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『ジェミニと休日(改訂)〔■1〜■4〕』 作者:無関心ネコ / SF アクション
全角78404.5文字
容量156809 bytes
原稿用紙約238.95枚
警視庁公安部員だった父親が失踪してしまい、不本意ながら親戚に引き取られることとなった主人公砂那。そんな彼の元に、父親の同僚を名乗る女が現れる。明るい言動の裏に不気味さが漂うその女は、父親について奇妙な台詞を残していった。「『あなたのお父さんは、宇宙人を追っていた』って言ったら――信じる?」――その日から、砂那は奇妙な逃走劇に巻き込まれることに…… アクションあり、ギャグあり、強烈な敵あり、美少女ありのSFアクションです。

 拳銃の発砲音がした。

 女が握った拳銃の銃口から薄く白い煙が上がっていた。女は肩までのミドルショートの黒髪が生える色白の肌をしていて、その無表情顔は人形細工のように整っている。瞳は黒く、水晶のように高貴な光をたたえていた。
「次は当てる」
 薄く桜色のルージュが惹かれた唇が、短い言葉を紡いだ。
 彼女の視線の先には男がいた。周囲の景色に溶け込むような、穏やかな顔をした壮年の男。その顔には深く刻まれた幾本かのシワに混じって、切り裂かれたかのような古傷が隠れている。風にたなびく黒いコートに手を突っ込んで、黒のハットのつばの影から、自分に向けられた拳銃の銃口を、静かに見つめている。
「……言え」
 女が続ける。しかし、男は静かに彼女を眺めるだけ。
「言えッ!!」
 がちゃり、と女が拳銃の劇鉄を引いた。男はやはり、表情もゆがめず、体を揺らす事もせず、呼吸すらしてないかのような表情で、ただ眺めるだけ。
「……今更仏心を出したって、もう引き下がれないところまで来てる。それをしてどうする? 誰を助けたつもりになってるの? 最初の一歩を踏み出しておいて、ゴールをするのを拒否すれば、あなたに続くはずだった六十億人はどうなる?」
「保安局の試算によると」
 掠れたような、くぐもった声だった。男は傷だらけの口元を小さく動かし、僅かに笑みのようなものを浮かべて言う。
「死ぬんだろう。皆」
 女はそのずけずけとした物言いに僅かに詰まったが、すぐに声を荒げて
「殺すのよ! あなたが!」
「違う」
 男はゆっくりと首を振る。
「『殺した』んだ――統合中央保安部の試算通りなら、もう手遅れだ。もはやここまで凝り固まった計画は私の行為で修復不能まで頓挫したし、私自身もここで死ぬ。この先に君たちが作る可能性の未来はない」
「そうはさせない」
 女はぐっと拳銃を前に突出し、
「私が未来を造る――あなたを生かして」
「そうできるといいな。だが君は引き金を引くだろう。それが私の望みでも」
「そうね、そうなるかもしれないわ。今すぐあなたが、あの女の居場所を吐けば、その未来は訪れないけど。……あなたの望む役職も用意させるし、あなたがこうした事にも口をつむる。今ならまだ、間に合う。気が迷う事は私にもあるから。だから、これは」
「そうじゃない」
 男はまた無表情顔に戻り
「もう後悔してるんだ」
 女が声を荒げる。
「あなたはこの計画を全て知っていた! それでもこの計画に参加したのに――自分だけ『綺麗な手』だと主張する気!? 私達を、悪役にして!」
「全部分かっている。言われなくても」
「……何がわかっているというの? 末期病棟で刻々と迫る死に必死に抗おうとする人達、子供を抱きしめる母親、母親を求めて泣く孤児、それを見つめる無力な人間――全部、あなたが殺すのよ。何がわかってるっていうの? あなたは世界中にあふれかえる意志と感情を全て背負いきっているとでもいうの?」
「いいや。だがきっとそれには関係なく皆死ぬだろう。責任は私にある。だから私は先立って死ぬ。あの娘を救ったのは、私のエゴだよ。その責任を取る。それ以外にすべき事はない。死に抗う人も、母親も、孤児も、無力な人間も、確かにどこかで苦しんでいるだろうが、私の目の前じゃなかった。苦しいのなら自分でその苦しみから逃れればいい。私がすべき事はもう、無い――腹が立つのか? なら撃ちなさい。それで君の、気が済むのなら」
「気が済む……!?」
 女の指が引き金を引いた。
 ぱん。という、どこか間の抜けた音が春先の風に紛れる。男が弾かれたように膝をつく――血しぶきが鮮やかな青葉にどす黒い跡をまき散らした。
「ふざけるな!? この先私が満足する時なんて来ない! 全てが収束しても、私は苛立ちや苦悩を抱え続ける! それが私の、私達の責務だからだ!」
 片膝をついた男は、無事だったもう片方の足もおり、膝をついた。両手を頭の後ろで組み、ゆっくりと、顔を上げた。まるで彼の周りだけ、時間の流動が滞っているようだった。
「それもエゴだよ、サンダーボルト。誰かを犠牲にしている事に変わりはない。本当に人の命が平等なら、私も君も、等しく悪魔だ」
 女が握った銃が、ぶるぶると震え始める。過剰に込められた力が暴れ出し、引き金にかけられた人差し指は、今にもそれを引きそうになっている。銃身がかちゃかちゃと揺れた。激昂にゆがんだ表情は整った顔立ちを醜悪に歪ませる。彼女自身も、得体の知れない怒り。テレビドラマや映画が焚きつけるような下卑た怒りではない。もっと醜悪で、ドロドロととぐろを巻く、それ自体が命を持ったかのような、獣じみた怒り。
「……あなたは何のためにここまで来たの? あなただって殺してきたでしょう――今までだって、ずっと」
 彼女の本気の殺意を前にして、男はぼんやりと、熱に浮かされたような表情をして、空を見上げた。真っ青で、果てしない高みにまで広がる、薄く色づいた空を。
「……鳴海君」
 呟く
「君はいつまで持つかな」
 女の目が見開かれた。『到達した』目だった。

 風になびいた草花が、さらさらと波の音を囁きあう。不躾な加薬の炸裂音がそれに紛れ、男が一人死んだが、草花たちがその囁きをやめる事はなかった。


■1


 その家のリビングには、ダンボールが山のように積み上げられていた。ダンボールには『安心・安全宣言! 丸鳩引越しセンター』とあり、それはどうやら引越しの準備のようだ。あちこちに重ねられ、放置されたそれらは、まるで一つのオブジェのようでもあった。
 そのリビングの一角、腰の高さほどに積み上げられたダンボールのうえで、一人の少女が座っていた。剣呑な、少し力の抜けた感じの目をしていて、それは銀縁の人当たりのよくなさそうなメガネに覆われている。濃いダークブラウンのセミショートの髪が、開け放たれた窓から入ってくる風に揺れる。彼女は辺りの様子に全く無頓着に、雑誌を眺めていた。
 彼女は名を郁田眞子という。高校二年で通称タマコである。彼女は別段、そのニックネームを気に入ってはいない。
 彼女は暇で暇でしょうがなかった。彼女がここに来たのはある事を期待していたからだが、それはこの家のどこにもなかったのだ。彼女は雑誌を眺めてはいるが、意識はほとんどそこにはなかった。
「よいしょ――と」
 そこに少年が入ってきた。
 黒髪、ショートで、顔立ちはすっきりしているし、目は二重で精悍そう、半そでのポロシャツから見える腕は引き締まっているのに、その割には少しもカッコよくは見えない少年だ。えっちらおっちらと、五段ほど重ねたダンボールを重そうにリビングに運んでくる。
 タマコは雑誌から目を離し、彼を眺めた。彼は実に大変そうだった。タマコは凄く、暇だった。
 
 
 タマコが足を引っ掛けると、人の丈ほどダンボールを積み重ねて抱えていた彼は、華麗なくらいの勢いでずっこけた。ダンボールが飛び散り、中身がリビングに撒き散らされる。
 悲鳴すら上げずに、鼻っぱしを強かに打った彼は、余にも情けない顔をして立ち上がった。涙目でタマコを見る。彼女は真顔でしばらく彼を眺めた後、抑揚のない声で言った。
「大丈夫?」
 彼は涙目で――もちろんわざとタマコが足を引っ掛けたのだって分かっていて――何度も頷いて
「だいじょうぶ、だいじょう……ちょっとごめん、鼻血出た……」

 タマコが幼馴染である彼の引越しを手伝いに来たのは完全な気まぐれである。『幼馴染だから手伝う』、という公式では無い。『幼馴染なのに手伝う』のだ。世の幼馴染皆に仲が良いかと問えば、返事が返ってくるのはせいぜいが五割だろう。ほとんどが自分と彼のように、不仲のはずだ。歯向かいに住んでいるのに、朝顔を見合わせても知らん振り。不幸にも同じ進学先だった高校でも、もちろん知らん振り。三ヶ月前、驚くべきことに一年半も両親不在のまま生活していた彼を、タマコの両親が家に引っ張り込んだ時も、嫌な顔はすれど、笑顔などかけらも見せなかった――お互いに。
 彼は、名を高木砂那という。
 現在彼が必死になってダンボールを運んでいるのは冒頭の通り、引越しのためである。理由はもちろん、両親不在が長く続いているので、親戚に引き取られるというものだ。母親は砂那が中学生の頃に事故で死に(それ以前から失踪してはいたが……)父親は一年半前に失踪。理由は仕事関係らしいが、砂那本人も知らないという。
 タマコは、昔から砂那とその父親の関係がまともとはいえなかったのを知っているので、別に不思議とは思わなかったが、それなりに異常だとは思う。普通、唯一の親がいなくなったらもっと心細そうにするのではないだろうか? すくなくともタマコなら二週間でギブアップだ。
 しかし、今、目の前で鼻に紙ティッシュのぽっちを突っ込んでいる砂那は、そうではないらしい。一年間、平気な顔して学校に通っていたし、タマコの母親が噂好きの鼻を使って、砂那の両親が長らく不在である事をかぎつけて問いただした時も、砂那は困ったような、焦ったような顔をしただけで、不安感で泣き出したりするような事はなかった。
「はぁ、まぁ……」
 これが母親の詰問に対する答えである。道端で唐突にアンケートをとられても、タマコならこれよりマシな答えを用意できる。
 だからといって砂那が精神的にタフなのかというとそうでもない――と、思う。少なくとも、『今では』、砂那はタマコの前で頼りがいのある所は見せない。
「……タマコ、今日は何しに来たの?」
 砂那がダンボールを抱えながら、タマコに尋ねる。その顔に浮かぶのは、ご機嫌を伺うような気弱な笑みである。タマコはそれに嫌悪感を感じてイライラしながら
「引越しを、手伝いに来てあげたの」
 と答えた……二年前の週刊誌を読みながら。
 砂那は「ああ……そうなんだ」と、口の中でもごもごさせて呟くと、ダンボールを玄関に運んでいった。
 いっそ怒れ、と思う。
 小学生……中学校二年くらいまでの砂那なら、「ふざけんな!」くらい怒鳴ったはずだ。小さな頃から『正義のヒーロー』に憧れていた砂那は、曲がった事や、理不尽な事が大嫌いだった。『子供らしくない』とか『生意気だ』などとよくイジメられたタマコを、相手が大人だろうが子供だろうが関係なく、砂那は全力で助けてくれた事が何度もある。タマコだけではない。中学生から金を巻き上げている高校生を、石やら棒やら、奇襲急襲を仕掛けてボコボコニの仕上げてしまったり、国道の車がびゅんびゅん通る道路で事故にあった青年を、まるで衛生兵のように素早く引きずって安全な場所まで避難させ、応急処置まで施してしまった事もある。後から来た救急隊員は、タマコがいくら「砂那が助けたの!」と主張しても、全く信用しようとしなかった。もっとも、そんな頃には既に砂那はその場を後にしていたが。颯爽と現れ、華麗に人を助け、それを誇る事無く立ち去る。幼いタマコにとって、彼はまさしく正義のヒーローそのものだった。
 だが唐突に、砂那は変わった。タマコが驚くほど、砂那は気弱になった。いや、気弱というよりは「どうやって生きればいいか分からない」という感じだ。いつも外界におどおどし、最近ではいつもこの調子である。言いたい事は言わない。笑っても愛想笑い。怒るなんてとんでもない。へらへら笑って、流されるままふらふら。
 今回の引越しだって嫌なはずなのだ。伊達に幼馴染ではないのだから、タマコにだってわかる。なのに言わない。タマコの両親に言われるがまま「はぁそうですか」「えぇそうします」と承諾に承諾を重ねて、いつの間にかろくでもない親戚に引き取られることになったのだ。親戚だってかなり嫌々だ。資産家らしいのだが、「息子(つまり砂那の父親)の血筋など家に上げるのもおぞましい」などとのたまっていた。時代錯誤もいい所だ。しかもそれを電話越しに直接言い放たれたにもかかわらず、砂那は「ははは……」と乾いた笑いを漏らすだけだった。気弱にも程がある。
「……ん?」
 重いダンボールを何個も重ねて、一所懸命に玄関とリビングを往復していた砂那を、ちらちらと眺めていたタマコの視界に、ガムテープでがっちりと固められた雑誌――らしきものの塊が見えた。分厚い雑誌だ。それも、タマコも見た事がある。手にしていた雑誌を放って、ささっと近づいてみた。
「……砂那」
「え……何?」
 玄関から砂那が戻ってきた。
「これ、捨てるの?」
 タマコは砂那に手にしたものを差し出した。それは大きく分厚い――卒園アルバムだったポップ調の絵で楽しそうに遊ぶ動物が描かれている。中身は、さっき見た。
「うん、まぁ……向こうに持っていく荷物は、少ない方が良いし」
「これも?」
 タマコはもう一つ、アルバムを砂那の腕に重ねた。砂那は二冊の重いアルバムをよたよたと抱えながら
「小学校の卒業アルバムだけど」
「……うん、まぁ」
「これも? これも、これも?」
 タマコは砂那の腕の中にあるアルバムに、次々と足元に置いていた物を重ねた。中学の卒業アルバム、ヒーロー大全集、山のような賞状の数々――『剣道』、『合気』、『柔道』、『遠泳』、『空手』、『長刀』、『エアーライフル』、『銃剣術』――
「ちょ、ちょっと待って……重いぃ」
「砂那って、正義のヒーローって感じだったよね。それも味方がいない奴。戦隊モノじゃなくて、一人で戦う奴」
「な、なにそれ……ていうか、ちょっと――これ持って……重いってばー」
 砂那がよたよたと後退した。
 タマコは急に砂那が、そして自分が憎らしくなってきた。
 普段目も合わさないのに、なぜ幼馴染の引越しなんて手伝ってるのか。
 自分も同じなのだ。言いたい事を砂那にまだ言っていない。口を閉ざし、相手が気付いてくれるまで待っている。
 『そんな砂那を見てるのは嫌だ』と、気付いてくれるまで。
「……私もう帰る」
「え? ぇえ? ちょっと、待ってよ」
 タマコは砂那の声に振り返らなかった。フローリングの床にどんどんと足音をぶつけて、玄関をぶちあけて出て行った。
 
 
「な、なんなんだ?」
 砂那はわけもわからず、彼女の駆けていく後姿を見ていた。ついこの間、付き合っている先輩のために切ったとかいう、短い黒髪が、夏の真っ白な太陽に照らされ、きらきらと光を振りまいて――そして、向かいの家の玄関の奥へ消えた。
「……なんなんだ」
 もう一度、呟く。
 砂那は最近のタマコが苦手だった。向こうも随分自分のことを嫌っているようだが、砂那も嫌――というより、一緒に居辛い。彼女のそばに居ると、なんだか申し訳ないような、謝りたくなるような、奇妙な焦燥感に晒される。それが嫌で、最近では目も合わせていなかった。
「――っぁ……か、鼻、が……」
 ふと、砂那の耳に男の声が聞こえた。玄関の方からだ。目をやると、ぶち開けられた扉の向こうから、鼻を押さえた男がふらふらと出てきた。スウィングショートのパンキッシュヘアー、所々赤のメッシュが入った髪をしいて、かけているメガネはブランド物の黒縁だ。それが似合うだけの、なかなかに優男風な顔つきをしていた。が、しかし鼻を押さえて、何かの儀式のように身をくねらせて悶絶する姿は、すべてをぶち壊しにするだけのお間抜けな説得力があった。
「つぁ――! ぁぁー……折れてる……? これ、折れてる?」
 砂那はため息をついた。彼の名を呼ぶ。
「津田……何してんの」
 津田は上半身を上げたり下げたりしながら、
「鼻が痛くて、痛がってんの……ねぇこれ折れてる?」
「たぶん折れてないよ……そうじゃなくて、何しにきたの?」
「ほんとかよ、ちょー痛い……え? 何しにって? そりゃぁ、幼馴染が引越しって言うからな、手伝いに来たんだぜ」
 津田は元気良くガッツポーズをし、直後に「……ぁあ! メガネ歪んでる……」と泣きそうな顔をした。


「うわぁ! 見ろこれ、お前超アホっぽいじゃん! うわぁ親指立ててる! つぅか俺もアホ! 俺も超アホみたい!」
「……手伝えよ」
「ちょ、これ見てみ! 柴山先生じゃん! いやぁ、今見たら超可愛い……!」
 津田はタマコがぶちまけていったアルバムを眺めて大はしゃぎしていた。砂那の案の定。
「うわはっ、これ、俺とお前写って無いじゃん!」
 一見、津田はアホの子のように見えるが、成績優秀者で、私立の進学校である砂那の通う高校でも入学式で代表挨拶をしたくらいである。確かに、小学校・中学校中盤くらいまでは、かなりのアホの子だった過去が――というより、乱暴者、横着者、近所のガキ大将、といった感じだったのだが。今ではメガネまでかけて秀才気取りである。いや、実際秀才なのだが、なんだか秀才と認めたくない雰囲気あるので。
「これこれ! おい、見ろよ!」
「なに、なんだよ」
 津田はダンボールを担ぐ砂那の腕をぐいぐいと引っ張る。砂那はうっとうしそうにしながらも、内心津田のわがままに付き合うのは嫌いではないので、彼の指差す写真をちらりとみやる。小学校の卒業写真だ。校庭に咲いている桜の木をバックにして、生徒達が笑顔を並べているが、その列に砂那と津田の姿は無い。右上には丸で囲まれた、いかにもやんちゃそうな少年二人が、ふてくされた顔で写っている。
「だーはっはっはっ! 俺とお前だぞこれ! うわーぶっさいくな顔してるな!」
「……まぁ、確かに」
 元は悪くないと思うが、青タンやら歯抜けの顔がちょっと……いやいや、ほんとに。
「これなんでこんな顔してんのか覚えてるか?」
「ううん。なんかあったっけ?」
 途端、津田は酷くつまらなさそうな顔をした。
「なーんだよ、忘れっぽいなぁ! これ、俺が卒業式の日にタマコの髪をからかったらお前が怒ってさ、校舎裏でやりあってたんだぜ?」
 津田は言いながら、ファイティングポーズを作って「ふんふん」と軽く殴るアクションをした。砂那はいぶかしげに
「そんな事、あったかなぁ」
「あったあった。お前、あの頃鬱陶しい位にに正義のヒーロー気取ってたもんな。毎日喧嘩してたじゃん」
 そういえば、と少し思い出を掘り返す。津田はジャイアンなんか目じゃないくらいの悪ガキで、喧嘩っ早くて、人をからかって笑い、そして泣かしていた。よくタマコを虐めていて、砂那は義憤に駆られていた。
「いやー最後は絶対勝利で決めたかったからな、七人くらいでお前をボコスカにしてやったのに、結局負けたんだよなぁ」
「そんな事したっけ、僕――ていうか、卑怯だなぁ、お前」
「どんな事をしても勝つ。それが俺の美学」
 ぐっと津田は拳を固め、胸の前にそれをかざした。そしておかしそうに笑った。砂那もつられて笑う。
「ていうか、お前の方が卑怯だったぜ。親父さんになんか――変な格闘技教えられてたし、センリャクだかセンジュツだか知らないけど、落とし穴掘ったり、椅子ぶん投げたり、夜中に襲撃に来たり、給食食べてる時に牛乳瓶投げてきたり、とにかく容赦がないって言うかさ……。だから俺も、やるだけやったわけ」
 砂那は「そんな事してたかなぁ」と呟き、しかし案外悪びれずに
「ふーんまぁ、悪かったね」
「まぁな。ふん、俺もわっるい奴だったからな。お互い様だな。わっはっはっ」
 と津田は豪快な笑い声を上げた。砂那もやっぱり、つられて笑った。そしてひとしきり笑った後、津田は「ふー……」と息を吐いた。
「……俺さぁ、学校辞めるかもな」
 唐突に言われて、砂那は半笑いのまま尋ね返した。
「え?」
「いや、もうお袋に無理させたくないしさ、うちの会社も、いつまでも休業してると社員さんが別の会社に流れちゃうしさ」
「……」
 津田の実家は豆腐製造業者である。そこそこの大規模な会社だが、数年前社長である祖父が他界。父親は既に事故で亡くなっていたので、後を母親が継いだが、不況のあおりを受けて経営は傾き、無理がたたった母親も病院送りという、なかなかに壮絶な状態だ。
「来年いっぱいくらい通ってさ、そっから働こうかなって。いやいや、俺だけじゃもちろん無理だからさ、お袋とか、会社の役員の人とかに色々教えてもらってさ。凄くね? 俺次期社長候補」
 砂那は何か、かけるべき言葉を捜したが、見つからず、結局小さな声で
「そうなんだ」
「うん。そう」
 津田は頷いた。
 それから津田はアルバムをぺらぺらめくった。たまに小さく笑ったり、ため息のようなものをついたり、最後に大きく息を吐いた。
「お前引っ越すのか。タマコも悲しむなぁ」
「……いや、それはないと思うけど」
「いやいや、悲しむね奴は」
「ふーん……」
「不思議だなぁ。ちょっと前までお前と殴ったり蹴ったりしてたのに、今じゃ仲良く話してるしさ、悪がきの俺は勉強の虫になって、正義のヒーローだったお前は超気弱のウジウジ君になって」
「うじうじ君って……」
「んでお前とタマコは仲悪くなって、俺は豆腐屋になる」
「…………」
 津田はリビングの床に寝っころがった。アルバムを両手で天井にかざし、眺める。砂那は、津田が何を思っているのか、はっきりとは分からなかった。だが、こういう時、何も言うべき言葉を持たない自分が、あまりにも歯がゆい。
 津田は、ぼんやりとアルバムを眺めながら、呟いた。
「……俺、豆腐嫌いなんだよな」


 日が傾いて、辺りが夕焼けに包まれた頃、ようやく荷物の整理がついて、津田は帰る時間が来た。
「あ、そうだ忘れてた。ハイこれ、お土産」
 津田は玄関先で靴を履きながら、砂那に殺虫剤を差し出した。砂那は意味がわからない。
「何これ? 何で殺虫剤?」
「おー、うちの部屋掃除する時は必需品なの。もぉすっげぇの。黒いのが。冷蔵庫とかどかすと小さいのとか大きいのとかが十戒の割れる海のようにこう……」
「……うぇ。やめてよもう。普段から掃除してないからだぞ」
 津田は謳うように大仰な手振りをつけて
「掃除よか今は勉強の時代なんだよ。掃除上手くても金持ちにはなれねぇ。でも勉強して点数取ればそれだけ金持ちに近づく」
「部屋がゴキブリだらけの金持ちになる気?」
「ばーか、金持ちは皆、ハウスキーパー雇うんだよ」
「何がハウスキーパーさ……」
「それくらいちょちょいと雇えるようになるんだよ。お前も勉強すれば会計くらいにはしてやるぜ。警備員はそうだな……あの爺さんにしようぜ、ほら、よく帝都駅でいたずらした時に追いかけてきやがった――」
「えぇと……あぁ、大陸爺ちゃん?」
「そうそう! 大陸じいちゃん大陸じいちゃん!」
 津田は腹を抱えてけらけら笑った。大陸じいちゃんとは近くにある帝都駅の警備担当主任で、濁流のように人がいる駅構内ではしゃぎまわって遊ぶ子供を、その中国の仙人のような容姿に似合わない俊敏な脚力で追い掛け回し、つかまったが最後「ワシが大陸におった頃はな……」と日が暮れるまで説教らしき昔話を聞かされるのだ。子供の頃の砂那達は大陸自体知らないので、下手に怒鳴られるより苦痛だった。
「ありゃ絶対昔話したいだけだったよな」
「うんうん、ていうか、僕らも捕まるかもしれないのにいつもあそこ行ってたよなぁ」
「じいちゃんとの本気の追いかけっこがスリリングで最高だったんじゃねぇか」
「まぁね。……もうやめちゃったかな」
「つか、死んでるだろ、もう……」
「…………」
 玄関先に微妙な空気が漂った。帰ってこない楽しみというのは酷だ。
 津田が空気を変えるように
「……ま、なんでもいいけど、向こうに行く時は連絡よこせよ」
「うん、わかった」
「んじゃ」
 津田はドアを開けて、出て行った。砂那はぼんやりと、閉まったドアを見ていた。なんとなしに、思う。
「あのじいちゃん、いつ死んだのかな……津田」


