『口裂け女の記録』 ... ジャンル:ホラー 未分類
作者:浅田明守                

     あらすじ・作品紹介
人間が化け物へと変貌する苦悩と悲しみの物語

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   プロローグ
 私が最近になって知ったこと。
 一つ、人間の醜さ。あいつらは何かと群れを作りたがり、数の力で弱い者いじめをし、そのくせ自分の身に危険が迫ると平然と群れを裏切り自分の盾にしようとする。
 一つ、血の繋がりの脆さ。私が一番苦しかった時、両親は自分達の趣味や仕事に夢中で、私を助けてはくれなかった。私が"変わりかけた"時、大丈夫だよと抱きしめることをせず私のことを"化け物"と言って目を逸らした。
 一つ、昔から語られる妖怪と都市伝説で語られる化け物の違い。妖怪はもともと種として"そうある"ものだけど、都市伝説の化け物はもとからそうあった訳じゃなくて、"そうなっていく"ものだった。
 6月27日、雨がしとしとと降る陰気な日に私は口裂け女となった……。

   1.初めて人を殺した日
 私が他の子よりちょっとだけ口が大きいという事実に気が付いたのは小学校2年生の時だった。そのころ私のクラスでは、『ミカンを一口でどれくらいたべられるか』というのを競い合っていて、他の子たちが3分の1とか半分とか言っている中で私一人だけが楽々と一口でミカンを食べて見せて得意げな顔をしていた。
 自分の口が大きいことを気にし出したのは小学校5年生の時。周りの女の子達がだんだん色気づいて来て、私もクラスの男子達の視線を気にするようになってきていた。あの頃はちょうど学校で『口裂け女』の話が流行っていて、他の子よりちょっとだけ口の大きい私は事あるごとに「口裂け女だ、口裂け女が来たぞー!」とからかわれていた。
 それでもまだ、その頃はよかった。男子たちもしつこく言ってくることはあっても、それを理由に私を仲間外れにするような事はなかった。私のことを庇って男子と言い合いをしてくれる友達もいた。私だって、「これはチャームポイントよ!」と強がるくらいの余裕があった。でも……その強がりは長くは続かなかった。
 からかいがイジメへと変わっていったのは私が中学に入ったあたりからだった。
 切っ掛けはある事件だった。
 あの頃、私が住んでいた地域はちょっとした騒ぎの中にあった。連続通り魔殺人事件。後に口裂け女事件と呼ばれる事件がちょうど起きていたのだ。
 子供ばかりが狙われ、全身めった刺しにされた上で口をハサミのようなもので切り裂かれるというこの事件の一番最初の被害者は私が通っていた学校の生徒。より正確に言うなれば私のクラスメートだった。
 しばらくの間、私のクラスは葬式ムードが抜けなかった。中にはショックで学校を休んでしまう子もいた。授業中に急に泣き出す子も大勢いた。あの事件は私たちにとってそれほど大きなものだったのだ。
 それでも、一週間が過ぎ、二週間が過ぎた頃になるとみんなだんだんと普段の調子を取り戻してきて、一ヶ月もするとちらほらといつもの軽口が聞こえてくるようになった。事件は未解決で、犠牲者もまだ出ていたけれども、学校は少しづつ明るさを取り戻していた。でもそれが、私にとっての最初の不運だった。
 明るさを取り戻してからというもの、学校は通り魔事件の噂で持ち切りとなっていた。曰く、商店街の裏路地に通り魔は潜んでいる。曰く、通り魔は薔薇の花の香りが嫌いで、薔薇のポプリを持っていると襲われない。曰く、犯人はイジメられっ子の中学生だ。そんな他愛のない噂話だ。
 その中にこんなものもあった。
 曰く、犯人は人間ではなく口裂け女だ。その証拠に殺された人は皆、ハサミで口を裂かれている。
 その噂は本来であれば時間と共に忘れられる他愛もない噂話で終わるはずだった。でも、うちの学校には口裂け女(私)がいた。恐怖と憎悪を向ける対象が確かに存在していたのだ。それが、すべての不幸の始まりだった。
 ある日、私は見知らぬ上級生に突然本を投げつけられた。眼鏡をかけた凄く真面目そうな女の子だ。知らない人のはずなのに、どこか見覚えがある顔。
 その子は凄い形相で私を睨みつけながら、すれ違いざまに「あんたのせいで妹は……!」と呟いて去っていってしまった。
 しばらくして、ようやく私は彼女が死んだクラスメートのお姉さんであることに気付いた。そして彼女が残していった言葉の意味も同時に気付いてしまった。つまり、口裂け女(私)に妹は殺されたのだと、彼女はそう言ったのだ。
 その日、私は初めて口裂け女という言葉に対して強がりを返すことが出来なかった。
 それからしばらくして、口裂け女(私)に関するひそひそ話が学校内で少しづつされるようになってきた。ひそひそと指を指されるのは酷く落ち着かなくて、最初の頃は『口裂け女』という単語が聞こえる度に「私のことを呼んだかしら?」なんて強がりを口にしながらひそひそ話をしているクラスメート達に突撃していったが、一週間もしないうちにそんな強がりも利かなくなってきた。
 だんだんと私はクラスから孤立していった。
 ひそひそ話と『口裂け女』という言葉にノイローゼ気味になり、学校での口数が減っていった。それまでは大勢いた友達も、私の近くにいて噂の被害に遭うのが嫌だったのか、気付けば一人また一人と離れていった。
 そして、ついにイジメが始まった。
 上履きが隠された。見つかったのは放課後になってから。ハサミでぼろぼろにされた上履きは生ごみと一緒にゴミ箱に捨てられていた。
 ノートや教科書が切り刻まれて使い物にならなくなっていた。親にばれないよう買い直したせいで私のお小遣いはすっからかんになってしまった。
 机や鞄に落書きをされた。『人殺し』や『死ね』という言葉よりも『化け物』という言葉が一番辛かった。
 階段から突き落とされた。幸い大した怪我はしなかったけれど、どこからともなく聞こえた舌打ちが私の心を砕いた。
 自分で言うのもどうかとは思うけれども、これでも私は頑張った方だった。
 何度も先生に相談した。でも先生は私に励ましの言葉を言うばかりで、具体的に何か行動してくれるようなことはなかった。やったことといえば、HRの時間にイジメについて考えるという授業をする程度。もちろん、それで私へのイジメがなくなるなんてことはなかった。
 親にさりげなく相談しようともした。でも両親は何かにつけて忙しいと言って、自分の仕事や趣味ばかりを優先して、私の話なんて一度たりともまともに聞いてくれはしなかった。
 そうして私はどんどん追い込まれていって、ついには自殺をしようとさえした。
 まだ誰も来ていない早朝の学校。ハサミで口を切り裂いて、最後に喉を一突きして、教室のど真ん中で死んでやる。そんなことを考えていた。
 でも、自分の考えをいざ実行に移そうとして、ふと手が止まった。
 死ぬのが怖いわけじゃない。痛いのが嫌なわけでもない。ただ……バカらしくなってきたのだ。
 どうして私が死ななければいけないのか。私は悪いことなんて何一つしていないのに、どうして私が自殺なんてしてやらなきゃいけないんだ。

