、実はより西側の豊島県に属しています。ご承知のこととは思いますが、豊島県はあまり大きな県ではありませんので、毬之島が県全体の面積に占める割合は相当大きなものとなります。
 豊島県という名ももちろんこの豊かな大きな島を抱えていることからついた名前で、明治時代の廃藩置県の際に当時の知藩事であった毬之島由旨が名づけたと言われています。毬之島が対岸の新潟県ではなく、豊島県に属することになった原因は、鎌倉時代にさかのぼります。この頃、豊島県に当たる地域は越間と呼ばれ、地方豪族である藤山氏によって支配されていました。しかしやがて源頼仲の軍勢がこの地域にも進出し始め、藤山氏の一族は海岸の陸果(おかはて−現在の西豊島市)まで追い詰められることとなりました。その際救いの手を差し伸べたのが毬之島を支配していた毬之島雪旨でした。結局最後には雪旨の差し向けた援軍の奮闘もむなしく藤山氏は現時の大軍勢の前に破れ去ったのですが、その時以来、毬之島と越間の人々の間には固い絆が結ばれたのでした。
 そのきずなの固さを物語る逸話として、戦国時代上杉氏が毬之島に攻め込んでは見たものの毬之島氏は山奥の盆地にある毬盾城に立てこもり住民たちも「おらごたちはえぢかんのもんだ。えぢごのものにはなんねど」と上杉氏に全くなびかず、ついに軍勢はあきらめて去ったという物語が伝えられています。今でもこの毬盾城はほぼ完全な形で残されており、毎年10月には上杉氏撃退の物語を模した毬祭りが行われます。
何をするにも毬の名が付くこの島ですが、この名が付いたのがいつ頃なのかはよくわかっていません。ただ、風土記のなかに「毬島から金塊一斤」との記述がありますから、この頃からその名が使われていたのは間違いありません。もちろん伝説という形では毬之島の名の由来はたくさん残されています。それらの伝説に共通する要素としては、超越的な強い者(神、天皇、中国の武人)が毬を放りあげるとそれがどこかに消えてしまい、海に落ちて島になったとされていることがあげられそれを裏づけるようにこの島は毬のような真ん丸い形をしています。また真ん中が山がちで丸く盛り上がっているので海から見ると大きな毬が海に半分沈んで浮かんでいるようにも見えるのです。
豊島県毬島市、この町は現在人口5万2千人の小さな市です。二十年ほど前までは炭坑町として日本中に知られる活気に満ちた町で、人口も最大三十万人に達しました。この当時は先ほど述べた毬祭りも大企業からの協賛金で大変盛大に行われていました。当時子供だった私もこの毬祭りが大変楽しみで、母親に「まりまづまだげ。まだげ」と一ヵ月も前から何度も聞いて大変困らせたということです。
あの大落盤事故が起こったのは私が十才のときのことでした。その日の夕方父が青ざめた顔で会社から戻ってくるなり母親に向かってこう叫びました。「山がおぢたど」母親の顔色も一瞬にして変わりました。父の勤める会社は毬島市に本社をおく大手の石炭採掘会社でした。幸いにして父は自ら炭坑に入っていくような仕事ではなくむしろそれを管理する部門に勤めていたために命拾いしましたが後で聞いたところによると同期で入った同僚十数名がこの事故で命を落としたということです。その夜は大変な騒ぎでした。警察、消防、全てが事故現場に向かい、父もいったん帰ってきたもののすぐに母を炊き出しの手伝いをさせるために連れて家を出ていきました。暑い夏の日で、一人残された私には美しい夕焼けの色が血の色に見え、その情景が強く私の心に焼きつけられました。落盤事故は数百人の死者と毬之島最大の炭鉱の閉鎖という結果を残しました。石炭採掘各社は補償に追われ何社も倒産しました。父の会社も例外ではなくついに倒産してしまいました。しかし父も母も案外落ち込む様子もなく、「死ななかっただけよかんさ」とまた新しい仕事を見つけて働き始めました。
 島はそれからだんだんと目に見えるように活気を失っていきました。なかでももっとも衝撃の大きかった出来事が、毬島電気軌道の営業休止でした。休止とはいえ事実上の廃線といっても差し支えなく、島の人々も猛反対しましたが、炭坑への人員輸送を頼みの綱としていたこの鉄道はもはや存続不可能な状態でした。毬島電気軌道は大正13年毬島町立汽車鉄道としてスタートしたもので、当時は日本の島で唯一の鉄道として評判になりました。戦後電化されて電気軌道となり私立鉄道として地元の石炭採掘会社の共同出資で再スタートを切り最盛期には準急も運転されゆくゆくは軌道線から地方鉄道線に昇格されて急行が運転されるはずでした。それだけに島の人々の失望も大きかったようです。私は毬電(地元の人々はそう呼んでいました)のお別れ運転に乗った時のことをはっきりと記憶しています。

