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『そして魔人は扉を開く』 作者:流 / リアル・現代 ファンタジー
全角18330文字
容量36660 bytes
原稿用紙約58.05枚
何でも願いを叶える指輪の魔人と、その主となった少女。人と魔人の、ぎこちなくも優しい日々が始まる。

 かつて、偉大な魔法使いがいた。
 多くの王に仕え長く時代を見守った魔法使いは、やがて全能の身である自身に飽き、人として終わりを迎えたいと願うようになる。
 だが人にあらざる膨大な魔力は魔法使いを蝕み、いつしか彼は人とも魔ともつかぬものに成り果てていた。
 そこで魔法使いは自身の魔力を五つの指輪に分け、それぞれの指輪に魔人を宿した。
 魔人たちに与えられた役割は、魔法使いが遺した魔力を使い切ること。
 魔力の行使は欲望に溢れた人間たちの望みを叶えるという形でのみ許され、効果範囲は魔人の周囲三メートル弱。その回数も一人につき三回までと制限がついている。
 魔人は指輪に触れた人間の強い願望に応じて現れ、その瞬間契約が成立する。人間が願いを使い切るか、その一生を終えれば契約は消滅し、指輪はまた次の願望を求め何処かへ消え失せる。
 人の手元に残らないのは、限られた一族が指輪を独占するのを防ぐためらしい。
 だがこの制約は見方を変えれば、契約が交わされた以上どちらかの条件が満たされなければ魔人はその人間から解放されないということになる。
 人間側に拒否されれば契約不成立。そんな決まりもあるべきではないかと、黄玉の指輪の魔人サフィは少女のポケットの中でしみじみ思いながら、現在の主人との出会いを回想した。

「……ねえ、お嬢さん」
 明るいか、軽いか。
 印象の二分される笑顔を引きつらせ、黄玉の指輪の魔人サフィは胸中でひたすら頭を抱えていた。表の表情もよくよく観察すれば、褐色の肌に滲む汗が見えたかもしれない。
 立ち尽くす彼の目の前には、十歳前後と思わしき少女が一人。
 切れ長の目のすっきりした顔立ち。真夏にあっても白い肌に艶のある黒髪が映え、幼くはあるがその容姿はサフィの記憶にあるこの国の美人の条件を見事に満たしている。
 だがいかな美少女だとて、向けられるのが道端の石を見るがごとく無感動な眼差しとあっては喜ぶ者は少ないだろう。
 無論、サフィもその一人だった。
「何」
 第一印象を軽薄な色男と評されがちな青年のすがるような声に、少女は短く応じた。警戒も困惑も畏怖も何一つとして宿らない、歳に似合わぬ静かな声だった。
「ほんっとーに、なんっにも、願いごとないの?」
「別にない」
 ここに数秒前のやりとりが再び交わされた。一分の迷いもない返答に、サフィはぐっと言葉に詰まる。
「……食べきれないだけの、お菓子とか」
「いらない」
「遊びきれないだけのおもちゃとか」
「いらない」
「キレイな宝石とか、ドレスとか」
「いらない」
「お小遣い十年分とか」
「いらない」
「宿題代わりにやってあげようか!」
「自分でやる」
 思いつく限りの言葉をそばから一蹴され、種の尽きたサフィはがっくりと肩を落とした。
 爪先の整えられた指が、黒い癖毛をかきあげるようにして額を押さえる。
「……じゃあ、何か御用ができたら呼んで。さっきも名乗ったけど、サフィね、俺の名前」
 端正な顔を困惑に歪めたままそう言って、サフィは実体化させていた中東風の姿を消し指輪に戻った。
 その場に残された少女はしばし黙って手の平の指輪を見つめた後、それをスカートのポケットに入れた。
 そして背中のランドセルを揺すり上げ、後はただ黙々と下校途中の道を歩き始めた。

 その日、魔人が呼び出されることは、二度となかった。

 出会って数日、少女がサフィを呼び出す気配は未だない。
 だが徹底して興味のないそぶりをされているかと言えばそうでもなく、机の引き出しに仕舞い込まれて終わるのではというサフィの不吉な予想に反し、少女はほとんど肌身離さずサフィの指輪を持ち歩いた。
 指輪の中にいても、サフィはある程度なら周囲の様子を知覚できる。おかげで少女についていくつか知ることができた。
 名はヒメカワコウ。姫川香と書くのだと後から知った。
 週五日、徒歩で小学校に通学している。
 教師や他の生徒たちの言葉から察するに学力は優秀らしい。
 口数少なく表情も滅多に動かずおよそ愛想というものが感じられない少女だが親しくしている友人が同じクラスに二人いて、休み時間や下校のさいはほとんどその二人と過ごしている。
 自宅は集合住宅の三階。過去この国の人間と契約した記憶から、なかなかに良い部屋に住んでいるとサフィは判断する。
 キッチン付きの広い居間。勉強机や寝台のある少女の個室。その隣の少女が決して入ろうとしない一室。少女が毎朝手を合わせる木製の祭壇とその傍に立てかけた若い女性の写真のみを調度品とする和室。
 そこで彼女は一人で暮らしているらしい。
 家族と思われる人物を見たことはない。
 朝と夕方、少女の自宅へ妙齢の女性がやってきて食事の支度をして帰って行く。
 友人相手であってもさほど口数多くない彼女は、その女性に対しては更に言葉少なになった。おはようございます、こんにちは、お願いします、ご苦労様でした。少女が女性にそれ以外の言葉を発しているところを、サフィは今のところ見ていない。
 もっともサフィと少女に至っては、あれから一度も会話を交わしていないのだが。
 サフィを呼び出すことができた以上、彼女が何かしらの願望を抱いているのは確かなのだ。なのに自分はこのままずっと、いずれ少女が老いて死ぬまでの年月をポケットの中で過ごすのだろうか。
 嘆くサフィのそれはだが、ほどなく杞憂に終わることとなる。

