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『紋章術士』 作者:呪炎 / リアル・現代 SF
全角61567文字
容量123134 bytes
原稿用紙約185.8枚
紋章術士。それは、魔術とも神の力とも異端視される世界の異物。社会とは隔離された「魔」が蔓延る世界。三ヶ月前に裏社会とも呼ばれる世界を垣間見た少年「速水御影」は、己の目的遂行のために通称「ソノミセ」と呼ばれる集団に加わることになるのだが……
《紋章術士》



<舞台裏>

 歯車の噛み合う音がした。
 
「あれ? 俺一体……」
 頭が痛い。
それが始めに頭に浮かんだ言葉だった。
 体全身の感覚がダルイ。そこで初めて俺は、自分がテーブルに体を預けて眠っていたことに気が付く。
 頭蓋を抑えながらも、緩慢とした動作で上半身を起こす。
 目覚めたばかりで霞む視界が徐所に鮮明さを取り戻してゆく。すると俺の目の前には小奇麗な喫茶店の店内が写され、アンティークランプに照らされた内装が俺に不思議と懐かしい気持ちを抱かせた。
 どういうことだ?
俺はこんな店知らない、どうして懐かしいなんて思う。
「あら、以外と早いお目覚めね」
 困惑しながら視界を回す俺に、聞きやすい女性特有の高いソプラノが耳に届いた。
「おはよう。そして、おはこんばんにちは」
 カウンターから顔を見せたのは、腰まで伸ばした長い群青色の髪を翻す女性。そんな彼女は俺の姿を確認するなり笑顔で可笑しな挨拶をしてきた。
「ごめんごめん。ここだと時間の感覚なんて無いから、適切な挨拶なんて存在しないのよ。クセみたいなものだから気にしないでね」
「えっと、時間の感覚が無い?」
「詳しいことは説明するから。ちょっと待ってねん、今最高の紅茶を淹れてあげる」
 それだけ言うと彼女は再びカウンターの奥へと姿を消してしまった。
 自分に何が起こっているのだろうか。落ち着いて状況を整理しようと、俺は立ち上がり店内を見回す。
 すると不審な点が一つ。
「なんでカーテンを閉め切っているんだ?」
 店内には簡易的な木製のテーブルが四つほど。それは全て店内の窓際に置かれていて、客がお茶を楽しみながら、外の風景を見られるようにと配慮されていることが見て取れる。
 にも関わらず、店内の窓は全て閉切られているのは不自然に感じられた。
 自分の寝ていたテーブルは丁度出入り口から数えて二つ目。すぐ近くのカーテンに手を伸ばすのに迷いは無かった。
 風が通り過ぎる音に似たカーテンレールの音が響く。
 それどそこには……何も無かった。いや、今の表現は適切では無い。正確に言うなら。
「真っ暗だ。マジで、ここは何処だよ」
 窓に墨でも塗っているのだろうか。
 窓を開けようと試みるが、鍵が掛かっているわけでもないのに、どれだけ力を加えようと窓が開くことは無い。俺の挑戦を嘲笑っているみたいに、一ミリたりとも動く気配が無かった。
「無駄だよ。今の君では、どんなに頑張ってもね」
 背中に声を掛けてきたのは先ほどの群青髪の女性で、やわかな笑みを浮かべながらカウンターを軽く叩く。席に座れという意思表示だろう。湯気を漂わせるポット、数種類の小瓶、ピンクの花柄模様のカップセットを載せたトレイを片手に、ボーイ姿の女性はそこに悠然と存在していた。
 窓との格闘をやめて、大人しく席につく。
「紅茶は苦手な人? オレンジジュースなら出せるけど」
「大丈夫。それより聞きたいことが山ほどある」
「残念。最初に質問するのは私からね」
 ポットからカップへと紅茶を注ぎながら、彼女は俺の唇に人差し指を当てて言葉を遮る。
 そこで初めて気が付いた。彼女がとんでもない美人だということに。
 髪と揃えられたように、俺を見つめる彼女の瞳もまた蒼色に染まっており、そこには間抜けな顔をした自分の姿が映されていた。
「君は一体誰でしょう?」
「は?」
「思い出せるかな?」
 腕を組んで俺は考えてみる。だけど、頭の中は真っ白で何故か自分のことを思い出そうとしても浮かんではこない。自分の名前が、己の存在を定義付けるものが、俺には欠落していた。それだけではない。どれだけ頭を絞ってみても、この喫茶店で目覚める以前の記憶が一切思い出せなかった。
 今思えば、これは尋常じゃないだろう。
何故、彼女に指摘されるまで疑問に思わなかった。
「…………」
「思い出せないのね」
「ああ、その通りだ」
「そっか……大丈夫だよ。ここに来る人は皆そうだから、そのために私が居るの」
「ここは何処なんだ? 俺は誰なんだ。アンタは一体なんなんだ?」
 彼女が出してくれた紅茶を手にしながら、俺は呟くように言葉を口にする。表では平静を装っているが、内心かなり動揺していて、俺が目覚めてから真っ先に飲み物を出してくれた彼女に、今は感謝の念が湧き上がってくる。
 吐き気を……押さえ込む物が欲しかった。
 口にした紅茶の味は薄めで、紅茶独特の酸味は感じられない。
 一気に一杯目を飲み干すと、乱暴にカップをソーサーに置いた。
「二杯目はいかがですか? お客様」
「お、お願いします。今度はミルクティーで頼めるかな」
「甘いの好きなの?」
「今は、糖分が欲しい。気持ちを落ち着けないと、自分がどうにかなってしまいそうで……めちゃくちゃ怖いよ」
「私の名前は、うーん。君が自分の名前を思い出せないのなら、私も偽名を使うとしましょうか。それで平等。呼び方は、君に任せるから」
 ミルクの入った水晶の小瓶。そこからミルクを丁寧な動作でカップへと円を描くように落す彼女の姿。俺は彼女の珍しい蒼髪に目を向けた。
「蒼髪……と呼んでもいいか?」
「あはは、やっぱ珍しいと感じるよね。この世界は記憶を失う場所。そしてこの店は失った記憶を保存、復元させる場所なんだ」
「記憶を失なわせる世界。記憶を取り戻す店……まるでファンタジーだな」
「窓の向こうを見たでしょ? あの闇の中には、色々な人の記憶が溶けては消えているの。私は偶然この世界に迷いこんだ人々に、その人の記憶を話し伝えているだけ。過去の私が何を望んで、こんな場所に店を開いたのか。今では自分で書いたメモを読んでおかないと思い出すのも苦労するけどね」
「蒼髪も、自分のことを思い出せないのか。でも記憶の補完はできているんだろ?」
「それも穴だらけよ。なんせ自分の記憶を書いたメモを置いた場所まで忘れるんだから、それに君のように他の世界から来た人。つまりお客様の記憶まで頭に流れ込んでくるから、もう大変」
「来客者の記憶が頭に流れ込むだって? 蒼髪は超能力者か何かなのか、ということは俺の記憶も……」
「もちろん」
 蒼髪は無邪気な笑顔を向けて、ズボンのポケットから一冊の手帳を取り出した。予めペンを挟んであったページを開き、手馴れた動作で捲ってゆく。
「君の記憶である確認は取れたわ。記入されている外見とも一致しているし、最後のページまで記憶が書き詰められているから、間違いないわね」
 頭の奥そこで、何かが音を立てている。
 それが何なのか今の俺にはわからないが、答えは蒼髪の手帳に記されているのだろう。
 だから、あえてソレを無視する。答えが出るまで、全ての不可解な現象に目を瞑る必要があると……歯車の音は言っている気がしたから。
「それでは始めましょう。喫茶『ソノミセ』へのご来店、誠にありがとうございます。それではこれより、お客様の記憶を復元させて頂きます」
 その時、蒼髪の額に見たことがない紋様が浮かぶ。眼光は鋭くなり、ページを捲る手先が淡い青色の光りに包まれて、そこで俺はある言葉を脳裏に浮かべることができた。

 この女、紋章術士だ。

「君の居た記憶は、二千五十年。物語は、君が一人の女性を失うことから始まる。それは生と死の別れではなく。それよりも辛く、苦しい別れ。……最終シークエンス終了。紋章術式『記憶転移』始動」

 俺は次の刹那に、凍りのように冷たい光りに包まれる。記憶が体に突き刺さり、膨大な情報が頭に書き込まれてゆく。
 頭が割れそうなほどの衝撃と激痛が襲い。痛覚に心が折れそうになる。
 それでもまだ、俺の裏側では歯車の音が響いていた。













血の匂いが夜の街に充満していた。

 炎上する町並み。親しんだはずの景色は黒く塗りつぶされてゆく。
 そして、その夜。一人の少年が抱いた絶望は、誰にも理解されず。
 心に潜んだ傷跡は、誰にも打ち破れない決意へと変革しようとしていた。
「ま…てよ」
 そこは少年と一人の少女が学校帰りによく立ち寄る駅前の公園だった。
 真夜中に吹く風が冷たく体に浸透している。
 血だらけの体を震わせながら、彼は声にならない一言を呟くだけで精一杯だった。四肢が動くことなどなく。痛覚に塗れた全身はピクリとも反応しない。
血の味だけが口に広がっていた。
 血の黒に変色した学生服。うつ伏せに倒れこむ少年の周りには、幾重もの死体が存在する。その場に生命の息吹を宿しているのは数えるほどしかいない。少年と、彼に背を向け歩き去る二人。
たったそれだけだ。
 高層ビルの合間を縫りながら、惨状を照らし出す月光。
 青い光が少年の体を貫くように、彼の心には痛みと孤独だけがあった。
「どうした? まさか決意が揺らいだわけではあるまい」
 重苦しい威圧感を纏う男の声。だがそれは少年に向けられたものでは無い。
漆黒のレザーコートに身を包む男。
この血の海を作り出した張本人は、並んで歩んでいた少女に問いかけた。
長い黒髪を左右二つに結んだ少女は言う。
「その方が面白いかもね。だけど残念ながら不正解」
 彼女の視線は、力尽き動くこともできない少年へと向けられる。
 ガラス球のような澄んだ瞳に、昨日まで友人として過ごした存在が浮かぶ。
 彼女は、
「じゃあね御影。色々と楽しかった。その命は私からの誕生日プレゼント。大事にして…御影の幸せを心から祈っている」
 それだけ言い残すと、男と共に闇夜に姿を消した。
 気を失いそうになっても少年は瞼を閉じようとしない。眠ってしまえば、どれほど楽になるだろうか。しかしできなかった。
 見てしまった。
あれを見なければ、彼女の言葉を素直に受け入れられたのに。
 鼻を霞める血の匂いが憎らしい。吐き気が何度も胸を襲い、その度に悔しさを誤魔化すように嘔吐を繰り返した。
「ふざけんじゃねぇ……泣きながら別れの言葉なんて言うな、あの馬鹿」
 彼女は自分でも気が付いていなかったのかもしれない。
頬を一瞬だけ、流れた一滴の水滴を。
少年は途切れそうになる視界の傍らで目撃してしまって……それを許した自分に止めどない怒りが込み上げてきた。
 あの涙は、どんな意味があったのだろか。
 それを想うだけで少年は安息など求めて良いはずがないと……奥歯を噛み締める。
納得できない。
彼女の清らかな雫の意味を知るまでは…
少年は一人。彼女の向かった場所へと、自分も進むことを選択した。
どんな結末が待っているのか。彼女は自分の問いに何と答えるのか。
予測も付かない。到達点も無くただ遠い道。
それでも後悔だけはしたくないと願う。
「君はそれで良いんだね」
 少女と男が消え去った後。一人残された少年に誰かの声が聞こえる。

 一度は閉じていた瞼を再び開くと、そこには赤い髪が印象的なフードを被った男がいた。
 男は吸い込まれそうな深い瞳で少年を見据え、自然と手を差し伸べる。

「新しい悲劇を生むかもしれない。彼女は決して君に振り向いてはくれない。君を待つのは、平穏からは遠く離れた地獄だけだ。それでも……」
「あぁ……俺は、知りたい。どんなに泣こうが喚こうが何も変わらない。現実はそこにある。だから、それから目を背けるのは卑怯だと教えられたから」
 意味を上手く表現できない幼稚な言葉。しかし少年は無理矢理でも言いたかった。
 自分がやるべきこと。やりたいこと。やり遂げなければ成らないことを。
「分ったよ」
 知らない誰かは優しく答える。それが始まり。
 速水御影という少年の小さな決意。そして大きな後悔を清算するための永き道の序章。
「さぁ……行こうか」
 御影は頷き。決意を込めて強くその手を取った。

第一章・一幕「コピードローン」

待ち合わせの時間を忘れ、目が覚めた時には大体のことは手遅れになっている。
電車の座席で生まれる惰眠の誘惑に負けた瞬間から、こうなることは予測がついていたはずなのに。
俺は実際、想定内の状況に直面しながらも酷くテンパッていた。
 終点、愛波〜愛波〜ご乗車のお客様はお忘れ物のなさいませんように……
 普段なら気にも止めない聞き覚えの無い駅の名前を連呼するアナウンス。それがやけに頭に響くのは自業自得の初期症状に他ならない。
 電車内には俺の他には乗客はいない。
俺を無視して横切る人の足音で眠りから目を覚まして、寝ぼけた目でそれを眺めていたのだから当たり前だ。到着予定の駅を乗り過ごしたと理解できたのはそれから数分。それだけの時間を置いて、俺はようやく自分が寝過ごしたことを後悔できる余裕を取り戻し、途端として冷静を破棄してしまった。
 だってそうだろう。駅の乗り過ごしなんて誰しも一度は経験する人生の試練だ。自分の住み慣れた土地を離れて、新しい場所で、今までと全く違う生活を始めようと旅立った。緊張していた中で乗りなれた電車の揺り篭のような心地よい振動で安心してしまったのも仕方ないだろう。
 でもさぁ……
「何やってんじゃ俺はぁぁぁぁぁ!」
 一言叫ばずには居られないわけよ。これが。
増して周りには冷たい視線を向ける観衆は一人もいないしな。
「君、良いから外に出なさい」
 駅員が冷静に俺に一言告げた。
テンポもキレも良い突っ込みだね〜この男、できる。てーか存在したよ……冷たい視線を向ける観衆。観衆じゃ複数形だが、この際は保留にしておこう。
 追い出されるように俺は駅のプラットホームに降り立つ。深夜の冷たくて寂しい空気が全身を包み込み、夢に見た光景を嫌でもフラッシュバックさせてくれた。
「気分最悪。おまけに状況も最悪。最悪のフルコースってか? 俺の予想じゃメインはまだテーブルには到着していないと見た。次は何が起きる?」
 俺に休息を与えてくれた電車に別れを告げ、さっさと余分な運賃を改札口で支払う。
終電はとっくに終わっていたから、とりあえず今夜の宿を探さなければならない。
 駅を出た俺が、最初に目にしたのは殺風景なコンクリートジャングル。特有のアーケード通りと、その前に簡素な公園があった。大きな噴水の水は止められていて。そのさらに向こう側にはまだ眠りをしらない町のネオンの輝きが所々に目立つ。
「ここにも公園があるのか。噴水があるとは豪華だな」
 今日のところは寝る場所に困ることはないだろう。
幸い財布には若干の余裕があるし、一晩くらいホテルで過ごしても問題ない。
 それから受け入れ先との連絡も取りたい。今頃は一向に予定の駅に現れない新参者に腹を立てているはずだ。
「こういう時に携帯持っていないって不便だよな。落ち着いたら買っておかないと…」
 夜の繁華街を歩く。
終電時刻を過ぎていることもあったのか、見かける人の数も少ない。ただ静かな空気と何の変哲もない夜の珪藻だけがあった。
先ほどから一直線に進んでいるだけだが、同じ風景を何度も見たような錯覚に陥る。慣れない町並みが自然と不安感を逆撫でする。
知らない内に迷っているのではないか。
根拠も無い想像が頭を掠めては消えていった。
このような場所には嫌な思い出しかない。ハンドバックだけの手荷物が、とても重く感じ、知らない内に全身に力が入っていたことを自覚した。
「何緊張してんだよ、俺。あんなこと……二度も起きるはず無いじゃん」
 脳裏に浮かぶ惨劇の映像。血黙りに塗れた光景。
 それらを振り払うように頭上へと目を向けた。爛々と夜の星空は輝いていて、邪魔するように視界の片隅に高層ビルが生えていた。
 視界全てプラネタリウムに変えるには、今俺が立っている場所は不都合があったらしい。
「アレ、何だ?」
 夜空に一線。
 光りの筋が右から左へと流れた。
 最初は流れ星かと思ったが、それは消える直前で進路を変え、すぐ近くのビルへと降りていった。明らかに不自然なその軌道。
 アレの正体が何であるか。そんなことは分らないが、何だか嫌な予感がする。
 行動に移るのは早かった。
光が落ちた場所は目に焼きついている。いつの間にか息が上がっていることも気にならず。ただ真相の究明だけを考えている。
 分らない。アレの正体に固執している自分自身の感情が、理解できない。
 だが一つだけハッキリしていることがある。あの光りが俺という人間にとって有害であるということだけ。だったら何故それを追っている?
 分らない。
 ネオン街を横切り、大通りを経由して沈黙を保っているオフィス街へと疾走する。
 目的地の廃ビルの前に立った。走り疲れたのか両膝が小刻みに震えている。
 外側に剥き出しで備え付けられた非常用階段を使って、さらに上へと走り抜く。
 錆び付いた一段一段が悲鳴にも似た音をひねり出す。それはまるで俺の心をそのまま表しているように、不思議と親近感が沸いた。
 これ以上は危険だ。今なら引き返せる。
 そう、言っているような気がした。
 でも普通の日常に戻るなんて、もう無理だ。俺は決めたのだから……
『君を待つのは、平穏から遠く離れた地獄だけ』
 あの声を始めて耳にした瞬間から、俺は普通の日常という物を破棄している。
自分で捨てた。今更すがる理由なんか無い。
だから俺は止まること無く。躊躇することもなく階段を上り切った。
屋上では想像もしなかった光景が広がる。風が空気を切り裂き舞う。
人型の化け物と、一人の人間が殺し合っていた。