 ―――悪いのは誰だ?
 根拠もない噂に振り回されて、『口裂け女』という軽口を真に受けて、私に憎悪を向けていったあいつらだ。
 ―――死ななければいけないのは誰だ?
 周りに流されて、何の罪悪感も抱かずに私に危害を加え続けたあいつらだ。
 ―――私がしなければいけないことは何だ?
 それは…………

 心が黒く染まっていく。これまで溜め込んできた憎しみが外に漏れだそうとしていた。
 自殺ではないもう一つの選択肢が、抗いがたい甘美な囁きが、頭の中でこだまする。

 ―――そんなに私を口裂け女にしたいなら……

 教室のドアが開く。入ってきたのは、噂が流れると同時に私から離れていった薄情な元友人。
 彼女自身は私に何か危害を加えたわけではない。ただ、イジメられる私を傍観していただけだ。その時もそう。何をするでもなく、少しだけ気まずそうに私から顔を背けて自分の席に座ろうとしていた。

 ―――そんなに私を化け物と呼びたいのなら……

 でも、逆に言えば彼女は"直接危害を加えなかった"だけだ。何もしなかったのだから悪くない、なんて道理が通らない。
 彼女もまた、あいつらと同類だ。

 ―――なってやろうじゃないか、口裂け女に。

 みちみちと何かが裂けるような音がした。
 私は右手にハサミを持ちながら、左手で自分の口元を隠しながら、ゆっくりと元友人に近づいてこう尋ねる。
「ねぇ……私って、きれい?」

   こうして、私は初めて人を殺した。


   2.化け物と私と壊れた心
 気が付いたら私は自宅の前に立っていた。
 怯える元友人にハサミを振り上げたところまでは覚えているけれど、そこから何がどうなったのかはまるで思い出せない。あるのは血で真っ赤に染まった制服と乾きかけた血が付着しているハサミだけ。実感はなく、ただ人を殺したと言う事実だけがそこにあった。
 血に濡れた制服が酷く不快だった。とにかく着替えたい。ついでに口元を隠すマスクも欲しい。このまま外を歩いていたら警察に捕まるか、あるいは見世物小屋に売り飛ばされるかしてしまう。
 そんなことを考えながら、家の鍵を開けて自分の部屋へと急ぐ。途中、リビングから「何かあったの?」という母の声が聞こえてきたが無視する。何があったかなんて、私が知りたい。気が付いたらクラスメートの一人を殺していた。私が知っているのはそれだけだ。
 部屋に戻って真っ先に血まみれの制服を脱いで適当な服に着替える。ついでに鞄から教科書やらノートやらを全部放り出して、代わりにタンスの中に遭った服を詰め込めるだけ詰め込んだ。普段は意識していなかったけれども、学生鞄は存外多くのものを詰め込めるものだと、変なところで感心していた。
 次に机の引き出しにしまいこんでいたありったけのお金を財布に入れる。本当はお金に変えられそうな物は全部持っていきたかったけれど、余計なものを入れるだけのスペースは鞄に残っていなかったし、そもそもこの部屋にそこまでして持っていくほどの価値があるようなものはなかったので諦める。
 そして最後に、以前花粉症予防のために買ってきた大きなマスクを探す。家に入ってから、私はまだ一度も鏡を見ていなかった。意識的に見ることを避けていた。自分の口が今どうなっているのかを見て、認めてしまうのが怖かったからだ。おそらくは見て気持ちのいいものではないだろうし、できることなら今後とも見たくはない。それ故に、マスクは絶対的に必要なものだった。
 ほどなくしてマスクは見つかった。少しだけホッとする。これで自分の口を見なくて済むと、そう思っていた。でもその直後にドアが突然開いた。
 そこにいたのは母だった。質問に答えずいそいそと部屋に入っていった私を心配して見に来たのだろう。こんなことになるのだったら適当に答えておけばよかったと、少し後悔した。
 母はまず、床に投げ捨てられていた血まみれの制服を見てぎょっとしていた。まあ、誰だって自分の子供の部屋に尋常じゃない量の血が染み込んだ制服が脱ぎ捨てられていたらびっくりするだろう。そしてまず最初に子供の心配をする。事件や事故に巻き込まれてどこか大怪我を負っているんじゃないかと。
 私の母も最初はそうだった。血まみれの制服を見て、「どうしたのこれ!? どこか怪我をしたんじゃ……」と掴みかからんばかりの勢いで顔をあげて、その場で硬直した。
 母の視線は私の口に固定されている。娘を心配する色から一転、化け物を前に怯える目になる。
 私は自分の口を隠すことも忘れてしばし呆然とした。
 実の親に怯えられた事が悲しかったのもある。でもそれ以上に、母の怯えた瞳を通して自分の姿をはっきりと認識してしまったことが主たる原因だった。
 母の瞳に映っていた真っ赤なワンピースに頬まで裂けた口を持つ少女は、まさに噂に聞く口裂け女そのものだった。
「ば、化け物……」
 そんな呟きをきっかけに、私は我に返った。目の前には怯えながらも後悔しているような表情の母。
『化け物』
 確かに母は私を見てそう言った。
『化け物』
 心がすうっと冷えていくのを感じた。
 怒りはない。母の言葉はまったくもって間違っていないのだから。母の瞳に映っていた少女は、化け物としか呼びようがない存在だったのだから。
 ただ、言いようのない悲しさだけが残った。後悔の色が次第に強くなっていく母の目を見ているとひたすらに悲しくなった。
 どうしようもない喪失感があった。人間としての自分が無くなり、ぽっかりと胸に穴があいたようだった。そしてその穴が開いた部分に得体の知れないどろりとした感情が流れ込んでくる。
 私はそれに耐えきれなくて、素早くマスクを身に着けると無造作に部屋の窓を突き破って外に出た。私の部屋があるのは二階で、その窓から道路に飛び出たにもかかわらず、私は怪我一つなく道路に立っていた。その事がまた、自分が人間ではなくなってしまったことを表わしているようで、どうしようもなく悲しくなった私はその場から走って逃げ出した。

