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『螺灯』 作者:プラクライマ / リアル・現代 サスペンス
全角63596文字
容量127192 bytes
原稿用紙約190.6枚
 広瀬由泰(ひろせよしひろ)は高校生。両親と妹の四人で瀬戸内海沿岸の小さな町S市で暮らしていた。ある日、S市にある高圧送電用の鉄塔が倒れる。それから数日後、本田電工という小さな電気工事会社に勤めていた父親が失踪する。由泰は、幼なじみの姉川弘美(あねがわひろみ)に助けられながら父親を捜す。
        1

 二月のある凍りつくような日の深夜、一台のワゴン車が聖人寺山(しょうにんじやま)の麓に止まっていた。ワゴン車はエンジンを止めヘッドライトを消している。辺りは真っ暗だった。車の中からは物音一つ聞こえてこない。
 聖人寺山は標高一一七メートルの低山である。瀬戸内海に面したS市の西端、浅瀬を埋め立て造成されたB工業地帯を見下ろす位置にある。頂上にある展望台からの夜景がきれいで、週末には多くのカップルが訪れた。しかし、平日のこの時間に人の姿はなかった。
「寒い」
 後部座席の一人が声を震わせた。
「静かにしろ」
 リーダと思われる運転席の男が、声を潜めながら、しかし強い口調で言った。男は運転席のドアを静かに開けて車を降りると、用心深く辺りを見回した。そして、車の中に向かって声をかけた。
「誰もいない。風もやんだようだ。そろそろいくぞ」
 後部の座席から黒っぽい服装に身を包んだ二人の男が降りてきた。彼等はリーダの男を先頭に真っ暗な道路を歩き始めた。聖人寺山の頂上に続く道である。
 三人はしばらく歩き続けた。そして、頂上まで数十メートルの所で道路からそれて林の中へ入った。男はヘッドランプをつけ、手で光が洩れないように覆った。ちょうど足元だけがランプに照らされている。三人は落葉や背の低い枯れ木をかき分けながら進んでいった。やがて大きなコンクリートの台座が現れた。この台座からは十八万七千ボルトの電線を支える鉄塔がそびえ立っている。
「これであいつらも終わりだな」
 リーダの男は不気味な笑いを浮かべた。
「急げ。誰かが来る前に……」
 三人は台座に取り付いた。そして、鉄塔を固定するボルトを抜き始めた。林の中に工具とナットが擦れ合う金属音が響いた。
 木々の間から眼下に広がるB工業地帯の灯が見えた。それは白や橙の灯が集まった大河のように、そこから東に広がる街の中心部へ流れ出していた。

        2

 コンピュータルームがある南校舎へのわたり廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り返ると幼なじみの姉川弘美(あねがわひろみ)が立っていた。
「ねえ、由泰(よしひろ)、お父さん送電線のお仕事されていたよね。大丈夫だったの?」
 弘美は鉄塔倒壊事故のことを話しているのだろう。三日前の金曜日、聖人寺山にある高圧電線の鉄塔が倒壊したのだ。発電所が緊急停止し、S市周辺が大停電になった。
「週末は帰ってこなかったよ。ちょうど、あの送電線の仕事をしていたらしい」
「大変だね」
「ああ」
「おい、広瀬(ひろせ)、遅れるぞ」小走りでやって来た瀬山一平(せやまいつぺい)が、すれ違いざまに声をかけた。
「じゃあ、またな」
 弘美は胸のところで小さく手を振った。由泰は弘美と別れると、瀬山を追いかけた。追いつくと、瀬山はにやついた顔を向けた。
「姉川と何話してたんだよ」
「なんでもねえよ」
「あいつは可愛いよな」
「そうか」由泰はぶっきらぼうに答えた。
 広瀬由泰と姉川弘美はS市南部にある高校に通っていた。由泰と弘美は同い年である。小学生の頃、弘美は由泰の母親にピアノを習っていた。二人の交友はその頃から始まり、中学、高校と同じ学校に進んだ。今、彼女は特別進学クラスにいる。教室が違うので毎日は顔を合わせないが、時々廊下ですれ違う時には短い会話を交わした。
 コンピュータルームにはキーボードを叩く音が響いていた。由泰は席に着くとパソコンのスイッチを入れた。
「情報かあ、超たりーっ」となりの瀬山が両手を上に突き出して言った。
 チャイムが鳴った。ほどなく情報の授業を担当している荏原(えばら)が入ってきた。
「先週でプログラミングの実習は終わりだ。みんな、課題はメールしておいてくれたな?」
 ここ数週間はプログラミングの実習だった。ほとんどの生徒は課題を完成させることができなかった。みんな口々に文句を言っている。
「先生、あれ超むずいんですけど」
「誰か完成させた奴いんのかよ」
「今年は一人いたな」荏原が言った。
「まじ?誰だ」
「特進クラスの姉川だ」
「おおー、すげえ」教室がどよめいた。
「それほど難しい課題じゃないが、時間が少ないからな。完成させることは想定していない。プログラミングの雰囲気をつかんでもらえればいいんだ」
 コンピュータルームの窓は南向きで校庭に面していた。上階の廊下が大きな庇のように突き出している。冬には窓の近くまで陽光が差し込んで来た。校庭の生徒たちが元気に動いているのに目をやりながら、由泰はなんとなく落ち着かない心持ちでいた。先週の金曜日に鉄塔が倒れた。そして、三日間、父親は帰宅していない。こんなことは、今までに一度もなかった。
「おい、広瀬、おい、……」
 瀬山に肘を突かれて我に返った。荏原がこちらを見ているようだ。
「広瀬、外ばかり見てるんじゃないぞ」
「すいません」由泰は赤面した。
 荏原は再び黒板に向かった。次々に式が書かれていく。由泰は上の空で説明を聞きながらノートをとった。
 授業が終わると、生徒はばらばらと教室から出ていく。荏原に質問している者もいた。由泰は教室を出た。わたり廊下を歩いていると、瀬山が話しかけてきた。
「このあいだの三者面談どうだった」
「志望は適当に出した。お前はどうすんの」
「K大の工学部」
「すげえじゃん」
「全然成績が足りねえよ」
「目標が決まったら、後はやるだけだろ」由泰は笑いながら言った。
「ったりーよな、まったく」
 来年は受験である。否応なく進路を決めなければいけない。
 放課後、用水路に沿って作られた遊歩道を自転車で走っていると、後から自分を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると姉川弘美が追いかけてくる。由泰は自転車を止めて彼女を待った。弘美は由泰に追いつくと、息を切らせながらにっこりと笑った。
 彼女は色が白く細身なので少し頼りない印象を与えた。入学したばかりの頃は、そういうか弱そうな外見に惹かれる男子もいた。
 二人は自転車を押して遊歩道を歩いた。
「お父さん心配だね」弘美が言った。
「ああ、でも、おふくろには連絡が入っているから、大丈夫だろ」
 時折、強い風が吹いて落ち葉を舞い上げた。用水路の水はゆっくりと流れている。近所の子供達が大騒ぎで対岸を走っていった。
「そういえば、弘美は進路どうするんだっけ?」
「私はH大の医学部だね」
「へえ、すげえじゃん」
「そう?」と弘美は素っ気なく答えた。
 いつものように、由泰はありふれた世間話をした。弘美は興味を示さなかったが、それを嫌っている様子はなかった。むしろ、こうやってぼんやりと過ごせる時間を楽しんでいるようにも見えた。こういうやりとりも、幼い頃からのことなので、由泰は慣れてしまっている。木枯らしが吹く道を、二人は兄妹のように寄り添って歩いた。日が落ちると急に寒くなる。もうすぐ三月だが、寒さが緩む気配はない。
 分かれ道へやって来た。水銀灯の下で二人の息が白んだ。
「じゃあ、また」
 弘美は笑みを浮かべて言うと、彼女の自宅がある方へ走っていった。

        3

 帰宅すると父親が帰っていた。
 父親の広瀬稔(みのる)は西電工(にしでんこう)の下請け工事を行う本田電工(ほんだでんこう)という小さな電気工事会社に勤めている。西電工は、瀬戸内沿岸地域の電気供給を担う西日本電力株式会社、西電(にしでん)のグループ企業で、西電から電線路の建設を請け負っていた。本田電工はその下請けのさらに下請けである。父親は鉄塔が倒れてからずっと仕事に出たままだった。その父親が数日ぶりに帰宅したのだ。
「大変な事件になりそうだ」
「事件?あれ事故じゃねえの」
「最初はみんな事故だと思っていた。でも良く調べてみると鉄塔を固定するボルトが抜かれていたんだ」
「まじかよ」
 父親は疲れた顔で頷いた。由泰は事件について書かれた夕刊を広げた。鉄塔事件は一面のトップで報じられている。

 二月二十日午後一時ごろ、S市聖人寺山にある高圧送電用の鉄塔が倒壊した。聖人寺山から見下ろす位置にあるB工業地帯には火力発電所があり、倒壊した鉄塔はこの発電所から最初の変電所へ電気を送る電線を支えていた。鉄塔が倒壊したことにより発電所は緊急停止し、周辺の世帯約一万七千戸が停電した。またB工業地帯への電気供給も止まり、工場の操業に大きな影響を与えた。
 鉄塔の高さは七十三メートル。朝から強い風が吹いており、鉄塔が倒壊した午後一時には瞬間最大風速十五メートル毎秒を記録した。強風や落雷など自然現象による事故の可能性が疑われたが、倒壊した鉄塔の周辺に固定用のボルトとナットが捨てられているのが発見された。警察はこれを何者かが故意にボルトを抜いた可能性があるとしている。
「西電と西電工からも大勢の人間が現場に来ていた。警察の捜査や復旧作業なんかでこの数日はほとんど眠れなかったよ。まあ、一段落したから、家に帰れないような残業はもうないと思う」父親は疲れたように言った。
 その日、父親は別の現場に出ていたらしい。午後一時半頃、火力発電所で地絡事故があったという連絡を受けた。ほどなく聖人寺山の鉄塔が倒れていることがわかり、急いで現場に駆け付けた。頂上へ通じる道路から十メートルほど斜面を上がった所に鉄塔は立っていた。それが道路を横切る形で倒れていたそうだ。

 母親の由起子(ゆきこ)がリビングでテレビを見ている。ちょうど鉄塔事件のニュースが流れていた。西電の副社長が記者会見をしているようだ。父親は風呂から上がり、海老の天ぷらをつまみにビールを飲んでいた。ぼんやりと食器棚がある辺りを眺めている。テレビは見ていないようだ。由泰は父親の正面に座った。そして、ビール瓶を差し出した。
「おつかれさま」
 父親は「ああ」と言って、コップを持った。
「このあいだ、三者面談があったよ」由泰は父親のコップにビールを注ぎながら言った。
 父親からは返事がなかった。なにか考え事をしているのだろうか。こちらを向いているが耳に入っていないようだ。
「親父、聞いてる?」
「ん?あっ……ああ」
「このあいだ、三者面談があったよ。もうすぐ三年だから進路を決めないといけないんだ」
「そうか。由泰、おまえ何かやりたいことがあるのか?」
「それが特にないんだよね」
 父親は真剣な顔になった。
「高専の学生だった頃、文化祭でプラネタリウムを作ったことがあった。材料費を安くするために円球ではなくて、正二十面体で作ろうとしたんだ。だがな、星の位置というのは円球上の座標に置くことが前提になっている。星座が歪まないように座標変換する方法が分からなくて本当に困った。それで仲が良かった数学の先生に相談したんだ。そうしたら数学辞典とかを引っ張り出してきて、うんうん唸って考えてくれた。そして、ついには家にまで持ち帰って、座標変換する方法を考え出してくれたんだ」
「ふーん」
「専門家というのは大したもんだと思ったよ。それが、自分の分野に関係した問題だと思ったら、なんとしても解決してやるという気持ちを持つ。技術というよりは心意気だな。ありきたりだが、何かひとつのことに、徹底的に打ち込むというのも、悪くないと思うぞ」
「へえ、かっこいいじゃん。ねえ、親父の仕事はどうなの。難しい?」
「俺の仕事は大したことないよ」
 父親は仕事の話をほとんどしない。送電線工事には危険を伴う作業もある。技能がないとできないはずだが、それを誇らしげに語ることもなかった。

        4

 数日後、夕食を食べて自室に引き上げようとしたら、父親に呼び止められた。リビングでは母親と妹の彩花(あやか)がピアノを弾いている。
 父親は晩酌で顔が赤らんでいた。
「螺灯(らとう)というものを知っているか」
「知らない。なんだよそれ」
「江戸時代に鉱山で使われた灯だ。さざえの貝殻に鯨油を入れて灯芯をさしたものだ」
「それがどうかしたの」
「当時の採鉱は命懸けだった。しょっちゅう落盤があった。酸欠になることもあった」
「…………」
「螺灯というのは小さな灯だ。だが、坑内に酸素があるかどうかの指標でもあった。そのかすかな灯火を頼りに真っ暗な坑道の中へ入っていったんだ」
 父親はしばらく黙った。そして呟くように、
「今でもそのようなことがあると思う」と言った。
 なぜこんな話をするのだろう。由泰は父親の顔を見た。少し疲れているのかもしれない。
「なあ親父、今度温泉に行こうよ。おふくろも行きたいって言ってたよ」
 父親は「ああ」と言うと、力の無い笑顔を返した。由泰は自分の部屋へ引き上げた。
 翌朝、父親はいつものように家を出た。
「じゃあ行ってくる」
 由泰は玄関で見送った。現場の仕事は朝が早い。父親は由泰よりも早く家を出るのだ。
 由泰が玄関から立ち去ろうとした時、何かを忘れたかのように父親が戻ってきた。そして、由泰の肩をつかむと、
「お前もずいぶんしっかりしてきたな。母さんはあの通り少し身体が弱い。彩花(あやか)はまだ中学生だし、おれとお前でしっかり守ってやらないといけない。これからも頼りにしているぞ」と言った。そして再び出ていった。

 その日の夕方帰宅すると、家には彩花しかいなかった。母親は出かけているようだ。二階から下りてきた彩花が言った。
「お兄ちゃん。あのね、お父さんがいなくなったの」
「なんだって」
「会社から電話があったんだ。お母さんがすぐに出かけていったよ」
 母親の携帯に電話すると、あわてた様子で、
「帰ってから話すから、適当に冷蔵庫の中にあるものを食べなさい」と言われた。
 冷蔵庫には、キャベツ、ニンジン、ピーマンと豚肉がある。由泰は野菜炒めを作ることにした。常日頃、家事を手伝わされていたので、簡単な料理ならできるようになっている。
「お母さんなんだって?」彩花が訊いた。
「帰ってから話すらしい。ごはん適当に食べろってさ。野菜炒めでもいいか」
「うん」
 冷蔵庫に残っていたごはんを電子レンジで温め、インスタントスープにお湯を注いだ。
 夕食後、テレビを見ていると母親が帰ってきた。彼女は駆け込むように家に上がると、
「お父さん、まだ帰ってない?」
 と言った。
 由泰は首を横に振った。
「親父がいなくなったって、どういうことだよ」
「お父さん直接現場へ行く予定だったのよ。でも、時間になっても現場に現れなかったらしいの。夕方、西電工さんから連絡があってわかったらしいわ」
「でも、朝、出ていったじゃねえか」
 母親は首をかしげた。彼女にも何が起こったのか分からないのだろう。
「携帯に電話しても出ないし、どこへ行ったのかしら」
「警察には届けたのかよ」
「ええ。社長さんに同行してもらったわ」
「お父さん、行方不明なの?」彩花が心配そうに言った。
「大丈夫よ、彩花、すぐに帰ってくるからね」
 由泰は父親の様子を思い出した。確かに家を出る時の様子は変だった。そのことを話すと、母親は考え込んだ。
「もう遅いから、あなたたちは休みなさい。私はもう一度捜しにいくわ。社長さんが一緒だから大丈夫よ」
 広瀬家は周囲を田んぼで囲まれた所に一軒家を借りている。ピアノを弾くために隣家が接していない物件を選んだのだ。古い家で快適とは言えなかったが家賃は安かった。母親はヨハン・ゼバスティアン・バッハの曲が好きだった。若い頃から、病気で寝込むことが多かった彼女は「どんなにつらい時でも、バッハの曲がそっと心に寄り添ってくれた」と言った。
 夕食を片付けた後、母親はバッハのインヴェンションからヘ短調の短い曲を弾いた。そうでもしないと冷静でいられなかったのだろう。彼女は一音一音を確かめるように、ゆっくりと指を動かした。そして、弾き終わると静かに立ち上がり、彩花の頭をそっとなでた。そして、家を出ていった。
 由泰は寝る前に父親の携帯に電話をかけてみた。呼び出し音が聞こえるので電波がつながる場所にはいるようだ。しかし三十秒ほど待っても応答はなかった。

        5

 翌日、由泰は学校を休むことにした。念のため彩花の登校に付き添った。中学校は自宅から歩いて十五分のところにある。畦道には霜が降りていた。
「お父さん、どこへ行ったのかな」彩花が言った。
「すぐに帰ってくるよ」
「そうだといいけど。お父さん、最近、少し疲れていたね」
「そうだな」
 途中で数人の同級生にすれ違った。手を振って「おはよう」と声をかけてくる。彩花は小さく手を振るだけだった。
「心配しなくてもいいからな」
 由泰はそう言うと、彩花が校門の中へ入っていくのを見送った。
 自宅へ戻ると、母親が掃除機をかけていた。
「あとで本田さんが来るわ」
 十時ごろ、本田(ほんだ)が訪ねてきた。本田次郎(じろう)は父親が勤める本田電工の社長である。身長はそれほど高くないが、禿げかけた頭を坊主にしているのが逞しい印象を与えた。本田電工は二十人ぐらいの小さな会社である。それだけに社員同士の結び付きも強いのだろう。本田は、父親の失踪を、身内の事のように心配してくれているようだ。
「大変なことになりました。うちの社員にも捜させているところです」
「いろいろありがとうございます。本当に助かります」
「警察から連絡がありまして、広瀬の車が見つかったそうです。引き取りに行くので、同行していただけますか」
「はい。よろしくお願いします」
「じゃあ、早速出ましょう」
 由泰と母親の由起子は本田に連れられてS警察署に行った。受付で来意を告げて待っていると、年配の刑事がやって来た。
「お待たせしました。車は外の駐車場に置いています。コンビニエンスストアの駐車場に乗り捨てられていました。少々お時間をいただけますか」
 本田が母親を見た。彼女は頷いた。三人は刑事に連れられて応接室に入った。
「それではまず、当日の朝、稔さんは何時に出られましたか」
 刑事は母親をじっと見つめた。ひとつの表情の変化も見逃すまいといった感じだ。
「七時ごろです」
「どちらへ行くと言ってましたか」
 母親は本田の方を見た。
「S市の南にあるS変電所です」本田が言った。
「ところがそちらには来なかった。そして夕方になって捜索願を出された訳ですね。行方不明になられた時の服装と身体の特徴はいただいてますので、引き続き調べます」
 刑事はせき払いすると質問を続けた。
「大変失礼な質問ですが、ご主人に愛人がいたということはありませんか」
「ありません」母親は真っ赤になった。
「借金があったということは」
「ありません」
「わかりました。えーと、車はF町のコンビニに乗り捨てられていました」
 刑事は頭をかいた。話を続けるのをためらっているようにも見えた。
「車以外には手掛かりはないのでしょうか」母親が訊ねた。
「ご主人のことをコンビニの店員が目撃していましたよ。よく来店されていたから、顔をおぼえていたそうです。ご主人は灰色の作業服を着た女としばらく話した後、白いワゴン車に乗り込んだそうです。特に争っていた様子はなかったようですな」
「どんな女ですか」
「遠くで良く見えなかったそうです。帽子の後ろからストレートの長い髪が見えたと言っています。念のために防犯カメラについて聞いてみましたが、駐車場には設置していないそうです」
 母親は複雑な表情をした。刑事は眼鏡を外すと眉間の下をつまんでマッサージを始めた。
「行方不明というのはそれほど珍しいことではありません。無理やり連れ去られたとか身代金を要求する電話があった場合は、すぐに事件として動きますが、今の段階では事件なのか、本人の意志で失踪されたのか判断がつきません。車は一通り調べさせていただきました。特に事件を匂わせる痕跡はありませんでした」
 三人は駐車場に案内され車を受け取った。車の中には父親の携帯電話が残されていた。通話やメールの履歴に変わったところはなかった。
「例の鉄塔の事件があったでしょう。もうあれでめちゃくちゃですわ。ほとんど全員駆り出されています」刑事は疲れたように言った。そして、
「では、また。何かありましたら連絡してください」と言った。