空間を切り裂くような炸裂音が深夜の屋上に響き渡る。
何度も片隅を通り過ぎる敵の鋭い鉤爪。それをギリギリの間合を保ちながら回避する一人の少女は、ただ一瞬の勝機を見出すことができず、己の身を守ることで精一杯だった。
腰まで届くほど長く伸ばされた金髪が翻り、頬を僅かに死の影が撫でた。
「くっ……」
「どうした?だいぶ疲れているようだが?」
「黙れ!」
 バックステップで距離を開き、両手に装備された水晶で象られた奇妙なトンファーで相手の爪を防ぐと、腰の捻りと研ぎ澄まされた切れを持つ強烈なローキックが相手の脇腹へと叩き込まれた。
 しかし浅い。
 狼男の外見を見せているソイツは、少女の攻撃を読みきっているのか。それとも少女自身の体力が威力を半減させているのか、いずれにしても有効なダメージを与えることはできなかった。
 厚い筋肉によって包まれた強固な体が月明かりに照らされ、牙が飛び出た大きな口は少女を嘲笑う。それは少女に死をもたらすことを確信した獣の表情。
 楽しんでいる……
 少女は一挙に距離を取り、両手に装備された奇妙な武器の片割れ、右腕のトンファーを相手に向け、静かに呟く。
「砕けよ砕け。我命ずる相殺の矛」
 彼女の右腕に浮かぶのは、奇怪な紋様。それこそは彼女が紋章術士と呼ばれることを照明する証。藍色に淡く輝く紋様は、彼女の言葉を受けるごとに光りを増す。
「デットバースト・クリスティア!(蓮殺の柱)」
 少女の持つ右片手の水晶トンファーが砕け、無数の欠片が矛となって狼男の巨大な体躯に突き刺さる。
それだけでは無い。敵の体に食い込んだ美しい水晶群は、その傷口からさらに面積を拡大し、相手の体を侵食し始める。
「無駄なことを、そのような傷ついた体での術式行使で生まれた魔術程度で俺を拘束できるとでも?」
 そんなことは百も承知している。少女の狙いは別にあった。
 広がる水晶に対して、凶悪な力を発揮しながら束縛から抜け出そうとする獣。その僅かな間、少女は新たな紋章術式を形成することに全精力を注ぎ込む。ホンの一瞬程度で良い。
 紋章に新たな輝きは宿り、周囲に展開される術式のガソリンとなるマナが補充される。大気に漂うオドが少女を中心に渦を巻き。紋章術という形を成して体現される。
「原型修正。次フェイズへと移行。固有形態『アイシング・ケンティウス』(凍結する牛射手)最終シークエンス……オールクリア」
 魔力と純粋な形成術式が少女の両手に熱く語りかけてくる。
 思い描くのは彼女が最も得意とする自らの術式最強の形。失われた片腕のトンファーが再度彼女の片腕へと修復され、二つの武具を術式が一つの力に昇華させる。
「私のこと……新米だと言って馬鹿にしたことを後悔させてやる」
 彼女の前に姿を現したのは、彼女とほぼ同等の長さを持った巨大な弓。凍りの芸術のように冷たい輝きを放つ水晶の巨弓は、彼女の突き出された左腕に絡まるようにして連結していた。
少女の術式が新たに鼓動する。
 光りが収束しながら弓に集まり、五つの矢となって装填された。
「バースト(発射)」
 その瞬間で空間が震え、空気が暴風となって唸り、その場に存在する物を巻き込んでは凍結させる。
 言霊を受けて掃射される、凍てつく弾丸。
上下左右四方から、それらの隙を貫くが如く中心に渾身の一線が走り抜ける。
 光りの束から生まれた五つの矢は、あと一歩で拘束を逃れようとしていた狼男の懐に降り注ぐ。一点の曇りも無く。彼女の狙い通りのコースに攻撃は導かれたのだ。
 手ごたえは十分。これ以上は無いほど……最高のタイミングで実現した。
 体中の力が抜け落ちる。
元々限界を超えた術式行使だったのだ。当然の結果であることは承知している。だが膝を地面に付けることだけはしない。
 確かに凍結する牛射手は敵に直撃した。アレをまともに受けたのならば相手がZU最高クラスの再生能力を持つ狼男(ライカンスロープ)でも無事では済まない。だが……
『紋章術は諸刃の剣だ。どのような術式であっても覆すことができない固定概念。だからそれを肝に銘じて置くんだよ。それと覚悟を持ってそれを実効するなら、決して倒れることだけは考えないように』
 暫く顔を会わせていない師の言葉が少女の震える足を機能させる。
 視界が震えている。必要以上の肉体行使に体中が悲鳴を上げている。
「これだけか?」
 だかそれほどのリスクを持っても
「ソノミセの三人だと聞いて、少しは期待していたのだがな。どうやら杞憂に終わったようだ。その程度の術式で俺に挑んだこと、己の未熟さを恨んで血を溶かせ」
 狼の上半身を持つ相手の顔は揺らぎもしなかった。
「化け物め」
 少女の巨弓は形を崩し始め、視界さえも霞む。
 彼女の最後の賭けは脆くも破綻した。これ以上の策は持っていない。
 完全な万事休す。彼女の言い逃れができないほどの敗北だ。
「化け物? それは違う」
 鋭い爪を持ち上げながら月光を背後に狼男は咆哮する。
「我等はもっとも人間らしい存在だ。己の欲望に忠実であり最大限の力と労力を持って妨害する者を駆除倒滅する。そこに一点の曇りも無い」
 力強い足取りで少女へと近づく狼男。今や抵抗もできない少女の体は、立っているだけでも不思議なほどに衰弱していた。
 唇は震え、頬も生気が全く感じられず。吐き出す吐息は冷たい空気を白く染めるだけ。
 彼女は自分の周りに漂う死の香りを、知っていた。
「ああ、私死ぬのか」
 誰にも聞こえない小さな声で少女は呟いた。
 瞳を閉じる。
 見慣れた暗闇に包まれながら、終焉の時を待つことにする。
 これ以上。無駄に生きても変わらない。そう彼女は思った。
「おい、そこの女! 勝手に諦めてんじゃねぇよ」
 ハッと息を呑みながら瞳を開く。耳に誰かの声が飛び込んできた。
 だが目前に狼男の長い爪が迫っていることを確認した瞬間。それは後悔へと変わる。
 命を刈り取る無情な力の塊が、空気を切り裂きながら少女の力ない体へと振り下ろされようとしていた。風切り音が鳴る。
 なんて馬鹿なことをしたんだろう。あのまま目を瞑っていれば楽に死ねたのに……
 頬に一粒の涙が伝った。
 だが、その爪を受けたのは少女では無かった。
「調子に乗るな。犬っころ、お前の力なんて所詮この程度かよ」
 信じられない。
 少女と狼男の間には見慣れない男が立っていた。細い体躯に短い黒髪が風に揺れている。だが男が現れたことよりも彼女は他のことに驚愕していた。
あれほど強固で頑丈な爪を、突如として目の前に現れた男は…片腕で受け止めていた。
大きな鉄の塊を紙のように切り裂く力。それを男は当然のように笑いながら無力化していた。
「こんな形でメインデッシュとはな。今日はツイているのか、いないのか……まぁどっちでも良いか」
 少女の頭に浮かぶ様々な疑問を吹き飛ばすように、少年は少女の顔を見て場違いに笑ってみせた。

 タイミング的には間一髪。
 敵は勝利を確信した瞬間、俺というイレギュラーの登場に不満の色を露わにしていようで、周りを包む空気が重苦しい。
 舌打ちをした後、犬っころは素早い動きで俺から距離を取り。喉を鳴らしながら月のような黄金の瞳で俺を睨みつけてきた。
 雲が晴れる。
 風が流れては通り過ぎて、俺は初めてコイツと対峙した時のことを思い出した。
「何故貴様がこんなところに居る」
 眉間に皺を寄せているのだろうか。犬っころの大きな口から漏れた言葉は、先ほどまで少女と戦っていた時の物とは違った。
 溢れんばかりの怒りを抑え、必死になって冷静さを欠かさないようにしている。
 そんな風に見て取れた。
「別に、ただの自己満足果たすため。それだけだ」
 ふいに後ろを見てみると唖然とした顔で、俺を見つめ返す金髪の女がいる。
「よう。一応無事みたいだな」
「アンタ、何者なの?」
「ん、俺は速水御影って名前。成績は中の上。好きな食べ物は天丼。好きな色は黒か紫、たま〜に変更して赤。嫌いな物は言いたくない」
「いや、そうじゃなくて……」
「んでもって、地獄のことは三ヶ月前に知った」
 俺は最後の自己紹介だけ強調して言った。
 彼女はそれを聞いて、一瞬だけ驚いたように目を丸くして。
「信じられない。でも今は味方ってことで良いのよね」
 無表情にそれだけ呟く。

「あぁ俺は君の味方だ。目の前で女の子と獣が戦っていたら、どっちの味方になるか。そんな問いの答えなんざ、男子だったら決まっているだろ」
「分った。ベルス・テス・ペルシアル。それが私の名前」
「へ〜外人なんだ」
「そんなとこ」
 少女は足取りもフラフラしたがらも、どうやら戦う気力はあるようだった。
 その気になれば止めることもできたのだが、それは彼女に失礼だと……思った。
「じゃあ、二人で犬っころを追い返すとしますか」
「狂犬病にかかっていると思うけどね。痛い予防注射打ってあげないと可愛そうだわ」
「お〜上手いこと言うね」
 少女を横に俺は眼前の敵に向き直る。
 三ヶ月前の後悔を清算するための戦いが始まったことを、改めて自覚しながら俺は自身の紋章術式を展開させる準備を始めた。

 頭の奥底で歯車の噛み合う音がする。
「ベルス……で良いよな」
「そうよ。で、何」
「さっき出したデッカイ弓。もう一回出せるか」
「ギリギリって所ね。貴方が紋章術士だから言うけど、体内の余力マナを殆ど枯れてしまっているから」
「御影で良いぜ。それで十分」
 紋章術式形成完了。具現化への最終工程を大幅カット。体内分泌マナ許容数、問題なし。
 一歩前に進む体。その脳裏で聞きなれた声が聞こえていた。
「時間を稼ぐ。その間に術式を練ることに費やせ。さっきのデカイ弓、完全じゃないんだろ」
「良く見てるわね」
「ちょっとした疑問だよ。命を賭けるにはさっきの術式は甘すぎだ。時間が足りなかったんだろ。今度は俺が補う」
「自分で倒すとは言わないのね」
「俺を過大評価するなよ」
 
 デバイス形成シークエンス。オールクリア。マキシマム・ギア(巻き刻む時)形成完了。
 俺の右腕には、歯車を無理矢理集めて引き詰めたような。そんな奇抜な盾が姿を現した。
 マキシマム・ギア。
 俺の紋章術の基本的デバイスにして、未完成品。
 紋章術とは今現在この世にある『魔』を操る術の中でも一線を引かれる物だ。
 外気(オド)と内気(マナ)を利用しながら術式を組み上げ自然外な力を行使する魔術とは違い、紋章術はマナしか利用しない。マナとは即ち生命力だ。故に紋章術士には短命で命を落す者が多いことでも有名。
 でも注目すべきことは、他にある。
 人類の歴史から生まれた魔術や秘術、呪いや神通力。それらとは無い物を紋章術は可能にする点だ。
 多様性。
 デバイスと呼ばれる基礎術式によって魂の形を具現し、それに全く別の紋章を書き込むことで変化させることができる。
 自身の内で常に作り出されるマナを使用することで、長時間の行使は物理的に不可能となるが……瞬間の威力は、現存する魔技術の中でも最高の威力と出力を弾き出す。
「歯車の盾……それが御影のデバイス」
「俺の属性は攻撃にはお世辞にも向いていない。後方支援はまかせたぜ〜ベルスちゃん」
「ちゃんは余計よ。呼び捨てで構わない」
「ほいほい」
 俺はベルスとそれだけの会話をすると、姿勢を低くしながら敵の下へと疾走した。

 歯車の盾は頼りなく。錆び付いたパーツは弱々しく俺の耳に語りかけてくる。
 それでも俺にとって最強の武器と言えば、これしかない。
 月だけが照らす屋上の中心で見慣れた怪物が、真正面から向かう俺の体を切り裂こうと爪を薙ぐ。
 普通の人間なら一撃で心臓をえぐり取られる一撃。
 それを俺は真正面から右腕一本で受けて、さらに受け流す。
「貴様、それで防いだつもりか」
 再び間髪入れず次の追撃が襲い掛かってくる。
 空気を切り裂く音が聞こえたかと思うと、三ヶ月で鍛えた体が反発的に上体を逸らし、敵の鍵爪を回避してくれた。常人を逸脱した動きを、右腕の歯車が実現する。
積み重ねた感性が相手側の動きを読み取る。
次に俺の命を狩り取る犬っころの武器は……自身の口に並んでいる牙に他ならない。
反応できない。これだけは、俺はすでに上体を崩してしまっている。このままだと動脈が集中している首を噛まれてエンドだ。
だから俺は、右腕の相棒を、あえて前に出す!
「な、に?」
 予想通り俺の盾に強引に食らいつく犬っころ。俺の顔に自然と笑みが浮かぶ。
 いや、正直……俺の力が、こんなに通用するとは思ってなかった。
「三ヶ月前とは違うんだよ。もう一度、尻尾を振るか? 犬っころ」
 俺は、歯車を、強制的に、犬が口を閉じている間に、回転させる!
「ああぁぁぁぁぁぁ!」
 機械音と共に歯車という鉄のノコギリが、犬っころのガッチリと固定された牙を削る。
 犬っころの体が大きく震える。切る、殴る、焼く、痛みのバラエティーは様々存在するが、その中でも「削られる」という痛みを与えられる機会は稀有である。
 いや、それを武器にする紋章術士など皆無に等しいだろう。
 少なくても、俺は俺しか知らない。
 その数少ない経験を犬っころは、初めて自身の体で痛感した。
 途端に俺から離れ、役四メートルの距離を保とうとする犬っころ。自慢の口からは砕けた牙の破片と、溢れ出る血潮が流れ出ている。両手で必死に口を押さえ、痛みを少しで和らげようとしているらしいが、無駄なことだ。
 そりゃそうだ。
 俺はそんな様子を「可哀相だ」なんて眺めている愚か者ではない。
「どした?」
 相手の動きを追いかけるように、陽炎のように犬っころの懐に飛びこんだ俺は、容赦なくマナを溜め込んだ鉄の拳を振り上げる。
 どこに?そりゃ決まっているだろ。
「尻尾振れって言っただろうが!」
 さっきまでベルスにデカイ口を叩いていた、犬っころご自慢の下顎に、全身のバネを利かせたアッパーを叩き込んでやった。

 犬っころの体が宙を舞い、硬いコンクリートの床に落下。
 重い音を立てて犬っころの体は沈黙を得る。
 その様子を見ながら俺は、まだ自分が冷や汗を掻いていることを自覚した。当たり前だ。
俺はゲームの勇者様じゃない。普通の人間が恐怖する人外の物を本気で殴ったことなど初めてだったし、何よりも今自分が命のやり取りを経験したことへの恐怖が、まだ胸に燻っている。
握り締めた拳を硬くして、仰向けに倒れた犬っころから視線を離すことができない。
「御影、終わったの?」
 後ろからベルスの声が聞こえてきた。その声が少し震えているように聞こえたのは気のせいだろう。今の俺は自分でも自覚ができるほどに高揚感に満たされているからだ。
 まともに現状を把握できる力があるかも疑わしい。
 だけど、今のそんな俺でもベルスの問いに対する答えは……すぐに返すことができる。
「まだ気を抜くな。この程度で死ぬほど、こいつは甘くない」
 俺は三ヶ月前にも犬っころと対峙したことがある。
 その時の苦い記憶が、殆ど無意識に口から言葉を吐き出させていた。
「ぐっ……き、貴様ぁ」
 犬っころの体から、白い煙が上る。急激に活動するヤツの細胞が以上とも呼べる体温を生み、空気中の水分が一気に沸騰しているのだろう。
 言葉を発する。裂けた口からは、血泡と共に呪いの言葉が溢れ出ていた。
 体の芯が冷える。悪寒が全身を弄り、心臓に無理矢理冷たい吐息を吹きかけられる。そんな心から凍結するような感覚が襲う。
 これが、命を賭ける戦いなのか。
 ふざけるな。
こんなに緊張する空間をアイツは……俺から去った三ヶ月の間味わっているのかよ。

「今考えていることを、当ててやろうか?」

「御影! 後ろだ!」
「は?」

 ベルスの明らかに困惑した声で、俺は自分を取り戻す。
 俺の背後には、巨大な筋肉の塊が、鋭い眼を宿した狼の顔が、あって……
「我が主も、今のお前と同じ感覚を味わったのではないか? こんなところだろう」
「な、なんでだ」
 ありえない。犬っころは先ほどまで俺の目の前で傷ついた体を再生させていたはず。
 俺は一瞬だって目を離してはいない。可笑しいだろ。だって、本当に俺はコイツの姿をさっきまで自分の目で見ていた。なのに……
「何を勘違いしている。私が今まで本気を出しているとでも思っていたのか。能天気なところは変わっていないようだな。速水御影」

 畜生。冷静になれば簡単なことじゃないか。要するにコイツは、単純に俺の目に留まらない速さで移動しただけ。
 人間相手では絶対にありえない。だがコイツは人外の存在。普通の人間相手の喧嘩体制で、自分の常識に囚われた範疇で注意を払っても無駄だったというわけだ。
 刹那でも意識を逸らした俺自身が、この危機を作った最大の要因。
 右腕に指示を飛ばそうと、脳内の全神経を再び稼動させ、臨戦態勢を整えようと術式に指令を飛ばす。
「無駄だということも理解できんのか」
「ぐっ!」
 だがそれは無駄に終わる。犬っころの強靭な巨大な右手が俺の首を締め上げ、さらに体を上へと持ち上げた。突然の痛みで紋章可動までの肯定が全て白紙にリセットされてしまう。
 万力を持って首筋の血管が圧迫され、両眼球の奥が熱くなる感覚。さらに視覚まで不明瞭になってゆく。
「まるでスポンジのようだ。か弱く、脆弱で、非力で、虚勢だけの愚かな人間。私にはお前のような馬鹿者を、どうして主が気に入っているのか理解に苦しむ」
 この野郎。ふざけたこと抜かしやがって、頭がマトモに動けば、何とでも対処できるのに……体に力が入らない。
「そこの小娘。この男がどうなっても良いなら、遠慮なく術式を開放するがいい。だが、この男を代償として私を殺すことができる確証の上で選択するのだな。そうしなければ、無駄に命が一つ減るだけにすぎん。もっとも、事が済んだ後に私が貴様を見逃すことは皆無に等しいがな」
 無情に告げられる言葉にベルスは巨大な弓を構えたまま、微動だにしない。彼女の長い金の髪だけが風に吹かれて揺れていた。
「別に……何を選択する必要があるの?」
 そして夜空の浮かぶ月の如く。ベルスの表情は変化せず、無表情に犬っころを見据えているだけ。さらに何を悩む必要があるのかと、首まで傾げる始末だ。
 そして巨大な弓を犬っころに向けたまま、ゆっくりと呟く。
「私は御影を殺すことはしないし、無駄に死ぬつもりも無い。ただお前を殺すことだけしか考えていないわ。だってそうでしょう? 殺し合いの最中にそれ以外に何を考える必要がある? 御影のことだって心配はしていない。二人でお前を殺すと約束したわ。だから何も選ぶ必要なんて、ない。二人で生きてお前を殺す。それだけよ」
 静かに、けれど鈴の音のように芯まで届く声で、彼女は自身の前に立つ強大な力の塊に言い放った。度胸が据わっているなんてもんじゃない。このベルスという女の子は、本気でそう思っている。俺は助かり、ベルスも助かり、犬っころを二人で倒すのだと。
 なんでこの状況でそんなことが堂々と言えるのだろう。
 俺を見捨てれば、彼女は万が一にも助かるチャンスができるかも知れないのに。
 ベルスと犬っころは少しの間。お互いを警戒しながらも視線を重ねる。僅かでも目を逸らすことでもあれば、どちらかが動く。張り詰めた空気が間を保ち。さらにベルスはそんな中、僅かに口を動かしていた。
 言葉にならない。口だけが動いている。それは本当に些細な動きで、視界が定まらない俺が気付くことができたのは奇跡に近かった。
 口パクで彼女は、絶望的な状況下で……
「約束したもの。約束は守るものだ。約束したもの。御影と約束したんだ」
 その一文を何度も繰り返し、何度も何度も壊れた人形みたいに言葉にしないで、必死に抑えているように見えた。

 俺は……この戦いが始まる前になんて言った?
 彼女に向かって、どんな約束をしたんだよ。
 思い出せ。白く霞む脳味噌を絞り切ってでも思い出せ。
 なんて言った。なんて言ったんだよ!

