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『ほしのうた ―完―』 作者:神夜 / 未分類 未分類
全角84905.5文字
容量169811 bytes
原稿用紙約249.4枚





     「静かな夜」




 結城聖夜(せいや)は星を見るのが好きだった。
 それは今は亡き祖父の影響でもある。祖父は天体観測が大好きで、聖夜を毎日のように夜空の下へと連れ出していた。もちろん聖夜にしたって星を見るのは大好きだし、祖父の星に関しての話を聞くのも楽しみだった。祖父の【聖治】という名を受け継いだ【聖夜】という名前は、祖父との絆だと思う。
 今から一年前、聖夜が中学二年生の時に祖父は他界してしまった。老衰で眠るように、ゆっくりと祖父は目を閉じた。その時に祖父が見せた笑顔を、聖夜は今も忘れてはいない。それからしばらくして、祖父の部屋を片付けていると聖夜宛ての手紙が出て来た。その手紙には、祖父の達筆と呼ぶのが大雑把と呼ぶのかよくわからない字でびっしりと文字が書かれていた。一年経った今も机の中に大切に閉まってあるその手紙の中に、こんなことが書かれている。
『人生に悔いはない。もしあるのなら見れなかったことだろうか。
 聖夜、最後の頼みだ。ワシの変わりに、お前が見てくれ。
 そうすれば、思い残すことはなにもない』
 その手紙に、何を見れなかったのかは書いてはいなかったが、聖夜はちゃんとわかっている。
 祖父が見たかったもの。それは、【ほしのうた】だ。祖父と一緒に天体観測をすると、いつも決まって祖父がする話がある。それが【ほしのうた】のことである。長い話ではない。詩のような感じだった。もう暗記してしまったその話を、無意識に歌を歌うように、聖夜は繰り返す。
「雲一つないその夜空に満天の星が輝く時、【ほしのうた】が見えるだろう。どこまでも続く綺麗な夜空で、いつまもで続く【ほしのうた】。満月に導かれしその【うた】を、いつか誰かは聞けるだろうか」
 よくわからない、と言ってしまえばそれまでだった。
 しかし、聖夜の中ではそれは大きく残っている。【聖夜】という名前と、この【ほしのうた】の話が、祖父と聖夜を繋ぐ絆なのだ。それらを、忘れるはずもない。大好きで尊敬している、聖夜の憧れの人。それが聖治である。だから、決して忘れるはずもない。
 ――そして。
 祖父が他界してから一年経った今でも、聖夜が毎晩天体観測をするのは何も変わってはいなかった。
 コートよし、手袋よし、マフラーよし。完全防寒備で聖夜は家を出た。やはり真冬の夜中に天体観測は少し厳しいものがあるが、絶対に欠かすことはなかった。そこら辺は本当に祖父譲りだと思う。祖父も一度決めたことは何があっても絶対に曲げない人だったからだ。聖夜もそれと同じで、毎日天体観測をすると決めているので、どんな状況であれ毎晩出掛ける。
 とはいうものの、別にそれほど大層なことはないのが本当である。聖夜の家は住宅街のある高台の一番端に建設されており、家を出ればすぐそこに公園があって、そこから夜空を見上げれば視界一杯に星が見渡せる。そこは歩いて数分で着ける場所である。だから本当にそれほど大層な話でもない。
 いつも通りに家の前の道を歩き、公園の敷地内へと足を踏み入れる。手が冷たいので手袋をしたままコートのポケットに突っ込み、息を吐くと楽しいくらいに白い吐息が出た。煙草なんて吸ったことはないくせに、何だか煙草みたいだと思う聖夜である。公園は広く、入り口の門を超えて左右のフェンスに沿って遊具が並べられており、ブランコとか滑り台はもちろんのこと、くるくる回る遊具やタイヤをぶんぶん振り回して遊ぶ遊具もある。
 入り口から真っ直ぐ歩けばそこには少し高い鉄の柵があり、展望台みたいになっているその向こうはどこまでも続く森林が広がっている。街灯も最低限の灯りしか発しておらず、この公園は本当に天体観測に打って付けの場所だった。鉄の柵に背中を預け、聖夜は夜空を眺める。
 今日は雲が少しだけあった。だけど星は十分に見渡せる。小さな頃から祖父に連れられて夜空を見てるだけあって、聖夜は星座の名前をすべて憶えている。冬に見える星座だってちゃんと理解しているし、星に関する質問なら答えられないものはないと思う。
 夜空を見上げ、白い吐息を吐きながら、聖夜は星を一つ一つ追い掛けて行く。少し欠けた月と一緒に輝く星の群れは、見ていて本当に楽しかった。たまに時間を忘れて数時間そうしていることも稀にある。そしていつ通りに静かな夜だった。視線を夜空から公園へと移す。街灯の灯りに微かに照らされ、遊具が巨大な怪物のように暗闇に浮び上がっている。風は吹いてはおらず、どこから原チャリのセルモーターが回る音が聞こえた。そのエンジン音を何となく耳に入れる。少しするとその音は聞こえなくなり、変わりに静寂が聖夜を包み込んだ。時折聞こえる街灯のジジっという音以外は、本当に無音の世界だった。
 人の姿は見えない。昼こそここは子どもやら何やらで賑わう場所だが、夜ともなればアベックが極稀に現れる以外は誰も来ない。そこがいいところだ、と聖夜は思う。うるさい場所での天体観測なんてやる意味がない、と祖父はよく言っていた。その意見には聖夜も共感していた。静かな場所での天体観測は、心の潤いだった。気持ち良いその時間が、何よりの楽しみだった。
 聖夜は公園からまた視線を夜空に向けようとして、ふと気付いた。聖夜のいる場所から真正面、公園の入り口に人影を見た。アベックがこんな所に来るなよ、と聖夜は心の中で思う。面倒事は沢山なので今日はもう帰ろうかと柵から背中を離し、歩き出そうとして、また気付いた。
 街灯に照らされた人影は、一人だった。ということはつまり、アベックではないのだろう。歩くのを止め、しばしその人影を見守る。
 微かに照らされた人影では性別を判断できないが、大人ではない。どちらかというと子どもみたいな人影だ。その人影は辺りをきょろきょろと見まわしながら、珍しそうに公園へと足を踏み入れた。そのまま遊具を見つめたりしながらトコトコと歩き、公園の中の少し小さ目の街灯の下で足を止めた。
 その時、街灯の灯りでその人影がはっきりと見えた。夜目の効いた聖夜の目は、まるで昼間のようにその光景を認識できた。
 女の子だった。少し離れているのでよくわからないが、髪が肩よりもずっと長くて、白いコートを着て、両手をポケットに突っ込んで遊具を眺めている。歳は聖夜と同じくらいに思えた。背が小さいようなので年下かもしれないが、長い髪が年上のようにも見える。白状するとよくわからない。だからその中間を取って同い年くらいとする。
 その女の子に見覚えはない。この住宅街の子ではないと思う。しかし歩いてここまで来たということはそう離れた場所に住んでいるようには思えない。かと言って、この住宅街に住んでいるすべての人を知っているわけでもないので何とも言えなかった。
 声を掛けようかどうか少し悩み、しかし掛けたところで意味はないのでしばしその女の子を黙って眺めている。このまま聖夜に気付かずに帰ってくれれば楽でいい。以前、聖夜は夜中にアベックとこの公園で出会い、面倒なことになった経験がある。それ以来、夜の公園では誰とも会わない方が楽だと学んだ。
 だからこちらから声を掛けないでおこうと決めていたのに、女の子は聖夜に気付いてしまった。
 驚いたように身を強張らせ、一瞬逃げようとしたけどすぐに思い止まり、おずおずとこっちに近づいて来た。来なくていいって、と聖夜は思う。しかし来てしまったものは仕方がない。ご近所様のようだし、一応は挨拶をしておこう。
 すぐそこまで来た女の子に、聖夜は言う。
「こんばんわ」
 女の子は恥ずかしそうに急いでペコリと頭を下げた。長い髪がサラサラと下に流れるのが少し綺麗だった。
 そしてそれを見ていたせいて、頭を上げた女の子とバッチリ目があってしまった。気まずい沈黙が始まる。どうも視線を外し難い。何かいきなり視線を外したら失礼なように思えて仕方なかった。
 しばらく、お互い沈黙しながら見つめ合っていた。これが恋人同士なら素晴らしい光景なのだろう。しかし聖夜にしてみれば気まずい以外の何ものでもない。
 先に沈黙に絶えられなくなったのは聖夜だった。苦し紛れに、
「えっと……この辺に住んでるの?」
 その声で、女の子は突然我に返ったように慌てて首を振り、しかしその後で思い出したかのように肯いた。
 よくわからない仕草だった。取り敢えずこのまま少しだけ話してやり過ごそうと思う。
「珍しいよね、こんな所に女の子が一人で来るなんて」
 それを言ってしまえば聖夜も珍しい。望遠鏡も何も持っていないから天体観測なんてわかりっこないし、どちらかといえば家出少年みたいに見える。
 しばらく女の子の返答を待ってみたが、結局は何も言わなかった。ただ何かを迷っているように視線を地面に向け、じっとしている。話したくないならそれでいいと聖夜は思った。これを突破口として家に帰ろう。そう考えて一歩を踏み出そうとすると、突然女の子が顔を上げた。また目が合った。だから気まずいんだって。
 しかし女の子は何やらいきなり行動をし始めた。右手の人差し指を喉に向け、その後で左手の人差し指と重ねて『×』の文字を作る。意味がわからずに女の子を見ると、その瞳は何かを言っていた。
 何をしているのだろう、と聖夜は思う。ふとそのままを口に出してみた。
「ジェスチャー?」
 そう問うと、女の子は肯いてさっきと同じ仕草を繰り返した。
 早く家に帰りたかったが、このジェスチャーをクリアしないと帰れそうになかった。少し真面目に考える。喉を指差し『×』。考えれば簡単に答えは出る。しかしそれがどうしてか不思議でならなかった。もしそうなら、本当に気まずい。だが訊かなければならないのだろう。
 恐る恐る、聖夜は言ってみた。
「もしかして……喋れないの……?」
 女の子は肯いた。
 やっぱり訊かなければよかった、と聖夜は思う。喋れないということは、産まれ付きか喉を病んでいるのか、はたまた自ら声を拒絶したのか。もしかしたらそれは冗談で聖夜をからかっているだけかもしれない。しかし理由がどうであれ、最後に行き着くのは気まずい世界だった。関わらずに帰ればよかったと今更にまた後悔する。
 そんな聖夜とは裏腹に、女の子は何やらごそごそとポケットを探っていた。見ているとそこから出て来たのは携帯電話で、手袋をしているのにも関わらず、女の子は起用に折り畳み式のそれを開けて素早くキーを押し始める。液晶から浮ぶ明かりに照らされた女の子の表情が、なぜか可愛く思えた。いや、実際可愛いからそう思えるのだろうけど、聖夜はそれに全く気付かない。
 やがて女の子はその携帯のディスプレイを聖夜に向けた。そこにはこう書かれていた。
『初めまして。わたしは浅摩雪乃っていいます。十五歳です。あなたは?』
 それを見ながら、聖夜は呆然と、
「……喋れないからそれが声代わりってこと……?」
 女の子――雪乃は肯く。
 聖夜はため息を吐く。これではもうすでに逃げれない。しばらくは雪乃に付き合わなければならなかった。もちろん無理やりこの場を逃げ出せば話は別なのだろうけど、雪乃の好奇心に満ち溢れた瞳から逃げれるとは思えなかった。
 自己紹介をされたので、こっちも一応返しておく。
「ぼくは結城聖夜。聖なる夜って書いて聖夜。君と同じ十五歳」
 淡々とそう言うと、雪乃は携帯を一度引っ込め、さらにキーを叩いた。見せられたそのディスプレイにはさっきの文字が消えており、新たな文章が書き込まれていた。
『中学三年生ですよね? わたしもです。これからよろしくお願いします』
「こちらこそよろしく」
 そしてそのまま「それじゃぼくは帰るから」と言おうと思ったのに、雪乃はさらにキーを叩いた。まだまだ帰してはくれないらしい。
 またディスプレイには言葉が書き込まれていた。
『こんな時間にこんな所で何をしてるんですか?』
 聖夜は在りのままを答える。
「天体観測。毎晩こうするのが習慣なんだよ」
 一度言葉を切ってから、聖夜は続けた。
「えっと……浅摩さん、だっけ? 君はどうしてここに?」
 すると雪乃はまたカチカチとキーを打った。それが少し長めだったので出来上がるまで待つ。
『天体観測ですか? いいですよね、わたしも星を見るのは好きなんですよ。わたしは散歩でもしようと思って出掛けたら公園があって入ってみたんです。あ、それから、わたしのことは雪乃って呼んでくれて構いません。わたしも聖夜くんって呼ばせてもらいますから』
 何だか勝手に決められた気分だった。まあ別にそれでもいいのだけれど。
 そして聖夜が次に何を言おうかと迷っていると、その目の前で女の子がくしゃみをした。それからすぐにディスプレイに『ごめんなさいっ!』の文字が浮び上がり、雪乃は居心地悪そうに視線を外した。謝らなくていいのに、と聖夜は思う。
 それによくよく見てみると、雪乃は随分と軽い服しか着ていなかった。コートは着ているものの、聖夜の物と比べると劣るし、手袋はキーを押すためなのか薄い素材、マフラーはしていない。すぐに帰るつもりだったのか、もしくは寒くないと思っていたのか。聖夜はため息を吐く。真っ白な息が空気と混ざってやがて消える。
 自分のしているマフラーを取って、雪乃に差し出す。それを見た雪乃はきょとんとした瞳で聖夜を見つめ、やがてディスプレイに『……貸してくれるんですか?』との文字。何だか面倒な作業だな、と微かに思い、それから聖夜は肯いた。
 それを確認してから、雪乃はおずおずとした動作でそのマフラーを受け取り、恐る恐るといった感じでマフラーを自分の首に巻いた。その後で嬉しそうに笑ってから『ありごうございます!』と文字を打った。
 それを見てから聖夜は視線を夜空へと移した。星は輝いている。まるで自己の存在理由を確かめるように、小さく、しかし大きく、星は輝いている。いつ見ても綺麗な光景だ。何も聞こえない静寂の世界。……だと思っていたのだが、今は雪乃の小さな吐息が聞こえる。別に邪魔ではないのでいいか、と思う。
 そのままで二人揃ってずっと夜空を見上げていた。そんな時、静寂の世界には場違いな電子音が響いた。その音に驚いて視線を戻すと、雪乃が慌てて携帯を開いていた。電子音は雪乃の携帯が発する着メロだった。それはどこかで聞いたことのある曲だった。一世代前に流行った音楽だ。よく昔の名曲とかを流す番組で聞くことがある。曲名が思い出せない。
 しばらく雪乃を見守っていると、それは電話ではなくメールだったらしく、しばらくディスプレイを眺めていた。それから雪乃はまたキーをカチカチと打って、そのディスプレイを聖夜に見せた。
『ごめんなさい、時間みたい。今日はこれで帰ります。楽しかったです。またどこかで会ったら、よろしくお願いします』
 聖夜は言葉を返さず、ただ肯いた。
 そして雪乃はペコリと頭を下げ、ゆっくりと踵を返して歩き始めた。その背中を何となく見守る。歩く度に左右に揺れる髪が綺麗だった。公園を横切り、そして入り口まで戻ると、雪乃は一度だけ振り返って手を振ってよこした。聖夜は無意識に左から右へと手を振り返していた。それからもう一度、雪乃は頭を下げて道路の闇へと歩いて行った。
 その場所をしばらく見ていたが、やがて完全な静寂の世界が戻って来て、聖夜は夜空を再び見上げる。
 流れ星が夜空を駆けた。久しぶりに見る流れ星に少しだけ嬉しくなる。
 その時、さっきの着メロの曲名を思い出した。一世代前に流行ったあの曲、皆が言う不屈の名曲『to love song』って歌だ。その歌を、聖夜は無意識に歌いだす。誰かが言っていた。これは、最高の『love song』だって。そうかもしれない、と聖夜は思う。
 やがてその歌を歌い終える頃、公園には聖夜が一人、そして静寂に包まれる夜があるだけだった。
 そろそろ帰ろうかと思い、柵から背中を離して歩き出そうとして、
 やっと思い至った。まあいいか、とは思えない。
 呆然と雪乃が歩いて行った道を眺め、静かな夜空の下で、聖夜はぽつりとこう言う。
「マフラー……返してもらうの忘れた……」


 真冬の星が綺麗な夜空の下で、結城聖夜は浅摩雪乃と出会った。
 そしてこれから、聖夜の日常は、少しずつ、少しずつ、変わって行くのだ。
 星が輝く静かな夜だった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「マフラーの行方」




 聖夜が通う中学校の名を晴天中学校という。
 その中学校は変わっていて、大した学歴も必要なく、小学校から高等学校までエスカレーター式に上がることができる。そのシステムが聖夜にとっては有り難かった。いや、聖夜だけではない。晴天中学校に通うほとんどの生徒がそのシステムを好ましく思っている。最低限の勉強だけしていれば、苦もなく高校まで行けるのだから当たり前だ。他の中学が受験シーズンだ、やれ勉強だ、やれ補習だと騒いでピリピリしていても、晴天中学校だけはのんびりと授業が行われ、平和な環境の中で学園生活を送ることが可能だった。
 しかし不満はあるにはある。小学校からエスカレーター式に上がるということはつまり、変わり映えしないのと一緒だった。小学校から高校まで全部広大な敷地内に建設されているし、たまに転校生が来る以外は生徒の面子は十二年間ほとんど同じである。新たな出会いもクソもあったものではなく、小学校から知っている異性に恋愛感情が持てない奴も大勢いる。その中に聖夜も含まれるわけであって、今まで生きて来た十五年間では彼女なんて作ったことはない。だがそれに似たような奴が腐るほどいるので、別に慌てて作る必要もないし、作りたいとも思わなかった。
 まあ不満は少しあるにしろ、この晴天中学校のほのぼのとした雰囲気は聖夜にとっては居心地が良かった。友達ともずっと一緒にいられるわけだし。裏を返せば嫌いな奴ともずっと一緒なのだが、そう考えると気分が壊れるので忘れることにしている。
 聖夜の家から学校までは歩いて十数分程度である。自転車通学も許されてはいるのだが、歳より臭く聖夜は歩くのが好きなのでいつも徒歩通学をしている。たまに友達の自転車の荷台に乗せてもらうこともあるが、ほぼ毎日その十数分は歩いていた。健康的でいい、と祖父はよく言っていた。健康的かどうかはわからないが、歩くのが不健康だとは思えないのでそうなのだろう。
 晴天中学校の指定の鞄を持って制服を着て家から外に出て、道に沿って歩き始める。制服の上着のポケットに手袋をしたままで両手を突っ込んで歩く。コケたら危ないだろうけど、そんなヘマはしない。首元が寒いのはマフラーがないせいである。昨日、あの雪乃という同い年の女の子に貸して戻って来なかったのでそれは我慢するしかなかった。替えのマフラーなんて急きょ用意できる物でもないし。
 最近の朝はめっきり冷え込む。吐く息はやっぱり白くて、通学路に見える木々は葉を失って寒そうに佇んでいる。空を見上げれると朝日はまだまだ低くて冷たく、雲がいつもより多目に泳いでいた。今日はあまり天体観測日和ではないな、と聖夜は思う。だけどどんな状況であれ行くのが聖夜の決まりである。
 そのまま普段見ている景色と何も違わない光景を眺めながら歩き続けること十数分、広大な敷地に建設された校舎が三つ見え始める。向って右から順に晴天小学校、晴天中学校、晴天高等学校となっている。校門はすべての校舎共通で、そこから先に三つに道が別れていて、右に行けば小学校、左に行けば高等学校、そして真っ直ぐ行けば中学校となっている。
 馬鹿でかい校門を潜って敷地内に足を踏み入れ、聖夜はそのまま真ん中の道を歩き続ける。近くにいる生徒の顔はどれもこれも知った顔で、名前も全員知っている。一部、顔と名前が一致しない生徒がいるにはいるのだが、どうでもいいことだった。波に任せて下駄箱まで歩み、自分の上履きを引っ張り出して履き代える。そして階段を一番上まで行けば三年生の教室が見えてくる。ちなみに聖夜は三年二組で、廊下の突き当たりから二番目の教室がそうである。
 聖夜が教室の後ろのドアを開けて中に入ると、クラスメイトの面々が軽く「おはよー」と挨拶して来る。それに一応は返事を返し、自分の席へと向う。窓際の一番後ろから三番目。そこが聖夜の席だ。机の上にどかりと鞄を置き、イスを引いて一息付いた。
 ちょうどその時、聖夜に少し遅れて教室に入って来た男子生徒が「おう聖夜! グッモーニン!」と声を張り上げた。英語の発音がヘタクソの日本人まるわかりのこの男子生徒の名を水上太一といい、聖夜とは小学校一年生の時に同じクラスになって以来の親友である。
 太一の席は聖夜の後ろで、そこまで歩いて来て聖夜同様に鞄をどかりと机に置いてイスに座って一息付いた。その後で恒例の愚痴を聖夜にぶちまける。
「っにしても寒みーなー。いい加減暖房くらい設備しろっての。クーラーがあって暖房がないってのはどういうことだっつーの」
 それの逆でも愚痴を言うくせに、と聖夜は思う。
 しかし実際にそうだった。この学校はクーラーがあって暖房がないという何とも意味不明な気温設備なのだ。生徒からの不満の声を受けてなお揺るがない昔からの伝統だ、とどこのクラスの先生かはわからないが、その人が言っていた。伝統だったら普通クーラーもないだろっていう突っ込みはなかった。しても何が変わるわけでもない、ということを生徒はよく理解してる。
 そして太一の愚痴は続く。
「それに最近はめちゃくちゃ寒くて凍死しそうだし。もっとこう温かくはならないものなのか聖夜?」
 そんなもの太陽とかに訊いてくれ、と聖夜は思う。
 それに太一はまだ良い方だ。制服の上にコート着ているし、手袋も装備しているしもちろんマフラーだって装備万全だ。それに引き替え聖夜はコートとマフラーをしてない。コートは個人的に制服の上から着るのが嫌なのでしてないだけであるが、マフラーは常時していた。今日に限ってないのは先の説明通りである。今度また会えたら絶対に返してもらとうと心に決める聖夜である。
 そんな聖夜の心境を見透かしたように、太一はずばっと訊いてきた。
「そういや聖夜、お前今日はマフラーしてねえじゃん?」
 別に隠す必要もないのでそのままを答えた。
「昨日貸したら返ってこなかった。だから今日はないんだ」
 不思議そうに太一は首を傾げ、
「貸した? 誰に?」
「浅摩雪乃って子」
 聞き慣れないその女子の名に、太一は逸早く動いた。席を立って聖夜の前に歩み寄り、好奇心剥き出しの濁った瞳を向ける。
「それはあなたのカノジョですか?」
 片言の外国人みたいな口調だった。
 聖夜はため息を一つ、
「違うよ、ぼくにそんなもんいるわけないだろ。昨日天体観測してたら偶然会ったんだ。寒そうだったから貸したらそのまま帰った」
「それはナンパですか? そしてパクリですか?」
「いい加減その口調やめて。むかつく」
 ごほん、と咳払いをしてから、太一の口調は元通りになる。
「それで貸したら戻ってこず、聖夜は今日一日で凍死しました、めでたしめでたし」
「……殴るよ」
 太一はすごく嬉しそうに笑ってから「ごめんなさい、親友に彼女疑惑が浮き出て舞い上がってました」と言った。
 その後で窓に背中を預け、少しだけ真面目そうに、
「そんで、本当はその子とはどうなのよ? てゆーかマフラー返ってこないの?」
 こっちが訊きたいくらである。机の上に肘を付き、その手に顎を乗せて聖夜は言う。
「どうもこうもないよ。昨日会っただけだし、その子少し変わってたし。マフラーはどうだろ、返ってくるのかな……返ってこなかったら虚しい」
「その子可愛かった? 変わってたってどれくらい?」
 その問いに、聖夜は淡々と答えた。
「可愛いといえば可愛いと思う。少なくとも普通よりは上だよ。変わってるっていうか……その子、喋れないみたいなんだ。本当かどうかは知らないけど」
 太一は驚いたように背中を浮かし、「はあっ?」と素っとん狂な声を上げた。
「それじゃどうして名前わかったんだよ?」
「携帯に声の代わりに文字を打ち込んでた。それで会話してたんだよ」
「へえ……そりゃ少し変わってるな……。でもまあ可愛いのならすべて許されるけど」
 そんな何気ない会話をしているとチャイムが鳴った。見れば時計の長針は結構な時間動いていて、SHRの始まりを告げていた。
 太一が席に戻ると、クラスで騒いでいた生徒も次々と席に戻り始めた。全員が席に着いたのを見計らっていたかのように、教室の前のドアが開いて三年二組の担任、椎名亮助三十一歳が入って来た。椎名は教卓まで歩み寄ると、日誌をばんと机に置いた。級長が号令を掛け、聖夜を含めた全員が起立して挨拶して着席する。
「えーそれではSHRを始める。まず最初に連絡なのだが――」
 別に聞いていて楽しい話ではなかったので視線をそのまま窓の外へと流した。
 外の景色はどれもこれもぱっとせず、小学校から見てる風景と大した変化はなかった。ただ変わっているといえば校庭に植えられた桜の木だろうか。春には満開の花を咲かせて立派に人の目を引き付け、夏には緑の葉を携える。その光景は窓から見ていても飽きなかったが、今は冬である。立派な桜の木はその風格すらなくして丸裸で突っ立っているだけだ。
 つまらない光景である。今度は空に視線を移す。太陽がやっと昇り始めているが、これも夏と比べると弱々しく、気温に完全に負けている。頑張れ太陽、凍死したくないので元気一杯に気温を保て。なんてエールは死んでも送らない。冬は寒い、夏は暑い、それが日本なのでそのままを受け入れるしかなかった。
 結局は見ていて楽しいものはなかったので視線を教室へと戻す。教卓では椎名が何かを必死に話している。この椎名亮助という男は、この学校では三番目くらいに人気のある先生である。一番人気は科学の梅沢、二番人気は体育の小寺、そして三番目が数学の椎名なのだ。この人気教員ベスト3に入る人にクラスを受け持ってもらえるのはかなり良い。この三名は怒ることなど滅多にないが、一度キレたら本当に怖い。しかし普通にしていれば人畜無害だし、友達感覚で話せるし授業は楽しい。比較的この学校でその三名の授業科目だけは他の科目よりずば抜けて成績が良いのも、一重にその性格にあるのかもしれない。
 クラスの面々は椎名の話を真面目に聞いている者もいれば、鞄を盾に本を読んでいる者、携帯をいじっている者もちらほらといる。後ろの太一はすでに夢の中である。しかしそんなことで椎名は怒ったりはせず、気付いていても何も言わずに話を進めていた。これもこのクラスの普通の光景だった。
 暇だったので、聖夜は制服のズボンのポケットから携帯を取り出した。折り畳み式のそれを開いてメールをチャック。って、学校にいるのにメールが来ているわけないかと思い直してやめた。そのまま意味も目的もなし適当に携帯をいじる。少し前のメールを見てみたり、電話帳の名前を見てみたり。時間はなかなか過ぎてはくれずにそれさえもが暇潰しにはならなかった。
 携帯を閉まってポケットに入れようとして、ふと思い出す。また携帯を開けてサイトにアクセス。開いたサイトは着メロのサイトで、曲名検索の所にカーソルを合わせて決定ボタン。画面が切り替わったと同時にキーを押す。曲名は決まっていた。
 『to love song』、そう入力してさらにアクセス。数秒したらヒットしてそれが出てきた。何となくダウンロードしてみる。し終わったら開いているスペースに登録、今は聴けないのでそのまま回線を切って今度こそ本当に携帯を閉まった。
 また窓の外へと視線を外し、空を見ながら思う。
 あの子は誰だったんだろう、と。自己紹介していたので浅摩雪乃なのだろう。しかしそうではない。あの子は聖夜の家の近くに住んでいると言っていた。正確には肯いていたのだが。だが肯定の仕草が少し変だった。この辺に住んでるの? と訊けば、雪乃は首を振ってからその後で思い出したかのように肯いていた。どういうことなのだろうか。この辺に住んでいるのなら普通はすぐ肯けると思う。しかし雪乃は先に首を振った。それ以前に、聖夜は今までに雪乃を見たことがなかった。この近くに住んでいるのなら、大体の人はこの学校に入学しているはずである。けどこの学校で雪乃を見たことがない。学年が違えば見ないかもしれないが、雪乃は聖夜と同じ中学三年生だとディスプレイには書かれていた。暇潰しに考えみた。
 つまり、浅摩雪乃というあの女の子は引っ越して来たのではないか。そうだとすれば聖夜が今まで見たこともなかったのにも、あの首を振ってから肯いた返答にも説明が着くような気がする。そして中学三年生なら、今週中くらいに彼女はこの学校に転校して来るのではないか。そう思ったらすべてが一直線に繋がると思う。
 そこまで考えてから、聖夜はため息を吐いた。
 どうしてこんなにも考えているのだろうか。たった一度会っただけ、運命もクソもない。別に神秘的な出会いでもなかったし、物語の主人公らしくそれを幸運と呼ぶかどうかも危うい。どちらかといえばマフラーを返してもらえず不運である。そうだマフラーだ、と聖夜は思う。運命云々よりマフラーである。あれは密かに聖夜のお気に入りであって、簡単には諦めれる品物ではない。代えのマフラーを買うのも何だかしゃくだ。なくしてしまったのなら諦めも着くが、借りパクでは後味が悪い。これは何としてでも雪乃を探し出してマフラーを返してもらわねば、ともう一度聖夜は心に決めたのである。
 決意が一段落着いた所で、そろそろ時間かと思って視線を教室の時計へと戻す。そしてそれを見計らったかのようにチャイムが鳴った。SHRの終りを告げるチャイムである。これであと十分すれば一時間目始まりのチャイムが響く。
 チャイムを聞いた椎名は少し焦ったように、
「おおっ? もう終りか。あーそれじゃ今日言ったことを忘れずにな」
 何も聞いていなかった。後で誰かに聞こうと聖夜が思った時、椎名は不敵に笑った。
「そして最後の連絡だ。今日、このクラスに転校生が来ることになった」
 瞬間、クラスがざわめく。教室の所々から「マジでー!?」「どんなの子!? 男!? 女!?」「うそ!」「聞いてないよー!」「ってゆーか先生の勘違いんじゃないの?」「馬鹿言うな、もうそのドアの所まで来てるんだぞ」とこれは椎名。
 クラスのざわめきとは違うざわめきが聖夜の胸の中にはある。
 まさか、と思う反面、そうだろうなと不思議な確信があった。聖夜の予想は外れてはいなかった。これですべてが繋がる。
 そう思い、椎名の言葉を耳に入れた。
「それじゃ浅摩くん、入って来て」
 その声が引き金となり、教室の前のドアがゆっくりと開いた。
 クラスを静寂が支配する。誰もが身を乗り出さんばかりに凝視している。
 そんな中、聖夜は一人だけ落ち着いてその光景を眺めていた。
 真新しい晴天中学の制服、今日初めて使っただろう指定の鞄、まだ一度も下駄箱に入れたことのない綺麗な上履き。一歩一歩、ゆっくりと歩く度に左右に揺れる長いさらさらの黒髪。
 教卓の横まで歩いて来て、そこで立ち止まってクラスに向き直るように立った。
「紹介しよう、浅摩雪乃くんだ」
 浅摩雪乃は、ペコリと頭を下げた。
 と、ここで椎名を含めた誰もが、聖夜さえもが驚くような行動に雪乃は出た。突然鞄から大き目のノートを取り出し、一ページ目を開いて太いマジックを手品のように出現させ、そこに素早く殴り書きした。
 ばっと見せられたそこには、殴り書きのくせに綺麗な字で、でかでかとこう書いてあった。
『よろしくお願いします!!』
 クラスの度肝を抜いたその行動に、しばらく誰一人として身動き出来なかった。
 もう一度雪乃が頭を下げ、そして上げたと同時に、
 クラスが爆発した。原爆でも落とされたように、生徒は一斉に歓喜の声を上げた。学校中が揺れたと思う。聖夜の後ろで爆睡していた太一が何事かと飛び起き、騒ぐ生徒達の影響で揺れる教室を感じてすぐさま「地震だー! 机の下に隠れろー!」と机の下に転がり込む。
 そんな光景の中で、張本人の雪乃はゆっくりと視線を動かした。
 その瞳に移るのは他でもない、結城聖夜だった。
 聖夜だけは微動だにせず、雪乃を見つめ返す。
 そして、雪乃は嬉しそうに微笑んだ。
 この日、雪乃はものの数秒で、晴天中学校三年二組の仲間となった。