 由泰たちは自宅へ戻り、今後のことを相談した。
「どうしたらよいのでしょう」
「警察は捜索願を受け付けてくれましたが、しばらく様子を見るという感じでしたな。私の方でも考えてみます」
「ありがとうございます」
「あと、お見舞金をお持ちしました。うちの社員有志からです」
 本田は封筒を取り出して母親に渡した。
「すいません。こんなことまでしていただいて」
「いいえ。それと、しばらくは給料を支払います」
 母親は本田の顔を見た。
「社長さん。いろいろと大変なんでしょう」
「広瀬には普段助けられています。これぐらいのことは当然ですよ」
「でも、また遠仁(とおじん)さんから単価を下げて欲しいと言われているとか。広瀬が言っておりましたわ」
「ええ。でも大丈夫ですよ。どうぞお気になさらないでください。なに、帰ってきたら、しっかりと仕事で返してもらいますよ」
 本田は笑顔で言うと帰っていった。
「遠仁って、あの遠山さんの会社の?」由泰は母親に訊ねた。
「そうよ。元請け会社なの。お父さんがやっている西電工さんの仕事は全て遠仁さんの下請けなのよ。最近、仕事が安くなっているから大変なの」
 遠仁というのは遠仁電設(とおじんでんせつ)のことである。母親によると、S市周辺では、西電工の工事のほとんどを遠仁が請け負っているらしい。地元では、遠仁の社長、遠山仁(とおやまひとし)は有名だった。鳶(とび)から身を起こし、遠仁を社員五百人の会社に成長させた。

 由泰は聖人寺山へ行ってみることにした。父親の失踪が鉄塔事件と関係があるかもしれないと思ったからである。聖人寺山はS市の西にある。市の中心部を通り登山口まで三十分ほどかかった。自転車を押して山を登っていくと、道路を横切って倒れた鉄塔が見えてきた。周辺は通行止めになっている。近づいていくと警官に呼び止められた。
「こんなところで何をしているんだ。住所と名前を言いなさい」
「S市H町二―六ー三二、広瀬由泰です」
 その時、背後から名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると姉川弘美が自転車を押してきた。制服を着ているところを見ると学校の帰りらしい。
「こんなところで何をしてるの?」弘美は言った。
 警官は弘美をにらんだ。弘美は軽く頭を下げた。
「君たち高校生なのか。危ないからもう帰りなさい」
「すいません」
 由泰と弘美はそこを離れた。二人は聖人寺山を自転車で下った。風が身を切るように冷たい。
「どうして、こんな所へ来たんだよ」由泰は自転車を走らせながら言った。
「大騒ぎになってるじゃない。ちょっと興味があったんだ」
 弘美はいたずらっぽく笑った。
 五百メートルぐらい走った所で弘美が自転車を止めた。視線の先を見ると、誰かが道路の傍らに立っている。花を供えているように見えた。
「すてきね。カサブランカかな」
 近づくと、アイボリーのハーフコートを着た、背の高い女が立っていた。彼女はそこに百合の花を置いた。そして、立ったままその花を眺めていた。
「交通事故かな」
 二人は静かにその横を通り過ぎた。
 聖人寺山の麓には、砂利が敷き詰められた、車四台ぐらいの駐車スペースがある。歩いて聖人寺山に登る時にはここに車を止めるようだ。山から下りてくると、弘美はそこで自転車から降りた。由泰は自転車に跨ったまま彼女を待った。彼女は手袋を着けると、草が茂っている所を覗き込んだ。そして「これはなんだろう」と言うと、四センチぐらいの金属の固まりを拾い上げ、小さなナイロン袋に入れた。次に彼女はもう一カ所草が茂っているところを調べた。そして、そこにあった土を採取した。
 二人は再び市の中心部に向かって走り始めた。
「何してんだよ」
「私は化石とか石を集めるのが趣味じゃない。だから珍しいものが落ちていないか探すのが癖になってるんだ。いつも採集用の袋を持ち歩いてるんだよ」
「へえ、なんかあったの」
「石じゃないけどね。ほら」
 彼女は自転車を走らせながら袋に入った金属の固まりを差し出した。受け取ってみると大きなナットのようだ。角が削れている。
「なんだこれ」
「面白そうだから持って帰るよ」
 姉川弘美は高校で科学部の部長を務めている。S山脈周辺で化石を集めて分類し、この地域の古生物の分布について調べていた。その調査結果をまとめたものが学生科学大賞に選ばれたこともある。
 自転車を漕ぐと彼女の透き通るような白い顔が少しピンク色になった。柔らかいストレートの髪が頬のあたりで風に揺れている。
「ねえ、今日学校を休んだでしょ。電話したら由起子先生がでたよ。聖人寺山へ出かけたと言ってたから来てみたんだ。このあいだ、倒れた鉄塔とお父さんの仕事が関係あるとか言ってたけど、何かあったの?」
「親父が行方不明になったんだ」
「えっ?」
 由泰はこれまでのことを説明した。弘美は時折相づちを打ちながら真剣に聞いていた。そして、話が終わると急に黙り込んだ。こういう時の彼女は何かを考えていることが多い。由泰は黙ったまま自転車を走らせた。
 冬至のころよりは日が長くなった。とはいえ五時を過ぎると急に暗くなってくる。街へ戻ったころにはすっかり暗くなっていた。由泰は家の近くまで弘美を送った。
「じゃあな。おれは明日も休むよ」
 弘美は由泰の顔を見つめた。
「ねえ、明日、学校の帰りに家に行ってもいい?帰ってきた車を見せて欲しいんだ」
「そんなもの見てどうすんだよ」
「何か手掛かりが残ってないかなと思って」
「別にいいけど」
「じゃあ、明日」
 そう言うと、弘美は自転車に乗って走り去った。

        6

 弘美は熱心に車の中を見てまわった。ルーペのようなものまで持ち出している。そして、落ちている小石や泥を小さなナイロン袋に入れ、それぞれの袋に、運転席、助手席、後部座席右、後部座席左と書いた。
「これ、珍しいね」弘美が声をあげた。
 ダッシュボードの上に置いてあった石の置物を手に取って調べている。それは直径三センチぐらいのきれいに磨かれた緑色の玉だった。玉の中には米粒ぐらいの赤褐色で透き通った石がちりばめられている。
「これも借りてもいい?」
「別にいいけど、そんなの前から置いていたかなあ」
 弘美は「うん、うん」と頷きながら考えた後「あとで連絡する」と言って帰っていった。
 弘美が帰ると、母親が慌てたように家から出てきて、
「本田さんのところへ行ってくれない?」と言った。
 由泰は渡された大きな封筒を持って本田電工の事務所を訪れた。
「由泰君、お母さんは元気か?」
「はい」
「先日会った時に、思い詰めている様子だったから、心配しているんだ。お父さんのことだけどね、うちの若いのが仲間の業者を訊ねて回っている。しかしこれといった情報はない」
「僕も捜そうと思うんですが」
「君は、まず普通の生活を取り戻す努力をした方がいい。高校生なんだからね。捜索は私に任せてくれないか。広瀬はどんなことがあっても捜し出すから心配しなくていい」
「気になることがあります」
「気になること?」
「鉄塔事件です。父は事件の直後に行方不明になりました。犯罪に関わっていないのか心配です」
「それは私も考えた。一つ言えるのは君のお父さんは悪いことをするような人じゃないということだ」
 その時だった、入り口の方が騒がしくなったかと思うと、事務の女性が応接室に入ってきた。
「社長、遠仁電設の遠山さんがお見えです」
 彼女に続いて、年配の男と四十前後の男が応接室に姿を見せた。年配の方がすごい勢いで怒鳴っている。
「おい、広瀬を出せ。お前たちが何をたくらんでいるのかは、わかっているんだ」
「遠山さん。いったい何のことですか。我々も広瀬がいなくなって本当に困っているんです」
「まったく、お前たちは、西電工さんから直接仕事を請けようとしようとしたり……、本当に信用ならん。もう、うちとは一緒に仕事はせんということか。わしは今まで仁義を通してきた。それをあんたは蔑ろにするんか」
 怒鳴っているのが遠山なのだろう。由泰はその後ろにいる男の方が気になった。父親と同年代に見えるが、ぞっとするほど冷たい目をしている。
「まあええわい。またあした、来るからな」
 遠山はドアを蹴飛ばしてから応接室を出て行った。
「誰ですか」
「遠仁の遠山社長だ」
「後ろにもう一人いたようですが」
「あれは日下(くさか)だ。遠山の懐刀でね。遠仁さんの仕事でごたごたがあるといつも出てくるんだ。由泰君、お母さんによろしく伝えてくれ。私は今から出かけなくちゃいけない」
 由泰は本田の事務所を出た。
 家に帰ると母親に遠山が来たことを話した。
「お父さんから聞いたことがあるわ。少し強引なところがあるみたいね」
「日下っていう人は?」
「さあ誰かしら?聞いたことがないわ。遠仁さんには仕事を出してもらっているんだけど、単価が安くて大変らしいのよ。社長さんは西電工さんから直接請けたいと言ってたわ。でもある程度まとまった規模の仕事を請ける体力がないと、なかなか取引させてもらえないみたいね」
 母親は夕食の支度を済ませると出かけていった。飲食店を回って「たずね人」の張り紙をさせてもらっているらしい。

 由泰は車の免許を取りに行くことにした。父親を捜すにしても車が使えないと不便である。校則では禁止されている。母親は反対したが、由泰はO県にある教習所で合宿することにした。誕生日の一ヶ月前から入校できるのでちょうど良い。春休みシーズンだが運良くキャンセルがあり入校することができた。普通自動車の教習は十六日間で終わる。三食付きで交通費も支給されるので大変な人気だった。合宿に来ているのは大学生が多かった。
 仮免許試験が終わった日、由泰は家に電話をかけた。父親の行方について、特に新しい話はないようだ。あと、弘美から連絡があったそうだ。何かわかったのかもしれない。
 一週間ほどして教習は終わった。由泰は荷物を片付け、合宿所を後にした。家に帰るとすぐに弘美に電話した。
「留守中に連絡をもらったみたいだけど」
「学校休んで、何してたのよ」
「車の免許を取りに行ってた」
「禁止されてるんですけど」
「そうだけど。自分で親父を捜したいんだ」
「うーん、まあいいけど……あのね、持って帰った土を調べたよ。気になることがあるんだ。明日、家に行ってもいい?」

        7

 翌日は終業式だった。由泰は久しぶりに登校した。二月に父親が行方不明になってからはほとんど学校に出ていない。担任の教師には事情を話してある。由泰が学校に来ないのは家庭の事情ということになっていた。
 級友は、久しぶりに顔を出した由泰を珍しそうに眺めた。一番仲がいい瀬山が真っ先に話しかけてきた。
「おまえ、何やってんの。家庭の事情ってなんだよ」
「ちょっとな。それより休んだ授業のノートを貸してくれ」
 瀬山はしつこく食い下がったが、由泰は適当にはぐらかした。学校は午前中で終わった。
 午後には弘美が訪ねてきた。
「お兄ちゃんに頼んで、こっそり大学の蛍光X線分析装置で調べてもらったんだ。マットから採取した土から普通の割合を超えた銅が検出されたよ。でも、少し変なんだよね。ねえ、もう一度車を見せてもらってもいい」
 車を見た弘美は「やっぱりね」と呟いた。
「後部座席だけ出たから、どうしてだろうと思った。前と後ろでフロアマットが違うんだね」
「そうだけど」
 車はつい最近買ったばかりである。納車の時に由泰も一緒にディーラーに行った。その帰りにカー用品店に立ち寄り、後部座席用に抗菌静電気防止マットを購入したのだ。運転席と助手席は汚れるのでもっと安いビニールマットを選んだ。
「後部座席のフロアマットには静電気防止用の銅が織り込まれているんだね。細い銅線の先端が折れて土に混じったのかな」
 弘美は疑問が解けて満足したようだった。
「それ以外に不審なところはなかったよ。この辺りにあるごくありふれた土だね」
 そして、弘美は緑色の石を取り出した。
「これはね、エクロジャイトという、とても珍しい石なんだよ。この地方だと、となりのH県、N市の山間部で採れることが有名だね」
「そいつだけど……」
 由泰は不思議な物を見るような顔をした。
「このあいだも思ったけど、前はなかったぜ。そんなの」
「あっ」弘美が小さな声を上げた。
「なんだよ」
「ねえ、もしかしたらお父さんが手掛かりを残したんじゃない」
「なんだって?」由泰は驚いた。
「ねえ、N市へ行ってみない?何か手掛かりがつかめるかもしれないよ」
 父親が何かメッセージを残しているとは思いも寄らなかった。由泰はすぐにでもN市に行ってみようと思った。
「四月になったら誕生日が来るからすぐに免許を取ってくる。まずはおれ一人で見てくるよ」
「山は気を付けてね。高いとことはまだ雪が残っているかもしれないよ。アイゼン持ってないよね」
「とりあえずどんな所か見に行くだけだ」
「わかった。結果を知らせてね」
 そう言うと弘美は帰っていった。

        8

 由泰は一人でN市の山間部へ向かった。N市は瀬戸内海に面した街である。海側に広がる中心部から峠道を一時間ほど走ると、S山脈に連なる黒石山系に着いた。山荘に泊まり周辺の様子を調べることにしていた。山荘の主人は親切な人だった。エクロジャイトを探すために来たと言うと、どこへ行けばいいのか教えてくれた。
「ここへ来るのは、B銅山の産業遺跡を見る人と黒石に登る人が多いですね。たまに大学の先生がエクロジャイト目当てで訪れます」
「大学の先生ですか」
「ほとんどは研究されている方ですね。変わったところでは、ダイヤモンドを探している先生も来られました」
「B銅山の産業遺跡はどこにあるのですか」
「ここから十五分ほどN市の方へ走ると登山口があります。標高千メートル以上のところに、かつては一万人以上の鉱山関係者が暮らしていたんですよ。鉱山の施設のほかに学校や病院、劇場まであった。採鉱が始まったのが元禄三年ですから三百年の歴史があります」
 渡されたガイドブックを読むと、B銅山の産業遺跡には、坑道や明治時代の接待館の跡などが残されているらしい。周辺は山ばかりである。山荘から十分ぐらいのところに小さな集落があるだけだった。最初は父親の写真を見せて集落を回ろうかと思った。しかし、そこに父親を監禁している犯人がいるかもしれない。うかつに動くのはまずいだろう。
 夕方まで山荘の周辺を歩いてみたが特に変わったところはなかった。風呂に入って自室に引き上げると食事が運ばれてきた。川魚や山菜を使った美味しい料理だったが、しばらくするとまた空腹になってしまった。大人を想定した量だから仕方がない。春休みなのでほかにも泊まり客がいるようだ。食事の時には、四方の部屋から賑やかな話し声が聞こえてきた。しかし、十時を過ぎるとすっかり静かになった。登山客は朝が早いのだろう。由泰はなかなか寝付けなかった。布団に入った後も父親のことがとりとめもなく思い浮かんでは消えた。
 翌日、由泰は集落周辺へ向かった。鉱山川の渓谷沿いの道をN市の方へ十分ほど走ると十数軒の民家が連なっている。郵便局の出張所に車を止めて周辺を探索した。この辺りでも標高八百メートルはある。すばらしい晴天だったが、朝の早い時間には渓谷の底部まで日が届かない。由泰は寒さに身を震わせた。あたりは静まりかえっていた。
 由泰は、歩いているうちに、本田という姓の家が多いことに気が付いた。たぶん、みんな縁故なのだろう。隠れるにしろ監禁されているにしろ、ここに父親がいるとは思えなかった。
 N市を去る前に銅山の登山口も見学した。ガイドブックを読むと、B銅山は、元禄三年、坑夫の長兵衛がここで銅の露頭を発見したことに端を発するとある。長兵衛はO県にあったY銅山の支配人にこのことを知らせる。試掘したところ有望な鉱床があることが確認され、翌年から採鉱が開始された。そして昭和四十八年に閉山するまでの二八三年の間に、七十万トンの銅を産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。坑道は全長七百キロメートル。また最深部は海面下千メートルにも達する。当時の坑道はまだ山中に残されているらしい。
 由泰は「螺灯について」と書かれたところで目をとめた。B銅山では明治二十八年にカンテラが導入されるまで螺灯が使われたらしい。その後大正時代になるとアセチレンランプが導入された。
 父親の言葉を思い出した。
「螺灯というのは小さな灯だ。そのかすかな灯火を頼りに真っ暗な坑道の中へ入っていったんだ」
 由泰はB銅山も調べる必要があると思った。

        9

 新学期が始まった。三年生になったので、進路相談などの行事があわただしく過ぎていった。父親が行方不明になってからもう二ヶ月が経とうとしている。由泰は以前の生活を取り戻せずにいた。本田が懸命に捜索してくれているが、父親の行方はわからなかった。
 鉄塔倒壊事件は父親の失踪と関係があるのだろうか。事件は全国ニュースの騒動になった。しかし犯人は特定されていない。
 鉄塔は八十本のボルトで固定されている。全てのボルトは現場から半径五十メートルの範囲で回収された。そのうちの四本が曲がっていて、頭が折れているものもあった。他のボルトに目立った傷はなかった。ナットは八個だけ回収された。その何個かには特徴的な傷がついており、犯人が使用した工具を特定する重要な手掛かりとして注目されている。鉄塔が倒れたちょうど一週間前には米国で同様の事件が起きており、中には国際テロ組織の関与を指摘する報道もあった。停電によるB工業地帯の被害総額は五億円と言われている。
 五月連休の一週間前、由泰は久しぶりに弘美に会った。彼女も忙しかったようだ。休み時間に由泰のクラスに来た彼女に、N市で見たことを話した。今度はB銅山の産業遺跡を調べに行くつもりだと話すと、同行したいと言った。由泰は少し考えた。弘美は化石の採集で山へ行くことが多い。確かに彼女のサポートがあると助かるのだ。あの周辺を歩いた限りでは犯罪の気配はなかった。登山客も多いようだし危険はないだろう。
 同行して欲しいと言うと「コースや天気を調べて連絡するね」と弘美は言った。
 その日の夜、弘美から連絡があった。
「インターネットで調べたら、連休前半の方が天気がいいみたいだね。山頂まで行って帰るだけなら五時間のコースだから朝早く出れば日帰りで十分だと思うよ」
「じゃあ連休初日に行こう」
「了解。S駅に五時半集合でね」
 校則で禁止されている車に弘美を乗せるのはまずいので、電車で行くことにした。由泰は弘美から用意しろと言われた雨具や着替えをザックに詰めた。連休の初日、由泰と弘美はS駅からN市方面に向かう始発電車に乗り込んだ。由泰はすぐに眠ってしまった。電車とバスで行く場合はN駅で降りる。一時間半ぐらい経ったころ、弘美が起こしてくれた。
「もうすぐ着くよ。ねえ、あそこに座っている女の人」
 弘美が顔を向けた方を見ると、山登りの恰好をした女が座っていた。手に白い百合の花束を持っている。良く見ると聖人寺山で見かけた女だった。
「聖人寺山にいた人だよね。どこへ行くのかな?」弘美が言った。
 N駅に着いた。百合を持った女も降りた。由泰たちの先を歩いていく。彼女はタクシー乗り場の列に並んだ。由泰たちはバス乗り場の方へ向かった。バスが来るまで時間があるので、近くのコンビニエンスストアで行動食や飲み物を買った。登山口までは一時間四十分かかる。
 バスが来た。
「B銅山の登山口まで行きますか?」
 弘美は運転手に訊ねた。運転手は頷いた。
「ああやって聞いておくと、着いたときに声をかけてくれるかもしれないよ」弘美がささやくように言った。そして、いたずらっぽく笑った。バスが発車してしばらくすると、二人は眠ってしまった。

