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『Works 第3章』 作者:火桜 ユウ / ファンタジー 異世界
全角47353.5文字
容量94707 bytes
原稿用紙約152.55枚
『探索者』ヴィオラデル・ヴォルフと『魔女』ローレライ・ラッセル、そしてルナ。『契約者』ケイン・ブッラクホーンと、魔女に呪いを受けたマリア・クリール。それぞれの旅路の中、彼らは年に一度の収穫祭でにぎわう町、シュトルーデルに辿り着いた。ヴィオラデルが見守る中で、ローレライは歌声を響かせる。その一方で、彼らなりに祭りを楽しむケインとマリア。それぞれの放浪の中の、貴重なひと時。しかし、『フェンリル』という組織から来た2人の刺客によって、別々の場所で始まったそれぞれの旅が、ここから交錯し始める。
  <序章>

「貴方は知っていたはずだ。巨人が死んでしまったその日から、貴方と貴方の片割れと、散っていったものたちの運命を。しかし貴方は失意に飲まれた。それ故に、貴方の片割れは彼方へ行き、貴方の手から逃れてしまった……。私が言える事は事実しかない。私は自分が言う事が出来る事すら制限されてしまっている」




  ◇  ◇  ◇




 エル・ウォーカーは、自分の部屋の中でコーヒーを飲む事が好きだった。本来はブランデーの方が好きなのだが、仕事柄あまりアルコールを飲む事が出来ない。煙草の類いも、体に臭いが付いてしまうので禁じられている。自分で選んだとは言え、因果な仕事だ。
 色素の薄い茶色の前髪をいじり、口にカップを傾ける。
 一息つき、ふと目の前に放り出された制服の襟元を見る。黒く光沢の強い生地の上に、銀糸で狼のシルエットが刺繍されている。
 テーブルの上に出したままだった本の表紙をめくる。途中まで読んだものだが、前の仕事を終えて帰ってきた時には、内容をほとんど忘れてしまっていた。また最初から読まなければ解らないだろう。
 本当に因果な仕事だ。娯楽で店に行くのも叶わない。
 ため息をつこうと息を吸ったところで、ノックが聞こえてくる。
(息もつく暇さえない、か)
 微苦笑し、はだけたアンダーウェアの前を直す。
「名乗れ」
「……休憩中、失礼します。同部隊情報処理班『紫牙』、ナンバー〇三二、イリス・カーンです」
 うやうやしく入ってきたのは、彼の制服と同じデザインで、そっくり色だけが鮮やかな紫色の上着をきっちりと着込んだ女だった。肩で揃えた黒髪は、いつも通り癖一つない。
「収集指令が入りました。二三○○時に、執務室へとの事です」
「執務室に?直接?」
「はい」
 顔色一つ変えない情報官の言葉に、エルは少なからずきな臭いものを感じた。
 通常ならば、会議室か司令室に収集する。それが、司令官が腰掛る椅子のある執務室にという事は、言い渡される任務が通常ではないと考えていい。
 口許に指をあて、数秒思案してから、エルは再びイリスの顔を見た。
「他に収集命令が出ているのは誰だ?」
 気怠そうにあくびを噛み殺し、ついでに聞いてみる。
 動こうとしないエルに憮然としながらも、イリスは律儀に敬礼しながらはっきりと答えた。
「アイニ・グラン、一人です」
「アイニ?」
 二度目の、予想外の言葉に、エルは腰をわずかに浮かした。
 またしばし考え息を吐き、手を伸ばして制服を取って腕を通す。ベルトやボタンを留めるたび、裾やしわを直す度、がしゃがしゃと重々しい音が内側から鳴る。最後にポケットからはみ出していた、革と金属で作られたグローブをはめ、拳を握る、開くを何度か繰り返す。
「イリス」
「はい」
「もし良かったら今度―――」
「仕事中です、サー」
 言い終わるよりもそう先に言い、イリスはまたも型通りの敬礼の後にさっと身をひるがえした。
 さすがに毎日のように口説こうとすれば、そういった雰囲気を察してしまうらしい。特に彼女は、情報処理班の中でも特に優秀な部類に入る。
 触れるもののなくなった手をふらりとさせてから、エルは残念、と一言だけ漏らし、部屋の明かりを消した。
 ポケットから鍵と、木綿糸の切れ端を取り出して廊下に出る。壁の半分がガラスの為、廊下はことのほか明るい。
 糸を戸の上の方で挟み、落ちないように閉めて鍵を掛ける。鍵をポケットの中にしまい、手を出すのと同時に何も書いていない名刺用の紙を、わざとノブに近いところに挟む。
 退室の際のいつもの手順も済ませ、満足した表情でエルは、奥へと進む方向へ歩き出した。
 歩きながら、重い制服の上着の裾を直す。ここで彼が所属している部隊の、彼より下のナンバーを持っている者に会ったりした時に、ある程度整った姿をしておかないと、それは結局自分の首を絞める事になる。彼を毛嫌いしている者は、決して少なくないのだ。
 グローブを締め直し、今度は襟元の刺繍に触れる。
 その部分だけ、耐刃繊維で織られた他の部分と異なった感触が、指に伝わる。銀糸は滑らかに肌になじむ。そこに駆ける銀狼の毛並みをそのままここに張り付けたような錯覚すら起こる。
 奥まで行くと、一つの戸の前に人影が見えてきた。
 扉のプレートの文字はまだ見えないが、そこに何が書いてあるかなどもう何年も前から知っている。
 そして、その前にいる青年が誰であるかを考える事は、言うまでもなく容易な事だ。
 彼と同じ黒い上着を、寸分のしわも作らずに着込み、直立不動の姿勢でそこに佇んでいるその顔は、精悍を通り越して厳しくさえある。
 エルは、いつだったか初めて彼を見た時、間違いなく自分より年上であると思い込んだ事を思い出した。それが四つ年下であった事を知りって思わず息を飲んでしまってからというもの、この青年とは何かと縁があるように思える。
 目が合うと、その目の奥に何か釈然としない、と言いたげなものがあるのに気付いた。
 それ程大っぴらに出ていた訳ではない……エルもまた、同意見であるだけなのだ。
「早いな、アイニ」
「指令を受けたならば、出来うる限り早く。常識だ」
「あーそうかい」
 ここまで縁があって、ここまでそりが合わないのも珍しい。ため息をつきたいのを我慢し、エルはアイニのその手に握られている大槍を見やった。
 身の丈以上もある柄は鮮やかな朱塗りで、ところどころに金色で模様が刻まれている。刃は今はカバーで包まれているが、それは曇りのない鋼の色である。
 豪奢だが、それは決して飾りだけ派手なものではない事は、彼らが所属する部隊の中では周知の事実だった。
 だがエルは、敢えて迷惑そうに顔をしかめてみせた。
「執務室に、ガエボルグは邪魔だろう」
「得物は片時も離さないようにしているんだ」
 そう言い、アイニはふん、と鼻を鳴らしてエルのグローブや、いびつな形の上着を無遠慮にじろじろと見た。
「それに、僕は貴方と違って得物を隠したりはしない」
(このガキ……)
 さすがにカチン、と来るものがあったが、エルは拳を握りしめ、想像の中だけでアイニの襟首を掴んだ。
 我慢が成功してから、改めて扉を見る。
 簡単に執務室、とだけ、書かれたプレートが、ネジで止められている。
 エルは肩を落とし、軽くノックをした。
「……名乗れ」
「国家特殊武装部隊『フェンリル』単独強襲班『黒牙』、ナンバー〇〇一、エル・ウォーカーです。認証を」
「同部隊単独強襲班『黒牙』、ナンバー〇〇二、アイニ・グランです。認証を」
「確認した。入れ」
 返事の一拍後に、ドアを開ける。
 中は、相変わらず圧力のある光景が広がっていた。
 彼らの身長の二倍近くはある本棚に、びっしりと隙間なく分厚い本が収まっている。頑丈そうな背表紙に見えるタイトルは、どれも小難しそうなものばかりだったが、ところどころにそれがない本も混ざっている。
 それがどういう事なのかは知り得ないが、知る意味も必要もないという事を彼らは知っていた。
 その知識の倉庫とも言える部屋の中に佇んでいる者の事さえ知っていれば、何の問題もない。
 本棚の中に埋もれかけ、重々しくマホガニー製のデスクが置かれている。書類やファイルが山のように積まれたその奥に、厳しい表情のままそのファイルの一つを睨み続けていた男が、入ってきた彼らに一瞥を与えた。
「机の上に書類がある。ナンバーの入ったものをそれぞれ取れ」
「了解」
 敬礼し、どうにも肌に合わない執務室の空気を切って机に近付き、言われた通りナンバーの入った封筒を取る。アイニもまた、同じように自分のナンバーの物を取った。
 封は閉じられていない。先程入れたばかりのようだ。
 アイニが目でエルに促す。ナンバーの上の者から見るべきだ、とでも言いたいのだろう。真面目だ、律儀だとよく言われているらしいが、単にプライドが高いだけだという事をエルはよく知っていた。
 プライドが高い者程、自分よりも下の者、上の者を選り分ける傾向があるものだ。
 嘆息を押し隠し、エルは封の中から書類を出した。書類、と言っても、黒いインクで書かれた命令書が一枚だけしかないのだが。
(よくもまぁ、こんな紙一枚で人を動かせるもんだ)
 そう思いながらも、その紙一枚で動く自分も自分なのだ。文句など言えた立場ではない。
 目で文を追ってゆく。が、隣にいたアイニが声を上げたせいで、最後まで読む前に注意を削がされた。
「失礼、司令官。命令の意味が解りません」
「どういう事だ、ナンバー〇〇二」
 司令官であるこの中年の男は、部下を名前で呼んだ試しがない。
 最初の頃は腹も立ったが、おそらく異議を申し立てたところで、この男は眉一つ動かすだけで何も言わないだろう。それを悟った頃には、馬鹿らしくなってきてしまっていた。
 それよりも驚いたのは、アイニが受任早々意見を言おうとしている事だ。一応自分は上官にあたるが、この一見生真面目な青年が言おうとしている事に、わずかながら興味があった。
 アイニは、表面上は平静のようであったが、声から察するにかなり不服らしい。手元を盗み見てみると、真新しい書類にすでにしわができていた。
「この、ターゲットとなる人物の事ですが……」
「それは機密だ。質問は却下する」
 皆まで言わさずの却下に、この表情の薄い青年も、思わず頬の筋肉を引きつらせた。
 どうなるのか気になっていたが、こう早々と却下されてしまっては、これ以上何もないだろう。
 少々残念に思いながら、エルは再び自分の書類に目を通し始めた。
 途中まで読んだ限りでは、どうも捜索・場合によっては戦闘、というものらしかったが、まだ何を捜索するのか、――おそらく人間だろうが――そこまでは読んでいなかった。
 文字を追ってゆく。まず目に入ったのは、地名だった。
(……シュトルーデル?何だ、辺境じゃないか。いいところだけど)
 今いる中央都から見て、コズメア地方に次いだ僻地だ。僻地であると言う事で、それだけ緑も多く残っており、風習である収穫祭も、かなり盛大に行われている。そういえば、そろそろその時期だろう。
 しかし、こんな辺境まで行って、何を探すというのだろうか。
 さらに下へと目線を下ろし――
「…………?」
 ある単語に、疑問を覚える。
 見間違いだろうかと思い、目頭をもんでみる。本当ならば目を擦ってみたいところであったが、グローブを付けたままだ。下手な事をしては怪我しかねない。
 十分ほぐしてから、もう一度書類を頭から読み直す。
「…………司令官、私からも質問があるのですが、よろしいでしょうか?」
 知らぬ内に自分もまた、アイニと同じように書類にしわを作っていた。
 もの憂げに顔を上げる司令官の顔を真っすぐ見、ゆっくりと呼吸を整える。
「この書類の文面に……間違いはありませんか?」
「すでに何度も読み直している。間違いなどない。余計な詮索は無用だ」
 言い切られると同時に、先手を打たれてしまった。言われてしまったら、これ以上追及する事はできない。
 本当に、因果な仕事だ。
「了解。任務にあたります」
 敬礼し、いまだ納得していないらしきアイニの肩を軽く叩く。この青年が、司令官に対してここまで憮然としているのだ。余程の事なのだろう。
 自分の任務とどちらがひどいか――一瞬そんな言葉が頭をよぎった。
 肩を叩いた手でそのまま、部下の背を押す。強く押さずとも、彼はあっさりと敬礼し、踵を返した。
「……一つ言っておく」
 背中に、声が掛かる。
 ほぼ同時に振り返ると、司令官はどこか鬼気迫る空気を放っていた。
「詮索は無用。任務は正確に遂行するように」
 エルは、眉間を寄せた。
 いくら疑問のある任務とは言え、受任したのだ。何を今更と言えたら、どんなにスッキリしただろうか。
「……了解」
「了解致しました」
 アイニとほぼ同時に敬礼し、部屋に入ってきた時と同じ順序で退室する。と、途端にアイニが、命令書を突き付けてきた。
「どういう事だろうか」
「私に訊かないでほしいな。第一、どんな任務が君に来たのかもまだ知らないんだからね」
 言いながら、突き付けられた書類を受け取って戻る道を進む。まだむっつりとした顔で背後に付いてくるアイニに、エルはただならぬものを感じた。
 余計な部分と思われる場所は省き、重要部分――つまり、アイニが疑問を感じたらしい『ターゲット』を探す。
 固い文字で、さらりと書かれた対象の名、性別、年齢、略歴……さらに、小さな写真がその下に貼付けられている。
 だが、そこまで見なくとも、エルは部下が何を言いたいのか理解できた。
「……女の子だね」
「そう。しかも、ここまでか、と言う程普通だ」
「…………三年後が楽しみだな」
「真面目に聞いてくれ。こんな少女に、この任務内容は不適切だ」
 ここが廊下でなければ、彼は最後には声を張り上げていた事だろう。それが他人であるエルにもはっきりと解る程、アイニは憤慨していた。
 だが、エルは小さく息を吐き、命令書を返した。その彼の態度に、アイニはさらに不機嫌顔を強める。
「そう怒るな。それを言うなら、私の任務の方がさらに理解不能だよ」
 肩を落とし、エルは先程のアイニと同じく、命令書を渡した。
 腑に落ちない様子で受け取り、素早く目を通してゆくアイニの表情を横目で見、前髪の付け根を掻く。
 やがて、アイニは呆れ果て、手放さないと豪語していた大槍を落としそうになる。
「……何だ、これは」
「そう、まさにそれだ。わけが解らないだろう」
 ため息をつき、アイニの手からさっさと書類を取り、封に収める。
「『緑牙』と同行して、『魔女』を捕獲しろ、だなんてな」