 そんなストレートな展開で、聖夜の日常は動いて行く。 



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「恋物語」




「あー、こんな中途半端な時期ではあるが、この学校なら関係ないだろ。時間がないので簡単に説明しておくぞ。浅摩くんは家の事情で急きょこの中学校に転校して来ることになった。現在の住まいはお前らがよく知ってるあの住宅街だ。詳しく知りたい奴は本人に訊け。いろいろとわからないことも多いだろうけど、そこんとこはお前らが全力でカバーしてやれ。いいな? ……それでな、ここから一番大切なことなんだ。浅摩くんは、言葉を喋ることが出来ない。それで戸惑うこともあるだろうけど、お前らなら問題ないとおれは思ってる。そこで浅摩くんは声の変わりにノートやらに文字を書き、それで会話する、ってな形を取る。おっともう一時間目始まっちまう。それじゃ浅摩くん、君は真ん中の列の一番後ろの空いてる席に座ってくれ。今日も一日頑張れ、以上!」
 そう言って、椎名は教室を出て行った。しかしそんなことは誰も見ておらず、クラスの視線はすべて雪乃に向けられていた。転校生という名に、しかもその前に美人が付く雪乃は、皆の好奇心を一人残らず仰いだ。
 静かに席に着き、鞄を置いて雪乃が一息着いたその時、ふと視線が動いて聖夜を見つめた。優しく微笑む雪乃のとは違い、聖夜はただじっとその視線を受け止めている。そのままクラスが沈黙して数秒経った瞬間、突然聖夜の後ろの席から奇声が上がる。「うぉおおぉおおおおおおおぉおおおおおおおっ!!」との雄叫びを上げ、太一は机の下から這いずり出てきて雪乃の机へと走り出した。そしてそれが引き金になって、再度クラスは爆発する。
 聖夜を除いたすべての生徒が席を立って走り出し、授業クソ食らえで雪乃の席を包囲した。歓喜の声とともに質問攻めを開始する生徒達。そんな人込みに掻き消され、聖夜からは雪乃の姿はさっぱり見えなくなってしまっている。まあ仕方ないか、と聖夜は思う。一人だけ遠巻きにその光景を眺める。
 質問攻めは一向に止む気配がない。時々聞こえる「彼氏とかいんのっ!? ねえ雪乃ちゃん!!」ってな親しげな声はもちろん太一である。うるさ過ぎるその状況に、いつの間にか来ていた受け持ちの教師が「席に着かんかあっ!」と怒鳴っているが知ったことではない。そんな人物いないかのように誰一人として席には戻らず、美人転校生こと浅摩雪乃を取り巻いていた。
 生徒達の隙間から見えた雪乃は、嬉しそうな恥ずかしそうな、そんな表情をしていた。


 今日一日の授業の内容など、誰一人として憶えていないだろう。
 何とか席に戻った生徒達だが、視線は終止真ん中の列の一番後ろに流れていたし、休み時間になればすぐさま立ち上がって質問攻めの開始である。それに一つ一つ、雪乃はノートに言葉を書いていた。今日だけで一冊使ってしまったんじゃないのか、と聖夜は思う。
 昼休みになってもその状況はよくならず、どちらかというと悪化していた。転校生という興味を引く言葉と、その前に美人が付いたのに対し、他のクラスの野郎どもが黙っているはずもなく、次から次へと三年二組に押し寄せて来た。数日はこんな日々が続くんだろうな、とクラスの誰かがポツリと言っていた。クラスに入り切れないほどの人数が集まってそれが廊下に溢れると、何事かと野次馬根性爆発で見に来る奴も大勢いたので、最終的には体育系の先生数名が呼び出されてすべてを力任せに片付けた。結局落ち着いたのは昼休みが終る五分ほど前で、雪乃は食べれなかった弁当を急いで食べていた。そしてその取り巻きに混ざっていた太一も同じで、「腹減ったー!」と叫びながら馬鹿でかい弁当箱を空にしようと襲い掛かっている。
 そんな太一を呆れ顔で見つめていると、ハムスターのようにぱんぱんに膨れた口を聖夜に向け、「おほえもうかるびあ」と言った。
「喋るか食べるかどっちかにして」
 すると太一は鞄から水筒を取り出し、コップ一杯お茶を汲んで一気に口に含み、飲むと同時に口の中を一発で空にした。その後でゲップをかましてからもう一度口を開いた。
「あのさ、思ったんだけどお前が朝言ってたマフラー貸した女の子ってあの子?」
 箸の先で差されたその場所には、卵焼きを幸せそうに頬張る雪乃がいる。
「そう。あの子」
 と聖夜が返すと、太一は羨ましそうに、
「よかったじゃねえかよ」
「うん。これでマフラーが返って来る」
「ちっがーうっ!!」
 今度は箸の先が聖夜の目の前に突き出される。あと数センチで目に直撃だった。危ないな、と言おうとすると、それより早くに太一は、
「違うだろバカモン! よかったのは貸したのがあの可愛い雪乃ちゃんだったってことだよ! それを切っ掛けに恋物語は進行して行くんだよ!」
「何だよ恋物語って……」
 箸を弁当のご飯の上に突き刺し、大袈裟にため息を吐いて太一は首を振る。
「はぁ、これだから素人はいかん。もっと前向きに考えて行こうではないか親友よ」
「その箸突き刺すの、縁起悪いからやめた方がいい」
「そもそも愛とは何か? おれの偉大なる兄貴、正確にはHNだが『G』さん。この人におれはすべてを伝授してもらったのだ。そしてそこから導き出したおれの結論は――」
 永遠とその話しが続きそうだったので、聞いているフリをしながら右から左へとスルーさせる。
 視線だけを動かして見てみる。雪乃は食べるのが遅いのか、まだ弁当の半分も食べ終わってはいなかった。というより、おかずの一品一品を幸せそうに食べるから遅いだけなのかもしれない。今はまた卵焼きを食べている。あの弁当には卵焼きしか入ってはいないのではないか、そんな疑問が浮んだ瞬間、いきなり雪乃がこっちを向いた。
 油断していてばっちりと目が合った。何とも言い難い時間が数秒流れ、その後で慌てて雪乃が視線を外して俯いてしまった。不思議に思ったのだが、食べてるところを見られたらそりゃ恥ずかしいか、とは思えないこともない。それ以前に、よくよく考えてみると恥ずかしいのはこちらである。用もなく異性を見つめるということはつまり、受け方によってはかなり意味が違ってくる。
 誤解されると嫌なので……いや、別に嫌ではないのだが、ん? ちょっと待て、何か違う。……まあいいや。取り敢えずギクシャクするのが嫌なので弁解はしておこうと思う。席から立って雪乃の席に向おうとすると、ちょうどその時に太一の熱弁が終った。
「――っというわけで、だ。おれの考えでは――、おい聖夜、何立ってんだよ?」
 タイミングを逃した。すでに手遅れである。弁解は諦めて席に戻る。
「便所か? それなら早く行って来いよ。漏れるとトラウマになる」
「……太一さ、食事中にそういうこと平気で言うのやめようよ……」
 しかし太一はものともせず、箸を引っこ抜いて弁当を食べながら、そういえば小便って何で出るか知ってるか? などと実に下品な会話を一人で続けている。
 ため息を吐き、こうなった太一は止められないんだよなと諦めた。
 呆然と太一の言葉を無視しながら、またふと視線を雪乃に向けた。いつの間にか雪乃は弁当を片付けており、次の授業の用意をしていた。次ってなんだっけ、と思って視線を黒板に向け、時間割りの所で授業科目を確認したところでチャイムが鳴った。騒いでいた生徒達が渋々教室に戻って来て文句を垂れながら席に着く。そんな光景を見ながら聖夜も教科書を出そうとして、
 やっと思い出した。教科書を出す手を止めて視線をまた雪乃へと向ける。今日の朝からずっと心に決めていたのに今まで思い出さないなんて本当はどうでもいいと思っているのではないか。いやいやそんなことはない。あれは聖夜の密かなお気に入りだったのだ。どうでもいいはずがない。
 じっとそちらを眺めていると、その視線に気付いた雪乃が目線を合わせた。聖夜は行動に出る。声に出すのは気が引ける、だったらここはこれしかない。腕を動かして首に何かを巻き付けるような動作をする。
 つまりはジャスチャ―だった。雪乃ならわかってくると思ったのに、何のことなのかわからないとでも言いたそうに首を傾げた。わかってよ、と聖夜は思う。何度も何度もその動作を繰り返し、口パクで「マフラー」と言う。しかし一向に雪乃は理解してくれず、遂には後ろの席の太一に「新手のダンスか?」と指摘された。
 それで恥ずかしくなって慌ててやめた。恨めしそうな視線を向けると、さらによくわからないとい言いたそうに首を傾げる雪乃である。
 結局はそれが最後のチャンスになったわけで、そこで決めれなかったのは致命的だった。授業が始まれば話すなんてことはできないし、ジャスチャーをすれば馬鹿丸出しである。授業が終って休み時間になればやはり質問攻めになってしまってそんなことを言う機会はなかったし、放課後はすぐに椎名に呼び出され雪乃はどこかに行ってしまった。今日はマフラーは諦めるしかなかった。寒い中、マフラーなしでの天体観測は痛い。しかしもうチャンスを逃した自分が悪いと納得するしかなかった。
 虚しい気持ちで帰路に着く聖夜の隣りでは、太一が雪乃ちゃんがどーだとか雪乃ちゃんがこーだとかうるさい。
 憂鬱になる聖夜である。


     ◎


 コートよし、手袋よし、マフラーなし。不完全な防寒備で聖夜は家を出た。
 家の外に一歩踏み出せばそこは冷たい風が吹く冬の空の下で、コートのポケットに両手を突っ込んで歩道を歩く。首元が寒いのはマフラーがないせいであるが、やはりこれはもう諦めるしかなかった。明日には絶対に返してもらおうと思うのだが、どうもそのチャンスがない。休み時間は包囲されていて近づけないし、人が少なくなったら今度は太一が絶妙なタイミングで邪魔しそうである。悪気はないのだろうが、その分後味が悪い。
 とぼとぼと歩くこと数分、公園に到着する。公園の敷地に足を踏み入れる前に少し夜空を眺めた。雲が多く流れていて、星は時折雲と雲の間に見れる程度だった。今日は少ししたら帰ろうと思う。街灯の少ない公園に足を踏み入れ、辺りには誰もいないかを確認する。いつも通りに誰もいない。昨日の出会いなんてのは本当に極稀であるのだ。
 そのまま公園の中を横切り、展望台のような所まで歩き、柵に手を掛けて振り向こうとして、いきなり肩に手が添えられた。
「っ!?」
 声は出なかったが思いっきり顔に出た。
 証拠に急いで振り返った聖夜の表情に、雪乃は驚いていた。
 状況がよくわからない聖夜と、驚かした側のくせに驚いている雪乃の視線が、微妙な感じに結び付いている。気まずく、そして何とも言い難い時間が数秒流れた。麻痺していた思考が、こらでやっと正常に働くようになってくる。一つ一つ丁寧に片付けて行く。
 まず、目の前にいるのは浅摩雪乃である。これは正解だ。次に、どうして驚かした側の雪乃が驚いているのか。これは不問で問題ないだろう。今度は、なぜここに雪乃がいるのか。まあいるから仕方ない。そして、何で雪乃は固まっているのか。しかし聖夜も動かないので人のことは言えない。最後に、雪乃の持ってる物。マフラーである。昨日聖夜が貸した、あのマフラーである。
 だがそれをいきなり返して、と言うよりは、まずは何かを言わなければならない。
「……あのさ、」
 その声で雪乃が我に返った。微妙な感じに浮いていた腕を引っ込め、一度視線を外してから照れくさそうにまた視線を戻しす。その後でポケットからごそごそと携帯電話を取り出し、マフラーを片手にキーを打つ。見せられたディスプレイには言葉がある。
『こんばんわ』
「こんばんわ」
 挨拶されたから取り敢えず返した。
 すると雪乃は携帯を引っ込め、また文字を打ち込んで行く。見せられた内容はそれなりに長く、そして携帯と一緒にマフラーを差し出した。
『マフラー、ありがとうございました。昨日は借りてるの忘れて持って帰っちゃってごめんなさい……。あれからまたここに来てみたんだけど、聖夜くんはもういなかったから返しそびれちゃって……。今日もあまり話せる状態じゃなかったので、遅くなったけど、ありがとうございました』
「あ……うん」
 少し呆気に取られながらもマフラーを返してもらった。しかしどうしてかマフラーをする気にはなれず、結局は手に持ったままである。
 マフラーを少し眺めてから、今度は雪乃を見つめた。疑問は沢山ある。だが最初に口から出たのはこんな質問だった。
「転校生、だったんだね。何となくそうじゃないかって思ってたけど、本当にそうだったから驚いた」
 すると嬉しそうに雪乃は携帯を引っ込め、カチカチとキーを打つ。
『でも聖夜くんと一緒のクラスだったのにはわたしも驚きました。正直、嬉しかったです』
「まあ知ってる人が一人でもいれば嬉しいかな。って言っても昨日会ったばっかりだけど」
 不思議なことに、雪乃が不満そうな顔をしていた。なに? と訊けば、雪乃はただ首を振る。
『聖夜くんって、静かなんですね』
「ああ、クラスでのこと?」
『うん。皆が立ってても聖夜くんだけ座ってた。もしかしてイジメられるの?』
 むっとする。何となく不機嫌そうに「違う。騒ぐのが嫌いなだけ」と言うと、雪乃は悪戯な笑みを見せ『冗談です、ごめんなさい。怒らないで?』「怒ってない」『怒ってるじゃないですか』「怒ってないって」『聖夜くんてポーカーフェイスだよね?』会話がいきなり飛んだ。
「……あんまり笑わないだけだよ」
『どうして?』
 返答しようかどうか一瞬悩み、しかしすぐに、
「そういえば雪乃はどうしてここにいたの?」
 質問と違う内容に少し戸惑いながらも、雪乃はこう打った。
『マフラーをいつ返そうかって思ってたら、聖夜くんは天体観測するのが好きだって言ってたからもしかしたらここにいるんじゃないかと思って来たんです。そしたら本当に聖夜くんがいて、公園に入って行ったから』
 だから声を出せない代わりに肩に手を添えた、と。雪乃はそれで驚くとは思っていなかったのだろう。しかし誰もいないと思っていた公園でいきなり肩を掴まれたら誰でも驚くと思う。声を出さなかっただけまだマシな方である。
 でも、
「もしぼくが来なかったらどうしてたの?」
『待ってようと思ってました』
「来るまで?」
『うん』
 無謀というか、運任せというか。しかしもし聖夜がここに来なかったら本当にずっと待ってそうなところが怖い。
 その時、電子音が響いた。見ればやはりそれは雪乃の携帯の着メロで、しばし画面を眺めてから、
『ごめんなさい、時間みたい。また明日、学校でね。おやすみなさい』
 聖夜が「うん……おやすみ」と返すと、少しだけ頭を下げて雪乃は歩き出した。
 その長い髪が揺れる背中を少し見送り、公園から道路へと雪乃が歩み出す時、聖夜は言った。
「あのさ! ぼくはいつもこの時間にここにいるから!」
 どうしてそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。ただ、口からは自然とそんな言葉が出た。
 その声を聞いた雪乃は振り返り、嬉しそうに肯いてから道路の闇へと消えて行った。雪乃が消えた暗闇をしばし眺めてから、聖夜は一息付いた。
 柵に背中を預け、夜空を見上げる。雲の隙間から見える星が一生懸命輝いている。
 不思議な感じだった。なぜか心が澄んでいる。どうしてか楽しいと思う。
 浅摩雪乃。彼女は、一体何を思っているのだろうか。
 真冬というのに寒さは一切感じず、手に持ったマフラーから温もりが溢れているようだった。
 見えていた星が雲に隠れる。しかし、それでも聖夜はその場を動こうとはしない。
 星が流れるように、世界は流れて行く。


 そして、聖夜の日常も、ゆっくりと流れて行く。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「変わって行く日常」




 朝、学校へ行くために家を出て門を閉じて道路へと歩み出る。
 冬休みが近いこの季節、朝は本当に冷え込む。いつもながらに制服のポケットに両手を突っ込み、肩に鞄を掛け、首元にはマフラーが巻かれているので温かい。空を見上げると少し雲があるだけで天体観測には支障はないと思う。風が吹く度に何も身に付けていない頬が痛かった。まだぼやけている意識にはそれが特効薬で、一発で目が冴えた。
 通学路に沿って歩き出そうとして、ふと反対側の道路を見る。人を見付けた。しかもそれは紛れもなく浅摩雪乃だった。そのまましばらく何も動かずに雪乃を見守る。なぜか彼女は嬉しそうに道を歩いていて、何が面白いのか下ばかり向いている。これはこちらから声を掛けなければ気付かないだろうと聖夜は思い、何と声を掛けようか一瞬だけ悩んだ末に、こう言った。
「おはよう」
 小さな声だったが、静かな朝にはよく響いた。その声が雪乃に届くと、はっと顔を上げて聖夜を視界に捕らえる。さっきまでゆっくり歩いていたのに、聖夜を見ると慌しくぱたぱたと走って来た。聖夜の前まで走り寄ると、嬉しそうに微笑んでから軽く頭を下げた。
 声を掛けたのはこちらなので、一応言っておこうと思う。
「一緒に行く?」
 つい二日前知り合った異性に言う言葉ではないような気もするが、他に何も思い付かなかったので仕方がない。断られはしないだろうけど、あまりいい顔はしないだろうなと考えていた聖夜とは裏腹に、雪乃はまた嬉しそうに笑って肯いた。
 断られるよりはずっとよかったので、「それじゃ行こうか」と少し遠慮気味に言って歩き出す。その横を雪乃は並んで歩く。
 会話はなかった。というより、雪乃が喋れないのでその他にはないのだが。そもそも聖夜は静かなのが好きなのだ。騒ぐのはどうしてか好きになれない。そりゃ本当に楽しい時、本当に嬉しい時は笑う。しかしそれ以外ではあまり感情を表に出さない。だから雪乃にポーカーフェイスと言われても仕方のないことだった。
 隣りを歩く雪乃を少しだけ見つめる。雪乃の背は聖夜の肩より少し上である。別に聖夜が高いわけでもないので、どちらかといえば雪乃が小さいのだろう。晴天中学校指定の制服の上にコートを羽織り、足の前で鞄の取っ手を手袋をした両手で持っている。マフラーはしていない。雪乃と初めて会った時もマフラーはしていなかったので持ってないのだろうか。嫌いじゃないと思う。聖夜が貸した時にはちゃんとしていたし。ただ寒くないからしていないだけなのだろう。しかしマフラーをしている聖夜から言わせれば、雪乃は寒そうに思えた。
 迷惑かもしれない、とは思う。けど訊くだけは訊いておいて損はないとも思う。結局は言ってみようという結論に達した。
「……マフラー、使う?」
 ふっとこちらを見る雪乃の表情が驚いていた。
 それに少し気圧されながらも、
「いやさ、何だか寒そうだなって……」
 そう言うと雪乃はコートのポケットから携帯を取り出し、夜の公園と同じようにキーを押した。
『寒いですけど……でも、聖夜くんは?』
 聖夜は視線を前に向け、道を歩きながら少しだけ言葉を考える。
「ぼくは慣れてるから平気。雪乃はまだ慣れてないから寒いかなって思っただけだよ。別に嫌なら無理にとは言わない」
 そう言ってから、慣れても寒いものは寒いと思う。しかし言ってしまった手前、もう引っ込みは着かない。
 そして雪乃はこうキーを打った。
『聖夜くんが寒くなかったら、その……貸してもらって、いいですか?』
 まあこうなる運命だったんだと思えばいい、と聖夜は一人で納得した。
 マフラーを首から外し、隣りに歩いている雪乃へと手渡す。雪乃は携帯をポケットに閉まってそれを受け取り、この前とは違ってするするとマフラーを首に巻いた。その後で聖夜に視線を向け、嬉しそうに微笑んだ。
 携帯はなくても、その言葉はちゃんとわかった。雪乃は『ありがとう』と言っていた。
 そんな感じで二人はまた並んで歩く。会話はそれっきりで何も話さなかったけど、雪乃が満足そうだったのでこれでいいと思う。
 そのまま歩き続けると晴天学校の門が見えて来て、その奥に小中高の校舎が偉そうに建っている。二人揃って門を潜って真ん中の道へ。今日は珍しくこの真ん中の道に生徒の姿はなく、何の問題もなくすんなり下駄箱まで辿り着けた。上履きに履き替えて階段を上がる。三階に到着して廊下に出た時、そろそろやばいなと思って少し後ろを歩いていた雪乃を振り返った瞬間に、階段の奥にある男子便所のドアが開き、そこから出て来た人物が聖夜に気付いて元気よく挨拶をした。
「おーう聖夜、グッモーニン!」
 日本人丸出しのヘタクソな発音でそんな挨拶をするのは聖夜の知るところでは一人しかいない。
 しかしそんなことより大ピンチである。そしてもはや手遅れだった。もっと早くに行動に出るべきだったのだ。余裕があると思ったのが運の尽きで、それが命取りとなった。
 振り返ったそこに、水上太一がいた。水道で手を洗い、遠慮なしにぶんぶんと両手を振り回して自然パワーで乾燥させる。残った水分を制服で拭き取り、上履きを鳴らして近づいて来る。来るな、と願うが時すでに遅しで、太一は聖夜の目の前に来ていて、そして最悪のことに気付いた。一瞬、信じられない物を見る目付きで眺め、しかしすぐに満面の笑みで「そーかそーか、いやさすがおれの親友だあ、うん」などと納得している。
 考えれば当たり前である。聖夜の隣りにいるの他の誰でもない、美人転校の浅摩雪乃なのだ。しかもあろうことかその雪乃は、聖夜のマフラーを嬉しそうに装着しているのである。誤解しない方がおかしい。しかし誤解されると非常にまずいわけで、弁解をしようとすると、その一歩早くに雪乃は行動に出た。
 聖夜と太一のちょうど真ん中に立って悪戯に笑って携帯のディスプレイを二人に見えるように差し出す。いつ打ち込んだのかわからないがそこには文字が書き込まれており、しかも内容はとんでもないものだった。
『水上くん、おはようございます。 聖夜くん、わたし先に教室行ってるね。あ、それと。今夜もあそこで待ってますから』
 これは本当に誤解しない方がおかしい言い方である。雪乃の言っている『あそこ』とは公園であるのは聖夜にはすぐにわかった。しかし言い方が悪い。『今夜』というだけでも聞こえが悪いのに、それに増してあやふやに示された『あそこ』。聖夜がもし太一の立場でも誤解するだろう。だからいきなり太一が掴み掛かって来たのにも納得できる。
 だがそれとこれとは話が別だった。原因の雪乃はとっくに歩き出しており、一度振り返って聖夜に実に楽しそうに手を振っていた。そんなことされても困るだけで、残された聖夜は太一の猛攻を受けている。
「聖夜っ!! お前どういうことだコラあっ! 昨日は別に何でもないとか言っておきながらちゃっかり抜け駆けが!? 一緒に登校、しかもラブラブマフラー交換だけでは飽き足らず、『今夜もあそこで待っている』ってどういう意味だ!! やったのか!? ええ、やったのか聖夜っ!?」
 大声でそんなことを言うもんだから何事かと他のクラスの生徒がドアから顔を出してそのやり取りを眺める。一向に止まない太一の猛攻は鬼気迫るものがあって、聖夜が何を言っても言い訳にしかならないだろうと思った。
 しばらく大声でそんなことを言っていた太一だが、やがて息が切れたのか肩で呼吸をしながら鋭い視線を聖夜に向け、「……聖夜ぁ、ホントのこと教えろぉ……やったのか……やってないのか……」とゾンビのようにつぶやく。何でいきなりそこから訊くんだよと聖夜は呆れ、しかしちゃんと説明しなければならないだろうとため息と一緒に説明しようと口を開き、
 こんな声を聞いた。
「知ってるか? 昨日来た転校生いるじゃん、あの女喋れないらしいぜ」
「らしいな。まったく、なんであんな女が転校してきたのかが謎だよ」
 説明を止め、そちらを見ればこの学校で一緒の学年の男子生徒二人が聖夜と太一の横を通り過ぎようとしていた。先の言葉を言ったのは松田という男子生徒で、それに返答したのは斎藤という男子生徒である。両方とも不良っぽい風情でこの学校で最強とかほざいているどうしようもない奴である。だが実際には陰口を叩いて相手を罵り、本人を目の前にすると何も言えなくなる根性なしで、いつも決まって絡むのは自分より弱い立場の者だけという何とも卑怯で腰抜けな二人組である。
 そして、聖夜と太一はその二人が当然の如く嫌いだった。さっきの言葉でそれを再確認した。しかも状況が悪く、軽い興奮状態にあった太一はそれだけで二人に殴り掛かって行きそうな表情をしていた。
 聖夜がその肩をぐっと掴む。
「やめとけって。勝手に言わせとけばいい」
 こっちに視線を移した太一の顔には「けど雪乃ちゃんのこと悪く言ってんだぜ!?」と明確に書いてあった。
 しかし聖夜は首を振る。それに渋々納得したように太一は肩の力を抜き、少し遠ざかった二人の背中を睨み付ける。
 これで済めば問題は何も起こらなかったはずである。だがさっきの言葉で松田と斎藤はさらに調子付き、本人がいないのをいいことにこんなことを本当に言った。
「障害者は障害者らしくそっちの学校に行けって。健康なおれ達の手を煩わせるなっつーの」
「ぎゃっはっはっは、間違いないなそれ! まったくこれだから障害者は嫌だよ」
 その言葉に、太一がぶち切れた。聖夜の手を振り解いて走り出す。松田と斎藤にすぐさま距離を詰め、殴り掛かろうとして、
 その一瞬早くにそれは起こる。
 太一の横を通り越し、聖夜は拳を握った。