 外に出た津田は、いまだきっちりと足が収まっていない靴のかかとを指で引っ掛けながら、背の低い門を開けて、敷地の外に向かった。
「あ――ども」
 その時、一人の女とすれ違った。スーツ姿で、艶やかな黒髪を肩まで伸ばした、色白の女だ。ロウで固めたような無表情顔が、すれ違う瞬間、津田の目を捉えた。鉱物のような魅力的な光を湛えた――しかし無機質な瞳。
「(わーぉ、いい女)」
 津田は内心ひとりごちた。
 女は津田の不躾な挨拶に、小さく会釈をして返した。そのまま、玄関へ向かう。津田は反対方向へ歩み、家の前を真横に横切る道路に出て、右に折れた。
「(……でもなぁ)」
 それとなしに、思う。
「(今、俺の事バカにしやがったよな……あの女)」
 色濃くなったオレンジの道を、小さく「むっかつくぜー」と呟きながら、家路に向かう。
 
 
 今日は客の多い日だ。タマコ、津田に続いて、遂に知らない女まで家に上がってきてしまった。
 砂那はやかんで沸かしたお湯を、荷物の中から引っ張り出したティーポットに注ぎ、紅茶を作った。ソーサーに乗せたカップに注ぐ。
「……ふぅ」
 小さく、ため息をついた。気が重い。紅茶を沸かしたのはもちろん趣味でも教養でもなく、問題を先送りにする、実に姑息な時間稼ぎだ。
 意を決して、リビングに向かう。
「あの……どうぞ」
「あ、お構いなく……って言っても、もう遅いよね」
 ダンボールの山を強引にどかして作った空間に置いたリビングテーブルで、何かのファイルを広げていた客人の彼女は、小さく微笑んで返した。
「ごめんね、ありがとう」
「それで……あの、父さんは……」
 砂那がおずおずと尋ねると、彼女は紅茶を一口すすりながら、砂那を見上げた。
 津田と入れ替わりに現れた彼女は、自らを「高木一警部の相棒なんです」と名乗った。砂那の苗字は高木であり、つまりは高木一とは砂那の父親だ。彼女から「自己紹介代わりに」と渡された名刺には、こう書かれていた。
 
  警視庁本隊警備部警備課調査室四課
 鳴海カナ
  
「お父さんの仕事については何て聞いてた? 警察官とか?」
 問われて、砂那は一瞬返答に詰まった。思わず、「え?」と問い返してしまう。鳴海は改めていう必要はないと判断したのか、小首を傾げて返す。
 聞いたことないわけではなかったが、それはなかなか、他人に話すにははばかれた。
「あの、あぁの、それ、は……」
「それは?」
 答えに窮した砂那を、鳴海はニコニコと追い詰めた。その笑顔は、砂那から「嘘をつく」という選択肢を奪った。言いたくない。実にばかばかしい答えだ。ばかばかしい答えだが、しかし、言うしかなかった。
「そ、それは……の、……ろーだって」
「え?」
「あぁの、だから……正義の、ヒーローだって……」
 案の定、鳴海はきょとんと表情を緩めた。砂那は自分の頬が熱くなるのを感じた。バカだと思われたかもしれない。
「そう……ふふ、子供の頃聞いたきりなのかな」
 鳴海は小さく笑った。砂那は身をちぢ込める。
「お父さんはね、公安にいたの。正確には沖縄四課の本庁移りで、『桜』っていう組織だったんだけど……そこでお父さんはある任務で人を……人を、追っていてね、だけど途中で消息がわからなくなったの」
 物騒な話だった。が、砂那は別段取り乱すこともなかった。砂那は父親にそれ程、父親としての思い入れがあったわけではなかった。複雑な関係だったのだ。少し。
「でもね、危ない相手を追ってたわけじゃないから、大丈夫だと思うの。うちの職員も全力で探してるし……ただ、私も相棒だったし、責任感じててね。それで、砂那君の事思い出したの」
「僕?」
 鳴海はうなずき、クスクスと笑った。
「『英才教育を施した息子が一人いる』って言ってて――これって本当? 文字の読み方は教えてないけど、表情の読み方は教えてあるとか、自信満々に話してたけど」
「…………」
「正義のヒーローになる訓練をしてたって」
 本当である。砂那の父親はどこで手に入れたか知れない――成美の話を聞く限り、それは仕事場からのようだが――不正規な技術を砂那に教え込んでいた。英雄願望があった当時の砂那はまったくそれを不思議に思う事無く吸収していたが、今考えると、とんでもない事を教えられていたなと思う。あまり良い思い出ではない。
 鳴海は砂那が答えないと踏んだのか、一度紅茶をすすると、空気を変えるように尋ねた。
「引っ越すのって、親戚の家だよね」
「え? あ、はい……父方の、おじさんの家に」
「親戚中に嫌われてるって、高木さんは言ってたけど」
 砂那は閉口する。確かに、驚くほど嫌われている。昔一度だけ顔を出した正月の集まりでは、集まった親戚全員に白い目で見られていた。タマコの両親が砂那の引き取り手を捜していた時も、そうとう嫌味を言われたらしい。タマコが漏らしていた。
 うろんうろん、と暗い思考の渦に飲まれている砂那を、口角を悪戯っぽく僅かに上げた鳴海が、覗き込むように見た。
「ね、砂那君。アメリカ行かない?」
「――は、アメリカ?」
 唐突な言葉に、砂那はぎょっとして彼女を見た。鳴海はニコニコしながら
「責任感じてるって、言ったよね? 砂那君がよければだけど、お父さんがいない間の面倒は私がみようかなって思ってるの」
「え、ええ? でも、アメリカって……」
「いいよーアメリカ。スケール大きいしね。私アメリカ国籍持ってるから、留学生ってことにしてさ、来てみない? 嫌われてる親戚の所に行くよりは良いと思うけど」
「あの、でも」
「課長はあんまりのめり込むなって言うけどね、その話思い出したらほっとけなくないって言うか――もちろん、砂那君がよければだけどね。新しい生活、してみたくない?」
 新しい生活。頭の中で誰かが反応し、それを待ち望んでいた! と、立ち上がった。
「あ、別に急ぐ話でもないんだ。せっかくだから、夏休みの間に考えておいてもらいたいなって思って。私も仕事がまだ残ってるし」
 鳴海は肩をすくめた。砂那は思案する。アメリカ……新しい生活……突然の申し出で混乱しているが、それでも悪い話のように感じなかった。確かに、嫌味な親戚の下に行くよりかは、二十倍くらいマシな話だと思う。
 再び悩み始めた砂那の前で、鳴海は唐突に「あ」と口元に手をやった。
「そうだ、忘れてた。これが一番重要だったんだ――砂那君、お父さんから何か預かったり、渡されたりしてない?」
「何か……?」
 一瞬思案してみる。父親から預けられた物などこの家くらいしか思いつかない。
「何かって……何ですか?」
「うーん、見ればそれとすぐにわかると思うんだけどね。見た事ないなら良いんだけど」
「……さぁ、あんまり喋らなかったし」
 それに見ればそれとすぐにわかる物、というのが想像つかない。
「そう……。あ、お父さんね、ちょっと大事なもの持ち出しちゃってたんだ。それが見つからないと、アメリカどころじゃなくて」
 はふー、と鳴海は憂鬱そうに肘を突いて、手の上に顎を乗せた。あさっての方向に目をやる。
「そのせいでここに来るのも遅れちゃった。今日も明日も明後日も、残業だよ――砂那君も心当たりがあったら連絡してね。さっきの名刺に、電話番号書いてあるから」
 砂那は名刺を取り出してみてみた。確かに、携帯の番号が書かれている。砂那は「……はい」と返した。
「それじゃあそろそろ、お暇するね。ふふ、実は仕事中だったんだ、これでも」
 紅茶を最後まで飲みきると、彼女は立ち上がった。砂那も慌てて、立ち上がる。彼女が玄関に向かい、それについていった。
「引越しは明後日だったっけ?」
 鳴海はハイヒールをつっかけながら、尋ねる。砂那は頷いて返した。
「今度また、時間かけてゆっくり話そう? 会える日ってあるかな? 明日は?」
「あ……明日は、業者が大方の荷物を持って行ってくれるんですけど……」
「じゃあちゃんとした夕飯は食べられないね。一緒にご飯どう?」
 まるで促されるように、砂那は何も考えずに頷いて返してしまう。彼女のテンポは心地よく、なんでも素直に答えてしまいたくなる。
「そう。よかった、男の人ご飯に誘うのって初めて」
 彼女はそう悪戯っぽく笑うと、「それじゃね。また明日」とドアを開けて、出て行った。外はすっかり日が暮れて、街頭の光が眩しい位だった。白い光に羽虫が集まり、ぱたぱたと音を立てている。
 砂那はぺこりとお辞儀をして、彼女を見送った。ドアが閉じて、家の中に静寂が戻る。耳に痛いほどの静けさが、暗い通路の奥から、漂ってきていた。
「……アメリカ」
 甘美な響が耳に残っていた。この話を津田にしたらどうだろうか。拳を振るって羨ましがるだろうか、そりゃすごいと喜ぶだろうか――いずれにせよ、悪い顔はしないと思う。
 タマコはどうだろうか――いや、今の彼女なら何でも反対しそうだ。黙って睨みつけた後、「……好きにすれば」とでも言ってどこかに行ってしまうかもしれない。
 それでも、行ってみたい。
 ――かもしれない。
 これは人生の転機、というやつだ。人生なんてまださっぱりわからないが、きっとそんな気がする。
 全部ほっぽり出して、凄く遠い、全然別の場所で生きるのだ。考えるだけで、わくわくしてくる。
「アメリカ、かぁ」
 自然と口角が持ち上がっていた。リビングに戻って、その話を一考してみようと思う。
 ふと、その時ポケットから電話が鳴った。
 砂那は慌てて、デニムのポケットに手を突っ込む。しかし慌てて取り出したものだから、ぽろりと落ちて、床を転がってしまった。運の悪い事に、ばらばらと積み上げられたダンボールの間に入り込んでしまう。
「うわっ、まず」
 慌ててしゃがんで、隙間に手を突っ込む。が、微妙に届かない。電話はまだ鳴っているが、このままでは切れてしまうだろう。誰が相手か知らないが、砂那の知り合いはあまり気の長い人間がいない――タマコ然り、津田然り――すぐに出なかったら、後で何を言われるかわかったものじゃない。
 焦った砂那の目に、靴べらが映った。天の助けとばかりに手を伸ばし、それを使って、再び隙間に手を伸ばす。
「――――っ、届いた!」
 ダンボールが崩れた
 
 どかだかばかどかいでてぼこだかどかどかどか――――ぐぇ
 
 最後に一番高いところにあったダンボールが、埋もれた砂那の背中にダイブして、その大崩壊は止まった。砂那がぴくぴくと痙攣していても、携帯は元気に彼を呼び続けた。
「う――誰も見ていないのが余計に……」
 緩慢な動きで、のっそりと砂那は身体を起こす。彼の背で、「割れ物注意!」と書かれたダンボールが転がって、ぐわしゃがしゃがしゃ、とあまり中身を見たくない音を立てた。
 盛大にため息をつく。気落ちしながら、携帯の通話ボタンをした。
「……はい、砂那ですけど」


『「あなたのお父さんは宇宙人を追っていた」――って言ったら、信じる?』


 挨拶もなかった。名前も名乗りもしなかった。ただ、静かで淡々とした、女の――鳴海カナの声が、耳に静かに、突き刺さった。
 とっさに何も言えなかった。それは冗談ではなかったから。冗談にしては、面白みにも、ユーモアのある話し方にも欠けていた。平坦な――まるで『相手を試すかのような』、静か過ぎる言葉の羅列だった。
 ハッとして、砂那はドアを見た。つっかけも履かずに、外に飛び出す。
 夏の夜の、独特な静けさに包まれていた。家の前の道路に飛び出しても、それは変わらなかった。ただ、玄関を照らす白い照明に、変わらずに飛び続ける羽虫の、小さな羽ばたきだけが、耳に残った。
 出て行ってから、一分も経っていないのに。
 自然と、喉を鳴らしていた。生ぬるい空気を、意識して肺に飲み込んで、呟く。
「……どういう、意味ですか」


 …………。なっはは! 冗談冗談。明日に備えてね、砂那君がどれくらい冗談が通じる人か試してみたくてね。私、あんまり話し上手じゃないから。砂那君にリードしてもらえるかなって――だけどあんまり、期待しない方が良いかな? あ、信号青になったから、また明日ね!
 瞼を開いた。
 きれ掛かった、震える光を放つ白い蛍光灯が、目に入った。目を細める。見知っているようで、よく知らない天井だった。
「(……宇宙人)」
 身を起こした。
 その部屋は広くはないが、落ち着いた暖色系で統一された、シックな書斎だった。一人部屋相応の広さ。壁際に本棚が立ち並び、そこにはぎっしりと、厚さ様々な本が詰まっている。砂那はそれらに目を配りながら、首を回した。彼が座っているのは革張りのゆったりとしたリクライニングチェアで、彼はそれを斜めに倒してのんびりと背を伸ばしていた。木製の袖にキャビネットのついた書斎机に伸ばしていた足を、ぎゅっと背伸びしてさらに伸ばすと、リクライニングチェアの上にたたんだ。
「……つまんない冗談だな」
 呟いてみる。口にしてみても思う。冗談とは思えなかった。いくら言い訳にしても、もう少しマシな言い訳があると思う。
 部屋の壁にかけられたアンティークの時計が、刻々と時を刻んでいた。静かに、振り子が揺れている。
「(――まぁいいや。どうせ大したことじゃないんだろうし。考えるだけアメリカが遠くなりそう)」
 砂那はもう一度頭を振って、思考を振り払った。
「(……そうだ、それより、『大事なもの』を探してるって言ってたよな)」
 砂那は椅子から身体を離し、部屋を眺める。
「……わざわざ入ったんだし、探さないと」
 この書斎は父親の書斎だ。長い間住んでいるが、この部屋に入ったのは初めてだった。
 砂那と父親の間には海よりも深い溝と、天よりも高い壁があって、それは部屋割りに関してもそうだった。砂那は絶対に父親の部屋には入らなかったし、父親も絶対に砂那の部屋には入らなかった。たとえ行方知れずとなろうとそれは同じだ。
 だが、今日鳴海カナが来てから、砂那の中で何かのタガが外れたようだった。何と無しに部屋の前を通ると、大して何も考えずに中に入っていた。あまり人の匂いのしない、冷たい部屋だった。
「一見してそれとわかる物――か。本棚にはないよな……じゃ、こことか?」
 砂那は書斎机の袖のキャビネットに手を伸ばした。四つある引き出しの、一番上を開けてみる。
「――うわっ。何だこれ……書類?」
 引き出しいっぱいに、紙束がぎっしりと詰まっていた。手に取ってみる。
 日本語でないのがほとんどだ。何か書き込みのようなものがしてあるが、中国語やハングル、ロシア語らしき文字が入り混じっていて、書いてある内容なんてさっぱりわからない。英語の書類もあるが、単語がみた事ないものばかりだった。
「……なんなんだ、これ」
 二段目も三段目も書類だらけだった。それもだんだんと、書かれている言語の予想もつかなくなってくる。もはや文字ですらなく、ただの絵の羅列だったり、騙し絵みたいな図が張ってあったり、黒の塗りで潰された一文があったりと、得体が知れなくなってくる。
「……なんか」
 嫌な悪寒がした。いくら公安でもこんな文章を扱うのだろうか? 四段目に手をかける。
「……あ」
 引き出しいっぱいの大きさの大きなアルバムが出てきた。明らかに、それまでのものとは毛色が違う。思わず手に取り、中を眺める。
「写真……まだ母さんがいた頃のか」
 中には色あせた写真が詰まっていた。海を背景にして楽しそうに笑っているまだシワの少ない父と、小さな自分を抱えた母の姿があった。どこかに旅行に行った時の写真だろうか。海が深く、蒼い。透けるような水色の空に、霞むような雲が漂っていた。
「(……久しぶりに見るな、母さんの顔なんて)」
 砂那の母親は、随分昔に家を出て行っていた。その原因は父親の長期不在だったり、砂那の知恵遅れ――砂那は英雄願望が強く、古い戦史や古典文学を学ぶ知的な少年だったが、同時に、読むのはまだしも書くのが全くできないという『足らない』子でもあった。まともに文章が書けるようになったのは中学生の頃で、割り算・掛け算がちゃんとできるようになったのは中学三年の頃である――だったり、その知恵遅れに対する矯正に関する父親との対立だったらしいが、砂那にとってそれらはどれも知らない事ばかりで、彼にわかったのは唯一つ。『母親が帰ってこない』という事実だけだった。
 幼い頃から父親に『不正規な技術』を叩き込まれていた――それは砂那が『正義のヒーロー』に憧れるばかりに父にねだったものだった――砂那は、その技術を用いて母親を必死に探した。そして、雪が降る寒い夜に、ようやく見つけ出したのだ。見つけ出したのだが、しかし、母親は帰ってこなかった。
 つまりはそういう事だ。砂那は打ちひしがれて家に帰り、珍しく家に帰っていた父親に、「母さんを連れ戻さないと」「母さんは帰ってこないよ」と泣いて訴えた。父親はそれに無言で答え、さらに続けると拳骨で答えた。
 それは家を出て行った妻に対する怒りの八つ当たりというより、あくまでも『不正規な技術』の延長線上にあるそれだった。つまりこういう事だ。母親がいなくなっても、わめかず、泣かず、黙れ。それが正義のヒーローに必要な技術だから。
 それ以来、砂那は周囲全てにオドオドするようになった。どう接すれば良いのかわからないのだ。悪い奴を殴れば良いのか、困っている人を助ければ良いのか――しかしその結果はどうなる? これまでそうこうしている間に、母親はいなくなってしまった。バカみたいに一生懸命なっている間に、大事なものを失ってしまった。
 次第に愛想笑いが上手くなり、積極的な姿勢を押さえ込むようになった。できそうもない事に挑戦するのはやめた。できる事だけをこそこそやり、表向きは何も考えていないように振舞う。へらへら笑い、ふらふら漂う。
 良いとは思えない。だが、そうするのが今のところ、一番なのだ。
「……早く探さないと」
 砂那はアルバムを皆まで見ずに放り出した。五段目の、最後の引き出しに手をかける。
「ん? ていうか、もう最後なんだ」
 そう呟きながら、ひっぱてみる。が、少し開きにくい。強引に力を込めて引っ張ってみた。すると今度は勢いよく外れて、沙那はディズニー映画のコメディのごとく派手にすっころんだ。中身がぶちまけられ、額に堅い物が当たる。
「いって! っ――!!」
 沙那は自分のまぬけっぷりに嫌気がさしながら、額をぐしぐしとさすった。理不尽な怒りがわき起こり「なんなんだ……」と辺りを見渡すと、ちょうどすぐ脇に当たった物らしき鉄の塊を見つけて、乱暴に手に取った。ごつごつとした、冷たい鉄の塊。握りやすいでっぱりがあり、思わずそこを握っていて、それを見やると、あの、『独特な握り方』を無意識の内にしていた。
 紛うことなき、黒金の拳銃だった
「――ッ!?」
 ぎょっとして放り出し、尻餅をついたまま後ずさりする。すると後ろに差し出した手の平が堅くて丸い物を押さえてしまい、その丸い物がクルリと回転して滑ってしまう。慌ててそれに目をやる。
 ぎらぎらと薄汚れた金色の光を放つ、銃弾が転がっていた。
 嫌な予感に後ろ髪を引かれて振り返ると、そこには銀色のボックスが口を開けて床に転がっていて、その周囲には無数の銃弾がぶちまけられていた。
 喉を鳴らした。
 こういう時、なんと言えば良いのだろうか。冗談の一つでも言いたかったが、言葉にならなかった。ただ誰が見ているわけでもないのに焦ってしまい、急いで転がった銃弾と拳銃を下の引き出しに突っ込んで戻した。
 額に手を置いて、意味もなく足をぺたぺたとならして部屋をうろつく。
「……ええとどうしよう。まずどうすればいい? 警察に届けて……いや、もし勘違いされたら……」
 沙那はぶんぶん頭を振って、「とにかく何も見なかった。僕は何も見なかった」とぶつぶつと呟いて部屋の電気を消し、部屋を出て行った。



 
 
 砂那の手により扉を開かれ、そして閉まった。取っ手についた認証センサーが作動する。指紋を照合し、セキュリティコードと合致を確認。スイッチが入り、そこに電流が流れた。

 

 
 
  沙那の後ろで扉が閉まった瞬間、時計が時を告げる鐘の音を大きく鳴らし、それを合図にしたかのように鉄板がへし折られるような轟音が家中に響いた。家が揺れ、足下が震える。
「ッ!?」
 弾かれるように沙那は姿勢を低く取り(無意識な防衛体制だ)周囲を見渡す。
 部屋の中は暗い。沙那一人しかおらず、沙那は夜中に電気を煌々とつけるタイプではない。真っ暗な廊下が、轟音の後の静寂を引き連れてきて、まるで何事もなかったかのように沈黙している。
「……下?」
 音は足下からしたように思えた。生唾を飲み込み、一度呼吸を深く取った。
「(何だ……時計なんて一度もなったこと無かったのに……何かスイッチが入った……? だとしたら、なんで……)」
 砂那は沸き起こる疑問の群れを、意識的にカットした。小さく、音を立てずに深呼吸する。
 胸の内に広がる詰めたい感覚を、ゆっくりと拡散させた。そっと歩を進めて、地下に向かった。地下室は物置代わりに作ってあったものだが置いてあるのはせいぜい工具類程度で、ほとんど『空き部屋状態』だ。
 地下室の扉の前に来ると、鍵を開き、中をそっとのぞいていみる。真っ暗で、何も見えなかった。音を立てないよう、慎重にポケットからLEDのペン型フラッシュライトを取り出す。軍用の強力なものだ。暗闇で人に向けて使えば、その視力を奪う事もできる。
 ライトを逆手に構え、扉の前で中から音が聞こえないか耳を澄ませた。はっきりとした音はしなかったが、かすかに何かがいる気配がした。ライトをつける。
 ドアノブを開き、一気に中に侵入した。
 素早くライトを周囲に向け、中の様子を確認する。
 暗闇が眩しいほどの真っ白な丸い光に切り取られると、壁の一部が大きく陥没しているのが見えた。まるで内部から爆破したかのようにコンクリートがはぎ取れ、中の鉄骨と茶色い砂が見えている。
 沙那は警戒しながら、ゆっくりと近寄っていった。中をのぞくと、何か銀色のケースのような物が壁に埋め込まれているのが見えた。縦長で、ちょうど棺のような形と大きさをしている。離れて見ている時は壁の素材の一部かと思っていたが、こうして見ると明らかに他の物とは質が違った。鉄骨は黒く塗装されて所々赤さびているし、飛び散っているコンクリートの破片は薄汚い。だがこのケースはフラッシュライトの光をぎらぎらと跳ね返し、全く錆びてもいない。感触を確かめようと、と手を伸ばしてみる。
 背後で小さな金属音がした
 はっとして振り返る。途端、明らかな人の気配が一気に迫ってきて、「びゅおっ」という風を切る音と共に真っ黒な人影が飛び掛かって来た。
「うぁ!?」
 沙那の体はその明確な危険に反射敵に動いた。バックステップで体を下がらせ、影との距離を取ると同時に左手を前に低く突き出す。攻撃のためではなく、真っ黒な固まりが背を丸めて刺突武器を脇腹に抱えているように見えたから。
 沙那の左手は影の腹の中に深く潜り込み、案の定、その手にしっかりと両手で握られていた工務用のピックナイフを上から押さえつけた。と同時に右手に握っていたフラッシュライトで相手の『顎』らしき所を殴りつける。影が「か」と息を漏らす。
「ぅらあッ!」
 その隙を突いて沙那は左膝を影の腹にたたき込んだ。確かな手応えがあった。そのまま抵抗の弱くなった影の足を踏みつけ、腰を掴んで横に引き倒す。
 どさり、と影が地面に伏した。沙那は息を荒くしながらフラッシュライトの眩しい光を影に向けた。
 まず足が見えた。色白の、ほっそりとした足だ。沙那の心中に「よかった人間で……」という少し間の抜けた(しかしそれくらい怖かったのだ)安堵が小さく広がる。そのまま光を上半身へ向けた。
 しかしなんだか様子がおかしかった。いや、そもそも足を見た時点で違和感はあったのだ。人を襲うような人物にしては、細すぎる足だった。さらに太ももに光を向けた所で「あれ、もしかして……」と思い、腰辺りに光を向けた所でそれ以上、光を上半身へ向けるのをやめた。

