『透き通った光に身を沈めて、 【第二章】』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:梨音                

     あらすじ・作品紹介
ぼくと彼女が知り合いと呼べる仲になるまでに                             ぼくはどれほどの時間を費やしたろう。

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
 翌日、今日こそはちゃんと勉強をしようと、漢文と水の入ったペットボトルをリュックに詰めた。初めぼくの手によって無造作に突っ込まれているだけだったそれらは、あまりにもぼくの心の中の様子にそっくりで。ぼくはそれが耐えられなくて綺麗に詰めなおしてみたのだけど、当然のことながら何も変わらなかった――もちろん、ぼくの心の中が、だ。
 家を出て鍵をかけた瞬間――ぼくは小学校一年生のときから鍵っ子だ――ふいに右のポケットがぶるぶると震えだした。メールかと思ったらやたらにバイブが長い。電話だ。
 ケータイを開いてみると、画面には『山下一』と表示されていた。名前を書くときに、ひらがなで書くよりも漢字で書くほうが早いという、驚きの名前を持った奴。こんなときに、なんの用事だろう。ぼくは首をかしげながら通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「あっもしもし佐藤さんのお宅ですか。ぼく大樹くんと学校で仲良くさせて頂いてる山下ですけど……」
 ぼくは思わず噴出した。こいつ、ぼくの家に掛けた気になってる。
「一、ケータイ、これケータイ」
「え、嘘っまじで?」
 彼は向こう側で大げさに慌ててみせる。一瞬声が遠くなった。電話番号を確認してるんだろう。すぐにまた一の声がした。
「うーわっさっきの俺やたらとかっこ悪くねぇ?」
「かなりかっこ悪かった」
 とぼくは笑うと、「で、なんなの」幾分か真面目な声でこう聞いた。ああ、と一は言いだす。
「あのさぁお前今から暇? 何人か暇な奴らでどっか遊びに行こうっつってんだけど」
 一たちと遊びに行くといったら、行き先は多分カラオケだろう。前に一度誘われたときはそうだったのだけど、あの時、音痴なぼくはひどく恥ずかしい思いをした。そんなことを三秒ほどかけて考えて、ぼくはゆっくりと口を開く。
「いや、いい。……行かない」
一の返事は速攻で、そして綺麗に的を射ていた。
「まじで? えーっお前なら絶対空いてると思ったのに」
「ごめん、今日は用事あるから」
「だから用事ってなんなわけよ、さっきも言ったけど俺お前は常にフリーだと思ってたんだけど」
「いやあのさ、宿題、宿題やってなかったから、夏休みの」
 そう、昨日は結局あの女の子が隣に座ってから十分もしないうちにいたたまれなくなって、図書館を飛び出してきてしまったのだ。要するに、せっかく図書館まで遠出をして宿題を終わらせてしまおうとしたけど、ほとんど出来ていないということ。だから、今日こそはちゃんと勉強しなくちゃいけないわけで……。
 一は、どうやら電話の向こう側で本気で驚いているようだった。しばらく沈黙してから、「ヒロから宿題という言葉を聴くとは」とぼそっと呟く。ぼくはまた笑ってしまった。こいつといると、本当にいつも笑いが止まらない。なかなかそれを収められなくて、もういいやと笑いながら謝ると、一はいつの間にか普段の調子を取り戻していて、
「いや、許さん。一生恨んだるからな、ヒロ」
 そう捨て台詞を残して、電話を切ってしまった。プー、プーと電子音が鳴る。ぼくはケータイをふたつにたたんで元の右ポケットのしまうと、昨日と同じように自転車に跨った。
 ――さあ、今日は何処に行こう?

          * 

 一週間が経った。ぼくはあの日からずっと、図書館に通いつめている。
 ときどき考えてみる。なんでぼくは毎日図書館に行ってるんだろう、どうしてわざわざ通っているのだろうと。本当は、ちゃんと答えを知っている。それなのに、わざとそれに気づいていないふりをするのは――認めるのが怖いから、なんだろうな。
 彼女と出くわしたところで、別に挨拶したりするわけじゃない。ましてやまた隣に座るなんて、とんでもないし、有り得ない。彼女はいつも違う表紙の分厚い本を読み、ぼくは少し離れたところからそれをちらちらと眺めながら、学校の宿題を片付ける。ただそれだけ。ぼくはそれをするためだけに毎日毎日図書館に通っているのだ。そう考えてみると、今ぼくのやっていることは、とても馬.鹿らしい。きっと一が知ったら、「馬.鹿じゃねえのお前」と一言で済ませてしまうだろう。そう、これはそれほど馬.鹿らしいことなのだ。
 ベッドに寝転びながら、長々とそんなことを考えてみたりもする。これも、最近の日課。いつも、結局は「馬.鹿らしい馬.鹿らしい」と繰り返している自分自身が馬鹿らしく思えてきて、「いいじゃないか、どうせぼくは馬鹿なんだから」と開き直って終わる。自嘲するような笑いをひっそりと付け加えてみることもある。誰にも見えないように、でも自分自身にはしっかりと見せ付けるように。
 ――でも、でも、それでも、ぼくは図書館通いをやめられないのだ。