 ぶっ殺してやる、と本気で思った。


 気付いたら、松田の肩を掴んで振り向かせ、その鼻っ柱に拳を叩き込んでた。
 ダウンするまでにもう二発顔面に拳を入れた。殴った衝撃で出た鼻血が拳に付いて、唇が切れて血を流していた。
 知ったことではなかった。我を忘れるとはこういうことだと思う。
 廊下に這い付くばった松田の腹に蹴りを入れ、力の限りに吹き飛ばした。廊下を滑って壁に叩き付けられ、松田は呻き声を上げる。
 右頬に衝撃、体が揺らぐ。見れば状況を理解した斎藤が聖夜を殴っていた。殴り返そうとすると、その斎藤の顔面に太一の飛び蹴りが炸裂する。派手に吹っ飛んで大袈裟に廊下を転がり、壁の柱に後頭部を打ち付けてがつんと音が鳴った。打ち所が良かったのか悪かったのか、その衝撃で斎藤は軽い脳震とうを起こして動かなくなる。
 そんな状態の斎藤に興味などなかった。視線を切り換えて松田に駆け寄り、ぐったりと転がっていた胸倉を両手で鷲掴みにして無理やり引き摺り上げ、虚ろなその瞳に激怒する。
「お前達に雪乃が何をしたんだっ!! お前達に何か迷惑を掛けたのか!? 煩わせるって雪乃が何かしたのかよ!? おい答えろよっ!!」
 その顔面にもう一発拳を入れた。
「本人がいないからってよく平気でそんなことが言えるなっ!! どうしてそんなことが言えるっ!? おい答えろっつんだろっ!!」
 もう一発殴ろうとして、その腕を力強く掴まれた。
「落ち着けって聖夜! そいつもう意識失ってんだぜ!?」
 振り返ったそこに太一がいた。そして見れば、本当に松田は意識を失っていた。頭を後ろに垂らし、白目を剥いて身動き一つしない。胸倉を掴んでいた手から力が抜けて、ずるりと松田の体が流れて床に倒れ込む。
 太一が聖夜の腕を離す。聖夜はその場に座り込み、両手を床に着いて肩で息をする。心臓の音が体中から聞こえて、頭の中が真っ白になっていた。言い表せない熱い感情が胸の中で渦を巻き、何も考えられなくてただ呆然とそうしていた。
 やがて騒ぎを聞き付けた教師が数人現れ、現場を確認して驚く。太一が先生に何かを言っている、違う先生が意識がない松田と斎藤を背負う。視界ははっきりとしているのに意識はぼんやりする。考えがまとまらない、というより何も考えられない。体中が熱くて呼吸が落ち着かない。誰かに体を支えられてゆっくりと立たされた。その隣りには太一がいて、促されるように歩き出す。
 ぼんやりとする意識の中で、ふと雪乃を見たような気がする。
 雪乃は、驚いたような、心配したような、悲しそうな、そんな表情をしていたと思う。


     ◎


 連れて来られた生徒指導室で、どうして喧嘩になった? と学年主任兼生活指導担当のこの学校で一番不人気の加藤にそう言われても、すぐに返答できなかった。
 聖夜が座っている隣りのイスには太一が座っていて、机を挟んだ向こう側に加藤と椎名がいる。急きょ作られたと思わしき部屋を二つにしている隔ての向こうには意識が戻った松田と斎藤が座っており、向かい合う形で二人の担任の神戸が座っていた。先の加藤の問いに返す言葉はなく、しばらくは静寂が支配していた。
 喧嘩の原因が原因だけに松田と斎藤は口を割ろうとはしなかった。それもそうだろう。もし事実を言えば不利になるのはこの二人なのだから。もともと陰口しか叩けない根性なしである。言わないのは当たり前かもしれない。
 しかしその二人だけではなく、聖夜と太一も口を割ろうとはしなかった。先に手を出したのは聖夜である、ということもあるにはある。だがそんなことよりももっと別の所で言いたくないことだった。自分の口から、松田と斎藤が言ったことなど死んでも繰り返したくはなかった。
 結局、その日は授業には参加せずにずっと生徒指導室に缶詰だった。最後の最後まで口を割らなかった四人を他所に放課後のチャイムが学校を包み込んだのを切っ掛けに、何を思ったのか加藤が、この件はもう水に流せ、握手をして仲直りだ、などと言い出し、こいつ正気か? と聖夜が思った時に椎名がこう言う。
「まあまあ加藤先生。それは本人達の問題ですし、自力で解決しなければすっきりしないでしょうから今日はこれでお開きにしましょうよ」
 その提案に微かな不満を憶えたのか、加藤は何かを言い掛け、しかし椎名の真剣な目を見て納得した。
 先に帰されたのは松田と斎藤で、二人は聖夜と太一に目も合わさずに生徒指導室を後にした。その後で加藤と神戸が出て行き、残された聖夜と太一に椎名は穏やかに言った。
「お前達には少しだけ言いたいことがある。いいよな?」
 聖夜は何も返答しなかったが、太一が肯いた。
 机の上に肘を着き、さてどこから話そうかなと椎名はつぶやく。
「……まず最初に、喧嘩の発端はなんだ?」
 やはり聖夜は何も言わなかったが、これにも太一が答えた。
「あいつ等がその……ちょっとあって……」
 加藤の質問には答える気はなかったが、相手が椎名なら話は別だった。しかしそれでもすべてを正直に言うのには抵抗があり、結局は曖昧な答えしか返さなかった。だがそれだけで椎名はわかったように肯き、微かに笑ってから話した。
「まあお前達があれだけ怒るなんてよっぽどのことがあったんだろうな……。それはちゃんとわかる。水上が殴っただけでも結構な大事なのに、まさか結城が殴るとはなあ……。本当はかなり驚いてる。しかし喧嘩はよくない。言い争うならともかく学校での殴り合いはどうかと思うぞ。けど、そうしなければならないほどの理由があった……そうだな?」
 太一はただ肯いた。すると椎名は何も返答を返さない聖夜を見据え、
「結城。二つだけお前に訊きたいことがある。いいか?」
 呆然と聖夜は視線を椎名に向ける。
「一つ、おれの予想があってれば、最初に手を出したのは松田でも斎藤でも水上でもない。結城聖夜、お前だな?」
 微かに動揺した聖夜を見て椎名は慌てて、
「あーいやいや違うぞ、だからどうだってことはない。ただ確認したかっただけだ。それにお前から殴るってことは、本当に我慢できないことがあったんだろう。それで二つ目だ。……喧嘩の原因になったのは、もしかして浅摩のことじゃないのか?」
 二人が驚いて椎名を見つめる。やっぱりか、と椎名は言った。
「ったく、大方、松田達が浅摩のこと悪く言った、そしてお前達はそれが許せなくて殴った、そうだな?」
 聖夜と太一は同時に肯いた。これからもう少し深く訊かれ、真相を言わなければならないと覚悟したその矢先、いきなり椎名は笑った。
「よし、そういうことならもう帰っていいぞ。無理に原因聞き出してもお前等が納得できるとは思えないからな。また後日改めて訊くよ。それじゃ今日は大変だったな、お疲れ。気を付けて帰れよ」
 そう言って二人を立たせ、よくわからない状態のまま昇降口まで連れて来られた。椎名は最後にもう一度だけ別れを言って、踵を返して校舎の中に消えて行った。しばらく呆然と突っ立っていたのだが、日も暮れていたので帰ろうということになった。
 何も話さないままで校門まで来た時に、太一がこんなことを嬉しそうに言った。
「そういえばさ、聖夜が人を殴ったのって、小一ん時におれを殴って以来だよな」
 確かそうだったよな、と聖夜は思う。
 結局はそれから話しもせずに太一とは別れた。
 一人で歩く道は少しだけ寒かった。殴られた右頬が少しだけ痛む。風が吹く度に首元が冷たい。
 そんな時、聖夜はふと思い出した。


「マフラー……また貸したままだ……」


 日常は、変わって行く。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「【声】」




 家に帰って部屋のベットの上に死体のように寝転がってため息を吐いた。
 冬の風に吹かれ、冷めた心と体を感じると冷静に物事が考えられるようになった。
 どうしてあの時殴ったのか、今になって考えてもよくわからない。だけどたった一つ、言えることがある。
 ――許せなかった。
 本人がいないのをいいことに勝手なことを言うあいつ等が本気で許せなかった。無神経に心の傷を抉るようなあの言葉に腹が立った。そして気付いたら殴ってた。それが間違いだったとは思ってはいない。しかしやり過ぎだったとは思う。いくら何でも意識を失うまで殴るのはやり過ぎだった。だが殴ったのは正確には憶えていないけど、せいぜい四発くらいだったはずだ。それだけで気を失うのは果たして聖夜の力がそこまで強かったのか、それとも単に松田が弱いだけだったのかはわからないけど、やっぱり冷静になって考えればやり過ぎである。
 かと言って謝る気は毛頭にない。殴ったこっちも悪い、それは認める。だがそれ以上に悪いのはあいつ等だ。他人のことをよく平気であそこまで罵るなど、聖夜にしてみれば論外だった。もしそれがもう少し違う人に対してだったのなら殴るまでは行かなかったのかもしれない。軽い口論で終っていたのかもしれない。だけど、あの二人が罵ったのは雪乃である。それだけで許せなかった。雪乃が喋れない理由は知らないけど、それはとても辛いことなんだなってのは考えればすぐにわかる。それをあいつ等は平気で雪乃を罵倒した。それが無性に頭に来た。気付いたら殴ってた。
ベットの上で手を動かし、握ったり開いたりしてみる。殴った手の感覚が少し変だった。殴られた方はもちろん痛いが、殴った方も痛いと誰かが言ってた。それはこういうことかと思う。
 ため息をまた吐く。
 椎名には感謝しよう。殴り合いの喧嘩になってたったこれだけで話が収まったのは椎名の御かげである。それに太一にも感謝したい。あの時、聖夜を殴った斎藤をぶっ飛ばしたのは太一である。無論太一も切れていたので自分も殴りたかったのもあるのだろう。しかし聖夜にはわかる。太一はあの時、聖夜を助けたのだ。一対一で勝負したかったのだろう。とは言っても、太一はたったの一撃で斎藤を気絶させたのだが。ちなみに太一は喧嘩が強い。けど絶対に弱い者は殴らない。殴るなら自分よりも強い者、それもどうしても殴らなければならい時だけだ。聖夜が知っている中では、太一が人を殴ったのは二回だけである。一回は中学一年生の頃、上級生に難癖付けられてフクロにされていたクラスメイトを助けた時。太一も相当ボコボコにされていたけど、助け出したクラスメイトを背負って傷だらけの顔で笑ってたのを今でも憶えている。
 そしてもう一つが、小学校一年生の時。その相手は、他の誰でもない結城聖夜だった。小学校一年生の頃、聖夜と一緒のクラスに太一はいた。その時の太一は俗に言うヤンチャ坊主で、気に食わないことがあると怒鳴っていた。殴るまでは行かなかったけど、軽く手は出していた。そんな小学校一年生の時に太一が、風邪気味なのに無理やり登校して嘔吐した女子生徒を馬鹿にしていた。そりゃもう徹底的に。そしてそれに聖夜が切れ、太一を殴った。そこからはもう子ども喧嘩とは思えないほど壮絶な殴り合いだった。二人とも顔を腫らして鼻血を垂れ流していた。しかしどっちも絶対に泣かず、戦いは冷戦へと切り替わった。しかしそんな冷戦が続いたある日、どうしてか太一が急に謝って来た。女子生徒にも本当に申し訳なさそうに頭を下げていた。腹を割って話せば太一は良い奴で、喧嘩が嘘のように二人は仲良くなった。どうしてあの時謝ったの? と太一に訊いたことがある。その時、太一は少し情けなそうに笑ってこう答えた。自分が悪いと思っただけ。人を馬鹿にして何が楽しいんだって、聖夜に殴られて初めて気付いた。つまり、太一は小学校一年生の聖夜との出会いを境に変わった。ヤンチャ坊主だった太一が正義の味方へと変貌したのだ。正義の味方って言えばガキっぽいけど、あの時の二人はそう言って笑っていた。
 太一は、自分の過ちを知っているからこそ、松田と斎藤にわからせてやりたかったんだと思う。そうじゃなきゃ、あんなにも真剣に怒った太一は見れないだろうから。
 そして、それは聖夜にしても同じだった。だから松田と斎藤を殴った。だから真剣に怒鳴った。あいつ等にわからせてやりたかった。人を馬鹿にして何が楽しい、人を馬鹿にしてそれで何になる、って。だけどこの世には分かり合えない人間がいるってことはわかってる。太一のように自分の過ちを認めて変われる人間がいるのと同じくらい、自分の過ちに気付いても変わらない人間もいる。悲しいけど、それは仕方のないことだった。
 そんなことを考えていると部屋の窓が風に揺られてガタガタと音を立てた。呆然とそれを見守り、音が鳴り止んだ頃にまた考え出す。
 ふと思い出した雪乃の表情。驚いたような、心配したような、悲しそうな、そんな表情。雪乃は今、どこで何をしているのだろうか。聖夜が人を殴った原因が、雪乃の悪口にあると知ったら、雪乃はどんな表情をするのだろうか。悲しむのか、それとも怒るのか。でも、もしあの時に二人が雪乃じゃない誰かの悪口を言っていたとしたら、殴りはしなかっただろうと思う。殴ったのは、雪乃の悪口を言っていたからだと思う。
 制服のポケットに入れっぱなしになっていた携帯電話を取り出す。いくつかメニューを操作してから決定ボタン。携帯の裏面に付いたスピーカーから音楽が鳴り始める。『to love song』の着メロだった。その曲を流したままで、聖夜は携帯をベットの上に置く。
 雪乃は、自分にとって一体何なのだろう。ただのクラスメイトなのだろう。だけどそれとは違うもっと別の所で、雪乃を特別視しているような気がする。好きとか嫌いとかそういうものではない。恋愛感情ではなくもっと違う所。雪乃には何かを感じる。単純なことなのかもしれない。ただ一緒にいて違和感がないとか、一緒にいても気疲れしないとか。そんなようなことなんだと思う。しかしそれ以外にも少しだけ感じる。
 雪乃は、何かを隠している、そんな気がする。それが何なのかなんてのはわからないし、思い違いかもしれない。だけど、なぜかそんな感じがした。喋れないことに原因があるのかもしれない。
 その時『to love song』の着メロが鳴り終り、携帯が沈黙する。それを呆然と見ていると急に睡魔が襲って来た。いろいろ疲れたからかもしれない、と聖夜は思う。殴られた右頬が微かに痛む。しかしその痛みも超える睡魔が襲って来て、目が開けてられなくって、最後の視界の中で見た時計は四時を過ぎていた。
 意識がふっと途絶える。


     ◎


 結局、目が醒めた時には八時を過ぎていた。
 ぼんやりとする頭を引き摺ってベットから起き上がった。窓の外から見える景色は夜に飲み込まれていて、風はそんなに強くなく、空にも雲はあまりなかった。いつも天体観測をする時間に遅れなくてよかったと少しだけ思ってから支度をする。
 コートを羽織って手袋をして靴を履き、玄関から冬の夜空の下へと歩み出す。風は吹いていないとはいえ、真冬ということだけあって外は寒かった。吐いた息はやっぱり白くて、前のように煙草みたいだと思う。コートのポケットに両手を突っ込んで歩き出し、何も考えずに公園へと向う。
 数分歩くと公園が見えて来て、夜に飲み込まれたその場所は街灯の灯りに照らされて少しだけ綺麗だった。声は聞こえないからいつ通りに人はいないだろう。道路から公園へと入り、夜空を見ながら柵まで歩く。半分しかない月が光り、星の群れが輝いていた。何も聞こえない無音の世界。もやもやとしていた気持ちが一発で吹っ飛んだ。目を閉じて深呼吸を一つ、そして次に目を開けた時に雪乃を見た。
 言葉が出なかった。一瞬、それが幻に思えた。
 雪乃は柵に手を置き、聖夜に背を向けて夜空を眺めていた。数秒そのままじっとしていた聖夜だが、ようやく理解できて言葉を掛けた。
「……雪乃、」
 その声で、雪乃は弾かれたように振り返った。すぐに聖夜を視界に収め、慌てた様子で駆け寄ってくる。その慌て方が、普通とは違った。心配になって慌てる、そんな感じに思えた。
 聖夜の側まで駆け寄ってきた雪乃の瞳は、泣きそうなくらいに潤んでいた。またしても言葉が出て来ない。理由がわからなかった。呆然と突っ立っていた聖夜を他所に、雪乃は携帯を取り出してキーを打つ。その仕草が端から見ていても動揺していて、何度も何度も打ち間違えをしてクリアキーを押しているのがわかった。そして打ち終わって見せられたディスプレイに文字。
『あの、だいじょうぶですか!? 今日、喧嘩したって、それであの、その理由が、えっと、椎名先生から聞いて、その……』
 まるで本当に雪乃が喋っているかのような内容。文字なら的確に用件を伝えられるだろうけど、そこには正確に雪乃の心境が現れていた。
 答えなければならないのだろう、と聖夜は思う。数歩歩み出して柵に手を置いて夜空を眺める。しばらくしてからその隣りに雪乃が歩いて来て、聖夜同様に夜空を眺めた。
「……迷惑だったかもしれないって思う」
 視界の端で雪乃がこちらを振り向くのを見た。
「ごめん、あの時に何で殴ったのかは今でもよくわからないんだ……。でも、許せなかった。それだけははっきりしてる。あいつ等が雪乃のこと悪く言ってるの、本当に腹が立った。……で、気付いたら殴ってた」
 視線を夜空から雪乃へ。雪乃は、心配そうな表情をしていた。
「だからごめん、勝手に怒って勝手に殴って、雪乃を心配させて。でもさ……これだけは言わせてほしいんだ。ぼくのじぃちゃんに教わったことなんだけど、これだけは今でもちゃんと守ってるつもり。『仲間を大切にしろ』、そうじぃちゃんに教わったんだ」
 一度そこで話しを切り、少ししてからまた話し出す。
「『仲間』っていうのは『友達』だとぼくは思ってる。ぼくが本当の友達と呼べるのは太一くらいだけど、それでも僕は友達を大切にしたいんだ。クラスメイトだってそうだとぼくは思う。たったの一年しか付き合いがないかもしれないけど、その一年間は間違いなく同じクラスの仲間なんだ……クラスメイトを馬鹿にされるのは許せない。それは仲間を馬鹿にされているから……。だからぼくは殴った。本気で許せなかった。雪乃のことを悪く言うあいつ等に、本当に腹が立った。……だけど、雪乃に言わせればそれはただの迷惑なのかもしれない。だから、ごめん」
 それだけ一気に喋った後、聖夜は頭を下げた。しばらくそのまま頭を下げ、ゆっくりと聖夜は頭を上げた。
 パシィっと乾いた音が鳴った。体が揺らぐ。何がどうなったのか理解できなかった。左頬に熱を感じる。手を添えると赤くなっているのが見なくてもわかるくらいに熱を持っていた。呆然と目の前の雪乃を見る。
 息が詰った。雪乃が、泣いていた。瞳からぽろぽろと涙を流し、ぎゅっと何かを堪えているように口を閉じて、雪乃は泣いていた。
 突き出された携帯のディスプレイにこんな文字が書かれていた。
『あなたは馬鹿ですか!? 迷惑なんて、本当にわたしがそう思うと思っていたんですか? だったら、わたしは聖夜くんを見損ないます。迷惑なんて、思うはずないじゃないですか。他人のために自分を省みず怒ってくれた人を、誰が迷惑だなんて思うんですか。もう一度訊きます、本当に、わたしがそう思うと思っていたんですか?』
 その文字を見た時、自分がどれだけ馬鹿かやっとわかった。
 雪乃が泣いている理由。心配してくれていたんだろう。雪乃は今、制服を着ている。晴天中学校指定の制服だ。それは何を意味しているのか。心配だったのだろう。自分が原因で喧嘩をした聖夜を、本気で心配していてくれたんだろう。だから家にも帰らず、ずっとここで待っていた。だから制服から私服へ着替えてはいない。放課後から今の今まで、雪乃はずっとここで待ってくれていたのだろう。聖夜が来るのを、聖夜のことを心配しながら。
 なのに。聖夜はその気持ちを踏み躙るようなことをしてしまった。考えればわかることだったのではないか。聖夜の行動が迷惑だと思ったのならわざわざこんな真冬の空の下で待っているなんてしないはずである。迷惑ならわざわざ自分からその人物に関わるようなことはしないはずである。なのに、それに気付かずに聖夜は言ってしまった。気持ちの整理が付いていなかったのも原因の一つかもしれない。だけど、もっと別の原因があったはずである。
 聖夜は俯き、拳を握り、言葉を考えに考えた。行き着いたその言葉を、真っ直ぐと雪乃の瞳を見据えて言った。
「思ってない。そんなことは思ってないよ……。だけど、ごめん。これだけは謝りたかった。意味はさっきのとはもちろん違う。このことに対して、ぼくは雪乃に謝りたい。だから、ごめん」
 もう一度頭を下げ、上げた時、今度は叩かれなかった。
 雪乃は涙を指で拭い、それから首をふるふると振った。
『ううん、いいんです、謝らなくても。わたしも、叩いてごめんなさい』
 次は聖夜が首を振る、
「いや、それこそ謝らなくてもいい。さっきの一発、結構効いたし」
 くすくすと笑い、雪乃はこう打った。
『でも、ごめんなさい。これでお相子です』
 聖夜は笑う。
「そっか、お相子か……。わかった。…………どうしたの?」
 ふと見た雪乃が、驚いたような表情をしていた。何か驚かれるようなことをしたのだろうかと思い、そう訊ねると、雪乃はまたキーを押した。
 見せられたディスプレイには『聖夜くんが笑ったの初めて見ました。素敵です』との文字。文字は言葉を的確に伝えることができる。口にすれば恥ずかしいような言葉でも、勇気がいるような言葉でも、文字ならば素直な気持ちを伝えられると聖夜は思う。だけど、そんなことを普通に言われても返答に困る。
 どう言っていいかわからず雪乃を見ると、『あ、また元に戻った。ポーカーフェイスよりさっきの方がずっといいですよ?』とディスプレイに打った。しばらくそれを眺めてから、ゆっくりと視線を頭上に広がる星空へと向ける。
 雪乃なら、と思う。太一以外でこんなことを話せる人はいないと思っていた。だけど雪乃なら話せるのではないか。いや、雪乃だからこそ話したいのかもしれない。雪乃に、聞いてほしいと思う。
 視線は空に向けたままで、聖夜は口を開いた。
「昨日……どうして笑わないのかって、訊いたよね……?」
 視界の端で雪乃はゆっくりと肯いた。
「……笑わないわけじゃないんだ。本当に楽しい時、本当に嬉しい時にはちゃんと笑う。だけど……愛想笑いっていうのかな、ああいうのはどうしてか出来なくてさ……。つまらないのに話しを合わせるためだけに笑うってことが、ぼくにはどうしても出来ないんだ。だから自然とポーカーフェイスみたいになっちゃうんだろうね。太一ならわかってくれてるんだけど、他の人から見たらそれは馬鹿にしているって思われてる。前に何度かそれで衝突もあった」
 心の傷を話すのには、本当に勇気がいる。太一には話せた。たった一人の、親友と呼べる友達だったから。
 そして雪乃にも、話せると思う。雪乃なら、ちゃんと真正面から自分を見てくれると思う。太一と同じように。
「そのことを良く思ってない人がいるのは知ってる。だけど直せないんだ……。もうこれがぼくになってるから。心の中じゃちゃんと思ってるのに、表情では冷徹に受け取られる。……それにはぼくにも原因があると思う。笑わないのは、やっぱりぼくだから。それでかな……。どうしても皆で騒ぐ気にはなれなくてさ……。怖い、のかな。皆の和に入るのが、怖いんだと思う。だからぼくは一人でいる。ぼくが親友と呼べるのは太一だけだから……」
 それだけ話して、聖夜は口を閉じた。無言で夜空を眺める。
 この話しをしたのはやっぱり太一以外ではいない。雪乃が二人目だった。雪乃はどう思うのだろうか。何も思わないのか、それとも情けないと思うのか。自分では情けないと思う。こんなことしか言えずに自ら動かない自分が情けない。だけど自分からは動けないのだ。動くのが怖い。何かをする度、何かを言う度、人の気分を害するのが辛い。このまま消えてなくってしまいたと思ったこともよくある。自分が悪いのもわかってる。だけど、
 その時、体に温もりが伝わった。後ろから、そっと抱き締められていた。そのことに気付くまで、かなりの時間が掛かった。
 驚いて振り返ったその瞬間、【声】を感じた。音ではなかった。まるで頭の中で書かれてるような感覚。その【声】は、こう言っていた。
 ――苦しいんだよね……?
 それは、雪乃の【声】だと思った。
 抱き締めてくれてた雪乃の細い腕に、微かな力が入る。
 ――怖い、そして辛い。だから、苦しいんだよね……? でもね、聖夜くん。我慢しなくていいんだよ……。わたしじゃダメかもしれないけど、だけど、聖夜くんが落ち着くなら、我慢しなくてもいいんだよ……?
 凍りが溶けるようだった。心を縛っていた凍りが、その言葉でなくって行くようだった。
 不思議な感じがする。雪乃から伝わる温もりが、本当に暖かかった。
 気付いたら、涙が溢れていた。今まで積め込んでいた物が、一瞬でなくなったような気持ち。意識しなくても、涙は流れていた。何をしていたんだろう、って思う。もっと早くに気付けばよかったのかもしれない。一人で抱え込まずに、誰かに話せばよかったのかもしれない。太一だけではなく、もっと自分から心を開けばよかったのかもしれない。
 視界が涙で歪む。そこから見える星は本当に綺麗だった。
 雪乃は、自分にとって何なのか。その問いの答えが、やっとわかった気がする。
 聖夜にとって、雪乃は、いなくてはならない存在なんだと思う。
 いつまでも、雪乃の温もりに包まれていたいと感じた。


