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『天下の料理人』 作者:プラクライマ / 時代・歴史 時代・歴史
全角16440.5文字
容量32881 bytes
原稿用紙約49枚
室町時代末期、畿内を支配していた三好家には京料理の天才と呼ばれる賄い頭がいた。彼はやがて織田信長に召し抱えられることになる。一介の商人が天下の料理人となった歴史の裏話。
 三好義継の賄い頭を勤めていたのは坪井継久という男であった。京のみならず畿内でその名が知られた京料理の名人である。料理人でありながら主の名前の一字を与えられていたことから相当厚遇されていたのだろう。
 この男、元々は薬を扱う商人の家に生まれた。幼少の頃から父親が生薬を配合する作業場で遊び、子供ながらに、桂枝湯は、桂皮、芍薬、大棗、生姜、甘草をこれこのように配合してなどと、数多の方剤の配合を諳んじていたという。また臭覚と味覚が鋭敏で、目隠しをさせて方剤の匂いを嗅がせると、何がどれだけ入っていると、たちどころに言い当てたらしい。大きくなってからは、家業を手伝いながら生薬の行商をしていた。本名は定かではない。相国寺に「弘治元年、薬屋久兵衛に甘草、茴香、芥子の類を届けさせる」という記録が残っていて、これが三好家に仕える前の継久ではないかと言われている。

 室町時代末期のことである。後の坪井継久、薬屋久兵衛は十八になっていた。ある日、久兵衛が頼まれていた薬を僧院に届けるために出かけると、とある辻のところで、立派な身なりの男がうずくまっていた。
「もし、いかがなされました」
 久兵衛が声をかけると、その男は顔を上げ、「腹が痛い」と言った。聞くとみぞおちのあたりに刺すような痛みがあると言う。久兵衛は男の額に手を当てた。熱はないから流行病ではない。顔を近付けると、胃が弱い者特有の匂いを微かに感じた。久兵衛は手持ちの丸薬からいくつかを選び出すと男に飲ませた。久兵衛は薬師ではない。しかし、病気特有の匂いを嗅ぎわける能力に秀でていた。病気に合った薬を選んで売るので、彼の薬は良く効いた。やがて評判になり、あちこちから声がかかるようになったのだ。
 薬を飲ませると男の様子は落ち着いた。そして、久兵衛に礼を言った。
「自分は三好家で賄い頭を努めている坪井栄水という者だ」
「薬が効いて良うございました」
「そなたは薬師か?」
「いえ、ただの薬売りでございます」
「にしては、先ほどの見立て、大したものだな」
「手前が商いをいたしますのは、貧しくて薬師やお坊さまに診てもらうことができない者ばかりです。そのような病人には症状を聞いて、薬を教えてやらねばなりません。数多の病人に接しましたところ、病人の気質や病の雰囲気と申しますか、匂いのようなものを嗅ぎわけることができるようになりましてございます」
「ほう、若いのに大したものだな」
「お武家様の場合、胃の腑が少し弱っているようにお見受けいたしますが」
「うむ、今日ほど痛んだのは初めてであったが、前から具合は悪かった」
「それでしたら、こちらの薬をもう二、三服お持ちになってはいかがでしょうか」
「ああ、もらうことにしよう」
「それと、思い煩うことが多いと胃の腑にはことのほか悪うございます。努めて心を平安に保たれますように」
「はっはっは、そなた、若いのに坊主のようなことを言う。面白い奴だ。折あらば飯盛山城を訪ねて来るがよい。薬を買ってやろう」
 そう言うと男は立ち去った。この坪井栄水という男、元々は宮内の大膳職で下級官吏として仕えていたが、ある時、細川家に招かれ賄いを任されるようになった。天文十八年、細川晴元が三好長慶に敗れると囚われの身となる。そして、そのまま三好家に召し抱えられたのだ。この時代、畿内を支配していたのは三好家であった。立場上、公家を饗応する機会も多く、宮内の料理やしきたりに通じた栄水のような男は重宝がられたのだ。

 久兵衛は月に一度は坪井栄水を訪ねるようになった。足繁く通うと、栄水は、薬だけではなく、城の料理に使う棗なども買ってくれるようになった。ある日、頼まれた山椒を人足に担がせて届けた時のことである。食材を納める蔵の前で、堺から来た乾物屋が鰹の干物を納めようとしていた。久兵衛は乾物屋に話しかけた。
「出来はいかがですか?」
「鰹は大漁だが、お天道さまの方がどうにもなりませんな」
 ここひと月は雨の日が多かった。干物を作るのにも苦労があったのだろう。
「どれ、ひとつ見せていただけませんか」
 乾物屋は筵の下から干物を取り出し、久兵衛に渡した。久兵衛はその匂いを嗅いだ。
「なるほど、これは良い干物だ」
 そう言うと、久兵衛はにっこりと笑った。鰹の干物はそのまま蔵の中へ納められた。久兵衛も山椒を引き渡し、賄い所に顔を出した。栄水は奥の方で帳面を片手に何人かの賄い夫に指示を出している。
「坪井様」
「おお、来ておったのか」
「山椒を届けに参りました」
「薬は持っているか」
「はい。いつもの通りお持ちしました」
「それは助かる。しばらくすれば終わるから、外で待っておれ」
