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『奇跡的な日常 «短編集» 』 作者:ケイ / リアル・現代 未分類
全角20840文字
容量41680 bytes
原稿用紙約62.65枚
進路とか将来とか、そんな小難しい話を真剣な表情になって語り合うわけでもない。本当に何でもない話を、ただただ毎日話して、笑い合う。本当にただそれだけのこと。それなのに、この時間がもの凄く楽しくて、もの凄く大事なことのような気がする。
 
 1. ガムの日


「あれ、珍しい」
 並んで駐輪場へと向かっていた俺とコータを見つけて、同じクラスのヨシが驚きの声を上げた。
「今日は二人乗りじゃないの?」
「おう。俺のチャリが復活したからな」
 手に持っていた鍵をチャラチャラと振り回して、コータがニヤリと笑う。コータのチャリは、何年も乗り回して相当ガタが来てたらしく、ここ一ヶ月の間修理に出していたのだ。
「シュウもよかったね」
「ようやくタクシー運転手から解放されるよ。そんじゃあ、また明日な」
 チャリを修理に出している間、コータは俺と家が近いという理由で、よく俺と二人乗りをして帰った。そんな光景が一週間も続くと、いつの間にか俺には「タクシー運転手」なんて不名誉なあだ名が付けられていたのだ。
 笑いながら俺を見るヨシに、俺は苦笑を返しながら軽く手を振った。
 駐輪場にあるコータのチャリは、新品の様にピカピカになっていた。修理といっても、ガタが来てる部品を交換するだけだから、そんなに驚くほど見た目が変わることはないはずなのだが、これだけ部品を取り替えられたということは、以前のコータのチャリは毎日生死の境を彷徨っていたのだろう。
 随分前にお土産で貰ったミッキーのストラップが付いた鍵を差し込み、三十度ほど右に捻る。カチャンと小気味よい音をたてて、俺のチャリの鍵が外れた。チャリのかごに引っ掛かってる隣のチャリのハンドルをどけ、パズルの様に複雑に絡み合ったペダル同士を引き離す。帰る前の恒例行事の様になったそれを終え、俺は学校指定の紺色の鞄をかごに放り込み、サドルに跨った。俺の自転車は、真夏の西日がピンポイントで差し込む場所にあったせいで、サドルが結構熱くなっており、俺は朝の俺自身を軽く呪いながら、コータより一足先に校門へ向かおうと、グッとペダルに足を掛けた。


 七月の夕方というのは、何とも過ごし辛い。これから連日の様に続く猛暑の予行演習の様に、太陽は傾き始めてもまだまだ元気一杯だ。ジッとしてるだけで汗がジトッと出てくるし、風を浴びるために猛スピードでチャリを走らせても、家に着いて止まった途端、体中から汗が噴き出す。
 お前はもう十分働いたよ。だから少し休めって。
 そんな言葉を、誰でもいいから太陽に届けてやって欲しい。こんな調子だから、十二月や一月になると途端に元気が無くなるんだ。
 そんなくだらないことを考えながら、いつもの広い国道を走っていると、横に並んだコータが俺に声を掛けた。
「シュウ、知ってる?」
「知ってる」
「嘘つけ」
 何気ない調子でこんなやり取りをした後、コータは本題に入る前に大きな咳を、一つした。俺は反対側の歩道にある、コンビニの幟に書かれている、ベルギー産のチョコを使ったアイスクリームを食いてえなぁとしみじみ思いながら、今から話し出そうとしていたコータに声を掛けた。
「なあ、アイス食わねえ?」
 コータは数秒前に通り過ぎたコンビニを振り返ってから答えた。
「却下」
「どうして?」
「俺、今月ピンチだもん。奢ってくれんならいいよ」
「それは却下。どうせ、カラオケとゲーセンでバイト代全部使ったんだろ」
 コータが「最近伸びたなー」と言いながらよくいじっているコータの髪の毛をぼんやりと眺めて、俺はそう言い返した。そう言ってから、あのアイスがいくらぐらいだったかを思い出してみた。たしか、一つ二百円以上はしたはずだ。二人合わせて約四百円の出費。帰宅部のくせにバイトもしてない貧乏学生の俺にとって、一日で四百円は、なかなか痛い。
「俺のガムやるから、それで我慢しろよ」
 コータは制服のポケットからガムを取り出し、片手だけで器用に一粒だけ俺に渡した。俺は短く礼を言って、右手だけで銀紙を広げた。そこにあったのは、黒い粒。ガムって、もうちょっとおいしそうな色してなかったっけ? そんな疑問を、ガムと一緒に口に放り込む。噛むと、表面の硬い部分が砕ける音が頭蓋骨に響いた。それから、甘いとか苦いとかの感覚よりも強く、辛いという刺激が俺の口と脳を支配した。
「辛っ!」
 そう小さく叫び、コータを見ると、ケラケラと楽しそうに笑ってやがった。この野郎、俺がこうなんの楽しもうとして渡しやがったな。何か一言言ってやりたくなったが、あまりにも辛くて、息を吸うだけで口の中がスースーする。
「これ、この間出た新作。テスト勉強なんかのときに、役立つぜ」
 お前がテスト勉強なんかするわけないだろう。どうせ、あちこちの友達に食べさせては、その反応を楽しんでいるだけのくせに。
 俺がそう言おうと思ったとき、背後からチャリのベルが鳴る音が聞こえて、道を開けた俺たちのすぐ横を、エコバッグからネギとゴボウをはみ出させたおばさんが勢いよく通り過ぎていった。俺は、点滅し始めた青信号に向かうコータに遅れないように、暑さと辛さによる苛立ちをパワーに変えて、力を込めてペダルをこいだ。

