『急ぐ理由』 ... ジャンル:ショート*2 リアル・現代
作者:弥生灯火                

     あらすじ・作品紹介
数分で読み終わる短い作品になります。

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 暮れなずむ夕陽を背に、ひとりの女性が流れていました。
 三十代の半ば頃でしょうか。肌は白く美しいといえましたが、とりたてて美人というほどでもありません。
 身を装う衣服もありふれたもの。繁華街を進むその彼女の姿は、どなたが見ても一介の主婦といったところでしょう。
 すれ違う通りの人々も気にすることはなく、いえ、ただひとりの幼女だけが興味深そうに目で追っています。
 ですけど彼女の方は気づくことなく、ある一点のことだけに突き動かされ心を急がせていました。

 そう、彼女は急いでいました。急ぐ理由があったのです。
 初めて接する景色には目もくれず、流れる風のように身体を進ませる彼女。記憶の隅に残っている住所を頼りに、でも迷うようなそぶりは見せずに、一心に急いでいます。離れて暮らす夫のところへと。

 彼女は気がかりを抱えていました。
 この地には仕事で単身移り住むことになった夫がいるのです。結婚して彼女と共に生活を過ごしたのは数年でしたが、少々頼りなく、ついていないといけないという気持ちにさせられる夫でした。
 朝はきちんと食事を摂っているのだろうか。偏ったものばかり食べていないだろうか。洗濯物のたたみ方を知っていただろうか。寂しがり屋のところがあったけれど、元気でいるのだろうか。
 もしも夫が彼女の心中を読み取れたなら、「おいおい、俺は子供かよ」と呆れたことでしょう。

 夫の借りるアパートに到着し、彼女はまず台所に向かいました。1Kという間取りなこともあり随分と手狭です。連絡もせず訪れた妻に対し、夫は驚きつつも首をかしげていました。
 そんな夫に構わず、丁寧ではないけれどしっかり洗ってある食器類を眺め、彼女は小さな冷蔵庫を開けます。中に入っていたのはレトルト食品が主ではありましたが、しっかり野菜も数種類入っていることに安心を覚えます。次いで彼女が向かったのは、二層洗濯機が設置してあるベランダ。汚れ物は溜まっておらず、物干し竿や手すりにも埃は堆積していませんでした。
 ユニットバス、衣装ケース、寝具と順番に確認していく彼女。どれもが共に暮らしていた時のように清潔に保たれ、整理して収められています。だんだんと彼女の、その表情はどこか憑きものが取れたように晴れやかになっていきました。

「おい、一体どうした?」
 彼女は夫の声に少しだけ、ほんの少しだけ残念な表情を灯します。でもすぐに柔らかな笑顔を浮かべ、玄関へと向かいました。
「待てよ、もう帰るのか。一晩ぐらい泊まって――」
 背中に投げられる夫の言葉。身体をすり抜けて、消えていきます、彼女と共に。
 呆然とたたずむ夫のもとへ、彼女が事故に遭い意識不明のまま、今しがた亡くなったという訃報が届いたのは数分後でした。

 彼女には急ぐ理由があったのです。どうしても、どうしても……

2016/02/14(Sun)18:41:17 公開 / 弥生灯火
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■作者からのメッセージ
前作『白日夢』からは久しぶりの投稿になります。
「心残り」をテーマとして書いた作品ですが、前作同様に夫婦間の愛情も感じて頂けたなら幸いです。
読んで下さった方に感謝を。

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