オリジナル小説 投稿掲示板『登竜門』へようこそ! ... 創作小説投稿/小説掲示板

 誤動作・不具合に気付いた際には管理板『バグ報告スレッド』へご一報お願い致します。

 システム拡張変更予定(感想書き込みできませんが、作品探したり読むのは早いかと)。
 全作品から原稿枚数順表示や、 評価(ポイント)合計順コメント数順ができます。
 利用者の方々に支えられて開設から10年、これまでで5400件以上の作品。作品の為にもシステムメンテ等して参ります。

 縦書きビューワがNoto Serif JP対応になりました(Androidスマホ対応)。是非「[縦] 」から読んでください。by 運営者:紅堂幹人(@MikitoKudow) Facebook

-20031231 -20040229 -20040430 -20040530 -20040731
-20040930 -20041130 -20050115 -20050315 -20050430
-20050615 -20050731 -20050915 -20051115 -20060120
-20060331 -20060430 -20060630 -20061231 -20070615
-20071031 -20080130 -20080730 -20081130 -20091031
-20100301 -20100831 -20110331 -20120331 -girls_compilation
-completed_01 -completed_02 -completed_03 -completed_04 -incomp_01
-incomp_02 -現行ログ
メニュー
お知らせ・概要など
必読【利用規約】
クッキー環境設定
RSS 1.0 feed
Atom 1.0 feed
リレー小説板β
雑談掲示板
討論・管理掲示板
サポートツール

『過去と未来を繋ぐモノ』 作者:コーヒーCUP / 恋愛小説 リアル・現代
全角111981文字
容量223962 bytes
原稿用紙約324.55枚
【プロローグ。または学者たちの雑談】
 二〇〇八年三月


 △Side Scientist

 こんな所で寝転がっていると風邪を引く恐れがある。それを分かっていながら俺はざらざらとしたコンクリートの上で寝ている。時折吹き付ける風が少しだけ冷たい。
 今更こんな所に来てどうなるのか。
 見上げる空は赤と青が混ざり幻想的な光景を作り出しながら昼と夜との交代の時間を告げている。そろそろ家に帰らなければならない。
 自分の左胸に手を当てると、鼓動が普段より激しいのがよく分かる。
 緊張しているんだろうか。明日、彼女と会うことに。もしも本当にそうだったら笑いものだ。1年前は毎日のように話していた人と会うのに、何を緊張することがあるのだろうか。
 ゆっくりとコンクリートから立ち上がり、そして体を大きく伸ばす。屋上に来て、既に一時間以上が経っている。そろそろ帰ろうか。そう思いながらも、俺はフェンスに近づいた。
 フェンスの向こう側に見えるのは、今日一日、この街を照らした太陽が沈んでいる光景。その夕陽に照らされて街が赤く染まっている。
 そういえば、彼女と初めて会った時も太陽が沈むくらいの時間だった。太陽が死にたがりの彼女を赤く染めていたのが記憶に残っている。あの時は本当に焦った。
 フェンスの網目を掴み、そして頭をフェンスに押し付ける。こんなにも辛いと思っていなかった。こんなにも長く感じるとは考えていなかった。恐らく、それは彼女もだろう。
「おい、斉藤」
 後方から声をかけられたので振り向いた。屋上に通じる扉の前に見覚えのある男が立っていて、ゆっくりとこちら側に歩いてきた。
「神崎か……何の用だ」
 神埼とは一年生のころからの知り合いだ。細身で黒い髪を目の辺りまで伸ばしているのが邪魔に見える。学生服を切るの嫌っていて、今は制服を脱いで私服の黒いコートを着ている。勿論、校則違反なので教師たちに見つかったら、生徒指導室行きだ。
「実はな、再会に胸膨らませているお前をからかいに来たんだよ」
「今すぐここから突き落としてやりたいな」
 脅しのつもりで言ってみたのだが神崎は笑った。こいつにこんな脅しが通用するとは思ってはいない。
「いよいよ明日か。随分と長く感じただろう」
 素直に頷いておいた。この一年間は本当に長く感じた。
「けど、それは彼女も同じだろ」
「まあ、そうだろう……いや、そうであってほしい」
 隣で神崎が大笑いをした。屋上に彼の笑い声が響く。
「ははは。お前も随分と素直になったよな。一年生のときはそんなんじゃなかったのにな」
「うるせぇ」
 再び風が強く吹き、体がビクッとした。やばい。外に長い時間いすぎたのかもしれない。震えた俺を見て神崎がいつから屋上にいたのかと尋ねてきた。素直に一時間ほどだと答えると呆れられた。
「お前から冷静さと科学を取るとただの馬鹿だな。明日がどれだけ大切の日か、わかってるのかよ」
「お前なんかより数倍分かってるさ」
 分かっているなら屋上なんかで寝転がるな。自分で自分にそういう。本当に帰ろう。神崎の言うとおり、明日は大切な日なのだ。俺はフェンスに背を向けて扉に向かう。早く家に帰ってすぐに寝よう。恐らく緊張と期待でゆっくりは寝付けないだろうが。
 後ろから神崎がついてくる。
「そういえば、お前の愛しの西条はどうしたんだよ。亭主に愛想をつかしたのか」
 俺の言葉に彼は腕を組んで強い声で反論してきた。
「だれが亭主だ。何が愛しのだ。あいつなんか知らないよ、どうせ帰ったんだろう」
 西条とは神崎の恋人の名前だ。二人は未だに恋人ではないと否定しているが、その仲の良さは傍で見ていると実に微笑ましく感じる。
「けど、お前はあいつに感謝すべきだよ」
 彼が妙に真剣みのある声で言う。これにも素直に頷いておく。西条のおかげで俺は彼女と近づけたし、彼女のお陰で解決した問題もある。ひどく感謝はしている。
 振り返ると夕陽がいよいよ沈むところだった。もう後数分で沈むだろう。その夕陽はいつもより綺麗に見える。俺は心の中で彼女に質問した。
 ――なあ、お前も見てるか。


▽Side Historian


 一人の人間はその生涯の間に約五〇〇〇人の方と出会うそうです。中学二年生のときに保健体育の先生に習いました。その話を聞いたときも思ったのですが、本当でしょうか? 五〇〇〇人といったら、すごい人ですよ。
 私は今まで小学校、中学校、高校と進学してきましたが、それら全てあわせても友人や知り合いは二〇〇人程度です。これから生きていく中でまだ増え続けて、将来的に五〇〇〇人になるのでしょうか。
 今の世界人口が約六十五億人と言われていますから、約百十三万人に一人の確立で誰かと出会うことが出来るという事です。
 百十三万分の一。彼と出会うことが出来たのは、百十三万分の一の確率……。
 そんなことを考えながら、私が窓の外の夕陽を眺めていたところ、彩原先輩が声をかけてきました。
「随分とボーっとしているな。君らしいといえばそうだが、今日はひどい」
 男口調で話し掛けてきましたが彩原先輩は女性です。常に落ち着いていて、とても知的な私の憧れの人です。今は図書室のカウンターの中でいつも通り本を読んでいます。校則で禁止されている金髪の髪の毛がとても綺麗で見とれてしまいそうです。
「明日、久々にある人と会えるんです」
 私は一瞬、「恋人」や「彼氏」と言おうとしたが止めておきました。何だかとても恥ずかしいですから。
「そうかい。で、その恋人と会うのはいつぶりなんだ」
 顔の温度が急激に上がっていくのを感じて、私は急いで両手で顔を覆いましたが、先輩はそんな私の顔を見て「どうしたんだ。まるで林檎みたいだぞ」とからかってきた。あなたのせいで赤くなっているんですっ。
「私は恋人とは言っていませんよ」
「君の顔の緩み具合と赤さを見ると、間違いではなさそうだけどね」
 それはそうですけど。
「何を恥ずかしがっているんだか。それで、その恋人というのは前の学校の人かい」
「はい、そうですよ」
 私は今の学校に二年生のときに転入してきました。この一年間は転校生として学校生活を送ってきて、友人もたくさんでいて感動しています。先輩もそのうちの一人。
「歴史馬鹿の君の恋人というと、その人も歴史馬鹿か」
 歴史馬鹿。先輩は私のことを時々こう呼びます。最初は否定していましたが、今はもうしていません。この人に口げんかで勝てるはずが無いですから。
 私は先輩の質問にこれ以上振れないほど大きく首を横に振った。
「違いますよ、正反対です……」
 そう正反対。彼曰く『磁石のN極とS極』。まったく違う別の何か。いやだからこそ、私たちは近づくことが出来たのかもしれません。もしも彼が私と似たような人だったのなら、決して近づくことは無かったはずですから。
 一昨年の九月。彼と初めて会ったときはまさか、こんなにも大切に想える人になっているとは考えもしませんでした。何たってあの時の私は混乱していて、彼にも色々と迷惑をかけてしましたから。しかし、それはお互い様ですよね?
 明日、一年間の約束が果たされます。あなたはよく私との約束を守ってくださいました。本当に長くて辛かったですね。
 窓を開けると図書室に風が入ってきて彩原先輩が寒いと文句を言ってきましたが、聞こえないフリをしました。今まさに沈もうとした夕日が、窓の外の世界を赤く染めています。
「先輩、夕陽が綺麗ですよ」
「寒いって言っているのに……そんなに嬉しいのかい、その彼に会うのが」
 当たり前じゃないですか。そう言おうとしたが思いとどまった。またからかわれそうな気がしました。代わりに小さく頷いておきます。
「一年ぶりなんですよ、会うの」私を間を置いて続ける。「長い一年でしたよ」
 私が長く感じるようにしたのだろう。自分に自分でそういう。
「そりゃあ楽しみですよ」
 楽しみですよね、あなたも。心の中で私は彼に問い掛けます。夕陽がとっても綺麗です。
 ――ねえ、あなたも見てますか?


第一章【人間的化学反応。またはありきたりな出会いの話】
 二〇〇六年九月

△Side Scientist


 ドアの開く音で目を覚まして顔を上げた。いつの間に机で寝てしまったんだろうか。確かに昨夜はネットで調べ物をしていたせいであまり睡眠時間は取れなくて今日は眠気をよく感じていたが、わざわざこんなところで寝ることは無いだろう。
 真っ暗の教室の電気が一気に点けられる。それでもまだ室内はまだ暗い。当たり前だ、教室の窓には太陽光を遮断するための暗幕カーテンがされているのだから。扉の近くにある電気のスイッチを押した彼は溜め息をついた。
「俺は暗いところは苦手なんだ」
「……なら来るなよ。俺は呼んでないぞ」
 頭を軽く叩いて眠気を覚まそうとした。寝起きということで頭がボーッとしている。ついでに首も回しておく。
 彼がカーテンを開ける。赤い陽射しが教室に入ってきて室内の色んなものを赤くしていく。彼とは正反対に俺は暗いところが好きだ。だからこそさっきまでカーテンを閉めて、真っ暗にしていたのだ。そちらの方が心が落ち着く。
 科学実験室には色んなガラスがある。ビーカー、試験管、アルコールランプにホルマリン漬けの蛙の入ったビン。それらが陽射しに反射しまぶしく光る。
 この科学実験室に彼、神崎龍也がくるのは珍しいことではない。珍しいどころか彼の場合は常連客に近い。暇があればここに来るし、たまに暇が無くてもここに来る。忙しいんだよと言いながら、ここで夏休みの課題を提出日前日の放課後にやっていたのはつい先日のことだ。
 成績は平均的だが頭は良い。いや注意力があるというべきか。人が気づかないところによく気づくことが多い。冷静な奴ではあるが、お調子者でもある。後ろ髪はそうでもないが前髪が少しだけ長い。わざと伸ばしているのだろうか。
 カーテンを全て開けた神崎はついでと言わんばかりに窓も開けた。弱い風が吹いて彼の少し長めの前髪を揺らす。
「空気の入れ替えくらいちゃんとしろよ。ただでさえ変な臭いがする部屋なのに」
「今日は実験はしてない。ただ寝てただけだ」
「ほお、珍しいこともあるもんだな」
「俺も人間だから睡眠はとるよ」
「お前って人間だったのか。それは知らなかった」
 神崎の冗談に二人で笑うがちゃんと睨んでおいた。しかし寝起きという事もあってそこまで鋭く睨めなかったのが残念だ。
 重い体を持ち上げて椅子から立ち上がる。欠伸を手で隠しながらして、教卓に向かう。
 この科学実験室は静かな部屋だ。校舎の五階にあり校庭で叫ぶ運動部員たちの声もそこまで聞こえないし吹奏楽部も、ある理由からこの教室の周りでは練習をしない。五階には視聴覚室や図書室もあるが、どれも大音量をだす事は無い。科学実験室が静かなのではなく、平たく言えば五階が静かなのだ。
 科学実験室は俺が所属する科学部の部室である。ちなみにこの部には俺一人しかいない。何たって廃部していた部活を今年の四月に俺が復活させたのだから。
 教室を見渡す。床は緑色のタイル、廊下側の壁にはホルマリン漬けがつまったガラス戸棚が二つ並んでいる。戸棚の中には他にも鳥の骨格や針に刺されて標本にされた虫たちなどがある。床にひっつていた広い机。一つで四人が座れるようになっていて、それが室内に横に四列、縦に三列並んでいる。
 教卓はその机を横にして二つ並べたくらいの大きさだ。主に教師が使うのだが、放課後は俺が使う。机上は整理されていなくて汚い。電池が転がっていたり、試験管立てに洗われていない試験管があったり、プリントが散漫していたり。溜め息をつきたくなった。
 俺はその教卓の上にあるカセットコンロを手にとった。これは俺がここに持ち込んだもので、主にインスタントコーヒーや紅茶を作るために使う。
「紅茶でも飲むか? 体が温まるぞ」
 そう声をかけてみたら贅沢な返答が返って来た。
「九月に温まってもね。今も汗をかいてるんだよ。冷たいのは無いのか?」
「今日は牛乳を切らしてる」
 ありがたい事にここには小さいながらも冷蔵庫がある。何時もはそこに牛乳や麦茶を入れているのだが今日はきらしていた。今日……いや、正確に言うと一昨日からだ。一昨日、牛乳を飲み干してそのままだ。
「ならいらねぇよ。今日はこの後、殴られるかもしれないし」
 神崎はさっきまで俺が座っていた窓際の席に座ると笑った。怖くて手が震えてるぜ、と震えていない右手を見せてきた。
「なんだ。また西条を怒らせたのか」コンロを手放して教卓に適当に置く。「喧嘩するほど仲がいいというが、お前らはしすぎだ」
「仲良くなんか無いね。昨日、俺はあいつにノートを貸してもらったんだよ。で……今日、持ってくるのを忘れたんだよ。何でもあいつのクラスじゃ今日、そのノートを提出しなきゃいけなかったらしい」
 話だけ聞くと百パーセント神崎が悪い。
 西条とは神崎の幼馴染の女子である。この高校では有名人だ。入学してまだ半年しか経っていないのにその顔の広さは恐ろしい。二年や三年でも彼女の事を知っている。顔は太平洋より広く、人望は核シェルターの扉より厚いのだ。
 神崎と西条は否定しているが、二人はカップルという奴だろう。本人たちが否定してもその仲の良さははじめてあった人でも分かる。
「それであいつは鬼の如く怒ってさ。ここで待っとけってメールがきた。今回は俺が悪いから素直に怒られようかと思うんだ。偉いだろう?」
「阿呆。別に偉くも無い、当然だ。それにお前らはここをどこだと思ってるんだ。ここは科学実験室。科学部の部室であり、俺の安息の地。そこでいちゃつくんじゃねぇ」
「お前もしつこいな、カレーの汚れなみのしつこさだよ。いいか、いちゃつくんじゃない。俺は殴られるかもしれないんだ。ちっとは友人を心配に思わないのか」
「悪いがそんなことは思いたくても思えない」
 まったくやってられない。腕時計を見てみると午後六時前。この学校は七時に閉まることになっている。後一時間か。今日はもうやる事もないし、帰るとするか。どうせ、この後ここでは神崎と西条の喧嘩が繰り広げられるだけだ。そんなのをじっくり鑑賞する気も無い。
 俺は着ていた白衣のポケットから鍵を取り出して、それを座っていた神崎に投げ渡した。彼は急に投げられたことに驚いて鍵を一度床に落とした。
「俺はもう帰る。鍵閉めはお前らがやっておいてくれ。ああ、ちゃんと電気も消していけよ」
 それを聞いた神崎は表情を曇らせる、その顔には『面倒くさい』と書いてあるように見える。顔に書いていなくともそう思ってることくらいは分かる。
「待ってくれてもいいんじゃないか。俺たち親友だろ」
「俺達って親友だったのか。それは知らなかった」
 着ていた白衣を脱いで教卓にたたんで置いておく。この白衣も俺の私物である。中学のときから愛用しているお気に入りの代物だ。
「じゃあ俺は失礼するよ」俺は教卓の下に置いてあった鞄を肩に提げると神崎は見ないようにして科学実験室を出た。扉から出る寸前に「グッドラック」と右手の親指を立てて言っておいた。
 科学実験室から出ると色んな音が聞こえてくる、勿論、五階なのでそこまで五月蝿くは無い。ただ廊下に出るとやはり室内では聞こえなかった音も聞こえる。実際に今、さっきまで聞こえていなかった野球部の雄叫びに近い掛け声が聞こえている。
 階段を降りようとした時にふと、久々に屋上にでも行こうかと考えた。どうせ暇だし、たまには屋上で涼しい風を体に受けるのもいいかもしれないな。帰る予定を変更して、屋上に向かう階段を上がった。
 一学期はよく屋上に行った。あそこは色んな声が聞こえてきてうるさいが、確実に一人で入れる場所だ。一人でいる時間は好きである。
 この学校は屋上の出入りを自由にしている。以前いた中学校ではある一人の女子生徒が飛び降りて亡くなったせいで自由に出入りできないように屋上に通じる扉に鍵をかけられた。以後、屋上に入ることが出来なかったのが残念だった。中学のときもやはり屋上で一人でいる時間が好きだった。
 ただ屋上に行くだけなのに鼻歌を歌いたくなる気分だった。二学期に入ってからは初めての屋上だ。未だに少し残っている眠気を消せるかもしれない。
 しばらくすると白い扉が目の前に現れた。白いといっても完全な白ではない。シャーペンやボールペンで誰かが落書きをしていてその部分は黒い。落書きの中には「最強」などと書かれているものもあれば、卑猥なものもある。幼稚だなぁ。
 その扉のノブを掴んで回し、ゆっくりと少し重たい扉を押して開ける。まず目に入ってきたのは、緑色のフェンス。そしてその向こう側に沈みかけの太陽。正面に太陽があったんで、まぶしてくて目を細めてしまう。
 扉を閉めて大きく息を吸った。運動部の掛け声や近くでバイクの走る音、吹奏楽部の演奏や生徒たちの笑い声などが遠くから聞こえてくる。それでもここは心が落ち着く。やはり一人で静かな場所にいるときが、一番幸せだ。
 夕日の方向を見ていたのでしばらくは気づかなかった。ただ、くるりと首を回転させて初めてその事態に気がついた。
 屋上は全て緑色のフェンスで囲まれている。高さは約二メートルほど。そのフェンスの向こう側に、人がいたのだ。説明するまでも無いかもしれないが、フェンスの向こう側には狭い足場があるだけだ。ちょっとでも足を滑らせてしまったら、それは死を意味する。
 そこに彼女は立っていた。この高校の女子の学生服を着て靴下で、その危険地帯に恐れることも無く立ち、俺の方を見ていた。どうやら彼女の方は屋上に来た俺に素早く気づいたようだ。
 肩を通り過ぎるほど長い後ろ髪がカーテンのように風に揺らされている。前髪は目を半分ほど書く程度の長さ。丁度神崎と同じくらいか。着ている制服やスカートも風に揺らされているが、彼女はそれを気にしていないようで、ただ俺の方を見ている。俺も彼女を見ている。
 どう声をかけていいかも分からず、御互い何も言葉を発しなかった。沈黙が訪れる。
 よく見ると彼女のと思われる靴がフェンスの内側にご丁寧に並べておいてあった。つまり、この状況が意味する事は……一つしかない。最悪の結論が俺の頭の中でグルグルと回る。彼女は自殺しようとしている。
 先に口を開いてその沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「どちら様でしょうか?」
 少し間延びした声。授業中に聞いたら眠くなりそうだが、今はそうはならない。それ所か、さっきまであった眠気が吹っ飛んだ。
 肩に提げていた鞄がずり落ちていくのを感じながら、彼女も本気で落ちる気なのだろうかと疑問に思った。自殺と決め付けるのは気が早いんじゃないだろうか。
 鞄が落ちる音が、屋上に響く。


「あのぉ、聞こえてますか」
 質問に答えない俺に対して彼女が再び訊いて来る。何で彼女はこんな状況下でそんな落ち着いた声が出せるのだろうか。俺は声すら出せないのに。
 いやしかし、出せないと言うのも何か情けない気もする。死に直面しているのは俺ではなく彼女だ。その彼女が恐れないで、何で俺が恐れてるんだ。普通逆だろう。
「あ……うん。聞こえてる」
 何とか言葉を出せた。それが妙に嬉しいかったが今はそれを喜んでいる場合ではなさそうだ。
「聞こえていましたか、それは良かったです」
 いや良くないから。良いわけ無いじゃん。彼女は自分が今どこに立っているか分かってんのか。分かっていてこの会話をしているなら大したもんだよ。
「あ、あのさ。質問していいか」
「どうぞどうぞ」
「何してんだ?」
 俺が問うと彼女は首をかしげた。何言ってるんですかといわんばかりだ。俺はそんなに可笑しな事を訊いただろうか。今の状況を理解するために必要なことを訊いただけなのだが。
「……あなたは箸を持っている人が目の前にいたら、何をすると思いますか?」
 彼女に質問を質問で返された。しかも少し分かりづらい。
「箸を持った奴がいたら、そりゃあ何か食べるんだろうなと思うけど」
「はい正解です」
 正解なんてあったのか。
「箸を持った人を見たら普通は何か食べると思います。では、私は今、屋上のフェンスの外側にいます。普通はどう思いますか?」
 普通はどう思いますかと訊かれても、この状況は普通じゃないと思う。そもそも普通とは辞書でひいたら、特にかわらない事、ありふれた事と出てくるはずだ。フェンスの外側に人がいることが、特に変わらないことか。ましてやありふれた事か。
 いやいや、絶対に違う。こんな事が普通と定義されては、俺が今まで感じてきた『普通』が『普通』ではなくなる。これは普通じゃない。特別だ。というか、危機だ。
「何を黙っているんですか」
「あっ、すまない。色々と考え事をしていたものでね。一回考え出すと、止まらないタイプなんだ」
「そうなんですか。で、お答えは?」
 俺は唾を飲んだ後、少し小さめの声で答えた。
「自殺しようとしてるのか」
 少し強めの風が吹いて、ヒューッと音を立てる。彼女の髪がさらに強く靡いた。
「はい。また正解です、おめでとうございます」
 自分で何を言ってるのか理解しているのか。何がおめでとうございますだ。めでたいことなんて一つも無いだろう。
 もう茶番はいらない。彼女を止めなければ。
「あんたが何で死のうとしているか知らないが、死ぬのは止めた方がいい」
 俺はあくまで冷静を装った。ここで焦っては彼女を説得できない。今は彼女を冷静にさせることを考えなければ。とは言っても、彼女はいたって冷静なのだが。
「止めませんよ。私は死ぬんです。この決意を崩すつもりは毛頭ございません」
「そこをなんとか」
 俺が懇願しても彼女は小さく首を振った。しかも笑顔で。
「できません」
 そうですかと引き返すわけにもいかない。
「馬鹿な真似はよせって」
 色々と頭の中で彼女を説得させるための言葉を捜しているが、出てくるのは今のようなベタな言葉ばかりだ。自分のボキャブラリーの少なさに泣きそうになる。
「……ベタな言葉ですね」
 あんたが言わせてるんだが。
 何かさっきから馬鹿にされているような気がしてならないのだが、俺の被害妄想だろうか。いや、絶対に遊ばれてるだろう。何だかんだで俺はかなり焦っているんだ。その姿を見て彼女は楽しんでるに違いない。だってそうじゃなきゃ、自殺寸前の人間とこんな会話が出来るはずが無い。
 ええい。ここは一気にケリをつけてやろうではないか。おい自殺少女、あまり科学部員を甘く見るな。俺は心の中で彼女にそう声をかけて、一歩だけ前に進み彼女に近づいたが、すぐにそれに気づいた彼女が「だめですっ」と声を上げた。
「だめですっ。それ以上近づかないで下さい。もし……もし、近づいたら、私、落ちますよ」
 体を一時停止にして足をとめた。落ちますよ……人生十六年生きてきた中で、一番説得力がある言葉だ。ありすぎて怖い。
「だ、大体ですね、私が死ぬ、死なないなんてあなたに関係無いじゃないですか。何も知らないくせに、とめないでください」
 確かに、俺にとって彼女が死ぬか死なないかは関係ないだろう。俺は彼女の知り合いでも何でもない。彼女の名前も何も知れない。ただ偶然、この屋上に来ただけの通りすがりにすぎない。そんなに人間が人様が死のうとしているところを止めて良いのかと訊かれたら、ダメだだろうと答える。
 じゃあ、何故俺は彼女を止める? 多分、本能的に「そうしなければいけないから」と思っての行為にすぎない。あるいは、過去への贖いかだ。
  ――この人殺しっ!
 ふいに、昔言われた言葉が頭の中に響いた。まるでエコーがかかったかのように、頭の中で何度もその言葉が再生される。泣きながらあの少女は自分にそう怒鳴りつけた。俺はただ黙って泣きながら怒り狂っていた彼女に申し訳ないという思いを胸にしながら、黙って彼女の罵声を受けていた。
 落ち着け。今は忘れよう。今は目の前の彼女をどうにかしなければいけない。
「そうりゃあそうだが……あんたが俺の立場だったらどうする? 人が目の前で死にますって言ってんだぞ。普通止めるだろう。何があったかは知らないが、何もここで死ぬことは――」
「黙ってくださいっ!」
 言葉を続けようとしたが彼女の勢いに負けて口を止めた。彼女は何も聞きたくありませんと言うように両手で耳を抑えながら、俺をにらみつける。
「死なない人間はいません。だったら早いか遅いかの問題です。わたしは、今この瞬間、死にたいのです。だから……お願いです、死なせてください」
 自殺少女は少し涙声でそう訴えた後、フェンスの向こうで小さく頭を下げた。お願いです、死なせてください――。何故そんなに死にたがるんだろうか。彼女は死と言う道を選んで、何から逃れたいんだろうか。
 訳がわからない。理解不能だ。
「……あんたの気持ちはよく分かった。こっちからもお願いがある。一旦、こっち側に来てくれないか。それで少し話そう。それが終わったら、俺は何もしない」
 もう、ああだこうだとは言っていられない。こうなれば強行突破だ。まず彼女をこっちに呼び寄せて、その後は無理やり押さえつけてでも、彼女の自殺を止める。少々乱暴な作戦だが、今はこれしか思い浮かばない。いやいや、これ位しかないだろう。
 自殺少女はじっとこちらを見つめていた。彼女も馬鹿じゃないだろう。俺の作戦は位は見抜いているはずだ。じゃあ、どう出てくる? 俺のお願いを拒否するか。
 その可能性が一番高い。その時はどうしよう。また説得するしかないか。
「……いいでしょう。少し向こうを向いててもらえますか? 私が良いと言うまで」
 彼女の意外な返答に声を漏らしそうになったが堪える。しかし返答には条件がついている。これはどういうことだろうか?
「何で背中を向けなきゃならないんだ」
「状況が分かってない人ですね」彼女はそう言うと自分の着ているスカートを指差した。「私は今からあなたのお願いを聞いて、そちら側に行くんです。そのためにはフェンスを乗り越えなくてはなりません。……お分かりですか? これ以上言わせると、強制わいせつで訴えます」
 なるほど。これは質問したこちらが悪かったようだ。俺は小さく頷いて、彼女に背中を向けた。背中の方からフェンスを登る音が聞こえてくる。どうやら本当にお願いをきいてくれたらしい。
 さて、この後どうしようか。彼女を押さえつけて強制的に自殺を止めるのも良いが、できれば手荒な真似はしたくない。もしも押さえつけて自殺を止めても、彼女が誰かを呼んで、その誰かに押さえつけてる姿を見られたら……少年院行きかな。
 平和が一番。あのアインシュタインでさえそう言っていたらしい。ならば平和的な解決を望む。まずは押さえつけるより何より、話し合いだ。
「良いですよ」
 後ろから彼女の声が聞こえた。さっきより声が大きく聞こえるところから、どうやらこちら側にいるらしい。振り返って彼女を見た瞬間、俺は固まってしまいそうになった。
 確かに彼女はフェンスの外側ではなく内側にいた。俺との距離は五メートル程だろう。さっきまで並べられていた靴をきちんと履いて、笑顔でこちらを見ている。ただ彼女の右手にはあるものが握られていた。
 オレンジ色の太陽に反射して光る、カッターナイフが俺に向けられていた。
「な、何考えてんだぁ」
 少しだけ声が震えてしまい彼女はそれを可笑しそうに小さくクスクスと笑った。
「知りませんか? ココ最近、この学校では女子生徒が襲われる事件が起きてるんですよ。それで私は護身用に胸ポケットにこれを常に入れるようにしたんです。それに……もしかしたら、あなたに襲われるかもしれませんから」
 どうやらこちらの作戦は完全に読まれていたらしい。やられたな。素直に後ろなんか向くんじゃなかった。俺が後ろを向いてる間にカッターを取り出し、俺に向ける。もしも俺がずっと彼女を見ていたらカッターを取り出そうとした瞬間に取り押さえられる可能性があった。彼女はその可能性を消し去るために、真っ当な理由を盾に俺に背中を向けさせた。
 恐ろしい奴だな。悪女だ、悪女。
「私はあなたのお願いをききましたよ。さあ、どうするんですか。何かお話したいことがあるからお願いしたんじゃないんですか?」
 彼女は余裕の笑顔を俺に向けてくる。それはとても挑発的で少し腹がたつ。いや少しではない、かなりだ。目の前にいるのが彼女ではなく神崎だったなら、確実に殴っている。
 そもそも、自殺から話題が逸れ過ぎやしてないか。彼女は死のうとしてたんだろう。何で今は人を殺そうとしてるんだ。理解不能だ。
「……何も無いなら私のお願いの番です。すぐに屋上から出て行ってください。さもないと――」
 彼女は何か言葉を続けようとしたがそれは出来なかった。突如、彼女が急に額を抑え始めたのだ。苦しそうに額を両手で抑えて、痛みに耐えるように唇を強くかんでいる。先ほどまで俺に突きつけられていたカッターナイフが虚しい音をたてて落ちた。
 何が何だか分からない。目の前に苦痛に耐えている自殺少女がよろめいている。
「おいっ」
 何が起きているかは分からないが今は彼女を助けなければ。駆け寄ると彼女は近づくなと言うように腕を振ってきた。そしてほぼ同時に痛みに耐え切れなくなったのか膝を地面につけて、ゆっくりと倒れこんだ。
 まさか死んだのかっ。一瞬混乱したが、すぐに彼女の脈を確認したら脈はあったので安心した。しかし放っておける状態ではない。彼女は何かに苦しみながら倒れたんだ。病気か何かかもしれない。
 とりあえず保健室に運ばないといけない。しかし女子といえど一人で運ぶのは無理だろう。
 そういえば確実に暇な人間がこの学校にいる。すぐにポケットから携帯を取り出して、彼に電話をかけた。ツーコールと少し待ったところで、そいつは電話に出た。
「どうしたんだ?」
 電話の向こうから聞こえてきた神崎の声に俺は何故か安心を感じてしまった。あいつの声で安心してしまうとは……不覚だ。だが今はそんな事を言ってられない。
「すぐに屋上に来てくれっ。今すぐだっ」
「はぁ? お前まだ学校いるのかよ。というか俺は那美を待ってなきゃいけないんだよ」
「頼むからすぐきてくれって。大変なんだよ」
 俺の声から流石におかしいと感じたのか電話の向こうから神崎の声がしばらく聞こえなくなった。
「非常事態なのか?」
 さっきより小さな声で彼が訊いて来た。
「いいや……異常事態だ」
「オーケー。すぐに行く」
 電話が切れたのでポケットにしまう。倒れこんだ彼女を見ながら、さっきまで忘れいた疑問が再び頭の中で浮き上がってきた。
 何故彼女は自殺なんてしようとしていたのか。どうしてあんなにも死にたがっていたんだろうか。
 いつの間にか夕陽は沈み辺りは夜の闇に包まれ始めていた。見上げると空は黒く染まり始め、夜がすぐそこまで来ていることを知らせていた。