『時間を稼ぐ。その間に術式を練ることに費やせ。さっきのデカイ弓、完全じゃないんだろ?』
『良く見てるわね』
『ちょっとした疑問だよ。命を賭けるにはさっきの術式は甘すぎだ。時間が足りなかったんだろ。今度は俺が補う』

 そうだ。彼女は時間を作ると言った俺の言葉を、守っている。会って間もない俺みたいな男を完全に信じて、自分の役割を守ろうとしているだけ。
 なんて……単純馬鹿なのだろうか。
 そしてそんな純粋な女の子一人のことも守れないで、大人しく敵に捕まっている俺は、なんてクソ野郎なんだ。
 ふざけるな。
 右腕が、鼓動を、始める。強制的に、歯車を、動かし。
 これじゃ一緒じゃねぇかよ。大切な女一人守ることもできずに、約束も守ることもできなくて、一人で全部背負わせて。最後は泣かせた。
 頭は完全に考える機能を失っているはずなのに。今この瞬間でも意識を失いそうになっている。だが、右腕が俺の心に反応する。
 最低のクソ野郎。またお前は約束を破るのか。また三ヶ月前の自分に負けるのか。
 右手が俺の首を絞める犬っころの腕に届く。相手の手首を掴み、犬っころも不思議そうに俺の方を見た。
「貴様、まだそんな力があったのか?」
「冗談じゃねぇ……」
 右手の力は徐所に強くなってゆく。最初は小石を掴むくらい。次はリンゴを手に取るほどの力。その次はリンゴを握り潰すほどの力。その次は空き缶を握り潰す。その次は……
「ど、どういうことだ。貴様、何を…」
「冗談じゃねぇんだよ。俺はな。もう後悔しない。したくないって……三ヶ月間、毎日毎日」
 その次は……鉄の棒をへし折るほどの力。その次はコンクリートを粉砕するほどの力!
「が、放せ!放せぇぇぇ!」
 犬っころは苦悶の表情を浮かべ、左手で俺の首を絞めながら必死に右手を呪縛から解こうと躍起になる。だが俺は放さない。体だけで覚えた感覚のみで、肉体強化の術式を右手の握力に集中するだけだ。

 危険危険危険危険危険危険危険危険。基本紋章術式独立、強制始動。術者メンタルバランス大幅変動。危険危険危険危険危険危険。

「あぁぁ! ぐっ貴様、このままでは死ぬぞ。それでも良いのか!」
「毎日毎日、もう誰かとの約束を破らないように、最低の俺にならないようにって……もう後悔しないようにと生きてきたんだよ! 今さら自分が死ぬことなんざ考える余裕もねぇくらいにな!」
「あぁぁぁぁぁぁ!」
 犬っころの絶叫と共に、骨の折れる音が静かに聞こえた。
「ぐっ! うおぉぉぉぉぉ!」
 右手の手首をダラリとぶら下げながら、犬っころは俺の体を強引に後方に放り投げる。
 空中を何度も回転しながら、俺の体は屋上のフェンスに強かに背中を叩きつける。一瞬で今まで頭の奥で燻っていた痛みが襲う。ダムに溜められていた水が暴落した感覚。焼きつけるような稲妻が全身を駆け抜ける。だけど本当に電気が流れているわけじゃない。
 体中が痺れて、頭の中の脳味噌は熱湯をぶっかけられたみたいに熱くなっていた。
 そのままフェンスから落ちた俺の体は、冷たい床に無様に倒れる。
「か……か…」
 だらしなく開いた口から出る空気に等しい声。目は大きく開いたままで瞬きなんてできない。唾液が何故か異常に分泌され、嘔吐感があるのに何も吐くこともできない。
 気持ち悪い涎が口元を汚してゆく。だけそそれを拭うこともできないほど、俺の体は混乱していた。
 頭には歯車の音だけがいつもと変わりなく響いていた。
 
「貴様は確かに強くなった。それは認めてやる」

 遠くで犬っころの言葉が聞こえてくる。さらに白い視界はだんだんと周りの情景を写し始めているようだった。
 
「だが私もただで帰るわけにはいかん。『ソノミセ』と戦闘行為を行った以上、成果は挙げねば……」

 その後、視界が完全に回復する前に、柔らかい肉が引き裂かれる音が聞こえた。


 視界が開けると、二つの影がある。一つは巨大な体を武器に、左手の鋭い爪で少女を襲う。だがもう一つの小さな影は、狼男に右肩を貫かれながらも左腕に装着された巨弓を突き出していた。
 いや違う。あれはただの弓なんかじゃない。
 壊れかけた俺の術式が大きく反応している。
 七色に輝くその武器。上下に広がる水晶体の塊は、まるで天使の翼の如く光の三元色を纏っていた。
「貴様、初めからこれが狙いだったのか」
 犬っころは確実の勝利を確信していた。だが、何かがヤツを束縛しているのだろう。ため息にも似たヤツの声に、自身の肩を貫かれたままのベルスは相変わらず無感動の瞳で答えていた。
 あぁ……そうだ。この戦いは初めから二人の物。
 犬っころの心では途中から俺なんて異分子が混じったせいで試合は中断していた。だがベルスは初めから犬っころを倒す機会を何度も伺っていたに違いない。
 視界が完全に回復した。
 するとそこには攻撃のために放った片腕を、貫いたそのままの形で凍り漬けにされた犬っころの姿があった。
「有利になった相手ほど、最後の瞬間に放つ一撃は甘くなる」
 実際立っているだけで精一杯なはずのベルス。だが彼女は犬っころの最後の一瞬を回避したのだ。それも右腕の術式を保ちながら。
 生死の境界線を目の当たりにして、臆している俺とは対象的な真っ直ぐな瞳。
 そして呟く。その瞳で俺の姿を確認して、約束を果たすために問いかける。
「御影……もう撃てるよ」
「ベルス! やっちまえぇぇぇぇ!」

 最終シークエンス完了。固有形態『アイシング・ケンティウス』(凍結する牛射手)全工程良好。ベクトル修正終了。保護術式セット。

「うん。わかった」
 光りが収束する。凍結する牛射手に閃光が走り、それは一点へと放たれた。
 最初に感じることができたのは振動だ。大気が震え、悲鳴をあげながら周囲のコンクリを削ってゆく。七色の光りが周囲の景色を一瞬、真っ白に塗り替える。
 アレは矢なのか? 違う。全然違う。
 凍結する牛射手に装填された弾丸は、『矢』と形容するには間違いがあった。強いて言うならそれは『矢』ではなく『槍』だ。
 そして、水晶で彩られた光りの『槍』は敵に標準をセットされ、今か今かと暴れだしそうな軌道を無理矢理術者に修正され、放たれた。刺さり貫き、犬っころの体を瞬間的に凍結、破砕させてゆく。あれじゃまるでレーザー砲だ。
 一度狙われたら最後。僅かでも触れたら即死クラスの破格攻撃。
 一部始終を見届けた後、残っていた犬っころの体は頭部だけ。冷凍食品によろしくと凍っているそれは、軽い音を立てて床に転がり、白い目を向けた狼の瞳だけが無感動にベルスを見ていた。
 だが術式が開放され、全ての動作を終了した後。ベルスの体はバランスを崩し、背中から倒れそうになる。
 体の感覚は戻っていた。相変わらず術式からの反応は鈍い。だけど全力を出し切った彼女の体を支えるのには十分だ。倒れそうになるベルスを見ながらも、こっちも痛みに震える自分に鞭を打って走った。
「おっと!」
 地面に触れる寸前の所でベルスの背中に手を回す。思ったよりもベルスの体は軽くて、信じられないくらいに冷たかった。唇の色は変化していない。けれども吐き出す息は白く、顔色なんて病人そのもの。
 そして犬っころに貫かれた右肩からは、彼女の体とは対象的に暖かい血液が流れ出ていた。ベルスの体内の熱が、鮮血に溶けて流れ出ている。
「お前、大丈夫かよ。今すぐ止血を」
「必要ない。それより早く逃げないと……」
 弱々しいベルスの声。耳をすましてみろと言うベルスの言葉に従って、俺は周囲の音に気を配る。すると数秒もしない内に強烈な音が俺の耳に聞こえてきた。
 サイレン。刑事ドラマなどで良く耳にするパトカー特有の騒音が夜に響いていた。徐所に近づいてくることが分る。
「警察か? 確かに面倒と言えばそうだな」
「警察なんてどうでも良い」
「じゃあ何から逃げるんだよ?」
「ヴィジョンズ。公的魔錬士組織。警察のバックには彼等が居る。さすがに凍結する牛射手の反応には気が付いたみたい。もし捕まったら」
「その先は言うな」
 無理矢理ベルスの口を遮る。彼女の言葉の先には悪いニュアンスしか感じられなかったから。
 そんなことを聞く暇があるのなら、早くベルスを安全な場所に移す必要があるだろう。
 話しをゆっくりするのはそれからでも遅くない。
 手持ちのハンカチで取りあえずベルスの肩を止血し、俗に言うお姫様抱っこで彼女を抱えた。やっぱり軽い。ちゃんと飯を食べているのだろうか? 少し心配になった。
 先ほどから聞こえているパトカーの音。ベルスとの僅かな会話が、その音の印象を大分変えていた。当たり前から、恐怖の音へと……また俺から日常が一つ姿を消した。



 犬っころの戦闘の後。俺たちはその場から逃げるように、パトカーの音を背後に聞きながら再び繁華街に到着していた。ほとんど立ち止まらないで走り続けた俺の足は、いい加減に休めと訴えているようで、なかなかスムーズに動いてくれない。
 はは。深夜の町で一人の女子を抱えて走っている俺の姿はどんなに滑稽なことだろう。自分でも笑いが漏れてしまった。
「どうしたの御影? 何か面白いことでもあったの?」
「なんでもねぇよ」
「そう……」
 ベルスは全くの無表情。だが確実に顔色は回復していた。頬には赤みが戻っているし、何より彼女の体が温かくなってゆくのが感じる。彼女は単純な白シャツにジーパンというラフな服装だが、夜の冷たさに負けないくらいに暖かかった。
 女の子をこんなに近くに感じているのは久しぶりだ。このささやかな体温がどれだけ大事な物なのか、それに気が付くのに三ヶ月もかかった。
 前の俺だったら、むしろ邪魔に感じていたかもしれない。恐らく、そう感じていただろう。
「お!自販機あるじゃん」
「自販機?」
「そのヴィジョンズって奴等が追ってくる気配は無いだろ?」
「えぇ、多分私達がすぐにその場を離れたから現場検証で忙しいんだと思う。魔錬士は以外と腰が重い人間が多いって聞いたことあるから」
「じゃあ休憩としますか。何か暖かい物買おうぜ。俺が奢ってやるよ」
「買う?」
 自販機が設置されている真横のシャッターが閉まっている古びた店。見たところ服店のようだったが、こんな深夜に開いているはずもない。そのシャッターに背中を預ける形でベルスを下ろした。自分のジャケットを脱いでベルスの肩に掛けてやると、彼女は不思議そうに自販機に視線を注いているようだった。
「寒くないか? 傷は痛まないか?」
「大丈夫。貫かれた箇所は塞いだから出血の心配は無いわ。だけど右腕はもう駄目ね」
 ベルスの肩に目を落す。すると俺の巻いたハンカチが彼女の血液と一緒に凍り漬けになっていた。物理的に無理矢理血液が流れることを防いでくれている。
 それとなく手を伸ばす。ハンカチに触れてみると、そこには冷気など微塵も感じなかった。氷だと思っていた俺の予想は間違っていたのだろうか。
 彼女の使う紋章術。それは冷気を自在に調節できる水晶体か?
 だとすれば氷という概念は消滅することになり、正しくは……冷気を自在に生み出すことができる水晶を発生させること。これが彼女の能力ということになる。あくまで予測の域を出ないが。
「不思議な術式だな。紋章術士っていうのは全員こんなのばっかりなのか? 俺はてっきり炎を自在に出したり、風を起こして空を飛ぶ魔法使いみたいな物だと思ってた」
「それは魔錬士の方が適切ね。紋章術には自然界の力は関係ない。使うのは人の力だから、それより……アレ」
 ベルスは話を中断すると左手の細い指で自販機を指差す。俺も視線を流して自販機を見た。ただの自販機だ。何も変わるところは無い。ありふれた飲料が蛍光灯の光りで照らされていて、夜の風景に不必要なライトを当てる。
「あれは何? 自販機と言うからには何かを売る物なのよね?」
 そんな普通の自販機さんに向かって、ベルスは特別な物を見つけた子供のような顔を向けていた。口なんて半開き、目は自販機の上から下まで舐めるように観察するように動いている。
「お前、自販機知らないのかよ?」
 そんな少女を見たら誰だって聞くだろ? ストレートに。だって普通の人だったら知ってて当たり前のことだし。
「知らないわ」
 それなのにコイツは、知っていることが珍しいだろと言うように俺に返してくる。


 ため息が、出た。


 コインを投入する。俺は例外なく毎度飲んでいる銘柄のあったか〜いコーヒーのボタンを押すが、ベルスには何を買ったら良いんだろう?
 彼女の金髪を見て、やっぱりスダンダードに俺と同じコーヒーを選択。コーンポタージュを選ぶということもできたが、やっぱ寒い夜にはコーヒーが一番だ。それに同じ死線を潜った仲だしな。俺のお勧めを知って貰っても良いかもしれない。
 それに、もう会うことも無いだろう。
 一夜の協力関係。彼女が紋章術士ならば何かの因果で再び出会うことはあるかもしれない。だけど、その時彼女が俺にとって味方となるか敵となるかは別問題だ。
 こんな機会はもう無いかもしれない。
 俺はベルスのことを気に入っている。女性としてでは無く、一人の人間として。
 ま〜確かに彼女は美人だろう。それなりの服装で町を歩けば、大抵の男は声をかけようと思うだろうな。長い絹のような金髪。深い水面のような瞳。どれをとっても一級品。少し世間知らずな面もあるかもしれない。初めて会った男を信じる辺りとか、彼女にはそんな印象がある。だけどそれは女性を見る男からすれば、そうだな……ある意味好印象を与えることもあるだろう。純粋な女性とは、何時の時代でも男が追い求める物なのだから。
 だけど俺にはすでに自分で守ると決めた人間がいる。
 今はどこで何をやっているのか、心配でたまらないけど。
「ほいよ」
「ん? これは……缶?」
 プルタブを開いてコーヒーをベルスに差し出す。彼女の右腕は動かない。それを意識させないように俺は缶を左手で取りやすいように突き出すと、「熱いかもしれないからな。注意しろよ」と言ってやった。少し意地悪な顔で、ベルスをからかう。
 怪訝そうな顔。最初は躊躇していた。だけど彼女は少しの間を置いて、缶を受け取った。
 まず現れたのは驚きの表情。どうやら俺の言葉が引っかかっていたみたいだ。
 もしかしたら沸騰したヤカンくらいの熱さを想像していたのかもしれないな。一挙動一挙動が面白い。からかい甲斐があるヤツだ。
「暖かい」
「だろ? 勝手に選んじまったけど、コーヒーとかダメな人だったか?」
「ううん。好きよ。目が覚めてからは、毎朝飲んでいるから。この穴から飲めば良いの?」
「おう」
 俺は試しに一口飲んでみる。慣れた口当たり、馴染んだ風味が口を満たした。
 ベルスも真似て口を付ける。ぎこちない動きで、小さな口にコーヒー缶を運ぶ。
「美味い。カップ麺は地域で味が変わるらしいけど、缶コーヒーはどうなんだろうな。もし変わっているんだとしたら、毎回俺は騙されているのかもしれねぇ」
「毎朝飲むのと味が違うのね。不思議、同じコーヒーなのに」
「当たり前だろ。自家製と缶コーヒーを一緒にすんな。双方とも双方にしか無い味わいという物があるんだよ。一つ勉強したなぁ〜ベルス殿」
「そうね。ありがとう御影」
 す、素直に礼を言われた。冗談のつもりで言った一言だったのに、ベルスはこっちの気持ちも知らないで口を進めた。
 沈黙が漂う。気まずい訳でもなく、心が休まる静かな夜。
 誰も通らない深夜の繁華街。街灯と自販機と月が俺たちを照らしている。
 なんて心地よい空間なんだろう。さっきまで死にそうになっていたなんて、嘘みたいだった。一人では寂しいだけ、孤独に飲み込まれてしまう。だけど、隣に誰かが居るだけで、どうして人間という生き物は、安らぎを得ることができるのだろうか。
 俺らしくない。詩人めいた考えが浮かんでは消える。
「御影。聞きたいことがある」
「なんだ?」
 言葉を最初に切り出したのは意外にもベルスだった。俺は彼女の顔を見ない。
 ベルスも俺の顔なんて見ていないだろう。きっと見ていない。
「あのZUと知り合いだったの?」
「ZU? あぁ犬っころのことか」
 視線を感じて、俺はベルスの方へと首を向ける。やっぱり彼女は少々驚いた様子で俺を見ていた。はて? 俺は変なことを言っただろうか。冗談が通じない彼女を驚かせるようなことを言った覚えが無い。
「御影。紋章術士なのにZUのことを知らないの?」
「ああ。言っただろう。俺は三ヶ月前に始めて紋章術士のことを知ったんだ。それからこの町に来るまで、師匠から教えて貰ったことは紋章術の扱い方と、戦いの心得ぐらいだな。短時間で一番必要なことを教えて貰うつもりだったし、こっちが聞かないと師匠も教えてくれないような人だったからよ」
 俺はそれだけ言って飲み終えた缶をゴミ箱に投げ捨てた。