 運転手に起こされて降りると、すっかり日が高くなっていた。時計を見ると九時を過ぎている。予報通りの晴天だ。案内板を見ると、この地点で標高八五〇メートル、B銅山山頂は千三百メートルとある。自分たち以外にも数パーティいて賑やかだった。
 登山口から歩き始めて十分もすると林の中に石垣が現れた。ガイドブックによると、寺院があった場所で、今でも災害の犠牲者や無縁仏を供養する墓石が残されているそうだ。苔で覆われた石垣に木漏れ日が降り注いでいる。そこからしばらく行くと赤い煉瓦壁が現れた。接待館の跡で明治初期に作られたものらしい。新しい緑と朽ちかけた赤煉瓦のコントラストが美しい。
 小学校や劇場など次々と空中都市の遺構があらわれる。かつては一万人の人々がここで生活していた。今では完全に深い緑に包まれた山林に戻っている。所々に残されている産業遺跡によってのみ当時の生活を窺い知ることができる。整備された登山道を二時間ほど登ると銅山の山頂付近に至った。樹木が低くなり前方に稜線が見えてきた。そこからは、S山脈に連なる山々を望むことができた。
「あれはなんだろう」弘美が声を上げた。
 彼女が指をさしている山の中腹に目をやると、小高い丘になっているところにコの字型に石組みされているところが見えた。インカの遺跡のような雰囲気がある。ガイドブックによると墓所らしい。開坑から三年が過ぎた元禄七年、焼鉱窯の飛び火が乾燥した山の草木と家屋に燃え移り全山を焼く大火災が発生した。この火災により銅山の支配人を始め一三七人が犠牲となった。その霊を弔うために銅山が一望できる小高い岩山にこの墓所を築いたとある。
 さらに登っていくと北嶺との分岐に着いた。ガスに包まれていてほとんど眺望がない。絶えず海側から冷たく湿った風が吹いてくる。背の高い樹木はほとんどなく、笹や高山植物が生えていた。弘美は地面を這うように高山植物が群生しているところを覗き込んだ。
「これはツガザクラだね」
 緑色の細い葉が放射状に伸びた植物が生えている。ツガザクラはツツジ科の高山植物で高さ十センチメートルほどの常緑低樹。今の時期から六月にかけて開花し、リンドウに似た釣り鐘で一センチメートル足らずの花をつける。この辺りが南限らしい。
 由泰は寒いので雨具を取り出した。さらに登っていくと雲が切れ始め、ぼんやりと太陽が見えるようになった。そして少しずつ青空が見え始めたかと思うと、あっという間にガスが消えた。遠くにはH灘が見えその手前にN市の市街地がぼんやりとかすんで見える。山の方に目をやると、西黒石山の頂上に続く登山道がはるか先まで延びていた。声を出して手を振っている登山者もいた。
 二人は疲れたので昼食を食べることにした。
「人が隠れるような場所はなかったね」
「あとは坑道の跡ぐらいだな」
 弘美は二万五千分の一地形図を広げた。
「山小屋もあるよ。この近くとあとひとつは東黒石山だね」
「山小屋に長期滞在できるのかなあ」
「住み込みで働いているとか。どちらにしても東黒石に行くには時間が足りないね」
「さっき立ち寄らなかった東端エリアに行ってみようと思う。第二通洞というトンネルの跡があるらしい」
 弘美がストックを貸してくれた。下りの方が足への衝撃が大きい。膝を痛めることもあるらしい。体重をかけるのではなく足を置こうとするところを突くのだと教わった。一時間半ほど下ると東端との分岐に着いた。東端まで二十分とある。由泰は時計を見た。まだ十五時前なので大丈夫だろう。この東端エリアはメインの登山道から少し離れている。あまり人が来ないのだろう。膝まで笹で覆われている所をかき分けて進んだ。しばらく行くと広い場所に出た。きれいな芝生の上に松がまばらに植えられている。登山道を振り返ると、山側の石垣に赤煉瓦造りの古い建物があった。ガイドブックには第二変電所跡とある。特徴的な建物なので閉山後も残されているそうだ。草むらをかき分けて近づいてみると、入り口の扉が取り外されている。二人は建物の中へ入った。内部は思ったより暗い。広場に面して窓があるが、影になっているので光が入ってこないのだ。広場にもこの建物の中にも人の気配は全くなかった。
「静かだね。気味が悪いな。出ようよ」
 弘美は由泰の腕をつかんだ。
 変電所から出て広場を横切ると第二通洞がある。入り口にはどこかの洋館にでもありそうな鉄の門扉が据え付けられていた。由泰は幼いころ読んだ『秘密の花園』という本の表紙を思い出した。主人公の少女が覗いていた花園の門によく似ているのだ。由泰は扉に近づいた。よく見ると鍵がかかっていない。
「入ってみよう」
 由泰はおそるおそる扉を開けてトンネルの中へ入った。
「うわっ、真っ暗だ」
「当たり前でしょ」
 弘美はザックからヘッドランプを取り出した。由泰はそれを受け取ると頭に装着した。
「少しだけ進んでみよう」
 地面にはレールが敷かれている。かつては鉄道が通っていたのだろう。由泰が前を進み、弘美がその後ろに手をつないで続いた。奥へ進むほどトンネルの入り口が小さくなっていく。由泰は心細くなってきた。前方には闇が広がっている。
「どこまでも続いていそうだな。引き返そう」
 そう言って振り返った時だった。入り口のところに人が立っているのが見えた。離れているので顔はわからない。由泰のヘッドランプが見えたのだろうか、振り返ると人影はサッと逃げるように消えた。
「まずい」
「どうしたの」
「誰かが入り口のところに立っていた」
 急いで引き返すと、扉に大きな南京錠がかけられていた。鍵は錆びていたが、扉を揺すっても壊れない。ストックで突こうとしたが鉄格子が邪魔で届かなかった。
 由泰は大声を出してみた。しかし声が辺りに響くだけだった。弘美は携帯電話を取り出した。山へ行く時だけ非常用に両親が持たせてくれるらしい。
「だめだね。圏外だ」
 もう一度、由泰は大声を出した。
「静かにして」弘美が言った。
 彼女はトンネルの奥に耳を向けた。
「ねえ、何か聞こえない」
 由泰には何も聞こえなかった。
「奥に何かいるんじゃないかな」弘美が震える声で言った
「冗談はよせよ」
 ストックを握る手がじわりと汗ばんできた。奥から微かに風が吹いている。由泰は身構えた。鼓動が早くなる。弘美が手を握りしめてきた。息の詰まるような時間が過ぎた。
 十五分ぐらい経った。
「気のせいだったのかな」弘美が言った。
 トンネルの外は平和な静けさに包まれている。二人はその場に座り込んでしまった。
 由泰は寒気を感じた。
「ねえ、そのシャツ着替えた方がいいよ」弘美が言った。
 言われてみると汗をかいた半袖シャツのままだった。由泰はザックから着替えのシャツと雨具を取り出した。弘美はダウンジャケットを取り出すと由泰に差し出した。
「これ使って」
「いいよおれは。お前が着ろよ」
「じゃあこれを」
 そう言うと弘美は着ていたフリースを脱いで由泰に渡した。そして自分はダウンジャケットを着た。由泰はフリースを借りてその上から雨具を着た。
 由泰はもう一度大声を出してみた。しかし返事はなかった。
「やみくもに声を出しても疲れるだけだよ。十分間に一度交代で助けを呼ぼうよ。一時間に六回叫ぶだけでいいでしょ」と弘美が言った。
 二人は十分おきに交代で助けを呼んだ。しかし、呼びかけに応える声はなかった。
「ねえ、どんな人が立っていたの」
「離れていたから、顔はよくわからない。一瞬だったけど、赤い上着を着ていたような気がする」
「ここの管理者かなあ。このエリアには登山者は来ないみたいだし」
「まいったな。終バス何時だっけ」
「十九時」弘美はメモを取り出して言った。
「焦っても仕方が無いよ」
 そう言うと弘美はテルモスを取り出した。
「これ飲む?」
 弘美はコップを差し出した。由泰はコップに口をつけた。清涼感のあるペパーミント茶の香りが広がった。
 弘美はガイドブックを手に取った。
「ふーん、江戸時代から始まったんだね。のみと槌を使って手作業で採鉱していたんだって」
 弘美はガイドブックを声に出して読んだ。
 「江戸時代は、さざえの殻に鯨油を入れ灯心を挿し火をつけた螺灯と呼ばれる灯が使用されていた。螺灯は坑内に酸素があるか、ガスが充満していないかを確かめる手段でもあった。そのわずかな灯を頼りに、鋪着(しきぎ)とよばれる白に黒い帯が入った装束に身を包んだ人夫が坑道に入った。鋪着の黒い帯は一本の糸で縫い付けられていて、それを抜くと白装束になることができた。落盤などの事故で死んでもすぐに埋葬できるようにしたのだ」
 弘美は黙って由泰を見た。由泰は遙か昔の鉱山に思いを馳せた。人夫たちは何のために危険な坑道に入っていったのだろう。ふと父親の言葉が思い浮かんだ。
「今でもそのようなことがあると思う」
 あの時、父親は、何か危険なことに足を踏み出そうとしていたのかもしれない。由泰は、通洞の奧に続く闇を見つめた。そして、暗いトンネルの中を、小さな灯だけを頼りに進んでいる父親の姿を思い浮かべた。
 由泰と弘美は交代で四度、五度と助けを呼んだ。そのうちに日が暮れ始めた。まだ四月である。太陽が隠れるとかなり寒かった。二人は暖を取るために寄り添った。
「ツェルトを持ってくるべきだったな」弘美が言った。
「ツェルトって」
「簡易テント。まさかこんなことになるとはね」
 一時間もしない内に完全に暗くなった。鉄格子から月の光が差し込んだ。弘美はヘッドランプをつけた。
「ねえ」
「なに?」
「私、小さいころ、由起子先生に憧れていたんだよ」
「おふくろに」
「うん。とってもきれいだし。ピアノが上手じゃない。だから、お稽古に行くと先生に会えるのが楽しみだった。ピアノの練習はそんなに好きじゃなかったけどね。彩花ちゃんは楽しみだね」
「何が?」
「ピアノ。結構、上手なんでしょ」
「そうでもないよ」
 外は真っ暗である。この時間に登山者が通ることはないだろう。ここで夜を明かすしかないのだろうか。由泰はもう一度だけ大声で叫んでみた。すると、遠くから返事が聞こえた。近くに誰かがいる。由泰は叫んだ。すると声をかけながら、返事の主が近づいてきた。少しずつ声が大きくなる。十分ほどして現れたのは女だった。
「あら、あなたは」
 今朝電車で一緒になった女だ。彼女は扉を調べるとハンマーで南京錠をたたき壊した。
 由泰と弘美は礼を言った。
「あなたたちもバスでしょ。急ぎましょう」女は足早に歩き始めた。バス停には十九時ぎりぎりに着いた。
 最終のバスが来た。乗り込むと女が言った。
「私は菅江佳菜美(すがえかなみ)。あなたたちは?」
「広瀬由泰です」
「姉川弘美です」
「あんなところで何をしていたの?」
 弘美は由泰の顔を見た。目がどこまで話していいのかわからないと言っている。
「第二通洞を見学していました。扉が開いていたので中に入ったら閉じ込められてまったんです。たぶん、管理をしている人が知らずに鍵をかけたんだと思います」
「どうしてここへ来たの」
「これを探しに来たんです」
 由泰はエクロジャイトを取り出した。
「へえ、エクロジャイトね。私も石を集めるのが趣味なのよ。さっき鍵を壊す時に使ったハンマーは鉱石採集用に持っていたの」
「そういえば。以前お会いしましたよね」と弘美が言った。
「えっ、そうだっけ」佳菜美は驚いた。そして、しばらく考えてから「ごめんなさい。おぼえてないわ」と言った。
「聖人寺山で立っているのをお見かけしました」
「あら、そうなの」
「なぜ、お花を供えていたのですか」
「肉親があそこで死んだの」
「交通事故ですか」
 佳菜美は黙ってしまった。何か言いたくないことがあるのだろうか。弘美もそれ以上は聞かなかった。やがてバスはN市に近づいてきた。麓の方角に街の灯が輝いている。
「弟があそこで自殺したの」
 夜景を眺めていた佳菜美が、思い出したように言った。
 由泰と弘美は顔を見合わせた。
「去年、弟があの鉄塔から飛び降りて死んでいるのが発見されたの。遺書はなかったけど、事件性を裏付ける証拠もなかった。悩んでいたようだという同僚の証言があって、自殺ということになったの」
「いつのことですか」弘美が聞いた。
「去年の六月一日。雅樹(まさき)はまだ二十四歳だった。ちょうどその一月前の連休に二人で黒石に登ったのよ」
 それきり佳菜美は黙ってしまった。
 バスはN駅に着いた。弘美はバスを降りるとすぐに家に連絡した。佳菜美は寄るところがあるらしい。由泰と弘美は礼を言って別れた。
 長い一日だった。電車に乗ると二人はすぐに眠りに落ちた。

        10

 由泰はB銅山での出来事を母親に話した。
 B銅山は父親の失踪に関係しているのかもしれない。しかし、そこに父親がいるようには思えなかった。
 母親は本田と一緒に捜索をしていた。週末になると、今週はA町、来週はB町といった具合で、町内会の役員をしている人を訪ねているらしい。平日は一人で繁華街へ行き、商店、コンビニエンスストア、飲食店などを回り、尋ね人の張り紙をさせてもらっていた。
 最近、母親はふさぎこんで家事に手をつけることができない日もあった。由泰は学校が終わるとすぐに帰ることにした。由泰と彩花が家にいると彼女も元気になるのだ。
 ある日の夜、由泰は、母親の代わりに張り紙を持って出かけた。近くのコンビニで事情を話し、張り紙の許可をもらった。帰宅した由泰は言った。
「今日はH町のコンビニへ行ってきたよ。短い期間なら張り紙をしてもいいって」
「良かったね。今日は具合が悪くて寝てばっかりだったの。彩花がごはんを作ってくれたのよ」母親が一階の和室から起き出してきて言った。
「身体、大丈夫なのかよ」
「一日休んでずいぶん良くなったわ」
「そうか…… へえ、結構美味いじゃねえか。彩花も中学生だからな」
「あなたは学校があるんだから、無理しないでいいのよ」
「無理なんかしてねえよ。そっちこそ無理してんじゃねえの」
「私は大丈夫」
「S市のめぼしいところは回り尽くしたな」
「本田さんは、来月から県外にも捜しに行くらしいわ」
 父親の行方については全く手掛かりがなかった。

 数日後、教室で授業を受けていた由泰は担任に呼び出された。
「今病院から連絡があってな。お母さんが自宅で倒れて救急車で運ばれたそうだ。詳しいことはわからないが市立病院に運ばれたそうだ」
 母親はもともと体が弱く時々寝込むことがあった。由泰が幼いころには入院していたこともある。
 由泰は学校を早退して駆け付けた。病院に着くと母親は病室で寝ていた。医者は貧血があるので検査しなければいけないと言った。母親は息苦しさを感じて自分で救急車を呼んだそうだ。医者は過換気症候群だろうと言った。体調が悪いところにストレスなどが重なったようだ。
 寝ていたので「後で来る」と書いたメモを残して病院を出た。
 由泰は家に帰った。彩花に母親の着替えを見繕ってもらわなければいけない。彼女の中学校に電話するとまだ授業中だった。事情を話し、授業が終わったら自宅に電話するよう伝えてもらうことにした。
 B銅山から帰ってからは弘美と会っていない。彼女は菅江佳菜美の弟について調べると言っていた。由泰は弘美に会いたいと思った。しかしためらいもあった。彼女は受験で忙しい。自分の勉強を犠牲にしてまで手伝うような甘い性格ではないと思うが、いたずらに巻き込むのもどうかと思った。
 弘美の事を考えていると電話がかかってきた。彩花からだろう。
「はい広瀬です」
「あっ、お兄ちゃん。お母さんが入院したって本当?」
「ああ。でも大したことないから心配しなくてもいいよ。あのな、授業が終わったらすぐ帰ってきて欲しいんだ。おふくろの着替えを選んでもらわないといけない」
 彩花は「わかった」と言った。
 洗面用具を用意していると彩花が帰ってきた。
「びっくりしたよ。お母さん大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ。検査があるからしばらく入院することになったんだ。荷物をまとめるのを手伝ってくれ」
「わかった」
 そう言うと彩花は一階の和室に入った。そして、母親の着替えと何種類かの化粧品を持ってきた。
「これだけあれば大丈夫だと思う。病院に売店もあるしね」
 二人は病院へ行った。母親はベッドの上に起き上がっていた。
「由泰、彩花、ありがとう」
「お母さん大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫よ。ちょっと疲れていたみたいね」
 由泰は母親の顔を見た。少し青ざめているようだが、声は元気だった。
「今朝、本田さんから電話があってね、お父さんの行方はまだわからないそうよ」
「本田さんには連絡しておいたよ。またお見舞いに来るそうだ」
 由泰と彩花はベッドの傍らで母親との時間を過ごした。そして、面会時間が終わると引き上げた。
 もう五月も終わりである。夜になってもそれほど寒くない。二人は自宅の近くのスーパで買い物をした後、自転車を押して田んぼの畦道を歩いた。
「もうすぐ蛍の季節だね」彩花が言った。
 このあたりでは、初夏になると、用水路に蛍が飛び始める。二人が幼かった頃、家族は夕涼みがてらそれを観にいった。浴衣を着せてもらい外へ出ると近所の人が「かわいいわね」と声をかけてくれた。蛍の光は、一瞬、闇に軌跡として現れ、そして消える。用水路ではそういった軌跡が無数に飛び交っていた。父親が両手で包み込むように蛍を捕まえると幼い兄妹がはしゃいで覗きこむ。母親は団扇で蚊を追い払った。そして父親がぶら下げていた蚊取り線香の匂い。由泰はいくつになっても、そういった夜々のことを、幸せな光景として思い出した。