 この日、下校時の彼女はいつになく大荷物だった。
 背中のランドセルはパンパンにふくらみ、片面には体操着の入った袋が吊られている。片腕に置き傘を引っ掛け、もう片手には工作の授業で作ったという粘土細工の入ったビニール袋と工作道具の袋。その重しを下げた両腕を体の前に、ツルを伸ばし赤い実をいくつもつけたミニトマトの鉢を大事そうに抱えていた。
 夏の日差しは容赦なく、黄色い帽子は日除けとしては心許ない。白い額に滲んだ汗が垂れ、頬を伝って落ちていった。
(分けて持って帰ればいいのに)
 サフィが胸の内で呟いた回数は、そろそろ両手の指を合わせても追いつかなくなる。少女は学校を出るときも道すがらも友人たちに同じことを言われていたはずだが、頑固な気質であるらしい。
 そして友人たちと別れ、帰り着いたマンションのエントランスでのことだった。
 オートロックの自動ドアを開くため、彼女は手にしていた荷物を一度床に置いた。
 ランドセルから鍵を取りだし、自動ドアを開く。
 だが傘と袋と鉢を持ち直し一歩歩いたところで、ドアは閉まってしまった。
「…………」
 もう一度。今度は手放す荷物は最小限に、もう少し手早く行動したようにサフィには思えた。実際今度は三歩は歩けた。
 三度目。もっと急ぐことにしたらしい。ドアを開き勢い良く振り向いた瞬間、ランドセルに下げた体操着の袋が勢いのままミニトマトにぶつかった。揺れるツルに慌てて屈み、落ちてしまった実がないか確かめている間にまたも自動ドアは道を閉ざした。
「…………」
 四度目には挑戦せず、少女は一度管理人室を覗き見た。常在しているはずの男は、こんな時に限って席を外している。
 一部始終を、口こそ出さないものの気をもみながらサフィは見ていた。再度挑戦するか、管理人か他の住民が帰ってくるのを待つか。少女はこれにどう対処するだろう。
 少女はしばし立ち尽くしたまま、帰路を塞ぐ透明な壁を見つめていた。困っているのかも知れないが、表情や立ち姿から困惑を読み取ることはできない。
 サフィが知己の子供のころころとよく変わる顔を思い出していたとき、少女が動いた。
 右手が伸び、鍵を握ったままのそれを、スカートのポケットに入れる。
 何だろうかと、指輪に触れた手を不思議がるサフィに、少女の声が届いた。

 壁の鍵穴に鍵を通し、回す。
 自動ドアが開き、待ち構えていた少女が中へ入る。
 見届けて、鍵を抜き、後を追って中へ入る。
「ありがとう」
 言葉と共に少女が差し出した手のひらに、促されるまま鍵を置く。
 そうして――サフィは、呆然としたまま指輪に戻った。

 黄玉の魔人のサフィ。
 少女、姫川香と契約。
 一つめの願い、『ドアを開けて』を叶える。
 残る願い、二つ。
(もったいない!!)
 放心状態から立ち直り、サフィは指輪の中で絶叫した。
 何でも叶える指輪の魔人に対し、ささやかにもほどがある。人とはもっと欲深いものではなかったか。
(あれか? これがホトケのサトリってやつ?)
 記憶の片隅にある一切の我欲を捨る信仰を持つという者たちの話を思い出すが、否、そんなはずはない。そんな人間が指輪の魔人と契約を交わせるはずがない。
 ならば、何故。サフィは深く悩む。
(今度こそ、ちゃんと願いを叶えようって思ってたのにな……)
 だが当然のことながら、口にされない魔人の思いは少女には伝わらない。
 サフィがそれを思い知ったのは、彼が少女と出会って直に一ヶ月経つというころだった。

