『スピリッツアンカー その4』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:水芭蕉猫                

     あらすじ・作品紹介
眠たいナオヤは忘れてしまった幼馴染に連れられて自分の世界へ入り込む。

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 リリの日

 リリは、大きな眼鏡をかけている冴えない科学者みたいな女の子だ。
 母親同士の仲が良かったからか、君は近所に住んでいたリリに小さいころからよく遊んでもらっていた。
 とても頭が良くて、有名な私立校に通っていたのを覚えている。
 君が小学校に入った時リリは高校生だったが、休みの日になると君は必ずリリの所へ遊びに行った。平日にどうしても会いたいときは、おばさんに言ってリリが帰るのを部屋で待っていたこともある。
 君はリリのことが大好きで、時間が許す限りいつもリリに遊んでもらっていた。
 いや、君は遊んでもらってるとは思っていなかった。
 一緒に遊んでいる。
 そう思っていた。ただ、それは、リリも一緒なのではないかと今でも思う。そうでなければ、勉強で忙しいはずのリリが幼い君を邪険にせず遊んでくれていた理由が解らないから。
 リリとばかり遊んでいた君は、友達の少ない子供だった。
 それを君の親は心配していたようだけれど、君にとって同じ年の子供たちは皆幼稚すぎて、遊んでいてもちっとも詰まらなかったのだ。
 リリのほうが頭が良くて面白い。
 そして、何より君にとってリリとは『誰よりも解っている奴』だったから。
 その日も君は大好きなリリに会いに行った。
 休日の正午過ぎ。お昼ご飯のチャーハンを食べた後、君はリリの家に走って行った。
「リリちゃん、あそぼ!」
 玄関を開けてくれたおばさんへのあいさつもそこそこに、君は階段を駆け上がるとリリの部屋をノックもせずに開けると、部屋の中は大きな段ボール箱で溢れかえっていた。
 一目見てすぐに君はここが見知ったリリの部屋じゃないことに気が付いた。
 リリの好きだと言っていた不思議な絵の描かれたポスターが壁からはがされていた。
 本棚にびっしり詰め込まれていた本も、積みあがったコピー用紙やレポートの紙束も、君が持ってきていた怪獣のおもちゃも無い。
 殺風景で、がらんどう。
 すっかり寂しくなってしまった部屋におそるおそる足を踏み入れると、リリは部屋の真ん中で、城塞のように積みあがった箱に囲まれて眠っていた。
 ご丁寧にも布団を敷いて、仰向けのまま静かに目を瞑っているリリを見て、君はコールドスリープにかけられた映画の宇宙飛行士みたいだと思った。
 あんまりに綺麗な寝姿に、起こさないようゆっくりと忍び足で枕の横に座った君はいつものようにそっとリリの額に自分のおでこをくっつけた。


 次の日、リリは遠くの町に引っ越した。
 君でも知っているような、有名な大学に進学が決まったから、そこに行くためにこの町を出なければならなかったのだ。
 段ボールの城の中に眠っていたリリは、丁度引っ越しの準備をしている最中だった。
「リリちゃん、頭が良かったからねぇ。良い大学に行けて良かったけど、やっぱりちょっと寂しいねぇ」
 母親が寂しい寂しいと繰り返し言っていたが、君は全く寂しくなかった。
 まだむずむずするおでこを擦りながら、君はこみ上げる笑いを必死にこらえる。
 やっぱり、リリは『解っている奴』だったのがとても嬉しかった。
 これならば君は二度とリリと出会うことが出来なくても、もう大丈夫。
 あの日、君はリリから『世界』を貰った。



 誰も知らなかった日



 気が付くと、数学の教師が木の人形になっていた。
 着色もなされていない上に凹凸さえ無いのっぺらとした顔のデッサン人形みたいな物が、きっちりとスーツを着て黒板にチョークをコツコツと突き立てて象形文字を書いていた。
 つい先ほどまでは教師はきちんと人間で、浅野ナオヤは数学の授業を受けていた。いくらナオヤがぼんやりしているからと言って人形と人間を間違えるはずが無い。
 驚いて辺りを見回すと、なるほどナオヤ以外の全員が木の人形に変わっていた。
 目も口も耳も無いくせに、人形たちは全員教師の方を向いたまま誰一人動かずノートも取っていない。
 人形の教師はストップモーションアニメみたいにぎこちなく動きながらガツガツと黒板が真っ白になるほど象形文字で埋め尽くし、空いた部分が無くなるとぐるりと頭だけを回転させてクラスの中を見回した。
 単に首から上、頭の部分が百八十度回転しただけで人形には顔も髪も無く、どこが正面なのかもわからない。が、ナオヤには『見回した』ように見えた。
 ぽかんと阿呆のように口を開けてぼんやりしていると、教師の無いはずの目と合った。
 人形の教師はナオヤの口を開けたやる気のない態度に怒ったのか、細いパーツで出来た指をさしてガラスを掻くような嫌な音をぎゅいぃぃぎゅいぃぃぎりぃぃぃと発した。どうやら何かを言っているようだが、内容は全く解らない。
「え? あ? 何ですか?」
 思わず疑問の声を漏らすと、教師が更に音程を高くして言葉のような何かを発する。同時に、それまでずっと教師を見ていたはずのクラスメイトの人形たちが三十数名、一斉にナオヤの方をざざっと音を立てて振り向いた。
 まるで放射線でも描くようにナオヤを中心に一同ののっぺらとした顔から視線が注がれている。
「あ、よく解りません。済みませんでした」
 まるで統率されたような動きに何だか責められているような気がしてとりあえず謝ってみるも逆効果だった。教師はさらにギュリギュリとビデオを早回しているみたいな不快な音を立てつづけ、クラスメイトはナオヤを向いたまま誰も陰口一つ叩かず、クスクス笑いもせず、不気味なまでに黙ったまま微動だにしない。
 クラスの中でただ一人、三十数名の視線を一身に浴びながら、どうして良いか解らないナオヤ途方に暮れていると教室前のドアがガラリと開かれる。
 中に入って来たのは見たことも無い少女だった。
 学校の制服に身を包んだ少女は、金切り音の響く教室の中をスキップでもするように軽やかに歩いてくる。なんだかチョウチョみたいな女の子だなとナオヤは思った。それもアゲハチョウみたいなハデなやつじゃなくて、野原ならどこにでもいるようなモンシロチョウ。
 机と机の隙間をふわふわと飛ぶように歩いている間、どの人形もまるで少女なんか見えていないように脇を通っても見向きもしない。
 そして春先のモンシロチョウのような少女はとうとうナオヤの前に立つ。
 ほんわりとした雰囲気の、可愛らしい女の子だった。
「ナオちゃん、久しぶり!」
 誰? と尋ねる前に、にっこりと笑った少女は椅子から立ち上がりかけたナオヤの体に抱きついた。
 声を出そうとした瞬間、目の奥で火花が散った。
 ぐりん、と視界が変わる。
 それまで見ていた奇妙な幻影感は消え去り、突き刺さるような現実の空気が肌を撫でる。体は重力の法則に従ってきちんと重たいし、叩かれた頭は痛覚の理念に従ってじーんと痺れたように痛かった。
「あいたー!」
「くぉら浅野! 朝っぱらから居眠りするたぁいい度胸だな!」
 突然夢から引っ張り出された寝ぼけた顔を上げると目の前には怒り顔の担任教師、小松龍太郎三十二歳独身が出席簿を振り上げた姿で立っていた。木の人形でもなんでもない。顔のパーツがきちんと揃った人間っぽい顔だった。
 多分、人間だと思う。
 それとも、今見ているのはとても現実的な夢だとか。
「……人間だと思わせておいて、実はオチが鬼ということは流石に無いと思うんですけど、ここは本当に現実ですか?」
「まぁだ寝ぼけ取るんかお前は。現実だ現実!」
 先ほどまで怒りで鬼のような形相の教師も流石に呆れ、今度は出席簿の面で軽く頭を叩かれる。
 打たれた頭を撫でさすりながらくすくす笑い声の上がる教室を見回すと、そこにはきちんと人間らしい生き物が席に座っていて、ようやくここが本当の現実なんだと理解する。
「さぁて、ホームルームを始める前に転校生を紹介しよう」
 教卓に戻った教師の言葉にクラスの全体がざわつく中で、ナオヤは教師に見つからないように欠伸をした。気を抜けば、また眠ってしまいそうだった。
 こんな中途半端な時期に転校してくるなんて、変わってるなぁ。
 そんなことを思いつつぼんやり窓の外の木の葉が揺れるのを見ていると、教師に声をかけられた転校生が教室に入って来た。
「初めまして。丘野ヤエと申します」
 随分ぽわぽわした声だな。
 ちらりと前を見て、凍りつく。
 夢で見たモンシロチョウみたいな少女が、黒板の前に立っていた。
「あ、ナオちゃん。さっきぶりー」
 目が合った瞬間、ヤエは夢の中と同じ笑顔を浮かべて嬉しそうに手を振った。


 ☆  ☆  ☆


 こんなのはきっと嘘だと思う。
 夢にちょっと出てきただけの少女が何故か現実に居て、一度も会ったことが無いのにさっき会ったばかりのような言動をする。
 もしかしたら登校している最中に顔を見られたのかもしれないが、それにしても「さっきぶり」と言われるのは変だった。
 普段は居眠りばかりしている一時限目もこの時ばかりは混乱のせいで全く眠れず、おまけに普段あまり喋りもしない後ろの席のクラスメイトから「あの子と知り合いなのか?」とこっそりと、しかも妙になれなれしく尋ねられた。
「今度紹介しろよ」
 名前もよく覚えてない奴から下心丸出しの質問をされて返答に困る。
 知らない。
 あんな奴、まったく知らない。
 見ればヤエはクラスの女子どもに取り囲まれ、質問攻めにされていた。
 そういえば昔にもあんな光景を見たことがある気がする。あれは女子の部外者に対する儀式みたいな物なのだろうか。しかも遺伝子レベルに刻み込まれているような、物凄く根深くてタチの悪いシロモノなのだろう。
 のろのろとしか動かない頭を精一杯回転させて明後日の方向に考えをめぐらせていると、不意にヤエと目が会った。
 慌てて机に突っ伏して、目を瞑る。
 あの子は一体何なんだろうと考えたけれど、考えてみても解らないものは解らない。だんだん考えること自体が面倒になってきて、そのまま休み時間は寝たふりをしてしまえば良いんだと思いつく。
 そうだ。フリと言わずそのまま寝てしまおう。
 寝てしまえば誰も声をかけないし、あの子と視線も合わないだろう。
 もしまた夢で会ったなら、その時はその時だ。
 始業ベルがなると同時に初老の社会科教師がつまらなさそうな顔で教室に入ってくる。
 ナオヤは机に突っ伏したままヤエの机を取り囲んでいた女子が慌てて自分の席に戻る音を聞いていた。