        11

 六月になった。カレンダーのなかで紫陽花が雨に打たれている。しかし、外はきれいに晴れていた。梅雨入りまでにはまだ数週間ある。
 授業が終わり帰り支度をしていると、弘美がやって来た。
「今日、聖人寺山に行かない?」
「何で?」
「ほら、菅江さんが亡くなられた日でしょ」
「ああ、そうか」
 由泰は佳菜美が言っていたことを思い出した。二人は学校を出ると、花を買って聖人寺山へ向かった。市の中心部を抜け、西に自転車を走らせる。
「佳菜美さん来てるかな」弘美が自転車を走らせながら言った。
「どうだろ。弟さんの新聞記事はどうだった」
「図書館で調べたけどなかったよ。自殺はあまり報道されないらしいね」
 自転車を押して聖人寺山を登っていくと、新しい鉄塔が建っていた。佳菜美は来ていないようだ。二人は鉄塔から最も近いところに花を供え手を合わせた。
「一年前、ここで飛び降り自殺した人がいて、その後鉄塔が倒された。全部、お父さんの失踪と関係あるのかな」
「わからない」
「ねえ、由起子先生が救急車で運ばれたって本当」
「ああ、でも大したことないよ。もともと体が弱いからな。一人で家にいると心配なので、家の近くの病院に入院することにした。親父の会社の社長が知り合いの病院を紹介してくれたんだ」
「そうか。大変だね。なんか役に立てそうなことがあったら言ってよ」
「ああ、ありがとう」
 弘美は新しい鉄塔を見上げたり周辺の土を調べたりした。すると車がやって来て止まり、二十四、五ぐらいの男が降りた。手に花を持っている。
「こんにちは」男が話しかけてきた。
 由泰は頭を下げた。
「内山(うちやま)です。失礼ですが?」
「広瀬です」
「菅江君とはどのような?」
「直接は知らないんですが、菅江佳菜美さんを知ってます」
「ああ、お姉さんの……」
 由泰が佳菜美のことを話していると、弘美が戻ってきた。由泰は弘美を紹介した。
「姉川弘美です。はじめまして」
「内山です。菅江雅樹の友人です。彼とは会社で同期でした」
「どちらへお勤めなんですか?」
「西電工です。僕は現場で働く技術者。彼は調達部門にいたので仕事ではほとんど接点がありませんでした。でもよく一緒に出かけていたから、頻繁に会っていたんです」
 内山はそう言うと、持ってきた花を供えて、線香に火をつけた。そして手を合わせた。
「同僚の方が悩んでいた様子だと言っておられたようですね」弘美は言った。
「あの時、一月ぐらい会ってなかったから、自殺直前の様子はわからないです。真面目な奴でね、仕事を中途半端に放ったままで死ぬとは思えないんだが」
「また連絡させていただいてもよろしいでしょうか」
「別にいいですよ。じゃあそろそろ帰りますので」
 そう言うと内山は連絡先を残して帰っていった。
「お墓に参ってから来たのかな。仲が良かったんだね」
「ああ、同期だと言ってた。二十五歳ぐらいかな」
 二人は山を下りた。ずいぶん日が長くなってきた。六時を過ぎてもまだ明るい。由泰は、家の近くまで弘美を送った。
 弘美は「じゃあ」と言うと、家の方に向かって走っていった。

        12

 その日、由泰は電話が鳴る音で目を覚ました。時計を見ると朝の五時半である。外はすでに明るかった。由泰は階段を駆け下りた。
「はい。広瀬です」
「S警察署の者です。広瀬稔さんのお宅でしょうか」
「はい」
「今朝F湖に稔さんらしい方が浮かんでいるのが発見されました……」
 由泰は受話器を落としてしまった。すぐに受話器を拾うと相手が続けた。
「もしもし、大丈夫ですか。そこで確認させていただきたいのですが、稔さんは確かにご不在ですね」
「はい。父は、稔は、二月の終わり頃から行方不明でした」
「ええ、捜索願が出されているのを確認しました」
「父は無事なのでしょうか?」
「残念ながら亡くなられているようです。ただ死後数日経っていて損傷が激しいので、ご本人なのか確認が必要です。財布に入っていた免許証は稔さんのものでした。今から現場を調べてから帰りますので、あとで署までお越しください」
 頭が混乱している。何か自分の身に降りかかったことではないような感覚があった。由泰はインスタントコーヒーをカップに入れ熱湯を注いだ。まず母親に連絡しなければいけない。体調に差し障りがあるかもしれないが、これは伝えなくてはいけないことだろう。由泰は病院に電話をかけて、緊急の用事ということで母親を呼び出してもらった。電話口に出た母親は起きたばかりか、ぼんやりとした声だった。
「あのさ、親父のことで、さっき警察から電話があった」
「どうしたの」
「悪いニュースだ。とても悪いニュースだ」
「まさか」
「言ってもいいか」
「ええ」
「F湖に死体が上がったらしい。財布に親父の免許証が入っていた。死後数日経っているから身元はすぐにはわからない。いま警察が調べているところだ」
 母親はしばらく無言だった。が、すぐにはっきりとした口調で言った。
「いい、まずは彩花をおじいちゃんのところへ連れていきなさい。そして今日は休ませるのよ。学校へ連絡してね。警察にはあなたが行ってちょうだい。私の携帯が家にあるでしょ。それを持って行ってね。私は先生と相談して一週間ぐらい外泊できるよう薬を出してもらうわ。午後に車で迎えに来てくれる。いい、しっかりね」そう言うと母親は電話を切った。思ったより力強い口調だったので由泰は驚いた。
 彩花を起こさなければいけない。
 二階に上がり部屋の扉をノックした。しかし彩花は起きなかった。由泰は少し乱暴に叩いた。すると彼女は扉から眠そうな顔を出した。
「なんだよ。こんな早く」
 由泰は父親のことを話した。彩花は小さく「えっ」と言ってその場に座り込んでしまった。
「起きて、出かける準備をしろ。しばらくじいちゃんのところにいてもらうから、二三日泊まる用意が必要だ」
 一階に下りると祖父に電話し、事情を説明した。祖父はこちらへ来ると言ったが断った。そして、彩花を預かってくれるよう頼んだ。本田にも連絡した。携帯はつながらなかったので留守番電話にメッセージを残しておいた。そうこうしているうちに警察から連絡があった。すぐに来て欲しいとのことだったので家を出ることにした。
 二階に声をかけた。
「おい。準備できたか」
 返事が無いので二階に上がると、彩花はベッドに打ち伏して泣いていた。
「お父さんが……」
 由泰も堪えていたものが溢れ出そうになった。急いで洗面所へ行き、顔を何度も洗った。そして彩花の部屋に戻ると、彼女を優しくベッドから起こし身支度をさせた。
 彩花を祖父の所へ預けて警察に行くと応接室へ通された。しばらくすると三十七、八ぐらいの刑事が入って来た。
「崎山(さきやま)です。朝早くからすいません。稔さんは二月に捜索願が出されてますね。あれから一度も自宅には帰られていなかったのでしょうか」
「はい」
「連絡もありませんでしたか」
「ありません」
「そうですか」
 崎山は頭をかきながら手元の資料を読んだ。
「発見した時の様子をお伝えしますと、本日四時五十五分頃、あの付近にお住まいのAさんが、散歩の途中に、F湖に人のようなものが浮いているのを発見されました。Aさんは湖岸に下りて、人であることを確認し、すぐに警察に通報したそうです」
 崎山は由泰の顔色を気遣うようにして話を続けた。
「検視官の報告には、溺死、死後数日経ってから浮かんできたものと推測される──とあります。男性、身長一六八センチ。ズボンのポケットに免許証が入っていました。免許証は稔さんのものです。捜索願の時にいろいろ聞かせいただいておりますが、念のためにもう一度確認させてください」
 崎山はデジタルカメラを取り出すと由泰に見せた。カメラに映し出された画像には浅緑色の作業着が写っていた。
「こちらの作業着は稔さんが着ていたものですか」
「はい」
 全体に色がくすんでいるが、胸にオレンジ色の糸で本田電工と刺繍されている。父親の作業着に間違いなかった。行方不明になったあの日の朝、出勤する時に着ていたものだ
「お手数ですがこちらに稔さんのお勤め先、身長やあざなどの身体的な特徴を記入していただけますか。おぼえている範囲で結構ですので」
 由泰は渡された用紙に記入して崎山に渡した。
「まずはご本人かどうかの確認が必要となります。身体的な特徴や指紋を照合します。指紋は、以前、稔さんの車の中から採取しています」
 一通り手続きが終わった。帰り際、崎山は言った。
「間違いであって欲しいと思いますが、もし身元が一致したら、ご遺体をお引き渡しできる日時をご連絡します。何度かお話を聞かせていただくことになると思います。大変な時に恐縮ですがよろしくお願いします」
 警察署を出た由泰は病院に行った。病室に入ると母親は窓辺に立って外を眺めていた。由泰は警察であった事を話した。
「損傷がひどいので、指紋とかを調べるらしい」
 母親は倒れるようにベッドに腰をおろした。
「覚悟しておいた方がいいと思う」由泰は言った。
 二人は病院を出て自宅に帰った。梅雨前の暑いぐらいに晴れた日だった。

        13

 五日後に警察から連絡があった。F湖に上がった死体は間違いなく父親だということがわかった。由泰と母親はS警察署に行って詳しい説明を受けた。前と同じく崎山が対応してくれた。
「司法解剖の結果、死因は溺死でした。左足と肋骨が折れています。また、左半身に挫傷がありました。どれも生きていた時に受けた傷です。発見された場所から考えますと道路から転落したのではないかと思われます。あそこはF湖から道路までの高さが六メートルあります。道路からは傾斜六十度の斜面があって、水面の近くでコンクリートの岸がせり出しています。まずそこに激突し、さらに湖に落ちたのではないでしょうか」
 母親は真っ青になった。崎山は静かにそしてゆっくりと話した。
「問題は二月二十四日に行方不明になられてからの足取りです。最後にワゴン車に乗り込んだのが目撃されている。特に争っている様子はなかった。ご遺体を調べた限りでは事件性を裏付けるような痕跡はありませんでした。引き続き、周辺の目撃情報を集めます。あと、ご遺体はお引き渡しできますので、葬儀社にご連絡いただけますか」
 覚悟はしていたつもりだが役に立たなかった。心のどこかで間違いであることを期待していたのだろう。いざ現実として突きつけられると、心が打ち砕かれるような強い悲しみを感じた。もう父親とは永遠に会うことができないのだ。母親は下を向き、肩を震わせながら膝の上に置いた手を握りしめていた。息子の前で気弱なところを見せないよう頑張っているのだろう。しかし、溢れ出てくる涙を抑えることができないようだった。由泰もつられて泣いた。
 崎山は沈痛な面持ちで由泰たちが落ち着くのを待ってくれていた。
 祖父母がS警察署を訪れた。崎山が連絡を取ったのだ。母親は抱えられるようにして立ち上がった。二人は祖父母の家へ引き上げた。
「お母さん」
 彩花が玄関へ飛び出してきた。母親は彩花を抱きしめて泣いた。

 葬儀は近くの斎場で行われた。手配はほとんど祖父がやってくれた。弘美は母親と一緒に通夜へやって来た。
「大丈夫?」弘美は言った。
 由泰は頷いた。
「しっかりね」
 そう言うと弘美は彩花のところへ行った。そして、ずっと側について慰めてくれていた。
 本田も駆け付けて来た。本田は、
「この度は本当に……」
 と言うと、深々と頭を下げた。ぼんやりしているようにも見える。無理もないことだろう。この数ヶ月の間ずっと父親を捜してくれていたのだ。
 告別式の朝、若い男がやって来た。
「遠仁電設の大野(おおの)です」その男は言った。
 喪服を着ているところをみると弔問に来てくれたのだろう。由泰は、
「告別式は午後からの予定です」
 と言った。
「広瀬さんとは何度も現場で一緒になったことがあります。しっかりとした仕事をされる方で、本当にいろいろと教えていただきました。何かお役に立てることはございませんか。うちの会社や業者の人間が来ると思いますので受付をさせてください」
 由泰は本田の事務所に怒鳴り込んで来た遠山を思い出した。元請けと下請けという関係があり、会社間ではいろいろとあるのだろう。しかし、大野の言葉からは、危険な作業を共にした仲間への同情が感じられた。
 午後から告別式が行われた。出棺の時、本田は涙を流していた。
 由泰は父親の言葉を思い浮かべた。
「わずかな灯火だけを頼りにして……」
 父親はどのような灯火を頼りに暗闇を歩いていたのだろうか。いや、果たして歩いていたのかさえ分からない。ただ理不尽な現実が目の前にあるだけだった。
 あの日、現場へ向かう父親と交わしたのが最後の言葉となった。

        14

 一週間後、母親は病院に戻ることになった。彩花もしばらくは祖父母のところで預かってもらうことにした。母親と彩花が荷物をまとめているところに、本田が訪ねてきた。少しやつれたなと由泰は思った。本田は祭壇に参った。そして、由泰に話しかけてきた。
「広瀬のことは本当に申し訳ないことをした。連れて帰ることができなかったのが悔やまれる」
「そんな。忙しいのに、懸命に捜してくれたじゃないですか。おふくろも僕も彩花も感謝していますよ」
「私は広瀬のかわりに君たちを守る義務があると思っている。何か困ったことがいつでも言ってくれ」
「本田さん、本当にありがとうございます」母親が言った。
 本田は写真のフィルムを縦に二つ並べたぐらいの円筒を取り出した。円筒にはいくつかのボタンがついている。
「なんですかそれは」由泰は訊いた。
「これはGPS内蔵の携帯電話だ」
「変な形ですね」
「小さな子供に持たせる防犯用のものだ。外見が携帯電話だと誘拐犯が壊してしまうだろう。だからそういう形をしている。パソコンから現在位置を確認することもできるし、この赤いボタンが押されたり、光の急激な変化があったりすると位置をメールで送信するようになっている」
 由泰は手にとって珍しそうに眺めた。
「由泰君、念のためにそれを持ち歩いてくれないか。由起子さんは入院する。彩花ちゃんもおじいさんのところへ行くから大丈夫だろう。君はこの家に残るんだろ」
「はい。父の祭壇がありますから」
「一人になる時間が多くなる。でも、それを持っていれば安心だろう」
 そう言うと、本田は帰っていった。由泰は本田が心配してくれるのは、ありがたいことだと思った。
 由泰と彩花は母親に付き添って病院に行った。
「彩花、おじいちゃんのところでおとなしくしてるのよ」
「うん」
「由泰、留守を頼むわよ」
 由泰は頷いた。そして、病院を出て彩花を祖父母のところへ連れていった。

 数日後、崎山から連絡があった。由泰はS警察署へ行った。
「大変な時にお呼び立てして、申し訳ありません。証拠品としてお借りしてました遺品をお返ししようと思いまして」
 崎山は大きな透明のビニール袋を取り出した。
「衣服、財布、あとこれは何でしょうか。緑色の丸い石です。ズボンのポケットに入ってました」
 崎山は袋の上から直径三センチぐらいのきれいに磨かれた緑色の玉を指さした。由泰は驚いた。
「それ、エクロジャイトです」
 車に残されていた物とほとんど同じだ。
「エクロジャイト?なんですかそれは」
「H県N市の山間部で採れる珍しい石です。父が行方不明になった時も車に同じ物が残されていました」
 由泰は父親の手掛かりを求めてB銅山に行ったことを話した。
「うーん、そうすると稔さんはN市に行った可能性があるということですね」
 崎山は書類をめくった。
「あれからF湖の周辺で聞き込みをしてみましたが、情報はありませんでした。あの辺りは人が住んでいませんから、目撃者はいないのかもしれません。ただ、転落した場所は特定できました。水面近くのコンクリートがせり出したところに、わずかですが血痕がありました。稔さんと血液型が一致しています。おそらく、その上の道路から落ちたのだと思います。また何かわかりましたら連絡します」
 由泰は遺品を受け取るとS警察署を後にした。

        15

 父親の葬式から一月が経った。由泰は学校に戻った。
 廊下を歩いていると弘美が駆け寄ってきた。
「出てきたんだね」
「ああ」
「どう、元気かね?」
 由泰は頷いた。
「そっちはどうなんだよ」
「朝から晩まで勉強だよ」
「大変だな」
「勉強し過ぎて吐き気がする」
 弘美は笑った。
 放課後、弘美が由泰のクラスに来た。
「ねえ、今日、時間ある?ちょっと付き合ってほしいんだけど」
 S市北部にある運河へ行くらしい。由泰は弘美と一緒に学校を出た。夏至を過ぎたばかりである。四時前だが陽は高かった。市中心部を通り、三十分ぐらい自転車を走らせると、運河に着いた。このあたりにはかつての塩田の跡が空き地になって残っている。潮は満ちていて、午後の少し傾き始めた陽光が水面で輝いた。時折、対岸のあたりでボラがはねるのが見えた。
 弘美は運河沿いにしばらく走り、空き地の前で自転車を降りた。所々背丈ほどの高さの草が茂っている。彼女は空き地の中へ進んでいった。由泰はついていった。
「いやあ、疲れた、疲れた」弘美が言った。
「どうして?」
「科学部の後輩の発表を見てあげたんだけど、結構突っ込むところが多くてね。直してあげていたら、ついつい入れ込んじゃったよ」
「ふーん」
「アッケシソウって知ってる?」
「知らない」
「この辺りは、昔塩田だったんだ。その跡地にアッケシソウというのが生えているの。塩分が多い土壌でも育つ植物なんだけど、北海道とこの辺りしかいないんだよね」
「へえ」
「塩生植物っていうんだよ」
「後輩はそれを調査してるわけ?」
「そう。由泰、こういうの興味ないんだっけ」
「うーん、食べられるのかな」
 弘美はあきれたように笑った。そして、背が低く細長い緑色の植物が群生していると場所で立ち止まった。
「これが、そのアッケシソウ。絶滅が心配されていてね、レッドデータブックにも載っているんだよ」
 弘美はデジタルカメラで群落を撮影した。そして、周辺の土を採取した。
「こいつの何を調べるんだ?」
「生育条件だけど……。ちょっと前までは、この辺りのアッケシソウは、江戸時代に、北前船に乗って北海道から来たと考えられていたの。でも、つい最近の調査では、北海道のアッケシソウとは遺伝的に遠いことが分かったんだ。瀬戸内海のアッケシソウはこの辺りの固有種ではないかという説も出てきているの。先輩から代々引き継がれてきた研究は、北海道由来説を前提に、この辺りの気候に適応した変化がないか調べていたんだけど、方向転換が必要かもね」
「ふーん」由泰は感心したように言った。
「秋になるときれいだよ。全体が赤くなってね。サンゴソウとも呼ばれているんだよ。また、見にこようよ」
 弘美はしばらく、写真を撮ったり、土を採取したりしていた。そして、暗くなり始めた頃、二人は塩田跡地を後にした。
「助かったよ。人気のない空き地じゃない。一人で来るのが怖かったんだよね」
 おそらく気を遣って連れ出してくれたのだろう。
 S市中心部で彼女と別れると、由泰は用水路沿いの道を自宅の方へ走った。
 弘美には、父親のポケットからエクロジャイトが出てきたことは黙っていようと思った。これ以上彼女を巻き込みたくないからである。