 その日から、聖夜は雪乃の【声】が聞こえるようになる。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「友情より愛情」




 朝起きて顔を洗って朝食を食べて部屋で制服に着替えていたらメールが来た。
 着メロは『to love song』である。この着メロに設定してあるのは一人しかおらず、時計を見れば時間もいつも通りだった。携帯を手に取ってメールボックスを開く、受信メールにカーソルを合わせて決定ボタン。件名はなく内容はたった一言、『今から家を出ます』とだけあった。それを確認してから返信する。件名はそのままの空白で内容に『わかった』とこっちも一言だけ書いて送信。
 携帯をポケットに閉まって床に放り出してあった鞄を引っ掴んで歩き出す。部屋の電気を消して階段を下り、弁当箱を回収して鞄に突っ込んで玄関に向う。途中で手袋を入手して手に装備。スニーカーを履いて外に歩み出た。やはり冬は寒く、吐く息は本当に白かった。風が吹く度に首元が冷たいが最近ではもう慣れたものである。
 門を開いて道路に出て、後ろ手で閉じて見れば、通学路とは反対方向に雪乃がいた。こちらに気付いた雪乃は嬉しそうに手を振ってぱたぱたと歩いて来る。雪乃がこっちまで来るのを待って、それから聖夜は一緒に歩き出す。
 隣りを歩く雪乃へ視線を向ける。
「おはよう」
 ――おはようございます。
「寒いね……」
 ――寒いですね……。
「でも雪乃はマフラーしてるからいいよ」
 ――返してほしいですか?
「いや……別にどっちでも」
 ――じゃあ返しません。わたし、このマフラー気に入っちゃいましたし。
 雪乃が聖夜を見て綺麗に笑った。まあいいか、と聖夜は思う。
 そのまま二人揃って歩き、
 ――もうすぐ冬休みですね。
「うん、そうだね。雪乃は何か予定あるの?」
 ――わたしは――ですね。
 少し申し訳ない気分になる。聖夜は軽く謝る。
「ごめん、わからない」
 はっと思い出したように雪乃が慌て、制服の上から来たコートから携帯を取り出した。それからキーを打ち、ディスプレイを聖夜へ見せる。
『わたしはとくにないですね』
 ――聖夜くんは?
 少し考えてから聖夜は言う。
「ぼくも別にないや」
 ――わたしと同じですね。
「同じだね」
 それから二人は軽く笑った。
 ――やっぱり聖夜くんは笑った顔が一番です。
「……頑張るよ」
 今度は苦笑する。
 ――頑張ってください!
「うん」
 また軽く笑う。
 しばらく歩くと学校の馬鹿でかい校門が見えて来て、それを潜って真ん中の道へ。その途中で空を眺める。今日は雲が多く、天体観測にはあまり好ましくない天候だった。それでもやっぱり行くのが聖夜である。それに、もう一つ理由も出来たのだ。最近では星を見るのと同じくらい、聖夜にとては大切なものへとなっていた。だからかもしれない。
 夜が、待ち遠しかった。


 浅摩雪乃が転校して来て、今日で一週間となる。
 転校当初のような騒ぎは大分収まった。かと言って、完全になくなったわけではない。休み時間ともなれば雪乃を見学しに来る彼女のいない男子生徒が廊下にうようよいるし、我慢し切れなくなった者は雪乃の携帯の番号を教えてくれと頼み出す始末。しかしそれを雪乃はすべて断っている。聖夜の知ってるところで、雪乃の携帯番号を知っている生徒はクラスの女子数人、男子でいえば聖夜自身と、それから太一くらいだ。女子生徒は友達だから教えるのは当然といえば当然である。だが女子生徒ではない太一が知っている理由は何か。簡単にいえば聖夜繋がりである。番号を知ってる聖夜を脅迫しまくり、遂には聖夜が折れて雪乃に頼んでみた。すると雪乃は『太一くんならいいよ』と快く受け入れてくれたのだ。それから太一はその事実を見学に来る男子生徒に自慢しまくり、ここ数日はそれを恨む奴等の陰湿な嫌がらせを受けていた。しかしそんなことで太一が潰れるわけないので心配は無用で、今日も自慢の狼藉を繰り返している。
 そのことに関し、聖夜が雪乃の携帯番号を知っている理由を少し。発端はあの日、雪乃の【声】を初めて訊いたあの夜まで遡る。それから公園で二人揃って天体観測をしばし、帰り際に雪乃が提案して来た。『これから、朝一緒に行きませんか?』と。その連絡手段にメールは打って付けで、自然と番号とアドレスを交換した。聖夜にしてみても嫌ではなかったので受け入れたのに、まさか太一に脅迫されるとは思ってもみなかった。
 そして、雪乃の【声】のことも話しておかなければならないだろう。あの夜を境に聞こえるようになった雪乃の【声】。正確に言うと【声】ではなく、【心の声】である。雪乃が意識して聖夜に伝えたいと思ったことが、なぜか本当に伝わるのだ。聴覚で受け止めるのではなく、頭の中で書かれるような感覚で伝わって来る。テレパシーの一種かもしれない、と聖夜は思う。しかしすべてがすべてわかるわけでもなく、中にはなぜか聞けない言葉もある。一定のパターンがないことから、携帯でいえば電波が悪くて聞こえないとかそういう類の話なのかもしれない。がしかし、それでも大半は聞けるので支障はほとんどない。わからなければ雪乃に言って書いてもらうか携帯に打ってもらえば話は済む。
 ちなみに、これは雪乃の一方的なテレパシーであり、聖夜の【心の声】は雪乃には全く伝わらない。よって、雪乃が【心の声】で、聖夜が普通の声で会話するという何とも不自然な会話が成り立っている。それにその雪乃の【声】が聞こえるのは聖夜だけであり、他の人から見えば聖夜が独り言を言っているように見えるらしい。太一が、「雪乃ちゃんが黙ってるのをいいことに、聖夜が無理矢理ナンパしてるみたいだぞ」と言っていたが、事情を知らない人から見ればそうかもしれないと聖夜は思う。しかしそれはそれで不愉快である。
 【声】のことを知っているのは聖夜と雪乃を除けば、唯一知っているのは太一だけ。だから太一以外の人がいる前では雪乃とは携帯のディスプレイで話しをしている。とはいっても、学校で雪乃と話しをするのは滅多にないし、雪乃と話しをするは朝の通学路か夜の公園だけで、そこにはほとんど人がいないので隠す必要もなく、普通に【声】と声で会話していた。
 そんな状況を、太一が「いいなぁ、雪乃ちゃんと二人でナイショの会話かよ……いいなぁ、おれも仲間に入れてくれよぉ」とか涙目で訴えて来たが、そうとも言い切れないのが痛い。
 特に問題は授業中である。今日もそんな状況が再現されている。
 ――ねぇ聖夜くん、黒板のあの端っこ、何て書いてあるの?
 雪乃の【声】が届く範囲は、普通の声が届く範囲までなら聞こえる。ただ他の人に聞こえないことを差し置けば、ほとんど普通の声と変わりがないということである。
 ――あ、聖夜くん寝ちゃダメだよ! 授業はちゃんと聞く!
 いろいろ実験してみたところ、雪乃の声は耳を塞いでもあまり意味がないというのがわかった。そもそも聴覚を使ってないので耳を塞いでも変化があるわけでもないので当たり前であるのだが。
 ――太一くんまた寝てる……。いつも寝てるよね?
 後ろの太一は今日も爆睡である。そして聖夜も眠たいのだが、どうしても寝ることが出来ない。
 ――問八の問題って答え何になるの?
 他人に声が聞こえないということはつまり、好き放題授業中に喋れるということである。そしてその声が聞こえるのはこの世でただ一人、結城聖夜だけなのだ。だから会話のターゲットはもちろん聖夜になるわけで、授業中に雪乃の声がいつも語り掛けて来る。
 ――お腹空いたねー。あ、そうだ。今日のお昼、一緒に食べません?
 いつもいつも夜の公園や朝の通学路で注意はしているのだ。しているのだが、雪乃は一向に守る気配がない。
 席に座って上っ面だけでも真面目に授業を受けている聖夜とは裏腹に、いつも聞こえてくる雪乃の【声】。授業中に後ろを振り向いて「雪乃、うるさい」と注意すればどうなるかはわかり切っていた。雪乃は喋れない、だからうるさくしようがない、というのがこのクラスでは定着している。うるさいと注意をした聖夜の方がうるさくなるし、下手をすればそれは陰湿なイジメと受け取られて目の敵にされる恐れすらある。そして、それを上手く利用しているのが雪乃だった。
 ――あと五分で授業終りですね。
 時計を見れば本当にあと五分で授業が終りになる時間だった。
 こちらから雪乃に対して【声】を伝えられないので、いつも雪乃は一人で話している。だがその【声】がなぜか嬉しそうなのだ。少し前に雪乃に「どうしてそんなに嬉しそうに話すの? 一人で喋ってるのと一緒なんだよ?」と訊いてみれば、雪乃は真顔で『聖夜くんが訊いててくれるじゃないですか。わたしはそれで十分です』と言われ、結局は聖夜の負けで雪乃の思うがままで状況は進んで行っている。
 ――っ?
 雪乃が微かに驚いた【声】を出した。
 授業が終る数秒前、何が切っ掛けになったのかは知らないが突然太一が覚醒した。ガタっと机を鳴らして立ち上がり、肩で激しく息を整える。しばらくして息が整った太一は、そんな光景を驚いて呆然と眺めていたクラスメイトを見渡して一言、こう言った。
「……穴に落ちる夢を見た……」
 クラスが爆笑する、それと同時にチャイムが鳴る。
 聖夜にしかわからない【声】で雪乃が笑っている。
 誰にも気付かれないように、聖夜はため息を吐いた。
 日常は、変わって行く。


「やっぱ羨ましい。聖夜、おれと代わらないか?」と弁当を片手に太一が主張した。代われるもんなら代わってほしいと聖夜は思う。隣りに座っていた雪乃が、例の如く卵焼きを頬張りながら笑っている。もうため息しか出て来ない聖夜である。
 今、聖夜と雪乃と太一は屋上に来ていた。晴天中学校の屋上は、原則では基本的に立ち入り禁止となってはいるのだが、鍵も何も掛かっていないので普通に出入り出来るようになってる。教師に見付かっても別に咎められるわけでもないので、普通に生徒がそこで弁当を食っているのもいつもの光景である。とは言うものの、今の季節は冬なので、この寒空の下で弁当を食っているのは三人だけだった。
 授業中に雪乃が提案した一緒に弁当を食う件は、太一の希望も重なって聖夜の意見などほとんど無視で強制的に食べることで落ち着いた。場所はどこで食べるのかという問題は、誰もいないだろうということで思い付いた屋上。案の定、他の生徒の姿はなかったので、屋上へ続くドアの近くの壁を風除けにしてそれぞれの弁当を囲んでいた。
 そんな時に、太一は雪乃の【声】が聞きたいという意見をぶちまけ、先のように代わってくれと申し出たのである。
「雪乃ちゃんはなんでおれじゃなくて聖夜を選んだのか……。やはり最初の出会いでの遅れが何とも否めないのか……」
 太一は箸を指で持て余しながら真剣にそんなことを考える。
 そんな太一を無視して、聖夜と雪乃は弁当を食べていた。
 ――聖夜くん、
 雪乃の【声】が聞こえたので、そちらを向く。と、雪乃は箸で卵焼きを持ち上げ、聖夜に差し出していた。何がしたいのかわからなかったが、客観的に見るとつまり、食え、ということなのだろうか。しかしそれには途方もない抵抗があった。一瞬言葉に詰ってから、聖夜は言う。
「雪乃のお弁当って、卵焼きしか入ってないの……?」
 ――そんなことないですよ? ほら。
 食べてもらえなかった卵焼きを自分で食べ、雪乃は弁当を聖夜に見せた。少し小さ目のケースに詰った色鮮やかなおかず、偏ってはいない白いごはんとそれを飾るふりかけ。卵焼きはその端っこに一つだけ。がしかし、さっきから見てる分には、この弁当は異様にしか思えず、絶対に卵焼きしか入っていないと思う。実際は卵焼きは一つだけなのだが、そもそもこの弁当には魔法が掛かっていて、ただの卵焼きがいろいろなおかずに見えるのではないか――。などと小学生みたいな思考を巡らせていると、自問自答を終えた太一がまた言う。
「聖夜、やっぱりおれと代わろう。雪乃ちゃんの【声】をおれも聞きたい、てゆーか代われ、そして聞かせろ」
 まだ言うか、と聖夜は思う。ため息を吐いて、聖夜は太一の目を見据える。
「あのさ太一。一つだけ言っとくけど、太一の思ってるほど甘くないよ。正直に言うと、辛い。だって授業中に雪乃、歌を歌ってるんだよ?」
 突然、頭の中で『わーわーっ! 言っちゃダメ!』と【声】が聞こえ、雪乃が手をぱたぱたさせて聖夜の前で慌てる。
「歌? なんの?」
 雪乃の【声】が聞こえない太一は興味津々で聖夜を見やる。日頃の仕返しだ、と言わんばかりに、聖夜は頭の中の【声】が聞こえぬフリをして暴露した。
「ちょっと前に流行った『to love song』って歌。たまに嬉しそうにそれを歌ってる」
 瞬間、【声】が止んだ。慌てていた雪乃の動きも停止して、自分の席に戻って残り一つの卵焼きを箸で突つき始める。俯いているからわからないが、泣いているようにも見えなくはない。ちょっとやり過ぎたかなと思って、雪乃へと声を掛けようとした時、いきなり雪乃がばっと顔を上げた。
 いつかのように目がばっちりと合い、刹那、頭の中で『聖夜くんのバカぁあっ!!』と響いて頭痛がした。初めての経験に狼狽し、こめかみを押さえて目を閉じる。その間にも雪乃の【声】は止まらず、頭痛は終りなく続いていた。
 必死だった。
「ご、ごめんて雪乃! ぼくが悪かった、悪かったから、お願いだからそれやめて!」
 やっと【声】が止んだ。その後遺症かどうかはわからないが、軽い頭痛が残っている。こんなことも出来るんだなとほんの少しだけ感心してから、これから雪乃に逆らったら死にそうな思いをするのかと絶望的な気分になる。
 首を振って頭痛を追い出そうとする聖夜と、微かに潤んだ瞳でそれを見つめる雪乃。そんな二人を、死ぬほど羨ましそうな濁った目で見守る太一が、とうとう爆発した。
「聖夜ぁっ!! 何でお前だけなんだ!! 羨ましいぞコラあっ!! てゆーかお前、最近キャラ変わったんじゃねえのか!? ちょっと昔は表情の変化もなかったクセに、雪乃ちゃんが転校して来てから表情豊かになりやがってチクショウ! 聖夜の笑顔を知ってるのはおれだけって思ってたおれの気持ちはどうなるんだこの浮気者!!」
 論点が途方もなくズレてるって。そう思って言い返そうとするのと、雪乃が、
 ――……そういえば、聖夜くんて最近よく笑いますよね?
「え、あ、ああ……そう、かな……」
 自分ではわからないが、そう言われるということはつまり、そうなのだろう。自覚や実感はないが、ただ、最近は少し気持ちが楽になったとは思う。始まりはあの日、雪乃の【声】が聞けるようになったあの夜だ。あの時から、確かに少しずつ変わっているとは感じる。が、何がどう変わっているのかと聞かれれば、具体的には何も答えられないのもまた確かだった。
 ふと思考の泥沼に浸かりそうになると、またもや太一が、
「くそぅ、また二人だけで秘密のラブラブトークかよ! いいよ、どうせおれは仲間外れだよ! せっかく、せっかくおれは……おれはぁあっ!!」
 それだけ言い残し、弁当をその場に残して太一は走り出した。漫画のような涙を流し、片腕でそれを拭って、もう片方でドアに体当たりして階段へと消えて行く。しばらくしてから「友情より愛情を取るのか我が親友よっ!!」との叫びが聞こえたと思ったら、すぐに泣き声とともに太一の気配は消え去ってしまった。
 しばらく呆然としていた聖夜と雪乃だが、突然笑い出す。
 ――太一くん、だいじょうぶかな?
 そう言った雪乃も微かに笑っていた。
「だいじょうぶだよ。次の授業には元通りになってる」
 ――そっか。楽しいね。
「うん、楽しいね」
 また笑う。
 この時になって初めて、自分はよく笑うようになったと実感した。本当に楽しい。つい一週間前までは考えもしなかった。こんな楽しい時間が持てるなんて思ってもみなかった。心から笑う何て、一体何年振りだろうと聖夜は思う。
 すぐ隣りで笑っている雪乃に視線を向ける。
 それは、自然と溢れた言葉だった。
「雪乃、ありがとう」
 一瞬きょとんとした雪乃だが、すぐに笑ってこう言った。
 ――うん。
 雪乃の笑顔は、本当に綺麗だった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「盗聴機の値段」




 夢を見た。
 不思議な感じのする、変わった夢だった。
 どんな夢なのか、そう訊かれるとどう答えていいのかわからないけど、とにかく変わった夢だった。はっきり言ってしまえば、よく憶えていない。
 そのよく憶えていない夢の中で、確かに見たと思うのが二つだけある。
 それは、雪乃と星空。視界に立っていた雪乃は少し悲しそうに笑っていて、何かを言っていた。もちろん、雪乃は喋れないので勘違いなのかもしれない。そもそもそれは夢なので、勘違いも何もないように思えるが今はどうでもいい。
 そしてもう一つが、そんな雪乃の頭上で輝く満天の星空。雲一つない夜空に満月とともに輝いていた星。天体観測にはすごくいい空だったな、と微かに聖夜は思った。
 その二つだけが強く印象に残った夢だった。それ以外のことは何も憶えていない。もしかしたらその夢には続きがあったのかもしれないし、それ以前に何かがあったのかもしれない。だけど、憶えていたのはその二つだけで、他には頭の中からすっきりと消えていた。でもその夢を見て、正直、ほんの少しだけ怖くなった。雪乃がいなくなってしまうのではないか、もしかしたらもう雪乃に会えないのではないか、なぜかそんな感じがした。何の根拠もなくそう思って、一人で心細くなっていた。
 今日から冬休みだったのがより一層その気持ちを煽り、しかし雪乃にそんな理由で連絡を取るのも気が引けて、結局はその日、冬休み初日はどうも落ち着かないままで夜まで過ごした。


 落ち着いたのは、夜の公園で雪乃の姿を見た瞬間だった。
 その時、自分でも驚くくらいに安堵して、同時に嬉しかった。夢の違和感などすぐに消え去って、公園を横切って雪乃の側まで歩み寄る。
「こんばんわ、雪乃」
 ――こんばんわ、聖夜くん。
 軽い挨拶をし終えたら、公園の柵に背中を預けて二人揃って夜空を眺めた。夢の中のような星空とまではいかないが、今日は十分に星を見渡せた。最近、雪乃とこうしている時が、一番心が落ち着く時間となっていた。
 それは別に決めているわでもないし、約束したわけでもない。だけど、毎晩毎晩、雪乃はここにこうしていてくれて、聖夜と一緒に星を眺めてくれる。雪乃も星を見るのが好きだそうだ。でもここに来る理由はそれだけではないらしい。しかしそれは訊かなくても何となくわかる。多分、聖夜と同じ気持ちなのだろうと思う。
 しばらく無言でそういていると、雪乃が思い出したかのように言う。
 ――そういえば、さっきわたしを見た時に驚いてなかったですか?
 ややあってから、聖夜は返答する。
「いや、別に驚いていたってわけじゃないよ。ただ、安心したっていうのかな……」
 ――安心?
 不思議そうに雪乃がこちらを向く。聖夜は星を見上げたままで、
「今日さ、夢を見たんだ。何だか変わった夢を。その中に雪乃が出て来て、何だっけな……とにかく、そこに雪乃が出て来て、それから……」
 ははっと聖夜は苦笑する。
「ごめん、何言いたいんだろうね。よくわかんないや……。とにかく、雪乃がここにいてくれて、僕は安心した、それだけなんだ」
 ――わたしに会えないと、淋しいですか?
 雪乃がさらっと訊ねて来た。前から思っていたのが、雪乃は恥ずかしいことでもさらっと何でもないようなことのように言う時がある。そりゃ聖夜が聞いているのは【心の声】なのだから、偽りがない言葉を伝えるのは当たり前といえば当たり前である。が、本人は恥ずかしくないとはいえ、言われている方が恥ずかしいのはどうかと思う。
 そして、聖夜もそんな雪乃の対処方法をようやくわかって来た。そのまま自分の本心を伝えるか、さり気なく流すかのどちらかである。いつもは後者を取ることが多い。だけど、今回は前者を取った。
 素直に、思ったままを口にする。
「淋しいってわけじゃないけど、今日は不安になった。でも、さっき雪乃を見て安心した。それだけ」
 視線を雪乃へ移すと、彼女はゆっくりと微笑んだ。
 ――わたしは、聖夜くんと会えないと淋しいです。
「……あのさ、雪乃」
 不思議そうな表情で聖夜を見つめる雪乃へ、そのままを言った。
「さらっと言われると返答に困るんだけど……。こういう場合、どう返答した方がいいと思う?」
 雪乃がむっとする。
 ――そんなもの、言ったわたしに訊かないでくださいよ。……そうですね、ありがとう嬉しいよって言ってくれるとわたしも嬉しいです。
「『ありがとう嬉しいよ』」
 ――……棒読みで言ってくれても嬉しくないです……。
「……だろうね」
 それから聖夜は少しだけ笑った。何が楽しいかはよくわからなかったけど、なぜか笑ってしまう。隣りの雪乃も少し不服気味に、しかし楽しそうに笑ってくれた。それだけ十分だった。
 笑い終えたらまた二人揃って空を見上げる。雲が所々あるにはあるのだが、星を眺めるのには支障はない。冬の風はやっぱり寒かったけど、雪乃といれるこの空間だけは温かいと思えた。不思議な感じのする、優しいこの空間。ここが、いつの間にか聖夜にとっての一番心地良い場所となっていた。
 輝く星はどれも綺麗で、半月が暗い世界を照らしている。月の光は優しい、と祖父が言っていたのを思い出す。そして唐突にもう一つ思い出し、無意識に口から溢れていた。
「雲一つないその夜空に満天の星が輝く時、【ほしのうた】が見えるだろう。どこまでも続く綺麗な夜空で、いつまもで続く【ほしのうた】。満月に導かれしその【うた】を、いつか誰かは聞けるだろうか」
 ――なんですか、それ?
 雪乃にそう言われて初めて、自分が言葉を発したことに気付いた。少しだけ恥ずかしくなって、次に続く言葉がなかなか見出せない。あれこれ考えていると、やはり最終的に辿り着くのは先ほどの言葉の内容だけだった。
 恥ずかしさを乗り越え、聖夜は星空を見上げながら話し始める。雪乃の方を見ながらは話せなかった。夢のようなこの話を、真顔で人前にて話せるほど、聖夜は人間出来てはいない。
「これはぼくのじぃちゃんが教えてくれた話なんだ。【ほしのうた】っていうのが、この世界のどこかにあるらしいんだよ」
 ――【ほしのうた】? 普通の歌なんですか?
 聖夜は首を振る。
「違うと思う。そんなんじゃなくって、もっとこう……言い伝えとか昔話みたいな感じなのかな……」
 よくわからない、とでも言いたげに雪乃が首を傾げるのがわかった。しかし聖夜にしてみてもよくわからないので、ここからは聖夜の憶測で話すしかなかった。と格好いいこと言ってみても、実はこれも祖父からの受け売りなのだが。
「【ほしのうた】ってのは、自然現象みたいなものなんだよ。例えば――そうだな、流れ星とかそんな感じの」
 ――流れ星……ですか。聖夜くんはその【うた】を見たことあるの?
「ないよ。実際にあるかどうかすら曖昧だし。というより、もしかしから何かの比喩ってよりただの作り話って気もする」
 祖父の手紙に書いてあった内容を微かに思い出すが、どうもそれがこの世界にあるとは思えない。だけど、祖父が嘘を言うとも思えないのもまた事実だった。その真意を探りたいからなのかもしれない。毎晩星を見るのは、もしかしからそこに答えがあるんじゃないだろうか。そんな思いがあるからこうして星を見てるとも解釈できる。星を見るのが好きだから、という理由もあるのだろう。だけど、本当はどちらを優先しているのかは聖夜にとってもあまりわからない問いだった。もしかしたら両方を優先しているのかもしれない。
 それに、最近ではもっと別の理由が出来た。前から夜が来るのが待ち遠しかったのは本音である。しかし、ここ一週間でその思いがさらに強まった。ここでこうして雪乃と一緒にいれること。それが、根本的な理由なんだろうな、と聖夜は思う。
 ――いつか、見てみたいですね。
「そうだね……」
 あるかどうかは別としても、見てみたいと思っているのは本当だった。
 ――聖夜くんと一緒に。
 聖夜は笑った。
「『ありがとう嬉しいよ』」
 初めて、作り笑いをした瞬間だった。
 直後、頭の中で『ここはもっと良いこと言ってください!!』と反響して頭痛がした。
 二回目の体験とはいえ、これに慣れる日は絶対に来ないんだろうなと早くも痛感する聖夜である。