 サフィが願いを叶えたその翌日から、少女は学校へは行かなくなった。夏の長期休みというものの存在を知ったのは、しばらく後のことだった。
 自宅にいる時間が長くなったことを除けば、彼女の日常にさほど変化は見られない。
 夏休み前と変わらぬ時間に起床し、毎日机に向かって勉強する。妙齢の女性は毎日やってきて朝昼晩の食事の用意と掃除洗濯をして、やはり言葉少なに帰る。
 約束をつけて友人たちと遊びに出かける回数だけは、以前より増えたかもしれない。
 その友人たちと遊んだ、帰宅後のことだった。
 夏休み中も変わらずポケットの中にいたサフィは、彼女が帰宅してすぐ何をするか知っている。まずドアの鍵を上下二つかけ、洗面所でうがい手洗い。そして蒸し暑い居間に入り、リモコン操作でエアコンをつける。
 だがこの日はそうはいかなかった。
 夕焼けに染まる居間に入った少女はテレビ前のソファーに近づき、立ち止まった。サフィは知っている。彼女がテレビとエアコンのリモコンの定位置にしているのは、ソファーの上だ。だが今、そこにはどちらも存在しない。
「…………」
 しゃがみ、ソファーの陰を覗き込み、床に手をついてテーブルの下にもぐる。少女はしばらく忙しく部屋を動き回り、やがてテーブルの上に置かれた二つのリモコンを発見した。
 床に落ちていると決め付けていたため、目に留まるのが遅れたのだろう。少女は迷わずエアコンの方のリモコンを手に取り、目標に向けてスイッチを押した。
 だが、常ならば軽い電子音と共に起動するはずのそれは沈黙したままだ。本体のランプが灯ることもない。
 二拍の空白を置いて、少女は再びスイッチを押した。つかない。連打する。つかない。
 少女はそこで手元に視線をやり、ようやくリモコン自体の液晶に何の表示もないことに気が付いた。
 リモコンを戻し、テーブルの椅子を持ち上げてエアコンの真下に移動する。それを踏み台に直接操作を試みるが、同年の少女と比べても低い部類に入る彼女の身長ではわずかに手が届かなかった。
「…………」
 少女の額に汗が滲む。窓を閉め切った蒸し暑い室内にいるためだろう。
 サフィは、少女が今と似たような状況にいる場面を見たことがある。
 嫌な予感が、した。
 少女がポケットの中の指輪に触れる。
「サフィ」
 あの日と同じ声音で呼ばれ、サフィはきた、と思いながらそれに応じて姿を現した。
 そして少女が口を開く寸前、手を上げて静止をかけた。
「ちょっと待った。……お嬢さん、俺になに言う気? まさか冷房つけてとか、そんなことじゃないよね」
 必死の面持ちで問いかける魔人を、少女はじっと見つめた。以前と変わらぬ無感情な眼差しにサフィは思わず怯みそうになる。
「……そう言おうと思っていたんだけど。だめだった?」
「……だめかって聞かれると、だめじゃないんだけど……」
 問い返され、サフィは頭をかきながら答えた。もどかしさを明確に表現する方法がわからず、自然と眉が下がる。
「俺さ、魔人なんだよ? 制限はつくけど基本的に何でもできる。俺を呼び出せたってことは、お嬢さんにはもっと大きな願い事があるはずなんだよ。なのに、いいの? こんなささやかな願い事ばっかりで」
 言うサフィと見つめ合いながら、少女は瞬きを返した。
 表情は変わらず、ただ眼がなんとなく困っているように見え、そう感じたことにとても驚くサフィに、少女はでもと呟く。
「私、エアコン付いてくれないと困るんだけど」
「それは、まあ……そうだよねぇ」
 ううとうめいて肩を落とすサフィを少女はしばし黙って見つめた。目の前の魔人が大きなため息を吐くのを聞いてから、唐突に言う。
「じゃあ変える。サフィ、私と一緒にいて」
「はい?」
 言葉の意味を捉えかね、サフィは間抜けな声を上げた。少女はもう一度口を開く。
「指輪に戻らないで、私と一緒に暮らしながら私の手伝いをして。手が届かなかったり、一人だと困ることとかいっぱいあるから」
「…………」
 サフィは頭の中で、少女の『願い』を反芻する。鍵を開けてほしい、エアコンをつけてほしい等の細々した要求を、全部手伝ってほしいと一括りに要求されているらしい。
(つまり、召使になれってことか)
 少女の言葉をサフィはそう理解した。
「わかった。君の日常に困ったことが起きたとき、俺はそれを解消したり手伝ったりすればいいんだね」
「うん」
 すぐさま派手に魔法を使うような願い事ではないが、一つめと比べればずいぶんましな願いに思われた。素直に頷く少女にサフィもまた笑みを浮かべて頷きを返す。
「じゃあ、二つめの願いはそれで了解するよ。あらためてよろしく、ご主人様」
 少女に対し、初めての呼称をサフィは使用した。だがその途端、少女が眉をひそめた。初めて目の当たりにする明らかな不快を刻んだ少女の表情に、サフィは少なからず動揺する。
「……その言い方やめて」
「ご、ごめんなさい。ええと、よろしくお願いしますごしゅじ」
「敬語じゃなくて。ご主人様って呼ばないで」
 サフィの言葉を遮って少女は鋭く言った。
 思わず硬直する魔人を見つめて小さく息を吐き、元の無表情に戻ってサフィを見上げる。
「姫川香。……私の名前」
「……姫川さま」
「様付けしないで」
 またも言葉を切り捨てられ、しかも眉間の皺も復活した少女にサフィは途方にくれた。
 ご主人様、姫川様はだめ。様付けが嫌だと言う以上、香様もだめだろう。それ以前に、この国では女性の下の名を呼べる男は家族のような特別親しい関係にあるものだけのはずだ。少なくともサフィの記憶ではそうなっている。
 困り果て立ち尽くすサフィに、少女――香はまた少し表情を和らげた。
「……友達が私のことなんて呼んでるか知ってるでしょ。あんな感じでいいから」
 香の言う友達のことは当然知っている。しーちゃんときーちゃんだ。その彼女たちは香をこーちゃんと呼んでいた。自分が香をそう呼ぶのは、召使としてずいぶん気安いように思えたが、他でもない彼女がそう望んでいる。しかしサフィの中で、あだ名とは言え女性の下の名を呼ぶのは大いにはばかられることだった。
 禁忌に触れず、香が望むような気安い呼び方。
「……じゃあ、姫さん、は?」
 上の名で、様付けをせず、ちゃん付けよりは恐らく上位で、あだ名のような呼び方。香の表情を伺いながら、サフィは考えた末の言葉を口にした。
「……うん。それなら、いいよ」
 恐る恐るの提案にだがそう言って、香は今度こそ了承してくれた。サフィはようやく肩の力を抜く。
「これからよろしく、サフィ」
「はい、姫さん」
 香の無表情に、サフィは笑顔で答えた。
 先ほどまでの緊張をどこへやら、にこにこと笑うサフィの顔をひとしきりながめた後、香はおもむろに口を開いた。
「じゃあさっそくだけど、エアコンつけて」
 