「なあ、さっきの続きだけど、知ってる?」
 くだらない話を一通り話し終えたところで、コータが再びそう言った。太陽は、まだまだ俺たちの背中に強烈な西日を浴びせていた。俺はふらふらと、建物や電柱の影から影へ、渡り鳥の様に進みながら返事をした。
「知らない」
「アキに、彼氏できたんだってさ」
 汗が目に入り、俺は瞬きを繰り返しながら目を擦った。
「マジで?」
 ただの噂か事実か確かめたくて、俺はコータにそう尋ねた。
「マジ、マジ」
 コータは否定する素振りも見せずに、ジッと正面を見たまま何度も頷いた。別に段差に引っ掛かったわけでもないのに、俺のチャリがぐわんと揺れた。
「相手は?」
「さあ、よく知らんけど、三組の誰かだって。バスケ部らしいよ」
 バスケ部ならあり得るかもな。
 バスケ部とサッカー部には、俺たちの学年の一番派手な連中が集まってるから、自然と女子の人気も高い。そんな中の一人とアキが付き合ったとしても、何ら不思議はない。
「へえ」
 俺はそう答えて、まだ微かに味が残っているガムを噛んだ。
「勿体ねえな。シュウって、アキと中学からの知り合いだろ? うまくいけば付き合えたかもしれないのに」
「どうしてそうなんだよ?」
「だって、そんなに目立ってないけどアキって結構可愛いだろ? 密かにモテてたみたいだぜ。それにそれ、アキから貰ったやつなんだろ?」
 俺のチャリのサドルの下辺りで揺れているミッキーのストラップを指差して、コータはそう言った。確かにこれは中学の頃、夏休みのお土産でアキから貰った物だ。
「どうしてお前がそんなこと知ってんだよ」
「お前と同じ中学のマサに聞いた」
 コータの言葉を聞いて、マサの坊主頭が脳裏に浮かぶ。
 あの野郎、明日会ったら、思いっ切り引っ叩いてやる。
 辛さや苦味にも慣れ、ほとんど味が無くなったガムを銀紙に吐き出し、丸めてポケットに押し込む。何か甘い物が欲しくなって、やっぱりさっきのアイスを買っておけばよかったと後悔した。周囲を見回しても、他のチェーンのコンビニばかりで、さっきの店はどこにも見当たらない。
「よかったのかなぁ?」
 どこか楽しげな表情で尋ねるコータに、投げやりな言葉を返す。
「別にいいんじゃね? 俺に関係ないし」
 アイスを食べられなかったせいか、五時を過ぎてもジリジリと照り付ける太陽のせいか、何故だか楽しそうなドSなコータのせいか、苛立つ心を抑えるために、さっきの強烈なまでに辛いガムが恋しくなり、俺は信号待ちで止まってるコータの頭を叩いてから手を差し出した。
「さっきのガム、もう一個」
 コータは「何? 気に入った?」と言いながら、さっきと同じ様に片手で一粒だけ取り出して、俺に渡した。俺はそれを口に放り込み、思いっ切り噛み締めた。ガリッという音と共に信号が青へと変わり、今度は、さっきよりも強烈な苦味と辛さが、俺の全身を支配した。
 やっぱり今日は、こっちでいいか。


 
 2. 奇跡的な日常

 
 十一月って、秋なんだろうか? それとも冬なんだろうか?
 そんな疑問を、築十四年の我が家の玄関前で感じた。一週間ほど前から使い始めたマフラーに覆われていない顔と両の手のひらに、ピンと張り詰めた様な冷気が突き刺さるのを感じて、僕は大きく息を吐いた。たしか、さっきの天気予報では今日から一気に気温が下がるとか言ってたっけ。
「テスト期間終わったから、今日から朝練あるって言ってたじゃん!」
 勢いよく開けられた扉を紙一重でかわしながら振り向くと、スニーカーの踵を踏んだままの弟が飛び出してきた。
「あっ、兄貴。ちょっと邪魔」
 僕の横を通り抜け、数年前まで僕が通っていた中学校へと続く通学路を全速力で駆けていった。僕はその様子を、マフラーに顔を埋めたまま、ただじっと見ているだけだった。
「もう、本当に……あら、そんなとこで何してるの?」
 弟が散らかしていった家族の靴を直しながら僕を見つけた母さんは、不思議そうにそう言った。
「いや、別に。それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 玄関横に置いてある自転車に跨り、僕は弟とは逆の方向へと向かった。

「七時三十四分発――」
 駅のすぐ横の駐輪場に自転車を置き、駅の中を通り抜ける僕の耳に、アナウンスの声が響く。決して広いとは言えない駅の中は、通勤通学のために電車を利用するスーツ姿や制服姿の人間で溢れていた。そんな人の波を、両手をポケットに突っ込んだままスルスルと通り抜ける。カイロを忘れたことに少しだけ苛立ちながら、手袋をしないで自転車をこぎ続けて冷たくなった手で拳を作ると、ピリリと鋭い痛みが走った。
 そういえば、僕が学校のではなく駅の駐輪場を使うようになったのはいつからだろうか? 去年の今頃にはもうこっちを使ってた気がする。僕がこっちに自転車を置く理由は主に二つある。一つは、学校の友達と近くのゲーセンに遊びにいったりするときは、こっちの方が都合がいいからだ。もう一つは――
 ぼんやりと考えていた僕の左肩を、誰かがトントンと叩いた。反射的に左に振り向くと、ひんやりと冷たい何かが、僕の頬をギュッと押した。
「成功」
 目を輝かせて、嬉しそうに笑いながら彼女は僕の頬を押していた人差し指を引っ込めた。僕よりも頭一つ分身長が小さくて、女子というより少年に近い容姿や顔立ちをしていて、それこそいたずらが成功して喜んでいる子供の様な彼女を見ていたら、「小学生かよ」なんて台詞は、僕の体の奥深くに潜っていった。
「何?」
 特にこれといったリアクションもせず、ただ苦笑いをしているだけの僕を見上げて、彼女はそう言った。
「別に……おはよう」
「おはよ」
 そう言って、二人で並んで歩き出す。駅から学校までは歩いて約十分。平坦で寒々しい道を、ゆっくりと進んでいく。別に付き合ってるわけでもないし、片思いってわけでもない。高校三年生だからって、進路とか将来とか、そんな小難しい話を真剣な表情になって語り合うわけでもない。本当に何でもない話を、ただただ毎日話して、笑い合う。本当にただそれだけのこと。それなのに、この時間がもの凄く楽しくて、もの凄く大事なことのような気がする。今はまだぼんやりとしていてよくわからないけど、きっと十年二十年経ったとき、僕と彼女はこの短い短い十分を思い出して、「ああ、青春だなあ」なんて感慨に耽るんだろうか。
「寒いな」
「うん、寒い」
「今日から一気に寒くなるって天気予報で言ってた」
「たしかに。ほら、私の手、キンキンだもん」
 そう言って彼女が差し出した小さな手は、綺麗に赤くなっていた。
「電車で来たくせに、よく言うよ。絶対僕の方が冷たい」
「だって手袋しないからじゃん」
「手袋すると、感覚が鈍って自転車のブレーキが上手くできないんだよ」
「厚手のやつだからじゃない? 薄くて暖かいのも探せばあるでしょ?」
「面倒臭い」
「馬鹿」
 今年の夏に買ったスニーカーがアスファルトに接する度に感じる、足の裏のひんやりとした感覚を少し楽しみながら、僕たちはのんびりと足を動かし続ける。ポケットの中の手はまだまだ冷たくて、制服と擦れて少しだけ痛かった。
 こんな日常が、もう一年以上続いてる。だけど僕たちはもう三年生で、あと数ヶ月もすれば卒業だ。つまり、この朝の十分間も、あと数ヶ月で終わりということになる。
 以前、「僕らが生まれる確率は何億分の一」なんて言葉をどこかで聞いたことがある。そんな風にして生まれた僕と彼女が、同じ高校に通い、同じクラスになり、毎朝十分間の散歩を楽しむ。こんな奇跡に近い日々が、あと数ヶ月で終わる。寂しい、というほどのことでもないし、残念なわけでもない。ましてや、ずっとこんな毎日が続いてほしいって願ってるわけじゃない。僕らは卒業して、それぞれの道を歩き出す。その先でまた、彼女と出会った様に、奇跡的な出会いがあるのだろう。そして、ついこの間までの奇跡的な出会いを忘れてく。
 そう考えていたら、そんなことないと思っていたのに、何故だか無性に寂しくなって、彼女が擦り合わせながら自分の息で温めている両手を見ながら、思い付いたことをそのまま口にした。
「ねえ」
「ん?」
「握手、しよ」
「どうして?」
 首を傾げる彼女。僕は右手をポケットから出し、彼女に差し出す。彼女は丸い瞳で僕をジッと見つめたまま、同じ様に右手を差し出した。僕は彼女の右手をゆっくりと握る。芯まで冷え切った僕の手では、彼女の右手がどの程度冷たいのか、全くわからなかった。
「どう?」
「どうって?」
「どっちが冷たい?」
「……そっち」
「ほら、僕の勝ち」
 不服そうに僕を睨みながら、彼女は唇を少しだけ尖らせた。僕は小さく笑って、再び足を動かし始めた。歩き始めてから三秒後、彼女が少し遅れていることに気付いた。どうかしたのだろうかと思い、振り向こうと思った瞬間、首筋とマフラーの間に、氷の様な物体が差し込まれた。
「わっ!」
 僕は思わず身を捩ってその物体から離れた。その直後、学校指定の鞄をリュックの様に両肩に掛けた彼女が、僕の目の前を走っていった。そこでようやく今の物体が、彼女の手だったということがわかった。鞄を上下に激しく揺らしながら走っていくその後姿が、遅刻しそうな小学生に見えて、僕は首の冷たさも忘れて思わず笑ってしまった。
「明日も勝負だからね!」
 校門の前で振り返って大声でそう叫ぶ彼女。
「何の?」
「手の冷たさ」
 その答えに、僕はもう一度笑ってしまった。
 そう、彼女との奇跡的な日常が終わりを告げるのは、もう少し先のことだ。
 そして、ゆっくりと噛み締めるように呟いた。
「うん、また明日」