 半時ほど待つと栄水が出て来た。久兵衛は持って来た薬を渡しながら話しかけた。
「今年の鰹は大漁とのことでございますね」
「ああ、そのようだな」
「しかし、雨が多く干物は今一つの出来のようです」
「そうなのか?」
「先刻、蔵の所で乾物屋と一緒でした。鰹の干物を持って来ておりましたので、見せてもらいましたが、いつもの品より若干寝かせが足らぬように思えました。あと、三日ほど陰干しすれば旨味が増して、かびの心配も少なくなるかと存じます」
「寝かせが足りぬとな。そなた、それをどのようにして知ったのだ」
「匂いでございます」
「匂い……か。うむ、調べてみる必要があるかも知れぬ」
 栄水は人夫の一人を呼び出すと、届けられたばかりの干物を持って来させた。栄水は手に取って眺めた。
「見たところいつもと変わらぬようだが」
「だしを取ってみてはいかがでしょう」
 栄水は人夫に、以前届けられた干物と今日届けられた物、それぞれでだしを取らせて味を比べた。
「むむ、確かに旨味が少し足りぬな。これは良いことに気付いてくれた。やはりそなたの鼻は大したものだ」
 傍らでは賄い夫がだしの味を比べて首をかしげている。
「あの者にはまだこの違いが分からぬか」
 栄水はため息をつくように言うと苦笑いした。

 しばらくすると、久兵衛は栄水の屋敷に招かれるようになった。栄水が自ら料理を作って持てなすと、久兵衛は味付けの工夫や食材こだわりを正確に言い当てた。
 ある日、いつものように屋敷に招かれ、栄水の料理を肴にあれこれと料理談義をしていると、年配の女性と若い娘が顔を出した。どうやら奥方と娘のようだ。栄水は二人を紹介した。
「妻と娘だ」
 奥方は微笑みながら軽く頭を下げた。娘の方は畏まって挨拶をした。
「朱音ともうします」
「久兵衛です。薬の商いをしております」
「娘は十五になる」
「さようでございますか。これはまたお美しい」
 久兵衛はお世辞ではなく心底そう思った。先ほどから、なんともいえない良い香りが漂っていた。久兵衛は、それが朱音のものであることに気付いた。朱音は確かに魅力的な娘であった。しかし、それ以上の感情は湧き起こらなかった。いくら父親の栄水に贔屓にされているとは言え、一介の商人がおいそれと恋うことが出来る相手ではなかったからである。
「久兵衛さまは素晴らしくお鼻が利くとか」
 朱音は目を輝かせながら言った。栄水は笑いだした。
「朱音は香をたしなんでおってな、そなたの話を聞かせると是非とも会ってみたいと言って聞かぬのじゃ」
「お父上さま、香聞きをしとうございます」
「ふむ、久兵衛、ひとつ娘の道楽に付き合ってやってはもらえぬか」
「はあ……」
 四種類の香木が用意された。まずはそれぞれを単独で炊いて香りを憶えさせられた。そして、しばらく時間を置いた後で、朱音が香炉を差し出した。
「これは何番目の香木でしょうか」
 久兵衛は目を閉じた。柔らかな甘い香りがひろがる。
「二番目の香りでございます」
 朱音はにっこりと笑った。
「さすがでございますね。では、これはどうでしょうか」
 久兵衛は再び目を閉じた。やはり甘い香りがひろがる。しかし先のとは少し違うようだ。四つの香木のどれとも違うように思えた。久兵衛は一旦香炉を離した。嗅覚はあっという間に順応してしまう。最初の刺激で思い付かないようでは駄目なのだ。久兵衛は縁側に立った。そして外の空気を吸った。
「お分かりになりませぬか?」
 朱音は心配そうに言った。
「いえ、少し頭を冷やしました」
 そう言うと、久兵衛は座敷に戻った。そして再び香炉を手に取った。やはり甘い香りがする。それと微かに酸味も感じた。久兵衛は香炉を置いた。
「これは、二番目の香りと、三番目の香りが混ざっておりますな」
「まあ」朱音は驚いたように言った。
「しかも、三番目の香りは量がずっと少ないように思えます」
「その……通りです」
 朱音の顔からは笑みが消えていた。まさか言い当てるとは思っていなかったのだろう。
「これ、人を試すようなことをするでない」
 栄水は朱音を叱った。
「申し訳ございません」
「いや、なに。楽しゅうございました。朱音様のお着物から、爽やかな甘い香りが漂って来ております。それは白檀でございますね。今宵は、いろいろと良い香りを楽しませていただきました」
 朱音は真っ赤になってうつむいた。

 それからしばらく経ったある日のこと、飯盛山城を訪れた久兵衛は、いつものように賄い所に顔を出した。奥では栄水が数人の賄い夫を前に難しい顔をしている。久兵衛は声をかけて良いものか思案した。入り口の辺りで逡巡していると栄水の方が気付いた。
「久兵衛、良い所へ来た。少し話したいことがある」
 栄水が出てくる。
「何かご用でしょうか」
「うむ、実はな、最近、殿の食が進まぬようなのじゃ。去年、重臣の十河様がお亡くなりになり、今年はお身内の義賢様が亡くなられた。気落ちされるのも無理からぬことではあるが、こうも続いてはな」
「それは心配なことでございます」
「なにか良い知恵はないか」
