『長い髪は濡れているのだった。【輪舞曲】』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:模造の冠を被ったお犬さま
あらすじ・作品紹介
web上に公開された一作の小説が、楽土家を揺るがす。楽土家三男香三は大切な人を守れるのか。【輪舞曲】企画参加小説です。
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長い髪は濡れているのだった。
義務教育ではないはずの高校に通うのは、そうしなければ履歴書を書けないから。
就職難のこの時代に中卒で家を飛び出そうなど、無謀もいいところだ。そう判断するだけの冷静さは、余裕はまだあった。三年はずぶずぶと長い。気を張っていなければ、すぐにだらしなく緩む。こんな僕でも、最低限の矜持は手放せなかった。
「ご飯ができました」
楽土家に鈴の声が響き渡る。アナウンスをする杏さんは、もう家族同然だ。
楽土家の長男は完璧に育った。全国模試でトップだったわけでもインターハイで優勝したわけでもないが、定期テストがあれば必ず五指に入ったし部活の大会では常にエースだった。パーフェクトというものは一位ではなく、一位ではベストにしか過ぎない。パーフェクトというものは、それに関わるものをより良くする。環境は良好になり、優れた能力はさらに飛躍的に伸び、底辺を底上げする。同じクラスになれば偏差値が上がり、弱小だったバスケ部は地方大会まで進出し、自然と周りは穏やかに華やかになる。非の打ち所のない。完璧とは楽土家長男金一なのだ。
楽土家の次男は屈折して育った。なにを手がけてもどう足掻いても長男と比べられ、較べられ、競べられ、やがて努力を放棄した。完璧の長男は次男に考えうる限り適切に接したが、それすら疎ましく感じるほど屈折してしまった。次男のなにかが劣っていたわけではない、なにが足りなかったわけでもない。周囲は兄弟を比較することが悪かったのだと気付きやめようとしたが、その頃にはもう遅かった。次男の反抗した態度に、つもりだった善意は敵愾心に変換された。いつしか次男には「よくできた長男とは正反対の」という接頭語が付くようになった。楽土家次男銀二は出奔した。
楽土家の三男は適度に育った。上ふたりの兄とは歳が離れていたので、長男と比較されることはなく、次男からやっかまれることもなかった。金一兄さんは尊敬できる人物で、勉強はもちろんスポーツも遊びもすべて教えてくれた。両親や先生よりもっているものが豊かだった。間違いなく良い影響を受けている。銀兄ぃとは仲が良かった。それは、思えば同じ兄をもった同士だと思われていたからかもしれない。誤解されやすいが、銀兄ぃは金一兄さんが嫌いなわけではない。だから金一兄さんとの付き合いをやめろと三男に強制したことなんてないし、悪口を言っていたこともない。銀兄ぃの言葉を借りれば「俺が悪い」。自分を「悪」とした銀兄ぃは消えた。それを一番悲しんでいたのは、家出を最初に気付いた金一兄さんだ。その次に悲しんだのが、大泣きした楽土家三男香三、僕だ。
大根のおひたしに、春巻き、ひじきの和え物が食卓に並ぶ。
「香くん、おいしい?」
湯気の立つご飯と味噌汁を運び終えると、杏さんは持参のエプロンを畳んでバッグに収め、食卓に着いた。
僕はひじきに添えられていた、えんどう豆をごくり呑み下した。
ひとの咽喉をくすぐるような声、大きな瞳はまっすぐこちらを見ている。笑いながらまばたきをして、睫が跳ねる。
大根は汁にたっぷりと浸り、融け出してしまいそうだった。
「おいしいです」
よかった、と手を合わせてよろこぶ。それはいただきますの合図でもあったようで、五本の長い指が魔法仕掛けのように箸に吸い付いた。味噌汁の椀を手にすると口元に寄せる。白い咽喉がわずかにへこみ、戻ることでそれが食事をしているとわかる。
「杏ちゃんの料理はますます上手になってるね」
父さんは上機嫌だ。
「おいしくなってますか。うれしい」
杏さんの弾んだ声が食卓の上で踊っている。
金一兄さんはなにかに気付いたように箸を止める。
「この前のときと味付けが変わっているね」
こともなげに言ったが、僕にはどう違うのかわからない。
「前のときはちょっと甘すぎたから、お母さんにみっちり教えてもらったの」
「そうだったかな、甘すぎると感じたことはなかったが。われわれから見れば完璧でも、細かな罅を見逃さずにたゆまぬ研鑽を積んでいるんだな」
感心したようにううなずく父さんは、僕と一緒でわかっていなかったみたい。
母さんが出かけている今日など、母さんが夕食を用意できないときに、杏さんがうちに来て夕食を作ってくれることがある。美人で明るく、金一兄さんともお似合いだ。父さんは冗談半分本気半分に「まだ結婚してなかったのか」なんて言ったりする。
こっそり教えてくれた金一兄さんの打ち明け話によると、もう何度かプロポーズをしているらしい。普段ははきはきした受け答えをする杏さんも、プロポーズのときだけは照れたように「待って」と誤魔化してしまうのだとか。できすぎるぐらいできたカップルに見えるけど、なにか不安や不満があるのだろう。
リビングのテレビはニュース番組を放映している。観ているのは父さんで、寝っころがりながらときどき「どう思う?」と金一兄さんに意見を聞く。これが楽土家の日常風景だ。金一兄さんは杏さんと後片づけをしながら、的を射た意見を端的にしゃべる。金一兄さんらしいな、と思いながら僕はそれを横目に、化石ケータイから買い換えたばかりのiPhoneを弄っている。
こんな日常がうまくゆくはずがない。日々の中でひずみが貯まり、やがてひずみはエネルギィとなって暴走する。三年という期間。この間に箍が外れれば、完璧の長男にも止められない、屈折の次男がなんとか抑えた衝動で、中途半端な僕が楽土家を薙ぎ倒す。