 この荒野(あらの)市に来るまで、俺には余裕なんて無かった。紋章術士になると決めて、ひたすらに師匠の下で自分の中にある紋章術に磨きを掛けることで精一杯、紋章術者を取り囲む世界の情勢に耳を向けることなど、できなかった。
 だが、それは言い訳に過ぎない。
 きっと恐れていた。全てを知ってしまうことに、無意識の中で恐怖を覚えていたんだ。
 缶コーヒーの味が、舌に残っていた。
 苦い。ミルクは入っているはずなのに、胃に流し込むことが困難になる。
 片足を突っ込んでいる限り、いつか引き返すことができるだろう。所詮は片足だ。
 その場所に両足を浸からせているわけじゃない。中途半端が心地よかった。
 だけど、それもいつまでも続くわけじゃない。続かせるわけには行かないんだ。
 だから師匠は俺を荒野の地に旅立たせたのかもしれない。
 ベルスはまだ俺の顔を見ている。今の俺はどんな顔をしているのだろうか。鏡を持っていたら、自分で自身の顔を確認しているだろう。
 もう無理矢理笑った。口元を僅かに綻ばせるくらいで限界だ。
 全てを聞く覚悟を決めよう。地獄に両足で立つ勇気を持とう。俺はもう三ヶ月前の俺じゃない。いい加減に成長しなければ、一緒に戦ってくれたベルスに失礼だしな。
「教えてくれないか? ベルス。俺は何も知らない。お前が犬っころと戦っていた理由も、その背景さえも理解していない。ZUって紋章術士にとって何なんだ。そもそも何者なんだ?」
 ベルスはゆっくりと頷く。俺の問いを蔑むわけでもなく。悲観するわけでもなく。ただ問いかける者に答えを返す。
 俺は彼女の瞳を水面に例えたが、案外間違いでもないのかもしれない。ベルスの瞳を見ていると、自分の内包する不安とか、焦りを全て見透かされているような錯覚を覚えることがある。
 先の戦いの時だって、コイツは犬っころが僅かに見せた甘さを見抜き、最後の攻撃を避けたのだから。
「ZUっていうのは、現在人間のさらに上を行く食物連鎖の最頂点に君臨する存在。その総称よ。彼等は今から五十二年前に世界に姿を現し、影ながら人間を捕食、紋章術士やヴィジョンズの魔錬士達と抗争を繰り返している。姿形も様々で、和洋の神話や伝説に類似する固体を持つZUから、全く別の形を持つ物まで確認されているわ。彼等がどうしてこの世界に誕生したのか。何を目的として行動しているのかも、私も詳しくは知らない。だけど一つだけ言えることが、私にとって奴等は敵だってこと。それだけ」
 左腕で膝を抱えながら、ベルスは言う。その声が少し震えているように聞こえたのは、決して気のせいじゃないだろう。
 多分、コイツも今日始めてZUと戦い。そして勝利した。
 直感でしかない。安易な憶測だが、今の彼女の恐怖は俺にも同じように感じ取ることができたからだ。
 今でも足が震えそうになる。
「今度は、私が聞いても良い?」
「なんなりと」
 不意にベルスは話題を変えてきた。確かに、少し雰囲気が重たくなってきていたから、話を変えるのは丁度良い。
「御影は何も知らないで、荒野にやってきた。ここはZUが頻繁に出現することでも有名は土地よ。そんな場所に御影はどうして来たの? 師匠とか言う人に騙されたのかも知れない。だとしたら、早く別の町に逃げた方が良いわ。その方が幸せよ」
 何言ってんだコイツは、それが震えている女の子が言う台詞かよ。他人より自分の心配をしろってんだ。全く……大した馬鹿だ。
 ま、そんなこと言ったら俺なんてそれ以上の馬鹿野郎だけどな。
「会いたいヤツが居るんだ。三ヶ月前に俺の前から消えた腐れ縁の仲間。俺はその仲間を追って今まで紋章術を鍛えたんだよ。それが俺がここに居る理由。さらに師匠も俺を騙したわけじゃない。ちゃんと今日、それが証明されたばかりだ」
「あの狼男のZUのこと?」
「そうだ。犬っころは俺が追っている仲間と関係を持っていた。だから……アイツもこの町に居ると思う。この、荒野のどこかに」

 それから俺たちは他愛の無い会話だけに時間を費やした。俺の師匠のこと、ベルスも俺と同じように色々教えて貰っている先生がいること、さらにはベルスの先生と俺の師匠には共通点が多く。弟子同士で散々お互いの師について語り明かした。
「それがさぁ師匠のヤツ。料理だけは一流のくせに体力勝負は全然ダメなんだ。一回海水浴に行ったことがあったけど、ちょっと目を離した隙に波にさらわれて溺れているんだぜ。一種の才能に近いな、あれは」
「海水浴。海に遊びに行くことよね。私は行ったこと無いけど……私の方も体力があるとは思えないわ。猫に追い回されるくらいに貧弱だから」
 なんてことは無い。不思議な時間。
「ベルスは彼氏とか居るのかよ。お前のルックスなら男に困ることは無いと思うけどよ。そこんとこ、どうなんだ?」
「彼氏? 性行為を承諾した男性のこと?」
「あ、あの……もっとソフトな言い方は無いんですか? ベルスさん」
「違うの? 自分なりに調べたんだけど、やっぱり間違いがあるのかな」
「ま〜近いようで全然違うな。うん、それだけじゃないのは確かだ。俺も上手く説明できない。明確で不確かな何かで結ばれている存在。そんなもんだ」
「ふ〜ん」
 ベルスは興味無さそうに俺の言葉を聞く。だけど自分の中では納得できない所があるのか、何度も唸って何かを考えているようだった。
 この様子ではお世辞にも恋愛経験が多いとは思えない。
 自販機も知らなかったような彼女だ。こうして外に出る機会も無いほどお嬢様ということか? 少し気になった俺は、疑問を投げかけてみることにした。
「どうして調べたんだ? 男女の関係なんてさ」
「別に、子供がどうやって生まれるのか知りたかっただけ」
 これは意外な答えが返ってきた。俺はてっきり少女にありがちなメルヘン思考に溢れた好奇心だとばっかり思っていたからだ。
 子供がどうやって生まれるのか。それは俺も小さい頃に親に向かって聞いたことがある。誰だって聞いて、さらに聞かれた親は困り果てるという難題だ。
「私、親の顔知らないから気になってしょうがなかった。でも無駄だったわね。調べても調べても……私には関係の無いことばっかりだった」
「そんなこと無いだろ。女性にはそういう知識はあった方が良い。いや、無きゃ困る。自分の身を守る大切な知識なんだからな。学んでおいて損はないさ。最近じゃそっち方面の勉強不足で苦労する人間だって沢山いるんだ」
「御影はどうなの?」
「俺か? エロは得意分野だ」
「ふふふ、何か可笑しい」
「なんで笑うんだよ。俺は結構真面目に話しているつもりなんだけど、もしかして……今俺変な顔していたか?」
「全然。自分でも良く分らないけど、御影の言うことが可笑しくて」
 ベルスは笑う。そういえば、笑った顔なんて始めて見たな。話題が話題で俺の方は少し気まずい。こういう時は無理矢理にでも笑って誤魔化すのが一番だ。
 だけど容姿を差し引いて見ても、彼女の笑顔は本当に美しかった。可愛いではなく。
 普段無表情なのが災いしているのか。消えていたライトが灯るように、とたんに俺の方まで気持ちが軽くなる。
「迎えが来たみたい」
 ベルスが急にそんなことを言い出したので、俺は視線を移す。するとそこには一台のタクシーが路肩で停車しているのが見えた。
 ドライバーが窓を開けて、ベルスの方に手を振っているのがわかる。
 あぁ……今まで気が付かなかったけど、空はすっかり明るくなっていた。
「お前、連絡していたんだ」
「そんなのしてない。でも私の場所は皆には伝わるようになっているから」
 俺は立ち上がるベルスの言っていることが理解できていなかった。
 ベルスはそのままタクシーに向かって歩き出し、一度だけ俺に向かって振り向く。
「今日はありがと。最後の質問。良いかな?」
「またか? 良いぜ、ここまで聞かれたんだ。なんでもこい」
「御影に紋章術を教えた師匠の髪の色は、何色?」
 ベルスの問いは、今までの質問の中で一番意味不明のものだった。だけど俺は疑問を飲み干すことにする。彼女が最後だと言って聞いてきたことだ。正直に答えてやるのが筋だろう。
「真っ赤。めちゃくちゃ派手な薔薇色」
「そう。ありがとう。今日は助かったわ」
 ベルスがタクシーの後部座席に乗り込む。その様子をただ黙って見ているだけの俺。
 不思議だ。一夜限りの出会いと別れ。
 数年どころか、数週間後には忘れてしまうかもしれない。そんな些細な出会いのはずなのに、今の俺はとても暖かい気持ちに包まれている。
 タクシーが走り出す。黒色単色の素っ気無いデザインのセダン。それがガードレールを挟んで、俺の前を通り過ぎる。
「ん?」
 その一瞬で俺は気が付く。
 タクシーが横切る瞬間に、ベルスは俺を見ながら何か言っていた。俺、動体視力が普通の人より優れているのか?
 その言葉が俺の耳に届くことはない。当たり前だ、窓越しに何かを言われたって聞こえるわけがない。
 だけど何故か、ベルスの言ったであろう一言が克明に頭に浮かぶ。
「またね?」
 それから俺は数分、その場で体を休めることにした。始発が始まるまで数時間。
 俺がベルスに時価五万円のレザージャケットを貸したまま忘れていたことを思い出すのは、電車に乗って体を揺らし始めてからのことだった。
 向かうのは犬っころとの戦闘を行った愛波から二駅先の駅。
 京欄駅。そこから徒歩十分のところに俺の新しい下宿先がある。
 名前は確か、喫茶「ソノミセ」だった。

 

 京欄駅の改札口を通り過ぎ、まだ空気が冷たい早朝の駅前の光景が顔を覗かせた。
 荒野市京欄町。ここは信じられないことに、五十年前突如として隕石が舞い落ちた逸話付きの町でもある。
長年の間、その墜落した隕石から人体にとって有害な物質が検出されたことにより京欄の町は封鎖状態にあった。およそ三十年。それほどの歳月をかけて、物質の調査と市内の安全は始めて確保され、復興にかかった年月は二十年。
 だがその大害が世間の注目を集めたのか知らないが、今はこの通り。話題が話題を呼び、一つの大きな駅前が俺の前に存在していた。
駅の出入り口に意味不明の鳥のモニュメント。駅を出たすぐの所にバスターミナルが幾つも連なり、道路を挟んだ向こう側には高層ビルが建ち並ぶ。駅を中心にして有名所のチェーン店が所狭しと並べられ、今はシャッターが下りてしまっているが、土産屋の数など数える側の気が削がれるほどだ。
それでも始発が出たばかりのこの時間帯では、あまり人影は見かけない。
「さてと……もう寄り道するわけにはいかないっと」
 肩から下げたハンドバックを背負い直した後、朝の新鮮な空気を取り入れるために大きく深呼吸をする。なんせ愛波での騒動から一睡もしていない。頭だって寝不足で働いていないのは明白だったので、とりあえず冷たい空気を肺に入れて誤魔化す。
「あんまり当てにはならないが……無いよりマシか」
 俺はポケットから一枚のメモを取り出し、その安直な内容に呆れ果てていた。メモには一応駅から下宿先への簡易的な地図が書かれているのだが、ほとんどミミズが走っているような道路地図だったりする。
信号機の名前すら書いていない。ただの幼稚園の落書き同然の道しるべ。
ここは知らない土地。それしか頼る物もない。
「その気になれば地図くらい描けるクセに。師匠ヤツ、人をからかいやがって……」
 とりあえず歩き出す。駅前の光景を背後に見ながら、地図に書かれた喫茶店へと辿りつくことを祈りながら、順当にそれらしい店が多く立ち並ぶ大通りを通る。
 およそ十数分経過した。
 駅から歩くには丁度良い時間。密かに目立たない、だが同時に人の目が届かないわけじゃない。そんな曖昧で不確かな場所に喫茶「ソノミセ」の看板を発見した。
 人が頻繁に通り過ぎるスクランブル交差点が見えるレンガを引き詰められた小道。繁華街から交差点一つだけで仕切られている空間に、ひっそりと見える木製看板。
 そこはまるで、壁画から切り取られた世界。
 もし誰か有名な画家がこの空間を目撃したならば、考えるよりも先に手が勝手に動きだし、デッサンを始めてしまうんじゃないだろうか?
 建物の作りとしてはオープンテラスが備えられた白塗り木造のありふれた喫茶なのだが。内面から滲み出る空気。殺風景な鉄の町に存在するには、あまりにも場違いな居心地の良い雰囲気は、まるで違う世界に迷いこんだような錯覚さえ覚えそうになる。
「ここで間違いない……よな? 片仮名でソノミセなんて二軒も三軒もある名前じゃないし、地図に書いてある場所とも良く似ている。さすがにまだ開店時間じゃないみたいだけど」
 俺は若干の不安を抱えながら、準備中のタグが下げられた扉を開けた。


 喫茶ソノミセの店内は一言で表すならば、森の中の洋館だ。
 フローリングの床とニスの光沢を放つ木の柱。白木を使い落ち着いた外見とは裏腹に、その中身は西洋の格式ある洋館を連想させる。所々に配置されたアンティークの小物達は妖しいとも美しいとも呼べる店のイメージを彩るには十分な効果を持っていた。
 玄関から見て右には四つの窓に一本足の丸テーブルが一つの窓に均等に配置され、左にはコーヒーメイカーと色とりどりの小瓶が配置された棚とお客を迎えるであろうカウンターが見て取れる。どれもバラバラで特色が強く。だが何故かそれらは統率され、個としての空間を作り出していた。
「不思議だ。初めてきたはずなのに、何故か懐かしい」
 こんな気持ちは生まれて始めてだ。心の奥に引っ込んでいた暖かい気持ちが湧き上がるのと同時に、店に入る前の不安感が溶けてゆく。
 経験する。体験する。
 始めて何かを記憶するのは、不安と同時に勇気を消費する行為に他ならない。初めて経験することなら、それが例え自身にとって有益になることであったとしても、人間の精神というものは磨り減るようにできている。
 だけども、このソノミセという世界にはそれがない。
 自然と一番近くの椅子。出入り口から数歩のところにあるカウンター席に腰を下ろす。
 カウンターの奥を覗いてもみたが、誰もいる気配がない。
「準備中って、何もしていないじゃないか」
 頬杖をつき、棚に飾られている様々な色形をした食器類を眺めることにする。
 そんな俺を監視し、妨げる者は一人も姿を現すことはない。


「おはこんばんにちは」


 そのはずなのに、ふいに誰かの声が聞こえた気がした。
 辺りを見回しても誰もいない。あくまで静謐な店内に変わりはなく、変化しているのは俺だけ。なにも変わってはいなかった。
「空耳か……? 本当に?」
 何なんだ。この違和感と空しさ。そして孤独な気持ち。
 ガランドウのソノミセ。誰も居ない。居るはずがない。
 頭を何度も振ってみせた。歯車の音も聞こえていないのに、眩暈が襲う。
「徹夜した上に紋章術の実戦行使。そりゃ疲れていて当たり前だろうな」
「それもそうだろう。お前とベルスは所詮半人前。たった一匹のZU程度に遅れを取り、尚それで生きて帰っただけでも、幸運という他あるまい」
 体が瞬時に反応してしまう。今度は白昼夢などではなく、はっきりと聞こえた。
視線が一気にドアへと向けられ、そこには先ほどの声の主と思わしき人物が立っている。
手には藁半紙の紙袋を抱え、身につけているのは紺のスーツ。紫色のネクタイ。
 固められたオールバックに通った鼻筋。鋭い鷹のような目を持つ男は、無駄の無い動作でカウンターの中へと入る。
「ようこそ……ではないな。お前のような男を歓迎する気持ちなど微塵もないのだから。元来、人形如きに好意を寄せる感情など我は持ち合わせてはいない。だが可憐が拾った傀儡ならば話が変わってくる。アレの責任は必然的に我にも負わされるのだ。全く……不遇の扱いには慣れたと日頃から感じてはいたが、今回の問題はさすがの我も胃が痛む。このソノミセの店長のソウル・ゼル・スクラートだ。せいぜい我の視界には入らないようにしろ。目障りなゴミ蟲」
 なんて言葉を、突然現れた男は俺の気持ちなど考えもせずに言い放った。


「初対面の相手に随分な言い方だな。それに俺には速水御影っていう立派な名前があるんだよ。誰がゴミ蟲だぁ? 人を馬鹿にするのも大概にしやがれ。喧嘩売っているなら買ってやる」
「噂通り単純な男のようだ。喧嘩を売っているように聞こえたのか。我の売る喧嘩は高いぞ。ま、その時は貴様の命など無いも同然だがな」
 相変わらず人を見下したような態度。ソウルと名乗った男は、俺の顔など見もしないで癪に障ることばかり返してくる。
 抱えている紙袋から怪しげな小瓶を取り出しては、慎重に素早く棚に置いてゆく。
 コイツ。人を完全に舐めきっているな。
 確かに準備中の店に勝手に侵入したのは、悪かったのかもしれない。
 だが、俺は事前に訪れることを伝えられていた人間だ。驚くことはあっても、決して嫌悪感を抱かせることは無いと思う。増してゴミ蟲などと言われる要素なんて皆無。
 にも関わらず。この男の姿勢はどうだろうか?
 気に入らない。
 だが、今は冷静になろう。この店に入ってきた時にソウルが言っていた一言。それが気になる。
 そう……ソウルは俺とベルスが犬っころと戦い。さらにそれを退けたことを知っていたこと。そっちを確認することの方が優先だ。
「どうして俺がZUと戦闘を行ったことを知っている?」
「そうか、貴様は何も知らぬのだな。可憐はその手の話を嫌う傾向がある。教えていないのは、ある意味当然かもしれん」
「話を逸らすな。答えろ。どうして俺がZUと戦っていたことを知っていた」
 強めの口調でそう答えを促す俺に対して、ソウルは「やはりゴミ蟲だな」と呟く。
 そしてようやく前を向き、カップをナフキンで拭きながら冷たい視線を向けてくる。
「仕方あるまい。頭の回転が鈍いゴミ蟲にも理解しやすいように教えてやろう。我はソノミセの店長。その手の騒動や関連する人物。またヴィジョンズによって改変される前の情報は嫌でも耳に届くのだよ。ZUとベルス、そして速水御影。この三人が安曇ビルの屋上で争っていたことは、彼女がここに帰ってくる前から我の頭には刻まれていた」
「彼女? 誰のことだ」
「ゴミ蟲。少し考えることを覚えたらどうだ?」
 その時、頭に一人の少女が浮かぶ。彼女の流れるような金髪を思い出して、俺はソウルの言っている言葉の意味を理解した。本当に、少し考えれば判ることだった。
 彼女は俺と別れる時に「またね」と言ったのだから。
「ベルス・テス・ペルシアルはソノミセの住人。今も地下の自室で眠り、先の戦いでの傷を癒している最中だ」
「ま、マジかよ」
 ベルスがこの店にいる。それについ昨夜だった出来事を見てきたかのように語るソノミセの店長を名乗るソウル。
 俺にはやはり、この世界に対する情報が少なすぎる。それを痛感した。
 余計なことを考えるのは後回しにしよう。今は俺がどのような状況下にいるのか明瞭にしなければ話にもならない。
 
「さっきテメェは言ってたな。ベルスはソノミセの住人だと……ここがただの喫茶店なら、なぜそこまで紋章術に詳しい? このソノミセって店は……一体なんだんだ」
「五月蝿い蟲だ。それも可憐から託けを受けている。知識の乏しい愚か者に、知っていて恥ずかしくない程度のことを教えてやれとな」
 ソウルは拭き終わったカップを棚にしまうと、また新しくカップを取り出すと拭き始めた。その行動に意味など無いと言った様子で、瞳を閉じ単調な作業をこなす。
 背中を向けたまま、俺の顔を見ないようにヤツは語り始めた。
「ソノミセと紋章術士の起源は約五十年前まで遡る。
この荒野の地に襲来した一つの原石。世間では隕石だったか? それらが撒き散らしたアル物は……この星の生命バランスを大きく変動させることになった。一つ、人間を捕食または存在自体を食らうことができるZUという最上級の狩人を誕生させたこと。一つ、それらを追い詰めるように人間も新たな知恵を身につけ、元々伝来していた知識、原石の調査から明らかになった知性を戦いの技へと昇格された魔錬師と紋章術士の誕生。
前者は人間の歴史と精神、また世の理を重視することで魔という概念を昇華させた。だが後者は……禁忌という甘い誘惑を断ち切れず、ZUの根源足る核遺伝子に刻まれた紋様から悪魔の所業とも呼べる身体能力の向上と魔錬師にも匹敵する自然環境を捻じ曲げることも可能な武装を手にしたのだ。それら紋章術の個体差は無論のこと異なり、比較的単純な特有の特性を併せ持つ魔具。デバイスと人間はその武装を呼ぶようになった」
 抑揚も無いソウルの単調な言葉。俺はソウルの背中に視線を投げながら、耳に神経を走らせていた。俺が知らない世界。俺が拒んでいた非現実という壁が崩れさる感覚。決して一言も聞き忘れてはならないと、紋章術士としての本能が告げている気がした。
 