▽Side Historian


 私は激怒した。
 どこかで聞いたことのあるようなフレーズだなと思っていますが、これは今の私の本心です。激怒です、激怒。文字通り、激しく怒っています。
 全ては昨日、屋上に突然現れたあの人のせいです。あの人……そういえば名前を聞いていませんでした。不覚です。これでは彼が誰なのか調べることが出来ないじゃないですか。
 こんなはずじゃなかったんですよ。予定通りいけば私は今、こんな所にはいなかったはずです。本当のならとっくに死んでいたはずなんです。それをあの人に……。
 許すまじき、名無しの権兵衛。彼を誰か突き止めて、謝らせてやります。邪魔をしてごめんなさい、と。できれば一発、一発で良いですから、引っ叩いてやりたいですよ。そうしないと私の気持ちはおさまりません。激怒したままです。
 それにしても参りました。昨日はあの場面でいきなり頭痛に襲われてしまい、自殺に失敗。気づいたら保健室のベッドの上で寝ているという情けない始末。保健室の先生によれば二人の男子生徒が私を抱えて運んできたそうです。体に異常はないようですが、頭痛の原因は恐らくストレスと疲労によるものだと先生は言っておられました。
 何故二人かは分かりませんが、どちらかが昨日の権兵衛で間違いないはずです。もう片方の方は誰なんでしょうか。アンノウンさんとでも名づけておきましょう。
 目覚めてすぐ後に父が車で迎えにきてくれました。彼は随分心配そうに私に色々と聞いてきましたがそのほとんどを無視してしまいました。もう、父とは話したくなかったのです。
 家に帰ってすぐに自分の部屋に鍵をかけてプチ篭城。母が部屋の外から父と同じような質問を、やはり父と同じように心配そうにしてきましたが、私はそれも無視しました。母とも、話したくなかったのです。
 今日は朝早く起きて二人には顔を合わさないようにして家を出て、今にいたります。私は今、教室の自分の机で上半身を机に預けて寝ています。朝早かったせいで今も眠いんですよ。しかも起きるのが早いと学校に着くの自然と早くなりまして、今日は私が教室の鍵を開けなければなりませんでした。
 学校に来て二十分程度経ちまして、今はもう教室にはクラスメイトがいっぱいいます。彼らの話し声が、失礼な話ですが、睡眠の邪魔となっています。皆さん、お願いですから声のボリュームを下げてください。
 心の中でそう願っても実際に静かになるわけもありません。というか、実際に声を上げて静かにしてと懇願したところで静かにはならないでしょう。
 この学校に静かな場所というのはありません。保健室や図書室などの静かそうな教室でも、数名の生徒たちが声を上げて笑い話をするためとても静かとはいえません。だから、屋上は私にとっては聖地だったんです。
 一学期に静かな場所を求めて学校を探索していた時期がありまして、その時に屋上に行き着きました。初めて屋上に足を踏み入れたときの感動は今も忘れられるものではありません。クリストファー・コロンブスが困難な船旅をし難航して旅を諦めざるを得なかった直前にアメリカ大陸を発見したときも、きっとあの時の私と同じような感動を味わったにちがいありません。
 屋上は確かに静かではありませんでした。生徒たちの笑い声や学校の外を走る車やバイクの音が聞こえてる場所です。しかし、それでも私は屋上を気に入りました。
 そこには誰もいませんでした。だから、わたしは気にいったんです。私以外は誰もいない空間。たった一つの孤独な世界。私はきっとそういう場所を求めていたんでしょう。だから多少の雑音は我慢できた。
 屋上を発見してからはよく通うようになりました。屋上に通っていたのは私だけでは無い様で、よく煙草の吸殻やお菓子のごみなどが捨ててあり、少し不快に思ったりもしましたが運が良かったことに、私が屋上に行ったときは必ず誰もいなかったのです。
 だから死場をあそこにしようと決めたんです。私が唯一愛せたあの場所で死にたかった。せめて死場くらいは私が心落ち着かせる場所でありたかった。
 自殺したければすればいい。そう思う人もいるかもしれませんね。ただ何故でしょうか。昨日の夕方までは私の心を埋め尽くしていた自殺願望は保健室で起きたときから消えていました。まあ代わりに激怒してるんですけどね。だから今は自殺をしようと思っていません。
 今、私の持っている願望は一つ、あの権兵衛に謝らせること。ただそれだけです。
 ああ、再び腹が立ってきました。思いっきり叫びたいです。ただ、いきなり教室で叫んでもクラスに迷惑がかかるだけ……。ではこの怒りは誰にぶつけたらいいのでしょうか。
 突然、教室の後ろの扉が激しく開く音がしました。あまりに大きい音に体がビクッと小さく震えてしまいました。驚いたのは私だけではないようで一瞬で教室中が静まり返ります。
 机から顔を上げて扉の方を見ると一人の女子生徒が立っていました。校則違反の長い金髪のおさげ頭に細身の体。鋭い目をしているのは怒っているからでしょうか。今学校に着たばかりなんでしょう、片手には鞄を持っています。
「どうしたのー、那美」
 一人のクラスメイトがクラスを静まりかえした女子に声をかける。どうやらお知り合いのようです。しかし……那美と言う名前、私はどこかで聞いたことがあります。どこで聞いたんでしょうか。
 声をかけられたのにも関わらず、那美と呼ばれた女子生徒は返事を返さず教室中を見渡し、そして顔を上げていた私と目が合います。すると、彼女は少しだけ微笑みました。
 そして私の机の傍に来て右手を差し出しました。
「おはよう。そしてはじめまして。月宮(つきみや)さんよね?」
「え……まあ、そうですけど」
 何で彼女は私の名前を知ってるんでしょうか。私はこの学校でそこまで名前を知られていないはず。特に目立った行動もしていないですし……。まったく見当がつきません。
 とりあえず私は差し出された右手を握り、訳のわからないまま握手をかわしました。彼女は握手をした後に、小さく笑い、
「私、西条那美(さいじょうなみ)っていうの。よろしくね」
 そう自己紹介しました。フルネームを言われて思い出せましたよ。西条那美といえば、この学校では有名人です。知り合いが学年を問わずいて、かなり顔の広い方です。
 彼女が有名なのはもう一つ理由がありまして、それが金髪です。一部の生徒や教師からは「生意気だ」という声がありますが誰も直接には文句を言いません。いいえ、言えません。どうしてかと言うと、彼女に一度「髪を黒く染め直して来い」と注意した教師がいるんですが、その教師、今はもう学校にはいません。
 なぜなら、彼女を注意した翌日に学校中に不倫現場を撮影された写真がばら撒かれたからです。誰が犯人なのかはいまだ分かりませんが、学校中の人が彼女が犯人だと思っています。本人も否定しないとこから、事実そうなんでしょう。
「月宮さん……。ちょっと待って。この呼び方、何か堅いわね」
「か、堅い?」
「うん。せっかく握手したんだからもっとフレンドリーな呼び方が良いわ。うぅん、何が良いかしら」しばらく顎に手をついて彼女は何かを考えていましたが、急に笑顔になった途端に「ツー」と呟いた。
「ツー……うん、シンプルだけ良いと思うわ。ツーちゃん」
 どうやら「ツー」と私のことのようです。「つきみや」だから「ツー」でしょうか。確かにシンプルです。シンプル・イズ・ベストというやつでしょうか。
「さっそくだけどツーちゃん、一緒に来て欲しいところがあるの」
「……私にですか?」
「そうあなたに」
 彼女が笑顔で行きましょうと催促してきたので私は断りきれず、どこにかは分かりませんけど一緒に行くことにしました。。教室を出るときにクラスメイトたちがじっとこちらを、信じられないという表情で見つめていました。あんまり見ないで下さい。照れてしまいます。
 私も信じられません。それどころか、未だに何がどうなっているのか状況を理解出来ていません。
 いきなり教室に入ってきたかと思うと自己紹介をして、シンプルなあだ名を私につけて、今は前方を黙って悠悠と歩いています。そして私はそれを追いかけています。
 何なんでしょうか。そもそも来て欲しいところとは何処なんでしょうか。我慢しかねて聞いてみました。
「あのぉ西条さん」
「那美」
 えっと声を漏らしてしまいました。前方を歩いていた彼女が後ろを振りかえって私を見つめて再び「那美」と呟きます。
「自己紹介したでしょう。西条さんなんて堅苦しい呼び方は嫌よ、ツーちゃん。那美って呼んで。それか新しいあだ名をつけて」
 そういきなり言われましても……。西条那美さん、不思議な方です。いや不思議すぎる方です。ついていけません。しかし今はついていくしかないのでしょう。
 私はなんとか失礼の無いあだ名をしばらくの間考えましたがどうしても思いつくことが出来ませんでした。無念でなりません。
「じゃあ那美さん」
「だぁかぁらぁ、さんもいらない。那美って呼び捨てで呼んで」
 またしてもダメだったようです。しかし初対面の人を呼び捨てで呼ぶのには少し抵抗があるんですよ。
「……那美」
 照れくさくて小声でそう呟くと西条さんは笑顔で頷いて「そうそれよ」と喜んでくれました。
「今からどこ行くんですか?」
 私がそうきくと彼女は口を小さく開けて驚きました。私は何か驚かれるようなことを聞いたんでしょうか。
「ツーちゃん、もしかしてあなた、敬語が口癖なの?」
「ああ……そうですけど」
 口調のことだったようです。いつからは知りませんが私は敬語を主に使ってます。なんでこういう口調になってしまったのか不明。誰も知りません、私自身も。ノーバディ・ノーズ。
「私の一つしたの弟も敬語が口癖なの。小さいときから止めなって言ってあげてたのに……。今も敬語が口癖。それでも私には時々生意気な口をきいてくるわ」
 それが良いのよと彼女は続けます。
「質問に答えて無かったわね、ごめん。今から科学実験室に行って欲しいの」
 科学実験室。予想外の回答でした。何か予想を立てていたわけではないのですけど。
「そこにいるはずの馬鹿二人と会って欲しいの」
 彼女がまた歩き始めたので私はその後に続きます。科学実験室は一度だけですが入ったことがあります。静かな場所を求め学校を探索していたときに。静かでしたが整理整頓のなされていない教室だったので嫌いになったんです。
 あそこに誰がいて、彼女はどうしてその二人に私を会わせたいんでしょうか。
 二人と言えば昨日私を保健室まで運んだ二人。権兵衛とアンノウンさん。あの二人は何年何組の誰なんでしょうか。……そうだ、後で西条さんにきいてみましょう。彼女は知り合いが多いと聞いています。もしかしたら知り合いかもしれません。アンノウンさんの方は知れなくてもいいですけど、権兵衛だけは知らない気がすみません。
 廊下では登校して来たばかりの生徒たちと多くすれ違いました。そのうちの多くの人が西条さんとすれ違うときに「おはよぉ」と挨拶していき、彼女も挨拶し返していました。本当に知り合いが多いんだと感心させられます。
 廊下を歩いて階段を上ったりして科学実験室に着きました。教室の扉の窓には中から暗幕カーテンがしてあって室内は見れません。何か隠したいものでもあるんでしょうか。
 西条さんが小さく息を吸った後、ノックもせず急に扉を力強く開けました。さっき私のクラスで同じようなことをして皆に驚かれていたのに。二度目のはずなのに私はまた体を震わせてしまいました。情けない……。しかしながら仕方ないでしょう。本当に大きな音なのです。
「やっぱりいたわね、二人とも」
 西条さんがそう言いながら科学実験室の中に入っていきます。室内には奥のほうの机に座った二人の男子生徒がいるのが分かりました。室内は電気は点けられてなくて、朝日が教室内の明かりでした。そのせいで二人の顔を確認することができません。
 私も何故か緊張しながら科学実験室に入り西条さんの背中に隠れるように立ちました。
「おいおい那美、扉を壊す気か。お前の力ならできるけど、そんなところにエネルギー使うなよ」
「うっさいわねぇ。別に壊れたって良いじゃない。私は困らないわ」
 西条さんがものすごく自分勝手な論理を武器に一人の男子生徒と喧嘩のように言い合っています。かなり親しいお知り合いのようで、西条さんを那美と呼び捨てで呼んでいます。女子なら不思議に思いませんが、彼は男子ですよ。
「あんたたちこそ何してるのよ。朝から仲良くこんな教室によくいれるわねぇ。信じらんないわ」
 私もさっきからあなたという人間が信じられません。
「信じられねぇのはお前という人間だ」
 私と同じ事を思っていた人がいるようです。もう一人の男子が声を上げました。その瞬間に私は聞き覚えのある声に血液が逆流するかと思うほど驚き、西条さんの背中から飛び出して、二人の男子を見ました。急に出てきた私に二人の男子が驚くと同時に、「あっ」と声をあげます。
 科学実験室の奥のテーブルに権兵衛が腰掛けていました。学生服の上から白衣を着ていて、銀縁のめがねをかけています。昨日は白衣なんて着ていませんでしたが、間違いありません。彼はかなり驚いているのでしょう、口を小さく開けてこちらを見ていました。
 少ししてから権兵衛がゆっくり立ち上がり、私たちは呆然と見つめ合い、お互いにかけるべき言葉を頭の中で考えています。
 科学実験室の窓が開いていたのでしょう。どこからか風が吹き付けて私の髪と彼の白衣をなびかせました。

 
「おお、昨日の『スイサイド・レディ』じゃないか」
 権兵衛の横で西条さんと言い争っていた男子が声を上げました。スイサイド……。意味はたしか「自殺」。間違った表現ではありませんけど、決して聞こえは良くありませんね。
「訳分かんないあだ名つけちゃ失礼よ」
 私の横で西条さんが男子に注意しましたが、あなたが言えたことじゃありませんよ。
 私が自殺をしようとしていたことを知っているという事は、この人がアンノウンさん。どうやら西条さんとはかなり親密な関係のようです。しかし、どうして権兵衛とアンノウンさんがここにいるんでしょうか。
「……朝から騒がしい客人が多すぎるな。できれば退室願いたいね」
 ずっと黙っていた権兵衛が口を開き最初にはなった言葉は丁寧ですが、ようは「出て行け」ということ。人の自殺の邪魔をしておいて、よくもまぁそんなことを偉そうに言えたものです。
 その言葉に頭がきたのは私だけじゃないようです。
「ええ、私だってこんな小汚い部屋、早出て行きたいわよ」
 西条さんがそう反論したら、アンノウンさんが小声で「……小汚い女が何をいうか」と言い返しました。勿論、西条さんにも聞こえたようで、彼をこの世の者とは思えない眼つきで睨みました。彼は、こわぁと言いながら彼女から目をそらします。
「早速、本題に入りましょうか」
「『さっそく』とは『早く速い』と書いて『早速』と読む。お前はこの教室に入ってもう随分と神崎と無駄話をしてるよ。お世辞でも『早速』とは言えないな」
 権兵衛が無駄に西条さんに突っかかります。どうやら私と西条さんには来て欲しくなかったようです。いわば招かざる客人。わざわざ招いていただかなくとも結構です。こうして、昨日の恨みを晴らすため、乗り込んできたんですから……偶然。
「相変わらずやかましい男ね、斎藤君」
「相変わらずやかましい女だね、お前も」
「いや、お前ら二人ともやかましいよ」
 権兵衛と西条さんが言い合っているとまるでまとめるかのようにアンノウンさんが二人を馬鹿にしましたが、すぐさま二人に睨まれると再び、こわぁといい目をそらします。
 この三人、仲が良いのか悪いのか、さっぱり分かりません。
「ツーちゃん、昨日、あなた死のうとしたんですって」
 西条さんにそう指摘されて驚きました。何故、彼女はそのことを知ってるんでしょうか。この事を知ってるの、目の前にいる権兵衛とアンノウンさんだけなはずです。
 私が混乱していると彼女が小さく微笑みました。
「私はね、この学校の情報は大体得てるわ。例えば何年何組の誰と誰が付き合ってるとか、そんな情報はちゃんと私の耳に入るようにしてあるの」
 恐ろしい女だ。悪趣味すぎる。そう言った声がアンノウンさんと権兵衛の方から聞こえてきましたが、西条さんは無視しました。
「だからあなたが自殺しようとしたって情報も聞いてるわよ、あの馬鹿から」
 彼女はそう言いながらアンノウンさんを指さしました。
「失礼な奴だな。俺はお前に何で約束どおりに実験室に来なかったのよと訊かれたから、女子が自殺しようとしていたのを助けって言っただけだ」
「助けたんじゃないでしょう。あんたは運んだだけ」
 そうです。助けてくれた……いえ、違いますね。邪魔してくれたのはアンノウンさんじゃなく、今も平然と腕を組んでこちらをじっと見ている権兵衛です。
「まあ、それだけ情報があれば後は保健室の先生に昨日の放課後、誰か運ばれてきませんでしたかって訊いたらいいのよ」
 そういえば目覚めた後に名前と学年とクラスを聞かれました。なるほど、そこから情報が漏れたようですね。保健室の先生は自殺しようとしてたことまで知らなくても、西条さんは運ばれてきた人の名前を見れば、それが自殺しようとしていた人間と分かるわけです。
 情報とは恐ろしいです。歴史を振り返っても、情報が色々な厄をもたらしていますからね。関東大震災のときに朝鮮の人々が井戸に毒を投げ込んだという嘘の情報がたくさんの命を奪ったのなんかは、その代表例でしょうか。
「ツーちゃん確認して欲しいの。昨日、あなたと屋上で話したのはあの男で間違いないかしら?」
 西条さんは今度は権兵衛を指さしました。私は迷うことなく強く頷きます。
「そう……ならいいの。用はこれだけよ。付き合せちゃってごめんなさいね」
 西条さんは一体、何がしたかったのでしょうか。権兵衛が私を邪魔したと言う事実を確認にしたかっただけなのでしょうか。よく分かりません。
「用がすんだんなら、さっさと出て行ってもらおう」
「……そうは、いきません」
 権兵衛の言葉に私は小声でしたが否という反応を示しました。
「そうは、いきません。私は、あなたとお話したいことがあります」
 私がそう言って権兵衛を睨みました。彼は目をそらさず、そんな私をじっと、まるで観察するかのようにを見つめてきました。
 科学実験室に沈黙が一瞬だけ訪れましたが西条さんが「じゃあね」と何事もなかったかのように出ていくと、アンノウンさんもそれについて行き、一度こちらを横目で見た後、出て行きました。
 私たちは二人だけになってもお互いを見たまま、硬直しました。
 先を口を開いたのは権兵衛の方でした。
「死にたがりが、一体何の御用かな?」
 死にたがりとは私のようです。まあ、『スイサイド・レディ』よりは馴染めそうですが、それでも気に入りはしません。私が今も死にたがりなのは、あなたが昨日邪魔したから。本当なら私は死にたがりではなく、とっくに死んだ人になっているはずなんです。
 彼は適当な椅子にゆっくりと腰を添えると、窓の外に目を向けました。
「……どうして、ですか?」
 何か言おうとするとまるで体の中から溢れ出しそうになるほどの言葉が出てきて、逆に言葉に詰まってしまいました。
「なんで……どうして」
 壊れたカセットテープのように同じ言葉を知らばく言い続けました。その間も彼は私に目を向けようとはしませんでした。まるで遠い、過去を見ているかのように窓の外に広がる景色を眺めています。
「どうして……邪魔したんですかっ!」
 ようやく別の言葉が出たと思うとそれは今までに出したことのないような大きな声でした。まるで詰まっていたものが一気に吹き出たように、勢いよく大きい言葉になりました。
「……どうしてだの、なんでだの、訊かれたって分かるはずないじゃないか」外を眺めていた彼がゆっくりとこちらを向きました。「そんなのは昨日の俺に聞け。じゃないと分からない。少なくとも、今日の俺には、昨日、あんたを邪魔した俺の気持ちは分からない」
「なにを……訳の分からないことを言ってるんですか」
「分からなくて結構。とにかく邪魔した理由なんてわからない。まあ強いて言うなら、止めなきゃいけないって思ったからだろう」
 そんなつまらない理由で、私の邪魔をしたんですか。
「私は昨日、死にたかったんですよ」唇が震えているのを感じながら必死に私は言葉を続けます。「死にたくて、死にたくて……消えたくて、消えたくて、たまらなかったんだすよ」
 昨日まで私の胸を支配していたのは、溢れんばかりの悲しみ。そこから逃げ出したくて、そこで溺れる自分を助けたくて。死ぬということしか思いつけなくて。けどそれが一番、楽になれる方法だと信じてました。
「あなたに何が分かるんですか……」
 頬に冷たい感触がしました。知らない間に私は涙を数滴流していたようです。それを手でふき取っていると、彼がゆっくり立ち上がり、こちらに何かを差し出してきました。
 それは青一色のハンカチで見た瞬間、なんとシンプルなと思ってしまいました。戸惑いながらもそれを受けとって涙を拭きました。
「悪いけど俺はあんたの気持ちなんてわからない」こちらをまっすぐ見ながら彼は言いました。「分からないんだよ。あんたの気持ちも、俺の気持ちも」
 分からない。今度は彼がそれを何度も何度も、掻き消えそうな声でさっきの私のように呟いていました。私は涙を拭きながらそんな彼を見つめていました。
 そんな彼がその言葉を発したのは唐突でした。
「殴るか?」
 えっと声がもれてしまいました。
「そんだけ怒ってんなら殴りたいんじゃないか? 邪魔をした、俺のことを」
 それは確かにそうです。私はさっき彼のとを一発でいいから引っ叩きたいと思っていました。それで気持ちが晴れるわけもないのに、ただそうしない気持ちがおさまらないと思っていましたから。
 けど何故でしょうか。私は今はもう彼を殴る気はしないんです。熱が急速に冷めていっているんです。
「殴らないのか」
 私はどうしてかは分かりませんが、一歩、後ろに退きました。よく分かりません。目の前にいる人が、私がさっきまで恨んでいた人が、よく分からない。そこに得体の知れない恐怖を感じてしまいました。
 彼は少し笑っていたのです。殴るかと訊いた時から、ずっと。よく見ないと分からないでしょう。ただ確かに少し笑っていたのです。しかしそれは面白がってるから笑っているという感じではなく、何が何だか分からないからというような、つまり混乱したときに笑っているような、そんな笑みなんです。
 何でしょうか。彼は何に混乱してるんでしょうか。確かに私という人間は理解できないかもしれません。しかし彼は昨日ですら混乱はしてませんでした。かなり焦ってはいましたが、あれは混乱ではありません。なのに何故いま、混乱してるんでしょうか。
 というか彼は窓の外を眺めていて振り向いたときから、少しおかしかったんです。
 理解、出来ません。
「……し、失礼します」
 私はそのまま彼に背を向けて出口に向かって走り出しました。どうしてでしょうか。私は今、触れてはいけないものに触れたような気がしてならないんです。ドライアイスに長時間触れたように、急に心が痛くなりました。
 触れちゃダメだったんでしょうか。しかし何処に。私は彼の何処にあった触れちゃいけない部分に触れてしまったのでしょうか。
 科学実験室を出て教室に戻るために急いで階段を駆け下りていくと、階段の踊り場に三人の人がいました。二人はついさっきまであそこにいたアンノウンさんと、西条さん。そしてもう一人は見覚えのある生徒指導の先生でした。
 確か体育の先生でもある生徒指導の先生は青と白のジャージ姿で腕を組んでいて、その前に西条さんが不服そうな顔で立っていました。
「何度言えば分かるんだ。髪を染めて来い」
「やぁですよ」
 どうやら髪の毛の件で注意されているようです。彼女は先生に染めてこいと言われている髪の毛を手で直しています。アンノウンさんはそんな二人を壁にもたれかかりながら、彼女に手助けをする気も無い様で、ただ見ていました。
 しかし西条さんに注意するとは、先生もすごい事をします。
「今更ですよ、大体。私は入学式のときからこの色じゃないですか。それにねぇ先生、私が金髪で何が困るんですか? そりゃあ風紀は乱れるかもしれませんけど、それもまた今更でしょう」
 西条さんの口からはまるで蛇口を思いっきりひねった時に出る水のように次から次へと言葉が出てきました。その言葉は全部、金髪くらいいいだろうというものでしたが、それでもちゃんと理屈は通っていました。見事です。
「理屈はいらないんだよっ」
 先生が少し大きめの声を出しますと西条さんは明らかに苛立ったように舌をうちました。それを聞いた先生は眉間を皺を寄せました。
「なんだ、その態度は?」
「何でしょう、この態度は」
 彼女はこの状況から早く抜け出したいのでしょう、苛立っています。だから言葉づかいが少し、挑発的です。生徒指導の先生に対して、そんな態度を取ってはいけません。いや生徒指導じゃなくてもですけど。とにかく、いけません。
「せんせぇ、私授業がありますからこれで失礼しますよ」
 そう言って西条さんが立ち去ろうとしたときに思いもよらないことが起きてしまいました。先生が西条さんの問題になっている金髪を掴んで、上に引っ張ったんです。
「イタッ」
 西条さんが声をあげますが先生は離しません。それどころか、もっと力を入れて引っ張ります。近くにいたアンノウンさんが急いで二人に駆け寄って、先生やめてやってくださいと制止させようとしましたが、先生はそんな彼の言葉は無視しました。
「いいか、いまココで、明日染めてきますと誓えっ」
 先生が声を荒げると同時に西条さんが手に持っていた鞄を落としました。その音が昨日、彼が屋上で鞄を落とした音と似ていて急に、昨日のことを思い出しました。
 正直言いますと屋上は怖かったです。一歩進めば足場が無い、あの「無」がどうしても怖かったんです。それでもあそこから落ちると楽になれるんだと信じてましたからフェンスの外側に立てていただけなんです。それでいざ飛び降りようかと思ったら、急に扉が開いて彼が入ってきて、全てが狂って。いまも狂い続けてて。これからも狂い続けそうで。
 それでもあの時、私は何かを感じたんです。見つかってしまったという悔しさ。しかし同時に胸の何処からか沸いてきた安心感。他に、今までに感じたことのない感情が私の心を一瞬、覆ったんです。だからあの時、私は彼と会話を交わしたんです。あのよく分からない感情を感じなかったら、私は急いで飛び降りましたよ。邪魔されないうちに。
 そうしなかったのは、そうできなかったのは、彼という不確定な存在が目の前に現れたから。そして胸を何かが包んだから。
 あれは一体何だったんでしょう。実は権兵衛に会えば分かるんじゃないかと思っていましたが、結局は分かりませんでした。
「誓えっ」
 先生の大きな声で現実に戻されました。私は急いで三人のところに駆け寄りましたが、先生の威圧に負けて西条さんの目の前で足をとめてしまいました。
 髪の毛を引っ張られている西条さんは本当に痛そうで、見ていられなくなりました。そして先生を止めようと説得の言葉をかけているアンノウンさんも必死でした。
 私はどうしていいか分からなくなりました。しかしどうしてか、体が勝手に動くんです。脳からは何の指示も出していないはずなのに体が、まるでそうすることが使命だというように動きます。
 落ちていた西条さんの鞄を拾うと私は両手で取っ手を掴んで、そのまま力任せにそれを振りました。バンッという鞄が何かとぶつかる音を立てました。何かとは何かというと、先生の顔です。
 その場が一気に静まりかえりました。先生もあまりに突然のことに呆然として掴んでいた西条さんの髪の毛を放して、西条さんとアンノウンさんも信じられないというようにこちらを見ていました。いや一番驚いてるのも、一番信じられないと思っているのも、私自身なんです。
 私はさっき権兵衛に殴るかと聞かれて殴らなかったくせして、先生を思いっきり、しかも鞄で、叩いてしまいました。私の手から鞄が離れて落ちました。
 先生が私に向かって何か言おうとしたところで、西条さんとアンノウンさんの二人が私を指差して笑顔で同時に同じ事を言いました。
「ホーム・ランッ」