「そのサイト」
両肩が無様なぐらい飛び跳ねた。杏さんの頭が僕の手元を覗き込んでいる。
いつの間にか水音はやんでいた。金一兄さんもソファに腰掛けている。
「ごめんなさい、勝手に見て。それ、ホップステップでしょ」
iPhoneはディスプレイが大きく、パソコン用の画面でwebページを見ることができる。頭越しに見えたらしい、ホップステップの独特なデザインのwebページは一目でそれとわかってしまう。
「香くん、小説書いたりするの?」
インターネットは魔窟だ、そんな云われ方をする。そのとおりだと思う。魔とはわからないもの・不明なもの。今まで、無料で小説を読めるなんて考えたことがなかった。図書館は知ってるが、それだって市が買っている本だ。web上には小説投稿サイトなるものがあり、そこでアマチュアの小説家が書いた小説が無料で読める。そのサイトのひとつが、ホップステップ。小説家は読んで感想をもらうために、読者は小説を読むためにホップステップに訪れる。インターネットという最新の技術でありながら、出版社も書店も挟まずに作家と読者が直接対話できるレトロの場所だ。
「いいえ。僕は読む専門です」
いくぶんか落胆した様子を見せるが、それでも熱は冷めない。杏さんの熱いまなざしが金一兄さんではなく僕に注がれている。
「小説が好き?」
僕の部屋には教科書以外の本がまったくないから、読書が趣味とは思われなくても仕方がない。読み始めると昼夜を忘れてしまうので銀兄ぃの部屋に置いてあるのだ。銀兄ぃが熱心な読書家で、僕はその影響を受けて小説が好きになった。もともとある銀兄ぃの蔵書に加え、僕が買い足したために、銀兄ぃの部屋は本と本棚で埋め尽くされている。僕が小説投稿サイトにはまったのは、本を置くスペースがなくなったからともいえる。
無限の空間がある。そこにはありとあらゆるすべてがある。僕はそこにアクセスできる。
言葉は座標。物語を引き寄せる引力をもっている。物語は点つなぎゲームのように言葉を結んでできてゆく。五次元の空間を、無数の線が縦横無尽に張り巡らされている。僕の存在はインパルスとなって線を伝う。物語は火花になって中空に映し出される。あっという間に終着点。
僕の読書速度はめっぽう早いらしい。じっくり読みたい派の銀兄ぃは「ちゃんと読んでるのか」と訝しげな顔をしていた。僕に言わせれば、なんでそんなにゆっくり読めるのか。本を読んでいながら、本は読んではない。銀兄ぃのように、読書中にページをめくる手を休めることはない。鍵盤を叩かなければ音が生まれないが、音楽を作るのは鍵盤でないのと同じ。本は設計図、言葉通りに物語を組んでゆくだけ。
小説を読み終えたばかりの僕は感受性が剥き出しの状態になっている。小さな物音ひとつで、それが誰でなにをしているのかわかる。本に埋もれたこの部屋で音が聞こえる範囲、楽土家で起こっているがっさいを今の僕は把握できる状態にある。
父さんは一階のテレビで西部劇のDVDを見ている。悪党がヒロインに向かってガトリング砲を連射する。主人公はその間に入って何発もの銃弾を受ける。ティッシュペーパーを一枚引き出した父さんが洟を拭く。ヒロインが叫ぶ。
衣擦れ。金一兄さんが杏さんの肘に触れる。杏さんのまばたき。長い髪が金一兄さんの右腕に当たる。右手は杏さんを抱き寄せる。長めのキス。金一兄さんはほっと溜息を漏らしてはにかむ。杏さんも微笑んでいる。見つめ合ってもう一度キスをする。
母さんが帰ってきた。玄関を開ける。
過敏な耳にiPhoneを装着した。「愛して、愛されなくて、この想い、届かなくて」空々しい歌が脳味噌を掻き混ぜる。耳に這入り込んだ雑音とiPhoneを投げ捨てて耳を押さえる。毛細血管の中を血液がごうごうと流れている。
トランス状態の持続時間は読書時間の半分だというのが、これまでの計測結果だ。長い間トランス状態にあるためには、直前に倍の準備時間が必要となる。それと、一度読んだことのある小説ではトランス状態には入れない。おそらく、僕の頭の無限空間にすでに物語の完成品が置いてあるからだろう。
そう。
僕は本を読みたくて読書していたのではない。隣の部屋でなにが起きているのか盗み聞きするために読書していたのだ。
見苦しくて情けない。盗み聞きできたところでそれは楽しいものなどではなく、胸を締め付け心を切り裂くのだとわかっているのに。それでも聞かずにいられない。
これは好奇心か──違う。金一兄さんがなにをしているのか、杏さんがなにをされているのか、それを知りたいわけではない。知ったところで僕はなにもできない。僕は金一兄さんも杏さんも好きなんだ。お似合いのカップルにはずっと幸せであってほしい。
僕はきっと、僕ではない僕に期待しているんだと思う。金一兄さんと杏さんの情事を聞いて、ひずみが大きくなって殻を破るとき、僕は自分を制御できなくなる。僕は、大好きなものを自分の手で元に戻せなくなるまで破壊する。なにも手に入れないまま、もっているすべてを手放すのだ。
「小説を書いたりするの?」。小説を、書いたり、するの? たった三語、それだけで物語はできあがっている。言葉と言葉をつなげてやるだけいい。小説を書いたことのない僕が小説を書いてみようと思った。
小説はすぐに完成した。夏休みの課題で残った原稿用紙に思い付きを手遊びで書き始め、足らなくなったから新しく買い、完成したら二百十二枚になった。物語なんてなかった。ただ破壊、破壊、破壊。それだけだった。暴走しそうになるエネルギィを小説に注ぎ込んでいたのだ。小説を書こうと思ったのは、そうしなければならないほど僕のひずみは危険域に入っていたからかもしれない。僕の欲望は文化的に昇華された。