 
 3. ビフォア・バレンタイン 


「こんな毎日、つまんねえよな。もっとこう、刺激のある生活を送りたい」
 たまに聞く言葉だ。それを言った奴の毎日がどんなものか知らないし、知りたいとも思わない。ただ言えるのは、こんなことを言う奴は大体学生で、マンネリ化した日々に嫌気が差してつい口にしてしまったのだということだ。
 青春。青い春と書いて青春。国語辞典によれば、人生の春にたとえられる時期らしい。つまり、人生の絶頂期、一生の内のピークの地点を生きている奴が、「毎日がつまんない」なんて言葉を発していることになる。なんと贅沢なことだろう。今過ごしているマンネリ化した日々を抜けると、あとは下り坂しか残っていないかもしれないというのに。
 それでも、そんなことを言う奴の気持ちが全くわからないわけでもない。確かに、高校で部活に所属してない生徒は、今日が昨日と同じで、明日は今日と同じだと感じてしまうだろう。毎日毎日、朝から夕方まで授業を受けるだけの繰り返し。マンネリ化してしまうのも、わからないでもない。
「こーうーきー」
 間延びした声が俺を呼んだ。教室の真ん中の一番前に座りながらも、声だけで誰が名前を呼んだのかはわかった。本郷雅史«ほんごう まさし»。俺と同じ十六歳。いや、雅史の誕生日は来月だから、まだ十五歳か。とにかく、同じクラスでなかなか運動神経の良い奴だ。これでまあまあのイケメンだったなら、それなりに女子の人気も獲得していただろうに。残念ながら、雅史の顔はお世辞にもイケメンとは言い難いものだった。顔のパーツが、全体的に細い。唇と鼻はスッとした感じで悪くないのだが、細い眉のしたにある糸目のせいで、狐を彷彿とさせる顔になってしまっている。まあ、そんなことを思ってる俺も、人様に自慢して見せられる程の顔を持ち合わせているわけでもない。
 俺の顔は、簡単に言えば地味だ。教科書の挿絵にでも出て来そうな髪型と、平均的な身長と体重。面白味にかける顔のパーツ。いつも鏡で自分の顔を見ると、よくもまあここまで平凡な奴を神様は作ったもんだと感心する程だ。
「聞いてんのかよ?」
 野球部でライトを守っている雅史は、真っ黒になったニキビだらけの顔を俺に近付けながらそう言った。正直言うと、聞いてない。雅史の話は大概くだらなくて、真面目に取り合う必要性のないものばかりだからだ。そんな雅史が、出会ってから十ヶ月程の俺が見たこともないような真剣な面持ちをしていたので、つい俺も姿勢を正して聞き直してしまった。
「ごめん、何?」
「今日何日だ?」
 今日? そんなことをこんな顔して聞きにきたのか。どこまでもふざけた奴だ。日付ぐらいなら、お前の左斜め後ろ一メートルのとこにある、一日の予定が書かれた黒板を見れば話が早いだろうに。
 俺は邪魔になっている雅史の体を避けるために、上半身を右にずらして黒板を見た。黒板には日直のお手本の様に整った字で、二月一日と書かれていた。そうか、もう今日から二月か。月日が経つのは早いもんだ。
「二月一日」
 ぶっきらぼうに答えたつもりなのだが、雅史は案の定そんなことには気にせずに、まるで悪の組織の手下の様な笑みを浮かべた。今は我が校指定の紺のブレザーを着ているからまだしも、もし深夜にジャージか何かを着てこんな笑い方をされたら、俺は間違いなく逃げるね。全速力で。
「そう、二月」
 うん、二月。それがどうしたー? まさかあれか? 実は今日、俺の誕生日なんだよね、みたいな? そういう感じのやつ?
「二月と言えば?」
 何なんだよ。さっきから俺に聞いてばっかじゃねえか。俺がお前のニヤニヤの理由なんて知るわけがなかろう。
「降参」
 突っ伏した机は冷たくて、俺は僅か三秒で顔を上げた。雅史は仕方ない、といった顔で答えを言った。
「バレンタインデー」
 なるほど。最近雅史が浮かれていた理由はこれか。確かに、男子なら誰もが淡い期待を抱く日。その日を境に、まさに青春を謳歌し始める奴もいれば、「別にチョコなんていらねーし。俺、そんなに甘い物好きじゃないし、もし食べたかったら自分で買って食うよ」なんてことを言いながら、「チョコが欲しい」という顔をしてるのが傍目からでもわかる程無理する奴もいるし、誰もが「お前は義理も貰えねえだろ」と言いたくなる奴が、ソワソワしながら机や下駄箱を覗き込んでいたり、まあなかなか人間観察には面白い日だと、俺の様に冷めた視線を送る奴もいる。とにもかくにも、バレンタインとは一方的に男子がソワソワするだけの行事であって、当の女子たちはその裏で、わりとあっさり本命チョコを渡していたりするのだ。そんなバレンタインに期待を寄せる雅史もまた、十四日の夕方に真っ白に燃え尽きているタイプであろう。
「なるほど、それで?」
「それで? それでじゃねえよ!」
 やたらと大声を出すな。あんまりがっついているのがバレると、赤っ恥をかくことになるのはお前だぞ。  
「チョコを貰う!」
 これまたシンプルな目標だな。つまり今日から二週間、お前はそんな目標を掲げて学校生活を送るわけか。無駄な二週間になりそうだな。
「それで? 好きな人でもできたのか?」
「いや、別に」
 はあ? それじゃあ、バレンタインで誰からチョコを貰うつもりなんだお前は。好きでもない人からチョコ貰うのが、そんなに嬉しいもんか? ま、まあ俺だって健全な十六歳だ。確かにそれなりの女子からチョコを貰えれば、たとえ義理だろうと多少浮かれてしまうのもわかる。それでも、誰でもいいからチョコが欲しいなんて、そんなふざけた目標でいいのかよ。
「何だよそれ。じゃあ、どうしたいんだ?」
「何言ってんだよ。バレンタインってのは、男たちの意地とプライドを懸けた真剣勝負なんだぞ。義理でもいいから、他の男子よりも多く貰うことが重要なんだよ。弘毅君」
 いつからバレンタインはそんなくだらない勝負事になっちまったんだ? バレンタインといえばもっとこう、幼馴染の女子が照れながら本命チョコをくれたり、普段は目立たないお淑やかな女子が、放課後に中庭に呼び出してチョコを渡したり、なんて理想が俺の中に存在しているのだが。
「なるほど、勝手に頑張れよ」
 確かに俺もチョコは欲しいのだが、正直な話、バレンタイン当日の二週間前、人の好感度なんて今更どうこうできるものでもあるまい。今からカッコいい男を演じてみたとしても、それこそ女子に「チョコ狙ってるの〜?」みたいな冷ややかな視線を浴びせられることは保証済みだろう。
「馬鹿。お前もだよ」
 冗談じゃない。俺は女子に心の中で笑われてまで、チョコを貰おうとは思わないぞ。それこそ、さっきお前がいったように、俺にだって意地とプライドがある。特に何もせずとも、きっと義理チョコの一つや二つぐらい貰えるさ。
