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『今日も天使<セラフ>はやさしく笑う  序幕〜第二章4話』 作者:祠堂 崇 / リアル・現代 ファンタジー
全角51530.5文字
容量103061 bytes
原稿用紙約167.8枚
姫宮朱音は極々普通に生きていた。ドジで間抜けな幼馴染と、口煩いヤツやのほほんとした姉と暮らす学園生活は、死ぬまで変わらず終わるものと信じていた――幼馴染の非日常の告白。それを受ける、その日までは……。





 ―――――――神様。

 創世の神様。

 慈悲なる神様。

 どうか選ばせて下さい。

 せめて選ばせて下さい。

 アナタに許して欲しい。

 この身が生くることを。

 アナタに赦して欲しい。

 路に迷う成れの果てを。

 神様。

 どうか選ばせて下さい。

 せめて選ばせて下さい。

 たとえそれが、




 『死』と『死』という、悲劇めいた選択だとしても―――――――。









 序幕     闇姫と異常の通話内容





『……朱音(あかね)か』
 公衆電話からの電話なのに、確認もせずそう切り出される。
 間違い電話の可能性を覆す、よく知る少女の声が聴こえた。
『選ぶ気に、なったのか』
 妙に男口調の少女の一言に、青年は言葉を考えられなくて、ただ立っていた。
『……正直、君がどちらを選んでも誰も君を憎む者は居ない。そう思っている』
 お互いに敵でもあり、友達でもある、二人。
 交わされる言葉は徹頭徹尾、非日常。
 故に、青年は言葉を発せられずにいる。
『朱音。君が選ぶんだ。他でもない、君が』
 その声には、いつにない躊躇いの色が感じられる。
 無理もない。この少女は今、残酷な選択肢を突きつけているのだ。
 NOと答えれば、親友を裏切る。
 YESと答えれば、彼女を裏切る。
 結局はどちらかを敵に回さなければならない。
 しかも、
『……朱音』
 やめろ。
 そう心で叫ぶ。
 判っているんだ。
 どちらの少女も、青年にとっての悪ではないからだ。
 この親友が敵なのは彼女で、彼女が敵なのはこの親友なだけ。
 どちらを、捨てられる?
 どちらを、裏切れる?
 そんなの、選べるはずがないのに。
 残酷に、少女の声が現実へ引き戻す。
『朱音。君は曖昧すぎる。曖昧で、中途で、不完全。それは日常では「普通」という言葉にして強みを望めるが、非日常では邪魔なだけの足枷でしかない。いざという選択に迷い、戸惑ってしまう。立ち止まってしまう』
 今の、青年のように。
『朱音。僕は、絶対に君を裏切らない。たとえ君に裏切られても、僕は絶対に君を憎まない。約束するのではなく、ずっと前から確信していたことだ』
 その言葉に、彼を誘導するような気配は一切無い。
 本当にどちらを選んでも、誰も憎まない。
 そう、この少女は言っているのだ。
 判ってはいる。
 判ってはいるのに。
 言葉が、出ない。
 いっそのことどちらかが悪なら斬り捨てることも出来たのに。
『朱音……いい加減にしろ』
 不意に、少女の声に怒気が孕まれた。
『そんなことだから、君はあの子を傷つけたんだ! 判っているのか!!』
 親友として=A怒声を叫ばせる。
『選べ朱音! 選ばないという第三の選択肢など無い! 僕と共に来るか! ヒナと共に僕を殺すか! どちらかだけだ! なのに……何故選ばない!?』
 選ぶことに、青年は苦しみなど無い。
 だから選べないのではなく、選ばない。
 それは悉(ことごと)く、周りの人々を傷つけた。
 何もかもがみんな曖昧で、
 どうしようもなく中途で、
 最低すぎる程に不完全で、
 だから、傷つけた。
 自分はなんという、残酷な生き物か。
『頼む、朱音。選んでくれ。どちらも犠牲になどしないでくれ……朱音』
 何度も何度も名を呼ぶ少女。既にその声には悲痛だけが混じり合っている。
『僕は、どちらも選ばれずに死ぬぐらいなら、君に捨てられたほうがマシだ』
「お前っ……」
『勘違いするな、朱音。僕は闇姫(ディーヴァ)だ。総ての代行者を根絶やしにすることが、僕の存在意義だ。それ以上でも、それ以下でもない』
 途端に、声色は寒気を覚えるほどに落ち着く。
 今まで、一度だって聴いたことのない、親友の非日常の声。
『だから、僕は絶対にヒナを赦さない。本当は、ヒナを殺すなんて嫌なんだ。僕にとっても可愛い妹のような奴だから。死なせたくなんかない。むしろ僕が殺すなんて……考えただけでも怖気が奔る。吐き気だってする。最悪だ』
 それでも、と少女は嘆きを殺して告げる。
『それでも僕はヒナを殺さなければいけないんだ。ヒナも、他の代行者も一人残らず殺し尽くさなければならない。そう、運命付けられているんだ。僕は』
 やめろ。
 そう、言葉が出そうになる。
 少女の口から『殺す』なんて言葉が出ることに、こっちこそ吐き気がする。
「なんでだよ……」青年は搾り出すように口を開く。「それしか無いのかよ……俺に、お前かヒナを死なせろっていうのかよ……他に道は無いのかよ……!!」
 押し殺してはいたが、その声は静かな廊下に響き、通りすがりの患者らしき往来がこちらを見て、すぐに視線を離してゆく。
「最低だって、判ってるよ……酷い我が儘言ってるって……だけど、あんまりじゃねぇか……俺は本当に、本当に……二人とも……っ」
 言っていることはどこまでも稚拙、しかしどこまでも純粋に訴える。
 永劫にも近く感じられる無言の後に、少女の笑う気配が小さく聴こえた。
『……ああ、やっぱり僕とヒナを選ぶ人間が、君で良かった』
 ほっとしたような、哀しげな声。
『君だから、僕も全力で君に選択をさせられるんだ……自覚が無かったのか?』
 くすくすと耳朶を叩く笑い声が、哀しい。
 引きとめようと、何かを言葉にしようと、必死に青年は考える。
 考えて、
 考えて、
 考え抜いた末に出た言葉は、
「……、っ」
 何一つ、無い。
 故に、結果は当然のように青年を地獄へ貶める。
『今夜十時、水伽橋(みとぎばし)で待っている』
「……!」
『賀上洋介(かがみ ようすけ)の禍喰(シャッテン)の残滓を使って、ヒナとそこで会う手配になっているんだ。約束の時間が今夜十時なんだが……あいつの事だ、絶対に遅れるだろうな』
 薄く笑いながら非日常を謳歌する少女に、青年も笑った。
 そうだ、どうせアイツは遅れるだろうよ。
 笑いたかったのに、それを言葉にしたら、泣いてしまいそうだった。
『だから、それが君にとって最後の選択だ。十時までに来ればヒナとの戦闘を中止し君を連れてゆく。一秒でも遅れてヒナが先に着たら、僕はヒナを殺す』
 相も変わらない、無情な二択。
 いっそ絶望に駆られたい。
 そう思考を働かせる馬鹿な青年を、少女は『でも、』と救った。
『もし僕を選ぶなら、全力で僕が君を護ってみせる』
 その時――、
 通話が切れる直前の最後の一言で青年は気付く。
『もしヒナを選ぶなら、全力で君が僕を殺してくれ』
 きっと、と続いた後の言葉は、
 明確なまでに非日常なのに、発する声の色が親友のままだった。

『きっと、僕には最後の最後まで君だけは殺せないだろうからな』










 Chapter.@     予兆の殺される日に





「―――――――しら……?」
「……、っん」
 静謐な自室のベッドで姫宮朱音(ひめみや あかね)は目を覚ました。目覚まし時計は六時半過ぎ。
「朱音ぇ、起きてるのかしらぁ!?」
 階下から聴こえるその声は姉のものだ。遅刻を注意されているのではなく、いつも起きるはずの六時に起きれなかったからだ。
 長年の相棒が沈黙に徹する答えは簡単。
「……ぁ、やっべ……スイッチ……」
 いつも使っている目覚まし時計は六時にセットすると午後の六時にも鳴ってしまう古いタイプのもののため、オフにしたのをすっかり忘れていた。
 脱力するように顔を枕に埋める。脳髄にこびり付く眠気を引き剥がすように、少し勢い良く体を起こした。
「朱音ぇ?」
「あーあー起きてるよ」
 部屋から頭だけ出して声を出す。
 制服に着替え、学生鞄を小脇に抱えネクタイを締めながら階段を下りる。
 香ばしいトーストの匂いと目玉焼きの軽い油の香りが立ち込めるリビングに入ると、今まさに出来たての目玉焼きをさらに乗せているフライパン片手の女性が振り向いてほんわかとした笑みを浮かべた。
「珍しく寝坊したのね、どうしたの?」
 シャツと膝下までのスカートというラフな格好を質素なエプロンで飾る姉、姫宮穹沙(ひめみや そらさ)はダイニングキッチンにフライパンを戻しながら話しかけてくる。
 テーブルについた朱音はコーヒーで口腔内を潤してから答えた。
「目覚まし時計を黙らせたままだったの忘れてただけだよ」
「あら、そういえば貴方の時計も随分古いのよね」
 食器を水に浸した穹沙もテーブルに着き、食事を始める。
「買い換える?」
 柔らかな口調で、姉としての危惧を持った言葉が返ってくる。
 数秒考え、すぐに結論を出した。
「いい、いらね。どーせこの時間に起きんのも体が慣れたし」
「そう? 別に贅沢したって貯えはいっぱいあるのよ?」
「姉貴……」朱音は嫌そうに顔をしかめた。「どこに居るかも知らねぇクソ親の金で贅沢? やだやだ吐き気がすんね、なおさら自力でやりたくなった」
 おおっぴらな嫌悪を口にする弟に、姉は少し困惑気味に苦笑した。
 朱音は内心で自分達を産んでおいて蒸発した両親を激しく恨んでいた。
 何ら触れ合うこともなく、大金が入った通帳とこの家を残してあとは姉弟をほっぽった親を、心底。
 顔を見たら、痛覚を持って生まれたことを絶望させながら殺す。
 なんて罵詈雑言を、姉の前で吐露したこともあったぐらいだ。
 嫌な気分になってしまったことを振り払うようにすぐに話題を変える。壁掛け時計を見ながら、
「しかし……六時半かぁ……」
「御免なさいね、起きてると思ったからつい私も起きるの遅れて」
「いいって、八時に起きれば焦るけどよ、六時半なんてねぇ……」
 ゆっくりと朝御飯を食べながら、のんびりと答える。
 さすがに穹沙は困った風に眉根を寄せる。
「そんなこと言わないで。ほら、このままいつものペースで準備なんてしたら、ヒナちゃんが泣くわよ?」
 あー、と朱音は逆に、実に嫌そぉ〜に眉根を寄せる。
 そう。彼がいつもこの時間に起きる理由はたった一つ。隣りの家の幼馴染を起こしにいかなければならないのだ。
 幼馴染の両親は朱音のそれと違って、事故で他界してしまっている。
 そのため、間延びしているがしっかり者の姉が居る朱音と違うその幼馴染は二階建ての一軒家に一人で住んでいるのだ。ある程度の家事能力を持っていればさしたることは無いと御思いだろうが、そのある程度≠ェ出来ないから朱音がこんな時間に起きる羽目になっているのだが、男に起こされるという逆幼馴染シチュエーションに需要があるのかと毎度毎度朱音は疑問で仕方が無い。
「あー、マジでめんどくせぇ〜」
 さっさと食べ終え、朱音は軽く早足で洗面所へ向かい、鏡の前で蛇口を捻る。出てくる水を両手で掬って顔をバシャバシャと洗う。
「お弁当、三つ置いておくわね」
「あんがと」
 歯を磨き終え、リビングのテーブルの上にある弁当箱を学生鞄に二つ入れて残りの一つは左手で摘む。
「姉貴、大学行かねーの?」
「今日の講習は昼からなの」
 悠長にも(いつも悠長だが)食器を洗っている穹沙に「ふぅん……」とだけ答えてリビングを出ようとする。
「あ、待ちなさい朱音」
 キキュ、と蛇口の音と共にエプロンで手を拭きながらパタパタとスリッパの音を立ててやってくる。
 何かと思った朱音が振り向くと、穹沙の白魚のような指が朱音のネクタイを摘んだ。
「あん?」
「ほら、せっかくのネクタイなんだからしっかり結びなさい」
 にこにこと笑いネクタイをきちんと締める。第二ボタンまで開けているので襟元が微妙に崩れてくすぐったい朱音は、空いている右手でボタンを閉めた。軽い誘導を受け何気にショックだが、至近距離で微笑む姉には逆らえない。
「ふふ……」
 笑いながら穹沙は二歩ほど退き、朱音の頭からつま先までを品定めのようにゆっくりと見てゆく。
 まあ、理由は分からないでもないのだが、
「……んだよ」
 自分は見慣れているはずの朱音の制服姿に、穹沙は頬を染めて微笑む。
「朱音も大きくなったのね。もう高校生かぁ……」
 感慨に耽るように穹沙が言う。一年前に自分も同じ学園の制服の袖を通していたというのに、何がそんなに面白いのか。
 くすぐったい感覚が胸に生まれたのを払うように踵を返す。
「親みてぇなこと言ってんじゃねぇよ、もう行くかんな」
「はいはい。じゃあ、行ってらっしゃい」
 車に気を付けてねと姉は送った。
 ヒナに言ってやれと弟は答えた。

 一日が、始まる。

 朱音は家を出て歩く。
 歩くといっても、現時点での目的地までは十秒と掛からない。
 門を通り、合鍵をポケットから取り出して扉を開け、中に入る。
 この辺りはオープンハウス郡とも言えるほど同じ用途同じ世帯を狙うような概要で建てられているため、彼女の家と朱音の家の造りはどこか似ている。
 朱音は靴を適当に脱いでリビングに向かう。しん、と静まり返った廊下を抜けると、リビングというよりも居間と表記すべき部屋に出くわした。
 何故なら、部屋のど真ん中にコタツが設置されているからだ。
 いや、実際は腰の低いテーブルに生地の厚い布を乗っけて保温の役目を果たしてはいる。確かに四月とはいえまだ肌寒いが、案ずる事なかれ。このコタツ、年がら年中ここに出てるのだ。冬だろうが夏だろうがお構いなしに設置されたままのコタツに姉が作ってくれた弁当の一つを置く。三つ用意されていたのは、単純に二人分の昼飯用と彼女の朝飯分だ。
「……ってか、まだ寝てんのかあのボケナス」
 鞄を置いて、朱音は階段を上る。突き当たりを右に曲がった奥の木のドアに、『ヒナのへや』と書かれた木製の拙い看板が引っ掛かっている。はずなのだが、どういうつもりで喧嘩を売っているのか、看板は裏返っていてそこに『眠』と表記がされていた。喧嘩上等の眠一文字だ。
 軽くイラっとした朱音は勢い良くドアを開け放った。
 家は玄関に陽が当たるように東に向いているので、逆方角にあるこの部屋はカーテンを閉め切ってしまうと結構な暗さになる。
「おい、ヒナっ」
 簡素な机に訳の分からない猫やら犬やらのプリントシールが貼られており、使いもしないというか、使えそうにないだろうダンベルが床を転がっている。ゴミ箱には大量の丸められたティッシュ、ガラス製の三脚テーブルの上に半年前に放映が開始された恋愛映画と一昔前のアクション映画のレンタルビデオが無造作に積まれているあたり、夜明かしでこれ観て号泣したな、と朱音は悟る。
「起きろヒナ、くぉらっ」
 微妙に娘臭い何かが篭る部屋に入って、ベッドの上にこんもりと膨む布団を揺さぶるではなく、無遠慮にも小突いた。
「起・き・ろ!」
「……ぅ、む……んん」
 呻くような声を出し、もぞもぞと布団の繭が蠢く。ぶっちゃけ動きがキモい。
 そのままほんの少し動いた繭は静止し、やがて……、
「……すぅ……すぅ……すぅ……」
 規則正しい動きに変わ
「ゴォラァァァアアアアアッ!! 俺の前で二度寝たぁいい度胸だテメェ!」
 イラつきが一気に沸点を超えた朱音が容赦無く布団を引き剥がす。
 布団から姿を現す。ティーシャツに黒い短パンという季節感無視の寒々しい格好の少女が、早朝の冷えた外界に晒されて呻いていた。
 背中まで届く、見るだけで分かる程柔らかそうな栗毛の髪がシーツの上で広がり、丸く縮こまる華奢な体躯は俄然儚さを見せ付ける。
 何より、顔立ちはアイドルを場末のホステスにしてしまうほど綺麗なものだ。日本人特有の低い鼻だが、閉じられた睫毛は長く唇は潤んでおり、木目細やかだろう肌はニキビも肌荒れも一切無い。眠れる姫とは、まさにこの事だ。
 ……かなり余計な間が出来てしまった。
「えぇい! 起きろ起きろ起きろこの自業自得ボケぇえ!!」
 酷なまでに躊躇無しの朱音はカーテンを開け放つ。西日しか入れない窓とはいえ、溢れ出す曙光が斜めに切り取られて少女を照らす。
「むぅあう……っ? ぁかねひゃん……ぁにふるのぉ……」
 ソプラノの声は、イっラ〜っとくる脱力感を伴って朱音に刺さる。
 いや、この際だから声色云々は聞かなかったことにしよう。
 だが、
「……ヒナ、」
 瞼の奥を焼く光に負けじと意識を沈ませる少女のこめかみに、
「朱音『ちゃん』はやめろっつっただろうがぁああああああああああ――!!」
 鉄拳制裁。
 ゴンッ!!
「ぎ、にゃああああああああああああああああああああ―――――――っ!?」
 素晴らしき女性主義精神(フェミニスト)どっちらけの割と本気の殴打だった。