  <守護者たちの午後>


 多少の焦りを感じながら、ヴィオラデルは周囲を見渡した。
 町というのは、どこも雑多としている。特に中央都からいくらか離れた場所ならば、あれもこれもと取り込んでいくと、ひどく入り組んだ上に、解り難い土地になる。
 特に、今はこの町では祭りが開かれている。国内でも五指に入る、一週間程続く規模の祭りだ。昼も夜も、人の量は半端なものではない。
 人の波にもまれてゆく度に、焦燥感が増してゆく。
 人にぶつかり、マントの下の刀が音を立てる。こういった人の出入りが多い町では、武器の携帯は必要最低限までしか許されていない。そこを何とかごまかして持ち込んでいるのだから、見付かって騒ぎになるのは避けたい。
 子供が出店に夢中になって走ってくる度に、マントの下の刀を気に止めてしまう。子供に見付かるのが最も厄介だ。
 民芸品やボール掴みなど、思い当たる出店や、商店を覗き込む。店主や客と目が合うと、皆一様にぎょっとした顔をしてきた。端正な顔付きとは言え、異質の赤い瞳に陰気な表情――いつも通りのそれに加え、今は苛立ちも混ざっている。
 風船の出店を覗いた所で、マントの裾を引っ張られる。
 急いで振り返ると、予想通りだが、願い通りでない少女がそこにいた。
 鮮やかな緑色の服に帽子は、明らかに周囲から浮いている。金色の髪に縁取られた顔に収まっている、幼さの濃い碧眼を見下ろし、ヴィオラデルは眉をひそめた。
「……姫はどこだ?」
「あっちの出店」
 その言葉に、ヴィオラデルは一段と大きなため息をついた。
 すぐにマントをひるがえし、示された方向へ足を運ぶ。
「ヴィオ、あまり怒らないであげてね」
 その後を追ってくる少女の言葉に、ヴィオラデルは何も言わなかった。





 色とりどりの飴細工は、まるで宝石のようだった。先程立ち寄ったガラス小物よりも細かで、やわらかな色をした飴の作品の数々。赤に緑、黄色にオレンジ――そして、彼女の髪と瞳の色と同じ、飴独特の金色に近い輝かしくも優しい色。
 彼女は笑みを浮かべたまま、飽きる事なくそれらを眺めていた。
 羽を広げた白鳥、伸びをする猫、天に向かって吠える狼、花に止まった蝶、そして――
「姫」
 呼ばれた事に、ローレライはびくりと肩を震わせた。
 まだ慣れない。もう二週間はたったと言っても、呼ばれなかった月日が長過ぎた。
 それに、彼は自分の事をどういう訳か「姫」と呼ぶ。
 振り向くと、何故かひどく不機嫌な顔で歩いてくる彼と、その後ろに、時々現れて時々いなくなる緑の服の少女。
 ぼんやりと、彼のマントがひらりと風に吹かれる様を見ていると、彼はすぐに彼女の前まで来た。
 何か言おうと口を開け掛け、閉じる。眉間にしわを寄せて思案する彼のその姿と、それを目を丸めて見上げる彼女は、端から見ると実に奇妙な関係のように見えた。単なる旅行者、というには、彼女の服装はそれには不釣り合い極まりない。
 一昔前のデザインの、体よりも大きなドレス。余った上着の袖に見え隠れする手は、分厚い手袋がはめられている。
 一方彼の方は、黒いマントに、その下に見える革製のスーツが、どこか堅牢な雰囲気を醸し出していた。旅行者ではなく、流浪の傭兵、という言葉が当てはまる。
 考えあぐねている彼の背後から、彼女よりも背の低い少女が顔を出す。
「何を見ていたの?」
 人なつこい口調と笑顔に、ローレライもまたわずかな笑みをこぼす。
「アメ……見てた、の」
「アメ……?あぁ、飴ね」
 たどたどしい言葉遣いと間違ったイントネーションに一瞬疑問を覚えるものの、少女はすぐに、彼女の背後にある出店の品の数々を見、その間違いに気付いた。
「すごく、キレイ……」
 頭だけをそれに向け、無邪気に笑う様子に、不機嫌顔だったヴィオラデルの表情に穏やかなものが混じる。
 それを見、少女が悪戯を思い付いた子供の顔で、彼女に首を傾げる。
「欲しい?」
「ルナ」
 即座にとがめようとするヴィオラデルに、ルナと呼ばれた少女は不敵な笑みで彼を見上げた。
「ヴィオ、ひどいんじゃない?飴くらい買って上げてもいいでしょ?」
「ヴィオラデル、だ。それに、道楽で使える程の持ち合わせはない」
「あら、ひどいお言葉。可哀相なロー」
 ひどく引っ掛かる言い方に、ヴィオラデルは内心、頭を抱えた。
 自分も、出来れば色々なものを彼女に与えたいと思っている。しかし、一人の時とは違い、近頃は金銭管理にも力を入れなくてはならなくなってしまったのだ。
 以前は、それ程金に困る事はなかった。というのも、彼自身全く使わなかったからだ。宿など取らずに、食事もほとんど取らない。時々必要になるものと言えば、情報屋から情報を買う時くらいのものだった。
 今は、情報を買う必要はなくなったが、下手をするとその倍の出費が出てくる。
 彼女を野宿させるわけにはいかないので、扉に鍵の付いた宿を取る。食事も、まさか自分と同じものだけで済ませる事は出来ない。安全と思える物、店で買った物を与えている。
 ドカリとしたものを買いはしていないが、毎日積み重なってゆくと馬鹿に出来ない。
 ローレライも、言葉遣いこそはたどたどしく幼稚なものの、その辺りの事は十分解っているらしく、あれが欲しいとかこれが食べたいなどといったわがままは一切言わない。大抵――今のようにルナが催促するのだ。
 しかも、それは全てローレライが興味を示したもので、ルナが欲しいものではない。……ルナがそんな事を彼に言う訳がないのは十分承知しているが、それでも始末に悪いのは変わらない事実だった。
 紅い瞳の隅で、出店の台に乗っている飴細工の値段を見る。やはり、ここまで緻密なものになるとそれなりの値になるものだ。買えない訳ではないが、躊躇の生まれる額が、小さな手製の札に書かれている。
 ふと、視線に気付き、ヴィオラデルは顔の向きを戻した。
 ローレライとルナが、黙ったまま彼を見上げている。ついでに言うならば、店の店主も疑わしげな目で彼らを見ていた。それは全く構わないのだが……。
 ルナは変わらず面白げににやついている。それも別にいい。ただ、ローレライの方は期待しつつもほぼ諦めている、不安げな顔だった。そんな表情をされると、正直なところ、駄目だと言うのに辛いものがある。
 悶々としていると、不意に最近こういった事で悩む事が多いという事に気付いた。以前はこんな祭りの中に入る事も、何かに深く悩む事もなかったのだが――何故か特段、煩わしいとは感じない。
 環境が変化したせいなのか、それとも――
 思案を巡らせていると、ローレライが遠慮も何もなく、顔を覗き込んでくる。触れてしまいそうな程間近まで近付かれ、ヴィオラデルは思わず身を少しばかり引いた。事の行く末を見守っていた飴屋の店主も、ぎょっとしたようだった。
 だが、彼女にしてみればなんて事のない行動なのだ。現に、ローレライはただただその飴色の瞳に彼を映し込んでいるだけである。
「ヴィオ、ラデル」
 やはりたどたどしく、名を呼んでくる。ルナがヴィオと呼ぶのと、それを自分がとがめるのとを、日に何度も見ているせいだろう。彼女は彼を呼ぶ時、おかしな部分で区切る癖ができてしまっている。
 無言でその目を見つめ返すと、ローレライは小さく頷いた。
 何の事なのか訊こうとするが、それよりも早く彼女は身を翻し、通りの反対側まで走った。動き難いロングスカートで街灯の土台に登り、周囲を見回す。
 背が低くも高くもない彼女でも、そんなところに一度登ってしまえば、成人した男性よりも頭が高く、そして顔も目立って見えるようになる。
 そこまでの行動で、ヴィオラデルは彼女が何をしようとしているのかを察する事が出来た。ルナもまた同様、そして早くも拍手を送っている。
 通りを行き交う人々の中に、変わった風貌の少女の登場に目を向け出す者が何人か。
 ローレライは人々の波を、満足そうに見下ろした。自分を見てくる目を一つ一つ見返し、最後に最も遠くで彼女を見つめているヴィオラデルに、薄く微笑む。
 大きく手を振り、どこか芝居がかった仕草で、ローレライは一礼した。
 歌が紡がれる。
 儚く、美しく、響く。
 ――かつて人を惑わし、狂わせたと言われた、魔女の歌声が。
 ヴィオラデルは、静かに瞼を閉じた。






 喧騒の彼方から聞こえてきた歌声に、ケインはふと背後を見た。
 伸ばしたまましばらく切っていない銀色の髪が、片方だけの碧眼に掛かる。それを片手で払い、片方の手に持った大斧の柄を持ち直した。斧の柄は両手持ちを意識して作られているせいで長く、持ち直そうとする度に藍色の外套に引っ掛かりそうになる。
 耳をそばだてるが、もう歌は聞こえない。
 距離があったのか、それとも声が小さかったのか、または周りが騒がしかったからなのか、歌詞はうまく聞き取る事は出来なかった。
 だが、旋律はうっすらと耳に残っている。
 美しいが物悲しく、儚い。
 清廉とした、ガラスの芸術品の奏でる音のようなその声に、振り向いたのは彼だけではなかった。すぐ隣を歩くマリアは、彼よりもいくらか確信して、一方向を見つめている。
 ただそれだけの事なのだが、ひどく安堵を覚える自分がいる事に、彼は何とも言えない可笑しさに苦笑しそうになるのを抑えた。
「綺麗な歌だったね。歌ってる人、見た?」
「いいや」
「え……おしかったね。凄く綺麗な人だったのに」
 そう言いながら、マリアはまだ周囲を見渡していた。彼女が首を振る度に、それにつられて胸元に下がっている銀製の十字架も、涼やかな音をたてる。
 肩に届くか届かないかの長さの、色素の薄い金髪を指ですきながら、ケインは片目で笑いかけた。
「戻るか?まだいるかもしれねぇぞ」
「え?い、いいよ。急ごう」
 濁した言葉で断るその彼女には、多少のためらいがあった。興味はあったのだろう。
 彼はじっとその鮮やかな碧眼を見つめた。すると、いたたまれなくなったのか、マリアは素早く視線をそらす。
 聞こえないように舌を打ち、その頭を片手でがしりと掴んで自分の方へ無理矢理向かせた。
「遠慮すんなよ、マリア。なぁんでも買ってやるし、どこにでも連れて行ってやるぜ?」
 実際それほど余裕がある訳ではなかったのだが、こう露骨に遠慮されるのは腹が立った。
 不機嫌な笑みを浮かべて顔を近付けて言う彼には、片目だけとは言え、眼光と声だけで人を気絶させてしまうそうな圧力が有り余る程ある。
 マリアは思わず身をすくめた。もう何年も共にいるのに、この威圧感には一向に慣れない。
 それに……と、わずかながら血の気を引かせる。
 首の痛みもあったが、それよりもマリアは自分の身の保障の方が気になった。正面にある笑みは、今まで何度も彼女を危機に陥れてきた表情だ。
「……一応訊くけど、タダってわけじゃないよね?」
 おそるおそる訊いてくる彼女に、ケインは一瞬だけきょとん、と片目を開いた。
 だが、眉をひそめる寸前で一転、ケインは口許を弓なりに歪めた。
 マリアにしてみれば、猟奇的とも言える、先程よりも遥かに危険な表情だ。
 クク、と彼の喉の奥から、低く声が聞こえてくる。
「いいねぇ。良い心がけじゃねぇか。そうだな……何を『して』貰おうか」
「ひぃっ!」
 自分の失言に気付いた時には、もう遅い。彼女はずるずると出店の並んでいる通りに引っ張られていた。
「いや、いいから!本当にいいから!」
「おいおい、ひでぇな。俺はただお前の喜ぶ顔が見たいだけだぜ?」
「くさい!セリフくさいし!そんな顔で言われても嬉しくないし!」
 焦った頭で、マリアは浮かんだままの言葉をそのまま口にした。それがどんな事態を引き起こすか、充分すぎる程体感しているはずなのだが。
 ケインはひた、と足を止め、蒼い隻眼を静かに据わらせた。
「ほぉ……いい度胸だな。裏までちょっと顔貸せや」
「ぎゃあ!ごめんなさい、ごめんなさい!」
 多くの視線を集めている事にも構わずに、一方的な攻防は長々と続けられた。