 ☆  ☆  ☆


 幸いなことに、放課後まで夢は全く見なかった。
 三時限目あたりの授業中から十分ごとに意識を寸断されていた。どうにかそのまま四時限目までやり過ごし、後の昼休みは食事もせずに寝て過ごし、五限目頭に少しノートを取ったあたりで完全に意識が飛んだ。そして夢を見る暇も無く、気が付けば放課後だったのだ。
 帰りのホームルームも既に終わっていたようで、教室に残っているのは自分一人しかいない。
 周囲には綺麗に陳列された机と椅子。窓を見れば紅茶に溶かした角砂糖みたいな蕩けた夕陽が差し込んでいた。
「……帰るか」
 ぽつりと呟いて鞄を持ち上げると、ばたばたと慌てたようにヤエが教室に入って来る。
 何か忘れ物でもしたのだろうかと思っていると、ヤエは速度を緩めないままナオヤの机に一直線に向かってきた。
「あ、ナオちゃんごめんね。ちょっと職員室に行ってたの。待たせた?」
「……え?」
「今日用事があるから放課後待っててねって言ったでしょ? だから待っててくれたんでしょ?」
 そんなこと約束してたっけ? というかそもそも自分は今日、この転校生と喋っただろうか。いや、たしか喋りたくなくて寝ていたはずだ。なのに、彼女は今、何と言ったのだろう。
 まるで覚えのない事態に混乱していると、ヤエは少し驚いたように目を見開いてから困惑したような声を漏らした。
「もしかして、まったく覚えてないの?」
 罠に掛かった親を見る小鹿のような目で見つめられ、ナオヤも同じように困惑する。一体、この子は何を言っているんだろう。
「いつから覚えてない?」
「……五時限目の頭までは覚えてる」
 条件反射のように答えてすぐに我に返る。
 それがどうしたのかと聞こうとする間もなく、次の質問が投げかけられた。
「そういう症状が出てるのはいつから?」
「いや、ちょっと居眠りしてただけだし」
「知らないうちに誰かと行動していたことは?」
「……何だよ突然。そんなの知らないよ」
 矢継ぎ早に質問されて面食らっていると、ヤエは「いいから答えて」と語調を強くして詰め寄ってきた。
「……そういうのは無いよ。寝ぼけてて適当な返事してたことは何回かあるみたいだけど……」
 嘘である。
 本当はここ最近、知らないうちに自分がやったことになっているという事が時たま発生していた。
 貸した覚えのない現国のノートを返してもらったり、名前も知らないはずの他校の生徒から親しげに挨拶をされることも一度や二度の話では無い。ただ、そう言われれば現国のノートを貸したような気がするし、挨拶された他校生もどこかで会ったような気がするのであまり深く考えていなかったのだ。
 本当に? とでも言いたげなヤエの目に居た堪れなくなって目線を反らすと、向かい側から長い溜息をつく音が聞こえる。
「帰りのホームルームの後、教室の掃除をしている間は何をしてたか覚えてる?」
 覚えていなかった。
 考えてみれば、放課後の教室にほったらかしにされること自体が既におかしいかった。
 ホームルームが終わった後、教室は清掃のため机を一端後ろへ下げるのだが、その時に眠っていれば流石に起こされるはずだった。
「……多分、寝ぼけて動いてたんだよ。きっと廊下でうとうとした後また教室に戻って来たんだよ」
 流石に苦しい言い訳だと思ったが、そうとしか思えなかった。
 しかし、どうして自分は必死になって初対面の転校生に言い訳なんてしているのだろう。
「……ナオちゃん。このままだと、中身を全部食べられちゃうよ?」
 いい加減適当なところで切り上げて帰ろうかと思うと、今にも泣きだしそうな声がぼそぼそと聞こえた。見ればヤエは悲しげな眼差しでこちらを見透かすようにじっと見つめていて、その視線に何故か背中に嫌な汗をかく。
「は? 何に?」
 急に恐ろしくなって、少し強がるように聞いてみると、ヤエは寂しげに呟いた。
「タカシくんに……」
 瞬間、ヤエを中心にして周囲に揺らぎが発生した。
 いきなり蜃気楼の中に放り投げられたように教室の存在が希薄化し、皮膚がマヒしたように絡みつく空気が温くなる。時計の針はピタリと止まり、違和感がこの場のすべてを支配するのに、気を抜くと今にもこの疑問や違和感を忘れそうになる。この感覚を、ナオヤはよく知っていた。
 それはまるで夢の中。
 その中で、ヤエとナオヤだけが周囲から浮いていた。丁度、写真だけで出来た世界にぽつんと置かれた立体人形にでもされたような気分だ。
「な、何だこれ!?」
 急におかしくなった世界に驚いていると、突如として雷が落ちるような轟音があたりに響き渡る。
「どうしたんだ!? 一体何をしたんだよ!?」
 混乱して叫ぶようにヤエに詰め寄ると、彼女は悪戯っぽく笑って教えてくれる。
「ここは私の浅層世界。今ね、ナオちゃんにスピリットアンカーを引っ掻けたの。今は二人とも起きてるから浅層世界の表面くらいしか行けないけど、私の見た記憶のナオちゃんを見せるくらいなら出来ると思うから」
「浅層世界? スピリットアンカー? なんだそりゃ?」
 ゲームの世界みたいな単語に首を捻ると先ほどとは違う、耳を覆いたくなるような更に強い轟音と巨大な揺れに襲われた。あまりに酷い揺れ方に倒れそうになって、慌てて近くの机に捕まった。
 見ればヤエは目の前から居なくなり、真っ赤に染まっていた夕の空はいつの間にか眩いほどの青へと戻っていた。
 ガヤガヤと耳障りな人の声に見回すと、そこは昼休みの教室だった。
 時計を見ると、きっかり十二時十五分。各々誰かと食べるなり喋るなり遊ぶなりしてる頃だ。
 クラスの女子が適当にグループを作って食事をとっていて、ヤエはクラスの野坂と水城という女子と一緒に弁当を食べていた。
「な、何だ。何なんだよ」
 目まぐるしい変化に耐え切れず、体から力が抜けそうになったとき、向けた視線の先に今度こそ度肝を抜かれた。
 今、自分が捕まってる机。
 そこに、自分が居たのだ。
 もう一人の自分が、楽しげに誰かと喋っていた。
「解った。お前の昔の彼女だろ」
「だからちげぇーって! ただの幼馴染だよ」
「まっさかー! 小学生の時会ったきりだったらしょっぱなから手振ったりしないだろ?」
「だからこそだろ? 小学生気分が抜けてないんだよ」
 後ろの席の、よく知らない男子と親しげに喋っている自分。この時の記憶は、ナオヤには無かった。
 目の前に居るのは、まったく知らない自分だった。
「ナオちゃーん」
 弁当を食べ終わったのか、ヤエがとたとたと足音を立ててこちらに向かってくる。
「お、可愛い彼女が来たぜ」
「だから違うって! で、何か用?」
 クラスメイトに念を押して、爽やかな笑顔でヤエの方を向く自分。
「うん。あのね、今日の放課後に昔の話をしたいから残っててほしいんだ」
「あ、うん。解った。放課後ね。ちょっと図書室に寄った後でも良いかな? 崎島先輩に本が入ったか聞きに行きたいんだ」
「うん! 私も職員室に用があるから丁度いいところだよ」
「ふぅん、ここじゃ出来な話なんだな」
 二人で話していると、クラスメイトに茶々を入れられる。
「あ、テメ、こら」
「違うよー。本当にただの昔話なんだけど、ややこしい話だからゆっくり喋りたいんだ」
 困ったように笑うヤエを見て、二人の男が本当に楽しそうに笑った。
「誰だ、これは」
 こんなことは覚えてない。この時、自分は眠っていたはずだった。誰にも声をかけられたくなくて、弁当を食べてすぐに机に突っ伏したはずだ。
 何だ、これは……。
 自分はこんなに社交的ではない。誰かと喋るのは苦手だし、友達作りはもっと苦手だ。いつも居眠りばかりしていて、教師に怒られてばかりで。
 ぐるぐると頭の中で自分の知らないことが渦巻いていた。そのまま疑問の中に埋没しそうになった時、ガラリと大きな音がした。
 教室のドアを開く音に目を覚ますと、目の前には軽く目を瞑って佇むヤエの姿。振り返ると、担任の小松が面倒くさそうな顔で立っていた。
「お前ら、下校時間だぞ。さっさと帰れ」
 時計を見ると時間は放課後にきちんと直っていて、外にはしっかり夕陽の赤。
 クラスに居るのは自分とヤエの二人きりで、他には誰の姿も見なかった。
「すみません。すぐ帰ります」
 小松が立ち去るのを確認してから、ナオヤはヤエに向き直った。
「今の、何だったんだ? あれは誰だ?」
「あれが私から見た今日のナオちゃんだよ。でも、もしかしたらタカシくんだったのかもしれないけどね」
「だからタカシって誰だよ? それとスピリットアンカーだっけ? もしかして今朝の夢に出てきたのもそれなのか?」
 自分の知らない自分を見てショックを受けながらも、とりあえず重要な部分だけは知っておきたい。なんとか逃げ出しそうになるのを我慢して問い質そうとすると、ヤエは少し悲しそうな顔をした。
「ナオちゃんは、本当にタカシくんのことも忘れちゃったんだ……」
「だから、タカシって……」
 誰だよ。と聞こうとした時、不意にヤエの顔が近づいた。
 キスされる!? と身構えたのもつかの間、背伸びしたヤエの額がナオヤの額にコツンと重なる。皮膚と皮膚が触れたあたりがじんわりと暖かくなり、同時に静電気のようなピリピリした不思議な感覚が額の中心から頭全体に広がった。
「アンカーを繋ぎなおしたから、少し遠くなっても会えると思う。タカシくんとか、色んな事は今晩説明するから寝る直前に電話してね。それじゃあ、もう帰るから」
 額が離れると、手のひらに紙切れを握らされる。
 ナオヤがぽかんとしている間に、ヤエは背中を向けて教室から出て行った。
 ふわりと漂う甘い香りを見送って、取り残されたナオヤは途方に暮れたようにぽつんと佇んでいた。


 その2 星空とメモリーランデブー


 ヤエから貰った紙切れには電話番号が書かれていた。
 学校での出来事はまるで現実感が湧かなかったが、こうして電話番号を眺めていれば少しは現実感が湧くかと思った。しかしいくら矯めつ眇めつ番号の羅列を眺めてみても現実感というものはとうとう湧かない。その上、初めて女の子から連絡先を貰ったのに嬉しい感じがまったくしない。
 まるで夢でも見ているような気分だ。
「そういえば、アルバムでも見れば解るかな」
 ベッドで寝転がっていると電話をする前にまた眠ってしまいそうなので、起き上がってのそのそと物置に向かう。
「確かここに……」
 ブツブツと独り言を言いながら物置に鎮座している古いタンスの奥を探ると、中学時代の卒業アルバムのさらに奥の方にやっと見つけた。
 封印されたようにしまいこまれた物は小学生時代、親の離婚のせいでここに引っ越してくる前のアルバムだ。
 思い出す必要が無いせいか、ついさっきまでここにしまわれていたことをすっかり忘れていた。
 母親にでも聞けば手っ取り早く何か解るのかもしれないが、本日は仕事の残業だから帰れないと電話があった。まぁ、もし居たとしても今も昔も働き通しの母親がナオヤの交友関係まで把握していたのかは知らないが。
 ぱらぱらとアルバムをめくると、写真には見覚えの無い子供が沢山写っていた。クラスメイトと、多分自分と思しき人物を見ていると今日の違和感とはまた違った離人感が酷い。
 運動会の徒競走だろうか。二等賞の旗を抱えながらカメラに向かってピースサインをする小さい自分を見て、軽い眩暈がした。
 今の自分からは考えられないような、晴れやかな笑顔。本当に自分はこんな顔だったのだろうか? それとも、今日みたいに自分みたいに見えて実は別人だったらどうしよう。
 別のページでは学芸会だろうか。木や動物の格好をした子供がステージで何かをやっていた。演目は何だったろうか。思い出せそうだが、頭の隅っこに引っかかって思い出せない。
 次のページを捲ろうとした時、ジジ、と目の奥に火花のようなものが走ったような気がして手を止めた。
 僕は……たえようと思……をひろげ……の……ために。
 何か大切なことを忘れている気がする。しかし、それが何だか解らない。おまけに大事なことのはずなのに、それ以上思い出してはいけないよう嫌な予感。
 こんな調子では自分の顔どころか丘野ヤエの顔だって解りはしないだろう。
 それ以上写真を見る気力はわかずアルバムを閉じた。まぁもうちょっと後で電話をすれば解るんだから今すぐ探す必要も無いかとアルバムをしまおうとすると、奥の方で黄ばんだくしゃくしゃの紙が落ちているのに気が付いた。
「なにこれ」
 開いてみると、クラスの連絡網だった。
 小さな四角い枠の中に、クラスメイトの電話番号が線で結ばれている。まるで見覚えの無い名前ばかりで、さらっと流すつもりでクラスの生徒の名前を追いかけていくと、見つけてしまった。
 白山小学校、二年二組。
 あさのなおや。
 おかのやえ。
 それから、ふじわらたかし。