「ひおいおっ……! わやひああひゃおひえはいおひっへうえほっ……!?」
「食うのか泣くのか喋るのか一つに絞れ」
 朝、七時過ぎ。正確には長針が十と十五の間を指している。
 女の子座りでコタツに膝から入れ、朝の弁当をかっ喰らう泣きべそ少女。
 箸も何故か順手である。焦った時のこいつの天然は凄まじいまでに本気だ。
「俺のせいじゃねぇよ。たかだか三十分遅れた俺を責めるっつうならたかだか三十分の間に平気で二度寝三度寝おまけに四度寝まで出来るお前はどうだよ」
「わやひあひひおえはああひゃあひゃおひえはいはへあほぉ〜!」
「アヒャアヒャとか言、――おいっ最後にアホっつったかバカヒナぁっ!」
 ほへんあはひー! と米粒をぶちまけながら謝罪する。
 泣きべそから半べそにランクを落として食べる事のみに専念しだした幼馴染、朝生雛菊(あそう ひなぎく)を朱音は頬杖を突いて見つめる。
 家事能力が一切無い上に、寝たら亡霊に取り憑かれたかのように起きれない体たらく。周囲の人が見てない所では壁にぶつかり穴には落ちる歩く核弾頭。
(信じらんねぇよなぁ……)
 コレが学園で有名な『彼女にしたい女子四天王の一人、天使の朝生雛菊』と云われているあの学園の偶像(アイドル)だなんて。
 確かに、愛嬌のある顔立ちに屈託の無い笑みを湛えおまけに裏表さえ皆無と、モテる要素満載の層の深い所で作られたようなヤツではあるが……、
(ドジバカだけど運はやたら強いからなぁ……内虚外実にも程があんだろ)
 朱音はげっそりする。他人にとっては天使でも、十年以上は幼馴染やってる自分には黒い羽と尻尾を生やした種族が弁当を貪っている風景にしか見えない。というか朝生とか完全に名前負けしてるというのはどうなんだ? と何となく大人的幼馴染を想像、輪郭の段階でもう既に諦める朱音に雛菊が空の弁当箱を突き出してきた。見ると、見開いた眼が『全部食べたよっ!』と言っている。
 受け取られた後すぐに雛菊は急いで着替えに自分の部屋へ走る。
 朱音はいつもと変わらぬペースでダイニングキッチンに向かい、弁当箱を洗い始める。スポンジに少量洗剤を加えて泡立て、容器を拭きながらふと思う。
 自分が居なかったらどうするんだ、という呆れ半分な思考から、
(……アイツはいつも、一人)
 穹沙という姉が居る自分より、遥かに孤独だ。いやむしろ親を忌める自分と違い彼女は親の死に目を見てしまっている。
 自然と、目がテレビの横の戸棚の上に立てかけてある写真入れに向く。
 そこには、まだ見ているモノが何かを理解することも覚束無そうな子供を挟み笑っている、朱音にも知らない両親が居た。
「……」
 サー、という音が、寂しくリビングに響いている。
 ゆっくりと手を動かし始め、濯いだ容器を傍らの乾燥機に入れる。
 それからのんびりとした動きでコタツの中に入って頬杖を突いていた。
「……」
 朝の新鮮な空気が美味い。
「……………」
 窓の向こうから小鳥の囀りが聴こえてくる。
「…………………………、」
 ふと、気付いた。
 聴こえてくるのは小鳥の囀り、だけ?
「まさか……っ」
 朱音は立ち上がり、急ぎ足で二階へ駆け上る。
 眠一文字から『ヒナのへや』に回転している看板の向こう。一気に開け放つ。
「……っ、」
 絶句するほかなかった。
 未だに寝巻き姿のまんまの雛菊は、倒れこむようにしてベッドに寝転がり、小さな吐息を立てている。
 壁掛け時計の時刻は七時過ぎ。
 くっ、と。
 朱音が喉を鳴らして口の端を歪めた。
 真の悪の首領的な、噛み締めるような暗い笑みだ。
「くっくくく……、いい度胸だ。面白すぎんぞ学園の天使……!」
 次の瞬間、
 怒りが爆発した。

「上等だぁああっ!! パイルドライバーでベッドのスプリング機能ごとその眠気を綺麗さっぱりブチのめしてやらぁぁあああああ―――――――っ!!」

 今日も、良くも悪くも変わらない。





「わっ、わっ、待ってよぉ〜……!」
 後ろから声がする。
 別に走ってるわけではない。早歩きしてるわけでもない。いつもよりは出が遅かった分、気持ちだけ早めにとか思ってる程度である。気持ちだけである。
「わっ、寸分違わずペース変わってないよぉ朱音ちゃん……!」
 朱音は振り向き、鋭い視線を向けた。
「『ちゃん』はやめろっつぅの!!」
「うわぅ! ごめんなさいぃ!」
 両手で持つ学生鞄を盾にして、ビクッと肩を竦めて雛菊は怖気づく。
 家から学園までは徒歩で二十分の距離だ。加えて八時十分きっかりになると強制的に正門が閉まってしまい、遅れた生徒は生徒会公認の風紀委員の面子に減点と注意を漏れなく貰うことになる。
 無論、朱音は一度だって遅れたことはない。ただ、未遂が多いのだ。他でもないこの転び魔のせいで。
「早くしろよ……いや動きではなく心の内で焦燥せよ。動きを早めるとお前がドジをするのは九年間熟成された認知事項だからな。気持ちだけ走ってくれ」
「むずかしいよぉ〜」
 大股歩きで必死に朱音に尾いてくる雛菊。
 携帯の時刻を確認して、このペースなら大丈夫だなと朱音が思った矢先、
「ぅきゃうっ……!?」
 またやらかしやがった。
 雛菊が電柱にぶつかった。しかも頭を下げて猛烈に謝っている。電柱に。
 なんで道端で静止してる物体にぶつかれるわけ? と朱音は頭が痛くなった。
「――さいごめんなさいホントは小走り混じりにスキップしちゃおうかなとか考えてたらぶつかっちゃったんですホントにごめんなさいぃ!」
「つか、んなこと考えてたんならまず俺に謝れ! 電柱とバトんな行くぞ!」
 あれ? と頭を上げてようやく非生命体に謝ってることに気付いた雛菊を置いてゆこうとする朱音に雛菊が、
「わっ、待ってってば朱音ちゃ〜ん……!」
「だ・か・ら、『ちゃん』はやめろっつぅの!!」
「うわぅ! ごめんなさいぃ!」
 断っておくがデジャヴでは決して無い。本日通算四回目のリピートだった。
 曲がったところで、正門が見えてくる。学園は中等部と高等部で敷地自体が違うが、正門だけは全員同じ正門を通ることになる。桜が吹雪く並木道に入ると、既に朱音と雛菊は正門へ向かう生徒の数の極一部になってしまう。
「ったく……マジで危なかった、お前ももう高校生なんだから自力で起きろよ」
 ねめつけるように視線を向けると、雛菊は解ってなさそうに笑う。
「えへへぇ〜、だってまだ寒いんだもん」
「だったら、あんな寒々しい格好すんなや」
「お布団に入っちゃえばあったかいもん」
「あーもういいよウザいから……」
 諦めるように朱音は肩を落とす。大声を出さない=怒っていないとでも思っているのだろうか、にへら〜っとした笑顔で知らない男子生徒声を掛けられ、大して判ってなさそうに挨拶する雛菊。
「……あ、そうだ。おいヒナ、お前こないだした約束覚えてっか?」
「ふぇ?」
 きょとんとした顔をする雛菊。
「高等部に進級したら、もう『ちゃん』付けしねぇって約束だよ」
「えぇ!? そ、そんなぁ……!」
「何を以って哀しいわけなの!?」
「だって朱音ちゃんは朱音ちゃんだから朱音ちゃんって呼びたいのにぃ!」
「連呼すんな足りねぇモンが入ってる箇所握り潰すぞ……!」
「えぅ〜……! 痛いよ骨に染みるよごめんなさいぃ〜っ!」
 こめかみを鷲掴みし、ギリギリと握力を強める朱音。

「こら! ヒナを虐めるな莫迦者!」

 不意に、後頭部を硬い何かの角で叩かれた。
「痛っ……!」
 振り返ると、そこには記録用ボード片手に一人の少女が立っていた。
 首にかかるかかからないかという微妙な長さの艶めいた黒髪を左右で縛っている。ツインテールと称するには、見た感じかなり無造作な縛り方だ。
 人形のように整った顔立ちだが、目元はまるで怒っているかのようにツンとした眼つきでこちらを睨んでいる。冷たそうというよりも、武士然とした堅そうな空気の持ち主だ。服装の一切にも乱れが無く、背骨の変わりに鉄骨でも入れたような背筋の良い少女は、こめかみを揉んでいる雛菊に一瞥を送ってから溜息混じりに朱音に向き直った。
「まったく……朝からヒナ虐めとはやってくれるな、朱音」
 顔は可愛いのに妙に男口調の少女。
 彼女も雛菊同様に学園四天王の一人『戦姫』と云われている、朱音と雛菊の無二の親友、御門熾織(みかど しおり)である。通称がそんな仰々しいのは、彼女の毅然とした態度と口調が原因ではあるが、ある意味彼女のそんな強さに男女問わず惚れる者が続出しているのだ。
 朱音と雛菊、熾織は中等部から腐れ縁のクラスメイトだ。学園入学当初からこんな感じの上下関係だった二人を根っからの騎士道精神に駆られた熾織が割って一悶着を起こし、雛菊に毒気を抜かれて敢え無く親友化した経緯を持つ。
「ふぇ〜ん、熾織ちゃ〜ん。朱音ちゃんに『ちゃん』付け禁止されたぁ〜」
「朱音……何を今更な事を禁止しているんだ……」
 呆れ半分で熾織は言う。しかしその間でも正門を潜る生徒の服装チェックの視線は飛ぶ。だらしなくズボンを履いている男子生徒を呼び止め、他の風紀委員に名前を書かせている。
「朝からイチャつくな、そんなモノ減点対象にもならんのだぞ」
「誰がこんな国立天然記念物にハマるかよ、その目は節穴か?」
 ちなみにその記念物は素で頬を赤らめながら「えへへぇ〜」とか照れている。
「ふむ……僕の目からすれば、学園で一,二を争う人気者に遠慮なく近づける勇気有る男子生徒は君だけだと思うのだが、その辺りの自覚は無いのか?」
 ぐ、と朱音は押し黙った。
 確かに自分は今、中高一貫の学び舎である霄壤(しょうじょう)学園中で四人と狭められた彼女にしたい女子生徒の二人と、朝っぱらから仲良く喋っているのだ。長い事負の体裁を見ている他、蝶が飛んでいれば間違いなく追いかけそうなお約束を相手に、正直言って朱音には一緒に居ることの重大性がピンと来なかった。
 翌々考えればこの瞬間にも正門を通る男子生徒の大半の(特に朱音を知らない高等部二年以上の男子生徒の)視線が痛い。その色は当然、殺気だ。
「まぁその中には僕も居るようだがな……時に朱音、ヒナ。時間はいいのか? 自分達の新しい教室が何処か判らないまま右往左往されても、僕等は困るぞ」
「いっ……!? やっべ、そうだった! おい急ぐぞヒナ!」
 そうだ。新入生である朱音達は正門を潜って歩き慣れた中等部の道ではなく、滅多な事が無ければ来ない高等部の学区に向かわなければならない。昇降口に貼られているのだろうクラス分けを確認も含め、正門でゆっくりしている新入生など言語道断だ。
「わっ、わっ、待ってよっ!」
 慌てて雛菊も駆け出す。
 その時、熾織はいつも通りの堅さを持った声で呟く。
「うむ、ではまたな」
「?」
 言っていることの意味が理解出来ない雛菊は頭上にでっかいハテナマークを浮かべながら、それでも走る朱音を追いに行った。


「くそっ……! 運が悪すぎるっ! ただでさえ急いでんのにこのボケがドジ発動させた上に生徒の塊に突っ込んで迷子んなりやがって……!」
「ごめんね、ほんとにごめんね朱音ち――」
「朱音、……ち?」
「あ、朱音君っ!!」
 グリン、と獲物を仕留めるかのような目を向けると、学生鞄でガード体勢の雛菊が瞬時に訂正した。ドツくタイミングを失った朱音はネクタイに指を引っ掛け緩め、第二ボタンまで外しながら教室に入る。当然というか、雛菊と共に。
 彼女も同じクラスなのだ。そのせいかさっきから雛菊は嬉しそうな顔をしながら朱音に尾いてくる。
 黒板には新入生への今日の事項が書き記されており、別所に五十音順に席を割り振られた紙が磁石で留まっている。こればっかりは教室の端と端同士である朱音は席に座り、満面の笑みで何か話題を振ろうとしだす雛菊に眼を飛ばして『テメェの席に座れ』と睨む。さすがに意図を察した雛菊がシュン……、とうな垂れながら窓際の席に向かった。
 天使の朝生と同じクラス、ということでテンションも三倍近いであろう生徒が、雛菊が座った途端に群がって質問や自己紹介を始めた。
 何が何やら分かってないのだろう雛菊が笑顔でそれに答える姿を、対角の席から朱音は眺めた。
「ま、学園四天王の一人だかんな。そりゃ質問攻めにもなるさ」
 不意に背後から声が掛けられた。
 振り向くと空いている席に座り、こっちに「よっ」と手を上げている男子生徒が居た。
「おー、なんだお前このクラスか」
「おいおいクラス分けちゃんと見とけって……」
 賀上洋介(かがみ ようすけ)。中等部では隣りのクラスだったためそれなりに顔の見知った仲だ。そもそもこの学園での高等部新入生の大半は中等部からの昇進試験合格者だ。必然的に中等部からの繰り上がりが多いので、一年同士の新鮮味はさほど無い。
「あの濁流で荷物持ったまま全部把握出来っか」
「あんなの序の口だろうよ。高等部の購買戦争はもっと凄いぜ」
 彼は結構な情報通で通ってるので、浅く広くではあるが詳しい。
「第一さぁ、あの天使の朝生と幼馴染ってだけでもお前男に背中向けられない立場に居るんだぜ? その上弁当も一緒だって聞くし……でも付き合ってはいないんだろ?」
「当たり前だ。アイツと居るとロクなことが起きねぇ」
 咄嗟に過去がフラッシュバックしてしまった。
 例えば、
 保育所の頃には危な気な男に連れて行かれそうになるのを朱音が助けたとか。
 例えば、
 小学生の頃には朱音と間違えて見知らぬ男子に抱きつき誤解を招いただとか。
 例えば、
 中学生の頃には寄り付く男子の為に朱音がこの距離を離れられずにいるとか。
 こと雛菊絡みの記憶でよかったことが全く無い日々を朱音は送っている。
 加えて、雛菊はそれが嬉しかったり楽しかったりするらしく、未だに朱音を信頼しきっている現状。このまま高等部でもこれが続けばいくらなんでも色々ヤバいのだ。立場とかが。主に朱音のみだけ。
「そぉか? 姫宮っていいよなぁ〜、可愛い幼馴染に、超綺麗なお姉さんまで居て何が不満なわけ? 背中刺そうか?」
「ぶっ!?」思わず朱音は吹いた。「何で俺の姉貴のことも知ってんだよっ!」
「チッチッチ、オレの情報網舐めちゃいけないぜ姫宮。四天王が誕生するまで、この学園のミス霄壤はダントツでお前んとこのお姉さん、姫宮穹沙先輩だったんだぜ? あの人は生ける伝説、まさに女神だったね」
 日向ぼっこを趣味にしてそうな姉の顔を思い出す朱音。確かに彼女がここの学園で理事長の次に偉いとまで言わしめる生徒会会長を務め首席だったことは知っていた。顔だって道で遭う人間の大概が振り向く美貌を持ってはいるが、そこはやっぱり雛菊や熾織と同じく長すぎる期間故にその感覚が朱音には解からない。どこまでいっても大震災を相手に頬に手を当てて、『あらあら』とか言いながら微苦笑してる姿しか思いつかないのだ。
「別に構ってくる分にはいいんだけどなぁ、姉貴はその辺判ってんだけど……アレはただじゃれてくるだけだろ」
「いいじゃん、犬感覚で」
「俺は飼育嫌いなんだよ」
「ふむ。だったら僕が飼ってやっても構わんのだが?」
 頭上から声が掛かって、二人は同時に後方の出入り口のほうを見る。
 そこには、あと数分というギリギリの時間まで仕事をしていたらしい熾織が立っている。思わず朱音の頬が引き攣った。
「……、まさかテメェ、知ってて黙ってやがったな?」
「言ってもどうせリアクションは同じだろうからな、お茶目というヤツだ」
「「マジかよ……っ」」
 朱音と洋介の声が、別々の意味合いを持って発せられた。
 朱音は『高等部でも腐れ縁かよ』という落胆の声だが、洋介にとっては『四天王の二人と同じクラスだぜヒャッホーイ!』という歓喜手前の声だった。
 熾織は少し溜息混じりに片目を閉じ、洋介の方を見た。正確には、その机を。
「時に賀上。悪いが五十音順でそこが僕の席でな、座らせてはくれないか?」
「あ、ああっゴメンゴメン!」
 慌てた風に洋介は跳び退る。そこまでして退かんでもいいだろ、という視線で熾織は一瞥し席に座った。言うまでもないが、背筋が凄くピーンとしている。
「まさかお前の手が回ったってこたぁないよな?」
「いくらなんでもたかが風紀委員の僕がそんなこと出来る訳ないじゃないか。光栄だと思え、例に漏れずヒナもクラスメイトのようだし」
 人の群がりを遠くで見る熾織。熾織も同じレッテルを持ってはいるが、今の洋介のように近寄り難いと思いがちの生徒が多いのだ。眉間に皺寄せてるから常時臨戦態勢なんて云われんだ、と朱音は常々彼女のオーラにそう思う。
「先刻の男子も君の知り合いだろう? 知らない者同士よりは良いだろうに」
「まぁ、そうだけどさぁ……新鮮味無いっつぅか」
「仕方が無い、それがエスカレーター式の通る路だ」
 それとも、と。
 唐突に熾織は表情を翳らせて覗き込んできた。
「それとも、ヒナや僕と一緒はもう、嫌か……?」
 夜色の綺麗な瞳に真っ直ぐ見つめられ、ぐっと朱音は言い淀んだ。
 熾織も昔から雛菊とは別の意味で直球的であり、話していると内心と表情が一致してしまうという男には卑怯な天然を持っている。
 自分のルックスに頓着や自覚が無いのは、存外彼女も同じなのだ。
「……別にそんなことはねぇよ、ただ」
「ただ?」
 朱音は一度天井を見上げ、たっぷり間を置いてから、
「運が悪かった、って……ことだろ。……多分だけどな、多分」
 一瞬きょとんとした熾織は、他人には判らない程小さく、微笑んだ。
「……そうか、なら良かった」
 とだけ言う。どう意味だったのかは分からない。
 わざわざ返すのも目ざといので、朱音も何も答えなかった。
「……、時に朱音」
「あん?」
「ネクタイをきちんと締めろ莫迦者、正門の時に関心していたのにまったく」
 いきなり臨戦態勢に戻っていた。
 三年間親友しててもこいつの正義はよく分からない、と朱音は無視した。