「勝手にやれよ」
「うーん。じゃあ、弘毅は俺の手伝いでいいぞ。俺がチョコを多く貰えるよう、協力してくれ」
 ふざけるな……何てことを言ってもよかったのだが、なんせ俺も暇である。まあ、協力してやってもいいだろう。一応、俺も文学部なんていう部活に所属してはいるのだが、ぶっちゃけるとあんまり参加していない。俺たちの高校では、基本的にどこかの部活動に参加しなければならないため、俺は仕方なく一番楽そうな文芸部に入部したのだ。女子も多そうだったし。
「それで? どうすりゃいいんだ?」
「ターゲットは決まってる」
 ターゲットねえ。いつからバレンタインは、男子が女子を狙い撃ちをするイベントになったんだ? 頼むから、お前と密接な関係をもつ女子を選んでくれよ。あくまで俺は暇潰しのつもりで参加しているんだ。あんまり骨の折れるようなターゲットはご免だ。
「西野沙織«にしの さおり»」
「へ?」
「だから、西野沙織だよ」
 いやいやいやいやいや、これはマジで冗談じゃねえ。お前、自分で何言ってんのかわかってんの? あの西野だぞ? それこそ入学から僅か十ヶ月経った現在、数多の伝説を残してきた西野だぞ。鉄壁なんてレベルじゃねえ、難攻不落とはまさにあいつのことだ。
「……冗談、だよな?」
 いや、冗談のはずだ。冗談しかあり得ない。冗談であって欲しい。そんな俺の思いを知ってか知らずか、雅史はこう答えた。
「いや、本気」
 生まれてから十六年四ヶ月と十二日。ここまで「ふざけんなー!」と叫びたくなったのは初めてだ。俺は雅史を何とか説得するために、西野の数々の伝説を思い返してみた。
 伝説その一。圧倒的な容姿。西野はものすごーく簡単に言えば、美少女である。しかし、そのレベルの高さが桁違いなのだ。そこらにある二十四時間営業のコンビニに並んでる、ファッション雑誌の表紙を飾ってるモデルなんて、ただの厚化粧のお姉さんに見えてくる。西野は化粧なんかする必要がない程に、完璧な顔立ちなのだ。眉は、自然と綺麗なラインを描いており、その下には二重の程よくパッチリとした目がある。その目の丁度真ん中を、スッとした鼻が通っている。更に、少し細めだけど女性特有の丸みも帯びている唇。あんまり書くと、まるで俺が西野を毎日観察しているように思われそうで怖いのだが、クラスの男子どころか学年のほとんどの男子が、憧れの様なものを西野に抱いているのだ。
 伝説その二。告白された回数。半分噂も混じっているため、少々信憑性に欠ける部分があるのは否めないが、それでもそれなりには事実に基づいているらしい。まず、同じ学年だけでも男子が十二人。女子が三人。男子はわかるが、女子の告白というのは……まあ想像にお任せする。そして上級生も含めると、男子も女子も合わせて総勢二十一人!! 末恐ろしいのはこれだけではない。衝撃的なことに、西野はこの二十一人の告白を、全て断ったというではないか! その中には、かなりのイケメンも混じっていたらしいのだが、ここまでの告白を断る西野の本心を知ってる者は誰もいない。 
 伝説その三。とんでもないお嬢様、らしい。らしい、というのは、この伝説はあくまで噂に過ぎないからだ。話によれば、家の敷地は学校のグラウンドと同じくらい。高級外車を三台持っていて、家にはメイドや執事が何人もいるらしく、そして何軒もの別荘を持ってるらしい。更には、外出するときは常にSPが西野を護衛しているなんて話もあるぐらいだ。まあ、この三つ目の伝説のほとんどは誰かの作り話だろうけどな。
「だから諦めろ」
 俺は黙ったまま俺の話を聞いていた雅史の肩に手を置いた。お前のためでもあるが、俺のためでもある。西野から義理チョコを貰うなんて、三年間ベンチを温めてそうなお前が野球部のキャプテンになって四番を打つようになるのよりも難しい。その最大の理由は、西野の性格にある。一学期、たまたま隣だった三浦さんに聞いたことがある。彼女は西野と同じ中学だったため、中学時代の西野の話を聞かせてもらったのだ。 
 西野は、決して性格が悪いわけではない。むしろ良すぎるぐらいだ。話し掛ければ笑顔で答えてくれるし、相手によって話し方や接し方が変わることもない。友達は大切にするタイプらしく、かなりの数の女子から悩み相談を受けていたらしい。無論、それは相手が男子であろうと当てはまることである。ところが、西野は誰にもチョコレートをあげない。中学三年間で、本命はもちろん、義理や最近流行りの友チョコも一個もあげなかったらしい。その理由というのが、何でも「好きでもない人にチョコをあげるのって、あんまり好きじゃないの」とか「日頃の感謝をチョコで表すって変じゃない?」などといったものらしい。この言葉から、西野は義理チョコなるものをあげる気はなく、中学時代は一人も好きな人ができなかったことがわかる。なのだが、西野はさっきも言った通り、誰とでも仲良くする。同じクラスってだけで、普通にあだ名で呼んだり、二人っきりで帰ったりもするらしい。これが数多の男子が自分に惚れていると誤解する最大の理由。
 とまあ、これぐらいが、三浦さんの話とクラスを越えて流れて来る噂から、得ることができた情報だ。
「諦めん」
 やめろよー。頼むから諦めてくれよー。ターゲットが西野だなんて思ってもなかったんだよ。もっと手頃な……同じクラスの栗本さんとかその辺かと思ってたんだよ。
「よりによって、どうして西野なんだよ? もうちょっと貰いやすい人いるだろ?」
「やっぱり馬鹿だな、弘毅」
 お前には言われたくねえ。この間のテスト、俺の半分以下の点数だったくせに偉そうなこと言うんじゃねえよ。
「西野の場合、たとえ義理チョコでも普通の女子の本命チョコ三個分に相当するのだ!」
 ……何が? すいませーん、ちょっと途中の言葉を聞き逃したのか、全く意味がわからないんですけど。
「チョコの価値だよ」
 愛情に価値なんぞ付け始めやがったよ。男の風上にも置けねえ奴だ。女子生徒の皆さんに、こんな奴にチョコなんてあげる必要がないと教えてやりたいね。
「それで? 俺はどうすりゃいいの?」
 そう。ここが重要なのだ。
「そうだなー。まずは俺のことをどう思ってるか、軽く探りを入れてくれ。そうすりゃ、こっちも作戦が練れる」
 ははー。いきなりきっついとこ来んなぁ。同学年という関係以外、全く西野と接点がない俺が、どうやってお前への好感度を引き出すってんだよ?
「簡単だろ? だってお前、西野と同じ文学部じゃねえか」
 ……そういえばそうだった。


