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『雪の跡』 作者:流月楓 / リアル・現代 恋愛小説
全角80131文字
容量160262 bytes
原稿用紙約249.45枚
死を宣告された癌患者が、1ヵ月後元気に退院した。その謎をめぐって、ある闇組織が動く。ごくごく普通の生活を送る京子と、その恋人、一樹が巻き込まれ、次第に悲しい運命をたどっていく……

【プロローグ】

 二〇〇五年 二月

 突然、視界に何かが入ってきた。
 立ち止まって空を見上げると、鈍い灰色をした雲から白い雪がやさしく降り始めていた。コートのポケットに入れていた手を出して翻すと、儚さを含んだ雪がふわりと舞い降り、たちまち消えていく。

 どうりで寒いはずだ。

 あてもなく歩いている並木道がゆっくりと白色に染まっていくその光景を、私はしばらく眺めていた。


 一九九八年 東京

 耳を劈く銃声が、部屋の中に響きわたった。この家の男が地下に作らせた射撃場である。長細い部屋で、壁は防音になっている。重い扉の真っ直ぐ先に人型をした的がある。
 男はごつごつした傷だらけの手で、手際よく銃に弾をこめた。
 数秒と経たないうちに全ての弾を撃ちこむ。その場が一瞬静まりかえる。的はかすかに揺れている。弾丸は一つとして外れていない。それを確認する間もなく男は弾を入れ替えた。使い終わった弾がバラバラと床に散らばった。

 一階では初老を迎えた女が食事の支度をしていた。
 リビングにある大きなガラス窓からは夕焼け色の光が挿しこみ、部屋中を覆いつくしている。
 リビングに隣接している広いキッチンに、薄い湯気が漂う鍋が規則正しい音を音をたてていた。
 女は味を確かめようと小皿に取って口にすると、数回頷きながら火を止めた。そのとき、ふと時計を見た。男が地下から上がって来るその時刻より、だいぶ過ぎていた。
 男は地下からあがってくると、すかさず風呂に入る。その後、一杯の水を飲み、食事をするのだ。それは、毎日一分と狂うことなく繰り返された日常だった。

 胸騒ぎがした。

 急いで地下に下りてみると、男が苦しそうな顔でうずくまっていた。意識はないようだった。女は男にかけより外傷がない事と、息があるのを確認すると、震える手で入口付近に設置されている電話で救急車を呼んだ。

 数十分後に到着した救急車は、すぐに二人を連れてここから一番近い大きな病院、東京都立S医療センターへ向かった。その間ずっと女は男の手を握っていた。
 男は薄白い顔をして、薬の臭いが染み付いた清潔なシーツと布団にくるまれ、横たわっていた。細い管を伝って、ゆっくりと男の腕に透明の液体が送り込まれている。
 その光景に不安そうな瞳が向けられた。唇はきゅっと結んで、しかし決して表情を崩さずに女が見守っていた。張り詰めた空気が病室を流れている。

 自分がしっかりしなければ……。一本の太い針が体に差し込まれているかの様にピンと立っていた。

「奥様ですか? 少しお話をしたいのですが」
 女の後ろから声がした。
 振り返ると白衣を着た男、おそらく担当医だろう、が立っていた。目を合わせると、担当医は静かに頷き部屋を出た。
 女は一瞬息を止め、激しい動悸がするのを感じた。何かが後ろから襲ってきて、その何かに覆われてしまうような、どうしたらいいかわからない感じがした。しかしながら、唇をより一層かみ締めて、白衣の男に続いてその部屋を出た。

 この女は四十歳を過ぎている。髪はつややかで手入れがいき届いており、後ろで綺麗にひとつに束ねられていた。目尻の皺、額の皺、顔の全ての皺が他の四十代に比べて明らかに少ない。たとえ皺が深かったとしても、その整った顔立ちは決して壊されることはない。
 変に疲れた様子もなく、こんな状況でなければ笑顔もさぞ美しいはずだった。年齢を感じさせない美しさがそこにはあった。
 ただ、胸にビーズ刺繍のあるワンピースから、真直ぐに出ている透き通った肢体が頼りなく、今にも消えてしまいそうだった。