 サフィの背丈なら、踏み台がなくとも十分足りた。冷えた風を送り始める機械に、香の無表情がどこかほっとしたように和らぐ。サフィもつられるように嬉しい気持ちになった。
「この後は、どうすればいいかな」
「他にはまだ何もないから。ソファーとかで適当に待ってて」
「わかった」
 軽く笑ってサフィが応じたとき、玄関から鍵を開ける音が響いた。はっとして香が振り向く。
「柚原さんだ」
「誰?」
「ご飯作りに来てくれる女の人」
「ああ、あの人」
 得心がいってサフィは頷く。香は落ち着ききった様子の魔人の手を強く引いた。
「サフィ、こっちに隠れて」
「俺が見つかると困るから?」
「そう、だから早く――」
 だが香がサフィを連れ出そうとした直後、居間の戸が開きいつもの女性が買い物袋を提げて現れた。正面にいたサフィと真っ向から顔を合わせる形となり、傍らの香が慌てたように柚原という女性を見たが、それより早くサフィがにっこりと笑いながら口を開いた。
「どうも、柚原さん。ご苦労さまです」
 香が驚いた様子でサフィを見上げた。
 柚原は何も言わず、サフィと香に会釈してキッチンへ向かった。サフィの存在に不審を抱いた様子はない。
 普段通り作業を始める女性の背を見つめる香に、サフィは悪戯っぽく笑いながらささやいた。
「俺が怪しまれたら、姫さん困るんでしょ? だからちょっとだけ、魔法」
 正体を問われても、第三者に魔人の存在を納得させることは難しい。その程度のことはサフィも知っていた。
 しかし今後、柚原なるあの女性と顔を合わせずに通すことも不可能だろう。
 今回の魔法の使用は、香の召使として彼女の生活に関わる以上必要な処置であるとサフィは考えた。
「……催眠術?」
「そんなもんかな。俺に対する認識を少しいじったから」
 事も無げに言う魔人に、香はふうんと小さく返した。
 そこで会話が途絶えた。だが香は特に動こうともせずサフィの手も握ったままだ。
 いぶかしんだサフィがそっと伺うと、ちょうど香もサフィにちらりと視線を送ったところだった。
 目が合った瞬間、香はぱっと魔人から手を離し、きょとんとするサフィを置いて早足にテーブルへ向かった。リモコンを取り電源ボタンを押すと、サフィの背後にあったテレビが賑やかな音を発し始める。
「……お風呂、はいってくる。ちょっと待ってて」
 そう言って踵を返し、途中キッチンの柚原と何か会話して、香は居間から出て行った。
 残されたサフィは香の反応に首を傾げたが、言われたようにおとなしく待つことにした。
 先ほどの指示通りソファーに座ると、自然にテレビと向き合う姿勢になる。画面に映っていたのは、大勢の人間が大声で談笑する賑やかな番組だった。似たような印象の番組を、以前の契約者がよく見ていた。確か、げーのーじんとやらが話術を披露する番組だったと思う。
 話の内容はよくわからなかったが、人間たちの仕草や声そのものをそれなりに興味深く思いながら見ていると、ふとサフィは彼らと自分の装いがかけ離れていることを思い出した。
 アラビアンナイトの中から抜け出たようだと以前の契約者に言われた自身の格好を、改めて意識する。中東風の装いは生み出されたときから変わらない格好なのでサフィに違和感はないが、この国の人々の目には珍しく映るはずだ。
 他者の認識など先ほど柚原に施したようにどうとでもできるが、魔法の行使には制限がある。香と暮らす上で、できるだけ目立たない方がいいだろう。
 そう考え、サフィはいっそう真剣に画面に映る人々を見つめた。

