- 『生きるということ』 作者:TAKE / 未分類 未分類
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我々が生きているこの世界が実際に存在していると証明できるものはどこにもない。
自分を構成している肉体の存在を証明するものは、脳内を流れる電気信号によって五感が刺激されることで成り立っており、端的に言えばその微弱な電気が世界の全てだとも取れるからである。
たとえば人間の脳が生理食塩水で満たされたカプセルの中に収められているとしよう。そこに適切な情報を伝える電気を流せば感覚を司る分野が反応し、その脳は形ある人間としての自らの存在を錯覚することになる。だがそれを確認する手段は脳波計で測る以外に方法はない。その命の存在はひどく曖昧なものである。
ある男が交通事故に遭った。その影響で、彼は件の分野に障害が残り、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の全てが失われた。
その他の分野は機能しており、運動する事ができ、食事をとる事も眠る事も出来る。だが自分がその動作を行っているという事を確認する術が無い。歩こうとすれば足を踏みしめる力加減が分からずに骨折するが、痛みを感じないのでそのような事態になっている事もわからない。ただただ周りの人間が慌てふためき、彼をベッドへ寝かせ、絶対安静を取らせようとするが、それを彼に伝える手段がない。仕方なく結束ベルトで縛り、ベッドへ体を固定させる事になった。
男の身内の人間は複雑な心境に陥った。
彼は植物状態であるわけではない。動く事が出来てもそれを許されず、食事を摂る事も放棄し、四六時中点滴を打っている。
まるで生きることを許されていない存在であるかのようだった。その計り知ない苦痛は、男の精神を蝕んでいった。彼は意味を成さない言葉を、喉が潰れるまで叫んだ。
やがて、彼を安楽死させるか否かという選択に迫られた。そこには当たり前のように、倫理の壁が立ちはだかった。脳死が判断されたわけでもなく、意識もある健康体の患者を死に至らしめる事は、即ち殺人を意味する。男を苦しみから解放させるのを優先すべきか、人間としての尊厳を優先すべきか。どちらもエゴのように思えた。
そもそも男の中では、自分は死んだものと感じているのかも知れない。周りがいくら騒ごうと、彼自身にとっては他人事でしかないのかも知れない。
好きにさせてあげましょう。
男の母親は、涙を流しながらそう言った。
そして結束ベルトを外し、彼をベッドから解放した。
男は体を起こそうとしてそこから転げ落ち、足に力を込めて立ち上がろうとした。
骨の砕ける音がした。
それでも前へ進もうと、体をのた打ち回らせて彼は動いた。
大きな音が響き渡り、体中の骨が砕けていった。
やがて男は動きを止めた。肋骨の破片が心臓に刺さり、死に至ったのだ。
生きるとはどういう事なのか。
今この文を書き綴っている私や、それを読んでいるあなたは、本当に存在しているのだろうか。
我々はカプセルに収められた、脳だけの存在ではないのだろうか。
それを確認する手段はどこにもない。
真実は誰にも分からない。
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2013/12/20(Fri)11:49:37 公開 / TAKE
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