まさかホップステップに投稿しようなんてことは思わなかった。杏さんの一言がよみがえったから小説を書いてみたが、自分の痴態を晒しただけの小説なんて誰にも見せられるものではない。
昼休み。暇をもてあましてホップステップを巡回する。小説投稿サイトに載せられるような小説は、短編にも満たないものが多い。長いものであっても連載形式をとって、いっぺんにたくさん載せるということはほとんどない。短い時間でも二、三作品はすぐに読み終わる。
アマチュアばかりの小説投稿サイトの小説でも「この人の小説は面白い」と感じる人はいる。夏目棗さんとあG2さんなんかは僕の好みだ。
夏目棗さんは古くからホップステップにいる常連さん。柔らかな物腰の人で、ほかの作家や読者にも多大な支持があり、小説も人気を博している。書いているのは全作品とも恋愛小説。確かな筆致で克明に描かれる登場人物の心情は、まるで知り合いのような現実感を帯びていて思わず共感してしまう。
あG2さんはここ最近になって二日に一本投稿というペースで精力的に活動しているのでそのイメージで上書きされやすいが、彼もまた昔からホップステップにいる。ジャンルはショートショートでその内容は時代物からミステリ、ごてごてのファンタジィなど多岐にわたる。一風変わった性格なのでほかの作家と衝突することもあるが、書いている小説はだんぜん面白い。
夏目さんの新作が投稿されていた。タイトルは覗き見。これまでの王道な恋愛小説とは毛色が違いそうだ、と期待を込める。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
四ページ。
五ページ。
六ページ。
iPhoneを操る手が止まる。
血の気が引いた。ふと捉えた人影がどこかで見たことがあるなと感じつつ、それが鏡であることを気付けなかったときのような気味の悪さ。
この語り手は、僕だ。僕の見た光景、僕の思った感情、僕の願った夢想。家族構成も日常風景も言葉遣いも細かな癖も、まるで知っているかのように僕の視点で書かれている。おそらくこの先は、僕のトランスも精確に書き出しているのだろう。覗き見として。僕の欲望も劣情も書かれているに違いない。
僕でも、僕ではない僕でもない、誰でもない夏目棗というペンネームの誰かによって、箍が外れる前に終わらされてしまった。ホップステップは杏さんも利用している様子だった。読めばすぐにこれが僕だとわかるはずだ。小説を削除するのは書いた本人かホップステップの管理人しかできない。本人に言えるはずはなく、管理人に訴えるにも理由と証拠が必要だ。
名前 king
感想 お前は誰だ
と、感想欄にそれだけ書き殴る。
書き込んで現れた言葉を読む。書き込んだそのままの言葉が一字一句間違いなく表示されている。お前は、誰だ。たった二語の物語。さっきまであんなにカッカしながら書き込んだのに、冷静になって読み返している僕がいた。
誰なんだろう。夏目棗とは誰だ。
金一兄さんなら僕の行動や考えを透写できてもおかしくはない。僕の覗き見がばれるとしたら金一兄さんにだろうと思っていた。だが金一兄さんは周りに迷惑がかかるような形で告発したりはしない。それに、金一兄さんは小説に手を出さないはずなのだ。銀兄ぃは金一兄さんの手の届かない場所に逃げるために部屋で小説を読み耽るようになり、それがわかっている金一兄さんは銀兄ぃと比較させないために読書をしなくなった。楽土家から銀兄ぃがいなくなって小説を解禁したとしても、夏目棗は銀兄ぃの家出前から小説を投稿していた。
もしかして、杏さんか。杏さんはホップステップを知っているようなことを仄めかしていた。僕がホップステップを見ていることも知っていた。でも、杏さんだってそんなことをするような人とは思えない。
父さんや母さんは機械音痴だからホップステップに投稿するなんて、ハムスターがオルガンを弾けたってできっこない。
手の中のiPhoneが空気を割る。心臓が飛び出るかと思った。この着信音は電話だ。コールが責めるように鳴り続ける、鳴り止まない。硬直した身体が動かせるようになって指を伸ばしたところで、切れた。電話番号は見たことのない番号だった。
続けざまにiPhoneが振動する。ディスプレイに映し出されたメールの件名が僕の目を一気に醒ました。
銀二より
金一兄さんは間違えない。
テストで必ず満点をとるのは問題に正解しているだけで、賢明ではない。そうではなく、人生の局面でどう考えどう行動すればいいのか、その限りにおいて金一兄さんは確かな選択を常にしてきた。金一兄さんが金一兄さんたるゆえんだった。
「おかえり、香三さん」
ただいま、と応える。銀兄ぃからメールが届いたことを報告しようとしたが、「見てほしいものがあります」と機先を制されてしまった。金一兄さんはいつだって僕の話を最後まで聞いてくれるので、銀兄ぃからのメールはなによりも大切だとわかっていても話に割り込むことができなかった。
「これなんだけれどね」
そう言って手渡されたのは分厚く膨らんだ茶封筒だった。無言で開封の許可を仰ぐ目配せをして、紐を解く。中に入っていたのは原稿用紙、すわ破壊衝動に任せて書き殴った自作小説が見つかったかとうろたえたが、そうではなかった。
自作小説は自作小説でも、金一兄さんの自作小説だった。
「読んでもらえるかな」
「ここで、ですか?」
できれば読む前に報告をしたい。
「香三さんならすぐに読めるでしょう。面白くなかったら途中でやめていいよ」
金一兄さんは狭山茶の準備をしている。これでは退くに退けない。ペンネーム金田一の小説八洲装束を読み始める。
盆に急須と湯飲みを載せた金一兄さんが席に着く。
「どうしました。つまらなかった?」
「読み終わりましたよ」
さすがですね、と驚いたように言う金一兄さんを、鋭敏な感覚で観察する。金一兄さんが茶が注ぎ終わったところでトランスが切れた。