 居間の戸が開く音に気付き、ソファーでくつろぐサフィは戻ってきた香に笑いかけた。
「あ、おかえりー」
「…………」
「……あれ、これ違う?」
 間違えたかなと首を傾げる魔人を、香はじっと見つめた。やがてサフィ、と静かに名を呼ばれ、はたと青年は香を見返した。
「その服どうしたの?」
「ああ、これ」
 問われたサフィがソファーから立ち上がる。
「テレビの人たちを参考にしたんだけど、どうかな?」
 香を見下ろすサフィの姿は、ジーンズに半袖のカットソーというシンプルな装いに変わっていた。褐色の肌はそのままだが、癖の強い長髪もうなじで緩く束ねている。慣れた服を着ているような自然さで立つサフィをしげしげと眺め、香はごく淡い感心の滲んだような声で言う。
「それも、魔法なんだ」
「悪目立ちしない方がいいかなと思って」
「うん。いいと思う」
 短く言って首肯する香にサフィは嬉しい気持ちで目を細め、ありがとうと言った。
「――お嬢様」
 そこへ女性の声が響いた。香がゆっくりと振り返り、テーブルの脇に立つ柚原を見上げる。
「お食事の御用意ができました。本日はこれで失礼いたします。また明日、定時に御伺いいたします」
「……ご苦労様でした」
 淡々と報告する柚原に、香が感情のこもらぬ労いの言葉をかける。サフィがこれまで幾度も耳にしたやりとりを二人は寸分違わず再現し、柚原は丁寧に頭を下げて出て行った。
「…………」
 香は居間の戸をじっと見つめていた。玄関から鍵をかける音が届いたとき、ようやく小さな息をひとつ吐き出して、香はテレビを消し夕食の用意されたテーブルに歩み寄った。
 その後姿を目で追ってテーブルを見、はてとサフィは首を傾げる。柚原が用意をしていたときから気になっていたことだが、今日の食卓は彼が見慣れた香のそれと明らかに異なる点があった。
 この日の夕食は白いご飯に味噌汁、焼いた魚の切り身に小鉢に盛られた野菜の煮物。
 それが香の定位置とそこに向かい合う席に一揃いずつ、どう見ても食卓には二人分の料理が並んでいる。
 サフィは柚原が座るのかと思っていたが、彼女は早々に帰ってしまった。この家には香以外に人はいないし、来客があるのだろうかとも思ったが、それにしては料理を準備するタイミングが少々おかしくないだろうか。サフィは彼なりに考え考え、やがてはっとした。
「陰膳ってやつ?」
「……何が?」
 すでに椅子に腰掛けていた香に問い返され、サフィは自分がまた間違えたことを悟った。あれ、違ったかと呟いて首を傾げるサフィに香は静かな口調で言う。
「サフィも座って」
「あ、うん」
 言って先ほどまで座っていたソファーに向かうサフィの背に、待ってと声がぶつかった。幾分強い制止の声にサフィが驚いて振り向くと、香もまた常より僅か見開いた目をしていた。
「……どこに行くの?」
「え」
 二人はそのまま数秒、沈黙を挟んで見詰め合った。
 サフィの視線が、香の向かいの席を見る。空っぽの席に、湯気を立てる夕食。
 もしかしてと、サフィは問いかけた。
「座れって、そこ?」
「……他にどこがあるの」
 香があたりまえのように答えた。無表情に、だが声音には明確な不審が刻み込まれている。
「……そのご飯、俺の?」
「他に誰がいるの」
 尚も信じがたく夕餉を見るサフィに香が即答した。声はもとより表情にほにかに滲みはじめた苛立ちに、サフィは慌てて取って返し夕餉の用意された席に座った。
 同時に香の発していた不満の気配が消え、サフィは心底ほっとする。
「いただきます」
「……いただきます」
 手を合わせ軽く頭を下げる香を真似てサフィも頭を下げ、少女の動きを目で追いながら箸を取った。香がサフィの手元に目を向ける。
「お箸使える?」
「たぶん。……こうだよね?」
 右手で二本の棒を構えて香に見せた。少女が自身の小さな手とサフィのそれを見比べ、頷く。
「うん、合ってる」
「よかった」
 サフィはへらりと気抜けた様子で笑った。香はそんな青年を少し見つめた後、下を向いて焼き魚に箸を伸ばす。身をほぐし、口に入れて租借するところまでまねて、サフィはそこで一つの問題に突き当たった。
(これ、口に入れた後どうしよう)
 身体を実体化させてはいるが、サフィは魔力によって構成される指輪の魔人だ。生きている者のように身体を働かせる必要はまったくなく、食物を取り込む必要もない以上、内臓やその代行を務める機能も存在しない。
 外から見える部位は繕ってあるので、歯や舌を備えた口で租借することはできる。人間で言う五感を知覚することはできるから、良し悪しの判断はできないが味も感じる。
 だが人と異なり、収めるべき胃を持たないサフィが取り込んだ食物はどこへやるべきなのだろうか。
(…………)
 考えた末、魚の身をゆっくりと噛み締めて、サフィはそれを飲み込んだ。そしてその瞬間、転移の魔法を発動させてそれを遥か遠く、海に移動した。後は魚が食べてくれるだろう。
 心の中で満足するサフィだが、彼が今使用した魔法は、物質を転移させた距離と事前動作の無かったことを踏まえればその道に通じた者が目を剥きかねない代物である。
 催眠も転移も、生半可な魔法使いなら入念な準備を必要とするであろうそれらを指一本動かすような何気なさで発動させたサフィは、その調子で二口三口と順調に焼き魚を食べ進めた。
 真剣に焼き魚を見つめているところへふと視線を感じ顔を上げると、箸を止めた香と目が合う。不意に噛み合った視線に香が驚いたような顔をした。
「姫さん、どうかした?」
「……別に……」
 香は曖昧に言葉を濁し俯く。サフィはその反応を不思議に思うが、本人が何でもないと言っているものを追求する必要はないだろうと考え直した。
 下を向いた少女が小鉢に箸を伸ばすのを真似て、サフィも同じ器の煮物を取ろうとした。
 白い、丸っこい形をした野菜のようだった。だがサフィが細い棒の先端で挟もうとした瞬間、それはつるりと箸の間から逃れた。
 予想外の手ごたえに驚きもう一度箸を伸ばす。同じ動作を繰り返し、ようやく持ち上げたところで滑り鉢の中に落ちた白い煮物を、サフィはむうっと心中でうなりながら見つめた。
 ふと鉢から視線を上げると、香が小鉢から最後の煮物を取り上げたところだった。箸を使い危なげなく野菜を口に運ぶ様子を見て、サフィは思わず呟いた。
「うまいなあ……」
 やはり使い慣れた人物は違うと思いながらしみじみ発した言葉に、俯いたままだった香が顔を上げた。サフィを見つめながら、口を開く。
「そう?」
「え?」
「今、うまいって」
 急な言葉にサフィは虚を突かれるが、香が真剣な顔で発した言葉で腑に落ちた。独り言のつもりだったが、それは確かについ先ほど自分が呟いた言葉だ。
「うん、うまいね」
「……そう」
 笑みを浮かべて言ったサフィに短く返し、香は再び視線を食事へ戻した。
 そらされた視線に倣い食事を再開させたサフィの耳に、香の声で小さく、よかったと呟くのが聞こえた。

 使い終えた食器を香がそうするようにキッチンへ下げた後、サフィは自由にするようにと指示を受けた。
 香に声をかけてから、ベランダのガラス戸を開き外へ出る。
 夜間とは言え、夏の熱気と湿気がサフィを包む。冷房をきかせていた屋内とはあまりに違う温度差だが、サフィの身体は暑さを感じ取っても、それを苦楽として捉える感覚を備えてはいない。
 人間ならうんざりするような空気の中に平然と佇み、ベランダの壁に寄りかかる。
 見上げた空は上の階のベランダに遮られて少々狭いが、雲のない良い空だった。
 人々が灯す明かりのため満月かと思うほど明るい夜だが、今宵の空に月はない。
 新月の夜。サフィにとって、欠かせない日だ。
 壁に預けた身体はそのままに、星の少ない夜空を見上げていた目を閉じる。
 そしてサフィは深く、意識を落とした。