 ソウルの紋章術士講座から数分。ソノミセの二階の小部屋に案内された俺は、呆然とその一室を眺めながら、どうしてあんな馬鹿野朗の言ったことを素直に信じてしまったかと後悔に後悔を重ねていた。
 ソノミセのカウンターの奥。そこにあった木製階段を上り、ホテルさながらに磨かれた廊下と、扉が左右に並ぶ光景。その一番さらに最奥に位置する俺が使うようにと与えられた部屋は、空のダンボールと埃と古びた本棚やらが置かれ、薄暗い目測四畳半といった……いわゆる何年も使われていない倉庫だった。
 掃除が行き渡った綺麗な家にも一部屋くらいあるだろう。忘れられた空間ってやつが。
 そこはまさにそんな感じで、普段大掃除を始めたとしても、「どうせここは汚れる」と諦めてしまう可哀相な場所が適切な表現だろう。
 そうだよ。性悪男が言った「極上のスイートルームを与えてやろう。感謝するが良いゴミ蟲」などと言う言葉を受け入れてしまっていた俺が、一番愚かだったんだ。
 あ、何か苛々してきたぞ。
「どこがスイートルームだ。これじゃ豚小屋ってーか倉庫じゃねぇか!」
 無論抗議だってしたさ。だがヤツが返してきた一言はこうだ。
「貴様にとってのスイートルーム。その基準はどこから生まれるのかな? 我から見たお前の基準。お前だけが持つ価値観。それらの境界線は決して越えられないものであり、否定もできんだろう? 我がこの場所を貴様相応のスイートルームだと感じていても、それを拒絶することは貴様の勝手であり、我には一切関係の無い物だ。要するに、貴様如きゴキブリ並の品格しか持ち合わせていないゴミ蟲に、部屋を与えて貰えるだけでもありがたいと思え、ということだ。おっと、これではゴキブリに失礼だな」
 納得できねぇ……できるはずがない。
 ハンドバック一つという俺の数少ない荷物。それを無造作に床に落すと、当然のように埃の粉塵が舞い、軽く咳き込んでしまう。
 さて……約一名に対しての怒りが収まることは無いが現状は自分が動かない限り変わることは無いのだ。そんなこと分っている。だから、あえて今は部屋の掃除にこの行き場の無い不満をぶつけるとしよう。それで少しは気が紛れるかも知れないしな。
「今に見ていやがれ……あの毒舌鬼畜野朗が!」
 部屋の大体の面積を支配しているのがダンボールの山々。しかも丁寧に一つ一つガムテープで密封されているので、中身を確認することはできない。
 俺の両腕を一杯に伸ばしてようやく運ぶことができる大きさから、片手でも掴める小さい物まで様々で、重さも大きさに比例している。
 試しに一つダンボールを開封してみると、中には色あせた紙切れが何十枚と積み重なっていた。何かのメモだろうか。
 気になって目を通してみるが。ミミズ文字で書かれているソレを解読することは、俺はにはどうも無理らしい。何が書いてあるのかサッパリ理解できなかった。
 そんなことを数回。積み重なっていたダンボール正体の殆どが同じ内容で、この部屋が以前は何に使われていたのか。おおよそだが予測することができた。
「ここはきっと、誰かが研究かなんかで集めた資料を保管する場所に使っていたんだろうな。じゃねぇとしたら、こんだけ大量のメモ書きを保管する理由がない」
 容易く捨てて良い物じゃないことはわかる。だが俺だって生活スペースは欲しいわけだし、どうするべきか悩んでいたところにドアをノックする音が聞こえた。
 木製のドアが軽い音を立てて鳴く。
 次にドアの向こう側から聞こえてきた声は、明らかに女性の声色。
 そしてその声は確か以前聞いた覚えがある声で、一発で声の主は判明した。
「御影。ソウルから聞いたわ。部屋の整理は進んでる?」
「ベルスか? ノックなんてしないで入ってこいよ」
「うん。でも……良いの?」
「気にしねぇって」
 キィと古びた音が鳴り、ドアが開く。僅かに開いた隙間から、長い金髪を垂らした少女が顔を覗かせて、俺の方に視線を向けてきた。
 俺の顔を見たと思ったら彼女はホッとした様子で胸に手を当ててため息を吐き、軽い足音をたてながら入室する。少しサイズが大きめの寝巻き姿。基本色の水色に所々に熊のプリントが施されたデザインは、まるで小学生が着るようなチープな物。良く言うと可愛らしい。悪く言うなら子供っぽい。
「良かった。無事に着くかどうか心配してたのよ」
「お前もひどいヤツだぜ。俺がここに来ることを知っていたら、案内でもしてくれれば良いのによ」
 俺が冗談交じりに拗ねた態度を取ると、入室した金髪の女性……ベルスは困ったように眉をひそめる。「事情があったのよ」と言って俺の横に立つ。
「これ…………」
「やたらとダンボールばっかりある部屋だと思って気になっちまって、勝手に開けたんだけど、もしかしてマズいことだったか?」
「いいえ。別に何かに使う物でもないし、今日から貴方がここを使うんだから自分の住みやすいようにすれば良いと思う」
「そっか」
 それだけ言うと、ベルスはまた違うメモを手にとって暫くそれを眺めていた。
 なぜだろうか。そんな彼女の視線がとても優しい物に見えて、やはりこれらの書類は処分しない方が懸命だろうと俺は結論を出す。
「これ、置く場所とか無いか?」
「大丈夫。全部私の部屋に置いておくから。元々それを伝えにきたのよ」
「お前の部屋?」
「うん。ソウルが『不必要な物は外に出しておけ』って言ってた」
「あの野朗。だったら始めから伝えておけよ」
「違う」
 目を通していたメモをダンボールに戻しながら、ベルスは顔を遮っていた金髪を耳にかけた。青い瞳に俺が写され、俺の瞳にも、きっとベルスが浮かんでいる。
 気まずくなって、俺の方が視線を外した。
 その先には、昨晩以来動かなくなった彼女の右腕が見えてしまう。大きいパジャマの袖で隠れているが、右肩には傷も残っているに違いない。今さらながら、後悔の念が湧き起こる。俺がもっと強ければ、油断などしなければ彼女は傷つかなかったのだ。
 俺が不甲斐ないばかりに負わせてしまった。たぶん一生消えることがない大きな傷。
「ソウルは私に部屋から出るなって言ってた」
「は?」
 突然のベルスの言葉に、なんだか体の力が抜けた。
「でも、御影の元気な姿を見たくて……飛び出して来ちゃった。ソウルの困った顔なんて始めて見たわ」
 口元を綻ばせて彼女は俺の顔を覗き込む。俺は、お前は守りきることができなかった愚か者。だけどそんな俺に会いたかったと彼女は言う。
 責めてくれても良い。何も文句は言えない。
「心配だった。御影がちゃんとソノミセに来れるか……話の途中で貴方の師匠が可憐かもしれないと思って、最後の質問で問いが解けた」
「そりゃそうだな。赤い髪のボケボケの凄腕紋章術士なんて師匠くらいしかいない」
「でも良かった。また御影と会えて……御影が居なかったら、今の私は無いから。一言お礼を言いたくて」
 ベルスの左手が伸びて、手を取る。とても暖かく、同時に柔らく、とてもか弱い小さな手だ。不思議だった。それだけなのに……俺の中にあった、重い気持ちが吹き飛んでしまう。
「ありがとう。御影」
目を閉じてベルスの言葉が耳に届く。鈴の音色。雨水の音。純粋で透き通り、偽りなど一切感じることができない素直な言葉。
俺は自然と、空いた手でベルスの頭を撫でていた。
 あぁ…………なんか恥ずかしくなってきた。
 話を逸らそう。
「それにしても、あの毒舌野朗でも驚いたりするんだ。写メ取ってたら欲しいくらいだぜ」
「写メ? なにそれ?」
 よし、食いついてきたな。
「あ、そっか。新しい携帯も買わないとな。どうせ携帯も知らないんだろ」
「うん、知らない」
「んじゃ決まりだ。さっさと部屋片付けるからよ、そしたら携帯買いに行こうぜ。ついでにベルスのも一緒にな」
 ベルスはいまいち俺の言っていることを掴めていないようで、首を傾げてばかりいた。
しかし、どうやら午後の予定は空いているようだ。話を聞いてみると、この後もひたすら部屋で休むつもりだったらしい。
「嫌だったら別に良いぜ。無理して付き合うようなことじゃない」
 もしかしてと思い、そう付け加えても彼女は行くと言ってくれた。
「また後でね」
「おう。一時くらいにリビングに集合な」
「わかった」
 用事を済ましたベルスが退出しようとドアノブに手を掛けようとする。そこで俺は彼女に聞こえないように。
「こちらこそ、ありがとう」
 小さくそれだけ呟いた。
 程なくして小一時間ほど経過。ほとんど仮眠も取らずに作業を続けた甲斐もあり、俺の新居となる一部屋は、完全に本来の姿を取り戻すことができたのだった。
 埃まみれだった室内は完全クリーンな空気に満たされ、窓から射し込む光が水拭きされた床に当たり輝く。予想以上の出来栄えに、なんとも説明できない達成感すら覚えた。
「俺って掃除の才能があるかもしれん」
 しかしこのまま部屋で休むわけにもいかない。ベルスとの約束もあるし、それを除いたとしても部屋には最低限の本棚やクローゼットがあるのみ。生活に必要とされる基本的な物はまだほとんど揃っていないに等しいのだ。
 手持ちにあったバックの中身の着替えも生地が厚い冬服ばかりで、今は不自由しないかも知れないが、これから暖かい季節に向けて春服や夏服も購入しておいた方が正解だろう。
 それ以外にも気づいていない必要物資があることも考慮に入れて、まだまだ出費が多くなりそうだ。
 親が残してくれた遺産が無かったら、今頃俺は路頭に迷っているかも知れない。
「今頃かも知れないけど、あの人達に礼が言いたいぜ」
 ベルスが待っているかもしれない。
 そう思った俺は、いそいそと部屋を後にした。
 ソノミセの二階は完全に居住空間となっているため、事実上玄関と呼べるのは一階と二階とを繋げる階段の間に備えられたステンレスの扉だ。
 階段を降り終えると、すぐ傍には靴を履き変えるスペースと簡素な靴箱がある。
 俺は自分のスニーカーを手に取り、靴紐を絞ろうと身を屈ませる。
 すると、すぐ目の前の扉を通して誰かが話しをする声が聞こえてきた。
 声色から察するなら明らかにベルスとソウルの二人に他ならなかったが、どうやら穏やかな雰囲気とは言い難い。
 思わず俺は聞き耳を立ててしまう。

 誰かの話を盗み聞きするのは趣味が悪い。そうだとは思うのだが、俺はベルスとソウルの関係というものには興味があった。あれだけの毒舌がベルス相手にはどのように変化しているのか、または全然変わらないのか、少し気になる。
 いや、言い訳だな。
 本当のところは、不意に俺の耳に飛び込んできた二人の話声があまりにも激しいものだったので、体が固まってしまったというのが事実。
 聞こえてくるソウルとベルスの口論は、それほどに他者の介入を拒んでいる印象を受けた。
「どういうことだ? 貴様は一度ならず二度までも命令違反を犯そうとしているのだぞ。どうして気づかない」
「命令違反なんてしていない。私は可憐から『大人しく』しているように言われたけれど、店の外に出てはダメだとは言われていないわ。それを細かく文句言っているのはソウルじゃない!」
「それが愚かだと言っている。ベルス……貴様は状況がどれほど緊迫しているのか冷静に判断できていない。奴等は最後の鍵を見つけてしまった。貴様の愚かな戦闘行為によって、相手に次に自分が取るべき選択を示唆してしまったのだ。事前に忠告を受けた身でありながら、それを蔑ろにしたのは貴様だろうが。いい加減にしないか!」
「ソウルはいっつもそうよ。私が何かするとダメダメと言うだけで、私のことなんて全然考えてなんかいない。私はもう大丈夫。いい加減に外の世界をこの目で見たいの。自分の力で、可憐やソウルの力を借りずに自分だけで世界を見てみたいのよ」
「つい先日まで言語さえ使えなかった赤子が何を言うか!」
「そんなの昔のことでしょう!もう子供扱いはやめて」
「貴様がそうやって我の話を拒絶することこそが、貴様がまだまだまだ未熟だと証明しているのだ。そんな貴様が今外に出たらどうなる? 獅子に生肉を差し出すようなものでは無いか!」
 直後に何か割れる音が聞こえる。テーブルの上にあったカップか何かが落ちて砕け散った音だろう。あんなに冷静な印象があったソウルが凄く取り乱している。それだけで冷たい空気が壁ごしでも感じられそうだった。
「大丈夫よ!仮に何かあったとしても、私と御影でなんとかなる。私達が揃っていればZUだって退けることができるんだから! 私はもう十分な戦力になる一人前の紋章術士よ。ソノミセの一員として十分な働きをしてみせる」
「右腕を失った身で何をほざくか! そうか……全てあのゴミ蟲の差し金なのだな? 修復する時間を待たずに突然外出したいと言い出したのは、そうゆうことか」
 あれ? 急にソウルが黙りこんだぞ。
 急激に俺の周りが凍りついてゆく。この感覚はアレだ。ものすごい高い場所に立って、飛び降りろと言われた時の感覚によく似ている。微妙高所恐怖症の俺にとって、あまりにも肯定したくない状況。
 額に嫌な汗が浮かぶ。
 逃げた方が良いんじゃないでしょうか?
 そう頭に警報が鳴った瞬間に異変は起きたのだった。
 ガキッと金属音。その直後に俺の前にあったステンレスのドアから、手が生えた。
「はひ? グブェ!」
手は背を向けようとした俺の胸倉を強引に掴むと、そのまま強力な力で俺をドアへと叩きつけ、ドア自身もその力に耐えられなかった。
 ようするに、ドアごと俺は外に引っ張り出されたわけ。
「御影、なんでそんなところに……」
 両手を口に当て、心底驚いたようにベルスが目を点にしながらドアごと首を絞められている俺の顔を見ていた。
「結論から言えば、この害虫がベルスをそそのかしたわけだな。全てはこのゴミ蟲が元凶だという……そういうことだろう? そうだな!」
 顔が見えないソウルの怒声が部屋に響く。声は低いけど、多分……鬼畜野朗は、めちゃキレている。顔が見えなくても、容易に想像はついた。

 苦しんでいる俺の気持ちを汲んでくれたのか、ベルスが必死にソウルを説得してくれたお蔭で俺は程なくして解放された。
 しかし周りを取り囲む空気が変化したわけではなく。依然として重々しい空気が場を支配していることには変わりない。ピンと張り詰めた空気は、俺にため息をつくことすら躊躇させるほどだ。
 普段は喫茶の裏方として活躍しているだろうダイニングキッチンと隣接したリビング。その中心にある木製のテーブルで、同じく木製の椅子に腰掛けたベルスは顔を伏せて食らい顔を覗かせていばかり。
 対面するソウルは「気に入らん」と一言呟いて俺を解放したかと思うと、ひたすら沈黙を通してしまっている。実に息苦しいこと、この上ない状況である。誰か助けてくれると言ってくれるなら、俺は迷いなく、ソレにすがることだろう。
 状況を整理するならば、単純。
 ベルスが出かけたい……まぁ俺と携帯を買いに行くと約束したことだが。それをソウルに話したところ、思いっきり拒否されたらしい。
 ソウルの言い分としては、まだ怪我も治っていないにも関わらず。しかもZUとの戦闘行為を緩行した翌日に限ってベルスが勝手な行動を起こすことに不満を表しているようだ。
 俺としては、それ以前にベルスの右腕が回復する見込みがあることに驚愕していた。だってそうだろう。普通、右肩をあんな犬っことの大きな腕で貫かれて、無事でいられる人間なんて存在しない。これも俺が知らないだけで、紋章術士の医学が進んでいるというこのなのだろうか?
 いや、話を戻すとしよう。
 このままでは駄目だ。現状維持が最悪の悪循環になることは、日の目をみるよりも明らか。ここは俺がキッカケを与えるしかないかもな。
「別に良いじゃねぇかよ。ちょっと出かけるくらい。ベルスだってそうしたいって言っているんだから、大目に見てくれても……」
「黙れ、ゴミ蟲」
 ドスが効いた低い声。駄目だ。こりゃ交渉依然に俺の話自体を聞く気ゼロだな。
「ソウル。さっきは少し言い過ぎた。ごめん」
 俺を一括したソウルに続いて口を開いたのは、先ほどまで不満を顔に表していたベルスだった。どうやら、俺がワンクッション入れたことに便乗したみたいらしく、大人しい口調で続ける。
「よく考えてみたら、ソウルの話はもっともだし……私も調子に乗りすぎていた」
「わかっているではないか。では……」
「でも私。自分の力で外を見てみたいって、言ったのは本当だよ。今まで可憐とソウルが私を外に出さないようにして、ZU達から守ってくれていたことには感謝しているわ。でも……私は」
「何度言わせれば理解できる。それはできん」
「で、でも私!」
「話はこれまでだ。部屋に戻れ」
 おいおい。なんだか苛々してきたぞ。今まで師匠とソウルがベルスを外に出さなかった? その部分については違和感が残るが、それよりも……
「ちょっと待てよ。この馬から念仏野朗」
「黙れと言ったはずだが?」
「黙らねぇよ。テメェ何様のつもりだ? ベルスがこんなに誠意を通してお願いしてんだぞ。お前もそれなりの対応ってものがあるんじゃねぇのか。何をそんなに気にしているのか知らないがよ。ベルスはソウルが思っているほどバカじゃねぇだろ。俺には、お前が必死こいてベルスを自由にしたいようにしか聞こえないんだよ。なぁ聞かせてくれ。何をそんなにビビってやがる」
「御影……」
「無知なゴミ蟲の分際で、言うことだけは勇ましいな。沈黙すら貫けぬと言うのなら、この場で喉を潰してやろうか?」
「やってみろ。その代わりにベルスの我がままくらい聞いてやれ」
 俺とソウルは立ち上がる。お互いに殺気に満ちた目で睨みあう。
「だ、駄目だよ御影。ソウルも止めて! 私は部屋に戻るから……」
「引くんじゃねぇよベルス」
「え?」
「お前くらいの女の子が世間に興味を持ったんだ。それはな、お前が思っている以上に凄いことなんだぜ。自販機も知らない、携帯も知らない。そんな世間知らずが、自分から何かを学びたいって言っている。俺はお前のこと、何も知らないけど……その行為自体がどれだけ勇気を持って実行しようとしていることか、空気読める俺様にはわかるんだよ。だとすれば問題は、小娘一人の我が儘一つも一言で否定するような心のセッッマーイ大人なんだ。だからお前から引くなんて妥協案は認めない。いや、絶対に妥協しちゃいけないんだ」
「…………」
 ベルスは驚いたような顔で俺の言葉を聞いたかと思うと、今度は安心した様子で微笑み、その次は意を決したように頷く。
 その表情を見て俺は確信する。俺は間違っていないと。
「貴様……言いたいことはそれだけか?」
 ソウルの殺気が際立つ。本当に脳天の血管から血でも出てきそうだ。一歩も引かない俺に、いい加減に我慢の限界に近づいているのかもしれない。だが、俺の方も考えを曲げるという選択肢は取らない。
 今、波乱の風が吹こうとした次の瞬間だった。
「おはこんばんにちはぁー!」
 ソノミセの出入り口の扉がカランと鈴の音を鳴らした。その場の俺を含めた三人の意識はすぐにそっちに移される。
 軽い革靴の足音。まるで当然のように俺たちの居るカウンターの奥まで、淀みも無く彼は能天気な笑顔を見せてくる。俺が紋章術士のことを知ってから、もう見慣れてしまった、子供のようで、老人がみせるような深みがある笑顔が、そこにあった。
 栄えるバラ色の真っ赤な髪。白シャツの上に安物のベージュジャンパーを羽織った、一目では絶対に女だと見間違われる中性的な人物。
 可憐・ジグ・レザードと呼ばれる紋章術士。俺の師匠が、呑気に現れたのだった。