 皆本弘毅、十六歳。脱、幽霊部員を目指して、頑張ります!!
 そんなスローガンを掲げて教室を飛び出したのはついさっき。過去に戻れるなら、雅史の頼みを受けたときの俺をぶん殴りたい。ただでさえ西野から情報引き出すのが難しいってのに、その上文学部の部室で聞いて来いっていう無理難題を押し付けられた。
 四階の廊下は、今から部活に向かおうとする生徒でごった返していて、俺はその流れに逆らうようにして階段とは逆方向に向かって歩いていた。文学部の部室は、正確に言うと部室ではない。言ってる俺もよくわからなくなりそうなので、シンプルに言うと文学部の部室は図書室なのだ。我らが唐川高等学校は、なかなか部活動が盛んな学校である。野球部は県大会の常連らしく、サッカー部も、今二年生のユースの日本代表だか何だかを主戦力に全国を狙っているそうだ。そんな中にあるせいか、文化系の部活――特に文学部のように大会やコンテストがないような部活――は風当たりが強く、学校からの部費もあまり多くない。文学部にも部室がないこともないのだが、お世辞にも快適な部室ではない上に、図書室から読みたい本を部室まで運ぶ必要があるので余計に面倒臭い。そこで、文学部員たちは、毎日図書室に集まって活動しているのだ。 
 ところで、文学部がどんな部活かといえば、まあ本を読む部活である。……む、何か語弊がありそうな言い方のような気がしないでもない。別にサボってるわけではない。ただ、本を読むのが文学部の活動内容なのだ。たまーに顧問の先生が来て、この本の要約を書け、みたいなことを言われたこともあった。
 とにもかくにも、居心地はよい部活なのは確かだ。三年生が二人と、一年生が俺も含めて二人。それに図書委員が誰か一人はいるので、いつも図書室には最低五人はいるのだ。皆親しみやすい性格なのだけど、意外に厳しい面もあったりする。それに俺は読書というものがあまり好きではない。別に他にやりたいことがあるわけでもないのだが、小説ぐらいならまだしも、小難しい本はNGだ。そんな俺が文学部に入った理由は、さっき言った通り楽そうだったからだ。
 なんてことを考えている内に、図書室の前まで来てしまった。最後に部活に顔を出したのはいつだっけ? 冬休み明けに一度だけ出たような出てないような……まあいいか。きっと向こうも俺のことはうろ覚えだろうから、普通の図書室利用者として入れば、そんなに違和感もないだろう。
 そう思い、俺は思い切って図書室のドアを開けた。そこにあったのは、以前と何ら変わらない光景だった。本がギッシリと詰まった本棚が並び、茶色いテーブルに整頓されたパイプ椅子がいくつも並んでいる。そしてその内の一つに腰掛けている女子生徒が、顔を上げた。あまりにも綺麗過ぎるその顔は、利用者があまりにも少ないこの図書室において、異質の存在の様に思えて、俺の喉がコクンと音を立てた気がした。
 西野沙織。
「あっ」
 俺と西野の声が重なった。ヤベー。どうしよう? いきなり二人きりになるとは思ってなかった。部活帰りにでも聞いてみようかと考えてたのに。
「弘毅君! 冬休み明けに一回部活に出てくれたから……一ヶ月ぶりぐらいかな?」
 ぐっ。ヤバい。俺も変な勘違いをしそうだ。あんまり会話をしたことのない幽霊部員のことを、ここまで覚えてくれているなんて……正直嬉しいです。
「西野……さん、だよね?」
 この学年において、西野の名前を知らない男子なんているわけないのだが、呼び方の確認も兼ねてそう言ってみた。
「同じ部なんだから、そんな他人行儀にしなくてもいいよ。『さん』なんて付けなくていいから、『西野』か『沙織』って呼んで」
 いきなり呼び捨てだってー!? 流石西野。変な考えを持たずに、ごく自然にこういうことを言ってのけるから、健全な男子諸君は勘違いしてしまうのだろう。
「じゃあ……西野?」
「うん」
 そう言って笑った西野の顔は、もう堪らなく可愛らしかった。ごめん、雅史。俺も義理チョコ欲しいわ。
 あんまりジッと見るのも緊張するので、俺は図書室を見回してみた。さっきは二人きりかと思っていたが、もしかしたら図書委員がいるかもしれない。しかし、どこを見ても人影はなく、やはりこの空間の中にいるのは、俺と西野だけらしかった。
「弘毅君」
 不意に名前を呼ばれて、俺は驚きのあまり飛び出しそうになった心臓を元の位置に戻しながら返事をした。
「ん?」
「とりあえず、座れば?」
 ああ、そういえばそうだ。とりあえず座って、何か本でも読むことにしよう。と思って座って適当な本を開いてみたものの、全く集中できない。何にも考えずに『ペリー来航』なんてタイトルの本を取っちまったのだが、全くページが進まない。一行目の『ペリーがやって来たのは、一八五三年だった』という部分を、もう二十三回ほど読み直した気がする。途中でどうしても西野に視線が行ってしまう。
 丁度三十三回一行目を読んだときに、クスリと小さな笑い声が聞こえた。この図書室には俺と西野しかいないわけで、詰まるところ、今笑ったのは西野ということになる。何がおかしかったのか気になった俺は、空席四つ挟んだ右隣に座っている西野に、視線を向けた。案の定、西野は肩を震わせて小さくなって笑っていた。何かおかしいとこあったか? それとも、俺の顔に何か付いてる?
「弘毅君、全然進んでないし、そんなに離れて座ることもないでしょ。隣、座らない?」
 そう言って西野は、左側の椅子をポンポンと叩いた。
 え? マジで? 俺が、西野の……隣?
「久し振りに会ったし、色々お話もしたいなーと思って。ね?」
 首を傾げながらの笑顔は反則です。
「では、お言葉に甘えて」
 そう言って座ると、西野はまたクスクスと笑った。
「弘毅君って、やっぱり面白いね」
 へ? 俺が面白いって? そんなこと、ほとんど言われたことがない。どちらかといえば地味な方に分類される俺は、常に可もなく不可もなく、目立たないように大人しく生きてきたはずだった。そんな俺が何故「面白い」なんて言われるんだ? 調子に乗ってつい「お言葉に甘えて」なんて言っちまったからだろうか。 
「ねえ」
「はい」
 何故か敬語になる俺。情けねー。
「日本史、興味あるの?」
 俺が持っていた本を見たのか、西野はそう尋ねた。正直、何て答えればいいかイマイチわからない。日本史は嫌いではないが、特に興味はない。ペリーが来ようが、ハリスが来ようがザビエルが来ようが、知ったこっちゃない。
「いや、別に……その」
「あのね、弘毅君。私、聞きたいことがあるの」
「あっ、俺も」
 仕方ないが、約束してしまった以上、雅史のことも聞いておかなければなるまい。
「じゃあ、弘毅君から言って」
「いや、西野からでいいよ」
 中学生か。そんなツッコミを入れてはみたものの、何だろう、この展開。異常なまでに鼓動が速くなってる気がする。十六年の人生の中で、最速なんじゃないだろうかと感じる程だ。
「弘毅君って――」
「みーなもーとくーん」
 扉を背にして並んで座っていた俺たちの背後に、不吉な黒い影が忍び寄っていた。


