『僕と、僕達のお姫様』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:神夜                

     あらすじ・作品紹介
僕と、僕達のお姫様の、ある夏の出来事。

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 近年稀に見る大型台風が日本列島を横切る中、ニュースではアナウンサーが頻りに「命を守る行動を」と繰り返しており、手持ちのスマートフォンはうおんうおんと緊急警報を飛ばしていることから、「実は今日、仕事に行かなくてもいいんじゃないか」と淡い気持ちを込めて上司にメールで「お疲れ様です。台風が凄いですね。今日の休日出勤は如何致しましょう」と送ったところ、無常にも「頑張れ」と一言だけ返ってきた。
 雨にも風にも負けずに走り続けるのは近鉄電車の悪いところで、少しはJRを見習って欲しい。いつもなら人がそれなりに居る電車の中は、お盆休みということを差し引いても人気がほとんどなかった。目的の駅に到着し、改札から外に出たところで木を薙ぎ払わんとする横殴りの風と、世界を覆うかのような土砂降りの雨に立ち往生し、とりあえず構内にあるドーナッツ屋で馴染みのおばちゃん店員と世間話をしながら時間を潰して、雨風の勢力が弱まった隙に何とかバスに乗り込んで、ようやっと会社へ到着できた。
 世間はお盆休みで、おまけに台風がほぼ直撃している中、連休明けでもどうとでもなるような案件を終わらすための嫌々出勤であったし、おまけにびしょ濡れの身体ではやはりこれっぽっちもやる気が出て来なくて、給料泥棒よろしく、適当に仕事をこなし、適当に時間を潰し、適当に定時を迎えるのだった。
 帰る頃には天気はすっかり治まり、晴れ間も覗いていた。鞄の中に入れっぱなしにしていたスマートフォンを取り出して、お姫様に「今から帰る」とのメールを送ろうとしたところ、新着メールが三十五件も入っていた。いつものことである。上から順に流し読みで確認していく。
『雨がすごい!』『風もすごい!』『窓が割れる音がする!』『卵の賞味期限が今日まで!』『卵焼き作る!』『窓から少し水が入ってる!』『外の靴がどっか飛んでった!』『砂糖がもう残りすくない!』『サイレンがすっごい鳴ってる!』『町内放送が何か言ってる!』『ぜんぜん聞こえない!』『麦茶つくった!』『少し風が落ち着いてきた!』『でも雨はすごい!』『ニュースばっか!』『テレビつまらない!』 ――そんな、他愛のない状況報告が、絵文字いっぱいのメールとして三十五件、入っている。思わず顔が綻ぶ。お姫様は、この台風の中でも元気に活動中であるらしい。
『今から帰ります。晩御飯は何がいいですか?』
 そうメールで送ると、返事はすぐに返ってきた。
『ハンバーグ!』
 ハンバーグか、と僕は思う。
 挽肉は確かまだ冷蔵庫にあったはずで、卵もお姫様が使い切っていなければ大丈夫だろう。玉葱のストックがあるかどうかは怪しい、牛乳は昨日に全部消化してしまった。どっちにしても買出しには行かなければならない。お姫様は煮込みハンバーグにして、こっちは大根おろしのポン酢ハンバーグにしよう。家に帰ったら、お姫様を連れて買出しだ。今日は家に缶詰だっただろうし、お菓子は好きなものを二つまで許可してあげることにする。
 会社を出て、夏の気温を取り戻しつつある空を見上げ、僕は小さく笑った。