 認めてしまった。
 自分が化け物であることを。
 認めてしまった。
 もうこれまでのような『普通の生活』に戻れないということを。
 認めてしまった。
 あの時……母を殺そうとしていた自分を。

 空っぽになった心が黒く塗りつぶされていく。
 自分が得体の知れないどろりとした感情に押しつぶされていく。
 私が、私でなくなっていく……。

 ―――憎い。

 どこからともなく流れ込んでくる誰かの感情。

 ―――憎い。

 妬み、憎しみ、怒り、恨み、ありとあらゆる負の感情が勝手に流れ込んでくる。『私』を殺そうとする。

 ―――憎い。

 私でない誰かの感情に塗りつぶされていく。私が私以外の何かに上書きされていく。心が化け物のそれに変わっていく。

 ―――難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い難い憎い

「あれ? あそこにいるの口裂け女のやつじゃね?」
「おっ、ホントだ。おい口裂け! お前こんなところでなにやってんだよ」
 声が聞こえた。聞きなれた"元"クラスメートの声。いつも私のことを口裂け女だと言ってイジメてきた男子三人組の声。
「そういや今日の臨時休校ってさ」
「あぁ、また誰かが殺されたせいだってさ。しかも今度は学校の中で」
「こっわいよなー。おい口裂け、お前いいかげん自首してこいよ。私は人を殺しました―って」
 いつものように好き勝手なことを言って私を囃したてる。いや、今回に限れば事実を言ってるのか。まあどうでもいいことだけれども。
「おい、口裂け! 無視してんじゃねーよ!」
「お前、化け物のくせに生意気なんだよ!」
「そうだそうだ! てかなんで生きてんのお前?」
「ちょっと最近調子こきすぎだよなこいつ」
「ここらへんで一度身の程ってやつを思い知らせてやろうぜ」
「殴る蹴るじゃつまんねぇな。いっそ剥いちまうか!」
「てか何でこいついっちょまえに服なんて来てんの? 化け物に服とかいらなくね?」
 囲まれる。急な休校、連続殺人、身近な誰かの死亡。そんな非日常のせいか、いつも以上に興奮していた。性的なものが過分に混じる下卑た視線を感じる。
 あぁ、でも本当にそんなことはどうでもいい。
 私のやるべきことは決まっているのだから。
「おい、何かいったらどうだ? あぁ、悪い悪い。怖くてなんも―――」
 下卑た目をしたまま、無防備に近付いてきた彼の手を取る。逆の手には自分でも気付かないうちに握りしめていた乾いた血が付着するハサミ。
 突然のことでぽかんとしている彼の手を引いて、その首筋へと無造作にハサミを突き立てた。
 躊躇いはなかった。相手はイジメの中核。それになにより、二人目だ。
 柔らかな肉を切り裂く感覚がハサミ越しに伝わる。血が噴水のように吹き出て、あたりを赤く彩る。私を囲っていた他の二人はおろか、刺された張本人でさえ未だ何が起きたのか理解できずに、ぽかんとした表情で私と、血で赤く染まっていく道路を見ていた。
 私はそんな彼に、自分が血に染まるのも厭わずに、近づいて耳元でそっと囁く。
「私って、きれい?」
 お決まりのセリフを言ってマスクを外す。"化け物"の象徴を見せつける。
「ねぇ……私って、きれい?」
 瞬間、残った二人の顔が絶望の色に染まる。
 顔を真っ青にして、訳のわからない言葉を叫びながら"友達だったもの"をその場に見捨てて逃げ出そうとする。
 でもその動きは呆れるほどに遅い。恐れで足が竦んで思うように動かせないのだろうか。
 ……いや、私が早くなっただけか。
 口裂け女は100mを6秒で走りきる。そんな話を思い出しながら私は"ゆったり"と二人の前に回り込む。
 まずは回り込まれてもなお逆方向に逃げようとしていた方から。さっきはあまりにもあっけなさ過ぎたので、今度はじっくり、ねっぷり、焦らすように、見せつけるように、バラす。耳を削ぎ落して、唇を剥ぎ取って、口の端に少しだけ切れ込みを入れてからじわじわと、強引に、素手で口を裂く。
 みちみちと"何かが切れる音"がして、再び生温かい血を全身に浴びる。今回は前の時のような不快感は感じない。それどころか快感すら覚える。恐怖と絶望に歪む顔が愛おしく、肉を引き裂く音と断末魔の叫びが耳に心地よく、降り注ぐ赤い飛沫に心を奪われる。
 口元には自然と笑みが浮かんでいた。もう一人はどんな表情を浮かべ、どんな叫び声をあげてくれるのかと心が躍った。
 だから、恐怖と絶望のあまりに自らの舌を噛み切って息絶えたもう一つの"肉"を見た時、私は酷く落胆した。苛立ちすら感じた。これじゃあ、つまらない。勝手に死なれたんじゃあ、十分な復讐をしてやることもできない。
「復讐……あぁ、そうか。復讐か……」

 結論から言えば、私は怖かったのだ。未だ脆弱な"自分"という存在が、見知らぬ誰かの感情によって塗り潰されてしまう恐怖。自分が自分でなくなるという絶望。それを回避するためには、感情をはねのけ、"自分"を補強する何かが必要だった。

「忘れてた……復讐、しなきゃ。私を"口裂け女"と罵った全ての人間に。私を"化け物"にしようとする全ての存在に」

 そして、私が"自分"を守るために選び取った、もっとも安易で、最も強力な自身への補強。それが復讐だった。
 すべては壊れそうな自分を、心から化け物に変わってしまいそうな自分を守るため。

「探さなきゃ。次の……私が私であるために……」
 3つの"肉"を処理した私は、次の得物を探していた。
 次は学校? いや、さっきの話だと学校には人がいない? じゃあどこに……?
 行き先も定まらぬままふらりふらりと歩いていく。
 頭にあるのは『復讐』の2文字だけ。すべては自分を守るために、自分が自分であるために、ただそれだけを考える。