 雪乃の機嫌を直すのに思ったより時間が掛かった。
 なかなか元通りになってくれない雪乃に対し、聖夜がそれとなく弁解を試みてみたのだがすべて徒労に終った。そして最終的に、雪乃の口車に乗せられて『一つだけわたしのお願い事を聞いてください』という条件が出され、なぜかその場のノリで聖夜は承諾した。大したことは命令されないだろうと思っていたのだが、雪乃との会話が進展するに連れ、そのお願いとやがら見えてきた。
 ――今日から冬休みですよね?
「うん」
 ――もうすぐクリスマスですよね?
「だね」
 ――予定はありますか?
「ないよ」
 ――……あの、
「なに?」
 ――聖夜くんて、彼女います?
「……いたら雪乃と二人でこんな所にいないって」
 ――ですよね、よかった。
「……何だか悲しい気分になるね」
 ――そうですね……じゃないですよ。だったら、お願いです。
「金銭関連ならごめん」
 ――違いますよ! もう、冗談はやめてください! それに即答もしないでください!
「……だって……さ?」
 ――同意を求められても困りますってば……。
「それで? お願いは?」
 ――クリスマスパーティーをしません?
「……一つだけ訊かせて」
 ――わたしの好きなケーキですか?
「違う。……それでもあるけど……いや、やっぱり違う。クリスマスパーティーには賛成するよ。だけど……どこで?」
 ――聖夜くんの家です。
「……理由は?」
 ――女の子の部屋を見たいんですか? 聖夜くんがどうしてもって言うなら、わたしの家でも構いませんけど?
「……」
 ――沈黙しないでください!!
「やめてやめて叫ばないで頭痛い。わかった、わかったよ……ぼくの家でやろう……」
 ――うん!
 という展開が繰り広げられ、結局はクリスマスパーティーは決定事項になって場所は聖夜の自宅が確定した。
 別に異存はない。雪乃と過ごすクリスマスは純粋に楽しそうだし、それ以上に嬉しくもあった。それにもしこうして雪乃からの誘いがなければ、もしかしたら聖夜の方から誘っていたかもしれない。悪まで可能性の話だが。しかし問題が一つだけ存在する。圧倒的な迫力を誇るその問題。恐らく避けては通れないであろうその難関。それは、
 突然、聖夜の携帯が鳴った。この静寂の場には不釣合いのその電子音に微かに驚きつつ、雪乃に断りを入れてからそれを取り出した。夜の中で光っている携帯の着信ランプに少しだけ目を射貫かれながらも、ディスプレイを確認する。着メロでメールではなく電話であることはわかっていた。しかし誰からなのかはわからなかった。……いや、わかってはいた。だけど、それを認めたくなかったのかもしれない。ディスプレイには、予想通りの人物の名前が浮んでいた。
 ため息を吐き、聖夜は通話を開始する。通話口を耳に当てると、こんな声が聞こえた。
『グッナイ、マイフレンド!』
 ヘタクソなその発音で喋る男など、聖夜の知るところでは一人しかいない。そしてその人物こそが圧倒的な迫力を誇る問題であり、絶対に避けては通れない難関であり、一発でその場の雰囲気を変えてしまう異物であるのだ。通話口の向こうに、笑っている水上太一の顔が浮んだ。
 聖夜が、何の用? と言うより早くに、太一はこう言った。
『おれもクリスマスパーティーに行くからよろしく!』
 親指がぐっと立てられたような気配が伝わって来た。
「太一さ……絶対に隠された能力とか持ってるよね? それこそ世界最高機密も簡単に探れるような能力を」
『……はぁ? 何言ってんだよ聖夜。脳みそだいじょうぶか?』
 「ではなぜ、水上太一氏は結城聖夜と浅摩雪乃しか知り得ない情報を持っていたのでしょうか?」
一瞬の沈黙のあと、太一は答えた。
『世界はおれの味方だからだ』
「一つだけ訊かせて。盗聴機っていくらすると思う?」
 通話口の向こうでいきなり慌しい音が聞こえた。どうやら携帯を落としたらしい。そのあとすぐに太一の声がする。
『な、何を言ってるんだマイフレンド! 盗聴機の値段っ? そ、そんなものおれが知ってるわけないだろう! まったく、何を言い出すかと思えばそんなことを、ハハハ、知ってるわけないじゃないかっ!」
「あっ、何だろこの服のボタンみたいな白いヤツ……」
『嘘っ!? マジでっ!?』
「……もういいや。クリスマスパーティーのことについては、雪乃に確認してからまた連絡するよ」
『待て!! お前、本当に見付けたのか!? なあオイ!! 聖』そこで聖夜は通話を経ち切った。
 呆然と携帯を閉まっていると、隣りの雪乃が、
 ――さっきの電話、太一くんからですか?
「そう。あのさ雪乃、」
 言い出していいものか一瞬だけ悩んだ。
「……太一もクリスマスパーティーに来たいって言ってるんだけど……どうかな?」
 ――いいですよ、もちろん。
「ホントに……?」
 雪乃が首を傾げ、しかしすぐに思い至ったように肯いた。
 ――もしかして、聖夜くんは二人だけの方がよかったんですか?
「違う」
 ――だから……即答しないでくださいよぉ……。
 泣きそうな雪乃の瞳に少しだけ申し訳ない気持ちになったが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
「もう一度訊くよ? 太一が来ても、いいんだね?」
 ――? いいですってば。
「わかった。それじゃ、また連絡しておくよ」
 よく状況がわかっていない雪乃は、そんな聖夜にまた首を傾げた。
 それからは軽い打ち合わせみたいなことを二人で決め、雪乃の携帯が鳴ったのを切っ掛けにお開きになった。
 クリスマスパーティーの決行日は十二月二十四日、正午。会場は聖夜の自宅、参加者は聖夜に雪乃、それから太一。
 公園から別れて歩いて行く雪乃の背中を見守りながら、どうか無事にパーティーが終ってほしいと聖夜は願った。
 こういう時に、流れ星があると便利なんだろうなと思う。
 不安はあるにはある。だけど、楽しみなのもまた事実だった。
 久しぶりに過ごす、賑やかなクリスマスになりそうだったからだ。派目を外し過ぎなければの話だが。
 夜空を見上げる。
 星が綺麗だった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


     「雪の降る下で」




 冬の朝は外だけではなく室内も寒いものである。
 毛布に包まってその温もりに身を任せて眠っていた聖夜を叩き起こす人物がやって来たのは、早朝の七時だった。どうやってこの家に入って来たのかなんてのはどうでもよく、その人物は聖夜の部屋のドアを破壊しそうな勢いで開けて、聖夜を包んでいた毛布を問答無用で引き剥がし、そのまま床に引き摺り倒した。
 一瞬、聖夜は大地震でもきたのではないかと思って慌てて飛び起き、ふと視線を上げると目が合った。
「グッモーニン、マイフレンド!」
 招かれざる来客は、そう言ってクラッカーを派手に鳴らした。
 眠気は、一発で吹き飛んだ。


     ◎


 十二月二十四日、正午。約束の時間通りに聖夜の家に到着した雪乃が家に上がり、その部屋に辿り着いて部屋のドアを開けた瞬間、クラッカーが鳴り響いた。その音に雪乃は驚き、そしてさらにその部屋の中を見た直後にたった一言、『すごいですね……』と漏らしてしばし呆然としていた。
 聖夜の部屋は、まるで小学生が遊戯大会をするような有様だった。部屋中に張り巡らされた色取り取りの折り紙で作った輪を繋げたアクセサリー、どこに売っていたのかと訊きたくなるような意味不明な電球をぐるぐる巻きにしてあるクリスマスツリー、こんなもの小学生でもしないだろうと思われる『祝っ!! クリスマスパーティー!!』と書かれた看板、部屋の真ん中に位置する小さ目のテーブルの上に置かれた三人分は遥に超えた特大のショートケーキ、その周りを飾る透明なグラスとシャンパンの瓶、そして、クラッカーを片手に馬鹿笑いしている太一と、その隣りでクラッカーを片手に放心状態の聖夜が、この部屋を支配していた。
 ベットの上に無理矢理置いてあるMDコンポからは、『to love song』の音楽が流れている。
「いらっしゃい雪乃ちゃん!! どうよこの素晴らしいセッティング!! そうかそうか喜んでくれるか!! それでこそやった甲斐があるってもんだよ、なあ聖夜!!」
 太一は頭のネジが飛んだように騒いでいて、雪乃は何も言っていないのに勝手に納得して、無言の聖夜の肩をバシバシ叩いてまた馬鹿笑いする。
 聖夜はとぼとぼと部屋を歩き、クラッカーをゴミ箱に捨ててソファーに腰掛けてため息を吐く。
 ――あの、何なんですか……これ……?
 驚きが大半を占めている雪乃の【声】が聞こえる。
 入り口に立ったままだった雪乃へ視線を向け、元気のない声を聖夜は絞り出す。
「……雪乃、取り敢えず座って……」
 言われた通りに雪乃は歩き、聖夜の隣りへと腰掛ける。首に巻いていた聖夜のマフラーを外して一息着く。
 太一はなぜかMDコンポから流れる歌に合わせて熱唱しており、テーブルの上に置いてあったシャンパンを景気良く開けた。それからソムリエのような軽やかな動作で、嬉しそうにグラスにシャンパンを注いで行く。
「……これさ、太一が一人で全部やったんだよ……」
 隣りの雪乃が驚いた聖夜に視線を向ける、
「今朝、七時に太一がここに来て、部屋を飾ろうって言って勝手にやった……。だから太一を呼ぶのは躊躇いがあるんだよ……」
 小学一年生からの付き合いである。小学生といえば、やれ誕生会だのやれクリスマスパーティーだのをやりたがる年頃なのだ。もちろん最初は快く太一と一緒に誕生会もクリスマスパーティーもやった。間違いはそこから始まっていた。太一は、自分の娯楽には遠慮なしに金をつぎ込む癖がある。それでも金欠にならないのが聖夜は今でも不思議で仕方がない。
 今日のこれだって、すべて太一が用意したのだ。アクセサリーやらクリスマスツリーやら看板は自家製で何とでもなる。だけど、疑問に思うのはケーキとシャンパンだ。一応、聖夜の方でもシャンパンだけは用意しておいた。ケーキは約束の時間までに買いに行けばいいと思っていた。だけど、それより早くに太一が持って来た。雪乃が希望した値段が馬鹿にならないであろう特大のショートケーキと、何かのテレビ番組で見たような記憶がある高価そうなシャンパンを、平然と太一は持って来たのである。もしここで、この代金割り勘な、などと言われても払える自信は全くない。しかし太一はそんなことを一切言わなかった。すべて太一の奢りだそうだ。どっからそんな金が沸いて来るのか、不思議で不思議で仕方がない。
 そんな太一が便利だと思うかもしれない。だけど、それが自分の家で繰り広げられるともなれば話は別だった。
 ――……本当に、すごいですね……。
「……片付けが大変なんだよね……」
 アクセサリーなんて燃やしてしまえば問題ない。問題はクリスマスツリーと看板だった。どうしろと言うのだろうか。早くも片付けの心配をする聖夜である。
 呆然と太一の行動を見守っていた二人を他所に、当の本人は何がそんなに楽しいのか、爆発的な笑顔でグラスを掲げた。
「さあ諸君!! クリスマスパーティーを始めようではないかっ!! 今日という日を持って、おれは雪乃ちゃんの【声】が聞けるようになると信じている!! それではそれを祝して、いざっ!!」
「……尋常に」
「勝負っ!! ってちげえよ聖夜!! 何となくおれ的にはグットだけどちげえよ!!」
 本日、朝から数えると何度目かはわからないため息を聖夜は吐いた。それからノロノロとした動作でテーブルの上に置いてあるグラスを二つ持ち上げる。片方を雪乃に手渡す。雪乃は微笑んでグラスに入った綺麗なシャンパンを眺めた。少し揺らすとグラスの内側に付いた炭酸が水面へと浮び上がる。
「気を取り直して!!」
 太一がグラスを再度掲げる。
 それに形だけでも付き合うように聖夜もグラスを掲げ、その後で本当に楽しそうに雪乃が掲げる。
 空中で三つのグラスが重なると、澄んだ音が部屋に響いた。
 クリスマスパーティー決行の合図である。


 聖夜がそれに気付いたのは、シャンパンを二本空けてショートケーキを雪乃と食べているときだった。
 太一はさっきからベットに踏ん反り返って休む暇もないくらいにシャンパンを飲んでいる。それは別にいい、どうせ太一が持って来た物だし。問題は、太一が飲んでいるそれは、本当にシャンパンかどうか、である。普通、シャンパンという物は少なからず炭酸というものが入っている、と聖夜は思う。だからグラスに注げばグラスの内側に泡が出来るはずだ。しかし、太一のグラスには透明の液体が入ってるだけで、泡など一つもなかった。
そんな液体を、太一はさっきからずっと飲み続けている。最初、水かもしれないと思った。しかし、この部屋に水を持って来た憶えはないし、わざわざ天然水まで太一は持参しないだろう。では、太一が飲んでいるのは一体何なのか。
 予想はしている。それが確実だという確信もある。だけど、認めたくはなかった。それを認めてしまえば、始末が大変なのだ。
 太一をじっと見ていた聖夜に気付いた雪乃が、フォークに苺を刺したままでふと、
 ――どうしたんですか?
 その【声】に、聖夜は微かに戸惑ったが、そのままを言う。
「太一が飲んでるあれ、何だと思う?」
 不思議そうに首を傾げた雪乃は、その問に答えるべく太一へと視線を向ける。そのグラスを見つめ、やがて、
 ――シャンパン、じゃないんですか?
「……泡がないよね?」
 聖夜は自分のグラスを雪乃に見せる。そのグラスと太一のグラスを見比べ、雪乃はまた不思議そうにつぶやく。
 ――本当……ですね。
 それから、
 ――あれ、何ですか? 水?
 聖夜は首を振る。
「違うと思う。……ぼくの考えが当たってれば……当たってほしくはないんだけど、たぶん、」
 ――たぶん?
 二人揃って太一のグラスを見つめる。そのグラスが空になって、太一が一息着いた時に聖夜は答えを口にする。
「……日本酒」
 ――……日本酒?
 オウム返しに雪乃が訊き返し、そして聖夜は行動に出る。
 ベットの下に置いてあった瓶に太一の手が届く一歩早くに、聖夜がそれを奪い取る。急な出来事に反応の遅れた太一を無視して、その瓶のフタを空けて微かに付着していた水滴を指で取って少しだけ舐めた。炭酸なんて心地良いものではなく、苦い味が下を突いて、瓶から漂った匂いに鼻を刺激される。
 結論に達した。これは、疑いの余地なしに、完全なる日本酒である。
「太一さ……何でこんなもん持ってるの……?」
 太一がベットの上で立ち上がる。グラスを掲げて火照った頬を歪ませて笑う。
「何を言ってんだぁ聖夜! 今日に飲まずにいつ飲むってんだ! いやぁ、雪乃ちゃんもいることだし、すごい楽しいクリスマスパーティーだなぁー! こんな最高な気分を、いつまでも味わっていたいものだ!」
 聖夜の質問に答えず、太一は何やらそのまま必死に熱弁を繰り返す。
 ぶっちゃけてしまえば、朝っぱらから、聖夜の家に来た時から、太一は酔っていたのかもしれない。いや、酔っていたのだろう。
 それからしばらく熱弁を続けた太一だが、いきなりスイッチを切ったみたいに黙ったと思ったら、そのまま壊れた人形のように倒れた。
 一瞬心配したのが情けなくなる。太一は酔いつぶれて、聖夜のベットで熟睡していた。
 日本酒の一升瓶には、あと少ししか中身が残ってなかった。


     ◎


 太一がつぶれても、クリスマスパーティーは聖夜と雪乃によって続行された。
 問題を起こす元凶がつぶれてくれた御かげで、今までより静かな、しかし極々普通のクリスマスパーティーとなって、聖夜は安心した。ケーキは半分くらい余ってしまったが、これは太一が全部食べてくれることを祈ろう。
 雪乃といつも通りに喋って、普通に過ごしていた。窓の外が暗くなった頃になって、そろそろお開きにすることとなった。
 結局、太一は目を覚まさずに眠り続け、聖夜のベットを占領している。そんな太一を放っておいて、聖夜は雪乃を見送りに外まで歩み出た。
 家の前で、冬の風に吹かれながら雪乃に声を掛ける。
「本当に家まで送ってかなくていいの? もう暗いし、ぼくは別に平気なんだけど……」
 しかし雪乃は首を振る。
 ――平気ですよ。それに、ここからわたしの家って少し遠いですし。
「だったら尚更だよ。遠慮しなくていいから」
 ――だいじょうぶです。その気持ちだけで十分ですから。
 そう言って、雪乃は微笑んだ。
 その微笑みを見てしまうと、どうもこれ以上言う気にはなれずに、聖夜が折れた。
「……わかったよ。でも、少しでも危ないことがあったら絶対連絡して。すぐに行くから」
 くすくすと、雪乃は笑う。
 ――聖夜くん、何だか子どもを心配するお父さんみたいですね。
 何だか微妙な心境になる。そのまま何をするでもなくじっと雪乃を見てると、ふと気付いた。
 空を見上げる。雲が支配しているこの夜空から、何かが降って来ていた。白く、そして冷たいもの。
 ――……雪?
 雪乃の声の通りに、空から舞っているのは、真白い雪だった。雪乃がすっと手を出すと、そこに雪が落ちて水になる。その光景を雪乃は本当に嬉しそうに見ていた。
「ホワイトクリスマス……っていうのかな」
 空を見上げたままでそう言う。
 ――あの、――くん。
 最後の部分が聞き取れなかったが、語尾を考えると聖夜の名を呼んだのだろう。視線を雪乃へ移す。と、その瞳から今にも涙が溢れ出しそうだった。状況が理解できなかった。何がどうなったのかわからずに、聖夜は一人で慌てた。
「え、あっと、雪乃っ? どうしたの?」
 そう言われて初めて、雪乃は自分の瞳に涙が溜まっていたことに気付いたようだった。聖夜同様に少しだけ慌てて涙を拭い、そのあどで何でもないように笑った。
 ――ごめんさない、目にゴミが入っちゃったみたいです。
 その言い訳が、信じられなかった。雪乃の微笑みが、強がりに思えた。
 どうしてそう思えたのかなんてのはわからないし、ただの気のせいかもしれない。だけど、胸の中がざわりと揺れた。
 忘れたと思っていた夢が頭の中で再生された。忘れたと思っていた感情が溢れて来た。なぜか、雪乃と離れたら、このままもう二度と会えないような気がした。
「……雪乃、」
 そのあと、自分は何を言おうとしたのだろう。いつの間にか、口が勝手に動いていた。
 雪乃は微笑む。なぜ、彼女は微笑んだのだろうか。
 この想いは、一体何なのだろうか。
 雪乃が、携帯をすっと差し出した。そのディスプレイに、文字が書き込まれていた。
『おやすみなさい、聖夜くん。今日は本当に楽しかったです』
 どうして【声】で言わないの? そう思っただけで、口には出来なかった。
 そしてすぐに、
 ――少し前、聖夜くんが話し――よね?
「雪乃……?」
 ――【ほしのうた】のお話。
「……ねぇ、雪乃?」
 しかし雪乃は聖夜の声には答えず、さらに言う。
 ――いつかわたしも――くんと一緒に、見たかったです。
 どうして『見たかった』と過去形で言うのだろうか。それじゃあまるで、もう会えないみたいじゃないか。心でそう思っても、その思いは雪乃には届かない。口がまるで凍ったみたいに動かない。
 そして雪乃の【声】は続く。
 雪乃は、ずっと微笑んでいた。
 ――わたし、聖夜くんが好――でした。
 それから、雪乃は、今まで見せたどの笑顔より楽しそうに笑った。だけど、聖夜にしてみれば、それはすごく悲しそうに思えた。
 夜空から雪が降り注いでいる。今日は星が見えなかった。
 そして、気付いたら、雪乃の顔がすぐ側にあった。唇に微かに何かが当たる。
 一瞬で始まって、一瞬で終っていた。状況が理解できない聖夜を見つめ、雪乃は後ろに歩みながら、また笑った。すごく、悲しそうな笑顔で。雪乃の姿が闇の中へと消えて行く。道路に設置されているはずの街灯は、灯りを失っていた。
 雪乃の姿が完全に闇に溶け込むその時に、聖夜は声を振り絞った。
「――雪乃、」
 その声が聞こえたかどうかはわからない。だけど、雪乃の姿が見えなくなるその瞬間、聖夜は確かに聞いた。
 雪の降り注ぐ冬の空の下で、その声は本当によく響いた。


「バイバイ、聖夜くん」


 動けなかった。まるで金縛りにあったように、その場を一歩足りとも動けなかった。
 体も思考も停止している。
 すべてが元通りになった時にはすでに、雪乃はどこにもいなかった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


     「タイムリミット」




 いつから、考えるのをやめてしまったのだろう。
 いつから、それでもいいと思えるようになったのだろう。
 夜の公園で雪乃と初めて会った時? 雪乃が転校して来た時? もう一度雪乃と一緒に夜の公園で出会った時? 雪乃のために人を殴った時? 雪乃の【声】が聞けるようになった時? 雪乃と一緒に弁当を食べた時? 雪乃と一緒にクリスマスパーティーのことを話た時? 雪乃と一緒にクリスマスパーティーをした時? 一体、いつから考えるのをやめてしまったのだろうか。
 言葉にしてしまえば、一言だった。
 浅摩雪乃は、なぜ喋ることができないのか。たったそれだけのことを、追究しようとはしなかった。そしてそれ以上に、そんなもの、どうでもよく思えた。雪乃の声が聞こえなくても、雪乃の【声】は聞こえた。だから、それでもいいと思っていた。
 そこに雪乃がいてくれるから。すぐ隣りで笑っている雪乃を見ると、そんなことは大した問題ではなかった。
 そして、そのことに付いて考えなくなってしまったのは、一体、いつからだったのだろう。
 雪乃の喋れない理由。その理由を、心の奥底ではいつも知りたがっていたはずだった。だけど、雪乃を見るとその考えはどこかに封印されてしまって、訊ねることは遂に出来なかった。どこから過ちは始まっていたのか。
 そもそも、なぜ聖夜には雪乃の【声】が聞けたのだろう。太一でも椎名でも他のクラスメイトでもない、結城聖夜にその【声】が聞けるようになった理由は何なのか。それに付いても、いつから考えなくなってしまったのだろう。普通に考えれば、それは有り得ないことだったのだ。人の【心の声】が伝わって来るなんて、テレパシーとかそんな類のもの、この世に存在するかどうか危ういというのに。
 しかし聖夜は雪乃の【声】を聞けた。これは紛れもない事実である。だけど。
 バイバイ、聖夜くん。雪乃の声が頭の中で響いている。少しだけ高い、でも暖かい声だった。
 確かに聞いた。あれは、雪乃自身の声だった。【心の声】ではなく、浅摩雪乃の声だった。雪乃は、喋ることが出来た。なのに、それを隠して喋れないと偽り、携帯のディスプレイに書き込んでいたその理由は何なのか。そうしなければならない理由があったのか。だとしたら、その理由とは一体何なのか。
 答えなど出ない自問自答を繰り返す。答えは、確かめればすぐにわかるところに転がっているように思えて、しかしどれだけ手を伸ばしてみても届かないところにあった。
 手の中になる携帯電話を握り緊め、結城聖夜は自問自答を繰り返す。
 メールを送っても返事などは返っては来ず、電話を掛けても繋がらない。電源が切ってあって、通話口から聞こえる女の声は全く同じ言葉を繰り返しているだけだった。
 雪乃と全く連絡が取れずに一夜を過ごした。部屋の中は散らかり放題で放置されていて、窓からは朝日が顔を覗かせていた。ベットに眠る太一と、ソファーの上で成す術もなく座り込んでいる聖夜。
 もう一度だけでも、雪乃と会いたかった。会って、それから、
 ――それから、自分はどうしたいのだろう。訊きたいこと知りたいことは山ほどあるはずなのに、具体的な言葉が全く思い付かない。思考が堂々巡りをして、答えのない自問自答を繰り返し、知らぬ間に泣いていた。
 溢れた涙は頬を伝い、顎から落ちて携帯を濡らした。泣いている理由なんてわからないし、そもそも泣いていること自体にも気付かない。
 今すぐにも電話を掛ければ、雪乃と繋がりそうな気がしてならなかった。だけどそんな望みなんて叶うはずもなく、通話口からは聞き飽きた女の声が響くだけだった。
 時間は無常にも過ぎて行く。雪乃と会えない時間は、さらに多くなって行く。