△Side Scientist


 四百字詰めの原稿用紙といえど裏に返せば何百文字、その気になれば何千字も何万字も書けるただの白紙である。升目を無視さえすれば同じことが表にも出来るけど。
 俺はその原稿用紙の裏の真ん中に黒い大き目の円を書いてそれを黒く塗りつぶして円を大きめの点とする。そしてその点の周りにまた円を描いていく。間隔を開けて今度は点を囲んだ円を囲むほど大きな円を描く。この作業を繰り返して出来るのは一つ。
 円を書き終えると今度は一つ一つの円に小さな点をつける。……できた。
「プチ・ソーラー・システム、完成」
 ソーラー・システムとは日本語にすると「太陽系」。日本ではソーラー・システムというとどうしても屋根などについているパネルなどを思い出してしまうだろうが、英語では太陽系という意味を持つ。
 太陽系とは太陽とその周りを公転する天体、そして太陽の活動が環境を決定する主要因となる領域のこと。
 惑星には俺がいまいる地球。そして太陽から近い順に言っていくと水星、金星、さっきも言ったが地球、火星、そしてかなり大きい木星と土星、天王星、最後に海王星。
 先月までは冥王星も惑星に含まれていたのだが、今はもう準惑星というものにされてしまった。報道番組を見てあんなに驚いたのは初めてだった。先月開かれた国際天文学連合総会では当初、ケレス、カロン、UB313という三つの星を惑星にしようと話し合われていたが反対意見が多く否決され、最後には冥王星を惑星としないということを決めた。
 天文学には詳しくは無いが、俺は空が好きだった。夕暮れ時の赤い空、星が輝く星空などがどうしてなのかは分からないが好きだった。
 だから太陽系のことは小学生のときにたくさん調べたのだ。そのせいか冥王星と言うのは俺の中じゃかなり馴染む深いもので、それが惑星じゃないと定義されたのは、ショックだった。
 時々、こうして紙に太陽系を書く。まあ暇つぶしのためだ。わざわざこれを書くことを趣味にはしちゃいない。
 席から立ち上がって窓のそばに立った。教室にかけてある時計を見ると既に午後五時を過ぎていた。この教室に閉じ込められて1時間半以上が経つ。あまり長くは感じなかったな。最初の三十分間を睡眠にあてたからだろうか。
 教室には机が縦に六つ、横に五つ並べられている。その机はどれも木製の古いもので、机の表面に深い傷が入っていたり、ぐらついたりする欠陥品ばかりだ。
 ここは校舎二階の端にある小さな教室。生徒指導室が言うには、反省室。校則に違反した生徒や問題を起こした生徒に放課後、ここで反省文を書かせるのだ。
 できればお世話になりたくない部屋ではあったが、今日は担任を怒らせてしまった。無理も無いか、午前中の授業を全てサボったんだから。
 死にたがりのあの女が逃げるように出て行ってから俺は全身に疲労感を感じて、実験室と扉一つで繋がっている準備室の方で眠ってしまった。四時間目の終わりごろに担任の教師に見つかり、教室まで引っ張られて、嫌々ながらも午後の授業を受けて、放課後の今、反省文を書かされている。
 原稿用紙を五枚も渡されたが未だに一枚も書いていない。それどこか一文字も書いていない。書く気があるのかと問われると、素直に無いと答えよう。
 今日は朝から調子が狂った。神崎と昨日見たテレビの話をしていると、急に西条とあの死にたがりが入ってきたから驚いて、それだけならまだ良かったんだが、彼女と二人になった瞬間、嫌なことを思い出してしまった。
 あの死にたがり。彼女といると何故かあいつのことを思い出してしまう。嫌になるが、忘れちゃいけないことだから、ありがたいことでもある。
 今朝もあいつのことを思い出して少々、混乱してしまった。なんせ死にたがりが「あなたに何が分かるんですか」なんて言うもんだから、頭の中に記憶として詰め込んでおいた過去を急に蒸し返された。いっぱい物が詰まっている箱をひっくり返して、そこから出てきて欲しくないモノが出てきた。そんな気分。
 ――何もしらなかったくせにっ。この人殺しっ。
 ……まただ。あの子が怒鳴った言葉。未だに頭から離れなくて、こうして再生される。まるであいつが忘れるなと言ってるような気がしてならない。
 もういい加減、許してはくれないだろうか。まあ、許せと言う方が無理か。悪いのは俺だ。謝って許される問題じゃない。何をどうしたって、俺は許されないだろう。
 まだ五時。太陽はまだまだ街を照らし続けている。それでも夕方の赤みが空に出てきた。もう一時間もすれば、空が青と赤の対極の二色に分かれる。そしてもう一時間すれば赤も青もなくなって黒い空、夜が訪れる。
 そろそろちゃんと反省文を書かないといけない。席に戻ろうとしたところで、反省室の扉が静かに開いた。極力、音を立てないように注意して扉を開けたのだろう。ゆっくりと扉が開く。
 俺は愕然とし、何の偶然、あるいは何の呪いかと思った。扉のところにいたのは鞄と原稿用紙を持った、あの死にたがりだった。彼女もこちらを信じられないというように見ている。
 昨日、そして今朝に続き、再び俺たちは見つめ合った。
 こういうのをロマンチックに言うと運命の悪戯とかいうのだろうか。それにしたってタチが悪すぎるだろう。悪戯だって度を越すとただの嫌がらせだ。
 誰が何の目的で嫌がらせをしてるって言うんだ。非科学的すぎるだろう。これは運命の悪戯なんかではない。ただの確率の問題だ。
「……何故、あなたがここにいるんですか?」
 彼女は扉の近くの席に鞄と原稿用紙を置いた。俺にあまり近づきたくないから、あんな席に座ったんだろう。
「反省室だぜ。反省するために決まってるだろ」
「見たところ……反省なんてしてないようですけど」
「ご名答だよ、死にたがり」
 朝のことを忘れたわけではない。そこまで記憶力が悪いわけじゃない。なのに俺たちは自然と会話を交わせていた。不思議なことに。
 こいつには悪いことをしたと思っている。自殺を止めたことじゃない。今朝、いきなり殴るかなどと言ってしまったことをだ。あの時は混乱して、何をどうしているか自分でも分かっていなかった。あんなことは言うべきではなかった。少なくとも出会ったばかりの名前も知らない奴に。
 俺の死にたがりという呼び方が気に食わないのか彼女がこちらを睨んできたが、あまり人を睨んだことがないんだろう。睨まれても怖くない。西条に睨まれた時の千分の一くらいの怖さだ。まあ、あいつは日頃から色んな人を睨んでるからな。特に神崎だけど。
「午前中の授業すっぽかしたら、担任にきれられてな。ここで反省文書いとけってさ」
 彼女が睨むのを止めて目を伏せた。
「もしかして……私のせい、ですか?」
「それは違う」
 ここだけははっきり否定しておかなくてはならない。彼女は悪くない。疲労感を感じたのは多分、過去を思い出したせい。彼女がきっかけではあるが、彼女のせいではない。
「あんたのせいじゃないよ、死にたがり。授業を放棄したのは俺の意志だ」
「けど私が朝、変なこと言ったから」
 彼女の声が小さくなっていく。責任を感じているのだろうか。そもそも、彼女こそなんでココにいるんだ。真面目そうな外見だ。ここの部屋に来る様な生徒じゃないだろう。
「今朝は……悪かった」
 謝るが突然すぎたかと思ったが今しかないと思った。面と向かって謝るのは嫌だから、彼女に背を向けてまた窓の外を眺める。
「あの時は、何か、あれだよ……気が狂ってた。少し混乱してたんだ」言葉に詰まってしまったが嘘ではない。「それで少しおかしなこと言っちまった。謝るよ、ゴメン」
 人に謝るなんていつ以来だろうとどうでもいいことを思い出してみる。あの時、あの子に謝ったのが最後かもしれない。
 反省室が静けさに包まれる。彼女に背を向けているから彼女がどういう表情をしているかは分からないが、いきなり謝られて焦っているんじゃないだろうか。今日は焦ったり混乱したりするのが多いな。
「私は……謝りませんよ」
「はっ?」
 訳がわからなくて彼女の方を向いた。
「あんたが俺に謝るようなことをしたのか?」
 少なくとも俺の記憶には無いな。
「私自身があなたに悪いことをしたと思っていることがありますよ……今朝のことです」
「だから、あれはあんたのせいじゃない。今そう言ったろう」
 俺が否定しても彼女は小さく、それでも強く、首を横に振った。
「サボったことじゃありません。触れてしまったことをですよ」
 首を傾げたくなる。彼女は何に触れたというのか。少なくとも俺は彼女に触れられた覚えは無い。では、彼女は何を悪いと感じているんだ。
 座っていた彼女がゆっくりと立ち上がってこちたらに近づいてきた。
「……絶対に、謝りませんからね」
 よく分からない決意表明だ。よく分からないが、そこに強さを感じた。昨日と今朝の様子を見る限り、彼女は強気なタイプではない。そんな奴がここまで強い決意を示すというのは、よほどのことではないのか。
 少なくとも俺は謝られなくても気を悪くはしない。悪くしないどころか、気にしない。
「勝手にしてくれ」
「勝手にしますよ」
 どうも彼女と会話していると調子が狂う。恐らく、俺は彼女という人間とは、全く違うんだろう。人間だから違っているのは当たり前だが、俺と彼女はどうもそういうものではなく、対極的な存在のように思える。例えるならなば、磁石のN極とS極。
「質問を一つしてもいいですか」
 彼女は俺の机をずっと見ていた。いや正確にいうのなら机の上に置いてあった原稿用紙を見ていたのだ。先ほどまで裏返して太陽系を描いていた原稿用紙を。
「どうぞ。答えれるなら答えるよ」
「これは、何ですか?」
 原稿用紙を指さして聞いてきた。普通はこれを見て太陽系だとは分からないか。分かる奴の方が少数派だろう。
「原稿用紙だよ」
 茶化してみると、先ほどより強く睨まれた。それでもまだまだ怖くない。
「ふざけないで下さい」
「怒るなよ。太陽系だ」
 俺が答えを教えると彼女は、あぁと納得したような声をあげた。太陽系だと言われれば分かるのか。というこは、俺は絵は下手ではないらしい。
「確か先月でしたっけ。冥王星が惑星じゃなくなったのは」
「ああ、そうだよ。準惑星っていうのになったんだ」
 それです、それ。彼女は思い出したように少し興奮してそう繰り返した。
「クライド・ウィリアム・トンボーですよね?」
 その名前が彼女の口から出たとき、俺は漫画なら目が飛び出すんじゃないかと思うほど驚いた。一体、クライド・ウィリアム・トンボーという人間をどれほどの人間が知っているのかは知らないが、それこそかなりの少数派のはずだ。この学校にも彼女と俺くらいしか、知ってる人間はいないんじゃないか。
「よく知ってるなぁ」
 クライド・ウィリアム・トンボーとは冥王星を発見した人物の名前だ。アメリカの天文学者で、確か十年程前に亡くなっているはずだ。今年の一月に彼の遺灰は冥王星探査機ニュー・ホライズンズというのに運ばれ、冥王星へ旅立った。
「歴史は好きなんですよ。トンボーさんについては知りませんが、彼が発見者だということは知っています」
 それだけでもずいぶんな物知りだと思う。
「歴史って良いですよ。ものすごく深くて、とても魅力的です」
 彼女が初めて楽しそうな声を出したが、俺は彼女の意見に同意することはできない。歴史とはつまり、過去。過ぎ去ったことを勉強する気にはなれないし、俺は過去というものが嫌いなのだ。
「なぁ、俺からも質問していいか」
「ええ、いいですよ。答えれるなら答えます」
 俺は唾を飲んだ。そして勇気を振り絞って、昨日から気になっていたことを訊く。
「何で、自殺しようとしてたんだ?」
 訊いてよかったのか悪かったのかくらいは分かる。恐らく、これは触れちゃいけないところ。彼女にしては誰にも知られたくないものだろう。それでも俺は知りたかった。
 彼女は答えずただ黙っていた。先ほどまでは楽しそうだったが今は違う。教室の中が静まり返る。ふと、廊下側の窓を見た。気のせいだろうか、誰かが見ていた気がする。
「ああ……残念ながら、それは答えられませんね」
 彼女が間延びした声でそう言った。落胆はなしない。予想していた答えではあった。自殺したかった理由なんて、そう簡単に他人に教えられるものじゃないだろう。それ位は分かっている。なら何故訊いたといわれれば、答えを濁してしまうが。
 外を見ると、とうとう空が青と赤と二色で争いを始めていた。この勝負の勝敗は、青の勝ちなのだ。これは絶対なんだ。青はのちに黒となり、夜となる。赤が勝つことはこの先、何年経とうとない。
 彼女と二人でいることが苦になり始めている。いや、彼女が嫌いなわけではない。ただあんな質問をしてしまったから、次にかけるべき言葉が見つからないのだ。
 頭の中に出てくる言葉はどれも無意味にしか思えないもので、今口に出したところで、それは何の効果も示さないだろう。しかし、またある質問が頭の中に浮かんだ。これはさっきの質問ほど失礼じゃないものだ。
「死にたがり、あんた何でこんなところにいるんだ? 何をしでかした?」
 彼女はどうやらその質問には答えれるらしく、少しだが話しづらそうにここにいる理由、つまりは彼女がしでかしてしまったことをゆっくりと話してくれた。
 彼女の話しによると、今朝、科学実験室から出て行った後すぐに階段で西条が教師から説教をされていて、彼女がそれに反抗し、教師の方がキレて彼女の髪の毛を掴み引っ張るという荒技を繰り出してきたので、止めようと思い無我夢中で鞄を振ったところ、見事に教師の顔面にヒットしたとのことだ。
 ようは、彼女は西条のゴタゴタに巻き込まれたのだ。
「迷惑な女だろう」
「そんなことありませんよっ。西条さんはいい人です……少し、本当に少しですよ、変わってますけど。なんといったらいいか、心の大きな人ですよ」
 それは認めざるをえない。あいつの心の広さは理解しているつもりではある。かなり自分勝手に行動はしているが、かなり他人を思いやるタイプの人間だ。顔の広さは太平洋だし、人望は核シェルターかもしれないが、心の広さは木星といったところか。木星の全面積ほどあいつの心は広いかもしれない。
 どうやら出会って初日で彼女は西条の変人っぷりを理解したらしい。察しがいいと評価するべきか、それとも当然と考えるべきか。迷いどころだ。まあ、後者でいいだろう。それだけ迷惑をかけられたんなら、そう察しない方がおかしいのかもしれない。
「あの、私からももう一つ、質問をいいですか?」
 さっきから質問のし合いだなと思った。彼女はちゃんと一つは答えてくれたのだから断るわけにはいかない。どんな質問でも甘んじて答えるべきだろう。このながれではどんな質問をされてもおかしくは無い。少しだけ覚悟をして頷いた。
「あなたの、お名前は?」
 少し拍子抜けだった。一体何を訊かれるんだろうかと少し緊張していたが、どうやらそれは無駄だったらしい。しかし彼女の質問は当たり前か。そういえば、俺も彼女もお互いの名前を知らない。ファースト・コンタクトが昨日、しかも突然、だったのだから仕方が無い。
「自己紹介か。あんまり慣れてないんだよな。ええ……名前は斉藤学(さいとうまなぶ)っていう。平凡な名前だから覚えやすいだろう」
 この名前が嫌いではない。しかし今まで何度も平凡な名前だと言われたことがある。一学期、神崎と初めて会ったとき奴は俺の名前を聞いて「どこにである名前だな」と言い、傍にいた西条が「そこら中に落ちてそうよね」と同意した。
「斎藤さんですね。私は月宮飛鳥(つきみやあすか)っていいます」
 少し戸惑ったようだが彼女はぎこちなく右手を差し出してきた。少し驚いて、どうしていいか分からなかった。握手なんて長い間していない。最後にしたのは多分二年ほど前だ。それでも相手は男子だったはず。女子と握手をするのは、情けない話になるが照れくさい。
 しかしここで断るわけにはいかない。手の平を服で拭く動作を彼女に見られないようにした後に彼女の手を握った。昨日、会ったばかりなのに。それに昨日はフェンスという壁まで挟んであんなに遠くにいた彼女が、今は体が触れているほど傍にいる。
 その事実が少し、本当に少しだけだが、嬉しかった。いや白状しよう。何故だか分からない。分からないけど、とても嬉しかった。
 無意味に機械的にいつもこの時間に鳴るチャイムが鳴った。そのせいで握手をしたまま硬直してしまい、それが可笑しくて、二人で小さく笑った。


〇Side Jupiter


 西条那美は自分でもらしく無いなぁと思いながら落ち込んでいた。時間は夕方の五時半を過ぎたところ。今、彼女は学校の校門を出たところにある逆U字型の車止めに座っていた。
 さっきから帰っていく先輩や同級生たちが一緒に帰ろうと誘ってくれるが全部断っている。彼女としては今、自分のせいで反省室にいる月宮を待たないわけにはいかなかった。まさか自分の金髪が他人を巻き込むなんて思っていなかった。
 いや他人を巻き込むのも計算外だが、彼女からすれば今日はじめて言葉を交わした月宮が自分の為にあんな思い切った行動をするのも計算外だった。教師を殴るなど、流石の西条自身もしたことが無かった。
 しかしそのせいで彼女は生徒指導の教師から長々と説教をされ、今は反省文まで書かされている。西条は何度も教師に「ツーちゃんは悪くない」と訴えかけたが、相手にはしてもらえなかった。それどころか「お前は帰れ」と学校から追い出された。
 教師の連中からすれば自分がややこしい存在であることは分かっている。恐らく結構迷惑もかけているだろう。ただ、だからといって帰れといわれて帰るわけにもいかない。ちゃんと月宮に謝らなければいけない。
 ため息をつきたくなる。なんと情けない、と。この学校に入学して半年近く経つが、自分をここまで情けなく感じたことはない。教室に閉じ込められている友達一人、助けることが出来ない。しかもその友達は自分せいで色んな迷惑をうけている。
 今日は何度も彼女に謝った。彼女は「気にしないで下さい」と笑ってくれたが、気にしないわけにはいかない。
 校門から、嫌というほど、見覚えのある男子生徒がこちらに歩いてきた。何故か少しだけ微笑んでいる。彼も今朝の事態を知っている。しかし彼は人の不幸を微笑んで楽しむような人間ではない。では、何に微笑んでいるのか。
「なによぉ龍也。随分機嫌が良さそうね」
 皮肉っぽくそう声をかけると彼はポケットから何かを取り出して、それを投げてきた。受け取ってみると飴玉だった。
「さっきクラスメイトからもらった。中々うめぇぞ」
「飴なんて食べれる気分じゃないわよ」
 分かるでしょう。そう同意を求めたら彼は、まあなと気のきかない返事を返してくれただけだった。そしてまた微笑んで、校舎の方を見る。
「……帰ろうぜ」
 彼の口から出た言葉に驚いて口をあけてしまった。何を言ってるんだろう彼は。彼女がここで誰を待っているか位は分かっているはずだ。
「馬鹿。帰れるわけ無いでしょう」
「謝るだけなら明日にでも出来るさ、那美。けど今日しか出来ないこともあるんだよ」
 例えば一緒に帰るとか、と彼は続けたが、彼が何を言いたいのか分からなかった。よくこんな理解できない奴と小学校や中学校をともにできたと自分を褒めてやりたい。
「さっきさ反省室をちょっと覗いてた」また微笑んだ。「面白いことになってきたぞ」
 彼が言う面白いことというのが何かわからない。というか、覗くなんてこの男はなんて悪趣味なのだろうか。……ああ、自分のいえたことではない。
「とにかく今日は帰ろうぜ。それが『スイサイド・レディ』のためでもある」
「よく分かんないあだ名で呼ぶの止めてよ。ツーちゃんは、ツーちゃんよ」
「それはシンプルすぎて面白くないだろう」
 別にあだ名に面白さなんて求めてないわよ。彼女はそう言い放って、彼から目をそらした。この神崎龍也という男は何故いつも気に触ることをいうのだろうか。
 またため息をついた。
「……髪、黒染めようかと思うんだけど」
 目をそらしたまま彼女がそう言った。気のきいた返事を彼に期待したわけではない。ただ今日はずっとそう考えていたのだ。この髪が災いを呼んだのだ。染めた方がいいのではないか。この考えを誰かに相談したいと思っていた。誰でも良かった。意見が聞ければ。
「染めたきゃ染めればいい」
 返ったきた返事は実に彼らしい、気のきかない返事だった。もう落胆する必要も無い。
「ただ、俺はその金髪、似合ってると思うよ」
 何でそういう返事しか出来ないのかと怒鳴ろうかと思ったときに、不意をつかれたようにそう言われた。彼自身は特に照れた様子も見せていないので、恐らく素直な感想なのだろう。少しだけ、胸が高鳴ったのは、たぶん気のせいだ。
「帰ろうぜ」
 また彼が言った。今度は否定しないで素直に頷いてしまう。ちゃんとツーちゃんを待たないといけないと分かってはいたが、今は彼と帰りたいという想いの方が強かった。
 ――ゴメンッ、ツーちゃん。今度何かご馳走するわ。
 彼女は心の中で手を合わせて謝ったあと、先に歩き始めていた神崎と並んだ。そういえば二人で帰るのは久しぶりだ。さっき彼からもらった飴を袋を開けて口にいれた。甘い、それでもどこか苦味のある味が舌に広がっていく。抹茶味のようだ。
 アスファルトの道には二人の並んだ影が細長く伸びている。
 校舎の方からチャイムの音が聞こえてきた。



第二章【パンドラズ・ボックス。あるいは過去からの来訪者】
二〇〇六年十月

▽Side Historian


 空一面を覆っている灰色のうす気味悪い雲たちが恐ろしいほど早く流れる空を私はただ、じっと何もしないで見上げていました。一体、あの雲たちは何に慌ててあんなに速く流れているんでしょうか。肉食動物に追いかけられた草食動物より、そのスピードは速いです。そして彼らはどこに向かってるんでしょうか。
 渡り廊下で一人、そんなことを考えています。きっとこんな事を斉藤さんに言ったら「馬鹿か、あんたは」などと罵られるに違いありません。いや、私だって雲がただ風に流されているだけという事くらいはわかっています。ただ、こういう考え方をしてもいいじゃないですか。別に悪いことでは無いでしょう。
 昨日の夜の天気予報では台風が近づいているといっていました。今も風が強く吹いていますし、少しですが雨も降っています。この地域には直撃はしないと言っていましたが、かなり近づくらしいです。そこまで大型の台風ではないので学校も休みにはならないでしょう。暴風警報が出たら休みになるらしいですが、暴風域にはいるかどうかも微妙だと天気予報士さんは言っていましたし、入るとしてもそれは明日の夜だそうです。
 しかし、台風が近づいているのは肌で感じられます。風の強さが朝とは違います。朝も風は吹いていましたが、今ほどではありませんでした。今は木の枝が風が吹くたびに、まるで踊っているかのように靡きます。
 今日は少し早めに帰ろうと思っていたんですが、さっきまで図書室で数学の自習をしていたら時間を忘れてしまいまい、気づけば五時半過ぎていました。数学は苦手科目なので時間がかかるんです。まったく、嫌になりますよ。なんですか、あの数字の羅列は。見ているだけで嫌になりますし、少しだけ腹も立ちます。電卓があるだけで良いじゃないですか。文明の利器を使いましょう、文明の利器を。
 私は止めていた足を動かします。どうせ彼の事です、まだ学校にいるでしょう。そう思って私は階段を上って科学実験室に向かいます。
 彼と知り合ってから一ヶ月近く経ち、私は科学実験室に通うようになりました。静かではないですが、何故か落ち着く場所ではあります。一学期はあそこの教室を落ち着くなんて感じはしませんでしたが、どうしてなのか、今は感じます。不思議なことです。
 実験室についた私は一応、数回扉をノックした後、音を立てないようにゆっくりと開けて中に入りました。室内には窓の近くで白衣を着た斎藤さんが白いコップを片手に立ちながら外を眺めていました。この人は外を眺めるのが好きですね。
 彼は入ってきた私を見るとコップの中のものを飲みました。
「またあんたか」
「また私です」
 彼の一番近くにある机にはカセットコンロとその上にヤカン、そしてその横にはインスタントコーヒーが置いてありました。どうやらここでいつもの通りゆっくりとくつろいでいたようです。たまに実験もしていますが、私はあまり彼が実験をしているところを見かけません。
「まだ帰らないんですか」
 私が声をかけると彼は少しだけ唇を尖らせて声を出さずに笑いました。
「あんこそ、まだ帰らないのか。台風がきてるんだぞ」
「私はさっきまで勉強をしてたんです。それに台風のことくらいは知ってますよ」
 勉強といったのは科目を分からなくするためです。彼に以前、数学が苦手だというと散々馬鹿にされました。あそこまで人に馬鹿にされたのは初めてだったかもしれません。その時は屈辱感で胸が風船のように膨らみました。ですから、どんなことがあろうと私は彼の前では数学の話をしません。そう心に誓ったんです。それと、いつか彼をぎゃふんと言わせるとも誓いました。
「そういえば、今日西条と会ったか?」
 彼が急に質問してきたので、私は素直に首を横に振ります。今日は西条さんとは会っていません。私はあの日以来、よく西条さんとも会って話しています。一度ですが遊びにも行きました。仲良くしてくれています。やはりとても良い人です。神崎さんと斉藤さんは口をそろえて「滅茶苦茶な奴だ」といいますが。
「会ってないのか。それは良かったな」
「……どうしてですか」
「今日のあいつは不機嫌だ。ご機嫌ななめ。角度で言うと八十度くらいか」
 わざわざ角度で言う必要はありません。
「さっきまで神崎がここに来てたんだよ」
「仲が良いんですね」
 そう言うと彼は首を横に振って、違う違うときっぱりと否定されました。否定されたところで神崎さんと彼が仲がいいのは分かりますよ。いつもここで楽しそうに話しているじゃないですか。
「あいつの話しによると、昨日あいつらは一緒に買い物にいく約束をしてたらしい」
「仲が良いんですね」
 彼は今度は首を縦に振って、まったくだとはっきり肯定しました。しかしこれは本当です。神崎さんと西条さんは本当に仲が良いです。しかし、喧嘩をしすぎるのはどうかと思いますけど。毎日のように喧嘩しています。喧嘩というか、神崎さんが西条さんを怒らせているだけなんですけどね。
「それで神崎は昨日、寝坊をして約束を破った」
 よくある話だと彼は続けましたが、それじゃあ西条さんが怒っても仕方ありません。昨日だって風は強く吹いていました。その中で待たされた西条さんのことを考えると、私だって怒りたくなります。
 彼はコーヒーを一口飲んで、また外を眺めます。近くにいた私にも聞き取りにくいほど小さな声で、台風かぁと呟きました。
「今も神崎と西条は校内のどっかで喧嘩をしてると思うよ。帰ったかもしれないけどな」
 あの人たちなら校内でも街中でも関係なく喧嘩しますからね。今もどこかで西条さんが怒鳴り、神崎さんがそんな彼女を茶化しているかもしれません。そんな光景が目に浮かびます。
 私は机の上に置いてあったカセットコンロの横に置いてあったインスタントコーヒーの横に別のあるものを見つけました。それはDVDで、表紙を見ただけで何の映画か分かりました。かなり有名なアメリカの映画です。
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』というタイトル。小学生のころだったでしょうか、テレビで見たことがあります。あまり内容は覚えていませんが面白い作品だったことは記憶しています。タイムトラベルするお話でした。
 DVDを見ている私を見て彼が、神崎から返してもらったんだと説明しました。
「二ヶ月くらい前に貸してやっと返ってきたんだよ」
 どうも神崎さんは適当なところが多い人です。決して悪い人じゃ無いんですけどね。それを許せている西条さんはやはり心の広い人です。
「この映画、好きなんですか?」
 私の質問に彼は勿論だといいながらコーヒーを飲みました。それでコーヒーを飲み干したようで、机の上に空になったコップを置きます。私はブラック・コーヒーは飲めませんが、彼は好んで飲んでいます。よくもあんな苦いものを飲めるなぁと感心し、同時にあきれています。
「三部作の映画なんだけど、二作目が最高なんだ。未来に行く話なんだけど、観たことあるか?」
 私はいいえと首を振りました。私が見たことあるのは第一作目で、過去にいくお話でした。そのことを彼に言うと、しぶい顔をされてしまいました。
「一作目はあまり好きじゃないんだよな」
 そんなことを言われても困ります……。どうやら彼は二作目がお気に入りのようです。しかしここにあるDVDは一作目のです。表紙に『PART1』と書かれています。シリーズを全てもっているんでしょうか。
 未来へ行く話なんだ――。彼は今、こう楽しそうに言いました。しかし、私はそれなら絶対に一作目の方が面白いと思います。未来へ行くなんて、絶対に嫌です。どうせな過去に戻って、歴史的な瞬間を見て回りたいですから。
 この映画は車がタイムマシンで、それで未来へ行ったり過去へ行ったりするんだと彼は大雑把なストーリーを話し始めました。私は黙ってそれを聞いていました。話している彼の顔は本当に楽しそうで、遠足に行っている小学生のようです。
 斉藤さんは一度熱く語りだすと止まりません。ですから私はそこまで興味の無い映画の話をしばらくの間、黙って何も言わずに聞いていました。別に相槌を打つ必要もありません。彼は私に話し掛けているようで、実は一人で喋っているだけなのです。
 少し前に宇宙について彼が熱く語っていたときに、私は何度も声をかけましたが、全て無視されました。語っているときの彼には周りの人間は見えていません。
 雨の音が聞こえてきます。早く帰らないといけません。そうです、私がここへ来たのは早く帰ったほうが良いですよと彼に注意するためでした。当初の目的をすっかり忘れていました。
「ねえ、今日は早めに帰ったほうがいいですよ。台風がきてますから」
 私が声をかけても彼は聞こえていないように、映画の話を熱く語っています。ああ、もう、面倒な人ですね。少しは黙れませんか。……あっ、普段は静かで、よく黙ってますね。
 窓の外を見てみるとやはり雨脚が強くなっています。横殴りの雨が実験室の窓にぶつかって、そしてゆっくりといびつな水の道を描きながら落ちていきます。
「ところであんた、タイムマシンがあったら未来と過去、どっちへ行きたい?」
 突然彼が先ほどの笑顔ではなく、妙に真剣な顔で訊いてきました。いつ語り終わったんでしょうか。外を眺めていたせいで気がつきませんでした。不覚です。
「過去ですね」
 私は少しも、一秒も一瞬も迷うことなくさらりと答えました。迷う必要なんてありません。間違っても未来などと答えることは無いですから。そんなものはなくてもいいとさえ、時々思うんですから。ネガティブだと思いますけど。
 彼は私の答えに驚くことはありませんでした。それどころか、あんたは歴史が好きだもんなと勝手に解釈していました。その解釈は間違っていませんが、正解でもありません。私は確かに過去に行って歴史的な瞬間を見れたら幸せと感じるはずです。しかし、私は過去に行きたいわけじゃありません。未来へ行きたくないだけなんです。
 そんなものは、見たくありません。
「俺は未来なんだよ」
 彼は空になったコップを持って教室の奥にある水道場へ向かいました。私も彼の答えには驚きませんでした。さっきの会話からしてからが未来へ行きたいというのは分かりきっていましたから。
 水道場で彼がコップを軽く洗って帰ってきたところで、私は早く帰りましょうと再び声をかけました。何度も言わさないで欲しいです。
 彼は窓の外を一瞥した後、小さく頷きました。
「そうだな、そろそろ帰ろう」
 彼がそう言ってくれて私が安心していると、突然、パリンッ! という何かが割れる大きな音が私の背後から聞こえてきました。突然のことに私は小さく悲鳴をあげて、耳をふさいでしゃがんでしまいます。するとそんな私の横を、丸く白いものが音をたててバウンドを繰り返しながら通り過ぎていきました。そしてすぐに廊下を走り去っていく足音も聞こえました。
 何が起こったんでしょうか。私には何が何だか分かりません。詳しい説明を聞かせてもらいたいですが、一体誰に説明してもらえばいいのでしょうか。出来る人なんているんでしょうか。
 私はしゃがんだまま、胸に手を当てて小さく深呼吸をして落ち着こうとします。
「大丈夫か」
 斎藤さんの声が頭上から聞こえてきました。私の目の前には彼の足が見えます。どうやら見下ろされているようです。
 ええ大丈夫ですよとなるべく平静を装って答えましたが、すぐさま彼が「声が震えてる」と指摘してきしました。どうやら私の体は数学と嘘をつくのが苦手のようです。
 彼が手を出してきたので、私は恥ずかしながらも彼の手を借りて立ち上がりました。そして恐る恐る後ろを振り返って、何が起きたのかを理解しました。
 実験室の扉の窓が割れていたんです。扉の周りには割れたガラスが散乱しています。扉にはめられていたガラスは先が尖ったものがいくつか残っているだけで、全体の八割ほどは床に落ちて割れてしまっています。
 私も斎藤さんも状況を理解できていません。ガラスが割れたのは分かっています。では、何故いきなり割れたんですか。ガラスっていきなり割れるものなんですか。そんなはずないじゃないですか。
 そういえばさっき私の横を何かが通り過ぎていきました。あれは何だったんでしょうか。私は床を見下ろしました。すると、すぐ近くにそれは落ちていました。
 さっきは何かはわかりませんでしたが、今は一目見ただけでそれが何かわかります。硬式野球ボールです。白い球に、赤い縫い目が見えます。私がそれを拾い上げたようとして、手を伸ばした瞬間に横にいた斉藤さんが私の手首を掴んで止めました。
 いきなり掴まれたことに焦ったり照れたりしていると彼がすぐに放して、軽く右足でそのボールを蹴りました。ボールが軽く転がり、赤く何かが書かれているのが分かりました。そして同時にそのボールに、小学生ですかと言いたくなる様な悪戯が施されているのがわかりました。
 画鋲が二つ、丁寧に貼り付けられていました。接着剤か何かでくっつけているのでしょう。もしもあのまま私が持っていたら針が刺さっていたかもしれません。
 彼がゆっくりを腰をかがめ、ボールの画鋲が仕掛けられていないところ持ち、ボールを顔に近づけて見て静止しました。彼の顔から表情が消えています。私は連続して起こる理解できない状況についていけていません。私が震えた声で「どうしたんですか」とたずねても彼は答えようとせず、ただそのボールを表情の消えた顔で見ていました。
 何が起こっているんでしょうか。よく分からないまま、私はとりあえず、彼の持っているボールを覗き込みました。一体、何が書かれているんでしょうか。
 赤くはっきりと、ボールには文字が書かれていました。『人殺し!』と。赤い絵の具か何かで書かれているんでしょう。太く、まるで呪いのメッセージのようにそれは書かれていました。
 余計に訳がわからなくなります。悪戯なんでしょうか。だとしたら、やりすぎです。窓を割っただけでなく、こんな怖いことまで言ってきて。
 そういえばさっき走り去る音が聞こえてました。あれから時間は経ちましたが、まだ近くに犯人がいるかも知れません。追いかけてとっ捕まえてやりたいです。
「斎藤さん、追いかけてみましょう」
 私が彼の白衣の袖を引っ張り声をかけても、彼は固まったまま動かずに、ボールを見たまま、まるで何か悪いものに取り憑かれたかのように微動だにしませんでした。
 どうしたんですかっ。そう声をあげようと思いましたがやめました。彼の顔に表情が戻ったからです。しかしその表情は今までに一度しか見たことない表情でした。
 あの時の、混乱したときの笑みを浮かべました。いきなりあの朝のことを思い出されました。殴るかと彼が突然訊いてきたときのことを。今彼は、そのときと同じ表情をボールに向けています。
 私は少し怖くなりました。しかし、すぐに彼の表情が変わったのを見て、逆に心配になりました。今度は顔をゆがめて、非常に悲しそうな表情をされました。
 なんなんですか。もう、訳分かりません。私はきびすを返して、実験室から走って飛び出した。そして足音がしていったほうに向かって走り出します。すぐに階段があり、駆け下ります。なんで実験室は五階なんかにあるんですか。降りるのが大変でしょうっ。
 いきなり投げ込まれたボール。あれは何だったんでしょうか。変な画鋲の悪戯だけでなく、気味の悪いメッセージまで書かれていて、何も知らない私が見てもゾクッとした恐怖に襲われました。
 そしてボールを見た後、斎藤さんが急に黙って、動かなくなって、混乱して、悲しんで……。どうしたっていうんでしょうか。何がどうなっているんですか。意味が分かりません。状況が、理解できません。
 彼のあんな表情を見たのは初めてです。あんな悲しそうな表情を見たのは……。この一ヶ月、私は彼とよく会っていました。それで彼の怒ったときの顔や、困ったときの顔、喜んだときの顔、笑顔などを見てきました。
 できれば、あんな表情は見たくありませんでした。あんな悲しそうな彼は、見ているこちらさえつらくなります。
 階段の踊り場の窓が急に光りました。どうやら遠くで雷が鳴ったようです。階段を駆け下りていると、遅れてゴロゴロという、子供のときは聞いただけで怖くなった雷の音が聞こえてきました。
 後ろに人の気配などまったく感じませんでした。それは私の注意力が欠けていたからでしょうか。元々、鈍感ですけど真後ろに人が立てば分かります。恐らく、私自身も随分と混乱していたんでしょう。だからこそ、後ろに人がいたことに気づかなかったのです。
 背中に二つの柔らかい、それでも強い感触がしました。途端に私は体のバランスを崩して、悲鳴をあげながら階段を転がり落ちました。転げ落ちている最中にようやく、押されたんだという事が分かりました。
 そこまで階段の段が無くてよかったです。大きな怪我はしなかった模様。転げ終わって、私はしばらく階段の踊り場で寝転がっていました。その私をまたいで誰かが下に降りていきました。待ちなさいっと声をあげたかったのにできませんでした。それどころか私は全身の痛みのせいで、降りていった人を見ることさえ出来ませんでした。情けなくなります。
 全身の痛みがようやく引いたところで、立ち上がろうとしたら右足に痛みが走りました。イタッと小さく叫びます。
 どうやら右足を痛めてしまったようです。階段の手すりを掴み、再び立ち上がろうとしたときに上の方から声が聞こえました。
「ツーちゃんっ!」
 痛さのあまりその場にへたりこんでいると聞き覚えのある女性の声がしました。振り返らずとも、それが誰かわかります。私がゆっくりと振り向くと、らしくも無く焦っていた西条さんが階段を駆け下りてきていました。その横には、これもまたらしくもなく心配そうな表情をうかべている神崎さんがいました。どうやらお二人はまだ学校に残っていたようです。
「ああ……西条さんに神崎さん」
 どう言葉をかけて良いか分からず、とりあえず名前だけ呼んでみました。するとすぐ西条さんが「また苗字で呼んだぁっ」と声をあげました。一日に一回は、こう言われます。
 西条さんと初めて会った日に私は彼女から「呼び捨てで呼んで」と言われましたが、残念ながらその約束を守れずにいます。どうしても那美とは呼べないのです。照れくさいですし、呼び捨てにすると失礼な気がしてならないんです。西条さんは、そんなの気にしないと言って下さいますが、それは無理な話なんですよ。
「どうしたの、スイサイド・レディ。迷子?」
 神崎さんが場の空気にはそぐわない質問をしてきましたが、即座に横に立っていた西条さんが、黙ってなさいと言うように彼の頭を一発はたきました。漫才コンビにでもなれるんじゃないでしょうか。
「ホントにどうしたのよ、ツーちゃん」
「ええ、実は……」
 私は必死で頭を回転させ考えます。今まで起きたことをお二人に話すべきかどうかを。信じてくれないということは無いでしょうが、もしかしたらご迷惑をかけてしまうかもしれません。しかし、今の私は一人では立ち上がるのさえ困難な状況。今は誰でも良いから助けが欲しいです。
 その助けというのが、この二人ならばとても心強く、信頼できます。それに神崎さんなら今のあのおかしかった斎藤さんともちゃんと話しが出来るかもしれません。
「実はですね」
 私は覚悟を決めて、早口で今まで起きたことを全て、出来る限り細かく、目の前にいる二人に話しました。実験室にボールが投げ込まれたことから、私がついさっき誰かに突き落とされたことまで。話している最中に二人の顔が見る見るうちに暗くなっていくのを見て、私はやはり話さないほうが良かったかもしれないと遅すぎる後悔もしました。
 話しが終わっても二人はしばらく黙っていました。神崎さんも西条さんも、顎に手を当てて何かを考え込んでいます。その仕草がソックリで驚かされました。
 少しすると神崎さんが急に階段を上り始めました。
「俺は実験室に行く。那美、スイサイド・レディは任せた」
 それだけ言うと神崎は走って階段を上り始め、その背中に向かって西条さんが「ツーちゃんって言ってるでしょ」と、今更ですかと言いたくなるような声をかけました。
「……ツーちゃん、とりあえず保健室に行きましょ。ほら」
 西条さんがが私の脇の下に入り込んで、私の体を持ち上げてくれました。おかげでようやく立つことが出来ました。私を支えながら西条さんが一歩踏み出し、私は痛めた右足を庇いながら、それに従い一歩進みます。
 ゆっくりとした足取りで私たちは保健室に向かいます。
「西条さん……」
「那美って呼んでくれなきゃ、返事しないよ」
 西条さんの顔を見ると、やはりしんどそうな顔をしていました。当たり前です。一人で私を支えて歩いているわけですから、しんどくないはずが無いんです。それの御礼を言うとしましたが、どうやら苗字で呼んでも返事をしてくれないそうです。
 参りましたね。けど、お世話になってるんですから、ちゃんと彼女のいう事を聞くべきでしょう。
「那美」
 勇気を出していってみたものの、声が小さくなってしまいました。しかし西条さんはそんな声でもちゃんと聞いてくれていました。
「なぁに、どうしたの? お母さんに言ってみなさい」
 誰がお母さんですか。けど、これは私の勝手な想像ですが、西条さんは良いお母さんになれるでしょう。優しくて強い、とても良いお母さんに。
「あの……ありがとうございます」
 お礼を言うと西条さんがきょとんとした顔つきで見てきました。
「何言ってんの? 私はツーちゃんにいくら返しても返しきれない恩があるんだよ」
 西条さんが言ってるのは、私と彼女が初めて会ったあの日、私が反省室に連れて行かれたことです。あの日からもう一ヶ月も経っているのに、未だに西条さんはそれを気にしているようです。あれほど、気にしないで下さいと言っているのに。
「それにね、ツーちゃん。私の肩くらい、いくらでも貸してあげるわよ」
 友達なんだから。西条さんがそう続けました。胸のうちが熱くなります。私は今まで、友達が一人もいなかったということはありません。中学校にも小学校にも、友達はいました。ただ、私はどこかおびえていました。
 友達は私のことを、友達と思っているのか。
 ずっとそれに悩まされ続けていました。しかし、西条さんは今、友達なんだからと言ってくれました。なんと……なんと、嬉しい。
 私は嬉しさのあまり、次にかけるべき言葉が見つからず、黙っていました。そうしている間に保健室に着きました。
 保健室の先生は私を見るなり「久しぶりね」と声をかけてきました。一ヶ月前、私が倒れてここに運ばれてきた時に、私の看病をしてくれた先生でした。
 少し小太りの女性の先生で、年齢は五十代くらいでしょうか。
「ドクター・ミセス、お久しぶり。元気してた?」
 西条さんが先生に話し掛けます。ドクター・ミセスというのはどうやら先生のあだ名のようです。西条さんは色んな人にあだ名をつけてるみたいです。趣味か何かでしょうか。
「あらさっちゃん、久しぶりね。何々、友達と喧嘩して怪我でもさせたの?」
 先生がからかい半分でしてきた質問に、私は本気で首を振りました。私は西条さんとは喧嘩なんかしていません。その反応を見た二人、小さく笑いました。
 西条だからさっちゃんでしょうか。これもまたシンプル・イズ・ベストですかね。
「違うの。階段で転んだみたい、診てあげて」
 私が保健室の椅子に腰掛けると、向き合うように先生が座ります。痛めた右足の靴下を脱がして、先生が私の足をそっと痛くないように触りながら診てくれました。
 先生の診察の結果は捻挫。痛みは数日残るが、明日になればたいした痛みじゃなくなる。本格的に痛むのは今日だけという事でした。たいした怪我でもなく、安心できました。もし骨にひびでも入っていたらどうしようかと内心怯えてましたから。
 診察が終わってからも、私たちは保健室にいました。というのも、西条さんが先生と会話を弾ませていたからです。私はその会話には入れず椅子に座ったまま、じっと窓の外の降り続く雨を見てました。
 斎藤さんは、大丈夫なんでしょうか。神崎さんが様子を見に行ってくれているはずなんで、安心はしています。しかし、同時に不安もあります。ボールを見たときの彼の反応は、異常でした。
 しばらくすると先生が職員室に用事があるという事で出ていかれ、その間、保健室の留守番も頼まれてしまいました。
「ねえ、ツーちゃん」
 外を眺めていた私に、いつもより少し暗い口調で西条さんが話しかけてきました。彼女は椅子に座っている私の真正面に立ち、そして私と目線を合わせるため、腰をかがめました。
「これは私が話すべきことなのかどうか、判断に迷ってることなんだけど」彼女は一度強く目を瞑りました。「斎藤君について話しておきたいことがあるの」
「斎藤さんについで、ですか?」
 私がオウム返しに訊くと、彼女は小さく一度だけ頷きました。
「ただ、聞いても気持ち良い話じゃない。けどね、多分だけどあなたは斎藤君のトラブルに巻き込まれて、こうして怪我をしたと思うの。だから話しておきたい。けど、無理矢理聞かされても仕方ないでしょ」
 西条さんの表情はもう不安の色を隠しきれないもので、顔色が悪くなっていました。
「だからツーちゃん、一つ質問させてね」彼女は少し間を置いて、私の目を真っ直ぐ見ました「パンドラの箱って、知ってる?」
 西条さんの体で隠れていましたが、窓の外が一気に光りました。そして直後に雷鳴が轟きます。
 嵐が、来ます。