 明日からようやくお盆休みだ。
 この夏は、お姫様を連れていろんな所へ出掛けよう。



     「僕と、僕達のお姫様」



 お姫様の朝は早い。
 僕も朝には強く、仕事で六時半に起きる習慣がついているから、休日でも八時までには起床する身体になってしまっているが、お姫様はそれよりももっと早い。僕の仕事の日は六時前には起きているし、なぜか休日には五時くらいから活動を開始している。子供特有の早起き体質なのかもしれない。朝からテレビを流しつつ、お姫様はせっせと朝ごはんを作ったり、てきぱきと洗濯をしたりする。この辺のことについて言えば、妻ではなく、僕自身の血を色濃く受け継いだ結果なのかもしれない。
 起床してリビングへ行くと、味噌汁の匂いに脳が少しだけ活発化して、顔を洗ったら本格的に目覚めた。
 お姫様の向かいに腰掛け、お姫様の作ってくれた朝ごはんを食べる。
 卵焼きに味付け海苔に納豆に豆腐の味噌汁。簡素だが、朝はそんなに食べる方でもないから、これくらいがちょうど良かった。
 納豆を箸で掻き混ぜながら、僕は言った。
「今日はどこへ行きたいですか」
 卵焼きを食べながら、お姫様は言った。
「水族館!」
 水族館か、と僕は思う。
 この辺りで言えば、鳥羽水族館や名古屋港水族館だろうか。そう言えば学生の頃、妻と初めてデートらしいデートをしたのは、確か名古屋港水族館だった。記憶はもう曖昧となってしまったが、探せば写真の一枚や二枚出て来ると思う。思い出に浸る訳ではないが、鳥羽よりも名古屋の方がその後にもいろいろ見て回れるし、交通の便も楽だ。だから目的地は名古屋港水族館にしよう。
 朝ごはんを食べ終わり、食器を洗って、日差しの強くなってきたベランダに洗濯物を干す。僕の準備なんて服を着替えて身なりを整えるだけだから十分も掛からない。お姫様だってまだ化粧のけの字も知らないから、あっという間だ。車のキーを持って、電気のチェックと戸締りの確認だけして、僕はお姫様と一緒にアパートを出た。
 乗用車に乗り込んでシートベルトをする。悪いことであるのだが、つい最近まで、どうにもシートベルトが煩わしくてあまり締めたことがなく、散々に小言を言われ続けてきたがそれでも締めずにいたのだが、三ヵ月ほど前に国道でオービスを光らせた頃から、ようやく法定速度とシートベルトを厳守するようになった。その際にお姫様からめちゃくちゃ怒られたのも、ひとつの原因かもしれない。
「シートベルトよし!」
 助手席に座ったお姫様は、自分と僕のシートベルトを確認して笑った。
 車を発進させる。高速にさえ乗ってしまえば、自宅から名古屋港水族館まではそう時間は掛からない。夏の日差しに汗が流れたので、車のクーラーをつけようとしたところ、お姫様が窓を開けて走りたいと言い出したから、それに従った。
 高速に入った辺りで窓から吹き込む風はその勢いを増し、お姫様のさらさらの髪がすごいことになっている。風になびく髪を左手で押さえながら、それでもきゃっきゃと楽しそうに声を上げるお姫様を横目で見つつも、僕は車を走らせ続けた。
 到着した名古屋港水族館は、営業開始直後だと言うのにそれなりの人が居て、やはり今日がお盆休みであることを実感させた。そう言えばここに来る前に明日の予定も決まってしまった。高速道路の途中で見えた、長島スパーランドの海水プールへ行きたいとお姫様は言った。だから、明日は海水プールだ。
 大人と子供のチケットを一枚ずつ買って、中に入る。最初に迎えるのは海中トンネルで、無数の魚が頭上を泳ぎ回っていた。
 お姫様は大喜びで、人ごみの中を弾丸のように突っ走っていく。あっという間に姿の見えなくなったお姫様を捜索すること約十分、ようやく発見したのはイルカの泳ぐ巨大な水槽の前だった。そこではダイバーがちょうどイルカにエサをやっている時間で、子供も大人も大勢が集まっており、水の中に居るダイバーがイルカと戯れながらいろいろな見世物を披露していた。
 目をきらきらと輝かせながら、お姫様は言った。
「すごいっ! わたしもやりたいっ!」
 その言葉にふと思い出した。
「そう言えば。僕の子供の頃の夢は、水族館の職員さんだったよ」
「どうしてならなかったの?」
 純粋にそう聞かれて、少し答えに困った。
「うーん、どうしてかなぁ。いつの間にか、その夢は無くなっちゃったんだよね」
 子供の頃の夢なんて、所詮はそんなものなのだろう。
 ただ、今でも水族館とかペットショップの熱帯魚売り場とか、そういう魚の居る所は大好きだった。ただそこで働きたいとか、そこで魚の世話をしたいとか、そういうことを思うのと、そこで生きていくことを決意するための現実社会のしがらみは、また別問題なのだ。それに子供の頃の自分では、オフィスの机の上で、日がな一日PCに向き合っている仕事をするなんて、それこそ夢にも思っていなかった。
 いつの間にか、お姫様と手を繋いでいた。
 視線を向けると、僕を見上げていたお姫様と目が合った。
 そして、お姫様は悪戯っぽく笑う。
「じゃあわたしが代わりになってあげる!」
 悪戯っぽく、僕は笑い返す。
「それは楽しみだね。いつか、イルカと遊べるといいね」
「うんっ」
 嬉しそうに笑うお姫様を見ながら、思う。
 この娘には、純粋に夢を追って欲しかった。切っ掛けは何でも良い。軽い気持ちであれ何であれ、この娘にはやりたいことを、好きなだけして欲しかった。その障害と成るべき現実社会のしがらみが目の前で邪魔をするというのなら、その時は僕が自分の命と引き換えにしても、それを排除してみせる。お姫様が翼をめいっぱい広げ、空に羽ばたいていくためには誰かが泥水を被らなければならないのなら、その時は僕がお姫様の知らないところで、喜んで泥に塗れよう。
 僕の宝物。僕の生きる意味。僕の、道標。
 この握った手を、この小さな手を、僕は、絶対に離したりなんてしない。