「いやいや、色々と用事を片付けていたら戻るのが遅くなっちゃったよ。帰ってみたらヴィジョンズのお偉いさんに呼び出されるわ、ソノミセの仲間に情報説明を一気に聞かされるわ、お気に入りのメーカーの新作ケーキが出ているわ。もう忙しかったよん」
 ほとんど白に近い素肌に人形のように整った顔立ち。少し高い声色は幼い少年だけが持つボーイソプラノのそれだ。
 唯一可憐で違和感を覚える点は、腰に下げられた一本の日本刀だけ。
「か、可憐!」
 その明らかに場の空気を読んでいない人物の登場は、俺たち三人の意識を刈り取るには十分すぎるほどの威力を持っていた。
 今まで落ち込んでいたベルスは、急に顔を明るく変えて、主人の帰りを待っていた子犬のように、微笑む可憐のもとへと駆け寄る。可憐のほうもベルスの行動を知っていたように、両手を少し広げながら彼女を優しく抱きしめた。
「おかえり」
「ただいまベルス。また大きくなったね。相変わらず抱き心地いい」
「三ヶ月ぶりだね。可憐は全然変わってない。相変わらず砂糖とバターの良い匂い」
 紅と金。その鮮やかなコントラストが、なんだか鮮やかすぎて、俺は思わず「絵になってやがる」なんて言葉を呟いてしまった。
 だが呆気に取られて何も言えない俺とは違い、一息置いて一応冷静さを取り戻したソウルは口を開く。
「遅いぞ。本来であれば昨夜のうちに顔を出せたものを……一体どういうつもりなのか、しっかりと説明して貰うとしよう」
 低いトーンで淡々と言うソウル。普通ならば威圧されても可笑しくないその態度だが、俺は師匠がそんな繊細な神経を持つ人物ではないことを、知っていた。
 ベルスの両肩に手を置いて、懐いていた彼女を引かせると、全然変わらない緊張感の抜けた笑顔で、また子供のように僅かに頬を膨らませる。
「さっきも言ったじゃないか。色々忙しかったんだって」
「そうだな。それで? 堪能したのか、他店の新作は……」
「え……と。それはですねぇ……セブンヴァイツのレクレアが絶品でさ。どうやら卵の扱いに気を配り出したみたいだね。あの舌でとろけるような食感といい、噛んだ瞬間にサクッと音を立てるシュー生地が最高。残念なのはチョコレートだけ。それでも、うちのレクレアと比較してみても劣らない出来だったな。あぁお持ち帰りで少し包んで貰えば良かった!それとね」
「もう良い。十分に堪能したことは伝わった。だから少し黙れ、さっさとゴミ蟲に挨拶でもしていろ馬鹿者が」
 どうやらソウルも痛感しているらしい。甘い物、特に洋菓子の話を始めてしまった可憐のマシンガントークの精密性と自己陶酔モードの解除の困難さ。ようするに、俺の師匠は極度の甘党と同時に、マニアなのだ。
 ソウルから視線を俺へと向ける可憐。
 俺は師匠と別れて、そんなに時間を置いているわけじゃない。感動もへったくれも無いわけだが、俺の姿を確認した可憐は言った。
「やぁ……良い勉強ができただろう? それに手がかりもね」
「死にそうになったけどな。収穫はあった」
「それは良かった」
「だな」
 他の二人に比べて圧倒的に短いやりとり。だけども俺達にとってそれは、当たり前のことで……普通だった。
 俺と可憐はお互いに、無駄の無い、それでいて遠くも無い師弟関係を三ヶ月の間続けていたのだから、今更変える必要もない。
 可憐の帰宅。なのかどうか分らないが、とにかく可憐がソノミセに訪れてから異常とも呼べる状況の変化が俺を襲った。
 最初はソウルと何やら話しがある。と言って俺とベルスをリビングに残したまま、二人はカウンターの方へと姿を消したのだが。ホンの数分の間に二人は俺たちの前へと戻ってきたと思ったら、可憐はいつもの明るい口調でとんでもない一言を俺に告げたのだ。
「御影。君、今日からベルスの教育係だからね」
「は? 教育係?」
 俺としては、店の外まで聞こえるかと思われる怒声で、ソウルと口論になっていたことを諭されるもんだとばかり思っていたんだけど、全然変わってねぇ……この師匠はいつも俺の予想の斜め上を行く。
 一瞬だけ思考がスパークしていたのだろう。すぐに言葉が出てこなかった。
「ゴミ蟲。まさか不服だとでも言うのではあるまいな?」
「不服って、俺には何がなんだか、サッパリなんだけど」
 額に手を当てながら俺はベルスを見る。どうなっているのか教えてくれ。そういうメッセージを無言で飛ばしてみた。
「うーん」
 ベルスも俺を見て、一回考えるように唸った。俺のテレパシーよ。届け。
 彼女の顔が明るくなる。自分の中で答えが出たのだろうか。俺の中の期待が高り、
「よろしくね。御影」
 その期待は一気にぶち壊されてしまった。ダメだ。やっぱり直接聞くのが一番速いらしい。初めからそうすれば良かった。どうやら、今の俺は頭が回っていないらしい。
「可憐。俺には何を言われているのか理解できていない。ベルスの教育係って、どういう意味だよ?」
「御影は紋章術士を取り囲む世界の情勢に疎い。それに比べてベルスは一般常識が欠如しているのは、君にはもう理解できているだろう?」
「あ、ああ。確かにそうだな」
 何やら意味深な笑みを浮かべながら、可憐の口から飛び出すのは理に適った言葉の数々。かいつまんで説明するとだな。俺がベルスの教育係になれと言われたのは、ように世間知らずの面倒を見てやれという意味合いだったらしい。それと同時にベルスも俺にとっての教育係。こっちは不足している俺の紋章術士の知識を補い、それを吸収しろってわけだ。
 だったら他に言い方という物があるだろう。こっちも男の子だ。女の子の教育係なんて甘美な言葉を受けて、変な想像をするなという方が酷だろう。
 ま、それを真に受けないために冷静に対象したんだが……
「どうしたんだい? 顔が赤くなってるけど? もしかして、変な期待しちゃった?」
 この目の前の嬉しそうな顔で笑っている可憐という男に、殴りたくなる衝動が浮かぶのは何故だろう。
「言い方があるだろ。それにベルスには俺じゃなく適任がいるじゃねぇか。ソウルとかさ」
「それは無理。今までソウルがベルスの世話をしていたのは確かだけど、もう時期は過ぎたからね」
 それは何の時期だよ。それとは逆に、俺に任せる時期ってなんだよ?
「とにかく、御影が一番なんだよ。もうデートの約束だってしているわけだし、ねぇ?」
「デートと言えばそうだけど……おいベルス、お前は全然平気なのか? 俺なんかが教育係なんて、後悔するぞ絶対」
「それは無いと思う」
 できれば否定して欲しかった俺の気持ちとは裏腹に、ベルスは即答で返してくる。
 お前には恥じらいという物が無いのか。そう言いそうになって口を噤んだ。これ以上可憐のペースに巻き込まれるのはごめんだ。
「ゴミ蟲」
 そんなタメ息展開が続く俺に、ソウルは冷たい印象を受ける声色で話しかけてくる。腕を組んで相変わらず不機嫌丸出しの表情で、こう告げた。
「さっさと行け」
「は?」
 一瞬の沈黙。その言葉の意味を思考するのは三秒を必要とした。
「貴様は今日からベルスの教育者。それらしい節度を持った態度で取り組め。そうで無ければ我が貴様を潰し殺す。ベルスに『もしも』のことがあって見ろ、その時は……楽に死ねるとは思わないことだ。息がある限り苦痛と恐怖を植え込んでやる。だが……」
 もう聞きなれた毒のある台詞。だがそんな物よりも印象に残ったのは、その最後に付け加えられた、沈んだようでいて、どこか残念そうなソウルの本心だった。
「それ以上は干渉しない。ベルスに多くの世界を見せてやれ」



 速水御影とベルス・テス・ペルシアルが『ソノミセ』を退出する様子を確認してから、俺は懐かしいその店に入店した。
 ドアを開くとカランと鈴が鳴る。日が差し込む店内には並べられたニス塗りの木製テーブルが光りを反射し、店内のアンティークがまるで異世界に迷い込んだ錯覚を覚えさせる。記憶から霞んでいるかと思っていたそれらの光景は、意外な程に脳裏に焼きついていたらしい。何の違和感も感じることなく、俺はカウンター席へと腰を下ろした。
 そんな俺に対応するのは、見知った赤い髪の男だ。私服を制服に着替える風でもなく、馴れなれしい笑顔を剥がさず俺の姿を確認すると、軽いイントネーションで聞いてくる。
「やぁ、突然来ると聞いた時には耳を疑ったよ。何をお出ししましょうか? お客さま」
「ミルクティー。そこに砂糖を多めで頼む」
「相変わらず、紅茶の味を壊すことしか知らないね。たまにはダージリンでも飲んでみたらどうだい? 前は好きだったでしょ」
「それは何時の話だ。悪いが覚えていない」
 俺の答えを聞いて、可憐の顔に影が差す。何を思っているのだろう。彼と会わなくなって暫く経つ。丁度、速水御影と修行を行っているとの提示連絡を受けてから一言も言葉を交わしていなかった。必要がなかったと言えばそれだけだが、彼はその間に若干表情が豊かになったかも知れない。
「お前らしくないな。可憐、世界最速の紋章術士とも呼ばれるお前が小僧一人に心を乱されている。まるで少女のようだな」
「そんな冗談は面白くないよ。ただ……彼がとても前評判とは違かったから、意標を突かれてしまっただけだ」
 そう呟きながら手馴れた動作で紅茶を淹れるとカップが俺の前に差し出された。嗅いだ香りだけで分る。可憐は俺が言った注文を無視して、単純にミルクを入れただけのミルクティーを淹れてしまう。
「砂糖」
「駄目だよ」
「砂糖を入れろ」
「だーめ」
「朝は頭を回転させたいんだ」
「そんなこと僕は知らないよん」
 気が付かない内に、可憐にはいつもの笑みが戻っていた。誤魔化しているように、小さな悪戯を仕掛けてくるところは、少女のような外見と合わさって不思議と怒りは湧いてこないが……
「ガキかお前は……」
 素直に従ってやるのは自分が負けを認めたようで腹立たしい。だから俺は早々に諦めてセルフでそばにあった小瓶から砂糖を掬っては入れ、掬っては入れた。ゴリゴリと五月蝿い音を立てながら、スプーンでかき混ぜる。
「どうして彼等の前に姿を現さないんだ? そうすれば……変化は必ず訪れるのに」
 可憐の声を無視し、俺は機械的に砂糖水に変わりつつある紅茶を口に運び。一気に胃の中に半ば強引に流し込んだ。そうすることで、少しは聞きたくない言葉も意識から外れると思ったから。
「お前は俺が言ったように動いていれば良い。そうすれば、お前の姉の情報は提供してやる。それでは不服と言うのなら、手を引け。ソノミセからも、紋章術士からも、ヴィジョンズからも、魔錬士からも、ZUからも、あの化け物からも、全てを背にして逃げ出せばいい。それでお前は解放されるぞ。少なくとも……数年は平穏な暮らしができる」
 席を立つ。無造作にコートから札を一つ取り出して、カウンターに置いた。
「僕がそんなことできないこと知っている男の台詞じゃないと思う。ソレ」
 珍しい。可憐という男が怒りを覚えた声を出すなど、俺は敵を前した時だけだと思っていたからだ。さすがに今の言葉は逆鱗だったらしい。
「僕は諦めない。姉さんのことも、御影とベルスのことだって……それが汚いと言われても構わない」
「そうか。悪いが、俺はとっくに諦めた」
「嘘でしょ? 君は諦めたんじゃない。諦めない自分が怖くて、必死に誤魔化しているだけだろう。昔みたいに足掻いてみたら良いんだ。そうすれば」
「俺はもう終わっている。これからは速水御影の時代だ」
 もう言葉を交わすことも面倒になってきたと思い。それから俺は静かに可憐に背を向け、ソノミセのドアに手をかける。
 店を出ようとした時、背中に可憐の最後の言葉が耳に残った。
「この頑固者」と……



 ソノミセから出てから数分。俺はどうしてもツッコミたい衝動を必死に抑えながら、日曜の人ごみの中を歩いている。ソノミセが建っていた小さなレンガ作りの脇道から外れ、大通りへと合流してから、目にする人の数が道を歩く暇人のお蔭なのか知らないが増加していた。
 それを目撃してからだ。ベルスの異変が始まったのは。
「ここをもう少し歩いて、二番目の交差点だったと思う。最近その辺りに大きなショッピングモールができたって可憐が言っていたから、間違いないわ」
「そうですか」
 あぁーツッコミたい。
 周りをキョロキョロと見渡しながら、快晴の青空に下を二人の男女が歩く。デートとしては最高のロケーションなんだが、盛り上がるところまで行かないにしても、気分が沈んでいるのは何故だろう。
 確かに京欄町のことを何も調べていなかったのは俺のミスだ。
 そう思った矢先にベルスが「必要な物をあらかた揃えられる場所を知っている」と言ってくれたことにも助かっている。助かっていますよ。だけど……
「そこだよ御影。ほら、早く曲がって」
 もう駄目だ。我慢の限界。
「ベルスさん」
「何よ? 急に立ち止まらないで、早く行きましょう。時間がもったいないわ」
「いい加減に俺の影に隠れている理由を説明してくれないか?」
「へっ?」
 そうなのだ。さっきからずっと、ベルスは俺の後ろで前の様子を伺いながら一緒に歩いている。ほらアレだ。初めて散歩に連れて行く気が弱い子犬が、主人の足から離れない様子と同じで、ベルスは俺の前を歩こうとしない。それどころか、男の背中を壁にして誰かの視線を必死に避けようとする彼女の姿は、第三者から見ればただの変人としか見えない。
 仮に恋人同士だと勘違いしてくれたとしても、彼女を背中にわざわざ隠して歩く馬鹿野朗なんて、世界中のどこを探しても見つからないだろう。
 要するに、俺はそれらの異様で珍しい物を見るような生暖かい視線にずっと晒されていたわけです。聞くぐらいの権利は主張したい。むしろ、させてくれ。
「だ、だって……」
「なんだよ。良く聞こえないぞ」
「あ……その」
 振り返ってベルスを見ると、なんだか恥ずかしそうに顔を赤くしていた。顔を下に向けて自分の並んでいる両足に視線を向けている。
 もしかして……
「ベルス。お前、ソノミセの外出るのは何度目だ?」
「えっと、二回目」
「ほう、そうすると……昨日も合わせて二回目。昼間に町を歩くのはこれが始めてなのか?」
「う……うん」
「ここからは全部俺の予想だ。聞き流してくれて良い。今までソノミセの店内でしか可憐とソウル以外の人を見たことがないベルスちゃんは、晴れて今日始めて昼間の世界を体験することになったのですが。いざ外に出るとビックリ仰天。そこには今まで見たことの無い程の人、人、人。大勢の人が通りを歩いていたのでした。そのあまりの迫力に驚いてしまった彼女は、なるべく視線を合わせないように傍にいた御影くんの影に隠れてしまい。それでも自分では何となく言うのが恥ずかしくなってしまって、今に至る」
「…………」
 ベルスの顔がさっきよりも赤くなってしまう。
 可憐から教育係について説明を求めた時、俺は『ベルスを俺に任せる時期』について疑問を抱いたが、あっさりそれは解けてしまった。
 幼稚園児を母親から離す時と同じだ。要するに、ベルスには基本的に対人関係のコミュニケーション能力が不足していたのだ。他にも要因があるのかも知れないが、一つであることには変わりないことは確かだと考えて良い。
 だとするならば、同い年くらいの俺を指定したのにも納得がいく。
「ベルス」
「な、なに?」
「とりあえず前見ようぜ。手ぐらい繋いでやるから」
 急がせなくて良い。少しずつだ。
 そう思って俺はベルスに手を差し出す。
「あ、ありがと」
 するとベルスは困惑したように、間違いを指摘された子供のように恐る恐る俺の手を取った。相変わらず右腕は動かない。
 それでも残った左手で俺の右腕を掴むと、金髪の少女は俺の隣に立ち、顔を上げた。
「人、いっぱい居るね」
「おう、日曜だから凄いな」
 俺は笑いかける。今ベルスの心は不安に押し潰されそうになっていると思ったからだ。誰かの笑顔は、誰かの心を軽くすることを……俺は知っているから。
 精一杯に、笑ってやった。