 今日は霄壤学園新学期。つまり入学式である。
 中等部と高等部は学区と評されており、区画そのものが違う。敷地としては霄壤学園として一つに纏められているものの、ほぼ隔絶されているに近い。
 結果として、まだ心の発達も拙い中等部とは違い、生徒会会長率いる高等部学区は、朱音達にはまるで別次元なほど手際良く、そして効率に見合わない程豪勢にイベントが執り行われる。一年前に姉が卒業する際にも、姉曰く『卒業式には、花火が上がるなんて案が一次審査を通っててビックリしたもの』などという効率無視の出来事が起こりかけるような、ぶっとんだ世界なのだ。
 バスケットコート三つ分相当のやたら広い体育館に、格式を思わせる仰々しい幕が掛かっている。文字は筆による見事な三文字、『入学式』。
 高等部在校生、本年度入学生、合わせて総勢五〇〇名。
 綺麗に並べられたパイプ椅子に座り、朱音はじっと校長の長ったらしい演説を聞いていた。椅子に座っているからいいものの、もうかれこれ十五分だ。
 思わず、「ちっ……」と舌打ちをしてしまう。するとすぐ横から溜息が漏れた。
(教師陣の演説が長いのは江戸に火事と喧嘩が華であるのと同じだ、我慢しろ)
 熾織である。五十音順のままの座席なので、朱音の左隣の席から視線一つ寄越さず囁く。
(華だぁ? あれじゃラフレシアだ、集団催眠術も大概にしろっつぅの)
(相変わらず風情の無いことを言うな君は……)
(情緒が無いよりマシだ、空気の読めない奴は嫌われるのが当然だろ)
(確かに、今のところ言っていることの二割程度しか同意出来ない)
(……え、なに? あれ全部聞いてんの? 国宝級の優等生ですね)
 冒頭の『皆さん、お早う御座います』に『……ます』とだけ答えて以来頭の中を空白で埋め尽くしていた朱音が鉄血の武将の本領に久々に驚いていると、ようやっと校長の長すぎる演説が終わり、微かに張り詰めていた空気が緩む。
『続きまして、理事長の演説』
 男の教師がはっきりとした口調で言うと、朱音は片方の眉を吊り上げた。
(あん? ……理事長は中等部の演説担当じゃねぇの?)
 高等部と中等部で唯一その統括を担っているのが、理事長と校長だ。それ以下の教師陣は総て各学区ごとに割り振られているがこの二人は両学区含めても一人ずつしか居らず、そして高等部と中等部が同時に入学式を始めるため、演説は片一方しか聞かない。だから中等部の時も運が悪く校長の方が演説をして、雛菊がつい居眠りしていたのを教師に怒られていたのを思い出す。
 それに首を傾げていると、ああ、と熾織が小さく口を開いた。
(どうも理事長が急用でつい先程来られたらしくてな、中等部での演説はあと一時間も後なんだそうだ。今朝慌てて正門を通っているのを見ている)
(ふぅん……丁度いいからこっちでも演説ってか)
 まあ実際には理事長の演説を何度か聴いているので、朱音は大して時間を気にした風もなく答えた。
 件の理事長、クロト=フェルステンベルクは卒の無い颯爽とした動きで壇上に上がる。ドイツ人のハーフらしい灰銀の髪を短くし、全身を黒いスーツとネクタイ、さらに同色の手袋で包む、いわゆる男装の麗人という風体だ。
 今年で確か二十二歳という若さで理事長を務める実力派で、動作所作の細部まで丁寧で見惚れるものがある。落ち着いた精悍な態度が生徒間でも有名な偉人に当たる。
『皆さん、お早う御座います』
 凛とした声がスピーカーに当てられて、体育館に良く響く。
『春とはいえ未だ肌寒い季節です。風邪を引かぬよう気を引き締め、新たなる学園の始まりに望んで下さい』
 そして、演説がやたら短いことでも有名である。必要事項を含めても、一分掛かったためしがない。
『ようこそ、高等部へ。知と勇と才たる可能性を高め、共に学び合いましょう』
 以上、と理事長が終わりを告げる。
(二十六秒。更新ならず、か)
(君こそどうでも良いところはきっちりカウントを取っているんだな……)
 呆れた囁きが左から来る。
 何気なく、朱音は右を見た。
 どうせ右端に座っている女子生徒は、うとうとしている頃だろう。





「えぅ〜……先生に頭を叩かれたぁ〜」
 泣きながら穹沙の作った弁当を食べる雛菊に、朱音は無視しようとする。
「朱音ちゃんにしか殴られたことないのにぃ〜」
「ご、っぶふ!?」
 盛大に吹いてしまった。生徒の居ない校舎裏の草地だからよかったものの、素でそんなカミングアウトをされるとは思いもよらなかった。
「な、なんつぅこと言ってんですかこの国宝級ボケ!!」
「むぅ、冗談だよ。熾織ちゃんにも二回か三回は頭叩かれてるもん」
「後半はいいとして前半の小悪魔的セリフが凄く腹立つ……!」
 泣きたくなりながら朱音も穹沙の作った弁当を食べている。
 ちなみに生徒の大半はもう帰っている。恐らく学園内で生徒に遭うとしたら、部活の見学で居残っている熱心な生徒だけだ。
 勿論のこと朱音は部活に青春の汗を流すような薄ら寒いことなんてしない。雛菊に至っては論外、マネージャーですら役に立たない可能性大だ。
 というのも、朱音の姉の穹沙が大学で弓道部をやっているため、大体夕方の六時頃まで帰ってこないことが多い。結果として親の居ない朱音と雛菊のために穹沙は昼飯用の弁当を作ることが日課になってしまっているのだ。
 とはいえ『天使』の朝生と一緒に弁当を食べる姿なんて、他の奴には見せられない。ここも穴場とは言い切れないため、どこか人気のない場所は無いかと参観者用パンフレットを開いて朱音は探しながら卵焼きを口に運ぶ。
「朱音ちゃん朱音ちゃん、御飯食べたら今日は帰るの?」
 制服の袖をちょこちょこと引っ張りながら雛菊が訊いてくる。「んー、」と考えながら朱音はパンフレットを閉じた。
「五時頃までに夕飯の買出しだから……家帰んのめんどくせぇ〜」
 朱音は弁当箱に残った御飯粒を食べながら雛菊に答える。
「暇だろ? 繁華街行くからお前も来る?」
 というか、言った時点で彼女の行動など一つしかない。
「うん!」
 嬉しそうに雛菊が大きく頷く。
 まさに犬みたいに尾いてくることは朱音にとって日常なので、軽く頷き返して弁当箱を鞄に入れる。
「まだ十二時過ぎ……たまにはゲーセン行くか、カラオケでもいいし……何かリクエストは?」
 どうせ答えなど分かりきっているのだが、訊いてみた。
 案の定、天使の笑顔を浮かべて雛菊は右腕を高々と挙げて答えた。
「朱音ちゃんが行くとこならどこでもっ!」


 御門熾織は一人、校舎の中を歩いていた。
 風紀委員とはいえ自分も新入生。高等部にはそれこそ委員総会議以外は訪れたことがない。必然的に校内の見回りを兼ねた地理の把握を行っていたのだ。
 最後に回っていた五階のチェックを終わらせ帰ろうとした時、ふと見知った二人組みが正門へ向かうのを発見する。
「あの二人……」
 顔立ちは決して悪くはないことで女子間でも少しは有名な親友と、その幼馴染の栗毛の髪が可憐な少女だ。今までどこかで弁当でも食べていたのだろう、正門へ続く道に入った途端に転ぶ少女に、青年が呆れた風に起こしていた。
「……変わらないな、あの二人は」
 ふっ、と笑みが零れてしまった。和らいでしまった顔を引き締めなおし、階段を下りてゆく。
 人も居なく、どこか寂しさを纏った下駄箱が並んでいる昇降口に辿り着く。
 ふと、思った。
 姫宮朱音という青年と、朝生雛菊という少女。ついさっき見た二人だ。
 三年も長い付き合いをしているが、あの二人が恋人だという話は一向に聞いたことがない。まぁ雛菊の実態を知っているのだから解らない話ではないが、それにしたってあの二人は親しいなと熾織は思う。
(……とても、入り込める風には見えない程に、な)
 はっとする。
 自分が何を考えているのかに気付いた。
 本当に、何を考えているんだろう。あの二人は自分よりも永い時を共に過ごしていた仲だ。そんじょそこらの友達付き合いとは次元が違うのだ。
 小さく、頭を振った。
 それから自分の靴を取ろうとして、視界に白い何かが落ちたのを見た。
「……?」
 視線を落とすと、そこには実にシンプルな白い封筒が落ちている。
 ふむ、と熾織は親友に自慢したくなった。普段から四天王なのが信じられないと言われるほど硬派の自分にも、こうしてラブレターの一つや二つは当たり前なのだ。これでなくては彼女にしたい女子トップフォーの座に瑕が付く。
「って……いやいや、僕は興味が無いというのに」
 一人でツッコミをいれつつ、手紙を拾って綺麗にシールを剥がす。
 うん、断ろう。
 頭の中で、そう呟く。
 それ以外の言葉が見当たらなかった。
 恋愛が苦手ではあった。告白をするという勇気ある行動には感動を覚えるが、その相手が自分であると話は別だ。どうしても、怖い。
 そう、怖いのだ。
 断ることが、ではない。
 もしこれでOKを出してしまったら、彼との繋がりが失われてしまう=B
 それが、怖いのだ。堪らなく怖い。
(……図々しい。僕は一体、何様のつもりで考えているのだ)
 一度目を閉じて深呼吸。その後に手紙を封筒から取り出し、目で追う。
 思いの他、空々しい単語をずらずらと並べるような嫌なタイプの文面ではなかった。シンプルで、短絡的に想いをぶつけてくるだけの、純粋な二行の文。
 一行目は惚れ惚れしいほど簡素に、想いを載せていた。
 二行目は今日の夕方五時に第二近隣公園に来て欲しいというものだった。
 そして最後、手紙の一番隅に、名前が書かれている。
「――、え?」
 思わず、熾織は声に出して驚いていた。
 知っている名前だった。
 それも当然だろう。自分も今朝、その人物に声を掛けているのだから。

 賀上洋介。

 差出人の名は、今日の新しいクラスメイトの名前であった。





 繁華街は事実上、神凪町で一番の買い物スポットとして機能している場所だ。
 アーケード通りや商店地区などといった名称で呼ばれる場所も多く、昼には解らないが夜になれば判る、要は歓楽街になってしまう場所だってある。
 朱音と雛菊はカラオケルームで喉が嗄れるほど歌い、四時半頃には外に出ていた。
「うあ〜……歌いすぎた、喉いてぇ……」
「でも朱音ちゃん、また歌上手くなってたよ」
 コロコロと笑う雛菊を数秒見つめてから、
「ちゃん付けすな」
「あぅ」
 ぺちっ、と額を軽く叩いてやった。
「ねぇねぇ朱音ち、……朱音君。お買い物にいくの?」
「あん? そうだな……」朱音は携帯の時刻を確認して頷く。「ちょっとタイムセールスには早いけど、いいか」
 二人はそれから取り留めの無い話をしながら商店地区へ向かう。
 それは、
 アーケード通りを出た辺りの時だった。
 その時、ふと雛菊が呟いた。
「……なんだか、いつも通りだね」
 朱音は何を言っているんだと言いたげな表情で振り返った。
「そうでもねぇだろ、入学式だぜ? 今日から俺達高校生だぞ」
「うん……そう、だね」
「?」
 珍しく、雛菊の声音が弱々しい。有り余る元気はどこに行ったのかと朱音は怪訝そうな顔を向ける。
「ヒナ? どうかしたのかよ」
 訊くと、雛菊はすぐに笑顔を湛えて首を横に振った。
「なんにもないよ? 大丈夫」
「……、」
 なんとなく、だった。
 その笑みに、どこが寂しげな色が見えた気がした。
「ヒナ――」
 不意に、携帯電話の音が鳴った。
 誰だ話の腰折りやがって、と朱音は舌打ち混じりにポケットから携帯を取り出し通話ボタンを押して耳に当てる。
「はいもしもし……?」
 すると、応答は実に機械的な音だった。
『ツ―――――――、』
「……っ」
 携帯を離すと、画面では通話の状態になっている。着信が切れたと同時に通話ボタンを押したのだと理解する。
 ワン切りとはふざけたやろうだ、と朱音は運の悪さに舌打ちをもう一度し、電源を切った。
 着信音が未だ消えていないことに°C付いたのは、その時だった。
「は……?」
 朱音は声を出していた。
 おかしい。今、自分は電源ボタンを押した。着信音なんて流れるはずがない。
 咄嗟に自分の携帯の画面を見る。着信履歴を見て気付いた。
 そもそも、この携帯に着信は掛かっていない。
 誰だ? と朱音は周りを見た。
 もしかして近くに居る誰かの携帯が鳴ったのかと考えたのだ。雛菊は機械オンチだから持ってないし、きっと他の奴のがどこかで