「そうでございますな、薬師の間には唐の国から伝来した薬食同源という考えが広まっております。御殿医殿に相談し、気鬱に良い食事を出されてはいかがでしょう」
「うむ、それが良いかもしれぬな」
 栄水は頷いた。
「坪井様、最近、胃の腑の調子が悪いのではないですか」
「まったくそなたにはかなわぬな。確かに良くはない。かように心配事ばかりではな」
 栄水はその顔に苦笑いを浮かべた。つられて久兵衛も笑うと、栄水が思い出したように言った。
「ところで話がある。今宵、屋敷を訪ねてまいれ」
 久兵衛は夕時まで城下を散策した後、栄水の屋敷を訪ねた。女中に通されて座敷へ上がると、膳が四つ用意されていた。待っていると栄水が奥方と朱音を従えて現れた。そして、いつも以上に手の込んだ料理が並んだ。鯉の煮物まである。
「これは鯉でございますね」
 久兵衛は嬉しそうに言った。
「琵琶湖の鯉を届けさせたのだ。十日ほど清流に放して泥を吐かせておる」
「おいしゅうございます。泥臭さは全くございません」
「そなたに言われると心強い。さあ、遠慮せずに食べろ。酒も飲まぬか」
 栄水はいつにも増して陽気であった。朱音は前に見たときよりも念入りに白粉を塗っているように見えた。久兵衛はすっかり上機嫌になった。すると、栄水が真面目な顔で言った。
「実は、相談がある」
「なんでございましょう」
「そなた、朱音を妻にするつもりはないか」
「な、なんと、おっしゃいましたか」
「朱音をもらう気はないかと聞いておる」
 久兵衛は驚いた。朱音を見ると真っ赤になっている。
「しかし、朱音様には重臣の松永久秀様のお身内から声がかかっているとか」
「煮えきらぬことを言うな。朱音をもらうのが嫌なのか」
「恐れ多いことでございます。手前は一介の商人でございます。よもや、そのようなことが許されるとは思っておりませんでした」
「そなた、兄がおったな。お父上も兄に継がせるつもりなのであろう。いつまでも行商を続けるわけにもいくまい。坪井家に養子として来てくれぬか。わしの勤めを継ぐことができる者はそなた以外におらぬ。それにな、朱音もそなたのことを好いておるのだ。松永様の甥殿については心配には及ばぬ。わしの方から丁重にお断りするつもりだ」
 久兵衛は居住まいを正した。そして畳に手をついて言った。
「身に余るお申し出でございます。謹んでお受けいたします」
 久兵衛は手をついたまま顔を上げて、朱音の方を見た。まだ頬を少し染めているが、顔はまっすぐこちらを向いている。そして、はにかむように笑いながら、意志の強さを感じさせる視線を久兵衛に投げた。久兵衛はあらためて朱音を美しいと思った。
 その当時、三好家は畿内で相当の勢力を誇っていた。一介の商人がその家臣に婿入りするというのはまたとない幸運である。久兵衛の実家は二つ返事で承諾した。また、久兵衛の素性は良く知られていたので、三好家内でも大した問題にはならなかった。早速準備が整えられ、三ヶ月後に久兵衛と朱音は夫婦となった。

 久兵衛は名を坪井久兵衛と改め、義父栄水とともに、賄い頭の補佐役として飯盛山城に勤めることになった。持ち前の鋭い嗅覚と味覚に加え、細かいところにも気の回る性格だったため、すぐに栄水の仕事にはなくてはならない存在になった。周りの評判も良かった。
 一方で栄水の気苦労は無くならなかった。長慶の体調が一向に改善しないのだ。最高の食材で手間をかけて作っても、ほとんど手付かずの膳が戻ってくることが多かった。
 年が明けて八月、嫡男の三好義興が居城の芥川山城で急死すると、長慶の気鬱はますますひどくなった。城下には奇妙な噂が流れた。義興が毒殺されたというのである。三好家内が不穏な空気に包まれた。
 それから十ヶ月は何事もなく過ぎた。しかし、義興の死が人々の話題に上らなくなった頃、再び不幸な出来事が起きる。義興を亡くしてからは覇気を失い、代わりに猜疑心ばかりを膨らませていた長慶が、今度は血のつながった弟の安宅冬康を殺したのだ。謀反をたくらんだというのが表向きの理由である。
 この事件の直後、久兵衛は御殿医から奇妙な噂を聞いた。長慶が毒殺をおそれているというのだ。屋敷で栄水と共に夕餉をとった後、久兵衛はこのことを話題にした。
「父上、実はかような噂を耳にしております」
「噂だと」
 栄水は表情を険しくした。久兵衛は義父がこのような話題を好まないことを知っていた。しかし、内容が内容だけに無関心ではいられないのだ。
「我らの勤めにも関わりがあることです」
「くだらぬ。そのような話はするな」
「しかし、このままでは、我々に害が及ぶやも知れませぬぞ」
 久兵衛はつい大声を出した。栄水は黙っている。
「どうかいたしましたか」
 久兵衛の声に驚いた朱音が顔を出した。
「いや、すまぬ。つい大声を出してしまった」
 朱音は心配そうに栄水と久兵衛の顔を交互に見つめた。久兵衛は話を続けた。
「お殿様があのようになられたのは、食事に毒が入っているかもしれないと疑っているからだと聞きました」
「誰がそのようなことを?」
「御殿医どのです」
「そうか、その通りかもしれんな」
 栄水は平然と言った。