 まず知覚したのは、そこが何もない空間であるということだ。
 視覚的に明るいのか暗いのか、屋内なのか屋外なのかも判断できない場所。
 そこにはサフィの他に、五人の男女がいた。まとう雰囲気も年齢も異なる者たちだが、皆衣装だけは中東風のもので統一されている。サフィも、この空間では香に合わせた装いでなく、彼本来の格好に戻っていた。
「来たか、サフィ」
 まずサフィに声をかけてきたのは、二十代前半の青年だった。
 年こそ近いが、サフィが持つ気さくな空気とは対極の厳しさを感じさせる。
 長身の引き締まった体躯。眼光鋭く精悍な顔立ちで、厳かな声音がその印象を強めていた。
「今夜はあなたが最後でしたね」
 鈴を転がすような声は女性のものだ。
 薄布に透けた唇は優しく弧を描き、眼差しもおっとりとしている。
 物腰柔らかな立ち居振る舞いは、清楚という言葉がピタリと合った。
「サフィおっそーい! ボクもう待ちくたびれたよ」
 高く苦情を叫んだのは子供だった。
 見た目は香よりいくつか幼い。尖らせた口とは裏腹に、アーモンド型の目は楽しげに笑みを刻んでいる。
 地面を転げまわって遊ぶ子犬のような、無邪気な活力に溢れた男児だ。
「詫びる必要はないぞサフィ」
「そうとも。遅れたというほどの時間ではない」
「「ただこいつに堪え性がないだけだ」」
 子供の苦情に軽く詫びようとしていたサフィを遮ったのは、双子の少年だった。
 外見は十代半ば。服装から身体的特徴まで、まったく同一にしか見えず二人の区別はできない。
 特徴のない顔は常に無表情。香と異なるのは、口数が多いことだろう。
 その無表情に重ねて扱き下ろされ、子供は不満そうに頬を膨らませた。
「カラもサラも酷いや。ボク、待ってるだけでずっと暇だったのに!」
「生憎、訂正するつもりはない」
「というかお前が暇だ暇だとうるさいから、年一の会合が月一になったんだろう」
「「俺たちからすれば、お前は暇なくらいでちょうどいい」」
 双子の寸分違わぬ見事な和音に、子供は憤慨したように酷いとまた叫んだ。
 やり取りを眺めていた女性は上品に笑い、青年はうんざりしたように手を打った。
「双子もクロもそこまでにしろ。話が進まん」
 厳しい表情と声に、三人の子供たちは顔を見合わせて口を閉ざした。
 それに満足げに頷き、青年は姿勢を正す。
 目印も何もない空間だが、彼らの立ち居地は均等に別れ、正確な五角形を描いている。全員の顔を見渡して、青年はおもむろに口を開いた。
「ではこれより、定例の報告会を行う。……紅玉のタム、現状維持だ」
「タムって確か、出てった瞬間『この指輪には悪魔が宿っている』って川に捨てられたんだっけ」
「「十年前から進展はないらしいな」」
 ひそひそ話をそれなりに大きな声でする双子と子供に、タムと名乗った青年が喧しいわと怒鳴った。
 それをサフィと共に楽しげに見守っていた女性が、微笑みながら挙手する。
「紫水晶のメリカ。兄様と同じく、現状維持です」
 隣にいたサフィがメリカを見た。
「メリカは確か、宝石商の商品の中だっけ」
「ええ。出番待ちです」
「早く出番来るといいな」
「ありがとう、サフィ」
 顔を見合わせてにっこりと微笑み合う男女の間に割り込むように、子供が勢い良く声を上げた。
「ハイハーイ! 次ボク! 瑠璃のクロ、あ」
「「翠玉のカラ・サラ。新たに契約し、願いを二つまで叶えた」」
 張り切って挙手し、だが双子に強引に割り込まれ、クロは猛然と抗議する。
「ちょっとー二人とも邪魔しないでよ!」
 まなじりを吊り上げる子供に、カラとサラは揃いの角度で子供を見下ろし、同時には、と短く息を吐く。
「どうせお前は海の底だろう」
「聞くまでもない」
「そんなの酷いよお、ボクの話だって聞いてくれていいじゃないか」
「「時間の無駄だ」」
 ひーどーいー、と空間の隅々まで響き渡るような声で喚くクロに双子は耳を塞ぎ、サフィは苦笑した。苦笑で済まないのは、その隣の男である。
「いい加減にせんか!」
 厳めしく腕を組み、タムが一喝する。
 その瞬間彼らのいた空間に闇が落ち、どん、と重く空間を震わせる音と共に双子の真上に稲光が走った。
 文字通りの雷に、双子がびくりと肩をすくめた。
「まったく、お前たちは本当にいつまでたっても……!」
「落ち着けよタム」
「やーい、もっとやっちゃえタムー」
「まーまー、クロも落ち着け。お前もくらうぞ?」
 サフィの言葉に合わせるようにタムに睨まれ、クロはわざとらしい悲鳴を上げて頭を抱える。メリカが口元を隠して笑った。
「では、怖い黒雲は退散してもらいましょうか」
 言って娘が空を撫でると、黒に塗りつぶされた空間は瞬く間に一変した。
 柔らかくも冴え冴えとした光が闇夜を一掃する。
 現れたのは晴れ渡った夜空に満月が浮かぶ、見渡す限りの砂の海。
 サフィらがいる場所には豪奢な絨毯が敷かれ、クッションや茶の一式が用意されている。
「さすがメリカ。小道具まで徹底してるな」
 クッションに座り、中を液体で満たした茶碗を手を取ることなく見下ろして、サフィは感心したように言った。
「静かなのも大事ですが、お話はやはりくつろいだ場でしたいと思います。せっかく皆が集まったのですから」
 返事をする形で、だが顔だけは兄に向けてメリカは微笑んだ。視線を向けられたタムは少々ばつが悪い様子で押し黙る。
 そんな兄妹の様子を楽しそうに見た後、サフィはクッションで遊ぶ子供に声をかけてやる。
「クロはこの一ヶ月どうしてたんだ?」
「んっとねー、ずっと海見てた」
「そっかー変わんないなー」
 あははと声を上げて笑いあう二人を見て、メリカが控えめに言う。
「確か、港町で水夫に拾われたのでしたか」
「そうだよー。その水夫と契約できればよかったんだけどね」
 残念そうに首を振るクロに、サフィもしみじみ言った。
「欲のない水夫さんだったんだな」
「「ついでに運もなかったらしいが」」
「カラ、サラ、不謹慎ですよ」
 呟く双子を、メリカが控えめに嗜めた。同時にタムが二人を睨み、双子は無言で肩をすくめる。
 クロは歳に似合わぬ深いため息を吐いた。
「けどほんとさあ、運がないって言うか……。何で船が沈んだりするかなあ。しかも水夫に拾われて三日もしないでだよ? おかげでずうっと海の底だよ」
「……水の中なのは、俺も同じだが」
「けどタムは、その司祭さんが死んじゃえば次の場所に飛べるでしょ? ボクこれどうしようもないんだけど」
 はああと重い息を吐く子供に、メリカが困ったように微笑んだ。
「確かに、三百年というのはさすがに長いでしょうね」
「長いなんてもんじゃないよ」
 拳を固めて言い募るクロを、双子が冷ややかに見下ろす。
「良い休息だ」
「むしろお前は一生そうして沈んでいろ」
「「それが全人類のためだ」」
「そんな言い方ないじゃないか! ボクだって早くみんなみたいに人の願い叶えたりしたいのに」
「どの口が言うかこの外道が」
「邪悪が」
「「悪鬼羅刹が」」
「酷いよお! 二人とも、ボクのこと何だと思ってるのさ」
「「人でなし」」
「当たり前じゃないか!」
 やいのやいのと言い合う三人を見て、サフィは楽しく思いながら笑った。
 厳しいが責任感のあるタム、おっとりと優しいメリカ、立て板に水を体現したような双子、悪戯好きなクロ。
 彼らは皆、サフィと目的を同じくして生み出された指輪の魔人だ。
 月に一度、近況と、各々に課せられた魔力の残量について報告し合うために彼らはこうして一堂に集う。
 示し合わさずともこちらから誰かに会いに行くことは可能だが、やはりこうして皆で談笑するのは格別に楽しく、嬉しい。
「やっぱ、仲良いよなあの三人」
「ええ、本当に。ですから兄様、止めないでくださいね」
「お前たち……」
 サフィの右でメリカも同じく楽しげに言い、左に座るタムが頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てる。
 そんな兄に笑いかけ、メリカは賑やかな掛け合いを見守るサフィに声をかけた。
「サフィは今どうしています?」
「俺? 俺はまた契約できたよ。クロより少し大きいくらいの女の子。今二つめまで願い事きいたんだ」
「まあ……」
 曖昧な相槌を打つメリカの頭越しに、タムがサフィに視線をよこした。
「……女の子か」
 気がつけば双子とクロも言い合いを止め、じっとサフィを見つめている。
「「また、か」」
「ねーねー、それどんな子?」
 カラとサラが意味深に呟き、クロが興味津々といった風に身を乗り出した。五対の瞳が唐突に向けられたことに目を丸くしていたサフィは、はっとしたように子供の質問に答える。
「どんなって……おとなしい子かな」
「へー。メリカとどっちがかわいい?」
「比べられないだろ。その子もメリカもどっちもかわいいよ」
 真顔で褒められたメリカがまあ、と微笑んで頬に手を当てた。対照に、タムは肩を怒らせる。
「サフィ! 貴様、妹を口説くな!」
「え、今のってそうなんの!?」
 怒鳴るタムにサフィが慌て、メリカが兄を制そうとしているがさほど効果はない。
 見守りながら、年少組は呟くように意見した。
「「こちらはこちらで話が進まんな」」
「メリカが絡むともうね」
 大変な剣幕のタム、微笑むメリカ、やれやれと首を振る双子、頬杖ついて見物するクロ。