 ピッ、という音は、近くではっきりと聴こえた。
 音源に視線を戻した。そう、視線を……戻した=B

 雛菊が――知らない携帯電話の画面を覗き込んで立っていた。
 一瞬、朱音は訳が分からなくなる。
 だってこいつは家の電話の留守電のセットの仕方さえ戸惑うような奴だぞ。それでなくたって彼女が携帯を買ってるはずがない。朱音の知らないところで穹沙や熾織が付き添ったにしても、あの雛菊なら真っ先に朱音に自慢ないし、登録を頼みに報告してくるだろうに。
「お前、それどこで――」
 問い質そうと朱音は口を開いていた。どうやらメールだったらしく、画面を正面から見つめていた雛菊の顔を覗いて、
「……っ!」
 ぞっとした。
 雛菊の顔は、朱音が一度だって見たこともない無表情に染まっていた。
 機嫌が悪ければ頬を膨らませる、あの雛菊が。
 横暴が過ぎたらめそめそと泣く、あの雛菊が。
 空気が読めずにとにかく微笑う、あの雛菊が。
 いつだって彼女の表情は、うざったらしいほどに起伏に富んでいたのに。
 目の前に居る雛菊は怒りもせず、悲しみもせず、ましてや笑いもしない。
 機械的に無表情のまま、画面に出ているのだろう文面を見ていた。
「ヒ、ナ……?」
 初めて、朱音は自分の幼馴染が怖いと思った。
 恐る恐る声を掛けると、はっとした顔で雛菊が顔を上げる。
「あ――、ごめんね朱音ちゃん。ちょっと大事な用ができちゃったみたい」
 たはは、と苦笑する雛菊。
 朱音は何も分からずに立っていると、雛菊はその持っている携帯電話に気付いて、慌ててポケットに突っ込む。
「じゃ、じゃあねっ。遅く帰るから晩御飯はいいって穹沙さんに言っておいて」
 その場に立ち尽くしている朱音に対し、その場を一刻も早く抜け出したいと言いたげな雛菊は、振り向きざまに顔だけこちらに向けて言った。
「ばいばい、朱音ちゃん」
 何が、ばいばいだったのか。
 それをもう一度問い質すことも出来ないまま、濃紺の制服姿は人混みに紛れてしまった。
「……」
 朱音はただ一人、ぽつりと雑踏の中で足を止めたまま。





 四月の夕刻はまだ夜が早い。
 既に陽の落ちた第二近隣公園のベンチに座る影が一つ。
 賀上洋介は一人、膝の上で組んだ両手の親指を重ね合わせて弄り時間を待つ。
 この辺りにはアパートや小さなオフィスビルが多く建っているため、さほど往来はない。元より、周りに人が居ては尻込みしてしまいそうだった。
 他でもない、告白を自分はするのだ。
「すまない、待たせたな……」
 心臓の高鳴りが煩いなと思って、緊張しきっていた時だった。
 淡い夕陽の残滓が創る紫煙色の空の下に声が生まれ、洋介は顔を上げた。
 そこには、黒髪を左右で無造作に縛る制服姿の可憐な少女が佇んでいる。
 いつもの『風紀』とプリントされた腕章は無い。視線を下げるとポケットの中に腕章が入っているようだ。どうやら話の本質を理解して外したようだが、
「あ、れ……制服?」
「いや……この公園、僕の家とは逆方向でな。本屋で時間を潰してから来た」
 どこか硬い声色に、洋介はうろたえた。自分は一度帰って気合とばかりにお気に入りの私服に着替えているのが、恥ずかしくなってしまった。
「ご、ごめんっ! 御門の家逆方向なのかっ……オレ知らなくて……!」
「いや、いい」
 目を伏せて首を振り、手で制した。この期に及んで彼女の方が余裕だ。
「それより……用件はこれだな、賀上」
 片目を閉じて御門熾織は訊いてくる。見るとその手には手紙が入っているのだろう封筒がある。かなり切り出し方が唐突だ。早く帰りたいのか、単純にすっぱりと話を通したほうが男らしいと言いたいのか。
 前者だったらどうしようとか思ったが、
「あ――、ああ」
 それを見て、洋介は舞い上がってしまいそうだった気持ちが、少しだけ落ち着いたのを感じてベンチから立ち上がった。
 後者なら、まだ自分にも活路はある。希望はある。
「その、……読んでくれたと思うけど」
 それでも、気を抜くと声が裏返りそうになる。
 荒くなっているかも知れないと呼吸を出来るだけ浅くし、余計に力の入っている腹筋辺りを何とかリラックスさせようとする。
「オレ……ずっと前から、御門のこと好きだったんだ」
 すっと顔を上げる。
 意外と、彼女はじっとこちらを見つめていた。結構真正面だったので、また緊張がこみ上げてくる。
「……っ」
 洋介は一気に腰から折って頭を下げた。
「ど、どうかオレと付き合ってください……!」
 言った。
 全てを出し切ったという感じではなかったが、想いは伝えた。
 砂利の上方に革靴がちらと見えるだけの視界の中で、洋介は言った。
「賀上。きっかけは、なんだったんだ?」
 後頭部から声が降りかかる。洋介は顔を上げたら絶対にどもると察し、その格好のまま答えた。
「……き、きっかけってほどのことは特に無い。ただ、学園に入った頃見かけた時から、可愛いなって思うことはあっただけだった……けど」
 中等部入学式の時。
 あの日、一目惚れした少女は隣りのクラスだった。クラスが違う以上進展はないなと諦めていた。
 でも彼女は一週間後から、平日はいつも会える立場になっていた。
 他でもない彼女が、風紀委員の仕事で正門に立っていたからだ。
「その時から、ずっと気になってたんだっ。顔が可愛いコならいっぱい居たけど、御門のこう、なんていうか……強さ、みたいなのに凄く憧れたんだ」
 強くて、だから凛々しい。常に瞳に光が宿っている姿が、とても綺麗だった。
 女性らしい柔らかな部分で言えば朝生雛菊のほうが良かっただろうけれど、洋介にとっては御門熾織のそんな強さに惹かれたのだ。
「オレ……そんなにルックスも良くないし大した将来も歩けなさそうだけど、」
 もう一度、少しだけ上がってきていた頭を一気に下げる。
「もし良ければでいいです! どうか、オレと付き合ってください!」
 はっきりと、今度は迷い無く言えた。自分でも驚くほどの達成感があった。
 もう、あとは彼女の答え次第だ。
 だからあえて沈黙に徹することにした洋介を見下ろしていた御門熾織は――、

「……すまない」

 ふ、っと。
 体に残っていた緊張が、急速に抜けてゆくのを感じた。
「顔を上げてくれ賀上、顔を見て話がしたい」
 少しだけ目を閉じてその余韻に浸ってから、洋介は顔を上げた。
 表情は相変わらず堅いが、どこか哀しげに御門熾織は表情を曇らせる。
「……先に謝ってしまい、悪かった」
「いいよいいよ……誤解したくなかったし……御門らしい答え方で安心した」
「そうか」
 そう言って安堵の息を洩らす彼女の表情は、少しはにかんでいるようで、こんな子に断られたのは、少し悔しいなと思った。
「あのさ……せめて、ダメだった理由とか、教えてくんない?」
 頬を掻いてそう訊くと、御門熾織はふむ、と薄く笑む。
「今後のリベンジの参考にか?」
「うっ……」
 ぐぅの音も出ない洋介にくすくすと笑い、御門熾織は天を仰いで考える。
「そうだな……うん、君にならはっきり教えても良いかも知れない」
 顔を戻し、どこか覚悟を秘めたような晴れた顔つきで言う。
「僕には、好いている者が居る」

 チリ、

 刹那。
 何かが、そこに在った。
「……」
「……、賀上?」
 問いかけられて、え? と洋介は向き直った。
「まさか、悪いことを言ったか?」
 眉を八の字にして当惑する御門熾織に、うなじの辺りに手を掛けながら洋介は空笑いした。
「あ、いや……意外だなって思って、御門にも好きな奴が居たんだな」
 そう言うと、ちょっと意地悪な言い方だなと自分でも思った。案の定、御門熾織はどこか拗ねたように目を細める。
「僕だって女だぞ? そりゃあ、『僕』だの『君』だのと口にしてはいるが……好きになったら僕だって充分一途になったっていいじゃないか」
「はははっ……ごめんごめん」
 手を振りながら笑う洋介は、脳裏で別の思考を働かせた。
 今のは、なんだったのだろう。
 凄く内面的な何かが、感じられた気がした。
 すっきりとした頭の奥、いやもっと下。胸の奥。どこだか分からない。
 何となく過ぎった何かを振り払うように、洋介は満面の笑みで返す。
「わかった。じゃあ、オレには入り込めないみたいだから」
「ああ……だが、」
 ? と首を傾げる洋介に、今度ははっきりとした微笑を御門熾織は湛えた。
「僕のような男女を好いてくれてありがとう。友達でいいなら、仲良くしよう」
 そう言って、すっと差し伸べられた手。
 あ、と呟いて、友好の握手だと理解した洋介はすぐさまお気に入りのジーンズでも構わずに握っていた汗をゴシゴシと拭き取って、握手をした。
 すべすべとしていて、マシュマロと表現してもおかしくないほど柔らかい、風説通りのひんやりとした女の子の手の平に、自分のを合わせる。
 思ったよりしっかりと力を込めて、確かに握り返してくれた。

 チリ、

「じゃあ、また明日」
 それを区切りにした御門熾織が、踵を返して帰りだす。
 ……あれ?
 洋介は、首を傾げた。
 なんで彼女は帰ろうとしているのだろうか=H
 左手に感触が残っている。
 そこでなんで左手なのかと考え、彼女が左利きなんだと今、初めて知った。
 ……あれ?
 洋介は、疑念にさらに首を傾げる。
 まだ断られたというわけじゃないのに、何故帰るのか=H
 じわり、と。
 何かが広がった。
 それを、もし色で表現できるなら、
 それはきっと、

 どす黒い、闇。

 御門熾織が振り向いていた。
 当然だ。
 帰路を進んでいる彼女の肩に、自分は今手を掛けているのだから。
 感触から肩が細いのが伝わる。
 ああ、少女なんだなと洋介は思う。
 思う。思う思う想う想う想う想う想う想う想う想う想う想う想う……。
 じゅぐり、と。
 黒い色が、染める。それは限りなく澄んでいる水を汚染して広がるように。
 彼女は驚いた顔をしていた。
 当然だ。
 彼女はもう、話は終わったと思っていたのだろうから。
「……何だ? 賀上」
 御門熾織は瞠目して見上げている。
 ああ、至近距離で見る彼女も美しい。しかも仄かに芳香が鼻腔をくすぐる。
 きゅ、と肩い置いていた手に薄く力が篭る。
 それに気付いたのだろう。訝しむ表情で御門熾織が再度訊いてくる。でも、今度は声音にどこか堅いものが戻っていた。
「賀上。放してくれ、少し痛いぞ……」
 痛い?
 ああ。痛い、ね……。
 洋介は彼女の発したその単語を、辞書で引用するように理解させてゆく。
 痛い。痛い。痛い。
 この程度で痛いなんて熾織は¥翌フ子だなぁ。
「――賀上!」
 はっと、洋介は顔を向けた。
 そこには、鮮明な不審と怒りを込めた御門熾織の顔がある。
「……あ、え?」
「賀上。まず手を退けろ、今すぐに!」
 渇を入れるに値するその一言に、脊髄が反応するよりも早く右手をどけた。
 訳が分からずに自分の手を見つめている洋介に御門熾織はさらに眉をひそめ、口を開く。
「なんだ急に、まだ話があるのなら声を掛けてくれれば――」
「なあ、御門ってさぁ、彼氏二人いるっての興味ない?」
 口を半開きにした御門熾織が、固まった。
 手から視線を彼女に戻した洋介は、そう、言ったのだ。
「ほら、御門って学園で四天王の一人やってるぐらい美人なんだからさ、好きって言えば男の一人や二人ついででも寄ってくるんだって、だからさ」
 だから、なんだ?
 洋介は必死に考える。自分が何を言っているのかを、考える。
「なんだ、って……?」
 ほら、ちゃんと説明しないから彼女も面食らってる。
 しっかりと考えて考えて構成を練って創った文面を、口の端に乗せる。
「大丈夫だよ、オレは別に二号でも三号でもいいからさ。な? な? それにその一号になる奴だって初めから感じてくれるほうがいいでしょ? な!?」
 うん、言った。ちゃんと自分の気持ちを言えた=B
 そう思えた。
 はずなのに、
「……賀上」
 返ってくる声は存外に低くて、
 小さな肩はどこか震えていて、
 寒いのかな、と思った疑問は、一瞬で水泡に帰していた。

 パンッ、という乾いた音。
 右頬を焼く熱さと重なって、目の奥でチカチカと光が明滅する。

 頬を張られた。
 脳が理解するのは一秒後だったが、意識のほうが理解するのはかなり遅れた。
 その空白の時間に、
 罵詈雑言が炸裂していた。

「最低だ!! 君がそんな奴だったとは思わなかった! 見損なったぞ!!」

 あ、と怯えから声が漏れる。

「よりにもよって、ついでだと!? 僕の顔はそんな安売りの道具じゃない!」

 え、と疑問符に似た声が出る。

「仕舞いには……仕舞いには一号!? 初めからっ……!?」

 目を白黒させている洋介に津波のように怒りが降りかかる。
 そして、
 激昂した彼女のその一言が、トドメになった。

「朱音は$Sも通わせずに女を抱くような、貴様のような下劣とは違うっ!!」

 静寂が戻る。
 はぁはぁ、と叫びすぎて息を整えている最中の、顔を少しだけ俯かせた御門熾織を、洋介はただ呆然と見つめていた。
 それはすぐに終わる。彼女の言葉が、出てきた人物の名が、リフレインする。
「……あかね……? それって……」
 今度は御門熾織がはっとした顔を洋介に向ける。
 眼が、『言うな』と告げたげに悲壮めいていた。
 その眼が、臆病に光の揺らいでいる瞳が、彼を悪意へと駆り立てる。
「お前の好きな奴ってもしかして、姫宮? は、……はは! マジかよっ」
 賀上洋介という入れ物に、悪意が充ちる。
「なんだよっ……結局は友達付き合いか! あんな奴どこにでも居る――」
「やめろっ!!」
 御門熾織の一喝が、洋介の声を遮った。
 それでも続けてやろうと思った洋介は、
「――っ」
 息を呑んだ。
 今更になって気付く。
 御門熾織が――泣いていた。
 いや、正確には涙ぐんでいて、今にもそれが頬に零れそうだった。
 繰り返される沈黙。
 破ったのは御門熾織だった。
 彼女は何も言わず、睨み続けていた洋介からすぐにでも逃げるように、
 いや、避けるように走っていった。
 洋介は追うこともなく、ただじっと立ち尽くしていた。
 宵はさらに深まる。
 何もかもが空っぽになった頭に生まれた名前を、呟く。
「……ひめみや」
 呼ぶはずの少女の名より、その名前が出たのは、
 何故かは、分からなかった。