「ばかな、すぐに手をうたねばなりません」
 栄水は黙って目を閉じた。そして、何かを思案するように首をゆっくりと動かした。やがて目を開けると、手招きで久兵衛と朱音を近くに座らせた。
「この度の件、わしもいかがしたものか思案しておった。おそらく松永様ら重臣が、あることないこと殿の耳に吹き込んだに相違あるまい。毒が盛られるかもしれない、命を狙っている者がいるなどと日々告げられてみよ、どのような方でも参ってしまう。その上、十河様、義賢様、義興様が相継いで亡くなられたのだ。あれほど親身に支えてくれた安宅様を誅されるとは……。殿はもはや相当弱っておられると考えねばなるまい」
「もし、飯盛山城で本当に毒が盛られるようなことにでもなれば、我々に疑いが及ばないとも限りません」
「そうかもしれぬ。しかしな久兵衛、おまえはまだ若い。このようなことに煩わされず己の修行に努めよ」
「父上……」
 栄水は久兵衛と朱音に背中を向けて縁側に立った。初夏の一日が暮れようとしていた。どこからか虫がジッと鳴く声が聞こえて来る。
「三好家もこの先ずっと安泰であるとは限らぬ」栄水は呟くように言った。
「何をおっしゃいますか」
「今のような世では、このように考えても不忠義とは言えまい。昔、わしは細川晴元様に仕えておった。晴元様が近江へ追放された時、なぜ殺されずに生き延びることが出来たか分かるか?」
「お殿様が、父上の料理の腕を惜しんだからだと思います」
「武力を頼りに生きていた者の多くは殺された。だがわしは生き残ることができたのだ。分かるな久兵衛。刀を振り回すことのみが戦ではない。今はひたすら精進するのだ。それがおまえを守る刀となり、この乱世を生き抜く力になろうぞ」
 久兵衛は栄水の言葉にただならぬ覚悟のようなものを感じた。
「あじさいのつぼみが膨らんだな」
 栄水は、しばらくの間そうやって縁側に立ち、庭を見つめていた。

 数日して、久兵衛は芥川山城へ行くように命じられた。芥川山城は重臣の三好長逸が城主を勤めている。まだ元服していない三好義継の居城でもあった。久兵衛はそこで賄い役を勤めることになったのだ。朱音と共に城下に落ち着いたのは六月の上旬であった。着いて早々、城の蔵に入り食材の蓄えを確認していた時である。
「久兵衛」
 振り返ると、蔵の入り口に剃髪の男が立っていた。三好家御殿医の宗元である。栄水よりも年上だが、がっしりとした体躯で、年齢を感じさせない迫力があった。豪放磊落と言うのだろうか。この人の子細にこだわらない性格を、久兵衛は好ましく思っていた。
「これは御殿医様、このようなところに何かご用でございますか?」
「うむ、そなたを探しておったのじゃ。ちと、相談したいことがあってな」
 久兵衛は蔵の外へ出た。
「何でございましょう」
「実はな、義継様のことなのじゃが」
「若様がいかがなされました」
「うむ、相談というのは他でもない。安宅様も亡くなられた今、跡取りとなるのは義継様であろう。しかし、若様は幼少のみぎり麻疹を患ってな、それからというもの身体が弱く、どうしたものかと案じておったのだ。もっと魚の類をしっかりと食していただかねばと苦心しているのだが、いつもご飯と汁を一口ずつしかお召し上がりにならない。なにか良い工夫はないものか」
 城内でも義継の姿を目にすることはほとんどない。ずっと居室に閉じこもっているのだろう。久兵衛は言った。
「まず食べる楽しみをお知りになるのが肝要かと存じます。お好きな食べ物は無いのでしょうか?」
「聞いたことがないのう」
 宗元は困ったことだという顔をしている。
「では、堺へ出て若様が喜びそうなものを探して参ります」
「ありがたい。すまぬがそうしてもらえるか」
 そう言うと宗元は立ち去った。久兵衛は堺の街へ出かけた。そして、次の日に荷物を抱えて帰って来た。早速、宗元が賄い所に顔を出した。
「久兵衛、何かめぼしいものは見付かったのか」
 久兵衛は頷くと、器に入れた茶褐色の粒と白い粉を見せた。
「それはなんだ」
「砂糖と小麦の粉でございます」
「ほう、砂糖か、よく手に入ったな」
「薬の商いをしておりました折、何かと便宜をはかってやった卸商人がおりまして。その者が集めてくれました。これでカステーラというものを作ろうと思います」
「カステーラ?」
「少し前に南蛮より伝えられたものだそうです。砂糖をふんだんに使いますので滋養になります」
「なるほど、とにかく藁にもすがるような思いじゃ。試してみてくれぬか」
「承知いたしました」
 早速久兵衛は調理を始めた。小麦粉と砂糖を水で溶いて金属の箱へ流し込む。そして蓋をして火勢の衰えた炭火の中に入れた。しばらくすると、なんともいえない甘い香りが漂った。そして、火が通るように何度かひっくり返した後で取り出した。黄色く柔らかい生地から砂糖の香ばしい匂いがする。食べてみると、それまでのどのような菓子とも違う濃厚な甘さがあった。早速、久兵衛は夕餉にカステラを一切れ出した。果たしてこれは効果があった。義継付きの城女中がやって来て「あのお菓子はもう無いのでしょうか」と問うたのだ。久兵衛は「今日の分はもうないとお伝え下され」と答えた。