 京欄駅から徒歩五分。ソノミセからだと十分の場所に大きなショッピングモールが存在していた。というよりも駅周辺の開発と同時に建設された商店の密集地。その名は『ジャンクスポット』随分いかがわしい名前である。
 ベルスが案内してくれたその場所は、意外や意外。俺も名前が聞いたことがあるほどに有名な荒野市の観光スポットの一つでもあった。
 俺が聞いた情報は依然、数回会っただけの知り合いからの情報のみだが、それだけでも多くの人間が注目を集める巨大ショッピングモールであることは理解できていた。
 ご理解の早い人ならこの時点である疑問が浮かぶであろう。
 そんな人が密集する場所に、今のベルスが辿りついたらどんな反応を示すか……
「え、あ……あ」
「大丈夫かよベルス。顔、真っ青だぞ?」
 大きなアーチを描くジャンクスポットの門の前で、俺は隣の金髪少女に目を向けた。蒼の瞳は遠めからでも潤んでいるのが分る。つまりは動揺しているのだ。
「平気よ。このくらい。全然平気に決まっているじゃない。そうよ。平気よ。ZUに比べれば皆弱そうだし、何かあっても即座に対処してみせるわ」
 とか何とか強がっているが、握っている手は震えているし。おまけに言葉も途切れ途切れだし、紋章術士でも無い一般の方々に対して喧嘩売ろうとしているし、とても大丈夫に見えないんだけど。
 と言うか、何かあったらって何だよ。何か起こると思っているのか彼女は。
「そんなに緊張すんな……って言っても無駄か。取り合えず、はぐれないようにだけ注意しろよ。お前、色々と危ないから」
「何よ御影。私が一人になったら何もできないと思っているの?」
「そうですけど? 何か?」
「私の紋章術は御影よりも戦闘に特化しているのは先日の戦いで証明してみせたでしょう。むしろ私が不安になるのは御影の方よ。それなのに、その態度はどういうつもり」
「だから、それが心配だって……言いたいんだけどな」
 今のベルスには、歩く見知らぬ人間が自分に対して有害か無害か、その判断すら曖昧なところなんだろう。これじゃ、何時爆発するかわからない爆弾と同じじゃないか。
 そう思った俺は、一言。ベルスに課題を与えることにした。
「なぁベルス。お前、買い物中は紋章術使用禁止な」
「し、信じられない。それは敵に襲われても無駄にやられろと言いたいの?」
 だから、その解釈事態が間違っているんだって……いくらZUだって俺達みたいな新参者を明るいうちから襲うことなんて稀有だと思うし、もしそうなったとしても場所はジャンクスポットの日曜。大勢の人に囲まれた中で大騒動を起こすリスクは高い。
 そんなこと、頭の良いこの子なら解ると思うんだけどね。
 どうやら本当に焦っているみたいだ。額に汗まで滲んでいる。そんなに危険か、ただの人だかりが。ピラニアの群れに飛び込むんじゃないんだぞ。
「体が誰かとぶつかったら謝れ。それでも因縁つけてきたら、もう一度謝れ。それでもしつこいようだったら、俺がなんとかする」
 それでもベルスのような美人には、もしもがあるからな。一応指示には念を入れておくことにした。
「ほ、本当に大丈夫よね」
「あぁ……俺の得意な分野はなんだ?」
「防御力?」
「正解。何かあっても慌てるな。俺になんでも言え、そうすりゃ何とかしてやるからよ。変な物は触るな。疑問に思ったことがあるなら聞け。俺がお前を守るから堂々としていろ。良いな?」
 俺はそれだけ言うと、もう一度ベルスの顔を確認する。あれ? おかしい、確かに震えは止まっているようだが、なんで顔が赤くなっているんだよ。
「うん……わかった」
 しかもいきなり素直になる。なんだか気味が悪いな。
 そう思いながらも俺はベルスを引っ張ってジャンクスポットの中に入ることにした。門を潜り抜け、邪魔な人ごみの流れを目にしながら、ベルスの手を離さないように注意する。
 目的は、そうだ。携帯を手に入れなくてはならない。あれが無いと面倒な場合があるからな。特に教育係なんて面倒な立場となった今では、その重要性は高まるに違いない。


 それはとてもこの国とは思えない光景。ソノミセの店内を見た時にも思ったが、ジャンクスポットが醸し出す雰囲気は、ソノミセの時のような素朴な物では決してなく。自分が異国に迷い込んだような気分にさせるほどの魔力を持っていた。
「話には聞いていたけど、どれだけ金かかってんだよ」
「綺麗……」
 門を潜り抜けて俺たち二人を待っていたのは、天井に掲げられたステンドグラス。一人の天使を中心として、羽を生やした着物の女性、下半身が馬のケンタウロス。そして、日の光を浴びて輝く数多の伝説上の生物達が、そのステンドグラスの中で美しい一体感を放っていた。
 肝心の店を並べるブースも普通の代物とはかけ離れている。俺たちが今立っているメインストリートが一直線に伸びるセンター線だとするなら、左右に設置された店と言う本を並べる本棚。いや、これは比喩でもないのかもしれない。左右に四本ずつ設置された堀りが深い捻り柱を基点として片方は黒、もう片方は真珠の輝きを持つ建築様式。所々に螺旋階段も設置されており、真横には同じように真新しいエレベーターまである。
 歴史を感じさせるバロック様式でもありながら、ところどころに建築家の拘りが素人の俺でもはっきり伝わってくる。ジャンクスポット(屑鉄場所)とは良く言ったものだ。屑鉄はこの建物のことを言っているんじゃない。
 俺たち人間のことを指しているのだと、この場所を訪れた何人の人間が、その真理に気が付くことができるのだろうか。
 頭上のステンドグラスを神が見つめ、左右の世界を魔界と天界の分かつ。
 その間を走るメインストリートは、まさに人間界。灰色のタイルを張った道は、光りと影の心を象ったようでいて、今も何人もの観光客がその上に立っている様子はもう一つの世界とも表現できていた。
 以上。門の付近にいたガイドさんから貰ったパンフレット『初めてのジャンクスポット』に書いてあったここの詳しい詳細を読んだ時の俺の解釈でありました。
 正直、俺は芸術なんて物に詳しいほど博識じゃない。いつも自分のことだけで精一杯ですよっと、考えながらパンフレットに記載されているジャンクスポットの全景地図の中から携帯ショップを探してマークをつける。
 Aの四だ。
「Aってことは、一階のことだから……」
 視線を巡らせると、いくつもの祝開店の文字を掲げた看板の中から、目的の店を発見する。
 休日で増している人の群れを上手く縫うように歩き、ちゃんと後ろからベルスがついてくることを確認する。
「ねぇ御影?」
「ん。何だ?」
「神様って本当にいるのかな?」
 ふと立ち止まると、ベルスは頭上のステンドグラスを見つめながら、そう言った。
 空と同じ色をした彼女の瞳は、天井のそれよりも高い場所を見ているような。そんな干渉を抱かせる。動かない右腕がもし動いていたならば、彼女はその手を天に伸ばすこともできたのだろう。と、どうでも良いことを俺は考えた。
「ベルスが居て欲しいと思うのなら、きっと居ると思うぜ」
「私が居て欲しいと思うのなら……か」
「神様なんて、人の心の中にしか居ない。現実に神と呼ばれる存在なんて、世界中のどこを探したって見つからないけれど、それを支えにしている人が一人でも居る限り、神という存在はきっと『在る』。だからベルスが神の存在を望むのなら、きっといるさ」
 視線を動かさないベルス。俺の言葉が彼女にとって答えとなるかは、疑問が残る。だから俺もステンドグラスを眺めながら、考えた。
 きっと、俺は神を信じても信じなくても地獄に堕ちるだろう。それだけのことをして、後悔に懺悔を重ねて今を生きているんだから。
 でも彼女は違う。ベルスはこれからなんだ。
「私は、神様なんていらない」
「そっか」
「神様がいても、邪魔なだけだから。私のすることは、一つだけだもの」
「ベルスがすることって、なんだ?」
 そこで初めてベルスは俺を見る。だけど視線はすぐに足元へと下がってしまった。
 俺が首を傾げると、苦虫をかみ殺すような苦い表情を見せ、一言だけ。
「敵を……殺す。それだけ」
 と周りの雑踏にかき消される寸前の小さな声で呟く。
 なんだろう。この気持ちは、とても切ない。彼女の奥底には何が眠っているのだろう。考えても考えても、何も分らない。
「行こうぜ」
「そうね」
 俺はそんなベルスを見て、何も言えなかった。ただベルスにそんな顔をして貰いたくない。そう思って、先を急ぐことにした。

 人ごみを抜けて、ようやく携帯ショップに辿りついた俺達。やはり休日というだけあって、このジャンクスポットにも多くの家族連れが来ているようだ。
 こうして携帯ショップの前でもその微笑ましい情景を垣間見ることができる。
「おい、チャックあるんじゃねぇの?」
「どうせ中身人間なんだろー」
「引っ張り出しちゃえ!」
「や、やめて欲しいクマぁ。止めて……クマァ!」
 良くあるだろう子供に風船配ったり、写真を求められたりする人気者。アミューズメントパークで見かける着ぐるみ。
俺とベルスが目的の場所に到着したその瞬間。目に飛び込んできたのは、その携帯ショップキャラクターであるクマの着ぐるみを、蹴ったりジッパーを下ろそうとしたり、頭を引っ張ったりしている初々しい子供達の姿だった。
「うわ……最近のガキって容赦ねぇよな」
 思わず口から感想が漏れてしまった。どうやら着ぐるみの中身の従業員も相当の忍耐を持っているようで、頭を必死に抑えて蹲ったまま、何もすることができない。
 要するに袋叩きならぬ、袋出し状態。あれを見る限りでは着ぐるみの構造上、ジッパーは隠されているタイプなんだろう。着ぐるみを着ていてもハッキリと解るほどに、従業員は汗を流しながら唯一の弱点である頭部を死守しようとしている。
「止めてくれ……もげちゃうクマ」
「ジッパー無いよ?」
「んじゃ頭だよ。コイツずっと頭抑えているもん」
「よーし。かかれ!」
「クマァァァァ!」
 哀れクマ。君の前線は空しく、子供達の頭の回転は速かったらしい。うん、彼等は将来ビックな存在になるかもしれないな。こんな場所で堂々と人を困らせて、大した度胸と行動性。これは楽しみ楽しみ。
 俺はさっさと店内に入ろうと無邪気な一幕に背を向ける。
「止めろ! クマさんが困っているじゃない。動物に乱暴をするのは悪い人がすることよ」
 そんな三人の子供達を制する声は、どこかベルスに似ていた。
 世界には同じような人間が三人くらいはいると聞いたことがある。偶然という物はあるんだな。
 そして俺は横にいるベルスと一緒に店内に……あれ? 居ない。
「なんだぁ? この姉ぇちゃん」
「私たちはこのクマの正体をつきとめようとしているんだよ?」
「邪魔しないでよ」
「だ……駄目だよ。クマさんが可哀相じゃない。弱いものイジメは駄目だって可憐だって言ってた。だからダメ」
 俺はゆっくりと振り返り、現実逃避しようとしていた自分が愚かだったことに気が付く。そうだ。天真爛漫な子供達と、まるでクマを救済しようするために立ち上がった勇者のような少女は、紛れも無く俺の知るベルスさん。その人だった。
 俺と繋いでいた手を離し、仁王立ちで三人の子供に立ち向かっている。
「邪魔すんな!」
「うるさいよ」
「あっちいけ!」
「う……」
 そして子供達の睨みつけ攻撃に相当の精神的打撃を受けていた。一歩後ずさりして、戦慄を覚えたように顔を強張らせていらっしゃる。
 正義感が強いのは関心するけれど、めちゃビビッているじゃん。しかも子供に。
 思わず俺は額を押さえていた。軽く眩暈がした。

このまま放っておくのも面白いのだが、さすがに教育係という役柄を引き受けた形となっている今となっては、そんなことをしたらソウルに殴られかねない。ここはベルスの勇気に免じて正義の味方の代打を勤めるとしようか。
「ベルス。どうする? このままクマを置いていくか?」
 俺がそっと後ろから茶化したようにそう言うと、ベルスの澄んだ瞳が見る見る怒りに変わってゆく。そして俺に向かって顔を会わせると、「絶対に嫌」と短く言った。
 そのあまりにも純粋な反応に口元が少し緩む。
「そうだな。そんくらいの気合でガキ達にも向かって行けば良いんだ」
「な……でも」
 分っている。ベルスは優しいヤツだ。強い力を持っている人間に必要なこと。それは自身の力を知り制御し、さらに律することだったりするのだが、今のベルスにはその加減が分らない。そして恐れている。目の前の小さな存在に対して、どう接して良いのか混乱しているわけだ。だけど、それはこれからの経験で少しずつ会得すれば良い。
 彼女は今まで外の世界を知らなかった。
 最初の一歩を恐る恐る踏み出している状態。ならば、保護者たる俺が今成すべきことは二つだけ。一つは見守ること。もう一つは、尻拭い。
 俺は軽くベルスの頭を撫でてやり、「ま、俺に任せろ」と言った後、クマの頭を掴んだまま静止しているガキ達のところに近づく。
「なんだよ。今度は彼氏の方か?」
「二人ともカップルなの?」
「当たり前だろ。あのお姉ぇちゃんの頭、なでなでしてた」
 随分勝手に解釈してくれているが、まぁ良い。
 ガキ達と同じ視点になるように腰を下げ、優しい笑顔で接する。
「なぁそのクマを許してくれないか?」
「嫌だよ」
「そっか……そいつは残念だな」
 そこで俺は徐所に表情を変えてゆく。にこやかな笑顔から、段々と薄気味の悪い微笑みに切り替えて、喉元からクックックと声を出す。
「な……なんだよ」
 どうやら主犯格らしい男の子だけが気丈にも俺に食いついてくる。他の二人はだんだん顔を青くし、今すぐに逃げ出したい衝動に駆られている。
 我ながら大人気ない。
「そんなことばっかり言っている悪い子は……」
 だから早く終わらせることにしました。
「頭からバリバリ食っちまうぞ、ゴラァァァァ!」
「ひ、ひぃ!」
「ば、化け物だぁ!」
 そこまで言ったらさすがに幼い彼等の行動は早い。一目散にクマから離れ、小さな体は大急ぎで雑踏の中へと消えていってしまった。迷子にならなければ良いが、と一瞬不安にも思った。しかしながら、子供の管理が行き届いていない親には良い薬とも言えよう。
 そこまで考えて納得する。
 今までお疲れ様だったクマは立ち上がり、「ありがとうクマ」と俺に会釈を返すとベルスに駆け寄る。最初に一声かけてくれた彼女に対しても同じように接して、彼もしくは彼女は店内へと戻っていった。
「ま、これで一段落って感じだな」
「うん。でも御影」
 ガキを追っ払ってきた俺がベルスの元へと戻ると、彼女は俯き加減で言った。
「私、御影が人食者だったなんて……知らなかった」
「いや、冗談だからね。そんなに落ち込んだように言われても困るんだけど」
「そ、そうなの? 良かったぁー」
 そんなベルスのペースに巻き込まれながら、だんだんツッコミに馴れてきている自分が、少し怖くなった。

 並べられている色鮮やかな携帯のサンプルを眺めながら、俺は自分の用途に応じて一番効率的であると思われる機種を探す。と言っても最低限にネットへの互換性があれば十分だとは思うのだが、それでもデザインと操作性ぐらいは触って確かめて置かねば。
「やっぱ、これかな」
 時間としては三十分弱ぐらいだろうか。
 俺の手に収まっているのは最近名前を挙げてきた電子メーカーの最新機種。黒光りしているボディはスタイリッシュでありながら、光りを当てると僅かにメタル独特の銀の輝きを見せる。面白い色彩と、今では珍しくなってきた折り畳み式の形態だった。
 自分の使用機種が決まり、俺は改めてベルスの姿を探す。休日でもこの携帯ショップはあまり混んではいない。このジャンクスポット自体が一種のテーマパークのようなものだ。雑貨屋や、その他の店と比べて雰囲気もない。蛍光灯に照らされたごく普通の携帯ショップの店内は、たしかに人を寄せ付けるには不十分であるのも頷ける。
 目立つ金髪。目をつく美しい長髪はそれらのことを除いても、やはり目についた。
「よう。どれにするか決まったのか?」
「み、みみみ御影!」
 肩に手を置き俺の姿を目視するや否や、彼女は驚いた様子で自分の左手を後ろに回して、明らかに不審な態度を取る。ベルスの右腕は動かないわけだから、何かを後ろに隠したと見るのが普通だろう。
 俺はワザと後ろを覗き込むように身を屈めると、彼女はそれを阻止しようと体を捻る。
「ベルス。お前……何隠している?」
「別に隠してなんか、いないわよ」
「ふーん」
 なるほど、後ろめたいことがあるわけだ。
 頑張って笑うベルスさんだが、笑顔が微妙に引きつっていることに気がつかない俺ではない。それを承知しているのだろう。彼女の方も警戒を解こうとする気配もない。
 ここは……適当に注意を逸らすことに決定だ。
「なぁ見てくれよ。俺の新しい携帯」
 俺は先ほど選んだ携帯のサンプルをベルスの顔に差し出す形で見せる。
「へぇ……これ?」
一瞬ではあるが、彼女の視線が対象を得たことで、しばし警戒を解くことに成功。
 その隙に、俺は空いた手でベルスが隠そうとしていた左手をさりげなく取り、相手が力を入れるよりも早く前に引く。
 しまった。そう思ったのだろうが、彼女の思いは空しく、時はすでに遅し。
 ベルスの手には、粉々になった赤い携帯のサンプルが握られていたのだ。もうプラスチックの塊にしか見えない。普通女の子の握力じゃこんな有様は不可能。それを確認してから、ベルスがこれを隠そうとしていた要因を考えてみると、答えは簡単だ。
「握力強化を使いましたねぇーベルスさん」
「ご、ごめんなさい」
「紋章術は禁止だって言ったよな?」
「そ、そうなんだけど……あの」
 小動物顔負けのオドオドとした態度。一般的な男ならドキリともするだろうが、言わせて貰うと俺は女に馴れている。ベルスが天然で、そういう男が誘惑されるような行動を自分が知らず知らずに実行してしまっていることは理解しているが、これも教えないとならないだろう。
 その気が相手にあると勘違いした時の男は、始末が悪い鉄砲玉と同じだから、上級ルックスの良い女の人ってのは、これだから苦労するんだよな。通常だったらそんな人間は自分で予防策を立てるなり、するんだけど……ベルスじゃ、無理だな。
 ため息一回。
 また教えることが増えてしまった。
『とにかく、御影が一番なんだよ。もうデートの約束だってしているわけだし、ねぇ?』
 可憐の言っていた意味は、こういうことかよ。男女の駆け引きについても教えてやれと?
 冗談じゃない。いくら俺が依然住んでいた町で女の子の扱いに馴れているとしても、女の気持ちを全て把握できるわけが無い。どうすれば、良いんだろう。
「握力強化って基礎術式じゃない? ほら、ZUに襲われた時に基礎術式まで解いていたら一方的にやられてしまうから……」
「基礎術式だか、何だか知らねぇけどな。そんな『バナナはおやつに入りますか?』みたいな言い訳は通用しねぇぞ」
「ばなな?」
「返事をしろ」
 ベルスをひと睨みする。そうすると彼女も自分が間違っていたこと後悔したらしい。小さな声で「はい……」と謝る。
 俺だってベルスが全部悪いとは思っていない。携帯サンプルを握りつぶしたことだって、つい興味本位で対象物に触ろうとして、少し力が入ってしまっただけだろう。しかしながら、彼女は普段から紋章術の行使に力を注ぎ過ぎている。
 外の環境に触れる機会が無かった反動なのか、俺と歩いている時だって彼女は自身の体に身体強化を軽く施している傾向すらあったのだ。
 これじゃ……普通の生活にだって支障が出るぞ、きっと。それでもソノミセで生活できていたのは、単純に可憐とソウルの庇護があったからだと、容易に推測することができる。
 俺がベルスに対して行う教育。その第一ステップは、日常生活から紋章術を切り離し、スイッチのオンオフを教えてやること。
 最初はぎこちないかも知れない。上手くできないかもしれない。
 だけれど、これも少しずつ慣らす。
 現にこうして、ベルスは俺の手を握っていなくても一人で行動できるようになった。
 物事には切っ掛けが大事なんだと、俺は改めてそう思う。
 視線を下げ、落ち込んでいるベルスの頭に手を載せると、ベルスも驚いたように上目使いで俺を見た。
「大丈夫だよ。お前ならできるって、少しずつ覚えていけば良い」
「……うん」
 その言葉を聞いて安心したのだろうか。ベルスの顔に明るさが戻った気がした。
「でも、コレ……どうしよう」
 だが問題はまだ残っていたらしい。ベルスの手に握られている粉々に近い携帯のサンプル。これ、弁償代とか取られるのだろうか。てか、説明し難い。
 ベルスのような華奢な女の子が、握りつぶしました。なんて言っても信じて貰えないだろうし、ここは俺が濡れ衣を被るしかない。
「お客様。どうか、なされましたですか?」
 そんな俺の背中に、微妙に間違った敬語、携帯ショップの店員と思われる声が聞こえてきた。俺はゆっくりと振り返る。
「あ、すいません。このサンプル……」
 一瞬見えたのは、長い黒髪。どうやら女性のようだ。
「なん」
 けれども、最初に後ろ髪だと思っていたその髪は、その店員の顔全体を隠しており。
「だけ」
 それは、まるでホラー映画に出てくる幽霊その物で……正直この世の物だとは思えなかった。
「ど……」
 口が停止する。思考が停止する。目の焦点が停止する。体を動かす筋肉が停止する。
「ンギャー!化け物ぉぉぉぉ!」
 しかし肥大した恐怖心のお蔭で、おれは叫び声だけは上げることができた。
「貴方だけには言われたくないです。お客さん」
 それに対して店員は意外なほど冷静で、クソ長い前髪の揺らしながら、そう言った。
「先ほどは、どうもです」
 混乱する意識を整理しようと奮闘する俺の傍らで、店員は呑気に後ろのベルスに挨拶なんてしている。なんだんだろうか、この店員は。明らかにサービス業には不向きの髪型だし、良く採用されたものだ。最近の少子化問題は、こんな場所にまで影響しているというのだろうか。いや、それよりも考えることが違うだろ。
 相当この店員が俺に与えたインパクトは大きかったらしい。首を振ってようやく心が落ち着いてきたことを自覚する。
そんな俺が気になったことがある。先ほどの定員の一言だ。
『先ほどは』とはどういう意味だろうか。
「私、貴女のこと知らない」
「あれ? あぁそうですよねです。顔隠れていましたし、自分の顔を知らないのは当然です。すいませんでしたクマ」
 最後の一言。それが俺達の中で一つの結果を導き出す。
「お前、さっきのクマに入っていた店員かよ」
「嘘……」
 驚きのあまりにベルスは唖然と店員の顔を眺めていた。と言っても前髪に隠された彼女の素顔は辛うじて下顎が見える程度だったが、当人もベルスに見つめられると照れたように頭をかいている。
「ホント助かりましたです。クマの中に入るのは、初めてじゃなかったんですが、最近のガキがあそこまでアグレッシブだとは思わなかったです。声をかけてくれなかったらと思うと……背筋がドライアイスでしたですよ。ありがとうござました」
 相変わらず奇想天外な敬語で、店員はペコリと効果音が似合う、背中を丸めたお辞儀をしてくる。
 どうやらこの店員が、店舗前の騒動でベルスの助けたクマだったらしい。改めて彼女に御礼を言いに来たというわけだ。実際に子供を追い払ったのは俺なわけだが、それもベルスの最初の一言があってこその結果だ。
 そこのところの彼女は理解しているようで、俺にも「あざました」と頭を下げた。
「いや、ご丁寧にありがとう。でも俺は正直ベルスが何もしなかったら、アンタのことを見捨てていたんだよ。俺への礼は無用だよ」
「それでも助けて貰ったことには変わりありませんです。あ……それよりも彼女、大丈夫ですか?」
 彼女って、また勘違いですか。ため息交じりに「そいつは誤解だ」と弁解するが、その後、黙って店員は俺の後ろのベルスを指差してきた。
 なんだ?
 そう思って振り向くとベルスの様子が、また変になっているベルスさんがいた。
「御影。その人がクマさんの中に入っていたの?」
 何か恐ろしいことを聞くように、ベルスの瞳が揺れている。と言いますか、ベルスさんは泣きそうになっているようだ。
「あ……あぁ……そうだよ」
「すいません。こんなキモイ女が中身で」
 店員も、自身の外見がまわりに不愉快な印象を与えることを自覚しているらしい。彼女も俺と一緒にベルスに答えた。
 それでもベルスの顔に変化は無く。いい加減に心配になってきた俺だったが、彼女は軽く深呼吸をして、「大丈夫」と言う。
「マジかよ。具合が悪くなったのなら、どっかで休むか?」
「ううん。違うの……ただ、クマさんの中身が人間だったことに、びっくりしただけ」
 突然の一言だった。
 しばし、俺と店員に沈黙の時間が流れる。それは、ベルスが冗談を言っているのだろうかと、思考し、どうみても彼女が本気で言っているのだろうと結果を出す有意義な時間。
 ようするに、呆気に取られた。
「そうかよ……」
「お客さん。この人、素で可愛い人ですね」
 店員も苦笑いを浮かべて、俺に同意を求めた。それに俺は……
「だ、だろう?」
 同じく笑って誤魔化すしかできなかった。