 女の子だ
 あと服着てない

 合気の先生も剣道の先生も柔道の先生も空手の先生もその他諸々、沙那に『技』を教えてくれた先生はみんな、技の使い道について同じ事を言っていた。
「人に使うな。特に、女子供」
 全部満たしていた。
 頭を抱え込みたくなりながら、しかし沙那は油断せず、とりあえず頭があると思われる場所に光を当てた。
 白い肌と真っ黒な長い黒髪を持つ少女だった。顔立ちはまだ幼さが残るが、つんとすましたような、人を突き放すような、そんな繊細な工芸品のような目鼻立ちをしている。瞳は力なく閉じられているが、開かれている時は、きっと大きくて、引き込むような目をしているのだろう。
 胸の位置(もちろん二つのアレはぎりぎり見えない位置)に光を向け、それが上下に動いている様で呼吸が深い事を確認する。気絶したようだ。
 「そんな簡単に人は気絶するか?」という疑問が頭をかすめたが、すぐに考え直した。相手は女の子だ。沙那の膝蹴りは中学生時代、大の大人も「吐くかと思った」と漏らしていたくらいだ。こうして見ると随分華奢なこの少女には、随分なダメージを与えたはずだ。
 沙那はひとまず彼女をここに放置し、一階に向かった。毛布がどこかに梱包されていた。『何で女の子がこの家に?』『なんで自分を襲った?』という疑問は一度脇に置いておく。
 積み上げられていたダンボールの山を崩し(さっきからまとめた物を取り出してばかりで非生産的だ……)紐で括られた毛布を探し出す。箱から引っ張り出そうとした。
 ふと、喉元に冷たく、柔らかい感触を感じた。はっとしてそれに手を伸ばそうとして、
「ぐが――ッ!」
 一気に強い力で後ろに引っ張りあげられ、呼吸ができなくなった。絡みついた腕に手を食い込ませるが時すでに遅く、腕は硬く喉を締め上げていく。
 背後からの両腕をクロスする形の絞首だった。咽喉が押しつぶされる痛みと呼吸ができない苦しみが脳を蹂躙し、理性が奪われる。体を振り回して拘束を取ろうとするが、相手は巧みに食らいついてきて離れない。脳への血流が滞り、目の前にポツポツと黒い点が現れた。
「(……ッ、落ちる……!?)」
 かつて柔道の先輩に冗談で絞められ、本当に落ちた時、これと全く同じ経験をしていた。視界に黒点が現れたと思ったら、すぐにそれが視界全体に広がり、次の瞬間には気を失っていた。今も黒点はどんどん増えていく。
「がはッ」
 脳の中で本能がのさばり始めるが沙那はそれを必死に押さえ込んだ。理性で腕をコントロールし、相手の脇腹に肘打ちをたたき込む。が、しかし相手はするりと死角に入り込んでそれを避けてしまう。さらに強く、万力のような力で締め上げてくる。沙那は痙攣し始めた腕をがむしゃらに動かし、絡みついた腕の肘に右腕を当て、同じく絡みついた腕の手首に左腕を押し当てた。その両手をがっちりと組み合わせ、上半身を回転させる。
「ぐぬ……ぁぁぁあああああー!!」
 てこの原理で絡みついていた腕が引きはがされた。ぐるりと相手の脇に回り込み、間髪入れずに左膝蹴りをたたき込む。
 が、しかし相手はさっとバックステップでそれを回避してしまった。沙那と距離を取って、対峙する。
 沙那は口の端からたれるよだれを拳でぬぐいながら、半身で相対した。
「……誰なんだよ」
 荒くなった息の合間にそう尋ねる。
 天窓からの月の採光に照らされた青白い裸体の少女が、凛冽の深海のような色濃い群青色の瞳をぐっとこちらに向けていた。長い黒髪が腰の辺りで静かに揺れている。
 彼女の小さな唇が開いた。
「お前、地球人だな」
「……」
 意味はわからなかったが敵意はひしひしと感じた。彼女は沙那が答えないと見るや、レスリングをより実践的にしたような低い構えを取る。沙那も膝を深く取って足を隠す。
 長い睨み合いが続いた。
「……オォォォンッ!」
 それは人間というよりは獣の叫ぶ威嚇の声に近かった。彼女は素早く沙那の足に飛びつき、沙那は左膝で容赦なく彼女の顔面を狙う。しかし僅かに反応の遅れた彼は(絞首のダメージが利いていたのだ)後ろ足を取られる事を許してしまう。そのまま彼は転倒。気づいた時にマウントを奪われていて
「このっ――」
 少女が体重を乗せて首を押さえつけてきた。よほど確実に殺したいらしい。
 しかし今度は沙那も油断しない。素早く少女の両腕の間に腕を突っ込み、左右に押し開く。いとも簡単に腕は外れ、同時に彼女の鼻に向かって頭突きをかました。
「ぅっぷ――」
 と彼女はのけぞり、その顔面に左右のフックでラッシュをかける。上半身しか使えない不格好な左フックだが、綺麗に決まると彼女の体からふら――と力が抜けた。そのまま後ろ髪を引っ張られるように床に倒れ込んだ。
 沙那は彼女の体の下から抜け出す。立ち上がって、彼女の力の抜けた体に構える。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……はぁー」
 彼女は動かなかった。長い髪が顔にかかり、力なく瞳は閉じている。
 今度こそ気絶した。
 沙那は手近のダンボールにもたれかかって、息を大きく吐いた。喉に手を当てて、撫でる。
「ごりごりする……うぇ。なんなんだ……」
 また動き出さないように紐で両腕を縛ってやろうかと思う。そこで彼女の腕に何か変な物がついているのに気がついた。銀色の装飾のないリングが――ちょうどさっきのケースと同じような銀色だ――巻かれていて、そこに何かアクセサリのような物がついていた。近寄って、よく見てみる。
「……鍵?」
 二つの鍵と青白く光る小さなカードのような物がついていた。カードは太陽の光が当たった水のように、ランダムに青い光が蠢いている。鍵の方に目を移すと、それぞれプラスチックと木でできたプレートが一緒についていた。沙那はそれらをしげしげと眺め
「なんだこれ……?」
 プレートに書かれている数字に気がついた。
「421番……」
 プレートには大きな黒い文字で「421」とあった。もう一つの鍵にも、木でできたプレートがついている。こちらは走り書きで「鳩の7」と書かれていた。
「(鳩……7……)」
 奇抜な出来事で構成された奇妙な連想ゲームに巻き込まれたようだった。
「『地球人』……?」


 『あなたのお父さんは宇宙人を追ってた』――って言ったら、信じる?


「……宇宙、人」
 身体から力が抜けた。
 近くにあったソファーに倒れ込む。
 呟く。
「父さんは何したんだよ、本当に……」


■2


 額が痛む
 沙那は額にできた大痣に手を当てながら、朝の陽光差し込むキッチンでフライパンを地味にふるっていた。腕が痛くて派手に振るえないのだ。
 彼の背後、キッチンと続いているリビングには、食卓についた昨日の彼女もいる。少しつり目で大きな目が、じっと沙那の背中に注がれている。睨んでいると形容しても良いし、というか睨んでいるだろう。沙那はそれを知っていたが、気まずいと思いつつも無視していた。
 前日がどんな日でも翌朝は来る。目下の問題を全部放り出して眠っていた沙那も、天窓からの容赦ない採光に、今朝には目を覚まさざるを得なかった。もちろん前日がどんな日だろうと腹も減る。眠っている彼女を放っておいてまずは朝食を作る事にした。現実逃避である。
「お前、タカギの息子か」
 ちょうど汚いスクランブルエッグを作っているところだった(沙那は長い間一人暮らし同然の暮らしをしていたが、全く料理の腕は上がらなかった)。背後からいきなり声がかけられた。振り返ると、起き抜けの彼女が相変わらずの素っ裸に毛布をかぶって、リビングからキッチンの沙那を睨んでいた。
「これはそういう意味だろう」
 彼女は不満げな顔をして、紙切れを一枚突きだした。それは昨夜、父親の書斎にあったアルバムの写真だった。一枚しまい忘れたらしい。まだ若い頃の父親と、母親に抱きかかえられた幼い自分の姿が写っている。
「……お前がもし、タカギの息子なら、昨日の事は謝ろう。お前も忘れろ。タカギの息子なんだな?」
 脳裏には様々な疑問と逡巡が駆け巡ったが、とりあえず素直に「そうだけど」、とだいぶ警戒しながら答えた。すると彼女は何かを思案するように視線を下げ、黙り込んでしまった。沙那は色々語りかけるべき言葉を考えたが、結局最終的に口をついて出たのは
「……朝ご飯、食べる?」

 そして現在に至る。

「……はい、どうぞ」
 所々焦げがあるスクランブルエッグに目玉焼きとハム、色づけのレタスとプチトマトに食い合わせの悪いご飯を卓に並べた。飲み物は何を出すべきか迷ったが、とりあえずミネラルウォーターを出して、自分はオリジナル栄養ドリンク(卵の殻や煮干しなんかを牛乳に混ぜ合わせた物だ)を用意した。
 静かな朝食の時間が続いた。
 沙那がかき込むように(悪い癖だ)食べていると、ふと、彼女がまったく料理に手をつけてない事に気がついた。当たり前と言えば当たり前だ。昨日は殴り合い――下手すれば殺し合っていた仲だ。実際沙那自身も
「(……もっと警戒するべきなのか)」
 という思いがないわけではないが、彼女の様子を見るにその心配はいらない気がした。とにかく、触らぬ神に祟りなしだ。
「……食事、食べたら? 毒は入ってないよ。まずいだけで」
「……名前は」
 彼女は全然関係ない質問を不躾にぶつけてきた。沙那は彼女の顔をちらりと見て、逡巡してから
「……沙那。高木 沙那」
 彼女は不可解そうに眉を寄せた後、奥歯に何か詰まったように口を動かして
「あ――さ――サア? サナ? ふん、お前達はみんな変な名前だな。発音しにくい」
「なんていうの?」
 沙那が尋ねると、彼女は「?」と顔を歪めた。沙那は彼女を指さす。
「私? 私の名前か?」
「うん」
「……言えないな」
「なんで」
「なんで? お前と、お前の父親が野蛮人だったからだ」
 イラ
 と、さすがの沙那も頬をひくつかせた。意味はわからないが、どう見ても年下の少女に偉そうに言われると、年功序列制の適用を訴えたくなる。
「聞かせろ、これは何だ」
 またも、尊大な態度で彼女は尋ねた。砂那が目を向けると、黒い、鉄の塊を差し出してきた。
 ごつごつとした、あまりスマートでない長方形の機械。受け取ってみると、それは携帯端末だった。だが市販されているようなデザイン重視のものではなく、軍用の、それこそ衛星とホットラインで繋がっているような品だ。
「何? これ」
「んな!?」
 と、少女は大きな目をさらにぐいと見開いて、幼い声で叫んだ。
「何とはなんだ!? タカギが私に渡したんだぞ!?」
「父さんが?」
「そうだ。息子に会ったら、これを渡せと言っていた。……記憶は曖昧だが」
 そうは言われても、砂那にはこれに覚えがない。父親がこれを使っていたような思い出も無い。
 手の内でいじっていると、外装が縦に開いた。中を覗くと、綺麗なディスプレイが白く光り、何かの起動画面が始まっていた。
「何だ……?」
 オープニングからOSを読み込む画面になり、それほど待たずに最初の文面が浮かんだ。。
「『声紋認証いたします。端末のマイクに口を近づけて、声を発してください』」
 声紋認証のセキュリティコードらしい。
「困ったな……」
 いわゆるパスワードなら、砂那は『不正規な技術』で破れない事もない。市販されていない高性能演算装置が手元にあるし、プルートフォースするソフトも幾つか言語別に持っている。
 だが、これは声紋認証である。テキスト以外のセキュリティーコードに対する手段を、砂那は持っていない。
「うーん……」
「おい、どうなんだ? なにを唸ってるんだ?」
 どうしたものかと首をひねっていると、携帯端末から『困ったな……』というくぐもった声が聞こえてきた。ぎょっとして目をやると、端末の画面に「認証しました」と文字が浮かんでいた。
「む、なんだ? 今の声は……」
「……僕の声?」
 どうやら自分の声が鍵だったらしい――だが父親の端末をいじった事はない。父親がどこかで自分の声を入手したのだろうか?
 画面の方は自動的にデスクトップが表示されたと思ったら、すぐに何かのファイルを展開し始めた。肌色の背景に青や赤の線が走っている画像ファイルで、最初は人体を模したものかと思ったが、そうではなかった。
「あぁ、そうか。これ、地図だ」
「もーう、なんだ、私にも見せろっ」
 砂那の前に、ずい、と少女が頭を突き出してきた。砂那は彼女の頭の脇から、顔を覗かせる。
 地図はごく近所のものだ。よく見ると、二つ、赤い点が表示されている。点同士が線で結ばれていて、二つ目の点から先にも、途切れた線が延びている。ちょうどスティック付きのキャンディーを二つ合わせて、二つ目にもう一本スティックを刺したみたいだった。
「この家にも点がある……ここが出発点で、この点を追って最後の点まで行けって事か」
「なんなんだ? どうなってる……んもーう、私にも説明しろぉ」
 じたばたと、少女は砂那の胸を叩いた。「いたたた……!」と砂那が慌てて、彼女の身体を引き剥がした。
「ちょと――やめてよ、痛いってば!」
「自分ひとりで納得してるからだっ、私にも教えろ!」
「それはいいけどさ……その前に聞きたいんだけど、君、誰なの? それと、どうしてうちにいるの?」
 途端、彼女は大きく目を見開き、両手で砂那の胸を勢いよく押した。ぐほ、と砂那が仰け反っている間に反動を利用して立ち上がり、ドガッと手のひらを卓に叩きつけた。
「ふざけるなっ、お前達が私をここに連れ込んだんだろう! ここはどこだ!? タカギはどこに行った!? 私が訊きたい!」
 叫ぶ度に彼女はまた顔を近づけてくる。沙那は両手を彼女と自分の間に差し込んで
「ちょ、ちょっと待ってよ……ここは帝都習志野区志野町3A-2って所で――」
「それは地球か?」
「……まぁ、広い意味では」
「地球のどの辺りだ」
 沙那は「同姓の親友にに告白された」みたいな形相で彼女を見ていたが、しばらくしてから
「わからないけど、地球規模で言うなら、極東って言われてるかな」
「き――きょ? 何? わからん! タカギはどこに行った? あいつを連れて来い!」
「タカギっていうのが僕の父さんの事なら、僕にもわからないよ。失踪したんだ。父さんの事、どうして知ってるの?」
 彼女は鼻息を荒くして
「どうしても何も私をここに連れてきたのはタカギだ。それ以上は知らん。逃げる途中で私は気絶した。貴様の父親に殴られてだ!」
 彼女は額に手を置く。
「おかげで私は、所々記憶が欠落してしまって……昨日の夜に目が覚めたら思い出せない事ばかりだ。周りは暗いし、扉らしき物も開かない、そうこうしていると怪しい影が入ってきて……『敵』に捕まったと思ったぞ!」
 だから昨日は襲いかかってきたらしい。いくら何でも迷惑な話だ。ただの勘違いじゃないか。
「(って、そうじゃなくて……!)」
 沙那は腰を浮かした。
「逃げる? 『敵』って? 父さんは誰かに追われてたの?」
「はぁ? 違う! 仲間なのに何も知らないのか? 追われていたのは私だ!」
「なんで?」
 彼女はさも当たり前であるかのように叫んだ。

「私は●×※☆*の娘――×☆●◇の姫だからだ!」
 
「…………」
 沙那は素直に唖然とした。
 そしてとりあえず箸を置いた。
 いきり立つ彼女を前にして、両手を組んでそこに口を寄せた。考える。
 彼女は本気だ。これはまず、間違いない。
 この彼女のイカれっぷりも合わせて全部手の込んだ悪戯であるとも思いたい。しかし自分自身についた額の痣や、喉元にくっきりとついた絞め跡がそれを否定する。これが悪戯だとしたらどう考えてもやり過ぎだ。
 現代社会において、こういう時便利なのが精神障害などの心理学的レッテル貼りだ。そういったものをいじくれば、彼女について一番妥当な答えが出そうな気もするが――
 

 『あなたのお父さんは宇宙人を追っていた』――って言ったら、信じる?

 
「……誰の娘――何の姫って言った?」
 沙那の質問に、彼女は腕を組み、子供じみた優越感たっぷりに答えた。
「●×※☆*の娘、×☆●◇の姫だ」
 『誰』『どこ』、に当たる部分が全く聞き取れない。テープの早回しのようにも聞こえる。そもそもこれは人の出せる声か?
「それってどこか――外国の話?」
「外国ぅ? 我国はお前達の狭苦しい国家概念で掴みきれるものではない!」
「我国って? なにそれ、どういう国なの」
「×☆●◇は■○×▲において重要な役割を占めた為、その功績をたたえる形で付与された国家だ。そして四代目の■*@#の時代、政治RMTにより立身出世、覇王となった」
「はおう?」
「八つの星を引き連れ、その向かう先を定め、導く、純然たる覇王だ」
「……スターウォーズって知ってる?」
「宇宙間戦争か? 私は過去一億年以内の◇▲*@の歴史なら全て学習している。もちろん、宇宙間戦争についてもだ。我国の戦歴は全て全◇▲*@の航宙権益を守るため――」
 さらにまくし立てる彼女を前にして、沙那はどうしようもない脱力感に包まれた。なんだコレ。どうなってんだコレ。昨日からずっと、なんだこりゃ?
「……待って、よくわかった。うん、ありがとう。それで訊きたいんだけど、とりあえず名前だけでもさ……」
「言っただろう、言えないと」
「だけど名前くらいわからないと僕もどう呼んで良いか……」
 途端、彼女は激昂し
「だから、貴様の父親のせいでわからなくなったんだ! 奴が私の頭を叩いたから、私の記憶が断片的になって、名前までわからなくなってしまった! この不快感……うぅ」
 彼女は綺麗な黒髪を抱えて、ぎゅっと目をつむってしまった。目の端に涙がたまっている。よほど不快らしい。
「あの、わかったよ。よくわかんないけど……。無理に思い出さなくていいから、じゃぁなんて呼べばいい?」
 彼女は涙目をこすって、沙那を流し目で睨んだ。
「ふん、そうだな……さしずめ●▽◇*とでも呼べばいい」
 なんと言ってるか聞きとれない。
「……その名前は、その……この国だと縁起が悪いから、他の名前がいいかな」
「縁起? 野蛮人共が、神の威光を感じられるとはな」
「野蛮人って……さっきから誰の事をさして言ってるの?」
 彼女はびしっと沙那を指さし(いい加減沙那も「一体この元気はどこから来るんだろう」と辟易してきた)大きな目をさらに大きく見開いた。
「お前達、地球人だ!」
「……あぁ、そう」
 沙那の気のない返事に気を悪くしたらしい。彼女は語気を強めてまくし立てようとして
「お前達地球人は私の――」 
 急に表情を失った。
 まるで燃えるようだった瞳からは光が失せ、沈み込むような淀んだ光が渦巻く。呼吸が止まり、肩が震え始める。その体を抱き、戸惑うように
「私の――家族に、何をした……?」
 明後日の方向を眺めていた沙那が気づいた。僅かに口を開き、何か言おうとする。
 チャイムが鳴った。


「沙那ー。まだ片付けて終わってないのー……うわ、昨日より汚れてる」
 家主の許可など全く取らず玄関を上がってきたのはタマコである。彼女は中学時代テニス部で使っていたジャージ姿だった。今日こそ手伝う気で来たのだ。
「沙那ー寝てるの? あのさぁ、家の前に変な車止まってるけど、あれって砂那の――――何してんの?」
 リビングに入った彼女が見たのは不自然な体制でキッチンを背にする沙那の姿だった。
「何って、何が? 別に、何も」
 邦画のB級映画並みに演技くさい態度で、彼は首をふりふりそう言った。と、その直後にガタンという大きな音が、彼の足下からした。ちょうど鍋なんかをしまう、キッチン下の収納スペースからだ。沙那の股の裏辺り、左右開きの扉ががたがたと揺れている。
「……音してるけど」
「あぁなんか、中で崩れたんだろ――それよりどうしたの今日は?」
「むぐー!」
 収納スペースからくぐもった声がした。途端、沙那は「うぇーほ、うぇーほ!」と咳のようなものをした。が、如何せんその演技くささは邦画B級映画並から素人ミュージカル並に下落していた。
「……なにやってんの? 朝っぱらから」
「だから何が? あぁそうだ、タマコその格好は今日こそ手伝ってくれるって事? ありがとう。だけどもういいよ。今日も一人でできそうだから。彼氏の所に電話して映画でも観てくればいいよ、甘ったるくてカップル以外楽しめなさそうな恋愛映画」
「もう別れたけど」
「あーそう! そうだったんだ! じゃアクション映画がいいよ。ふられてイライラした日はアクション映画で敵をばたばた倒すのを観ると最高」
 ドンッ
 と、タマコはリビングの壁を裏拳で殴りつけた。家全体が衝撃でびりびりと揺れ、沙那は沈黙する。
「……何隠してんの? そこにいるの誰?」
「誰って誰も」
 ドンッ
「猫だよ猫! 保健所に連れて行かれそうだったから昨日助けたんだ」
「猫好き。見せて」
「ごめん、やっぱり犬だったような……」
「犬はもっと好き」
「カビパラ……カビパラだった気がするかな? 凄くでっかいネズミだよ?」
「サナ! サナ! もう出せ! 暗い! ここは暗いぞ!」
 紛れもなく、収納スペースから女の声がした。それも子供、少女の声だ。タマコは目を向け、そして戻し、
「『暗いっ』て」
「暗い? 何が? 何それ?」
 タマコは目を細めて彼を見つめた。沙那はそれからスーと視線を逸らし、換気扇なんかに目を向ける。タマコは低く、呟く。
「……いい加減にしろよ」
 リビングの中にずんずんと入りこむ。「ちょっと待った、待って!」と両手を突き出して制止する沙那。しかし彼女が行動を起こした時、沙那がいくら制止しても聞かないのは保育園時代から全く変わっていない。彼女はむしろ勢い込んで沙那に向かって来る。
 その時、収納スペースの扉がドンガラガッシャンとはじけるように中から押し開かれた。
「暗いと言っただろ! どうして開けてくれなかったんだ!? イジワルは泥棒の始まりだぞ! 野蛮人め!」
 素っ裸にシーツ一枚をまとった黒髪の少女が飛び出てきて、さすがに『素っ裸』は予想外だったタマコは目を見開いて立ち止まった。
「おい聞いてるのか? おい! おーい! ん? 誰だお前? 地球人だな?」
 少女は尊大な態度でそう尋ねる。タマコは彼女をじっと見つめてから、沙那を見上げた。呆然として
「誰この子……裸だけど……」
 沙那の両手が行き場を失っておろおろし、視線も落ち着きなく辺りをきょろきょろした。
「あー……誰だろうね、知らない子かな?」
 沙那の様子に素っ裸の彼女はいぶかしげに目を細める。
「……何だ? どうした? あぁ、もしかしてサナ、この女はお前の女なのかモガッ」
 とんでもない事を言いだした彼女の口を沙那が慌ててふさぐ。タマコはやっぱり呆然としたまま、小さく呟いた。
「……小さい頃のあたしに似てる」
 沙那は意味もなく口をぱくぱくさせた後、
「――――いとこなんだ。まだ言ってなかったけど、外国におばさんがいてね、それで」
 タマコは呆然としたまま、拳を握った。
 