 ☆  ☆  ☆


 電話を掛ける。
 コール音の後、ぷつっと音がしてつながった。
『こんばんはー』
 今日と同じ、ほやんとした語調の声が受話器越しに伝わってきた。
「こんばんは。さっきアルバムを見たんだけど、タカシって奴と僕たちは二組だったんだね」
 間の抜けたことを言ってるのは自分でも解っていたが、ヤエは馬鹿にしなかった。
『私とタカシくんのこと思い出してくれた?』
「ごめん、まったく思い出せない」
『うん、そんなことだろうと思ったよ。そっちの方がナオちゃんっぽいもんね』
 それってどういう意味? と聞こうとしたが、出そうとした言葉は誤魔化すような、乾いた笑い声にしかならなかった。
『ちゃんと用は済ませた? もう寝るところ?』
「うん。大丈夫。用は無いし、最近は本当に寝てばっかりだから、いつでも寝る直前だよ」
『……今晩はきちんとご飯食べた?』
 ちゃんと覚えているかどうか、探るようなヤエの声が耳に響く。電話口だと、自分がいつもより饒舌になっていることが我ながら不思議だなと思う。
「一応はね」
『今日の晩御飯のメニューは何だった?』
「…………シチューだったかな? もう歯磨きもしてるよ」
 今日の事はかろうじて覚えていたが、昨日、一昨日となると覚えていない。
 ここ最近は無意識で生きていたせいか、一体どこの時間帯で眠っていて、どこの時間帯で起きていたのかさえも曖昧になっている。今、初めて自覚した。
 親に何も言われていないあたり大きな問題を起こしていることは無さそうだが、そこらへんも含めて知らないうちに≪タカシ≫なる人物がどうにかしてくれているのであろうか。
『それなら安心だね! 詳しいことはこれからスピリットワールドでお話しするけど、多分そのまま寝ちゃうから目覚ましもセットしておいてね』
「うん、大丈夫。もうかけてあるから」
 起きれるかどうかは解らないがという言葉は飲み込んだ。
『まず、ナオちゃんのアンカーを私に繋げるから。目を瞑って額のあたりに集中して』
「どうして?」
『お互いのワールドにアンカーをかけて繋げないと、会えないでしょ?』
 早く、と急かされて目を瞑る。言われる言葉は何が何だかわからないのにナオヤの体の方は覚えているらしい。自転車に乗る感覚にちょっと似ていた。何年間も乗っていないにも関わらず、いざ乗ってみたらきちんと運転できるあの感じだ。もしかしたらヤエに新しく繋ぎなおしてもらったせいもあるのだろうか。
 眉間の、ちょうど真ん中くらいにじっと意識を集中させるとジリッと磁石が反発するような鈍い刺激があった。そして目の裏側の暗闇の中に青白い光の玉が浮かんで見える。
『光の玉が見えるかな?』
「見える」
『その玉の向こう側に、もう一つ光が見えないかな?』
 言われてみると、確かに目の前にある光の奥の方に、ウミガメの卵くらいの小さな光が灯っているのに気が付いた。
「見えた!」
『じゃあ、大きい方の光からもう一つの光に向かって思いきり速く糸を伸ばしてみて』
 率直なヤエの説明だが、やり方はすぐに解った。
 要するに、イメージである。
 目の前の大きな光の玉から、紐のついた矢を勢いよく向こう側の光に射出するイメージだ。
 糸のような細い光が目の前から一直線に飛び出して、遠くにある星のような光とつながった。
 尖った矢じりの先端が、頭に乗せられたリンゴに突き刺さる。
 紙コップから飛び出した糸電話の糸が、向こう側の紙コップに綺麗につながる。
 断絶された島と島の間に吊り橋がかけられる。
 頭上から、パジャマ姿のヤエが天井から落ちてきた。
「こんばんはナオちゃん!」
 ぼすぅっという着地音と共に右手を上げて、よっ、とポーズを決めたヤエに、ナオヤは驚いた猫のようにベッドから飛び上がると隅っこまでずり下がった。
「なななんなななななんなんなん!!」
「ふんふん、『何でお前がここに居るんだ?』」
 言葉が出ないままコクコクと頷くと、ふーんと顎に手を当てて考えるそぶりをするヤエ。
「だってここはナオちゃんの浅層世界だから私がナオちゃんの所に来たんだよ。自分の場所より多少は制限されちゃうけど、浅層世界だったら私にも多少は自由が利くからね」
 にっこり笑ったヤエは「見ててね」と一言いうとベッドの上で立ち上がる。そしてベッドを上下にギシギシと揺らし始めると、どういうことかヤエの体が少しずつ大きくなってくる。
「丘野さん?」
 ナオヤのおよそ二倍、今にも天井にくっつきそうになるほど体が大きくなるとそこで初めてヤエが後ろへジャンプした。
「転身(メタモルフォーゼ)!」
 掛け声と共にベッドから床へくるりと宙返りをすると共にヤエの腿が膨れ上がる。見る見るうちに茶色の堅そうな体毛が生えそろい、入れ替わるようにパジャマのズボンはすっと毛の中に消えた。着地と同時にドシンと床が鳴り、見ればヤエの下半身は人間ではなくなっていた。
 彼女の腰から下はカンガルーになっていた。
 太い尻尾と大きな後足は見るからに恐ろしく強靭で、これに蹴られたらひとたまりも無さそうだ。パジャマ姿の上半身に大きな変化はないが、頭の上にカンガルーの丸長い耳がちょこんと二つ可愛らしく揺れている。
 何故突然カンガルーになったのかを考える前に、ヤエはお腹にある柔らかそうな袋の口を自分の手で大きく広げてこちらに見せた。柔らかそうな袋の中は密生した毛が生えていて、まるでビロードのようだ。
「ナオちゃん入って!」
「入ってって……入らないんじゃ? って、え? ちょっ、まっ!」
 いくらヤエの方が大きくなっているからと言って、底の見えるこの袋に自分が入るのは難しいんじゃないかと逡巡するが、すぐにヤエの大きな手にむんずと体を掴まれた。
「いいから入る入る! 昔はよくやってたじゃない!」
 ずぼーっと頭から突っ込まれると袋の中は意外と広く、ナオヤの全身はすっぽりと腹の中に嵌ってしまう。生暖かく柔らかい肉の袋は弾力性があってじんわりと暖かく、まるで湯船につかっているような気分になれるが頭から突っ込まれて慌てているナオヤはそれどころではない。
 じたばたもがいて姿勢を正し、子カンガルーのように袋から首だけだした時、ヤエはカンガルーに変化した巨大な足で窓をぶち破って外へと飛び出したところだった。
「いやっほーーーーーーーーーい!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
 ナオヤの自室は二階。
 冷たいような温いような何とも言えない夢の夜風が頬を撫でる。外に飛び出たヤエは地面に着地すると同時に物凄い跳躍力で一気に家の屋根へと飛び上がり、そのまま叫びまくるナオヤなんか無視してひたすら夜空の星を追いかけて屋根から屋根へ渡っていくのであった。 


 ☆  ☆  ☆


 たどり着いた場所は、星の溢れる夜空の中だった。
 ひときわ高いビルの屋上からヤエが思いきり跳ねたとき、彼女は空中でナオヤに「ソウゾウして!」と叫んだ。それが『想像』なのか『創造』なのかはナオヤには解りかねたが、ヤエはすぐにヒントをくれた。
「夜空の世界はどんな場所!?」
 とっさに『夜空の世界』を心の中に思い描くと、周囲の情景が一変した。
 足元に広がっていた家々の光が一斉に浮かび上がってきたかと思うと頬に当たる空気の流れは消えてシンと静まり返り、あたりは一面の広い宇宙になっていた。
「この辺りかなー?」
 跳躍による上昇が止まる。
 ヤエが着地した場所は平たい星の上だった。星と言ってもそこは石で出来た普通の星ではなく、三人ほどが乗れそうな大きさの透明な星型のプレートだ。恐る恐る袋から下を覗き込んでみると、白い雲を纏った真っ青な星がすぐそばに浮いているのを見て、感嘆した。
「何だこれ……凄い。本当に宇宙に居るみたいだ……」
 ヤエの腹から這い出ると、ナオヤは透明な星の上に降り立つ。足で透明なプレートを踏んだ瞬間、体重のかかった場所が淡く光って鉄琴に似た音が一度鳴る。
 広い宇宙のど真ん中。あたりに見える無数の星々に星座のようなちゃんとした法則性は何もなく、おもちゃ箱をひっくり返したように散らかされた星の中で解るのは頭上に輝く小さな月と足元に見える巨大な地球だけだった。
「ここは昔、私たち三人がよく遊んだところだよ」
 あたりを見回してみると、似たような星のプレートが虚空の中にいくつも浮いているのが見えた。ナオヤの居るプレートのすぐ傍にも星が一枚浮いていて、階段を下りるようにそちらに飛び移るとまた一度ポォンと澄んだ音がする。しゃがんでそっと透明な面を撫でてみると、固めのシリコンみたいな手触りがした。
 不思議と最初のような驚きは無かった。
 ただ、覚えているような覚えていないような、解らないけれど何故かとても懐かしい気分になる。
 これがもしかしたら、忘れてしまった過去の思い出の一部なのだろうか。
「小さい時、ナオちゃんが私たちの為に作ってくれた宇宙のイメージ。ナオちゃん、ちゃんと覚えててくれたんだね」
 顔を上げると人間に戻ったヤエが目の前に立っていて、とても嬉しそうに笑っていた。
 なるほど咄嗟に出したのは漠然とした『夜の世界』のイメージそのままだからここは『宇宙』では無いのだろう。だからちゃんとした惑星っぽいのが月と地球くらいしかないのか。
 それなら、この場をきちんとした宇宙にするとしたら。
 頭の中で現在知っている『夜と宇宙』をイメージすると、自分の周囲に散っていた無数の星がゆっくりと移動を始めた。少しずつ、懐かしさの中からコツを拾い上げる様に頭上の星を増やしながら一本の帯のように纏めていくと、一緒に見上げていたヤエが歓声を上げる。
「すごいすごい! 天の川!」
 天の真上に巨大な星の帯がオーロラのように流れているのを形作った次は星座だ。
 北斗七星に北極星、デネブにスピカにアルタイル、こぐま座おとめ座ヘラクレス。
 知っている星座を片っ端から作り上げ、最後にそれらの星を指さして横に動かすと綺麗な軌跡を描いて流れて消えた。か細く光る三等星は一等星の如くに輝きを増し、未知の乗り物のように軽やかに踊り出す。
 星座を結んでは消し、沢山の星を流し、自分のイメージと指先一つで何でも出来る光景は宇宙のすべてを支配しているようで、まるで神様にでもなったような気分だ。
「凄い。何か、自分が神様にでもなったみたいだね」
「空間支配って言うんだよ。スピリットワールドにおけるホスト権限を持つ人の特権でね、その時の気分とかもあるけど、ほとんど自分の好きなイメージを任意で世界に投影することができるの」
「空間、支配?」
 突然始まったヤエの専門用語まみれの解説に戸惑っていると、解りやすいように解説してくれた。
「えっと、ナオちゃんはVRMMO……うんと、仮想現実オンラインゲームって知ってる?」
 もちろん知っていた。まるで現実みたいな新感覚ゲームというキャッチコピーと共に何年か前にゲーム雑誌に出て、もう何年かしたら世間に出ると言われ続けていたバーチャルリアリティオンラインゲームの事だ。プレイヤーはキャラクターの姿を借りて、オンラインゲームの世界をまるで現実のように体感的に動き回れるという話。
 もうとっくに開発されているのに倫理の問題や大人の事情がなんとかで発売が見送られ続けているせいで、いつまでたっても世に出ない幻のゲーム機。
 いくら毎日寝て過ごしている身分でも、それくらいなら常識として知っている。
「私たちがゲームをやるときはソフトを買って、一つの同じ世界を共有して大勢の人が遊ぶでしょ? でも、スピリットワールドは私たち自身が個別のゲームソフトであってプレイヤーであってゲームマスターなんだよ」
 自慢するようにヤエは言う。
 曰く、スピリットワールドというのは個人のフィルターを通した世界観であり、スピリットアンカーというのは個人同士の二つ以上の世界観を繋ぎ合わせることだ。そうすることによって相手の見ている世界観と自分の感じている世界観を混ぜ合わせて『理想の世界』を遊ぶことが出来るのだと言う。
 スピリットワールドからアンカーを飛ばして最初に繋げた側が浅層世界観を司るホスト役、招かれれた側がひとまずのゲスト役と呼ばれるそうな。
「つまり、学校での出来事は僕が丘野さんに招かれたからゲスト役で、さっきは僕から丘野さんに繋がったからホスト役ってこと? だから世界を好きに変えることが出来たとか?」
 尋ねると、ヤエは大きく頷いた。
「そう! そうなの!! あと、丘野さんって他人行儀だから前みたいにヤエちゃんって呼んでね」
 ふやけた笑みを浮かべながら両手でむぎゅっと手を握ってくるヤエ。
 これも自分のイメージなのかもしれないが、柔らかな感触と体温が夢の癖にやたらとリアルで頭の中が一瞬白くなる。同年代の女の子に手を握られるなんて覚えている限りでは初めてなんじゃないだろうか。
 何となく照れくさく、小声で「うん」と頷くとヤエは手を離してまた説明モードに入った。
「うん、でもね、浅層世界はゲストもホストもこの世……というか、『見ている世界』は同じ『現実』という物理の世界だから、私からもアンカーを飛ばしてダブルアンカー状態にしちゃえば、ゲストとかホストとかはあんまり意味がないんだけどね」
 ヤエが薄く目を閉じると、体がヤエの方に吸い込まれるような錯覚に陥った。慌てて足を踏ん張ろうとしたが、その時にはもう吸引される感触は無い。
「今のってもしかして……」
「これで私も空間支配が出来る。見ててね」
 立っている星のプレートの真ん中から、朝顔みたいな植物がしゅるしゅると真っすぐに生えてきた。そして二人の腰辺りの高さまで伸びてくると、握りこぶしほどの星の花を一輪咲かせる。
「浅層世界っていうのは、一番浅い所だからほとんどの人が平等に世界を作ることが出来るんだよ」
 ヤエは楽しげに幾つもの星の花を咲かせて、プレートの上をアッと言う間に花畑に変えてしまう。
 黄色い星の形をした花をそっと撫でると、覚えていないはずの小さい頃に戻ったかのような気分になった。もしかしたら、昔これと同じ花を見たのかもしれない。
「こうやって小さい頃の僕たち三人はこういう場所で毎日遊んでたってこと?」
 確かめるように尋ねると、ヤエは大きく頷いた。
「そう。タカシくんも一緒に、時々誰かの中層世界にも入ったりしてね、凄く楽しかったの」
「タカシってどんな奴だった?」
 中層世界というのも気になったが、まずは今日聞きたかったこと。タカシなる人物について聞くと、ヤエは何かを懐かしむような穏やかな表情をした後に、少し悲しそうに俯いた。
「タカシくんはね、凄く頭の良い子だったの。そして、私たちの中で一番空間支配も形態変化も上手だったんだ」
「形態変化?」
「自分の体を変化させること。自分に掛かる事だから、どこの世界のホストでもゲストでも自由に出来るの。ナオちゃんも得意だったはずだよ。『転身(メタモルフォーゼ)!』」
 カンガルーに変身した時と同じ言葉と共に、前のめりに倒れたヤエの顔から獣のように口吻が前に伸びた。首は長く、腕と脚もするりと枝のように細い四肢に変わった。五本の指が癒着して堅そうな蹄を作り、猫柄のパジャマは薄い茶色と白のまだら模様の被毛にとって代わる。前足から飛ぶように宇宙へと踊り出したヤエは可愛らしい小鹿に変わっていた。
 円らな瞳でナオヤを見つめた小鹿のヤエは、彼を呼ぶように「キョン」と鳴く。そしてくるりと背を向けると、何もない宙の中に駆けだした。
「ナオちゃんも出来るはずだよ。やってみて!」
「ま、待ってよ!」
 一人で置いて行かれそうな気がして呼ぶと、ヤエがくるりと振り返る。
「キーワードを言いながら、イメージするだけ!」 
 囃し立てるようにくるくると宇宙を駆けるヤエをみて逡巡したが、意を決して頭の中にイメージを描きながら手を前に突き出して体を倒す。
「変身(メタモルフォーゼ)」
 自分の目で確認が出来るほど口吻が前に伸びた。犬歯が異様に大きく伸び、視線は低く、指は縮んで手の平が盛り上がって肉球が生まれる。腕から足の先まで全身が灰色の毛で覆われ、最後に人間にあるはずの無い尻尾が揺れるふさふさと音がした。
 それは狼だ。
 走ることに特化した獣の四肢は人の足のなど比べ物にならないほどに力強く、宙駆けだした途端にはるか先に居た小さな小鹿に追いついた。
「酷いよ。先に行っちゃうなんて」
「やっと追いついてくれたのね」
 ナオヤが苦言を漏らせば小鹿が嬉しそうに言う。
 やり取りを交わしている間も、二頭は星の間を走り抜けた。どちらの世界観かは知らないが、火星を蹴り土星の輪を走り、天の川の上を軽々と飛び越える。
 獣の姿で走っていると、自分が人間であることを忘れそうになった。
 驚きよりも、この世界が本当の世界で、この狼の姿こそが本物の自分のような気持ちさえ感じてくる。
 力の限りナオヤは走る。人間の重たい肉体なんて捨てて、イメージの世界を軽やかに駆け抜けた。
「タカシくんは、この形態変化がとても上手だったの。浅層世界中探しても、タカシくんを超える子は殆どいなかったんじゃないかなぁ」
 星の吹き溜まった銀河のほとりで、四肢を折り座った小鹿が小石のような惑星を鼻先で転がしながら言う。狼のナオヤは、前足を揃え、傍に伏せて耳だけを向けて聞いていた。
「空間支配も、凄く上手だったの。現実から逃げていた私たちと違って、ちゃんと地に足もついていた」
「現実から逃げていた?」
「そう。私は、現実なんて大嫌いだった。だからここでずーっと遊んでいたの。多分、ナオちゃんもそうでしょ?」
 昔を思い出そうとしても、詳しいことがナオヤには思い出せない。引っ越してくる前の記憶は、思い出そうとしても深い水底に沈んだきり泡も浮いてはこなかった。ただ、毎日が嫌だったことだけは何となく覚えている。
 何が嫌だというわけではない。母親の事も父親の事も、引っ越してくる前の事はぽっかりと記憶に穴が開いたままのせいで良いとも嫌とも解らない。
 学校の事はまるで覚えていないし、ヤエやタカシを含めて友達なんて居たかどうかも忘れてしまった。それでも何かが嫌だったことだけはしっかりと染みついていた。
「私たちは毎日、こうやってスピリットワールドで遊び続けていた。現実なんて大嫌いで、おとぎ話のめでたしめでたしの後みたいなこの場所でずっとずーーーーーっと遊び続けていられると思ってた」
 ナオヤの記憶の遠くの方で誰かの声が聞こえた気がした。皆でいつまでもいつまでも、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。子供の笑い声が脳裏の奥に霞んで消えて、もう思い出せなくなっている。
「本当は、そんなの出来るはず無いのにね」
 泣いているような声をするヤエの頬を狼らしくペロリと舐めた。普通ならこんなこと絶対出来ないのに、獣の姿を借りていると、簡単に出来てしまうのが不思議だ。
「ありがとうナオちゃん。本当はね、もっともっと早くナオちゃんに会いたかったんだよ。引っ越しするなんて全然教えてくれなかったから、嫌われちゃったかと思ってた。今日会った時も、凄くドキドキしたんだよ」
「違う。ただ、あの時の事は本当に忘れちゃってて……」
 言い訳しようとすると、ヤエはぷるぷると首を振る。
「うん、解ってる。もしかすると、それもタカシくんのせいかもしれないから。こんなことなら、もっと早く連絡をとれば良かったなって」
 そこでふと思い出した。タカシという人物は、今どうしているんだろう。同じクラスに居たうえに友達だったらしいのだが、薄情なことに自分は全く覚えていない。
「タカシって、今も元気なの?」
 ほんの軽い質問のつもりだった。昔の友達は今どうしているかという誰でもやるような他愛の無い質問のはずだった。しかしヤエは半分諦めたような小さなため息をついて、寂しげに教えてくれた。
「タカシくんはね、現実ではもうとっくの昔に死んじゃってるんだよ」