「面白かったですよ。うどんのようにつるりと読めました」
お世辞ではない。深い教養に裏打ちされた豊かな語彙が、ゆったりと自然につながっていて言葉のつながりにストレスをまったく感じない。文豪が書き上げたような芸術作品にも似た趣がある。内容はポップなもので、ちょっと風変わりな主人公が日本全国で友達を作ったり、お金を摩ったり、派手にドンパチをやらかして回るエンターテイメントになっている。普通に書けば文体と内容が反発しそうなものだが、主人公の突飛な行動が硬めの文章で描かれることでおかしみを誘うように計算されてできていた。
「途中、猪苗代湖で蜃気楼に出会いますよね。その篇はそこで終わっていて、次の篇は何事もなかったかのように始まってます。ほかの篇では、すべてとは言いませんがある程度はメッセージ性が明確になっているのに、この篇だけ曖昧な印象でした。読み落としている部分があったでしょうか?」
「いいや。蜃気楼の回だったからね。そういう終わらせ方をしてみたんです」
さらりと答える。どうにも腑に落ちず宙ぶらりんなままだ。金一兄さんの説明としては珍しいが、時間をおいて再読してみれば納得してしまうだろう。
「短篇をつないでゆけばいつまででも連載できそうですね。ラストは決まってるんですか?」
「書き終わった分はそれですべて読んでもらいましたが、これで全体の八分の一です。終わらせるには、終われるだけのエピソードを書いておかないと終われない」
「同じ設定から書かれた、どこから読んでも読める金太郎飴短篇集だと思ってました。壮大な仕掛けが隠れていそうですね。続きが書けたらまた読ませてください」
「そうですね。まだ他人には見せられるものではありませんし。でも、完成した暁には小説投稿サイトに載せてみようかな」
湯飲みを置いて、睨むように僕を見る。
そうきたか。金一兄さんが自作小説を持ち出してきたのは、僕に感想をもらうためではなく、僕を告発するためだった。原稿用紙百枚を超えているのも、ずばり囮だろう。
金一兄さんはホップステップで覗き見を読んでいて、それを僕が書いたと思っている。いや、僕が書いたと疑っている、というのが正しいか。「今はまだ知らない」が、近いうちにホップステップを見に行くから「覗き見を削除しなさい」と言っているのだ。原稿用紙百枚は本でいえば短篇に過ぎないが、web上の小説としては大作の部類に入る。告発のためだけに書かれた小説ではないだろう、覗き見が掲載されたのは今日だからそんな時間はない。もともと書いていた自作小説を利用したのだ。
もし僕が夏目棗だったら、金一兄さんが覗き見を「今はまだ知らない」ことにどれだけチキンハートを撫で下ろすだろう。口先だけだとわかっていても、その可能性を残しておいてくれるだけでショックが和らぐ。気の迷いで投稿したが間一髪で助かったと思っていたことだろう。まともに糾弾しなくても、冷や冷やさせることで反省を促す。この遠回りに告発するやり口こそ、金一兄さんらしい。
遠回りなのは証拠がないからではない。鉄壁の証拠があったところで金一兄さんは同じように僕を告発する。兄弟をしていればよくわかる、金一兄さんは無用な衝突を回避するように生きている。人生の局面における選択を与えられるのは自分ひとりだけではない。大勢がひしめき合って同じ道を行かなければならないときがある。ひとりが正しくても総意が正しい道を選ばないときもある。そんなときは、間違った道に寄り付かないように仕向けるのだ。進入禁止の看板を立てたりはしない。小石を転がしておくような、そんなつまらないことで人の判断は左右され、感覚に頼った判断は議論を待たずに決定する。下手に看板があれば真偽について議論が起こるだろう、それは金一兄さんにとって無駄なのだ。
だけど困ったな。杏さんがホップステップの話をするとき一緒にいたから、読んでいるかもしれないとは危惧していたが、僕が覗き見を書いたと疑われているなんて考えていなかった。僕が夏目棗だと思われているのならば銀兄ぃのメールを読ませられない。読ませるわけにはいかない。
「金一兄さん」
ん、と眉根を寄せた。改まった呼びかけに、次に謝罪が飛び出すのではないかと想像したみたいだ。金一兄さんの告発は謝罪をされないための告発、謝罪をされても困るのだ。
「いつから小説を書き始めたんですか?」
「書いたのは先週末です。構想は一ヶ月かかりましたね。杏さんが熱心な文学少女で、その影響です。『金一さんは絶対に文才ありますから』と言われて、すっかりその気になってしまったんだろうね」
「杏さんも小説を書くんですか」
「よく知らないな。ベストセラーになってるこれこれが面白いよ、などそんな話をすることはありますが。僕が小説に興味を持ち始めたのは最近なんです。小説を書いているのを知っているのは、彼女を除けば香三さんだけです」
金一兄さんは杏さんに覗き見を読まないように手を打っているんだろうか。打っているんだろうな。「彼女が読む前に早く削除しろ」と目が訴えている。残念なことに、僕では削除できないのですよ金一兄さん。
「ホップステップを知ってますか。そこに投稿するといいですよ」
「ありがとう。彼女もその名前を出していましたね」
金一兄さんはもう一度、八洲装束を読んだことに礼を言い、僕は自分の部屋に戻った。
この時代に、どうして僕たち兄弟は自作小説をわざわざ手書きでしたためているのだろう。やはり似ているということか。なんだか馬鹿馬鹿しくなってくる。
銀兄ぃの衝動は僕以外にも引き継がれていたんだ。そして、その衝動はすでに決壊している。今は余震が起きている状態で、この後に本震がやってくる。どうしよう銀兄ぃ、僕まで連鎖爆発してしまったら。
僕はお守りでも握るように、iPhoneを強く握り締めた。
件名:
銀二より
本文:
お前、kingだろ。
ビビッた?