 
 頬が痛む
「沙那! これはなんだ? 凄いぞ、人がたくさんいる! とても秩序的だ!」
 タマコに拳で(平手じゃなくて拳で)殴られた頬を氷水で冷やしている沙那。その後ろで件の彼女は、勝手にコードを接続してテレビを眺めている(電子機器には強いようだ)。
「……駅前」
「凄い。全てが人のコントロール下に置かれているのか……自然は全く無い。秩序という法則に人々は守られ――」
 彼女は今、基調の白が眩しいセーラー服を着ている。これは沙那が顔の傷を増やしながら苦労してタマコから借りてきた品だ。激怒して帰って行ったタマコの家に行き「いとこの事なんだけど、あの娘の服全部洗濯しちゃって、今着るものが無くて、それでもしよければなんだけど、何か着るものブッ」と玄関で顔面に叩きつけられたのだ。広げてみると中学時代のタマコの制服だった。下着はなかった。着せてみると意外とぴったりだった。
 言われてみれば、確かに似ているかもしれない。中学の時のタマコそのものだ。自分が宇宙人だと主張する事はなかったが、態度は横柄だったし、髪はまだ黒かった。
「沙那! これはなんだ!?」
 現実に引き戻された。沙那がテレビに目をやると、海に浮かぶ大きな灰色の鉄のかたまりを背にした男性リポーターが、なにやら旗やら横断幕を掲げた人たちを脇目に意気込んで話している。
「大きい……宇宙船か?」
 沙那は救急箱から鎮痛剤を取り出すと水で飲み下す。
「ううん、昔そういうアニメがあったけど……それは軍艦。アメリカの空母とかなんとか……東南アジアの方に派遣するから補給に来たんだって」
 別段沙那は軍事マニアではない。その空母が立ち寄る港がこの近くなのだ。噂は耳にしていた。
「軍艦……なるほど、局地用の水上戦闘艇だな。◇▲*●はどうなっているのか……」
 また「むむむ……」と悩み始めた彼女の前に座り、頬に氷水を当てたまま、件の携帯端末を手にした。
 OSを起動し、画像ファイルを展開する。どうファイルの中で動かせるのはこれだけのようだ。
 端末自体はネットインフラと繋がっているらしく、いじるとダウンロード中の表示が出て、拡大表示や衛星写真表示ができる。驚くべきことに衛星写真の方はリアルタイム更新だ。どうなっているのだろう?
 しばらくいじっていると、どうやら例の赤い点はこの辺りの駅構内を指し示しているらしいとわかった。
 沙那の住む街は県内ではもっとも発展しているので、そこにある駅もやはり相応の整備がなされている。ただ歩いて入って、そのまま出るだけでも五分はかかるし、集まっている人も膨大だ。老若男女、国籍を問わない人がいつも忙しげに歩いている。それを狙った売店が軒を連ね、地下にはデパートが、十五階建ての上階には本屋から雑貨商店、高級料理店まで、ぎゅうぎゅう詰めに押し込まれている。昔は「ここへ来れば欲しいものは何でも手に入る」とCMが宣伝して回っていたものだ。インターネットが普及した今になっても、その役割は変わっていない。
「(どこかの店……? でも位置的に変な場所にあるな)」
 砂那は顔を上げて、テレビに夢中になっているアーニャを見た。彼女は「む!?」と目を見開くと、頬を桜色に染め、
「これは……ふかふかしてるぞ、これは何だ? 白くて……む、うむ……」
 とだんだん恍惚とした表情となり、うっすらと笑みを浮かべた。
「……それは犬だね」
「イヌ? ふむ、イヌか。なんというか、触ってみたいな……」
 彼女を見ながら考える。
 もしかして――父親が持ち出した『ある重要な物』とは彼女の事なのではないだろうか。
 だとしたら、今すぐに鳴海カナに電話をするべきではないだろうか。そして彼女を引き取ってもらい、自分はアメリカへ――
 砂那は思わず、ポケットの中の名刺を親指でつまんで握っていた。
「……あのさ、今日はちょっと一緒に来て欲しい所があるんだ」
「む? 一緒に? 外に出るという事か?」
 砂那は少し迷ってから、コクリと頷いて返した。彼女はふん、と鼻を鳴らし
「気は進まないな。記憶は欠落しているが、私は地球人が嫌いだ。あれだけの地球人に囲まれるのはとても嫌だ。言い方を変えると『吐き気がする』」
「別に変えなくてもいいけど……家にいてもしょうがないだろ? とにかく、父さんがいないと何が起きてるかもわからないし」
 沙那としては彼女がどこぞの(おそらくどこか外宇宙辺りの惑星の)姫だという話はとても信じられないので、何かの比喩か暗号だと思っている。いずれにせよ、その比喩か暗号は沙那にはさっぱり解けそうもない。
 父親がどこでどうしているのかは知らない。だが、彼女という手掛りは残している。そして携帯端末の赤い点はすぐ近くの駅を指していて――放っておくには、少し惜しい気がした。少しくらい、覗いてみても良いと思う、なにしろ、父親は自分に彼女を預けたのだから、それくらいの権利はあるだろう……
「サナ! サナ! これ……!? これはなんだ?」
 彼のそんな考えはつゆ知らず。彼女は『異星人』らしく相変わらずただの朝のつまらない特集なんかに夢中だ。今日の特集は夏本番に楽しむつめた〜いクレープ。最高級の巨峰と紅苺のソースをかけた至高の一品。この夏売り出し中の女性キャスターが子供のようにはしゃぎながらぱくついて、「おーいしー」と笑みをこぼしている。
 沙那は浅く、何かに納得したように何度もうなずいた。
「……それはクレープ。甘くて、おいしい」
「甘い!? おいしいのか!?」
 沙那はうんうんと頷いて
「すっごく甘くて、おいしい。しかも冷たい」
 彼女は目をきらきらと輝かせて
「しかも冷たいのか!?」
 沙那はゆっくり、頷いた。


 「タマコの言ったとおりだ……やっぱり表に車が回してある……」
 締め切った薄手のカーテンの影から、沙那は玄関前の道を覗いていた。彼の視線の先には駐車禁止の道に堂々と止まっている黒の乗用車があった。
 アーニャをうまい事説得し、いざ駅前に出かけようとした時、砂那は思い出したのだ。タマコが今朝家に入って来た時、彼女は『家の前に変な車が……』と口走っていた――誰の車かはわからないが、父親が『ある重要な物』を持ち出し、それが原因で行方不明となったのなら、その『重要な物』を狙って誰かが砂那の動向を監視している可能性もゼロではないだろう――と、砂那は考えた。もちろん常識的な人間の発想とはかけ離れてはいるが、今の砂那にとってそんな事は重要ではない。現実に起こる可能性があれば、それを全部潰すのが彼が父親に教え込まれたやり方だ。
 それに考えたくない事だが、その『重要な物を狙っている誰か』の内には、鳴海カナも含まれているのだ。
「(……鳴海カナ、か)」
 砂那は拳大の小型望遠鏡で、車を観察する。運転席に一人、リクライニングシートを倒して寝ていて、助手席に一人、ラップトップ型の端末を操作するのがいる。どちらのもスーツ姿だが、こんな朝から活動するスーツ姿の社会人というのも想像できない。
 今度は車の方へ目を移す。一見した所、車種はアウディだろう。しかし所々改造の後が見受けられる。ガラスは光の屈折度がおかしいし、タイヤはゴムの色が経年の劣化とは違う色落ちをしている。それぞれ防弾加工がなされているに違いない。乗っているのはカタギの人間ではないだろう。
「…………」
「サナ! 早く行こう、早く食べたい!」
「うん、そうだね……こっちだ」
 沙那は彼女の手を引いて一階へ降りた。トイレに向かう。
「ちょっと待て! トイレに行きたいなら一人で行け! 怖いって言ってもダメだぞ!」
「いいから来て、ほら」
「いーやーだー――むきー……!」
 強引に引っ張っていき、個室のトイレに入ると、便器の後ろにある窓を開いた。ちょうどリビングに転がっているダンボールくらいの大きさだ。内側から格子を外し、外を確認する。
「……よし、ここから出よう」
「はぁ? サナ、お前は家を出る時はいつもトイレの窓から出るのか?」
「ううん。今日は特別。――よっと」
 沙那はさっと身を窓に滑り込ませ、見事に外に着地する。ほとんど音もしなかった。
「いいよ、ほら、おいで」
「……まったく、お前達野蛮人の文化は心底理解できんな」
 彼女はぶつぶつ文句を言いながらも、沙那に続いて窓から出ようとする。えっちらおっちらと手間取って、ようやく半身が外に出たところで、
「この――うわぁ!?」
 手足をばたつかせて落ちた。
「よっと」
 沙那はその体を見事にキャッチ。そのまま体を持ち上げて、地面に立たせる。
「怪我は」
 彼女はきょとんと目を見開いていたが、すぐにむっと視線を逸らして
「……昨日お前に蹴られた所が痛む」
「まぁ……僕も絞められた首が痛むよ。――こっちからだ」
 沙那は再び彼女の手を引いて日陰の方へ進む。沙那は突き当たりの背の高い塀につくと、さっとそれに手をかけて、あっさりと昇ってしまった。
「お、おお……」
「ほら、手」
 感嘆している彼女に手を差し出す。彼女は「ん、うむ」と手を掴み、沙那はぐいと引き上げた。急に引き上げられて、彼女は悲鳴を上げる。
「うひゃぁ!? ……おい! 危ないだろう、もっとゆっくりやれ!」
 沙那は全然聞かずに
「飛び降りるよ――よ!」
「わぁ!?」
 彼女を抱いて裏手の路地に飛び降りた。膝のクッションを深く取って、衝撃を効率よく和らげる。
「――よし。行こう。裏には手を回してないだろうし」
「よしじゃない、どこもよしじゃない! 帰りは玄関から入るからな! 地面に足をつけてだ! ――手を離せ!!」
 ぱしっと彼女は体を支えていた沙那の手を叩いた。沙那はその手を振りながら「ごめん」と答えて、歩き出す。
「これでそのクレープとやらが不味かったら承知せんからな……どこまで歩かせる気だ」
「帝都駅。おいしいと思う」
「どこなんだそこは……沙那はそのクレープとやらを食べた事あるのか?」
「……タマコに昔連れて行かれて食べたよ」
「ふーん、あの地球人もか……。それで、おいしかったのか?」
「一口食べたらおかわりしたくなるよ。タマコがそうしてた」
「ふーむ……まぁ、少しは楽しみだな。なるべく地球人がいないルートで行くんだぞ」
「がんばるよ」
「絶対だ」
「はいはい」
 沙那がそう言って角を曲がった時だった。

「あら、すっごい偶然」

 目の前に鳴海の顔があった。

 ぎょっとするなんてものじゃなかった。全身がビクンと反応し、本能的に顎を引いて、腰を落とし、左腕が顔面を守るために上がった。バックステップで距離を取ると同時に「え? え?」と何が起こっているかわかっていない彼女を背後に取る。
「――びっくりさせちゃった?」
 サングラスをかけた鳴海は、口元だけを歪めて沙那にほほえみかけた。沙那は警戒しつつも、彼女の平静な様子に合わせ、あげていた左腕を降ろす。
「いえ、別に……」
「そう? ――あら、可愛い娘連れてるのね。紹介してくれる?」
 鳴海が砂那の陰に隠れた彼女に顔を向けた。サングラス越しの目を細めて、微笑みかける――砂那はその目を見下ろしながら、逡巡した。

 どうする?
 ここで本当の事を言うべきか?

 様々な迷いが頭の中を巡った。車は家の玄関前に止めてあった。家の裏手にいた彼女はあの車の持ち主ではないかもしれない。ただ偶然、この辺りにいただけか……いや、それはおかしい。『重要なあるモノ』を追って彼女は忙しいはずで……だがそれがこの女の子であるという確証はどこにも無い。事情を話せば、それ相応の対応をしてくれるかもしれない。まだまだ未熟な自分が知らないような、全てを丸く納めるすべを知っているかも、でも、しかし――
「……いとこです」
 散々迷って、結局そう呟いた。後でどう言い訳するか、既に考えながら。
「目の色が青いね。外国の娘みたいだけど――ね、お名前は?」
 鳴海がかがんで目を合わせると、話しかけられた彼女は身をすくめて沙那の後ろに隠れた。小さな声で呟く。
「おい、沙那。こいつなんか……」
 沙那は鳴海に見えない角度で小さく頷いて返した。鳴海は「ね、お名前は?」と人なつっこい笑顔で尋ねる。
「――アーニャです。アーニャ・ブラドリー。これからお世話になる家がカトリックで、年少留学生を受け入れてるんです。今日は引っ越しの手伝いと、顔合わせに」
 沙那が考えていた『設定』を答えると、鳴海はすっと顔を上げ、そしてニッと色の違う笑みを浮かべた。
「頭の回転が早いね沙那君。中学三年生まで正義のヒーローを目指してただけあるよ」
 沙那は眉をひそめる。鳴海は笑みを微笑みに変えた。
「……アーニャちゃん。こっちにおいで。クレープならいくらでも食べさせてあげるよ」
 鳴海は彼女――アーニャに手を差し出した。彼女は沙那の背に深く隠れ、沙那は鳴海とアーニャの間に割って入った。
 鳴海は背を正し、サングラス越しの目を沙那に向ける。
 太陽の光で中が透けて見えると、その瞳は全く笑っていなかった。鋭い、猛禽類のそれに似た瞳が、沙那を射貫く。
「沙那君」
「……はい」
「今の生活って楽しい?」
「え?」
「私が君だったら、すぐに逃げ出したくなると思うな。両親がいなくなって、性悪な親戚に引き取られるなんて、不幸そのものだよ。それも子供の内に経験するなんて、性格が歪んじゃう」
「……」
「それ以外にも、たくさん不満はあるでしょう? 『ここ』じゃぁなかなか思い通りにできないよね。私も昔は嫌だったよ。でも『向こう』に行けば大丈夫。個性が尊重してもらえる国だからね」
「……あの、何の話かよくわからな」
 鳴海の手が瞬時に伸びた。沙那が反応するまもなく、その肩をわしづかみにされる。
 鳴海の唇が近づく。
「…………。このままアメリカ行きはやめる? 嫌な事だらけの『ここ』に留まる? やめておきなさい。もう十年以上君は嫌な目に遭い続けてるじゃない。この先に希望を持ったって、結局また打ち砕かれるのをみるだけよ。私はね、君の事、考えて言ってあげてるんだよ――それとも宇宙人、本当にいると思ってる?」
 心臓がわしづかみにされたかと思った。だが、何とか混乱を鎮めて、平静を装った返答を続ける。
「……鳴海さんが言ったんです。父が、宇宙人を追っていたって」
 違うよ、と鳴海は耳元で甘く囁いた。心臓を優しく撫でるような、大人の甘美な香りがした。
「あなたのお父さんも、『見えないはずの宇宙人』を追っていた――って、言ったのよ」
 沙那は押し黙った。その言葉の意味を、かみ砕く。飲み干す
 父さんは幻覚をみていたというのか?
 高木砂那の父、高木一は自らを宇宙人と名乗る少女を本気でそうだと信じて、どこかからさらい、家の地下に監禁した。原因は過剰なストレスが引き起こした解離性障害かその類だ。そして鳴海は、その不祥事をもみ消すためにここに来たのだ。警視庁内でもほぼ秘密部隊化している非公然公安部隊『桜』は、これまでは別のもっと穏便な課に偽装されていて、仮に父親の件が発覚した場合、不祥事と共に部隊の秘密が全て露呈する可能性がある。そのためのもみ消しだ――脳裏に一瞬で、そんな『現実的な真実』が描かれた。沙那を沈黙させるに十分な説得力があった。そんなはずないと思えば思う程、「では彼女は宇宙人なのか?」という疑問が頭をもたげてくる。その答えを、沙那は持っていない。沈黙するしかなかった。ただ不安ばかりが胸の内で暴れ回った。
「……勘違いは解消したかしら?」
 鳴海はそれに満足そうに頷いた。アーニャに手を伸ばし
「この娘はね、児童略取とか、誘拐の被害者なの。容疑者は言わなくてもわかると思うけど――とりあえず、見つかってよかった。こっちで預かるけど、いいよね」
 と彼女を引っ張った。アーニャはその手を振り払おうとしたが、鳴海の華奢に見える腕の力に僅かに揺らす事もできなかった。アーニャの目に一瞬おびえの色が混じる。
「サナ!」
 沙那は一瞬ためらった後、彼女を引いていこうとする鳴海の手を慌てて掴んだ。
「……どこに連れて行くんですか」
「しかるべき所に、だよ。私は探すのが仕事だから、その先の事は詳しく知らない。だけどセオリー通り行くなら、児童福祉局に連絡しなくちゃ。もちろん変な事はしない。一応私も、警察官だからね。正義感があるのさ」
「……それ、本当ですか」
 鳴海はゆっくり頷いた。
「この子の身元がはっきりしたら、君に報告するよ。どういう処置がとられたかも。その後で連絡が取れるようにしてあげる。あ、お父さんのことは心配しないで、全部上手くやってあげるよ。高木さんは功労者だからさ、多少の失敗は……ね。約束するよ」
 沙那は迷うような視線を彼女に向けていた。しかししばらくすると、僅かに視線を落として、手を離した。
「サナ? おい、どういう事だ!?」
 沙那は彼女の声に応えなかった。彼女の揺れる黒髪を一瞬見て、また視線を落とす。
「サナ!」
 鳴海は抵抗するアーニャの両腕を掴んで、鳴海は無言で彼女を引っ張った。タマコから借りたセーラー服が、くしゃくしゃになる。
「サナ!! 嫌だ、この女は嫌だ、見捨てる気か……!?」
 彼女の声に湿っぽいものが混ざった。しかし沙那は、身動きできなかった。
 沙那の脳裏に浮かんでいるのは父親の顔だった。父親は確かに、正義のヒーローだったと思う。どんな事があっても正義を断行する強さが、無口な性格の裏に見え隠れしていた。どんな事情があったのかは知らないが、アーニャを助けたのはそういう行動としての結果だったはずだ。
 だが同時に、父親は母親を捨てている。今も自分に全てを押しつけて、どこかに消えてしまっているのだ。
 鳴海の正論に勝てる程、父親の言う『正義のヒーロー』なんて物を信じる気になれない。父親の正義はあまりに身勝手だ。そのせいで母親はいなくなり、砂那は片親で育つ事になった。めったに家に帰ってこない父。夕飯は一人で食べて、小学校の卒業式も中学の入学式も一人だった。タマコや津田が過干渉な親に辟易している様を見ながら、砂那はすごくうらやましかった。それもこれも、自分が一時の感情で正義のヒーローぶっていたせいだ。これ以上バカみたいにそうして、また大事な物を見失うのは嫌だ。鳴海が与えてくれる新しい生活を失っては、もうこの先に残されたチャンスは、もうないかもしれないのだ。
「ほら、行こう」
「いや――むっ、むぐ!?」」
 鳴海はさっとアーニャの背後に回り込むと、わめくその口を片手で閉ざし、もう片方の腕を脇の下にもぐらせて体を持ち上げた。アーニャの声がくぐもって、彼女は目の端に涙をためながら、それでも必死に沙那を振り返って叫ぶ。
「……! ……もが!? ……沙那ッ!」
 沙那が顔を上げる。過ぎ去っていく彼女の顔を見つめる。恐怖と哀願でくしゃくしゃに歪んだ、彼女の表情。もはや声は出ていなかった。しっかりと口は閉ざされ、小さな叫びのようなモノが漏れるだけだ。だが瞳は年相応に潤んでいて、必死に何かを叫ぼうとしている。
 確かに似ていた。小さな頃のタマコそっくりだ。横暴なくせして、困った事があるとすぐに泣いてしがみついてくる泣き虫だった。鬱陶しいと思っていた。助けたら助けたで文句を言うのだ。あの泣き顔を見ると、いつも憂鬱だった。

 ――「沙那って元気いっぱい、正義のヒーローって感じだったよね」――

 子供の頃以上に、今の沙那はタマコを見ると憂鬱になる。タマコがかつて見た正義のヒーロー・高木沙那は死んだのだ。父親に見捨てられた母親と一緒に。タマコがどれだけ昔を懐かしんだって無駄だ。もう絶対に、信じられない。馬鹿みたいに、ただ目の前の人を助けるなんて、もう、できないのだ――


 本当にそうか?


 だから見過ごすのか。目の前で人が泣いているのに。嫌だ嫌だと泣き叫ぶ女の子が担がれているのに黙ってぼけっと突っ立っておくのか。『だって宇宙人なんて信用できないし』ってそういうわけか――
 でも、確かにそいつは得策だ。全く、合理的で、すばらしい、大人の判断だよ。

 少なくとも、お前は絶対に、傷つかない。

 
 気がつくと、どくん、どくん、と心臓が大きく脈打っていた。落ち着くために、息を深く、吸い込んだ。そのまま空気を肺の奥に飲み込もうとして、
「――――待てッ!」
 無意識に息が漏れた。おまけに声帯まで震わせて、自分でびくつくくらいの怒声が飛び出た。
 鳴海は振り返りもしなかった。
 聞こえたはずなのだ。だが返事も無しだ――その代わりに、彼女の背中には色々な言葉が書きなぐられていた。『子供は相手にしてられない』とか『やっぱり子供ね』とか――多くは砂那が勝手に抱いた被害妄想だったかもしれない。それは砂那自身にもわかっていた。
 だが頭には血がのぼった。砂那が一番よくわかっていて、いつだって苦しんでいた『弱点』を、鳴海は振り返りもしなかった事で突き刺したのだ。
 許せなかった。鳴海も、そしてそれを苛立ちつつも受け入れてしまいそうな自分に。
 ほとんど無意識に、沙那は腰に手を回し、掴んだそれを両手で前に突きだした。
 
 火薬の炸裂音
 
 鳴海の足下の地面が弾かれ、はがれたコンクリートが宙を舞った。高速で弾きあげられたそれは、鳴海の頬に一筋の血の筋を作った。
 空薬莢が堅いコンクリートの地面に落ちて、甲高い金属音を立てた。沙那の足下に転がる。
 鳴海の背後で、沙那は本物の拳銃――IMI製ジェリコ941、イスラエル製オートマチックピストル――を、両手でしっかり構えていた。父親の書斎にあったそれだ。腰を落とし、一歩前に出した足に体重をバランスよく載せるその様は、まさしく実践的射撃スタイルのお手本そのものだ。
 鳴海は足を止めた。
「……何?」
 淡々としたつぶやきだった。
 沙那の心臓は早鐘を打っていた。バカだと思った。なんて大それた事をしてしまったのだろうと。後悔の念は濁流のように砂那の思考を埋め尽くしていったが、しかしもはや後には引けない。そう思うと、頭は勝手に色々な事を判断していった。内心の動揺を悟らせないために、顔の筋肉が弛緩し、無表情を作り出す。勝手に口が言葉をはき出す。
「……彼女を離してください」
「無理だよ」
「だったら次は当てます。外しても、その次で当てます。それを外したら、そのまた次で当てます。それを装弾数十六発分、繰り返します。全て対処できますか」
 鳴海は視線だけを振り返らせた。
「……できるかもしれないね」
 沙那は親指で劇鉄を起こした。ガチャリ、という凶暴な金属音がした。
 射撃ならハワイで十二回、韓国で七回、父親の指導の下訓練している。二発目の脅しはしないように訓練されているのだ。そう、まさしく、『次は当てる』。
 口が勝手に開く。
「返してください、その子――親戚の子なんです」
 沙那が呟きに、鳴海は低い声で間髪入れずに返す。
「子供みたいな我がまま言わないで。あんまりしつこくすると、私も怒るよ」
「……我がままとかじゃ、ないです」
 砂那は銃の照準――アイアンサイトの上にしっかりと鳴海の頭を乗せた。その照準越しに、鳴海の目を見つめる。
 鳴海はしばらく黙っていた。流す鋭い目線をサングラスの奥で光らせて、沙那を見つめる。沙那は引き金にかけた指から手を離さないまま、それを真正面から受け止めた。
「……いいよ」
 鳴海がふいに、抱えていたアーニャを降ろした。彼女は一目散に沙那の方に駆けて来て、彼の背に隠れた。沙那は銃を構えたまま、
「そのまま後ろを向いて、壁に手をついてください。足を開いて」
 鳴海はそれに従わなかった。まっすぐに相対し、こちらを見つめている。
 桜色の唇が小さく呟く。
「……クレープ。食べに行くなら早く行った方がいいよ」
 その時、遠くから何か獣がうなるような声が聞こえた。だんだん近づいてくる。
「朝の特集を見たお客が並んでるだろうし、それに――」
 甲高い急ブレーキの音
 沙那がはっとした時、すでにその車は――黒の改造アウディは鳴海の背後のT字交差点を急カーブして突っ込んできていて、こちらに凶暴な鼻先を向けていた。
 猛速で迫る鉄のかたまりを背にして、鳴海は淡々とした声で呟いた。
「食べる時間はあげないから」
 沙那は「くそ――ッ!」と奥歯を噛みしめてアーニャの手を取って走り出した。その背後で、鳴海がアウディに乗り込んでいる。
 沙那が最初の交差点を曲がった時、車は白煙を上げてその後を追い始めた。