 Chapter.A     外れてゆく回線





 格式のあった入学式は本当に一日で終わる。
 翌日にはもう授業が六時限に亘って展開される。
 そんな、有り触れた四時限目の数学の授業中だった。
「……」
 ちらと姫宮朱音は視線を巡らせる。
 窓際最前という隅っこも隅の席に見える、栗毛の長い髪。
 幼馴染であり、もう保育所のころから一緒に居る少女、朝生雛菊。
 結局、昨日のあの携帯はなんだったのかを訊き損ねた。
 あの後帰ってきた姉に尋ねてみたが、逆に小さく驚かれたくらいだ。
 実質訊こうと思えばそのタイミングなんていくらでもあったのだ。それこそ朝弁当を食べてるのを待っている時や登校中、果ては無理矢理時間を作らせることだって不可能ではない。
 ただ、それが可能なほどに親密な間柄だからこそ気付けたのだ。
 訊いてはならない、と。
 そう、実際に何度も携帯について訊こうとは思っていたのだが、一瞬、他人には分からないほど一瞬、何かがそこに出来るのだ。
 朱音にはそれが何かなど理解できている。拒絶だ。
 あの雛菊が朱音に触れて欲しくないという空気を出すのは、年頃の女の子の通らざるを得ない道に差し掛かった日を知られたくなかった時ぐらいである。本人は隠せているつもりらしいが、姫宮家と朝生家の食卓はリンクしているので、姉が無言で赤飯を出したことで既に朱音にはバレバレだったわけだが。
「……」
 何かが、おかしい。
 あんな顔の幼馴染を、生まれて初めて見た。
「――や……姫宮!」
 その時、自分が呼ばれていることに気付いた朱音は顔を戻す。
 数学教師の、額が広くなってしまっている頭部の寂しい中年男性が眼鏡の奥の視線をこちらに向けている。
「え、あ……はい」
 やっべ、と朱音は返事をしたが、どうもこの教師はネチネチとした中身をお持ちのタイプだったようで、
「ふん、君は確か穹沙君の弟らしいが、やはり姉と弟ではつくりが違うみたいだな、そうは思わんか? ん?」
 ぴくり、と朱音は自分の眉が動いたのを感じた。相手が今日初めて会ったばかりの教師じゃなければ張り倒してるつもりだが、
「そうじゃないというなら今私がやっていた問題の解を答えてみたまえ、ん?」
 いよいよまずいと思った。板書されている問題は総て解答が出ている。どうやら教科書の問のどれかについて口頭で説明していたようだが、朱音は弱った。
 周りからも気の毒そうな空気が感じられる。ともあれ数学教師に因縁付けられたくない気持ちは一緒らしく、教えたくても教えれないといった雰囲気だ。
 やべぇな、と朱音は一瞬どうしようかと思考を巡らせていると、
(四角の二番、問3だ)
 すぐ後ろから呟くような声が耳に入った。御門熾織だ。
 謝礼の一言はまず置いといて、すっと顔を上げた。
「二分の一ルート3、です」
 天啓ともいえる一言を述べた人物は厳格で信頼性を分かってくれている。答えではなくどの問題をやっているかだけを教えてくれたのも、朱音なら答えられると知っているだろうからだ。
 結果として正解だったらしく、少しだけ数学教師は顔をしかめた。
「ん、……まあ、正解だ。これからも精進したまえ」
 咳払いをしながら心にも思ってないことを言って板書を再開する数学教師。
 席に着いて浅く息を吐き、首を少しだけ後ろに向けて小声を出す。
(わり、助かった……)
(別に構わない、穹沙さんを気安く下で呼んでいるのが癇に障っただけだ)
 そうか、と朱音は姿勢を戻した。
 そういえば熾織は昔から朱音の姉、姫宮穹沙に憧れているらしく、会う度に柄にも無くドギマギするのが面白い。どうも学生としても女性としても熾織の理想らしく、将来はあの人のようになりたいとか言っていたぐらいだ。
 朱音としては姉信奉者(一人は餌付けに近い)が増えるのは複雑な心境だが、ふと思い出すようにもう一度向き直った。
(あのさ熾織、ちょっと……)
(前を向け莫迦者)
 思いの他堅い声に叱責される。今日の熾織は妙に不機嫌だ。
 大人しく前を向いていると、肩口からぽんと白い何かが机に落ちてくる。
 熾織が紙切れを放ってきたのだ。開くと結構な達筆で、『何だ?』ときた。
 朱音はルーズリーフを一枚切り取り、一行目にシャーペンを走らせる。一度折って後ろに渡す。十数秒後に耳元に紙切れが戻される。それが繰り返された。
 以下、文面による会話はこう続く。
『お前最近、ヒナと遊んだ?』
『ここ数ヶ月間は立派な受験生だったんだぞ、遊んでなんかいられるか』
『あぁもうメンドいから単刀直入に言うよ。あいつが携帯買ったん知ってる?』
『いや、初耳だ』
『姉貴も知らないみたいだったんだけど、昨日あいつ持っててさ』
『それは、むしろ寝耳に水だぞ。穹沙さんが知らないはずがない』
『同感。あいつが一人で携帯買えるはずねぇんだよ』
『保護者の認印は親戚になっている穹沙さんが持っているんだろう?』
『そ、だからあいつの機械音痴に関係なく、買えるはずがないわけだ』
『それは、本当の話か?』
『当たり前だろ、この目で見たからお前に訊いてんだよ』
『だったら本人に訊いたらどうだ? 君が最も訊き易かろうに』
『それが難しくてさぁ。無言の赤飯ぐらいの表現があれば楽なんだけど』
               『↑はどういう意味だ?』
『なんでもない、知らないんなら忘れてくれ』
 ふむ、と小さく最後に頷く声が背中を触れる。
 時刻は十二時半前。
 昼休みまで、あと五分強。





「むぇ?」
 唐突に口火を切った熾織に、雛菊は珍妙な声を発した。
 この学園での昼食方法は三種。券を買って食堂で食べるか、戦国時代化する購買に特攻をかけるか、悠々弁当を食べるか。
 しかも昼食の時間にもグラウンドで遊ぶ生徒も居るため、外で食べる生徒も最近目立つ。中等部の時も屋上で食べていた三人組は、高等部になっても相も変わらないわけであったが。
 件の三人ことメンバーの一人、熾織のそんな一言であった。意外にも『戦姫』らしくない可愛らしいミニ重箱持参の彼女が、そう切り出したのだ。
 いわゆる、核心を。
「携帯を買ったらしいじゃないか」
「え、あ、うん……」
 対人関係は『戦姫』の名の通り、かなりの前陣速攻だった。
 思わず朱音は食事に専念してしまう。
「水臭いな、僕のアドレスも登録してくれ」
「うんっ、あ……」
 雛菊はほんの一瞬嬉しそうに顔を晴らせたが、すぐにシュンと肩を落とした。
「ごめんね熾織ちゃん、家に忘れてきちゃった……」
「む、そうか……それでは――」
 言葉の最中、朱音と視線を合わせてから、
「――仕方が無いな、またの機会に……」
「うん」
 なにやらちびちびと弁当の中身を箸で摘む二人。
「……?」
 朱音は怪訝な顔をした。
 二人の様子がおかしい。
 片や、謎の携帯を持っていてやけに元気の無い雛菊。
 片や、眉間にさらに皺を寄せやけに機嫌の悪い熾織。
 これも他人には気付かないだろうが、どうもそわそわしている風に見える。
 なんだろう、と考えた朱音ははっとする。
 そういえばこうして三人になるのは大分久しぶりだ。
 もしかして合格祝いとかとは別に三人友達水入らずでパーッと遊びたかったとか、そんなことなのだろうか。
(うっわー、なに? もしかして矛先向いてたのって俺な? そりゃあ最近は遊んでいられねぇ身分だったわけだけどさ)
 箸の先をガジガジと噛んで思考を巡らせる。確かに三人だけで遊んだのも、秋頃に受験生としての遊び禁欲の締めとして映画を観に行って以来なのだが。
 沈黙が、重い。
 何か話題を、話題を振らねば、と朱音は勘付かれない程度に視線をあちこちに飛ばし、ふと熾織の二の腕を見て話題を思いついた。
「そういえば熾織ってさ、いつも姉貴のこと見本みたいに言ってたけどよ……なに、じゃあ生徒会に入るつもりなん?」
 『風紀』の腕章を行儀悪く箸で差して訊く。注意しようか迷ったようだが、諦めた風に首を横に振った。
「いや、一年の内は風紀委員で暮らすつもりだ」
「あん? どういうことだ」
「何だ知らんのか君は。穹沙さんも一年の時はクラスの委員長だっただけだぞ」
「あ、そーなんだ」
「穹沙さん曰く、生徒の鑑に成るためには、下積みも必要だということらしい」
「堅実だねぇ、姉貴らしいや」
「古き良き言葉だ」
 朱音は憎まれ口を叩いたのに真顔で頷く熾織。
 その二人をじーっと見ていた雛菊は、ぽつりと呟いた。
「……もうすっかり仲良くなったね、二人とも」
 きょとんと、朱音と熾織は視線を向ける。
「何を藪から棒に……朝っぱらからイチャつける仲に比べれば……」
「だぁかぁらぁ、違うっつってんだろっ」
「そうか? 朝から起こしに来てくれるなんて最高じゃないか」
「んな逆幼馴染効果に需要はありません!」
「そうだよっ、朱音ちゃんってばベッドの上でプロレス技してくるんだよ?」
「なっ……!」
「なに?」
 顔が引き攣る朱音に対し、熾織はピクリと片眉を上げる。
「くんずほぐれつか、やってくれるな朱音……今のは放っておけない発言だ」
「わーっ! わーっ! 局地的な回想で事態を悪化させる発言すんじゃねぇよこのボケヒナっ!」
「うきゃう……っ」
 ヘッドロックを決める朱音。
「痛い痛い痛いよ朱音ちゃんしかもそこ首じゃなくてそこ頭頭頭骨がぁ〜」
「充分仲良いじゃないか」
 我関せずスタイルで呆れた風に熾織は食事を再開する。
「……仲、良すぎるけれどね……」
「は?」
 聞き逃した朱音が顔を向ける。熾織は目を伏せて小さく笑んだ。
「いや、なんでもない」


 一人の青年は見ていた。
 屋上で食べるいくつかのグループの、ある三人組を。
 妙に女っぽい顔つきをした男子生徒が女子生徒の頭を絞め、その栗毛の髪の女子生徒がジタバタともがいている。それを眺め、通称とは微妙にバランスの悪く見える小さな重箱の中身を食べ続ける黒髪を左右で縛った少女も居る。
 青年は、まず女子生徒を見た。
 少女と同じくして四天王などと冠されている綺麗な顔の子だが、青年にはあまりどうでも良かった。
 問題は、残りの二人。
 一人は少女。名は、
「熾織……」
 小さく呟く。
 今日も凛々しくて、迷い無く全力で活きるような空気を醸し出す、そんな子。
 教室でも張り詰めていて、ああして一歩退いた距離で物事を見る、そんな子。
 昨日は失敗したけれど、まだ青年は諦めなかった。
 必ず、手に入れてみせる。
 そしてもう一人は男子生徒。名は、
「……姫宮」
 低く、呟く。
 こちらは完全に、憎悪の色が滲んでいた。
 大して格好いいわけでもないのに、気安く彼女を下の名で呼ぶ、むかつく奴。
 口が悪くて横暴で、女の子を女の子とさえ考えていなさそうな、むかつく奴。
「ちくしょう……」
 そんな言葉が出てくる。
 少女への憧憬の『ちくしょう』と、男子生徒への嫉妬の『ちくしょう』だ。
 神様は卑怯で残酷だ。青年は親指の爪を噛みながらそう思う。
 どうしてあの中に自分を入れてくれなかったのだろう。
 どうしてあんな奴が、女を二人もはべらせて悦に浸ってるような奴が――、
「ちくしょう……」
 今度は、一人だけに向けて呟いていた。
 その相手を強く強く睨みつけて、青年は階段を降りていった。





 放課後。一緒に帰ろうと思ったのだが、
『ごめんね朱音ちゃん、今日も遅くなるから穹沙さんにお願いね。え? 何の用かって? 大丈夫だよ別に朱音ちゃんが思ってそうないかがわしいことじゃないからあたたたたーっ! ごめんなさいごめんなさい変なこと言ってごめんなさい痛い痛い痛い最近こめかみを握撃するパターンが多いよ痛いよぉ〜!』
 といった経緯で雛菊は足早に帰ってしまった。
 最近、本当に最近になって雛菊の行動が分からなくなりはじめている気がする。いや確かにその行動原理を察したことは皆無に近いのだが。
「……避けられてる、とかじゃねぇよなぁ」
 考えてみたが、それはそれでダメージだなぁとか思った自分に朱音は目を見開き慄く。
「い、いやいやいやいやいや待てよマテマテ俺は何を残念がってんだよ喧しい荷物がなくなって久しぶりにゆっくりゆったり帰れるチャンスなのに何俺は落胆とかしちゃってるわけ違う違うほらアレだよいつも居るくせに突然居なくなるから何となく、何とはなく隣りが寂しくなる的な現象が起きてるだけで……」
「何をブツブツと呟いているんだ?」
「どわぅっ!?」
 ひょいと無遠慮に顔を覗き込んでくる熾織。すかさず身を退きつつ視線を逸らす。
「何でも無い、ちょっと俺の中で思考と反射の行き違いがあっただけで……」
「なに?」
 不思議そうに小首を傾げてくる熾織に再度『なんでもない』と言い、朱音は学生鞄を手に取った。
「んだよお前、今日は早いん?」
「ああ、なんでも最近この辺りで通り魔があったらしくてな。って……それは朝の時に先生が言っていただろうが」
「そだっけ」
 目を点にして頭を掻く朱音に熾織は溜息をつく。
「そういうわけだ、久々に三人で一緒に帰ろうではないか」
「あ、わりぃ、ヒナ居ねぇ」
 ん? と熾織は視線を巡らせる。
「居ないのか、どうかしたのか?」
「さぁ……飛んで帰ってった」
「ふむ、そうか」
 どこか残念そうな声を出す。ほらみろお前の奇行を心配なさってるぞ、と朱音は思いつつ、口を開いた。
「なら一緒に帰るか、二人で」
「え……?」
 熾織が瞠目した。
「え、って……夜道に一人が危ないんだろ? だったらいいじゃん」
 何をそんなにも驚いているのか分からないが、そう言うと熾織は逡巡の後にこくりと頷いた。
「あ、ああ……そうだな……二人、で」
「?」
 朝から夕まで変だなと思いつつ、朱音は教室を出た。
 隣りを歩く熾織の俯き加減のそこに、少しだけ、嬉しさを噛み締めるような顔があった。





 朱音と熾織は家路を歩きながら、他愛の無い話をしていた。
 そもそも熾織の性格からして繁華街に行くようなことは滅多に無い。
 道中分かれるべき場所で熾織は拒んだが、通り魔というのはやっぱり危ない。頑なに家まで送ると言い張る朱音に根負けして、今は熾織の家へ向かっていた。
「言っておくが僕の家は古武術の道場だぞ? 知っているだろう」
「そういうもんでもねぇだろ、親友の手助けは素直に取っとけよ」
「う、ん……」
 どこかうろたえたような頷き方をする。
 どうかしたのかと思ったが、熾織はすぐに次の話題に入っていた。
「朱音は高校生になったら、何かしないのか?」
「何かってなにを?」
「部活はともかく、委員会とかやらないのか? 例えば……そう、生徒会とか」
 朱音は少しきょとんとした顔で向く。
「生徒会ぃ〜? なんでまた……」
 実質霄壤学園は偏差値的にも県下では五指に入る。少なくとも危なっかしい雛菊はどうあれ、朱音だって全国模試に名を載せる程度には成績も高いのだ。ちなみに熾織の目標はあくまで生徒会長なので、二人よりも抜きん出ている。
「朱音のような人材は独創性ある企画を創るのにはうってつけだろう。三年は腐れ縁をしている僕が言うのだから間違いない」
「はぁ? かったるくねぇ? それでなくてもお前の風紀委員の仕事手伝って何度忙殺されたと思ってんだよ」
「む、……」
 確かに、中等部とはいえそれなりに大規模なイベントが行われる度に朱音を引きずり回して校内美化や苦情処理などを手伝ってもらっていた熾織は、正直朱音には頭が上がらない。
「一緒にやれば、楽しくなると思っていたのだが、な……」
「やだよメンドくさい。それに生徒会っていうとなんかこう、硬いイメージあるじゃん? お前が五,六人居る感覚を想像したら……いや、恐ろしい……!」
「莫迦者、そういうことじゃない」
「じゃあどういうことだよ」
「……単に、一緒にやれればなんでもいいと、いうことだ……」
「え……?」
 何となく口にした熾織を、朱音は少し驚いて振り向いた。
 問い質されたくないな、と思った熾織は駆け出し、朱音を追い抜く。
「せっかくだ、上がっていってくれ」
 振り向き様に熾織はそう言う。
 朱音が視線を上げると、瓦屋根のそれなりに格式が感じられる屋根があった。