 お昼はフードコートでウミガメのメロンパンなるものと、オーソドックスなたこ焼きを食べた。
 午後一時から始まるイルカとアシカのショーのために早目に会場へ赴き、最前列のそれなりに良い場所を確保した。ただ、イルカショーのそれなりに良い場所、と言えば結果は判り切っていたはずだった。案の定、イルカの尻尾から放たれた海水で、僕とお姫様は水浸しになってしまった。それでもお姫様が相当に喜んでいたので、まぁ良しとする。
 お土産コーナーでイルカのキーホルダーと、アザラシのぬいぐるみを買った。その二つを手にしてご機嫌のお姫様と出口を目指して歩いていると、最後のところで記念撮影をやっていた。天井から吊るされた大きなサメの前に立って、専用のカメラマンが専用のカメラで写真を撮ってくれて、それがその場で専用の縁に入れて一枚千円ぽっきりで売ってくれる、定番の記念撮影だった。
 昔はこんな写真一枚が千円もするのが馬鹿らしくて買うことも無かったのだが、妻との約束で、「子供が出来たら、必ず買うようにしよう」と決めていた。白状すると、その約束にも実は乗り気ではなかったのだが、いざ子供が出来て、そしていざその場面に立つと、写真一枚が千円でも、記念としてなら財布の紐は簡単に解けてしまった。これでもう何枚目になるかも判らない。こういう時は必ず、写真を買うようにしていた。
 キーホルダーとぬいぐるみと写真を持って、さらにご機嫌となったお姫様と一緒に水族館を後にする。
 遊び倒した反動か、車に乗って少し走るとすぐに、お姫様は助手席で眠りに落ちてしまった。お姫様を起こさないようにゆっくりと車を運転しながら、その手にしっかりと握り締めたままのイルカのキーホルダーに視線を移す。海に落ち始めた夕日に照らされたそれは、キラキラと輝いている。
 お姫様には言っていないが、実はそれの色違いをあと二つ、こっそり買ってある。ひとつは僕の分と、もうひとつは妻の分。これくらいの小さな喜びは、お姫様に内緒でこっそり楽しんでも、罰は当たらないであろう。
 夕暮れの迫った湾岸高速を、ゆっくりと走って行く。

     ◎

 プールに行くことにはまったく問題なかったのだが、ただ、お姫様の水着が無いことに気づいた。
 去年のはもう着れなくなっていたし、スクール水着で行くのは嫌だとお姫様はぷりぷり怒る。そのため、プールへ行くのは一日ずらして、今日はショッピングセンターへ水着を買いに行くことにした。大量に並ぶ水着に、あれやこれやと一喜一憂しながら物色を続けるお姫様を遠目に眺めながら考える。こうして服などを選ぶ時にとんでもなく長い時間をかける様は、女の子特有なのか、あるいは妻の血を色濃く受け継いだ結果か。
 散々に迷った挙句、お姫様は水色のフリルの付いた水着を選んだ。ついでに浮き輪と、空気を入れるための玩具のようなポンプも買うことにする。それらの会計を済まし、せっかくだし他の服も見て回ることにする。子供の成長は驚くほど早く、去年に買ったばかりの服は、半分くらいがもう着れなくなってしまっていた。しかし着れなくなってしまった服を捨てたりすることがどうしても出来ず、両親に茶化されながらも、それらはどんどん実家に溜まっていってしまっている。いつかどこかで決断しなければならないのだが、今はまだ、このままにしておいて欲しいと僕は思う。