 人間は文明や道具に頼り過ぎた結果、動物として必要な部分まで退化してしまったんじゃないかと、冬になるとよく思う。アウストラロピテクスやら北京原人やらジャワ原人やらは、ものすごーく濃い体毛に覆われていたらしい。その体毛が今現在まで残っていたならば、その上にダウンジャケットを着れば完璧に防寒できただろう。そんなくだらないことを考えながらも、無意識に足は動き続ける。習慣とは恐ろしいもので、あと一年もすれば、眠ったまま学校まで辿り着けるんじゃないかと思う。
 唐川駅から学校までは一本道なので楽といえば楽なのだが、その道はかなり急な坂道なのだ。そのため、夏になると地獄だ。頭の上に浮かぶ元気一杯の太陽と、アスファルトの照り返しで、汗が洪水の様に流れる。幸いなことに今は二月。制服の上にマフラーだけという軽装備の俺にとって、坂道は適度に体を温めてくれるのだ。
 そんなこんなで、結局何の役にも立たないようなことばかり考えていたら、背後からの突然の衝撃に体が吹っ飛びそうになった。
「よっ」
 案の定、俺の横に並んだのは雅史だった。朝からこいつに絡まれるとは俺もツイてない。朝の占いじゃあ、みずがめ座は三位だったはずなんだけどな。
「うーっす」
「それで?」
 いきなり突っ込んでくるか。
「それで?」
「西野だよ。昨日どうだった?」
「どうって?」
 どうにかして、こいつを誤魔化すことはできはしないか、いつも使えればいいのにと思う程のスピードで、脳をフル回転させる。結論は、不可能。雅史は、普段ボーっとしてるくせに、自分にとって大事なことになると恐ろしいまでに鋭くなるのだ。
「誤魔化そうたって、そうはいかないぜ。俺にとっては、今最も重要な案件なんだからな」
 聞いてはいないけど、きっと雅史は西野の眼中にもないだろう。このことは、雅史は知らない方が、バレンタイン当日までの二週間を幸せに過ごせるに違いない。ここはやはり、オブラートに包んで伝えるのが最良の選択だろう。
「うーん。そんなに雅史のこと気にしてる感じではなかったよ。というより、バレンタインはチョコあげない主義だって聞いたし」
「ふふーん、きっと照れてるんだろうな」
 激しくぶん殴りたいのは、どうしてだろう?
「他には?」
「さあ。あとは何も聞けなかったよ」
「どうして?」
 どうしてもこうしても、文学部の先輩たちが乱入してきたからに決まっている。
「先輩たちが、部室に入って来たから」
「ハァ!? お前、そんなんで諦めてすごすご帰ってきたわけ?」
 雅史の頼みを聞いてあげたってのに、何故こんな言い方されるんだろ。
「そりゃあ、何人も人がいるとこじゃ聞けないでしょ?」
「西野と一緒に帰るとかさぁ、何かしら方法があっただろ?」
「そりゃあ、部活に出れたならそうしたかもしれないけど、部長に何て言われたと思ってんだよ」
 今思い出しても、顔どころかつま先まで真っ赤になりそうだ。
「何だよ?」
「『バレンタインを前にして、沙織からチョコを貰いに来たのかな? そんな弘毅君は、バレンタインが過ぎるまで図書室出入り禁止だ。今までも来なかったんだから、そんなにひどい仕打ちじゃないでしょ?』だってよ」
「あれ? お前んとこの部長って……」
「大塚先輩だよ」
「ああ……そうか」
 大塚咲«おおつか さき»部長は、何の接点もない雅史が知ってるように、なかなか有名な人だ。その理由は簡単。美人でドSだから。学校にいるその道の男たちから、熱烈な支持を受けていると、副部長の佐谷先輩から聞いたことがある。
「それで? これからどうする?」
「うーん。まあ、出入り禁止になったんなら、仕方ねえか。きっと西野もくれるから大丈夫だろ」
 その自信は一体どこから湧いてくるんだ? もうちょっと別の方向で有効利用できそうな気がするのだが。
「それじゃあ、俺はお役御免ってことで――」
 俺が雅史に最後の確認をしようと思ったのと同時に、雅史が声を上げた。
「やべっ! 俺今日、日直だったっけ?」
 自分のことなんだから覚えておけよと思いながら、昨日の記憶を引っ張り出す。
「多分、そう」
「悪い、先行ってる」
 そう言い残すと、坂道を勢いよく駆け上がっていった。俺は走るのに合わせて揺れる雅史の鞄を眺めながら、のんびりと歩き始めた。
「弘毅君」
 それは何の前触れもなく、俺の耳に届いた。夏に聞くときっと涼しげだろうと思わせる透き通ったその声は、紛れもなく西野のものだった。紺のブレザーに巻いてる淡いピンクのマフラーが、冬の寒さで少し赤みを帯びている頬と相まって、やっぱり今日も可愛かった。
「おはよう」
「おはよう」
 ニッコリと笑いながら挨拶する西野に俺も挨拶をして、並んで歩き始めた。朝っぱらから、かなり緊張するな。
「あれ? 手袋してないの?」
 並んでからすぐに、西野が言った。西野はマフラーと同じ、淡いピンクの手袋を着けていた。俺は剥き出しで冷たくなっている手を、自分の息で温めながら答えた。
「ああ、少し前にどっかで落としちゃったみたいでさ、その内買おうと思ってて結局そのままなんだ」
 「ふーん」と言いながら、西野はジッと俺の手を見つめていた。
「それ、可愛いマフラーだね。よく似合ってるよ」
 少しの沈黙が何だか怖くて、俺はそう言った。
「ありがと。この二つ、私の手作りなの」
 嬉しそうに笑いながら、西野はマフラーと手袋をヒラヒラさせた。編み物までできるとは……恐るべし! 
 そして、少し経ってから西野が再び口を開いた。少し真剣な表情をしていたので、何かを考えていたようだ。
「ねえ、弘毅君」
「ん?」
「バレンタインって、チョコじゃないと駄目なのかな?」
 へ? それはどういう意味?
「チョコ以外の何かをプレゼントしてもいいのかなって」
 何だかよくわからないけど、西野が誰かにプレゼントをあげたいってことなのか? 誰に?
「まあ、それもアリだと思うけどな。それよりも、西野って好きな人とかいたの?」
 さり気なーく聞いてみた。どんな答えが返ってくるのか、全く予想が付かない。
「……うん。その……四月の中旬頃からかな……一目惚れで……おもしろい人なんだ」
 顔を真っ赤にしてる西野も、堪らなく可愛いです。それにしても、四月からってことは、もう十ヶ月近く好意を寄せていることになる。あれ? でもどうして中旬からなんだ? 学校始まったのは四月の初旬のはずだから、一目惚れするならもっと早いんじゃないのかな? まあどちらにせよ、西野の好意に気付かないなんて、そのラッキーな誰かさんも相当損してるよな。
「あっ……私、用事があったの。それじゃあ、また今度ね」
 ひらりと手を振って、西野は雅史と同じ様に坂道を駆けて行った。俺はそれを見送った後、冷えた手をポケットに突っ込んで、再びゆっくりと足を動かし始めた。