「あの女、すごく嫌な気がする! すごく、すごく嫌だ!」
 辺りを走り回ってようやく駅構内にたどり着いた二人だったが、その息はすっかり上がっていて、額も体も汗びっしょりだった。
「僕も嫌な予感がする! きっと地球人も宇宙人も敵に回した嫌な奴なんだろ!」
 行き交う沢山の人と人の間をすり抜け、二人は駆ける。平日の昼間、駅構内は活気溢れている。スーツ姿の大人が携帯片手に忙しそうに歩き、私服姿の女の子達がはしゃいでいて、旅行に向かうらしきアロハ姿の家族連れが楽しげに改札をくぐっていく。その間を、二人は駆ける。
 ここに来るまでに巻いたとはいえ、さっきまでの鳴海カナの追跡は尋常ではなかった。逃げても逃げても、車と徒歩で挟み撃ちをしてくるのだ。急がなくては、すぐにここにも手を回されるだろう。
 不意に、砂那の背中を彼女が叩いた。
「お前、何ですぐに助けてくれなかったんだ!?」
 沙那は嫌そうに目を細める。
「だって……みんないまいち信用できないし……鳴海カナも、父さんも……一番信用できないのは宇宙人だけど」
「信用できないのはお前の方だ! このバカ! 薄情者! 無責任!」
「うるさいなぁ、助けたんだからいいだろ」
「よくない! 勝手に助けて勝手に殴って記憶まで奪ったんだ、最後まで面倒を見ろ!」
「それは父さんがした事だろ!?」
「親の咎は息子の咎だ! 血の責務を負え、貧民め! ――あ、それから」
 沙那は辟易して、
「まだあるの?」
「いくらでもある! 私の事はこれから、アーニャと呼べ。あの名前、発音しやすいし、気に入った」
 なんでそんなに偉そうなんだよ、と沙那は呆れる。
「わかったよ『アーニャ』」
「それで、どういう意味だ?」
「何が?」
「名前の意味だ」
「意味なんて無い……あ、いや」
 言われてみて初めて気がついた。適当に言ったと思っていたが、そうではない。
「たしか……女王様の名前。仮名だけど。昔の映画であったんだ、そういうの」
 鳴海に追い詰められて、とっさに思い出したらしい。大して思い入れがある映画ではなかったが、観ていたおかげで助かった。
「えいが? ふむ、なんだかよくわからないが、高貴な者の名なのだな? 私は女王ではなく姫だが、貴族というのならぴったりだ」
「まぁ……確かにぴったりかな」
 確か、映画の中の女王も街に逃げ出してきていた。もっとも映画の方はもう少し庶民に好意的だったが。
「ふん、ところでクレープはどこだ?」
 沙那は走りながらぎょとして彼女を見た。
「今更何言ってるの――もうちょっと緊張感持ってよ!」
「な、なんだと!? 食べられないのか? だったら何のためにここに来たんだ!?」
「だからそれは――あ、あそこ!」
 砂那は携帯端末片手に通路の端を指差した。
 端末の地図を拡大していくと、赤い点はちょうどその辺りになったのだ。そこには大小さまざまなロッカーが一組になった、いわゆる『百円ロッカー』が置いてあった。この駅には地方からの旅行者も多いので、こういった荷物置き場は駅のそこらかしこに設置されている。これもそのうちの一つだ。
「えぇと……?」
 しかし考えてみれば、ロッカーは縦横に五十台以上も設置されていて、それに鍵もかかっている。何かが入っていたとしても、これでは見つけようがない。
 アーニャが砂那の手を引いて怒った。
「どうしたんだ? もーぅ、急がないと奴らが来てしまうぞっ」
 アーニャが砂那の手を引いて怒った。砂那は「ちょっと待って、今考えてるから」と振り返り、ハッとした。
「ん? なんだ?」
 沙那はアーニャの手を取ってその手首で揺れている鍵を手に取った。
「おい、どうするつもりだ?」
「鍵を開けるんだ」
「くれーぷが入ってるのか?」
「……さぁ、開けてみないとね」
 彼女の手首を持ち上げ、421番の鍵穴に差し込む。
 ひねる必要はなかった。次の瞬間勢いよく鍵穴から光があふれた。
 視界が明るい青と黄緑、赤のまばゆい閃光に包まれ、思わず手で目を覆った。しかし光は、その手を透けて、沙那の目を照らし出す。
「(なんだこれ――)」
 そう思った時だった。唐突に光が消え、雑踏が耳に舞い戻ってきた。海の底から一気に海面に顔を出したかのような感覚。
 周囲を見渡す。誰しもが当たり前のように忙しそうに自分の道を行く。
「(……僕にしか見えなかったのか?)」
 視線をロッカーに戻す。普通のロッカーが、普通に口を開けているだけだった。光を発するような物は何も無い。
 ただ、黒いゴムの固まりのような物が中にあるだけだ。
「これが赤い点の……?」
 手を伸ばす。
「おい沙那! お前にもやろう、おいしいぞ!」
 唐突に傍らから声がかけられた。沙那が目をやると、そこにはクレープにぱくつきながら、手にしたもう一つのクレープを差し出すアーニャがいた。
「アーニャ……ん、クレープ?」
「お巡りさん! あれあれ、あの娘!」
 若い男の声が遠くから聞こえて来た。おいおいまさか……と嫌な予感と共に視線をあげると、エプロン姿の男が二人の警官を背にして、こちらを指さしていた。
「あぁもう食べてる! お金もらってないのに!」
 二人の警官の内、若くて眼鏡をかけた方の警官が「わかりましたわかりました、任せてください」とエプロン姿の男をなだめ、もう一人の三十代くらいの警官がこちらに向かって来て、声をかけた。沙那達を子供と見たのか、優しい口調で言う。
「君達そこから動くなよ。話を聞くだけだ」
 沙那はため息をついて額に手をやった。これだけ見せられれば、一体アーニャが何をやらかしたのかは明白だった。
「アーニャ! 何してるんだ!?」
「む? クレープを食べているんだ」
「そうじゃなくて、お金は……」
「お金? なんだ、こんなちまちました物にも通貨が必要なのか?」
「あぁもう話がかみ合わない……って、うわっ!」
 沙那の視界がとんでもない映像を捕らえた。、警官のさらに奥には、駅前の交差点が見える。そこに黒塗りの乗用車が、無茶な運転で突っ込んできていた。交差点のど真ん中にもかかわらず急停止すると、運転席から乱暴に女が、助手席から慌てて男が、飛び出して来る。
「うわっまずい……! アーニャこっち!」
 沙那はアーニャの手を引いて駆けだした。
「むわっ、なんだ!? おい、くれーぷが落ちる!」
「あぁ!? ――テメ待てゴラァッ!」
 アーニャが悲鳴を上げ、向かって来ていた警官が怒声をあげる。周囲の人々がいぶかしげに振り返り、その前を沙那が強引に突っ走って通り抜ける。
「何でそういう余計な事するの!?」
「私が何をしたって言うんだ? クレープを食べに来たからクレープを食べただけだ!」
「それが余計な事なんだよ!」
「このクソガキぁ! 止まれオラァ!!」
 警官の怒声を背に受けながら、沙那はちょうど扉が開いた近くのエレベーターに、強引に乗り込んだ。並んで待っていた客達が口々に文句と罵声を浴びせる中、沙那は『閉』ボタンを連打する。
 
「あぁ! ちきしょう! クソッ!」
 追いついた警官は閉じたエレベータの扉を拳で殴りつける。遅れて追いついてきた若い眼鏡の警官が息を荒くして
「に、逃げられ、逃げられたんですか……」
 扉を殴りつけた警官は激昂して振り返る。
「てめぇが鈍くさいからだぞこの牛が! 会計課上がりがお回りなんぞするからこうなるんだこの馬鹿!」
 眼鏡の警官は至極困り切った顔で
「だって毎日数字見てたら胃がきりきりするんですもん……同期もみんな鬱病かかっちゃってこのままだと僕もまずいかなって……」
「んなの知るかこのグズがぁぁぁ! 追うぞッ、地下だ!」
「え、でも上の方は――」
「こいつは地下鉄直通エレベーターだボケェ! 地図把握しとけっつたろうが、テメェ会計課送り返してやるから覚悟しとけよ!」
「あぁ、待ってください!」
 警官二人が駆け出し、後に残された客達が「一体何なんだ?」とばかりに顔を見合わせた。そこに今度は若い男女が駆けつけて来る。
黒のスーツを着込み、サングラスをかけた女と、癖毛の気の弱そうな男。
「――ッ、よく逃げる」
 女が唇を噛みしめながら呟く。男の方が慌てた様子で
「あの、本庁から応援を呼んだ方が……」
「『桜』はジェミニ計画を逆手にとる気なのよ。下手したら殺されちゃう――行くよ!」
「殺すって……ジェミニ計画ってなんです!? ちょっと、待ってくださいよ!」
 男女は警官の後を追い、駆け出す。
 周囲を歩いていた群衆もエレベーター前の客も、その騒動にいぶかしげに視線を向けていたが、結局何も起こらないとわかるとあっさり興味を失った。いつも通りの雑踏が戻る。エレベーター前にたむろしていた客達も平静を取り戻し、客の一人が『▼』ボタンを押す。
 エレベーターの扉が開いた。
「――だからクレープ食べるならお金払わないとダメなんだって!」
「貴様さっきはそんな事言わなかったぞ!」
「言わなくても全宇宙共通の常識だと思っててね!」
「それはバカにしてるのか!? 私をバカにしてるのか!?」
 扉が開くと同時に中から沙那とアーニャが飛び出してきた。驚いている客達の間を、言い合いしながらすり抜ける。
 警官達の裏をかいたのだ。乗り込むだけ乗り込んで降りなかった。
「あ――! 貴様最初から私にクレープを食べさせる気など無かったんだな!?」
「そんな事言ってないだろ! ――それよりロッカーが開きっぱなしだ。中身盗まれてないかな……」
「おい、聞いてるのか!?」
「うるさいくらいに聞こえてるよ! ――こっちだ!」
 沙那はアーニャの手を引いて駆け出す。周囲に目を配る。
「(鳴海カナはどこに行った? 簡単にだませる相手だとは思えないけど……?)」
 ロッカーへと、駆ける。
 
「……福田!」
 地下へ続くエスカレーターを駆け下りていた鳴海が、唐突に立ち止まった。振り返りもせずに後方の福田に声を駆ける。
 後を追うだけで精一杯だった福田は慌てて
「へ、へい――いや、はい!」
「下は警官に任せろ! 改札を通すなと伝えておけ!」
 急に口調が男っぽくなり、福田はぎょっとする。
「あの――鳴海さんはどちらに……」
 鳴海はエスカレーターの手すりに手をかけると、華麗にそれを飛び越した。隣の徒歩用階段に着地すると、スーツスカートを翻して駆け出す。福田とすれ違い様に声をかけた。
「ロッカーだ! エレベーターはフェイクだ! あの子はロッカーに向かう――あそこに高木一佐が残した何かがあるんだ!」
「はい!?」
 理解できていない福田に苛立たしげに彼女は叫ぶ。
「裏をかかれたんだよ! あの子は高木一佐の戦術理論を体得してるんだ、空気を吸うみたいに裏をかいてくるぞッ!」
 まるで風のように彼女は階段を駆けていった。無駄な動きの一切無い、まるでそれ自体が芸術作品のような走りだった。
 一方福田はばたばたとエスカレーターを駆け下りながら、「サンダーボルトか……!」と小さく毒づく。
 
 
「よかった、まだ残ってる」
 沙那は件のロッカーに入っていたゴムの固まりのような物を手に取った。広げてみる。
「……手袋?」
 それは五指の指をいれる袋のついた手袋だった。指先に当たる位置に硬質の鉄のような物がついている。
「なんだこれ」
「む、■×●*だな」
 アーニャが言った。
「何? なんだって?」
「貸してみろ、これはな……」
 アーニャは沙那の手から手袋を奪い取ると、自分の手にはめ始めた。沙那がいぶかしげにそれを眺めていると、
「お前らかいたずら坊主どもは!」
 と、離れた所から声が聞こえた。驚いて声の方に目を向けると、白髪を垂らしたおじいちゃん警備員が雑踏からつかつかと歩み寄って来るところだった。
 ものすごく、見覚えのある姿だった。沙那は思わず、ぎょっとして叫ぶ。
「た、大陸爺ちゃん!」
「たいりくじいちゃん?」
 アーにゃがいぶかしげに砂那を見上げる。砂那は「次から次へと……」と天を仰ぐ。
「まずいよ……生きてたのか。あの爺ちゃんすごく足が速いんだ」
「何、本当か? どう見てもよぼよぼでご長寿だぞ。地球人は足腰が衰えないのか?」
「やっぱり張り合いがあると年取らないのかな……」
「?」
 アーニャが首をかしげている間にも、警備員こと大陸爺ちゃんはずんずん近寄ってきて
「まったく騒ぎを聞いて飛んできてみればまぁた子供のイタズラか! 夏休みはいたずらの宿題でもでとるのか!! 毎年毎日、月月火水木金金……」
「元気だなぁ。走って逃げるか……ていうかそれしかないか」
 まさかよぼよぼで職務に忠実なおじいちゃんをぶん殴って黙らせるわけにはいかない。
「ふん、ちょうどいい、見ていろ」
 手袋をつけたアーニャが冷静に言った。人差し指で宙に四角を書くと、そこにボタンでもあるかのように何もない空間をつつく。
「ちょっと、おじいちゃんに何する気!?」
「男の癖してぶちぶちとうるさいぞ、黙ってみていろ。あいつも敵なんだろう」
「敵って……」
「これで……えい!」
 アーニャが勢いよく人差し指をふった。まるでパソコンのエンターキーを調子よく叩くかのように。
 するとつかつかと歩み寄ってきていた警備員がぎょっとして立ち止まった。目の前の何もない空間を見て、目を見開く。
「な、なんだぁ?」
 大陸爺ちゃんは目の前の空間を食い入るように見つめながら、あんぐりと口を開いた。
 何が何だかわからないで沙那が見ていると、アーニャが「ふふん」、と自慢げに鼻を鳴らした。
「お前にも見せてやろう、ほら」
 アーニャが再び何かを操作するような仕草をする。すると突然、視界に水のように透ける色をした線が浮かび上がった。ちょうど戦闘機のコクピットに表示されるレーダーのようだ。アーニャの前には四角い枠と、ボタンのような薄い光が浮かび上がっている。どうやら先ほど操作していたのはこの光らしい。
「おお? なんだ、なんだこりゃ、どうなっとる!?」
 そして警備員の前には、まるで鏡で映したかのように全く同じ格好で同じ行動をする老人の姿があった。いや、あれはまさしく大陸爺ちゃんそのものだ。
「こ、これって……」
「地球人達はこれをヴィーアールエスと呼んでいた。私の×☆●◇ではこれで状況を記録するのだ」
「ヴィーアールエス――――VRS?」
 どうだ、恐れ入ったか、とばかりにアーニャはふんぞり返る。
「すごい……けど何したの?」
「ふふん。あの老人の目をスクリーンにしてコピー映像を投影したのだ。一度私の中に取り込んだ記憶情報を基にしてな。地球で言うところのバイオデバイスという奴だ」
「いや、地球には長く住んでるけどそんなの聞いた事無いよ……パソコンみたいなものかな?」
「パソコン? それは一体――って、あぁ! 沙那、また来たぞ!」
 アーニャが叫んだ。彼女の指さす先には、駆けてくるスーツ姿の女の姿があった。サングラス越しの目をまっすぐこちらに向けて、まるで黒豹のようなしなやかな迫力で突っ込んでくる。
「しつこい女だな!」
「まずい、行こう!」
 沙那が再び、アーニャの手を取った。
 

 沙那の姿を見つけると、鳴海はさらに走るスピードを上げた。低く姿勢をとる、軍属特有の走り方だ。それも速い。対して沙那はアーニャの手を引いてるのでそれ程スピードが出ない。けっして遅くはないが、鳴海の足の速さにはとうてい及ばない。
 沙那も無理だと判断したのか、人混みの中に紛れ込んだ。群衆に擬態して振り切るつもりだ。鳴海は一瞬、その後ろ姿を見失う。
 だが彼女だってこんなやり口は今までに何十回と経験しているのだ。五秒もかからずに再びその背を見つけ出す。
 人群れから少し離れたところで、沙那はアーニャの手を離し、二手に分かれていた。攪乱する気だ。
「(思い切りが良い、決断力もある――本当に勘でやってるのか?)」
 鳴海は内心舌を巻きつつも攪乱に乗る事はない。即座に目標をアーニャに変え、スピードを落とさずに追う。携帯を取りだす。
「福田! 対象は二手に分かれた、東通路、三番出口に一人! もう一人は私が行く!」
『りょ、了解』
「必ず捕まえて! 逃がしたら一生出世できないよ!」
『ええ!? 僕キャリアなのに!?』
「官僚主義なんて現代のガンなのよ」
『ガン!? ぼ、僕が!?』
「駆逐されたくなかったらもっと速く走って!」
『く、くちくぅ!? それCIAのジョーク――』
 話の途中で電話を切る。
 その背の小ささのなせる技か、アーニャは人混みをまるでそこに何もないかのようにするするとくぐり抜けて行ってしまう。鳴海は進行方向上にある人間を、そのモデルのような肢体に似合わない暴力さでかき分けていく。道を空けないパンク風の男の顔面を肘打ちで殴り倒し、ぺちゃくちゃとおしゃべりに夢中で鳴海に気がつかないおばさん集団を両腕で思いっきりかき分ける。おばさん集団は倒れて彼女の背に罵声を浴びせるが、その頃には鳴海は数十メートルも離れている。
 アーニャは地下へと向かう階段へ向かった。フロアにぽっかりと穴が開くように作られた広い階段だ。階段の外周を回り込んで、その切れ目から階段を滑らかに駆け下りていく。
 鳴海は外周を回ったりしなかった。分厚いコンクリートでできた低い外周の柵に手をかけると、エスカレーターの時と同じく、華麗にそれを飛び越した。
 手すりから階段まで、数メートルの落差があり、しかもハイヒールで降りたのにもかかわらず、彼女は大して膝のクッションも使わずに足場の悪い階段の上に見事に着地した。胸元から拳銃を片手で引き抜くと、上から降りてきているアーニャに向けて銃を向ける。
「そこで止まれッ!」
 完全にアーニャを射界に捉えていた。
 確信に満ちた制止の声で、それは相手にも十分に伝わったはずだ。
 しかしアーニャは足を止めなかった。脇をすり抜けられると思っているのか、真っ直ぐにそのまま向かって来る。
 鳴海はその体を全身で止めにかかった。両手でしっかり、逃げられないように抱きかかえようとし、
「――な!?」
 アーニャは彼女の体をすり抜けた。感触など全くなかった。振り返ると、小さなアーニャの後ろ姿が、まるで何事もなかったかのように階段を駆け降りていく。そして突き当たりの壁に当たると、そのまま壁の中に飛び込み、消えた。
「これは――」
 鳴海ははっとして顔を上げた。
 手すりから身を乗り出すように、沙那がこちらを見下ろしていた。その手には、黒いゴム製の手袋のような物が――
「VRS!?」
 ジェミニのバイオデバイス。視覚野の共有インターフェース。
「(なんでジェミニ計画のアンコモンを……!?)」
 驚愕し、言葉を失う。その隙を突くように、沙那は手すりから離れ、鳴海の視界から消えた。慌てて階段を駆け上ってその姿を探すが、鳴海を奇異の目で見る雑踏があるだけだった。
「っ――」
 携帯を取りだし、福田を呼び出す。電話に出ると同時に
「あの子はどうした!? 確保した!?」
 福田は息を荒くしながら
『すみません……はぁ、はぁ、見失いました、近くで聞き込みしてますがこちらには来ていないみたいで……鳴海さん? 聞いてます? 鳴海さん?』
 彼女は携帯を握りしめ、奥歯を噛みしめた。


「急げ沙那!」
 見事にVRSを操って鳴海を攪乱した沙那だが、しかし余韻を楽しむような間はなかった。急いでエレベーター前に待機させていたアーニャの元に戻ると、
「またあいつらが来た!」」
 彼女は後方を指さしながら叫んでいて、見ると先ほどの警官二人が凄い形相で(特に片方の顔はヤバイ)こちらに迫って来ていた。沙那は辟易して
「いつまで追いかっけっこすればいいんだ……?」
「もーぅ、早くしろぉ!」
「これで最後にしたい……」
 沙那はエレベーターの中に彼女を引き込むと、再び閉ボタンを連打した。

 二人の少年少女が乗ったエレベーターが閉まり始めると、先ほどから怒り狂っている警官は「だぁクソッ!」と毒づいて、傍らでふらふらと走っている若い眼鏡の警官の首襟をひっつかんだ。
「テメ行って来いやぁぁぁ!!」
 思いっきりエレベーターに向けて投げつける。
「おわぁぁ!?」
 若い眼鏡の警官はふらつきながらもスピードを上げてエレベーターに向かって突っ込む。
「げほっ!?」
 その体は見事、扉の間に挟まって、エレベータが閉じるのを阻止した。
「よくやった会計!」
 後方の警官が叫んだ。
 眼鏡の警官が顔を上げると、目の前にいた背の低い、黒髪の少女が不思議そうに自分を見下ろしていた。顔に手を伸ばしてくる。
「なんだこれは?」
 彼女は扉に挟まって身動きできない彼から眼鏡を取り上げ、興味津々に眺めた。『眼鏡をかけていた』彼は慌てて手を伸ばして叫ぶ。
「あぁ! ダメ、やめて!」
 と、突然少女の横にいた少年が、少女の手から眼鏡を取り上げ、
「えいっ]
 と小さなかけ声と共に扉の向こうに投げた。若い警官は慌てて「はうあぁ!」とその眼鏡を追って振り返り、
「ばぁぁぁかぁぁぁぁぁぁ!!」
 怒り狂っている警官の怒声を一新に浴びながら、エレベーターの扉から体を解放した。
 扉はぴしゃりと閉まった。駆けて来た警官が飛びかかり、しかしタッチの差で壁にぶち当たって「ぐぼっ」と跳ね返された。
 エレベーターが動き出す音が聞こえた。上部の電光パネルに『▼3』と表示される。
 扉にぶち当たった警官が、わなわなと立ち上がった。鼻血を出しながら、ほほをピクピクと振るわせる。その横で若い警官が、床に落ちた眼鏡に傷がついていないか、必死に布で拭きながら確認していた。
 ちーん、というのんびりした音と共に、隣のもう一台のエレベーターが到着した。ぞろぞろと人が降りて来る。警官達を奇異の目で眺めていた客達が、折り返すように乗り込む。全員があらかた乗り込むと、スイッチを操作していた客が、二人を見た。
「下行きますけど。……乗ります?」
 淡々と、尋ねた。