 しばらくの間、弘美は頻繁に由泰の教室を訪れた。そして、当たり障りのない話をして帰っていった。彼女の顔を見ているだけで癒やされるのは不思議なことだと思う。由泰は、父親をなくした心のすき間を埋めるように、前から抱いていたある気持ちが大きくなっていくのを感じていた。
 ある日、由泰は特別進学クラスにいる弘美を訪ねた。由泰はこの教室の雰囲気がどうも苦手だった。休み時間でも全員参考書を開いている。何かに急かされるような気分になるのだ。
 弘美は英単語の参考書を開いていた。
「あのさ」
「なに」弘美は顔を上げた。目が邪魔をするなと言っている。
「ちょっと来て欲しいんだけど」
「いま取り込み中」
「いいからちょっと付き合ってくれ」
 由泰は強引に弘美を屋上へ連れて行った。
 ここ数日晴れの日が続いた。もうすぐ梅雨も明けるのだろう。強い陽射しにコンクリートが白く輝いた。学校がある場所は高台になっている。屋上からは、近くにS市の町並み、遠くに瀬戸内海を望むことができた。海の向こうには対岸の町が小さく霞んだ。その上には強い陽射しを受けて白銀に輝く巨大な積乱雲が見えた。
「もう、午後からテストなんだよ」
「これだけは言っておこうと思って」
「…………」
「おれは、お前のことが好きだ」
 弘美は驚いた。しかし、すぐに真顔になって「ごめん」と言った。
「由泰のことは小さい頃から知っているから親しみは感じるけど、好きというのとは違うと思う。それに今はそんなことを考える余裕がない」
「そうか」
「もう戻るよ」
 弘美は教室に帰っていった。

 それから数週間後のことである。いつもの通学路を帰っていると、狭い路地のところにワゴン車が止まっていた。由泰が横を通り抜けようとすると、運転席から男が降りてきた。遠仁電設の日下(くさか)である。由泰は本田の事務所に遠山と日下が怒鳴り込んで来た時のことを思い出した。
 日下は、
「おとうさんは本当に気の毒だったね。現場で一緒になったことがある。真面目で仕事が出来る人だった。あのような事件が起きて残念だ」
 と言った。
 温和な口調を装っているが、隠すことのできないような凶暴さがにじみ出ている。由泰は身構えた。
「おとうさんの事件について重要な手掛かりを見付けた。詳しく話したいので一緒に聖人寺山まで来てくれないか」
 由泰は逃げようとした。しかし日下が目の前に立ちふさがった。
「手掛かりなら、警察に言ったらどうですか」
「いいから来るんだ」
 日下が手をつかんできた。そして凄い力でねじ上げられた。すかさず、ワゴン車の後部座席から二人の男が降りてきて、ガムテープで由泰の口をふさいだ。さらに暴れて逃げようとする由泰のみぞおちを日下が殴った。腹から胸にかけて内蔵がひっくりかえるような衝撃を感じた。男たちはうずくまっている由泰を車に連れ込んだ。車は発進した。
 車に乗るとすぐに縛られて目隠しをされた。
「誰にも見られなかっただろうな」日下が言った。
「はい」二人のうちの一人が返事をした
 たぶん日下がボスで二人は手下なのだろう。
 車はしばらく走り続けた。縛られた後は何もされなかったので少しだけ恐怖が和らいだ。そして、落ち着いて状況を判断できるようになった。目隠し越しになんとか明暗はわかる。外は少しずつ暗くなってきているようだ。捕まったのが五時頃で、今の時期は七時まで暗くならないから、二時間以上走っているのだろう。日下と男たちの会話はほとんどなかった。
 由泰はまずいことになったと思った。顔を見知っている人間を拉致するということとは、始めから開放するつもりは無いということだ。鞄に入れているGPSは動いているのだろうか。頼みの綱はこれだけである。
 なぜ日下は自分を連れ去ったのだろう。たぶん父親の事件と関係あるのだろう。もしかすると父親は日下に殺されたのだろうか。由泰は激しい怒りの感情が湧き起こるのを感じた。
 やがて車は山道に入った。そしてつづら折りを十五分ほど登ってから止まった。外は真っ暗になっていた。静かな場所だ。街の音が聞こえないところをみると、どこか人気の無い山の中なのだろう。
 このままではまずい。由泰は、和らいでいた恐怖が、再び大きくなるのを感じた。
「降りろ」と手下の一人が言った。
 逃げるとすれば今しかない。しかし、後ろ手に縛られ目隠されている状態で、この暗闇を走るのは無理だろう。いたずらに彼等を怒らせない方がいいと思った。
 由泰は車から降りた。そして男たちに促されて建物らしい所へ入った。長く使われていない家特有の、カビの匂いがした。照明が点かないところを見ると、廃屋なのかもしれない。
「携帯をさがせ」
 日下が手下の男に指示した。手下の男は由泰の鞄の中を調べているようだ。懐中電灯の光が揺れているのが見えた。もう一人がポケットに手を突っ込んできた。
「持っていないようです」
「よし」
 日下が近づいてきた。
「さて、聞きたいことがある。実はあるものを探している。君のお父さんが持ち去ったはずなんだが、心当たりはないか」
 由泰は何のことを言っているのかわからなかった。答えられずにいると、腹をけり上げられた。
「本当に知らないんです。なんのことですか」
 由泰は吐きそうになるのを堪えて言った。すると今度は力一杯殴られた。目の前で火花が散り、後ろへ飛ばされる。まったく手加減していない。この男は自分を生かしておくつもりはないようだ。
「思い出します。だから、乱暴しないでください」
 由泰は泣きながら叫んだ。
「女みたいな奴だ」
 手下の男たちが馬鹿にしたように笑った。由泰はうずくまった。すると靴の先で仰向けにひっくり返され、胸のあたりを踏み付けられた。日下は「こいつ」と憎らしげに呟いている。この男は、暴力への衝動を際限なくエスカレートさせて行く気性のようだ。手下に抱え上げられて起こされ、もう一度殴られた。薄れていく意識の中で父親の顔が思い浮かんだ。

「……由泰、母さんと彩花を頼む……」

 脳天まで突き抜けるような強烈な刺激臭で目が覚めた。いつの間にか気を失っていたようだ。鼻先に強烈な匂いがする瓶が突きつけられている。由泰は思わずのけ反った。そして激しく咳き込んだ。
「探しているのは工具だ。お前の親父が持っていたはずなんだが」
「ど……んなかたち」
「特殊なレンチだ」
「家に……あるかも」
 日下は舌打をした。
「家に押し込むのは目立つので無理です」手下の男が言った。
「後には引けない。こいつはここで潰して、一人ずつ絞め上げるしかないな」
「母親は病院です」
「くそっ」日下はいまいましげに言った。
 日下が大きく息を吸い込む音が奇妙な緩やかさで聞こえた。そして、由泰はあごの下に強い衝撃を感じた。

        16

 痛い……。あれからどうなったのだろう。由泰は目を覚ました。そして、自分が病院のベッドの上にいることに気付いた。横を見ると本田がいる。
「やっと気付いたようだね」
「ここはどこですか」
「T市にある病院だ」
「ぼくは……」
「危ないところだったよ。六時頃に位置を確認したらT県だった。家に電話しても出ない。病院にも、おじいさんのところにもいない。通学路を捜すと自転車が乗り捨ててあるじゃないか。すぐに警察に通報したよ」
「そうなんですか」
「GPSが働いていたのが幸いだった」
「あれはどこだったのですか」
「T県のT市から三十分ぐらいの山の中にある廃屋だ。警察はこっそり近づいて中の様子をさぐった。そして、急を要する状況だと判断して一気に踏み込んだそうだ」
「日下はどうなったんですか」
「なに、日下がいたのか?」
「はい、学校の帰りに待ち伏せされ、連れ去られました」
「そうか。日下の仕業だったのか」
「他に二人の男がいました」
「ああ、その二人が逮捕されたよ。地元で有名な悪(わる)だ。前から遠仁と暴力団のつながりは噂されていた。日下がそういうところを担当していたのかもしれないね」
「父の事件とは関係ないのでしょうか」
「あるかもしれない」
 突然痛みが襲ってきた。由泰は顔をしかめた。
「まだ治ってないんだ。少し休んだ方がいい。二三日は痛むかもしれないが骨や内臓は問題無いそうだ。お母さんには詳しく話していない。心配するといけないからね」
「ありがとうございました」
「ずっと付いていてあげたいが会社の方もある。申し訳ないが、目も覚めたようだし、一旦引き上げさせてもらうよ。また来るから」
 そう言うと本田は帰っていった。外を見ると夕方のようだ。あの夜助け出されてからすぐこの病院に運ばれた。薬のせいかもしれないが、二十時間ぐらい眠っていたらしい。
「親父……」
 由泰は父親のことを思い出して泣いた。そのうちに眠くなったので目を閉じた。
 翌日もベッドの上で、少し起きて、また眠るということを繰り返した。三日目に始めてベッドから下りてみた。目眩がするがなんとか立ち上がることができた。腰のあたりが痛い。どこかに強くぶつけたのだろう。ゆっくり歩いてみたがなんとかなりそうだ。これでトイレに行くことができる。慣れないせいか溲瓶を使うのがどうも苦手だった。トイレに行くと洗面台に写った自分の顔を見て驚いた。頬と目の周りが紫色に腫れ、凄い形相だった。
 午後、検診があった。担当してくれたのは若い医師だった。
「どうですか調子は」
「まだあちこち痛みますが。なんとか歩けるようです」
「そうですか。レントゲンとCTで診ましたが、骨や内臓には問題ないようです」
「どのぐらい入院しなければいけないでしょうか」
「もう退院しても大丈夫でしょう。ただ、顔の腫れがひくまでは少し時間がかかると思いますよ」
「じゃあ迎えに来てもらうよう連絡します」
「S市ですよね。こちらには通えないでしょうから紹介状を書いておきます」
 早速、本田に連絡し、明後日来てもらうことにした。
 夕食前に二人の警官が訪ねてきた。父親と同年代の優しそうな男と若い男だった。二人とも制服を着ている。
「T警察署の木下(きのした)です。具合はどうですか」年長の男が言った。
「おかげ様で、かなり良くなりました。退院の許可が出ましたので明後日帰る予定です」
「そうですか。今、大丈夫ですか。誘拐された時の状況について聞かせてもらいたいのですが」
 由泰は帰宅時に白いワゴン車に遭遇したところから話した。どのように暴力を振るわれたのか、そして、日下の言動をできるだけ詳しく話した。話している最中にも、死を意識した時の恐怖を思い出した。由泰は息が詰まりそうになるのを感じた。
「なるほど。君を殺してしまうつもりだったようだね。レンチというのは何のことかな。心当たりがあるかい」
「ありません」
「わかった。今日はここまでにしよう。明日、現場で詳しい話を聞かせて欲しいのですが、大丈夫ですか」
「はい」由泰は頷いた。
 二人は帰っていった。
 翌日、木下が迎えに来た。パトカーは三十分ほど山道を走った。そして、廃屋の前で止まった。現場は黄色いテープで囲まれている。その脇に若い警官が立っていた。テープの中では何人かの警官が巻き尺で長さを測ったり写真を撮ったりしている。あの時は暗い上に目隠しをされていた。実際に現場を見たのは始めてだった。
 今でもあの時ことを思い出すと、恐怖でじっとしていられないような感覚になる。木下は「辛くなったら言ってください」と言った。
 現場では実際に縛られた格好で寝転がって欲しいと言われた。そしてどこでどのように暴力を受けたのかを細かく聞かれた。検証は三時間ぐらい続いた。そして由泰は病院に戻った。
 翌日、本田が来た。
「お母さんからお金は預かってある」
 そう言うと本田は病院の精算をした。
 S市への帰り道、本田は銭湯に立ち寄ってくれた。怪我で不便だろうと背中まで流してくれた。由泰は本当の父親に対するような親しみを感じた。

        16

 誘拐について書かれた記事を読んだ。警察は日下の行方を追っているらしい。逮捕された二人の男は誘拐は認めているものの、動機については一切話していないようだ。あの二人は加藤(かとう)と西嶋(にしじま)というらしい。遠仁の社員ではなく、S市周辺で用心棒まがいのことをしていたらしい。日下とは長い付き合いだったともある。
 母親のところに顔を出した。母親は由泰の形相に驚いた。
「心配したわよ。本田さんから怪我は軽いと聞いていたけど、本当に無事で良かったわ」
「日下という男だ」
 母親は頷いた。
「親父のレンチを探しているとか言ってたな。何のことかわかる?」
「わからないわ。お父さんの事件と関係あるのかしら」
「…………」
 由泰は黙って外の景色を眺めた。田園風景が広がっている。そのずっと先には大きな積乱雲が見える。病院の中庭にある楢の木ではアブラゼミが盛んに鳴いていた。
 数日後、弘美から電話がかかってきた。あれから彼女とは話をしていない。休んでいる間に学校は夏休みになったようだ。
「大丈夫?」
「けっこうやばかった」由泰は笑いながら言った。
「笑い事じゃないよ。本当に心配したんだよ」
 弘美は涙声だった。
「ごめん」
「でも良かった。元気そうで」
「誘拐された時、犯人の男に親父のことを聞かれたよ。もしかしたら関係があるかもしれない。また会った時に話すよ」
「わかった。じゃあまた学校で」弘美は電話を切った。
 二週間経つと顔の腫れも完全にひいた。由泰は祖父母の家に顔を出した。彩花に会うのは数週間ぶりだ。
「心配したよ」彩花が言った。
「ああ」
「お母さんは、目の回りが腫れていてびっくりしたと言ってた。でも大したことないじゃん」
「おふくろのところに行った時はまだ腫れていたからな。お前は元気か?」
「うん。お父さんがいなくなったのは悲しいけど、少しずつ元の生活になってきていると思う。でも、このまま悲しみが少なくなるのもお父さんに悪いような気がするね」
「そうだな」
「ねえお兄ちゃん。明日お墓参りしない」
「四十九日からしばらく経つな。そうしよう」
「もうすぐお盆だしね」
 翌日由泰と彩花は聖人寺山の近くにあるG霊園に向かった。ここに広瀬家の墓がある。S市で一番大きい墓地だった。盆前ということもあり、たくさんの人たちが墓参りに来ていた。由泰と彩花は墓を掃除した。そして、花と線香と水を供えた。由泰は、墓前で手を合わせながら、父親がいなくなってから今日までのことを考えていた。なぜ父親が失踪したのか、そして、なぜF湖で死体となって発見されたのだろうか。
 引き上げようとした時、誰かが後ろから声をかけてきた。振り返ると菅江佳菜美が立っていた。B銅山で会って以来である。彩花は佳菜美に会釈した。
「こいつは妹の彩花です」
「はじめまして」
「ほら、このあいだ話しただろう。B銅山で助けてくれた人だよ」
「そうなんですか。はじめまして、広瀬彩花です」
「今日は兄妹でお墓参り?」
「ええ、父の墓なんです」
 佳菜美は黙ったまま墓石を眺めた。
「つい最近なんです。F湖で死体が上がったというニュースを知りませんか」
 由泰は父親のことを話した。
「えっ、あの事件の……そっそうなんだ。それは本当に残念なことでした」
 佳菜美は深々と頭を下げた。
「今日は雅樹さんのお墓参りですか」
 佳菜美は首を横に振った。
「ちょっと知り合いのお墓に参ってたの。お父さんに線香を上げさせてもらっても、いいかしら?」
 由泰は頷いた。佳菜美は座って線香を上げ手を合わせた。そして、立ち上がり、もう一度由泰と彩花に頭を下げた。
「B銅山の帰りにエクロジャイトを見せてもらったわね。あれはどこで手に入れたの」
「父は以前から行方不明でした。失踪した日に父が乗り捨てていた車にあの石が置いてあったんです。あの周辺でしか採れない石だと聞いたので、B銅山に行けば手掛かりが見つかるかもしれないと思ったんです」
「そうなんだ。やっぱり、お父さんはB銅山にいらしてたのかしら」
「わかりません。実はF湖で発見された時もズボンのポケットにエクロジャイトが入ってました。このあいだ見せたのと同じ物です」
 その瞬間、佳菜美の表情が変わった。彼女は何かに驚いているようだ。由泰は辺りを見回した。
「どうかしたんですか」
「え……なっなんでもないわ。そうだ私の連絡先を教えておくね。また連絡するわ」そう言うと佳菜美は帰っていった。
 墓地の入り口には庭園がある。芙蓉や夾竹桃の白い花が咲いていた。大きなブナの木ではうるさいほど蝉が鳴いていた。
「雅樹さんって誰?」
「あの人の弟さんだ。一年前に自殺したそうだ」
「そうなんだ……きれいな人だね。でもどこかさびしそう」
「ああそうだな」
 それから、何度か佳菜美に電話してみた。しかし、何度かけてもエリア外のアナウンスだった。由泰は別れ際の佳菜美の様子が気に掛かっていた。

        17

 八月も終わりの頃、崎山から連絡があった。誘拐事件のことを聞きたいそうである。由泰はS警察署へ向かった。外へ出るとアスファルトが焼けている。自転車をひと漕ぎするたびに背中と胸から汗が噴き出してきた。
 盆を過ぎて何回か雨がふった。数日涼しい日が続いたが、すぐに暑さがぶり返した。
 S警察署に着くと、駐輪所で汗を拭いてTシャツを着替えた。駐輪場は建物の陰になっている。時折風が通っていった。どこかでツクツクボウシが鳴いているのが聞こえた。
 応接室に通されると寒いぐらいに冷房が効いている。由泰はTシャツの上から長袖のシャツを羽織った。少しすると崎山が入ってきた。
「どうも、お呼び立てしてすいません。大変な目に遭いましたね。調子はいかがです」崎山は言った。
「もう大丈夫です」
「気持ちの方はいかがですか。眠れないとかないですか?」
「だいぶ落ち着きました」
「そうですか。もし、不安なことがありましたら相談してください」
「はい。ありがとうございます」
「この事件は、T県警と合同で捜査を進めています。再度で申し訳ありませんが、誘拐された時の状況を詳しく聞かせていただけますか」
 由泰は学校からの帰りに白いワゴン車が止まっていたところから話した。
「日下の行方は追っています。K県の山道に奴のワゴン車が乗り捨てられていたのが見つかりました。かなりの人数を投入して追っています。申し訳ありませんがご自宅の近くも監視させていただいてます」
 日下のことを考えると、誘拐された時の恐怖が再現しそうになった。由泰は気持ちを静めるために深呼吸をした。少しすると落ち着いてきた。そういえば父親の事件はどうなったのだろう。由泰は訊ねてみることにした。
「父の事件についてお聞きしてもよろしいでしょうか」
 崎山は頭をかきながら言った。
「それが、目立った進展がないんです。周辺の聞き込みを続けていますが、目撃者はいないようです。そう言えば、少し前に、稔さんが落ちた周辺の道路を調べたところ、ガードレールに車がぶつかったような跡がありました。もしかすると稔さんは誰かに車で連れてこられたのかもしれません。塗膜片を採取することができましたので車種をある程度絞り込めると思いますよ」
 誘拐事件について何点か質問された後、由泰はS警察署を後にした。