△Side Scientist


 雨の降り続く音が室内に響いていた。窓の外が黄色く光り、そして数秒後、ゴロゴロという雷鳴が聞こえる。それでようやく飛んでいた意識が戻ってきた。周りを見ても、割れたガラスと手にもったボールしかない。いつの間にか死にたがりが消えていた。
 そういえば俺に何か言った後、飛び出していったような記憶が薄っすらとある。
 俺は手にもっていたボールをまた見た。そこには赤い文字ではっきりと『人殺し!』と書かれている。もはやこのボールを投げ込んだ犯人は、自分の姿を隠すつもりはないらしい。いや、どちらかというと自分の存在を俺に再確認させているのかもしれない。
 忘れるなよ、と。ここにいるぞ、と。
 忘れれるはずがない。忘れられるはずがない。忘れていいはずがない。俺はこの一年間と少しの間、彼女のこともあいつのことも忘れた事はない。ずっと記憶に焼きついている。
 ボールをテーブルの上に置いて、散らばっていたガラスを拾うために実験室の奥の隅にある掃除用具箱の中からちり取りと箒を取り出す。そういえば、この教室の掃除も長い間していない。顧問の先生から「たまにしとけよ」と言われているが、最後にしたのは多分、一学期の終わりごろだ。
 扉の周りには砕け散ったガラスの破片が、遠慮も無く落ちている。通常、野球ボールでガラスを割っても全体に割れる事は少ない。いや、ガラスの大きさにもよるのだが、野球ボールくらいの大きさのものなら、それが通過した部分だけ割れる。そういう事のほうが起きやすい。
 しかし俺の目の前にある扉のガラスが、全体的に割れている。よほど至近距離で、そして強くボールをぶつけたんだろう。しかし、ボールは実験室に入った直後に床に着いてバウンドをしていた。
 恐らく、彼女は教室の扉の前に立ちボールを投げ落とす感覚で投げたのだ。そしてボールには画鋲と仕掛けがあるので、そこまで強くバウンドはしない。
 あのボールはちゃんと取っておかなくてはならない。恐らく、あれは野球部だったあいつの私物だ。捨てるわけにはいかない。
 しゃがみこんで床に落ちている大き目の破片をまず拾ってちり取りに入れていく。この時に手を切らないようにしないといけない。ガラスの破片は大きいものであれば殺傷能力さえ持つ危険物だ。
 ……いや、気をつけなくてもいいか。いっそのこと、これで手首でも切りつけようか。いや、リスト・カットはかなり力が要るし、本当に死ねるか微妙なところだ。ならば、首を切りつけるか。それなら確実に、間違いなく死ねるだろう。
 落ちていた三角形の大き目の破片を広い、その鋭利に尖った先端を少しだけ首に当てる。このまま力を入れた、死ぬだろう。彼女は遠まわしに、そうしろと言ってるのかもしれない。
「おい斎藤、流石にそれはまずい」
 聞き覚えのある声に驚いてしまった。首を上げると目の前には制服を着て、少し息の荒い神崎が扉の前で俺を見下ろすように立っている。どうやらさっきまで走っていたようだ。
「ガラスは危険物だぜ、首に当てたら危ねぇぞ」
 彼はそう言うなり、近くにあった破片を拾いそれをちり取りの中に力をいれずに投げ入れた。投げ入れられたガラスがちり取りの中に既に入っていた破片とぶつかり、キィンッという音をたてる。
「おい、ガラスを投げるな、あぶねぇ。割れたらどうするんだ」
「割れたら拾うんだよ。お前が今やってんだろ。つぅか、もう割れてるよ」
 彼は割れた扉のガラスを指差した。
 目の前にいる神崎という男は決して馬鹿ではない。少しおちゃらけてはいるが、鋭い注意力と常に冷静な心を持った男である。だから、俺が首にガラスを当てている今も、取り乱すことなどない。俺が何をしよとしているか見れば分かるのに、それを指摘しない。
 そこに無言の圧力をかけている。止めとけ。口には出さないが、彼の目はそう言っている。いつに無く真剣なその眼差しは、こいつには似合わない。
 俺は何も言わずに首に当てていたガラスをちり取りの中に入れた。
「さっき、スイサイド・レディと会ったよ」
 こいつは未だに死にたがりのことをスイサイド・レディと呼んでいる。気に入ってるのだろうか。呼ばれている当人は、別に気にしていませんと言っていたが、そう言っているときの顔つきで気に入っていないんだろうという事は分かる。
「あいつならさっき飛び出しって行った」
「その後、どうなったと思う?」
 即座に神崎がよく分からない質問をしてきた。俺が知らないと言うように首を振ると、彼はだろうなと一人で納得し、答えを教えようとしない。
「なんだよ、気になる。あいつがあの後どうしたんだ?」
 俺が問うと彼は少し間を開けて、答えずらそうにしていた。
「……階段から突き落とされた」
 少しして神崎がした短く、それでもはっきりとした返事。しゃがみこんでいたが、一気に立ちあがる。突き落とされた……。そんな馬鹿な。
 俺の顔つきが変わったのだろう。俺の顔を見て神崎が、大丈夫だよと言うように手首を数度振った。
「心配すんなって言っても無理か。だけど安心はしろ。那美が保健室に連れて行ってるはずだ。スイサイド・レディも大したことは無いって言ってたよ」
「……そうか」
 声がそれ以上出てこない。今小さく返事をしたものの、頭の中は真っ白で、何も考えられていない。あいつが突き落とされた。誰に? 決まってるだろう。彼女以外に誰がいるっていうんだ。
 そんなのありえてたまるか。彼女のターゲットは俺だろう。俺を苦しめることが、復讐が、彼女の目的のはず。何で死にたがりを狙うんだ。
 まさか……一瞬で嫌な予想が頭の中で組み立てられた。俺と一緒にこの教室にいたからか。彼女はボールを投げ込むとき、恐らくこの教室の中を見たはずだ。その時に俺と死にたがりが見えた。だから、死にたがりも狙った。ただ、この実験室にいたからという理由だけで。
 じゃあ、死にたがりを突き落としたのは間接的に俺ということだ。あいつを巻き込み、しかも怪我までさせてしまったのか。
「なあ斎藤、何がどうなってるんだ?」
 神崎がガラスの破片を拾いながら訊いてくる。
「……お前と西条は、知ってるんだろう」
 俺がそう言葉を返して彼を見ると、彼は驚いたように目を開けた顔をこちらに向けてきた。その顔には、ばれてたかと書かれている。分かりやすい奴だ。というか、もう隠す気すら無いんだろう。
「あの日、何で西条がここに死にたがりを連れてきたんだろうって、ずっと考えてた。けどもし奴が、お得意の情報を使って俺の過去を知ってるんなら、何となくその理由は分かる」
 西条の情報網はこの学校だけではない。この学校にいる多くの友人や先輩の友達を仲介して、他の学校の情報も得ている。それを使えば、俺のことを調べるのも、奴にしては一足す一の足し算より簡単だっただろう。
 あの日と言うのは、俺が死にたがりの自殺を止めた翌日のこと。死にたがりと俺が反省室で自己紹介をしあった日だ。
「……別に那美を庇うわけじゃないけど、あいつはあいつなりに気を使ったんだよ。ほらあいつ、変な所で優しいだろ」
 神崎が西条のことを優しいと評するとは、珍しいこともあるもんだ。雨がこれだけ降っているのに、神崎がこんなことを言うと雪や雹まで降り出しそうだ。
「俺が助けた人間がいる。あいつは俺にそう伝えるために、死にたがりをここに連れてきたのか」
 神崎は黙っていて肯定はしなかった。同時にも否定もしない。
 大き目の破片は全て拾い終わったので、箒で扉の周りを掃き、目に見えている小さめの破片から、目に見えない物まで、ちり取りに入れていく。神崎がちり取りを持ち、俺が箒で掃く。お互いの役割など決めてはいないが、自然とそうなっていた。
「俺も一学期の終わりごろ、那美から少し聞かされただけだ。あいつも大雑把なことしか知らなかったよ」
 扉の内側と外側、両方を掃き終わってゴミ箱に破片を入れて、用具箱に箒とちり取りを直していると窓際に立っていた神崎が口を開けた。いつもの軽い口調ではなく、かなり重々しい。こんな話をしているんだから当然か。
「詳しい事情が聞きたい。今までは知ろうとも思わなかったけど。俺も那美も、お前のその過去は、パンドラの箱か何かと思っていたからな。触れないようにしてた」
 パンドラの箱か。開けてはいけない箱。なるほど、面白い比喩ではあるな。
「けど、今は知りたい。変な好奇心じゃなくて、何か力になれるかも知れない」
 この男がこんなことを言うのは、初めてかもしれない。いつもは適当なことしか口にしないから。知り合って半年が経つが、ここまで真剣なこいつは初めてだ。
 振り返って窓際に立つ神崎を見る。彼は窓の外の雨が降っている光景を両手を制服のポケットに入れながら眺めている。
 話してもいいだろう。いや違うな。話さなきゃいけないだろう。こいつに話せば、恐らくは自然と西条の耳にも入り、そして死にたがりの耳にも入る。あいつはこのトラブルに巻き込まれた被害者で、知る権利があるはずだし、俺には教える義務があるはずだろう。
 今までこいつらに話さなかったのは、隠していたわけではない。俺自身、あの過去を記憶に閉じ込めていたのだ。それこそ、あいつの事も彼女の事も、頭の中の箱に詰め込んでそのままにしていた。
 それに過去の話なんかしても仕方ないと思っていた。
 逃げていたんだろうな。忘れる事は無かった。だけど俺はその過去を背負いながらも、どこかに逃げていた。今日、追い詰められただけの話だ。
「今日とはまるで逆の日だったよ」
 俺はゆっくりと、まるで長い間開けていなかった箱の蓋を慎重に開けるように、重い口を開ける。神崎がちらりと俺の方を見たが、言葉はかけてこない。
「雲ひとつ無くて、風も弱かった。はっきり覚えてる。そんな日に俺と雨瀬(あませ)は初めて言葉を交わした」
 窓の外が一気に黄色く光り、直後に雷鳴が轟く。嵐がきている。さっきよりも雷雲近くなっている。空を覆っている雲たちが、まるで号泣しているかのように、地に雨粒を落とす。本当に今日とは真逆の日に、俺とあいつは初めて話した。
「それが始まりだ」
 強い風が吹いて、窓が音をたてて揺れた。



 雨瀬和人という男子生徒を、俺は中学三年生になるまで微塵も知らなかった。俺が彼を知らなかったのと同様に、彼も俺のことを知らなかった。そんな俺たちがお互いを知ることになったのは、中学三年生のクラス替えで、同じクラスになったのが原因だ。
 今思えば、この時に俺たちが同じクラスにならなければ、誰も不幸になることなど無かったと思う。
 去年の春。中学三年生の始業式に日に、俺たちはあることで言葉を交わすこととなった。その日は空には余計な雲は何一つ無く、青い空には穴が開いたように太陽があるくらいだった。
 始業式は体育館で行われ、校長をはじめとす教師陣のありがちな話を立ちながら聞いていた。退屈なのは辛抱できたが、少しだけ暑かったのがつらかった。体育館の窓は開けられていたが、風が全く吹かず何の役もたたなかったのだ。たまに外を走る車の音が聞こえてきたくらいだった。
 体育館には出席番号順で一クラス、縦に横二列で並んでいた。右が男子の列で、左が女子の列。斎藤、という名前のせいで俺はそこまで前と言うわけでもなく、だからといってそこまで後ろでもないと言う中途半端な位置に立っていた。
 つまらない教師たちの話を聞き流していると、急に前にいた男子生徒がしゃがみこんだ。立ちっぱなしで足がしんどくなってきたから休憩のため、しゃがんだんだろうと勝手な推測を立てたが、すぐにそれが間違いであることに気づかされた。
 しゃがみこんだ生徒は小さくうめき声をあげていた。その声に気づいて、周りの生徒たちが彼の方を向きはじめた。生徒たちの様子に気づいた教師の一人が彼に駆け寄る。
 彼はそのまま教師に支えられながら体育館を後にした。この後で聞いた話なのだが、彼は食中りを起こしていたらしい。
 前の生徒がいなくなったので、俺の前には変に一人分の空間が出来てしまった。教師から前に詰めろと言う指示も無いので、つめることも無かったのだが、この空間こそが、とんでもない出会いを引き起こした。
 生徒一人が運ばれようと、始業式は何事もなかったかのように進められた。校長のスピーチは無駄に長く、中身が無いもので、聞いていても面白みも何も無かった。そのくせ、スピーチの内容は時間を有意義に使えなどと言うものだったのだから、笑いを堪えるのに苦労した。
 前にいた生徒が運ばれてから十分ほどした時のことだ。春の陽気に少し眠気を誘われて、欠伸をしていたら、後ろから足音が聞こえてきた。運ばれた生徒が帰ってきたのだろうかと振り返ってみると、そこには俺と同じ黒い制服を着た男子生徒が額を拭きながら歩いていた。スポーツ刈りの頭に、俺より少し高い身長。右頬に絆創膏をつけた男。
「やっちゃたぜ。遅れた遅れた」
 彼は小声でそう呟きながら俺の前に開いていたスペースに立った。まるでそこが自分の場所だと言うように、何の遠慮も無く堂々と。 
 彼は右手に持っていた鞄を床に置くと、その中から五〇〇ミリリットルのペットボトルを取り出して、その中に入ったスポーツドリンクを飲み始めた。あまりに堂々とした態度に俺はしばらくの間、呆気にとられていた。俺だけでなく、彼の周りにいた生徒全員がだ。
 なんせさっきまで苦しんでいた生徒がいた位置に今は、丸坊主の男が暢気になんか飲んでいるのだから、呆気にとられても仕方ない。
「……おいお前」
 俺は雨瀬がペットボトルを鞄にしまい始めたころに、ようやく奴に声をかけた。そう、俺と彼が初めて言葉を交わしたのはこの瞬間で、話し掛けたのは俺なのだ。
 雨瀬は声をかけた俺を怪訝そうに見た。
「なんや?」
 雨瀬が口にした言葉は聞きなれない関西弁だった。予想外なことが続き、俺は困惑したが、とりあえず彼を注意した。
「ここはお前の場所じゃないだろ。自分の位置に戻れよ」
 そもそも俺はこのとき、彼がこのクラスの生徒かどうかさえ疑っていた。自分の位置に戻れとは、このクラスの生徒なら出席番号に従った定位置に、このクラスの生徒じゃないのなら本来のクラスに戻れと言う意味をこめていた。
「ああ……そうはゆうけど、ここに場所空いてたんやしええんちゃうの?」
「ええんちゅうのって……」
 聞きなれない言葉を使う相手にどう言葉を返していいか分からない。
 言葉に詰まっている俺を見て彼はさらに言葉を続けた。
「ああ、一応言うとくと俺はこのクラスの生徒やで。雨瀬って名前やから、出席番号順でいくと一番前やわ。けど、わざわざ俺が一番前に行って皆に一歩下がってもらうより、ここでじっとしてた方が合理的やと思うけど」
 この言い訳ともとれる彼の言葉に、周りがどう反応したかは覚えていない。ただはっきり覚えているのは俺が彼の言葉を聞き終わった後に、小さく笑ってしまい、それを雨瀬が不思議そうに眺めていたことだ。
 合理的。彼の言うと通りだ。別に出席番号順に並ぶ必要などは無い。それに従って無駄が生じるようならば、そんなルールは破ってしまえばいい。
 俺にはこの彼が口にした「合理的」という言葉が、なんだかとても面白く聞こえてしまった。まったくその通りだと、心の中で彼に拍手をしていた。
 しかもちょっと失礼な話、彼のような丸坊主の見るかにスポーツ少年の風貌をした人には、合理的という言葉は似合わない気がした。俺が笑っていると、彼もつられて小さく笑った。その笑い声は少しずつ大きくなっていった。
 こんな始業式の一件で俺と雨瀬は親しくなった。俺は中学時代でも科学実験室によく篭っていて、教師から注意されていたちょっとした問題児であったが、彼も俺に負けじと問題児だった。
 野球部の彼は放課後にある部活動のため、学校を休むということは無かったが遅刻はかなりの頻度であった。それでも朝に練習があるときは遅刻はせず、誰よりも早く学校に来ていて、始業チャイムが鳴る寸前にいつも登校していた俺に「遅いぞっ」とよくからかってきた。
 勉強は全然ダメで、授業中に彼がノートをとっている姿を残念ながら俺は見たことが無かった。テスト前になると「斎藤、ジュース一本でどうやろ?」と言ってノートを貸してくれと頼みに来た。
 典型的なスポーツ少年で、俺とはまるでタイプが違っていた。なんでそんな彼と気があったのかは、未だに良く分からない。
 昼休み。俺たちはいつも教室で机を合わせて弁当に食らいついていた時の話し。彼はこんな事を言っていた。
「小人がいてくれたらええのに」
 弁当に入っていたプチトマトのへたをとりながら彼が小さく呟いた。
「小人なんかいたら踏んじまいそうで怖いな」
「小人いうても蟻みたいなサイズやなくて、黒板消しくらいのサイズのやつ」
「そんな四角い小人が欲しいのか?」
「四角じゃなくてもええわ。サイズを言うとんねん、サイズを」
 彼がプチトマトを口に放り込んで、お茶を一口飲んだ。
「童話に出てくる小人って親切やん。あんなやつらがおったら俺は勉強なんかせんでもええ。一日中野球ができる」
「失礼ながら俺はお前が勉強をしているところなんて、今まで一度たりとも見たことが無い」
「うん。俺もした覚えない」
 じゃあ言うなというような当たり前の事は言わなかった。というのも、彼がこうして勉強の事を口にするのは珍しいことではなかった。彼自身も少しは成績に気をかけていたのも一つの原因だが、それ以上に彼には「鬼」の存在の方が気になって仕方なかったのだろう。
 この「鬼」というのは、勿論全身が赤くて角を生やした童話の中に出てくる鬼ではなく、ちゃんと戸籍まである人間だ。しかし、この人物の方が、彼にとっては童話の鬼よりも怖い存在だったのかもしれない。
 「鬼」というのは正真正銘の彼の妹のことである。名前は雨瀬香織といい、非常に兄想いいい妹であったが、同時に彼には恐怖存在――「鬼」であった。
 彼女は彼より一つ下で、当時は中学二年生だった。それでもかなり大人びていて、兄よりは数倍しっかりしていた。兄の面目丸つぶれだと彼がよく嘆いていたが、残念ながら彼は最初から「兄の面目」などという大層なものは持ち合わせていなかった。
「しかし小人も昔はただの良いやつだったかもしれないけど、今は違うかもな」
「どう違うって言うん?」
「まあ、最低限、時給制は導入してくれって言ってくる」
 俺は自分で言っておきながら彼の言う黒板けしサイズの小人が机の上に乗って、雨瀬に「とりあえず一時間だから、七百八十円ですね」と言っている姿を想像してしまい、可笑しくなって笑ってしまった。
「そんな小人はいらんわぁ」
「というか勉強を小人にやらせてもテストじゃ点数は取れないな。残念ながら」
 彼はようやくその事に気づき、頭を抑えてそうかと連呼していた。けど、テストさえ小人にやらせればいいという発想は沸かなかったらしい。
「けどあれやな」頭を抑えながら雨瀬が言う。「小人も欲しいけど、それ以上に恋人がほしい」
「時給制の?」
「ちがうわっ」
 彼は明るく元気なそのキャラクターのおかげクラスではかなりの人気者だった。その人気に性別はとわれることは無く、とにかく皆の人気者だった。勿論、そうなるとクラスにいる女子の中では「私、雨瀬君タイプなんだよ」と言うやつもいた。
 この女子が誰かは知らない。ただ雨瀬以外の友人から「雨瀬に片想いしてるやつがいるらしい」という噂はよく聞いた。それを聞くたびに、彼は非常に勿体無い性格をしているなと思ったものだ。
 彼は所謂「乙女心」という奴に非常に疎かった。俺がそれに鋭いわけでは無いので彼のことは言えないが、そんな俺が見てもわかるくらい彼はそれに対して疎かった。クラスの中には強引な女子もいて「雨瀬君、次の日曜日遊びに行かない?」というあからさまな誘いをしてきても、野球部の練習があるからと言って断っていた。
 そのくせよく「恋人が欲しい」と漏らしていたのだから、聞いているこちらかしてみれば不思議でしかなかった。
 彼が乙女心に疎かったのには少し理由がある。それが「鬼」なのだ。彼の一番身近にいる同年代の女の子というと、「鬼」、つまり妹の香織ちゃんだった。多分、それが彼が乙女心に疎くなった最大の原因である。
 香織ちゃんはさっきも言ったが大人びていた。本当に中学生かと思う時もしばしばあったが、身体的には平均的な中学生より少し小さかった。多分、身長は兄に取られたんでしょうと香織ちゃんが愚痴っていたことがある。
 そんな彼女には中学生の平均的な恋愛感情は無かった。いやあったのかもしれない。けど少なくとも、普通の中学生が持つ「私、彼がタイプなんだ」とか「あの人かっこいいよね」という感想を男子に持ったことが無いだろう。少し精神的に成長が早かった彼女は「恋愛より勉強」というタイプの人間だった。それに彼女は多分、男の人を見ても「かっこいい」という感情をもてなかったんだろう。それは常にあの兄を近くで見ていたからで、一種の男性恐怖症だったのかもしれない。男なんてみんな兄みたいなやつばっかりだ、と。
 兄が妹を男性恐怖症にして、妹が兄を疎くさせた。
 この香織ちゃんはかなりの心配性でもあった。事あるたびに教室に顔を出して「お兄ちゃん、大丈夫?」と心配していた。第三者からしてみれば微笑ましい光景だったが、兄からしてみればいらん心配だったし、照れくさかったろう。
 そんな香織ちゃんは、これは嫌らしい話ではなく本当に、魅力的な女性だった。中学生に魅力的も何もあるかと思うだろうが、見ているこちらも中学生なのだから、そんなのは関係ない。事実、クラスの男子の一部は雨瀬に「おい、お前の妹を紹介しろ」と血走った目で頼み込んでいた。その姿は頼んでいるというより、脅しているという方が正しかったと思う。
 いやだからこそ、彼は乙女心に疎かった。例えば彼が教科書を忘れて、誰か女子が貸してくれたとしても彼はそれをただの親切心としか受け取れないのだ。彼にとってその行為はよく妹がしてくれる当たり前のことなのだから。それに女子がどれだけ化粧をして綺麗に振舞おうと、日頃から香織ちゃんが傍にいる彼にはその綺麗さもわからなかったのだ。
 まったくついていない兄妹である。
 ある日の話し、俺は偶然廊下で香織ちゃんに遭遇した。その時は俺一人で、香織ちゃんも一人だった。
「今日は兄は一緒じゃないんですか?」
 ちなみに彼女は関西弁ではない。元々、雨瀬家は大阪に住んでいたらしいが二年前に引っ越してきたらしい。兄のほうは別に周りとの口調の違いを気にしなかったが、妹は兄とは違いそれを随分と嫌がり、すぐに矯正したらしい。それでも時々、大阪弁で喋ってしまうことがあるそうだ。
「うん。今、あいつ寝てるから」
 その時は授業の合間の休み時間で、雨瀬はその前の授業の時からずっと寝ていた。休み時間になって起こすのも面倒だったので、俺は一人でノートを買いに購買部に向かっていた。
 寝ていると聞いて彼女は小さく溜め息をついた。
「やっぱりそうですか。そうじゃないかと思ったんです」
「女の勘かい?」
 俺がそう訊くと彼女はははっと笑った。
「そうです。女の勘です」
 この女の勘というのは彼女が時々使う言葉で、多分気に入っていたのだろう。
「……何か、嫌な予感がするんです」
 彼女が突然、いつもは見せない不安そうな表情で呟いたので驚いた。
「嫌な予感って胸騒ぎでもするの?」
「いや胸騒ぎではありません。ただ、単純に嫌な予感がするんです。それこそ、女の勘ですね」
 廊下での話はその後もしばらく続いた。内容は雨瀬のことで会話のほとんどは彼女の兄に対する愚痴で、俺は相槌を打っていただけだった。どれだけ愚痴を言ってもこの妹は兄が心配なのだ。本当に微笑ましい。
 この後、彼女とは別れた。その時にも彼女はやはり嫌な予感がするとぼやいていた。俺はその時はその言葉を気にはしていなかったが、後でこの会話を忘れられなくなった。彼女の言っていた『嫌な予感』が当たるのだ。
 それがあの出来事だ。
 翌日の雨瀬は見ているこちらが元気がなくなるほど、元気じゃなかった。学校に来ても何もせず、何も喋らないで自分の机に上半身を預け、ぐったりとしていた。最初は体の調子が悪いんだろうと思っていただけだった。恐らくクラスメイトのほぼ全員がそうだったろう。
 しかし彼はよほどしんどかったのか、三時間目まで誰とも一言も喋らなかった。少し心配になった俺は休み時間にその雨瀬に「大丈夫か」と声をかけた。しんどいのなら保健室に行くか、早退でもすればいい。そう持ちかけた。
 これが誤りだった。
 何で俺は彼にこんなことを言ってしまったのだろうか。しんどそうにしていたのなら、声もかけずに休ましてやればよかったのだ。そっとしといてやればよかったのに。
 雨瀬は俺の言葉に反応して、そうやなぁとだるそうな声をだした。
「なんか朝から頭が痛いんや。風邪でもひいてしもうたんやろか」
「休めばいい。無理なんてしたら余計に悪くするぞ」
「そうやな。じゃあ、そうさせてもらうわ」
 彼が保健室に行ってくると言うので付き添おうかと訊ねたが、そこまでせんでもええと、無理矢理作った笑顔で断られた。いつもの明るさは無い。よほどしんどかったのだろう。
 彼はその後、早退することとなった。家に母親がいるそうで、家に帰ってゆっくり休むと説明してくれた。未だにそのとき交わした会話を忘れる事は出来ない。
「やっぱり帰らなあかんみたいや。顧問も家で休めやと。練習したかってんけどな」
 鞄に荷物を詰めながら彼はいつもよりはるかに弱弱しい声で愚痴った。
「仕方ないだろう。熱があっちゃ、まともに練習なんて出来やしないよ」
「そうやけど……はぁ、風邪かなぁ」
「何とかは風邪はひかないらしいぞ」
 そうからかうと強い視線で睨まれたが、その睨む力さえ、いつもよりは弱かった。力が入らないんだろうな。
「失礼なやっちゃな」
 彼が鞄を肩に提げて、じゃあと片手を上げて別れを告げた。
「お大事に、ゆっくり休めよ」
「ああ、そうさせてもらう。じゃあまたな」
 そう言うと彼は他のクラスメイトたちにも別れを告げながら、教室を出て行った。
 翌日、彼が死んだと聞かされた。
 雨瀬はあの日の帰り道、俺たちと別れた十数分後に車に轢かれた。地面に全身を強く打ち付けて、救急車で近所の病院に運ばれるまでにはもうすでに亡くなっていたそうだ。
 じゃあまたな。彼が最後にそう告げた。「また」はもうこない。ずっと、永遠に。これから先、何年時が経とうと、どんな未来が来ようと、絶対に「また」は無い。
 葬式の日に俺は香織ちゃんと会った。そして唐突にこう言われたのだ。
「人殺し」
 彼女は俺が彼に早退すればいいと言ったことを知っていた。どうしてそれを知ったのかは知らない。ただ、決して薄れないあの記憶。葬式会場で彼女が俺に浴びせたあの言葉。
「人殺しっ! 人殺しっ!」
 彼女は何度もそう俺に叫び続けた。俺も少なからず雨瀬の死にショックは受けていたが、多分それは香織ちゃんの足元にも及ばないものだったに違いない。彼女は周りにいた人たちから、止めなさいと注意されても、まだ叫び続けた。
「あんたがいなけりゃ、お兄ちゃんは死ななかったのよっ!」
 俺に掴みかかろうとしてきたが、周りにいた彼女の父親が彼女を両手で抱きしめるように抑えた。それでも彼女は狂ったように怒鳴る。
「兄の体のことなんて何も知らなかったくせに。人殺しっ! あんたなんか死ねばいいっ!」
 反論など出来るはずも無かった。彼女の言うとおり、俺が彼に早退を勧めなければ彼は死なずにすんでいたのだ。俺が彼を殺したといっても、まったく過言ではなく、どちらかと言えばそれは事実だ。
 あの日以来、彼女とは会っていない。ただ彼女はまだ俺を恨んでいるだろう。
 兄を殺した、仇として。
 

 長々と喋っていた俺を一度も止めず神崎はただ俺の話しを聞いていた。話しが終わってもしばらくの間は口は開かなかった。窓の外の雨の降る景色を、ただ眺めていいる。
 静寂に包まれた実験室に神崎の妙に大きな一声が響いた。
「お前は悪くない」
 今までずっと聞いていた俺の過去については一言も触れずに彼はただそう言った。こちらに顔を向けてきたので、ばっちり彼と目が合った。
「お前は悪くないんだよ、斎藤」
 難しい言葉は何一つかけてこない。彼はそれ以外に何も言う事がないというように、再び悪くないんだよと言った。
「……言ってもらえて嬉しいんだけどな。だけど雨瀬が死んだのは」
「お前のせいだっていうのか。それは違うだろう」
「何が違うんだよ。言ってみろ……何がちがうっ!」
 急に全身から湧き出してきた怒りが暴発して、俺は無意識のうちに彼を怒鳴りつけていた。しかしそんな俺を彼は咎める事は無く、テーブルに置いてあった例のボールを持った。
「俺は話しか聞いてない。だから、何が違うかまでは分からない。ただこれだけは言っといてやる」彼はそう言うとボールの『人殺し』と書かれていた部分を見せてきた。「お前は人殺しじゃない。……斎藤、お前は悪くない」
 そう言うと彼は俺から目をそらして迷うこと無く実験室から出て行こうとした。その背中に何か言葉をかけようかと思ったところで、彼は突然、扉付近で足を止めた。
「悪いな」
 彼はいきなり俺に背を向けたまま謝った。喉まできて溢れ出しそうになっていた言葉が体のどこかに沈んでいく。
「どういったら言いか分からないんだ」そして首だけ回転させてこちらを見てくる。「なぁ、お前はなんていって欲しい?」
 見えるのは初めて見る友人の困り果てた顔だった。彼は本当に困っているんだろう。俺にどう言葉をかけるべきか。
 そんな気を遣う必要は無い。そう意味をこめて俺は首を横に振った。それを察知した神崎は何も言わなかった。小さく顔を俯かせただけだった。
 何か言って欲しいことなど何も無い。何も。
 雨が降っている。まるでそれが仕事ですからというように、空から落ちてくる。行き先なんて、無いんだろう。自分の居場所も知らないんだろう。何をすべきか分からないまま、どこかにぶつかり弾けるんだろう。
 行き場も無い。何をすべきか分からない。俺とよく似ている。
「……お前は悪くないよ」
 神崎が実験室を出て行く。
「いや、俺が悪いんだよ」
 相手もいないのに馬鹿みたいに反論してみた。