  時の彼方に今、一人、
  いつしか思い、忘れゆく。
  遠い思い出、幼き日、
  ガラスの向こうにかすみゆく。

  さぁ出や、旅人よ。
  救い求めぬ、旅の人。
  その心を空に示せ。
  曇り曇った目を覚ませ。

  時の果てに今、一人、
  いつしか光、見失う。
  儚き想い、恋心、
  水面の奥に沈みゆく。

  さぁ出や、旅人よ。
  想い求めぬ、旅の人。
  その指で糸を繰れ。
  糸の先を結い付けよ。

  時の狭間に今、一人、
  いつしか闇に、迷い込む。
  固き決意、無垢な誓い、
  霧の白さにかすみゆく。

  さぁ出や、旅人よ。
  探し求める、旅の人。
  その眼差しを天に示せ。
  よどむ陽の光を貫け。


  さぁ出や、旅人よ。
  求め求めぬ、旅の人。
  差し伸べられた手を握れ。
  決してそれを離すなかれ。





  ◇  ◇  ◇






 歌が終わり、再びローレライが頭を下げると、待っていたのは拍手の渦だった。当然とも言える事だったが。
 拍手とほぼ平行し、いくらかの小銭や紙幣が彼女の足下に投げられる。普通の往来だったなら、もしくは彼女が普通の格好だったのならば、金など投げ込まれる事はなかったかもしれない。が、今は祭りの最中であり、彼女の格好も手伝い……さらに言うならば、途中からルナが自分の帽子を取り、人々の前を廻り出した事もあり、見事に大道芸と思われたらしい。
「ロー、こんなに貰えたわよ!」
 ルナが、帽子の中身を彼女に見せる。廻って集めた金とは別に、地面に投げられたものもかき集めたらしい。
 ローレライの頬は、わずかに赤く染まっていた。いくら入っているのかはヴィオラデルには見えなかったが、その緑色の帽子がいびつな形になっているのを見る限り、相当入っているようだ。
 嬉しそうに、ローレライはルナから帽子を受け取った。それを大事に胸に抱え、真っすぐにヴィオラデルの方へ駆けてくる。
 観客と化していた者の中には、彼女に魅了された者もいたのだろう。熱っぽい視線を投げ掛けてくる者もいたが、ローレライは全く気付いていない。ヴィオラデルは足早に彼女に近付き、その何人かを鋭く睨み据えた。
 彼の吊り上がり気味の深い紅の瞳は、ただ見るだけでも効果はある。それが意図的に鋭くされると、矢じりの切っ先よりも強く相手を射抜く事が出来る。
 ぞっとした表情でそそくさと去ってゆく男たちを後目に、ヴィオラデルはふん、と鼻を鳴らしてローレライに向き直った。
 その彼女の背後で、何やらにやにやとしているルナに何となく腹が立ったのは、おそらく気のせいではないだろう。
「ヴィ、オラデル、アメ、いい?」
 先程まであれほど滑らかに言葉を紡いで歌っていたのに、と、彼でなくとも思っただろう。
 普通ならば苦笑の一つでも浮かべるところだが、ヴィオラデルはただ彼女の帽子の上に手を置くだけだった。
「貴方のものだ。好きに使えばいい」
 そう言ってやると、ローレライはさらに表情を明るくさせた。
 重そうな緑色の帽子の中から紙幣を二枚だけ出し、背後のルナに帽子を返すと、飴細工の屋台に走ってゆく。
 ルナはしばし呆気にとられていたが、すぐに大きく噴き出した。
「可愛いわね。飴のお金だけしか持って行かなかったわ」
 笑うルナには何も言わず、ヴィオラデルはローレライの背中を追った。まだ彼女の歌の余韻に浸る者、感想を言い合う者、その場に居続ける者は多種多様であったが、皆笑みを浮かべているのに変わりない。先程散らした数人以外は、純粋に彼女の歌に惹かれたようだ。
 大したものだ、と思う。
 ややあって、ローレライが戻ってきたところに出くわす。小さな紙の箱を一つを片手に持ち、もう片方の手は後ろに隠している。
 彼が疑問に思い、後ろに回された手を見ていると、ローレライは少々照れた様子でその手を彼の前に出した。
 その手にあったのは、一輪の赤いバラ。
「ヴィオラ、デル、あげる」
 ヴィオラデルは、突然の事にまばたきを繰り返した。
 傍から見れば、それは不自然極まりない光景だったに違いない。逆ならばまだ違和感は抑えられただろうが、古めかしいドレスを着た美しい娘が、黒いマントで身を覆った陰気な青年に、バラの花を手渡しているのだ。おかしい事この上ない。
 だがそう思うのは周囲と、一歩退いた位置でその光景を見ていたルナだけで、当人二人には全く問題ないらしかった。
 ヴィオラデルは再び微弱な笑みを浮かべ、バラを受け取る。ローレライはただ純粋に喜んでいる。
 ルナは、苦笑混じりに帽子を抱え直した。そうしてから、一歩を踏み出す。
「で、ロー?どんなの買ったの?」
 ルナが人差し指で、彼女の手にある小箱を指すと、ローレライは目をまばたかせてから、嬉々とした表情で箱を開けた。
 紙製の白い箱の中に、彼女瞳や髪と同じ色彩の細工が一つ。
 ルナが感嘆の声を上げると同時に、思わずヴィオラデルは息を飲んだ。
 中に入っていたのは、背にある鳥の翼を大きく広げた女性……一般的な人々が思い描く、神の遣いを象った飴細工だった。
「可愛いじゃない。これが欲しかったの?」
 見事な細工に騒ぐローレライとルナを眺め、ヴィオラデルはわずかに表情を曇らせた。
 ふと、自分の腰にベルトで固定された刀の柄に触れる。親指の先を鍔に掛け、押す。小さな音一つで、刃が鞘から顔を出した。マントの下の事なので、誰に見られる訳でもない。
 鍔元の、切れ味の最も悪い刃に、指の腹を滑らせる。小さな痛みと共に、足下にぽたりと赤い雫が落ちる。
 静かに刀を収め、ヴィオラデルはその指から流れ出た血を舐めた。
 喉の奥まで血の味が広がると、衝動が起こる。
 近頃忘れがちになっている、自分の中に隠れている性質が、否応なく自覚できる。
 が、不意に眼前に、飴細工が出される。
 わずかに目を見張ると、ローレライが変わらない笑顔でそれを見せてきていた。
 何が言いたいのか、そこまで理解は出来ない。それでもヴィオラデルは、彼女の髪をひと撫でし、マントの裾をひるがえした。
 渡されたバラを見やる。
 ヴィオラデルは目を細め、その赤を一枚取り――口の中に入れた。
 血を含んだときとは逆に、安堵する。気が自然と静まる。
 息をつく。ふと、こんな人間くさい仕草をしていた自分に、苦笑がこぼれそうになる。
「やぁ、素晴らしかった!」
 背後から、いまだにざわめきの収まらない中から、一際目立った声が掛かる。それは当然だろう。他は噂する声で、これは話し掛けている声なのだから。
 振り向き、ヴィオラデルは目を見開いた。
 平均的な黒髪に黒目、白いマフラーで首元を緩く覆っている事と、やわらかな物腰を除けば、際立った特徴はない。ごく一般的な好青年と言ったところだろう。
 問題は、その名前も知らない好青年が、当たり前の事をしていると言った面持ちでローレライの手を握っている事だった。
 自分でもはっきりと解る、顔の変化。青年の声に反応して興味本位で見てきた者たちが皆、彼の壮絶な表情を見て血相を変えて去ってゆく。
 ルナが、大げさにやれやれなどと声を出して呆れているのも気にならない程、ヴィオラデルは怒りを露にしていた。
 が、その原因たる青年とローレライは気付いていないらしく、青年はニコニコと人の好く笑みで彼女の手を握りしめ続けている。
「物悲しい中にも情緒があり、実に素晴らしい!声も透き通っていて、聞いていて心地良かったよ」
「あ、あ、りが……」
 照れて、と言うよりは半ば戸惑い、ローレライは喉を詰まらせた。
 人前で歌う事に対しては何の気兼ねもない彼女だが、人の波の中に入るようになってまだ日の浅いせいか、ヴィオラデルとルナ以外の者と会話する事が苦手だった。今も、しきりにまばたきをして視線をさまよわせている。
 だが、そのローレライの反応も気付かないのか――それとも、その世間擦れした姿と態度に何か感じ入るものがあったのか、青年はさらに彼女に顔を近付けてきた。
「出来れば、もっと話を聞きたいな。どうだろう?そこのカフェテラスで――」
 激昂に任せ、ヴィオラデルはマントの下の刀を抜いた。
 先程とは異なり、周囲がひやり、と凍てつく。
 鋭い真紅の瞳の先――歌姫に声を掛けた青年の顎の下の産毛を切った位置で、切っ先はぴたりと止まっていた。
「……姫へのそれ以上の無礼は、許さん」
 地の底から響くような脅迫は、向けられた者でなくとも震えを覚えさせる。
 青年の喉が、大きく鳴った。降参の意を示してなのか両手を上げ、滑るように後退する。
「……ふん」
 もうすでに興味をなくしたように鼻を鳴らし、ヴィオラデルは刀を収めた。
 きょとん、と目を丸くしているローレライの手をうやうやしく取り、その場を足早に去る。
 今までどこにもいなかったようにも思えたルナが、突然彼の横に並ぶ。その顔には、ありありと呆れと諦めを含んだ苦笑が浮かべられていた。
「過保護ねぇ、ヴィオ」
「……ヴィオラデルだ」




  <守護者たちの黄昏時>



「貴方は知っていたはずだ。私が彼女を愛していた事を、彼女も私を愛していた事も。それでも貴方は私に命じた。その結果は、もつれてしまった糸のように複雑で、ほどくのも不可能な程に絡み合ってしまった。貴方は決して万能ではない。だが零能でもない。それを自覚すべきだった。……私も、貴方も」




  ◆  ◆  ◆




 橙と紫色の入り混じった夕闇に、弓張り月が一つ。
 昼の騒がしさがそのまま残った町は、驚く程不気味なものだった。何よりも、収穫祭の象徴としてあちこちに立てられた木彫りの神像が、くすぶっている街灯とは別に灯された、簡易な灯ろうの炎に浮かび上がっている様は、どこか悪魔的な雰囲気をかもし出している。
 アイニは宿の窓からそれらを見渡し、手にしていたドリンク剤を飲み干した。独特の苦みが、口いっぱいに広がる。まるで今の自分の気分のような味に、口の端を固く結んで下げる。
「……やはり……」
 独り言を言う趣味はないが、言わずにはいられなくなる。
「向かう地が同じだからと言って、あの人と来る事はなかったな」
 あの命令書はたたんで服の中にあるが、もう見る気にもならない。だが内容はほぼ完璧に覚えている。あの不審極まりない部分も――と言うより、あの部分は特に鮮明に。
 思い付いたように部屋の中を見回す。やや大きめの部屋には、彼一人しかいない。
 無意識に、愛用の大槍を見ていた事に気付き、アイニは苦笑を浮かべた。
(もし任務も忘れて楽しんでいたら、一足早い出番という事になるな)
 無論、そんな事はないだろう。
 彼から見てあの上司はだらしない部分が目立つが、自分よりもナンバーは上なのだ。その実力を目の当たりにしたのは一度や二度ではない。
「……同部隊情報処理班『紫牙』、ナンバー〇四六、レニィ・アイヴァンです」
 窓の外からの声に、アイニは別に驚きもしなかった。
 ただ黙って、備え付けのライトテーブルにドリンクの瓶を置く。
「聞こう」
「は。対象は二番街の『ロッゲンブロート』という民宿に、同行者と共に宿泊中です」
「その、『同行者』の情報は?」
「詳細は不明です。双方共にコズメア出身らしいので」
 さらりと言われたコズメアという地名に、アイニは目を細めた。
 七年前に突如起こった謎の大火災の末に、たった一晩で消えた辺境の町。
 それまで名前を知る者の方が少なかった一集落は、その消失の凄惨さで一気に有名になった。
 悪魔の所行だとか、未知の生命体の襲来だとか、天変地異の前触れだとか、生き残った魔女の仕業だとか、オカルト好きの間では随分と噂になり、今では周辺を廻るツアーまで出来ているらしい。
 馬鹿馬鹿しい噂ではあったが、町が一つ消えたという事だけは真実だ。それ以外は噂でしか耳にしていなかったが、確か生存者はほとんどいなかったと彼は聞いていた。
(生存者がいたのか……)
 感慨深く、アイニは嘆息した。
 何があっての事かは知らないが、奇跡とも言える生存者だ。その奇跡の存在を、場合によっては手荒な事をしてまでも連行しなければならない。しかもそれは、何の変わりもない、普通の少女だ。
「同行者の特徴は、何かあるか?」
 少女の顔は解っている。だが、その同行者の事は一切知らされていない。この町に着いてから最初の昼の報告で、やっと知ったくらいだ。手早く正確に、との命令だが、不明な点を残したまま任務にあたれば、失敗の可能性はゼロから有数になる。
 彼らナンバーの若い者の中では当然の事だ。だが、馴染みの情報係であるレニィは、珍しく言いよどんだ。
「……銀髪に、蒼い……隻眼です」
「隻眼?」
「は。顔の左のほとんどを、黒い布で覆っています」
 聞いただけで、アイニは笑いそうになった。言葉だけでも、何とも目立つ容貌だという事は容易に想像出来る。
 民宿に泊まっている以上、他の客を巻き込む恐れは多い。出来るだけ、出歩いているところを狙いたいと思っていたのだが、それだけ目立つ者が傍にいるとなると、往来でなくとも難しい。
 するならば夜。そうなると、泊まっていると確実に解っている今夜が望ましい。
 考えていたよりも、不可解かつ面倒な任務だ。
「あと二つ、教えてやろうか、アイニ」
 肩を震わせる。聞こえた声は、先程まで隣の部屋で遊んでいたはずの上司のもの。
 振り向くと、エルが着崩した隊服の襟をさらに緩め、壁に背を預けていた。扉はしっかりと閉まっている。
 エルは、ここに来るまで不機嫌だった顔を、襟と同じように緩めていた。
 酒が入っているのかとも思ったが、それにしてはそんな空気は微塵も感じない上、音一つどころか気配も感じさせずに部屋に入ってきたのだ。飲んではいないのだろう。
 緩みきった顔で、エルはアイニに指鉄砲の先を向けた。
「極度のシスコンだと」
「シスコン?」
「ぱっと見た限りでも、溺愛してるらしい。それと」
 いよいよだと言わんばかりに、エルはその指先を上へ弾いた。
「得物は『大斧』だ」
 大斧――
 その単語と、それを自分に伝えたエルの意図に、アイニは息を飲んだ。
 次の瞬間に彼が浮かべた動物的な笑みに、エルは微苦笑を隠す事が出来なかった。
「それで、レニィ。私の方はどうだい」
 アイニから目をそらすついでに、まだ外にいるであろう情報係に問い掛ける。
 レニィはしばし間を置いた。メモか何かを変えているのだろう。きっかり三秒後、全く同じ口調で静かに告げてくる。
「こちらも『ロッゲンブロート』に、一人だけ宿泊しているようです」
 それだけ言い、レニィが黙る。受理した、の一言でも待っているのだろうが、その内容に、エルは微かに肩を震わせた。
「……騎士の方は?」
「は?」
「こっちにも同行者がいるだろう?オヒメサマを守るナイトが」
 またも、レニィは無言になった。今度は驚愕と、自分の落ち度への口惜しさ故のものだろう。『紫牙』のナンバーを持つ以上、実行側の人間に報告する時には、情報は寸分違わずに調べ上げなければ、情報処理班としてのこけんに関わる。
 だが、先程からエルは、その彼女の持ってきた情報よりも細かな部分を言ってのけている。それが何とも言えないのに違いない。
 アイニは自分の得物を手にしながら、まだ見ぬ大斧の使い手と想像の中で対峙していたが、その場の状況に思わず肩を落とした。
「悪趣味がすぎる」
「その辺りを歩いている女性は、何も見ていないようで全て見ているものさ」
 解るようでもあり、解らないような気もする事を言いながら、エルは背中を壁から離した。
 窓の方に近寄り、少しばかり声をひそめる。
「私の方は『緑』との共同作戦だ。出来る限り、その『騎士』の方も調べておいてくれ」
「…………了解しました」
 幾分か沈んだ声で、レニィはそれだけ言って気配を消した。