 バトル・フライハイ


 目が覚めると図書室に居た。
「え? あれ?」
 まず突き出していた鼻が無くなっていて、前足が五本指の手に戻っていて驚いた。
 あたりを見回してみても自分以外は誰も居ない。ドア上の時計を見ると、時刻は十二時五分。そろそろ終わる頃だが、まだ四時限目をやっている時間だった。
 自分はつい先ほどまで眠っていて、浅層世界でヤエと話していたはずだった。もし途中で眠っていたとしても、目覚まし時計が自分を起こし、ベッドの上で目覚める予定だったのに何故自分は図書室で目覚めているのだろう。
 思い出そうとしても朝から今までの記憶がぽっかりと抜け落ちていて、何を思って図書室に来たのかさえまるで覚えていなかった。
「いや、いや……落ち着け。きっと覚えている。思い出せるはずだから」
 自分に言い聞かせるようにしながら記憶を辿ろうとするが、どんなに頭を捻っても浅層世界でヤエと会った記憶より先がまるで無い。朝起きたことや学校での授業も普通に思い出せないのではなく、本当に記憶が消えているのだ。
 今までこんなことは無かった。
 確かにぼんやり過ごしていたせいで覚えていないことは多いのだが、それでも自分が何をしていたのか曖昧程度には把握しているような、例え偽物でも時間の進む感覚はあるつもりだった。
 それが今、突然時間がワープじたかのようにぽっかりと抜け落ちている。
 急に怖くなった。
 記憶が抜け落ちているのも多少は怖いが、何よりも時間が進んでいたことを自分で把握できなかったのが一番怖い。多分、今までの経験から妙なことは起こしていないだろうという漠然とした信頼はあるけれど、それでもここまで訳がわからなくなったのは初めてだ。
「うそだろ……」
「何が嘘なんだ?」
「おぅあ!?」
 頭を抱えてその場に蹲ってしまいたい衝動に駆られかけたとき、本棚の陰から一人の女生徒がぬらりと顔を出した。咄嗟にヤエだと思ったが、現れたのは三年の崎島朱乃(サキジマアケノ)先輩だ。
 とても珍しいことに、この人には覚えがある。昼休みなど教室が妙に盛り上がっていてうるさくて眠れない時、ナオヤは時々図書室で居眠りする。大抵、読書や自習以外に居座ろうとする学生は図書委員によってすぐに追い出されてしまうのだが、何故かナオヤだけは許されていた。それもこれも、この図書委員長たる崎島朱乃先輩がナオヤを弟分のように気に入っていて特別に許可してくれたおかげらしいのだが、何故彼女に気に入られているのかはナオヤ自身もよく解らない。
「まったく、君という奴は突然押しかけてきたかと思ったら心理学の本を貸してほしいだなんて、無茶にも程があるぞ」
 頭の後ろで一つにまとめた黒髪をなびかせて、怜悧な瞳をキリリと吊り上げながら『初めての心理学・入門編』という本を手渡してきた。ナオヤはぽかんとした顔のまま朱乃と本を見比べる。
 朱乃が授業中の時間にここに居るのは珍しくない。美人な上に品行方正。勉学の面でも非常に優秀だが、時折ふらっと授業を抜け出しては図書室で本を読んでいることが多々あった。そして、何故か教師もそれを黙認している。
「あの、僕はここで何をしていたんですか?」
 おずおずと尋ねると、机に本を置いた朱乃は不思議そうに眉根を吊り上げる。
「何って、三限目の終わりくらいに突然君がここに来たんだろうが。最初は寝に来たのかと思ったのだが、しばらく漱石やディックをぱらぱら眺めた後、今さっき突然心理学の本を貸してほしいと言ってきたのだが……?」
「その時の、僕の様子はどうでしたか?」
 縋る思いで聞いてみると、朱乃は親指を顎に当て、怪訝そうな顔をしながらも教えてくれた。
「そうさなぁ、別段普段と大きく変わった様子は無かったが、ちょっと爽やかだった」
「さわやか……?」
「そう。爽やかだ。普段ここに来る君はちょっとボケているというか、半分寝てるような感じが大半だからな。本日ここに来たときはシャキっと背筋が伸びていて、目が開いていた。それで、四時限目だけ匿ってくれと頼まれたかな。まぁ、私と君は休み時間以外は殆ど会わないし、普段の教室ではあんな感じだと思ってたのだが……浅野君?」
 軽い眩暈がした。それはもしや、昨日の昼休み自分が知らないうちにクラスメイトと喋っていた時のような感じなのだろうか。だとすれば、それは自分ではない。おそらく、ヤエが言う所の『タカシ』が、自分に成り代わっていたということだ。
「浅野君」と呼び掛けられるのにも気づかずにいると、額にこつんと暖かいものが押し付けられた。見れば、至近距離に朱乃の顔がある。
「どわあぁぁぁ!?」
 いきなり額と額をくっつけられて後ずさるナオヤに、朱乃は心配そうに首をかしげた。
「先ほどからどうした? 顔が真っ青だぞ? 熱は無かったが、風邪か?」
「あ、あの大丈夫です。風邪じゃないです。あ、僕、そろそろ教室に戻らないと……」
 しどろもどろで朱乃から離れようと理由をこじつけるが、そうもいかない。
「間もなく四時限目も終わる。どうせ出席扱いにはならないのだから、ここで少し休んでいったらどうだ? 顔色が悪すぎる。それとも、保健室に行くか? 私で良ければ送って行こう」
「あの、えっと。そういうわけじゃなくて……」
 どうにかならないものかと頭を巡らせたその時、タイミング良く四時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。同時に、誰かが図書室のドアを勢いよく開く。
「ナオちゃんいる!?」
 肩を揺らして息をするヤエが転がり込むように入って来る。普段のほやほやした雰囲気はどこへやら、焦っていた表情は、ナオヤの姿を見た瞬間あからさまに氷解した。
「よ、よかったぁ〜」
 ふやける様に笑顔を取り戻したヤエがナオヤに近づくと、両手でぎゅっと抱きついてきた。
「良かった。ナオちゃんがナオちゃんに戻ってた。朝からずっとタカシくんだったよね? こっちからアンカー繋げてもすぐ弾かれちゃって、話しかけられなくて、もう突然全部食べられちゃったのかと思ってた」
「あの、丘野さ……胸、胸当たって……」
 むぎゅむぎゅと二つの膨らみを惜しげも無く押し付けられて今度は違う方向に困っていると、後ろから朱乃がにゅっと顔を出す。笑顔は笑顔だが、滲み出る気配がどこか黒い。
「仲睦まじいことは良きことだが、少々その辺でストップしてくれまいか? ほかの利用者が来たらどうする」
「……この人はどちら様?」
 ようやっと朱乃の姿に気づいたヤエが体を離した。ナオヤはいつものように頭の中が外界に追いついておらず、その前に朱乃が自ら自己紹介をした。
「私は崎島朱乃。三年だ。図書委員をやっている」
「初めまして。最近北陽高校から転校してきました。丘野ヤエです。ナオちゃんがいつもお世話になっています」
 つっけんどんな態度の朱乃に対し、姿勢を正したヤエはあの人好きのする笑みを浮かべて軽くお辞儀をする。あからさまに不機嫌な態度だったにも関わらず、まさかこんな風に挨拶を返されると思っていなかったらしい朱乃は一瞬毒気を抜かれたように目を瞬かせる。
「あ、あぁ、こちらこそよろしく……ところで、君は浅野君とどのような関係で?」
「あああ、丘野さんと僕は小学校の頃の幼馴染なんです。昔、僕の方がこっちに引っ越しちゃって、昨日久しぶりに会ったんで、凄く懐かしくて小さい頃の感覚に戻っちゃって、ちょっとリアクションがオーバーになってるんですよ」
 ようやっと頭の中身が追いついたナオヤが必死で穴だらけの紹介を始めると、じっとりとした重たい視線を向けていた朱乃はどうにか解ってくれたのか「なるほど」と頷いた。
「まぁ、懐かしさに小さい頃の感覚に戻るのは仕方がないが、話すなら図書室の外に行くように」
 口を尖らせた朱乃が言った時、昼食を食べ終わったらしき生徒が数人、図書室に入って来た。それを見た途端、朱乃の雰囲気がそれまであったものとガラリと大きく変わる。
「あらぁ、もう人が来ちゃったわ」
 先ほどまでは委員長然とした引き締まった態度だったのに、妙に色っぽい声音になっていた。
 「もう定位置に戻らなきゃね。それじゃあ、また来てね。ナオちゃん」
 朱乃は艶やかな声で囁き笑顔で手を振ると、図書貸出の受付席に入って行った。
「ナオちゃん行こう。こうなったら早く決着を付けないと、本当に取り返しのつかないことになっちゃうから!」
「うん……?」
「どこか静かにお昼寝できる場所は無いかな?」
「それなら、屋上の給水塔の陰とか……?」
 よく解らないままヤエに急かされて図書室を出ていく時、ちらりと振り返ると朱乃は本を借りに来た生徒にニコニコ笑い、楽しそうに話しかけているのが見えた。さっきとまた少し喋り方や雰囲気が変わっている気がする。
 不思議な人だなぁと思った時、不意に朱乃と目が会った。
 ほんの一瞬のことだが目を細めた朱乃の笑顔が狐のように見えて、ナオヤは何故か『少し怖いな』と思った。