 それをやろうと思い立ったのは、何もしないままで一日が過ぎ、辺りが夜に支配されてからだった。
 コートを羽織り、手袋を装備する。天体観測は、今日は、今日だけはやめようと思う。今は、それ以上に大切なことがある。
 部屋の中を見まわすと、やはり散らかったままですべてが放置されており、結局一日経っても起きなかった太一がベットを占領している。一瞬、太一に手伝ってもらおうかと考えたが、太一は巻き込みたくないという気持ちが勝った。これは一人でやるべきなのだ。もし見付かっても、責任は聖夜一人が被れば済むのだから。太一を、巻き込んではならない。
 部屋の電気を消して、太一を残し、聖夜は家を出た。冬の空の下、冷たい風に吹かれて聖夜は歩く。行くべき場所は決まっていた。
 晴天中学校。今夜、そこに忍び込む。
 夜の学校は静まり返っていて、馬鹿でかい門がまるで地獄への入り口に思えた。門が閉まっていたのがそれを難なく乗り越え、三本に別れる道の真ん中へ。小学校も中学校も高等学校も明かりは付いていなかった。そもそも今は冬休みで誰もいないだろうし、宿直の見回りがいるかどうかはわからないけど、たぶんいないと思う。いたらいたらでどうにかすれば問題はない。
 中学校の校舎に回り込み、闇に紛れて職員室の窓際に身を隠す。そっと中を覗いてみるが人の気配はせず、これなら誰にも見付からずに事を成せるかもしれない。しかし一番の問題は、どうやって忍び込むか、である。ここまで来るのには問題はなかった。だけど、校舎内に侵入しようと思うなのなら、絶対にドアか窓を開けなければならない。しかしそれらには鍵が掛かっているし、開けるのなら窓を割るくらいしか方法はない。
 止めた方がいいのではないか。ここに来て初めてそう思った。だけど、雪乃にどうしても会いたかった。ここに来る前、雪乃の家に行って確認して来た。浅摩家には誰一人として人がおらず、明かりさえもなかった。この学校と同じく、人の気配がなかった。
 考えればすぐに結論に辿り着いた。今は冬休みで、もうすぐ正月なのだ。実家に帰っていても不思議はない。しかし、雪乃の現自宅は知っていたものの、実家のあるべき場所までは知らなかった。そこで思い至った手掛かりはたった一つ。それは、学校にあった。
 学校の生徒の家の事情などを書いた紙が、絶対にあるはずだ。そこになら、雪乃の実家の住所も書いてあるはずだった。こんなことまでして雪乃と会おうなんて最低なのかもしれない。だけど、どうしても、もう一度だけ雪乃と会いたかった。
 だから、どうにかしてこの校内に入り込まなければならない。侵入手段は、一つしかなかった。窓を叩き割って鍵を開ける、それだけしか思い付かなかった。その辺に転がっていた大き目の石を拾い上げ、片方の手で目隠しをする。深呼吸を一つ、石を窓に叩き付け――
 その腕を、誰かに掴まれた。驚きのあまりに石を取り落とし、足が縺れてその場に尻餅を着いた。人に見付かった、そう考えはあるが、逃げろという選択肢は全く出て来ない。パニックに陥りそうになった聖夜を、その人物が見下ろしていた。
 大男に思えた。殺される、と本気で思った。だけど、
「グッナイ、マイフレンド」
 月明かりに照らされた太一は、そう言って笑った。
 思考が停止していた。呆然と太一を見上げながら、聖夜はつぶやく。
「太、一……どう、して……?」
 聖夜の手を取って立たせながら、太一は不敵に言う。
「聖夜も言ってたろ? おれは隠された能力を持ってんだよ」
 それこそ世界機密をも簡単に探れるような、と付け足した。
「大体の理由はわかったつもりだ。だけど知らないことまでは聞き出そうとはしない。とにかく、まずはここに侵入する、正解?」
 聖夜が微かに肯くと、太一は満面の笑みでポケットからそれを取り出した。
「学校侵入の必需品」
 太一が取り出したのは懐中電灯と、それからよくわからない鉄と針みたいので出来ている工具のようなものだった。
 それで何をするの? との視線と送っていると、太一は一歩踏み出して窓に触れる。そのまま鍵の近くまで手を滑らせ、使い方がよくわからない工具を手が置いてある場所に押しつけた。針の部分が窓を固定し、取っ手を回すと黒板を引っ掻いたような音が響く。その音が数秒続き、窓を円の形になぞって止まった。
 工具を窓から離して、微かに傷の付いたその場所を太一が軽く叩く。ピキっと軽い音が鳴って、窓が剥ぎ取れた。そこから室内に手を突っ込んで鍵を開け、引っこ抜いた手で窓をスライドさせる。
 すべての作業を終えるまでに、一分も掛からなかったと思う。
「あら不思議。こんなにも簡単に窓が開いてしまいました」
 テレフォンショッピングの司会者みたいな口調で太一は言う。そのまま何の遠慮もなしに土足で職員室へと上がり込む。
 中で懐中電灯を付け、その光景を呆然と眺めていた聖夜へ灯りを向ける。その眩しさに顔を顰めた聖夜は、手でそれを庇いながら、
「太一……その道具、何?」
「これぞピッキ――ゲフンッゲフンッ。窓に穴空け機だ」
 追究はすまい、と聖夜は思う。今はただ、道を開いてくれた太一に感謝しよう。
 太一に続いて聖夜も職員室へと上がり込み、どこからか取り出したもう一つの懐中電灯を太一から受け取った。二つの円が暗い室内を這うように照らし、探し物を見つけ始める。
「太一はそっち探して。ぼくはこっち探すから」
「おうよ」
 聖夜が右の方へ、太一が左の方へと別れる。生徒のプライベートに関する資料がどこにあるのかなんてのは見当も付かない。だけど、探し出すしか手はないのだ。引き出しを抉じ開け、鍵が脆い金庫をぶち破り、その拍子に落ちて来た教頭の大切な湯飲みが割れた。
 太一の「どうした?」という問いに何でもないと答え、割れた破片を金庫に入れて証拠隠滅を図る。……って、こんなことしてる場合じゃない。気を取り直してまた探す。その辺にあったPCの電源を入れようとしてみたが、この学校自体の電気供給が止まっているのか、それでもPCが壊れているのか、ピクリとも動かなかった。これはボツ。
 さらに聖夜は探す。何だか敵前上陸したスパイの気分になる。
 そんな時だった。聖夜とは反対側を探していた太一の声が聞こえる。
「なあ聖夜、」
 そちらに振り向かずに、
「なに?」
 太一ははっきりと言った。
「おれ達って、何を探してんの?」
 思わず振り返った。そのとき太一は、どこにあったのかはわからないが、多分生徒からの没収品であろうエロ本を片手に持っていた。
 思い違いも良いところだ、と聖夜は思う。ため息を吐いて一体何のためにここに侵入したのかを太一に教えようとした瞬間、目が潰れた。
 眩い閃光に視界を奪われ、何が起こったのか理解できない。やっと慣れて来たと思って目を開け、そこで絶望的なことに気付いた。職員室の電気が付いていた。
「……結城と水上……か?」
 声がした方を全力で振り返ると、職員室の入り口に聖夜と太一の担任の椎名亮助が立っていた。
 逃げるのは、もはや手遅れだった。


     ◎


「いやぁ焦った焦った。夜の学校で物音するからてっきり幽霊とかかと思ったよ。そんで職員室に来てみたら人影が二つあるんだから泥棒かもしれないって電気付けたらお前らだったしな」
 椎名に連れられて入った校長室のソファーに椎名と向き合う形で聖夜と太一が座っている。ソファーの間に置かれたテーブルの上でには湯飲みが三つ、どれも湯気が舞っていた。
「……それで。お前らは夜の学校に忍び込んで何してたんだ? 一応教師として、それを見逃すわけにはいかないんだが」
 椎名の問いに、答えはすばらく返って来なかった。太一はずっと湯飲みを眺めていて、聖夜は俯いたまま動かない。
 ちゃんと理由を話せば、椎名は協力してくれるかもしれない、とは思う。だけど、それを話すだけの勇気がなかった。いくら椎名が評判の良い教師であっても、無断で学校に忍び込んだ生徒に対してそんなことが許されるはずもない。しかし黙り続けていても状況が進展するわけでもないのだ。それに太一はここに忍び込んだ理由を知らない。ただ聖夜を手伝ってくれただけだ。となれば、ここを説明出来るのは聖夜だけで、結局は自分から話さなければならないことになる。
 意を決して口を開こうとすると、太一がふと唐突に、
「先生、実はおれが言い出したんですよ」
 聖夜が驚いて太一を見やり、椎名は一言、「何をだ?」と問う。
 太一は真剣に言った。
「この前、おれエロ本を没収されたんですけど、それを取り返そうって。さっき持ってたヤツ、あれがそうッス。それで撤収ってとこで先生に見付かって今に至るわけです」
「水上、お前が結城を庇う気持ちはわかる。だけど、おれはちゃんとした理由が聞きたいんだ。すまん」
 すべてを見透かしたように椎名がそう返答すると、聖夜を見た。
「結城。お前の口から話してくれたら助かるんだが……」
「……わかりました」
 一度そこで沈黙して、それから聖夜は言った。
「雪乃の……いえ、浅摩さんの住所が知りたくて、ここに忍び込みました」
 太一が「お前それ言っちゃやべえだろっ」と聖夜の口を塞ごうとするが、それを制止して椎名を見据えながら続ける。
「先生にお願いがあります。浅摩さんの実家の住所を、教えてくれませんか?」
「理由は?」
「……言えません」
 それだけは、口に出来なかった。そんな聖夜を見ながら、椎名は、
「教師が生徒のプライベートのことを教えるのは禁止されてる。それはわかるな?」
「でもっ! どうしても知りたいんです!」
 真剣に訴える聖夜を見て、椎名は何も言わずに立ち上がった。そのまま校長室を横切り、職員室へと消えて行く。
 答えは無言。それは、力になれないと言っているようなものだった。しかしそれが普通なのだ。椎名は悪まで教師である。不正な行為をしている聖夜達の力になれないのは当然だった。見付かれば、罰せられるのは椎名自身なのだから。
 隣りに座っていた太一が「くそっ」と悪態を付く。
「ごめん太一……。ぼくのせいで太一まで巻き込ん――」
 突然、職員室へと繋がるドアが開いて椎名が再び校長室に戻って来た。言葉をなくした聖夜と太一を見据え、ため息を吐く。
 そしてさっきまで座っていたソファーに腰を下ろし、ポケットから一枚の紙切れを取り出してテーブルの上に置く。何かがペンで書いてある。何が書いているのか読もうとすると、
「それが浅摩の実家の住所だ」
「え?」
 聖夜と太一が同時に声を上げる。椎名はバツの悪そうな表情で続ける、
「今回だけは特別だ。お前らが浅摩に対してそこまで真剣になるからには理由があるんだろ。だから、今回だけは特別に許可してやる。だけど、もし何か問題になってもおれは知らんぞ。このメモを持つかどうかはお前らで判断しろ」
 考えるまでもなかった。テーブルの上に置いてあるメモを引っ手繰り、聖夜は立ち上がって椎名に頭を下げた。その隣りの太一が「先生、やっぱやるじゃん」と笑う。
 向いに座っている椎名は、少しだけ羨ましそうに苦笑していた。
「いいなお前らは。楽しい学園生活送れて」
「先生の御かげッスよ!」
 太一も聖夜と同じく頭を下げ、それから椎名を見据える。
 それから一言、椎名はこう言った。
「浅摩のこと、頼む」
 もちろんです、と返答した。もう一度頭を下げた二人は、すぐさま走り出して職員室の窓から外に転がり出て行く。
 一人その場に取り残された椎名は、しばらくしてこうつぶやいた。
「浅摩……あの二人は……お前の【家系】に定められた運命を……変えてくれるかもしれないぞ……」
 そのつぶやきは、窓から吹き込んだ冬の風に飲まれて消える。
 ここから先は大人の出番ではない。
 浅摩雪乃を救えるのは、結城聖夜と水上太一だけかもしれない。
 タイムリミットは十二月三十一日。
 この判断が正しかったことを椎名は願う。


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     「生きるための代償」




 椎名が渡してくれたメモには、確かに住所が書かれていた。
 しかしそこが差す住所は、聖夜が住んでいる県から新幹線を使っても三時間は掛かる場所だった。近くならすぐさま行動に移そうと思っていたのが甘かった。中学三年に新幹線の切符とその他諸々の交通費を買えるだけ金をすぐに出せという方が無理な話だったのだ。
 今からバイトをしても遅すぎるし、正月が近いからと言ってお年玉を前借りする意見が通るとも思えない。これからどうするべきか、太一と一緒に考えていると、少しだけ悩んだ末に、太一は、「しばらく時間をくれ。おれが何とかするから」と言い残し、それから四日連絡が取れなかった。
 雪乃の携帯に電話を入れてみても相変わらず電源が切られていて、聖夜は何も出来ないままで無常な時間を過ごした。一刻も早く雪乃に会いたいと思うのだが、それは聖夜だけの力ではどうしようもない。ここは太一を待つしか方法はないのだ。
 音信不通で四日過ぎた夜、聖夜の携帯に太一からメールが入った。すぐさまメールを開く。内容はこうだった。
『明日の朝七時三十分丁度に晴天駅にいてくれ』
 メールを送り返しても返事は返って来なかったし、電話を入れても電源が切られた後だった。理由は全くの不明だが、太一がそう言うからには何か対策を練ったのだろう。
 その日の夜はすぐに寝て、朝になって起きたら支度をして家を出た。駅の前で五分ほど待つと七時三十分になり、人が行き交うホームを眺めながら太一の姿を探す。
 すると、少し離れた所に太一を見付けた。四日振りに見る太一の姿は、かなり大袈裟だった。登山にでも行くようなリュックを背負い、なぜか迷彩服を着ている。一見すればゲリラを得意とする軍人が紛れ込んだような光景だった。一瞬だけ知人と思われたくないと思ったが、そんなことを考えている暇はない
「太一!」
 その名を呼ぶと、太一も聖夜に気付いて近づいて来る。
 聖夜の前に立つと、太一は自信満々で笑った。
「よお聖夜。待たせて悪かった。でも安心しろ、準備はすべて整った。今か新幹線に乗って雪乃ちゃんに会いに行くぞ」
「でも、お金は……?」
 心配ない、と太一は言った。迷彩服のジャケットのポケットから紙切れを取り出す。それは本日八時に出発する新幹線の切符だった。
 どうしたのそれ? と聖夜が言おうとした際に気付いた。太一は、自分の娯楽や興味を持ったものに対しては金を惜しまない性格をしている。その資金がどこから出て来るのかはやはり謎だが、今回だけはそれに感謝しなければならない。
 聖夜は真剣に太一を見る。
「太一。ありがとう」
「何言ってんだよ。それに礼はまだ早い。すべて終ったら、その時に言ってくれって」
 少し照れたようにそう言って、太一は歩き出す。
「おい早く行くぞ。さっさと乗車しよう」
 聖夜は肯いてその後に続く。
 開札口を通り抜け、プラットホームに歩み出て、その時丁度ホームに入って来た新幹線に乗車する。指定された席に辿り着き、そこに二人並んで座る。太一が持っていたリュックからコンビニ弁当を取り出して聖夜に手渡した。
「……そのリュック、何が入ってるの?」
 コンビニ弁当を食べてながら、太一は答えた。
「いろいろ」
 いろいろって何だよ、と聖夜は思う。だけど、それは恐らく太一が必要だと思って用意した物なのだろう。時がくれば役に立つはずである。それまで検索は無用だった。
 手に持っていた弁当を座席に備え付けられているテーブルに置いて窓の外を眺める。
 もうすぐ雪乃に会える。そしたら、この五日間でずっと考えていたことを雪乃に言おう。伝えなければならないことを、訊かなければならないことを、ちゃんと雪乃と向き合って。すべてをはっきりさせよう。
 その後にどうするのかは、それから決めればいい。事によっては勝手に決まるかもしれない。だからその時までは、辛抱しよう。雪乃と会って話をするまでは、何も結論付けることはできないのだから。
 やがて室内にアナウンスが流れる。新幹線に微かな振動が伝わり、ゆっくりとゆっくりと、しかし着実に加速して行く。
 この先に雪乃がいる。突き動く理由は、それで十分だった。


     ◎


 新幹線に乗ること三時間と五分、それから普通電車に乗り換えて一時間、電車を降りてバスに乗って二十五分。
 景色は一面の緑だった。バスから降りると、待合室があった。しかしそれは木で出来た建物で、ここが田舎だと確信させるのはそれだけで十分過ぎた。真っ直ぐに伸びるボロボロのアスファルトと、辺りを田んぼに囲まれたその場所で、聖夜と太一は次なる行動に付いて話し合う。
「おれが調べた限りじゃこっからは歩きになる」
「……でも、どのくらい歩くの? 近くに家なんてないし……」
 太一は頭を掻く。少しヤケクソになりながら、
「あのな、実を言うと……先生が教えてくれたメモ通りの場所だと、そこって山の中なんだよ……」
「山?」
 聖夜は辺りを見まわす。視界に見えるすべての光景が、山に突き当たっている。ここは、周りを山に囲まれた、村と呼ぶような場所なのだ。
 視線を太一に戻す。
「……どの山を登るの?」
「……わからん」
「わからんって……どうするの!?」
「取り敢えず人でも探して訊けばいい。よし、行くぞ」
 そう言って太一は歩き出す。すぐにその隣りに聖夜も並んで歩く。見渡す限りに自然が広がった、緑豊かな所だった。森の木々は肌寒そうに葉を散らしてはいるが、それでも残った葉が緑の色を保ち、綺麗に山を彩っている。
 しばらく無言で太一と歩いていると、前方から一台の乗用車が走って来た。排気音が近くなるに連れ、運転している人の顔が見えてくる。四十過ぎの男性だった。太一が道路の真ん中に立って手を大きく振る。かなり無理矢理な止め方だが、乗っていた男性は嫌な顔一つせずに窓から顔を出した。
 優しそうな人だった。
「珍しいな、こんな所に子どもが二人で来るなんて。君達、迷子かい?」
 聖夜と太一は近づいて行く。運転席の隣りまで歩くとそこで立ち止まり、太一が畏まりながら言う。
「あのすいません、この辺で家を探しているんですけど、ちょっと訊いてもいいですか?」
 男性は笑う。瞬間、その笑顔に聖夜は懐かしい、とでも呼ぶようなものを感じた。
「もちろんだ。でも、この辺に家なんてあったかな……?」
 太一が切り出す。
「浅摩っていう家なんですけど」
 その声で、男性の顔付きが変わった。真っ直ぐ、真剣な瞳で太一を見据え、
「……その家に、何か用でもあるのかい?」
 気圧された太一が口を開くより一歩早くに、聖夜が返答した。
「そこの家の、浅摩雪乃さんに会いに来ました。雪乃は……あなたの、娘さんではないですか?」
 なにっ? っと太一が聖夜と男性を交互に見やり、そしてその男性は聖夜をじっと見据える。
 やがてすべてが繋がって納得したように男性は軽く肯いた。
「確かに、ぼくは雪乃の父親、浅摩徹彦だ。……では今度はこちらだ。君は、結城聖夜くんだね? そして君が水上太一くん。当ってるかな?」
 聖夜が肯く。状況がまだ理解できない太一は聖夜と徹彦を交互に見比べ続いていた。
 徹彦は窓から顔を引っ込め、前を向いたままで、しかし聖夜に対して提案する。
「乗りなさい。浅摩家へ連れて行ってあげよう。それに、少し話もしたい。……いや、話さなければならないことがある」
 わかりました、と肯いて聖夜は車の後部座席のドアを開けた。いつまでも突っ立っている太一に向って、「太一も早く」と言うと、太一は呆然と「あ、ああ」と返事をして聖夜に続いた。車に乗り込んでドアを閉めると同時に車は走り出す。
 しばらくは無言で走行して、そして先に口を開いたのは徹彦だった。
「さて……。どこから話そうか。聖夜くん、君は何か訊きたいことはあるかい?」
 まず最初に、何を置いても訊いておかねばならないことがあった。
「雪乃は、今から行く所にいるんですか?」
「ああ、いるよ。ただし、会えないけどね」
「会えないって、どうしてですか?」
 徹彦は何かを考えているように黙り込み、やがてミラー越しに聖夜を見つめた。
「君は……雪乃の【声】は聞けたんだよね?」
「はい。でも、雪乃は普通に喋れるんですよね?」
「……そうか、君はそこまで知っていたのか……」
 ミラー越しに見つめていた視線が前方へ戻る。
「順を追って話して行くよ。包み隠さず、すべてをね。――そうだな、始まりは今から約五四八年前、浅摩家が生まれたその訳を言おう。昔々のその昔、世界には普通の人には知られざる、人とは違う生き物が存在していた。それが今で言う妖怪とか物の怪の類だね。今ではそんなものは封印やら退治されてほとんどいないけど、昔は沢山いたんだよ。例を挙げてちょっと言っとくと、文献の中とかでよく出てくるのが『神魔』と呼ばれる『神に使えし悪魔』ってヤツなんだけど。そいつの姿は刀で、それを手にした人の身体を操り、人を殺め、神魔が自分で使った罪滅ぼしの儀式を終えるまでその人は永遠に歳をとらないって書いてある。今は封印されてどこかの退治を専門としてた家系の家にあると思うんだけど……。少し話がズレたね、修正するよ。その人が知られざる生き物を退治するために、浅摩家が作られた。他にももっと作られたんだけど、ぼくはあんまり詳しくは知らないんだよね。それで、浅摩家は退治を忠実に繰り返して世界を生きて来たんだ。しかし、ある日退治した一匹が、死に際に呪いを放ったらしくてね。強い強い怨念の篭った、決して消えない呪いを。その効果って、何だと思う?」
 長い、よくわからない話を聞かされて混乱していた聖夜に、徹彦はいきなりそう問うた。
 そして聖夜が答えるより早くに徹彦はその答えを口にして、さらに続ける。
「答えは死の呪い。でもそれがまたややこしくてね……。その呪いは、浅摩家の血を引く物になら誰にだって降り掛かるんだ。この世に産まれ落ちて十五年、その年の月が師走(しわす)から睦月(むつき)、言い直すと、十二月三十一日から新年の一月一日に日付けが変わるその瞬間は、呪いが最も力を発揮する瞬間なんだ。呪いだから薬とかでも絶対に助からない。でもそれじゃすぐに浅摩家の血は途絶えてしまう、呪いを放った生き物はそれだけは嫌だった。だから呪われていても生きられる条件を付けた。産まれ落ちて十五年の歳月が流れるまでに、自分の【心の声】を、自分が一番大切だと思える人に伝えることができるようにする。それが、その呪いを受けてもなお、生きる方法なんだ」
 話の大部分はわからなかった。だけど、その中に出て来た【心の声】というのに口が自然と反応した。
「じゃあ、雪乃の【声】の理由って……」
「その通り。雪乃も浅摩家の血を引いているから、その呪いの対象者になってるんだ。【心の声】を伝えられる力も、その呪いの中に入っていてね。そして、ここからが本題だ」
 徹彦は一旦言葉を切り、ハンドルを回して道を右折する。道は山の中へずっと続いていた。
「確かに自分の【心の声】を、自分が大切だと思える人に伝えることができれば生きるられる。だけどね、それには代償が必要なんだ」
「代償……?」
「そう、代償だ。生きるための条件は、【声】を伝えられること。その条件を満たした者だけが、産まれて十五年目の年が師走から睦月に変わっても生きられるんだ。そして、ここで代償を引き払わなければならない。その代償っていうのが――」
 車が、がたんと揺れた。
「――記憶なんだ」
 その響きが、とても重く感じられた。
「【声】を伝えることのできた、自分が一番大切だと思える人の記憶が、その人だけの記憶が頭の中から綺麗に消え去る。それが、呪いの一番の効果だ。……実を言うと昔、ぼくもその条件を満たし、記憶が消えた口なんだよ。はっきり言って、辛かった。目の前にいる女性が誰かわからない、向こうはぼくのことを好きだと言ってくれたけど、ぼくは彼女のことをまるで憶えていない。今もぼくはその人のことを思い出せないし、そもそもそんなことがあったのかどうかさえ疑いたくなってくる。あの感覚は、二度と思い出したくないよ……。今まで、そうやって記憶を忘れた人が、もう一度その人を好きになる可能性は、零だ。聞いたことがない。ぼくもその女性とは違う、今の浅摩の母親と結婚した。そして雪乃が産まれた。……記憶がなくなる、下手をすれば死んでしまう呪いを受けながらね。でも……そこで問題が起こった」
「問題……?」
 車はさらに山を進んで行く。恐らく、すでに中腹くらいまで登っているずだ。
「雪乃は、大切な人の記憶を失うくらいなら死んだ方がマシだと言い切ったんだ。もちろんぼく達は反対した。記憶を失っても、生きていればそれ以上の人に出会えるかもしれない、だから【声】を伝えられるようにしてくれないか。そう言ったよ。でも、雪乃は断固として譲らなかった。……雪乃の真剣な瞳を見て、ぼくは決心した。それなら、雪乃の好きなようにさせてあげようって。もし雪乃が死んだら、ぼく達も後を追おうって。だけど、その判断に浅摩家の人間が大反対した。本人の意思を無視して雪乃が通っていた学校を転校させ、住む場所も変えられた。君達の担任の、椎名さんには世話になったよ。事情を話したらすべてを受け入れた上で、雪乃の転入を自ら責任者に訴えてくれたりもした。そして、雪乃は転校できた。本人の意思など無視されたままで」
 最初の方の話は全くと言っていいほどに理解できなかった。だけど今、徹彦が話している内容だけはなぜか頭が完璧に受け入れていた。雪乃の名前が、それに現実味を帯びていた。
「でも、転入は雪乃に生きる喜びを与えくれた。それは、聖夜くん、君の御かげだ。雪乃がいつも言っていたよ。聖夜くんといると楽しい、聖夜くんとずっと一緒にいたいって。雪乃が自分の本当の声を閉ざしていた訳はね、もし口を開いてしまったら、本当のことを全部話してしまいそうだから、って雪乃が言っていた。だから携帯で言葉を伝えるんだって。【心の声】が聖夜くんに伝わってからもずっと、真相を知られたくなくて必死に隠していたそうだよ。……たまに、雪乃の【声】が聞こえなくなることはなかったかな?」
 ミラー越しに見つめてくる徹彦の視線に、聖夜は肯いた。
「それはね、自分の心を隠しているからそうなるんだよ。普通なら、そんなことはないんだ。でも……今更そんなことを言っても仕方がないのかもしれない。明日には、すべてが終ってしまうからね」
 その声に体全体が反応した。運転席に乗り出さんばかりに身体を押しやり、
「どういう意味ですかそれ!?」
 しかし徹彦は全く動揺せずに、
「そのままの意味だよ。今日は雪乃が産まれて十五年目に迎える十二月三十日。呪いの力が最も強くなるのは、明日なんだ。合図は、雪乃の体が薄く黄緑色に光ったその時。その光りが収まった時、即ち世界が新年を迎えた瞬間、雪乃の中から、聖夜くん、君に関するすべての記憶が消える」
 聖夜の体から力が抜ける。後部座席にどかりと座り込む。言葉が、出て来なかった。
 隣りに座っていた太一が何か言いたそうに口を動かすが、結局は何も言わないままで終った。
 車が突然停止する。徹彦がシートベルト外してドアを開ける。しかし車からは降りずに、徹彦は言った。
「ここが浅摩の本家だ。聖夜くん、一つだけ言っておく。君は、雪乃と会わない方がいい。会っても雪乃が辛いだけだ。それに、本当に辛くなるのは、君自身なんだよ。ぼくは目の前で見てる。大切な人に忘れられて、絶望に苦悩する人を。君には、そうなって欲しくない。今日一日、君なりに考えてみてくれないか。そして、決意が決まったら、明日、ぼくが君をここから駅まで送り帰す。それが、雪乃の父親として出来る、最後のことなんだ」
 それだけ言い残し、徹彦は車を降りた。わかってくれ、と徹彦がつぶやいた。
 車の後部座席に座って、両拳を握り緊めたまま、聖夜は動こうとはしない。
 理性が納得しても、感情は納得しなかった。
 見上げるそこに、風格が漂う木で作られた巨大な門が聳え立っている。
 この先に雪乃がいる。突き動く理由は、それで十分だと思っていた。
 雪乃に、もう一度だけでも、会いたかった。