「そこで待っていてくれ、茶を淹れてくる」
 そういって熾織は居間を出てゆく。自分の家なんだから着替えても別にいいだろうに、と朱音は畳敷きの上に学生鞄を置いた。
 それから腰を下ろす前に、ふと居間と襖で隔てられるはずの暗い一室に入った。そこはかつて、朱音や雛菊も数年前まで慕っていた人の部屋だった。
 電気は付けず、居間からの明かりで下半分が照らされている仏壇の前に座る。
 遺影は暗くて見えない。それでも、確かめる必要はなかった。
 朱音と雛菊、そして熾織。三人にとって最も近い出来事で、最も鮮明である、不幸な事故で亡くなられた家族の写真。
 チーン……、
 りんを打ち鳴らし、朱音は沈黙のまま両手を合わせる。
 その時、襖が開く音が静かに染みた。
「あ……すまないな朱音。手を合わせてくれてありがとう、母さんも喜ぶ」
「別に……、親父さんは?」
「今日は遅いようだ、台所に書置きがあったから……」
「そっか」
 ゆっくりと立ち上がり、居間に戻ると腰の低い机に腰を下ろす。御盆に乗せられていた湯呑が目の前に差し出された。
「さんきゅ」
 それを啜りながら、小さく、ぽつりと感慨に耽るように朱音は呟いた。
「あれからもう一年半か……」
「……、ああ」
 熾織も正座で座ると、頷き返した。
「母さんが生きていた頃は、ほぼ毎日のように三人で集まって、莫迦みたいに騒いだな。母さんがおやつを出してくれて、ヒナの分も食べようとする君を僕が止めに入ったり、それを父さんが笑って見てて……本当に、懐かしい」
 最後の方は、どこか声が震えていたように思えた。
「……本当にすまない、朱音」
「んだよ……急に」
「二人には……特にヒナには感謝してるんだ。君達が居なければ僕も父さんもきっと立ち直れなかったに違いない。母さんが死んでからこの家に来なくなったのも、二人とも気を遣ってくれてるんだろう?」
 そうだ。
 三人でいつもこの家に上がりこみ楽しく遊んでいた。その中でも一番嬉しかったのは雛菊のはずだ。そして、熾織の母親である熾乃(しの)さんが亡くなった時、不用意には訪れないようにしようと言い出したのも、同じく雛菊だった。
 避ける気持ちは一切無い。この家で三人が集まってしまうと、何より熾織を哀しい想い出に浸らせてしまう。だからやめたのだ。
「朱音。いずれヒナにも言うが……たまには父さんにも顔を見せてやってくれ。ほとんど顔を見なくなって、父さんも寂しそうだった」
「……平気か?」
「いつまでもぐずぐず言っていられない。泣くのはあの頃にさんざんやった」
「そうか……」
 少しだけ、朱音は安堵の笑みを浮かべた。
「あの時に初めて知ったもんな、ほんとのお前は寂しがり屋で泣き虫だって」
「む、……べ、別に泣き虫ではないぞっ」
「嘘つけ。ヒナにもう泣かないって……強く生きるって約束をした後だって、たまに泣くのを我慢出来なくなった時は俺が慰めてやったんだろーが」
「うっ……」
 頬を赤らめて二の句も継げなくなってしまう熾織の頭に、手を置く。
「別にいいけどな、思い出すのが辛くなったら泣くのが終わるまで傍に居てやるのが俺の役目だ。あいつが、お前が泣いた分を笑うって約束したようにな」
 そのまま、さらさらと細く梳く黒髪をわしゃわしゃと撫でる。熾織は雛菊のようにジタバタと足掻いた。
「わっ! っちょ、わっ……朱音っ」
「そろそろ、その男口調もなんとかしろよな。強く生きるってぇのとその武士みたいな性格は捉え方間違ってっぞ? いつまでもそうだと後悔するかもな」
「こ、後悔って……っ?」
「女らしくしねぇと男出来ねぇってことだ」
「――っ!」
 びくり、と熾織の顔が強張る。何事かと朱音が手を離すと、熾織は数秒の間固まったかと思えば、唐突に口を開いた。
「あ、朱音……」
「……な、なんだよ?」
 思い切って訊こうと思った。

 朱音は、――好いている人は居るのか?

「朱音は、――お、女っぽい顔をしてるな」
「へっ……?」
 自信が無かった、といえば言い訳になる。
 でも……熾織には今の関係が壊れることは、どうしても怖い。
 出てきた言葉は、やっぱり、親友としてのものだった。
「前々から思っていたんだが……朱音はどうにも女の子顔というやつだと僕は思うんだ。名前からして女の子らしいとヒナと話していた頃があるが……最近、特にそう思うぞ?」
「は、はぁ……!?」
 えらく表情が引き攣る朱音。
 それを見て、熾織は楽しいと思えてしまう。
 親友としてからかえるこの立場に居ることが、悲しいほどに楽しい=B
「朱音。これもヒナと話していたのだが、一度女装をやってみる気は無いか?」
 夜色の瞳を輝かせて顔を近づけてくる熾織に、ついに朱音は沸点が超えた。
「て、てめぇ……人が下手に出てりゃ気にしてること言いやがってっ……!」
「ん? なんだ自覚はあったのか。いや、それはそれで返って話が早い」
「結局やらす気かテメェ! 俺はもう絶対に嫌だかんな!」
「……、もう?」
「はっ……!」
「もう、ということは既にやらされているということか? しかしヒナは何も言っていない……あ、まさか、穹沙さんが?」
 ぎくり、と朱音の肩が跳ね上がる。熾織は見逃さなかった。
「ほほぅ、さすがは姉君たる穹沙さんは良く解っているな」
「しっ、したり顔で近づいてくんじゃねぇよ! つーか何着せる気でいるかも怖気が奔るっつぅの……!」
「僕と身長はさほど変わらないから、僕の服でもとりわけ着れるはずだが」
「――っっ!? 別の意味でもそれやばいからっ、マジでやめてください!!」
 何気に色々と危険域に達している自分の発言に気付いていない熾織が首を傾げる。こういう時に限って何故天然モード!? と朱音は壁掛け時計をチラ見、湯呑の中身を一気に飲み干す。まだ冷めているはずがなく、ほぼ熱湯を胃に流し込んで一人我慢大会を終わらせた後、逃げるようにして立ち上がった。
「もっ、もう帰るかんな!? 姉貴が待ってるからっ!」
 なんだか理由づけて逃げ去る敵キャラみたいだなと朱音は何か悔しく廊下を歩く。玄関で靴を履いて引き戸に手を掛けた時、後ろから声がした。
「朱音。……今日は来てくれてありがとう」
「……、」
 一瞬、朱音は引き戸に掛けた手を離す。
「今度の休みにでも、ヒナを連れてまた来い。いつでも僕は待ってるぞ」
 振り返ると、廊下に佇む少女は小さく、判り難いぐらいの微笑を湛えていた。
 朱音はその姿を一瞥し、一度喉の奥で確かめてから口にした。
「……、ああ」
 ガラガラと引き戸が開き、閉まる。ぼんやりとした姿が遠ざかってゆく。
 じっとその姿を見つめていた熾織は静かに玄関に向かい、鍵を閉めた。
 それから、
 とす……、と、引き戸に額を軽くぶつけて、静かに呟いた。
「……僕の莫迦、意気地無し……」
 また、甘んじてしまった。
 また、望みきれなかった。
 完全にとは言わずとも、家族が欠落している子供同士である互いの境遇。
 それを、壊す勇気が、どうしても足りなかった。
 言えなかった、本当は言いたかった言葉は、今も胸に痞えている。
「本当に、すまない……何がいつでも待ってるだ……」
 目を閉じて自嘲気味に口の端を歪め、熾織は一人己を叱責した。
「こんな弱い僕のままじゃ、まだまだ男口調はやめられそうにないな……」





 熾織の家に寄っていた分、道中の空はもう完全に宵の色合いに染まっている。
 まあ男子生徒を狙う通り魔ってのもアホらしいと思う朱音は、いつも以上にゆっくりとした足取りで小さな公園を横切るために入った。
(……今度の土曜にでも、ヒナを連れて熾織ん家に行ってやるか)
 なんだか今日の二人は微妙に空気がおかしかったのを思い出し、朱音はそう決める。どうせだから暇なら姉貴も一緒に連れてくれば、熾織はテンションが上がるはずだろうと一人笑った。
 キィ……、と視界の端でブランコの軋む音を耳にしながら、朱音は公園の向こう側に見える橋を目指した。正式な名前は無いが、河川の上を通るあの大きな橋で遥か昔に哀しい物語が起こったとされており、それ以来地元民の間では『水伽橋』と呼ばれている。熾織の家は朱音や雛菊の住んでいる居住区とは少し離れた河川のこちら側に建っているので、橋を通らなければ熾織の家には辿り着けない。別に遠回りしてもいいが、そんな理由があるわけでも無いし――、
「ん?」
 ふと、何かがひっかかった。
 何だろうと首を捻り、ああそうか、と気付く。何とはなしに気になったのだ。日没も早く通り魔も出るらしいのに、ブランコが軋む音が耳に入ったことに=B
 誰だろう。
 そう思って、右を振り返った。

 思えば、その勘の鋭さは幸運だったのか。
 或いは、その光景がもう不幸だったのか。
 答えは判らない。判る暇さえなかった。

 背後に立っていた姿。
 全身を黒いパーカーとスポーツウェアで隠し、右手に包丁を握った姿。
 振り向いた男子高校生に対し、その人物は兇刃を振り上げた。
 何の躊躇も無く、
 何の容赦も無く、
 一切の時間の猶予を与えてくれることなく、だ。
 あまりにも唐突で刹那すぎる殺意の一撃に、朱音は反射で右腕を上げていた。
 ガスッ!
 鈍い音を立てて、間に割って入った学生鞄に包丁が突き刺さる。
 ノート類を数冊しか入れていないとはいえ皮製のそれなりに硬い鞄なのに、自分も家でよく使っているぐらいの刃渡り四〇センチ近い刃の先端が、鞄を貫通して覗いている。
 間一髪でそれを防げたことなど思考できるはずがなく、朱音は一気に鞄をグルンと回した。中のノートごと刺している包丁も一緒に回転し、黒ずくめの人物の手から包丁が零れる。朱音はそのまま鞄を地面へ放り捨てて退いた。
「んっ、だよ……! いきなり何しやがんだテメェ!!」
 必要以上に大声で怒鳴る。居住区でこれだけの声を発すれば付近の家々で誰かが気付くのだが、生憎とここはその居住区から少し離れた場所である。この公園も周りを木々が覆っていて、救助の類はあまり期待は望めなかった。
 舌打ちし、相手を睨んで姿勢を低める朱音。
 通り魔らしき奇襲者は自分の右手をじっと見下ろしていたが、フードの奥のここからでは視認出来ない顔を地面に落ちている鞄に向け、次に朱音に向けた。
「……、…………、……、……、……………、」
 緊迫した沈黙の中で朱音は気付く。奇襲者が何かをブツブツと呟いている。
 何だ、と朱音が警戒しや矢先、
「ゥオオオオオオオオオオォォォォォォォォオオオオオ―――――――!!」
 いきなり奇襲者が咆えたのだ。低い、男の声。
 朱音が、相手は男だと理解する暇はやっぱり無かった。

 ほんの一秒にも満たない内に、その男の姿が視界の右端にあったからだ=B

「ぁ――」
 声を発することさえその男は赦さなかったらしい。
 握り締められた拳が、滑り込むようにして朱音の腹部に突き刺さった。
「ご、がぁあっ……!?」
 メキメキ、という音が体の奥から聴こえた。腹にめり込んだ拳と連結する男の腕が、朱音の体を地面から離す。くの字に体を折った朱音が呼吸ごと意識を刈り取られる寸前で、男はそのまま地面に朱音を放った。
 襲い掛かる吐き気と、激痛。何が起きたのかさえ解らなかった。
 上体を起こすと、視界の上から何かが振り落とされる気配が耳朶を打つ。
 咄嗟に地面を転がってそれを避けると、物凄く鈍くも強烈な音が響いた。
 視線を向けて、硬直した。
 腰よりも低い位置で、幼児に合わせたのだろうブランコの囲い用の鉄柵が、男の殴打によりグシャリと歪にひしゃげていた。少しへこんだ程度ではない。鉄柵ごと巻き込んでいるのに、男の拳が地面まで突き刺さっているのだ。
 ここへきて、朱音は完全に恐怖を覚えた。
 通り魔などという次元をとうに超え、理解を振り切った虐殺がそこに在った。
「……ん、だよっ……なんだよテメェは!」
 朱音は叫んで立とうとしたが、さっきの一撃で脚が痺れて動けない。
 男はゆらり、と気味悪く頭を揺らし、こちらへゆっくり歩いてくる。
(ち、くしょう……! なんだよっ! ざっけんなよ!? 運が悪いにも程があんだろ! 動けよっ! 俺の躯なんだから、動けよぉお!!)
 焦りながら必死に後ろへ後ずさり、距離を開けようとする。
 無論、その程度で距離を離せるわけがなく、両脚の間に男の左足が突き立つ。
 顔を上げると、包丁など取るに足らないほどの戦慄が込められた拳が、振り上げられている。
 もうだめだ、と。
 朱音が思った。

 その拳が、振り下ろされることはなかった。

「はいはいはいはい見つけたわよぉ!!」
 急き立てるようにして打ち鳴らされる、二度の拍手が鳴る。
 男は振り向かなかった。変わりに自分の右腕を下ろし、視線を向ける。
 その手が、凍っていた。
 正確には痛々しいほど右腕が青く熱を失っており、霜が薄く張り付いている。
「が、あぁぁぁ! あああああああああぁぁぁぁぁ!!」
 苛んでいるのだろう痛みを咆哮で紛らわせ、体ごとやっと振り返る。
 朱音も男の向こうに立っている少女らしき声の主を見る。
 そこには、男と同じくして異常である少女が居た。
 白を基調とした蒼いラインの奔る、ブレザーのような服とスカート。膝上まで伸びる真っ白なニーソックスとスカートの合間に見えている太腿の右脚に、ナイフが収められたベルトが巻かれている。
 髪は染めているわけではなさそうな艶めいた金髪。それを後ろで縛ってポニーにしている。鼻が高くて瞳は蒼く、米人の典型と言えるスレンダーな体躯の少女が、自信ありげに腕を組んでいる。
 別に、その程度ならオタクが喜びそうな外人美少女というだけだった。
 だが既に彼女が異様であることは見て取れる。彼女の周りで風に踊るように、粉雪が舞っているのだから。背中から空色の天使の翼のようなものを生やして、しかもその翼はハリボテではなく、光で出来た透明な翼だったのだから=B
「ハァイ♪ こんな時間に毎度毎度暴れてくれちゃって。おかげでゆっくり眠れやしないわ。レディは野郎と違って睡眠を怠るとすぐ顔に出るものなのよ?」
 流暢な日本語でそう言う謎の少女は、組んでいた腕を解き、右腕を上げた。
「アンタもそろそろ寝る準備しときなさいな、煩いと怒られるわよっ!!」
 刹那、彼女の右腕からシュウシュウと音が鳴る。空気が冷え、冷気による白い煙が舞う。
 ビキビキ! と乾いた音と共にそれは先端が尖った爪のような弾丸を創り出し、少女が右腕を振るったと同時、一気に弾かれる。
 男はガクン! と上半身を不自然なまでに落とし、それを避ける。前進して凶悪な殴打を少女にぶち込もうとした一歩手前で、

「わっ! わっ! 危なぁ〜い!!」

 それは、朱音にとって信じられない声であった。
 何よりも、こんな在り得ない最中で聞くはずがない声。
 誰よりも聴き慣れた、幼馴染の声。

 途端、殴りかかろうとしていた男の横合い。茂みのところから現れた一人の美少女が男にタックルをかましていた。
 がっ、という短い悲鳴と共に男はよろめき、一瞬の迷いの後に逃げるように朱音の脇を過ぎ去り、水伽橋へと走っていってしまう。
「ちょっ……! 退いて邪魔っ!」
 既に二発目の氷の弾丸を準備していた外人少女が憤慨しながら叫んだが、地面に倒れこんでいた美少女は謝罪と一緒に退くが、もう男は居なくなっていた。
「あ……」
 短く、美少女が間抜けな声を出す。頬をひくつかせて外人少女が睨んだ。
「もぉ〜また逃がした! これで何度目!? いい加減にしてくれない!?」
「ふぇっ! ご、ごめんなさいぃ〜」
「あぁもう! クロトさんも倭(やまと)先輩もなんでこんなドンクサいのをアタシに押し付けたわけ!? 信っっっじらんない……!」
「あ、あの……二人は別に悪くないと私は思うのだけれど」
「あったりまえじゃない! ドンクサさすぎるアンタ一人のせいよ!!」
 えぅ、と縮こまる美少女に、イライラしながら叱責する外人少女はこちらに指を差す。
「もういいからさっさと救助活動すれば!? アンタはそれが精一杯よね!」
「あぅ……頑張って救助しますです……」
 うな垂れるようにしてこちらに歩いてくる美少女。
「あのぅ〜大丈夫ですか? 災難でしたねぇ〜」
 ああ、ここにきてこいつはまだ自分が誰を助けたのかに気付いていない。
 真っ白になった頭の中で、朱音は近づいてくる異質の名を呼んだ。
「ヒ、ナ……?」
 え? という瞠目の表情は、
「……、っ!?」
 瞬時に驚愕し、そして――絶望の色に変わっていた。
「あ、かね……ちゃん? な、なんで……っ」
 信じられないと言いたげにこちらを見ている美少女。

 背中から純白の翼を生やしたままの£ゥ生雛菊は、ただただ硬直していた。





 朱音には何が何なのかを理解することが出来なかった。
 親友の家を出、帰る途中の公園。
 突然の奇襲。
 異常すぎる男の常軌を逸した殺戮。
 止めたのもまた、異常。空色の翼の外人少女と、