        18

 夏休みが終わった。由泰は弘美に会いに行った。彼女の態度は以前と変わらず、必要以上に親しくもなく、よそよそしくもなかった。
「大変だったね」と弘美は言った。
「誘拐された直後の顔を見せたかったよ」由泰は笑った。
「痛そう」弘美は同情したように言った。
「犯人は遠仁という会社の日下という男だ。親父が勤めていた会社と関係がある」
「なぜ誘拐したのかなあ」
「レンチを探していると言ってたよ。親父が持っていたはずだってね」
「レンチ。ふーん、なんだろうね」
「そう言えば、このあいだ、佳菜美さんに会った」
「佳菜美さんとはしばらく会ってないな。元気にされていた?」
「うーん、そうだな」
「ねえ、雅……樹さんだっけ。弟さんのことをもう少し詳しく聞いてみない?あの倒れた鉄塔で自殺されたんだよね。もしかしたらお父さんの事件と関係あるかもしれないよ」
「それが佳菜美さんに連絡がつかないんだ。それに様子が少し変だった」
 由泰は墓参りの時の佳菜美の様子を話した。
「それは変だね。ねえ、聖人寺山で同じ会社の人に会ったよね。えーと……」
「内山さん」
「そう。その人に会ってみたら」
「確か連絡先をもらったな。電話してみるよ。弘美はどうする?」
「行きたいけど……」
「じゃあ来てくれよ。お前がいてくれると安心だ」
「でもね、勉強があるんだ」
「じゃあ、あとで内山さんと会う日を連絡するよ。都合が良ければ来てくれればいい」
「わかった」
 内山には案外あっさりと連絡がついた。菅江雅樹について聞かせて欲しいというと、次の土曜日に会ってくれることになった。由泰は弘美に電話した。
「あのさ、内山さんに連絡がとれたよ。今度の土曜日に会うことになった」
「そう」
「来て欲しいんだけど」
「じゃあ行こうかな。あの日、聖人寺山で会ったきりかあ。内山さんってかっこいいんだよね」
 由泰は不機嫌になった。

 土曜日は雨だった。内山とはS市駅で待ち合わせ、近くのシアトルスタイルのカフェに入った。
「せっかくのお休みにすいません」
「いいよ、今日は予報が雨だったから出かけないつもりだった」
「菅江雅樹さんのことを聞かせていただきたいんです。亡くなられる直前に悩んでいたということですが、何か事情をご存知ないでしょうか」
「どうしてそんなことを聞くんだい」
 由泰は父親が行方不明になってからのことを話した。
「そうかあ。いろいろ大変なことがあったようだね。確かに関係があるかもしれない。僕も菅江の件は単純な自殺だとは思ってないんだ。そもそも鉄塔から飛び降りるというのが腑に落ちない。飛び降りるならもっと身近な場所があると思うんだ。菅江は現場の人間じゃないからね。普段から鉄塔に登っていた訳じゃない。なぜ、わざわざ鉄塔まで行ったんだろう」
「同僚の方が悩んでいたと証言したそうですが」
「誰からそんなことを聞いたんだい」
「佳菜美さん、えーと、雅樹さんのお姉さんです」
 内山は椅子の背もたれに寄りかかった。そしてタバコに火を点けた。
「菅江とは違う部署だったからね。仕事のことで何があったのかは良くわからないな。僕には警察の事情聴取もなかったよ。同じ部署の人が証言したみたいだね」
「そうですか」
「菅江さんはどういう部署におられたんですか」弘美が訊ねた。
「調達部門だね。僕は現場の技術者だけど彼と仕事上の関わりは少なかった。あいつと出会ったのは、登山サークルで一緒になったのがきっかけかな。そうだ、実家の連絡先は知っているから訪ねてみたらどうだろう」
「菅江さんの実家に行かれたことはあるんですか」弘美が質問を続けた。
「いや、行ったことはない。一緒に山に行くことが多かったから、緊急時の連絡先は教え合っていたんだ。岩を登ることもあったからね。そう言えば香典返しの挨拶状にも住所が書いてあったな。どちらにしても実家の連絡先はわかるよ」
「内山さんクライミングをするんですか。私もフリークライミングをしています。始めたばかりですけど」弘美が言った。
「へえ、そうなんだ。どのくらい登るの」
「このあいだ、初めて5.11を登りました」
「始めたばかりでイレブンというのはすごいじゃないか」
「最初は兄に無理やりやらされていたんですけど、やってみると本当に面白くて。内山さんはどのくらいのルートを登られるんですか」
「フリーだと5.12前半をやっとというところかな。菅江も同じくらいだったよ。会社の試験場に鉄塔があってね、一度二人で登ったことがある。骨組みが交差しているところにスリングをかけてプロテクションを取ってね。5.10aぐらいだなとか冗談を言って……すまない思い出してしまった」
 内山はハンカチで目のところを押さえた。
「すいません。余計な話をして」
「いや、いいんだ。あいつの様子がおかしくなったのは死ぬ一月前ぐらいだと思う。体調が悪いからと言って山に行かなくなった。それまではほとんど毎週末一緒に出かけていたんだ。よほどひどい雨じゃないかぎりね」
「会社で会うことはなかったのですか」
「僕は外で作業していることが多いから、顔を会わすことはほとんどなかった。週末も会わなくなって、しばらく顔を見てないなと思っていたら、自殺したというニュースが飛びこんで来たんだ。驚いたし、悲しかった。僕は菅江を山のパートナーとして信頼していた。でも本当は彼のことをわかっていなかったのかもしれない」
 内山はコーヒーに口を付けた。
「山で仕事の話をすることは無かったのですか?」
「同じ会社の仲間と出かけたら仕事の話になると思うだろう。ところが、クライミングの最中にそういう話はしない。あのホールドが掴めないと落ちるという切羽詰まった時に仕事のことは考えないよ。彼がどんな悩みを抱えていたのかは本当に知らない。もしかすると恋愛のことなのかもしれない。でも、そういうことで悩んでいるようには見えなかったがなあ」
「内山さん、本当に申し訳ないんですが、菅江さんのご両親に会いたいと伝えていただけませんでしょうか」由泰は言った。
「いいよ。ぼくも一緒に行くよ。ご両親には告別式でお会いしたきりだからね。僕もいろいろと菅江のことを聞いてみたい」
 二人は内山に礼を言って別れた。
 由泰は、もう一度佳菜美の携帯に電話をかけてみた。しかし、エリア外のアナウンスが流れるだけだった。

        19

 内山が菅江雅樹の両親に連絡してくれ、次の週末に雅樹の実家を訪ねることになった。弘美も一緒に行くと言った。
 雅樹の実家はT県だった。内山が車で連れていってくれた。三人は花とお菓子を両親に渡し仏壇の前で手を合わせた。
 雅樹は実家を出てS市の近くで一人暮らしをしていた。休みになると山へ出かけるので、実家にはめったに帰って来なかったらしい。父親の正夫(まさお)は言った。
「あの日の三ヶ月ほど前に電話がありまして、これといって用事はなかったのですが、まあ元気にやっているようでした。私も家内も安心していました。それからしばらくして、五月の中頃でしたかなあ、ふと雅樹のことが頭に浮かびましてな。家内もちょうど同じことを考えていたみたいで、元気にしとるじゃろうか?ゴールデンウィークぐらい帰ってくりゃええのにと話しました。その後あんなことになって……」
 母親の洋子(ようこ)は目頭をおさえた。
「菅江君の様子でなにか気付かれたことはないでしょうか」内山が訊ねた。
「同僚の方がおっしゃるには悩んでいたそうですな。残念ながらわしらに思い当たることはありません……」
 父親の正夫は目に涙を浮かべた。
「どんなにつらい思いをしたんじゃろうか。それがわからないのが、なんとも遣り切れないのです。せめてなにか残しておいてくれれば良かったのですが。会社の方が、雅樹のパソコンに残っていた電子メールを、印刷してくれましてなあ、もちろん仕事関係のものは除かれていましたが」
 正夫は立ち上がると眼鏡をかけ電話台の引き出しを開けた。そして中からクリアファイルに入った書類を取り出した。
「これですわ。内山さんとのメールが多かったですな。今週末はどこへ行くとか、天気がどうだとか、本当によく相手していただいたようで感謝しています」
 内山は照れくさそうに笑った。
「私以外にメールのやり取りがあった人間はいましたか」
「そうですなあ。その他には呑み会のお誘いとかですな」
 正夫は書類を内山に差し出した。何度も繰り返し読まれたのだろう。用紙の隅が黒ずんで、ぼろぼろになっている。内山はさっと目を通した。
「彼の携帯電話は帰ってきましたか?」
「あれは会社から借りていた物ですので、わしらの所には戻ってきませんでした。メールの内容もいただいてないです。もちろん警察は調べたようですが、特に変わった通話やメールはなかったようです。アパートにも何も残っていませんでした」
 弘美が内山に視線を送った。何か聞きたいことがあるのだろう。内山は弘美を促した。
「少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
 正夫は頷いた。
「警察はどうして自殺という結論を出したのですか」
「一つは会社の同僚の方の証言ですな。あと、雅樹が鉄塔を登った跡が指紋で残っていました。ほかに事件性を裏付ける証拠がなかったので、自殺ということになりました」
「雅樹さん以外の指紋は出なかったのでしょうか」
「指紋ですか。言われてみると、誰の指紋が見つかったのかということまでは訊いてませんでしたな。ただ、警察の方が言うには、事件を窺わせるような手掛かりはなかったそうです」
 弘美はしばらく考え込んだ。そして、由泰の方を見た。
「佳菜美さんのことを話した方がいいよね」
「あっ、そうだな」
「僕たち佳菜美さんに会ったことがあるんです」
「おや、そうなんですの」洋子が驚いたように言った。
 由泰は、聖人寺山で佳菜美に会ったこと、そしてB銅山で助けてもらったことを話した。夫妻は由泰の話を不思議な顔をして聞いていた。
「はあ、あの鉄塔に花が供えられていたのは知っています。しかし娘は愛知に嫁に出ております。年に一回、盆か暮れに帰ってきますが、今年はまだ帰ってきておりません。B銅山なんぞに行ったという話はついぞ聞いとりませんがなあ」正夫が言った。
「愛知ですか」
「はい。孫がまだ小さいので、一人で出歩くことはないと思いますが」
 弘美は聖人寺山で会ったときの様子を夫妻に話した。
「カサブランカとお洋服がとても素敵だったから、おぼえているんです」
「娘と違うように思えますわ。娘はそんなに背が高くないはずです」
「携帯電話の番号もいただいてます」
 由泰は佳菜美の電話番号を見せた。正夫は電話台からクリアファイルを取り出した。
「いや、この番号じゃないですな」
 由泰と弘美は顔を見合わせた。自分たちが会っていたのは菅江佳菜美ではない。どういうことだろう。とりあえずその日は菅江の実家から引き上げることにした。帰りの車の中で、弘美が言った。
「当時の捜査について詳しい話が聞きたいですね」
「具体的には?」内山が聞いた。
「鉄塔です。指紋が残っていたそうです。どういう風に登ったのか知りたいんです」
「僕の方から菅江さんに連絡しておくよ。もしかすると警察に頼んでくれるかもしれない」
「あと誰が証言したのか興味ありますね」
「それは会社の知り合いに聞いてみるかな。調達じゃないが資材部に同期がいる。たしか席も近かったはずだ」
 内山とはS市駅で別れた。車が駅前のロータリーを走り去った。
「大丈夫なのかよ」と由泰は言った。
「何が?」
「受験勉強」
「大丈夫だよ」
 弘美はいたずらっぽく笑いながら言った。
「時々勉強を忘れる時間を置いた方が、かえって効率が良くなるみたい」

        20

 内山から連絡があった。菅江夫妻が警察に話してくれたそうだ。菅江雅樹の自殺はS警察署が担当したので、今度は夫妻がS市へ出て来てくれた。
 S警察署に行くと婦人警官が対応してくれた。
「事前に資料を出して置くように伺っております。あちらのお部屋に置いてありますのでどうぞ。当時担当した者は外出しておりますが、必要であれば連絡します」
 由泰たちは応接室に通された。
「こちらのファイルに証言や調査内容がまとめられています。情報に個人名などが含まれていますので、直接見ていただくことはできません。ご質問いただき、私の方からお答えします」
「悩んでいたようだ、というのは、誰の証言なんですか」内山が訊ねた。
 婦人警官は菅江夫妻の方を見た。
「この方々は雅樹のお友達でして、とても親しくしていただいていたようです。先日、家に来ていただき、思い出話をしておりますと、雅樹は何を思うてたんじゃろうかなどと、色々な疑問が出てきました。遺書がないので、私たち夫婦も、救われない思いでおりましたところです。この方々の疑問は私たちも知りたいと思う内容です。少しでも当時の状況を教えていただき納得できれば、そう思って、今日はご無理をお願いしたわけです」菅江正夫は言った。
「そうですか」
 婦人警官は内山を観察するように眺めた。そして、
「証言された方は同じ会社の方です。それ以上のことはお答えできません」
 と言った。
「何に悩んでいたのですか」内山は訊いた。
「証言された方もわからないと言ってます。ただずいぶん疲れて、悩んでいたようだということでした。お仕事で上司の方と意見が合わないこともあったようです」
「うーん」
 内山は腕を組んで考え込んだ。
「鉄塔にどのように指紋がついていたか教えていただけますか」弘美が訊ねた。
 婦人警官は弘美を睨み付けた。
「あなたねえ、そんなことを聞いてどうするつもりなの?」
「飛び降りた時に雅樹さんがなにを思っていたのか、それを知りたいというのが、こちらのご夫妻の願いなんです。その手掛かりになるようなことがないかなと思ったんです」
 婦人警官はしぶしぶ何枚かの鉄塔の写真と図が書かれたページを開いた。
「このように道路側から見て右手前の柱に指紋が残っています。この鉄塔には梯子がないので、左右の手を交互に繰り出してこの柱を登ったようですね」
「ほかに、血痕などは残ってませんでしたでしょうか」
「残っていました。鉄塔は下に広がる形なので飛び降りた時にぶつかったようです。ここの星印のところに血がついていました。血液型も完全に一致しています。あと鉄塔の下に靴が揃えて置いてありました」
 婦人警官は図を指し示した。
 弘美はしばらく鉄塔の図を見つめた。そして確認するようにもう一度訊ねた。
「死因は、間違いなく、飛び降りたことによるものなんでしょうか」
「どういう意味かしら」
 婦人警官は不愉快な顔をした。
「疑っている訳じゃないんです。ただ、どういう傷を負われたのかなと思って」
 婦人警官は菅江夫妻の方を見た。正夫が静かに頷いた。
「飛び降りたことによる、全身打撲、頭部損傷が原因です。ほとんど痛みを感じられる間もなく亡くなられたと思われます。外傷、内傷ともに生活反応が認められました。これは鉄塔から飛び降りた時には生きておられたということです。毒物の反応もありませんでした」
「指紋は雅樹さんのものだけでしたか」
「鉄塔で作業をしている方の指紋も残ってました」
 弘美は鉄塔の図を眺めたまま考え込んだ。そして、静かに口を開いて言った。
「一つだけおかしなところがあります。雅樹さんはフリークライミングをしておられたそうです。しかも5.12台のルートを登る実力があったと聞きました。そういう方が鉄塔に登る時の動きとしてはその指紋は不自然です。その図によると身体を柱の正面に置いてよじ登ったことになっています。でもクライマーはそんな登り方はしません。クライミングは身体がまっすぐに伸びる力、つまり平地でまっすぐ立つ時と同じ筋肉の働きで身体を上へ送ります。もし鉄塔を登るのであれば、身体を柱の左右か下にポジションして足を突っ張るはずです」
 婦人警官は驚いた表情を見せた。
「そうだなこれはおかしいね」内山も同意した。
「内山さん、クライマーが登るところを見てもらいましょうよ」
「それならうちの試験場にある鉄塔が使えるな。あの、すいませんが担当の方に伝えていただけますでしょうか。菅江雅樹はロッククライミングをしていたんです。そのことを考えると鉄塔に残っていた指紋から推測される登り方はおかしいと思います。もし、ご興味がありましたら、私が鉄塔を登ってお見せすることも可能です」
「わかりました。そのように伝えます」婦人警官は言った。由泰たちは彼女に礼を言った。
 警察署を出た。昼間とは打って変わって涼しかった。九月になって暑さも少し和らいでいる。由泰たちは、菅江夫妻をS駅まで送った。
「ほんとうにありがとうございました」
 夫妻は礼を言って改札口の中へ入っていった。

        21

 一週間後、警察から連絡があった。クライミングの実演をして欲しいそうだ。由泰は弘美と一緒に西電工の試験場にやって来た。菅江夫妻も来ていた。
「やあ、君は」
 聞き覚えのある声に振り返ると、S警察署の崎山が立っていた。制服姿の若い警官も一緒に来ている。
「おーい姉川さん。確保してくれるかな」
 向こうから内山がやって来て弘美に呼びかけた。弘美は鉄塔の所へ行き、ジーンズの上から、ハーネスと呼ばれる安全ベルトを着けた。試験場にある鉄塔は十メートルぐらいの高さだった。鉄塔の一番高いところに、ひらひらしたリボンのような紐が結ばれていて、そこに金具がぶら下がっている。長いオレンジ色のロープがその金具で折り返してぶら下がっていた。内山は自分のハーネスにそのロープの端を結びつけた。弘美は、ロープのもう一方の端を、筒状の金具とカラビナに通し、そのカラビナをハーネスに着けた。
「じゃあ登ります」
 内山が弘美の方を見た。弘美は小さく頷いた。内山の動きは由泰の想像とは反対に動いた。手で身体を引き上げるのではなく、まずは進行方向と逆に足を送り出して押しつける。そして、その応力で身体を送り出すようにして登っていった。一見遠回りしているようだが、一連の動きが流れるようにつながっている。力を全く使わないで登っているかのような錯覚を覚えた。
 上まで行くと内山が声をかけた。
「テンション」
「張りました」
「じゃあ下ろしてください」
 内山はロープにぶら下がって下りてきた。弘美がハーネスに付けた金具でロープをゆっくり繰り出しているようだ。
「確かに我々が考えたのとは全く違う登り方だね」崎山が感心したように言った。
「業者の方の指紋が検出されたと聞きました。彼等が事件に関係している可能性はないのでしょうか」弘美が訊ねた。
「そうだね。でも……」
 崎山は考え込んだ。
「雅樹さんの自殺にはまだ疑問が残っているような気がします。どうかもう一度調査していただけませんか」
「そうだね、持ち帰って上司に相談するよ」
 そう言うと崎山は帰っていった。菅江夫妻も丁寧に礼を言って帰っていった。
 試験場に三人だけが残った。内山は由泰と弘美に言った。
「あれから資材部の同期に聞いてみたんだ。このあいだ、上司と意見が合わないことがあたったと言ってたよね。当時、菅江はS市火力線の保守業務の依託先を選定していたらしい。そのことで課長と意見がくい違っていたみたいだね。菅江は新しい依託先を探そうとしていた。ところが新しく取引先を登録する手続きが面倒なので、今まで通り遠仁で契約を進めるよう課長に指示されたそうだ。この地域の工事と保守はほとんど遠仁が受託している。それまでにもこういったことが何度もあり、菅江は不満を持っていたようだ」
 なにか悩みを抱えていたというのは仕事のことなのだろうか。
「菅江の死後、誰が証言したのかはわかったよ。ただその人はその後すぐに会社を辞めたみたいだね」
「その人には会えないんですか」弘美が訊ねた。
「今調べている。運が良ければ会うことができるかもしれないね。あと、これは僕も知らなかったんだが、菅江には恋人がいたらしい」
「恋人ですか。どういう人でしょう」
「このことを教えてくれた奴も、菅江の相手を見たことはないらしい。本人から聞いたそうだ」
 由泰と弘美も試験場を後にした。
 数日後、内山から電話がかかってきた。
「菅江夫妻に警察から連絡があったそうだ」
「何かわかりましたか」
「鉄塔から日下の指紋が検出されていたよ。アリバイは無いが、作業で頻繁にあそこへ訪れることがあったから、当時は問題にならなかったようだ。しかしああいった誘拐事件を起こした人間だ、もう一度調べることになったそうだよ」