 ケインは、風の中に含んだ夜気を肺に吸い込みながら、ゆっくりと片目で周囲を見渡した。
 格安の民宿だったが、小さな庭は手入れが行き届いており、一階にある食堂にいるよりも心地良い。それはマリアも同様のようだった。もっとも、彼女は食事をする場にいる事自体に抵抗があるのだから、当然なのかもしれない。
 マリアはぼんやりと月を見て歩き、薬局で買ってやった栄養ドリンクを飲んだ。
 市街の中心部ではまだ騒がしさが残っているのか、明かりは月だけではなかった。それ故、彼女の顔も、その肌の白さや細さもはっきり見る事が出来た。
「そう言えばさ」
 昼と何ら変わらない口調で、マリアは背後のケインに話しかける。だが、一瞬だけ開いた間を、ケインは見逃さなかった。片方だけの目でいぶかしむが、すぐに彼女は続けてくる。
「……何でそんなに大きな斧にしたの?ケイン兄、剣とか棒術とかも出来てたじゃない」
 言われて、ケインは自分の持っている大斧に目をやった。
 両手用の、それも土木用のものではなく、鋼の部分が厚く、重心や切れ味にも気配りされた、一般に戦斧と呼ばれる野戦用の斧だ。重さも、出回っている長剣の倍以上はあり、様々な場面を想定した為に長くなった柄は子供の身長程もある。
 剣のように腰に提げるわけにはいかない代物で、現にケインは始終、片手をそれに取られている。
 確かに、剣や棒術用のロッドだったならば、携帯に困る事はなかっただろう。疑問に思うのも無理はない。
 だが、ケインは変わらず彼女の小さな背中を見つめながら、斧の柄を改めて握り込んだ。
「目立つだろ?」
「うん」
「目立った方がムシが寄って来ないだろうが」
 絶句して振り返ってくるマリアに、にぃっと口角を上げる。
 彼の言葉の真意を理解出来ない程、半端な付き合いではない。夜の薄明かりの中、マリアはわずかに頬を染めた。
「な、に、それ。わけ解らない」
 減らず口は健在だが、それを言う声は少し震えて強張っている。
 ケインは喉の奥をクツクツと鳴らしてから、歩幅を広げてマリアに近付いた。
 不審がって一歩退こうとするする彼女の頬に、空いている手をあてがう。撫でるでも、ただ当てているだけでもなく、彼女の顎の骨のラインに指を引っ掛け、逃げ出せないよう、顔を背けられないよう捕える。
「訊きたい事はそれだけじゃねぇだろ?」
「う……」
 隠していた菓子が見付かってしまった子供の顔で、マリアは小さく呻いた。
「言えよ。今さら隠し事はなしにしようや」
 口許は笑ってはいるが、その片目は真っすぐ射抜くように鋭い。言い逃れも、ごまかしも許さない。それを言外で如実に語る目。
 マリアは身をすくめながらも、その蒼い目に見入っていた。昔から何一つ変わらない、不可侵の深海を映し込んだような色は、同じように底が見えない。
 そこに自分が映っているのを見る度に、何かがざわざわと騒ぐ。くすぶるような、底冷えするような、相反する感覚が同時に襲ってくる。
 だが最近はそれに加え、わずかな――ほんのわずかな恐怖感が混じる。
 その原因は解っている。
 今よりずっと幼い頃に失った影が、脳裏によぎる。
 だが。
(……言える訳、ないよ)
 自分も真っすぐケインの目を見ながら、マリアは喉を震わせた。
「……ごめん、今は…………言えない」
 小さな拳を握りしめて言うマリアに、指の力を弱めながらケインは笑みを引っ込めた。
「今は?」
「うん……ごめん」
 言えない。
 ――……怖いから。
 確かめるのが、とてつもなく怖いから。
 だから、今は言えない。訊けない。まだ、確かめる勇気の出ない、今は。
 奥底で何度も、謝罪の言葉を述べる。
 実際に口にしたのは二言だけだったのだが、ケインは短く息を吐き、解ったと言うように顎をなぞって指を離した。
「戻るぞ。明日も早いからな」
「そうだね」
 頷き、マリアは力なく笑った。
 いつも通りに戻っているケインの口調が、今はとてもありがたい。
 持ったままのドリンクの瓶を手の中で回し、また月を見ようと顔を上げる。
 ――が、マリアはその途中で不意に目線を止めた。何か信じられないものを見付けたように、体ごと硬直させる。
「マリア?」
 呼んでみるが、返事がない。ただ黙ったまま、人差し指で上を指す。
 その方向に目をやり、ケインもまた片目を大きく見開いて体を強張らせた。
 安っぽい宿の屋根の上空に浮かぶ月。その手前に、影が二つ。
 一つは、シルエットのはっきりした、おそらく男のもの。大きくその腕を振るう度に、細い線が月光に輝き、小さな影が夜空を裂く。
 もう一つは――異形、と見えた。月を背にしているとは言え、双方共に黒いものの、その影はよどみない漆黒に思える。
 人間のようにも見える影を、さらに包む黒。大きく翻るそれは、翼にも見えた。
(……悪魔?)
 馬鹿げた想像の単語に苦笑しそうになりながら、ケインは一つだけの目を細めた。
 シルエットは、やはりまがまがしい伝説上の魔物を彷彿とさせる。だがそんなものがある訳がない。そう思いながらも、完全にその想像を払拭しきれない。
 葛藤する中で、ふとケインは背筋に凍るものを覚えた。
 自分よりわずかに前にいたマリアの肩を掴んで引き寄せ、大きく後ろへ跳ぶ。
 マリアが、驚いただけの小さな悲鳴を上げる。
 次の瞬間には、先程まで彼女がいた地点にその影の主が落ちてきていた。






「貴方は大海のよどみの狭間で、一体世界の何を見ていると言うのだろう。何も見ていないのに知っているように振る舞っているのならば、貴方もまた俗世に捕われているに過ぎないと言う事だ。滑稽だ。実に、滑稽じゃないか。貴方はそうあるべきではない」





「時の彼方に今、一人……」
 歌が聞こえる。
 昼間のように誰に聞かせるでもなく、ただただ一人で歌いつづる声が。
 ヴィオラデルは窓枠に腰掛けたまま、ベッドに寝そべって髪をいじりながら歌うローレライを一瞥した。
 年齢的には成人した女だが、その様子は十代前半か、見る者によってはまだずっと幼くさえ見える。
「いつしか思い、忘れゆく……」
 宵闇の中に、ぽっかりと浮かぶ月を仰ぐ。
 忘れる事もあったとして、忘れる事の出来ない思いもある。ヴィオラデルは自嘲気味に、手の中のバラの花びらを撫でた。
 唐突に思い出す事もある。
 随分長い事こちらにいるからだろうか。以前ならば気にも止めない事にも敏感になってきた。
 時折ふと思い出す顔がある。
 それこそ――
「遠い思い出、幼き日」
 続く歌の一遍を、彼女に気付かれないように口の中で呟く。
 幼い、という表現が自分に当てはまる時期があるのかどうかは解らないが、かつての日が遠く届かない事は確かだ。
 それでも消える事も、忘れる事も出来ない。それだけ強烈に残っている、鮮明な記憶。
「――ガラスの向こうにかすみ、ゆく……」
 旋律の中に、変化があった。最後の方に、緩やかに消えるような伸び。
 そこでぷつりと歌が途切れた。
「…………姫?」
 見ると、ローレライは手を放り出して大人しくしている。雰囲気から察するに、眠気が襲ってきたのだろう。帽子まで被ったまま、呼吸も静まらせていく。
 吐息を漏らし、ヴィオラデルは部屋の床に音もなく立った。足音を出来るだけ殺し、彼女に近寄る。
 毛布に手を掛けようとしたところで、ぐらりと足下が揺れ、呼吸が乱れた。
 何とか音を立てないように体勢を保つと、その手がベッドに付いてローレライの髪の先に触れる。
 たったそれだけの事に、体中が粟立つ。
 すぐにその手を離し、額にあてる。途端に力の抜けた膝が、その場に体を沈めた。
 床に膝をつく。顔を上げると、眠っているローレライの安らかな横顔がある。やがて視線は、その無防備な首筋に辿り着く。
「ぐ……」
 開きかけた口を閉じると、自然とうめき声がこぼれる。
 立ち去れば収まる。それは解っているが、そうする力が入らない。
(……当然か)
 抑制が利かなくなる前に、ヴィオラデルは自身の掌に歯を突き立てた。ぶつ、と鈍い音と共に、鋭い牙の先に鉄の味が広がる。
 慰めにしかならない事は承知の上だ。ヴィオラデルは急いで自分自身の血を味わった。
 落ち着きを取り戻し、足に力を入れる事が出来るようになってくる自分が可笑しくてたまらない。微苦笑の後に、立ち上がる。
 自分にベッドは必要ない。それをもっともな理由にして彼女だけに部屋を取ったというのに、これでは意味がない。
 小さな傷跡のできた掌を見る。解っている、解っていると何度思っても、堕ちきった己の性質に抗う術は見付かっていない。それでも何とか保っていられるのは、以前から揺らぐ事のない確固たる決意と……色あせかけて霞んでいる、だが確かな約束の存在のおかげだ。
 そしてその約束は、そのまま自分の罪と最大の気掛かりでもある。
 後悔はない。だが、時折こうして自分自身の中にある衝動に堪えられるかどうか不安な気分になると、唐突に思い出すのだ。
 自分にとって唯一の友との、別離の際に交わした会話。
 自分が、まだ『ヴィオラデル』である事の、何よりの証。
 それさえ揺らぐ事がなければ、自分はまだ大丈夫だ。
(何より……)
 何も気付かないまま眠り続けているローレライの瞼に、指先で触れる。
(貴方がここにいる)
 撫でるように指を滑らせ、こめかみに掛かっている飴色の髪を巻き付けるようにいじると、眠りが浅かったのか、彼女はうっすらと瞼を上げた。
「ヴィ、オ、ラデ、ル……?」
 反射的に、手を離す。ローレライは億劫そうな緩慢な動きで、身を起こした。
 見上げてくる澄みきった明るい色を見ながら、ヴィオラデルは血の滴る手をマントの下へ隠した。
「……すまない。邪魔をした」
 出来る限り落ち着いた声色で、いつも通り言ってその場を去ろうと体を反転させる。
 だが、数歩だけのところで、足を止める。マントの端を、ローレライが軽く掴んでいた。
 眉をわずかにひそめると、さらに下に引かれる。屈め、という事なのだろうか。
 ヴィオラデルは一瞬だけ躊躇した。つい先程、衝動を抑え付けるのに苦心したばかりだ。彼女の首に噛み付いたりしないよう、いち早く離れた方がいい。
 自分を見上げてくる瞳を見る。濁りのない飴色が、まっすぐ向けられている。
 嘆息一つ、ヴィオラデルは身を低く下ろした。目線が平行にかち合う。
 ローレライは黙ったまま、手を伸ばした。
 その手には、相変わらず登山に使うような分厚い手袋がはめられている。薬を塗っても治らなくなってしまった、彼女のぼろぼろの手を隠す為のものだ。
 その両手で、彼女はそっとヴィオラデルの両の頬を包んだ。
 彼女が何をしたいのか解らず、されるがままになっていると、彼女の右の手が、頬よりもやや下の顎に移る。
 撫でてから、ローレライは片方の手袋を外した。痛々しい古傷の数々が、外気にさらされる。
 それをとがめようと彼が口を開く寸前、彼女の指がそれを押さえた。傷だらけの指の腹が、彼の薄い唇をゆっくりとなぞる。
 かすかなくすぐったさに瞼を伏せると、その途端にローレライは指を離した。離れた指先を見、ヴィオラデルは苦々しい気分に奥歯を噛む。傷でただれた指の先に、真新しい赤がある。考えるまでもない。自分で自分自身の血を飲んだ跡が、残っていたのだ。
 思わず、目をそらす。だが、すぐにローレライの手が、先程と同じように彼の頬を包んで自分の方へ向けさせる。
「ヴィオラデ、ル……辛い?」
「……辛くはない」
「じゃあ……苦しい?」
「……苦しくはない」
「じゃあ」
 ローレライは飴色の目を曇らせた。箱に入れられたまま、テーブルの上にあるの飴細工をふと見やり、また真っすぐ彼の赤い瞳を覗き込む。
「怖い?」
 ヴィオラデルは、大きく目を見開いた。
 自分の中にある衝動。それを抑えきれなくなったら、と想像する度に起こる、ひやりとした感覚――近頃、不可解な感情や行動に戸惑うようになるのと比例して大きくなってゆく、鳴り響く鐘のような。
 これを何と呼ぶか。不安のさらに奥にある、身をすくませる程の温度。
「……そうだな。俺は、怖い」
 自分を失ってしまうかもしれない予感と、自分の目的を忘れ、衝動のままに行動してしまいそうな予感。
 何よりも恐ろしいのは――
「血をすすろうとする、自分自身が恐ろしい。何よりも」
 認めたくない。
 しかし、認めなければならない。それが、自分の選んだ道の上にある障害なのだから。
「……貴方の血を欲している『俺』が『私』の中にある」
 覚悟はできていた。友の制止を聞かないでここに来るからには、それなりの代償が伴う事など、解りきっていた。
 しかし、それがこんな脅威になろうとは、想像もしなかった。何を代価にしようと、決意は曲げぬ。そう思ってここまで来た事が、自分自身の衝動の為に根底から覆されてしまう。
 ヴィオラデルはもう一度目を伏せた。
 それからすぐにその場を立とうとするが、ローレライの手は彼の頬に添えられたまま、頭をしっかりと固定していた。
「姫、」
 続く言葉は、遮られる。
 緩い力で、ヴィオラデルは彼女に彼女自身の首筋に、顔をうずめる格好にされた。
 一際大きな自身の脈動に、身の毛がよだつ。
 目を大きく見開き、喉を鳴らす。
 人間にしつけられた犬が、餌を目の前にして待たされているのと全く同じ状況だ。しかも、「待て」と言われて待っているのではなく、「良い」と言われないから待っている、そういう状態。
 しかし異なるのは、その「餌」となるものが彼の主人たる「姫」である事。
「……姫、やめてくれ。私は約束を違えたくはない」
 かろうじてそれだけ言う――それは自分に対して言い聞かせるようなものでもあった。
 する、とローレライの手が緩む。
 彼女のその白い肌に鋭い牙を立てようとする自分を抑え、ゆっくりと体を離す。
 ローレライは、苦しそうに歪められたヴィオラデルの眉根を指先で撫で、いつものように首を傾げた。
「約束……?」
「あぁ、そうだ。それだけは、何があっても守る」
 あの、友の言葉に誓った。
 追放の危険を冒してまで、自分の事を気遣ってくれた、親友の言葉に。
 友は、愛する主を見限った自分に対しても気遣いしてくれた。
 ――お前が血をすする姿は見たくないんだと、言ってくれた。
 あの言葉にだけは。
 そしてその後の誓いには。
 相対する時が来たならば、自分は唯一にして真なる『探索者(デモニオ)』として、という絶対の誓いは、何としても貫き通さなければならない。
(主を見限った今、あの誓いまで裏切る事は出来ない……)
 下向いていると、ローレライの手が頬に触れてくる。弱い力で上げようとしてくるのに、ヴィオラデルは黙ってそれに従った。
「私を……」
 言い掛けて、ローレライは口をつぐむ。
 迷っているようだった。
 塔に幽閉されていた記憶からか、彼女は時折、ひどく傷付いたような目で言い淀む事がある。
 ヴィオラデルは、自分の頬を触る彼女の手の上に自分の手を重ねた。
 傷だらけで、ところどころ固い部分もある、およそ女の手とは思えないような感触を確かめる度に、どうして、と思う。
 彼女は、言ってしまえば普通なのだ。
 変わったものや綺麗なものには目を輝かせるし、虫や蛇などが出れば怯えて彼の後ろに隠れる。
 甘いものが好きかと思えば、苦いものには顔をしかめたりもする。
 どうして、彼女のような者が、と。
 ただ、彼から促すようにはしない。言うかやめるかは、彼女が決める事だ。些細な事でも、彼女に決めてもらいたい。
 そうしていれば、いつか問い掛ける事が出来る。
 見つめていると、ローレライはわずかに唇を震わせてから、口を再び開けた。
「私を、見ていて、くれる?」
「……?姫、それは……?」
 どう意味なのか、それが解らずにいたが。
 ふとした気配に、ヴィオラデルは立ち上がった。
 何とも言いようのない、確信の持てないものだったが……空気が異なる。
 不思議そうに見上げてくるローレライの手を取って立たせ、マントの中に引き入れる。
 服を掴んでくる彼女の背中に片手をあてながら、ヴィオラデルは刀の鯉口を切った。
 視線を巡らせる。変わりない部屋だが、やはり違和感がある。
「……ルナ」
 低く低く呼ぶと、空気の中から浮き出してくるように色彩が生まれ、霞みが形をなしてゆく。
 水泡が泡立つように徐々に色彩を増やし、形をはっきりしたものにさせ、ふわりと風が舞うと同時に少女の姿が現れる。
 具現化したルナは、無言で彼を見つめた。ただ、その顔はいつもの笑みはない。
「さぁ、この気配は何でしょう?」
 お決まりの問答が始まる。
 ヴィオラデルはしばし目を閉じ、耳をすませた。先程よりも鮮明になる感覚に、苦笑を覚えざるを得ない。
「人。それも、手だれだ。かなりのな」
「人数は何十人でしょうか?」
「…………」
 それを聞き、ヴィオラデルは目尻に力を入れた。正直なところ、何人が彼らに視線を向けているのかなど、解るはずがない。
 だが、この少女は何十人いるか、と聞いた。少なくとも、十人くらいの人数ではないのだろう。
「どういう事だ?」
「さぁ?」
 問い掛けても、この少女が答えない事は解っていたが、それでも聞かずにはいられなかった。
 ローレライの背中に回している手が強張る。まさか、とは思うが、他に思い当たる事はない。
 ヴィオラデルはローレライの体を片手で抱え込み、足早に窓から身を乗り出した。窓枠に足を掛けると、ルナが素早くその背中を抱き締める。
 彼のマントの黒に、少女の鮮やかな色が吸い込まれてゆく。感触もまた虚ろになり、その代わりのように、彼女の背中から巨大な獣の翼が姿を現す。
 月に照らされても尚変わらない漆黒の翼を左右に広げ、ヴィオラデルは窓から身を踊らせた。
 一度だけの大きな羽ばたきで、彼の体は素早く宿の屋根の上へ飛び上がる。
 そのままもっと高みへ向かおうとするが、その彼の右足を、何かが絡めとった。
 はっとなり、ブーツに包まれている足を見る。
 月光の明かりの中で、きらりと輝いてやっと見える――鋼線が彼の足を捕えていた。
 強く引っ張られるが、ヴィオラデルはあえて自分から高度を下げた。無理に抵抗して引きちぎられるのは、いくら何でもご免こうむりたい。
 斜面のきつい屋根の上に立つ。重厚なブーツの底と体重に、屋根の一部がぱきりと音を上げる。
 ヴィオラデルは静かに刀を抜いた。それと同時に、ローレライを支える手を改めてしっかりと力を込める。
 鋼線の元をたどらずとも、目の前に人影がある。
 手をだらんと下げているが、その掌には変わった形状のグローブがある。
 高い位置で吹き抜ける風にもなびく事のない、黒のジャケットの襟口には、銀糸で狼が刺繍されている。
「また会ったね?」
「…………」
 思いのほか明るい口調でそう言われ、ヴィオラデルは疑問にわずかにたじろいだ。刀を構えながら、じりじりと間を詰めて行ったところで――その人影が、昼間にローレライに対して無礼な言葉を浴びせてきた青年である事を思い出す。
 男は手首をかすかに回した。たったそれだけで、彼の足に絡み付いていた鋼線が滑るように取れ、男のグローブの中に収められる。
「しかし……驚いた。騎士は悪魔だったのか」
 さらりと言われた単語に、ヴィオラデルは肩を震わせた。
「魔女と悪魔。まぁ……お似合いではあるかな」
 刹那、刀の切っ先がその男の鼻先に突き付けられる。
 見るだけで底冷えする赤い目は、静かな殺気に満ちていた。だが、男は動揺一つ見せず、変わらず口の端を緩くしているだけだ。
「それ以上の無礼は許さんと言ったはずだ」
「確かに言われた。だが」
 男が肩をすくめる。何気ない仕草だったが、男の肩口から鋼の輝きが閃き、空を裂いて向かってくる。
 ヴィオラデルは翼で風を起こし、届く寸前でそれを落とす。柄のない小型のナイフが、高く耳障りな音を立てて転がる。
 だが、ナイフに関してはあまり期待はしていなかったらしい。眼前まで迫ってきていた男の手から――正確にはグローブの指先から伸びた鋼鉄の爪を、刃で受ける。
 鋼と鋼の擦れ合う音。
 弾き返して、ヴィオラデルは後ろへ跳躍した。ブーツの底で足場を擦り、刀を真っすぐ構える。
 男はそれを追いはしなかった。爪を月に照らし、舞台上の役者のように大きく手を広げる。
「許さないと言ったところで、何をすると言うんだい?」
 その手を、振るう。その瞬間、高く引きつった音と共に数本の鋼線が飛来した。その先には、弧を描いた釣り針がくくり付けられている。
 ヴィオラデルは翼を折りたたみ、身をひるがえした。低く跳び、足を抉ろうとする針をかわし、反転して数本を受け流す。
 その鋼線の嵐の中に、爪が再び襲いかかってくる。
 小さく舌打ちし、ヴィオラデルはローレライを体の内側へ抱き直した。息を吐き出し、刀で爪を受ける。――肩や腕に、釣り針が引っ掛かる。
 男は不敵に笑んだ。自分から素早く後退する。
 鋼線が引かれ、マントや服の上から肌を裂かれる。わずかに血も、空気の中に四散した。
 声を押し殺しながらも、手探りでローレライの体を確かめる。幸い、彼女には何の被害もないようだった。
「殺す気はないんだ。ただ、そのオヒメサマを渡してくれればいい」
「……やはり、姫か」
 今まで顔を伏せていたローレライも、さすがにハッと目を見張って彼を見上げる。
 苦々しく呻き、ヴィオラデルは唇を舐めた。翼を大きく広げ、呼吸を整える。
 滑らせるように切っ先を定めると、男はまたも大きく手を振った。
 今度は鋼線ばかりではなく、ナイフも数本混じっている。
 ヴィオラデルは高く飛び上がり、羽根をはばたかせた。ナイフをかわす間に、刀を歯でくわえ込み、空いた右手で直感に任せて鋼線を掴み、またはたたき落とす。
 掴んだ鋼線を全力で引く。が、思惑に反し、何かが弾ける音の後に男のグローブから離れた。切り離されたのだ。
 素早くそれを捨て、刀を握り直そうとするが、突如、横殴りに何かが彼の体の側面に衝突した。
「く……!?」
 ぐらり、と体と一緒に揺らぐ意識を引き戻して見やる。一抱え程の銀色の筒が足下に転がる。
 ランチャーにセットして射出するタイプの、衝撃弾の類いなのだろう。
 その時になって、自分を取り囲んでいたのはこの青年だけでなかった事を思い出し、情けなさに歯噛みする。
 まともにバランスを崩し、屋根から落ちそうになるのを、翼で支えようとする。
 が、翼が締め付けられ、広げる事が出来なくなる。
 目を見張って背中を見る。鋼線が幾重にも巻き付き、翼をがっちりと拘束していた。
 疲弊していなければ、こんな鋼線など引きちぎって羽を広げる事など雑作もない事なのに。そう思うだけで、悔恨の意がふつふつと吹き上げてくる。
 だが次には、ヴィオラデルは苦笑すら浮かべながら、ローレライをしっかりと前に抱きかかえた。それと同時に、背中から翼が消える。
(すまない、姫)
 背中で地面に激突する。
 その衝撃の中で、胸中でだけで謝罪の弁を述べる。
(貴方の血を、飲んでおけば良かったと思ってしまった)