 だからこそ、"誰かの感情"が消えていたことにも、赤い水溜りに映る壊れ切った笑みを浮かべた化け物の姿にも、私は最後まで気付くことができなかった。

   こうして、私は化け物へと変わっていった。


   3.口裂け女
 また、記憶が途切れた。気が付いたら私はトイレの一室で立ちつくしていた。
 服装は、家を出る時に鞄の中に適当に詰めてきたはずの一着。それもところどころ赤黒く汚れていた。
 鞄の中には入れた覚えのない新品の真っ赤なワンピース。そして鈍く光るハサミが1つ。
 どれだけの間の記憶が無くなっているのかはわからない。ただ……また人を殺したのだと直感的に理解した。それも一人や二人じゃない。もっと大勢の人間を……殺した。それだけ多くの人間の肌を切り裂く感覚が、肉を引き裂く感触が、断末魔の叫びが、私の身体に染み着いていた。
 そのことを当たり前のように受け入れている自分がいた。血で汚れた服を不快に思っていない自分がいた。また一歩"化け物"に近づいている自分がいた。
 記憶が途切れる前にはあれほど強く抱いた『復讐』の二文字が、今はもうあやふやでぼんやりとしたものになっていた。自分が誰に復讐しようとしていたのか、なぜ復讐しようとしていたのか、わからない。ただ胸の内に"何か"が憎いというぼんやりとした感情だけが残っていた。
 そんな事実から目を逸らすように、私は血で汚れた服を脱ぎ捨てて新品の真っ赤なワンピースに着替える。汚れた服はハサミで細かく切り刻んでトイレに流すことで処分する。
 トイレを詰まらせないよう、切っては流し切っては流しを繰り返す。
 空っぽになってしまった自分を埋めるかのように、そんな単純作業を無心にこなしていった……。

 外は今にも雨が降り出しそうな曇り空だった。場所は……駅前の公園。近くの大型ビルについているスクリーンでは6月27日のニュースが流れていた。
 6月27日……私が家を出たのが24日のことだったから、おおよそ三日分の記憶が途切れていることになる。それだけの長い間、私がどこで何をやっていたのか、考えるだけで恐ろしい。
 ニュースでは通り魔の続報をやっていた。
 犠牲者は日に日に増加し、ついには10人を超えたらしい。最後に流れた犠牲者一覧の中に、何人か知った名前が入っていた。全員ではないけれども、刺し殺した、切り裂いた、引きちぎった感触を覚えている相手も何人かいた。
 そしてそのニュースの最後に嫌と言うほどに見慣れた少女の顔が映し出される。人よりも少しだけ口が大きくて、でもそのことを全く気にしていないかのように、大口を開けて笑っている少女の顔写真だ。
 警察がその少女の行方を探しているという旨のテロップが流れる。行方がわからない事件の犠牲者の一人として……ではなく、事件の重要参考人として。
 今までは必死になって目を背けてきた。
 誰かを殺したのは私じゃなくて"化け物"なんだと。確かに人を殺した感触はこの手に残っているけれども、それをしたのは私じゃなくて私の中にいる"化け物"がやったことだと。
 だから私は人殺しなんかじゃないと。
 そうやって、現実から目を背けることで自分を守ろうとしてきた。
 でも……あぁ、もう認めるしかない。私は、人殺しなんだと。人殺しの化け物に変わってしまったんじゃない。化け物だから人を殺したんじゃない。
 私は、"化け物"で人殺しなんだ。
 今まで自分を保っていた最後の砦が音を立てて崩れる。記憶の途絶に、覚えのない人殺しの感覚に、絶えず流れ込んでくる得体の知れない"誰かの憎悪"に押しつぶされないように、必死になって守ってきた砦がなくなる。それと同時にぷちり、という"自分"が"化け物"に押しつぶされる小さな音が聞こえた。
 目の前が真っ暗になって、心には誰かの憎悪が流れ込んできて、押しつぶされた"自分"を上書きしていく。
 憎い。
 その感情だけが私の中でヘドロのように重く、暗く、蠢く。ぶつける先のない憎悪は、私の中でひたすらに巨大化していく。
 巨大化した憎悪は質量を持って、私の身体を縛りつける。
 身体が動かない。指先一つ、動かすことができない。憎い、憎いと怨嗟の声ばかりが身体の中を駆け巡る。
 いつの間にかしとしとと細かな雨が降り始めていた。視界の端では、雨に急かされて帰路を急ぐ人の姿が見えた。中には雨の中、傘も差さずに凍りついたかのように立ちつくしている私を怪訝そうな目で見てくる人もいた。
 それでもなお、私は動けなかった。
 それほどまでに憎悪は重く、誰かにぶつけずにして人が背負い切れるようなものではなかった。ましてや、"自分"が潰されてしまった今の私にそれだけの憎悪を背負い切れるはずがない。
 それなのに……しばらくして私の身体は、不意に金縛りが解けたかのように動かせるようになった。
 憎悪が消えたわけではない。憎悪の重みに身体が慣れたわけでもない。
 身体が動くようになった理由は単純明快だ。
 憎悪をぶつけるべき相手が目の前に現れた。ただそれだけ。
 私の視界の端を通っていったのは、眼鏡をかけた真面目そうな少女。私のことを最も憎み、そして同時に私が最も憎んでいる相手。私が"化け物"になる最初のきっかけを作った少女。通り魔事件の一番最初の被害者、そのお姉さんだった。
 彼女はまだこちらには気付いていない。塾の帰りなのだろうか、重たそうな鞄を持ちながら雨に急かされるように歩いている。
 殺すだけなら、今すぐにでもできる。近づいて、首を切り裂く。それでけで彼女はあっけなく死ぬだろう。
 でも、それじゃあ私の気が済まない。殺すだけでは、この憎悪は軽くならない。
 だから、まだ殺さない。ここでは、殺さない。殺すのは、もっと相応しい場所についてからだ。
 私の存在に気付いていない彼女の後を音もなく付いていく。
 駅前の商店街を過ぎ、住宅街を抜け、次第に人影が少なくなっていく。
 そして小さな路地に入ったところでついに私と彼女の二人を除き、辺りには誰もいなくなった。
 その路地は、彼女が住む家に向かう近道であり、同時に彼女の妹、つまり私のクラスメートが殺された場所でもあった。
 彼女を殺すのにこれほど適した場所はない。
 彼女が路地を通り過ぎる前に、彼女を追い越し、足を止め、振り返る。
 私を認識した彼女の表情が凍りつく。例えるならば、まるで化け物を見ているかのような表情だ。
 彼女が今さら私を化け物を見ているかのような表情で見ている。その事実がなんだかおかしくて少し笑ってしまう。
 だって、彼女は一番初めに私を人殺しの化け物として扱った人間なのだから。私が"化け物"だということは、他の誰よりも彼女が一番よく知っている。
「た、たすけ―――」
 「助けて」と言おうとした彼女の言葉に被せるようにして問いかける。
「ねぇ……私って、きれい?」