 明くる日の朝、いつも通りにお姫様の作った朝食を食べ、意気揚々と長島スパーランドの海水プールへと向かう。
 駐車場にはもうかなりの数の車が停まっており、溢れかえっている子供たちはもうすでに水着に着替え、浮き輪に身体を通したままアスファルトの上を走り回っていたりする。イルカの形をした大きな浮き輪を持っている男の子を見て、お姫様が目を輝かせていたが、さすがにあれは空気を入れるのもしまうのも大変だから、我慢して貰うことにする。
 プールは凄い人だった。芋洗い、なんて表現をよく聞くけど、まさにそれだった。連日の猛暑と、お盆休みの二つが重なった結果の必然であるのだろう。それでもプールの水は冷たかったし、はしゃぎ回るお姫様を見ると、これもまた、まぁ良いかと思えてしまうのだった。
 流れるプールに浮き輪を浮かべ、そこにお尻を入れるように座り込んでぷかぷかと浮かぶお姫様。その浮き輪の端に捕まって流れに身を任す僕。久々ののんびりした時間であった。昔、妻とここに来た時のことを思い出す。今と同じように、妻は浮き輪に座り込んでぷかぷかと浮かび、僕はその端に捕まって流れていた。その時、ふと悪戯を思いついて、思いっきり浮き輪を反転させて、プールに妻を落としたことがある。烈火の如く怒られて、しばらく口を利いてくれなかった。今に同じことをしたら、お姫様はどんな反応をするのだろう。
 悪戯心に火がつきそうだったのだが、実際に実行して、お姫様が怒って口を利いてくれなくなったり、もし万が一に泣かれでもしたら、僕の心に受けるダメージが半端ではなさそうだったので、思い留まることにする。
 海水プールは一定時間に大きな波が起きるような仕様になっていて、その時を待ち侘びる人でごった返していた。お姫様がもっと奥が良いと駄々をこねるので、浮き輪に座ったままのお姫様を、人ごみを掻き分けて何とか奥へと押し込んでいく。ちょうど最深部近くに達した頃、水深は結構な深さになっていて、大人の僕の足でさえ、もうほとんど底につかないくらいだった。その時、急に波が立ち始めた。
 見る見る内に波は大きさを増し、辺りから歓喜の声が上がる。お姫様も例外ではなく、ものすごく喜んでいる。しかし僕はそれどころじゃない。足がほとんどつかない中、波が起こるせいでバランスは失われ、おまけに波が思いっきり頭の上から降ってくる。やがて一際大きな波が起きて、僕が心の隅で溺れることを覚悟した瞬間、
 それより早く、お姫様の乗る浮き輪がひっくり返った。
 あっという間にお姫様がプールに放り出される。
 お姫様よりも、僕がパニックに陥った。
 死に物狂いで慌てて水を掻き分け、ばたばたと水面でもがくお姫様を必死に抱かかえる。するとお姫様はすぐさまこっちの首に手を回して抱きついて来て、耳元で声を上げて笑った。
「楽しいっ! もっともっとっ!」
 こっちの心配など露知らず、お姫様は大喜びである。
 あまりの安堵に気が抜けた時、再び襲った大波に、今度は二人揃ってひっくり返ってしまった。