■3

 二時間後。




 時間は巡り、日も傾き始めた夕方五時頃。
 ようやくてんやわんやから逃れた沙那は、疲労で体の重みを存分に感じながら、地下鉄から降りた。
 地上に出るとまたアーニャの「アレはなんだ!?」「これはなんだ!?」が始まったが、沙那はそれらをなんとかいなして、次の赤いポイントに向かっていた。善は急げである。
 鳴海達はしばらくは追っては来ないはずだ。彼女達が地下鉄改札口の監視カメラを頼りに捜査範囲を広げるだろうという事は予想できたので、一度別の駅で降りてからバスで目的地に移動したのだ。こうしておけば、鳴海達は見当違いの場所を捜索する事になって、時間が稼げる。降りた地下鉄駅周辺店舗監視カメラにも十分すぎるほど姿を映しておいた。
 それにアーニャの手を引いて歩いても、周囲は「仲の良い兄妹ね」位の目でしか見ていない。アーニャは制服、沙那は腕をまくったミリタリージャケットにスキニーデニムと目立つ格好でもない。鳴海カナが聞き込みをしたとしても情報の入手には苦労するだろう。
 つまりは疲れた分の安全は手に入れたという事だ。
「……そういえば、今日引っ越しの業者さんが来る日だったのにな」
「ん? なんだ、あげないぞ」
 傍らを歩くアーニャが、手にしたソフトクリームを体の陰に隠した。幸せそうにパクつく。沙那はため息をついた。
「いらないよ……アーニャはタフだなぁ。あんなに走り回ったのに甘い物ばかりパクパクパクパク……」
「人を卑しい人間のように言うな! 文化の共有を図ってるんだ!」
「……地球人と?」
「地球人と」
 と、アーニャは深々と頷いた。クリームをぺろりとなめる。
「甘くて冷たいというのはすごくいいな。暑いのは嫌だが甘くて冷たいのが食べられるなら幸せだ。寒いとこうはいかないのだろう」
 沙那は疑わしそうに彼女を見た。
「宇宙人なのに四季がわかるの?」
「もちろんだ。地球と×☆●◇については私の方が博識だぞ。貴様は×☆●◇についても、地球についてもまるで知らん」
「そうかなぁ……」
「それと、私を宇宙人と呼ぶのはやめろ。宇宙は繋がってるんだ、お前だって宇宙人だ」
「……まぁ、確かに。深いね、それ」
 そうこうしている内にポイント近くにまで来た。端末の地図を拡大する。
「……この施設の中だな」
「なんだ、この大きな建物は。しかもボロい」
 アーニャの言ったとおり、施設は体育館のように広くて大きい。そしてぼろい。コンクリの壁は経年のシミやヒビが至る所にある。天頂部にはごてごてとした趣味の悪いイルミネーションが光っていた。そこには大きく、こう書いてある
 『ゆ』
「……ゆ?」
「銭湯だね」
「銭湯?」
「温かいお湯が張ってある広い浴槽があって、そこにみんなで入って温まるんだよ」
 アーニャは不可解そうな顔をしながら
「つまり☆*○▼か? 体を洗ったり、○■@#を塗ったりする所か?」
「……よくわかんないけど、多分そうかな」
 言いながら、沙那は「余計な事を言ったかな」と内心ひとりごちた。この流れだとまた興味津々に目を輝かせて「入ろう! 今すぐ!」とでも言い出しかねない。
 が、しかしアーニャは沙那の予想を裏切って綺麗に整えられた眉根を寄せた。
「だがみんなで、というのがよくわかないな。この乗り物に乗っていた人間全てが入ってるのか?」
 彼女は四方に広がる駐車場を眺めて、そこいっぱいに止まっている車(車についての説明は既に四度ほどしている)を手で指し示した。沙那は頷く。
「うん、まぁ」
 彼女は「うーむ」と唸ってから
「不潔だ。実に不潔だ」
「……まぁ、言われてみればそうなのかな」
 確かに、お湯を介して裸の人間が一緒に入っているというのは、そういう見方からすると不潔かもしれない。
 アーニャは口元に手を当てて、ちょっと頬を赤らめた。
「若い男女が裸でなんて……」
「あ、そういう意味で?」
 アーニャはいぶかしげに沙那を見上げて
「他にどういう意味があるんだ?」
「まぁ……健全な方向で色々と」
「ケンゼン? ってなんだ?」
「まぁ……なんだろう、エロくないって言うか――」
「……エ? 何?」
「あの……まぁ大したことじゃないから。そんな事より手を貸してよ」
「む? なんだ? 結局ケンゼンってなんなんだ?」
 沙那はきゃんきゃんと暴れる彼女の手を取ってその手首でじゃらじゃらと音を立てている鍵束を眺めた。鍵の一つを手に取る。
「……やっぱりこれも貸しロッカーのなのかな?」
「あ! サナ! あれ、アレを見ろ!?」
 と、急にアーニャが沙那が握っている手を突き出した。
「お前の言っていたのはあれだろう」
 「ん?」と沙那が彼女の指さす方を見ると、土に埋もれたようなおんぼろの家があった。江戸時代からありましたと言われても容易に信じられそうな、朽ちかけた木でできた長屋のような家だ。
 屋根には、家屋自体のおんぼろさに負けず劣らずの、年季の入った看板が出ていた。
「『希峰シネマ』……?」
 明治初期に作られたんじゃないかというような、ブリキチックな看板だった。古い映画の女優らしき絵が描かれている。
「エイガという場所なのだろう? その、アーニャという女王がいるのは」
 と、彼女は希峰シネマ館の前に立てかけられている朽ちかけの旗を指した。確かにそこには、何故か、ひらがなとカタカナで「えいが」「エイガ」と自己主張の希薄なメッセージが描かれていた。
 沙那は額を撫でて、小さく唸った。
「確かに映画の登場人物ではあるけどさ……映画館にいるわけじゃないんだよ。なんて説明すればいいのかなぁ」
「なんでもいい! とにかく行ってみればわかるんだろ!?」
「いや、わからないと思うけどな……あんな古い映画やってるわけないし。それより、まずは銭湯に行ってみない? 鍵がどうなってるか確認したいし、それに」
 ふと、アーニャから漂っていた雰囲気が変わった。子供っぽい興味津々でうきうきしたような雰囲気から、困惑と驚愕に色を変え、
「なっなっなっ、嫌だ!!」
 目をやると、彼女の頬が桜色に染まっていた。飛び上がるような悲鳴を上げる。沙那がぎょっとすると、ぶんぶん顔を振って
「お前、朝のトイレといい、おかしいんじゃないのか!? 嫌だ、絶対嫌だ! 不潔だ! 変態! バカ! 裸でなんて、絶対に嫌だぞ!」
 沙那は口を半開きにして彼女を見ていたが、小さくため息をついた。
「……やっぱりアーニャは不健全だよ」
「な――なんだとぉ!?」
「鍵を確かめに行くだけだよ。さっきもアーニャの鍵を使ったら、なんだっけ、えーと、そうだ、VSRだ、あれが手に入っただろ? ここにもあるはずなんだ」
「そんな都合の良い事は信じられんな! 野蛮人! 変態! 変態! へんたーい!」
「ちょっと連呼しないでよ。勝手に想像したくせに……あと、銭湯は男女別だからね。残念でした」
「おい! 今の物言いはなんだ!? 私をバカにしたのか!? 聞き捨てならん!」
「なんでもいいけど、とにかくあそこには父さんに続く手掛りがあるんだ。アーニャがいったい何処の子――どうやって帰ればいいのかを知るための手掛りでもあるんだよ?」
「……ふん」
 しかし沙那のつたない説得にもアーニャはなびかない。唇をとがらせてそっぽを向いてしまう。
「……わかったよ。じゃあアーニャは映画館で待っててよ。僕は一人で銭湯に行って、鍵の合うロッカーを探してくる」
 沙那はなんだか頭が痛くなってきた。アーニャはツンとしたまま。
「……敵が来たらどうするんだ。またあの女が来たら」
 言葉端に少し不安の色が混じった。沙那は言葉に詰まる。
「それは……携帯、は無理か。拳銃……なんてダメだダメだ」
 呟きながら額に手をやる。今朝から頭を使いっぱなしで妙案をひねり出す元気がなくなってきていた。こんなに機転を利かせたのは久しぶりなのだ。集中力が途切れているようだった。
「(……まぁいいか。今日はもう遅いわけだし)」
 投げやりにそう考える。時間は十分に稼いである。無理をしていざという時動けなくなったら困るし、休める時に休むべきか。
「……アーニャ、それじゃぁ、一度映画館に行こう。僕も一緒に行くよ」
 アーニャはしばらく黙って沙那を見ていたが、ふいに視線を逸らして言った。
「いいのか?」
 どうやら言い過ぎたと思っているらしい。沙那は頷いて返す。
「いいよ。行こう。今思い出したけど、あの映画館、知ってるんだ。夜中から朝までレイトショーをやってる所だよ。中学の友達が家出した時、よく使ってた」
「……? よくわからん」
「一晩過ごせるんだよ。今日はあそこに泊まって、明日銭湯のロッカーを見てこよう。なんだったら、シャワーぐらい浴びてもいい。汗も沢山かいたしね」
 アーニャは疑わしげに希峰シネマを振り返った。
「あんな所に泊まれるのか?」
「昔は、家に居づらい人はみんなああいう所に泊まってたんだよ」
「……家にいづらいのと私の場合は違う。私は家に帰りたいが、帰れないんだ」
「同じだと思うよ――さ、行こう」
 沙那が先頭を切って歩き出すと、彼女はその後を、ととと……、とついて行った。
 
 
 ■
 
 
 瞼を開くと、暗闇とぼんやりとした光のコントラストが、沙那の目に突き刺さった。思わず目をつむり、頭を振る。
 再び瞼を開いて、周囲を見渡した。
 映画館の小さなシアターだ。
 ずらりと並ぶ、がら空きの客席。正面にはスクリーンがあって、白黒の映画を映し出している。どこか懐かしい雰囲気が漂う、場末の映画館らしいシアターだ。
「……いたっ――寝違えたかな。……ん?」
 身を起こした沙那は、その身に毛布が掛けられている事に気づいた。随分と毛並みの柔らかい、上質の毛布だ。寝ている間に誰かがかけたらしい。
 隣を見ると、同じ毛布にくるまったアーニャが、静かな寝息を立てていた。穏やかで、少女らしい寝顔だ。少しだけ開いた口元が、ちょっとお間抜けだ。
 昨日彼女の寝顔を見た時は毛布をかぶっては無かった。と言う事は別の誰かがかけたのだ。そういえば、家出してここに逃げ込んだ友達も、そんな事があったと言っていた。かけてくれたのは映画館の館長だったとかなんとか……。子供が夜寝ていても何も言わない事といい、ここは相当変わっている。
 沙那は背をシートに深く落とし、白黒の映画を眺めた。古い映画だ。信じられない事だが、上映していたのはアーニャに話したあの映画そのものだった。
 ある日王女様が自分の身分と生活に嫌気がさして、街へと逃げ出す。そこで新聞記者と出会い、ひと時の休日を過ごし――最後には、つらい別れと、永遠の誓いが待っている。互いに身分の違う者として。
「……ん、なんだ。もう十時なのか」
 沙那が腕時計を眺めて呟いた。彼は頭を振って、立ち上がった。


「あの、これ、ありがとうございました」
 沙那は毛布を抱えて、ロビーにあるカウンターへ続く小窓をのぞき込んだ。
 ロビーと受付は区分けされていて、ちょうど駅の改札の駅員室のようになっている。中にはおんぼろな――もとい、歴史ある映画館に似合わず、いかにもサブカル風な大学生くらいのお兄さんがいた。髭を生やし、ハンチングをかぶっている。黒縁眼鏡がやたらと似合っていた。
「……何?」
 お兄さんは小さな文庫本を開いていた。ハンチングを指先でいじり、煙草を吹かす。
「毛布、かけてもらったみたいなので……ありがとうございます」
 お兄さんは一度咥えていた煙草を指で摘んで口から離した。ふー……と紫煙をはき出す。
「……俺じゃない」
「は?」
 まるで、時間の流れがゆったりとしているかのような、まどろむような話し口だった。
「俺は掛けてない。女の子がここに来て、寒いから暖まるモノを寄越せと言ったんだ。俺はそいつに、毛布を渡してやった」
 それだけ。と言って、お兄さんは、また煙草を咥えた。文庫のページをめくる。
「……おい沙那、さむいじゃないか……それに眠い……眠い……」
 声がして振り返ると、シアターの入り口からアーニャが顔を覗かせていた。扉に寄りかかって、目をシパシパさせながら、しかし睡魔に抗えず、うたた寝している。
「こら、寝ちゃダメだよ。もう十時なんだ。急いで銭湯に行かないと」
「せんとう?」
 お兄さんがいぶかしげな声を上げた。
「銭湯ってウチの向かいにある、あの悪趣味なスーパー銭湯か? ジジババが末期に集まってくる?」
 「……えぇ、たぶん」と沙那は歯切れ悪く返す。確かに悪趣味だが、語り口が容赦ない。
「あそこなら今日は休みだぞ」
「えぇ!?」
「定休日は火曜日って書いてなかったか?」
 馬鹿馬鹿しいミスだった。確認してない。
「うわぁ……どうしよう、やっちゃった」
 お兄さんは狼狽する沙那を無言で眺めていたが、しばらくすると口を開いた。
「……風呂に入りたいんなら、ウチのを使えば?」
 「あ、いえ、そういうわけじゃなくて……」と、沙那は断ろうとした。が、しかし途中で考え直した。風呂には入りたい。自分もアーニャも、昨日は走り詰めで汗だくになっていた。自分はともかく、年頃の女の子がすえた臭いをプンプンさせているのはどうだろう。
「遠慮すんな。沸かしといてやるから、買い物でも行ってこいよ」
 お兄さんは立ち上がり、一瞬沙那の耳元で囁いた。
「……あの娘、パンツはいてないだろ」
 ぎょっとした。
「もう少しスカートを長くはかせないと、風が吹く度に大惨事だな――下着を買うなら正面玄関を出たら右に曲がれ。その先に広い県道に出るから、そこを左だ。あとはまっすぐ行けば、でかいファッションモールがある。迷うなよ若人」
 そう言い残すと、お兄さんは奥の『事務室』とプレートの貼ってある扉の奥に行ってしまった。
 後に残された沙那は、なんとなく呆然とするしかない。
「むにゃむにゃ……甘くてウマいぞ……サナも食べろ……冷たいし……ふにゃむにゃ」
 アーニャの夢うつつな語りかけに、ため息混じりに振り返る。彼女は扉に体を預けて完全に夢の世界に行ってしまっている。すると次第に彼女の体は重力に負けて、ずるずると崩れ落ちていき、
「ふにゃむにゃ……ぶにゃ!?」
 と、顔面を打った。
 
 
 ピンクや紫、黒や白の淡い色に溢れたラグジュエリーショップ。ショッピングモールの一画にあるこのテナントで、沙那は赤面していた。
 試着室前で、視線のやり場に困りながらきょろきょろしている。何処を見ても下着だらけなのだからいたたまれない。あっちこっち視線の逃げ場を探すが、せいぜい天井くらいのモノである。かといって白目を剥くわけにもいかない。身をちぢこめるしかない。
 そして先ほどからずっと沙那は怯えている。すごく。カジュアルな格好をした二十代後半くらいの女性が、ブラジャーの棚を品定めしながら、時折こちらをいぶかしげに見ているのだ。もちろん、その視線の何処にも、好意的な部分はない。
 沙那はさりげなく、試着室に視線を向けたり、指を指したりして、連れがいる事をアピールしていた。ただ残念ながら、さりげないのはあくまでも主観であり、女性の目は厳しくなるばかりだったが。
 試着室の中からは「これはどうつけるのだ?」「このホックをですね……」「これは?」「ここに当ててください――こうですよ、ほら」「ここ?」「あら、惜しいですねー」と何やら閑談らしき声が聞こえてくる。アーニャが女性店員と一緒に品定めしているのだ。いかがわしい想像力をかき立てられて、沙那は自分の頭をガンガンたたいた。
「(……中学生くらいの子って普通こういうところに来るのかな? 来るわけない気がする……いや、でもこのショッピングモールの中じゃ、下着なんて売ってるのはここしかないわけで……)」
 頭の中を思考がぐるぐる回る。世の十六歳男子の中で、「女の子と一緒にラグジュエリーショップに来る。あまつさえ選んで、しかも買う」という洗礼を受けた者がどれ程いるだろうか……考えると死にたくなってくる。
「お客様?」
「うぁ、はい!」
 試着室から、女性店員が顔を覗かせていた。にこやかに言う。
「お気に召したようですよ?」
「じゃぁ、それで、お願いします」
 沙那は傍らから注がれる、件の二十代後半くらいの女性の、疑わしげな視線に怯えながら、店員に頷いて返した。彼女は丁寧に「はい、お買い上げありがとうございます」と、微笑んだ。沙那もぎこちなく笑って、会釈を返す。
「沙那! これでどうだ!?」
 試着室のカーテンが勢いよく開いた。
「ぅわぁぁぁ――!!」
 仁王立ちした半裸のアーニャが一瞬見えたところで、沙那は勢いよくカーテンを閉じた。
「む? おい! なんで閉めるんだ、開けろ!」
「冗談じゃないよ! もう!」
 「あらあら」と女性店員がほほえましそうに笑っている。じろじろ見ていた女性の目が、アーニャの姿を見た途端、さらに不振の色を帯びる。沙那は泣きそうになった。
 
 
「だいたいおかしいんだよ。最初は素っ裸で僕の首絞めたくせに、裸で風呂に入るのは嫌だとか、変態とか、その割に試着室のカーテン開けるし……」
「む? なんだ、男のくせにごにゃごにゃと。異文化交流に不満を募らせるのはやめろ。文化の違いとはそう言うものだ」
「首絞めも異文化交流なのかな……」
「なんだと? 刺されなかっただけありがたいと思え」
 ようやく恥辱の地獄から解放された沙那は、次にアーニャの替えの服を買いに一階フロアに向かった。さすがにずっと地肌に制服では、この先やっていけないだろう。
「ふむ、地球の民族衣装はおもしろいな。じつにごちゃごちゃとしている。色遣いも統一性がない」
 フロアのテナントを見回しながら、アーニャが顎に手を置きながら言った。
「どれがいい? どこでもいいよ、気に入ったのがあればそれで」
 虎の子の生活費(家を空けている間、父親はよく無造作に沙那の口座に金を振り込んでいた)を地下鉄を降りた時に引き落としていたので、沙那は特に金額の多寡には触れない事にしていた。おそらく「高いからダメ」なんて言うとアーニャは「この貧乏人!」と大騒ぎするだろう。高木家の名誉にかけて、是非避けたい事態だ。
「よし、まずはここにしよう」
 と、アーニャは沙那の手を引いてテナントの一角に入った。
「このお店?」
 そこは肌を浅黒く焼いて化粧を厚めに施す……いわゆるギャル風の客を相手にした店だった。同じくギャル風の派手な店員が奥から出てきて、抑揚のない声で「いらっしゃいませー」と言った。アーニャを見ると一瞬きょとんとした後、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「わぁーかわいいー。日本人じゃないね。何人? ハーフ?」
 やっぱり棒読みなんじゃないかというくらい、抑揚がない口調だったが、歓迎してくれているようである。アーニャはニコリともせずふんぞり返り
「ハーフ? 私は×☆●◇の姫だ」
「?」
「すみません、適当に見繕ってください。今すぐ」
 一悶着の末、彼女は店の奥に連れて行かれた。平日と言う事もあり、店に客は少ない。暇な店員が集まってきて、アーニャをちやほやし始めた。傍若無人な態度がおもしろがられているらしい。
「あの人、お兄さん?」
「サナか? サナは私の従者だ。ある責務から私を守っている」
「へぇーいいねぇ」
「いいものか。全く役にたたん」
「そうなんだ(笑)」
 「(まずいなぁ……)」と思う会話がその後も続いたが、遮るまではしなかった。店員はまるで本気にはしてない。わざわざ遮ったら余計疑われるし、何よりアーニャが何を言い出すかわかったものじゃない。そわそわしながら待つ。
 途中「ちょっと染めていいですかぁ?」と尋ねられたが、アーニャが嫌がりそうなので断った。実際あの黒髪は目立つので少し染めるくらいがいいのかもしれないが、また首でも絞められたらたまらない。ついでに肌を焼くのも先手を打って断っておいた。
「おまたせしましたー」
 二十分ほどすると、相変わらず抑揚のない声で店員がアーニャを連れてきた。試着室横の待合椅子に座って待っていた沙那が振り返ると
「じゃーん」
 と、店員に押されてアーニャが登場した。
 ブルーとグリーンという個性的な組み合わせのチュニックブラウスに、デニムのショートパンツ、モカブラウンのウェスタンブーツという組み合わせだった。髪は後頭部で結い上げている。彼女が動くと、ブラウスがひらひらと揺れた。
 どんなとんでもないのが来るのかと思っていたが、意外とおとなしめで似合っていた。
「どうだ!」
 とアーニャは元気よく仁王立ちした。
「どうだ!」「どうだー」
 と、店員もそれに続く。
「……いいけど、その目の周りの黒いのはなんなの?」
「アイシャドー」
 と、抑揚のない店員が言った。
「じゃ、目の下のキラキラは?」
「ラメ」
 と、その横でにこにこしている店員が言った。アーニャは鼻高々に
「わかるぞ、これは呪術的な意味があるのだろう? 光と影、生と死のこんとらすとだ!」
「…………」
 周りにいる店員が「そーそー」「物知りだねー」と褒め称えている。アーニャは鼻高々だ。ああいう風に扱うのが良いのだろうか。
「きらきらしたところがなかったんでー、ちょっとお化粧をしてみたんです」
 抑揚のない店員が言う。確かにきらきらしてはいる。アーニャも褒め称えられてるのがうれしいのか、胸を張ってにこにこしているし、本人が喜んでいるならそれでいいのかもしれない。
 「じゃあ、それ買います」と、沙那が言うと同時に、抑揚のない店員が言葉を重ねた。
「そういえばさ、チナが黒髪の綺麗な女の子着せ替えしたいって言ってなかったっけ?」
 「あー言ってたねそんな事」「探してた探してた」と他の店員が同調する。
 抑揚のない店員が、きょとんとしている沙那を見て、
「ちょっと、この子お借りしますね」
「は? ……ちょ、ちょっと!」
 言うが早いか、店員はアーニャの手を取って行ってしまう。追いすがろうとした沙那を別の店員がにこにこしながら「まぁまぁ」と押さえた。
「あの、急ぐんです、凄く!」
「まぁまぁすぐ済みますから――」
「ホントです! 凄い急ぐんです!」
「まぁまぁまぁまぁ――」


 ファッションショーが始まった。
 一階ロビーに用意された長椅子でひたすら待たされていた沙那の耳に、アップテンポなノリのいいポップミュージックが流れ始めた。沙那が頬を引きつらせていると、奥の店からアーニャがやってきた。誰に吹き込まれたのか、パリコレのモデルのごとき、しなやかかつダイナミックな足使いだ。
「赤のチェックスカートの元気さに彼女の黒い髪を引き立てる紺のショート丈ジャケットを合わせました! おっきなボタンがかわいらしさをアピール!」
 沙那の横で恍惚とした表情の女性――三階のカジュアルウェア担当管理監で通称『チナちゃん』。最近は管理職に追われて本来のコーディネーターの仕事ができなくて鬱憤がたまっていた――が、熱に浮かされたような口調でそう言った。
 沙那の目前まで来たアーニャはクルリと回転。スカートをひるがえして 戻っていく。向こうの方から「すごいすごーい」「いいよーかわいいー」という黄色い歓声が聞こえた。先ほどの店員達の声だった。
 頭を垂れて気落ちし始めた沙那の背中に、チナちゃんが「やっぱり黒髪もいいですねよー」「ファッションは自由です!」「表現の幅が広がりますぅ」とはしゃぎながら平手をぶち当てた。
「あー! 来ましたよ! キャミにデニムショートパンツです! 赤のチェック柄がかわいいですよね! ほらほら、動くとちょっとおへそが見えるようになってるんです!」
 再び沙那の目前まで来たアーニャは、今度はジャンプして見せた。確かに、へそが見えた。彼女はクルリと回転すると、ウィンクを残して再び奥に戻っていく。
「ウィンクって……」
「次です! 次はですね――あー来ました! 黒のハイウェストカットのワンピースに白の水玉模様の襟タイです! ほら、ワンピースのスカートから赤いヒダが見えますよね、あれが粋って奴ですよ!」
「これっていつまで続くんですか」
「ほら、ターンして――わーかわいいー」
「……」
「はい、次はですねーゴシックな感じで黒でまとめて、全体的に悪魔っぽくしたんですけど、ミニのスカートで外したんです! 小悪魔っぽくなっていいですよねー黒髪が効いてます!」
「…………」
「さぁ今度は気合い入れましたよー! リボンカチューシャを軸にしてですね……」
 沙那は諦めた。


 太陽が沈みかけている午後五時頃。アーニャはにこにこしながら、両手に色とりどりの袋を持って歩いていて、沙那はその横で、大いに気落ちしながら、同じく袋を片手にぶら下げていた。
「ふむ、地球人にも美徳はあるのだな! すっごく楽しかったぞ」
「……よかったね」
「全くだ! にゃっはっはっ」
 沙那は片手にぶら下げた袋を見る。アーニャの服は全て善意でタダでくれた。その代わり写真を山ほど撮られてしまった。一階から五階までのテナント全てが悪ノリして、アーニャを『かわいらしい広告塔』にしてしまったものだから、買い物客も「なんだなんだ」と集まって来てしまい、そこでもカメラ付き携帯でパシャパシャ、パシャパシャ……。
 最後の方では、ストリートミュージシャンや、遠征帰りのジャズバンドが演奏を担当したり、飛び入りの素人モデルが参加したり、ファッション雑誌の取材が来たりと(さすがにこれは止めた。後に捜査過程で雑誌を見るであろう鳴海カナに『おちょくりやがって!』と思われてはたまらない)大変な騒ぎになってしまった。
 終わった後もフラッシュの嵐にさらされるし、まるでスキャンダルを起こした芸能人のようだった。祭りに当てられた雑誌編集者が電話番号を聞き出そうとした辺りで、沙那は耐えきれなくなり、アーニャをつれて逃げ出す事にした。店員は皆、「絶対また来てね!」という態度で見送ってくれたが、もはや二度と行く事はないだろう。
「遅かったじゃん。もう三回沸かし直しちゃったよ」
 映画館に帰ると、件のお兄さんが相変わらず文庫本を読みながら、そう出迎えてくれた。
「すみません、えっと……」
「館長って呼べよ……なんだ、おめかししてきたのか?」
 お兄さんこと、館長は、アーニャに言った。アーニャはふるふると首を振って
「違う。ふぁっしょんしょーして来たのだ」
「ファッションショー? ……ふーん、まぁまぁ似合ってるじゃん」
「うむ。貴様もその汚い髭を剃れば、少しはマシになるぞ」
「そりゃどうも、コーディネーターさん」
 事務室の奥の風呂場に案内すると、アーニャは着ていた服(白のワンピースに黒のショートパンツという、結局地味な組み合わせ)を名残惜しそうに脱ぎだし、沙那と館長はいそいそとその場から撤退した。