    「爆竹と救出と瞬間マッチ」




 浅摩家は、山の中腹を平坦に切り開き、そこに膨大と思えるほどの敷地を備え、その敷地の中央に浅摩本家が建設されていた。
 その本家を中心とし、数え切れないほどの分家が建っており、そのすべてが一本の通路で繋がっていて、まるで迷路のような構造をしている。それらをずらっと囲むように造られている三メートルほどの塀と、真正面に付けられている門。まるで、敷地の中に一つの村があるような設計だった。
 徹彦の車が止めてあるのは塀の外側で、そこには車が何台も止まっていた。そしてその駐車場と思わしき場所から少し離れた所に、一階建ての小さな、しかしそれでも普通の家くらいの大きさがある建物があった。徹彦に連れられ、聖夜と太一はそこに招かれた。徹彦が言うには、浅摩家の門は浅摩の血が通っている者しか潜ることが許されないらしい。だから、族に言う余所者は、この別家で寝止まりをする決まりになっているそうだ。
 その別家を今現在使っている者はおらず、取り敢えずは聖夜と太一はそこに押し込まれることとなった。
 一階建てのその建物は、二人で使うには広過ぎるくらいだった。玄関に向って正面の廊下の突き当たりが便所になっていて、それまでに通る左側に台所と物置、さらに右側には空き部屋が四つもあった。どこの部屋を使おうかと太一が訊ねたが、聖夜が何も言わなかったので勝手に一番手前の部屋に決定した。そこに太一は上がり込み、部屋の引き戸を開けて中を見ると一応は清掃されているらしく、予想に反して埃などはなかった。
 畳みにリュックをどかりと置き、カーテンを引いて窓を開け放った。冬の風が室内に入り込み、廊下を流れて玄関から抜けて行く。窓際に腰掛け、部屋のドアの所に突っ立っていた聖夜に向って言う。
「……で? これからどうする?」
 その問いに、聖夜はしばく答えなかった。やがて数歩だけ歩いて畳みの上に座り込んだ。
 つぶやくように、
「どうもこうもないよ」
 そして視線を太一へ向ける。その表情は、何かを決めたような決意を漲らせていた。
「徹彦さんの言うことは、最初の方は全然わからなかったけど、それでも最後の方はわかったつもり。でもそれをすべて信じたわけじゃない。もしかしたら全部が全部嘘かもしれないし。だから、ぼくは行くよ」
 不思議と、怖気はなかった。例えどんな状況になろうとも、もう一度だけ会おうと決めたから。
「雪乃に本当のことを聞くまでは、納得なんてしない。太一、お願いがある」
 太一は無言で聖夜を見ている。
 聖夜も太一を見据えながら、こう言った。
「力になって欲しい」
 太一はまるで悪魔のように笑った。そうこなくっちゃなマイフレンドと言って窓際からリュックの所まで歩き、中身をごそごそと漁り始める。
「どうするの?」
「作戦を立てるんだよ。――聖夜、また時間をくれ。今から偵察してくるから」
 さらっとそんなことを言った。
「偵察って、まさか忍び込むの!?」
 おうよ、と太一は肯き、リュックの中から小さ目の鞄を取り出した。太一の服と同じの迷彩カラーの、ジッパーがやたらとでかい代物。それを手に持ち、太一は行って来ると宣言して部屋を出て行った。そんな太一を見送り、聖夜は遂に自分も一緒に行くとは言い出せなかった。
 足手まといになる可能性があったからだ。太一は運動神経が無駄に良い。それに引き替え、聖夜は平均並。もし見付かっても、太一なら逃げられるだろうが、聖夜なら捕まる可能性がある。だから、一人で行く太一を呼び止めることはできなかった。
 一人部屋に残された聖夜は、開け放たれた窓から外を見上げる。吹き込む冷気に身を任せ、思考を巡らす。
 徹彦の言っていたことが丸っきりの事実だとは思わないけど、丸っきりの嘘だとも思えない。口調から察すると、恐らく本当のことを言っていたのだろう。だけど人に知られざる生き物とか呪いとか、いきなり信じろという方が無理な話だった。だがそれをもし信じれば、雪乃のことについて説明がつくような気もする。現に、自分は雪乃の【声】を聞いていたのだから。呪いの中にその作用があったと考えれば、納得できないこともない。が、本当はそれこそが徹彦の狙いで、そのまま怖気付いて聖夜が帰るようにそう言ったとも考えられる。
 何の理由があるにせよ、今の聖夜にわかっていることはたった一つだった。雪乃は、ここに連れ戻された。雪乃と最後に会話したあの夜。あの悲しそうな笑顔が、『見たかった』と言った雪乃の【声】が、どうしても自ら進んでここに帰って来たとは思えない。
 だからもう一度だけでも、雪乃と会って話がしたかった。雪乃の口から本当のことが聞きたかった。雪乃がどう思い、どう行動したいのか。それを聞いたのであれば、聖夜は雪乃に従おうと思う。帰れと言われたら帰るし、もし助けてと言われれば、命に代えてでも助け出してみせる。だから、もう一度だけでも、雪乃に会いたかった。会わなければならない。
 なるべく早い方がいい、と聖夜は思う。信じたわけではないが、もし徹彦の話が事実であるのなら、タイムリミットは明日の深夜零時。日本が新年を迎えるその時だ。最低でも、それまでには会わなければならない。仮に嘘だったとしても、行動に移さなければここに来た意味がない。
 まずは、太一が戻って来るのを待とう。それからどうするか太一と決めよう。そして、雪乃に会おう。
 何が本当で何が嘘なのか、全てが本当で全てが嘘なのか、はっきりさせよう。
 雪乃に、一秒でも早く会いたかった。


 太一が戻って来たのは日が暮れ、辺りが闇に支配された夜だった。
 何気ない言葉で「ただいま」と言って部屋まで辿り着き、盛大なる身心共に疲れ切ったため息を吐いた。
「……どうだったの?」
 力なくその場に倒れ込んだ太一は、聖夜のその声に生返事を返して一枚の紙を差し出した。そこには四角の図形が何個も描かれており、それをすべて線で繋いであった。さらに真ん中に一番大きな四角があり、そこから伸びる一本線の先にある小さ目の四角に×印が打ってあった。
 見る限りでは、これは、
「地図?」
 畳みの上に引っくり返ったままで、太一は「おう」と返した。
 改めてそれを眺める。よくもまあこんな物を書けたものだ、と聖夜は思う。どうやって侵入したのか、どうやってこの地図の全貌を明らかにしたのか、聞きたいことは山ほどあったけど、結局は何も訊ねなかった。太一の疲れようは半端じゃなかったし、それは恐らくそこまで疲れるようなことをしてこれを書き上げたのだろう。
 そんなことを聖夜が思っていると、引っくり返ったままの太一がぽつりと、
「……その×印あるだろ」
 うん、と聖夜が返答する。
「……そこに雪乃ちゃんがいる、と思う。見たわけじゃないけど、家の中のヤツの話を聞いてるとどうもそうらしい」
 ×印の書かれた四角を見つめる。ここに雪乃がいる。目指すは、そこだ。
 今すぐにも行動しようと立ち上がった聖夜を、太一の疲れ切った声が制す。
「待て、今行っても無理だ……。てゆーか、おれが動けない……」
 微妙な視線を太一に送っていると、ぶつぶつと何事かを言い出す。
「塀を飛び越したら犬がいてさ、それから逃げてたら犬が集まってくるわけよ、必死で逃げて逃げて逃げて振り振り返ったら犬が増えてるんだなこれが。あいつらは番犬っていうよりただ見慣れないヤツと遊びたかっただけなんだろうけど、おれ犬って大嫌いでさ、死にもの狂いで逃げてその辺の家に忍び込んだらこれがまた十八禁なのよ。だから屋根裏に潜んで忍者みたいに偵察しまくってたら迷ってよ、外に出たらまた犬がいるんだよ。また逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げまくって隠れてたらこんな時間になっちまった……。今日一日、悪いがおれは動けない。てゆーか、同じ日に何度も何度も犬を見るのは絶対に嫌だ」
 すると、太一はそのまま寝息を立て始める。太一がこれでは今日は無理かもしれない、と聖夜は思う。それにしても、太一が犬をそこまで嫌いだったことに驚いた。人には弱点があるものなんだなとピントのずれたことを考えていた。
 そして、ここからは聖夜の出番である。太一の御かげで浅摩家の見取り図はわかった。だったら、作戦を立てるのは聖夜の役目なのだ。二人用のゲームでもいつもそうだ、聖夜が作戦や攻撃パターンを分析し、それに従って太一が実行する。今までそのやり方でクリアできなかったゲームなんてないし、今回も失敗する気は毛頭ない。絶対に成功させてみせる。
 太一と力を合わせれば、不可能は何もないとすら思うのだから。
 聖夜は歩み出し、太一のリュックの中身を確認する。意外な物も多く出て来たけど、それ以上に使えそうな物が多かった。
 雪乃にもう一度会うために、聖夜は頭をフル回転させる。
 窓から見える星空は、聖夜の住んでいる場所から見るより綺麗だった。


     ◎


 翌日の正午に、徹彦は別家を訪れた。
 家の中には帰り支度を済ましていた聖夜と太一がいた。わかってくれてありがとう、と徹彦は言った。それから徹彦の車に乗って山を下り、終止無言で過ごした。山の中から出た時に、聖夜が「ここまでで結構です。後は自分達で帰りますから」と不機嫌そうに言い、有無を言わせぬ内に車を降りた。その後に太一も車を降り、最後に徹彦に頭を下げた。運転席の窓越しに見る徹彦の表情には、罪悪感に苛まれたものがあった。辛いのだろう、と聖夜は思う。娘を身を案じているからこそ、徹彦は聖夜と太一をこうして送り帰している。本当なら、無理にでも雪乃に会わせてやりたいと思っているのがその表情から見て取れた。
 最後に徹彦は「すまない。冬休みが終って、雪乃と出会ったのならまた友達になってやってくれ……」と残して車を走り出させた。その時に見た徹彦の目に、涙が浮んでいたのは気のせいだったのだろうか。
 車が見えなくなるまでその場で見送り、見えなくなってから十分ほど経ってからやっと聖夜は口を開いた。
「行こうか太一」
 リュックを背負った太一は笑う。
「おうよ。あの犬どもにも仮を返さなきゃならないからな」
 さっき下って来たばかりの道を二人は歩き出す。
 聖夜の考えは、今日の朝に太一が起きた時にすべて話した。それに太一も納得したし、これで行けると思う。失敗は、許されない。しかし失敗する気は毛頭なく、必ず雪乃ともう一度会ってみせる。
 太一が持っているリュックの中に必要な物はすべて用意してある。というより、太一が適当に詰め込んだ物が偶然にもその効力を発揮するだけなのだか。それでもその偶然に聖夜は感謝したい。今はそれが忍び込みために必要になるのだから。
 車で登れば二十分も掛からないが、歩けば別だった。平坦の道を歩いても車とでは時間に大いに差が出るのに、山道ともなればその差がさらに広がる。歩く度に足元に落ちている落ち葉を踏ん付けて乾いた音が鳴る。二人とも無言だった。言葉は必要なかった。決意が決まったら、話すことなど意味を成さないからだ。
 浅摩家に再び戻るまでに、予想以上に時間を食った。途中、何度も車が道を通っていたことが原因だった。見付かってはすべてが水の泡になってしまうので、車の排気音が聞こえたらすぐに森の脇道にに身を隠してやり過ごした。車の通りが頻繁で、これから何かが起こるような気配がする。この時になってやっと、聖夜は徹彦の言っていたことが本当ではないのかと思い始める。しかし今は余計なことを考えている暇はない。その考えを意思の力で捻じ切って捨てる。
 正午までいた別家に戻って来る頃には、すでに辺りが赤く染まっていた。昨夜に見付けておいた別家の物影に身を隠し、見張り役を交互にして仮眠を取る。辺りが暗くなって塀の向こうから明かりが漏れ、聖夜と太一の横顔を照らしていた。時計を確認すると八時半を回っていて、太一のリュックから取り出したカロリーメイトのチーズ味で空腹を満たす。
 それを食べ終わってから、聖夜と太一は最後の打ち合わせをする。
「作戦決行予定時刻は?」
 聖夜がそう問うと、太一がすぐさま、
「PM9:00」
「役割は?」
「おれが囮役、聖夜が美味しいとこを全部持ってく救出役」
「………………」
「冗談だよ、黙るなって」
 聖夜は、真剣に言う。
「太一、ごめん」
「あん?」
「巻き込んじゃって本当にごめん。でも、ありがとう」
 太一に叩かれた。
「何言ってんだマイフレンド。水臭いぞ。それにもしこれが成功すれば、囮役になったおれを勇気ある人と思って雪乃ちゃんの気が変わるかもしれねえしな」
 そう言って、太一は親指をぐっと立てて笑った。もう一度心の中で、理由はどうであれありがとう、と聖夜は言った。
 携帯電話のディスプレイに表示されている時計が、八時五十九分を示した。作戦実行一分前である。緊張で呼吸が乱れる。太一が「緊張すんな子どもかよ」と言って笑う。緊張が解れて「犬には気を付けて」と反論しておいた。太一の顔が引き攣った笑みに代わり、「やめてくれよ頼むからか勘弁してくれ、てゆーか絶対にリベンジしてやる」と強がった。
 携帯のディスプレイが、十二月三十一日の午後九時を示した。作戦実行時間である。
 別家の物影で、聖夜と太一は静かに拳をぶつけ合わせた。目線で「太一」と送ると、すぐに目線で「余裕」と返って来た。二人は笑う。
 そして、太一が行動に出た。別家の物影から太一は普通に歩み出し、浅摩家の門の前で立ち止まる。深呼吸を一つ、太一は叫んだ。
「たのも―――――――――――――――――――っ!!」
 聖夜の作戦では「すいません」と門をノックするはずだったが今はどうでもいい。
 太一の声を聞きつけ、すぐに門が開いた。中からはこの家には不釣合いな黒いスーツを纏った男が現れた。どこかの国のエージェントに思えた。もしかしたらアメリカの映画などに出て来ても不自然じゃないかもしれない。
 男は無表情のままで言い、
「……何の用だ?」
 太一は自信満々に言った。
「グッナイ、ナイスガイ!」
 瞬間、太一の両腕が迷彩カラーのジャケットの懐に突っ込まれる。引き抜いたそこに、何かを持っていた。それはマシンガンでいきなり目の前の男を蜂の巣に、なんてことはせず、手に持っていたそれにいきなりボっと火が灯る。ジジジっと音を発して小さな火が動き、それが全部で八つ。指の間に一つずつ挟んで持っていた。突然の太一の行動に戸惑った男は、反応が遅れた。そこを太一は見逃さなかった。指に挟んだそれを一気に男に向って投げ付ける。
 弧を描いて舞う八つのそれは、爆竹だった。
 刹那、大音量で火薬が弾けた。導火線に付けられた火が最初の爆発を巻き起こし、付いているすべての火薬を弾き飛ばした。
 たまったものではない。男にしてみれば、突然現れた正体不明の少年に、轟音で爆発する何かを投げ付けられたのだ。驚かない方がどうかしている。耳を塞いでその場に伏せた男を踏み付け、太一は門の中に入って行く。それからすぐに状況を悟った男が起き上がり、敷地内へ入った太一を追い掛け始める。男の声が不審人物だ、皆来てくれと叫んでいる。
 作戦は成功だった。門は開けっぱなしになっている。それを確認してから聖夜は走り出す。門の手前で一瞬だけ止まって中を偵察する。するとかなり遠くから太一の馬鹿笑いが聞こえ、「がははははっ!! 食らえ犬っころっ!! おれの真の恐ろしさを特と味わぇえっ!!」との叫びと同時に爆竹の弾ける音が響き、さらにロケット花火と思わしき口笛のような音が鳴いた。大勢の人の声がそれに混じって聞こえる。どうやら太一はちゃんと囮役をやってくれているようだ。それでは、今度は自分の番だ、と聖夜は思う。
 太一の声が聞こえる方とは違う方向へ聖夜は走り出す。太一が引き付けてくれる御かげか、人の姿はほとんどなかった。しかし太一を追うべく人に会うことはあった。その時は近場の物影に隠れてやり過ごした。ポケットから取り出した地図を見て場所を確認し、また走り出す。遠くから聞こえる爆竹の音が、まだ太一は無事だということを証明してくれた。ちなみに、爆竹は全部三十二本あって、ロケット花火が十五本、馬鹿でかい打ち上げ花火が一本、さらに瞬間マッチと呼ばれる導火線に火を簡単に付ける用具が一つ。どうでもいいことだが、瞬間マッチというのは太一が自作した専用ハイテク機器である。
 不思議と息は切れなかった。目的が決まっていると、他に何も考えずに済むからかもしれない。目的地は、すぐに見つけ出すことが出来た。一番大きい本家の後方、離れのように建っているその一軒。
 聖夜は、そこまで走り切った。土足で上がったが知ったことではなかった。室内へと続く引き戸を開け放つ。思ったり音が出た。それに驚いたような声が中から聞こえ、そしてその声に聞き覚えがあった。聖夜はさらに突き進む。廊下の突き当たりの部屋のドアノブに手を掛けた瞬間、向こう側からドアが開けられた。
 時間が、止まったようだった。
 聖夜は乱れた息を整えながら見つめる。
 その視線の先にいるのは他の誰でもない、浅摩雪乃その人だった。
 聖夜は笑う、
「雪乃、久しぶり」
 驚いた表情で聖夜を見つめていた雪乃の口から、声が漏れた。
「聖夜、くん……どう、して…………?」
「理由は後で話す、だから今はぼくに付いて来て」
 雪乃の手を掴んで聖夜は走り出す。
 久しぶりに見た雪乃は、何も変わっていなかった。
 そして雪乃は今、安心と嬉しさで、涙を流している。
 遠くから爆竹の音と犬の遠吠えと大勢の人の声が聞こえる
 空に雲は一つもなく、満天の星空だった。
 そして聖夜は、この手を繋いでどこまでも行ってやろう、と思う。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「【ほしのうた】」




 雪乃の手を引いて、聖夜は走り続ける。
 浅摩家の敷地を突き進み、人影を見付けたら物影に逃げ込んだ。遠くから聞こえる爆竹とロケット花火の音は今だ健在で、太一はまだまだ捕まる気配はない。犬の遠吠えが何重にも重なって夜空に響き、それに合わせるかのように大勢の人の声が混じっている。
 聖夜と雪乃が浅摩の門を潜ったその時、目の前に人が立ち塞がった。その場で急停止し、回れ右で逃げ出そうとした。が、それより一歩早くにその人がこう言った。
「待ってくれ、聖夜くん。そして、雪乃」
 月明かりに照らされたその人は、浅摩徹彦だった。何をするでもなくそこに立ち、真剣な瞳で聖夜と雪乃を見据えていた。
 雪乃を背中に庇い、聖夜は真っ向からその視線とぶつかる。
「やっぱり、こうなってしまうんだね」
 徹彦はそうつぶやいて聖夜を見ていた。
 聖夜が何かを言い返そうとすると、それよりも一歩早くに後ろの雪乃が歩み出た。
「お父さん、お願いっ! ここを通してっ!」
 必死に訴えるその表情に、涙が伝っていた。さっきからずっと泣いていたのに、聖夜は今の今まで気付かなかった。どうすることも出来ずにそのまま二人を見守っていると、不意に徹彦は笑った。何もかも受け入れた、そんな笑みに思えた。
 徹彦は体を横に傾けて道を譲る。雪乃が呆然と父親を見つめる。
「雪乃、お前が望むのなら、行きなさい。ぼくは元々こうするつもりだった。本家の連中の前じゃそうはいかなかっけど、今は違う。自分の娘の幸福を願って何が悪いのか。お前はぼくの娘だ。決めたのなら、行きなさい」
 その視線が、聖夜へと移る。
「ここは任せて欲しい。それに水上くんも、ぼくが責任を持って保護する。だから、今は雪乃を頼む。時間がない、早く行くんだ」
 迷ったのは、ほんの一瞬だった。行こう、と雪乃の手を引いて走り出す。徹彦の前を通り過ぎるその瞬間、ありがとうと言うつぶやきを聞いたように思う。
 雪乃が最後に叫んでいた。ありがとうお父さん、と。
 走り続ける。今日は雲一つない、満天の星空が広がっている。


 浅摩家の本家が建っている山には一本の道が続いていて、そこを通れば中腹に浅摩家に辿り着ける。しかし道はそこで終ってはいない。さらに山の頂上まで、その道はずっと続いている。
 街灯もない、灯りは月の光だけでそこを進むしか方法はなかった。闇に慣れ切った目は、それでも十分に道を確認できたし、道は直線の一本道なので迷うこともなかった。左右を木のトンネルに囲まれたその道を進む。道に落ちている落ち葉を踏み付けながら走り、その度に落ち葉が砕ける乾いた音が鳴った。真冬だというのに汗をかき、走りながらコートのボタンを外した。
 握った雪乃の手に力が篭ったことに気付いた。しかし聖夜は振り返らない。雪乃の手を引いてどこまでも続く道をどこまでも走って行く。
 背後で音と閃光を感じたのはそんな時だった。そこで初めて聖夜と雪乃は後ろを振り返った。さっきまでいた浅摩家の空の上に、巨大な花が咲いていた。夜に咲くその花は、虹色に輝いていた。それは、太一が持っていた特大花火だった。太一には、感謝し切れないほど感謝したい、と聖夜は思う。
 花火の光りが消える頃、聖夜と雪乃はまた走り出す。道中取り出した携帯電話は、その時、十二月三十一日の午後十時十五分を示していた。山の頂上に辿り付くには、まだ時間が掛かりそうだった。
 それでも止まるわけにはいかなかった。
 この手を繋いで、どこまでも行くと決めたから。後ろを走る雪乃が、本当に大切だったから。
 頂上に近づくに連れ、道は獣道へと代わって行く。落ち葉の量が増し、何度も転びそうになりながらそれでも必死に走った。頭上にはもう木のトンネルとは呼べないようないくつも重なりあった木の葉があるだけだ。そこから微かに見える、その星に手を伸ばせば届くように思えた。
 走り続ける。息が切れ、後ろの雪乃から苦しそうな吐息が漏れる。それでも走り続ける。葉を失った枝が聖夜の顔を傷付ける。血が出ているかもしれない。しかし、止まるわけにはいかない。走り続けて、走って走って走り続けて、そしてそこに辿り着いた。
 視界が一気に開けた。
 さっきまでの景色が嘘だったかのように、そこには草原が広がっていた。膝の辺りまで伸びた草が風の吹かれる度に弓なりに泳いでいる。荒い息を吐いて、走るのをやめて、ゆっくりとその草原の真ん中まで歩んで行った。草原の真ん中に辿り着くと同時に、聖夜と雪乃はその場に仰向けに倒れ込んだ。
 草が長いせいで隣りにあるはずの互いの顔は見えないが、しっかりと繋いだ手がすぐ側にいるということを伝えてくれた。見上げる星空は、雲一つなくて、聖夜の住んでいた場所よりずっと綺麗だった。その中で一際目立つ大きな星。月だった。まるでバスケットボールを空に浮べたような満月が、そこにあった。
 クスクスと雪乃が笑い、ははっと聖夜は笑った。
 何がおかしいのかはよくわからなかった。だけど、二人でずっと笑っている。顔は見えないけど、隣りにいる雪乃の存在を確かに感じる。雪乃は今、どんな表情をしているのだろう。しばらく、そのままでじっと空を見上げていた。静寂の時間が過ぎて行く。数分だけそうしていたように思うし、もしかしたら一時間くらいそうしていたかもしれないと思う。
 仰向けに倒れたままで、聖夜は手を繋いでいるのとは別の手でポケットに入っていた携帯電話を取り出した。ディスプレイにはしっかりと時間が正確に刻まれていて、今現在時刻は十二月三十一日十一時二十四分。携帯をポケットにしまう。
 夜空を見上げたままで、聖夜はぽつりと言う。
「……雪乃」
 繋いだ手に微かな力が入った。
 その手をぎゅっと握り返しながら、聖夜は続けた。
「全部、本当なんだよね……。徹彦さんが言っていた、呪いとかそういうの……。全部、事実なんだよね?」
 しばらく返答は返って来なかった。風が舞い、草が揺れて微かな物音を出す。不思議なくらいにそれ意外の音は聞こえず、真っ暗な静寂が降り立っていた。
 その静寂を、ゆっくりと雪乃の声が切り開く。
「……うん。全部、本当……」
 山の中を走っている時にはすでに理解していた。徹彦の言ってたことが全部事実で、嘘など何一つないのだと。
 だから、ここまで走って来た。誰にも邪魔されず、雪乃と二人だけで話がしたかった。聞きたいこと、知りたいことは山ほどあったはずなのに、何も思い出せなかった。ただ、隣りに雪乃がいるということに安堵していた。
「……ごめんなさい、聖夜くん」
 その声は小さく、今にも消え入りそうな声だった。
「わたし、ずっと聖夜くんを騙してた……。本当のことなんて何にも言わないで、言いたいことだけ言って勝手にここまで逃げて来た……。謝って許されるなんて思ってない。聖夜くんにしてみれば迷惑かもしれない……。だけど、どうしても謝りたかった……。記憶が消える前に、どうしても。だから聖夜くん、ごめんなさい」
「……雪乃、それ以上言ったら、ぼくは怒るよ」
 草むらの向こうで微かな気配の変かを感じた。夜空を見上げたままで聖夜は言う。
「少し前、ぼくが松田達を殴ったときに雪乃が言ってたじゃないか。迷惑なんて思うはずがない。それどころか、雪乃がちゃんと話してくれてぼくは嬉しいくらいだ。だから、それ以上謝ったら、ぼくは怒る」
 しばらくの間、雪乃は無言だった。繋いだ手が微かに震え出した頃になってようやく、掠れた声でつぶやいた。
「……ごめんなさい、聖夜くん……」
 あの時とは逆だ、と聖夜は思う。あの時は全く逆の立場でこうして話していた。そして雪乃のさっきの言葉の意味を、聖夜は誰よりも深く理解していた。
 風が舞い草が鳴く。ゆっくりと、聖夜はその身を起こす。長い草を手で払い除け、隣りにいる雪乃を見付ける。雪乃は、一人で声を殺して泣いていた。その時、聖夜は自分がどんな表情をしていたのかはわからない。だけど、たぶん微笑んでいたのだろうと思う。
 そっと手を伸ばし、雪乃の体を抱き寄せた。聖夜の体に身を預け、雪乃は一人で泣いている。頭上に輝く満月と星だけが、その二人を見守っていた。
 回した手に優しく力を込める。
「雪乃……ぼくは、君が好きだ」
 ずっと想っていたこと。言葉に出せば、それだけだったこと。すべてが終ってしまう前に、どうしても伝えておきたかった。今の雪乃のために。
 その言葉を聞いた雪乃はゆっくりと肯き、そして確認するように何度も何度も首を動かした。押し殺していた声が溢れ、大声で雪乃は泣く。悲しみや嘆きではない。それとは全くの逆の感情で、彼女は涙を流していた。これでいい、と聖夜は思う。最後の最後でしか勇気を持って言えなかったけど、それでも、これでいいと思う。
 聖夜と雪乃しかいないこの場所で、二人は静かに抱き合っている。風が吹いて音を消し、小さな小さな雫が空を舞う。それが雪乃の涙だったのか、聖夜の涙だったのかは、誰もわからなかった。
 気持ち良い空間に包まれる。静かに時は流れゆく。