「私も、あなたは悪くないと思います」
 翌日の放課後。いつもと違い、実験室の椅子に腰掛けてずっと何もしないでいた。いつもなら実験をするなり、コーヒーを飲むなり、本を読むなり、神崎と話をするなりしているはずだが、今日は本当に何もしていない。何かする気になれない。
 昨日、神崎が帰った後、教師に窓が割れたと報告して帰った。何故割れたのかと訊かれ、少々焦ったが、適当に誤魔化した。
 今日は本当に何もする気が起きない。授業だってノートもとってなければ、教師の話すら聞いていなかった。クラスメイトが数人話し掛けてきても、空返事しかしなかった。
 なのにここには来た。
 昨日、ボールが放りこまれたこの場所にはのこのこと足を運んだ。割れた窓ガラスは午前中に業者が来てくれて、新しい窓ガラスがつけられていた。
 椅子に座って、何もせず何も考えず、しばらく外の音だけを聞いていた。雨も風も昨日よりはるかに強くなっていて、風は吹くたびに窓を揺らし、雨の窓にぶつかり弾ける。そんな音を目を瞑って聞いていた。
 台風の強風域に入ってるそうだ。暴風域に入ることは逃れたらしい。ただ、今日の深夜が雨風のピークらしい。今日はもう無駄なことはせず、帰ろうかと思っていた。
 椅子から立ち上がろうとしたときに、彼女が控えめに扉を開けて入ってきた。
 右足を庇って歩いている。昨日、突き落とされた時に痛めたのだろう。誰が突き落としたか。そんな事は考えなくても分かる。彼女をつき落としたのは、あの子だ。ただ、あの子にそうさせたのは俺だ。彼女を突き落としたのは、事実上、俺自身だ。
 今日、唯一真剣に考えれたのは、彼女に謝ろうということだ。ただどうしてか勇気が出なくて、会いに行くことが出来なかった。
 その死にたがりが実験室に入ってきて最初にそう言った。一ヶ月前のあの日、初めて彼女の声を聞いた時は、授業中に聞いたら眠くなりそうだと思った。それほど、間延びして、穏かな声だったのだ。
「悪くありません」
 昨日の神崎と同じで、それを繰り返し言った。その独特の声が、妙に胸に響き、落ち着かせてくれる。
「……神崎も同じ事を言ってくれたよ」
 それでも、お前らがなんと言葉をかけて慰めてくれようと、きっと俺が悪いんだ。中学時代にも、俺がこの件で落ち込んでいた時、慰めてくれた友人はいた。陸上部にいた友人二人は一時は毎日のように実験室に足を運んで、慰めてくれた。
 気にすることは無いでしょう。一人の友人がこう慰めてくれたが、そんなのは無理だった。しかしあの時は彼らのおかげで立ち直ることが出来た。しかし、立ち直ったのは俺一人だった。
 葬式の日から会っていなかったが、香織ちゃんは学校に来たり休んだりを繰り返していた。ちゃんと会って話をしたいなと思ったが、卒業までにとうとうそのチャンスには巡り合えなかった。
 会うのが怖かったんだろう。だから逃げたんだろう。巡り合えなかったんじゃない、意図的にそのチャンスから背を向けたんだろう。
 頭の中から出てくる、自分自身への非難の言葉。
 中学時代にちゃんとあの子と話すべきだったのかもしれない。そうしていれば、今目の前にいる死にたがりが怪我をすることは無かったのかもしれない。
 元を辿れば全て俺に行き着く。まったく最低な人間だ。
「お前には悪いことをした。……ごめん」
 机を挟み向かい合うように立っていた彼女に頭を下げた。謝ってすむ問題じゃありませんと彼女が非難してくれば、その通りだとしか言いようが無かったが、今の俺から言える言葉は最低限の謝罪だけだった。
「二回目ですね。あなたが私に謝るの」
 どこか寂しげな彼女の声。ゆっくりと顔をあげると、彼女の顔は強張っていた。何かに必死で耐えている。
「私はあなたに謝って欲しくなんかありません。だって……」彼女の声が段々震えてきて、最後には声が出なくなっていた。少しして彼女が涙声で、また言う。「あなたは……あなたは、悪くないでしょう……」
 またそれだ。昨日の神崎と同じ。もういいっ、うんざりだっ。悪くないわけ無いだろうっ! また何処かから何が根源なのか分からない怒りがこみ上げてくる。
「悪くないわけ無いだろうっ。人が一人死んだんだぞ、俺のせいでっ。お前に……お前に何がわかるっ!」
 どうしてこんな事しか言えないんだろう。悪いのは自分だと言ってるくせに、目の前にいる彼女を怒鳴りつけている。彼女に何の罪がある。無いだろう。それを分かっていながら、俺は行き場も居場所も無い、どうしようもない怒りを吐き出していた。
 あなたに何が分かるんですか。一ヶ月前、彼女がこの教室で俺に突きつけた言葉。俺は分からないと答えた。分かる分けないと。じゃあ何で、似たようなことを彼女に言ったのか。
「分かるはず無いでしょうっ!」
 室内に彼女の声が響いた。あまりの大きさに身がすくんでしまった。正直言うと、かなり驚いた。彼女が大声をあげた事は、一ヶ月前にもある。けどその時とは比べものにならないほど、大きな声。普段の彼女なら絶対にそんな声は出さない。
 彼女の体は小さく震えていた。強く握り締めた両手も両の脇腹の横で小さく震えている。顔は俯いていて表情は伺えない。
 それでも彼女が怒っているんだということは理解できた。
「今朝、神崎さんと会ったんです。どれだけあなたを心配していたと思ってるんですかっ!」
 昨日の神崎の顔を思い出した。あんなに困った顔をした友人を見るのは初めてだった。そう、あいつは確かに俺を気にかけてくれていた。
「西条さんだってすっごく心配してました。昨日も今日も、あなたの事を気にかけていましたっ!」
 一ヶ月前に西条がここに死にたがりを連れてきたのは、恐らくは俺のためだった。――あいつ、変な所で優しいだろ。神崎がそう言っていたのを思い出した。
「私だって……私だってあなたが心配なんですっ。なのにどうしてですかっ! あなたが何も言ってくれないから、あなたの気持ちなんて分かるはずないんですよっ!」
 確かに俺は神崎に過去は話した。教えるべきだと思って、教えた。けど、彼女の言うとおり、俺の気持ちに関しては何も言ってない。昨日、別れ際に神崎に「なんて言って欲しい」と訊かれても、答えはしなかった。
 分かるはずが無い。彼女の言うとおりだ。
「私たちはあなたの過去なんて、そりゃあ大雑把なことしか知りませんよっ。けど、だけどっ、今のあなたは誰より知っているつもりですっ!」
 何で彼女はここまで必死なんだろうか。たかだか、俺なんかのために。
 彼女が俯かせていた顔をあげて、強い視線で俺を見た。一ヶ月前は彼女に睨まれても怖くは感じなかったが、今は西条に睨まれた時よりも怖かった、いや、怖いというより、鋭い。鋭い視線で俺を見た。
「私は……私はすくなくとも」彼女が右目を手の甲で拭った。「今のあなたは嫌いです」
 彼女はそう一言言い残すと、その後は風のように実験室から出て行った。雨と風の音に邪魔をされていたが、廊下を走っていく音が聞こえていた。しかし、それもすぐに聞こえなくなった。
 嫌いです。
 異性から初めて嫌いと言われた。いや、逆に好きとも言われた事も無い。ただ、どうしてだろう。きっと死にたがり以外にこの言葉を言われても、俺は笑い飛ばせるだろうし、気にもしないだろう。よく分からないが、そんな自信がある。
 何で彼女なら嫌なんだろうか。どうして彼女から言われたからといって、こんなにも心に残響するんだろう。
 外で大暴れしている嵐の音が聞こえてくる。
 窓を見た。幾多もの水滴が当たっては弾け、そして早々と窓をつたい落ちていく。窓に付着している水のせいで、外の景色がぼやけている。すると、いきなり外が黄色く光った。
 なあ雨瀬。やっぱり、俺が悪いのか。心の中でそう問い掛ける。答えはかえってこない。だけど、答えはわかっている。やっぱり、俺が悪いんだろう。
 雨瀬に変わって空が返事をしたのか、雷鳴が鳴った。


▽Side Historian

 
 靴を履き替えて下駄箱の扉の前で立ち止まって、傘を開けようとしたところで空が黄色く光って、すぐに雷鳴が聞こえてきました。私は思わず、きゃっと小さく悲鳴を漏らしてしまいました。恥ずかしくなって周りを見ましたが、誰の姿も見当たりませんでした。
 見られてはいなかったようです。助かりました。右手を胸に当て、小さく息を吐きます。
 相変わらずの雨と風。明日の夕方までにはやむそうですが、今も風はビュンビュン吹いていますし、雨もジャンジャン降っています。少し休みませんかと空を覆う雲たちに声をかけたくなります。
 傘を差して誰もいない校門までの道を歩き出しました。今日は全部活動は活動中止で、生徒は早々と帰ってしまいました。校内に残ってるのは私と、斎藤さんと、あとごく数名でしょう。
 ……私の馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿ァァッ!
 どうしてあんなひどい事を言ってしまったんでしょうか。最初はただ慰めようと思っていただけなのに、彼の言葉を聞いていたら急に怒りたくなって……。もう、何をしてるんでしょうか、私は。
 傘を持っていない左手で自分の頭を叩きます。落ち込んでいる彼を、さらに落ち込ませてどうするんですか。少しは考えなさい。
 風が強いせいで傘を差していても、体に雨粒が当たります。制服も持っている鞄も濡れて変色していきます。家に帰ったら乾かさないといけませんね。
 彼はなんて言って欲しかったのでしょうか。今朝、神崎さんに私はなんと言えばいいかと訊きました。あの人なら、分かるような気がしたんです。
「何も言わなくていいってあいつは言ってたけどね。けどスイサイド・レディ、君はあいつの傍にいてやってくれないかな」
 彼はかけて欲しい言葉は無いと言ったそうです。だから、私はとりあえず西条さんから聞いた話の感想を、実験室に入った瞬間に言ったのです。悪くない、と。
 昨日、西条さんから聞いた話は「斎藤さんは中学時代に友人を事故で亡くした」ということでした。しかし、今朝、さらに詳しい事情を聞かされました。
 例え、誰かが斎藤さんが悪いと責めても、私はそうは思いません。あの人は友達を心配しただけです。
 立ち止まって校舎を見上げます。白い壁、たくさんの閉められた窓。この中にあの人は孤独を抱えて、悩み苦しんでいるんでしょうか。助けてあげたかったのに、私はそれに失敗しました。
 今朝、西条さんが言っていました。
「斎藤君にとって、今はチャンスなのかもしれないわ」
「チャンス、ですか」
「そう、チャンス。過去と向き合うチャンス。それが今、巡ってきたのかもしれない」
 そうなのかもしれません。けど、彼と向き合うべき相手は今、何処にいるんでしょうか。昨日、ボールを投げ込んで、恐らく私を突き落として、その後は何処に消えてしまったんでしょうか。
 彼が今も混乱している理由はそれです。向き合いたくても、相手がいないんじゃ、それはできません。
 昨日、ようやく私はずっと抱えていた疑問が解消されました。私が彼と出会った一ヶ月前、触れてしまった触れてはいけないところ。それはきっとこの件だったんでしょう。私は知らず知らずのうちに、彼にこの過去を思い出させてしまったに違いありません。
 私には影で彼を支えることしか出来ないんでしょうか。……明日、謝りましょう。あまりにもひどいことを言ってしまいました。嫌い、だなんて。
 異性の人に初めてあんなことを言いました。べっ、別に誰かに好きと言ったことはありません。言ってしまった私でさえ、胸が痛みます。嫌いなわけ……ないでしょう。気のせいでしょうか。少し顔が熱いです。
 なるべく速めに歩きます。そのせいで地面の水が跳ね返って、靴や靴下や足を濡らして、少しひんやりします。十月にもなると流石に雨も冷たく感じてします。
 風が強いせいで非常に歩きづらいです。傘も大きく揺らされます。負けないようにいつもより力を入れて歩きます。それでも右足が痛まないように、慎重に。そう悪戦苦闘しながら、校門を出ました。
 そこに一人の傘をさした人がいました。
 校門から少し離れたところ。逆U字車止めの前に、深く傘をさした人が体をこちらに向けて立っていました。傘が邪魔をして顔が見れません。ただ、首から下の服装は……どこかの学校の制服。膝くらいまでの丈のスカート。紺色のセーラー服。スカートを履いているから、きっと女の子なんでしょう。身長は低めです。中学生だと思います。高校生にしては、失礼な話し、身長が低すぎると思うんです。
 彼女は真っ黒な傘をさしてその場を動こうとしませんでした。誰かを待っているのかもしれませんね。私は足を進めます。
 その子の近くを通り過ぎた時のことでした。
「あの人には近づかない方が良いですよ」
 雨や風の音に消されることなく私の耳に届いた声は、間違いなく傘を深くさした子が言ったものでした。私は背中にぞくりと寒気を感じます。まさか――。
「昨日、ちゃんと忠告したはずです」
 間も空けないで彼女が言います。胸の鼓動が激しく、速くなります。もう間違いありません。きっと今ここにいるこの子が……。あの人の向き合うべき相手。決して触れてはいけなかったもの。
 彼女の方を見ます。私たちの間にはそこまで離れていません。三メートルほどだけです。真っ黒な傘のせいで顔が見えません。私は唾を飲み込みます。
「……あなたは、誰ですか?」
 私は分かりきった事を質問しました。いや、それ以外言う事を思いつけなかったのです。
 目の前にいる少女が、ふふふと微笑しました。とても不気味な笑い声。小さいけれど、ちゃんと届くその声には、不思議な力が宿っているような感覚さえさせます。
「昨日は自己紹介、出来ませんでしたからね」
 彼女が傘をゆっくりとあげます。見えたの女の子でした。ただ、とても綺麗な顔立ちをしています。傘と同様の黒のショートカットの髪型に、細く鋭い目。身長から感じれませんでしたが、顔はとても大人っぽいです。
「はじめまして。……雨瀬香織という者です」
 首を横に傾けて彼女が目を瞑って彼女が屈託無い笑みを浮かべます。その笑みは、まるで魔女のように、とても不気味で怖いです。それでも私は恐怖に負けそうになりながらも、目をそらさずに少女をじっと見つめました。
 あの人の過去を。そして、今を。



「あれだけ忠告をしたのに、今日もあの人と会っていたんですか。反省が出来ない人ですね」
 目の前にいる雨瀬香織さんは笑顔を保ったままです。まるで今のこの状況を心の底から楽しんでいるようです。何が楽しいんですか。そう訊きたくなります。
「まあ、その表情じゃ決してお話は良い方向へは向かなかったようですね。安心しましたよ」
「……何が安心ですか」
 頭の少し上では雨粒が傘に当たり弾ける音がします。いつもならこんな日に立ち話なんてしませんが、今日はそうはいかないでしょう。私は目の前にいる彼女と、真剣に話さないといけません。そうです、私だって無関係ではないはずです。
「何がってそりゃあ勿論、邪魔が入らなかったことですよ」彼女が本当に面白そうに笑い、傘を持っていないほうの手でお腹を抑えました。「あの人には傷ついてもらわないと」
 その瞬間、私の頭に体中の血液が上り始めました。ふざけないで下さい。
「あの人は十分傷ついてますよっ。これ以上、あの人を責めるのは止めてくださいっ」
 西条さんから聞いた話しによるとこの子、香織ちゃんは私より年下のはずです。まだ中学三年生の女の子に対して怒鳴るとは、なんとも大人気ないですが、世の中には我慢できるものとできないものがあります。
 しかし私が怒鳴ったところで、彼女が表情を変えることはありませんでした。笑顔のまま、私を見ています。きっと私の顔は彼女のように笑顔ではないでしょう。
「嫌ですよ。私はまだまだ、あの人と戦います。これは私の信念です。揺るぎはしません」
「何が戦うですか。あの人に姿も見せないで……」
「姿を見せないのはお互い様ですよ。私も、あの人と長いこと……いいえ、長い間、会っていません」
 そういえば斎藤さんとこの香織ちゃんは中学校時代、お兄さんのお葬式以降は会っていないという話でした。まさか……彼女はそれに怒ってるんでしょうか。だから、姿をあの人の前に現さないんでしょうか。
 じゃあこれは完全な復讐です。やられた事を、そのままやり返している。そんな行為に、意味なんて無いでしょう。
「あの人が傷つけば傷つくほど、兄は喜んでくれるんです」
 兄。それは亡くなったお兄さんのことでしょう。喜ぶなんて、ありえません。斎藤さんの雨瀬さんは仲が良かったと聞いています。だからこそ、斎藤はさんはあんなに傷つき、責任を感じているんです。仲が良かった友人が傷ついてるのを見て、喜ぶはずが無いでしょう。
 私がそう言おうと口を開こうとしたときに、今まで吹いていた風より一層強い風が吹いて、傘が飛ばされそうになりました。私は必死に柄を掴んで、なんとか傘を飛ばされずにすみました。
 目の前にいる香織ちゃんは風が吹いた瞬間、傘を掴むわけではなく、一気にとじました。そのおかげで彼女は雨に濡れています。今も風が弱まるのを待って、じっと傘をささないで、雨に打たれています。
 私はその不思議な彼女の行動をじっと見つめていました。しばらくすると風は少し弱まり、傘を広げて再びさします。
 肩や頭を濡らした彼女がポケットからハンカチを取り出して、顔についていた水を拭きました、しかしすぐに髪の毛から雫が垂れ落ちてきます。
 せっかくの綺麗な髪が濡れてしまい、彼女のこめかみや頬に一部付着しています。
「……今日はあの人じゃなくて、あなたに用があったんです」
「えっ」
 意外な言葉に声が漏れてしまいました。私に?
「名前は知りませんけど、随分とあの人と仲が良いんですね。昨日は仲良く話していましたよね」
「……だから、突き落としたんですか?」
 私は不思議なことに突き落とされたことに、そこまで怒りは覚えていませんでした。右足を痛めたはずなのに、彼女にそのことを咎める気が起こりはしませんでした。それは多分、私がもっと別のことで怒っているからで、その別の事と言うのは多分、斎藤さんのことで……。
「突き落としたのはあなたが私を追ってきたからです。それに――」
 あなたが傷つけば、きっとあの人も傷つくでしょう。
 その言葉を聞いた直後はまるで時が止まったかのように、何も感じれず、何の音も聞こえませんでした。ただ、信じられないという思いで、目の前でまだ笑っている少女を見つめていました。
 私には理解できません。そこまでして、彼を傷つけたいんですか。そこまでしても、彼女はまだ止まる気が起きないのでしょうか。おかしいです……そんなの、おかしいですよ。
「あの人には近寄らない方が良いですよ」
 彼女の声で、はっと現実に戻されました。さっきまで何も聞こえていなかったのに、時が動き出したかのようにザァーという雨の降る音が耳に入ってきます。
「今日はこの忠告のために来たんです。あの人には近寄らない方でいいです。分かりましたか」
 諭すような言い方。分かりましたか。年下の女の子に言われるような言葉じゃありません。ただ、この場では恐らく冷静さを保っている彼女の方が、私なんかよりずっと大人でしょう。
 流石にこのときばかりは彼女の表情は笑顔じゃなかったです。
「あの人は人殺しですよ」
 昨日、実験室に投げ込まれたボールに書かれていた『人殺し!』という文字。それは彼女が斎藤さんへ宛てた恨みの言葉。それを見た斎藤さんのあの表情は一日経っても忘れられるものではありませんし、恐らく、これから忘れることも出来ないでしょう。
 私は小さく首を横に振ります。彼女のその言葉を否定しなければなりません。
「ち……違います」
 私が喉から引っ張り出した声は今にも雨の音で消されそうな、吹き付ける強風に飛ばされそうな、弱弱しい声でした。それでも彼女にはちゃんと聞こえたようです。
 目が研ぎ澄まされたナイフのように鋭くなります。そしてその目はやはりナイフと同様に冷たくて、瞳には鏡のように私が映っていました。今までの表情とはまるで違います。思わず一歩引き下がりたくなるような視線。けど、引き下がってはいけません。
「何が違うの?」さっきまでの口調と違っています。声にも落ち着きが無くなりました。「ねえ答えてよ、何が違うって言うの」
 彼女が一歩、私に向かって前進しました。地面の水が小さく跳ね返ります。私は彼女の視線が怖くて、まるで金縛りにあったかのようにその場を動きませんでした。いや、動けなかったんです。
「大したことも知らないで、知ったような口きくんじゃないわよっ」
 彼女がさっきまどの声とは比べもにならない大きな声で私の怒鳴りつけました。さっき斎藤さんに怒鳴られたばかりだというのに。
 けど彼女の言う通りですよね。そうです、私が知ってることなんて所詮は西条さんからの又聞きです。斎藤さんに直接聞いたわけですらありません。
 彼にも何が分かると怒鳴られました……。分かりませんと怒鳴り返しましたが、私にはただ一つだけ、誰にも否定できない確たる事実を知っています。
「あの人……斎藤さんはですね」
 私は目の前にいる少女を強い視線を送りました。
「何よ。あの人が何だって言うの? ただの人殺しでしょ」
「違います。斎藤さんは……」
 あの人は私にとって。
「私の命の恩人です」
 そうです。彼は私の命の恩人です。それに違いはありません。一ヶ月前、自殺しそうになっていた私を焦りながらも、必死に止めてくれました。あの時、彼が私を止めていなかったら、間違いなく私という人間は今この瞬間にはいなかったでしょう。
 彼女にとっては彼は人殺しなのかもしれません。けど、私にとっては命の恩人です。そして大切な方です。
 何かが地面に落ちる音がしたと思った瞬間に、私は胸部を思いっきり強く押されてしまいました。前には俯いて両手を突き出している少女がいます。私は倒れながら、そんな彼女の姿を見ていました。
 彼女の横には開いたままのあの黒い傘が落ちています。私を押すときに放してしまったんでしょう。
 私は右足に力を入れれません。だから、このまま倒れてしまうしかないのです。頭の中で水浸しの地面に尻餅をつく自分を想像しました。
 しかし、意外にも私は尻餅はつかなかったのです。体が半分以上倒れ掛かっていたときに、誰かに腰に手を回されて強く掴まれました。そのおかげで尻餅をつくこともなく、水に濡れることもありませんでした。
「暴力はダメだよ、雨瀬さん」
 私のを助けてくれた人は香織ちゃんに強くはないですけど、力のこもった声で言いました。その声で一体この方が誰かは分かりました。
「危うく、スイサイド・レディがこけるところだった」
 私をそんなおかしなあだ名で呼ぶ人は、私の知る限り一人しかいません。横を見ると神崎さんが真剣な顔つきで彼女と向き合っていました。
「……どなたですか?」
 冷たい声で彼女が神崎さんに尋ねますが、彼の対応は実に落ちついたものでした。
「人に訊く前に、まず自分から名乗れ……そう言いたい所だけど、君のことは知ってるんだ。俺は神崎っていう。斎藤の友達だよ」
 神崎さんはそう彼女に自己紹介しながら私を起こしてくれました。耳元で小さく、大丈夫と訊かれましたから頷いておきました。
 それにしても西条さんも神崎さんも、堂々と友達といえるなんてすごいです。私がおかしいのかもしれませんが、自分から友達というのはすごく勇気のいることだと思うんです。それを簡単に言えるなんて、素晴らしいです。
 そんな神崎さんの態度が気に食わないのか、香織ちゃんは唇を尖らせました。
「あの人の友達ですか。それで私を知っている……じゃあ、兄のことも知ってるんですね」
「大雑把なことしか知らないよ。俺が知ってることなんてたかが知れてる。君がボールを投げ込んだ、とかね。そんなことしか知らない」
 少し挑発的です。あまり刺激を与えちゃいけない相手だと思うんですけど……。
「何なんですか、あなた」
「自己紹介はしたよ。それよりさ、傘拾った方が良いんじゃないの? それ、お兄さんの傘でしょ」
 神崎さんの指摘に私もそして香織ちゃんも驚いて、大きく目を開けました。神崎さんはというと、ポーカーフェイスなのでしょうか、無表情のままです。
 彼女が小さく舌打ちをして傘を拾い、そしてさし直しました。
「……神崎さんでしたっけ。あなたにも忠告しておきます。あの人には近づかないで下さい」
 香織ちゃんの忠告という名の脅しを聞いても、神崎さんの表情に変化はありませんでした。いつか斎藤さんが言っていました。神崎さんは非常に冷静だと。確かに今の神崎さんは冷静で、香織ちゃんを非難する様なこともしていません。
「レイン・ガール、それは無理な忠告だね」
「何ですか、そのレイン・ガールって言うのは」
「君のことだよ。苗字が雨瀬で、今日の天気も雨。だからレイン・ガール」
 何でこんな時にあだ名なんてつけていられるんですか。私は注意の意味をこめて彼の袖を引っ張りましたが、大丈夫だと言う事でしょうか、笑顔を向けられました。
 神崎さんの登場で一気に場の雰囲気が変わってしまいました。その事が気に食わないのでしょう、香織ちゃんは再び舌打ちを、さっきのより大きくしました。彼女にしてみれば神崎さんは完全な邪魔者。私を助けましたし、どんな言葉にもびくともしない。彼女からすればただひたすら目障りなだけなんでしょう。
 神崎さんから目をそらして、彼女は今度は私を見ました。
「そういえば名前を聞いていませんでしたね。教えてもらえませんか、あの人を命の恩人だという理由と一緒に」
 彼女のは声を小さくして訊いてきましたが、呼吸が少し荒くて目もさっきより鋭くなっています。怒っているのは火を見るより明らかです。私はどうしようかと悩みました。名前はあかしたって何の問題も無いでしょう。けど、自殺の事は……あまり言いたくはありません。
 何とかして逃げ道を作れないでしょうか。そう考えていたところで、小さな笑い声が聞こえました。紛れも無く香織ちゃんのものです。
「何だ、やっぱり嘘なんじゃ無いですか。何が命の恩人ですか。あの人がそんな立派なものに慣れるはずは無いんですよ。人殺しは何年経とうと、人殺しのままです」
 私は両手を強く握り締め、奥歯を噛み締めました。何とか言い返したいです。あの人が罵倒されているのは、黙って聞いていられません。けど、私には言い返す言葉が出てこない。
 私には目の前の少女に何か反撃する勇気はありません。
 だって……彼女もお兄さんを亡くした女の子です。どれだけ強がっていても、悲しいに決まっています。悲しいから斎藤さんを恨んでいるんです。少しで胸を支配する悲しみを見ないようにしようと、斎藤さんを恨んでいるんです。
 そんな彼女をどう非難しろいうんですか。斎藤さんを庇うことだって、彼女が傷つく原因になります。
「わ、私は……」
「あなたとあの人がどういう関係かは知りませんけど、あの人を庇うというなら……容赦はしません」
 ここで気圧されてはいけません。彼女の鋭い視線を正面から受けて、私は口火を切りました。
「私の名前は月宮飛鳥です。斎藤さんと同じ一年生です。一ヶ月前に……私はあの人に自殺を止められたんです。だから……あの人は間違いなく、私の命の恩人ですっ」
 私が言い切ると場に静寂が訪れましたが、すぐに神崎さんが口を開きました。
「そういう事だよレイン・ガール。一応言っておくけど、スイサイド・レディは嘘ついてないよ。強いて言うなら、俺も斎藤の手伝いはしたんだけどね」
 ああ、そういえばそうでした。私自身、気を失ってしまったせいで知りませんが、斎藤さんが神崎さんを呼び出して、二人がかりで保健室まで運んでくれたんでした。やってしまいました……神崎さんのことは綺麗に忘れていました。
 香織ちゃんの表情が怒りでゆがみます。また大きく舌打ちをしました。
「……もういいです。話しになりませんっ」
 彼女は勢いよく踵を返して、私たち背を向けました。私が何か言葉をかけようとしましたが、先に香織ちゃんの方が振り向きました。再び、あの鋭い視線を向けてきます。
「月宮さんに神崎さん……忠告はしましたからね」
 それだけ言うと彼女は黙って歩き始めました。流石にかける言葉も見つからず、私たちは黙って小さくなっていく彼女の後姿を眺めていました。あの小さな背中に、きっと彼女は一人で彼女なりの物を背負っているに違いありません。それはきっと孤独で辛いでしょう。
 どうしてでしょうか。悲しみを共感できる人がいるのに、何故二人は未だに和解できないのでしょうか。斎藤さんと香織ちゃんを頭に思い浮かべながら、私は複雑な気持ちになりました。
「危ないところだったね」
 香織ちゃんの姿が完全に見えなくなってから神崎さんが言いました。私ははいと小さく頷いた後、これもまた小さく頭を下げました。
「あ、あの、ありがとうございました。おかげで助かりました」
 きっと神崎さんが現れてくれなかったら、事はもっとややこしい方向に進んでいたに違いありません。この人のおかげで今は何と乗り切ることが出来ました。
 私のお礼に神崎さんは照れくさそうに手を振りました。
「いいよいいよ、気にしないで。たまたま校舎の中から窓を見たら、校門の前に二人がいるのを見かけて急いで駆けつけただけだよ」
「ああそうなんですか」
「うん。あのまま放っておくわけにもいかないしね。そんなことしたら、俺はあいつに殺されちゃうよ」
 あいつというのはきっと西条さんのことでしょう。
「あのところで」私はひとつ気になっていたことがあったので神崎さんに訊きました。「どうして香織ちゃんが持っていた傘が、お兄さんのだと分かったんですか」
 神崎さんは私の質問にああと声を漏らした後、勘みたいなもんなんだけどねと言いながら、教えてくれました。
「俺が窓から君ら二人を見たときに、強めの風が吹いたんだ。その時にあの子、傘閉じたんだよ。それでピンときたんだ。もしかしてあの傘は、壊れちゃいけない大切なものなんじゃないかって。それに女の子が使うにしては、色もサイズも少しおかしかったから」
 言われてみればそうです。最近の私たちの世代では黒一色の傘を持つのは男子くらいで、女子は一色ものだと水色やピンクなどです。それにあの傘は確かに大きかったです。そのせいで、最初は香織ちゃんの顔が隠れていました。
 しかしそんな傘を台風の日に持ち出すということは、香織ちゃんは本気です。自分の復讐を達成させる気です。今日も私に用があると言っていましたが、もしかしたら斎藤さんにも会いに行くつもりだったんじゃないでしょうか。あの傘を持って。
 それにしても、一瞬でそれだけのことを見抜くとは、神崎さんはすごいです。そういえば斎藤さんがこうも言っていました。神崎さんにはすごい注意力があると。他人の気づかないことにすぐに気づくと。
 まさに今はそれだったんでしょうか。いつも適当な方なのに、こういう時はすごく頼りになります。
「さてスイサイド・レディ、斎藤はどうだった?」
 いきなり彼の話題を出されて焦ってしまいました。どう答えたらいいでしょうか。嫌いですと言ってしまいましたと正直に告げると神崎さんはどう反応するでしょうか。もしかしたら怒るかもしれませんね。しかし嘘をついても仕方の無いことです。
 私はさっき科学室で斎藤さんと話し合った時の事を神崎さんに正直に告白しました。嫌いですと言いましたという言うと、神崎さんは意外なことに笑い出しました。
「嫌いですかぁ……スイサイド・レディ、君もやる時はやるね」
「それは、褒め言葉ですか。それとも責め言葉ですか」
「責め言葉ではないよ。最大限の褒め言葉だ」
 そうは言いながらも神崎さんはしばらく笑い続けていました。さっきまでは頼もしく見えたのに、今じゃ少し怒りたい気分です。私が腕を組んで、何ですかもうっと講義すると、悪かったと笑いながら謝りました。反省の色が見えません。
「いやでも……ありがとう」
 突然神崎さんが笑うのを止めて私に頭を下げてお礼をしてきました。私は突然のことで状況が理解できずに、「えっ」とか「いや」とか「その」とか言葉に言葉を言いながら慌てふためいてしまいました。
「あいつにはきっと、そういう言葉が必要なんだよ。けど、それを言ってくれるやつがあいつにはいない。俺があいつに嫌いって言っても意味ないけど、君なら大きな意味があるんだ」
 だから言ってくれてありがとう。
 そうなのでしょうか。私が彼に嫌いと言ったことには、何か大きな意味があるんでしょうか。私はただ、追い詰められていた彼を更に追い詰めただけに思えるのです。とても私の言動が良いこととは思えません。
 それでも神崎さんは私なんかに頭を下げました。ありがとうとまで言っています。彼がここまでするから、本当に意味があるように思えます。
「神崎さん、私は……」
 お礼を言われるような事はしていません。そう言おうとしましたが、頭を上げた神崎さんに止められました。彼は首を横に振って、もうそれ以上は言わなくていいと伝えてくれました。
「今日はさっきのこともあったし、疲れたでしょう。早めに帰ったほうが良いよ。雨も強くなってきたし」
「えっ、神崎さんは」
「俺は校舎に戻るよ。あいつと少し話しするから」
 今度のあいつは斎藤さんのことでしょう。それなら私も付いて行きます。さっきのことを謝りたいのです。
「あっ、スイサイド・レディは帰ってくれないかな」
「そ、そんなっ、どうしてですか」
 思わず大声を出してしまいました。少し恥ずかしくなりましたが、今はそんなことを気にしてる場合ではありません。それに周りには神崎さん以外の人は見当たりません。
「あっいや、そう怒らないで。別に君を仲間はずれにしようとしてるんじゃないんだ。ただ、俺はあいつと二人で話したいんだ?」
 お願いだよと両手を合わせて神崎さんがまた頭を下げました。二人だけで話したい。そう言われれば、引き下がるしかないでしょう。分かりましたと普通に答えようとしましたが、声が小さくなってしまいました。
「ゴメンね。また明日、あいつと話し合って。じゃあ、気をつけて帰りなよ」
 私と神崎さんは手を振り合って別れました。彼は小走りで校舎へと戻っていき、私はその姿を見届けた後、歩き始めました。しかしすぐに立ち止まって、校舎を振り返ります。
 巨大な校舎の上には厚い灰色の雲が空を覆っています。
 ねぇ斎藤さん。あなたの心も今、この空のようなんですか――。返答がないと分かりきっている問いを、心の中で彼にします。



