『別象限の愛』 ... ジャンル:ショート*2 恋愛小説
作者:風丘六花                

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「Jet'aime, Jane(愛してる)」
「Et vous, Mamoru(私もよ)」
「嘘。……騙されないよ」
「相変わらず悲観的ね」
 年の差はいくつだったか、図体ばかり一人前。それなのに、紡ぎ出される言葉はいつも対等で、真っ直ぐこっちを向く。「Jet'aime」と。囁かれたのは、もう何度目。
「だって、君は俺を愛さない」
「そうね。それでいて、あなたが愛すたくさんのうちのひとりよ」
「ベクトルが互いに向いてるわけじゃないんだから、いいでしょ? 君が俺を愛さない以上、俺たちは恋人じゃないもの」
 幼さを残す顔立ちは、東洋人特有のものだというのに。流れ出す言葉、甘い甘いフランス語。私が出会ったどのフランス人より典型的で、年に似合わず語る愛は、なにか達観したかのように大人びていた。それが、背伸びでもなんでもなく等身大の彼なのだと知って。興味を持った。私がここに、彼の隣にいる理由はただそれだけ。――だった。
 守は、彼は不思議な少年だ。変わっている、という意味でもあるし、奇妙だという意味でもある。そして、きっと幻想的、だとか芸術的、だなんて意味まで含まれる。それでも、神秘的と形容するのはさすがに大袈裟すぎる。だから、「不思議」という言葉でも少し違う、そんな漠然とし過ぎた形容詞。とにかく、彼を説明しようとするとそうなってしまう。
 初めて彼に会ったのは石橋の上でだった。石橋は渡るもの、そんなの誰だって知っている。だから、その上で立ち止まってずっと動かない彼はとても奇妙だった。橋の縁に腕を置いて、あの時守が見ていたのはきっと水面だったのだろう。渡るためではなく、ただセーヌ川を眺める為に彼はそこに居た。それは、違う気がしたけれど何か正しいように思える、そんな矛盾。気が付いたら私は彼を眺めていて。振り返った守に見つかった。「Bonjour」と私に笑いかけた表情は、とてもとても幼かったのだけれど、それは少年のものではなかった。
 あの時彼が何を見ていたのか、それは未だに聞けていない。
「あなたはそれだけ愛していても、誰からも愛されないのね」
「そうみたい。むなしいけどね」
「むなしいの?」
「そりゃ、むなしいよ。だって、俺はいつだって一方通行なんだから。矢印いくらだしたって、俺には返ってこないの」
「……嘘おっしゃい」
 肩を竦めた彼の言葉、被せた声には思わず棘がついた。守は振り向いて、一瞬目を丸くして。それから、息をついて困ったように微笑んだ。そんな仕種も、年相応とは程遠い。
 「嘘なんて」と。言葉は、相変わらず暖かくて柔らかかった。
「それを望んでるのは、あなたでしょ」
 今度こそ、守は目を見開いた。「何言ってるの」と。言う声はほんの少し、震えていた。完全に隠せるほど大人ではないのだと。気付いた途端、目の前の彼は幼い少年だった。そんなことに、私はようやく気が付いた。ああ、そういえば。そんな感想を抱いた自分に、思わず苦笑する。そういえばもなにも、そうであるはずなのに、それだけなのに。
 私は、考えてみれば驚くほどに守のことについて何も知らない。私たちの関係は、「君を愛していい?」と聞いてきた守に、私が「私はあなたを愛さないけれど、それでもいいなら」と答えて、彼が頷いて始まったもの。会う時に誘ってくるのはいつも守、私は守の提案にOuiかNoneか、それだけ。だから何も知らないのは当たり前なのかもしれないけれど、そもそも守は自分についてあまり語らない。私が守について知っているのは、名前と性別と年齢、それから彼の遺伝子の四分の三は日本人であること。ほんとうの本当に、それくらい。そして、守はきっと私が守のことを知らない以上に、私のことを知らない。それでも迷い無く、彼は私に「Jet'aime」を囁く。
「……Mamoru」