     ◎


 草原が始まる境目にある木に、寄り添うように凭れながら空を眺めていた。握った手から伝わる温もりは、本当に優しかった。隣りにいる雪乃が、誰よりも、そして何よりも好きだった。ずっと一緒にいれればどれだけ幸せだっただろう。もしかしたら、もう呪いなんてものは消えていて、このまま一緒にいれるんじゃないか――そんな想像が膨らむ。だけど、言葉には出せなかった。そんなことを言うだけの力が、聖夜にはない。
 時計を見るのはやめた。時間に縛られたくはなかった。時計さえ見なければ、時は止まったままで過ぎ去るかもしれない。そう思ったから時計を見なかったのかもしれない。しかし今は、本当にどうでもよかった。隣りに雪乃がいる。それだけで、十分だったから。
「……聖夜くん」
 隣りの雪乃がそうつぶやいた。
「このまま逃げちゃおうか……。誰も知らないところへ、二人だけで」
 雪乃と同じように、空を見上げたままで聖夜は答える。
「……いいかもね、それも。どこか暖かいところがいいな。冬なんて来ない、そんな場所」
 冬が来なければ、新年は迎えない。何となくそんなことを思ったあとで、季節があろうがなかろうが月は巡るということに気付く。
 逃げられないのかもしれない。だけど、最後のその瞬間までは、抵抗してやろうと思う。
「わたしの中の、聖夜くんの記憶が消えちゃっても、もう一度聖夜くんを好きになれるのかな……」
 記憶を忘れた人がもう一度その人を好きになる可能性は零だ――と徹彦は言っていた。が、可能性なんてクソくらいだ。可能性なんて今までのことを統計して出したものに過ぎない。未来に、可能性で割り切れることなんてこの世には存在しないのだ、と聖夜は思う。だから、聖夜はこう言った。
「もしぼくが雪乃ともう一度出会ったら、今度は絶対にぼくが振り向かせてみせる」
 昔の自分からでは想像も出来ない言葉だった。いつから、こんな台詞を言えるようになったのだろう。いつから、こんなにも物事をはっきりと言えるようになったのだろう。すべては、雪乃と出会ってからだと思う。聖夜は雪乃に救われた。だったら、今度は聖夜が雪乃を救う番だ。絶対に、雪乃を幸せにしてみせる。自分のことを幸せにしてくれた彼女を、絶対に。
 いつから、雪乃のことが好きになっていたのだろう。今になって初めてそう思った。でも、今はそんなことは考える必要なんてないのかもしれない。だって、隣りには雪乃がいてくれるのだから。
「……ありがとう、聖夜くん……」
「……雪乃、あのさ、」
 その言葉を遮り、雪乃は言った。
「あの、お願いがあるんですけど、いいですか?」
「え……? あ、う、うん。……なに?」
 ごそごそと、雪乃がポケットを探る。そして中から出て来たのは携帯電話。雪乃は携帯を開き、ディスプレイを見て何やら操作をし始める。やがてその操作が終った時、突然に聖夜のポケットから電子音が流れた。着メロで、曲名は『to love song』。これに設定してある人はたった一人しかおらず、そしてこれはメールだった。携帯を取り出し、メールを確認しようとすると、それを雪乃が制した。
「待って。そのメール、見ないでください」
「見ないでって……」
 じゃあどうして送ったの? そう聞こうとすると、雪乃は少しだけ淋しそうに微笑んだ。
「わたしの記憶が消えちゃったら、それをそのままわたしの携帯に送信してください。内容は見ちゃダメですよ」
 その言葉の響きに、ずしりと来るものがあった。
 たったそれだけで、雪乃はすべてを受け入れているのだという確信が沸き上がった。そんな雪乃に、自分は何もしてやれない。だったら、それくらいの、いや、その『お願い』だけは聞き入れなければならない。今の雪乃にしてやれることは、たったそれだけなのだから。
 聖夜は携帯を閉まって肯いた。
「わかった。約束する」
 もう一度、雪乃は「ありがとう」と言った。その微笑みが、酷く悲しそうに思えた。その笑みに、自分は何をしてやれるのだろう。何か、もっと他に出来ることはないのか。考えろ、心の底から雪乃が笑えるような、そんなことを。自分に出来る最大のことを、考え抜け。
 しかしいくら考えても、今の雪乃にしてやれることは何もなかった。焦りだけが増し、これからどうすべきが必死に思考を巡らせたその時。
 最初にそれに気付いたのは、雪乃だった。
「あ……」
 雪乃のその声に反応して、聖夜は思考から抜け出し、そしてそれに気付いた。
 自然と立ち上がっていた。二人でゆっくりと歩き出す。草原のど真ん中へ、二人は歩みを進める。
 視線は、雲一つない夜空に向けられていた。
 聖夜は思った。


 ――星が、歌ってる。


 幻想的な光景だった。
 聖夜と雪乃の瞳に写っているもの。それは、無数に広がる流れ星。
 一つではない。何個も、何十個も、この視界一杯に広がる夜空に、星が流れている。
 まるで何かを祝福するように、まるで何かを照らすように、まるで何かを称えるように。流れ星は、止まることなく流れている。
 その時、確かに歌っていた。星は、この夜空で歌っていた。
 祖父に聞かされた言葉が頭の中で甦る。――雲一つないその夜空に満天の星が輝く時、【ほしのうた】が見えるだろう。どこまでも続く綺麗な夜空で、いつまもで続く【ほしのうた】。満月に導かれしその【うた】を、いつか誰かは聞けるだろうか――。すぐにわかった。違うかもしれない、という気持ちは全くなかった。
 いま見ているこれが、じぃちゃんの言ってた【ほしのうた】なんだ。そう思う。
 流星群。【ほしのうた】は、それを言い換えたものなんだってことを、聖夜は初めて理解した。
 それは、幻想的な光景だった。目を奪い、心を奪い、そして時間をも奪った。
 雪乃と一緒に、その光景をただ見つめていた。


 時間にすれば、一分足らずの出来事だったはずである。


 【ほしのうた】が終ると、夜空には静寂だけが残った。
 そんな中で、雪乃の声が聞こえた。
「今のが、聖夜くんの言っていた【ほしのうた】……?」
「……そう、だと思う」
 少なくとも、間違っているとは思えない。
 雪乃が微笑んだ。
「……よかった。最後に、聖夜くん一緒にこれを見れて……。もう、思い残すことなんて何にもないです……」
 瞬間、聖夜の隣りで微かな明かりが灯った。振り返ったそこで、聖夜は凍りついた。
 雪乃の体が、まるで蛍のように黄緑色に輝いていた。
 これが、合図――。時計は見なかった。見る勇気がなかった。聖夜が見つめる中で、雪乃はゆっくりと指で目元を拭った。そして、悲しそうに微笑んだ。ダメだ、と聖夜は思う。こんな表情のままで、雪乃を行かせてはならない。行かせてしまったら、自分は一生後悔する。
 雪乃の肩を掴み、その瞳を直視する。
「まだダメだっ! ぼくは雪乃に何もしてやれてないっ! お願いだ雪乃っ、まだ行かないでくれっ! ぼくに、雪乃のが望むことを、たった一つでもいいからやらせてくれっ! 雪乃には、ずっと笑っていて欲しい、だからっ!」
 その時、雪乃の指が聖夜の目元を拭った。
 そして不思議そうに聖夜を見つめ、黄緑色に輝くその中で、雪乃は言った。
「――……あなた、だれ? どうして……泣いてるの?」
 拭ってもらえたはずの涙が、また溢れた。まだ行かないでくれ、お願いだから、まだ、ぼくは何もしてない……だからっ、もう一度だけでも、お願いだから!
 その願いが通じたのか、それともただの偶然か。雪乃は、こう言った。
「そんなことないですよ、聖夜くん……。聖夜くんがいてくれるだけで、わたしは嬉しかったです、だから、泣かないでください……」
「でも……っ! 雪乃はまだ本当に笑ってない! それだったら……それだったら……っ!」
 雪乃のが、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「だったら、今のわたしからの最後のお願いです」
 腕がすっと回され、気付いたら、雪乃とキスをしていた。
 一瞬だったと思う。ゆっくりと離れた雪乃は恥ずかしそうに笑い、
「……聖夜くん、ありがとう……」
 言わなければならない。後ろを振り向かず、目を背けず、雪乃に、言わなければならない。
 勇気を、奮い起こせ。雪乃を、しっかりと見ていてやれ。
 聖夜は微笑んだ。自分が泣いていることに、今も気付かない。
 最後の、言葉だった。
「――さようなら、雪乃」
 雪乃は笑った。涙を瞳に溜め、それでも彼女は笑ってくれた。すっきりとした、何もかも受け入れたように。心の底から、聖夜を見つめるように、雪乃は笑った。
 そして、雪乃の最後の言葉を聞いた。
「――バイバイ、聖夜くん」


 刹那、雪乃の体を纏っていた黄緑色の光りがパァーっと舞った。
 無数の蛍のように、【ほしのうた】のように、それは幻想的で、とても綺麗な光景だった。
 この空間を舞う光りの一つ一つが、雪乃の記憶なんだと思う。
 忘れない。雪乃と過ごしたこの日々を、何が起ころうと、ぼくは忘れない。
 やがて、黄緑色の光りは、その輝きを失っていった。


 夜空に瞬く月と星に導かれ、浅摩雪乃の中から、結城聖夜の記憶が消えた。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「エピローグ」




 結城聖夜は、星を見るのが好きだった。
 祖父と一緒に毎晩見るのが小さな頃からの習慣だった。祖父が亡くなってからも、その習慣は変わることなく続いている。来る日も来る日も、季節が何度巡ろうとも、聖夜はずっと夜空を眺めていた。どんな状況であろうと、それを欠かしたことがなかった。
 そして今年、いや正確には去年だ。去年の十二月三十一日から今年の一月一日に日付が変わるその数分前に、聖夜は遂に見ることができた。夜空で歌う星たちを。一生忘れることはない思い出だった。
 あれから、あの日から数日が経過している。今日は冬休み最後の日の、午後八時を五分ほど過ぎたところだ。明日から新学期が始まる。何の変哲もない、世界から見ればちっぽけな始まりである。結局のところ、何も変わっていないのではないか、と聖夜は思う。あの日の夜の出来事は、まるで夢のように過ぎ去っていった。世界から見れば、本当にちっぽけなことだったのかもしれない。
 そして、聖夜は今日も天体観測に出掛けるのである。コートを羽織り、手袋を装備する。靴を履いて冬の空の元へ出発する。いつも通りに家の前の道を歩き、すぐ近くにある公園の敷地内へと足を踏み入れる。手が冷たいので手袋をしたままコートのポケットに突っ込み、息を吐くと楽しいくらいに白い吐息が出た。煙草なんて吸ったことはないくせに、何だか煙草みたいだとまた思う聖夜である。公園は広く、入り口の門を超えて左右のフェンスに沿って遊具が並べられており、ブランコとか滑り台はもちろんのこと、くるくる回る遊具やタイヤをぶんぶん振り回して遊ぶ遊具もある。
 入り口から真っ直ぐ歩けばそこには少し高い鉄の柵があり、展望台みたいになっているその向こうはどこまでも続く森林が広がっている。街灯も最低限の灯りしか発しておらず、この公園は本当に天体観測に打って付けの場所だった。鉄の柵に背中を預け、聖夜は夜空を眺める。
 雲が少しだけ浮ぶ、しかし天体観測にはあまり支障がない夜空だった。何をするでもなく、聖夜はそのまま星を眺め続ける。静寂に包まれたこの公園は、本当に清々しい。視線を公園の遊具へと送る。闇に沈んだそれは、まるで大きな生き物のような影を纏っていた。しばらくそうしていたのだが、なぜだがすっきりとしない感覚があった。今日は少し早いけど、潮時かもしれない、と聖夜は思う。寒くなって来たし、そろそろ帰ろう。そして柵から背中を離し、数歩公園の敷地を歩んだ所で気付いた。公園の前の道に、人影を見付けた。歩くのを止め、しばしその人影を見守る。
 歩道の街灯の少しの灯りだけで微かに照らされたその人影では性別を判断できないが、大人ではない。どちらかというと子どもみたいな人影だ。その人影は辺りをきょろきょろと見まわしながら、珍しそうに公園へと足を踏み入れる。そのまま遊具を見つめたりしながらトコトコと歩き、公園の中の少し小さ目の街灯の下で足を止めた。
 その時、街灯の灯りでその人影がはっきりと見えた。夜目の効いた聖夜の目は、まるで昼間のようにその光景を認識できた。
 女の子だった。少し離れているのでよくわからないが、髪が肩よりもずっと長くて、白いコートを着て、両手をポケットに突っ込み、見覚えのあるマフラーを首に巻きながら遊具を眺めている。歳は聖夜と同じくらいに思えた。背が小さいようなので年下かもしれないが、長い髪が年上のようにも見える。白状するとよくわからない。だからその中間を取って同い年くらいとする。――が、それは考える必要はないのかもしれない。彼女の年は、十五歳。聖夜と同い年。
 こっちから声を掛けよう、と聖夜は思う。そう、約束したから。
 しかし、聖夜が声を掛けるより少し早くに、その女の子は聖夜に気付いた。
 驚いたように身を強張らせ、一瞬逃げようとしたけどすぐに思い止まり、おずおずとこっちに近づいて来た。あの時とまったく同じだな、と聖夜は思う。あの頃の自分は、確かあまり良い思いはしていなかったはずだ。だけど、今は違う。この出会いに、感謝したいくらいだ。あの時、この女の子がここに来てくれたように。今は、それだけに感謝をしたい。
 すぐそこまで来た女の子に、聖夜は言う。
「こんばんわ」
 女の子は恥ずかしそうに急いでペコリと頭を下げた。長い髪がサラサラと下に流れるのが少し綺麗だった。
 上目づかいに聖夜を見つめ、遠慮気味に、「こんばんわ……」と返した。
 聖夜は微笑む。ここからは、あの時とは全く別の物語りが始まる。今度こそ、最後まで幸せにしてみせる。それが、約束だから。
 もう、迷わない。
「初めまして、浅摩雪乃さん」
 一瞬、驚いたように雪乃は聖夜を見つめた。しかしそのあとすぐに恥ずかしそうに俯き、そのまま何かを言おうと口を動かし、ついに、雪乃は顔を上げた。
 聖夜と目が合う。気まずさは、感じなかった。
 雪乃は、嬉しそうに微笑んで、こう言った。
「初めまして、結城聖夜くん」
 それは、聖夜の知っていた浅摩雪乃と似ているようで、少しだけ違う微笑みだった。
 そして、聖夜も少しだけ違う微笑みを浮かべている。
 罪滅ぼしなんてものじゃない。心から願っている。雪乃に、幸せになって欲しい。自分にできることがあるのなら、全部してあげよう。
 出来なかったこと、言ってやれなかったこと。代わりじゃない、もう一人の、浅摩雪乃に対して。


 ここから、もう一度だけ、雪乃と歩んで行こうと聖夜は思う。


     ◎   ◎   ◎


 ここに、一つの携帯電話がある。
 折り畳み式のそれを広げ、カーソルを移動させてメールボックスを開こう。
 グループ分けされた受信トレイ。一番上が『友達』、二番目が『家族』、そして三番目にこうグループ分けされてある。
 『聖夜くん』
 カーソルをそこに合わせてメールの一覧を表示。少し前まで、そこには数え切れないほどのメールがあったはずだ。だが、今そこに受信されているメールは一件しかなかった。未読ではない。つまりは、もうすでに持ち主によって一度は読まれていることになる。
 そのメールを、ディスプレイに表示する。

 送信者:
  聖夜くん

 件名:
  Re:もう一人のわたしへ

 内容:
 >えっと……。これをあなたが読んでいるってことは、もう忘れてしまっているのでしょう。わたしが、大好きだった人のことを。
 これからわたしの言うことは、強制なんかじゃありません。これを読んで、あなたがどう思い、どう行動するのか。それを決めるのはわたしではありません。あなたです。
 一つずつ話すと長くなって、このメールだけじゃ書ききれなくなってしまうので、少しだけ短く書きます。
 わたしたち、浅摩の一族に降り掛かっている呪いのことは忘れていないはずです。生きるために必要な代償のことも。忘れているのは、その代償に払った記憶。今のわたしが、一番大切な人の記憶です。このメールのことも、あなたは覚えていません。だって、これはその大切な人のことだから。この記憶も、忘れちゃってるはずです。
 わたしはもう、その人と一緒にいることはできないけど、あなたならできます。もし、このメールを読んで少しでも興味を持ってくれたのなら、たった一度だけでもいいです。その人に会ってください。
 最初は少しだけ怖いかもしれません。ポーカーフェイスに戻って、ううん、ポーカーフェイスであんまり表情を変えなくて無愛想に思えるかもしれないけど、本当はよく笑う人です。すごく優しくて、わたしの、あなたのために一生懸命になってくれる人です。きっと、あなたのことも受け入れてくれるはずです。すぐに、笑ってくれるはずです。
 その人は、わたしの大切な人でした。でも、それがそのままあなたの大切な人になるのかと言えば、それは違います。決めるのは、あなたです。無理にとは言いません。だけど、もう一人のわたし、もう一人のあなたからの最後のお願いです。一度だけでいい。その人に会ってはくれませんか?
 わたしからの、最後のお願いです。わたしは、幸せでした。ずっと笑っていられた。すごく、すごく楽しかった。あなたにも、そんな気持ちを感じてほしい。わたしは少しの間だったけど、あなたにはずっと感じていてほしいんです。
 ……こんな言い方をしたら、強制だよって思うかもしれないですね。でも、会ってみてもマイナスには絶対になりません。少なからず、あなたにプラスになるはずです。だから……だから、たった一度だけ。会ってみてください。
 その人は、毎晩、八時過ぎに公園にいるはずです。あ、そうだ。わたしの部屋に、少し男の子っぽいマフラーがあるはずです。それを身に付けて行ってください。ちょっとした、絆なんです。
 ……そろそろ、メールの行数が足りなくなってきました。最後に、これだけは言いたいです。
 わたしは、本当に幸せでした。だから、あなたにも幸せになってほしい。
 最後の最後に、一番大事なことを。
 わたしの大切な、大好きだった人の名前をここに書いておきます。
 その人の名前は、聖夜くん。結城聖夜くんです。

 あなたが、幸せになってくれますように。

                       もう一人のあなたより


 これを読んで、この携帯電話の持ち主はどう思って、どう行動したのだろうか。
 しかし、それはたった一人だけが、この携帯の持ち主だけが知ることです。
 でも、一つだけ言えることがあります。
 『彼女』は、幸せだったのでしょう。

 あなたにはいますか?
 側にいるだけで幸せになる、そんな人が。
 いるのなら、大切にしてあげてください。
 いないのなら、いつか、必ず見付かるはずです。
 きっと、現れるはずです。そんな人があなたの前に。
 そしていつのか日、その人と一緒に見てみたいと思いませんか?
 満天の夜空で歌う星を。
 そう、これはそんな星空を見た、二人……いえ、三人の物語りです。

 【ほしのうた】は、誰にでも見る権利があるのです。
 それでは、満月が輝き、星が瞬く夜空でまたお会いしましょう。





2004/06/15(Tue)16:25:54 公開 / 神夜
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■作者からのメッセージ
明日、修学旅行で北京に旅立ちます。次の更新は早くて金曜日、遅くても土曜日にはします。腹痛で死んでいなければ、又は飛行機事故で死んでいなければ、はたまた拉致されなければ、の話ですが(マテ  ぶっちゃけ……行くのが面倒臭いです。ここに一週間もこれないだけでホームシックです(オイ
友達が、修学旅行だし、髭伸ばして一週間過ごしたらジュース奢ってくれるって言ってました。いいでしょう、伸ばしていきますとも(黙れ
でも……オヤジみたいになっちゃうしなぁ……(黙れって。

今回の章、何やら無理やりな感じで進めてしまいましたが、ストーリー上これが一杯一杯です……すいませんっ。
そういえば、ここの点数システムが変化しましたね。自分的には、感想が欲しいのでこれでもいいんですけど。とにかく、管理人様、お疲れ様&これからも強化よろしくお願いします。

それでは、感謝のレス返しを。
 ブンブン丸さん>うぅ、すいませんです……。短くまとめるっていうのが、未だに出来ません……。昔は一章一章がこれの倍あったんですが、ここに来てそれの半分にしたんですけど、これが精一杯です……。これ以上短くすると小説が書けなくなるので、どうか多めに見てやってください(土下座

 卍丸さん>疑問などなど、今回の章で無理矢理明かしたような展開になってしまって、申し訳ないです……。本当はもうちょっと違うのを予定してたのですが、結局辿り着く所は同じってことで割り切りました(マテ  喋れなくても、普通に会話してましたからね……忘れていても無理ないかもっていうより、たまに自分も忘れてたりしました(それやべえ  学校の侵入シーン、一度でいいからやってみたいっていう欲望のままに書きました。夜の学校の周りをうろうろしたことはありますけど、中にまで入ったことはなかったですから。ってええ!?マジですか!いいですねえ、自分も本当に夜の学校に侵入したいです!

 紅い蝶さん>そうですねえ……昔の冷めた聖夜からは考えられない行動……なのか?(マテ  雪乃と接し、変わっていった聖夜を感じてくださればありがたい限りです。太一のポジションがやっと親友っぽくなってきました。(って思うのは自分だけかもしれませんけど(ぇ  タイムリミットのこと、この章で明かしましたが、物語りの最終回もその時間に辿り着きます。どうかそれまでお付き合いを。

 笑子さん>女の子は不思議を隠して綺麗になるって言葉を聞いたことがあるのですが、実際はどうなんでしょうね?(意味不  雪乃の秘密……ってそれほど大層なものなのかどうか危ういですが一応明かしておきました(ぇ  ありがとうございます!それでは、【まんげつ〜】には遠慮なく使わせて頂きます(マテ  応援してくださるだけで最高です!!これからもよろしくお願いします!!

 グリコさん>こんな先生がいたら自分はどれほどいい学園生活を送れたことでしょうか。あ、そういや昨日、友達が原付き教師にバレたらしいです。でも黙認してくれたそうです(それとはまた違う(ぇ  てゆーか、まだ返却されていないんですか、それ……おのれぇ、やはり学校側は巨大な組織で生徒を奴隷のように扱いそして(黙って死んで来い  幸せの絶頂……なんだかそう言ってしまうと身もフタもないような(まあいいいか(ぉ  やはりあそこは少しインパクトが弱かったのでしょうね……もう少し捻るべきだったか(まあ過ぎたことだからいいんですけど(死んで  ああよかった、太一を認めてくれて(マテ  そしてさすがは兄貴!!雪乃の親のところまでよく見抜きましたな……感服でございます!!

 雫さん>神秘的な謎は今回で公になってしまいましたが、見捨てずにやってください(オイ 前作からの教訓っていうより、あれは祥季がどうしようもないヤツだったんでそうしなければならなかっただけ……違う違う。自分の作品はどんな主人公では最後は決意を決めて何とかするっていうパターンが定着し(黙れ  何はともあれ、頑張りますんでよろしく!(マテ

 ねこふみ>どうも!初めまして!!……いやいや、初めましてだ(意味不  お褒め頂き誠に感謝です!実際、【春に〜】よりは結構切羽詰って書いてますが、それなりに楽しく書いています。見劣りする部分はあるでしょうけど、そう言ってもらえると一安心です! 聖夜がぶん殴ったシーン、この作品を書いてて一番楽しかったです(マテ あそこだけ中身を考え過ぎて容量ピンチになり、慌てて切りましたからね(オイ  担任のキャラはすべて共通で良い人です。そして生活指導と教頭が嫌なキャラっていう定石が組み上がっているのが自分の書き方だったりします(ぇ  本当に日本はどうなっていやがるのでしょうか。少年犯罪多過ぎです。ついこの前も小学生が親友殺しちゃったし……。まあ、しょうがないっちゃーしょうがないんですが(何様?  担任でよかったのは小学校5,6年、それと中学3年でしょうか。あの先生と最近は連絡とってないなあ……携帯に掛けてやろうか(笑  いい先輩をお持ちですねえ……羨ましくて泣けてk(黙れ  ぶっちゃけた話、この物語を書いている自分は、流れ星とかを二回しか見たことありません。流星群とか、夜中に起きてまて見たいとも思わないのが素の感想だったりして……。あ、でも普通の星を見るのは好きです。よくタバコ吸いながら夜空を見上げて呆然としてます(それはまた違う。  どうもっす!続き、これから元気一発で書いていきますのでどうかよろしくお願いします!

それでは読んでくれた皆様どうもありがとうございました!!
これにて、【ほしのうた】は完結です。
最後の最後まで読んでくれた皆様、ありがとうございました!
少しでも楽しんでもらえたのなら、それだけで満足です。最後は……微妙だと思う人もおられるでしょうが、これが神夜の精一杯です……。てゆーか、そもそもこの【ほしのうた】はかなり切羽詰った状態で書いていたので、かなりあやふやになってしまったことを、心より御詫び申し上げます。
謝罪の言葉をこれ以上言うとテンションが下がるのでこの辺で(マテ

太一を好きだった方、ごめんなさい(言ってるじゃん。  決して忘れていたわけじゃありません、ただ出せる場所がなかったんです。出したら場が壊れるような気がしてならなくて……。ですので、それだけは勘弁してください……(オイ

それでは最後の感謝のレス返し。いつもみたいに多く書くと未練が残りそうなので、少し短めで(ぇ
 ねこふみさん>もう終ってしまいましたが、最後まで読んでくれる日が来てくれたのなら、それだけで幸せです!これからもよろしくお願いします!!

 卍丸さん>卍丸さんはこのラスト、どう思ってくれましたか?楽しんでもらたのなら心より光栄であり、少し物足りないのならこれからの作品で必死こきます(マテ  綺麗というお言葉、自分にはやはり勿体無いですね(苦笑 しかし、最高に嬉しいです!ありがとうございましたっ!!

 水柳さん>中学校の頃の修学旅行、自分も楽しかったです。しかし高校のは国外ならご注意を。特に中国(マテ  聖夜と雪乃の物語りはここで終ってしまいます。しかしこれらの新たな二人の物語り、どうか時間があれば水柳さんの中で考えてみてください。それでは、ありがとうございましたっ!!

 daikiさん>グサグサッと心臓に突き刺さりますね(苦笑 自分が「これが精一杯……でももうちょい行けるかな……いや、これが限界か……でもなぁ」などと思っていたところをズバっと来ました(マテ 「春に〜」に比べ、設定などがあやふやなのは、本当にすいません……。自分でも思います……。ですので、これからはもっと稚拙で奥の深い物語りを書いて行きたいと思いますので、どうかこれからもよろしくお願いします!!

 明太子さん>確かに【春に〜】に幻想的な部分はなかったですからね(苦笑 全体的に見ればやはり【春に〜】か、などと悩んでたりします(マテ  そしてこのエピローグ、どうでしたでしょうか?明太子さんに満足していただけましたでしょうか……?楽しんでくれたのなら最高で、満足できなかったのなら、これからの作品でリベンz(違う  これからの作品によりよいラストを奉げたいと思います。それでは、ありがとうございましたっ!!

 森山貴之さん>自分の作品で泣いてくれるなど、それだけで最高な気持ちです!!本当にありがとうございます!!そしてこのラストのエピローグと、これらの神夜を何とぞよろしくお願いしますっ!!

 グリコさん>太一の件、実現はありませんでした……すいませんです(土下座 いつか、戻って来ることを祈ってます(黙れ  「――あなただれ?」の部分、あれは記憶が消える前のノイズ、とでも言っておくのが簡単なのでしょうかね……?ラジオの電波が消えてザーっと音が鳴るあれみたいな感じで。それを描写内に入れ忘れていた自分の失態です……申し訳ないッス(謝  そしてこれにてラストとなったわけですが、これからもよろしくお願いしますっ!ありがとうございましたっ!!

読んでくれた皆様、今までありがとうございました!!これからも未熟者の神夜を、何とぞよろしくお願いします!!
次回作は、やはり長編です。結構早めに投稿できると思いますが、その一章に一つ重大な問題が……。読んでもらえればわかるような気がしますが、その時までは隠しておきます(マテ
それでは、再度、ありがとうございましたっ!!
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