          *

 そうして、なんとか宿題を終わらせて迎えた始業式。
 ぼくが起きたときには、もう母は仕事に行く用意を済ませていて、久しぶりの早起きに身体がついていかないぼくにてきぱきと朝ごはんの内容を伝えて、そのままさっさと出て行ってしまった。言われたとおりにテーブルの上の食パンを焼いて食べる。食べながら窓を開けると、朝から元気な蝉の鳴き声がなだれ込んできた。なんの蝉かは分からないけれど、ずいぶんうるさい。もう九月に入ったというのに。
 いつものとおりドアに鍵をかけた。鍵をしまいながら、通りかかった近所のおばさんに挨拶する。おばさんはぼくに挨拶を返したあと、ああそういえば今日から九月だったわねというようなことを呟いて、そそくさと通り過ぎて行った。
 蝉の声はさっきよりもさらにうるさく、耳に纏わりつくように響く。ぼくはそれを振り払おうとゆるゆると頭を振って、最寄のバス停までの道を歩き出した。
「ヒロおひさー宿題終わってるー?」
 バスを降りてしばらく歩いていると、不意に後ろから声がして、きしきしと音をたてる自転車がぼくの横に並んだ。一だ。
「気づいたら終わってた」
「なにそれ、俺に対するイヤミ? 俺昨日徹夜で頑張ったけど、まだ数学の問題集終わってないわけ、だから写させて」
 一は足をペダルから離して、スピードが出ないようにブレーキをかけながら言う。ここから学校までは下り坂だ。
「数学はぼくに頼るなよ、間違いだらけだったんだから」
 ぼくはそう言って、ぼくのスピードに合わせていた自転車が、「あ、ちょ、あ、あ」という効果音と共にゆっくりと傾いていくのを、ただ黙って見守る。
「まじお前って酷いよな。冷たいっつーかなんつーか」
 よろけた自転車を支えながら、一は女の子みたいにぷうっと頬を膨らませた。
 その日は久しぶりに学校というもののだらだらした感覚を思い出し、夏休みに何度となく遊んだ一や他の帰宅部のやつらと教室で盛り上がって、鬼教師に新学期早々怒鳴られてしまった。ぼくらは、怒られている数分間こそおとなしくしていたものの、鬼教師が教室を出て行ったとたんに大爆笑。生徒指導の会長であるその教師は、夏休みの間どこに行っていたのだろう、白かった肌を真っ黒に焼いて、禿げかけた頭をますます光らせていた。
 そういうことの余韻をまだ残したまま家に帰ってからも、ぼくはいつもどおり例の図書館へと向かった。昼食をのんびりととったあと――面倒だったので朝の残りの食パンを焼いて食べた――流れるように図書館に行く準備を進める自分に半ば呆れながらも、家の鍵をかちりとかける。自転車に跨ってふと顔をあげると、斜向かいの家で飼われている柴犬が、舌をだらんとさせて寝そべっているのが見えた。
 ――やっぱ皆バテてるなあ。
 そんな思いでしばらく犬を見つめていると、敵だと思われたのか、元気のない声でわん、とひとつ吠えられた。
 空は相変わらず雲ひとつなく晴れ渡っていて、蝉の声はいつまでも止む気配を見せない。全くもう、雨、いつから降ってないだろう。

           *

 自転車を駐輪場に停めて、水分補給をしているときだった。視界の隅っこに、図書館の入り口に向かう制服姿が目に入った。ふたつに結んだ長い髪に、膝丈のスカート。この辺りではよく見かける紺色のブレザーに、紺色の靴下。
 ――彼女かもしれない。
 直感がぼくを突き動かした。ぼくはペットボトルを急いでしまって、その子の後について図書館へ向かう。するとその子は、ぼくをストーカーか何かかと思ったのか、図書館の自動ドアのほんの少し前で振り返った。
 そして、
「あ、こんにちは」
 急に恥ずかしくなって、赤く染まってしまった頬を隠すように俯こうとするぼくに、
 じん。
 聞き覚えのあるあの声、諦めきれなかったその声が響いた。
 ぼくは頬に差した赤みも忘れて顔をあげる。彼女の姿はもう、自動ドアの向こうに消えていた。

 ――心臓が、どきん、と大きな音を立てて、ひっくり返った気がした。

 彼女が。
 彼女が。
 彼女が。
 ぼくのことを覚えていてくれていた。
 忘れられていたって当然のこのぼくを。
 しかも挨拶してくれた。
 ぼくに。
 ぼくに。
 こんなぼくに。

 夢だったらどうしようと、何度も指に爪を立ててみた。恥ずかしいけど、一度だけ頬もつねった。火照った頬も、汗ばんだ手のひらも、きちんと痛くて。ほとんど我を忘れたような状態で、図書館に入りもせずに自転車のもとに逆戻りした。鍵をかけていることも忘れて自転車を出そうとしたり、勢いあまってあちこちに前輪をぶつけたり、周囲からみれば、さぞかしおかしな光景だったことだろう。でもそれさえも気にならないほどに、ぼくは有頂天になっていた。
 すぐにそのまま家に帰って、さっきの出来事を何度もリピートした。こんにちは。こんにちは。こんにちは。彼女の声も何度も何度も繰り返した。繰り返せば繰り返すほどテープが擦り切れてゆくように、ぼくの記憶も曖昧になっていく。とうとう輪郭しかたどれないようになったころに、ぼくは決心した。
 次に出会ったときには、ぼくから話しかけてみよう、と。
 あのときのような思いは――もう、二度と味わいたくない。

2010/07/12(Mon)11:33:33 公開 / 梨音
■この作品の著作権は梨音さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
前作第一章から間が開きすぎましたね、申し訳ないです。
以前ご指摘いただきました改行などをすこし改善してみたのですがどうでしょうか´`
字数も足りているかどうか少し不安です´`

酷評大歓迎なので、読んでくださった方はぜひ感想、評価を残していってください!!

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。