 守は首を傾げた。から、首元に抱きついた。頑丈そうな大きな身体は、体重をかけれは思いの外簡単に倒れる。Jane、と私の名前を呼ぶ唇は、唇でふさいだ。首の後ろに回した腕、守の指は私の髪を梳く。ふ、と目を開いて見た表情、慈しむように細められた、澄んだブラウンの瞳。口先だけの男でないことは、見ていればわかる。
 彼のJet'aimeは、いつでも本気だ。
「私のこと、愛してる?」
「Oui. …どうして?」
「愛して、あげましょうか?」
「どうしたの、急に」
 今度は、彼に驚きの表情はなかった。笑みさえ浮かんでいて、それは対等の愛というよりは、むしろ、妹に向けるような、そんな。上の立場を、年齢だけを理由にして取り続けてきた私に対してまで、この少年はそんな顔を見せる。こうやって、今まで何人もに愛を振り撒いてきたのだろう。確かな経験値と、きっと天性の才能と。
年不相応なのは、身長と態度だけじゃなくて、人の愛し方まで。
「私に勝てたら、あなたを本気で愛してあげるわ」
 それはほんの気まぐれだった。
 彼が気に入っていた、といえばそれが理由なのかもしれない。けれど、それだけじゃ足りない。ただ、それもこれも含めて、確かめたかった。当たり前のように隣にいる少年が、少年であること。私は、それが知りたかった。
「突然だね。君がそんなこと言うなんて。珍しい」
「むなしいんでしょ? 恋人、いなくて。私に、挑戦させてあげるわよ」
「君のそういうところが、好きだよ。――……で、俺は何をすればいいの?」
 確証はあった。
 彼が私に向ける愛は本物。だけれど、――彼は私に愛されない。そうは、きっとしようとしない。
「簡単よ」
 微笑む彼の上から降りて、横にごろんと頃がって。わざとらしく人差し指で頬をなぞった。綺麗な肌、若さゆえとは思いつつも、やっぱり少し悔しい。
「私が一番得意な言葉で、"愛してる"って言って?」
 きょとん、と。丸くなった目、あっという間に子供の表情に戻った彼は、困ったように眉をひそめた。
「難問だよ、それ」と。言葉とともに、聞こえたのは溜息。
「"Jet'aime"じゃないんでしょ? 他の言葉なんて、俺」
「大丈夫よ。ちゃんとわかるわ。あなた、愛の言葉には詳しそうだし」
「…無茶言うなぁ」
 言いながら、彼は視線を宙に投げ出した。言葉を探すときの、守の癖。
 気障な言葉は反射のようにすらすら出てくるくせに、普段の彼はこうやって、ゆっくりゆっくり言葉を探す。
「……I love you?」
「私の名前がJaneだから? 残念」
「見当もつかないよ。Ich liebe dich」
「違うわ。考えれば、わかるわよ」
「んー、わかんないってば。Ti amo? Te quiero」
「残念」
 近くの国の言語を、有名なものから順番に、片っ端から試して。
 首を降り続けたら、勘弁してよ、みたいな目で見られた。そんな姿をいじらしいだなんて。随分と、ほだされたものだと思う。
 それとも、それすらも彼の無意識の狙いなのだろうか。だとしても、私はおどろかない。小賢しいというよりは、純粋にそうなのだろう。意外とわかりづらい彼だけど、それくらいならわかる。
「あなたに、わからないわけないわ。当ててみてよ、……Mamoru」
「そう言われたって、俺の語彙力もそろそろ…」
 言いかけて、守はふ、と黙り込んだ。一瞬顔を伏せて、それから恐る恐る、といった表情。そんな顔でこっちを見てから、彼は溜息をまた。
 視線が、宙に浮いた。
 途切れた言葉は、何かに気付いたなによりもの証拠で、気が付いたのなら探す言葉なんてないはずなのに。
 ああ、やっぱり。――子供だなぁ、と。見せる方はうまくても、隠すのはまだまだ。
「……Я тебя пюбпю」
「思いの外詳しいじゃない。…残念、でも近いわ」
「我、……愛你(※)」
「わかってるくせに、ね」
 守は困ったようにこっちを向いた。眉を寄せて、口を結んで首を横に振る。何も言わなかった。ただ、彼は首を振り続ける。
「守」
「……卑怯だよ、ジェーン。こんなの」
「あなたが嘘をつくのが悪いのよ」
 流れ出す言葉、イメージはぴったり。やっぱり守はこうだった、なんて。
 目の前にはもう、ただの少年しかいなかった。
「人を愛すのはそんなに得意なのに、愛されることは怖いのね」