        22

 S警察署の崎山から連絡があった。崎山はT県警と連絡を取り合って日下の行方を追っている。最近S市周辺で日下らしい人物が目撃されたそうだ。崎山は「気をつけて下さい」と言った。母親は病院だから大丈夫だろう。彩花は祖父が送り迎えをしてくれていた。
 数日後、由泰は母親の病院を訪ねた。秋分を過ぎてずいぶん過ごしやすくなった。病院から見える景色の中に黄金色の田んぼが広がっている。母親の体調も良いようだ。
「もうすぐ退院できるらしいわ」
「よかったな」
「このあいだ、本田さんが見えられてね。しばらくお父さんのお話をされたわ。そういえばお墓参りもしないとね」
「ああ」
「由泰、あなたも進路を考えないとね。大学へ行くなら浪人してもいいのよ」
「ああ、考えるよ」
 正直言うと、まだそういうことを考える気分にはなれない。ただ母親を心配させたくなかった。
 病院から帰ると内山から連絡があった。菅江雅樹の自殺について証言した同僚に会うことができたそうだ。次の土曜日に内山に会うことになった。弘美に話すと、彼女も行きたいと言った。
 土曜日、三人はS市駅前で待ち合わせた。そして、駅前のカフェに入った。
「証言したのは小田(おだ)さんという人だ。資材部で菅江と一緒に調達を担当していたそうだ。僕や菅江より五歳ぐらい年上だ。菅江が課長と意見が合わずに悩んでいたのは間違いない。これは僕が資材部の同期から聞いた通りだった。小田さんはそのことを警察に証言したらしい」
「新しい話はありましたか」由泰が訊ねた。
「小田さんが、ある工事の引き合いで遠仁の営業担当と話していた時、菅江について聞かれたそうだ。業者の営業というのは色々と聞き出そうとする。よくある話だと思って、小田さんは、菅江が積極的に新しい業者を探していることを話題にしたらしい」
 遠仁は菅江が遠仁以外の業者を使おうとしていたことを知っていたのだ。
「小田さんは菅江に対して好意的だった。ただ課長とやり合ってまで庇うことはなかったそうだ。菅江はS市火力線の保守依託先を選定していた。遠仁電設と本田電工を相見積もりにしたところ、本田電工がかなり安い提案してきたらしい。しかし課長は遠仁で行くと突っぱねた」
「なぜ安い提案しても受け入れてもらえないんですか」弘美が訊ねた。
「単純に見積金額の上下だけでは判断できない。最後まで責任を持って続けられるのか、そして、財務状況や技術力を十分に検討しなければいけない。新しく取引先として登録するためには財務部に信用調査も頼まなければいけない」
「結構めんどうなんですね」
「それに、うちは百二十日サイトの手形決済が基本だ、相手の資本金が五千万円以下だと決済方法を特別に変えなくてはいけない」
「菅江さんはなぜ遠仁以外にこだわったのでしょうか」
「それはわからない」
 内山は手元のコーヒーに口を付けた。そして、一息ついてから話を続けた。
「ある日の夕方、菅江は遠仁の業務に不満がないか見に行くと言って会社を出たらしい。その翌日、鉄塔の下で死んでいるのが発見されたそうだ」
 三人は無言になった。少し間をおいて内山が言った。
「奇妙な話だ」
「鉄塔を見に行ったのでしょうか」弘美は言った。
「その可能性があるね」
「そこで遠仁の日下に遭遇した、もしくは、日下が菅江さんを見張っていた可能性もありますね」弘美の白い顔が少し紅潮した。
「小田さんは先輩として菅江を助けることができなかったのかなど、いろいろと悩んだようだね。そして菅江の死後しばらくして会社を辞めたそうだ」
「菅江さんは上司の方に意見をしっかり言う性格だったのでしょうか」
「どうだろう。あいつの仕事ぶりは知らない。ただ、僕もそうだけどうまく立ち回るタイプじゃないと思う。山をやっている奴には多いんだが、あいつは妙に落ち着いたところがあってね。課長は親しめない部下だと思っていたかもしれない」
 小田は必要であれば警察にも話をすると言っているらしい。内山は菅江夫妻にもこのことを伝えたそうだ。

        23

 それから数日後のこと。由泰は電話の音で目を覚ました。足をもつれさせながら階段を下りた。受話器に飛びつくと、聞き覚えのある声が聞こえた。
「菅江です」
「佳……菜美さん。どうしたんですか。あれから何度か連絡しましたけど、つながりませんでした」
「訳はあとで話すわ。明後日の土曜日、B銅山の第二通洞に来られる?」
「ええ……大丈夫です。今のところ予定はありません」
「じゃあ、必ず来てね」
 電話が切れた。待ち合わせの時間を聞き忘れている。あらためて彼女の携帯に電話したがエリア外のアナウンスだった。第二通洞にいったい何があるのだろうか。ちょうど佳菜美には会いたいと思っていた。菅江夫妻に会ったことも話さなくてはいけない。由泰はB銅山に行くことにした。
 特別進学クラスに行くと、弘美はぼんやりと黒板を眺めていた。由泰は佳菜美からの電話について話した。
「何の話だろうね。気になるけど私は行けそうにない。あんなことがあったじゃない。親が許してくれないと思うんだ」
「もちろん一人で行く。まだ日下が捕まっていないからな」
「気を付けてね。装備を貸してあげるよ。ヘッ電とストック、あとランタンも持って行きなよ」
「ありがとう。佳菜美さんにはどうしても会いたいんだ」
「菅江夫妻に会って聞いたことを確かめるんだね」
「ああ」由泰は頷いた。
 念のために、本田にB銅山へ行くことを伝え、GPSを持って行くことにした。

 土曜日になった。佳菜美との約束の日である。由泰は朝六時に出発した。一人なので車で行くことにした。弘美のアドバイス通り、ヘッドランプとランタンに加えて着替えや防寒着もザックに入れてある。途中コンビニエンスストアで行動食を買って、九時に登山口の駐車場に着いた。山はすっかり紅葉で色づいている。常緑樹のくすんだ緑の間から見える黄色や赤色の葉が澄み切った秋の空に映えていた。
 四十分ほど歩くと第二通洞の入り口に着いた。まだ佳菜美は来ていないようだ。入り口を見てみると古い南京錠が壊れたままだった。由泰はランタンを取り出してテストした。ガスを出してボタンを押すとほやの中でマントルがまばゆい光を放った。
 由泰はしばらく休んだ。そして、汗が乾いてからフリースを着込み、通洞の扉をその脇に立っている小木に括り付けた。こうしておけば、簡単には閉めることができないだろう。由泰は通洞の中を覗き込んだ。一人でこの中を進んで行くのはいかにも心細い。そう言えば弘美は何の音を聞いたのだろうか。彼女はあの奥から何か聞こえたと言った。
 一時間待っても佳菜美は現れなかった。由泰は覚悟を決めてトンネルの中に入ることにした。ヘッドランプを頭に着けランタンを持った。
 トンネルをしばらく進むと急に空気が変わった。少し寒いぐらいである。静まりかえっていて、ランタンのガスが吹き出す音がトンネル内に響いた。十分ぐらい歩いた。ここでトンネルが曲がるのだろう。入り口の光が見えなくなっていく。由泰は迷った。戻るべきなのかもしれない。しかし外で待っていても佳菜美が来る気配はなかった。由泰は大声で佳菜美を呼んでみた。トンネル内に声が反響する。しかし、返事はなかった。もう少しだけ進んでみることにした。
 さらに十分ほど進んだところで、前方に白くひらひらとしたものが見えた。由泰は近づいてみた。白い布に包まれた細長い物体のようだ。恐る恐る布をめくると中から工具が二つ出てきた。これは……。その時、後ろから軌道内に敷かれた石を踏みしめる音が響いてきた。
 佳菜美が来たのだろう。由泰は大声で呼びかけてみた。しかし返事はなかった。由泰はもう一度佳菜美を呼んだ。石を踏みしめる音だけが近づいてくる。やがて小さな灯が遠くで輝くのが見えてきた。
「佳菜美さん」
 返事は無い。由泰はランタンをかざした。人影がおぼろげに見える。目を凝らして見ると佳菜美ではないような気がした。人影が揺れる度に、手に持った金属のようなものがヘッドランプの光を反射して輝いた。由泰はまずいと思った。工具を脇に抱え、奥に向かって走り始めた。それに気付いたかのように、背後の人影も走り始めた。ザックを背負っている上に両手がランタンと工具で塞がっている。全力で走ることはできない。
 息が切れ始めたころ、前方にも人影が見えた。由泰は立ち止まり、振り向いた。背後からはヘッドランプの灯が近づいてくる。
「こちらへ」前方の人影が叫んだ。女の声だった。
 由泰は思わず駆け寄った。そこに立っていたのは佳菜美だった。
「あかりを消して」
 由泰はランタンを消して。ヘッドランプを点けた。
「こっちよ」
「佳菜美さん」
「静かに」
 佳菜美の背中を追って進む。何度か分岐を曲がり、しばらく直進したところでコンクリートの壁に突き当たった。
「しまった」佳菜美がつぶやいた。
 石を踏む音が背後に響いた。ヘッドランプが揺れながら近付いて来る。
「ランタンを持っていたわね」
 佳菜美がささやくように言った。
「少しだけガスを出していなさい。私が肩をつかむのを合図に火をつけるのよ」
 由泰は工具を地面に置いた。足音が数メートル先で止まった。ヘッドランプの影で顔はよく見えない。
「こんなところにあったとはな」
 聞き覚えのある男の声だった。
「そのレンチを渡すんだ」
「叔父さん」後ろにいた佳菜美が前に出た。
「由佳里(ゆかり)」男が驚いたように言った。と同時に由泰は声の主が本田であることに気付いた。
「なぜここにいる。今までどこに隠れていたんだ」
 由泰は佳菜美の方を見た。
「私は菅江佳菜美じゃないわ。私の名前は本田由佳里。あの人の姪なのよ」
「本田由佳里……」
「叔父さんに聞きたいことがあるの。広瀬さんは奥様の病気のことを知ってS市へ帰ろうとしたわ。叔父さんが迎えに行って家に連れて帰ったはずなのに、広瀬さんはF湖で発見された。始めは日下の犯行だと思ったわ。でも広瀬さんに接触できたのなら、なぜ日下は由泰君を誘拐する必要があったのか。エクロジャイトが広瀬さんのポケットから出て来たと聞いて、疑念が確信に変わったわ。あれは叔父さんが持っていたはず。広瀬さんが亡くなる直前まで一緒にいたのは叔父さんじゃないのかしら」
 どういうことなのだ。本田が父親の死と関係あるのだろうか。由佳里は由泰の方を向いた。
「本田家は代々この辺りの地主なの。私の家もこの近くにあってね、あのエクロジャイトの玉は私が作ったのよ。山でガーネットの結晶がきれいに出ているものを拾って磨いたの。二つ作ったけど広瀬さんが欲しいと言ったからそのうちの一つを渡したの」
「いいからそのレンチを渡すんだ」
 本田はピッケルの先端が尖った方を向けて構えた。そしてゆっくりと由泰と由佳里の方へ向かって近付いて来た。
「もう後戻りはできない」
 本田は自分に言い聞かせるように呟くと、ピッケルを振りかざした。その時、由佳里が由泰の肩をつかんだ。由泰はランタンに着火しガスつまみを最大まで回した。まばゆい光が辺りを照らす。本田が一瞬ひるんだ。その隙に、由佳里は本田に近づいてピッケルをたたき落とした。そして、本田のあごを肘で突いた。本田は後ろに飛ばされ腰から地面についた。由泰はピッケルを拾った。苦しいほど鼓動が早くなった。頭に上った血で目が回る。由泰はピッケルを本田に突き付けた。
「なにがあったんだ」
「由泰君、やめなさい」
「言え、言うんだ」
 由佳里が本田の前に立ちはだかった。その後ろで本田が呻くようにして声を絞り出した。
「広瀬には本当にすまないことをした。あんな騒ぎになるとは思わなかったんだ。なぜか鉄塔が倒れてしまった。四十メートル以上の風に耐える鉄塔だ。四本のボルトを抜いたぐらいで倒れるはずがなかったんだ」
 由泰の身体から一瞬力が抜けた。すかさず由佳里がピッケルを取り上げた。
「遠仁はひどい会社だった。発注側とほとんど交渉しないで、値段や納期の無茶な要求をそのまま下請けに押し付けていたんだ。みんなうちと同じかそれより小さい会社ばかりで、ぎりぎりのところで仕事をさせられていた。私は同じ立場の同業者に声をかけて、直接請け負いたいという話を西電工さんに持って行こうとしたんだ。だがこれは遠仁にとっては許せないことだ。すぐに止めろと言って来た。我々の窮状を訴えたが全く取り合ってくれなかった。じゃあせめて仕事の単価を見直して欲しいと言ったが、逆に、来年度はさらに安くしろと言われた。別の仕事を探すにしてもこの田舎では簡単には見つからない。毎日のように遠山からどうするのかはっきりしろと催促があった。そのうちガラの悪い若いのが事務所を訪れるようになった。難癖をつけては暴れる。全く仕事にならなかった。警察を呼ぼうかと思ったが復讐が恐ろしかった。遠仁は暴力団とつながりがあるという噂もあったんだ。社員二十五人の生活がかかっている。単価をさらに安くして遠仁の下請けを続けるしかないと思った。そんな時、広瀬が事務所に顔を出した。その当時、あいつはS市火力線の冗長化工事の調査で西電さんの現場に入っていたんだ。広瀬は遠山のやり方に憤った」
 本田は黙り込んでしまった。
「それからどうしたんです」
 由泰は本田に詰め寄った。由佳里は横から抱えるように本田の肩に手を置いた。
「叔父さん、由泰君はとても辛い思いをしてきたのよ」
 本田は頷いた。そして、静かに語り始めた。
「広瀬が現場で聞いたことを話してくれた。その一月前、遠仁が保守を担当している鉄塔でボルトが抜かれたまま放置されていてそうだ。遠仁は事業者の西電さんから厳重注意を受けたらしい。いい気味だと思ったよ。奴等は短納期で無理をさせられる単発工事は下請けにやらせて、継続して収入がある保守は自分たちでやってるんだ。ちょうどその数日前にはアメリカで鉄塔のボルトが抜かれて倒壊する事件があったらしい。特別に警戒するよう現場に通達が出されていたそうだ。私は、ここでまたボルト抜けが起きると遠仁の信用は完全に潰れるだろうと笑った。冗談のつもりだったが、広瀬が真剣な顔になった。ボルトを数本抜いても竜巻でも起きない限り倒れることはない、誰も傷つけずに遠仁を追い出すことができるかもしれないと言い出した。気が付くと私たちは真剣にボルトを抜く相談を始めていた。ターゲットは遠仁の保守と西電さんの視察の日程がわかるS市火力線だ。保守の直後に抜いて視察の時に発見してもらえばいい。そして二月二十日の午前二時頃聖人寺山に登った。繁みをかき分けて鉄塔の下まで行った。そしてほとんど手探りで四本だけボルトを抜いて、逃げるようにその場所から離れたんだ。だが朝になると後悔した。広瀬も同じだった。夜、もう一度聖人寺山へ行って直してこようという話になった。だが、その日の午後に鉄塔は倒れてしまった」
「この二本のレンチはその時のものですか」
「一本は広瀬が現場で見付けた物だ」
「一本は──?」
「広瀬はすぐに現場に駆け付けた。鉄塔から少し離れたところにそのレンチが落ちていたんだ。警察はまだ来ていなかった。あいつは自分たちが落とした工具だと思って、それをこっそり持って帰った。だが、後で工具箱を確認すると自分たちのレンチはあった」
「じゃあ、誰のものなんですか」
「わからない。そんなことより事態が悪くなって、落ち着いて考える余裕がなくなった。数日後には、日下が広瀬を出せと言って怒鳴り込んで来た。奴等は気付いたのかもしれない。私はすぐに広瀬を隠すことにした。レンチは二本とも広瀬に持たせることにした」
「叔父さんから助けて欲しいという連絡があったの。広瀬さんと隠れる場所を相談したわ。エクロジャイトを渡したのはその時よ。私はコンビニの前で広瀬さんをワゴン車に乗せて、N市まで連れて行ったの」
 由佳里は静かに語り始めた。
「私は合気道の師範をしているから、広瀬さんの家族を守って欲しいと頼まれたの。日下の動きが気になるからね。広瀬さんはこの黒山山系の山小屋やB銅山の遺跡を転々として過ごしたのよ」
 父親の姿が思い浮かんだ。家族にさえも理由を告げずに身を隠さなければいけなかった。その心情を思うと胸が痛んだ。
「あなたたちの行動は見ていたわ。B銅山で会ったのも偶然じゃないのよ。第二通洞はわざと鍵を開けておいたの。そしてあなたたちがトンネルに入った後、目立つように赤い雨具を着て入り口に立って鍵をかけたの。そして、しばらく時間をおいて助けに行った。もちろん雨具を脱いでね。怖い目に遭えばもうここへ来なくなると思ったのよ。なぜB銅山を思い付いたのか不思議だったけど、理由を聞いて納得したわ。広瀬さんがエクロジャイトを車に残したのは、やっぱり家族が気掛かりだったからだと思う。家族に失踪する理由を説明できないし、警察が車を調べるからはっきりとしたメッセージは残せない。家族なら以前はなかったそれに気付くと考えたのね。生きているから心配するなという意味かもしれないわ。叔父に由泰君が来たことを伝えたら、叔父もエクロジャイトの玉が欲しいと言うので渡したわ」
「なぜ菅江佳菜美と名乗っていたのですか」
「私は雅樹さんの恋人だったの。あの時、あなたたちに本当の名前を教えるわけにはいかないから、思い付きで、雅樹さんのお姉さんを名乗ったのよ」
 由佳里は悲しそうな顔をした。
「あの人は自分から方々へ出向いて競争力のある業者を探していたわ。その方が会社のためになるという信念があったのね。私はそのころ叔父の事務所で働いていた。雅樹さんは何度かうちの事務所に訪ねてきた。話しているうちに二人とも山が好きだということがわかって一緒に山へ出かけたの。それから何度も食事に誘われて、気が付くと好きになっていたわ。私はクライミングはやらないから週末は付き合えなかったけどね」
 本田は思い出すように言った。
「菅江さんがいろいろと働きかけてくれたおかげで、西電工さんから直接請け負うことができるかもしれないと考え始めた。実際S市火力線の保守業務は提案させてもらったよ。ところが遠仁がそれに文句を言ってきたんだ。ある日、日下がすごい剣幕で怒鳴り込んできて、S市火力線はうちの仕事だから手を出すな。今まで仕事を出してやった恩義を忘れたのか──と言った。うちから提案を持ち込んだ訳ではない。引き合いがあったから提案したんだ。そう言うと日下は帰っていった。数日後に菅江さんが自殺したという話を聞いたんだ」
「あれは本当に辛い出来事だったわ。亡くなる二週間前に会った時は自殺するような雰囲気はなかった。叔父と一緒にお葬式に参列した後一人で泣いた。その後、叔父の会社を辞めて実家に帰ったの」
 由泰はようやく落ち着いてきた。
「それで、父はどうなったのですか」
 由佳里は本田を見た。ランタンのガスが吹き出す音が響いた。本田は静かに語り始めた。
「しばらくして由起子さんが入院した。これは伝えるべきだと思ったので由佳里に黒石に登ってもらったんだ。そうすると広瀬は帰って自首すると言い出した。あいつは隠れていたから後の騒動を知らないんだ。停電でB工業地帯の工場に大きな被害がでた。被害総額は五億円と言われている。もう隠し通すしかないと思った。夜遅く広瀬を黒石山に迎えに行き、家に送り届ける前に、F湖のほとりで話し合おうとしたんだ。エクロジャイトの玉を渡して、それをヒントに由泰君が近くまで来たと伝えた。あいつは泣きだした。由起子さんや、由泰君、彩花ちゃんにすまないと言ってね。私は家族のためにも自首するのは思い留まって欲しいと言った。しかしあいつの考えは変わらなかった」
「それで親父を……」
「勘違いしないでくれ。私は広瀬を殺したりはしない。あいつはどうしても自首すると言って、車から飛び出して逃げようとした。私は追いかけた。ガードレールのところで揉み合いになったんだ。そして、何かのはずみで広瀬が湖に落ちてしまった。叫び声が聞こえた後、固い物がぶつかった音、その後、水音が聞こえた。暗くてよく見えなかったが、道の下は急な斜面だったのだろう。何度か広瀬を呼んでみたが返事はなかった。大変なことになったと思った。すぐに助けに行こうと思ったが真っ暗で、どうやって降りればいいのかすらわからない。消防に連絡すれば事情を聞かれることになるだろう。落ち着いて考える余裕はなかった。私はとにかくその場を離れようと思った」
 カンテラの灯がかすかに揺れた。こんなトンネルの奥でも風が通るのだ。本田は眉間に皺をよせて苦しそうにしている。その時の光景を思い出しているのだろう。
「最後まで、おれは帰るんだ──と叫んでいたよ」
「親父……」
「叔父さん。今からでも遅くないわ。自首しましょう」
本田は弱々しく頷いた。三人はB銅山から引き上げた。