 同じくして純白の翼を背に負う――幼馴染との邂逅。

 何もかもが在り得ない、非日常。
 だから、理解など出来るはずもない。


「はい、そうです。ここに居ます」
 携帯電話で受け答えをする外人の少女は、朱音の見知った場所へ向かう。
 他でもない、霄壤学園敷地内だ。
 ついてこいという命令に抗うことすら忘れたように、朱音は黙ってそれについてゆく。抗うことがなかったのはきっと、隣りを歩いている雛菊も黙りこくっていたからだろう。
 雛菊も外人少女と同じ見たこともない服を着ている。清楚な雰囲気に清楚な色合いが似合っていて可愛いが、
(……ヒナ)
 朱音は顔に出さないように必死だが、頭の中は今も混乱していた。
 今はもうないが、先ほどまで見えていたあの白い翼のようなものはなんだったのか追及したいが、外人少女に『アタシに訊かないでよ』と言われてしまい、やむなく朱音は霄壤学園の敷地を跨いでいた。
 向かった先は校舎ではなく、理事長の邸宅であった。どういう理屈なのか、この学園では理事長は代々この邸宅で生活することになっている。中高一環の巨大な学び舎であるだけあって、それを統括する理事長にはそれなりに必要な物資や資料、機材などが一箇所で、しかも学園により近い場所のほうが都合がいいからだ。邸宅周辺の敷地を理事区などとも呼んでいる者だっている。
 外人少女は邸宅の玄関にあたる大きな扉を片側だけ開ける。
 すると、広い玄関ホールの真ん中に、一人の青年が立っていた。
 深い藍の髪の利発そうな長身の青年で、彼もやはり白を基調に蒼いラインが彩られたブレザーとネクタイ、下は同色のズボンを履いていた。服を着ていてもどこかスラッとした細身そうな青年である。
「ブリジット、雛菊。お帰り」
「はい……!」
 外人少女は軽く駆け出し、彼の前でピシッと背筋を正す。
「ごめんなさい、先輩……大事な任務にも関わらず、取り逃してしまいました」
 俯き加減で外人少女が言うと、青年は無愛想気味な顔をしかめる。
「お前達にとっては初任務だ、落ち込む必要はない……で、だ」
 すっと、背後に立っていた朱音に視線を向ける。
「彼が目撃者か?」
「あ、はい……連絡したら、クロトさんが連れてきて欲しいって」
「そうか、しかしなんでまた……まあ、いい。ここからは俺が案内するから、ブリジットは応接間に行ってくれ。澪が一人でそこに居るから」
「あ、はいっ。失礼します」
 ピシッとした動きで頭を下げ、雛菊と朱音を一瞥した後に右手の扉へと向かってしまった。
「さて……雛菊と君は一緒に来てくれ」
 卒の無い動きで左手側の扉を催促し、先を歩き出す青年。
 朱音と雛菊がそれに続く。
 長い廊下を歩く三人。沈黙を破ったのは、青年だった。
「災難だったな。襲われたこともそうだけど、俺達を見てしまうのも……」
「ご、ごめんなさい倭先輩、私のせいなんです……!」
 おろおろと焦った口調で青年の背中に言う雛菊。振り返らず、青年は答えた。
「だからお前も気にするな。今回ばかりは慎重に事を運ばなければならない。それに……お前は俺達にとっては眞子(まこ)と並ぶ切り札だ、自分を軽視するな」
「あ、はい……」
「おい」
 一人蚊帳の外だった朱音が口を開いた。
「何だ?」
「何だじゃねぇよ、なんなんだよテメェら……あれはなんなんだよ?」
 危惧するように雛菊が視線を向けるが、青年は至って平静に返してくる。
「そうだな……俺が言わなくてももうじき知らされるだろうが、一応名乗っておこう。俺は倭昴流(やまと すばる)。見ての通り、ちょっとした組織のメンバーだ」
「組織……?」
「それについても後々説明してくれる人が居る。今は黙って尾いてきてくれ」
 口調が硬いが、実質何も知らない朱音には従う他ない。
 辿り着いた扉をノックし、開ける。
「……ちょっとそこで待っててくれ、三人いっぺんに通れそうもない」
 しかめっ面で一人入って、扉が閉まる。
 取り残された朱音は、待ってましたとばかりに雛菊へ向いた。
「おいヒナっ……これ一体なんの真似――」
「ごめん朱音ちゃん!」
 言及しようとした途端、雛菊が頭を下げてきた。朱音が目を瞬かせる。
「ごめんなさい、隠してたわけじゃないけれど……」
「なん、……」
 面食らう朱音に、焦りながらも懇願してくる雛菊。
「本当にごめんなさい……朱音ちゃんには、知られたくなかったの」
 上目遣いで覗き込んでくる。こんな状況じゃなければ一発殴ってるところだ。
 いよいよ訳が分からなくなってきた時、扉が開いて青年が顔だけ出す。
「悪い、ある程度足場は作っといたから、踏まないように入ってくれ」
 朱音は一度、雛菊のほうを見る。不安そうに眉をひそめる幼馴染を一瞥して、それから扉を潜った。
「う、わ……」
 思わず声が漏れてしまった。当然だ。割と大きい作りの部屋のそこかしこに本や資料の束が山積みにされていて、本来のスペースの半分も余裕がない。書物の塔がまるでオフィス地区の高層ビル群の密集地帯のように連なり、狭苦しいことこの上ない。確かに三人で一気に入ったら、倒壊の連鎖が起きかねない。
 部屋の向こうで仕事机に座っている女性がこちらに微笑を浮かべた。
「ようこそ。どうもすみません、整理整頓がどうにも苦手でして、……何かと埃臭いかもしれませんが、入ってください」
 といって机の脇にでんと置かれた資料の山をどけたのは、朱音も知る人物であった。
「理事長……?」
 灰色の髪を短く流す、黒いスーツ姿と黒い手袋の男装の麗人、クロト=フェルステンベルク。見紛うことのない、霄壤学園理事長その人だ。
 昴流という青年は理事長の脇に立ち、朱音は背後に雛菊の気配を感じながら中心の書類が無いぽっかりと空いているスペースに立った。
 クロトは手袋をはめている手を組み、朱音を真っ直ぐと見つめて切り出した。
「まず、私が……いいえ、我々が一体何者なのかを話しましょう。先に言っておきますが、これから話すことは何一つとして貴方の理解の範疇を超えた……非常識で非現実で非日常の世界の話です。それでも、聞きますか?」
 落ち着いていて、かえって昴流よりも感情の読み取れない声。
 一度朱音は胸に競り上がってくる何かを押し止め、頷いた。
「当たり前だ。いきなり殺されかけて忘れて下さいもあるか、説明責任だ」
「そうですか……」一瞬、クロトの表情が翳ったのは気のせいだったか。「では、我々が何者か」
 すっと息を吸いなおし、クロトははっきりと言った。
「我々は、天使です」
「……え、っと……」
 いきなり、話が判らなくなった。冒頭から理解の範疇を超えた説明に朱音はさすがに言葉を失くす。
「クロトさん……天使の代行でしょう」
 昴流が補足する。別に理解できたわけではないが。
「意味がわかんねぇぞ、天使だって?」
「ええ、そうです。我々は天使です。正確には、天使の力を保有している人間、ですが……人外の力であることは確かです」
 やたらめったら敬語のくせにどこか投げやりだ。混乱しそうになる朱音は冷静にこめかみを揉む。
「難しく考えなくて良いですよ、超能力者とでも捉えた方が判り易いでしょう」
「……天使でいい、続けろ」
「宜しい。我々はある一つの力場に対して生まれた、いわゆる抗体(ワクチン)です」
「力場……?」
 怪訝な顔をする朱音に、理事長は小さく頷き、簡潔にその名を示した。
「……禍喰(シャッテン)。貴方は確か、高等部に繰り上がった姫宮君ですね? お姉さんの穹沙君には運営含めとても助けて貰いました」
「姉貴の話はいい、俺が有名人だってことも聴き飽きたから話を脱線さすな」
 辛辣に現状を維持しようとする朱音に、クロトは静かに謝罪した。
「では姫宮君、貴方は負の感情とは何か、考えたことがありますか?」
「いきなり宗教の話か……親友が仏教徒だから今度そいつに訊いとくよ」
「お前も充分話の腰を折ってるぞ」
 昴流が無愛想に指摘してくる。むっと朱音が黙ると、クロトは続けた。
「人間には負の感情によって出来上がる、他人へは向けてはならない知性が存在します。強欲、怠惰、嫉妬、暴食、色欲、憤怒、そして傲慢。七つに分類された感情は人である以上必ず抱きます。ですがそれはあくまで他人の日常を侵蝕しない程度によるものです。例えば大金をはたいても欲しかった物を横から取られたら、悔しいでしょう? その時にも嫉妬や強欲、憤怒といった負の感情が働く。別にそれ自体は大したことではありません。我々が組織だって気にかけることではないでしょう」
 しかし、とクロトは椅子から立ち上がる。
「稀に、ある限定的な地域内で別種の感情の発露方法に対して、反応してしまう力が存在します」
「別種の感情の発露方法?」
「他人へは向けてはならない、日常を侵蝕する意欲……要は殺してでも奪いたいですとか、常軌を逸した思考ですね。普段の日常では考えたこともない、『自分の人生を狂わせるほどの感情』を抱くことで、力場が反応し、それと同化しようとしてしまう。魂が共鳴してしまうのです。悪い意味で、ですが……」
「その力場ってのが……その、シャッテン?」
「有り体に言えば闇の意思、とでも言いましょうか。負の感情があまりにも肥大することで禍喰(シャッテン)と共鳴してしまい、触発されたことで肥大しきった感情が空気を入れすぎた風船のように破裂してしまい、自我は崩壊。人格が激変して、人間が……人間ではないモノに変わってしまう」
「それが、あれだってのか……」
 朱音はついさっきの奇襲をかけてきた男を思い出す。一瞬で間合いを殺し、鉄柵を軽々とひしゃげてしまう怪力の持ち主。
「禍喰(シャッテン)に魂を喰われた者はまさに悪魔です。昼の人混みに当たり前のように溶け込み、夜になると他人を殺し、あるいは喰らう」
「まるで化け物だな……本当の話かそれ? ドッキリじゃねぇよな」
「ドッキリだとお思いでしたらカメラレンズでも探して下さい。情報では目の前で戦闘が起きたと聞きましたが……あれを特撮の撮影現場だとでも思いましたか? 打ち合わせてもいない貴方を襲った相手は正気でしたか? ブリジット君にどのようにして助けて頂いたのですか? 総て、正真正銘の現実です」
 未だに信じていなさそうな朱音に釘を刺すように言葉を付け加える。
「言っておきますがこちら遊びでこの組織を創ったわけでは一切ありません。禍喰(シャッテン)は地域的な限定があるとはいえ、何時何処で誰が何に堕ちるかも判らない危険な力です。それに対抗するためにも、それと同質に近い因果を捻じ曲げる異能力を携えた能力者が必要になりました。それが我々です。完全に生まれ持った素質によるものですが、天使の力をその身に備えることで我々は悪意的な因果の進み方を修正する力を得ました」
 す、っとクロトは自分の手袋を外す。左手が顕わになり、彼女は朱音にその手の甲を見せた。
 そこには、何か刺青のような模様が刻まれている。二重の円の合間に何かの文字が書かれ、円の中心の空白には十字架のようなものが描かれている。見た目は黒い十字架の刺青でしかなかった。
「それが……なんだよ……」
「これが天使の代行者である証、聖痕です。つまり私も――」
 朱音が察した直後だった。
 手の甲のその刺青が光を淡く放ち、男装の麗人の背中に紫色の翼が現れる。翼といってもガラスで出来たように透明がかっていて、背中から生えているのではなく背中から数センチ離れた所で宙で固定されているように見える。しかしその姿はさながら、藍紫の光を燈す天使の姿そのものだ。
「私が代行する天使は智と増殖の象徴、ラファエル。そこに居る倭君も、同行していたブリジット君も……そして貴方の後ろに居る朝生君も代行者です」
 振り返る。雛菊は叱られる寸前のどこか余所余所しい視線を泳がせた。
「天使の代行となり、因果の歪曲や破損が起きればそれの阻止や修復を目論み、同時に他に代行が出来得る者を探し集める。神化計画(セラフ・プロジェクト)、と呼ばれていますが」
「せらふぷろじぇくと……?」
「人間としての肉体と魂を昇華させ、神にするというとんでもない概要です。部外者の貴方にはそれについてはあまり口外出来ませんが、この神化計画(セラフ・プロジェクト)に選ばれた人物達を天使と同質化し、果ては神と同義にする」
 しかし、とクロトは眉をひそめる。
「少なくとも私には興味の無い話です。生まれ持つ力を嘆く気はありませんが、私には私の理由で天使の代行を務めたいという意志があります。倭君やブリジット君もそうやって私の思考に賛同して集まってくれたのです」
 傍らの昴流は視線を明後日のほうに向ける。
 クロトは少しだけ笑い、向き直る。
「そうして、限定的がために一箇所に拠点を置き、魂を汚された人物を捕獲、あるいは滅却しているのが我々、【結社(アカデミー)】です。霄壤学園の理事長は……まあ言うなれば世を忍ぶ仮の姿というものでしょうか」
 ――フッ、と光の翼が掻き消え、クロトは手袋をはめ直す。
「そして当然これは代行者同士しか知り得ないものです、つまりは秘密裏組織でなければなりません……ところが、」
 再び椅子に座りなおし、ちらと朱音を一瞥する。
「貴方が禍喰(シャッテン)に侵蝕された何者かに襲撃されたと聞きましたので」
「何が……悪かったな、これでも運は人並み以下に悪いもんでね」
「いいえ、不運ではありません。恐らくその者は貴方だから狙ったはずです」
 朱音は、瞠目した。
「なん、だって……?」
「言ったでしょう? 原因は七つに分類された負の感情により触発されると。その七つの負の感情は総じて、他人が居なければ成立しないものですので……代行者以外の者が狙われる場合、大抵は私怨が多いのです」
 そこで朱音も理解する。
 確かにそうだ。見も知らない人間に『馬鹿』と言われたから怒った。理由はどうあれ、傲慢にしても憤怒にしてもその罵声を発した相手が居なければ怒らない感情だ。
「で、でも俺は何もしてねぇぞ? 八つ当たりってのも考えられるじゃねぇか」
「そうであれば貴方に神化計画(しんじつ)を教えるわけがありません。貴方がこの事件の関係者でなければ今頃何かしらの隠蔽処理を施しているところです。ですがそれをしないのも、ある意味貴方は運が悪いと言わざるを得ませんね」
「……どういう、意味だ?」
 クロトは少し考え、机の上に置かれている受話器を手に取った。
「今日はもう遅いですので、話はまた改めて後日。お姉さんが心配しますよ?」
「――っ」
 朱音が睨むが、大して意に介した風もなく電話をする。
「氏家(うじいえ)、朝生君と例の幼馴染を送って下さい。護衛の意味も含めて、私の車を使うことを許します。万が一の場合の神術の発動も許可しておきます」
「神術……?」
「あ、私達代行者の使う能力のこと。ブリジットさんも使ってたアレもそう」
 耳打ちするように雛菊が答える。
 いつだって他人に耳打ちされなければ自覚出来かった雛菊に、初めて逆に耳打ちされた。
 ただ、その内容は朱音の別世界のものであったが。
 通話を終えたクロトは昴流に一瞥してから、朱音に向いた。
「明日、真実を知りたければもう一度ここへ来てください。話せる範囲で教えましょう」
「……俺は部外者じゃなかったのかよ」
 ささやかな抵抗を口に出した。雛菊が困ったようにおろおろしたが、クロトは始終落ち着いていた。
「貴方の立場はとても曖昧です。日常側の人間でありながら、我々非日常側の天使を知り、あまつさえ【結社(アカデミー)】の切り札と幼馴染が被害者ではこちらも招かざるを得ないのです」
「切り札?」
 朱音は一度雛菊を見た。雛菊は逆に顔色が悪そうに俯いている。
「さっきもソイツが言ってたけど、ヒナが一体なんの切り札なんだよ」
 クロトはまた少し考え、意を決したように頷いた。
「これは貴方にこれが真実であることを裏づけする意味も兼ねて、言っておきましょう。いいですね? 朝生君」
「……はい」
 雛菊が頷く。
「姫宮君。天使にも階級のようなものが存在するということをご存知ですか?」
 何を、と朱音が振り返った。
 その先に立っていた雛菊こそが、
「朝生君の代行は神化計画(セラフ・プロジェクト)における現行最強の天使=Aメタトロンです」
 誰よりも非日常であることを知った。