 義継の膳が戻って来た。カステラで食欲が刺激されたのであろう。きれいに平らげられていた。久兵衛は二、三日おきにカステラを出した。十日ほどした頃、宗元がやって来た。
「あの南蛮の菓子は良かった。若様はことのほかお喜びであった。おかげで、食い気も少しずつ増しておられているようだ」
「それは何よりでございます」
「それとな、そなたが来てから、出されるもの全てに趣向がこらしてあり、大層感じ入られたご様子であった。礼を言って欲しいとのことだ」
「勿体ないお言葉でございます。食が進みますと、自然、気持ちの方も元気になるもの。お若いのでみるみる回復されましょう。もし食べたいものなどございましたら、何なりとお申し付け下さるよう、お伝えいただけませんか」
「うむ、伝えておこう」
 そう言うと、宗元はしわが刻み込まれた丸い顔に笑みを浮かべた。

 久兵衛が芥川山城へ来てからひと月が過ぎた。ようやく賄い所も思い通りに廻るようになってきた。ある朝、城へ出ようとすると、賄い夫の一人が駆け込んで来た。
「坪井様、大変でございます」
「どうしたのだ」
「昨夜、飯盛山城のお殿様がお亡くなりになりました」
「なんと……」
 久兵衛は急いで身支度をして屋敷を出た。城門の前まで行くと、慌ただしく馬が出入りしている。期待して登城したものの詳細を把握している者はいなかった。そして、このような時でも食事が滞ることは許されない。久兵衛は、いつものように賄い夫を集め、料理の段取りと仕込みを指示した。城内の慌ただしさは終日続いた。ようやく夕餉が終わり翌朝の準備に取りかかった時である。賄い所に使用人の善吉が駆け込んで来た。
「旦那様、大変でございます」
 久兵衛は善吉を伴って外へ出た。善吉は息を荒げていた。屋敷からここまで駆けて来たらしい。
「どうした、何かあったのか」
「先ほど、大旦那様の奥方様から連絡がございました。大旦那様が飯盛山城の牢に入れられたとのことでございます」
「な、なんと」
「詳しいことは分かりませんが、なんでも、お殿様がお亡くなりになったことと関係があるとか」
「善吉、すぐに飯盛山城に行って、子細を確かめてくれぬか」
「はい、すぐに出立いたします」
「わしも片付けが終わったら、すぐに屋敷へ戻る」
 久兵衛は翌日の仕込みを指示すると、城を出た。屋敷の玄関に入ると、朱音が駆け出して来た。
「あなた、お父上様が……」
 朱音は泣きそうな声で言った。
「案ずるな、父上ともあろうお方が……、何かの間違いであろう。とにかく、善吉が戻るのを待つのだ。わしも駆けつけたいのだが、勤めがあってすぐには動けぬ」
 久兵衛は困ったことになったと思った。その夜はまんじりともしないで過ごし、夜が明けるとすぐに屋敷を出た。賄い所で待っていると、宗元がやって来た。傍らに善吉を伴っている。善吉は沈み込んだ表情で言った。
「旦那様、大旦那様がお亡くなりになりました」
 久兵衛は耳を疑った。驚きのあまり、何も言えずにいる久兵衛を見て、宗元が言った。
「坪井殿は昨夕、血を吐いて倒れた。牢で詮議などあった故、胃病にこたえたのだろう。夜遅くに亡くなられた」
「詮議と申されましたが、いったい父上はなぜ牢に入れられたのですか」
「殿がお亡くなりになったのは二日前のこと。四日前より具合が悪く寝込んでおられた。ほとんど意識が無かったのだが、一度だけ目を覚まされ『毒を盛られた』と呟かれた。それを家臣たちが信じてしまったようだ。お顔にひきつりが出ておったから附子の毒に違いないということでな。わしが駆けつけた時にはすでに詮議が始まっておった。坪井殿、賄い夫、城女中全員が牢に入れられてしまった」
「父上が毒を盛るなど、ありえぬことではございませんか」
「全くばかげた話じゃ。だが、松永様が全員牢に入れよと指示を出されたそうじゃ。お口にされた物はもう残っていなかった。わしはお体を調べた。そばに居た薬師が言うには、右手、右足にだけしびれを訴えられたそうだ。附子であれば、右左の区別なくしびれるはず、それにもっと早く毒が廻る。おそらく卒中であろう。わしはその見立てを松永様に伝えた。しかし、その時にはもう坪井殿は血を吐いて倒れられていたのじゃ」
「父上……」
 久兵衛はふらふらとよろめくように歩き出した。善吉が駈け寄って久兵衛の身体を支えた。
「旦那様、お気をたしかに」
 宗元が後ろから声をかけた。
「久兵衛、今日のところは屋敷へ戻るがよい。明日にでもわしの方から訪ねよう。そなたに話したい事がある」
 久兵衛は振り返った。
「何でございましょう」
「良い。今のそなたは動揺しておる。そのような時に話すことではない。それに、わしは長逸様に急ぎ子細を報告せねばならぬ。よいか、しっかりするのだぞ。そなたが朱音を支えてやらねばなるまい」
 そう言うと、宗元は慌ただしく本丸の方へ歩いて行った。久兵衛は城を出ると屋敷へ戻った。玄関では女中が出迎えに来た。
「朱音はいかがした」
「伏せっておいでになります」
 父のことが心配で寝込んでいるのだろうか。久兵衛はまっすぐ朱音の処へ向かった。障子が閉められている。部屋の前に立つと声をかけた。