 ☆  ☆  ☆


「どうして僕がタカシじゃないって解ったの?」
 ヤエに引きずられるように廊下を歩きながら、先ほどすぐにナオヤがナオヤであると解った理由を聞いてみるとヤエは少し不思議そうな顔をした。
「すぐに解るよー。だってナオちゃんっていっつも眠そうな顔してるもん。最初はナオちゃんが昔と変わったちゃったのかなって思ってたけど、やっぱり昔と同じだものね。今なら見ればすぐわかるよー」
 即答されて、そんなに昔から自分は寝ぼけた顔なんだろうかとちょっとだけ落ち込んだ。
 そういえば、先ほど崎島先輩にも似たようなことを言われた気がする。半分寝てるような顔をしていると。その点、タカシという奴は相当爽やかなのだろう。確かにヤエの浅層世界で見たあの自分は怖い程に饒舌な上によく笑顔を見せていた。友人だって作るのが上手に違いない。
 それに比べて自分は何だろうか。毎日毎日眠ってばかりで友達も居らず、だからと言って自分を変える気もさらさら無く、今もこうして自分では何もせずに流されるままヤエに引きずられている。ついでに人生が楽しいかと問われたら、何とも言えなかったりする。ついでに言えば息をするのもめんどくさい時もあり、それならいっそこのまま人生を楽しめるタカシに取って代わられても良いのかもしれないなぁなんて薄ぼんやりと思った時、まるでナオヤの頭の中を読んだようにヤエが珍しく鋭い声で「こらっ!」と怒った。
「ナオちゃんしっかりして! それじゃあ本当にこのまま食べられちゃうよ!」
 四階の階段を上り、丈夫そうな鉄の扉を開けば突き刺さるような空の青さと、現実感を持ったしっかりと解る気温の空気が頬を撫でた。 
 春の陽射しも暖かな昼下がりの屋上には、幸いなことにまだ誰もいなかった。
 これがもう少しすると、だらだらとサボりに来たりダベりに来たりするする学生が出てくるのだが、今のうちに人気の少ない給水塔の裏に回ってしまえば誰かに見られることも無い。
 給水塔裏の陰は少し前までナオヤにとって天気の良い時限定で最高の昼寝スポットだったのだが、女子たちが興じていたバレーボールの流れ弾を顔面に思いきりぶつけられてからは行っていなかった。
 給水塔を背もたれに座ると、ヤエのほうはさっさと目を閉じる。
 教室の中で最初にヤエのスピリットワールドに連れ込まれた時は二人とも起きたままだったから、きっとこれは本格的に何かをするのだなとナオヤは直感する。
 目を開けたまま、五億年以上も昔から変わっていないらしき青空をぼんやり見ていると、案の定ヤエを中心に再び世界は違和感に揺らいでいく。
 自分が眠っているかもわからないうちに世界は夢へと変貌を遂げていた。アスファルトから見る見る青草が伸びていき、給水塔には古い木が巻きつくように生え、苔むした半壊の校舎からは名前も知らない青い鳥が羽ばたいていくのが見えた。
 スピリットワールドは本人の気分によってもある程度左右されるらしいことを昨日ちらっと言っていたので、きっとこれが今日のヤエの気分のイメージなのかもしれない。
 ピヨヨ、と鳥の鳴き声が耳元から聞こえて隣を向くと、ヤエはいつの間にやら緑の小鳥に変化していた。
「ナオちゃん、昨日と同じようにアンカーをかけて、私をナオちゃんの世界に連れてって!」
「あ、うん」
 肩にとまったヤエに言われて、昨日と同じように額の裏に自分の光を見つける。昨日と違うのは、ヤエと繋がっているために光の糸が一本伸びていることだ。この光の糸を辿り、自分から飛ばしたアンカーを向こう側に繋げてダブルアンカーは完了なのだが何かおかしい。
「光が、二つある?」
「うそ」
 驚いたヤエが目を瞑ると、困ったように唸った。確かにナオヤとヤエの光の他、遠くに一個だけ地上から見た星のような淡い光の玉を見つけた。
「あ、ほんとだ。誰だろう」
「僕らの他にもスピリットアンカーを使える人物が居るってこと?」
 問えば、ヤエは「そうみたいだね」と他人事のように頷いた。
「そんなことがあるの?」
「それは、リリちゃんの知り合いは私たち三人だけじゃないもの。世界を貰った人が他に居てもおかしくないもの」
「リリちゃんって?」
「スピリットワールドとスピリットアンカーの概念をくれた人。だけど、この話はここまで。まずはタカシくんと決着がついたら後でいくらでも教えてあげるから!」
 ピピィと鳴いて緑の翼をはためかせ、ヤエはナオヤを急かす。
「……解った」
 しぶしぶヤエの方とアンカーを繋げると昨日とは真逆、自分が世界を引き込んでいるかのような、色々なものが一斉に迫ってくるような感覚を覚えた。そしてふぅと息をついたのもつかの間、青々とした森に飲まれた廃墟の世界が、いきなり何もない、一面灰色の世界になっていた。
「は?」
 てっきり、ヤエの世界観と混ざり合うような変化が起こると思ったのに、掠りもしなかったことに驚いた。
「あぁ、やっぱりもうここまでタカシくんが出てきちゃってる!」
 緑色の小鳥は頭を抱えていた。
 昨日のように、空間支配で周囲を宇宙に変えようとしてもびくともしない。何もない、一面の灰色の平原。地面は砂ですらなくて、継ぎ目のないタイルのようなもので出来ていた。空を見上げればそこも一面の灰色だ。唯一確認できるのは、視界いっぱいに広がった雲だ。空一面に充満した雲が、まるで台風のように大きく渦巻いている。
 ヤエはそれを見て、タカシと呼んだ。
「な、何で。アレの何がタカシなんだ!?」
「つまり、ナオちゃんの自我をもうタカシくんが殆ど支配してるってこと!」
 メタモルフォーゼ! の掛け声とともに緑色の小鳥は空を飛び、空中で大きく円を描くと三メートルはあろうかという巨鳥に変身した。
「ナオちゃん捕まって!」
 傍まで下りてきたヤエの羽毛で覆われた体に慌てて捕まると、巨鳥の体はすぐに地面を蹴って飛び上がる。瞬間、渦を巻き始めた空から巨大な手が先ほどまでナオヤたちが居た場所に雷のように落ちてきた。
 どばんという轟音とハリケーンじみた風圧と共に灰色のタイルが手形に凹む。
 あのままあそこに居たら、間違いなくぺしゃんこに押しつぶされていた。
「ななな、な、な、な」
「あれがタカシくんだよ! あれに捕まったら、多分今度こそでナオちゃんは全部食べられちゃうからね!」
 風圧に飛ばされぬよう、力強く羽ばたくヤエの柔らかな羽毛にしがみつきながら天空から大地へ振り下ろされた岩のような巨人の腕を見る。アレがタカシだって? アレでは本物の化け物じゃないか。
「しっかり捕まってて!」
 ゆっくり驚いている暇も無く叫んだヤエは体を斜めに傾けて急旋回をしはじめる。
 ナオヤが体を低くして、一層緑色の羽毛をぎゅうっと抱きしめると再び巨大な手が雲の上から落ちてきた。それも一本や二本の話ではない。幾本もの手が、まるで雷のように次から次へと上から落ちてきているのだ。その度にヤエは体を捻って腕と腕の隙間を縫うように飛びながら攻撃を躱している。
 追いかけてくるような動きの無いのが幸いだが、それでも物凄い数だ。
「ごめんねナオちゃん。タカシくん相手だと、私の力じゃ逃げるのが精一杯だから!」
 矢のように飛び続けるヤエ。しかし、いくら俊敏に逃げ回っていてもこのままではいずれ捕まってしまうだろう。
 ナオヤも変身するか悩んだが、自分の力ではあの天から降り注ぐ巨人の手から逃げ切れる自信が無い。
「これから、どうすれば良いの!?」
 ヤエの緑色の羽毛にしがみつきながら叫ぶと、緑の巨鳥は歌うように教えてくれた。
「ナオちゃんの深層世界に行く!」
 真上から巨大な手のひらが現れて今にも押しつぶそうと落ちてきたその時、突然ヤエが翼を畳んで真っ逆さまに急降下をしはじめた。顔に当たる生ぬるい夢の空気と、予想通りの風圧。底の無い夢の中にどこまでも急激に落ちていく恐怖がないまぜになったナオヤの叫び声。
「見つけた!」
 ぐんっ、と腹の底に重力が響く感触の後、今にも捕まえようと迫る岩石のような指の間をすり抜けて今度は急上昇。
 風圧に負けず前を見れば雲の中に一際黒い裂け目が出来ていて、ナオヤを乗せた緑の巨鳥は迷わず中に飛び込んだ。


 ☆  ☆  ☆


 深層世界。
 それは、個人の人格を形作るもっとも大切な場所だ。
 個人が個人たりえる、もっとも必要な部分。人格の中枢。
 もっと解りやすく例えるならば、心の核というもの。
 タカシはそんな場所に居るらしい。
 どうしてタカシが帰ってこなかったのか、ヤエにも理由は解らない。もしかしたら事故だったのかもしれないし、わざとだったのかもしれない。真実を知っているのは、忘却された過去のナオヤ自身と、タカシのみだ。
 ヤエが知っているのは幼い頃のあの日タカシはナオヤの深層世界行って、それきり帰ってこなかった。
 精神を失った肉の器は、脳そのものが健全にも関わらずそれのみで機能し続けることはできなかった。大人たちが沢山の手を尽くしたにも関わらず、タカシの肉体は死滅した。しかし精神が死んだわけではない。
 深層世界。そこでタカシはナオヤの事を内側から観察し、再び肉体を纏いこの世に降り立つために少しずつナオヤの人格を侵食しているのだと言うわけだ。
「まるでゲームの話みたいにね」
 あの夜の世界でヤエは懐かしむように言っていた。
 そこまでは、ナオヤも憶えていた。しかし、そこから先がどうしても思い出せない。
 どのようにしてヤエと別れ、そして図書室で目覚めるまでの間、周囲では何が起きていて自分は何をしていたのだろうか。
「多分、タカシくんは人格が浮上していない時でもナオちゃんの目や耳を通して周囲の事が解るんだと思う。だから、昨日私がタカシくんのこと思い出させようとしてるのを聞いて焦ってるんだと思うの」
 ここはナオヤの中層世界。
 浅層世界と深層世界の間にある空間だ。ゆで卵で言えば浅層世界が殻の部分で、ここは丁度白身の部分にあたるらしい。
 太陽の無い、岩だらけの赤茶けた大地を一頭の狼がとぼとぼと歩いている。その頭には、一匹のヤモリがしがみついていた。
「あの時も、今と同じようにタカシくんが邪魔しに来たのよ」
 中層世界に入った途端、ヤエは巨鳥の姿を維持できなくなり今は五センチほどの桜色のヤモリの姿になっていた。深層に行けば行くほどその世界の持ち主の影響が強くなり、外から来た他人は動きに制限が出てきてしまうらしい。
 桜色のヤモリは狼に変身したナオヤの頭に乗りながら、どうしてもナオヤが思い出せない昨日のこと……あの夜と星の日の最後を教えてくれた。
「タカシくんがもう死んでいることと、今はナオちゃんの深層世界に居ることを教えた途端にね、こう、星がぐわーって。銀河みたいに渦巻いたのよ。で、中からさっきの手が落ちてきたの」
 狼の頭で、ヤモリが小さな手を目一杯に広げてジェスチャーをする。
 銀河の中から現れた、巨大なタカシの手。咄嗟にそれを避けたのは良いものの、余りに急な出来事に許容を超えて驚きすぎたヤエは現実世界に投げ戻されてしまったのだと言う。
「悪夢を見て、悲鳴を上げて飛び起きるって言うのかな? 自分の許容量を超えてびっくりしすぎると防衛本能が働いてアンカーが切れちゃうみたいなんだよね」
 飛び起きたヤエは咄嗟にナオヤに電話を掛けたのだがそこで出たナオヤは少し妙だった。
「『ありがとう。大体のことは解ったから、今日はもうヤエも寝ると良いよ』だって。ちょっと変だよね? だから私はタカシくんかもしれないって思ったの」
 それから、何度かヤエからアンカーを放ってみたのだが、それらは全てナオヤに拒否されて全く繋げなくなってしまった。そこで、ヤエは確信を得たのだと言う。
「ブロックは誰とも繋がりたくないって強い意志を持てば出来るの。その間は誰にもアンカーは繋げない。でもあの時のナオちゃんが自発的に私を拒絶するのは考えにくいんじゃないかなーと思ったの」
 そして、学校に来てみれば案の定ナオヤはタカシになっていた。その上、ナオヤが図書室で目覚めるまでタカシは一度もナオヤに戻ることが無かったと言う。
 ナオヤとしても記憶が曖昧だったことはよくあるが、ここまではっきりと自覚して記憶が飛ぶのは初めての事だ。
「どうして僕は図書室で戻ってこれたんだろう?」
 本気で乗っ取るつもりならそのままナオヤに意識を戻さずに乗っ取ることもできたのではないか。呟くように尋ねてみると、ヤエは「うーん」と難しそうな声を出す。
「それは私にもわかんない。でも、多分……本当にただの憶測なんだけど、タカシくんに気づいて油断していないナオちゃんをいっぺんに食べきるのは難しかったのかもしれないね」
 何にせよ、もう一度捕まったら今度こそ戻ってこれるか誰にも解らない。
 ヤエの力が十全に発揮できない以上は、あまり目立たないよう周囲の風景を変えずに静かに歩いて深層世界に行くのが得策らしい。
 それにしても、殺風景な場所だった。赤茶けた大地と大岩以外、何も無い。本当にこれが素の自分なのだろうか。だとしたら、自分の心は何故こんなに乾いているのだろうか。
「中層世界ってどんな場所?」
 前足で小石を蹴りながら鼻先まで下りてきたヤモリに尋ねると、桜色のヤモリは金色の目をキロキロと動かした。
「そうね。浅層世界が外の世界のイメージだとしたら、ここは人格の世界かな」
「人格?」
「そう。うーんと、イメージが難しいかもしれないけれど、人間にはいろんな人格が眠ってるんだよー」
 よく意味が解らない。すると、ヤエはとぼけ顔の狼の表情を読み取ったのか何とか伝えようと身振り手振りを加える。
「えーっと……アニメとか漫画とかで何かの判断をする時、天使と悪魔が囁いたりする描写があるでしょ? あんな感じって言うのかなぁ? 授業さぼっちゃえって考えるナオちゃんと、ちゃんと授業受けなきゃって考えるナオちゃんが、別々に居るんだよ。他にも、もし死んだお婆ちゃんがここに居たらどうするか、とか学校の先生だったらなんて言うか、とか考えるでしょ。そういう人が沢山いるの」
「……つまり、頭の中に居る色々な考え方が擬人化されて住んでるってこと?」
 実際はいまいち理解が出来ていないのだが、聞けば意外にもヤエはコクンと頷いた。
「もう会えない人でも、覚えているそのままに出てくるのよ。自分の印象の通り思い出のままの姿で。だから物凄く美化されてることもあるし、本人よりずっと悪人だったりすることもある。でも、いつでも会えるってわけじゃないのよ。むしろ中層世界は浅層世界と違って無意識が強いから、会えないことの方が多いかもしれないね。凄く運が良ければ小さい頃のナオちゃんにも会えるかもしれないんだけど……」
「そんなのが居るの!?」
 目を見開いて鼻先のヤモリを見ると、彼女は事もなげに首をかしげた。
「いるよ。過去と現在の考え方が大きく違えば、『過去の自分』という人格がどこかに生まれるもの」
「記憶が無くても?」
「もちろん。記憶が無くたって、過去の自分は消えないでしょ?」
 だよね? とヤエも少し不安そうだが、とりあえずそういうものらしい。
「ただ、浅層世界にも出てきていたタカシくんがここで何もしてないはずは無いの。それがどういう風に影響してるのかは私でも解らない。とにかく、何が起きてもアンカーが切れないように気を引き締めて行かないと!」
 気合いを入れるように桜色のヤモリは器用に狼の鼻先に立ち上がり、握りこぶしを作って上に突き出した。
「えいえいおー」
 本人の意気込みとは裏腹に気の抜けるようなふわふわした可愛らしい掛け声を聞いて、狼は笑うように目を細めた。