 こうして、私は初めて自分の意志で、自分の手で、人を殺した。
 後に残ったのは全身をめった刺しにされ、口をハサミで大きく切り裂かれた、妹と全く同じ死に方をした肉の塊。それだけだった。
 初めて人を殺した日とは違い、返り血に濡れた服を不快に思うようなことはなくなっていた。2回目の時のような苛立ちもない。だからといって高揚感がある訳でもなければ後悔の念に駆られるわけでもない。
 何も、感じなかった。これまでとは違い、自分の意志で、自分の手で、人一人殺したと言うのに何も感じなかった。強いて言えば、何も感じなかったことに対して少しだけ悲しくなった。それだけだ。
 最後に物言わぬ肉の塊を一瞥して、私はその場を離れていった。
 返り血は雨が流してくれるだろう。行き先は、まだ決まっていないけれどなんとかなるだろう。考えることは、次に誰をどう殺すのか。ただそれだけでいい。
 なにせ、私は"化け物"で"人殺し"なのだから……

 6月27日、雨がしとしとと降る陰気な日。私は自らの意志で口裂け女となった。

   4.盲目の少年
 あれから、どれほどの時が流れただろうか。
 どれほどの人を殺しただろうか。
 10より先は覚えていない。
 テレビでは毎日のように私の顔と名前が報道されていた。3日ほど前からはついに呼び名が"重要参考人"から"容疑者"へと変わっていた。
 それでもなお、誰かに通報されるということはなかった。
 姿を隠すために特別なにかやっている訳でもない。せいぜいが無駄に目立ってしまう口を隠すために大きめのマスクをしていることぐらい。
 にもかかわらず誰も私に気がつかない。
 目の前に噂の連続通り魔がいるというのに、笑って道を歩いていく。
 つまり、この世界はそういうものなんだ。
 誰もが自分のことにしか興味を持っていない。他人なんてどうでもいい。
 だから、平気で他人を陥れられる。
 だから、他人の痛みなんてわかるはずがない。
 だから……こんな化け物が生まれてしまう。

 あてもなく町を歩く。誰も私を見ない、誰も私を気にしない町を。
 幽鬼と化した私はただ人を殺すために存在し、殺す相手を探すためだけに町をさまよった。
 人を肉の塊に変えことにもはや何の感慨も抱かなかった。命を奪うことに、何か特別な理由を求めることもなくなっていた。
 たまたま目が合ったから、偶然その気になったから。
 人の命の価値なんてその程度のものでしかない。たまたま、偶然、それで簡単に失われてしまう。
 そして……その日、不幸な偶然に選ばれたのは病院前で出会った色白の少年。
 7月だというのに長袖長ズボンを着て、頭には大きな麦わら帽子。手には真っ白な杖を持っている。肌はどこか青白く、今にも倒れてしまいそうな印象の少年だった。
 ゆっくりと近づき、追い越し、くるりと振り返る。




 あとはお決まりのセリフを言って、殺すだけ。逃げることはできない。命乞いをする猶予も与えない。ただ、機械的に殺す。それだけだ。
「ねぇ……私って、綺麗?」
 綺麗、と言えばマスクを外した上で口を裂いて殺す。綺麗でないと言えばハサミで刺し殺す。どう答えても結局は殺されてしまう。
 我ながら理不尽だとは思うけれども、口裂け女というのはそういう"存在"だから仕方がない。
「ねぇ……綺麗?」
 答えない少年に対してもう一度問いかける。
 そのとき私は、初めてその少年の顔を真正面から見た。そして、奇妙な懐かしさと、微かな違和感を感じる。
 なぜなら、彼の顔に恐怖の色はなく、ただ静かに目を閉じてうっすらと微笑みすら浮かべていたのだから。
「わかりません。だって僕、目が見えないですから」
 何でもないことのように彼は言った。
 そんな彼に、私は何も言えなくなってしまった。どうすればいいのか、まったくわからなくなってしまった。
 そもそもが想定外の事態だ。綺麗か綺麗でない。それ以外の解答に対してどうすればいいのかなんてわからない。"存在"が固定化された化け物は想定外の出来事に酷く弱いらしい。
 そんな私に、彼は少し小首を傾げながら言葉を続ける。
「あぁ、でも……きっと綺麗だと思いますよ。だって、とても綺麗な声をしていますから」
 そう言って、杖をつきながらよろよろと病院の方へと歩いていく。
 私はそれをただ見送ることしかできなかった。
 口裂け女なら、迷わず彼を追って、殺していただろう。盲目だろうが"化け物"には関係のないことだ。"化け物"には思考なんて存在しない。ただ『出会ったものを殺す』という結果があるだけだ。
 でも、私は……"化け物"になりきれていない私が、彼を殺すことをためらった。彼を殺したくないと思ってしまった。
 あぁ、今にして思えばそれが最初で最後の間違いだったのかもしれない。
 その日、私は盲目の少年と出会い、そして全てが始まった……


 次の日、私は病院の前にいた。あの少年と出会った病院の前だ。
 自分がどうしてそんな所にいるのか、自分でも理解できなかった。
 私は、彼に会いたいのだろうか? 会ってどうするというのだろうか?
 会って話をしたい? それとも殺す? はたまたただ会いたいだけ?
 わからない。だからこそ、私はここにいるのかもしれない。彼に会って、自分が"化け物"なのか"私"なのかを知りたいが故に、こうしているのかもしれない。
 どれほどの時間、そんな自問自答を繰り返しただろうか。
 いつの間にかあたりは夕焼けの赤に染まっていた。本当に、どれだけの時間ここにいたのだろうかと思わず自分に苦笑してしまう。
 本当に、私はいったい何を期待していたのだろうか。
「そもそも、ここにいれば彼に会えるって保証はどこにもないのにね……」
「誰を待っていたの?」
 思わず口にしてしまった独り言に返答があった。
「その声は……昨日のお姉さんですね。またお会いできて嬉しいです」
 そこにいたのは、まさしく私が会いたいと思っていた少年だった。白い杖をつきながら、よろよろとこちらに向かって歩いてくる。
 その姿は見ていてあまりにも危なっかしくて、幾度となくしてきた殺すとか殺さないとか、そんな物騒な自問自答のことなんてすっかり忘れて、思わず彼のところにかけよって手を取っていた。
「ごめんなさい、まだ慣れてなくて……見えなくなったの、最近のことだから」
 最近見えなくなった。ということは事故か何かで視力を失ったのだろうか? 確かに彼の動き方はたどたどしくて、"目の見えない世界"に慣れているようには思えない。
「事故にでもあったの?」
 そう聞くと彼は弱々しく笑って答えた。
「そういう病気なんです。身体の五感を少しずつ失っていって、最終的には死んでしまう。僕を診てくれてる先生は『アンノウン』って呼んでます」
 正式な名前は難しくて覚えられなかったんですけどね、と笑う彼の姿は酷く儚げで、とても悲しかった……。