電話通じないからメールしてみたんだが。
デーモンさんから返ってきたら、また電話するよ。呼び出しはされてたみたいだから。
なにから書けばいいんだ。
お久しぶりですね、とか?
書かなきゃいけないんだろうな。これで書いたってことにしとけ。
俺のことは心配すんな。これでも稼ぎ頭やってんだ。
東京にきたらお前ひとりぐらい置いといてやれるぞ。
俺のことはどうでもいいんだ。
お前を心配してる。
来いってのは冗談じゃない。一時的にならお前を養える。ずっとは保障しないが。
一緒に住むのが嫌ならマンションでも探してやる。
俺は兄貴みたいに頭良くできてないんでな。率直に言う。
逃げろ。
ホップステップの覗き見を読んだだろ。
悪趣味な小説だ。
きっとお前から見ても完璧だったんじゃないのか?
俺ですら気付けたほどだ。
あの感想を書けるのは楽土家三男香三さんだけだ。
前からkingはお前じゃないかと思ってたがな。
趣味がわかりやすいんだよ。
夏目棗が誰だかわからなかったか?
知らなければ知らんほうがいいが、知らんままだともっとヤバいことになる。
予想ぐらいはできてんだろ。
信じたくない気持ちはわかる。でもそいつだ。間違いない。
俺のときと同じなんだ。
俺の言いたいことわかるだろ?
俺の弟なら。
困ったことがあったら電話しろ。
できれば困ったことになる前に電話しろ。
戦えはしないが逃がしてやれる。
このメールは僕に勇気をくれる。銀兄ぃはきちんと東京で生活していて、僕を見守っていてくれる。
僕はiPhoneのアドレス帳から電話をかけた。
「もしもし、杏さん。恋人の弟です。金一兄さんに内緒で僕とデートしてください」
Clairvoyance。それは秘密を丸裸にする一方的なレンズ。
ふたりが交わす愛の中に捻じ込む視線。肌が触れ合った箇所を確かめるように肉は赤く染まってゆく。目が顔が身体が、熱をもって泣き出すように蕩け出す。逞しい腕が崩れそうに柔らかな腰を抱く。痛いほどの愛撫はまるで関節などないように、肌の表面を覆い尽くす。息ができないぐらい深く長く唇を重ねる。長い黒髪が汗で肌に貼り付いている。混じり合うように身体をくねらせて離れない。求めてやまない。
目の奥を電撃の痛みが奔った。夥しい数の本に埋め尽くされた本棚が、僕を問い詰めるように見下ろしている。知ることのなにが罪だろうか。血迷う言い訳などに知識の権化は動じない。真理探究に善悪など意味はない。ならばなぜ悔悟する。心の奥底に潜むものどもを理解の光の下に晒すことのほうがお前にとって重要なのではないのか。お前は目を背け、忘れようとしている。
脳に火が点きそうだった。声が脳髄を焼いている。
暗い影の裏側に隠そうとするな。見晴らしのよい知識の台座に据え、仔細を観察するとよい。知識を結びつけて才知が実る。見えすぎる視界はお前の目を曇らせている。奏でよ、真理を。
夏目棗の覗き見は、どこか演劇調な様相で書かれていた。僕の超聴覚は透視能力に書き換えられ、内心の葛藤はまるでカンニングしてきたかのように丸写しだった。
読まないわけにはいかなかったから、途中までしか読んでいなかった覗き見を最後まで読んだ。もう教室には誰も残っていない。グラウンドで金属バットがボールを弾く音がここまで響く。
学生鞄に教科書もノートも入れず、代わりにマイケル・ハートのマルチチュードを忍ばせておく。決戦は今日。時間は空けてもらっているから、あとはファミレスででも呼び出して、来るまでの間に本を読む。決戦には万全の体調、万全のトランス状態で臨む。到着するまでにどれだけの時間がかかるかわからないが、長くなればなるほど交渉は僕に有利に働く。ゆっくりと遅れて来るがいい。
校門を出たところで、
「香くーん。お誘いありがとう。香くんから誘ってもらえるなんてびっくりしちゃった」
がっつり首を極められた。
「ふっふーん。あっ、作戦失敗って思ってる。だーれが人のふんどしで相撲をとりますか」
「土俵です」
息が苦しい。
「そうとも言う」
杏さんの格好は明らかに異常だった。艶のある長い黒髪は三つ編みにしているし、縁の赤い眼鏡は似合っているがおもちゃのよう。まばゆいハイソックスに磨かれたローファを履き、そして完全無欠のセーラー服だった。
服装を見ていることに気付くや、ふん、と胸を張る。
「なんの真似ですか?」
「なんの真似って。女子高生以外のなにものにも見えますまい。私服と学生服じゃ、悪い大人が可愛い男子高校生を摘み食いしてるように見えるでしょう。だから香くんに合わせてあげたんじゃない」
あれ、知り合いに浮気だとばれないように人相を隠しているのではないのか。
しなを作って腕に絡みついてくる。
「なにをしてるんだ」
肩に頭まで乗せてしな垂れかかってくる。
「見られてる見られてる。クラスメイトだったぞ。どう説明するんだ」
「説明できないよねー。お兄さんの彼女ですなんてねー」
「確信犯か、この二十五歳」
金一兄さんの前とはえらい違いだ。
「香くん、このレストランに行ってみたかったんだけど」
戦う前から負けている、そんな気がした。電話をした時点でそれが開戦の合図だと認識すべきだったのだろう。やる気があっても覚悟が足りていない。
ファミレスではないレストランには、電車を乗り継がなければならなかった。店内に入ってすぐに場違いだと確信した。少なくとも、見た目が学生カップルの僕たちが食事をするような場所ではない。
「話はなあに?」
客も店員も、レストラン中の視線を集めている。こんなところで声を荒げることなどできない。
「場所を変えませんか」
「友達がね、婚約記念にここで食事したんだって。コース料理がおいしかったらしいよ。もう、堂々としてなさいな。変に意識するから注目を集めるんです。いざとなったら私が免許証を提示するから」