 何故こうものこのことやって来てしまったんだろうか。前にも同じことを思った気がするけど、過去に戻れるなら、十六分前の俺をぶん殴りたい。
 指定された駅前のファミレスは、平日のくせして外からでもわかるぐらい人が多かった。何があったのかといえば、雅史に呼び出されたのだ。学校帰りに、とある待ち合わせまで時間を潰そうと、学校近くの本屋にいると、唐突に携帯が鳴り、雅史が「今から、駅前のファミレス集合な。俺のおごりだから」と言って来たのだ。俺はその言葉にまんまと釣られてファミレスの目の前まできたのだが、そこで雅史からメールが入った。そこには『本日貰ったチョコの数を発表してもらうので、ちゃんと数えておくように』と書かれていた。最初の電話の時点で気付くべきだった。あの雅史が、何人か友達を呼んでメシを奢ってくれるわけがなかった。いや、もっと前だ。今朝起きて、カレンダーの二月十四日という日付を見た時点で、警戒しておく必要があったのだ。
 そんなこんなで、俺は暗くなった空の下、ファミレスのドアを開けようかどうか迷っているのだ。寒さは感じず、いたずらに時間だけが過ぎて行った。店の外で二、三分迷っていると、再び雅史からのメールが来た。
『遅せーよ。早く来い』
 何の絵文字も使われていない無機質なその文面に、俺は全面的に降伏することに決めた。まあ、まだ待ち合わせまで時間はあるからいいか。
 意を決して店内に入ると、眠くなるような暖かさに包まれた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
 アルバイトなのか、俺と同い年ぐらいの女性スタッフが素早くやって来て、爽やかな笑顔と共にそう言った。
「いえ、中で友達を待たせてるんです」
 俺がそう言うと、そのスタッフは雅史たちが座っている席まで案内してくれた。ボックス席には、雅史の他に、同じクラスの倉本や瀬田が座っていた。
「遅せーぞ、弘毅」
 雅史の言葉は適当に無視しながら、俺は倉本の隣に座った。俺が座ると、雅史が待ってましたとばかりに、咳払いをした。
「えー、それでは、男の意地とプライドを懸けたバレンタイン、チョコ争奪戦の結果発表をしたいと思う」
 やっぱりキャンセルして帰った方がよかったかもしれない。よく見れば、この企画にノリノリなのは雅史ぐらいで、倉本も瀬田も微笑というより苦笑を浮かべている。大方、俺と同じくメシに釣られてやって来たのだろう。
「それでは、瀬田から!」
 バチンと肩を叩かれて、顔をしかめながら瀬田は頷いた。
「えーっと、僕は二個かな。クラスの女子と、同じ部活の女子から。両方義理だね」
 正直、この企画の意義が全然わからないんだが、それは俺だけだろうか? 助けを求める様に隣の倉本を見ると、倉本も俺の顔を見て黙って頷いていた。
「はい、倉本」
「俺は三個だ。俺も全部義理だな」
 そんなことを言ってる倉本だけど、実はマジの告白をされたのを俺は知っている。帰ろうと下駄箱から靴を出したときに、女子と仲良く手を繋いで帰ってるのが見えたからな。本命があったのを言わないのは、恥ずかしいのもあるかもしれないが、一番の理由は雅史だろう。本命があったなんて知られたら、何かと面倒なことになりそうだ。
「次は俺。俺は五個だ」
 少しだけ自慢げなのが腹が立つ。あれだけしつこく催促された女子の皆さん、お疲れ様です。っていうか、それ、お前の母親の分も入ってんじゃねえか。今日学校では四個しか貰ってないって、自分で言ってただろ。見栄を張るな、見栄を。
「さーて、弘毅は?」
「俺? 貰ってないけど」
「は? 義理チョコも?」
「義理も」
「そりゃあ、残念」
 そんなことを言いながらも、心なしか勝ち誇った笑みを浮かべている様に見える。ちくしょー。やっぱり来るんじゃなかったな。
「さて、メシ食うか。今日は俺が奢るからな」
 四個もチョコを貰ったのが嬉しかったのか、どうやら雅史は本気で奢ってくれるらしい。しかし俺は、大事な約束があることをちゃんと覚えていたので、そろそろ帰ろうと立ち上がった。
「あれ? 食わねえの?」
 驚きの表情を浮かべて、雅史がそう言った。
「ああ、待ち合わせの約束があるんだ」
「ふーん……あれ? 弘毅。お前、そんな手袋してたっけ?」
 雅史は俺の淡いピンクの手袋を指差して、首を傾げた。
「ああ、これ? うん、貰った」