 その中心で必死でタムに弁解していたサフィの言葉が、ぴたりと止まった。
 焦りの色が引き、瞬間真顔になったサフィにタムも思わず口を閉ざす。
「――悪い、呼ばれた」
 皆が注目する中、あっけらかんとした口調で言ったサフィの姿が、次の瞬間音もなくかき消えた。
 後にはメリカが出したクッションだけがそのまま残されている。
「……行っちゃった」
 一人減った空間を見つめ、クロがぽつりと呟いた。
「「主人か」」
「だろうな」
「えー、まだ始まったばっかりだったのにぃ!」
 双子の言葉にタムが頷く。納得している様子の彼らに対し、クロは不満げに頬を膨らませた。
「つまんないや。無視しちゃえばいいのに」
「「無理を言うな」」
「だってさあ!」
 声を荒げ、クロはふて腐れた様子でクッションを抱え込んだ。それが無意味な駄々であることは承知していても、気持ちが治まらないらしい。
 そんな子供を無表情に見つめていた双子は、やがて同時にふうと息を吐いた。
「「……俺たちの現在の契約相手は、男だ」」
「…………」
 唐突に語り始めた双子を、クッションの隙間から子供が見上げる。
「願いは何かと聞けば、金に困っていたらしくてな」
「開口一番『ありったけの金をよこせ』だ」
「「なので、周辺の金属を魔法の及ぶ限り全て、男の目の前に集めてやった」」
「……へえ」
 子供が口の端に笑みを浮かべる。輝き始めた瞳に見つめられ、双子は話を続けた。
「何しろ、日用品から建築材まで全てだからな。凄まじい音がした」
「あと、男がいた建物も崩れたな。鉄筋を抜いたから当然だが」
「ははは、いいねそれ。 ねえねえ、その男どんな顔してた? て言うか、生きてた?」
「無論。ほこりまみれになって、しばらく放心していたが」
「正気に返ったと思ったら、元に戻せと怒鳴るのでな」
「「なので二つ目の願いとして聞き入れた」」
「あっはっは! 最高、ボクもそこにいたかったぁ」
 高く声を上げて笑い、いつの間にか機嫌を直した子供はすっかりくつろぐ姿勢になって双子に更なる話をせびっている。
 双子の話が淡々とした語り口調に反す物騒なものになっていき、それを聞く子供が心底愉快そうに笑う。
 その光景を形容しがたい眼差しで見るタムへ、メリカがそっと声をかけた。
「兄様」
「……ああ」
 ふう、とタムが苦虫を無理やりの見下したような息を吐く。兄が拳を振り上げる前に解いたことを見届け、メリカは優しげに微笑んで年少の三人を見つめた。
「クロの機嫌が直ってよかった」
「……持ち直す要因が悪趣味だが」
「性分なのでしょう。気になさらないことです」
 微笑んだまま、メリカはさらりと言う。複雑な表情で口を閉ざしたタムは妹の、ところで、と言う言葉に再び彼女を見た。
「サフィは大丈夫でしょうか」
「あいつが?」
 いぶかしげに返すタムに、メリカははいと頷く。
「サフィは女難の方ですから」
「……メリカ、それは冗談か?」
 呆れた声に、メリカは小首を傾げてただ微笑む。
 タムは先ほどとは別種の息を吐き、視線を妹から、悪趣味な話をエスカレートさせる年少組へと移した。
 どう止めるのか考えているらしい兄の横顔を年少組へ向けるそれとよく似た眼差しで見、メリカはふと、先ほどまでもう一人の仲間が座っていた席へ視線を向けた。
「……また、落ち込んでしまうような終わり方をしなければ良いのですが……」
 自らが作り出した幻の月に照らされて、紫水晶の指輪の魔人はそう呟いた。