 それからしばらく彼と話し、病院の入り口まで送り、そこで別れた。
 彼と一緒の時間はとても優しくて、懐かしくて、涙が出てしまいそうなくらい幸せな時間だった。
 私が"化け物"になる前は当たり前のようにあった優しい世界がそこにはあった。
 だからこそ、彼と別れてしばらくしてから、私は久々に吐き気を覚えた。彼と過ごした優しい世界と、自分の暮らす残酷な現実との差があまりにも激しくて。彼の綺麗な手と、自分の血にまみれた手があまりにも違い過ぎて。初めて人を殺した時と同じ、あるいはそれ以上の不快感。
 それを誤魔化すために、その日の夜は彼の抱える病気について調べることにした。
 ネットカフェを利用するのは初めてのことで、上手く使えるかどうかわからず不安に思っていたけれど、なんてことはなかった。
 少しだけ、受け付けて不審そうな顔をされはしたものの、お金を払ったら無言で席に案内された。普通こんな時間にこれくらいの年齢の子が店に来たら怪しみそうなものだけれども……これもシステム化された社会の問題というやつだろう。いつもならそのことに少し苛立ちを覚えただろう。こんな社会だから"化け物"が生まれるんだと。
 でも、その日ばかりは"こんな社会"というやつに助けられたのかもしれない。まあ、それはそれで少し腹立たしくはあったけれども……。
 結局その日の夜は、吐き気を抑え込みながら成果の上がらない調べ物をするうちに過ぎていった。


   5.狂気と幻覚
 あれから、昼間は彼と会ってなんてことのない話をし、夜にはネットカフェに行って彼の病気について調べるという生活が続いた。
 いつしか、私にとって彼との会話は掛け替えのない時間になっていた。待ち合わせ場所になっている病院前の公園に向かう足取りがやけに軽くて、浮ついている自分の心が現れているようだと思わず苦笑してしまうほどだ。
 あれ以来、一度も人を殺していない。それまで人殺しに割いていた時間はすべて彼の病気、『アンノウン』について調べる時間に当てていた。ネットで、図書館で、考えつくありとあらゆる方法で、彼の病を癒す方法を探していた。もっとも、それでわかるのは目のサイボーグ化がどうとか、AAQがどうとか、私には難し過ぎて何の意味もなさない文字の羅列だけだったけれど……
 自分が調べた程度でどうにかなるなんて思っていない。あれだけ大きな病院で、何人もの医師達が、ありとあらゆる手段で調べてもどうにもならない病気。治療法どころか原因すら不明のアンノウン。そんなもの、私がどうにかできるはずがないなんてわかっている。
 それでもなお、何かせずにはいられなかった。無駄だとわかっていても、彼のために少しでも何かしてあげたかった。
 どうしてここまで意固地になっているのか、自分でもわからない。
 私にとってかけがえのない時間をくれる彼を守りたいのか、あるいはまったく別の理由なのか……
 考えれば考えればわからなくなって、胸がもやもやとする。少し前から見れば考えられないような穏やかな日々が続いているのに、どうしても心がざわつく。
 私の心に、久しく忘れていた得体の知れない感情が生まれる。
 それは恋愛感情とか、親愛の情とか、そんな甘くて優しいものじゃない。もっとドロドロとして、暗くて、汚らしい感情。
 その感情が何なのか、私は知らない。知りたく、ない。
 でもそれは、彼と会う度に私の中で膨れ上がっていって、そして否応なしに自覚させられる。
 優しくて儚い彼のことを大切に思っているのに、大切な時間を私にくれた彼を愛おしくすら感じているのに、私の胸に湧き上がってくるのは私が殺した"肉塊"たちに私が向けていたものと同種の『憎しみ』だった。
 彼が憎い。私はこんなにも汚れてしまっているのに、穢れ1つない彼が恨めしい。
 まっさらな彼をこの手で穢すことができたら、それはどれほど気持ちいいのだろうか。
 青白い肌を切り裂き、舌を引き抜き、全身ありとあらゆる部位をめった刺しにして赤く染め上げる。
 その光景は考えるだけでも身震いしそうなほどに美しく、甘美だ。
 あるいは未だまっさらな彼に『人殺しの快楽』を教えるのもいい。
 瀕死の人間を、あるいは手足を潰して抵抗が出来なくなった肉塊を彼に与えて、自分の手で、自分の意志で、命を刈り取らせることができたら……。
 肉を切り裂く感触を、骨を断ちきる音を、絶望に染まった肉塊の断末魔を、彼の身体に覚え込ませることができたら……。
 それは狂おしいほどに甘美な誘惑。まったくもって耐えがたい、悪魔の囁きだった。
 その誘惑に耐えられるような人間であったのならば、きっと私は化け物になんてならなかったのだろう。
 あるいは、心までは化け物になるまいという意志さえ持ち続けていれば、きっと誘惑を振り切ることができたのだろう。
 あぁ、でも私には……
 憎しみに流され化け物になり、状況に流され人殺しを受け入れてしまった私には…………

「どうかしましたか?」
 ふと、彼に声をかけられて我に帰った。
 どうにも長い時間上の空だったらしい。彼がどこか心配そうな顔で私を見ていた。
「……なんでもないわ。ちょっと考え事をしていただけ」
「ならいいんですが……僕の話、退屈でしたか?」
「そんなことないわ。ただ……ほら。ここのところ暑いから、こんなところで話していて大丈夫かなって」
 取り繕うようにそう言うと、彼は少し申し訳なさそうな、そしてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「大丈夫です。僕、こう見えて暑いのには強い方なんですよ。って、まあこんな青白い顔をした人間が言っても信用ゼロですけどね」
 笑いながらそう言う彼に、私は笑い返そ―――

   青白い肌が裂け、彼の身体が赤く染まる。
   その胸には一丁の鋏。元は銀色の、今は数多の血を吸ってほんのり赤く変色した私の鋏。
   彼は何が起きたのかまるで理解できないといった顔で、私を見ている。
   口は何かを言いたげにパクパクと動き、手は何かを求めるように虚空に伸びている。
   そして私は、彼の血を全身に浴びながら恍惚の表情を浮かべ、ゆっくりと口を―――