 遠く離れた景色を見ていた。自身の世界から……遠く離れた世界を。
 何を想うこともない。俺はただ、二人の同行に目を向けているだけだ。
 速水御影とベルス・テス・ペルシアルの二名。
 彼等の他愛も無い。それでいて無意味なやり取りを遠めで眺めながら、ふと頭痛が俺を襲った。足元がフラつきそうになるが、幸い壁に片手が届いたので堪えることができた。
「この痛みからは、何年たっても逃れることはできないか」
 ふと忌々しく愚痴が漏れる。
 頭を悩ますこの痛みに感情を持ったことなど久しい。これも御影とベルスの関係を直に見るようになったことが、原因として挙げられるのかもしれない。
 あの二人は俺にとって毒だ。そのくらいのリスクは覚悟していたのだ。
 人が多いジャンクスポットの中で、俺はできる限り人が少ない、簡素な喫茶に入店することにした。
 目的はあった。協力者からの入電を待つために、少し時間を潰す必要がある。そう判断したから……いや、それだけでは無いか。
 単に、嫌気が差していた。
 ソノミセとは明らかに趣向が違う小奇麗な喫茶。ケーキではなくコーヒーに力を入れているのだろうか。カウンターには俺には見分けがつかないほどの多彩な豆がガラスのビンに収められ、カウンターに並べられている。テーブル席はない。
 あくまで最低限のスペースしか接客に向けられておらず、どうも人を好んで寄せ付けようとする雰囲気もまるでない。
 どうやら、閉店時間も他の店よりも遅いようだった。
 携帯が震えてもすぐに席が立てるように、ドアからなるべく近い席を選択。さらにカウンターに携帯を置く。少しでも早く相手からの報告が聞けるようにするためだ。
「ご注文は?」
 ぶっきらぼうに白髪の老人が俺に声をかけた。それがこの店の亭主であると認識するのに、少し時間がかかった。ダークスーツを着込んだ風貌に、俺は一瞬目を疑ってしまったからだ。
「任せる。コーヒーを一杯」
「ブレンドでよろしいですか?」
「任せると言っただろう」
「かしこまりました」
 亭主はそれだけのやり取りを残し、俺から背を向ける。
 店内には俺を除いて、一人だけ……線の細い青年がいるだけだ。
 色白で、頬も痩せこけている顔。決して整っていないとは言えないが、どこか儚しげな雰囲気が漂う人物だった。
「長くないな……構成式も所々食われている」
 彼が紋章術士であることは一瞬で見分けることができたが、杞憂に終わったようだ。それに俺の正体に気づいている様子もない。
 俺は影でなくてはならない。少なくとも今は、知らない紋章術士や魔錬士に存在を感知される事態だけは避けなくては。
 そう思った矢先。携帯が僅かに振動し始めた。
 亭主に小さく一声だけ「すぐ戻る」とだけ告げて、店から出る。
「俺だ。……そうか、そのまま続けろ。……そうだ。何か通達があったら俺からまた指示を出す。それまで作業を継続しろ」
 携帯をポケットにしまい、俺はそのまま店へと戻ることにする。
 頼んだコーヒーは、思いのほか口に合った。たったそれだけの店だったことに、俺は落胆しながら、しばし店内で時間を潰す。

 ベルスの握りつぶした携帯サンプルを受け取った店員は、意外にも驚く様子も見せず、店長らしき人物に頭を下げ、すぐに俺達のところに戻ってきた。
 話しを聞くとサンプルはお客に触られて当然。むしろ壊れることも視野に入れているという回答が帰ってきたので、ベルスはその話を聞いて安心したんだろう。ほっと胸を撫で下ろして前髪が長いお化けに頭を下げる。
「そ、そんな当たり前のことしただけです。頭を上げてくださです。恥ずかしいことありませんって」
「でも悪いことしたのは変わりないから。ありがとう」
 こういう時のベルスはとても頑固だ。短い付き合いではあるが、彼女は基本自分が正しいと心で決めたことは責任を持って行動している。何でも言うことを聞く子供のような一面を持ちながら、どこか落ち着いて自己分析する視野を持っているのだ。
 扱い難い人間なのかもしれない。それでも俺はベルスのそんな所に嫌悪感を覚えることなどなかった。
 簡単に言うと、真面目すぎる。それだけのことなんだから。
「クマさんの中身が、七海みたいな優しい人で良かった」
「いや、光栄です。……あれ? 自分の名前、教えましたっけ?」
 首を傾げて聞いてくる日向七海(ひむかい ななみ)という店員。
 どうしたも俺達はただ彼女の服の胸ポケットについているプレートを見ただけなのだ。普段なら店員の名前など気にも留めないのだが、今回はベルスがお礼を言いたいと申し出たので、俺が教えてやったという寸法だ。
「ちゃんと、書いてあったから」
「あ……そう、ですか。そうですよ。日に向かう海賊王が七つの海をニタニタ眺めると書いて、日向七海と読みますです」
 例えが歪すぎるぞ。ニタニタの下りは要らないだろ。それになんで海賊王?
 言い終わって照れたように笑う彼女だったが、どうにも可愛らしいと言うよりも薄ら寒い感慨が浮かぶのは何故だろう。ベルスは口元に手を当てて微笑んでいたが、今思えば彼女がこうして笑えていることは進歩なのでは?
 いや、女性と交流をするのも初めてかもしれない。
「お客さん。今日はどのような用件で来られました?」
 また微妙な敬語を使う七海。「新規で携帯を買いに来た。ベルスはまだ決まっていないぞ」と俺は告げ、流し目でベルスを見た。
 七海も俺の態度を見て悟ったのか、小さく頷いてベルスに笑いかける。
「それじゃあ、ベルスさん?」
「何?」
「自分のようなセンスの欠片も無い人間で宜しければ、新しい携帯選びのお手伝いをさせて貰えませんか」
 瞬間にベルスの顔が戸惑う。それでも肩の力が抜けた様子で、次は明るく「うん」と返すことができた。
「御影……」
 俺を気遣っているのだろう。単純に俺の時間を裂くことを悪く思っているんじゃない。可憐にも昔教えられたことだ。
『紋章術士において、他人の意見はとても参考になる。命を削る僕達の行動は自分でも知らない内に体を酷使しているものだ。だから……あらゆる状況で上の立場の人間の意志を聞いておくんだよ。第三の意見は、己の盾になることを肝に銘じてね』
 それを彼女は忠実に守っているだけ。まぁこの場ではちょっと的外れだと思うが。
 ベルスはそれでも俺を今、教育係として見てくれているってこと。そのことに俺は少し胸が熱くなった。こんなクズの俺でも、ベルスの役に立っている。そう思えたから。
「行ってこい。俺は待っているから」
 その答えを聞いて、ベルスは満面の笑みを浮かべた。七海が「こちらですよ」を手を引き、二人して並べられた携帯に目を通す。ベルスが気に掛かった物があったら、七海が紳士に対応してくれているようだ。
 そんな二人の姿は……いや、ベルスの姿はとても自然体に思えた。

 俺達は携帯を買った後、七海に別れを告げ、近くにあった休憩用のベンチに腰を下ろす。未だに衰えを見せない人ごみの中で、偶然にも休める場所を確保できたの幸運だといっても良いだろう。すぐ傍で見かけた自販機で缶コーヒーを購入し、俺は一息ついている。
 隣のベルスと言えば、初めてのマイ携帯にご執心のようで、小さい機械のボタンを片手で慎重に押していた。興味深々ながらも頬を緩ませて桃色の携帯を操作する様子は、まるで小学生の子供だ。名義は俺の物だが、喜んでくれているようなので、一安心する。そもそも彼女は、携帯は使用すれば使用するほど金が掛かる道具であることを知っていたようで、「お金は私が払うから」と言った時には驚いた。
 本体代は俺の財布から出して、後は自分で支払うということで手を打ったが、どうやって彼女は金を払うつもりなのだろう?
 バイト……か?
 これは疑問が残る。いや、不安が残る。
 それにソウルが了承するとは思えないのだが、何か考えがあってのことだろうと俺は考えを先延ばしにすることにした。今の俺には、金だけはある。ベルスの携帯代くらい、どうってことない。
「御影。番号教えて」
「相変わらず吸収するのだけは早いな。メアドも教えておくか?」
「メールアドレスよ。なんで短縮するのよ」
「それが普通なんですよベルスさん。こういう部分が抜けているんだよな。お前」
 赤外線通信を使って、さっさとお互いの連絡先を交換した。ベルス側が少し時間を掛けて携帯を操作していたが、そんなに気にするほどじゃない。改めてこの少女は頭が良いのだと再認識することができた。
「これからドコに行くの?」
「あぁ……知り合いの出しているブースに行こうと思っているよ」
 ベルスは俺の言葉に疑問符を浮かべたようだ。やはり頭の回転が速い。
「御影の知り合いって……その、あの」
 言葉を選んでいるようだ。携帯をジーパンのポケットに入れて、口ごもる。
 可憐からはこう聞いているのだろう。
 俺の住んでいた依然の故郷は、破壊され、俺の知人は全て死んでいると……それで俺の台詞に違和感を覚えたのだが、それを口にするのを躊躇っているみたいだな。
「師匠と修行した間に、知り合った面白い人でな。お前もきっと気に入ると思うぜ。見た目はともかく、とても信用できる人だし。なにより可愛い女の子は猫かわいがりするような、ファンシー人間だから安心しろ」
「私、なんだか余計に不安になってきた」
「なんで?」
 首を傾げる俺。それでベルスはため息をついた。
 

 ジャンクスポットの人ごみを掻き分けながら、俺達は無事に目的地に辿りついた。
 そこは一見レンガ風味の壁紙に、ペンキの飛ばし痕が残る若者向けの洋服店。大箱クラブにあるような色付き蛍光灯が看板を飾り、店前では呼びかけの店員が通り過ぎる人々に念入りに声を掛けている活気のある一店であった。
 店員の服のセンスも、今時の若者の先人を行くべくオリジナルティ溢れる物ばかり。着ているインナー一つを取っても、個性的な物ばかりだ。
 俺にとっては、とても心地良い空気がそこにある。
「そこのカップルさん。どうだい? 今ならサービス期間中につき、一万円を超えたお客様には一着サンプルとして店長デザインのシャツをプレゼントしているんだけど。これがメチャセンスありまくりなんだよ。冷やかしで良いから見て行ってくれ」
 完全に色を抜きすぎた金髪に、長い前髪だけを赤く染めたチャラ男店員が俺達に声をかけてくる。俺はその男の視線に驚くベルスを背中におき、「丁度良いな。その店長に用があるんだ」と一言告げた。
 最初は面くらった様子の彼だったが、すぐに晴れやかな笑顔を向けてきた。
「なんだよぉーアネサンの知り合いか。それならさっさと店に入ってくれれば良いのに」
「こっちは久しぶりに会うんだ。ジャンクスポットに来るのも初めてだから、驚かせてやろうと思ってさ」
「だったら声なんてかけてないで、店に飛び込んでみなよ。今は丁度客足も止まったところだから、俺達だけでもサバける。暇を持て余しているはずだ」
「俺は御影。あんたは?」
「ま、マジで?」
 俺の名前を聞いたチャラ男が目を丸くして、聞き直してくる。どうやら俺のことを少しばかり上司から聞いているようだ。
「そうだよ。んで、こいつがベルス」
 俺の背中からひょこりとベルスは顔を出し、それを見たチャラ男は「おぉ」と感心したように反応する。
「さすが噂の男。連れている女もレベェルが違うねぇ」
「褒められているみたいだぞ、ベルス」
「そ……そうなの?」
 怪訝そうな顔で彼女は警戒を解かない。こういう男を笑って避けることができれば一人前なんだけどな。と一瞬思ったが、それを今のベルスに求めるのは贅沢すぎるだろう。
「俺はタクだ。ここではそう名前が通っている。ヨロシクな」
「ヨロシク頼む」
「よ、よ、よろしく?」
 そうして俺とタクは握手を交わし、そのまま別れた。まだ背中にしがみつくベルスは、その後も振り返りながら珍しいものを見る目でタクに視線を送っていたが、彼はそれに対して気さくに手を振ってくれた。とても人当たりの良い人間だと感じる。やはりアネサンが金を出して雇っている男だな。人間が出来ているようだ。
 そうして俺とベルスは『スタートライン』と英文字で記された看板を上にしながら、ジャンクスポット二件目の店に足を踏み入れた。


「もう一度確認しておくが、ベルスさん。絶対に紋章術は禁止だからな。肉体制御も同じように禁止。何があろうと無駄に抵抗とかするんじゃねぇぞ」
「どうしたの御影? そんなこと言われなくてもしないわよ」
「なら良い」
 ポップな曲調の洋楽がBGMとして流れる店内。見渡す限り広がる色とりどりの衣服の数々が放つ特有の匂いに、俺達は歓迎された。先ほどまで俺達が訪れていた携帯ショップよりも明らかに二周りは大きいブース。そこには若いカップルから学校帰りの学生から、基本として十代から二十台ほどの若者が目を走らせ、自身を飾る物品を選ぶ。
 ベルスもその類からは漏れなかったようで、恐らく思惑は違うだろうが、キョロキョロと落ち着かなく目を動かしていた。
 良い傾向だと俺は思う。
 ここに来た目的には、今のベルスの態度は俺にとって好都合だったからだ。
 思わず口元が緩む。ベルスには悟られないように注意しながら、とある人物を探す。
 どうやらタクの言ったことは正しかったらしい。いや、その前に身長の高くガタイが良い黒人の体というのは、いやでも目につくものだ。
 彼はとても和やかな表情でレジに立っている。胸元を開けた紫色のブラウスに、オレンジのサングラス。クセのあるドレッドヘアーに迫力がある顔の骨格は、前に会った時と全然変わってはいない。
 普段から店員と客の様子にも気を配っているのだろうか、すぐ俺とも目があった。
「アネサン。久しぶりだな」
 俺はそんな彼に気軽に手を振った。
 あっちも気づいたようで……
「御影じゃないのよ! やだ、見間違えかと思ったじゃない」
 まるで弾丸のようなスピードとパワーで俺に熱い抱擁を仕掛けてきたのだった。
 ベルスの目が一瞬で点になり、呆然と彼女は立ち尽くす。
 本心から言うと、かなり暑苦しい。彼の鍛え抜かれた筋力が半端じゃなく、俺の両腕と肋骨が弱々しく軋む。
「ギブ……アネサン、本当にギブだから……あ、お花畑が」
「御影の口から、泡が出てるよ」






2008/06/20(Fri)22:13:57 公開 / 呪炎
■この作品の著作権は呪炎さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めてですが、どうぞよろしくお願いしますw
とにかくカッコよく、登場人物達が光るようにと書いているつもりです。
しかし他人の意見を仰いだことがない作品ですので、どうかご指導のほどお願いします^^

序章を追加しましたw
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