 呼び声を感知し反応するまでには、瞬き二つほどの時間を必要とした。
 置き去りにしていた身体に意識を戻したサフィは、目を開くと顔を左に向けた。
 ガラス戸を開けた香が、ベランダに半身を乗り出してサフィを見上げている。
「御用?」
 サフィは微笑んだ。
「……そこ、暑くないの?」
 静かな目でサフィを見ながら香が聞く。唐突な言葉にサフィはきょとんとする。
 実際、この街は夜になっても熱気がたちこめている。肌に触れる気温を感じることはできるから、サフィは正直に頷いた。
「暑いよ」
「…………」
 香はしばし無言でサフィを見ると、ゆっくりとした口調で話しかけてきた。
「……柚原さんがね、リモコンの電池気付いててくれて、変えてくれたの」
「エアコンの? そう言えば、姫さんがお風呂にいってる間にいじってたっけ」
「うん。だからね、もっと涼しくとかもできるから……」
「え、もっと下げるの? あんまり涼しくしたら風邪ひくよ」
 室内から流れる冷気を感じながら、サフィは目を軽く見張って香に言った。
 香はまた少し黙ってサフィを見つめる。
「サフィは暑くないの?」
「暑いよ」
「……部屋の中、涼しいよ?」
「そうみたいだね」
「…………」
 素直に頷くサフィに、香はすぐには言葉を返さなかった。
 見つめあうことしばし、沈黙を不思議に思い始めたころ、サフィは何となく、香が困っているように感じた。
 だがその原因を考える前に、香はぱっと身を翻して部屋の中に戻って行ってしまう。ガラスも閉ざされ、足元に流れる冷気も途絶える。
(……暑くなったのかな?)
 冷気が満ちた部屋で、更に室温を下げようと言っていた香だ。暑さに弱いのかもしれない。
 胸の内でそう納得し、サフィは狭い夜空を見上げた。
 途中で抜け出てきてしまったが、皆の集まりに戻るべきだろうかと考える。
 そう言えば、香に呼ばれた理由を聞いていないと思い至ったとき、再びガラス戸の開く音がした。
 そこにいたのは、やはり香。
 先ほどと違うのは、彼女が大きな本を抱えていることと、ベランダのサンダルに足をかけたことだ。
 冷えた空気の漏れる戸を閉め切って、香はその戸に背を預け、大きな本を広げ空を見上げた。
 サフィには一言も声をかけず、一瞥もくれない。
「……姫さん、何見てるの?」
 二つ並んだ沈黙の後、先にそれを破ったのはサフィだった。
「星座」
「星座?」
「観察しなきゃいけないの。夏休みの宿題だから」
 サフィの顔を見ないまま言って、香は空を見上げ続ける。サフィもそれを追って空を見た。
 障害物はあるが、良く晴れた空にはそれなりの星が見える。だが、そっと覗き見た香の広げる本の星座は、この位置からは見えないようだった。
「姫さんそれ、白鳥座ね、ここからじゃ見えないよ。反対側行かないと」
 ページの箇所を指さして指摘すると、香はサフィの顔をちらりと見上げた。指先を見、空を見、またサフィの顔を見る。
「反対側はだめ。お向かいさんがいるから」
「じゃあ、屋根がないところなら見えるよ。屋上とかないの?」
「あるけど、鍵があるから入れないよ」
「俺なら入れるよ」
 香が無言で瞬きをした。
 サフィが笑って右手を差し出す。。
「鍵があったって、俺には関係ないよ。星が見れないと宿題ができなくて、姫さん困るでしょ? なら、それをどうにかするのは願い事の内だよ」
「…………」
 迷うような間を挟んで、だが香は本を胸に抱き、差し出されたそれにそっと自分の手を乗せた。小さな手を、恭しくサフィは握る。
 静かな眼差しが、今は違う色を含んでサフィを見上げた。
「どうするの?」
「飛ぶ」
 笑って言い放つと同時、サフィは自分と香を包むように、浮遊と人の目を遮る魔法を使用した。
 足が唐突に床を離れる未知の浮遊感に、香は小さく声を上げてサフィの腕に縋った。反射的な動作に取り落とされた本は落ちず、彼女が手放した位置にそのまま漂っている。
 床から拳一つの高さに浮き、無言の香の手の力が変わるのを感じてから、サフィは一息にベランダの外へ飛び出た。
 足元に何もないまま上昇することに、ぎょっとしたように香が一瞬身を固くする。
 思わず小さく笑い声を上げそうになって、サフィはどうにかそれを表情だけに抑えた。
「落とさないから、大丈夫」
 笑って言うサフィに香は固い動作で小さく頷き――そして、夜もなお明るい街を見下ろしながら、小さく呟いた。
「……飛んでる……」
「うん」
 こちらを見ない香に改めて笑いかけて、サフィはじきに終着を迎える壁を見上げた。
 これを超えれば、そこは夏の星の下だ。
「姫さんほら、白鳥が見えるよ」
 言うサフィの腕の中、少女の頭が動くのを感じながら、魔人とその主人は最上階を飛び越えた。

2011/05/19(Thu)23:08:57 公開 /
■この作品の著作権は流さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
読んでくださってありがとうございました。
流と申します。
何年か前に一度、ゆうじという名前で投稿させていただきました。
またこちらにお世話になります。よろしくお願いします。

5/19
冒頭の文章を修正。
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