 すっかりびしょ濡れになってしまった身体をそのままに、売店で特盛りの焼きそばを買い、確保してあった休憩所のスペースに戻って二人で食べる。
 お姫様はまだまだ遊び足りないらしく、食べ終わると同時に再びプールへ飛び出していく。それについていくと、お姫様は急にぴたりと立ち止まり、
「あれやりたい!」
 お姫様が指差したのは、巨大なウォータースライダーだった。物凄く高いところから、物凄い急角度で伸びているスライダーである。端から見ても凄そうなそのスライダーを、若いお兄さんが猛スピードで滑り落ちて来る。水を弾き飛ばして滑り落ちたそのお兄さんは、下で待っていた仲間たちにガッツポーズをしながら笑いあっている。
「あれやりたい!」
 お姫様はもう一度言う。
 言うが、これは無理だと思う。下手をするとお姫様は体重の問題で、滑り降りる前にそのまま飛んで行ってしまうのではないかと心配になる。しかしここでダメと言うと機嫌を損ねる可能性もある。どうしようか、と悩んでいる間にもお姫様はスライダーの入場ゲートまで走り寄って行く。
 ここは心を鬼にしてでも、と思ったが、それ以前の問題として、お姫様の身長ではこのスライダーは使用できないことが判明した。胸を撫で下ろしながら、「仕方が無いよ。他のにしよう」と声を掛けた僕に対し、お姫様はぷりぷり怒ったまま、「じゃあ代わりにやって!」と言った。反論出来なかった。
 死ぬほど怖かった。下から見上げればある程度の角度はあったはずなのに、上からだとそれはもう、ほとんど垂直に思えた。スライダー係りのバイトのお兄さんが冗談交じりに、「腕は胸の前で交差しておいてください。手を出すと吹っ飛びますよ」と笑うのが、余計に怖かった。
 スライダーの下の方で、豆粒くらいの大きさのお姫様がこっちに手を振っているのがかろうじで見えた。怖い。死ぬほど怖い。死ぬほど怖いのだが、お姫様に格好悪い姿を見られるのは、それ以上に嫌だった。
 意を決する。手を胸の前で交差して、歯を食い縛る。覚悟を決めて、一気に走った。
 一瞬の出来事過ぎて、結局何がどうなったのかは、よく憶えていない。
 ただ、いつの間にかお姫様がスライダーを囲う柵のすぐそこに居て、目を輝かせて「すごい! すごい!」と大喜びしている。どうやら父親としてのメンツは保てたらしい。それに安堵しながらも、しかし僕はいつまで経ってもスライダーのコースからは立ち上がろうとはしない。足の震えが止まらないことを、お姫様に気づかれてはならないのだ。

 プールで遊び倒し、夕暮れが迫りつつあった時分に退散することにした。
 帰りに長島スパーランドの敷地内にあるアウトレッドを少しだけぶらぶらする。ちょうどアイスクリーム屋を見つけたので、火照った身体を冷ますのにもちょうどいいと思い、二人でアイスを買うことにする。そのアイスクリーム屋は鉄板でアイスを少しだけ焼きながら、店員が歌を歌うことで有名らしい。歌を歌いながらアイスを作るその姿に、お姫様はご満悦である。
 アイスを食べながら帰路に着く。
 いつものように、車に乗るとお姫様は眠りに落ちてしまった。
 その寝顔を見ながら、思う。
 平和な時間。幸せな時間。こんな時間が、いつまでも続いて欲しいと思う。
 でも、日が落ちて再び昇れば一日が過ぎ、一日が過ぎれば曜日は変わり、曜日が変わればやがてお盆休みも終わる。もう明後日からは、仕事が始まってしまう。だから、僕とお姫様が存分に遊べる夏休みは、もう終わってしまったのだ。
 