 翌日の朝。私はいつもより少し遅く登校しました。遅れた原因は寝坊で、いつも登校に利用している電車に乗り遅れてしまい、一本だけ遅い電車に乗ったのです。寝坊をしたと言っても、朝、目覚めてから、私は幾度も欠伸をしています。決して十分な睡眠は取れていないのです。
 そりゃあそうです。昨日の夜はこの地域では台風のピークを迎えていたんですから。風や雨の音が半端ではありませんでした。それだけでも十分な睡眠不足の理由になります。けど、一番の原因は、香織ちゃんと斎藤さんのことです。
 あの二人のことを考えていると、とてもじゃないですが落ち着いて寝れません。昨夜は布団に包まりながら、ずっと昨日のあの二人との会話を頭の中で反芻していました。そうしていると、胸の中が熱くなったり、冷たくなったりと繰り返しました。
 私は大切な人を亡くしたことはありません。ありがいたことに両親も友人たちも健在です。ですから、兄を亡くした香織ちゃんの気持ちも、親友を亡くした斎藤さんの気持ちも、到底理解できないのです。理解しようとしても、出来るものではないのです。
 だからこそ、私はあの二人の和解を望みます。心の中に同じ孤独があるのに、似た苦しさや悲しみがあるのに、どうして仲違いなどしてしまうんですか。お互いに孤独を、苦しみを、悲しみを理解できる数少ない人じゃないんですか。
 それでもあの二人から言わせれば私はきっと何も分かってはいないんでしょう。きっと私の想像なんかはるかに越えた何かがあの二人にはあるんでしょう。
 一昨日、ボールが実験室に投げ込まれる前、私と斎藤さんは映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の話をしました。あの時、彼は私にこう質問しました。「タイムマシンがあったら未来と過去、どっちへ行きたい?」
 彼は言っていました。俺は未来へ行きたいと。そして私は過去へ行きたいと答えました。どうして私が過去へ行きたいかというと、未来を見たくなかったからです。もしかしたら彼もそうだったのかも知れません。
 過去を見たくないから、未来と答えたんでしょうか。
 あの人にとって過去はパンドラの箱。災いの根源。触れてはいけない物。けど、それは違うんじゃないでしょうか。だってパンドラの箱は……。
 机に肘を突いて窓の外を眺めます。台風一過とはいかない天気です。風も雨も昨日や一昨日より弱くなっているとはいえ、まだ残っています。空にはまだ灰色の雲が蓋をしています。今日の午後からは雨も風もやみ、晴れると予報されていました。
 ため息を吐きたくなりました。けど、ため息をつくと幸せが逃げるといいます。今更、そんな迷信を信じるわけではありませんが、何となく怖いの我慢しましょう。
 昨日、神崎さんと斎藤さんはどういう事を話されたのでしょうか。きっと私と香織ちゃんが接触した事は神崎さんが伝えたでしょう。斎藤さんはそれを聞いてどう思ったんでしょうか。もしかしたら私はまたあの人を苦しめたんじゃないでしょうか。
 そう考えると不安でなりません。あの人に会いに行きましょうか。教室がいいでしょうか、それともまた実験室にいるんでしょうか。
 私が席を立ち上がろうとしたときに、教室の扉がいつかの様に激しく開きました。大きな音にビクッとしてしまいます。しかし教室にいたクラスメイトの皆さんはもう慣れたようで「もっと静かに開けてよぉ」と扉を開けた彼女に抗議をとばします。
「ゴメンね。力加減できないんだぁ、私」
 軽快で聞き覚えのある声。私が扉の方を見ると、やはり彼女が立っていました。西条さんです。
 私と目が合うと西条さんはウィンクをして、駆け寄ってきました。おはようございますと挨拶すると、おはよぉと返って来ました。以前はこのおはようございますという挨拶も「堅い」という理由で止められていたんですが、やはりやめることが出来ませんでした。
「龍也から聞いた。昨日は大変だったんだそうね。大丈夫だった?」
「はい。神崎さんのおかげです」
 西条さんは何故か不貞腐れた様子で「あいつもたまには役に立つのね」と、恐らくは彼女なりに神崎さんを褒めました。この台詞、できれば彼に聞かせてあげたいです。きっと照れ隠しをしながらも喜ぶでしょう。
「ゴメンね。私、昨日はちょっと用事があって急いで帰っちゃったんだ」
「いえ、そんな謝らないで下さい。用事なら仕方ありません」
 そうか、だから昨日神崎さんは一人だったんですね。口には出しませんが、心の中で納得します。こんなことを言うと西条さんにいつも二人一緒なわけじゃないと怒られてしまいます。
「あっ、斎藤さんを見かけませんでしたか?」
 もしかしたら西条さんは斎藤さんの居場所を知っているかもしれません。わずかな期待を胸に訊いて見ましたが、西条さんの表情が今の空のように曇ります。少し答えにくそうに彼女は教えてくれました。
「斎藤君、今日は学校に来てないみたいよ」
「えっ……」
 まさか私のせいでしょうか。私があんなひどい事を言ったから、それで彼は……嫌な想像が頭の中を駆け巡り、そしてかき混ぜます。
 西条さんが慌てて私のせいじゃないと慰めてくれました。きっと彼女は昨日にでも神崎さんから私が斎藤さんに言ったひどいこと聞いていたんでしょう。
「ツーちゃんのせいじゃないわよ。きっと遅刻か何かよ。そんな表情しないで」
 私は今、どんな表情をしているんでしょうか。自分じゃ確認も出来ませんが、笑顔でない事は間違いないです。
「だ、大丈夫です……」
 私は震えそうになる声をなんとか正常に保ちました。そんな私を気にしてか、西条さんは「ああ、じゃあ私はこれで」と似合わないとまどいをしながら教室を後にしました。
 一人になると、またあの二人のことを考えてしまいます。いや正直に言うと斎藤さんのことです。
 やはり昨日あんなことを言うべきではなかったのです。どうして、もっと気を使ってあげれなかったんでしょうか。あれじゃあ傷に塩を塗るのと同じじゃないですか。ああもう……自分が嫌になってしまいます。なんて情けないんでしょう。
 私は人一人、慰めることも出来ないんでしょうか。
 しばらくするとホーム・ルームが始まり、そしてすぐに一時間目の授業となりました。当然、授業に集中なんて出来るはずも無く私は教科書やノートを机に広げていただけで、後は何もしていませんでした。何度か先生に注意されましたが、やはりなにをする気にもなれません。
 一時間目の休み時間のことです。携帯電話をチェックするとメールが一通来ていました。送信者は西条さんでメールの内容は斎藤さんはまだ来ていないというものでした。親切にありがとうございますと返信したら、元気出してというメッセージが返って来ました。
 西条さんのおかげで二時間目は少しはノートも書けましたが、やはり集中なんかはできず、頭のどこかでは考えごとをしていました。その休み時間にも西条さんからまだ来てないというメールがきました。
 メールを見るたびにため息を吐きたくなりますが、どうにかそれを飲み込みます。
 結局、彼が来たという連絡がこないまま昼休みを迎えてしまいました。四時間目の授業が終わって、数名のクラスメイトが教室から出て行きます。いつもお弁当を一緒に食べる友達も食堂へいってしまいました。彼女たちは食堂に一緒に行こうと誘ってくれましたが、私は首を横に振りました。
 教室で一人、机の上にお弁当を広げてぼんやりと彼のことを考えながら、ゆっくりとおかずを一つ一つ食べます。
 しばらくすると食堂に行った友達たちが帰ってきました。
「ねぇ、さっきのさすっごく美人の子がいたんだぁ」
 一人の友達嬉しそうに目を輝かせながらそう言ってきました。
「美人の、子?」
「そうそう。身長はすっごく低かったけど、顔はすごく綺麗だったの。あんな子、学校にいたっけ?」
 持っていたお箸が手からすべり落ちて、机の上に音を立てながら転がります。身長が低くて美人の子――。まさか、そんなはずありません。
「あ、あの……」
 私の唇が自然震えます。嫌な想像が頭の中を走馬灯のように駆け巡ります。
「うん? どうかしたの」
「その人、どこで見かけたんですか?」
「ああ……階段よ。ここ四階でしょ。その子、五階に行ったわ。五階にはどこのクラスの教室も無いのに」
 思いっきり強く立ち上がったせいで椅子に膝の裏を打ち付けてしまい、そしてその椅子も大きな音をたてて倒れてしまいました。皆が一斉に私のほうを見ましたが、私はそんなことは気にしてられず走って教室を出て行きました。出て行くときに「えっ、どうしたのっ」とクラスメイトから声をかけられましたが、答えてる暇なんかありません。
 ずっと不思議だったんです。一昨日、彼女がどうやってこの学校に入ったのか。この学校だってある程度のセキュリティーはとっています。中学生の女の子がいたら普通は目立ちます。けど、もしもその子がこの学校の制服を着ていたらどうでしょうか。特に目立ちはしないでしょう。それだと校門からも堂々と入れます。制服なんて手に入れようと思えば簡単でしょう。
 身長が低くて美人で見覚えの無い子。この学校にはそんな人、他にもいるかもしれません。けど五階に向かったのなら香織ちゃんかもしれません。
 だって五階には実験室があります。彼の砦があります。
 五階に上がってすぐに何かが割れる音が聞こえました。ガラスが割れる音です。急いで実験室に向かいます。閉められていた扉を、西条さんほどじゃありませんが、強く開けます。音は間違いなくここからしていました。
 またガラスの割れる音が響きます。窓やカーテンを完全に締め切られた暗い実験室。開いているのは私が前に立っているこの扉だけです。そしてそこから差し込んだ光が、私を強く睨んでいる彼女を照らしました。
 彼女の周りには割れて粉々になったガラスが大量に散らばっています。そして彼女の右手にはこの実験室にあるビーカーが握られています。どうやら足元にあるガラスは元はビーカーだったようです。
 似合ってます。こんな時に何を思ってるんだと自分で思うのですが、彼女にはこの学校の制服、とても似合っています。
 彼女が私を睨むのをやめて右手を振り上げて、また床にビーカーを落とそうとしました。ダメですっ。私は彼女に駆け寄ると振り上げられた右手を両手で掴みます。放してっ! という彼女が怒鳴ります。
「放してよっ!」
「ダメですっ! 絶対に放しませんっ!」
 これ以上、あの人を傷つけないで下さい。ただでさえボロボロなんです。次に何かしたら、それが彼にとってはとどめかもしれないんです。だから、私は彼女の手を放すわけにはいきません。私にはここを守る義務があります。
 彼女は小柄でそこまで力もありません。ただ、彼女も彼女で必死なのでしょう。私を振り解こうと体をくねらせたりしながら力いっぱい抵抗してきます。私もなんとか彼女を抑えようとしますが、右足に痛みを感じてしまったため、体のバランスを崩してしまい、その場に尻餅をついてしまいました。助かったことに私が倒れた場所にはガラス片はありませんでした。ただ、近くに落ちていたガラスで手の平を小さく切ってしまいました。そこから少しだけ赤い血が流れてきます。
 さっき走ったせいでしょう。それにここでもみ合いもしてしまいました。無理に足に負担をかけすぎたんでしょう。やってしまいました……こんな大切な時に。
 私を見下げていた彼女がビーカーを持っていた右手を振り上げました。私にビーカーを当てるつもりでしょうか。
 容赦はしません――。そういえば昨日、そう言われましたね。私は切れた手で頭を庇い、強くまぶたを閉じました。
 しかし、ビーカーは私には飛んでこないどころか、何の音もしなくなりました。どうしたんでしょうかと不思議に思いながらゆっくりと目を開けると、そこには右手を振り上げたままの香織ちゃんと、彼女のその手を掴んでいる西条さんがいました。
「よぉやく会えたわね。見覚えの無い子を見たって情報を聞いたから来てみたけど……ちょっとやりすぎじゃないかしら」
 手を掴んでいた西条さんを見て香織ちゃんが納得したような声を出します。
「……ああ、あなたが西条さんとかいう人ですか。随分と私を探してたそうですね。昨日は私の中学まで来たとか」
 二人とも静かに話して入るものの、きっと心中穏かではないでしょう。実際にこの二人の間にはまるで火花が散ってるようにさえ見えます。
 西条さんは昨日、香織ちゃんの中学まで行っていた。用事とはそのことだったんですか。やはり、西条さんは心の大きな人です。何だかんだと言って、彼が心配なんでしょう。
「会いに行ったけどあなたはいなかった。骨折り損もいいところだわ」
「それは良かったです」
 香織ちゃんが言い終わると同時に突然、肌を打つ乾いた音がしました。それは西条さんが香織ちゃんの頬をぶった音で、私も香織ちゃんも驚きのあまり声さえ出ませんでしたが、私たちとは違い西条さんは大声を出します。
「いい加減にしなさいよっ。こんな事して、何になるって言うのっ!」
 ぶたれた香織ちゃんはしばらく黙っていました。その間に西条さんがまた怒鳴ります。
「言いたいことがあるなら、斎藤君とちゃんと話しなさい。こんな卑怯な手段を使って……いくらなんでも」
「黙って! 私は別にあの人に言いたいことなんてありませんっ!」
「じゃあどうしたいの」
「私はっ……私は」
 彼女の言葉が途切れます。下唇を噛んで非常に悔しそうな表情を浮かべています。ただ気のせいでしょうか。目が潤んでいるようにも見えました。ただ、暗幕カーテンで締め切られていてろくに光が差し込んでいないここじゃ確信はもてません。
 西条さんが左手で彼女が握っていたビーカーを奪い取り、そして掴んでいた彼女の手を放しました。
 足音が聞こえてきたのはそのときでした。二つの足音が走ってこの実験室に近づいてきます。足音は次第に大きくなって、そして扉の前で止まりました。誰かがまた来たようです。扉の方を見た香織ちゃんが驚きのあまり声が出せなくなって、目を大きく見開きます。
 私は右足に負担がかからないようにゆっくりと立ち上がり、彼らを見ました。
 扉の前に立っていたの斎藤さんでした。その後ろには神崎さんもいます。息を切らしていて激しい呼吸を繰り返しなら、実験室の中の香織ちゃんを見ています。
「……久しぶりだね、香織ちゃん」
 呼吸を整えながら斎藤さんが以外にも冷静な声で彼女に話し掛けます。彼女はそれには返答せず、驚いたように彼を見ていました。彼の登場は予想外だったようです。
 ようやく来たんでしょう。西条さんの言っていたチャンスというのが。やっと彼はめぐり合えたんでしょうか、過去と。同時に彼女もちゃんと向き合えてるんしょうか、彼と。
 チャンスが今巡ってきたとして、これからどうなるんでしょうか。何かが終わるんでしょうか。
 それとも何が始まるんでしょうか――。



△Side Scientist



 一年間見ない間に随分と彼女は変わっていた。低かった身長も、ほんの少し伸びたと思う。ただそれ以上の変化が見られた。それは目だ。雨瀬が死ぬ前までは、あんな悲しそうな目はしていなかった。
 俺の登場が予想外だったのだろう。大きく見開いた目が、余計にそのことを感じさせてくる。
 久しぶりだねと落ち着きながら話し掛けても彼女からの返答は無い。素直に言うと無くて良い。ここで彼女が久しぶりですねと返してきたら逆にこっちが戸惑ってしまう。
 一歩だけ実験室に足を踏み入れる。後ろにいた神崎は動かず、そのままだ。彼としては彼女の逃亡経路を断っているつもりなのだろう。つまりそれは俺へのメッセージでもある。
 ここで全部終わらせろという、メッセージ。
 いつも何も考えず我が物顔で入るこの部屋に一歩足を踏み入れるだけでここまで緊張するとは……。胸の鼓動で体全体が揺れそうになるほど、緊張している。
 死にたがりがこちらを見ている。彼女は何も言わなかった。
 しばらくの間は誰も何も言わずに時が過ぎていった。
「やっと会えましたね……」
 香織ちゃんの口から零れ落ちた言葉は、嘘偽りの無い彼女の本当の感想だろう。そう、やっと会えた。ここまで来て、ようやく巡りあうことが出来た。少し時間が経ちすぎていたのかもしれない。
「そうだね。やっとだ」
 内心、これだけ落ち着いているフリをするのもどれだけもつか不安だった。本当なら、彼女の顔を見た瞬間、動けなくなってしまうだろう。
「今朝、桜花ちゃんに会ったよ」
 香織ちゃんの表情が一気に険しくなる。
「あ、あいつ……何か言いましたか」
 声が震えてるのは、動揺してる勢だろうか。俺の登場と、桜花ちゃんという名前が出たこと。恐らくその両方が彼女にとっては予想外なことだろう。
 何も言わずに頷く。そう、俺は桜花ちゃんにあることを頼まれた。だからここにいる。
 

 やっと来たんじゃないのか。昨日、神崎にそう言われたのを思い出した。死にたがりが出て行ってからも、実験室に佇んでいた俺に向かって、実験室に入ってくるなりそう言ったのだ。
「スイサイド・レディから随分なことを言われたそうじゃないか」
 どうやら死にたがりと会ったらしい。こいつもこんな日にまで学校に残っているとは相当な暇人だなと考えていると急に神崎がテーブルを拳で叩いたのだ。
「なぁ斎藤……いい加減しろって」
 いつもより迫力のある小さな声で彼が言う。
「やっと来たんだろう、チャンスがさ。やっと過去と向き合える時が来たんじゃないのかよ。お前はいつまでここにいるつもりだ。またそうやって、向き合わずに終わらせるつもりか」
 彼の言葉には刺があった。暗に、お前は逃げてるだけだろうと言われていた。それがどうしても許せなかった。強く床を踏んで立ち上がって神崎を睨む。
「知ってるか? いや知らないだろうな。さっき校門まで雨瀬香織ちゃんが来てたんだぜ。スイサイド・レディと何か話していたよ。俺とも少し話したけど、すぐ帰っちまった」
 彼の口から流れ出た意外な情報に睨むのをやめてしまったが、彼は話を止めなかった。
「そうそう今日さ、那美が香織ちゃん――俺はレンイン・ガールって呼んでるけど――の中学に行ったらしいぜ。随分気合入れてたよ」
 なんで西条が、という疑問が浮かんできた。俺のためなのか……。
「いいか斎藤、皆動いてんだよ。スイサイド・レディも那美も、レイン・ガールも。なあ、お前もそろそろ動けよ。いつまでそこで座りこんでるつもりだ」
 頭に一気に血が上っていき、気づいたら神崎の胸倉を掴んでいた。今まで誰かにここまで腹を立てたことは無いかもしれない。ただ今はどうしても、この怒りという衝動を自分の中で噛み殺すことができないでいる。
 そんな俺を見た神崎が、はんっと鼻で見下すように笑った。
「俺を黙らせるか。そうしたいなら、そうすればいいさ。お前には、そうとしかできないんだからなっ」
「うっさいんだよっ! お前に何が――」
「俺には何にもわかんないさっ。ああ、分からない。綺麗サッパリ、何一つ分からない。けどな、お前に言っといてやる。俺も那美もスイサイド・レディも、少しでも分かろうとはしてるんだ。俺たちだって、お前を放ってはおけないんだよ。……けどお前の気持ちなんて分かるはず無い」
 何かを吐き出すかのよう神崎は大きな声で叫び続けていたが、最後になってそれが小さくなった。そして、情けないよなぁとこれもまた小さくいった。
「分かるわけないんだよ。だから、だからこそ、お前は向き合うべきなんじゃないのかよ。お前の気持ちを理解できる、お前が気持ちを理解してやれる奴と。今がその時なんじゃないのか。少し時間はかかったかもしれないけど、ようやく向き合えるんじゃないのか。そのために彼女はココに来たんじゃないのかっ」
 この男が怒鳴り声を上げるとはなんとも珍しい。それほどにこいつは必死なのだ。何とかしようとしてくれてるんだ。それは分かる。昨日だって今日だって、それは分かってる……つもりだ。
 神崎から手をはなして、奴に背を向けた。返す言葉もなく、何かすることも無い。すべきことがあるのに、それをしようとしない。
 実験室から出て行こうとしたとき、背中から声をかけられた。
「動けよ」
 ただそれだけ。そのたった一言が胸響いて、妙に悲しくなった。
 学校から家に帰るまでの間は、放心状態と言っても過言ではなく、何も考えず歩き、電車に乗り、帰った。家に帰っても家族とはろくに会話もせず、すぐに自室に篭りベッドの上に横になった。何も考えたくは無かった。
 両親がたびたび部屋に入ってきて、体の具合でも悪いのかと訊いてきたが、なんとも無いと嘘をついた。もちろんそんな嘘が通じわるわけもなく、二人は心配していた。
 結局、夕食も食べず、ずっと寝たり起きたりを繰り返していた。眠りについてもすぐに起きてしまう。その度にもう十月だというのにすごい量の汗をかいていた。心臓も高鳴っていて、まともな状態ではなかった。
 そんな一夜を過ごして、朝を迎えた。
 朝目覚めた時からこんなに疲れているの初めてだ。体中に力が入らず、起き上がるのにも数分を要した。それは体力的な問題ではなく、精神的問題のせいだ。体の方は正直なもので、晩飯をぬいていたから随分と腹も減っていた。
 腹は減っていたものの、食欲は湧かず朝食も食パンを少しかじっただけで終えた。母が本当に大丈夫なのかと真剣に心配してくるのを振り切って、気が進まないまま学校へ向かうため玄関を出た。
 休むわけには行かなかった。俺はどうやらまた死にたがりを巻き込んだみたいで、そのことについてちゃんと謝らなければいけない。彼女はまた「謝罪などいらない」と言うのだろうが。
 家の前に一人の女の子が学生鞄を抱えて立っていた。制服を着ていて、その制服は俺が卒業した中学の女子の制服だ。女の子は俺が出てくると、おはようございますと蚊の鳴くような声で挨拶するとペコリと一礼した。
 一体誰だろうか。あの中学に知り合いは数名いるものの、彼女は違う。見覚えさえ無い子だ。必死に記憶を呼び起こしていた俺に彼女が声をかけた。
「はじめまして。斎藤先輩ですか?」
 はじめましてということは、やはり俺と彼女は初対面のようだ。
「うん、そうだけど……」
 今更あの中学校の子が俺に何の用だろうか。卒業してからは香織ちゃんのこともあってなるべく関わらないようにしてたんだけど。
 彼女は随分と真面目そうに見えた。肩まで伸ばした髪はきちんと揃えてあって、校則に反するような髪染めもしていない。制服もちゃんと着ていて、スカートの丈を長くしたり短くしたりはしてない。香織ちゃん同様、体は少し細めだ。
「わ、私……香織の同級生で倉澤桜花(くらさわおうか)っていいます」
 その自己紹介だけで家の中に引っ込みたくなかった。香織ちゃんの同級生……つまり、あの中学の三年生か。
「へぇ、そうか……で、何の用かな」
 朝から嫌なことに直面するもんだ。さっさと用事を聞き出して、悪いけど帰ってもらおう。香織ちゃんの同級生ってだけで責められてるような気がしてならない。
 桜花ちゃんの肩がゆっくりと揺れだして、何事かと思っていると、彼女は声を立てずに静かに泣き出してしまった。あまりに突然なことに焦ってしまう。俺は何か悪いことを言ってしまったのだろうか。態度が冷たすぎたのか。それにしたって泣く事はないだろう。
 彼女に近寄ると彼女は泣きながら、途切れ途切れに言葉を出した。
「おねがい……です。おねがい……お願いですから」
「ちょっと落ち着けって。無理に喋らなくていいから、なっ」
 とりあえず彼女を泣き止まそう。そう思って適当に慰めの言葉をかけたり、背中をさすったりした。どうして泣いたのか、そしてどうしたらいいか、まったく分からない。
 困惑しながらも慰めていたら、数分後ようやく彼女は泣きやんでくれた。その数分間にどれだけ緊張し、どれだけエネルギーを使ったか計り知れない。
 泣きやんでもしばらく彼女はシャックリを繰り返していたので、鞄の中からペットボトルの水筒を取り出して彼女に飲ませた。
「ありがとうございます……。すいません、急に泣いちゃったりして」
「いや別に構わないよ」
 流石にここで本当だよとは言えない。少しすると彼女はゆっくりと香織ちゃんと自分の接点を語りだした。
「私、香織とは小学校の頃から時々遊んでたんです。中学になって、あの子急に大人びて遊ぶ機会は減りましたけど、それでも仲良くやってたんです。そうしたら、あの事故です……。あの子にとってお兄さんの存在ってすごく大きなものだったんです。大人ぶってても、あの子だってまだ子供です。しっかり者みたいになってたのは、きっとお兄さんの前で格好をつけたかっただけなんです。だって小学校の頃はよくお兄さんに甘えていましたもん」
 そんな過去があるとは知らなかった。俺はてっきり香織ちゃんは昔からしっかりしてたんだとばかり思っていたが、どうやらそれは完全な間違いだったらしい。
「お兄さんが亡くなって、あの子引きこもりがちになっちゃって……。二年の時はクラスが違ったんですけど、三年で同じクラスになれたんです。だからあの子が休んだ日にはいつも宿題とかもって家に行きました。時々は家の中まで入って、無理矢理あの子と遊びました。あの子は全然楽しそうじゃなかったけど、私は少しでも元気を取り戻して欲しかったんです……」
 彼女の声が段々と暗く小さくなっていく。
「ある日家に行って、部屋の中で遊んでた時に見つけたんです。茶色の少し大きめのビンに入った白い粒上の薬……。これは何って問い詰めたら、睡眠薬だって」
 睡眠薬。寝付けないから使ってたわけじゃないだろう。そう使ってたとしても、本当の目的はもっと別にあったに違いない。それは、自殺。
 桜花ちゃんがまたシャックリをして涙声になる。
「私はあの子の親友のつもりだった。だから、何とか元気付けようとしました。けど、あの子の心はもう私には触れれない場所にありました。この間はっきり言われましたよ、何も分かんないでしょうって……」
 彼女の目から涙がこぼれるが彼女は我慢しているようで強く下唇を噛んで、手の甲で涙を拭った。しかしすぐにまた涙が溢れてくる。俯いて小さく嗚咽をあげた。俺は何か言ってやることも出来ず、彼女の背をゆっくりとさすってやることしか出来なかった。
 桜花ちゃんを見ていてやっと分かった。死にたがりや神崎や西条の気持ちが。俺は何が分かると怒鳴り散らしたが、彼らにはその言葉は刺のように痛かったろう。分かってもらえないというのもつらいが、分かってあげられないというのはもっとつらいのかもしれない。
 大切な人が傷ついてると分かっていても、それを治すことが出来ない。自分の無力さを思い知る。それはきっと、想像以上に痛く苦しい。
 だから目の前の彼女は泣いている。大切な友人に何も分からないだろうと言われ傷つき、否定できず何もしてやれない自分が情けなくて悔しい。無力だと思い知らされている。
「き、昨日……西条って人が中学まで来たんです」
 いきなり桜花ちゃんの口から馴染み深い名前が出たことに驚くと同時に、昨日神崎が西条が香織ちゃんの中学に行ったと言っていたのを思い出した。どうやら西条は偶然か、それとも故意か、とにかく桜花ちゃんと接触したらしい。
「それで香織が今暴走してるって……説得してくれって頼まれたんです。だから私……」
 灰色のアスファルトに一滴の雫が落ちて、その部分だけ灰色が濃くなった。彼女の涙だということ位は分かる。
「だから私、昨日の夜にあの子に電話したんです。変な事はしないほうがいいって。つらいことがあるなら言ってくれって……あの子、何て言ったと思いますか? 黙ってって。それだけ言うと電話切られちゃいました。あとでかけ直しても電源もきったみたいで繋がりませんでした」
 俯いて泣いていた彼女が突然、俺の腕を掴んで顔を上げた。涙で頬も濡れて顎では左右の目から流れた涙が合流して今にも落ちそうな雫となっていた。目は充血して、顔は強張っている。さっきまでの落ち着いた感じはもう無い。
「だから、お願いですっ。私じゃもう無理なんですっ。あの子の気持ちを分かってあげたいけど、あげれないんですっ。けど、あなたならできるでしょう。分かってあげられるでしょうっ……お願いですっ、お願いですから、あの子を助けてあげて……」
 君まで俺に彼女と向き合えというのか。ただ彼女と神崎たちの違いは、向き合えではなく、助けて。桜花ちゃんは本気で香織ちゃんが心配で、何とかして助けてあげたいんだろう。だから助けてという。私にはできないけど、あなたにならできると。
 神崎は俺にしか出来ないと言った。彼女の気持ちを理解してやれるのも、そして俺の気持ちを理解できるのも彼女だけと。だから向き合えといったんだろう。
 どっちしたって変わりは無い。結局は、もう鬼ごっこを終わらせようというのだ。もう逃げている場合ではない。それは分かってる。
 俺がしっかりしていれば香織ちゃんが暴走することも無かったし、桜花ちゃんが悲しむこともなかった。全ての根源はこの俺で、なら全ての問題を終わらせるのも俺の責任だろう。
「分かった」
 短い台詞。それもなんとも頼もしくない。本当に分かっているのかどうかさえ、自分にも分からない。
 ただそんな俺の返答に桜花ちゃんはまるで希望を見つけたかのように目を輝かせた。そして「ありがとうございます」と震えた声で礼を言い、頭を下げた。
 俺は彼女に期待に応えられるか。いや、応えないといけない。もうはっきり分かった。逃げてる場合ではないのだ。
 分かったよ、桜花ちゃん。動くよ、神崎。
 桜花ちゃんは何度もお願いしますと頭を下げ、中学校に向かった。さてどうしようかと考え真っ先に思いついたことは、とりあえず会わないといけないということだった。誰にかというと勿論、香織ちゃんにだ。
 学校に遅れたのは気持ちの整理をするためだ。近所の公園のベンチで何もせず色々と考えていた。そうしてるうちに昼前になって、流石に無断欠席はまずいと思って学校に行った。学校に着いたら教師から説教を食らい、心の篭ってない謝罪をし、クラスに向かった。
 教室に入ろうといたときに、後ろから手をつかまれた。急いで振り向くと息が荒く、顔色の悪い神崎がいた。
「どうしたんだよ」
「来い……急げっ!」
 詳しい事情も説明しないまま俺の手を引っ張って走り出した。おいおいどういうことだと混乱しながらも一応は走ることにした。
 階段を走りながら上ってる途中に、神崎が苦しそうに説明をしてくれた。
「那美から情報だ。もしかしたら、レイン・ガールが実験室にいるかもしれないってよ」
 足が自然と止まり、動けなくなってしまう。神崎は俺が止まったことに気づかず、数段上ったあと、ようやく後ろを振り向いて上るをやめた。
「……嘘、だろ」
 何処かにすがるような思いで確認をとるが、神崎の返事には容赦は無かった。
「嘘じゃない。あいつがいるって言うんならいるんだろ」
 それは神崎の西条への信頼を表す一言であると同時に、否定できない事実でもある。今まであいつの情報が間違ったことがあったか。人脈や情報網を蜘蛛の巣の如く張り巡らせたあの女の情報が今まで一度でも……。
「もうここまで来たら、引き下がれないぜ」
 神崎が追い詰めてくるように諭す。
『ねぇ斎藤さん知ってますか。ローマ帝国のあの有名な将軍カエサルは、こんな言葉を残したんですよ……』
 いきなり頭の中でつい最近、死にたがりと交わした会話を思い出した。いつも通り実験室でたわいも無い話をしていた時に彼女が急にこう言ったのだ。世界史は勉強していたが、そんな言葉は知らなかった。いや恐らくは忘れていただけだろう。聞いたとき「あぁ」と声がもれたから。
 カエサルはこう言ったのだ。
「賽は投げられた」
 そうか、今気づいた。賽は投げられていたんだ。もう知らない間に、いつの間にか。カエサルはそう言った後、ポンペイウスという仲間と戦う覚悟でローマ国内に自らの軍隊を率いて入国した。本当はそんなことはご法度なのにだ。
 それでも彼はそうしたらしい。賽は投げられた。それはつまり、もうこういう状況になってしまったんだ。やるだけのことをするしかないだろうという意味。
 今の俺がすべき、やるだけのことって何だ。決まってる。今朝、桜花ちゃんが教えてくれた。香織ちゃんと向き合うことだ。そして彼女を助けること。
 止めていた足を動かして、階段を一段上る。神崎が短い口笛を吹いた。
「覚悟が決まったか」
 こういうときに笑顔を向けてくるのは、緊張で
堅くなっている俺を和らげようとしてくれているからだろう。無言で頷くと二人でまた階段を上った。
 昨日から、いやきっとずっと前から、俺は神崎に助けられている。神崎だけじゃない。西条にもだ。あいつがいたから桜花ちゃんと話すことが出来た。二人のお陰で覚悟が決まった。
 ……二人だけじゃない。あいつも、そうだ。今こうして覚悟が決まったのは、あいつとの会話を思い出したからだ。それに……もう、嫌いとは言われたくは無い。