「っく……!?」
 ありもしない光景を見て、一瞬顔をこわばらせる。
 幻覚や妄想というには、あまりにもそれは鮮明だった。それこそ、目の前の光景と少し前にあった光景、そのどちらが現実だったのか疑ってしまうほどに。
 そして同時に暗い感情が爆発的に膨れ上がり、強烈な吐き気を感じる。
 "化け物"としての感情が"わたし"の感情を押しつぶし、欲望のまま行動しようとする。
 咄嗟に、適当な理由を付けてその場から離れる。具体的に何をどういったのかは覚えていない。気が付けば、そこは公園ではなく薄暗い路地裏。太陽もだいぶん沈み、空は夕陽で赤く染まりつつあった。
 いや…………
 赤く染まっていたのは空だけじゃない。
 "わたし"も赤く染まっていた。
 生温かな温度、むせかえるような臭い、そして恐怖と絶望に染まる声。
 あぁ……でも、まだ足りない。マダ、タリナイ。
 そこで初めて声のする方を見る。声を発する肉塊を見る。
 それの手足はすでに潰されていた。抵抗はおろか逃げる手段すら奪われてたそれは、それでもなお芋虫のように地を這って逃げようともがいていた。
 それの口はすでに大きく裂かれ、舌は引き千切られていた。それが声を発しようとする度に血が喉へと流れ込み、ごぷっという不快な音を立てている。
 それの両目はすでに刳り抜かれていた。中身がなくなり、落ち窪んだ眼孔からは血が涙のように流れ落ちている。
 そこに在ったのは、すでに人間とは呼べない、ただの肉の塊だった。無様に這いずり、血をまき散らしながら蠢くだけの肉の塊だった。
 アァ、でもまだ足りない。
 血が足りない。絶望が足りない。怨嗟が足りない。恐怖が足りない。

 ―――そうだ……次は耳にしよう。彼は目だけじゃなくて耳も聞こえなくなるのだから。

 蠢く肉塊に近づき、未だ無事である耳に口をそっと近付けて、囁く。
「ねぇ……私って、きれい?」
 肉塊は答えない。聞こえなかったのかもしれない。耳を摘み上げてもう一度囁く。
「私って、きれい?」
 耳をさらに釣り上げて、もう一度聞く。しかし肉塊は答えない。その代り、言葉にもなっていないような音を発して暴れる。
「私って、キレイ?」
 答えが返ってくるまでは何度だって聞く。ミチミチという嫌な音が聞こえ、肉塊がより激しく暴れ出す。
「わたしって、キレイ?」
 ぶちん、という音と共に耳が引きちぎれる。肉塊がさらに醜い声をあげる。
「あぁ、千切れちゃったね……。このままじゃバランスも悪いし、もう片方も切っちゃおうか」
 じたばたと暴れる肉塊の頭を蹴り飛ばし、身体の向きを強引に変える。
 さっきは一気に千切ってしまって、少しもったいなかったな。今度はもう少し、工夫しよう。もっともっと、長く楽しむために。
 鋏を露出したもう一方の耳の端に当てて、ほんの少しだけ切り落とす。肉塊がびくりと、ほんのわずかに身体を震わせた。
 残念なことに、血は思ったほど出ない。肉塊の反応もいまいちだ。
 今度はもう少しだけ大胆に、耳輪の部分を一気に切り落としてみる。やはり血はあまり出てこない。肉塊もほとんど反応しない。
 いっそ一気に耳を根元から切り落として見る。やはり思ったほどは血が出てこない。肉塊もびくびくと身体を震わせるだけで大きな反応はない。
 よく見ると肉塊の肌は温かみを失い、蒼白になっていた。涙のように眼孔から溢れ出ていた血も、いつの間にか止まっていた。

 ―――つまらない

 腹に鋏を突き立て、切り開く。
 大方の血はすでに流れ出てしまったらしく、腹を切り裂いたにも関わらず血はほとんど流れなかった。おまけに切り裂いた肉もどこか硬い。

 ―――つまらない

 腹立ち紛れに全身に何度も何度も鋏を突き立てる。肉を切り裂き、死亡を抉り、内臓を掻きまわし、あたりにまき散らす。
 そこまでして、ようやく気を落ち着かせた。
 あたりには悲惨なんて言葉では言い表せない光景が広がっていた。
 臭いも酷い。鉄と、生ゴミと、腐った卵をごちゃ混ぜにしたような吐き気を催す臭いがあたり一面に立ち込めていた。
 その中で私は一人、全身を血と、肉片と、内臓にまみれさせて、立ちつくしていた。
 吐き気と、苛立ちと、困惑と、ありとあらゆる負の感情と戦いながら、ただ一人、凄惨極まる場で立ちつくし、静かに涙を流す。
 あぁ……わたしはいったい、何を間違えてしまったのだろうか。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
 その問いに答えてくれる者は誰もいなかった……


   6.終焉
 夢を見る。
 とても、嫌な夢だ。
 何もない、真っ暗な場所。そこに"わたし"と"化け物"が向き合っている。
「いつまで続けるつもりだ?」
 "化け物"は私と同じ姿で、私と同じ声で、私に問いかけてくる。
「本当はとっくの昔に気が付いてるんだろう?」
 違う、と答える。すると化け物は酷く醜い笑みを浮かべてけらけらと笑う。
「いいや、違わないね。お前はとっくの昔に気付いている。そして願っているんだ」
 違う、と叫ぶように言い返す。そして耳をふさいで蹲る。
 それでも"化け物"の声を防ぐことはできない。
「お前は気付いている。あの子の目は"本当は見えている"ことに。そして願っているんだろう? あの子の手で自分が殺されることを」
 そして"化け物"は決定的な一言を私に叩きつけようとする。
「幸い、あの子には動機があるもんなぁ。なにせ……」

 そこで、いつも目が覚める。
 気分は最悪だ。今にも吐きそうなくらいだ。

『―――――――――』

 夢の中で"化け物"が言い放った最後の言葉が頭から離れない。
 その言葉が何度も何度も頭の中でリピートされる。何度も、何度も、何度も……
「あれは夢、あれは夢、あれは夢、あれは夢…………」
 自分に言い聞かせるように、何度も何度もそう呟く。
 それでも、"化け物"の声が頭から消えることはなかった。