 ☆  ☆  ☆


 荒野を歩くことしばらく。
 途中でタカシが現れることも無く、別の誰かに会うことも無く平坦な大地が広がっている。目印になるようなものは何もなく、深層世界の入口どこか人影の一つも無い。ヤエに言わせれば、だいぶタカシに荒らされているというのだが、普通が解らないナオヤからすれば詰まらないことこの上ない。
 しかし、現実ではどれほどの時間になっているのだろうとぼんやりとナオヤが考え出したころ、それは起きた。
「伏せて!」
 ヤエの声に慌てて身を伏せると、少し遠くで爆炎が上がった。同時に、砂を含んだ爆風が物凄いスピードで頭の上を通り過ぎていく。もうもうと土煙が上がり、風が収まったころに恐る恐る目を開く。いつの間にかもぐりこんでいたヤエが前足の間から顔を出したとき、上空から巨大なものがせわしく羽ばたきながら下りてきていた。
「何だあれ……ドラゴン?」
 ナオヤもヤエもすぐには判断できなかった。パーツ一つ一つの構造からしてゲームに出てくる西洋のドラゴンに似ているのだが、どう見てもその形が極端にアンバランスなのだ。
 巨大な翼と大きな顎とは釣り合わない、頭の三分の一ほどしかない小さな体は、小鳥の胴体に無理やり竜の頭や翼を取り付けたようだ。ひょろひょろとした右脚は一見すれば紐のようにぶら下がり、反対の左脚はハンマーのように太く短い。左右の眼球の大きさも著しく違っていて、おおよそ生物的な構造とは思えなかった。
 そんな頭を運ぶために仕方なく胴体があるとでも言うような歪な形の薄白い竜が、頭の大半を占める口を大きく開くと火球を二度、三度と立て続けに吐き出した。
 地鳴りに似た腹に響く音が周囲を震わせ、再び伏せたナオヤの体を何度も爆風が通り過ぎていく。
「ナオちゃん耐えて!」
「くぅ!」
 必死に爪を立てて大地にしがみついていたナオヤだが、ぶつかってくる風圧の勢いに押されて少しずつ後ろへ下がって行く。ずりずりと爪が地面を削るが、もう限界だ。このまま飛ばされてしまうのかと思った瞬間、風が止んだ。
「助けて! 助けて! 助けて!」
 悲鳴が聞こえた。砂煙が消える前に立ち上がり、周囲を見回すと竜が先ほど火球を放った方角から五歳くらいの小さな少女がこちらに向かって駆けてきた。
「ナオちゃん逃げて!!」
 ヤエの叫び声。火球を放った竜はしばらく何かを探す様に黙っていたが、少女を見た瞬間そちらに向かって急降下し始めた。
 巨大なコウモリのような被膜の翼をせわしく羽ばたかせ、大きな牙を見せつけて吠える。左右でアンバランスな目は人を不快にするためだけに描かれた精巧な落書きみたいで、生理的な嫌悪感と恐怖が湧きあがる。
 ナオヤはすぐに動くことが出来なかった。見た目の恐ろしさもあるが、もっとも足を竦ませたのはその存在の有り方だ。
 そいつは破壊そのものだった。
 ナオヤの内側を壊し食らい尽くすためだけに、そいつは存在している。
 そして、ナオヤがナオヤである限り、あれから逃げ切るのは無理だと直感的に悟った。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 少女の後ろから追撃を始めた頭の大きな竜はすぐ彼女に追いつくと、飛びながらその巨大な口で頭を挟み込み飴玉か何かのように丸呑みした。ナオヤの中で、また何かが削ぎ落とされる。
 そして、ナオヤが立ち竦んでいる間に竜はハッキリとこちらを見た。
 見つかった。もうダメだ。
 こちらに気づいた巨頭の竜は翼を羽ばたかせると、少女を飲み込んだ虚空のような真っ黒い口を開けて迫ってくる。
 頭の中が、真っ白になった。
「頑丈で巨大な岩壁!」
 脳に直接叩きこまれるようなヤエの声に咄嗟にイメージすると、目の前で十メートル近くある岩壁が地面からせり上がる。視界いっぱいに岩壁が広がり、すぐにどぉんと音がして竜がぶつかったのだと解った。
「仕方ないけど、ナオちゃんが食べられちゃうよりはマシだよね? どこまで出来るか解らないけど、サポートするからナオちゃんもイメージして! そのまま全力で深層世界に行きましょう」
 ふわふわしながらも、どこか頼りになるヤエの言葉にナオヤもようやっと正気を取り戻す。そうだ。ここでやられたら、ヤエまで一緒に食われてしまう。
「わかった」
 頷いて、四肢に力を入れて身構える。
「来るよ! 壁から離れて!」
 壁に阻まれた竜が向こう側で咆哮を上げた途端、岩壁にヒビが広がり砕け散った。まるで、この程度のイメージなど無いに等しいとでも言うように頭突きで一撃のもと壁を貫通させた竜の大きな顎が目前まで飛び出してくる。
「変身(メタモルフォーゼ)!」
 飛ぶように一歩後退したナオヤが叫ぶと一瞬のうちに狼の頭が細長く伸びる。前足に被膜がつき、大きな翼の形状に変形し、ふさふさと生えていた獣の毛は細かな青い鱗に成り代わる。
 それは飛ぶことに特化した竜の姿だ。
 シルエットの細い、鶴に似た細い青竜はすぐさま地を蹴り竜の脇へ回り込むように飛んだ。直線では敵わないので、ヤエのように小回りしながら応戦するしかない。
 案の定、竜はすぐに頭の向きを変えるとこちらに向かってくる。
「いい、ナオちゃん。ここはイメージの世界。だから、イメージが強い方が勝つの。だから、自分を強くイメージして。誰よりも強いと思えば、それが本当の強さになるんだよ!」
 思いもよらぬ素早さで振られた首が迫り、ガチィンと牙が空を切る音が耳元で響く。もう少しで体を挟み込まれる寸前で牙を躱す中、ヤエは頭の上で助言する。
 誰よりも速く。あの竜よりも強く。どこかで見ているタカシよりも。世界さえも味方についているとイメージしなければこの戦いには勝てない。
 しかし、普段の自己評価が低すぎるナオヤに最強の自分をイメージするのは至難の業だ。強い自分なんてものは想像もつかないし、あの不気味な竜に勝てると思うなど正気の沙汰ではない。ならば、どうすればあの竜から逃れることが出来るのか。
(僕は飛ぶことが最も得意な竜だ。デカ頭の重そうな竜などすぐに追い抜ける、最速の竜だ!)
 イメージした途端、翼が一回り大きくなる。鳥竜と最速のイメージを重ね合わせ、普段では出せないような猛スピードで空を飛ぶ。音よりも速く、光よりも速く。まるで青い閃光のように空を切って駆け抜ける。
 それでも竜はナオヤについてきた。今にも後ろから飲み込まんと大きな口をばっくりと開き後ろに張り付いている。至近距離でガチィンと牙が空を切る音と、時折飛んでくる火球を左右に体を傾け急旋回を幾度も繰り返して躱す。
 細い隙間を縫うヤエのような芸当は無理だが、一直線の攻撃ならばどうにかナオヤにも耐えられた。
 拮抗しているかのように見えた高速の追いかけっこはやがてナオヤに軍配が上がり始めた。二頭の間が開き始め、このまま逃れられるかと思えた時、突然巨頭の竜が動きを止めた。
「何だろう?」
「解らない。気を付けて!」
 しばし空中を羽ばたきながら大小の目で睨みつけていた竜は、ガパリと口を開くとそれまでよりも巨大な炎球を吐きだした。
 ナオヤの体よりも大きな炎球を慌てて避けるが、逃げ出した方にももう一つ放たれる。
「うわっ、あっつっ!」
 まるでナオヤの逃げる方向が解っているかのような攻撃に慌てて減速するが間に合わず、ナオヤの翼の先端が焼かれた瞬間だ。その時を待っていたかのように大口を開けた竜の顎がナオヤの眼前に迫る。
 食われる。
「今よ! 空から鉄の槍!! 降り注げ!!」
 ヤエの言葉と同時にイメージが湧きあがり、杭のような鉄の槍が上空に出現した。無数の鉄槍はナオヤたちを避けて豪雨のように巨頭の竜の上に降り注ぐ。
 頭部のほか翼や小さな胴体にも雨あられのように突き刺さり、もう少しでナオヤたちを食らうはずだった口が悲鳴にも似た大音声を上げて赤茶けた大地へと落ちて行った。
「逃げて!」
 地に落ちつつある竜はまだ動いていたが、倒そうとは思わない。アレには到底叶わないのは最初から承知している。今はとりあえず、ここから離れて深層世界へ行かなくては。
 しかし、ナオヤが竜に背を向けて一目散に羽ばたこうとした翼を震わせた時、視界が反転した。
「え?」
 鳥に似たナオヤの後足に、何かが絡みついていた。
 地面に落ちた竜の、糸のように細い右足が伸びて巻きついていたのだ。
 思いもよらないことに、咄嗟にイメージする暇も無い。
 強力なワイヤーを巻き取るがごとく物凄い力で足を引っ張られ、地面にたたきつけられる。これもイメージなのだろうか。全身を打ちつけた猛烈な痛みが体中を駆け巡り、上手く思考がまとまらない。
 突き刺さった杭を全て抜いたのか、アンバランスな気味の悪い竜の瞳が目の前にあった。翼は破れているはずだから、這ってきたのだろうか。虚無のような口がゆっくりと開かれ、今度こそ終わりかと思った時、桜色の小さなヤモリが二頭の竜の間に立ちふさがる。
「ヤエ……」
「ナオちゃん。やっと名前で呼んでくれたね!」
 止めろ。と言う間もなくヤエが嬉しそうに笑うと、今にもナオヤを食おうとする竜の口の中に飛び込んだ。瞬間、まるで破裂するような速さで口の中一杯にピンク色の風船が膨らんだ。
 ヤエのイメージの影響なのか、丈夫な風船は鋭い牙が食い込んでも暴れる竜が爪で掻いてもびくともせず、そのまま口が使えなくなるまで大きく膨れ上がる。しかし、竜のほうもそれが悪あがきなのを知っているようで、風船が吐き出せないと知るや否や動きを止めた。
 倒れ伏すナオヤを睨めつけたまま、おそらく数秒も経っていないだろう。
 戦いのせいで居場所がバレてしまったのか、空が静かに渦を巻きはじめ、中央からタカシの巨大な手が現れた。
 天から伸びた手はまず巨頭の竜を拾い上げて空へと吸い込まれていった。そして未だ動けずに居るナオヤにも手を伸ばす。力の無い青い翼を摘みあげようとした時、地の底から猛烈な吸引力を感じた。
 浅層世界の中で相手からアンカーを繋げられた感じに似ているが、それよりももっと強い。
 まるで重力が三割増しになったかのような強烈な地面からの吸着感に息苦しささえ感じた時、ナオヤの真下の地面が大きく盛り上がった。
 もちろん、ナオヤがイメージしたわけではない。
 ぐおぉぉぉぉぉぉ!
 空気を震わせる大声と共に大地の底から現れたのは、天から伸びるタカシの手よりも巨大なクジラだった。
 大地そのもののように巨大なクジラはタカシの手が届く前に地面ごとナオヤを口の中に飲み込んだ。そして、体を翻すと再び地面の中に潜って行く。
 生暖かく暗いクジラの口の中で、ナオヤは誰かに尋ねられた。それはよく知る誰かの声だが、知らない誰かのようであった。
『テメェ、どこで寝ている?』
 一瞬、何の事か解らなかった。黙っていると、イライラしたようなクジラの声がまた聞いてくる。
『テメェの本体だよ。どこで寝たんだ?』
 朦朧とした意識の中で、ふと自分の本体の事を思い出した。
「屋上の給水塔裏」
『解った。今、あいつが呼びに行くってよ』