「覚悟しておいて下さい」
 それは、病室を出て右に十メートルほど進んだ先にある部屋で告げられた。
 白い壁と小さな窓があるだけの殺風景な部屋で、医師が座る椅子と机が並び、その横におそらく患者の容態を聞く為に、家族が座る折畳みの椅子が無造作に壁に立てかけられていた。
 女は目を見開きなにか言おうと口を動かしたが、声にならなかった。
「肺癌です。癌の侵攻がかなり進んでいます」
 医師は無機質な声で言った。
 女は何も答えなかった。いや、答えられなかった。ただ一点を見つめている。膝の上で固く握り締めたハンカチを放すまいと、必死になっているかのようだ。
 その様子を見て医師は、カルテに目を移した。
「何か前兆があったと思うのですが、ご主人は以前に不調を訴えたことがありましたか?」
 女はゆっくりと上を向き、宙を見つめ、「いいえ」と答えた。その一言で、今までの我慢が限界を超えたのか、持っていたレースのハンカチで口を覆い泣き崩れた。

 一ヶ月後、ある患者の担当医が頭を悩ませながら、同じ患者の二枚のレントゲン写真を眺めていた。
 一枚には黒い影がはっきりと映っているのに、先程撮った一枚にはどこにも黒い影がなかった。担当医は、この問題をかかえきれずに医長に相談した。
 すぐに医長は誤診を疑い再検査を命じたが、間違いなくレントゲン写真は同じ患者のもので、誤診ではないことが確認された。医長はその患者に血液採取と、最新技術の検査を受けるように進め、担当医にはこのことは極秘にするようにと言った。そして検査結果はある企業へと郵送させた。

 その後、患者は退院して行った。


【第一章 すべてのはじまり】

 二〇〇一年 夏

 赤く鮮やかな血が勢いよく注射針に吸い込まれ、あっという間に細い筒状の管を血で満たした。
 長いリクライニング式の椅子にもたれながら、高科京子(たかしなきょうこ)は目を閉じた。静かな音楽が流れていて、とても居心地がいい。看護婦たちが慌しく動いているが、そんなことは気にならなかった。
 ここ献血ルームには、ひとりひとりに専用のテレビがついていたり、マッサージ器がついていたりして、くつろげるようになっている。夏は冷房が利いていて涼めるし、冬は冷えた体を温めてくれる。ジュースも飲めるし、お菓子もあるし、ファーストフードの割引券や、ポテトのSサイズのタダ券がもらえる所もある。
 京子は、お金のない学生の時によく利用していた。時間があるときには、成分献血をすると決めている。成分献血は普通の採血と違って赤血球、白血球、ヘモグロビン等の血の成分を分けて抽出するため、時間がかかるのだ。
 これから予定がある為京子は四百mlの献血を済ませ、待ち合わせ場所に向かった。
 外に出るとモワッとした空気が、いままでひんやりと冷たかった京子の体にまとわりついた。今日もやたらとセミが鳴いていて、暑さを強調している。
 一瞬目の前が暗くなり、またすぐに見えるようになった。
 夏は体調のいい日しか献血に行かないようにしている。京子は夏が好きではなかった。
 中学生ぐらいからだろうか、夏になると決まって朝礼や集会で貧血を起こし倒れていた。クラスの保健委員に連れられ、保健室に運ばれることが多く、おかげで中・高校と保健室の先生とは仲がよかった。社会人になってからは、通勤途中に電車の中で何度か倒れ、会社に遅刻したり、気持ち悪くなったまま家に引き返す事もあった。
 最近では貧血になるとすぐに、座り込むことにしていた。電車であれば、たいてい前の人が席を譲ってくれるので、お礼を言って、座らせてもらう。膝と額をくっつけて、しばらくじっとしていれば、よくなるのだ。