        24

 S市南部に広がる小さな山々が紅葉に彩られた。由泰はB銅山で本田が話した事を母親に伝えた。ベッドの上で起き上がった母親の手元には新聞が置かれている。一面には鉄塔倒壊事件の犯人逮捕が大見出しで報じられていた。あれから本田は警察に出頭し、すぐに逮捕された。由佳里も犯人を隠した容疑で調べられている。
「一人にしてくれる」
「大丈夫なのか」
「ええ」
「今日はもう帰るよ。彩花のそばについていてやりたいんだ」
「そうね、頼むわ」
 由泰は病院を出た。母親は無表情だった。由泰は彼女の気持ちがわかるような気がした。自分自身この現実をどのように受け入れれば良いのかわからなかった。家に帰ると彩花が玄関まで出て来た。今日は彼女も学校を休んでいる。
「おかえりなさい。お母さんどうだった」
「何も言わなかったよ。一人にして欲しいそうだ。でも大丈夫だよ。大人はおれたちが考えているよりずっと強い」
「うん、そうだね。あっ、そうだ。弘美さんから電話があったよ」
 由泰は弘美に電話した。
「新聞で読んだけど、そんなことがあったんだ。大変だったね」
「ああ」
「ねえ、ちょっと待ってくれる?」
 電話の向こうからマウスのクリック音が聞こえる。弘美はパソコンを操作しているようだ。突然、彼女が「あっ」という声をあげた。そして、
「話したいことがあるから今から行く」と言った。
 一時間ほどすると、弘美がやって来た。興奮で少し頬が赤らんでいる。何か発見したのだろうか。
「電話をしながら、インターネットで、二月二十日、つまり鉄塔が倒れた日の天気を調べてたんだ」
「へえ。何か分かったのかよ」
「たしかに風が強い日だったけど、風速十五メートルぐらいしか吹いていなかったみたいだね。思い当たることがあったから、すぐに崎山さんに電話した。ボルトとナットについて聞いてみたよ」
 弘美は崎山から聞いたことを話した。鉄塔を固定していたボルトは八十本。ボルト一本につき二個のナットが締められていた。外されたボルトは現場に散乱していて全て回収された。そのうち四本は頭が折れていた。ナットは八個だけ見つかった。
「そのナットにね、特徴的な傷が付いていたんだって」弘美は言った。
「らしいな」
「その傷がね、本田さんが使ったレンチと一致したの」
「へえ、そうなのか。もう一本のレンチはどうなんだよ」
「一致しなかったらしいよ。ねえ、おかしいと思わない?」
「何が?」
「なぜ、ナットが八個しか見つからなかったんだろう」
「倒れた勢いで吹っ飛んだんじゃねえの」
「私は違うと思うな。ねえ、おぼえてる?」
 そう言うと弘美は小さなナイロン袋に入ったナットを取り出した。由泰は「あっ」と声を上げた。それは以前弘美が鉄塔からの帰り道に拾ったものである。

 由泰と弘美は再び聖人寺山へ向かった。弘美は麓の駐車場で自転車を降りた。ナットを拾った場所である。
「やっぱりね。たぶん山の上までついて行くと気付かれるから車をここに止めたんだよ。お父さんたちは跡をつけられていたんだよ」
 弘美はナットを取り出して眺めた。
「じゃあそのナットは?」由泰は訊ねた。
「鉄塔のナットだと思う」
「こんなところまで飛んできたのか」
「違うよ。誰かが運んだんだよ。こんな大きいナットが百個以上もあると重たいしかさばるよね。持ちきれず落としたんだと思うよ」
「誰が運んだんだ?」
「誰かはわからないけど、ボルトを抜いて鉄塔を倒した犯人が、犯行をお父さんたちに押し付けるためにナットを持ち去ったんだよ。四本のボルトを抜いただけで、その日の午後すぐ倒れるのはおかしいよね。たぶん、倒壊した時には七十六本のボルトが抜かれていたんだと思う。頭が折れたボルトがあったよね。あれが抜かれずに残っていた四本じゃないかな。鉄塔が倒れた時に折れたんだよ」
「そうか、親父たちが四本抜いた後、誰かがやって来て七十二本抜いたんだな。そして親父を犯人にしようとした」
「ナットが残っていると傷が一致しないから、違う犯人がいることがばれてしまう。だから持ち去ったんだよ。これがあれば犯人を特定できるかもしれないね。すぐに崎山さんに持って行こう」
 その時、迷彩柄のポンチョを被った男が歩いてやって来た。カーキ色の帽子を被ってサングラスをかけている。男は由泰たちがいる駐車場の前で立ち止まった。
「そのナットをよこせ」男が言った。そして、サングラスを外した。
 日下だった。由泰は弘美をかばうように立った。
「よこせと言っているのが分からないのか」
 日下は近づいてきた。由泰はポケットに入れているエクロジャイトを握りしめた。日下が目の前に立った。
「このくそガキが」
 日下は由泰を睨んだ。
「何のためにこんなことをするんですか?」後から弘美が言った。
 一瞬、日下が気をとられた。その隙に由泰は思い切って身体をぶつけた。日下は不意を突かれてよろめいた。すかさず、由泰は日下の腰を両手でつかんで前へ押した。二人は倒れ込んだ。由泰は上から渾身の力で日下の首を絞めた。日下の顔が真っ赤になる。日下はもがきながらもの凄い力で絞めている手を引きはがそうとした。爪が手の甲に食い込んでくる。しかし、痛みは感じなかった。
「ごふ」日下が低い声を出した。そして、白目になり表情が変わった。ひきはがそうとする手の力が弱くなっていく。
「こいつさえいなければ。親父が死ぬことはなかった。こいつさえ……」
「由泰、やめて。それ以上やるとあぶないよ」
 弘美が後ろから由泰の肩をつかんで引いた。
 由泰は我に返ったように手の力を緩めた。日下は気絶している。由泰は立ち上がった。弘美は日下の口元に耳を近づけ呼吸を確かめた。
「大丈夫。気絶しているだけだと思う。警察と救急車を呼ぼう」
 その時、突然日下が目を覚ました。そして、弘美の腕をつかんで立ち上がった。
「この野郎」
「きゃっ」
 日下はポケットからナイフを取り出し弘美に突きつけた。弘美は無表情だった。しかし、手が震えている。日下は弘美を睨んだ。
「やめろ」由泰は叫んだ。
「何のためかだと……」
 日下は怒りに震えた声で言った。そして、弘美の首のところにナイフを押し付けた。
 弘美の目から涙が溢れ出てきた。恐怖で身体を震わせている。
「やめろ。彼女はお前を助けようとしたんだぞ」
「なんだと」
 日下が驚いた表情を見せた。
 弘美は泣き出してしまった。その時、少し離れたところでパトカーのサイレンが鳴り響いた。日下は由泰の方を向いた。そして、一瞬だけ口元に笑いを浮かべた。ナイフを突きつけていた手は下ろされている。日下はゆっくりと弘美の手を離した。弘美は駆け出すように日下から離れた。由泰は弘美に駆け寄った。
「大丈夫か?」
 弘美は頷いた。
 日下は聖人寺山の方へ走り去った。
 数台のパトカーがやって来た。先頭から崎山が降りてくる。
「日下は?」
「聖人寺山の方へ逃げました」
「聖人寺山だ」
 崎山は叫ぶと再びパトカーに乗り込んだ。パトカーは、けたたましいサイレンの音を響かせて聖人寺山を登っていった。

        25

 日下が逮捕された。
 崎山は聖人寺山を登って追いかけた。日下は修復された鉄塔をじっと眺めながら立っていたらしい。特に抵抗する様子も無かったそうだ。
 由泰と弘美はS警察署で事情を聞かれた。
「拾った場所が現場から離れていたから仕方ないとも言えますが、基本的にこういう物はすぐに持ってきてくださいね」
 崎山は由泰と弘美を叱った。
「ナット一個でわかるんですか?」弘美が訊ねた。
「何がです」
「犯人が使用した工具です」
「ナットについた傷よりもむしろ指紋の方が期待できますね。こいつは事故後そんなに経たないうちに拾ったものですよね。袋に入れて保管されていたので指紋が残っていると思いますよ。その上で犯行の立証を助けるために傷も調べます」
「この傷だけでわかるというのはすごいなあと思っていたんです」
 弘美は興味津々である。
「実は結構手間がかかります。こういうのを工具痕というのですが、工具の状態や使い方で変わります。ある工具が使われたということを立証するには、その工具特有の傷を見付けなければいけません。全く同じ型のナットを何個か用意し、実際にその工具で緩めてみます。そして、出来た傷を比較顕微鏡で詳細に確認します」
「でもそれだけではある工具が使われたとは断定できないですよね」
「その通りです」
 崎山は感心したように弘美を見た。
「その傷の特徴が、本当にその工具固有のものなのか調べなくてはいけません。同じ傷を付ける工具がないとは限らないですからね。世の中にある同種の工具、同じ製品でも生産ロットによって型が違いますので、数多くの工具を集めて試験します。本田が外した八個のナットについては、特徴的な傷なので、すぐにある特殊なレンチに限定されました。これは非常に高価なもので、一般には流通していません。国内のメーカも一社だけでした。可能性がある工具を限定できたのが幸いでした」
「工具痕も指紋と同じように証拠になるんですか」
「疑わしい工具が限定される場合には有力な証拠になります」
 弘美は感心したように頷いた。
 警察署を出ると外は真っ暗だった。由泰は弘美を家の近くまで送っていった。街灯が彼女の瞳の中で星のように輝いた。
「あのさ……」由泰は何かを言いかけて口をつぐんだ。
「なに?」
「いやなんでもない。勉強、がんばれよ」
「うん。じゃあまた」
 弘美は彼女の家に向かって走っていった。

        26

 二週間後、由泰は警察に呼び出された。
「お呼び立てしてすいません。由泰さんは被害者ですし、お父さんの稔さんにも関わる事件ですので、説明した方が良いと思いまして」崎山は言った。
「ありがとうございます」
「先日持ってきていただいたナットは間違いなく鉄塔を固定していたものでした。そして日下の指紋が検出されました」
 ここでも、日下が関係していたのか。由泰は激しい怒りの衝動にとらわれた。
「また、ナットの工具痕が本田が持っていたレンチと一致しました。あの二本の、もう一本の方です。本田はそのレンチは誰の物なのか知らないと言っています」
「父が現場で拾ったものだと言ってました」
「ええ。特殊な物でしたのですぐに主が割れました。製品を調べると一般には流通してません。メーカが直接ユーザに納品したものでした。刻印されている製造番号から遠仁電設に納品されたものだということがわかりました」
「日下がそれを使ってボルトを抜いた可能性が高くなったということでしょうか」
「そうです。追及したところ犯行を認めました。日下と、誘拐の時の二人も犯行に関わっていました」
 崎山は話を続けた。
「あの日の深夜、日下から指示を受けた加藤と西嶋は、本田電工の敷地にある倉庫に放火するつもりだったようです。どうも遠仁電設と本田電工はなにかもめていたらしい。日下は見せしめのためにそのようなことを考えたようです」
「本田さんは毎日のように嫌がらせを受けていたと言ってました」由泰は本田から聞いたことを話した。
「二人が本田電工に行くと事務所の照明が点いている。しばらく隠れて様子を見ていると本田が稔さんと二人でどこかへ出かけた。すぐに日下に連絡すると、跡をつけろという指示だったそうです。二人は本田の車を追いかけた。車は聖人寺山を登っていく。二人は麓の駐車場に車を止めました」
「近づくと気付かれるからですね」
「そうです。跡をつけているのを気付かれないよう、車を麓に止めたそうです。あの山は高さが百メートルそこそこですので、歩いても大したことはありません。しばらくして本田の車が止めてあるところまで来た。そして辺りを見回すとヘッドランプの灯が鉄塔周辺の林の中で動いているのが見えた」
「どうして警察に通報しなかったのでしょうか」
「放火しようとしていたわけですからそういう考えはなかったと思いますよ。なぜ本田の跡をつけていたのか尋問されると困りますよね」
 崎山は話を続けた。
「二人が身を潜めて見ていると本田と稔さんが車に戻り走り去った。二人は早速鉄塔を見にいったそうです。そしてボルトが抜かれているのを発見し日下に報告した。日下はすぐに工具を持って駆け付けた。そしてしばらく車の中で待機した後、二人を引き連れて鉄塔のところまで登り七十二本のボルトを抜いた。以上が鉄塔が倒壊した日の日下たちの行動です」
「なぜ僕を誘拐したのですか」
「それについても供述を始めました。我々は事件後すぐにあの鉄塔に出入りする全ての業者から工具を押収しました。その時に日下は犯行に使用したレンチの一本が無いことに気付きました。もしや現場に落としたのか、すでに警察が拾っているのではと考えたそうです。相当焦ったようですね。この想定外のミスが無ければ、すぐに本田と稔さんを締め上げて警察に自首させるつもりだったそうです。ところがそれどころではない。奴は逃げる準備までしていましたよ」
「…………」
「ところが時間が経っても捜査の手が伸びてこない。もしかするとわれわれ警察が工具を拾っていないと考え始めたようです。そして、倒壊直後に現場に入った人間を調べると、稔さんの名前があった。日下は稔さんが工具を持ち去ったのではないかと考えました」
「他の人が見付けたのなら持ち去ったりしないでしょうね」
「そうです。事実が明らかになると困る人間が持ち去ったはずだ。日下はそのように考えたようです」
「それで日下は父を必死になって捜していたわけですね」
「そうです。自分の工具を取り返して、本田と稔さんを犯人として我々に突き出したかった。ところが稔さんがF湖で発見されます。直後に、本田を拉致しようとしたようですが、本田は自分の身の危険を感じていましたから隙を見せなかった。稔さんのご家族を狙ったのですが、由起子さんは入院されてますし、彩花さんはおじいさまが送り迎えをしていた。そこで由泰さんが誘拐されたわけです」
 最後に崎山は付け加えるように言った。
「F湖に落ちていた塗膜片が本田の車と一致しました。道の端に車を止めて話していたところ、お父さんが逃げようとした。その時、勢いよく助手席の扉を開け、ガードレールにぶつけたのでしょう。湖岸側の車線に車を止めたことになります。これはN市の方から車を走らせたという本田の自供と一致します」
 家族の所へ帰ろうとして踏み出した一歩により死んだ父親。その無念を思うと悲しかった。由泰は涙が溢れそうになるのを堪えた。そして礼を言うとS警察署を後にした。
 ほどなく、日下たちが菅江雅樹の死にも関与していたことが明らかになった。菅江雅樹は手下の加藤に監視されていた。そして鉄塔を調べていた時に、駆け付けた日下に背後から押さえつけられ、麻酔薬を吸引させられたらしい。日下と加藤は脚立を使って意識を失った菅江を抱え上げ鉄塔に指紋をつけた。そして靴を脱がせて鉄塔の下に並べて置き、ロープで吊り上げた身体を上から突き落としたのである。
 調べを進めるうちに奇妙な事実が判明した。加藤と西嶋の活動に対して、遠仁電設から資金が出ていなかったのである。これだけの重大な犯罪を手伝ったのだから、相応の報酬が渡されてしかるべきである。しかし、日下が給料のなかから小遣い程度のお金を渡していただけだった。警察は三人の関係をいぶかしんだが、日下と加藤が中学生の頃からの付き合いだということしかわからなかった。捜査は続けられているらしい。
 遠山も脅迫の容疑で逮捕された。しかし、一連の事件に遠仁電設の組織的な関与はないだろうということになった。

        27

 玄関に入ると彩花が飛び出してきた。
「お母さん」
 今日、母親が退院したのだ。久しぶりに広瀬家に家族がそろった。仏壇がおかれた和室には稔の遺影が飾られている。母親は仏壇の前で手を合わせた。長い時間、母親はそうやっていた。
「そっとしておこう」兄妹は顔を見合わせた。
 しばらくして、母親がリビングに戻ってきた。彼女はピアノの前に立った。
「彩花、ちゃんとピアノの練習してる?」
「聞きたいことがあったの」
 彩花はバッハのインベンションの楽譜を持ってきた。
「あのね、ここのトリルが上手く弾けないの」
 そう言うと甘えるように母親の肩に寄り添った。久しぶりに広瀬家にピアノの音が響いた。
 それから少しずつ生活が元通りになっていった。由泰も彩花も普通に学校生活を送っている。由泰はようやく進路について考え始めた。ボルトを抜いたのは許されない行為だが、事件の背景が明らかになるにつれ広瀬家に同情を寄せる人が増えた。本田電工は本田の兄が引き継ぎなんとかやっている。
 秋はさらに深まっていった。冬の足音が聞こえてくる。北の方では初雪があったらしい。街路樹の銀杏が黄色に染まり澄み切った青空に映えた。ある日の午後、由泰は弘美を聖人寺山に誘った。自転車を押して登ると鉄塔が見えてきた。二人は自転車を止めて眺めた。白銀の骨組みが青空の下で輝いている。
「おやじは、逃げている間、何を考えていたのかな」
「安っぽい言い方だけど……」
 弘美は由泰を見つめた。
「ずっと由泰のことを考えていたんだと思うよ。B銅山まで捜しに来てくれたことも伝わったじゃない」
「ああ」
 由泰はポケットの中にあるエクロジャイトを触った。
「お父さんの話をしてくれたよね。専門家になれって言ってくれたんでしょ」
 由泰は頷いた。
 弘美はにっこりと笑った。そして、両手を大きく伸ばして言った。
「さあ、私も勉強頑張るぞ」
 二人の眼下にはS市の街並みが広がっていた。


     了
2008/04/15(Tue)00:02:52 公開 / プラクライマ
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