「サナ、そこにいるか?」
「いるよ」
「サナ、離れるなよ」
「離れないよ」
 風呂場の扉越しに、一分間隔でこの会話を繰り返した。これまでアーニャは元気そうに振る舞っていたが、一人でいると不安になるらしい。沙那が無言になると、途端に話しかけてくる。おかげで沙那は、風呂場前から離れなられない。
「今日はウチ、半ドンだから。もう店は閉めるな」
 しばらくすると、館長が煙草を吹かしながら、脱衣所に入ってきた。沙那の前に椅子を置くと、再び文庫本を開いて読み始める。
「……なんていうか、お前ら変わってるな」
 館長は沈み込むような、独特の口調でそう言った。
「……いとこですよ。普通の」
 沙那はそう返す。
「普通の、ねぇ」
 館長は鼻で笑った。
「……この映画館さ、じいさんが開いてたんだよ。じいさん、家出したガキとか匿ってたみたいで、俺が店を継いだ時も、警察官がよく見回りに来てたよ。『今夜は子供はいないだろうな?』って」
「……はぁ、そうですか」
「俺はそういう面倒な事、嫌だからさ、匿うとかバカな事やめて、上映する映画もアホなアクション物とかにしてさ、『まっとうに』儲けようと思ったんだ。大学の金、一年分足りなかったし」
 ふー……、と、紫煙をはき出す。暗くて狭い脱衣所の中で、煙草の小さな火種がくゆっていた。
「……でも家出する奴はやっぱり来るんだ。『ウチはそういのやめましたから』って言うと、残念そうに帰って行くんだけどさ。毎日来るんだよ。毎日、別の奴だったけど。家出する理由も話し出すんだけどさ、くっだらねぇのばっかりなの。こっちからしたら『そりゃ愛されてる証拠だよ』ってのも結構あって、なかなか笑えたぜ」
「……」
「サナ、いるか?」
「いるよ」
 ちゃぷ、と、風呂場から水の音がした。
「……ここに来る連中見てるとな、みんなアホみたいに真剣なんだ。学校とか家とか、そういうちまちましたモンに反抗してるだけなのに、そりゃもう世界の終わりみたいな顔して来るんだよ。馬鹿馬鹿しくて、見てらんない」
「……あの、つまりどういう意味ですか?」
 館長は、まるで今沙那に気がついたように、ふと視線を向けた。にっと口角をあげる。
「だからさ、お前らを匿うって話。そういう『バカ正直』な奴らの顔が、好きだったんだろうな、じいさんも。お前はちょっと、ひねた顔してるけどな」
「……」
「で、どうしてよ?」
「え?」
「えじゃなくてさ、どうして家出してきたわけ?」
「……信じませんよ」
「UFOと幽霊以外なら俺は信じるぜ」
 沙那は顔を上げた。
 館長は「ほら、大丈夫だって」と笑みを浮かべて、眉をひょいと上げた。
 
 
「へぇーそりゃぁ、また……斬新だな」
 勢いで全部話すと、館長は小さく笑いながらそう言った。
「沢山映画を見てきてるけど、その中に一つもそんな話は無かったよ。新時代な感じだ。ストーリー表現の、最先端って感じ。ホントに全く、一度も聞いた事無いよ、その話」
「……本当の話ですよ」
 館長はくっくと喉を鳴らした。
「その話通りなら、今、俺の映画館で風呂に入ってる女の子は、宇宙人って事か。地球となんとかって星の運命を握った」
「わからないですけど、そういう見方もあるかもしれません」
「そういう見方しかねぇよ。お前らをおっかけた女といい、お前の親父といい、どう考えても世界中がその子を追ってる」
 館長は顎でアーニャを指し示した。
「次は肌の黒い連中が追って来るぞ。その次は白くて血管が見えるくらいのが。回教の連中もバラバラと集まってくるかも。中国人は最後だろうな。なんだかんだで……」
「……」
「世界中からかぁ――家出にしては大がかりだなぁ。最後まで逃げ切れるかな、お前ら」
「……わかりません」
 館長は鼻を鳴らした。
「逃げ切れよ。そうじゃないとお話に結末がつかないぜ」
「……嘘じゃないですよ」
「じゃぁ聞くけどさ、なんでお前はあの娘を助けたわけ? 怖い美人のお姉さんに追いかけられるより、胸のない女の子助けた方が良いって考えた理由は?」
 沙那は黙っていたが、思考はぐるぐる回っていた。
「……ま、結局そう言う事だよな」
 館長は立ち上がった。
「風呂から上がったらシアターに行けよ。今日も映写機だけは回しとくから。その娘、ここの映画気に入ったんだろ? 扉には鍵掛けとくから、安心して観て、寝ろ」
 沙那が返事をする前に、館長は脱衣所を出て行った。バタン、と、音を立てて扉が閉まった。
「……沙那、そこにいるか?」
 風呂場から、夢うつつなつぶやきが聞こえた。
 
 
 深夜十一時。
 沙那とアーニャはがらがらの観客席で、毛布をかぶって映画を観ていた。映画はやっぱり白黒で、やっぱり女王様の逃亡劇を映し出していた。
「……沙那、この女王は女王なのが嫌なのかな?」
「……さぁ。街にいると楽しそうだけどね」
「ふむ……あの記者も楽しそうだ……」
「……うーん、ちょっと大変そうだけど……」
「ふむ……でも、楽しそうだ……」
「まぁ……悪くはない気分なのかもね……」
「うむ……ところで、あの冷たくて甘そうなのはなんだ……?」
「……ジェラード」
「おいしそうだな……この街はどこにあるんだ?」
「ローマ」
「ろーま? そうか、ろーまか……明日はそこに行こう、沙那」
「うーん……ここからだと、ちょっと遠いかな……」
「少しくらい大丈夫だ、宇宙より近いんだろう?」
「……そうだね」
 小さく、耳元で囁き合う。話している内に、アーニャの瞼が重たくなっているのがわかった。沙那の瞼も、ゆっくりと、重くなっていく。
「……砂那」
「……うん?」
 横で、アーニャがもぞもぞと動く気配がした。毛布の中に頭からもぐりこんだらしく、スクリーンのぼんやりとした光に、毛布からはみ出た彼女の黒髪だけが、滑らかな光を返していた。
 ゆめうつつな、呟きが漏れ聞こえる。毛布越しで、くぐもっていた。
「……助けてくれてありがとう……一応、礼は言っておくぞ……」
「……うん」
 それから少し間があった。映画はカタカタとシーンを進める。四シーンほど進んだ所で、既に半分以上眠りに入っていた砂那の耳に、少し声色が震えた声が、もれ聞こえてきた。
「……私はなぜ追いかけられているのだろうな……ずっと考えているのだが、わからないんだ……なぜだろう……あの女が凄く怖いのは、わかるのだけど……」
 風呂の時と同じように、また不安になっているようだった。砂那は何か気の利いた事を言おうと思ったが、しかし何も思い浮かばなかった。ただ、彼女を安心させようと思い、呟く。
「……大丈夫だよ……うん、あんまり考えないで」
 アーニャはそれに言葉を返さなかった。しばらく黙った後、ぼんやりとした口調で呟いた。
「……タカギはなぜ、私を助けてくれたのだろうな」
 その答えなら、すぐにわかった。
「……父さんは正義のヒーローなんだ……困ってる人を見たら、助けてくれるよ」
「せいぎのひーろー……?」
 また、少し間があった。今度は二シーン程進んだ。王女様はすっかりローマの街を満喫しているようだった。
「……サナ」
「…………うん」
 アーニャは呟いた。
「サナも、せいぎのひーろーなのか……?」
 砂那は少し目が覚めたが、それは気持ちの良いものではなかった。深い海の底に沈もうとしていた意識が、無理やり引き上げられたような。
「……昔はそうなろうと思ってたけど、今は違うかな……」
「そうなのか……?」
「うん……」
 隣の席で、アーニャがまたもぞもぞと動いた。黒髪がゆれる。柔らかい、せっけんの香りがした。ほのかに、彼女自身の香りも混ざっていた。
 そして沈黙した。静かな吐息が、毛布の影から聞こえてきた。ようやく眠ったらしい。そう思うと、砂那も知らずにこもっていた肩の力が抜けた。そのまま全身から力を抜き、体を丸めて、シートに体重を預けた。ゆっくりと、深い呼吸をする。時間の感覚がまどろみ、暗い意識の中を漂い始める……

「でもサナは私をたすけてくれた……」
 唐突に呟きが聞こえた。
「……さなは、『せいぎのひーろー』だ……わたしに、とって、の……」
「…………」
 砂那はしばらく体を動かせなかった。そのセリフは、まどろみ始めていた自分が聞いた幻聴なのか、それとも本当に彼女が呟いたものなのか、わからなかった。
 その答えは結局、わからなかった。わからなかったが、その内に身をもぞもぞと動かした。横になり、毛布を頭にかぶって、彼女の横顔を見てみる。
 毛布の影に陰った、彼女の穏やかな表情が見えた。やわらかそうな、ふっくらとした頬と、少しだけ開いた口元。静かに上下する胸を見ていると、どうやら穏やかな眠りについたようだった。不安で悪夢を見たりはしていないようだ。
 今度の寝顔はお間抜けには見えなかった。可愛らしくて、触ってみたいと思った。
「…………」
 やめておく事にする。
 砂那は大きく息を吸った。体を動かし、彼女に背を向ける。
 しばらくすると、シアターの中に二人分の寝息が漂い始めた。
 映画の方はついに、佳境に入り始めていた。
 

 びしゃッ

 館長は一気に胸ぐらを掴みあげられ、受付カウンターの小窓に顔面を打ち付けた。もの凄い衝撃に、小窓にヒビが入る。鼻から血が噴き出し、小窓に汚く飛び散った。
「大人二十枚。聞こえなかったか」
 カウンターの向こうには、サングラスを掛けた女がいる。小窓の下、チケットと金の出し入れをする穴から手を突っ込んだその女は、サングラス越しの鋭い目を、館長に向けていた。彼女の後ろには、全身真っ黒な、SFチックな装備に身を固めた、男とも女ともつかない人影がずらりと並んでいる。ゴムのような材質の服に、マガジンを入れるポケットがいくつもついたベストを着込み、顔は蛇の頭のような形のフルフェイスヘルメットに覆われている。手には長方形の薄い箱のようなものを握っている――グリップがある所を見ると、どう考えても銃器の類だろう。
「……お姉さん、どこのスパイ? ……中国? ロシア? イスラエル?」
 館長は果敢にも口元に笑みを浮かべていった。途端、女はもう一度激しく胸ぐらを掴み寄せ、館長を小窓に叩きつけた。
「チケットを買って、粛々と中に入れさせて欲しいんだ。黙って半券を渡して、扉の鍵を開けろ。暴れさせるな」
「……嫌だね。ウチは昔から大人の暴力からは治外法権で通ってんだ。ここにいる子供には免責特権があるんだよ」
 女はしばらく黙って彼を見ていた。
 しばらくすると胸元に手をやり、そこにあった物を握って取り出すと、カウンターに叩きつけた。
 つや消しの黒に塗りあげられた、年季の入ったパラシュートナイフが、ドスッ、と木製のカウンターに突き刺さった。ぴんと立つ。どす黒いシミのあるパラシュートコードが、柄に乱暴に巻き付けられている。
 館長がぎょっとする。女は手を離し、今度は館長の腕を掴んで、強引に穴から外へ引っ張り出した。
 ナイフの柄を、逆手に握り込む。ぎぎ――と、コードが締め付けられる音がした。
「拷問を受けた事はある?」
 館長は生唾を飲み込んで、女を見上げた。女の目は鋭く、そして淡々としていた。そこには感情も浮かんでいないし、慈悲などまっさらに無い。
 館長はそれでも、なんとか笑みを浮かべた。
「お姉さん、アメリカ人だね。CIAのスパイなんだろ……やり方がホント、映画の通りぐぁぁぁああああああああああ――――ッ!」


 はっとして沙那は目を見開いた。
 うたた寝していて意識はほとんど無かったが、一瞬、スクリーンに何か影が走った気がする。それも円形で――人の頭の形をした。
 突如、布のこすれるような音がした。右手からだ。沙那が腰を浮かしてそちらを見ると、今度は左手から音がする。
「(囲まれた……!?)」
 沙那はしゃがんで、シートの陰に身を隠した。腰の裏から拳銃を引き抜く。一度分解して川に捨てようかと思ったが、そこから足がつくかもしれないと思い直してやめた――悪い判断だったかもしれない。もし囲まれていたら、拳銃の一丁くらいではそれを打開するのは無理だろう。逆に相手に『危険因子』と取られて容赦なく殺されるかもしれない。だがこういう状況に追い込まれた以上、手にした拳銃を捨てるには勇気がいった。
「……アーニャ、アーニャ」
「む……うぅん? トイレなら一人で行け……」
「寝ぼけてる場合じゃないよ、早く起きて……!」
 アーニャの体を引っ張ろうとした。
 その瞬間、背後から人が大きく動くグバッという音がした。
「――ッ!?」
 沙那は反射的に反応。振り返るより前に拳銃を脇の下へくぐらせ、発砲。轟音と閃光がシアターに響き渡る。振り返って成果を確認する間もなく、左手、右手と人影が素早く駆け込んでくるのを確認する。
「アーニャッ!」
「むにゃ――むが!?」
 アーニャの首根っこを掴んで席の後ろへと放り投げる。アーニャはくぐもった悲鳴を上げた。沙那は怒鳴る。
「出口から逃げて!」
「ふぇ?」
 アーニャは身を起こし、目をシパシパさせた。沙那に何が起こっているのか尋ねようとして
「早くッ!」
「!? 沙那!」
 沙那は右脇を影に抱え込まれた。乱暴につかまれ、もの凄い力で持ち上げられる。肩が外れそうになり、間接が『ごぎ』と悲鳴を上げる。さらに左手から駆け込んできた影が沙那の左脇も抱えようとし、
「ッ!」
 沙那は右手に握っていた拳銃を左手に移した。ろくに狙いもつけずに左側に二発発射。轟音と閃光がほぼ一回分シアターを駆け抜け、照らす。そのまま流れるように銃口を右脇へ――腕を掴む人影に向ける。
 がしり、と手首を捕まれた。思わず引っ張るが、まるで機械に固定されたかのようにびくともしない。沙那はそこで初めて、人影の顔を見た。
 人間味のない、仮面のような顔がそこにあった。無骨な顔面骨格はどう見ても漫画や映画で観るアンドロイドそのもの。不気味な赤い二つの点が、沙那の目を射貫いていた。
「沙那!」
 アーニャの声にはっとする。捕まれた腕の指に力を込め、そのまま引き金を引こうとする。
 瞬間、拳銃をひねりあげられた。力強く握りしめていた手首が、まるで枝を曲げるようにへし折られ、引き金にかかっていた指が、複雑な方向へねじり上げられた。骨が砕け、断裂する。
「――――ッ」
 悲鳴は声にならなかった。
 それでも膝蹴りを相手の股間へたたき込もうと動かす。しかし影はゴム質の服の下の筋肉を蠢かせ、逆に膝蹴りを沙那のももに向けて放った。激痛が走る。まるで押しつぶされたかのような痛みが、脳を蹂躙する。
 直後に腹部に衝撃。拳がみぞおちにめり込んでいるのが見えた。吐きそうになる。しかしそれをする間もなく、今度は頸椎に衝撃。身を丸めた後頭部に、堅くて重いものが何度も打ち付けられた。
 アーニャが席を乗り越えて、抱きついて来るのが見えた。手首にはめていた鍵が、ガチャガチャと揺れる。しかしすぐに彼女は人影に脇を抱えられ、引きはがされた。持ち上げられながら、彼女は沙那に手を伸ばす。沙那もその手を握ろうと手を伸ばし――視界の端で、人影が拳を振り上げているのが見えた。
 一瞬で意識が遠のいた。
 
 
 はっとして目を覚ました時、沙那は広いシアターの客席に腰を下ろしていた。
 手にはキャラメルポップコーン、脇にはコーラ。シアターは広くて、席は沢山。映画はフルカラー。CGの車が走っている。
 しばらく呆然としていた。何もかもが信じられず、近くでいちゃつくカップルにも、横で寝息を立てている禿げた親父にも、警戒心剥き出しの目を向けていた。
 耳をつんざく爆発音がした。沙那はびくつき、思わず腰を浮かし、しゃがみ込もうとした。
 しかし沙那は、カップルのクスクス笑いを聞いた。爆発音がしたのに、笑っている。
 沙那は呆然として立ち上がった。スクリーンいっぱいに、爆発炎上したタンクローリーが転がっていた。主人公らしき無精髭を生やした中年の外人が、毒づいている。
『damnn!』
 沙那はぼんやりとそれを眺めていた。下品な、アクション映画を。
 しばらくの後、席にストンと、腰を降ろす。カップルはまだ、クスクスと笑っていた。

 
■4
 

 
 何も思い出せない。
砂那は映画館を出たが、その映画館は自宅から何十キロも離れた場所にある、全国チェーンの一店舗だった。全く同じ映画館が自宅のすぐ近くにもある。なのになぜ、こんな所に来たのだろう……それも、趣味の悪いアクション映画を一人で見るなんて――
「(失恋でもしたのかな……)」
 ふと、そんな事を思った。思ったが、深くは考えなかった。頭の中がずっとぼんやりしていて、何も深く考えられなかった。まるで脳のどこかが、麻痺しているかのように。
「えー? せっかく回って来たのに……ここも封鎖されてるの?」
 砂那が手近な地下鉄に向かっていると、そんな声が傍らから聞こえてきた。声の方を見ると、狭い裏路地の前で人群れができて、口々に文句を言っていた。よく見ると、路地を隔てるように黄色いテープが張られていて、その前には二人の警官が立っている――どうやら封鎖されているようだ。
「おまわりさん、今日はあの銭湯やってないの?」
 人群れの中から、中年の男が文句をつけるようにそう食って掛かった。彼の傍らには老夫婦が困ったように立ち尽くしている。
「さぁ、我々は命令されてここにいるだけでねぇ……申し訳ないんだけど」
 定年間近くらいの警官が、のんびりと中年をなだめた。
「申し訳ないんじゃなくてさぁ、その胸に着けてる無線とか使って聞けないの?」
「そんな事したら私怒られちゃうよー」
「こっちはせっかく時間作ってきたのに……ねぇ婆ちゃん」
 と中年の男は老夫婦を振り返る。
砂那はその様を眺めながら、なんとなしに、件の路地の向こう側を覗いてみた。
 『ゆ』という、大きなイルミネーションの看板が見えた。しかしそれはすっかり日が暮れた今になっても光っておらず、真っ暗に沈黙していた。
「(……なにか)」
 頭の中で、何かが緩く爪を立てた。しかしそれは、あまりにも弱々しくて、すぐに意識の彼方へ追いやられていった。
「しょうがないよ……今日は別の所にしよ」
 ちょうど人群れの横を通り過ぎようとした時、そこから少年と少女の二人が、肩を寄り添って出てきた。砂那の少し前を歩きながら、小さな声でささやきあっている。
「いつもは泊めてくれてるんだよ……ほんとだよ?」
 少年が、少女の耳元で小さくささやいているのが、夏の生ぬるい風に乗って漏れ聞こえてくる。少女は小さく頷く。
「うん……」
「あの映画館、有名なんだよ。いつ行ってもやってるし」
「うん……」
「何かあったのかな」
「うん……」
「今夜、どうしようね……」
「……うん」
 二人はそのまま、別の路地を曲がっていった。砂那はその姿にまた、何かが引っかかったが、しかしそれだけだった。頭を押さえる――何か、何かが思い出せない。だが、それが重要だとも思えないし、思えない自分に違和感も持たない。ただ、夢の中にいるようにぼんやりとしていて、家路に着く足を、止めてはいけない気がする…………


 地下鉄に降りて、電車に乗った。電車の中はがらがらで、砂那が乗った車両には砂那一人しかいなかった。
 砂那はがらがらに空いた席にだらしなく座り、天井の吊り広告を眺めていた。表情に力が入らない。目にも力が入らない。何も考えたくなくて、体がだるい……
 ぼんやりしていると、電車の中に数人の女の人が乗り込んできた。全員お酒が入っているらしく、頬が朱色に染まっていて、砂那の右斜め前の席に座ると、ぺちゃくちゃとおしゃべりを始めた。
「今日はよかったねー、すっごい楽しかったぁ」
「うんうん! よかったわぁ、あの女の子、また来てくれないかなぁ?」
「チナちゃん最近元気なかったけど、元気でたねー」
「だってあんなことしたの久しぶりだしぃ、またやりたいなぁ……!」
「なんか表情が若返ったよね」
「あーわかるっ、若返った若返った」
「ちょっと、そんな歳じゃないわよ!」
「あーそうだっけ? ごめーん」
「このやろこうしてやるこのこの……」
「わはは! やめてぇー!」
 一人、スーツ姿で一際酔っ払っている女が、傍らの派手な格好をした女に襲い掛かった。襲われたほうの女はきゃーきゃーと悲鳴を上げて、周りは楽しそうにそれを笑った。
「(……だれだろう)」
 知らない人のはずだ。だが、眼が離せない。痛みを感じる。脳が記録する記憶ではなく、一瞬の感覚――背中の皮膚が痛みを思い出していた。
「(あの人に――叩かれた……?)」
 電車が次の駅に止まると、彼女達は騒ぎながら、出て行った。またどこかに飲みに行こうと騒ぎながら。
再び電車が発車したとき、電車の中は酷い静寂に包まれていた。


 帝都駅に戻ると、駅の構内はもうすっかり人がいなくなっていた。随分遠いところに出かけていたのだと、改めて思う。昼間とは打って変わって静かな構内を、ぽつぽつと歩く。
「だぁーまったく、貴様らまたサボっておるなっ!」
「うわっ、うるせぇ爺が来やがった」
「サボりじゃないですよ、クレープ食べてるだけです」
 騒ぎのほうに目をやると、広い通路の端で、クレープ屋の屋台を前にした警官二人と、それにつかつかと歩み寄る老警備員が見えた。老警備員は警棒を教鞭のようにひゅんひゅんと振り回しながら近づき、
「なぁにがくれーぷだばっかモン! 貴様ら警官は! 浅慮で残虐な逆賊からお国を守護する、誉ある聖職者であるという自覚が足らんのだ! そこになおれ!」
 警官二人のうち、三十台くらいの癖のある顔つきの警官が、鬱陶しそうに老人を見やる。
「爺さん、大陸に夢かける時代は五十年も前に終わってんだよ。なにが聖職者だ。金貰わなきゃやってねぇよこんな仕事、なぁ?」
 と、今度は傍らでメガネにクリームをつける警官を見やる。メガネの警官は「うーん」と悩みつつも
「まぁ、うつ病にかかるのはご免ですね」
「うつびょう? くだらん! 全くくだらん! 貴様ら若い者は何でもかんでも病のせいにして己に罪は無いと詭弁ばかりだ、全く……うぇっほ、げほ!」
 老警備員はそこで、急に激しく咳き込んだ。口の悪い警官が「あーあーもう」と彼の背中をさすってやる。
「爺さんは自分が病気なのをさっさと認めろよ……いつ引退すんだよ。毎日ガキ共と追いかけっこしてっと、走ってる間にぽっくり逝っちまうぜ。そうなったらガキ共トラウマ」
「うぇっほ、げぇっほ……やかましい鈍ら坊主が、貴様は歳を食っても坊主のままだ」
「爺さんも何時までたっても爺のままじゃねぇか……困っちまうぜ」
「あのぉ、おかわり頼みます? あ、店員さん、僕スペシャルチョコで。トッピングはイチゴジャムと、納豆。ひきわりで」
 砂那は三人の横を通り過ぎながら、やはりどこか、袖をつかまれるような感覚が残った。老警備員は知っている。大陸爺さんだ。まだ警備員をやっていると言うのも驚きだが……それ以上にあの、二人の警官が気にかかった。彼らを見ていると誰かの、小さな手の感覚を感じる。手でしっかりと掴んでいた、小さな手を……
「(……子供の頃の……悪戯してた頃の、タマコの手かな……)」
 手をぎゅっと握り締めてみる。だがそうした事で、その感触はすぐに消えてしまった。小さな水泡のように後悔が沸き起こり、そして弾ける様にあっさりとそれは消えた。
ふいに背中を寒気が走った。それはぼんやりとした感覚が反転したような感覚で、急激に全身へと広がった。胃がゆっくりとねじ曲がるような、緩い吐き気まで沸き起こる。
「う……なんなんだよ……うぅ」
 家路へと歩を早める。早く家に帰って、目も耳も覆ってしまい、ベットの中でじっとしていたい。何も聞きたくない。何も見たくない。何もしたくないし――『もう、全てから手を引きたい』
「(もう……? もう……そうだ、もう、アメリカに引っ越すんだ……)」
そうだったのだ。すっかり忘れていたが、もうすぐ自分はアメリカに引っ越すのだ。そこでの新しい生活、自由な生活。それを楽しみにしていて――それで、どうしたのだっけ?
「う……」
 悪寒が再び増した。吐き気も強くなってきて、砂那は歩調をさらに速めた。