 ケインは、瞬時に大斧を振るい、革製のカバーを闇の中へ放り捨てた。片手でマリアを抱え込み、もう片方の手で斧を狂いなく構える。
 土煙が立ち上り、何かキラキラと輝く糸のようなものが舞う中で、むっくりと影が起き上がる。
 警戒を解かずに呼吸を整えて見据えるが、当然と言うべきなのか想像に反し、それは普通の人間の男だった。翼のように見えたのは、その男の体を包むマントのだったらしい。
 男の目が、闇に光って彼らを睨む。暗闇でもよく見えるその目は、血よりも深い真紅の色だった。
「……誰だ?」
 上体だけを起こし、刀を持った手の甲で口の端に付いた血を拭きながら、男は低く訊いてきた。
 それはこちらのセリフだ、と出掛かった言葉を飲み込み、ケインは斧を構えたまま数歩近寄った。
「あんたが落ちてきた屋根の宿に泊まってる。それだけだ」
 ケインの言い方に、男は眉を神経質に動かした。
 その時になって、男のマントがもぞ、と動き、一人の女が顔を出す。すぐに男がマントで覆い直したが、妙な帽子を被った、ややぼんやりとした眼差しの女だった事だけは見えた。
 それを見、マリアがあ、と声を上げる。
 だが彼女がそれ以上を言うよりも先に、男が素早く立ち上がる。先程自分がいた場所を睨みながら刀を一振りし、隙もなく身構える。
「――……逃げろ」
 その短く静かな忠告の直後に、もう一つの影が舞い降りる。そして――
 また一つ別の影が、大きく大槍を掲げて現れた。







  <守護者たちの夜>





「待つ事しか出来ないというのか?だから貴方は私を生んだのか?何と惨い事だろう……貴方は貴方にも出来ない事を私に命じ、彼らに苦難の運命を植え付けた。これを惨いと言わずに、何と言うのだ?」






 水平に突きを放ってきた槍の切っ先を、斧の正面で受けて弾く。
 舞いくる鋼線とナイフを、刀で、またはマントで包めとって落とす。
 月に照らし出される影は、それぞれの手にある武器を握り直した。
 刀と、鋼線。
 斧と、槍。
 ヴィオラデルは突然の襲撃者の登場に、目を見開いた。新手かと思ったが、どうも違うようにも思える。
 身の丈よりも長い大槍を、事もなく構えている青年は、彼を一瞥はしても向かおうとはしていない。その男が狙っているのは、この風変わりな銀髪の青年のようだった。
「……ケイン・ブラックホーン、だな?」
 大槍を構えたままで、男が問い掛ける。
 よく見れば、年齢こそわずかに下であるように見えるものの、彼に襲いかかってローレライを渡せなどと言っている男と、ほとんど同じ格好をしている。襟元にある狼の刺繍も、全く同じだった。
「マリア・クリールを渡してもらおう」
「あ?」
 ケインと呼ばれた青年が、肌で感じる程の怒りを瞬時に放つ。マリア、というのは……そのケインが背中に回している金髪の少女の事なのだろう。その言葉を聞き、怯えた目で青年の外套を掴む。
「言われて、ハイドーゾとでも言うと思うか?」
 ケインが、まさに今ヴィオラデルがローレライにしているように、少女の背中に手を回し、力強く引き寄せる。
 大槍が、風を切る。
 ケインは大斧の柄を片手で回し、その先で槍の突きを受けた。
 その衝撃を、そのまま斧への回転に変え、片手のまま素早く刃を打ち込む。凄まじい音と振動が足下に響く。
 が、槍を戻した男は、寸前で左へ跳躍していた。着地と同時に地面を蹴り、ケインの左――黒い布で目を覆っている側を狙い、槍を振りかざす。
 高らかな衝突音が、夜風を震わせる。
 刀の腹で槍の先を防ぎながら、ヴィオラデルは背後のケインに目配りした。
 ケインは一瞬だけ理解出来ないようだったが、すぐにその大斧を振り下ろした。耳障りな音をたて、向かってきていた鋼線が切断される。
「互いに大変なようだな」
 言いながら、ヴィオラデルは槍を弾き返し、勢い付いたまま切り込む。が、相手は間一髪のところで後ろへ跳んでかわした。
 それを追って横薙ぎの一閃を繰り出すが、槍の柄で受け止められる。男は槍を半回転させ、刃を受け流し、一撃に転じようと片手だけで槍を持ち直した。
 が、ヴィオラデルは自分の愛刀をあっさりと手放した。ローレライを抱えていた手を離して服からベルトを引き剥がし、それを男の槍を持つ手に打ち付ける。
 痛みに、一瞬生まれた隙を逃さず、ヴィオラデルは男の腹に靴底を叩き込んだ。
 低く呻き、男が体を曲げて背中から倒れる。
 即座に刀を拾い上げ、ヴィオラデルは息を吐いた。ローレライを改めて抱え、刀を構えながら後退する。
 その一連の動きに呆気にとられそうになるが、ケインは口を弓なりに曲げた。ジャケットの下から小型のナイフ数本を投げ放つ男に向き直る。
「は!」
 皮肉げに一笑し、ケインは斧を振りかぶった。単調な円運動に斜めに力を入れた事で、変則的に旋回する。滑らかに幾重にも曲線を描いてナイフをことごとく弾き、落としながら、さらにその先端部で男に向かって打撃も加える。
 妙なグローブから鋼線を出していた男は、舌を打ってジャケットの下から警棒のようなものを出してそれを受けた。
 ケインは寸前で力を抑え、警棒に打ち込んで上から男の動きを押し押さえる。
「マリア!」
 呼ばれ、弾かれたように少女が動いた。外套の下から飛び出したマリアは、身を屈めて相手の懐に潜り込み、背中のベルトから折りたたみ式のトンファを外す。素早く組み立て、小さなかけ声と共に男のみぞおちに渾身の力で一撃を与える。
 ヴィオラデルの蹴り込みのように、相手を転ばすまではいかなかったが、彼女の一撃はそれなりに効果があった。今まで冷静に笑みすら浮かべていた顔が、大きく歪む。
 見逃さず、ケインは斧を引いた。
 マリアが戻ってから、引いた斧をやや向きを変えて突き出す。マリアが打ち据えたみぞおちに、今度はケインの渾身の打撃が食らいつく。
 さすがに二度も急所を打たれて平常を保っている事は出来なくなり、男は呻きながら後退した。大きく咳き込みながら、苦痛に脂汗を流す。
「お互い?あんただけだろ?」
 ケインは大振りに斧を担ぎ上げ、頬に流れた汗を指で払った。夜風がひやりと肌を撫でる。
 その様子に、ヴィオラデルはまたも敏感に眉を動かした。確かに自分は手負いだ。先程背中から地面に落ちた衝撃も、そう軽いものではない。元々本調子でないのも事実だ。
 しかしそれをこう言い返されると、どうにも引っ掛かるものがある。
 だが、ヴィオラデルはふん、と鼻を鳴らした。
「聞くが、少なくとも二十人以上に囲まれているのは、大変ではないのか?」
「え!」
 ヴィオラデルのさらりと言った事実に声を出したのは、マリアだった。
 その直後、四方から数発の衝撃弾が撃ち放たれる。
 ケインが斧を振るうが、役不足だろう。ざっと三十以上は向かってきている。
 舌打ちし、ヴィオラデルは再び羽根を具現化させ、最大まで羽ばたかせた。
 突然の突風に、皆が一様に身構える。
 けたたましい音をたて、弾はことごとく減速して地面に落ちた。
 マリアは絶句してヴィオラデルを見上げた。彼が目を合わせると、びくりと肩を震わせる。
 当然の反応の後に、少女は何かに気付いたように、ぼんやりと彼の端正な顔に貼り付いた陰鬱な表情を見つめた。
 が、その頬を、一転して不機嫌な眼差しでケインがつねる。その片方だけの目には、ありありと警戒心と怒りが覗いていた。
「いだだだだだ!痛い、痛い!」
「あんたのその羽根に比べりゃ、大した事じゃねぇな。マリアがぼやっとしてるくらいだ」
「ごめんなさい、ごめんなさい!もうしません!」
 その二人のやり取りに不思議なものを感じるものの、ヴィオラデルは静かに嘆息し、翼をしまい込んだ。
 どういう事か解らないが、退けも押しもし難い状況である事に変わりはない。今の衝撃弾も、またいつ飛んでくるかも解らないし、飛んで来たそれを完璧に防ぎ切る保障もない。
 だが、ケインはその彼の懸念の意を込めた嘆息を、鼻先で嘲笑した。次には、出方をうかがっている双方の相手には聞こえないよう、声を低める。
「事情を説明するって言うなら、どうにかしてやろうか」
「ちょ……ケイン兄!」
 ケインの言葉に何かを察したのか、マリアがとがめるように彼のジャケットの裾を引く。
 が、ケインは何の苦もなくその手を剥がし、かわりに空いている左手で彼女の体をぴったりと自分に寄せた。
 つられて、という訳ではなかったが、ヴィオラデルもまたローレライを抱え直す。
「案があると言うのか?」
「俺にならある。あんたにはあるかい、悪魔さん?」
 いちいち神経を逆撫でする言い方だ、とヴィオラデルは胸の内で毒づいた。
 しかし実際のところ、この状況を好転させる案は彼には思い付かない。それに、状況を説明しろと言われて出来る程の情報を持っている訳でもない。得るものは得ても、失うものはないに等しい。
「……いいだろう」
「おぅ、忘れんなよ。俺は高いからな」
 にやり、と音が出そうな程挑発的に笑い、ケインは顔の左を覆う布を額へ上げた。マリアが、顔を伏せてケインの腹にしがみつく。
 あらわになるその左顔に、ヴィオラデルは目を見張った。
 黒い布の下から現れたのは、彼のものと酷似した赤い瞳だった。ただし白目の部分はなく――まるで紅玉をそのまま眼窩にはめ込んだようだ。
 そしてその上下の額や頬には、禍々しささえ覚える黒い刺青が、輪郭をなぞるように走っている。
 様子をうかがっていた二人も、月明かりの中でそれを見たのだろう。驚いたようにたじろぐのが、薄闇の中からでも見て取れた。
 ケインが、大仰なグローブで覆った左腕を掲げる。
「よどみの中に明かりを灯せ、道は一つ、迷う事なし」
 詩の一節のような言葉を紡ぎながら、ケインは左腕を振り上げた。
 ヴィオラデルのマントが弱く引っ張られる。
 見ると、マリアと呼ばれていた少女が、沈痛な面持ちで彼のマントの裾を取っていた。ヴィオラデルはその少女の様子に疑問を覚えたが、刹那、鈍い光が視界の隅に生まれる。
 目を見張る。
 虚空に浮かぶ、逆位置の十字架――それは、神すらを嘲るような。
(……まさか、これは……)
 覚えがあった。
 遠い昔に、まだ翼が白かった時に知った事だ。
「導きの手、其、スクルド」
 体が引かれる感覚、何かの中をくぐる感覚……――