「毬電毬島市」の駅は人でごった返していた。実をいうと毬電で駅と呼べるのはこの「毬島市」駅ぐらいのものである。悲しげな顔をした電車がホームに入ってくる。そう、どうして電車というものはこんなに人の顔をしているのか。別れを惜しむ周りの人間達よりも電車のほうがもっと悲しそうだ。私は電車に乗りこむ。満員である。少し苦しげに電車は発車する。この電車はもともとどこかの大手私鉄で走っていたものであることを私は知っている。もしかすると戦前のものであるかもしれない。この鉄道はほとんどの部分が軌道線であり、道路の上を走っている。沿線の人々が見送る。観光客らしい人々だけが大して気にも留めずに歩いて行く。「離れ島で唯一の鉄道」ということも、今日で最後ということも彼らは知らないのであろう。そんなことを誇りに思ってきたのは島の人だけであり、実は全くよその人々には知られていないのではないか、そんな思いが心をよぎる。
 電車は町を離れ、山地に差しかかる。その時、ふと目に付いたものがあった。町の外れに立てられた鉄塔広告である。高さは50メートルほどであろうか。もちろんこの町では最も高い建造物であり、この街が賑わっていた当時東京からやってきてこの町を席捲せんとした大手の製菓会社が金に任せて作ったものである。幅はほとんどなく、この距離から見るとまるで30cm位しかないのではないかと思える。まるで盆地の中程に針が立っているかのようだ。その針からはみ出して大きな文字が張りつけられている。
「森林ミルクチョコレート/プリンスチョコレート」
 反対側から見ればまた違う文字が見えるのであろうか、文字の合間に裏返し文字らしいものが見える。鉄塔の天辺からは二本の棒が突き出していてその先には飛行機の形をした飾りが付けられている。棒と二機の飛行機は鉄塔を中心としてゆっくりと回転している。製菓会社が撤退して数年が経過しており、手入れもしていないのであろう、飛行機はすっかり古くなり赤と青のペイントが剥げかかっている。このとき初めて気付いたのであるが、目を凝らすとはるか彼方にさらに数本の鉄塔広告が立っているのが見える。すると各町に一本ずつ立っているのだろうか。さらに私は一つの奇妙な疑問にとらわれていた。なぜ製菓会社が撤退して何年にもなるのにいまだにあの飛行機は回転しているのであろうか。もしかするとあの針のような鉄塔はあの二機の回転するバランスで立っているのではあるまいか。そう思うと同時に一つの計画が私のなかで持ち上がった。そんな塔なら簡単に倒せるぞ。島を見捨てていった者達への怒りが鉄塔を倒すという行為への情熱となって私のなかで燃え上がった。 
鉄塔は町のどこからでも見えるので近いものだと思っていた私の予想は簡単に裏切られた。いくら歩いても鉄塔は少しも近づいてこなかった。ふだんあまり歩いたことのない町の繁華街に差しかかったが、鉄塔はまだはるかかなたであった。だがその失望以上に私の胸を打ったのは繁華街の激しいさびれ方であった。かつて両親に連れていってもらった映画館は既に閉館となり、最後に上映されたらしい映画のポスターが雨にさらされてぼろぼろになってぶら下がっていた。パチンコ屋(木造であった)はまだ営業していたが活気とは程遠く何をしてよいのか分からないような男たちがぼんやりと時間をつぶしていた。鉄塔はそんな繁華街の通りの真ん中に見下ろすようにそびえていた。繁華街を抜けると町は背の低い住宅地に変わった。家並はみすぼらしく、生活水準の低さを思わせた。この辺りまでくると例の飛行機はほとんど真上を回転しているように思え、鉄塔の天辺は仰ぎ見なければ見ることができなかった。さらに進むと地面を黒い影が横切るところがあった。飛行機の影がここに落ちているのだ。太陽はほぼ真上に位置し、飛行機が回転してくるたびにそれは遮られた。鉄塔の直前で道は行き止まり、別の道につき当たってT字路を形成していた。その辺りの町並みは迷路のようになっていて私は必死で鉄塔のほうに向かおうとしたがそのたびに道はつき当たった。私は疲れ切っていたがそれでもあきらめずに何度も角を曲がった。古い酒屋の横の辻に入ったとき。そこに鉄塔があった。広い広場のようなところにぽつんと立っている。私の思い込みは完全に外れていた。鉄塔は家と家の間の三平方メートル程のところから天高くそびえていた。特に基礎になる台のようなものは見当たらずコンクリートの地面から直接生えていた。思っていたよりも幅は広く、一メートルぐらいはあった。これでは倒すことができない。私は焦って鉄塔を押してみたが鉄塔はびくともしなかった。そうだ、飛行機を止めねば。私は次に飛行機を動かしている機械を捜した。2メートル程の高さのところに配電板らしい機械があった。これを壊せば飛行機は止まる。私は思い切って電線を引きちぎった。
今では何故あんなことを考えたのかはよくわかりません。結局飛行機は見事に止まり、鉄塔は倒れませんでした。私が逃げ帰ったその日以来飛行機が動くことを見た日はついにありませんでした。誰もこの鉄塔広告に注意を払う人はいなかったのでしょう。それなら何故あの飛行機は動いていたのか。誰が電気代を負担していたのか。それも今となっては分からないことなのです。

(後日談)この文章を書いた後、偶然あの製菓会社で鉄塔広告の建設を担当していた方(今では重役さんですが)にお会いしてお話を聞くことができました。あの鉄塔広告は全国で40本あまり、しかも地方にばかり立てられ今でも10本ほどが残っているそうです。会社の撤退後取り壊すに取り壊せず残った物ばかりで、飛行機を止めれば倒れると信じた人が多くいたために今でも飛行機は止めずに電気代だけは負担しているということです。ちなみに私が止めたあの鉄塔広告は現在は取り壊されてもうないそうです。



ひっそり投稿。
二十数年前、本当に初めて書いた小説です。やたらと文章が長かったり、改行が少ないのは完全に筒井康隆氏の影響ですね。書きたいことの基本的な方向は今でも変わらず。この短編も、いつかはまたリメイクするつもりです。


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