 明日は、お姫様と二人で、行かなければならない所がある。

     ◎

 目的地は、すぐ近所にある。歩いて二十分も掛からない。
 蝉の鳴き声が響き渡る並木道を、麦藁帽子を被ったお姫様と並んで歩く。途中でお花と、妻の好きだったみたらし団子を買った。
 他愛の無い話を繰り返しながら歩き、やがて見えて来るのは小さなお寺で、門の前で掃除をしていた住職さんに挨拶を交わし、裏手に回る。迷うことはなかった。足繁く通っているため、もう目を瞑っていてもそこに辿り着ける自信がある。
 一歩前に踏み出して、お姫様は笑った。
「――お母さん。元気ですか」
 目の前にあるのは墓石だった。
 僕の家の墓石。僕の妻、お姫様の母が眠る場所。
 お姫様が花束を差し出しながら、
「今からお掃除をします。少しだけ待っててね」
 てきぱきと掃除の準備を始めるお姫様。
 お姫様は、妻の顔を写真でしか知らない。妻は、お姫様が産まれて間もなく、病気でこの世を去った。
 残されたのは、途方に暮れる僕と、まだ言葉も話せない幼いお姫様だけだった。
 途方に暮れていた。絶望の中に叩き落された気分だった。生きる意味も目的も、一気に失ってしまったかのようだった。そんな僕に、再び歩き出す切っ掛けをくれたのは、他の誰でもない、このお姫様だった。薄暗い部屋の中で、状況なんてこれっぽっちも判らないだろうその中で、四つん這いで近寄ってきたお姫様は、僕の裾を引っ張って、笑った。
 その笑顔が、絶望の中にいた僕を引っ張り上げてくれた。
 何とか、立ち上がれた。立ち上がることが出来た。だから、もう二度と倒れないように、頑張った。頑張り続けた。妻のために。そして、お姫様のために、頑張り続けた。
 その結果として、お姫様は、僕が胸を張れるくらい立派に育った。
 僕の宝物。僕の生きる意味。僕の、道標。
 お姫様がこちらを振り返る。
「お水汲んでくる」
 バケツを持って駆け出して行くお姫様を見送った後、その場に腰掛けた。
 目の前の墓石に、笑いかける。
「――久しぶりだね。元気かい」
 返事は無い。判っている。判っているからこそ、続ける。
「僕達のお姫様も随分立派になっただろう。僕にも似てるし、君にも似てる。時折、お姫様を見てると君を思い出すこともあるんだよ。やっぱり親子っていうのは、すごいね」
 ポケットの中に手を入れ、それを取り出して、墓石の前に置いた。
「二日前に、水族館へ行ったんだ。お姫様には内緒だけど、これは三人お揃い。言ってもいいんだけど、少しくらい、お姫様には内緒で、僕と君の秘密を作っても良いと思うから、これは内緒にしてる。小さいことを内緒にするなって、君は怒るかもしれないけど」
 苦笑しながら、僕は空を見上げる。
 透き通るような蒼い空。夏の空だった。
「もっと胸を張れるよう、僕はまだ頑張るよ。だから、もう少しだけ、見守っててくれないかな」
 遠くから、僕を呼ぶお姫様の声がする。
 見ると、バケツを持ちながらふらふらと歩くお姫様がいる。
 腰を上げてお姫様を助けに行こうと歩き出そうとしたその時、置きっぱなしになっていたイルカのキーホルダーが少しだけ、光り輝いた気がした。
 太陽の反射だったのかもしれない。だけど僕には、それが――
 僕は、笑った。心の底から、笑った。
「――僕達のお姫様が困ってる。助けて来るよ」
 そう言って、僕は、僕達のお姫様の所へ、歩き出した。










2014/08/31(Sun)16:25:11 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり、いつも付き合ってくれる方はどうもどうも、給料泥棒の神夜です。
このお盆は、日月火水と仕事でした。特に出なくても何とかなったのに、いろいろあって出る羽目になりました。日曜日なんてこの物語の冒頭そのまんまです。死にたくなりました。ようやく明日から四日間だけ、休みです。だから今日はもういいんや、全部ほっぽり出すんや、ということで、朝からこれ書いてた。
構想時間は奇跡の零分、書き出しから書き終わりまでは過去最速の二時間半。短いけど、ひとつの物語を三時間も掛からずに書いたのは初めてだ。その分、何回か読み直しても誤字脱字がまったく減らないんだけど。残ってたらすんません。ところで、皆様って短編書く時、どれくらいの時間を要するのだろうか。神夜としては脅威的なスピードだったんだけど。
この物語は「いつもの神夜」と、「いつもじゃない神夜」の作品を足して割った感じだと思われる。物語性より、どちからと言えばお姫様とのきゃっきゃうふふであったり、何となく醸し出しているであろう、優しい雰囲気を読み取って頂ければと思います。うん。出てるか知らないけど。そして前作の「雀」で、年齢を明確化しろと何人にも言われたのに、主人公どころかお姫様の年齢すらぼかして突っ走る神夜って、なんて素敵――いや違う、違うんだ。今回はこれでいいと思ってるんだ。だから書いてないんだ。でもダメだったらごめんなさい。
本当は「なっきー奮闘記」の楠木の過去話とか、「残骸置き場」の90%OFFとか、そういうの書いてたんだけど力尽きた。もう知らん。知らんようひひ。
ちなみに神夜の嫁の中に子供がいることが判明しました。こんな可愛い娘だったらいいな。でも太郎だったらどうしよう。ゆっくり出来るであろう最後の盆休み、あと四日間はパーッと散在するぜヒャッハー。
そんなこんなで、誰か一人でも楽しんで頂けばと思い、神夜でした。

※誤字修正

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。