「ボールを投げ込んだのは、君だよね」
 分かりきっていることをあえて確認のため聞いてみた。香織ちゃんは「それがなにか」とでも言うように、悪びれもせずそうですよと答えた。彼女も大分落ち着いてきている。
「あのボールは……」
「分かってるでしょう。紛れも無い兄の私物ですよ」
 あのボールは家に持ち帰った。なるべく傷つけないようにあの『人殺し!』という文字も消し、今は自宅の机の上に置いてある。事が収まれば彼女に返すつもりだ。
 さっき死にたがりを一瞥したら、手が少しだけ切れていて血が出ていたが、彼女はそんな手で俺にガッツポーズをして見せた。今は西条が実験室の扉の前、つまり神崎の近くで応急措置といわんばかりにバンドエイドを張っている。
 俺と香織ちゃんの周りにはガラス片がいくつも散らばっている。恐らく彼女がここにあったビーカーなどを叩き割ったんだろう。
 けど、今はそんな事はどうだっていい。
「桜花に何か言われたんですか」
 彼女は俺が最初、この名前を出したときから顔を険しくしている。予想していなかった名前の登場に、苛立ちと焦りを感じているんだろう。
「言われた。それも泣きながらだ。君を助けて欲しいってね」
 彼女が強がって鼻で笑う。
「あの子はいつもそうなんですよ。分かってあげるとか、味方だよとか、聞き飽きた奇麗事ばっかり言って、鬱陶しいんですよね」
「そんな言い方無いでしょうっ!」
 俺の後方で西条が怒鳴ったが、香織ちゃんが空かさず「黙って!」と返した。
「今度は助けて、ですよ。馬鹿じゃないの。本当、これだから幸せな奴は嫌いなんです。自分が幸せだから、回りも幸せだとか思っちゃうんでしょうね。ちょっと他人のことも考えれば」
「それは君もだろう、香織ちゃん」
 それ以上は聞いていられなかった。桜花ちゃんは本当に香織ちゃんに元気を出して欲しいと願っているのに、影でこんなことを言われてると知ったら傷つくだろう。それに俺は香織ちゃんが友達を傷つけるような言葉を言うのも耐え切れない。
「何がですか」
「自分は不幸で、周りは皆幸せ。君はそう思ってる。だから、平気で他人を傷つける」
 心臓の鼓動の激しさは、平時の十倍以上あるんじゃないだろうか。それ位激しく鼓動が感じられる。こんな強気な発言、昨日までの俺には出来なかっただろう。けど今はしなくちゃいけないし、する覚悟や勇気もある。
「何ですか。ガラスを割られたことが気に食わないんですか」
「違う。これは君と俺との問題だ。だから君が俺を傷つけることには問題は無い。けどね……あいつを、月宮を傷つけるのは別問題だよ」
 そう、さっき彼女の怪我を見て俺は初めて香織ちゃんに対して怒りという感情を持てた。ここまで強気でいられるのもそのお陰だったりする。後方から戸惑った声で死にたがりが「私は、大丈夫です」と言ってくれたが、どっちのフォローなのか分からない。
「……人殺しが、何を偉そうなことを」
 香織ちゃんの憎しみのこもった声が、彼女の震えた唇から漏れた。そしてするどい目で見上げるように俺を睨んでくる。
「ならあなたには、兄を殺す権利でもあったんですか。ケガが何ですか、生きてるでしょうっ、そこにいるでしょうっ。けど兄はもうどこにもいないんですよ! いつだってそばにいてくれたのに、もういないんですよっ。どうして……どうして……」
 彼女が強く、恐らく精一杯の力を入れて俺の左を腕を掴んだ。そしてそのまま、もうこれ以上は立てないというように、床に両膝をついてしまった。幸いにもそこにはガラス片は無かったようだ。
「どうして……」
 何がどうなったのか分からない。彼女は俺の腕を掴んだまま、どうしてと繰り返して言っている。その声も段々小さくなっていき、弱くなっていき、涙声へとなっていく。それでも掴む力は緩めずにいる。少し痛かったが、今この手を振り解いたら何か取り返しのつかないようなことになる気がしてたので掴まれたままでいる。
 一体彼女はどうしたのだろう。そもそも、俺が入ってきた時点でのあの狼狽はおかしかった。恨んでいた男が出てきたのに、彼女はかなり驚いていた。どうも俺が来るまでに西条と言い争ったらしいが、それが影響でもしているのか。西条は一体何を言ったんだろうか。
 こんな時、雨瀬がいたらと思ってしまう。あいつは妹の事は誰よりも理解していた。何故今彼女が泣いているか、教えて欲しい。
 この硬直状態を打破したのは、神崎だった。
「できれば二人だけの話し合いで解決を望んでいたんだけど、どうも無理みたいだ」
 そう切り出した神崎は急に俺の横にしゃがんで、香織ちゃんと向き合った。彼女は俯いて神崎は見ていなかったが、彼が正面に来たことくらいは分かっただろう。
「レイン・ガール……君、何を隠してるの?」
 神崎の言葉に香織ちゃんが今までに無い反応をした。体を一瞬、ビクッと揺らし、そしてゆっくりと俯かせていた顔を上げて、驚いたような目で神崎を見る。顔は涙で濡れていた。
 何かを隠してるというのは、何のことだろう。何かはわからないがはったりなどでは無い。それは香織ちゃんの反応が示している。じゃあ何だろう。彼女は何を隠していて、どうして神崎はそれを知ってるんだろう。
 まさか西条がそれを知っていて神崎に教えたんではないか。そう思って振り向き西条を見たが、彼女は首を横に振った。どうやら違ったらしい。
「な、な……何、を」
 香織ちゃんがようやく神崎の言葉を返したが、言葉にはなっていなかった。
「いやこれは俺の勘だよ。君は何かを隠してる。いや、何かを抱えこんでる。けどそれは一人じゃ抱えきれないものなんじゃないかな」
 彼女の体がまた揺れた。口を動かして何かを言おうとしているが言葉にならないらしく、口を開け閉めしてるだけになってしまっている。
 神崎はあくまで冷静に彼女に話し掛けていた。特に返答を求めるわけでは無く、一定の間をおくとまた話し掛ける。
「俺は君の行動がおかしいように思えた。一昨日はボールを投げ込んで、昨日は学校の前まで来て、今日は実験室でビーカーを割って……。確かに斎藤を恨んでいたらやりそうな行動だ。けど、君のこの行動、ある一つの共通点があるよね」
 ここで初めて香織ちゃんが激しい拒否反応を見せた。神崎に向かって首を何度も横に振り何かを必死に拒んで、大きく口を開けて何かを伝えようとしている。こんな必死な彼女は初めて見た。
 それでも神崎は話を止めない。
「共通点は、どの行動でも君が斎藤本人と顔を合わせないってことだ」
 えっ。そう声を漏らしたのは、俺と死にたがりと西条の三人。神崎は言い終えるとすぐに立ち上がって、俺の肩に手を乗せたあと後ろに引き下がっていった。香織ちゃんはついに俺をつかんでいた手まで放して、床にお尻までつけてしまう。
 意味が分からない。状況が理解できない。神崎は何を分かって、香織ちゃんは何を隠してるんだ。神崎のはあの注意力でまた何かを分かったんだ。そしてそれが、とても重要なんだ。
 目の前で泣き崩れている彼女は一体、何を抱えている? もしかしたらそれが彼女を助けるのにとても重要なものなんじゃないか。
 散らばっているガラス片に気をつけながら俺はしゃがんだ。目の前には両手で自分の体を支えて泣き崩れている彼女がいる。両手が床についているせいで、もう涙も拭けずにいる。
 どう話し掛けようかと考えていたら、再び後方から足音がした。
「つまり俺が言いたいのは、レイン・ガールが本当に斎藤を心底恨んでいるのかっことだ」
 神崎の声が真横でする。彼は立っているので自然と俺と香織ちゃんを見下ろす姿勢になってしまう。
「そもそもお前を恨む動機がおかしい。俺やスイサイド・レディが言ったとおり、お前はやはり悪くないんだよ。ただ早退しろって言っただけなんだから。けど彼女は恨んだ。どうしてか考えてみろよ。彼女はそうしなきゃいけなかったんじゃないのか?」
「俺を恨むしかなかった?」
「そういうことだ。そうじゃなきゃおかしい。じゃあどうして彼女はここまで苦しんで、お前を苦しめてるんだ? それもお前本人と会わずに。ようは、お前に会う勇気が無かったんだろうな。お前がレイン・ガールと会う勇気が無かったように」
 最後の方の言葉は心に刺さった。けど反論はできない。それは紛れも無い事実だから。俺にとっては事実かもしれないが、じゃあ香織ちゃんはどうなんだ。俺に会う勇気が無かったとはどういうことだ?
「……俺が口出しできるのはここまでだから」
 神崎はまた後ろにさがっていったが、まるで交代でもするかのように西条が俺の隣に立った。さっきこの教室に飛びこんだとき彼女は随分と気が立っていたようで表情から察するにかなり怒っていたが、今は何故かその表情は消えていた。
「……つらいの?」
 その声にはさっきの怒鳴り声の気迫は無かった。もしかしたらここまで静かで穏かな西条の声は初めて聞くかもしれない。そんな声に香織ちゃんが反応し、涙で濡れている顔を上げて西条を見上げた。
「……苦しいの?」
 続けて彼女が訊く。香織ちゃんはしばらくしてから、小さく、本当にわずかに、頷いてみせた。そしてそのまま首をカクンッと下げて俯いてしまう。
「なら……ここで全部吐き出しちゃいなさい。何が苦しいのか、何が辛いのか、私や龍也には分からないわ。けど、いい加減気づきなさい。目の前にちゃんと分かってくれる人がいることに。それと、本気であなたを心配してくれてる人がいることに。その人が必死にあなたのつらさや苦しみを理解しようとしてくれてることに。それが出来なくて、悲しんでることに」
 後半は全て桜花ちゃんのことだろう。西条と桜花ちゃんが昨日どのような会話をしたのか知らない。ただ恐らくは西条も感じたのだろう。桜花ちゃんの必死さを。一人の友達のためにあそこまで必死になれる子は少ないだろうな。
 そんな良い友達をないがしろにするもんじゃない。
「ちゃんと自分の口から言いたいことを言いなさい」
 がんばりなさいよ。香織ちゃんの頭を優しく撫でてから、西条はそう言った。そして後ろに引き下がる。俺と香織ちゃんの間にまた沈黙が生まれた。流石に何か声をかけてやら無いとまずい。彼女をこのまま苦しめておくのは不本意だ。そんなことは絶対にしたくない。
「何を隠してるのか、話してくれないかな」
 できるだけ優しく問い掛けた。香織ちゃんは顔を上げることもせず、首を横に何度も振るだけで何も話してはくれない。
 やはりそうだ。
 俺にしたってこの件はパンドラの箱。忘れはしない出来事だし、忘れちゃいけない事件だ。けどできれば記憶を蒸し返されたくは無い。その箱を開けることはできるならもう二度としたくない。そう思ってた。決して罪から逃れようとしたわけではないが、自然と拒否をしていた。
 香織ちゃんもそうなんだろう。今彼女が隠してる、或いは抱えている『何か』は彼女にとってのパンドラの箱。開けてはいけない災いの源。見たくない過去の事実。何十にも鍵を掛けたい箱。俺たちは今、それをここで開けてみろと要求している。無理に決まってる。
 俺にはできない。だって分かってしまう。その箱を再び開ける恐怖が、痛いほど理解できてしまう。一年前開いてしまい、そして雨瀬という大切な物を失い、急いで閉じたその箱。それからずっと心の隅に置いて見て見ぬふりをしてきた。
 だからここでその箱を開けろなんてことは俺には言えない。それを開けるのには並大抵の勇気じゃとても足りない。けど……開けてほしい。
「パンドラの箱はっ」
 突然、後ろから死にたがりの声がした。驚いて振り返ると彼女はさっき怪我をしていたところにピンクの実に女子らしいバンドエイドをしていた。そしてまた「パンドラの箱は」と今度は小さな声で言い、一歩進む。
「パンドラの箱といのは全ての悪と災いを封じ込めた箱だそうです。それをゼウスが、パンドラという女性に渡すんです。ゼウスは決して開けてはいけないと忠告するのに、パンドラは我慢できずに開けてしまったそうです」
 これは……パンドラの箱の説明だろうか。パンドラの箱というのはギリシャ神話らしいが、詳しい内容までは知らない。多分今、死にたがりが説明してる通りなのだろう。流石は歴史好き。神話の内容まで記憶しているのか。
 彼女がまた一歩進む。そのさいにガラス片を踏んで、それが割れた音が鳴った。
「開けた箱から突然煙が立ち昇ります。この煙が災いや悪なんです……。パンドラの箱というのは、こういう話から『開けてはいけない箱』として有名です。ですがっ」
 彼女が語尾を強めてまた一歩進む。いつの間にか俺の隣にまで来ていた。そしてすぐにしゃがんで、香織ちゃんと向き合い、そして彼女を急に抱きしめた。まるで捕まえたとでも言うように、両手でしっかりと彼女の肩の少し下を強く抱いた。
 いきなりの出来事に言葉を失ってしまった。香織ちゃんも驚いて顔を上げる。
「けどね香織ちゃん、パンドラは箱を急いで閉じたんです。いきなり煙が立ち昇って驚いたんでしょう。箱の底も見ずに急いで閉じました……。それが正しかったんでしょう。開けっ放しにしていたら、もっと災いが起こっていたでしょうから。けど……パンドラは知らなかったんです」
 ――箱の底に、希望が残っていたことを。
「パンドラの箱の底には希望が残っていたそうです。香織ちゃん、開けてみませんか。怖いのは分かります。辛いのも苦しいのも分かりませんけど、あなたが怖がってるのは分かります。けどここには斎藤さんも西条さんも神崎さんも、非力ながら私もいます。開けてください、箱を。まだ希望が残ってるかもしれませんよ」
 パンドラの箱がそんな話だとは知らなかった。底に残った希望。それがどのくらいのものかは知らない。ただもしかしたら箱から出てしまった災いを相殺させることも可能かもしれない。
 嗚咽が聞こえた。小さな嗚咽だったが、段々と大きくなっていく。紛れも無く香織ちゃんのだ。さっきまでは声は出さず、静かに涙を流していただけなのに今は声を出している。そして死にたがりを抱き返していた。彼女の背中を強く掴んでいる。
 死にたがりはそんなことは気にしない様子で、彼女の背中をポンポンとまるで子供をあやすように叩いている。まるで親子のようだ。
 いつの間にか神崎と西条を俺を挟むように立って、香織ちゃんと死にたがりを見下ろしていた。
「……ごめ、ん……」
 ようやく香織ちゃんが声を出した。しかしそれはいきなりの謝罪の言葉で、誰に対してのものか分からない。分かるのは彼女が何か、過ちを犯したと自分で思ってると言う事だけだ。
 それからしばらくまた彼女は泣き続けた。その間、昼休みを終りを告げるチャイムが鳴ったが誰も反応しない。今はそれどころではない。
 ようやく少し落ち着いて、彼女が喋れるようになった。
「ごめんなさい……」
 やはり出てきた言葉は謝罪。誰にだと思っていたら、彼女は俺に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい、斎藤さん……ごめんなさい」
 正直、何がごめんなさいなのか分からない。謝らなければいけないのは俺のはずだ。そう言おうとしたら、神崎が俺の前に手を出した。喋るなということだろう。
 香織ちゃんがゆっくりと、途切れ途切れ、涙後で説明してくれた。
「私、あの日、兄と会っていたんです……」
 あの日というのはすぐに分かった。雨瀬が事故にあった日だ。しかしそれがどうしたのか。兄妹なのだから会っていて当然だ。
「あの日、私は兄と保健室で会ったんですよ……」
 一瞬、無音になったような感覚に襲われた。しかし香織ちゃんが続けるので我に戻る。どういうことだと質問したいのを堪え、倒れてしまわないように足に力を入れる。
「友達が怪我をしたんで付き添いでいたんです……そしてら兄が来て、早退するって言って。そのときに兄が斎藤さんにそう勧められたって教えてくれたんです」
 そうかそれで香織ちゃんは俺が雨瀬に早退を勧めたことを知っていたんだ。
「私はその日、午後の授業に小テストがあったんです。だから、一緒に帰ろうとは言いませんでした……兄も大丈夫だと笑ってましたから……けど、あの事故ですよ」
 彼女が鼻をすする。そしてまた声が震え出した。
「わ、私があの時に一緒に帰っていれば……兄は死なずにすんだんですよ。私は、私は、私はっ……兄より自分のテストを優先した、最低の妹です……」
 ああ……。これか。これが箱。彼女の心の箱。開けてはいけなかったパンドラの箱。そして今、彼女がようやく開いてくれた心の扉。
 彼女はこの一年間、どれだけ一人で苦しんだのだろう。誰にもいえない悩みを抱え込んで、大好きだった兄を思い出し、どれだけ悲しんだのだろう。家族には絶対にいえない。そんなことを言ってしまったら、彼女と彼女の両親の間に溝が出来たかもしれない。
 かといって友達にもいえない。どういう経路で噂が広がるか分からない。誰にも言えず彼女は結局その事実を箱に詰めた。そして放置した。
 けれど忘れれるはずが無い。どれだけ辛かっただろう。自分のせいで兄が死んだと思い、自分が無力だと思い知らされて、どれほど泣きくれただろう。十四歳の女の子にはまりにも重過ぎる事実だ。けど彼女はこれから逃げることが出来なかった。
 きっと誰かに打ち明けたかったはずだ。しかし、彼女の孤独に共感できた人間も自分のせいで雨瀬が死んだと思い、ふさぎこんでいた。彼女は逃げ場を失った。彼女は抑え切れなかったんだ、その悲しみを。誰かにぶつけないと自分が壊れてしまいそうだったんだろう。
 そして思い出す。雨瀬が俺から早退しろと言われていたことを。
「分かって、たんですよ……斎藤さんが悪くないことくらいは。でも……誰か恨まないと壊れちゃいそうだった……」
 だからあの日から今まで彼女は俺を恨み続けた。けど恨んでばかりでも心の中の箱は忘れられない。だから彼女は自殺まで考えてしまった。それほど苦しかったんだろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 また声を上げて泣き出した。そんな彼女を死にたがりが優しくなだめる。あのおだやかな声が、ここで活かされていた。
「良いんですよぉ。大丈夫です、あなたは、悪くありません」
 あなたは悪くありません。それと同じことを彼女は昨日俺に言ってくれた。今になってこの悪くないという言葉の意味深さを知る。それは迷路に迷い込んでしまった人への、案内板。自らを鎖で縛りつけた罪人への、免罪符。
 本当にわずかな、けど確かな、優しい希望。
 この一件ではやはり悪かったのは俺だ。雨瀬に早退を勧めた事を今更後悔するのはもう止めようと思う。けど、香織ちゃんの孤独に気づいてやれなかった俺はやはり悪かったんだ。そこから目を背けたのはやはり罪だ。
 だからせめてもの償いをしたい。
「俺の方こそ、ごめん」
 素直に頭を下げた。
「俺は君から逃げてた。過去から逃げてた。そのせいで君をここまで苦しめた。許してもらえないかもしれない。けど謝らせて欲しい」
 本当に、ごめんなさい。
 一人の人間にできることなんて限られている。賽は投げられた。できるだけのことをやれ。今俺ができることは、彼女の悲しみや苦しみを和らげること。少しでも君は悪くないと伝えること。そして、そばに多くの人がいると教えること。
 死にたがりに抱きついて泣いていた彼女が、シャックリをしながら小さく頷く。それはもう良いということだろう。彼女は死にたがりの胸の中でまた泣き出す。一年間溜まった悲しみは、まだ出し切れていない。
 どうか好きなだけ泣いて欲しい。気が済むまで。また笑えるまで。
 西条もしゃがみこんで香織ちゃんの頭をゆっくり、そっと丁寧に撫でた。
「よく頑張ったわね。……偉いっ!」
 そう言うと今度は乱暴にくしゃくしゃと頭を撫で始めた。それが彼女なりの最大の優しさの表現なんだろう。さっきまでは険悪な状態だったのに、今はもうお姉さん気取りである。けど今はきっとそれがまた香織ちゃんを慰める要素の一つになる。 
 暗幕カーテンで閉め切られた実験室が、急に少しだけ明るくなった。何が起きたのかと窓の方を見てみると知らない間に窓際にいた神崎が「おおっ」と声を上げた。
「おい、見てみろ」
 彼はそう言うなり閉まっていたカーテンを一気に片手で開けてみせた。そしてさっきまで暗闇だった実験室に、信じられないほどの光が差し込む。
 最近ずっと空を覆っていたあの灰色は今の空のは無くて、太陽が輝いていた。本当に久々に太陽を見ることが出来た。
 嵐は、過ぎ去った。
 実験室には香織ちゃんの泣き声と、それを慰める死にたがりのおだやかな声だけがしている。


◇Side Past


 斎藤と和解してから早くも一週間が過ぎた。
 不思議な人たちだった。雨瀬香織はあの四人を思い出して今更ながらそう思う。四人のうちの一人は知っていた人で、すごく迷惑をかけてしまった斎藤。彼は昔から随分な変わり者だと学校でも兄の次に問題視されていた。
 そしてそれを上回ったのが、その彼の周りの三人。いつも冷静でかなり注意深い神崎という人。香織自身が何かを隠してることをすぐに見抜いた人。斎藤の親友。何でも香織が雨瀬に早退するように勧めたのを斎藤だと知っていたという事実だけで、彼女が何かを隠していると気づいたらしい。恐ろしいものだ。
 そしてその人の恋人の西条那美という人。彼の恋人であることを本人は否定しているが、斎藤は肯定していた。噂によるとかなりの人脈を持っていて、顔も広く人望も厚いらしい。すごくお節介で、けどそれが優しく感じれる。だからこそ彼女は多くの友人を持てるんだろう。
 何より一番変わっていたのは、月宮飛鳥。いつも年下の香織にさえ敬語を使って喋る。あれほど色々と傷つけるようなこと言い、怪我までさせた香織を必死に慰めた。あの時の胸の温かさは、まだ覚えている。彼女がいたから斎藤と和解も出来た。
 そして、その変わり者たちのおかげで今こうしてここにいれる。
 久々に登校した中学。香織が教室に入った瞬間、クラスメイトたちは一斉に彼女の方見て黙ってしまい、クラスは静まり返った。ただ一人、桜花だけが少ししてから席に座った香織に近寄ってきて「おかえり」と声を掛けてくれた。おはようではなく、おかえりという挨拶。すかさず、ただいまと返した。
 それの影響を受けてクラスメイトたちが「おかえり」と次々に言い出し、調子に乗った男子の一人が拍手をしだして、そしてそれがクラス中へ感染していった。一年前までは仲良くしていた友達。こんな優しい友達を私は今までないがしろにしてたのかと反省した。
 そして一年ぶりに、元の日常へと戻った。勿論、私にはすべきことがある。香織はそう思っていた。西条と斎藤から、あれほど言われたのだからしなければいけないだろう。いや言われていなくてもするつもりだった。
 昼休みに桜花を人気のない場所へ誘った。それでちゃんと謝った。今までゴメン、許してって。彼女には色々とひどい事をしてきた。許されなくても仕方ない。そう覚悟もしていた。
 彼女はしばらく黙っていたけど、少ししてから唇を綻ばせた。
「バカオリ」
 それは彼女が香織に対して使う彼女の造語。『馬鹿』と『香織』を組み合わせて作ったもの。ふざけあっていたときによくそう呼ばれた。
「私が、あんたの事許さないとでも思った?」
 その言葉があまりにも嬉しすぎて、また泣きそうになった。けど桜花の方を見てみると、彼女も泣きかけていた。二人で泣いて、笑った。
 桜花と西条は香織が知らない間にかなり親しい仲になっていた。どうも西条の方からよくメールをしてきたらしい。彼女からのメールは香織にもよく送られてくる。いつの間にメールアドレスを知ったんだろうと不思議だったが、どうせ桜花が教えたんだろうなと納得した。
 あの出来事から節目の一週間。放課後に電車の乗って兄の墓参りへ行った。実を言うと彼女はあまり墓参りへは行ってなかった。今日は兄にも謝ろうと思っていた。あんまり来なくてごめんねと。
 兄の墓の前に来て驚いた。先客がいたのだ。先客は墓に手を合わせて、目を瞑っている。そのせいで香織には気づいていない。すぐに目を開けて、近くに立っていた香織に気づいたようで「……ああ」と声を漏らした。
「斎藤さんもいらしてたんですか」
 彼女が先客の斎藤に声を掛けると、彼は「まあね」と返してきた。一週間前の和解がなければこんな会話は出来ない。彼に方本当に迷惑を掛けてしまった。
 斎藤も学校の制服姿でどうやら同じく放課後に来たらしい。
「墓参りはあんまりしてなかったからね。色々と言いたいこともあったし、今日やっと来れる勇気が出来た」
 やはり彼も兄の墓参りにはあまり行っていなかった。理由も多分一緒だ。
「こうして三人揃うのは、本当に久々だね」
「……そうですね」
 本当にそうだ。兄が死んでからはお互いに会わないようにしていたから、揃うはずも無い。けどここでこうして三人揃えた。少し時間はかかったけど、再集合できた。
「雨瀬には悪いことをしたよ。ずっと、ここで一人で待たしちゃったんだから」
 そんな事に責任を感じるところまで、斎藤は香織と似ていた。やはり二人の孤独は同等だった。自分ひとりが不幸なんて思い、周りの人を傷つけていた少し前までの自分が少し恥ずかしくなった。
「大丈夫です。兄はきっとこう言いますよ」
 香織が兄の墓の前に立って、斎藤と並ぶ。ここで自分のどうしようもない身長の低さを感じてしまったが、今はそんなのはどうでもいい。
 ――私の知っているお兄ちゃんなら、多分こう言う。
「よう来たって」
 久しぶりに関西弁で喋った気がする。突然、隣で斎藤は大声を出して笑い出した。この人がここまで大きな声で笑うなんてと驚いてしまったが、何がそんなおかしかったのか。
 まさか……。
「私の関西弁、そこまでおかしいですか?」
 彼は笑いいながら何度も何度も頷きます。恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。
「し、失礼ですよ斎藤さん。私だって兄と同じ関西出身なんですから関西弁だって使います」
 確かにこっちへ引っ越してきて急いで矯正し、人前では使わないようにしていたけれど。
 ひとしきり笑い終えた斎藤が、ごめんごめんと絶対に本気でない謝罪をした。
「君の関西弁ははじめて聞いたから、少し面白かったんだ」
 彼はそう言うと香織の頭に手をポンッと優しくのせた。恥ずかしくなり顔が赤くなる。昔、兄にもよくこうされた事を思い出した。あの優しい手の重みと温もりを、感じられた。
「そうだよな。君は雨瀬の妹だもんな。……口調、お前によく似てるよ」
 斎藤はお墓の方を少し笑いながら見て、そう言った。
 よく似てる。こっちに引っ越して来てからはあまり言われなかった言葉だけど、大阪に住んでいた頃にはよく言われた記憶がある。近所の主婦や、行きつけの店の店員。一度、兄と二人で出かけたとき名前も知らないシンガーソングライターの女性にも言われたことがある。そっくりだねと。
 けどこっちに引越してからは正反対などと言われる方が多かった。それは兄の性格のせいだろう。じゃあもし兄と同じように関西弁で喋れば、またそっくりなどと呼ばれるのか。
 いや、けどやっぱり関西弁は恥ずかしい。
「じゃあ俺はここで失礼するよ。兄妹水入らずで話してくれ」
 妹として兄と話す事はたくさんある。話したいことはもっとある。今日のお墓参りは少し長くなるだろう。けどそれでいい。今まで溜めていた分、今日はたくさん兄と話そう。時間はきっといくらあっても足りないと思う。
 斎藤は香織の頭から手をのけると彼女横を通り過ぎて帰ろうとした。彼女が振り返り、彼を見届けようとしたが、彼は急に立ち止まって墓の方を振り向いた。
 そして、大親友へ別れを告げる。