「今帰った」
「はい……」
 か細い声で返事があった。久兵衛は中へ入った。朱音は床から起き上がった。
「どうなされたのですか」
「うむ、ちょっとあってな」
「まさか、お父上様のことでございますか」
 久兵衛は話をするべきかどうか迷った。朱音は久兵衛の着物の袖を掴んだ。
「何かあったのですか。どうかお言いになって下さい」
 久兵衛は朱音の手を取った。
「父上が亡くなられた」
 朱音は「えっ」と小さい声を上げると、崩れ落ちそうになった。久兵衛は朱音の肩を支えながら言った。
「牢にあっても立派な態度を貫かれたそうだ。嫌疑も全く根拠のないものだった」
 久兵衛は、栄水が牢屋に入ることになった顛末とその最後を話して聞かせた。
 朝から暗くたれ込めていた雲が明るくなったかと思うと突然雨が降り始めた。久兵衛は障子を閉めようとした。すると朱音がその手をそっと引いた。
「どうか、そのままにしておいてください。今年もあじさいが咲きました。去年、実家の庭で見た花はうす紅色でした。あのように七重、八重に咲いて……。お父上様……」
 朱音は泣き出した。久兵衛は雨が優しくあじさいを濡らす様子を栄水の面影に重ねた。そして、朱音の肩を抱くと、いつまでもそうやって花を眺めていた。
 後から宗元に聞いたところでは、久兵衛が芥川山城へ勤めることになったのは、栄水の請願によるものらしい。栄水は主君の気鬱がひどくなったのを見て、久兵衛に危険が及ぶことのないように計らったのだった。

 三好家は義継が跡を継ぐことになった。長慶が亡くなってから一月が過ぎた頃、久兵衛は義継との対面を許された。傍らには宗元が座していた。
「坪井栄水のことは誠に残念であった。どうか恨まないでくれ。そなたの父のように、その料理の腕を三好家のために揮ってはくれぬか」
 若いながらも誠意を持って対する姿に久兵衛は打たれた。
「もったいないお言葉でございます。この久兵衛、誠心誠意お仕え申し上げます」
「よく言ってくれた。これからは継久と名乗るが良い」
 傍らで宗元が大きく頷いた。
 久兵衛は、その名を坪井継久と改め、三好家の賄い頭となった。それからの数年間は決して平穏ではなかった。長慶の死後すぐに起こった足利義輝の暗殺、三好長逸と松永久秀の反目、そして足利義昭を擁した織田信長の上洛と、三好家が絶え間ない争乱にあったからである。それでも継久は義継の元を離れず、日々の勤めを果たすこと、料理の腕を磨くことに力を注いだ。継久はいつしか京随一の料理の腕前と言われるようになっていた。戦乱の中、さらに料理の腕を深めようとする継久だったが、それも難しくなってくる。当初、義継は信長に従ったが、やがて反信長勢力に与するようになった。織田信長によって足利義昭が京から追放されると、義継は義昭を若江城にかくまう。義継は義昭の妹を娶っていた。
 天正元年十一月、佐久間信盛が率いる織田軍が義継の居城である若江城を攻めた。この時、継久は若江城で賄い頭を勤めていた。織田軍が攻めてくると、継久は、朱音に男の装いをさせ堺に逃がした。兄には事前に朱音のことを頼んでおいた。なんとか朱音を逃がすと、継久は気力を失ってしまった。敵は攻め手を緩めない。落城は間近に迫っていた。継久は、義継に最後の夕餉を作った後、もうどうにでもなるが良いといった心持ちで土間に座り込んだ。ほどなく若江城は落ちた。義継は妻子とともに自害して果てた。継久は囚われの身となった。
 牢での生活は想像した以上に厳しいものであった。とにかく臭気がひどい。不衛生からくるものだろうが、嗅覚が敏感な継久にとっては耐え難い環境だった。それでも、殺されもせず、活かされもしないという状態で半年が過ぎた。
 やがて、京にその名が鳴り響いた料理の達人が虜囚となったことが、信長の知るところとなる。ある日、継久は牢から出され風呂を使うように命じられた。垢を落として出ると、再び後ろ手に縛られ、広い座敷に連れていかれた。座して待っていると、小柄な男が現れた。継久は頭を下げた。
「木下秀吉と申す」
「坪井継久でございます」
「お主、料理がうまいらしいな」
 秀吉と名乗った男は人なつっこい笑顔を見せた。継久がどのように答えるべきか考えていると、秀吉の方から口を開いた。
「信長様がお主の料理を食べてみたいそうじゃ。美味ければ許すとのことだ。早速わしとともに参ろう」
 美味くなければどうなるというのだろうか。しかし、秀吉は無邪気なほど明るかった。継久が失敗しないと決めてかかっている風でもある。どちらにしても、城へ行き料理を作るしかあるまい。継久は覚悟を決めた。料理というのは食材を選ぶところから始まる。いきなり、勝手が分からない賄い所へ飛び込んだところで、実力を全て発揮することは出来ないだろう。運を天に任せるしかない。継久は朱音のことを思った。もう一度、彼女の顔が見たい。ここで死ぬわけにはいかないと思った。

 道中、継久は秀吉と馬を並べることを許された。
「信長様は恐ろしい方でござる」
 秀吉は神妙な顔をして言った。継久が黙っていると、秀吉は話を続けた。