 それは、運命を織り成す女神の一人だ。
 その昔、十字架を崇めるとは別にあった信仰の中で、自分らの行く道を造ると信じられた、三人の女神。
 ウルズ、スクルド、ヴェルザンディ。
 運命の糸を紡ぎ、絡め、そして断ち切る。
 だがその女神の名は、今は風化した歴史の奥底に沈殿している。
 その信仰は、魔女狩りが始まると真っ先にその対象となった。
 女神を崇め奉った教祖たる者こそ、あの悲劇の幕開けとなった魔女だからだ。


 あれは、始祖たる魔女の力だ。






   ◇   ◇   ◇

 



 深淵の闇の中で、光る目が一対。
 自分の指の先も見えない暗闇の中で、それは薄く笑った。
 長い事下げていた頭を、重々しく持ち上げる。
「……やっと目覚めましたか?」
 皮肉げな声と共に、ぽつぽつと小さな灯火が生まれる。
 ゆっくりと、それは身じろいだ。体が固く、重い。随分長く動かずにいたからだろうか。
「世界はもう既に、最悪なまでに回り進んでいる。貴方が眠っている間に」
 敵意すら滲ませた瞳を見据え、それは口の端を吊り上げた。
「私が……憎いか?」
「いいえ」
 ひどくきっぱりと返され、少々の意外さに瞼の皮をぴくりとさせる。
「ただ、眠り過ぎだと言っただけです」
「とてもそうは聞こえなかったな」
 ぐら、と一瞬の地響き。
 音をたて、灯火の一つが倒れる。
 その数秒の炎の揺らめきの中で、互いの顔を見る。
 片方は見上げ、片方は見下ろし。
「もう期は過ぎている。貴方は動くべきだ」
「私が動くという事は、すなわちお前も動かなければならない」
 その一言に、見上げていた目が伏される。
 見下ろすものは、窮屈そうに肩を揺らし、身震いをした。
「そうだろう?探索者(デモニオ)、そして賢者よ」






 一瞬の閃光の後には、もうそこには何もない。
 二人は、別々の位置から全く同じように呆気に取られた。
 何が起こったのか、全く解らない。理解の範囲を超えている。特にアイニは、上司の標的――彼は『騎士』と呼んでいた男が、翼を広げた場面から混乱しかけていた。
 まるで夢か幻でも見ていたかのようだ。だが、自分の手の中は、地を踏みしめる足は、そして全身は、あのケインの振るう大斧の響きと、あの『騎士』の洗練され尽くされた剣劇の余韻を覚えている。
 じっとりと汗ばんでいる掌に、わずかな可笑しさを覚える。自分は運が良い。くだらない上に訳の解らない任務だが、面白い。あんな手練はそうそういない。
「楽しそうだな、アイニ。逃げられたんだぞ?」
 鋼線をグローブの中に収納し、前髪をガリガリと掻きながらエルが嘆息する。
「貴方は楽しくないのですか?あの『騎士』……かなりの使い手じゃないですか」
「そうなんだがな……君と違って俺は共同作戦なんだ。今回は補助に回れと言ってしまったんでね。失敗した以上、もう『補助』には回ってくれんだろう」
 またも憂鬱なため息が、夜の風に混じる。
 確かに、あの自分たち以上に任務遂行に執着した戦闘集団の事だ。補助に徹して失敗するのならば、前線に出ると言い張って聞かないだろう。
 あの連中が前線に出るとなると、真っ昼間の町中で襲撃しかねない。隙を見付けたならば、彼らは周囲の事など顧みないし、とがめも受ける事はないので止める理由は何もない。
 そもそも何故、こんな任務で戦略行動班である『緑牙』を出すのか。
 司令官であるクラウソナスは思慮深く、考えが読めない。だが、近頃は特にその傾向が強くなりつつあるように思える。
 噂だが、数ヶ月前にも『緑牙』が出動したらしい。行き先は……あのコズメア近辺に広がった渓谷。しかも、そんな何もないところに行き、数人が半死半生の重傷を負ったとか。
(訳の解らない事が多すぎる……)
 それを知った時はなんて事はなかったが、今にしてみると、あの標的の少女も、その少女の兄らしいあの男もコズメアの出身だという。
 繋がりがないというには、いささか不自然すぎる。あの司令官は、一体何をしようとしているのか。
「アイニ」
 エルが、珍しく厳しい表情でアイニを見据える。
「あまり深奥に触れない方が身のためだ」
「……言われなくとも、解っています」