「じゃあまたな」


第三章【アインシュタインの言葉。未来への追放者】
二〇〇六年十二月

▽Side Historian


 昨晩に確認はしておきましたが、やはり不安なのでもう一度バッグの中身を確かめます。最低限の着替えに、もしもの時の為の保険証のコピー、携帯電話に今年のお正月に神社で買ったお守り。後はトランプやメモ帳など。西条さんから持って来たほうが良いと言われている物は全て入っています。忘れ物は無いようです。
 三泊四日の旅行ですからその分荷物が重くなるのは当然です。私はお気に入りの白いリュックを両肩に提げます。背中にズッシリとした重みが襲い掛かります。
 ポケットにしまった携帯電話を取り出すと朝の七時半だと教えてくれました。待ち合わせは八時ですから今から行けば間に合うでしょう。
 自室からなるべく音をたてないように出ます。もう父は仕事に行ったので家の中には生気というのが感じられません。感じれないだけで、私以外の人間はちゃんといるのですが。
 少し迷いましたが私は母の部屋に行くことにしました。行ってきますくらいはちゃんと言っておきたいです。重い足取りで死んでしまったように静まり返った家の中を歩きます。家の中といえどやはり十二月。寒くてたまりません。
 母の部屋の前に着いた私は入るか入らないかをしばらく考えました。もうこの時間だと母は起きているはずです。だから入っても何の問題も無いと思います。
 小さく二回だけ母の部屋の扉をノックしました。中からの返事はありません。
「お母さん」
 呼びかけても返事はなく、家は相変わらず静まり返っています。
「お母さん。行ってきます」
 挨拶だけすると私は母の部屋に背中を向けました。しばらく何か返事はないかと待っていましたが、やはり何もありませんでした。胸の中で何かがしぼんでいきます。
 玄関で手袋とニット帽を被って似合っているかどうかを靴箱の鏡で確認します。西条さん曰く、私には白色が似合うそうで先日、一緒に服を買いに行った時に彼女に勧められてこの手袋とニット帽を買いました。
 家を出て鍵を閉めて、ポケットに鍵をしまいます。そしてゆっくりとした足取りで歩き出しました。吐く息が白くなって、そして直ぐに目の前から消えていきます。寒さは体を包むようで奥歯が震えてしまいます。
 冬休みになったばかりですが外で見かけるのは寒そうに歩く大人の方ばかりです。たまに部活に向かう学生さんたちを見かけますが、小学生くらいの子供は一切いません。今は温かい布団の中で眠っているんでしょう。少し羨ましいです。
 サラリーマンの方が私の横を走り向けていきました。しきりに腕時計を見ながら走っています。向かう先は私と同じ駅でしょう。会社に遅刻でもしてしまったんでしょうか。
 そういえば父はもう会社に着いた頃でしょうね。私が起きた時にはもう家にいませんでしたから。昨日の夜も帰宅はかなり遅かったようで、私がベッドに入った頃になって帰ってきていました。また残業か何かでしょう。
 朝起きてみたらリビングのテーブルにメモ用紙が置いてあり、そこに「気をつけていってらっしゃい。父より」と書かれていました。私が旅行に行くと言う事は覚えててくれたみたいです。
 母は大丈夫でしょうか。今日から私は家にいませんし、父はどうせ帰りが遅くなるんでしょう。食事はちゃんととるでしょう。家事だってしてくれるでしょう。けどまた暴れ出したりしないでしょうか。その時、誰かが傍にいてあげれるでしょうか。
 一応両親には何かあったらすぐに連絡をしてと頼んでおきました。両親だけじゃ不安なので隣町に住む母方の祖父母にも頼んでおきました。祖父母は私が家にいない間は一日に一回は母の様子を見に来ると約束してくれました。
 何かあったら連絡するから、旅行を楽しんでらっしゃい。祖母は言ってくれました。その言葉が少し重く感じます。
 いつからでしょうか。私は一度立ち止まって、思考を巡らせます。いつからでしょうか。そして、何故でしょうか。いつから、そしてどうして、あの家はあんなに冷たくなってしまったんでしょうか。まるで一年中が冬のような寒さ。一体どこで私たちは「温もり」を忘れてしまったんでしょうか。やはりそれは私が……。
 首を大きく横に振り、その考えを頭から払います。今考えても仕方ないでしょう。今日はとりあえず皆さんと楽しみましょう。そう決意して私は止めていた足を進めます。
 しばらく歩くと駅が見えてきました。駅の改札前で八時に待ち合わせです。時刻は七時五十分。
 通勤ラッシュの時間と言う事で駅にはたくさんの人がいます。多くはサラリーマンやOLの方々ですが、中には制服を着た学生の人たちもいます。
 改札口の近くの柱にもたれ掛っている斎藤さんを見つけました。声をかけようとしたところで、彼も私に気づいて緑の手袋をはめた右手を上げて挨拶をしてきました。
 すぐに彼に駆け寄ります。
「おはようございます。随分と早いんですね」
 この冬になって分かった事がいくつかありまして、その一つは斎藤さんはすごく寒がりだというものです。もう十一月の上旬から「寒い寒い」としきりに愚痴り、ジャンパーを羽織って登校していました。今も分厚そうなジャンパーを羽織って、手袋をして、マフラーまで巻いています。
「俺もついさっき来たところだ。少し間違った」
「間違ったって……何をですか?」
 斎藤さんは私の質問に「疎い」とツッコミをいれました。まったく失礼な人です。知ってましたけど。
「もう二十分遅くても大丈夫だったな。あんたも忘れ物が無いかとか、今確認しといたほうがいい。待ち時間は十分以上ある」
 ここまで言われてようやく彼が言いたいことが分かりました。待ち合わせは八時です。しかし彼はどうせ八時には全員集合は出来ないと言っているんです。理由はいたって単純で、ここに集合するメンバーの中に神崎さんがいるからでしょう。
 あの方は時間を守らない方らしく、西条さんが一緒に出かけようといって待ち合わせをしても決して時間通りには来ないそうです。そういうことを何度か西条さんから聞いたことがあります。
 けど今日は西条さんと一緒に来るといっていました。彼女がついていれば大丈夫ではないでしょうか。
 しかし私の考えは甘かったようで案の定、八時になっても二人は姿を見せませんでした。
「やっぱりですね……」
「あの男は、まったく」
 斎藤さんは欠伸を噛み殺しながら愚痴った後、喉が乾いたと言って近くのコンビニに向かいました。残された私は暇だったので、一ヶ月前、西条さんがこの旅行を待ちかけて来たときのことを思い出します。
 学期末テストが徐々に存在感を示してきたある日、私は放課後に実験室に行きました。以前は用事が無いのに来るなと言っていた彼も、最近は私が来ることに文句を言う事は無くなりました。このことを西条さんに報告したら、これ以上無いというほどの笑顔で良かったねぇと言われました。
 寒くなった途端に斎藤さんは実験室の暗幕カーテンを閉めなくなりました。少しでも日光を室内に入れて温かくしたいんでしょう。どれだけ寒いのが嫌なんでしょうか。
 実験室の入ってまず見えたのは学校から各教室に支給されているストーブの前で座りながら、両手でしっかりとホッカイロを握った斎藤さんの姿でした。室内だというのに制服の上からジャンパーを羽織っています。
 あまりの完全防備に呆気に取られてしまいました。
「……そんなに寒いならここに来なきゃいいでしょう」
 そう声をかけても彼は口では答えず、首を横に振ります。それはダメだということでしょう。
「喋ってください。喋るのと寒いのは関係ないでしょう」
「……温まることに集中したい」
 意味が分かりません。温まることに集中力は微塵も必要ないはずです。ストーブの前にいればいいだけじゃないですか。まったく、寒がりにも程がありますよ。
 私は近くの椅子を引っ張ってきてそれをストーブの前に置き、そこに座りました。私の正面には今にも震え出しそうな斎藤さんが座っています。
「テスト勉強とかしてますか」
 適当な話題をふってみました。彼は手首を振って、してないと蚊の泣くような声で答えました。
「けど物理には自信がある。それと……」
 すると彼はさっきまで寒さで強張って顔を緩めて、私に笑顔を向けました。咄嗟に私は、ああ、これはきっと意地悪なことを言われるに違いないと察知して、それは見事に的中しました。嬉しくないですけど。
「数学もな」
 ほらやっぱり。
 私が数学が苦手なのは相変わらずです。そりゃそうですよ。もう何年もあの教科には苦しめられてきたんです。それが一夕一朝で得意になんてなるはずがありません。あんな数字の羅列、一生かかっても好きになんかなれないでしょう。
「嫌な人ですね。私だって、日本史と世界史にはとっても、とっても、とぉっても、自信があります」
 そう言い返すと彼はばつの悪そうな顔をしました。私は得意気になって、さっき彼が私に見せたような笑顔を向けます。彼は典型的な理系人間で、日本史や世界史といった文系科目はそこまで得意じゃないのです。
 私は勿論、この二教科は大好きです。愛していると言っても過言じゃありません。
「あんた、嫌な奴だな」
「あなたにだけは言われたくありませんよぉだ」
 しばらくつまらない睨み合いが続きましたが何故か急に恥ずかしくなって、私は目をそらしてしまいました。彼も同じだったようで今は咳をして誤魔化しています。何でいきなり恥ずかしくなんかなったんでしょうか。
 彼がおもむろに席から立ち上がりました。
「おい、何か飲むか?」
 彼はそういうと教卓の上に置かれていたカセットコンロの火を点けて、近くに置いてあったヤカンに水を入れ始めました。
「あっじゃあ、紅茶をお願いします」
 私のお願いに彼は頷いただけでした。
 ここに置いてある紅茶はインスタントのティーパックのものです。それを斎藤さんが自費で購入し、この実験室に置いて私や神崎さんや西条さんに時々振舞っているのです。ですからここで飲む紅茶、或いはコーヒーは斎藤さんの奢りなんです。
 けど彼は一度もそういう事は口にしたことはありません。どちらかといえば彼のほうから飲むかと訊いてくる事が大半です。冬場になってからは毎日のように訊いてくれます。
 ほんの少し前、お返しに何かご馳走しますよと誘ったら、そんなことはしなくてもいいと笑われました。ちなみに西条さん経由でこの事を聞いた神崎さんに「あいつは乙女心っていうのが分かってないんだよ。許しやってね」と謝られました。
 私は別にそんなやましい気持ちなんかありません。
 何時の間にか彼が私の前に紅茶の入った湯気の出ているカップを差し出していました。私は頭を下げて慎重にそれを受け取り、ふぅふぅと息を吹きかけてから一口飲みました。
「おいしいです。ありがとうございます」
「それは良かった」
 彼は彼でインスタントコーヒーを少しずつゆっくりと飲んでいます。
 どうしてか、この後、会話が続かなくなりました。最近こういうことがよくあるんです。十一月の中頃からでしょうか、時々こういう現象が起こるようになりました。どうしてなのかは分かりません。とにかく急に言葉がなくなってしまい、お互いにどうしたら良いのか分からなくなるんです。
 何か会話をと思っても、話題になるようなことが思いつけません。元々私も彼も口下手ですけど、九月の時にはこんなことはありませんでした。
 そのまましばらく静かな時間が流れていた時、実験室の扉が開かれました。
「おっと、お邪魔だったか」
 扉の方を振り返ると神崎さんが学生鞄を片手に立っていました。
「お邪魔なら直ぐにでも撤退するが、どうしたらいいだろう」
 あきらかに斎藤さんをからかっています。
「いいから早く入れ。それから扉を閉めろ。せっかくの空気が逃げちまうだろう」
「相変わらず寒がりだな」
 彼は扉を閉めると学生鞄を教卓の上に置いてた後、私たちの近くに椅子を持ってきて座りました。
「今日は西条さんは一緒じゃないんですか」
 私はこの質問を当たり前のようにしてしまい、ひどく後悔しました。やってしまいました、私。西条さんと神崎さんがこの質問をされるのを嫌がっているのを忘れていました。私はよく西条さんにもこの質問をしてしまい、彼女からいつも一緒な訳じゃないのと叱られます。
 こういう時の反応は神崎さんも同じでした。
「いつも一緒な訳じゃないよ……けど、もう少ししたら来ると思う」
 私と斎藤さんは目を合わせた後、小さく首を傾げました。どうせ来るなら一緒にくれば良いのにと思ったんです。
「今日は大事……いや大事っていうのは大袈裟だな。とにかく二人に話しがあるんだよ」
「何だよ話しって」
 斎藤さんがコーヒーを啜りながら訊くと神崎さんは人差し指を立てて自分の唇に当てました。
「秘密だよ。ひ、み、つ」
「気持ちがわりぃな」
「大丈夫だよ。深刻な話しとかじゃない。予告しておくなら冬休みの事だよ」
 冬休みというと、もう一週間をきった期末テスト後にある長期休暇。私も斎藤さんも補習や追試にかかったことはありませんから、テスト終了後のテスト休みからそのまま冬休みという事になるでしょう。一月の二週目から学校は始まりますから、三週間ほどのお休みです。
 私が色々と考えていると、激しく扉が開きました。私が小さく震えただけで、斎藤さんと神崎さんはもう慣れてしまっているようで、何も反応しませんでした。
「ハッロォ、皆揃ってるねぇ」
 西条さんが何時に無く上機嫌で、そしてそれを表すかのような笑顔で実験室に入ってきました。どうも扉を強く開けるのは癖のようです。直したほうが良いと思うんですけど……。ただ彼女場合は扉を直ぐ閉めたので斎藤さんは文句も言わず、両手でカップを持って手を温めています。
 西条さんは私の横に椅子を置き座りました。やはり笑顔です。
「さてツーちゃんに斎藤君、実はあなたたちに話しがあるのよ」
 あの激しい扉の音に反応しなかった斎藤さんがこの一言には反応しました。飲んでいたコーヒーから顔を上げて、細くした目で西条を見ます。明らかに何かを疑っています。
「いや予感がする」
「大正解だ」
 斎藤さんの予感を神崎さんは首を縦に振って肯定しました。
「馬鹿。不正解よ」
 しかし西条さんは首を横に振って否定しました。この場合、どっちを信用すればいいんでしょうか。けど、さっきからのこの西条さんの笑顔。確かに怪しいです。何か企んでそうで少しだけですが怖さもを感じます。
「えぇとどこから話せば良いかしら……二人とも、私たちの家の事情は知ってるわよね?」
 唐突な質問に私と斎藤さんはよく分からないまま頷きます。西条さんと神崎さんの家庭事情は少しですが知っています。お二人は今、この学校の近所のアパートに住んでいます。お互いに一人暮らし。高校生で一人暮らしというのはとても大人びているように思えます。
 お二人の実家はここから電車で二時間以上かかるところにあるそうです。通学が面倒だからという理由でこっちでアパートを借りて、今もそこに住んでいます。お互いに家は近所で、何か困った時には連携プレーでどうにかしてると聞いています。
 家が近所なら出かける時は一緒に行けばいいじゃないですかと提案した事があります。その時西条さんは毅然として「それじゃ盛り上がらない」と答えくれました。
「あのね、私たちさ冬休みに実家に帰るの。お正月は向こうで過ごそうと思って」
 それは良い事です。やはりお正月はご家族と一緒に過ごすべきでしょう。
「でね、二人も一緒に来ない?」
 彼女の言葉に一瞬、場が凍りました。私も斎藤さんも何を言われているのか理解できなくて、固まってしまい、逆に彼女は彼女で何で私たちが固まっているのか分からないという思いで首をかしげて固まってしまいました。
 唯一動いたのが神崎さんの口でした。さほど大きくもないため息をしましたが、場が静かだったため妙にため息が大きく聞こえました。
「那美、お前は言葉足らずにも程がある」
「あら、そうだった?」
「そうだったよ。まったく……あのな二人とも、固まってないで聞いてくれ。俺たちの実家の近くに旅館があるんだ。そこの経営者の娘さんが俺たちと中学の同級生だったんだ。それでその彼女が俺たちをそこに招待してくれたんだ」
 神崎さんの説明を受けても私たちには状況を理解する事は出来なくて、相変わらず石のままでした。神崎さんが困ったなぁと弱音を吐きます。
 西条さんが勝ち誇ったように「ほぉら、あんたでも無理じゃない」と神崎さんをからかいます。
 この後、神崎さんが更にゆっくりと分かりやすく説明してくれました。何でもその旅館の娘さんは西条さんの大親友らしく、今も毎日のようにメールのやり取りをしてるそうです。そんな彼女から冬休みに旅館に遊びに来ないかという誘いがあり、最初西条さんは断りました。実家の近所の旅館に泊まっても仕方ないと。しかし彼女は次にこう言って来たそうです。
「高校の友達を誘って遊びに来たらいいじゃん。実家の近くでも新しい友達といれば楽しめるかもよ」
 その言葉を聞いた西条さんが感激し、その彼女の誘いを受け、そしてありがたいことにこの「新しい友達」に私と斎藤さんを選んでくれたんです。
 とってもありがたい話ですが、私なんかでいいんでしょうか。もしかしたらご迷惑をかけるも知れないですし……。
 私が色々なことを考えていたら、斎藤さんが口を開きました。
「寒いのか?」
 その質問にこの場にいた彼を除いた三人が「はっ?」と声を漏らし凍りました。
「いやだから、寒いのかって……」
「斎藤君、あなたまさか寒かったらこの話を断るの」
 彼は言いにくそうにしていましたが小声でそうだと答えました。呆れて物が言えない私と西条さんに代わって、神崎さんが彼を責めます。
「あのな確かに俺らの実家は都会じゃない。はっきり言って田舎だ。だから寒いのは当たり前だ。というか、冬なんだから寒いに決まってんだろ」
「オーストラリアは今は真夏だぞ」
「オーストラリアはな。けどここは日本だし、いくらオーストラリアでも冬は寒いわ阿呆」
 神崎さんの言い分が全て正しいです。横で西条さんが小さくため息をつきました。
「寒いわよ。ここよりずっとね」
 その言葉を聞いた瞬間に彼の頬が引きつりました。どれだけ寒いのが嫌なんでしょうか。そりゃあ誰だって寒いのは嫌ですよ。けど彼の場合、異常なほど寒さを嫌がっています。
 彼を真冬のロシアに連れて行ったら発狂でもするんじゃないでしょうか。ちょっと試してみたいですね。
「じゃあ申し訳ないが俺はいけない」
 信じられないと思っていると更に信じられない出来事が続きました。彼の断りをあろうことか、あの西条さんが、すんなりと聞き入れたんです。あの西条さんが、です。
「ああそう、じゃあいいわ。ツーちゃんは行くわよね?」
 私の肩に腕を掛けて西条さんが顔を近づけてきます。笑顔です。けど今は何故か、その笑顔が怖いです。これは「お誘い」でしょうか、それとも「脅迫」でしょうか。私は背中に寒気と身の危険を感知したので、コクリと一度頷きました。
「じゃあ決定ねっ。斎藤君、ツーちゃんは行くみたいよ。あなたは本当に行かないのね?」
 西条さんが彼に揺さぶりをかけますが、とてもじゃありませんが私が行く行かないなんて彼にとっては何の揺さぶりにもならないでしょう。
 しかし予想に反して彼は迷ったようでほんの少しの間黙っていました。私が揺さぶりになったんでしょうか。それは何故でしょうか。分かりませんね。しかしやはり彼は行くとは言いませんでした。
「やっぱり止めとく。寒いのは嫌だ」
 台詞の後半部分には嫌というほどの説得力がありました。
「そう、残念ね」
 私はこの時改めておかしいと感じました。おかしいです。西条さんがまるで反論しません。それどころか斎藤さんに苦言の一つも言いません。いつもの彼女らしくないです。そして何より神崎さんが斎藤さんの反対意見につて何も言ってないんです。
「残念だわぁ」
 西条さんはそう口にしながら椅子から立ち上がって実験室を出ようとしました。しかし扉の手前で足を止めて振り返ったんです。
「そうそうツーちゃん、私たちの地元はね、すっごく綺麗なの……星空が」
 西条さんのこの言葉に一番最初に、そして一番分かりやすく反応したのは他でもない斎藤さんでした。彼は西条さんが星空と言う単語を出した瞬間にコーヒーを飲むのをやめて、扉の前で笑っている西条さんを見ました。
「本当にすっごく綺麗よ。周りに邪魔な建物もないし、空気も綺麗だから星が良く見れるわ。冬場だから空気も澄んでて最高だとお思うわよ。楽しみにしてて。じゃあまた明日」
 言い終わると出て行こうとする西条さんを斎藤さんが「ちょっと待ってっ」と珍しく大声を出して止めました。彼女はその言葉に素直に従い、彼を見て「何?」と訊きました。
 なるほど、そういうことですか。どうりで西条さんがやけに素直だったわけです。
「いや、あのだな……」
 私はあの日、私と彼が生徒指導室で会った時のことを思い出します。彼はあの時、原稿用紙の裏に太陽系を書いていました。その後もたびたび宇宙や星について熱く語ることがありました。彼は星が好きなんです。
 西条さんはこの事を知ってたんでしょう。だからあっさり引き下がった。どうせ星の話を出せば斎藤さんは行くというに決まってます。それを予想して反論しなかったんです。
 やられましたね、斎藤さん。
「あら、もしかして連れてってほしいの?」
 西条さんが悪魔的な笑みを浮かべています。形勢逆転というところでしょうか。
「連れって行ってほしいなら何か言葉があるんじゃないかしら」
 斎藤さんが奥歯を噛み締めます。悔しいんでしょうね。だからさっき素直に行くと言えば良かったんですよ。寒いなんて理由で断るからです。
 彼は隣にいた神崎さんにSOSサインの視線を送りましたが流石の神崎さんも今日は助け舟を出すことはなく彼の視線をかわします。続いて彼は私にもサインを送ってきましたが、今日は私も助ける気になれないのでかわします。
 彼が悔しそうに舌打ちをします。寒いなんて当たり前の理由で西条さんが持ってきてくれたありがたい話しを断るからです。自業自得です。少し反省してください。
「……連れて行って下さい」
 悔しさのあまり俯いて小さな声で彼が言いました。が、そんな事で許してくれるほど西条那美さんという人は甘くないような気がします。
「あら聞こえないわねぇ」
 絶対に聞こえてるはずです。
「連れて行ってくださいっ!」
 彼が声を張り上げると、ふふと西条さんが笑い声を漏らしました。彼から見たら彼女は本当に悪魔のように見えてるでしょうね。
「そこまで言うなら仕方ないわねぇ、特別よ」
 私は今この瞬間、西条さんだけは敵に回しちゃいけないと思いました。彼はカップを強く握り締めたまま俯いています。神崎さんと西条さんはその間に笑顔で親指を立てあっていました。

 そんな事情で私は今駅にいます。西条さんと神崎さんの姿はまだ見えません。たくさんの人が行き交う駅の改札口前。私は一人、ポツンと、まるで置き去りにされたようにそこに立っています。一人だと何故か心のどこかに穴が開いたような、奇妙な喪失感に囚われてしまいます。
 母は朝食をとったでしょうか。いや、その前にちゃんと起きたんでしょうか。まだ眠っているのでしょうか。出て行く前に声はかけました。あの声は母に届いたんでしょうか。それともあの冬の家に一瞬だけ響いただけだったんでしょうか。もう跡形など残ってないんでしょうか。
 父はもう仕事に取り掛かっているんでしょう。頭の中は仕事のことでいっぱいのはずです。その頭の中で、本当にごく僅かでも母や私のことを考えてくれてるんでしょうか。それとも考えてる余裕など無いんでしょうか。
 私はこんな所で何を考えているんでしょうね。今こんな事を考えても仕方ないのに。
「おい」
 声をかけられて我に戻りました。目の前には厚着を着込んだ斎藤さんがコンビニの袋を片手に立っていました。
「どうしたんだよ。何回も声をかけたのに、ずっと上の空だったぞ」
「あぁ、すいません。ちょっと眠くて……」
 下手な言い訳で誤魔化そうとしました。彼は納得できない様子でしたが、それ以上は何も言いませんでした。私の隣に立つと袋から缶コーヒーを取り出して、それを私に差し出してきました。
「眠いんだったら飲め。目が覚める」
「えっでも」
「いいから。俺が飲むつもりでいたんだけど、もういらない。俺にはこれがある」
 彼はそう言うと今度は袋から肉まんを取り出しました。
「俺はこれで十分だ」
 ならお言葉に甘えましょう。私はありがとうございますとお礼を言い、缶を受け取って開けました。缶の開いた口から薄い湯気が出て、甘い香りがしてきました。
 一口飲むと口の中に甘さと温かさが広がります。両手でしっかり缶を握って、手も温めます。とっても気持ち良いです。体も段々と温まってきました。もう一口飲んだとき、私は小さな違和感を感じました。何かおかしくありませんか。
 口の中に広がる甘味。そう、甘味。
 私は驚いて隣にいる彼を見ます。彼は私が見ていることにも気づかずに、ふぅふぅと肉まんに息をかけながらおいしそうに食べています。何より温かいのが嬉しいんでしょう。すごく幸せそうな顔をしています。
 缶を見ると『Cafe Au Lait』と書いてあります。どうしてですか。どうして『BLACK』じゃないんですか。斎藤さん、あなたはいつも実験室でブラックコーヒーをおいしそうに飲んでるじゃないですか。
 本当にあなた自身が飲むつもりでこれを買ってきたんですか。それとも……。
 私が勇気を出してその事を聞こうとし時に、斎藤さんのポケットから着信音が聞こえてきました。最近の流行歌です。彼は特に慌てもせずに携帯を取り出して電話に出ました。
「おい遅いぞ」
 彼は電話に出るなりそう切り出しました。どうやら相手は神崎さんのようです。
「次の電車だな、分かった……うん、もう着いてるよ。死にたがりも一緒だ……寝言は寝て言え、馬鹿」
 彼は馬鹿と言い終ると電話をきりました。
「神崎と西条、もうすぐ来るってよ。次の電車に乗るから先に切符を買っといてくれってさ」
「はあ、そうですか」
「ったく人を待たしておいてあの野郎は……」
 悪態をつきながら彼は券売機へと向かいます。どうやら悪態は神崎さんに向けてのようですけど、何を言われたんでしょうか。電話でも「寝言は寝て言え、馬鹿」という言葉で会話を終えていました。電話口で何かからかわれたんでしょう。
 何を言われたんですかと訊く勇気が何故かわきません。訊いちゃいけないような気がするんです。第六感というやつですよ。
 結局缶コーヒーの件についても訊けず、特に会話の無いまま切符を買ったところで神崎さんと西条さんが到着しました。やはり遅刻の原因は神崎さんのようで彼曰く「朝起きたら、まだ寝とけっていう神様のお告げがあった」とのこと。ただ彼の隣にいた西条さんは「私が家に迎えに行った時、まだパジャマ姿だったのよ」と目くじらをたてていました。
 色々とありましたが何とか出発できそうです。

 
△Side Scientist


 神崎と西条の地元までは電車で二時間半ほどかかり、その間は俺は神崎と、死にたがりは西条と喋り続けていた。神崎に電車の中でしつこいくらいに本当に星が綺麗なのか確認していた。彼はその度に自信に満ち溢れた顔で、ああと答えたがやはり百聞は一見にしかず。この目で見てみないことには不安は拭いきれない。
 電車の中での会話は他愛も無いことだ。最近のテレビ番組やドラマの感想や、友人たちから聞いた面白話に、学校に対する愚痴など。話していて面白くて神崎と笑いあっていたが、やはり心のどこかにしこりが残っている。
 今朝のあいつの様子、絶対におかしい。いつもと何か違う。
「おいどうしたよ」
 神崎と俺は電車の扉の近くに立っていた。楽しく話している最中、神崎が突然会話を中断して、そう訊いてきた。
「えっ、何がだよ」
「お前だよ。意識してんのかしてないのかは知らないけど、ずっとスイサイド・レディの事見てるぞ」
 嘘付けよ。そう否定したくなったが完全否定は出来ない。ずっと見てると言う事は無かったにせよ、知らず知らずのうちに見ていたのは事実だろう。それでも黙ってるのも癪だ。
「見てない」
「ほほぉ無意識か。それは重症だな」
 またこれかよ。イラついて頭を掻いた。最近、神崎はよくこの手のネタで俺をおちょくってくる。この手と言うのはつまり恋愛だ。十一月の半ば頃に実験室で彼がいきなり「お前はスイサイド・レディが好きなのか」と訊いてきたのだ。
 その質問をぶつけられた時、俺自身がどういう反応をしたのかは覚えていない。ただ神崎は固まったと証言してる。恐らく、頭の中が真っ白になったんだろう。こいつはいきなり何を訊くんだと焦ったのかもしれない。
 とにかくそれ以降、俺は妙に死にたがりを意識してしまうようになった。そのせいで時々会話が続かず止まってしまうという現象が多発している。この件に関して神崎に文句をつけたら、それはやっぱりお前が彼女を好きな証拠だろうなどと笑いながら返された。
 さっきだって遅刻の件での謝罪だろうと思っていた電話も、俺が死にたがりと一緒だと言った途端に、なら行かない方が良いかなどと訊いてきた。寝言は寝て言えと返したものの、隣に彼女がいたので相当焦った。
 ふざけるな。俺はお前に言われまるであいつを意識した事なんか無いはずだ。そんな感情は無いはずだ。
 必死にそう否定しても彼は動じることは無かった。
「そうかな、少なくとも俺にはそう見える」
 そう言い張ってきかない。お前の目は腐ってるんだ。そうに違いない。
「お前もいい加減素直になれって。何を照れてるんだか」
「照れてなんか無い。お前こそ西条とはどうなってんだよ」
 この言葉で神崎も少しは動揺するだろうと期待していたが、それはあっさり裏切られた。
「俺のことは別に良いんだよ」
 何て調子のいい奴なんだろう。こいつがこういう奴とは知っていたが、ここまでとは知らなかった。
 彼はガタンッゴトンッとお決まりの音をたてながら揺れる電車の扉にもたれ掛る。電車が揺れるたび、彼も少し揺れて、扉とぶつかる。痛くないのか、おい。
「けどおふざけ無しでどうしたんだ。お前は確かに今日、彼女を意識してるぞ」
 彼は少し離れた座席で隣に並んだ西条と仲良く喋っている死にたがりを顎で差した。俺たちはずっと座りっぱなしで逆に疲れたから立っているのだが、彼女たちは平気なのだろうか。
 西条と話している死にたがり。楽しそうに口元に手を当てて笑っている。いつもと変わった様子はあまり無いようにも見えるが、やはりどこか暗い。そう感じてしまう。ふと彼女と目が合ってしまい、慌てて窓の方を向いた。
「……なあ神崎、今日のあいつ、なんか暗くないか?」
 俺の勘違いかもしれないという不安があるので、からかわれるのを覚悟して訊いてみた。
「スイサイド・レディが?」
 彼は一度死にたがりの方を向いて数秒彼女を見つめた後、俺を見返し手首を振り否定の意を表した。
「俺にはそういう風には見えないぞ」
 こいつの注意力を駆使しても気づかない。やはり俺の勘違いなのだろうか。確かに一緒に話している西条も何か異変を感じてる様子は無い。彼女の性格なら死にたがりの様子がおかしいと気づけば、すぐに問い詰めるだろう。大丈夫なの、何かあったのなどと。
 けど、勘違いとは思えない。絶対に今日のあいつはおかしい。どこか沈んでいる。それを無理して隠している。そう見える。いや、確実にそうしている。
 別に断言できるほどの根拠は無い。あるとすれば勘というやつだ。非科学的すぎて笑う気にもなれない。冷静になれよ、俺。自分を宥めたくなる。
 しかし今朝のあいつの様子は確かにおかしかった。あいつが駅に来た時、俺は手を上げておはようと声をかけようとした。しかし来た彼女の目を見て、言葉を飲み込んでしまったんだ。いつもの目じゃなくて、空ろで焦点があってない、どこを見てるか分からないような目だった。
 その時は驚いたものの心配などはせずに眠いんだろうかと思っただけだ。だからコンビニに行ったついで眠気覚ましを買った。ブラックコーヒーを買おうとしたが、彼女がブラックを飲めないことを思い出してカフェオレにしといた。
 そしてコンビニから帰ってきたときが一番の問題だ。彼女は駅で一人目立っていた。生きてるのか、死んでるのか判断がつかない。そんな状態で彼女はあの目で立っていた。少し怖くなって声を掛けてみたものの、彼女は最初の呼びかけには応えず、何か考えていた。
 正気に戻った彼女が自ら眠たいなどと言ってくれたから、予め彼女に渡す予定だったカフェオレを自分の分だと言い張って渡した。ばれてはいないはずだ。
 とにかく今朝の彼女はおかしかった。神崎と西条が来てからはそうでもないが、それでもどこか暗い。どうしたんだろう。何かあったんだろうか。それならそれで相談してくればいいのに。もしかしたら人に言いたくない事なのか。
 色々と考えていたせいで神崎と話せずにいた。彼は文句を言う事もなく、自分の生まれ育った町へ近づく電車の窓から外を眺めている。風景からはコンクリートの高層ビル等はなくなり、山や田畑ばかりだ。
 十一時を少し過ぎたところでようやく着いた。駅は無人駅かと思うほど静かだったが、古い改札口の横に駅員さんの部屋があり、そこに年老いた男性の駅員さんが立っていた。
 駅を出て見えたのは田んぼ。どこまでも広がる、田畑。今は冬などで何も無いが夏になるとここには稲が青々しく、この地いっぱいに広がっているんだろう。その風景を想像したらどこから蝉の声が聞こえてきた。この寒さの中、夏の象徴が幻聴であれ聞こえてくるとは思わなかった。
「ここから歩きか?」
 隣では神崎が久々に帰ってきた地元の風景を堪能していた。おお懐かしいという声がさっきから何度も聞こえてきている。その隣の西条は深呼吸を繰り返して「やっぱりここの空気は最高」と彼女もまた地元を懐かしんでいた。
 西条の隣の死にたがりは駅から出るなり目の前に広がる風景に感動してか、不動だ。
「歩きなんて無理よ。ここから私たちの泊まる旅館まで徒歩だと一時間以上かかるわ。斎藤君、歩けるの?」
 西条の質問に俺は全力で首を振り否定した。この寒さの中、一時間以上歩くなんて無理難題だ。旅館に着くのが先か、俺が凍るのが先か。そんなデス・ゲームみたいな実験をする気は無い。
「けどおかしいわね。龍也、綾音(あやね)さんは何て言ってた?」
「十一時までには来るって言ってた。けどもう過ぎてるよな。あの女、約束の時間くらい守れねぇのか」
 その綾音という人物が誰かは知らないが、少なくともお前にだけは絶対に言われたくないだろうな。
 俺たちが立っているのは駅と田畑に挟まれた土の細い道だ。車が一台やっと通れる程度の広さ。一体この駅から通学や通勤する人は何人くらいいて、どうやってここまで来るのだろうか。
 そんな事を考えていた時に、左の方から大きな車のクラクションが聞こえてきた。赤いボディのワンボックスカーがこちらに向かって走ってくる。中々速いスピードだ。俺たち四人は急いで駅の中に避難する。その時に神崎が「あの馬鹿っ」と叫んだ。あの馬鹿って誰のことだ?
 車は駅の前で急ブレーキをかけて停車した。あまりにも危ない停まり方に俺たちは言葉を失う。事故を起こしたら横の田んぼに落ちてしまうところだ。
 助手席の扉が内側から開かれた。中からは一人の男の子が出てくる。男の子と言っても俺たちと背丈はあまり変わらない。ただ顔はまだ幼く童顔だ。見た児限り厚着ではない。寒くないのだろうか。
 そして続いて運転席から長身の女性が降りてきた。こちらは明らかに俺たちより年上だ。肩を通り過ぎて胸までの長さの黒髪の長髪に、大きく太い白いフレームのサングラス、口にくわえた火の点いた煙草。見た目では二十代後半に見える。
「綾音さん、お願いですからもっと安全な運転をして下さい。殺す気ですか」
 助手席から降りてきた彼が運転手の彼女に抗議するが、彼女は煙草の白い煙を吐くと堂々と言ってのけた。
「安心しなさい零夜(れいや)君、もし私が殺す気ならあんな運転じゃすまないわよ」
「威張ることか、この馬鹿女」
 神崎が運転手に近づきながら罵倒した。どうやら彼女がさっき言っていた綾音さんのようだ、かなり親しそうに見えるが、どういう関係なのだろう。
 それを訊こうとしたのだが次の瞬間、予想もしていなかった西条の行動に驚き訊き損ねてしまう。彼女は急に走り出すとその勢いのまま、助手席の彼に抱きついた。彼は驚いた様子は見せないものの、顔を赤くして西条から放れようとするが彼女はよほど強く抱きしめているのか中々放れない。
「姉さんっ、放して。痛いですって」
「いいじゃないの。感動の再会よ、少しは楽しませて頂戴」
「お盆に会ったでしょうっ」
 死にたがりが口を開けてその光景を見ている。この二人はこの二人でどういう関係なのだ?
 俺と死にたがりが取り残されている事態に気づいた神崎が抱きしめられている男の子を指差した。
「彼は西条零夜って子だ。俺らの一つ下で、今現在中学三年生の燃える受験生だ」
 神崎がしてくれた彼の紹介の後半部分は耳に入っても、頭に入ってこなかった。西条零夜……。それってまさか、そう言う事なのか。
 確認すために神崎に目で訊くと、彼は小さく一つ頷くと、そうだと切り出した。
「そうだ。お前の想像通り、彼は那美の弟だよ」
 開いた口が塞がらないとはよく言ったものだ。俺は何ともないのだが、死にたがりは本当に驚いているようでピンポン玉が入りそうなくらいの口をそのままにして西条と零夜君のやり取りを見ている。
「お前、あいつに弟がいるって事は……」
 訊くと彼女は無意味に口をパクパクさせながらこっちを向いた。
「し、知ってましたけど、私の想像と少し違っていたもので……」
 彼女がどういう想像をしていたのか知らないが、とりあえず彼女は弟の存在より、自身の想像と現実とのギャップに驚いているようだ。俺の場合は存在の方に驚いている。よく考えたら神崎も西条も、あまり家族構成は聞いていない。
 じゃあ、この運転手の女性は誰だ?
「神崎、そこの方は誰だ?」
「この馬鹿女は気にしないで――」
 気にしないでいい、そう言おうとしたんであろう神崎の口を、運転手の女性が彼の後ろに回って塞いだ。彼が抗議をするが口を塞がれているので何を言ってるかは聞き取れない。
 彼女は神崎の耳元に煙草をくわえた口をもっていく。
「気にしないでいいですって。あら、可愛い弟とその友達のために車を走らせた心優しいお姉様に、そんな口をきくのかしら?」
 声自体は綺麗で優しい女性の声であるが、神崎は凍っている。そりゃそうだ、今にも煙草が耳に当たりそうなのだから。神崎を助けてやりたいが、そんなことが出来る雰囲気ではない。今は彼女に近づくのも勇気のいることだ。
 彼女は煙草の煙を神崎に向かって吐くと俺と死にたがりを見た。
「始めまして。あなたたちのことはよく那美から聞いてるわ。私は神崎綾音、この馬鹿弟の美しきお姉様よ。職業はフリーのカメラマン。宜しくね」
 彼女はとんでもない自己紹介を終えると素早く神崎を解放し、手をポケットの中に突っ込んで中から白い薄い最新機種のデジタルカメラを取り出すと、目にも止まらぬ速さで俺と死にたがりを撮った。フラッシュのせいで目を瞑ってしまったかもしれない。
 それでも彼女は上機嫌だ。デジタルカメラを片手に微笑んでいる。
「いいショットだわ」
 そしてデジタルカメラを持っている手を器用にピストルのようにして、バンッと叫ぶ。その際にくわえていた煙草が地面に落ちた。
2008/07/30(Wed)22:12:17 公開 / コーヒーCUP
http://yaplog.jp/gothoc/
■この作品の著作権はコーヒーCUPさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 第三章へはいりました。第二章では「友情」をテーマにしたつもりです。伝えきれたかは知りませんけど、一応はそうなのです。第三章は「家族」ですね。故に新キャラたちも家族関係です。
 自分の脳内では第三章は『未来の章 上』といったところです。メインは死にたがりこと月宮です。ですが、このい章に限っては彼女より西条姉弟の方が目立つかもしれません。
 また長くなるかもしれませんが、気長にお付き合いください。お願いします。
苦情・指摘・感想・アドバイスなどを書いてください。
この作品に対する感想 - 昇順
感想記事の投稿は現在ありません。
名前 E-Mail 文章感想 簡易感想
簡易感想をラジオボタンで選択した場合、コメント欄の本文は無視され、選んだ定型文(0pt)が投稿されます。

この作品の投稿者 及び 運営スタッフ用編集口
スタッフ用:
投稿者用: 編集 削除