「怖い、……のかな。わからないよ、俺には」
「怖くないなら、言ってみなさい。答えはわかってるでしょ?」
 "愛してる"がそのまま"愛してください"に。けれど、守は言わない。彼は、愛してくれとは言わない。
それは、とてもとても。
「……駄目だよ。俺は、君を愛していたい。だから」
「だから、私みたいな人ばかり愛すのよね。……あなたは」
 愛されたら、愛せなくなる。器用に見えて、彼はほんとうに不器用だった。人を愛さないと生きていけないから、だから自分を愛さない人だけを愛する。不器用な彼は、そうやって愛を求めてきた。彼が、私の隣にいる理由はそれだから。
 私は彼のことを知らない。だから彼がどうしてそうなのかは知らない。だけれども、「そうだ」という事実が確かにそこにあった。それ以上のことは、きっと必要ない。そして、彼は私には何も話さない。「愛している」から。
「やめてよ、ジェーン」
「ごめんなさい、守。約束は、守ってあげられなかった」
 もう、これでおしまい。
 私はいつの間にか溺れていた。人から愛されることを恐れる、不器用にもがきながらそれでも愛したいと言葉を紡ぐ。幼い少年を、私は愛してしまったから。それはいつから、きっと私は気が付いていなかっただけ。きっと、「愛さない」と言ったあの時から、もしかしたらもっと前から、あの石橋から。彼という不思議な存在に私は飲まれていた。彼という世界に、触れてみたいと思ってしまった。ずっとずっと、思っていたのかもしれない。
「君は、ひどいよ。やっぱり、卑怯だ」
「ひどいのはどっち? 私があなたを愛し始めた途端、あなたは私を捨てるのよ」
 ブラウンの瞳は、ほんの少しだけ震えていた。子供は残酷だ。純粋だからこそ、真っ直ぐすぎて痛い。曲がっているのは、私か彼か。
「……はさみはあなたの手の中よ、守。あなたは、まだ私に勝ってない。私はあなたを愛してはいないわ」
 それでも、これくらいの復讐ならきっと許される。愛した女を傷付けた罰くらい、いくら彼が子供だからって。何も教えてくれなかったのはあなた、だから私は同情なんかしてあげない。はさみはちゃんと用意してあげたんだから、糸を切る役くらい任せたっていいでしょう。
 彼は息を吐いた。息を吐いて、目をつむる。つられるように私もまぶたを閉じた。そうしたら、することなんてひとつだけ。長い長い口づけだった。私はもう目を開けない。彼もそうだと、確信出来た。
「あいしてる、ジェーン」
「正解よ。愛してるわ、守」
「愛してたよ。……ありがとう」
 足りない息を吸った勢いで、守は言った。涙のひとつもなかった。ただ、それはすれ違った愛の言葉。
「Au revoir, Jane. ……Merci(さようなら、ありがとう)」
「Bonne sante, Mamoru(元気でね)」
 彼の見ていた世界に、結局私は触ることすら出来なかったようで。
 ――幼い少年から教わったのは、とてもとても不器用な、幼くて大人びた愛の形だった。


(※)=にんべんに「称」のつくりの部分

2010/11/24(Wed)23:50:13 公開 / 風丘六花
■この作品の著作権は風丘六花さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めまして。風丘と申します。
常々雰囲気が伝わるような作品を、と文を書いていたのですが、自己満足で終わってしまってはいけないと思い、この場をお借りいたしました。
自分の至らなさに何度も投稿を躊躇しましたが、それでは進歩も望めないと考えたので……。
よろしければ、ご指導お願いいたします。

[11/24]
ご指摘いただいたことを参考に、加筆修正いたしました。
人物について書くって難しいですね……。
まだまだ不十分に思えてしまいます。
感想、ご指導いただきたく思います。よろしくお願いいたします。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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