「茶会の席でのこと。何の不手際があったのか、突然烈火のごとくお怒りになった。一同、唖然として声も出せずにいると、信長様は刀を抜かれたのじゃ。切られてはかなわんと思ったのか、茶坊主は飛び上がって逃げようとした。その瞬間……いかがなことになった思う?」
 継久は首をひねった。
「ふすまごとばっさりでござる」
 秀吉は手で首のところを切るような仕草をした。
「わしはもう生きた心地がせなんだ……おや、坪井どの顔色が悪うございますな。はっはっは、ご案じ召されるな。これは、あのお方の気短がはなはだしい場合の話。こんなことはめったにござらん」
 このようなことでも秀吉が言うと、可笑しささえ感じるのは不思議であった。一方で、これは容易なことではないと、継久は覚悟を新たにした。城へ着くと、秀吉は小さな目を輝かせながら「ご武運を」と言いながら走り去った。
 賄い所へ行くと、すでに準備は整えられていた。みごとな大きさの鯛、野菜、豆、昆布などが並べられている。どれも新鮮な食材だった。継久は早速取りかかった。その場にいた賄い人の手は借りなかった。微妙な火加減などの指示は、会ったばかりの相手に簡単に伝わるものではない。賄い所に立つのは半年ぶりだった。継久は感覚の鈍りを心配した。舌を確かめるため、昆布と鯛の粗で取っただしを椀に取り、味を確かめてみる。良い味だと思った。磯の香りと旨味が口の奥に広がり、眼前に海が広がる様な錯覚を覚えた。耳の奥で潮風さえ感じるようであった。この感覚だ。やはりこれが自分の戦なのだ。継久は、心が誇らしさにも似た喜びに満たされるのを感じた。
 仕上げの段階に入ると、塩一粒まで加減して味を決めた。鯛の切り身は山椒をまぶして塩焼きにした。そして野菜は昆布と鯛のだしとたまりで煮た。調理が終わると、賄い人が奥へ人を呼びに行った。秀吉が女中衆を率いてやって来る。
「どうでござる」
「賄いに立ったのは久しぶりでしたが、なんとかなりました」
「では、運ぼう」
 継久は全身の力が抜けていくのを感じた。後は信長の嗜好に合うかどうかである。表へ出ると良い天気だった。木々の新緑が陽光に輝いている。ふと、朱音はどうしているだろうかと思った。料理が運ばれて半時ほど過ぎた頃、秀吉が慌てた様子で戻って来た。
「いかがでしたか」
「それがのう、信長様はあまり好まれなかったようじゃ。味が薄いと言っておったそうな。『もう一度機会を与える。作り直すよう命じよ。さもなくば牢へ戻してしまえ』とまあ、こんな感じじゃ」
「そうでしたか」
 継久は落胆した。自分ではあれ以上は無い味に仕上げることが出来たと確信していたからである。優れた武将だからと言って優れた舌を持っているとは限らないということなのだろうか。秀吉は継久の肩に手を置いた。
「ここではあの方の好みが絶対じゃ。どうかもう一度作ってはくれぬか」
 戻ってきた膳は全て平らげられていた。顔を近づけると微かに良い香りがする。継久は顔を上げて秀吉に言った。
「かしこまりました。明日、もう一度作りましょう」

 翌日、信長の前に再び継久の料理が並べられた。秀吉が見守る中、野菜の煮物に一箸手を付けただけで、信長は顔を上げた。そして傍らにいた小姓に命じた。
「坪井継久をこれへ」
 継久は広間に引き立てられた。下座する時にちらりと膳の様子を窺うと、料理は全く手つかずのまま残されている。継久は自分の命運もこれまでかと思った。その場に居合わせた秀吉や小姓も押し黙っている。
 やがて信長が口を開いた。
「その方、なぜ昨日と同じ味付けで出した」
 ひやりとするとでも言おうか、抑揚の少ない語り口であった。それでいて周囲の人間を安心させない冷徹さがあった。継久は平伏したまま黙っていた。小姓や秀吉が、落ち着かない様子で信長と自分を交互に見るのは、癇癪の爆発を恐れているからに違いない。
「どうした継久? わしはもう一度だけ機会を与えると言ったのだ。いかにその名が鳴り響く名人といえども食べる人間あってのこと。料理人は相手が喜ぶ物を出すのが最良とは思わぬのか」
「私は自分が最良と思う処に従ったまででございます」
「なにを言うか」
 信長は語気を荒げて言った。
「せめて、もう一口、煮魚も食していただけませんでしょうか」
 継久は頭を畳に擦り付けるようにして言った。
「なんだと」
 信長の語気が変わった。継久の反応に家臣たちそれとは違うものを感じたのかもしれない。信長はしばらく継久を睨んだ後、煮魚に箸を付けた。
「ふむ」
 信長は頷きながら言うと、煮魚をもう一口食べた。
「この味じゃ。この鯛の味付けは良いではないか。なぜ野菜もこのように煮ぬのじゃ」
「恐れながら、食材にも適材適所が肝要でございます。優れた武者を集めればかならず戦に勝てるものではないのと同様、良い食材を集めたからといって最高の料理が出来るとは限りません。無条件に濃い味を付ければ良いというものではなく、味付けはその食材の癖を考えて成されるべきと存じます。また場面によって調理方法も使い分けなければなりません。昨日も今日も、ここでは沈香が炊かれているようです。これは私めの手落ちでございました。昨日の料理では、この香りに味付けが負けてしまったかと存じます。かように……」