「だぁーったくよ! 今頃帰ってきやがったぜこのド馬鹿! おっせーよ!」
「……津田?」
 自宅前にようやくたどり着くと、玄関前に原付――津田お気に入りの改造ベスパが止まっていて、シートに座って津田が待っていた。彼は腕や体やらをしきりに擦りながらわめく。
「お前がおせぇから体中虫に食われちまったぜ……かぁー痒い!」
「……何しにきたの?」
 砂那がぼんやりしたままそう尋ねると、津田は目をまん丸にしてベスパの座席から飛び降りて、
「何しにじゃねぇだろ! お前今日業者に荷物預けんじゃなかったのかよ?」
「……あ」
 言われてみれば思い出す。小さい荷物は先にアメリカの方に送るのだった。その為に業者を呼んでいたはずなのに……
「あ、じゃねぇよ、ったくよ……お前ん家の前で業者がうろうろしててだな、タマコがそれ見て、お前が家にいないって聞いて、俺に連絡とって、んで俺がベスパちゃんをかっ飛ばして来てみたら、やっぱりお前はいねぇでやんの。タマコはなぜか俺に怒鳴り散らすし、たまんねぇよ!」
「ご、ごめん――すっかり忘れてて……」
「どこ行ってたんだよこんな時間まで」
「……それが、僕もよくわかんないんだけど、映画館に――」
「映画館!?」
 津田がまた、目をひん剥いた。
「ばっかじゃねぇの!? 彼女もいない癖して映画館なんか行ってたのか? そんな場合かよ」
「か、彼女は関係ないだろ……というか、僕も何で映画館になんか行ったのかわかんなくて――う、」
 砂那は再び強く襲ってきた吐き気に背を曲げて、口元を押さえた。津田はすぐにそれに気付き、「おいおい大丈夫か?」と体を支えてくれた。
「うん……でも、ちょっときもち悪い……」
「お前もか……タマコも寒気がするとか言ってたし、なんかうつされたな?」
「タマコが……?」
「あぁ、散々怒鳴り散らした後、急にな。さっき家に言ったら玄関にも出てこねぇ……まぁとにかく家に入ろうぜ。何してたか知らないけど、まずは休まないと」
「うん……」
 砂那は玄関に近づき、ポケットに手を突っ込んだ。中から鍵を取り出し、ドアノブに差し込む。
――いや、差さらなかった。鍵はその先すら入らず、がちゃがちゃと鍵穴に入るのを拒絶する。
「あれ……?」
「おいしっかりしろよ、貸してみろ。……何だコレ、何でこんなもん持ち歩いてんの?」
 津田が呆れたように言って、砂那の手から鍵を奪った。砂那の目の前にかざす。


「ロッカーの鍵じゃねぇか」


 寒気が光に変わった。
脳の奥底で光が炸裂し、同時に猛烈な勢いで『動画』が断片的に脳裏にフラッシュバックする。膨大な量の映像、セリフ、音、恐れ、怒り、怯え、呆れ、笑い、怒声、自分自身へのふぬけるような不信感、今この場所からの逃避願望、正義のヒーローへのどす黒い怒り、首を絞められた苦しみ、とっさに突き出した拳の感触、額の痣の鈍く脈打つ痛み、柔らかな手を引く温かい感触、全力で駆ける両足の疾走感、閉じた瞳を貫くまぶしい光、敵を出し抜く爽快感、再び訪れた希望への期待、打ち砕かれる無力感、何も感じない虚無、虚無、虚無、虚無、そして、あきらめ。
自らも動揺する程の、脈動する夢と現実の混沌が全身を覆い、しかし砂那は驚くような余裕もなかった。最も大事なものが、今、その手に握られていない事に気がついたのだ。
自分は何をしているのか、こんなところで何をしているのか、守るべきものを守れず、奪われた記憶を自力で取り戻す事もできず、あまりに弱い――弱すぎる、何が正義のヒーローだ、迫り来る悪の組織からたった一人の少女を逃がす事もできず、記憶を奪われ、ぼけっとしたまま、そう、それこそ安い映画を見てきたような表情で家に帰り、ベッドにもぐり込もうとしていたのか、目も、耳も覆って、「やっぱり無理だったか」って、そう無意識に思いながら、自分だけさっさと新しい生活に逃げ込もうとしたのか、また、またなのか、お前は母親を守れなかった事実に恐れをなして膝を突き、そしてそこから僅かに体を起こしたと思ったら、やっぱりダメでしたとまた膝を突いていたわけか、一体、何のために? 何のためにお前は鳴海カナに引き金を引いた? 逃げ出す事よりも、戦う事を選んだからじゃないのか? 他の誰かに言われるがままより、自分から少女を救おうと覚悟したんじゃないのか? 飼い殺されるより、自らの正義に従って拳を振るおうと決めたんじゃないのか? なのにお前は逃げてばかりだ、反撃したのは僅か一回、拳銃を一発撃っただけ、あとはずっと逃げ回り、彼女のわがままに付き合い、幼い頃のタマコを飼うように、仮想デートを楽しんでいたわけだ、映画を見て、買い物をして、だけど質問には答えられなかった『じゃぁ聞くけどさ、なんでお前はあの娘を助けたわけ? 怖い美人のお姉さんに追いかけられるより、胸のない女の子助けた方が良いって考えた理由は?』答えがない、当然答えられるべき問いに答えを用意していない、本当はわかっていたんだろう? 結局お前は、正義感『らしきもの』に酔っていただけだ、彼女の手を引いている時、自分がヒーローに戻れた気がした、そうやって彼女を利用していただけだ、本当は、ずっとずっと、怯えていたのだ。


膝をついていたお前に、父親は彼女を預けていたのに
お前にヒーローの資格があると、信じて


砂那は拳を握り締めた。
「砂那? ――お、おい!?」
 思い切り振りかぶり、ドアに打ち付けた。鈍い衝撃と鋭い痛みが右腕を貫き、脳が悲鳴を上げた。その電気信号がまどろんでいた脳を強引に覚醒させ、砂那の目がぎゅっと見開かれた。
覚悟を決めた。
「何してたんだろ、僕」
 これから対峙する恐ろしいものに、情けなくも声は震えていた。動揺と疑念が全身に行き渡る。体も震える。
「最初から、戦えばよかったのに。悪い奴が……はっきりと悪い奴が目の前にいたのに、どうして戦おうとしなかったんだろう」
「砂那……」
 津田が傍らで、すっかり動揺して――砂那の気が狂ったとでも思っているかのような表情で、尋ねる。
「お前……何言ってんの、つか、痛くないか、それ」
「痛いよ。殴られても、殴っても痛いのはわかってんだ。だから逃げてたのか、痛いの、嫌だから――」
 砂那はドアに頭突きをかました。
それも上半身を九十度にそり返してぶち当てるような、強烈な一撃だ。頭蓋骨が衝撃を受けてたわむのがわかった。皮膚が裂け、派手に血が噴出した。びちゃっと汚い音と共に、ドアに鮮血が飛び散る。
もう一度、ぶち当てる。
再び血が舞う。皮膚の下にあった肉がつぶれ、裂け、痛覚が悲鳴を上げる。砂那はしかし、それに構わない。もう一度、ぶち当てる。舞い散る鮮血が玄関の切れかけの蛍光灯に照らされ、羽虫だけが、静かに、羽音を立てている。もう一度。もう一度。もう一度――
「だから、やめろって! 砂那! おい! やめろ――やぁめろ!」
 気がつくと津田に羽交い絞めにされ、扉から引き剥がされていた。暗闇の中、真っ白な光にぼんやりと照らされた扉には、赤黒い放射状の円陣が、くっきりと暴力的に組まれていた。
「バカッ! 何やってんだお前! うわっ、くそ、骨が見えてる……!」
 津田は砂那の額を引っつかんで、穴が穿たれたような額のグロテスクな傷跡を睨んだ。ポケットから手ぬぐいを――きっと引越しの手伝いのために持ってきてくれたのだろう――を取り出すと、血が噴出すそこに押し当てた。
「……痛いの、思い出してたんだ」
「あぁん……!? ったくこのバカが、まだ寝ぼけてんのか」
「津田、覚えてるよ俺、卒業式の日、お前とやりあったの。最初にくってかかったの、俺だったな」
「……あぁあぁそうだよ。荒いショック療法で思い出してくれたのか?」
 そこで津田は不可解そうに手を止める。
「……『俺』?」
「怖かった。たぶん、俺はやられると思った。お前が何人も仲間を校舎裏に引き連れてるの見たんだ。喧嘩したらたぶん、囲まれて、容赦なく殴られて、倒れても蹴られて――加減なんて誰も知らなかったからな、あの頃。殺されると思ってた。わりかし、本気で」
 砂那は拳を握り、津田はそれを見た。そこからも血が滲み、砂那は無事なもう片方の手で、その傷跡に爪を立てた。抉る。ぬるぬるとぬめる血が、手首まで滴っている。小刻みに震えている。
「もうずっとぶるぶる震えてた。ずっと隠してたけど、校舎裏に近づくと足はがくがく震えるし、全身が縮んだみたいに体に力が入らない――あの時だけじゃないんだ。中学生から金巻き上げてる高校生に殴りかかった時も、トラックに轢かれた人を助けた時も、怖くてぶるぶる体が震えてた。たぶん、失敗したら死ぬんだろうなとか、痛いんだろうなとか、そんな事ばっかり考えてて」
「砂那」
 津田は砂那の肩を掴んだ。その顔を覗き込み、至極心配そうに顔を歪める。
「何があったんだよ、お前」
 砂那は彼の顔を見上げた。
「母さんを迎えに行った日、初めて俺、負けたんだ。本当は母さんが帰ってこない理由とか、わかってたんだ。全部じゃないけど、ほとんど、予想してた。母さんのいる扉の前でずっと震えてて――寒いのもあったけど、ずっと、迷ってて。だけどいつもと一緒。いつも通りに、勇気を出してチャイムを押したんだ」
 拳の傷を、もう一度、深く、深く抉る。
「初めてだったんだ。負けたの。母さんは玄関から顔も出さなかった。そのうち、見た事ない女の子とおじさんが来て、俺を避けるように部屋に入っていった。負けたんだ。初めて予想通りに、負けた」
 砂那は津田の体を押しのけた。呆然とする津田から離れ、扉に描かれた荒々しい血の一枚絵に手を触れる。
額から血が滴り、口元まで垂れてきた。砂那はそれを舌で拭い――そして、笑った。
「今回もたぶん、負けるかな」
 砂那の体の奥から、激しい恐怖の渦が巻き起こった。扉に置いた手も、目に見えて、異常なほど震える。
「強そうだもんな、鳴海カナ。父さんが負けたくらいだし、なんてたって世界中がバックについてるし」
 砂那は思い出す。きっと映画館で砂那に最後の拳を打ちつけたのは鳴海カナだ。拳が女のそれだった。着込んでいるあのスーツの効果なのか、威力は女のそれでは全くなかったが、その拳は小さく、殴りなれていないブレがあった。全く、容赦は無かったが。
 殴る事になれてはいなかったが、暴力を振るう事に一切のためらいはなかった。アンバランスな『敵』だった。だからこそ、強大な敵だった。
暴走する力を持ち、自分の行為を振り返りもしも無い。
まさしく――『悪』そのものだ。
「――戦ってやる」
 低く呟く。蛍光灯の光が、砂那の顔に影を作る。
「相打ちでもいい。あいつの体を抉って、それから負ける――死んでやる」
 震えが止まった。知らず、呼吸はずっと止めていた。ようやく吸い込んだ息がかすれて、喉の奥で、身を削られたような声が漏れた。
「アーニャ……ッ!!」
 背後から後頭部をはたかれた。
ちいさく「いて」と呟き、間の抜けた表情で振り返る。
「一人で何ぶつぶつ言ってんだお前。あほうか。ばかか。自分語りで盛り上がってんじゃねぇよ。寒いんだよ」
 津田は物凄く冷めた表情をしていた。砂那も一瞬で現実に引き戻され、なんだか寒々しい気がしてきた。その表情を見ると、津田は極めて冷静にポケットに手を突っ込み、そこからかちゃかちゃと音を立てるキーホルダーを取り出した。
原付の――津田の相棒ベスパのキーをつまみ、砂那の眼前に突き出した。
「詳しく説明しろ――なんだか知らねぇけど俺にも一枚噛ませろよ」
 にっ――と津田が笑った。久しぶりに砂那が見た、子供じみた笑いだった。





 深く、沈みこむような闇だ。奥深くでそれは渦を巻き、そして自分は、抵抗する事もできずにその渦に引き込まれる。

――「私は地球から来たが、君達が知る地球人ではない。地球人にも色々と種類があって、私は君を助ける側――というより君を助けようと思い、そしてそれを実行に移せる唯一の……クソ、ここはまずい。移動するぞ、さぁ、早く!」――

手を引かれる感触。慌てて足をもつれさせながら、必死にそれについていく感触。不安が頭をもたげる。どこかで激しい炸裂音がした。闇の中でそれが連続する。閃光が背後から追いかけてくる。

――「あぁ、君の家族全員を救いたかったが、そうはいかなくなった! どうしてもギリギリの際まで待たなくてはいけない事情があった……! ああそうだ、すまない、君のご両親は地球人が殺した! 本当にすまない、止められなかった! 白状すれば、このままでは君の兄弟も皆殺しだ!」――

絶望感に打ちひしがれる。不条理な現実に体が震え、「そんなものは嘘です!」と悲鳴を上げる。

――「すまない、本当にすまない!」――

 手を引く者は何度も謝り続ける。彼は手に銃を持ち――自分は銃については詳しくない――激しい銃撃戦を掻い潜りながら、遂に至った行き止まりの部屋で自分を小さな箱のようなものに押し込んだ。

――「これを渡しておく。私の息子が力になってくれるはずだ。いいか、息子は君を守ってくれるはずだ、地球人だが、味方だ! わかるか!?」――

 わかるはずがない! 私をどうしようと言うのか、姉は、妹は、兄は、弟は、おじい様、おばあ様は――息子とは、一体誰の事です!?

――「君の家族はできる限り救う、だが期待はするな。それから私の息子は……子供だ。地球の良心だ。……ただ私は彼に技術を教えたが、それだけだった――それも、申し訳ない。君と、私の息子に」――

 再び激しい銃撃が襲い掛かってきて、手を引いていた者は身を伏せて、弾丸の方向へ銃を乱射した。

――「さぁ行け! 君は生き残れ! 息子に会ったら伝えてくれ××××と――!」――

 返事を返す前に闇に押し返された。深い水の底から急激に浮上する感覚。声と銃声が膜に包まれたように聞こえ辛くなり、代わりに全身に感触が戻る。体があるべき場所にあり、皮膚が温度を伝え、そして筋肉が動き始め、そしてまず最初にまぶたが――――


 ハッとして目を開くと、そこにあったのは見知らぬ、暗い天井だった。
「(私は……なぜ)」
 アーニャは体を起こそうとした。が、体に力が入らない。何とか動く手を持ち上げると、まるでそれは肘の先につく肉の塊のように感覚が麻痺していた。手首につけられた鍵束が揺れる。何とか、手を握ってみる。ゆっくり、ゆっくり――しかしまともに動かなかった。途中まで曲がるが、そこからは意思が通じないかのように動かない。
「早いね……もう目が覚めたの」
 右手で声がした。女の声だ。首を必死に傾けて、そちらに目を向けた。
ここは広い部屋らしかった。自分が寝ているのは大きなダブルベッド。そして見やった壁は一面ガラス張り、眼下には群衆が生の営みをこそこそと続けているであろう、輝く灰色の塊があった。どこか背の高い建物の一室らしい。
「どこか痛い所はない? 怪我は?」
 眼下の景色を睥睨するように、ガラス窓の前でリビングチェアーに座っている人影がある。それはこちらに顔を向けずに、手にしたカップに口をつけ、すすっている。リビングチェアーの前には、低いガラステーブルがあり、その上にはティーポットも置かれていた。
「あなた……おまえ、は、なるみ……」
 アーニャは頭に手を置いた。頭痛が激しい。そしてそれ以上に、意識が混沌としていた。誰かの記憶、自分の記憶、深い過去の、近い過去の、深層心理、表層意識――全てがまどろみ、はっきりとしない。
「鳴海カナ。日本での偽名だよ。本当の名前は忘れた。長い間、誰も呼んでくれてないからね」
 影はまた、カップに口をつけて、すすった。
「……今は意識が混濁してるだろうけど、そっちの方が良いと思って、そうしてあげたの。理性を保ったまま、死にたくないでしょ?」
「……、まえ、は、なぜ」
「なぜ怪我を治したか? 子犬が道端で死んでいて、その体に切り傷や刺し傷があれば、『誰が殺した』という人がたくさん出るでしょう? だからね、治したの。言ってる意味わかる? 生かすために手を施すばかりが医療じゃなくて、その逆も然りって事……」
 影はティーカップをテーブルの上に置いた。立ち上がり、こちらに近づいてくる。明かりの灯されていない暗い部屋の中では、そのサングラス越しの目の表情はうかがえなかった。
「私からも質問させてもらう――高木一佐に何を吹き込んだ。どうしてあの男の、協力を得ることができた」
 問われている意味がわからなかった。だがアーニャが口を噤んだのはその為だからではなく、鳴海カナに対する激しい恐怖と怒りからだった。
「……何も言わなくても、適当な事を言っても、恐ろしい目に遭わせる。高木一佐をどうやって仲間に引き込んだ。なぜ彼を狙った」
 アーニャがやはり、無言で返すと、鳴海カナはその胸倉を掴み挙げてきた。息が詰まる。
「言え」
 頭痛が激しくなり、意識がぼんやりしてくる。アーニャの口が、勝手に口を利いた。
「――あなたが、私の家族を殺したのですね」
 アーニャ自身意味のわからない言葉の羅列だった。殺した? 家族を――この女が?
 鳴海はまるで平静に、見返してくる。
「……恐怖から深層意識に引っ込んでいた『本人』か。この際誰でも良い。どうやって高木一佐を引き込んだのか、死ぬ前に吐け。そうすれば楽な殺し方をしてやる」
「……私を救った彼をタカギイッサとするのなら、彼が私を救ったのには理由がない」
「何?」
 鳴海の整った眉根がぎゅっと寄った。
「誰かを納得させる理由があったのではなく、彼自身の中にある『感情』がそうさせたので――」
 鳴海が腕を振るった。アーニャはベッドの上に叩きつけられ、気付いた時には鳴海の片腕の猛烈な力で首を押さえつけられていた。
「ふざけるなよ……高木一佐は自分が誰の味方かわかっていた。最後の際で、『感情』で裏切っただと……? 侮辱するな! 彼は誇り高い兵士だッ! 私と共に手を汚し、守るべき者の為に正義感を殺した仲間だ! くそ下らない偽善感情で、小娘一人救っただと!? そんなバカな話があるかッ!!」
 アーニャは彼女の怒りに気おされたが、しかし口は勝手に、言葉を続けてしまう。
「貴方が……ぐ、どう思おうが、彼は彼の意思に従い……ました、彼は私を救った……そして、貴方は……私を殺す。私の家族も殺して、タカギイッサの意志も……殺すのです」
「違うッ! お前がそそのかしたんだ! お前が、高木一佐を死に追いやったッ!」
「……彼を、殺、したの……ですか」
 アーニャの中の『誰か』の言葉に、鳴海はハッと表情を崩した。だが、すぐにそれは下に戻り、鉄面皮がその表情を覆う。
「……殺したのは私じゃない。お前が嘯き、彼を騙した……それが彼を殺した犯人だ!」
「哀れ、ですね……貴方は……共犯者だ、と思っていた彼が正義感を……取り、戻したのに嫉妬して、彼を……殺し、そして……それ、すら直視できず、いまだ……自分の、醜い部、分から……目を逸らそうとしている……いつまで、続けるつもりですか、最後の一人が死ぬまで、殺し……続けるのですか……!」
「黙れ……ッ!」
 ぎり……と、首をさらに強く絞められる。呼吸が滞り、吐き気が沸き起こる。目玉が飛び出そうなほど痛くなり、咽喉が押しつぶされる痛みに涙が溢れてくる――
「失礼しますッ!」
 その時、背後から扉が派手に開かれる大きな音がした。視線だけそちらに向けると、癖毛の激しい、間の抜けた表情の男と目が合った。彼は激しく狼狽した様子で、
「あ、いや……これは、なんという、つまり、その、女性同士がなにやらという、男子禁制の……さすが自由の国、性差すらその壁を、いやいや、その、鳴海さんの趣味ついて言及するつもりは……」
「福田」
「は、はっ!」
 鳴海の冷たい一言に、びしっと敬礼する。
「何があった」
「はっ、第六作戦中隊とかなんとかいう部隊から連絡がありまして……」
 鳴海はアーニャの首から手を離し、ベッドの脇にすっくと立ち上がった。
「……私の部下だよ。本国がようやく認証して送ってきた、デルタボーイズ」
「は、そのデルタ坊主が連絡をしてきまして、『対象が動き出した。側頭葉内部のアセチルコリン量が定量を超えている為、制止をかける。対象は現在軽量バイクで移動中』……との事です」
「何?」
 鳴海は著しく表情を歪めた。
「もう記憶を取り戻した……? 過去の情報を引き出しても思い出さないはずなのに」
 そして何かに気がついたようにハッと目を見開き、アーニャを見た。アーニャはじっと彼女を睨みつけている。
「まさか……!」
 鳴海がアーニャに手を伸ばした。アーニャは体に力が入らず、なされるがまま、体を弛緩させていた。腕を持ち上げられ、その手首をまじまじと眺められる。
「こいつ、鍵が……!」
「は、鍵?」
 福田、と呼ばれた男が変な顔をして鳴海を見た。鳴海は歯軋りするほど奥歯を噛み締めて、アーニャをにらみつけた。
「お前、あの時に……!」
 アーニャは頷きはしなかった。だが、彼女の言う『あの時』がいつであるかはわかった。映画館で襲われ、砂那が倒れた時、アーニャは倒れた砂那に抱きつき、とっさに彼の家の鍵のキーホルダーに、自分の手首から外した鍵を混ぜたのだ。
「……今更気付いたか、野蛮人め」
 ようやく、口が自分の言う事を聞いた。思いっきりの侮蔑を込めて言ってやった。そして今になって気づく――砂那に同じ言葉を吐いた時、心の何処かで、笑い返してくれる事を期待していたと。それは甘えていたのだと。×☆●◇にいた頃の自分には、絶対にできないことだった。いつも誇り高く、誉ある地位にあるのだと、虚飾と虚勢を体にべたべたと貼り付けていた頃の自分では、あんな事は言えなかっただろう……
「(砂那……)」
「貴様!」
 鳴海が拳を振り上げ、アーニャは静かに目をつむった。
「鳴海さん! 待ってください、せっかく治療したのに……!」
 福田の声がした。目を薄く開くと、鳴海の腕を福田が必死に押さえ込んでいた。鳴海は鋭く、そして青く燃えるような瞳をアーニャから福田に移動させ、
「……デルタボーイズに伝えろ。『鍵の回収を最優先』だと。高木一佐の持ち出したジェミニのアンコモンに手をつけられたら、子供といえど手に負えない」
「はっ――あの、それから追加の情報で、『軽量バイクを運転してる人間がいる』という事ですが、こちらはどうします?」
 鳴海はベッドに転がるアーニャを見下ろした。目を細め、まるで彼女に主張するように、力強く言う。
「今更、誰の犠牲もいとうな。対象に関しても同じ扱いにする」
 鳴海はさっと背を向けると、扉に向かって歩いていく。「私達もここを離れるぞ」と言い残して。福田は慌てて返事をし、その後について出て行った。
残されたアーニャはただ、静かに天井を眺めるしかなかった。見知らぬ、暗い、天井を。
「……砂那」
 その声には、すがるような、濡れた色が混ざっている。

 
部屋を後にした鳴海は、ホテルの通路をカツカツと音を立てながら歩く。彼女は知らず、自らの親指の爪を噛み締めていた。
「(高木砂那……高木砂那……!)」
 ふつふつと、自分でも驚く程の、どす黒く渦巻く『怒り』が湧き起こる。
「(お前は幻影……ジェミニの姫が夢見た、高木一佐の幻影だ……!)」
 鳴海の中で、最後の最後で裏切った高木一佐への怒りと、それ以前の、憧れすら抱いた誇り高い兵士としての高木一佐への、倒錯した愛情のようなものが渦巻き、彼女自身すらコントロールできない、感情の燃える嵐が吹き荒れていた。
 がりがりと、爪を噛み砕き、顎を引いて、引きちぎる。
「(高木一佐は誇り高い兵士だ……彼を侮辱する幻影は、私が消し去ってやる……!)」


2008/07/13(Sun)21:31:45 公開 / 無関心ネコ
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大学の方で色々重なって更新できないのが辛い……でも絶対完成させる! と思いながら誤字脱字修正です……早く書けるようになりたいなぁ。
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