 ごめんなさい。
 そう、何度も何度も言われた。
 白いスーツの男――名前は確か氏家だったか――に乗せられた高級そうな車の中で、雛菊が何度も、何度も、謝っていたような気がする。
 そこまで思考が回らなかった。
 神化計画(セラフ・プロジェクト)。禍喰(シャッテン)。天使の代行者。日常と非日常のバランス。そして、
「着いたぞ……」
 そう、氏家が言うと同時に重圧が短く前に向いて、停まった。
 どろどろとした思考の中で目を向けると、窓の外に見慣れた我が家があった。
 明かりは既についている。姉に遅れた訳を考えている時にも、
 ごめんなさい。
 もう一度言った雛菊が、先に車を出て行ってしまった。
 取り残された朱音は、氏家に訊いてみた。
「なんで……ヒナなんだよ」
「……さぁ、判らない」
 そう答えられた。軽薄な感じはなかった。重荷を知っている同士の声だった。
 車を出た時、閉める直前に氏家はこう言っていた。
「君は運が悪かっただけだ。そして、最強の天使に選ばれた彼女は逆に……」
 黒いベンツが去ってゆく。
 運が良かったとでもいうのか。
 日常をかなぐり捨てて、敵を相手に殺し合いをすることが、幸運とでも?
 重たい足が、自分の家へと進む。
 雛菊を追う気になれなかった。
 初めて、非日常の雛菊が怖いと思ったから。





 正直な話、今日ほど思ったことはなかっただろう。
 ああ、任意で体調が崩せたら……。
 そんな朱音は小学生時代から一度も休んだことのない健康優良児である。


「朱音? 起きてるの?」
「……ん、起きてる」
 毎朝の恒例となっている姉弟の目覚ましの応酬。
 というか、姉はいつ寝ていつ起きてるのかと朱音は疑問になった。
 着替えを済ませ、
 階下へと降りて、
 リビング手前で思う。
(……行きたくねぇなぁ……)
 学園に、ではない。
 恐らく、いや確実にまだ寝ているのだろう幼馴染の家へ、だ。
 はぁ、と鬱な溜息を洩らし、扉を開けた。
 相変わらずブラウスにロングスカートの上からエプロンを着けて、まるで朱音が降りてくるタイミングが分かっているかのようにフライパンから皿に目玉焼きを移し変えている穹沙。
 振り向き、ほんわかとした微笑を浮かべてくる。何となく愛想笑いで返した。
「おは……」
「ええ、おはよう」
 といって、フライパンを水に浸して自分の席に着く穹沙。朱音もゆっくりとした足取りで自席に着き、合掌。
 食事の合間に二人はよく会話をする。ここに御門熾織が居たら笑いが止まらない食卓出来るなぁ、とか考えながら味噌汁を啜っていると、穹沙は少し不審そうに尋ねてきた。
「朱音……今日はどうかしたの? 具合でも悪い?」
「あん? なんでさ」
「なんで、って……どうも昨日の夜帰ってきてから元気が無いなと思ってたの……というより、何か考え事でもしてるの? そんな顔してるわ」
 鋭い、と思った。何とか顔にまで出さないでいたが、姉はそれすら見切る。
「ほぉら、また何か考えた」
「……別に。ちょっと、な」
 白米を噛み締め、味噌汁で潤わせて咀嚼する。
 穹沙は納得しきっていない風に頷きながら、
「そう……? 何かあったら言ってね? 朱音ったらいつも一人で解決しようとするんだから……少しは姉にも頼って頂戴」
 いやいや姫宮穹沙が動いたら『少し』じゃないんですけど、と朱音は正直思ったが、じっと穹沙を見つめてみる。
 朱音と同じく黒髪だが、どうも親違いの遺伝なのか、穹沙の髪はどこか亜麻色気味に色素がやや薄い。それ以外の顔のパーツなんかは振り向かない野郎は居なさそうな端正な顔つき。それが柔らかい笑みを浮かべて、こちらの視線に気付いて首を傾げながら見つめ返してくる。
 何となく、訊いてもいいかと思い、
「姉貴さぁ……」
「なぁに?」
「神様が実在するとか信じるタイプ?」
 思ったより直球すぎた。
「…………………………、えっと……」
 多分恋愛関係とか将来の話だと思っていたのだろう、完全無欠で通っていたあの姫宮穹沙が、えらい『間』を作りながらどう答えるべきか悩んでいる。
 そりゃそうだろ、と一人ツッコミを入れておいた。


 で。
 結局、朱音は何の違和有る行動を取ることもなく、彼女の家に来てしまった。
 朱音はすっと顔を上げる。見た目は隣りに立っている自宅とどこか似ている造りの二階建て一軒家。
 何か、ズウゥゥン……、という効果音が合う何かが、胸の辺りに痞えていた。
 朱音は一度深呼吸をし、意を決して家に入った。
 二階に上がり、扉をそっと開けた。
 薄暗い部屋。どこか、香水とは違う甘い香りが鼻腔をくすぐる。
 考えてみれば躊躇無く女の子の部屋に入るって凄い行動なんだな、と今更なことに気付く。それでも足は立ち止まらない。ベッドの上に出来上がっている曲線美が見事なシーツの繭を小突いていた。
「おい、起きろ……ヒナ」
 小突く度にもぞもぞと反応しては止む繭。だから動きがキモいというのに。
 だが、朱音は趣向も凝らす気はさらさらない。
「起きろっつってんだろ……!」
 一気にシーツを剥ぎ取る。

 ズボンを履いていない雛菊が眠っていた。

「――ぶふっ!?」
 完全なる不意打ちだった。
 朱音の知る限りでは雛菊は寝起きは悪いが寝相は悪くないはずだ。だが目の前の少女は何故か大きめのワイシャツだけで、子猫のように丸まっている。当然ワイシャツだけで丸まっている人間の体を隠しきれるわけが無い。
 結論だけ言うなら、一応下着は履いていた。

「こ、んのドアホがぁああ!! どこで仕入れたネタだあああああっ――!!」
「ぎ、にゃああああああああああああああああああああ―――――――っ!?」

 始まる一日は、相も変わらない。
 ただひとつ、彼女は誰よりも非日常(かみさま)に近い人間だという事実だけを残して。


「……」
「……」
「……」
「……」
 二人だけの静寂が続く。
 といっても雛菊のほうは朝弁当を食べるのに必死なだけで、喋ろうと思えば喋れる朱音がただただ黙って待っていた。そのせいでの静寂だ。
「……、んぐ。……ごちそうさま」
 すっと空の弁当箱を差し出してくる雛菊。その声は酷く元気が無かった。
 朱音は弁当箱を受け取り、その場を、動かなかった。
 当然、また静寂が降り立つ。
「……」
「……」
 じっと、雛菊は押し黙ったままコタツに入り込んでいた。視線は常に、どこか明後日の方向。本当なら『さっさと支度しろ』とチョップの一つも喰らわせてるはずだが、生憎といつもより時間がある。
 現在時刻六時前。外が暗すぎる朝の始まりである。
 珍しく完全に目を醒ましている雛菊を見て、朱音はゆっくりと口を開いた。
「……ぶっちゃけ――」
 ぴくん、と雛菊の肩が揺れる。
「――ワケが判らない、っていうのはもう一晩考え抜いて通り越した。けどな、まだ信じらんねぇよ……お前が、こんな戦いをしてたなんて」
 雛菊は、床をじっと見つめて動かない。恐らく、動けないのだろう。
 朱音は続ける。
「なあ、ヒナ。……まさか、人を殺したってことはないよな」
「――っ!」
 雛菊は思わず睨むような表情でやっと朱音に向く。
「ち、違うもん! そ、それは……ヒトゴロシをしてないか、って訊かれたら、うんと答えるしかないけど……でも、逃げじゃないよ? でも、私は、人は殺してない……これは本当だよ、信じて」
 最後のほうは弱々しくなってゆく。朱音は頭を掻いて一度気持ちを整理した。
「まぁ……お前がそこまで言うなら信じるよ」
 立ち上がり、朱音はキッチンへ向かう。
 蛇口を捻って出てきた水で、弁当箱を洗い出す。
「でもな、」
 そう続け始めたのは、沈黙に耐えかねた雛菊が口を開こうとしたときだった。
「なんで……黙ってたんだよ……俺はそれが許せねぇ」
「あ、……」
 雛菊は一度口を開き、引き結び、言葉を口の中で一旦構成して開き、また、そわそわと視線を泳がせて口を閉じる。
 その焦った動きが、朱音にはどうしても嫌で嫌で仕方が無かった。
 何故なら、彼女は朱音の幼馴染なのだ。
 誰よりも彼女の喜びと悲しみを、怒りや不安、慟哭、畏怖、そんな移り変わりを誰よりも知ってやらなければならないはずの朱音が、ただの偶然の、災難なんかでやっと気付くなんて、
「俺は……正直、怖い」
 なんという、惨めなことか。
 なんという、悔しいことか。
「天使とか……人じゃねぇ奴と戦うとか……なんの力も無い俺には、怖くて恐くてお前の居る世界は……夢なんじゃないかって、理解したくなんかないって、そう……思う。ワケが判んないし……判りたくないって思っちまった」
「……」
「……でもな、それ以上に許せないのはお前だ、ヒナ」
 キッチン越しに、雛菊が顔を上げた。
「俺は、それでもお前に苦しんで欲しくなんかない。親死んで、一人ぼっちになって、精一杯に笑い続けるって熾織と約束したっていってもな、」
 キキュッ、と蛇口が閉まる音が響く。
「お前は本当に天使である自分に、満足してるのかよ」
「……朱音、ちゃん」
 コタツを回り、雛菊の前に立って、片膝をつく。
 見上げてくる上目遣いの雛菊。表情はとても不安そうで、叱られた子供みたいに怯えているのが伝わる。
 手を差し出す。思わず雛菊は反射で目をぎゅっと瞑るが、
「……バカ」
 そっと、雛菊の頭の上に手を置いた。
「……ぇ」
「天使? 人間じゃない力持ってる? だからなんだよ、お前はお前じゃねぇのかよ。また俺に構って欲しがれ。巧いこと隠しやがって……なんで黙ってたんだよこのバカヒナ」
「ぁ……」
 小さく息が漏れる。唐突に雛菊の顔がくしゃりと歪んだ。
「俺じゃダメなんか? 俺の約束は忘れちまったのか? 熾織は『決して弱い自分を作らない』。お前は『熾織が泣いた分だけ笑う』。そして俺は『お前達の弱音を聴く』、だぞ……俺には、俺にはお前の苦しみを聞いてやれないのか?」
 熾織の己に負けない意志。
 雛菊の笑顔を絶やさない意志。
 そしてたとえ力になれなくても、彼女が幸福に感じられるようにと、朱音は背負う役目を果たしたのだ。
 今、この目の前の少女が人間から外れた存在になってしまっていても、
 背負うのは、諦めるべきなのか?
 そんなわけがない。
 絶対に、有り得ない。
 朱音だから雛菊の苦しみを判ってやらなければならない。
 そう、誓ったのだから。
 だから――、
「……ごめん、なさい……朱音ちゃん」
 物憂げに雛菊はそう言った。
「怖かった、の……朱音ちゃんに、代行者になった私を、見せたくなかったの」
 つぅ、と雛菊の頬に涙が伝うのが見えた。
「朱音ちゃん、は……信じて、たよ? でも、やっぱり……こわ、くて……朱音ちゃんに嫌われたら……バケモノみたいに、見られたらどうしようって……こわかったの……っ!」
 泣きじゃくる。
 朱音は彼女の頭に置いた手で撫で続け、ただじっとそれに聞き入っていた。
 ただの感情が溢れただけの、言葉の羅列だけれど。
 逃げないと、誓ったのだから。
「ごめ、……さい…………ひっく……もう嘘つ、かない……から……きらわれても、いいから……ごめん、なさ……」
 肩を震わせる雛菊に、朱音は「はぁー……」と大仰に溜息をついた。
「ちっちぇーなぁ」
「え……?」
 ぐず、と鼻を啜って雛菊が顔を上げた。泣きはらして目元が真っ赤になってしまったみっともない顔。とても学園の『天使』なんて云われている奴だとは思えない。朱音は苦笑してしまった。
「まぁ、そりゃなぁ……命狙われたんだから俺だって大きな問題だけどよ……お前の悩みってちっちゃいなーって思ってよ」
「な゛っ……! わ、わらひは朱音ぢゃんにぎらわれだぐなぐで必死だっだんだがらねっ! ほんどに、ごわがったんだよ……!?」
 ぐじゅぐじゅと濁点満載の声で反論してくる。
 中身はまるで子供。
 だけど、だからこそ朱音は吹き出すように笑った。
「……俺も、恐いなんて思ってた」
 笑いながら、雛菊の頭をわしゃわしゃと掻き乱す。熾織と違って、雛菊の場合はそういうことをしてもジタバタしない。
「俺の知らないヒナは、俺のことなんてどうでもよくて……自分の得た力のためなら俺を切り捨てられるんじゃないか、って思って……恐かった」
 泣き濡らした表情に、薄く怒りに似た緊張が奔った。
「そ、そんなことないっ! 朱音ちゃんは朱音ちゃんだもん……!」
 それを聞いて、朱音はもう一度微笑んでやった。
 いつもなら絶対にしないのに、雛菊を、子供をあやすように。
 微笑って、やる。
「ならよ、これでおあいこでいいんじゃねぇか?」
「お、あい……こ?」
「そ、おあいこ。天使の力を恐がってた俺も悪けりゃ、真実を恐がってたお前も悪い。それでおしまい。俺はもう……逃げない。だから、」
 一度息を吸い、怒鳴るのではなく、はっきりと力を込めて言った。
「お前も、逃げるな」
「――、」
 見開いたままの大きな瞳を瞬かせる雛菊。
 何か、ほんの一瞬の何かを頭の中で噛み砕き、理解させ、やがて、
「……うん」
 ゆっくりと、まだ泣き腫らした跡が残っている表情を和らげた。
 えへへ、と。いつも通りの雛菊が居た。
 それを見て、逆に朱音のほうが腹の奥で形の無い、でも力の入った何かが据わるのを感じる。
 それはきっと、始まることが絶望ではない証なのだと、朱音は思った。


「ほら朱音ちゃん、早くしないと遅れちゃうよ?」
 登校中の道。
 変わりなく学園へと進むふたつの足音。
 いつもなら尾いて来る側である雛菊は軽やかにステップを踏んで手を振ってくる。
 顔は、目元がまだ赤い気がしたが、今まで以上に満面の笑みが窺える。
 打ち明けた内容が異常だということは忘れたのだろうか、と呆れ半分で朱音は歩く。いつものようにゆったりとした足取り。このペースでも大丈夫だ。
「はしゃぐな犬、あと前向かないと三倍増しで電柱ぶつかるぞ」
「えへへー、平気だも――っきゃ!?」
 ほらみたことか、と朱音は半分だった呆れを完全なものにして表情に出す。
 しかも電柱ではなく、横合いから出てきた誰かにぶつかったようだ。
 まだ尻餅を突いている雛菊に手を差し出しつつ、朱音は代わって謝ろうと顔を上げた。
 見慣れた人物だった。他でもないクラスメイトの賀上洋介だ。
「あ、悪ぃな賀上。ってほらさっさと立てマジで遅れんぞ犬ころ」
「う〜、わんっ」
「うるせぇ!」
 ふざけ半分で咆えてくる少女の頭を小突いていると、上から声が振ってきた。
 他でもないクラスメイトの賀上洋介の声で、

「……はんっ。違う女を犬呼ばわりとは実にいい気なもんだなクソが……」

 あまりにも有り得ない、嫌悪としか受け取れない言葉が出てきた。
 あん? と不意を打たれて思わずきょとんとした表情で朱音は顔を上げる。知らない奴がそれを言っていたなら十秒と経たない内に瞬殺してやるのだが、相手はある意味仲の良い知人のはずだったからだ。
 しかし、言及する暇も無い。顔を上げて視線を向けた時には、追うのが少々億劫な距離を早足で歩いていた。
 怪訝な顔で朱音はその背を見つめる。
「……んだよアイツ、機嫌悪いのはいいとして俺に当たんなっつぅの」
 後でシメてやると呟くと、雛菊はこちらをじーっと見上げているのに気付く。
「……んだよ」
「……えへへー。朱音ちゃん、私わんこになっちゃったの?」
「……あーもう色々ツッコミ所を用意してくれたのはいいけど、あえて一個にチョイスさせてもらう……『ちゃん』付けすんなバカヒナ」
 頭頂部に割と本気めで拳を落としておく。
 これで泣いた理由を熾織に訊かれても誤魔化せそうだ。





 第二章 終

2006/11/22(Wed)06:06:58 公開 / 祠堂 崇
■この作品の著作権は祠堂 崇さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
そういえば細かいジャンル言ってないことにも気付いた昨今。
現代学園ファンタジーダークアクションです。
……ダークのとこだけ軽く無視してやってください。

なんかもう章ごとの帳尻合わせがおかしくなってる現状です。夢の(あるいは悪夢の)第七章とかありえるかも知れません。ほんと長ぁ〜〜〜〜〜〜い目で見てくれると助かる勢いです。
あんまり書くとネタが尽きるダメダメな人間なので、ここいらで失礼します。
では。
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