 ☆  ☆  ☆

「浅野君。浅野君。起きてくれ」
「崎島先輩……?」
 体を揺すられる振動にナオヤが目を覚ますと、目の前に居たのは崎島朱乃だった。
「大丈夫か? うなされていたぞ」
 心配そうな顔が、ほっと安堵の表情を浮かべるのを見て、ナオヤはガバリと飛び起きた。
「そうだ、ヤエは!?」
 慌ててヤエの方を見ると、彼女は給水塔を背もたれに穏やかな寝息を立てていた。どこも辛そうな様子も無く静かに胸を上下させているのを見て、ナオヤはほっと息をつく。
「良かった。ヤエ……じゃなくて丘野さん、起きて!!」
 優しく肩をゆするが、ヤエは目を覚まさない。
「どうした?」
「起きてよ丘野さん。冗談だろ?」
 さらに強く揺さぶるが、ヤエは目を閉じたままピクリとも動かないまま、横へバタリと倒れこんだ。
「ねぇヤエ、起きてよ。寝てるだけだろ?」
「待て。まずは先生を呼んで来よう」
 どんなに揺さぶっても、耳元で呼びかけてもヤエは目を覚まさなかった。それどころか、朱乃に呼ばれてやってきた教員が抱き上げても、保健室に連れて行かれても、さらに病院に搬送されてもヤエは目を覚まさなかった。
 丘野ヤエは静かに眠ったまま、ただの一度も目を覚まさなかった。



 図書室サンドバッグ



 結局、ヤエと共に救急車に乗ったのは養護教諭一人だった。
 本当はナオヤもついて行きたかったのだが、学生は学業が本分であるという理由と共に却下された。
 それなら、搬送される病院の名前を教えてもらおうと思ったのだが、それも「お前、教えたら何するか解らんだろう」という理由で却下された。
「放課後になったら教えてやるから、な? そん時に職員室に来い」
 何かを勘違いしてるのか、知ったような顔をしてナオヤの背中を乱暴に叩く小松龍太郎三十一歳独身を思い出しながら(うるせぇハゲ)と心の中で毒づいて、如何にして学校を抜け出すかを廊下の窓から校門を見下ろして模索していた時、肩を叩かれた。振り返ると、ヤエを救急車に乗せてから一度も顔を合わせていなかった崎島朱乃が猫背気味に立っていた。
 美しく整った顔に、怜悧な瞳。長い黒髪を一括りにした学園の才媛。しかし、いつもと雰囲気が違っている。凛とした雰囲気はなりを潜め、代わりにちょっとでも気に食わないことがあれば拳が飛んできそうな、何をされるか解らない暴力的な空気が周囲を支配していた。鋭くあたりを睨みつけ、しきりに威嚇しているような振る舞いはナオヤが一番苦手で関わりたくない部類の人間の典型例のようで、つい及び腰になってしまう。
「浅野ナオヤ、だったか?」
 普段の声音とはだいぶ違う。低く唸るような声で聞かれたナオヤは反射的に背筋が伸びた。
「はいっ……っあ、あの、僕に何か御用でしょうか?」
 おずおずと尋ねると、今度は意図的に思いっきり睨まれた。
「あぁ!? ご用でしょうかじゃねぇよ!!」
 物凄い剣幕で怒鳴られると共に近くの壁を勢いよく叩かれる。窓枠がビリビリと震えるほどの衝撃はナオヤの身を竦ませるのには十分すぎた。廊下に出ていた他の生徒の数名が何事かとこちらを注視すると、それを気にしたのか朱乃は大きく舌打ちする。
「ちっ、解った。解ったわーったって! はいはい穏便にな。オンビンに。あーもうめんどくせぇな」
 どこに向かって喋っているのか、ブツブツと独り言を零しながら髪が乱れるのも構わず頭を掻きむしる朱乃を見ていると、整った顔に突然凶悪な笑みが浮かび上がる。普段の委員長然とした姿とはまるで違う、連続殺人鬼でも彷彿させるような表情にナオヤの肌が一気に泡立った。
「放課後、図書室に来い。いいな絶対だぞ。来なかったらぶっ殺してやるからな!!」
 ナオヤに指を突き付けて吐き捨てるように言うと、朱乃は踵を返して去って行った。
 ふらふらと自分の教室に戻って席に座ると、まるで悪夢のような出来事に頭を抱えた。
 普段の凛とした委員長はどこへ行ってしまったのか。というか、あれは本当に崎島朱乃なのだろうか。あんな朱乃は見たことが無い。しかし、考えてみれば崎島朱乃という人物は奇妙な人間だ。あまり喋ったことも無いのにナオヤを気に入ってるらしい事もそうだが、授業中に図書室に居ても怒られないことや喋る人によって人格をコロコロと変えているように見えること。ただ、それで変な噂がたった事は無いし、そもそも誰に尋ねても崎島朱乃という人物は優等生だった。
 品行方正、学業優秀、文武両道という言葉がよく似合うちょっと変わった美少女。
 もちろん、ナオヤだってそう思っていた。少なくとも崎島朱乃がヤンキーよろしく壁を殴った話は聞いたことが無い。
 不思議と言えば、朱乃が知らないはずの給水塔裏にナオヤたちを起こしに来たことも不思議だ。そして中層世界でナオヤを飲み込んだ大きなクジラ。
 あれも、考えてみればタイミングが良すぎる気がする。
 あれほど抜け出そうと思っていた学校だったが、何か知っているらしい朱乃を無視するわけにもいかず、結局ナオヤはどこにも行かなかった。
 授業中、一度だけ目を瞑ってヤエにアンカーを飛ばしてみようと試みたが光はどこにも見つからず、ただ椅子に座ったまま放課後をひたすらに待ち続けた。


 ☆  ☆  ☆


 考え事をしていたせいか、途中で意識を失うことも無く無事に帰りのホームルームが終わり、誰かに話しかけられる前に急いでナオヤは図書室に向かった。
 すれ違う教師に咎められるのも尻目に、走って図書室前まで駆け抜け勢いよく扉を開けて転がり込むように入る。
 理路整然と本が並んだ空間に飛び出した途端「逃げろ!」と誰かが叫んだ。もちろんすぐに体が反応する暇も無く戸惑ったが最後、頬に熱い衝撃が走る。
 物凄い勢いで視界が反転し、体が本棚に向かって吹っ飛ばされた。
 本棚にナオヤがぶつかった衝撃で上から本がバタバタと零れ落ちる。辞書類じゃなかったことが幸いだったが、固い背表紙がいくつか頭を叩いて落ちていく。
 じりじりと痛む頭と頬を抑えながら顔を上げると、ナオヤを吹っ飛ばした誰かが目の前に立ちはだかっていた。
「よぉーう。よく来たな。というか、よく来れたな。褒めてやるぜぇ?」
 口の端をニタリと吊り上げ、腕を組んだ崎島朱乃がナオヤを見下ろしている。
「さ、崎島先輩?」
 まさか自分を殴りつけたのがあの崎島先輩だとはすぐには信じられずに名前を呼ぶと、朱乃は途端に不機嫌そうな表情に変わり、「ちっ」と舌打ちをする。
「クッソつまらねぇ顔してんじゃねぇ。おら、立てよ」
「ちょ、まっ」
 ずかずかとあれほど大切にしていたはずの本を踏みつけながらナオヤの制服の襟首を掴むと、片腕の力だけで上に捻りあげる。たったの右腕一本で、ナオヤは両足がつかなくなるほど持ち上げられる。首の締まる息苦しさに朱乃の手を必死で振りほどこうとすると、おもちゃでも放り投げるみたいに背後の本棚に頭からブン投げられた。
「ふぎゃあ!」
 本棚の角に頭をぶつけると、目の裏まで響く嫌な音と共に真っ赤な痛みが駆け抜ける。芋虫みたいに転がったまま両手で額を抑えると、ぬるついたものが指の間から流れる感触がした。慌てて指を見ると、真っ赤な血液がべっとりと手のひらを汚していた。
「血、血がっ!」
 顔面蒼白で恐慌状態になりかけたナオヤを、朱乃は今度はその横っ面を思いきり蹴り飛ばした。嫌な方向に曲がりかけた首はかろうじて折れるには至らなかったが、脳震盪を起こしかけて目の前が一瞬暗くなりかけると朱乃の拳が飛んできた。痛みで意識がはっきりと戻ってしまったのは、多分不運な事だった。
「てめぇは、何で、あんなところでっ! 負けたんだよっ!」
「ひっ、やっ、やめっ!」
 マウントポジションからナオヤの首根っこを床に押さえつけ、一言区切るごとに頬に拳を叩きこみ、怒りと悦びと興奮がないまぜになった表情を浮かべながら朱乃が怒鳴る。頭の中が追いついていないナオヤはどうにか両腕で頭をガードするが、反撃に転じるほどの余裕はない。
「はっ、ははははは!! このっ、くそがっ! 負け犬めっ! 敗北主義の豚がっ! そんなやつぁな、俺がここで、ぶっ殺してやらぁ!!」
「あ、あぐぁ! 僕が、何をしたんですか!?」
「ははははは!! うっせー死ねくそボケ!! 口から犯すぞチンカス野郎!!」
 罵詈雑言を哄笑と共に並べ、恍惚とした表情を浮かべてますます楽しそうに拳の勢いを強くする朱乃の腕が、突然止まった。ついでにあれほど楽しそうに高らかに張り上げていた笑い声も聞こえなくなり、恐る恐る腕の隙間から覗くと握りこぶしを振り上げた朱乃が苦虫を噛み潰したような表情で固まっていた。
「くっそ、邪魔すんじゃねぇよカスっ!!」
 一人で怒鳴りながら拳を振り下ろそうとする朱乃の腕が痙攣でも起こしたかのようにぶるぶると震えると、拳はナオヤの頬を掠めて床にめり込んだ。
「ひぃ!」
 ナオヤが引きつった声を出したが、そんなことに構ってられない朱乃は暴れまわろうとする体を抑えるように体を床の上に丸めて両手で自分の頭を抱えた。
 物凄い力を入れているのだろう。今にも肉を掻き毟りそうになりながら、真っ白に変色した爪を両頬の肉に食い込ませ、誰に向かっているでもなく床を睨んで大声を上げていた。
「うっさい死ね! 百ぺん死ね!! 勝手に大暴れしやがってこの落とし前どうつけてくれるのよ!」
「知るかボケっ!! 俺はそこのガキを教育してやってんだよ!」
「バカバカバカァ! あたしたちがそんなやり方望んでると思ってんの!?」
「うるさい、君たち。浅野君が怯えている。いい加減落ち着きたまえ!!」
「まぁまぁ、そんなに喧嘩をするモンじゃないよ。穏便にね。穏便に」
 目の前で繰り広げられているのは、まるでタチの悪い一人芝居だった。
 声のトーンが変わるたびに表情まで変わる様は、幾人もの人間が朱乃の体を使って入れ代わり立ち代わりお喋りしているようにも見える。百面相をしながら空中に向かって怒鳴ったり泣いたり目じりを下げて宥めたり素に戻ったり、百面相を繰り広げる姿は明らかに正常ではない。
 朱乃が錯乱してる間にマウントポジションからは何とか逃れたが、思わず先ほどまで殴られていたのを忘れてしまうぐらい衝撃的な光景に見入ってしまう。
「あぁもうアンタうっさい!! ちょっと引っ込んでてよ!」
 怒鳴るや否や、唐突に朱乃の体から力が抜けて電池が切れたようにその場に倒れ伏した。
「あ……崎島先輩……?」
 しばしの間ピクリとも動かない朱乃。しかしナオヤが手を伸ばす勇気は無く、ぼそぼそと名前を呼ぶとガバリと頭が跳ね上がった。
「ごめんなさいねぇ。今ちょーっと制御が利きにくくなってるのよ。痛かったでしょう? 本当にごめんなさいねぇ」
 ほほほ。と狐のように目を細めてで朱乃が笑う。顔の作りこそ朱乃と同じものだが、今までの朱乃とは全くの別人であるのは一目見てすぐに解った。
「あの、今までのは一体。……どうして僕は殴られたんですか?」
 しきりにごめんなさいねぇごめんなさいねぇと他人の失敗を代わりに謝っているような朱乃に、混乱の溶けきれない頭で何かを言わなければと必死で探し、ぽつんと呟いた言葉は地雷だった。
「そんなのテメェが一番わかってんだろうが!!」
「ひぃっ!」
 急激に朱乃の表情が変わり興奮したように怒鳴りつけられ身が竦む。が、憤怒の表情は一瞬のこと。すぐにその怒れる朱乃は内に沈むと、狐目の表情に入れ替わった。どうやら、ひとまずはこの人格で落ち着いたらしい。
「こらっ、勝手に出るんじゃない! 驚かせてしまったわね。普段はこんなこと無いんだけど、皆ちょっとあのバカの毒電波に当てられちゃって肉体の制御がワケの解らないことになってしまってるのよ」
「あぁ、うん。はあ。そうなんですか……?」
 ジェットコースターのように変わり続ける朱乃に今度こそ頭が追いつかないでいると、全てを解っているかのように狐目の朱乃はにんまりと笑んだ。
「頭の中身がおっつかないって感じね。あの子を通して見てるから知ってるわ。突飛な出来事にめちゃくちゃ弱いんですってね。そうだ。これ使って?」
 差し出されたのは朱乃のハンカチだった。受け取るか否かで更に戸惑っていると、額にぺたりと布が押し付けられた。本棚の角にぶつけた場所の、固まり始めた血を優しく拭ってもらう。
「あ、ありがとうございます」
「気にしないで。もとはこっちが悪いんですもの」
 右手で口元を隠して上品に笑うさまは黒髪の朱乃には似合っているかもしれないが、普段の凛とした姿の委員長とは思えない。どちらかと言うと、もっと年上のお姉さん……それも、貴婦人と呼ばれるような人を前にしている気持ちになり、ついさっき同一人物が自分を殴ったこともまるで信じられなかった。
「本当ならアンカーでもひっかければ一番楽なんですけれど、今かけちゃうと貴方までバカの毒電波に当てられる可能性があるの。だから、あのバカがしようとした話は私の口からで良いかしら?」
 もちろん、願っても無い話だ。というか、今なら殴らない相手なら目の前に居るのが誰でもよかった。
「でもまぁその前に……」
 ふと、朱乃が立ちあがり周囲を見回した。
 ナオヤも座り込んだまま見回すと、本棚から零れ落ちた大量の本が散らばっていた。その中には開いたまま朱乃が踏みつけたりナオヤが上から押しつぶしてしまった本もあり、それらが重なり合い表紙が色とりどりに混ざり合いぶちまけられた様は、まさに惨状と呼ぶにふさわしい。
「……まずは片付けをしろと」
 苦虫を噛み潰したような声を発した朱乃は、いつの間にか普段の凛とした図書委員長に戻っていた。