 4. 桜の花びら
  
   
「桜って、好き? 嫌い?」
 卒業式まであと数日となった三月のある日、先輩はそんな質問を、桜という名前の私に向けて呟いた。一瞬混乱したけど、先輩の視線が校門脇に植えてある桜の木に向いていたことから、花のことだと理解するのにそんなに時間は掛からなかった。校門脇の桜は丁度咲き始めたところで、淡いピンクの花びらが、四階の音楽室からでもちらほら見ることができた。
「好きですよ」
 この間まで同じ吹奏楽部で、同じトランペットを吹いていた先輩の顔が、ぐるんと向きを変えて私を捉えた。
「どうして?」
 先輩の質問の答えを考えながら、私は窓から出していた腕を引っ込め、体の向きを変えた。今は私と先輩しかいない音楽室は、丁度私たちがいるのとは反対側の窓から太陽の光が差し込み、どことなくキラキラと輝いている様に見えた。
「だって、自分の名前と同じじゃないですか。当たり前ですよ」
「どういうこと? 全然わからないんだけど」
 先輩は、いつも少しだけ鈍い。たしかに、私もかなり曖昧な答え方をしたかもしれないけど、そこはカッコよく「だよな」ぐらいの台詞を言って欲しかった。シュッとした顔立ちをしているくせに、少しネジが緩い先輩。だけど、そこが母性本能をくすぐるというか、女子生徒に人気がある理由なんだろうな。
「自分と同じ名前の花が嫌いだと、悲しいじゃないですか。自分のことも嫌いみたいで。だから、桜は好きです。桜が好きな内は、自分の名前も、自分自身も好きでいられる様な気がするんで」
 私がそう言うと、先輩は再び校門の桜に視線を戻して、小さく笑った。
「へー」
 笑いながらのその言い方が、少し気になる。
「何ですか?」
「いや、別に。カッコいいなーと思って」
 口角をクッと上げて笑いながら、先輩は顔を動かさずに目だけをこちらに向けた。それを見て、私は自分でもわかるぐらい顔が真っ赤になるのを感じて、慌てて制服のスカートのしわを伸ばすフリをして目を逸らした。先輩は「ははっ」と楽しそうに笑って、私の肩をポンポンと叩いた。
「ごめんごめん、からかうつもりはなかったんだって」
 その手は、思っていたよりもずっと力強かった。
「でも……冗談抜きで、そういう考え方っていいと思うよ」
 私は、火が出るんじゃないかと思うほど熱くなっている顔を隠すために、しばらくの間スカートのしわを伸ばし続けていた。 

「卒業式って、泣けんのかなぁ」
 私の顔の火照りがようやく納まったとき、先輩は独り言の様にそう呟いた。私は少し乱れた髪を整えてから、先輩の呟きに答えた。
「泣けますよ、きっと」
 先輩は「そう?」と言いながら大きく伸びをした。それと一緒に欠伸をした先輩の目には、涙が溜まっていた。数日後には、今と同じ顔した先輩が見られるのかな。
「だって、最後じゃないですか」
「うーん、泣ければいいんだけどね。泣けるってことは、俺の高校生活が良いものだったって、実感できてるからだと思うんだよなぁ」
 折角カッコいいこと言っているのに、最後の語尾を伸ばしているせいで、何だか情けなく聞こえてしまう。
「私は泣くと思いますよ。今度の卒業式」
「どうして?」
「だって……二年間、色んなこと教えてもらった先輩の卒業式です……から」
 必死に顔が赤くならない様に気を付けながら、私はそう言った。
「そうかぁ、泣いてくれんのか。ありがとな」
 さっきと同じ笑い方をしながら、先輩はそう言った。
「さて、そろそろ帰るか」
 先輩はまた大きく伸びをしながら、ゆっくりと出入り口へと向かった。私は慌ててトランペットが入ったケースを抱えて、その横に並んだ。
「先輩」
「ん?」
 ずっと言わなきゃと思ってた。もうこんなチャンスは二度と来ない。そうわかってるのに、上手く言葉が出ない。
「何?」
 先輩が足を止めて私の顔を覗き込む。
「その……先輩は桜……好きですか?」
「もちろん、一番好きだ」
 ニコッと笑う先輩。
「それじゃあ――」
 私が言い終えるのと同時に、開いていた廊下の窓から、桜の花びらがふわりと入ってきた。
 先輩は私の言葉を聞いて、何秒か何分か、頭が真っ白になっていた私にはよくわからなかったけど、とにかく結構な時間、キョトンとした顔で私を見ていた。それからようやく私の言葉の意味を理解したらしく、「あー」と言って何度も頷いた。そして、再びニコッと笑みを浮かべた。
 いつも少しだけ鈍い、私の憧れの先輩。 

 
2011/01/10(Mon)18:23:27 公開 / ケイ
■この作品の著作権はケイさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめまして、もしくはお久し振りです。ケイです。
久し振りの投稿で地味に緊張しています。
それぞれの季節で短編を書きたかったのに、秋がほとんど冬になってしまった……
雰囲気だけで乗り切ってる感じがしないでもないですが、コメントなどを頂けると嬉しいです。

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もしくは、感じられるものでないと
人は退屈を覚える。
2011/01/18(Tue)09:55:250点毒舌ウインナー
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