 見覚えがあるが、どこか違う。
 そんな詩的な感想を胸の内で述べながら、ヴィオラデルは刀を収めた。
 自分はどうにも、何か感想を思う時に、少々大げさに表現してしまう気があるようだ。見覚えがあって違うのは当然だ。先程までいた、安宿の別室なのだから。
「……何故、もう少し遠くへ行かない?」
「悪いな。色々と制約があるんだ」
 ヴィオラデルが当然の疑問を口にすると、ケインは軽く肩をすくめながら眼帯を直した。左の肩をゴキゴキと回し、吐息を漏らすその頬には、うっすらと汗が滲んでいる。
 その言葉と様子に、やはり、とヴィオラデルは確信した。
「召喚術か……」
「えっ!?」
 ヴィオラデルの呟きに過剰に反応したのは、我に返ってケインから離れようとし、見向きもせずに抑えられたままもがいているマリアだった。
 ケインの方は、片方だけの眉目を少し動かしただけで口許には冷笑にも似た笑みが浮かんでいる。
「へぇ、知ってるとはな。ますますあんたが何なのか、聞かなきゃならなくなった」
「……それはこちらとて同じ事だ」
 暗がりの中で、抱きかかえたままのローレライが身じろぐ。どうやら、知らぬ間に手に力が入っていたようだ。
 紅の双眸と、蒼の一眼が、互いに睨み合う。双方共に隙もなく警戒し、害なすと判断した場合、躊躇なくそれぞれの得物を振るう覚悟が、その二つの色の奥に共通して存在していた。
 ケインは、またも口角を意地悪く上げた。
「悪いが、情報を貰うのは俺だけだ。そういう条件だろう?」
 しゃあしゃあと言ってのけるケインに、ヴィオラデルは呆れてしまった。自分がいいと言ったのは、あの状況を打開する代わりに彼が知っている事を話せ、という条件だ。
 言われてみれば確かに、自分が彼らの持っている情報を得る、という条件はない。
 歯噛みしたい気分にかられる。珍しい感情だった。苛立ちとも怒りとも異なる。それらと似ているものに加え、感心したと言っても良いのかもしれない。
 この青年が何歳かなど知らないが、どう考えても自分の十分の一程度でしかないだろう。そんな若造に揚げ足を取られているという事実が、何とも可笑しくさえあった。
「……解った。だが、質問はする。答える答えないはそちらで判断してくれ」
「いいねぇ、話が早い。じゃ、一つ目だ。あんたら、何だ?」
 ここまでストレートに聞かれるとは思わなかった。ヴィオラデルは言葉に窮した。何と言っても疑われそうな気もすれば、何を言っても信じられてしまいそうな気がした。
「……姫と従者だ」
「ほぉ」
 すぅ、とケインの目が細められる。
「聞き方が悪かったか?あんた、人間じゃねぇよなぁ?」
 またも、マリアがその言葉をとがめようと彼の服を引くが、ケインは一瞥も与えずに彼女の顔を自分の胸に押しあてた。
 ヴィオラデルもまた、厳しく眉間を寄せる。
 自分でも解り切っている事だが、赤の他人にここまで言われると、腹に据えかねる。
 再度、交錯する視線。
 重々しい沈黙が、周囲を支配する。
 だが、その空気は、間もなく緩んだ。ぐぅ、と緊張感に欠ける胃が鳴る音が二つ、睨み合う双方の胸元から聞こえてきた。
 ほぼ同時に、それぞれ自分の胸元を見る。
 ヴィオラデルの方は、ローレライがきょとん、とした表情で自分の腹に手を当て、ケインの方は、マリアが気まずそうに頬を赤らめて下を向いている。
 ケインが、堪えきれずに笑い始めた。状況が状況なので、爆笑するまではしていないが、マリアの頭に手を置き、体を折って肩を震わせる。何か一押しがあったら、そのまま爆発してしまいそうな勢いだ。
 ヴィオラデルは最初はローレライとマリアを見比べ、その反応の違いに戸惑いすら感じていたが、ケインが笑い出して数秒、彼もまた口許に笑みを浮かべる。
 一眼に涙すら浮かべ、ケインは喉の奥で発作を抑え込んでヴィオラデルを見た。
「まぁ、いいか。俺にとってはどうでもいい事だ」
「……そうなのか?」
「あぁ。話せて、笑えるんなら、別に変わんねぇだろ」
 言い切ってから、またクク、と低く笑うケインに、ヴィオラデルは呆気に取られた。
 そう簡単に納得出来るものではない。それを「どうでもいい」の一言で片付けられるこの青年の心根は……ひどく彼には懐かしさを覚えさせた。
「……ル」
「あぁ?」
「何でもない。他に訊く事はないか?」
 思わず声に出てしまっていたが、ヴィオラデルは表情一つ変えずに話題を変えた。
 ケインは釈然としていなかったが、すぐに肩を落として嘆息した。
「それじゃ、二つ目だ。あんたを襲ってたアレと、マリアをよこせとかほざきやがったアレ、何だ」
「知らん」
 きっぱりと言われた簡潔な答えに、ケインは数秒だけ、気の抜けた片目でヴィオラデルを見た。
 だが、すぐに憮然とした様子になる。空いている手の指先が、トン、トン、と一定のリズムで彼の膝を軽く叩く。
「……ちったぁ考えてから答えろ。即答されると腹が立つ」
「知らんものは知らんとしか言えん。それに俺も知りたいくらいだ。それくらい解らんとは浅学だな」
 その言い方に、和みかけていた空気に、再び亀裂が入った。
 ローレライは相も変わらず彼に抱えられたままきょとんとしているが、マリアは気が気でないといった顔で額に汗を浮かべていた。
 常時と言っても過言ではない程一緒にいる兄だ。しかも、機嫌が良い時はそれを全力で押し隠すくせに、悪い時は最前面にそれを押し出す。今、間近でぴりぴりと、その彼の前面に出された不機嫌を肌で感じているのは、傍らで押さえられているマリアだけであった。
 ヴィオラデルの方を、その碧眼が一瞬だけ睨む。が、兄とよく似た印象の瞳に気後れしてしまい、慌ててケインの方へ視線を戻す。
 ケインは無表情に見えたが、しばらく前に切ったきりで伸びっぱなしになっている彼の銀色の髪に透けて見える眉間には、浅くだがしわが刻まれている。
「……言っておこう。俺はあんたが気に入らねぇ」
「奇遇だな、俺もだ」
「は。気に入らねぇ同士、気があうこった。胸くそ悪ぃ」
「全くだ。腹立たしい」
 共に一切引かない舌戦を目の前に、マリアはすくみ上がって視線を忙しなく泳がせた。
 今まで兄と渡り合えるような人間に、マリアは会った事がない。それを、偶然居合わせたこの男は互角に接している。思うに、この男は兄と似通っているのだろう。それだけに、怖い。
 睨み合う目と目は、一触即発である事を表している。先程は偶然に助けられたが――恥ずかしい思いはしたが――、数分も経たない内にもうこの有様だ。
 この後どうなってしまうのだろうか。
 何よりも沸点の低い兄の事だ。手が出る可能性が高い。そうなるとこの陰気な男もそれに応じるに違いない。剣の事は全くと言って良い程解らないが、この男の剣さばきが尋常ではない事は明らかだった。
 ふと見ると、ケインは斧の柄を持つ手に力を込め、男は既に鯉口を切っている。
 何かまた意見の食い違いがあれば、一気にこの場が戦場になりそうな雰囲気すら放っている。
 どうしたら良いだろうか。今度ばかりは、例え腹が鳴っても話の腰を折るなと怒られて終わりなような気がする。いや、例えどんな手の込んだ事をしても結果は同じだろう。
 それは嫌だ。いくら何でも、この機嫌絶不調のケインに怒られるのだけはご免こうむりたい。
 しかし何もしないまま任せておくと、どんな事態になるのか見当もつかない。そもそも今のこの空気も堪え難いのに、これ以上場が暗転してしまったら、いたたまれないどころではない。
 どうしたら、どうしたら……と悶々とマリアが考えていると、ただ一人現状の空気を感じずにぼんやりしていたローレライが、不意に眉をひそめた。
 やおら何を思い立ったのか、ローレライはふらりと立ち上がり、浮いたような足取りで窓の方へ近付いた。
「姫?」
 その彼女の様子に、ケインを睨み付けていたヴィオラデルも、さすがにそちらへ注意を向ける。
 どうやら同じ宿の、同じ階を取っていたらしい。どこまでも偶然が続くものだ、とヴィオラデルは毒づいた。
「……ヴィオ、ラデル。人、たくさん」
「人?」
 彼女の言葉はたどたどしい。断片的でしかない。だから、嫌な予感が走るのも速い。
 ヴィオラデルは窓に近寄った。ローレライが真正面から覗くのに対し、窓枠の外から伺うように外を見る。
 瞬間、ヴィオラデルは顔をしかめた。
 宿に泊まっていた客か、店員か、それとも周囲に偶然近くにいただけなのか、人がざわざわと集まりつつある。
 懸念するべきだったかもしれない。今はまだ宵の口だ。あれだけ派手な戦闘の音があれば、人が集まって来てもおかしくはない。
 どうやらあの連中はもういないようだったが、騒ぎが大きくなれば、警備隊あたりが宿に泊まっている客に事情を聞きにくるだろう。
「……去った方が」
 いいだろう、と彼が言い掛けたところで、ローレライが大きく窓を開けた。
 緩やかに入ってきた風が、彼女の飴色の髪を舞い上げる。弱い月の光にきらきらと輝きながら、一房一房がゆっくり彼女の肩に掛かってゆく。
 その美しさの中、ヴィオラデルは悟った。思い出した、と言ってもいい。
 彼女が何だったのか、彼女が何をしようとしているのか。
 ヴィオラデルは歯噛みした。そしてすぐに、背後の兄妹に向き直る。
「……耳を塞げ」
「は?」
「いいから塞げ」
 有無を言わさない物の言いに、ケインはまたも露骨に不機嫌な表情を浮かべた。
 だがヴィオラデルが仕方ない、と思った時だったか、ケインはしぶしぶと言った様子で眼帯の布を引き下ろし、両耳にあてがった。自分をすませてから、困惑するマリアをまた腕の中に引き込み、抱きかかえる要領で彼女の耳も塞ぐ。
 睨み上げてくるケインの横目に、ヴィオラデルも自らの耳を固く塞いだ。
 それを見計らったかのように、ローレライが大きく夜気を吸い込む。
 歌が紡がれる。
 掌を隔てているため言葉は聞き取れないが、いつも以上に穏やかな曲調だった。子守歌、と言ってもいいかもしれない。
 ケインやマリアには見えないだろうが、窓の外、中庭に集まってきていた野次馬たちが、急に熱に浮かされたような顔付きでその場を去ってゆく。
 やがて全員が去ったところで、ローレライは歌をやめた。窓を閉め、傍らのヴィオラデルの顔を覗き込む。
 その瞬間、彼女はふと表情を暗めた。
「……だめ、だった?」
「…………いいや」
 ヴィオラデルはしばし黙った後で、帽子に包まれた彼女の頭を撫でた。彼女が気付く程、苦渋な表情をしていたのかと思うと、自分に嫌悪感が湧く。
 が、それも一瞬だった。
 膨れ上がった気配に、ヴィオラデルはローレライを背にしながら刀を抜き放った。
 その肩口、皮一枚程上の位置にぴたりと、戦斧が下ろされる。
 鋼の刃は、その斧の持ち主の喉元で止まる。
「その髪と目の色でまさかと思ったがなぁ……あんた、ローレライ、か?」
 地の底から響いてくるような声に、ローレライがびくり、と肩を震わせる。
 それ以上に、その声を発したケインの隻眼は、空恐ろしげな色をたたえていた。
 怨嗟と悔恨、嘆きと憤り、そして深い憎しみ。それらが全て合わさった、底の見えない沼のような闇が、片方だけの碧眼の中に佇んでいた。
 その目に潜んでいるものに、ヴィオラデルは眉をひそめた。目の前の青年は、明らかにまとう空気を変化させている。
 その疑問と、肯定とも否定とも言わぬまま、ヴィオラデルは黙っていた。今度こそ怯えて彼のマントを掴んでくるローレライの肩に、後ろ手を回す。
 ローレライの怯えで、ケインは確信した。
 騎士と姫などとはよく言ったものだ、と皮肉ってから、低く低く笑う。それは、肉食獣がか弱い草食獣を見付けたものに似た獰猛ささえ帯びていた。
「運が良いなぁ、えぇ、おい。噂には聞いてたが、こんなに早くお目にかかれるとはなぁ」
「彼女に何の用だ」
「なに、簡単さ。さっきの契約の続きだ。訊いた事に答えろ」
「……それだけか」
 ヴィオラデルは、ケインの瞳を見つめてから、戦斧の刃先を横目で見た。
 よく手入れのされた斧だ。だが暗がりで今まで解らなかったが、その斧には奇妙なものがあった。
 中央に、十字架が刻まれていた。しかも一般的な十字架ではなく、非常に地域的な信仰のもので、一部が欠けた円の上に十字が描かれている。
 それを見た瞬間、ヴィオラデルは目を剥いた。
 喉が渇き、体が硬直する。目が痛んだのは、まばたきを忘れてしまったからだ。
 その地域を、彼は知っていた。
 驚愕の後に、彼は瞼を閉じて刀を収めた。その様子に、ケインがいぶかしむ。
「……コズメアに生存者がいたのか」
「ほぉ、知ってんのか」
「…………あぁ」
 正確には、『見ていた』。だが、それは言わずに、ふぅ、と疲れの滲んだ嘆息を漏らす。
 ――コズメアのマナは旨かった。
 胸中で、思い浮かんだ言葉に苦笑しそうになる。
「なら、これは知ってるか?コズメアは、魔女に滅ぼされたんだ。カス炭になるまで焼かれた」
「何?」
 今度こそ、ヴィオラデルは怪訝に顔を歪めた。この青年は、何を言っている?
「コズメアが崩壊したのは、十年近く前の事だったと思うが」
「あぁ、そうだ。確かにな」
 ケインは、斧を揺らしもせずに頷いた。獰猛な影は、いまだ健在なままだ。
 確かに、彼ら兄妹の故郷であるコズメアが崩壊したのは、十年近く以前の事だ。正確には、もうすぐ九年目になる。
 だが、『最後の魔女』が捕えられたのは、二十年程前の事。
 つまり、一般的に魔女が根絶したと言われている十年後に、コズメアは崩壊した事になる。
 それを「魔女がやった」などと言うなど、今時おかしな事だ。ケインの「確かにな」という言葉には、そういう意味も含まれている。それはヴィオラデルにも解った。
 だが、ケインは憎悪をたぎらせた。背後にいるマリアの肩を、強く握りしめる。
「だがな、逆に考えてもみろよ。町一つが一晩で崩壊するなんざ、あり得るか?」
 挑戦的な目は腹が立ったが、ヴィオラデルは黙したまま、頷きもかぶりを振ったりもしなかった。
 その反応は予想していたのか、構わずに言葉が続く。
「町は魔女に焼かれた。突然だ。何もかも、炭になっちまった。そして――」
 距離はそれほどある訳ではない。だが、互いの呼吸が解る程近い訳でもない。
 そういう距離であっても、次の言葉の前にケインが奥歯を噛み締める音は、ヴィオラデルにもローレライにも伝わった。
 否――もしかしたらそれは、この青年の深すぎる憎悪がたてる唸りだったのかもしれない。そう思わせる程の、異常な怒り。
「マリアは、呪をかけられた。五感全てを奪う呪だ!」
 最後は、悲鳴に近かった。
 数秒における沈黙。
 それを破ったのは、呼吸の荒いケインでも、ぽかんとしたヴィオラデルでもなかった。
「ベ、ル、ア」
 たどたどしく、ローレライが言う。
 そのたった三字だけで、他は大きく体を震わせた。
 一人は怯え、一人は憤慨を深め、そして驚愕を大きくする。
「ベルア・アンバー。沈黙の、魔女。呪が使えるの、彼女、だけ」
「姫?」
「デュマー。死の、沈黙……あの呪は、彼女が作って、彼女だけにしか使えない。だから」
「馬鹿な。あり得ない」
 うわごとのように、ヴィオラデルは呟いた。
 自分が仕えるとしている、ローレライを相手にしている事も忘れてしまう程に。
「ベルア・アンバーは……処刑された。最も最初に!」
「……そう。魔女狩りの、最初の犠牲者。でもね、ヴィオ、ラデル。魔女の力は、名前と、思い出も継承されるの。そして、重なってゆく」
 そっと。
 ローレライは微笑みながら前へ出た。ぴたりとして動かない斧の先を、手袋を外してその指先で触れる。
 その彼女の手を見、マリアが小さく息を飲む。当然だろう。炭坑で労働の汗を流す屈強な坑夫の手ですらここまでならないという程、ローレライの手はぼろぼろなのだ。ケインですら、その凄惨な古傷に頬の筋を引きつらせた。
 だが、ローレライは笑っていた。闇の中でも、彼女の美しい飴色の瞳が、柔らかな色彩を放つのが解る。
「私が継承した力は、弱い。けど、役に立つなら見せて上げる。だから……」
 それ以上は、ローレライは何も言わなかった。
 ただ、ひしゃげた爪の先でこつ、と斧の刃を小突く。
 ケインはしばしの間ローレライを観察していたが、やおら肩の力を抜き、斧を逆向きに旋回させた。鈍重な見た目とは裏腹に、軽い音をたてて大斧の先が床につく。それだけで十分だった。
 ローレライは嬉しそうにまた笑った。ありがとう、と小さく頭を下げる。
 ケインが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていたが、内心それ以上に苦渋なのは、ヴィオラデルだった。先程の襲撃者といい、この兄妹といい、魔女の末裔というローレライの立場は、彼女に余計な負担ばかりを背負わせている。
 だがそう思った後で、ヴィオラデルは自嘲した。それを言うならば、自分はどうなのだ、と。
 不意に、ローレライが彼の顔を覗き込む。触れそうな程の距離。
 マリアが短く、わ、と声を上げる。ケインが無表情で彼らを見つめたまま、彼女の肩に回していた手で彼女の両目を器用に塞いでいる。
 ヴィオラデルは、ローレライに勘付かれないように唇の裏を噛んだ。先程もまた『ルナ』の力を使ってしまった。消耗が激しい。それはまた、彼に苦痛を与えるものに変わっている。
 ヴィオラデルが離れるよりも速く、ローレライはスカートの裾をひるがえした。
 他の三人がよく見える位置に移動し、二つ三つ、靴のつま先を鳴らす。
「私は、『言葉の魔女』、ローレライ・ラッセル。『言葉の魔女』の、思い出、短くて、途切れもある、けど、見ていて」
 彼女の言葉は、相変わらずのものだったが、次にその唇から流れる歌は、小川のせせらぎのように滑らかなものだった。







  <守護者たちの夜更け>





 実はこの回廊を通るのが恐ろしいと知ったら、部下たちはなんと思うだろうか。
 おそらく全体の士気に関わるだろう。だからクラウスは無表情を通した。誰かに見られる事は決してないとは言え、いついかなる時でも気を抜いてはいけない。それを、彼はずっと自分に戒めてきた。
 やがて暗い階段に差し掛かる。空気はひんやりと冷たい。クラウスは制服の前を直した。狼の刺繍が施された襟も、念入りに整える。
 ここに来る度に、心臓をそのままわしづかみにされている気分になる。
 ほんの少し出方間違えたら最期、という確信がある。
 クラウスは呼吸を整えた。知らず知らず、浅くなっていたのだ。
 階段を下りる自分の足音すらも、得体の知れない生物のうなり声に聞こえてくる。真の恐怖とは、身動き一つ取る事の出来ないものだと知っているが、これはその一歩手前の感覚に違いない。
 やがて階段が終わり、一枚の扉が現れる。
 一層動悸が激しくなるのを必死に押さえ、クラウスはドアをノックした。
「……入れ」
 地の底から響くような――だが美しい声。
 氷の刃のような声に、いつもの事ながら射抜かれたように体が萎縮し、呼吸が乱れる。
 ドアの向こうにいるのは、その声の主だ。
 この世の恐ろしさ、不気味さ、そして美しさを全て内包したような空気を身に纏った、女だ。
 だがそれは当然なのだろう。
 彼女は、そこにいるだけで恐怖を体現する存在なのだ。
「クラウス」
 呼ばれただけで、細い剣が腹を貫通したような感覚に陥る。
「私は、忍耐強くはないのだよ。解っているはずだろう……?」
 甘く囁きながら、闇の中から女が顔を見せる。
 純白のマントとローブ、腰に提げた短剣、手にした錫杖は、はっきり言って時代錯誤な占い師のようであった。
 ……否、違うのだ。彼女は時代錯誤などではない。
 彼女は自分の中で時をずっと止めている。
 ただ、その動きに合わせて揺れる――飴色の髪と瞳だけが、彼と同じ場所にいて、彼を見ているのだと言う事を告げている。
「私を……この『私』を裏切るな、クラウス?」
「そんな……事は」
 それだけしか口に出来ない。
 威圧感に、膝が震える。ガクガクと、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
 肺が、脈が、凍りついたようだ。
 シャラン、と澄んだ音が間近で聞こえ、クラウスは肩を震わせ、とうとうその場に膝をついた。
 だが空気を感じ、おそるおそる顔を上げる。彼女の顔がすぐ目の前にあった。
 呼吸、心音、果ては細胞の一つが分裂する音ですら、彼女には聞こえるのではないだろうか。
 平時なら、何を馬鹿な事を、と揶揄したかもしれない。
 しかし、今彼がいるこの空間は、断絶された空間なのだ。
 女が妖艶な笑みを見せる。森林に潜む女豹のような、しなやかで美しく、危険極まりない笑みだ。
 女の手が、ゆっくりとクラウスの頬骨の輪郭を撫でる。
 優しい手付きだが、大蛇に顔を舐められているような気分だ。嫌悪感ではない。純粋な恐怖だ。
 ややあって、女の手がクラウスの顎に移る。そのまま顎先を掴み、女は自分の真っ赤で形の良い唇を、彼の薄い唇に押し付けた。
 恐怖を与え、快楽を奪い取るかのように堪能した後で、女は顔を離す間際に、一つだけ小さく吐息を漏らして笑った。
「いいか、クラウス。お前の心臓は、私のものだ。お前の脳も、手足も、全て、私の錫杖の先だ。……『魔女』と『内包者』……必ず私の前に差し出せ」
「……解って、おります」
 虚ろな眼差しで、クラウスはやっとの思いでそれだけ口にした。
 唇には、まだ感触が生々しく残っている。
「…………我が、主。『沈黙の魔女』よ」
 言ってから、クラウスは心の奥底でほくそ笑んだ。それはこの眼前の魔女に大してではない。己自身に対してだ。
 目の前にいるのは、女だ。
 憎しみと怒りに翻弄され、半狂乱に陥っている女だ。
 こんな憎悪に取り憑かれた女を、自分はここまで恐れている。何とも情けない事だ。襟に縫い取られている銀の狼も、大口開けて笑っている事だろう。
 こんな……愛する者に裏切られて殺され、そしてまた裏切られたが故に狂った女を、何故ここまで恐れるのだろう。