 ☆  ☆  ☆


 どうやら先ほどまでナオヤが話していた人物は働くのが嫌なようで、片付けが終わるまで朱乃の中に引っ込んでいるつもりらしい。
 尻拭いを押し付けられた朱乃は一冊一冊、表紙についた埃を払い、折れたページを指で直しながら山のように積まれた本を棚に戻していく。
 その横では、ナオヤも同じように本を戻すのを手伝っていた。本当は手伝わなくても良いと言われたのだが、一人で何もせずに待っているのはかえって落ち着かなかったのだ。
「本当に済まなかった。許してくれとは言わないし、気味が悪いと思われても嫌われても仕方がない。言い訳になるかもしれないが、本当はこんなことになる予定じゃなかった。すぐに仲裁しようと思ったのだが、一人で電波の抑制ができなかった私の責任でもある」
「いえ、その……えっと……」
「本当に悪いことをしたと思っている。謝って済むとも思ってないが、それでも謝らせてほしい」
「あ、いや。その、もう済んだことだし謝らないで下さい。それに崎島先輩だけのせいでも無いみたいだし……」
 図書委員長の朱乃が出てきてすぐ、彼女はナオヤに向かって頭を下げた。今にも土下座しそうな勢いに気圧されて、ナオヤは焦った。確かに痛かったし怖かったし秒単位で人格がコロコロと変わる様は恐ろしくもあったが、ここにいる崎島朱乃のせいだけではないのは何となく解る。こうやって簡単に他人を許してしまうのはお人よしかもしれないが「本当か!?」と不安で潤んだ目で見られたら怒りも抜けてしまった。美人にそんな顔をされては敵わない。
「あの、先輩は解離性同一性障害なんですか?」
 分厚い辞書を本棚に戻しながら記憶の連結障害から人格が分離する精神病の名を上げて尋ねると、朱乃は横に首を振る。
「いや。病気ではないんだ。……少なくとも、私は病気じゃないと思っている。その病気特有の記憶障害も無いし、そもそも生まれつきだからね。それでも特に問題なんか無かったんだ……今までは」
 今までは。という部分に力が入った。先ほど自分の一部がナオヤを半殺しにしたのを思い出したのか、朱乃が申し訳なさそう顔をしたのを見て、ナオヤは意図的に話題を変えた。
「えっと、じゃあ何人くらい先輩の中に居るんですか? とりあえず、三人は解りましたけど……」
「私を含め六人だ。浅野君にはもうバレてしまったから先に言うけど、私たちには元になった主人格というものが無い。いわば『崎島朱乃』が生まれたときからその肉のロボットを共有する搭乗員とでも言うのかな。まぁ、適性ということで学校では私が一番出番が多いけどね」
 喉を鳴らすように苦笑いをする朱乃。ナオヤは一つの肉体に沢山の精神が乗っている状態というのをイメージしようとして、出来なかった。自分の中にはタカシが居るらしいが、彼はナオヤの意識が飛んでいる間にしか出てきていない。ヤエから教えられなければタカシが居ることさえも解らなかった。
 ふと思った。
 朱乃たちのように対話が出来るとしたら、少しは何かが変わるのだろうか。
「先輩。先輩は中の人と会話する時はいつもどうやってるんですか?」
 分類のラベルを見ながら本棚に本を収めている朱乃の横顔にナオヤが尋ねた。同時に、すとん、と散らばっていた最後の一冊が朱乃の白い手によって本棚に収まる。
「あらぁ。そんなこと知って、どうするのぉ?」
 こちらを向いた朱乃は、もう図書委員長の朱乃ではない。本棚に最後の一冊が収まった瞬間、宣言通り別の朱乃が現れて狐のように目を細めた。同じ顔をしていても、すぐに解る。
「あ、さっきの……」
 突然人格が変わり一瞬だけ戸惑うと、朱乃は低い笑い声を漏らした。
「アケヨとでも呼んで頂戴。一応便宜的な人格名よ。あと、あの子みたいに学校の先輩面する気は無いから『先輩』はやめてね」
 本当に同じ人物なのかと疑いたくなるほど、アケヨと名乗る人格は朱乃とかけ離れた雰囲気を持っている。意地の悪い狐のような笑顔は何を考えているか全くわからず、信用したらこちらが逆に食われてしまいそうな危うさを孕んでいた。実直そうな先輩の朱乃とは大違いだ。
「本当に、先輩とは全然別人なんですね」
 あまりの変貌ぶりに思ったことがそのまま口から零れると、アケヨは笑いながら近くの椅子を引いてきて優雅な所作で座った。それだけで、普通のパイプ椅子が豪奢な椅子にでも変貌したかのような錯覚を受け、ナオヤは目を瞬かせる。
「当たり前じゃない。あの子も言ってたでしょ。肉体を共有してるだけの別人だもの。で、さっきの質問なんだけど人格同士の会話の仕方なんて知ってどうするつもりかしら?」
「あ、うん。えっと、信用してもらえるかは解りませんけど、僕の中にも一人人格……? みたいなのが居るみたいで……。そいつが僕を乗っ取ろうとしてるんです。僕が知らないうちに外で色々と動いてるみたいなんですよ。でも、対話が出来たら少しは違うんじゃないかなぁと。……アケヨさん?」
 聞かれるがまま何も考えずに答えていると、アケヨは面白そうなオモチャを見つけたような目でニヤニヤと笑っている。
 これは何か良くないことを考えている表情だというのは、何となく想像がついた。失敗したかもしれないとナオヤは思うが、もう遅い。
「あぁ、いえ、何でもないわ。うーんと、そうねぇ。確かに対話が出来れば記憶の共有くらいは可能かもしれないわ。でも残念。それでも貴方はいずれ食べられてしまうでしょうね」
「どうしてですか?」
「知りたい?」
 ニマニマと袋の中に追い込まれていく野鼠を上から見ているような、気味の悪い目つきに背筋が薄ら寒くなる。
 ナオヤは何回か深呼吸を繰り返すと、意を決してこくりと頷いた。
「だからテメェは大馬鹿野郎なんだよ!!」
 急激にアケヨの目つきが変わる。そいつは先ほどナオヤを殴りつけた、あの朱乃の人格だ。殴られた時の恐怖も拭いきれないうちに、あの朱乃がドスの利いた声でナオヤを怒鳴りつけている。
「うわぁぁ!!」
 気づいた瞬間すぐに数メートル後ろに逃げた。しかし、見える全てをぶち殺してやると言わんばかりの目つきの朱乃はナオヤの予想外にパイプ椅子から動かない。
「ちっ、殴らねぇよ!! っつーか殴りてぇけど無理。中から抑えられてて手足が全っ然、クッソも動かねぇからな」
 ヒヒヒ、と不気味に笑う朱乃に恐る恐る近づいてみると、言葉の通り表情筋以外はピクリとも動かないようだった。
「やっぱりアケヨさんじゃないですよね」
「俺があのクソババァに見えるってのか!?」
「ひぃっ、済みませんすみません!!」
 ぺっ、と床に唾を吐く凶暴な朱乃に睨まれて情けないことにナオヤは反射的に謝ってしまう。
「あの、さっきアケヨさんが言ったのはどういうことなんですか?」
「あぁ!? それが人にモノを頼む態度かよ! 俺に教えてほしけりゃ股ぁ広げた美女の一人二人用意しとけよ!! 気ぃ利かねぇチンカスだな!!」
 ドスの利いた声で怒鳴りつけられるとまた腰が引けそうになるが、相手が動けないと解っていれば少しは耐えられた。
「うぅ、無理言わないでくださいよ。というか僕がそんなこと出来るわけないじゃないですか」
 おずおずと反論すると、それを聞いた途端朱乃は口の端を悪魔的にニィと持ち上げる。
「おう。今なんつった? へっ、そういう所が大馬鹿野郎だってんだよ」
「……どういうことですか?」
 怪訝に眉を潜めナオヤが首をかしげると、朱乃は汚れた排水口でも見るような目を向けて呆れた表情をした。
「そんなことも解んねぇのかよ。だから中層世界なんてテメェのフィールドで負けんだよクソボケ!!」
「ちょ、何でそんなこと知ってるんですか!?」
「ハッ、あん時でけぇクジラに食われて九死に一生だろ? あのクジラは俺だよ俺!」
 言葉にならないくらい驚いた。
 確かにあの時のクジラも随分口が悪かったけれど、それが朱乃だとは思いもしなかった。しかし、あの時起こしてくれたのも彼女じゃなかったろうか? それとも、スピリットワールドに入りながら動ける手段があるのだろうか。
「アンカー使いが得意なのは俺だけだからよ。上手い具合にテメェとアンカー繋げたあいつにお願いされちゃった俺が肉体とは別にテメェの世界を監視してたってわけよ。そしたらまぁ、良い具合に負けそうになってんじゃないの。俺が行かなかったらあのまま女ごと食われてたかもな。お前」
 ナオヤの考えていることを見越したように笑う朱乃。アンカーを繋げたあいつというのはきっと昼休みの朱乃の事で、女というのは、ヤエの事だと思い当った途端ナオヤの顔から血の気が引いた。
「ヤエは……丘野ヤエはどうなっちゃったんですか!?」
 焦り、どうにかナオヤが絞り出す様に問うと、朱乃は一瞬詰まらなさそうな顔をして、嘲笑った。
「知るかよ。女はお願いされてねぇからな。強いて言うんならお前のスピリットワールドの中じゃねぇの?」
「中?」
「お前と丘野がアンカーで繋がってて一方が帰ってこねぇってならそれしかねぇんじゃね? ゲームで言う、ロストとかいう奴だな」
「助けるには、どうすれば良いんですか!?」
 思わず掴みかからんばかりに詰め寄ると、朱乃は白い歯をむき出しにして凶暴に笑ったまま、血走った眼でナオヤを睨みつけた。
「何を言ってるんだクソが。いいか、ケツの穴でも耳の穴でもかっぽじってよく聞けよ」
 青筋の浮いた額。殺意だけで人を殺せるとしたら、ナオヤは今の一瞬だけで何度殺されていたのだろう。
 息苦しくなるような怒気をみなぎらせながら、朱乃は不気味なほど穏やかに囁いた。
「テメェは丘野を助けたいなんて、最初からクソも思ってねぇんだよ」





2013/02/23(Sat)23:50:46 公開 / 水芭蕉猫
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■作者からのメッセージ
超久しぶりの投稿です。
始めましての方、初めまして。水芭蕉猫と申しますにゃあ。
果たして完結できるのか物凄く心配なんですが、それでも頑張りたいと思います。
自分なりの準リハビリ作でもあるので、文法ちょっと変化もしれませんが、これが今の限界だったりします。あうあうあう。

 今回は電波分がちょっと多め。
 主人公がボコボコにされました。
 朱乃さんは書いていて何故かメチャメチャ楽しかったです。えぇ、実際こういう人が身近に居たらあんまり関わりたいと思わないんですけどね。
 今回主人公は肉体的にボッコにされました。次回、脳姦の予定(おい。


一月二十八日
 ちょっと修正。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。