「事態がややこしくなるので、それは絶対にやめてください」
僕まで男子高校生コスプレしていると思われかねない。
楽しそうだなあ。金一兄さんの前でももっとはっちゃければいいのに、と思う。
僕が基本的に家族でも敬語でしゃべるは金一兄さんの影響だし、銀兄ぃがぶっきらぼうなしゃべり方をするのも金一兄さんから反発してのことだ。金一兄さんの影響力は計り知れない。杏さんは未だに、恋人である金一兄さんの前で地を出せないでいるのではないのか。
金一兄さんは争いを良しとしない代わりに、本人も気付かないように意思を捻じ曲げさせている。だからゆがむ、銀兄ぃのように僕のように。
メニューはフランス語で書かれていて、日本語のルビもない。ウェイタには無理を言って注文した後もメニューを置いておかせてもらった。
「どうせ、覗き見のことでしょう?」
このままのらりくらりと話をかわされると覚悟していたが、意外にも相手から核心を突いてきた。予想外の行動の連続にこちらのペースに引っ張り込むことができない。
「どうだった、面白かった? 最初におかしな感想を書く人がいたから、なかなか感想が伸びなくて困ってるんだ。あの感想を書いたのって香くん?」
自分が夏目棗だと早々にばらしてくる。証拠なんてないから、逃れようと思えばいくらでも逃れられるのに。
挑発する様子もなければ謝罪する様子もない。一体、なにを考えているのかわからない。
「金一さんがね、私がkingじゃないかってしつこく訊いてくるの。私じゃないって言ってるのに。それで、それだけしつこくした後に『ホップステップは見ないでくれ』だって。見ない訳ないよ」
自分たちの情事が明細に描かれた小説を彼女に読ませたい彼氏などいない。ああ見えて、金一兄さんはどんなときも全速前進全力疾走。心配しているひとを小馬鹿にした態度は許せない。
「完璧ってなんだと思いますか?」
「禅問答?」
僕は応えない。
オードブルはグラスに入っている。
「そうだね、完璧なんてないんじゃないの。完璧主義じゃなくて完璧なんでしょ。いたとしたら神さまだよね。なんでもできて、なんでも知ってる。だけどさ、そんな人間は現実いない。人間はどこかに必ず傷がある。欠陥がある。人間では完璧になれない。完璧は小説の中にある。こんなところでどう?」
まるで自分が完璧、ではないにしろ良い人を演じることに諦めて疲れたような口振りだった。
「僕の完璧は金一兄さんです」
「ブラコンだね」
そう言って笑うが、僕を見てすぐに頬を引き締める。僕の顔は思ったより強張っているようだ。
「一時のベストではなく、永遠のベター。自分ひとりのみならず、周りの関係までより良くする。誰も彼も見境なく、なにもかも諍いなく。すべてが一段繰り上がって幸せになる。杏さんにうちの金一兄さんはもったいないぐらいです」
よくも言ってくれたな、と杏さんは笑いながら怒る。
「みんなを幸せにするんだったら。それなら銀二くんはいなくならなかったでしょ」
「銀兄ぃは東京で楽しく暮らしていますよ」
「そんなことない。置手紙さえ残さなかった銀二くんが今どうしているか、香くんにわかるわけないじゃない」
「それは金一兄さんの言ったことでしょう。僕と銀兄ぃは仲がいいですからね。今でもメールでやり取りしています」
自分でも不思議なほど、するりと大法螺を吹いた。メールタイトル銀二より以降、こっちからあっちにもあっちからこっちにもメールが飛んだことはない。勝負を賭した、というやつだ。
「銀二くんが幸せなら、嘘でもいーや。禅問答に答えたんだから、小説の感想を言ってくれてもいいんじゃないの? kingの感想ってホップステップでも評判なんだよ」
真剣勝負をあっさりかわされる。
僕の独白を書かれた小説に、僕が感想を述べるのか。いつから交換条件になっていたのだろう。一言で言うと、やりたくない。
「僕は夏目棗さんのファンでした」
「あら、ありがとう」
「投稿されていたのを見て、期待して読みました。覗き見、とは今までにない後ろ暗いタイトルですね。中身もいつもと変わっていました。いつも巧みな描写でリアリティを引き出していましたが、覗き見はもっと肉迫するリアリティがありました。雰囲気もこれまでの夏目棗さんのものとは違っていて、言ってしまえば空想的な雰囲気だったものが、生臭いどろどろした空気をまとっていました。理想を求める小説から地に足が着いた小説になった、とでも言うか。今までの書き方をする夏目棗のファンでしたが、夏目棗の新境地も期待しています」
まだ一口しか飲んでいないスープを下げられてしまった。
杏さんは腕を組んで身体を前後に揺らしている。安物の椅子だったら、がたがたと鳴り響きそうだ。
「なにその『僕は部外者です。関係ありません』みたいな感想」
相手はホップステップで馴らした常連さんだから、金一兄さんのときみたいないい加減な感想ではなく真面目に考えたのだけど。
「どう? この主人公のモデルとして。及第点くれる?」
悪びれた様子の見えない言葉の軽さに面食らう。杏さんが軽い調子で自分が夏目棗であるとばらした理由がようやく理解できた。僕にとってはひた隠しにしてきた忌むべき感情を俎上に載せられた、金一兄さんにとっては恋人との情交を無残に描かれているのだが、書いた張本人にとっては僕たちを小説のモデルに使ったとしか思っていない。罪悪感など、「許可を得る前に書いてごめんね」程度なのだろう。
僕の口は魚料理を貪り食っていた。
「及第点どころか、満点です」
「そうでしょそうでしょ。覗き見の中では香くんに透視能力をあげたけど、本当に透視能力をもってるのは私」