「もうよい」
 信長は継久を制した。平伏していた継久は、思わず顔を上げた。驚いたことに信長は口元をほころばせている。
「次に出す時はわしが好む味付けにせよ。よいか」
「は、はあ」
 信長は話を続けた。
「昨日の膳も悪くはなかった。ただ、公家どものように、くだらぬ権威を振りかざし、京の味を押しつけるような料理人であれば牢に戻すまで。そう思っていただけじゃ。今日の煮魚の味見事であった」
「ありがとうございます」
「何か褒美をとらせよう」
「そのような……」
「遠慮するな。なんなりと申せ」
 継久は少し考え、
「それでは、この沈香を一欠片いただく訳には参りませんでしょうか」と言った。
「そなた、香をたしなむのか」
「いいえ。しかし、すばらしい香りだと思いました」
 信長は小姓に合図した。すると、小姓は奥から香木をのせた盆を持って来て、継久に差し出した。手に取ると重さを感じるほどの大きな一片である。継久はあらためて信長に礼を言った。

 継久が実家の門をくぐると懐かしい顔が出迎えた。継久がまだ十代の頃からいるお初である。
「これは久兵衛……、いえ坪井さま」
「お初、久しぶりだな」
「まあ、よくご無事で」
「兄上はおられるのか」
「はい、どうぞ、お上がりください」
「それと、……」
「朱音様もお元気でございますよ。ちょうど、おたきと夕餉の材料を買いに出ておられるのでは」
 無事だったか。継久は胸のつかえが取れるような気がした。座敷で待っていると兄の与兵衛が入って来た。
「おお、無事であったか。心配していたぞ」
「兄上もお変わりなく、商いはいかがですか」
「うん、まあなんとかやっておる」
「朱音のことでは、ご面倒をおかけしました」
「なんの、なんの。ただ居候するのは申し訳ないと言うてな、家のことを手伝ってくれて助かっている。ところで、落ち着く先は決まったのか」
「はい、織田家に賄い人として勤めることになりました」
「ほお、織田家とはな」
「おそらく岐阜城に住まうことになると思います」
「そうか、まあ二、三日は泊まっていけばよいではないか」
「ありがとうございます。あの、兄上」
「なんだ」
「香炉はございますか」
「香炉だと。そのような物を何に使うのだ」
「いえ、ちょっと」
「あると思うがな、お初に聞いてくれ」
 与兵衛は用があると言って席を立った。継久は朱音の部屋の前で待つ事にした。縁側に座っていると、門の方から女たちのにぎやかな声が聞こえて来た。懐かしい声だ。継久は胸が高鳴るのを感じた。お初が飛び出して行き、野菜の入ったざるを持った朱音に話しかけた。身振りでこちらの方を示している。朱音は「まあ」と短い声を上げ駆け寄って来た。
「あなた」
 継久は黙って香炉を差し出した。朱音はそれを受け取ると香りを確かめた。
「まあ、よい香ですこと。このようなものをどこで手に入れたのです」
 継久は膝に手を置いて下を向いた。
「苦労をかけてすまなかった」
 すると、朱音が顔を覗き込んできた。目に涙を浮かべている。
「お会いしとうございました」
「本当に……すまなかった」
「いいえ」
 継久はつられて泣きそうになった。すると朱音の手が頬に触れた。
「こら、よさぬか。お初が見ている」
 朱音は笑い出した。夜になると雨が降り始めた。庭のあじさいが軒からのしずくに紫の花を揺らしている。
 二人だけになると、継久は、牢屋での生活や料理の腕を試されたことを話した。朱音はそれに一々驚いた様子で相づちを打った。夜が更けた。継久は朱音を抱き寄せる手に力を込めた。雨は夜半まで止まなかった。

 この後の坪井継久の消息はよく分かっていない。天正十年三月、村上水軍の来島村上家が主家である河野氏から離反した時、秀吉が村上通総を饗応したらしい。記録によれば「京風の薫り豊かな料理にいたく感銘させられた」とある。おそらく秀吉は継久を安土城から呼び寄せていたのではないだろうか。明智光秀が徳川家康を接待した時、継久は安土城にいなかった。そして、光秀は接待料理の差配を自ら行う羽目になり、信長の不評を買うことになる。継久の料理を食べ慣れていた信長が、光秀の用意した料理に不満を感じたとすれば、無理もないことだろう。ただ、このことについて確かな記録は残っていない。過ぎ去った時間が真実を知るのみである。

  (了)
2008/06/23(Mon)23:32:10 公開 / プラクライマ
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■作者からのメッセージ
最後まで読んでいただきありがとうございました。

(変更履歴)
2008/06/22 - 句読点の間違い、語句などを修正。熟成、嗅覚は未解決。
2008/06/23 - 熟成、嗅覚を修正。継久になった後も久兵衛となっていた部分を修正。
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