   ◆   ◆   ◆






「お前たちは力を持った。だが、それはお前たちのものではない。それを考えて……生きて、繋ぎ止めていってほしい」




「許して」




 広い円卓の上に、並べられた銀色の食器。
 だが、いくつかの席は、空のままで料理もとうに冷めてしまっていた。
 やがて、一人の女が席を立つ。
 ゆっくりと円卓を回り、席に座っている他の女たちを見て廻る。
 歩いている女も、座っている女たちも、皆一様の髪の色、目の色に暗い影を落としていた。
 立ち止まり、女はかぶりを振った。
 その表情は暗いものだ。
「皆、知っているだろう」
 朗々とした声が、部屋に響き渡る。
 部屋は、小振りな屋敷のエントランスホール程もある。円卓を中央にして部屋自体も丸い。女の声は、不気味な程反響して消えた。
「始祖たる魔女の一人、原初の『沈黙の魔女』は処せられた。その折に、私たちの盟約が暴かれてしまったも当然の結果になってしまった。……彼女を責める気は毛頭ないが、賢者殿のいない今、このままではいずれ、私たちも捕えられる事でしょう」
 そこで彼女は言葉を切った。皆の反応を見るためだったのだろうが、女たちは何も反応を示さなかった。もうそれは、ここに来るまでに解っていた事なのだろう。
「しかし、それでは私たちの使命は果たす事が出来ない。これからは、出来る限りの事をして継承を続けていかなければならない。賢者殿は『待っている』。その時まで、一人でも良い、魔女の力を継続させていかねばならない」
 決意のこもった声の中に、深い悲しみが見え隠れした。



  時の彼方に今、一人、
  いつしか思い、忘れゆく。
  遠い思い出、幼き日、
  ガラスの向こうにかすみゆく。



「継承者は……その、孤児ですか」
 赤い衣を身に纏った女が、白い法衣を着込んだ女と、その胸元でまどろんでいる、黒い髪の乳飲み子を見る。
 その飴色の瞳は、どこか蔭が落ちている。
 その目の蔭が示すものに、白い法衣の女は薄く笑った。
「……フレイウィン、私の力は、そう簡単に転換できないものなのよ」
「解っています。そして、それだけに……貴方の力は継承され続ける事が出来る」
「良い事、とは思えないわね」
 白い服の女が、また力なく笑う。
 笑いながら、赤子の頭を撫でた。
「重荷よ、この子にとって。きっとこれから、過酷なものが待っているでしょうね」
「……アナスタシアは――」
「獣の子に継承させる事が出来るのは、彼女くらいなものだわ」
 その言葉に、赤い服の女はふっと目を伏せた。
「じきに、私の里にも来るでしょうね。……の、目は恐ろしいものです」
「貴方の後継は……」
「私は貴方と違って、継承させずとも」
 そこで初めて、白い法衣の女は表情を沈めた。



  さぁ出や、旅人よ。
  救い求めぬ、旅の人。
  その心を空に示せ。
  曇り曇った目を覚ませ。



 彼女はそれを見ていた。
 先程まで断頭台に佇んでいた、一人の女の――体。
 むごたらしい拷問の痕に、先程石をぶつけられてできた新しい傷。
 捨てられて、などとも言えない程粗末に転がされた女。
 ―――裏切られ、それを許す事が出来ず、これから起こるであろう悲劇の口火を切った、魔女。
 ぽつり、と石畳の上に染みが出来る。
 それから徐々に染みは増え、最後には桶を引っくり返したような大雨に変わった。
 つま先の傍まで、その雨水に流された赤い色が、ゆらゆらと揺らいでゆく。
 暗雲を仰ぐ。
 黒々とした厚い雲から落ちる、大量の雨粒の中、その両手を天へ掲げた。抱擁を求めるように……あるいは、来るはずもない救いを求めるように。



  時の果てに今、一人、
  いつしか光、見失う。
  儚き想い、恋心、
  水面の奥に沈みゆく。



「貴方は、それでいいの?」
 言うと、彼は笑った。
 自嘲気味に、霞む中で。
「彼女は強いよ」
「弱くもある。貴方を失ったら――」

 懇願が届かないまま、彼は消えた。
 後に残ったのは、行く末の見えない女たちだけ。
 この中の何人が、彼に出会う事が叶うだろうか。

「ごめんなさい」
 もう誰もいないその場所に、細い涙の筋を落としながら呟く。
「彼女の事を伝える事が出来なくて…………」

 もう手を伸ばしても届く事も無い、見る事も叶わない。
 これ程悲しい事があろうか。


 あの、銀色の一筋。


  さぁ出や、旅人よ。
  想い求めぬ、旅の人。
  その指で糸を繰れ。
  糸の先を結い付けよ。



「ローレライ」
 いつだったか出会った魔女の声が、聞こえる。
「ベルアは哀れな魔女です」
「……そうね」
 姿の見えない、聞こえるだけの声に、言葉を返す。
 傍らには、きょとん、と見上げてくる、飴色の瞳と髪の幼子。やっと歩き始め、やっと言葉を覚え始めた、それだけと言ってしまえばそれだけの、しかし違うと言えば異なる、本当に幼い少女。
「愛する者に裏切られるのは、何よりも辛いわ」
 言ってから、自分の白髪を一房、指に絡める。
 虚ろな灰色の目で、少女を見た。少し前までは、彼女の色であった、黄金にも似たやわらかな色が、真っすぐに彼女を見つめてくる。
「貴方は、何を、愛せるかしら、ね」
 笑って魔女は――否、もう既に死を待つだけとなった女は、ゆっくりと空を見上げた。



  時の狭間に今、一人、
  いつしか闇に、迷い込む。
  固き決意、無垢な誓い、
  霧の白さにかすみゆく。




「貴方は、本当に行ってしまうの?」

「彼女の事は……どうするの?」

「どうして、貴方なの?」

「酷い」

「逃げなさいね、必ず」

「アナスタシア、私の――」

「次に会う時は、私は私ではないから」

「許して」



  さぁ出や、旅人よ。
  探し求める、旅の人。
  その眼差しを天に示せ。
  よどむ陽の光を貫け。



 何も知らなくていい、とその人は言った。
 そっと頭を撫でて。
 知らない言葉で、歌を歌ってくれた。
 それが何を意味しているのかは解らなかったが、それでも充分すぎる程の愛おしさと、痛すぎる程の悲しみがその奥にある事は解った。
 色彩の失った瞳と髪が揺れて、どこまでも届いてしまいそうな歌声が、悲痛に響いた。
 旋律と、その意味を知る事の出来ない歌は、『私』の中に溶け込んだ。
 その人が、これが最後、と人差し指を立てる。それも何の事なのかは、解らない。
 そして全て知る術はなくなった。
 その二日後に、その人は眠った。
 ずっと目覚める事はなかった。

 その日から、私は『私』ではなく『ローレライ』になった。



  さぁ出や、旅人よ。
  求め求めぬ、旅の人。
  差し伸べられた手を握れ。
  決してそれを離すなかれ。



「弱い私を、無力な私を」

「許して」



「…………アルヴィース」






   ◆   ◆   ◆






 目が覚める。
 マリアは夢うつつな心地で、ふらふらと上体を起こし、またうつ伏せに倒れ込んだ。
 頭がぼんやりする。眠い。うっすら目を開けると、まだ暗かった。
 兄もまだ起きていないだろう。起きていたら、すぐに起こしにくるはずだ。
 なら、まだ寝ていても大丈夫だ。妙に眠い。まるで先程まで起きていて、やっと眠れたばかりだというのに、何かの拍子で起きてしまったような感覚だ。
(もう少し……)
 うつ伏せのまま、つい癖で枕を掴もうと爪をかける。
 が、触れたのは別の感触だった。
 二年前に五感の内二つを失った影響で、他の三つの感覚は他人よりも研ぎ澄まされていた。
 視覚はさすがによくはならないものだが、聴覚と触覚は常人の倍はある。それだけは兄よりも上のものだった。いつ失われるか解らないものだが、時折非常に役に立つものでもあった。
 その倍の感覚で、目を閉じたまま、自分が何を触っているのか知ろうと、指を細かく動かす。
 糸の束のような――だが、木綿や生糸のように柔らかいものではない。少々癖があり、極細の芯があるような……人の髪の感触に似ている。
(………………髪?)
 嫌な予感の中、マリアは次に耳に意識を集中させる。
 一定のリズム――鼓動の音だ。
「……!」
 気付いて、慌てて上体を起こそうとするが、叶わずに捕えられ、押さえ付けられてしまった。
「ちょ……!ケイン兄!」
 顔は見ていないが、自分にこんな事をするのは兄くらいだ。
 マリアはじたばたとその場でもがいてみせたが、普段からあの大斧を担いで走り回っている兄の腕だ。簡単に外せる訳がない。
 だが、妙だ。
 兄にしては、無言過ぎる。普段なら、もがく自分を腕に押し込め、からかったり「うるせぇ」とか「喰うぞ」などといった言葉で一喝するのに。
 マリアはそっと顔を上げた。ゆっくりと兄の顔が見えてくる。
 最初に見えたのは、ケインの左側の顔に走る黒い刺青――兄と師は、術式印とかと呼んでいたか。
 詳しい事は解らないし、訊いても教えてくれなかったが、ケインの左目が、魔力を宿す紅い目に変わった後、師であるアナスタシアが刻んだものだという事だけは確かだ。
 一体何が起こったのか、あの直後、生涯無病を宣言していた兄が、高熱を出して五日間はうなされたのだ。つきっきりで看病していたマリアは、その尋常ではないうなされ方に恐怖を覚えたものだった。
 普段は眼帯で覆われているこの左を見るのが、マリアはたまらなく辛かった。
 ケインは自分からその左目を差し出し、代わりに文字通り人智を越えた力を得た。全て、自分に掛けられた呪を解くため、あの『沈黙の魔女』に会うために。
「ケイン兄?」
 やはりずっと黙っているケイン。それでも腕は緩めない。
 そこでふと、マリアは気付いた。
 何か、違う。ケインの様子がおかしい。眼帯はしていないが、見慣れている彼の顔だ。
 今までずっと一緒だったのだ。他人ならすぐに解る。だが、今自分を抱き締めているのは、紛れもなくケイン本人だ。
 嗅覚はなくしてしまっているが、空気なら解る。いつも傍らにいる、兄の空気が自分を包んでいる。確信出来る。
 それなのに、何故か違和感がある。
 一体、何故――
(…………あれ?)
 彼の顔に、見慣れないものがあった気がした。
 それが何なのかすぐには解らなかった。
 そして解った時――マリアは無言で、ケインの胸元にすがりついた。
 先程よりも強く、強く、彼の服を握りしめる。服越しに、彼の肌に爪さえ立てた。
 マリアは喉の奥が引きつるように熱いのを、声を噛み殺して耐えた。
 左の……師は『ロスト・アイ』と呼んでいた、彼の血を使って作った瞳。赤い、血の瞳。
 涙もまた、赤く染まっていた。






「姫」
 空の切れ目に紫色の残る、明け。
 白い月を見上げるローレライに、ヴィオラデルは声を掛けた。
 あの記憶は断片的であったが……おおまかには理解出来ていた。そしておそらく、あのケインという青年も理解した事だろう。
 魔女ベルア。
 ……哀れな世界の、儚き犠牲者。
 以前も使った事のある言い回しに、ヴィオラデルは苦笑した。
 世界は哀れではない。犠牲者は儚くはない。
 現に、その犠牲者たる者は目の前にも、この地のどこかにもいる。
 世界はただ存在している。狂気と憎悪の連鎖を抱きかかえ、ただ何も言わないまま、回っている。
「貴方は……辛くはないのか?」
「ない」
「苦しくは、ないのか?」
「ない」
 次々と、淡々と答えてゆくローレライは、振り返りもしない。
「ならば」
 一つの、間。
 ヴィオラデルは目を伏せた。
「憎まないのか?」
 恨みはしない――と彼女は言った事がある。
 その手には、完治は絶望的な傷がある。その心に、消える事のない深い傷がある。
 思ってから、はっとなった。
 自分は、どうしたというのだろう。あの誓いはどうした。
 何をしてでもと思ったからこそ、彼女をあの塔の中から連れ出したというのに、何故ここで悩んでいる?悔いている?
 何故、ここでこんな問いを投げた?
 馬鹿馬鹿しい。
 自分はどうかしてしまったのだろう。
「ヴィオ、ラ、デル」
 そこで初めて、ローレライは振り返った。
 優雅に、ドレスの裾をひるがえす。
 その姿に、ヴィオラデルは息を飲んだ。
 まだ若い朝日が、彼女の背後にひかえる草木の輪郭を浮き出させ、彼女の飴色の髪を、目映いばかりの金色に染め上げる。
 背中に朝の光を浴びているというのに、浮かべている笑顔には影がなく、曇り一つない。
 突如、鐘が鳴った。
 朝を告げる鐘だ。宿の庭からも見える時計台から鳴り響いている。その音と共に、幾羽もの鳩が空へ飛び立つ。ゆったりと旋回し、軽やかな羽音を彼女の上にまで運んだ。
 涼しい空気が、呼吸する度に身の奥を浄化してゆくような心地に、ヴィオラデルは感嘆のあまり、思わず喘ぎ、身震いした。
 ローレライは何も言わなかった。
 ただ黙ってそこにいる。
 ただそこに存在している。
 ただ、笑っている。
 それだけだ。
 しかし、それこそが、彼女の答えに相違なかった。
 言葉の魔女は、言葉なくして彼に伝えていた。
 ヴィオラデルは、落ちるようにその場に片膝をついた。
 胸に手を当て、腰を折り、頭を深々と下げる。いつの間にか、涙すら流していた。
 彼女に出会った時も、こうして彼女の前にひざまずいた。
 しかし、今は含まれる意味が違う。今は、この希薄な心の底から、不安定な身の芯から、ヴィオラデルはローレライにひざまずいていた。
「……姫……ローレライ…………」
 熱に浮かされたように、口を動かす。
 自分はかつての主を愛している。
 嘲笑されても、敬愛していた。
 だから――ローレライを「姫」と呼んでいた。いまだ自分の中に根付く主への愛と、まだ未熟だと思っている彼女への敬意を込めて。
 ヴィオラデルは、手袋に包まれた彼女の手を取った。傷に障らないよう気を遣いながら、手袋を取る。
 丁寧に、触れられる事すら喜びとするように、丁重に。
 ゆっくりと身を屈め、ヴィオラデルはその傷だらけの手の甲に唇を寄せた。
 軽い口付けに、ローレライは目を丸くする。しかしただそれだけだ。この行為が何を意味しているのかなど、彼女は知らないのだろう。
 唇を離す間際に、ふっと微苦笑を浮かべる。
「…………我が、主。愛おしき、『言葉の魔女』よ」
 顔を上げると、ローレライはほのかに頬を赤らめていた。
 ヴィオラデルは、この地に降りて初めてと言って良い至福を覚えていた。

 だが。
2006/09/27(Wed)23:45:44 公開 / 火桜 ユウ
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■作者からのメッセージ
初めましての方もいらっしゃると思います。火桜 ユウと申します。
第1章、第2章は別々の場所と時間にあった旅立ちがそれぞれあった、Worksの3つ目の話になります。
いよいよ2つの物語が重なり始めます。どうぞお付き合いください。
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