そうなんですか、とパンを齧る。
「私の透視能力のすごいところはね、ものを透視するだけじゃなくて、人の心を見通すことができること。透写。だから香くんがなにを考えているのかだってすぐにわかっちゃうんだから」
表情を隠すように開いたメニュー越しに、
「金一兄さんの、じゃなかった。金田一先生の八洲装束を杏さんも読んだんですよね。どうでした?」
「八洲装束? テクニックは冴えてるけど、見所はそれだけ。もっと面白みがあると期待してたのに、頭でっかちな小説だったね」
「猪苗代湖篇はどうですか?」
そんな話あったっけという顔をしているので補足する。
「主人公が湖上にできた蜃気楼の中に消えていく篇です」
「ああ、あれ。どういう解釈をすればいいのか、視心術を扱える私に答えを訊こうって言うの? 難解に見せかけた話だったから無理もないけど、それはできない相談。だって意味なんてないもの」
「金一兄さんは八洲装束を読ませることで、僕と杏さんの読解力を試していたんです。気付きませんでしたか?」
メニューから顔を上げると、「なにを言ってるんだ」という顔をしている。
「同じ主人公が同じ自己紹介からはじめるから、読者も同じスタート地点から始まるのだと思い込まされますが、八洲装束には一貫した物語がありました。金一兄さんの用意した原稿用紙は短篇ごとに時系列をアトランダムに並べていた。まだ文字になっているのは全体の八分の一らしいが、ヒントはそこかしこにありました。猪苗代湖篇は八洲装束の最後を締めくくる短篇です」
これは大法螺ではない。八洲装束の短篇内での言葉は芸術的につながっているのだが、短篇ごとの物語の線はぷっつり切れていた。金一兄さんの言うように八洲装束がひとつの物語であるならば、切られた線と線を結ぶまだ見ぬ短篇が間に挟まっていなければならない。金一兄さんに確認するまでもない、これは事実だ。
「そんな、試すような真似をして。金一さんはなにを知りたかったっていうの」
「透写できませんか? 深い意味はないでしょう。こんなことは戯れに過ぎない。いくつか用意された仕掛けのひとつ。ライバルを探すためかもしれませんね、金一兄さんと肩を並べて競い合える好敵手が今はいなくなってしまったから。いやいや、金一兄さんがそんな驕ったことをするとは思えない。だったら『理解されたかった』っていうのはどうでしょう」
「理解を、されたかった」
その感情は深遠なる思考を湛える金一兄さんに限ったものではない。誰にでもある感情、言い換えるなら、愛されたかったのだ。
自分に興味をもってくれる人ならば、八洲装束を読み解いてくれるだろうという、甘い期待。
「理解されたかった、だって。香くん言ったね、金一さんが完璧だって。ベストじゃなくてベター。誰も分け隔てなく、みんなが平等に幸せになる。金一さんにとって、私もみんなかしら。恋人も家族も赤の他人も、ぜんぶまとめて同じ? 金一さんにとって恋人ってなに。私である必要があった? ほかの人たちとなにが違うの? キスをする人。肌を重ねる人。将来、結婚する人。結婚して妻になったら、なにが変わるの? 婚姻手続きをするだけ? 家事をする人。子供を産む人。役割が与えられるだけなの? それだけの違いじゃないでしょ。私である理由が欲しかった。特別が欲しかったの。恋人って特別な関係でしょ。特別扱いして欲しいかったの。特別扱いしてよ」
いま一度、杏さんは心に溜めていたものを言葉にして吐き出した。
覗き見は、僕が書いた自作小説と同じように破壊のエネルギィで書かれたのだろう。僕がエネルギィを逃がすために書いたのに対し、杏さんは小説で思いの丈を真っ向から相手にぶつけた。金一兄さんは気付かなかったが、隠すつもりはなかったのだ。気付かれなくて、気付かれないまま教えなかった。真っ向からぶつけて気付かれなかった屈辱が口を閉ざしただけなんだ。
金一兄さんだって、覗き見を書いたのが杏さんである可能性をまったく考慮しなかったはずはない。ただ覗き見の放つ底意が黒々と立ち籠めていて、恋人を信じたかっただけ。
「私、金一さんを振ることに決めた」
まるで自分に関係ないことのように小ざっぱりと言う。
こんなとき女性をどう落ち着かせればいいのかわからない。引き止めたかった。
「分不相応だもんね。ジコチュー女はどっかに消え去ればいいんだ」
自己卑下して姿を消した銀兄ぃを思い出す。僕はどれだけ悔い自分を責めたことか。僕は大泣きしたんだ。
「冷静になって考え直してください。謝って済むならいくらでも謝りますから」
「香くんが謝ってもねえ。ね、香くん私と駆け落ちしない?」
「僕なら杏さんを特別にできますか」
「香くんは普通の男の子だからね、絶対できる」
自信満々に言い放つ。
どんな根拠なのかさっぱりわからないが、杏さんを見るとできるような気がする。僕は杏さんが好きだ。
「杏さんは僕のことが好きなんですか」
「うん」
「銀兄ぃでもなく」
「そう」
「金一兄さんでもなくて」
こくり。
「僕がどう答えると思います?」
「私の視心術によると、目の前にいる美人の手をとって誰も知らない土地へ旅立とう、と決意している」
それは夏目棗の書いた夢物語の小説のあらすじだよ。
さあ、間違えない金一兄さんならどんな運命を選ぶだろうか。
「僕が言った八洲装束の解釈を金一兄さんに話してみてください」
「そんなこと、いまさら……」
「きっと、杏さんを特別にしてくれます。弟の僕が保障しましょう」
僕はこの言葉を、杏さんのように説得力をもって言えるだろうか。
「僕は仲の良い金一兄さんと杏さんが好きなんです」
僕の言葉に他人の決意を曲げるだけの力はあるか。
僕が見守る中、杏さんは立ち上がり、
「はああ」
服を脱ぎだした。
えっ!