 その日は、夏にしては日差しが柔らかくてとても過ごしやすい日だった。
 私と彼はいつものように、公園のベンチに座ってなんでもないお喋りをしていた。
 それはいつも通りの、私の心が休まる唯一の時間のはずだった。
 でも、その日は違った。
 心が酷くざわつく。彼の話が耳に入ってこない。
「そう言えば昨日の夜、病院でおもしろいことがあったんですよ」
 楽しそうに話をする彼の声が妙に腹立たしく感じる。
 私はこんなに苦しんでいるのに、なぜそんな声が、そんな表情ができるんだと問い詰めたくなる。
「それで、ちょうどそのとき看護師さんが部屋の前を通りかかって―――」
 思考にノイズが入る。自分の中に、自分ではない"化け物"が生まれる。
   ―――お前は願っているんだろう?
 世界が赤く染まる。目の前に、私と彼との間にいるはずのない"化け物"が現れる。
   ―――お前はあの子に殺されたがっているんだ。
 躍起になってその声を無視しようとする。どうにかして彼の話に集中しようとする。
 でも声を無視しようとすればするほど、彼の話に集中しようとすればするほど、"化け物"の声ははっきりとしたものになり、逆に彼の声は遠く小さなものになっていく。
   ―――だって、あの子は……お前が殺したクラスメートの弟だもんなぁ?
「違う!!!」
 思わずそう叫んでいた。
 視界の端に、彼が驚き戸惑っている様子が映る。
 あぁ、でも今の私にはそんな彼を気遣う余裕は欠片もなかった。
   ―――そうだよなぁ……違うといいよなぁ? だって、お前はそれを望むと同時に恐れているんだから。
 違う、これは幻覚、これは幻聴、すべて弱い私の心が生み出した幻だ。
   ―――誰だって死ぬのは怖い。人間も"化け物"だって……だからお前は今まで生きてきたんだ。
 私はそんなこと考えていない。これは全部ただの妄想、幻聴、まやかし……
   ―――ほれ、見てみろ。向こうだ。近づいてくるぞ。あれがお前の"死"だ。さて、どうする? お前はどうしたい?
 "化け物"の言葉に思わず言われた方を見てしまう。
 そこには彼がいた。
 突然私が叫んで、様子が急におかしくなって、どうすればいいのかわからなくて、それでも私を心配してよたよたと近づいてこようとしている彼が。
 あれが、私の死……?
 違う、あれはいつもの優しい彼だ。死なんて、そんな恐ろしいものじゃない。
 でも、もしそれが全部嘘だったら? 病気も、目が見えないのも、全部私を油断させるための嘘だったら?
 心配するふりをして、実はポケットに刃物を忍ばせていたら?
 違う、そんな訳がない。間違ってる。バカバカしい、嘘だ、ばかげている、妄想だ、あるはずがない……でも―――
 思考にノイズが入る。
 でも……でもって、なんだ?
 彼がよたよたと近づいてくる。
 でもなんて、あるはずが……
 彼との距離が少しずつ縮まっていく。
   ―――ほら、見ろ。あの子の右手だ。きっとあれを使う気だぞ?
 "化け物"に誘導されるように彼の右手を見る。言われてみれば、彼は何かを持っている。ただ、それが何なのか、視界が……いや、世界そのものがぼやけて判別できない。
   ―――鋏だよ、はさみ。あれでお前の喉を掻っ切るつもりなんだろうよ。さて、どうする? どうする?
 "化け物"の声に従うように、ぼやけた世界が少しずつ輪郭を持ち始める。
 彼が右手に持つ"何か"も少しずつ本来の形を表そうとしていた。
 いや、あれは鋏なんかじゃない。そんなはずはない。
 違う、でも、違う、怖い、違う、怖い、違う、怖い、違う怖い違う怖い違う怖い違う怖い違う怖い違う怖い違う怖い違う怖い違う怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイコワイ―――
   ―――怖いなら、怖くなくせばいい。得意だろう? そういうのは…………
「怖いなら……殺してしまえばいい…………」
 無意識に手が動く。その手に握るのは、多くの血を吸い赤みを帯びつつある銀色の鋏。
 あぁ、なんだ。簡単なことじゃないか。私がこれまで悩んでいたことは、こんなにも簡単に解決できることだったじゃないか。
「――――――――――――」
 最後に、彼に向って何か叫ぶ。
 ただ、何と叫んだのかは、覚えていない…………


 気が付けば、私は薄暗い裏路地に立ちつくしていた。
 空も、私の手も、真っ赤に染まっている。
 あの時からの記憶がぽっかりと抜け落ちているが、誰かの命を奪う感触だけはしっかりとその手に残っていた。
「水……雨?」
 手に生温かい雫を感じ、空を見上げる。
 でも見えるのは綺麗に染まった夕焼け空だけで、雨はおろか雲ひとつかかっていない。
 それでようやく、自分が泣いていることに気が付いた。そしてその涙の意味も、同時に理解する。
「あぁ、そっか……そうなんだ…………」
 自分の中にある何か大切なものがぽっきりと折れる音が確かに聞こえた。
 終わってしまえば何ともあっけない。それこそ、バカバカしくて笑ってしまいそうになるくらいに。
「はは、あははははははははははははははははははははは」
 笑う。"化け物"になって、初めてちゃんと笑った。笑って、笑って、笑って、

 そして私は、完全に人間をやめたのだった。



   エピローグ
 私が最近になって知ったこと。
 一つ、人間のしぶとさ。口で何と言おうとも、心の奥底ではいつだって諦めきれずにあがいている。
 一つ、人と人との絆の儚さ。どれだけ強く結ばれていようとも、どちらか一方がほんの少しの疑念を抱いただけで脆くも崩れ去ってしまう。
 一つ、化け物のこと。化け物は外からやってくるものじゃなくて、自分の内側にいつも潜んでいるということ。
 夏のある日、私は本当の意味で化け物になった。
 その後、"化け物"がどうなったのか、知る者は誰一人としていない…………

2014/03/07(Fri)00:16:47 公開 / 浅田明守
■この作品の著作権は浅田明守さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
忘れたころにやってくる。それが浅田クオリティー!
というわけで初めての方ははじめまして、そうでない方はお久しぶり。テンプレ物書きの浅田です。
失踪なんてなかったんや!
というわけで初回投稿時から読んでくださっていた皆様、本当に申し訳ありませんでした。なんか色々伏線張り過ぎたせいで当初予定していた最終話が全没になってしまい、仕事が忙しかったこともあり投稿が大幅に遅れてしまいました(汗
そして今回新規で一気読みして下さった方、ここまで私の稚拙な物語にお付き合い下さりありがとうございました。

ところで話は変わりますが、現在次にどんな話を書くか迷い中です。
とりあえず次回作はホラー以外の何かにしたいと思っているのですが……
1.べたべたな恋愛物
2.アクション(戦闘系)にリベンジ
3.あえてのギャグ
4.まさかの哲学系
のどれが良いでしょうか?
もし浅田に「この系統の話を書いて欲しい」というリクエストなどがあったら是非お願いします。

13/5/6  更新 まだ続きます
13/5/18  微修正および若干の加筆。ぶっちゃけ辻褄合わせの修正が何点か(汗
13/7/18  更新 次かその次あたりがラスト(たぶん)
13/8/21  更新 どうしてこうなったしorz
13/8/22  誤字修正 羽付さんご報告ありがとうございました。
13/10/21 更新 浅田の中の中学2年生が大暴走
14/2/27 更新 ようやく最終話。長らくのお付き合いありがとうございました。
14/3/7 更新 ちょっとだけ最後の方を弄りました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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