好奇からの衝立になるべく、杏さんを背に立ち上がる。しかし杏さんはお構いなしにスカートを下ろし、とうとう下着姿になってしまった。刺激的な、黒地に赤いリボン。なに観察してるんだ香三。
ウェイタは注意したものか注視したものか、判断できずに突っ立っている。
客のほとんどが夫婦か恋人で助かった。相方の前で鼻を伸ばすわけにもいかず、固まったようにぐっと堪える紳士ばかりだった。女性のほうが容赦なく、僕の背後に視線を向ける。
「お待たせ。座りなよ弟くん」
ピンクのヘンリーネックのシャツにパーカジャケット、膝丈パンツに着替えて何事もなかったように平然と座っている。
「健全なレストランのド真ん中でストリップをはじめないでください」
「脱いだんじゃなくて着替えたんだ」
途中までは同じだ。
「ウェイタ、デザートが届いてない。至急求む。甘いものが食べたい」
女王のように横暴に指示する。立ち尽くしていたウェイタは回れ右して、厨房へ走って行った。周りの客たちも、自分の役割に帰ってゆく。
「なんだったんですか、いったい」
「頭が高い。姉の御前であるぞ」
姉。
金一兄さんと結婚すれば、杏さんは姉になる。なんて甘酸っぱい響きなんだろう。
「私は香くんが教えてくれた秘密で金一さんの特別の座に就こうとは思わない」
杏さんはデザートスプーンをぐっと握った。
「まず殴る。そして喧嘩する。最終的には、堕落させる」
その相手がこの僕であるかのように睨め付けられる。
芝居がかった様子で腕を振っている。だが目は寸分も笑っていない、本気だ。
「香くんの大好きな完璧兄さんを凡人に堕としてやる。文句あるか」
異存ない。
「どうか兄をよろしくお願いします」
「任された」
夜更かしをして眠い。
父さんはとっくに出社して、母さんも今日のシフトは朝からだったから出かけている。
金一兄さんは昨日から帰ってこなかったようだ。そんなことは初めてだった。
のろのろと着替え、玄関を開けると金一兄さんがいる。
「おはようございます」
「あ、ああ。おはよう」
挨拶さえぎこちない。挨拶は人間関係の潤滑油、の標語を実直に守る金一兄さんとは考えられない鈍い反応だ。
「父さんたちはいるかな」
「もう会社に行きました」
金一兄さんの後ろに、隠れるような佇まいなのに存在感たっぷりと杏さんが控えていた。
杏さんの長い髪はしっとりと濡れていて、以前にも増して艶っぽい。僕たちは金一兄さんに聞こえないように挨拶する。
おはようございます。姉さん。
おはよう。弟くん。
腰で小さくサムズアップしている。僕も小さく親指を上げた。
2011/04/13(Wed)12:58:23 公開 /
模造の冠を被ったお犬さま
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■この作品の著作権は
模造の冠を被ったお犬さまさん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
輪舞曲、企画まとめ者の模造の冠を被ったお犬さまです。
すでに二作品、二人の方が企画小説を書き上げてくださり盛況のようでうれしいです。
この小説はこれから企画に参加しようとしてくださる方たちの参考に「ならないように」書きました。
企画は「同じ設定で書きながら個性が表れる描写を楽しむ」ものですが、すでに指摘があるように私は描写に重きを置く書き手ではないのです。正直に言いますと、参考になるような小説が書けないのです。
企画を立ち上げたのは、自身が書けないゆえに、勉強をさせていただこうという気持ちからです。プロの小説から学ぶこともできますが、それぞれ別の書き手の書いた同じ場面をずらっと並べれば描写の違いが一目瞭然で、わかりやすい。そんな私的満足のもとに企画を立ち上げました(理想と比べれば企画の設定が緩すぎましたが、設定がきついという意見が多数なのでこれが限界でしょう)。私と同じ興味でなくとも、なんらかの形でこの企画を楽しむ方がひとりでも多くいたら良いなと思います。
【長い髪は濡れているのだった。】はいかがでしたでしょうか。
この企画にしか使えない趣向として、設定が決まっていることを利用して逆に物語を撹乱するということをやってみました。おかげで枚数が嵩みましたが、それでもこの枚数に収まったことが自分自身で驚いています。
作中で語り手がふたつの小説に感想を述べていますが(自作小説を含めれば三つだが、これはカウントせず)、ひとつ目が小説を書いたことのない読み手のオフでの感想、ふたつ目が登竜門での感想を意識しています。オフだと、相手が前にいる気安さから小説の解釈を質問して終始する傾向があります。こういった感想の場合、先に自分の解釈を話してから訊いて欲しいものですが、相手は書き手の立場になったことがなく、書き手がどんな感想を欲しているのか伝わりにくいものです。
このテーマで書いておいてなんですが、この小説の登場人物たちにもモデルがいます。ですが、今の登竜門にはいらっしゃらない方なのでばれることはないでしょう。参考にしているのは「どんな小説を書くのか」だけで性格などは私自身のパターンです。夏目棗が自分の理想を小説に書いているのは【ゴールデンバットは仙人の香り】の影響を受けた結果です。流されやすいです。
難産な小説でした。でも、なぜか私が悩み苦しむほど小説は評価が低くなるようです。感性でするりと書ければよいのですが、小説を書けば書くほどそれができなくなってくるのが悩みの種です。感性は下手に使うと減ります。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。