 待ち合わせ場所に到着した。最近の流行からは少々取り残されているような喫茶店だ。入口のすぐ横が一枚ガラスの窓になっており、その窓と平行に設置されたカウンター席が、外からでも見渡せた。
 京子はすかさず溜息をつく。
「やっぱり……」

 ”カラン”
 喫茶店のドアを押して中に入る。
「いっらっしゃいませ」と店員の声が響き渡った。
 一応、中を見渡してみるが姿はない。中央のテーブル席にカップルが一組と年配の男性が二人、カウンター席に若い女性が一人と初老の男女が一人ずつ座っているだけだった。カップル以外の声は聞こえてこない。年配の男はタバコを吸いながら新聞を見たり、本を読んでいたり。若い女性は、携帯をいじっている。
 京子は、さらに溜息をつきながら、外の見えるカウンターを手で指し示すと、近づいてきた店員が笑顔で頷き「どうぞ」と言った。
 京子は、カウンター席の高めの椅子に腰をおろした。すかさず店員が水とメニューを置いたが、「アイスコーヒー」と注文し、そのままメニューを返した。店員が去っていくと、子供がいじけたように足をぶらぶらさせて頬杖を付いて「またか」と呟いた。

 京子がこの喫茶店を気に入っている一つは、このカウンターの席の椅子の高さである。木で出来た背もたれ付の椅子は、座り心地も良く、高さに反して安定している。
 京子は、近頃の若者同様に背が高い。百六十五センチの身長に加え、四センチヒールの、薄いクリーム色のサンダルを履いている。たいていの椅子に座ると足が地面に付く。しかし、この椅子は足が浮くのだ。
 その心地よさが好きだった。自分が小さな可愛い女の子になった気分がする。友達はせいぜい百六十センチ程、またはそれ以下しかなく、一緒にいるとどうしても目立ってしまう。
 京子は、ずっと小さな女の子に憧れていた。昔の彼氏の中には、京子が高いヒールを履けば、背を抜いてしまう人もいた。

 アイスコーヒーがきた。焦げた茶色の液体にストローを挿しながら、正面にある窓をボーっと見つめた。一体どこからあふれてくるのだろう。どこを見ても人、人、人。
 朝からぐんぐん気温は上がり、かなり暑くなっているコンクリートの道路。平日は車で埋め尽くされているだろう、その道路は、休日のみ歩行者に開放されている。それを当然のごとく、埋め尽くすたくさんの人。流れていく人。そして散らばっていく人。よっぽど暑いのか、その景色が揺らめいてさえいる。
 京子は、その光景と対照的な涼しく静かな店内から、小島一樹(こじまかずき)を探した。

 一樹と京子が出会ったのは、三年前。
 務めていた会社の先輩後輩の関係だった。現在、その会社はすでに辞めてしまっていて、一樹は商社に勤めるサラリーマンに転職、京子は都内でOLをしている。
 一樹は背が高く細身である。がとても鍛えられた筋肉質の体をしていた。細い切れ長の目が特徴的で、古風的な顔立ちをしている。一見冷たそうな雰囲気があるし、あまり話し上手な方ではない。どちらかというと、聞き役に徹している風がある。
 一樹と喧嘩をしたことは一度もない。というか喧嘩にならない。一樹は、京子よりも三つ年上である。だからなのか、言い合いになっても一樹がムキになることはなく、常に穏やかな対応をする。すぐに感情的になる気の強い京子にはありがたいことではあった。

 氷の溶けかけたアイスコーヒーをかき混ぜながら、腕時計を見る。約束の時間よりも二十分過ぎていた。一樹はとても時間にルーズで、待ち合わせ場所には必ずといっていいほど遅れる。
「二週間ぶりのデートなのに」
 両肘をつき、顎を乗せて独り言を言った。
 毎度毎度遅れることがわかっているのに、京子が時間通りに行くには理由がある。

 京子と一樹は、お互いに転職してから、会う回数が極端に減っていた。同じ職場だった頃は、毎日顔を合せていたのに、この急激な状態変化で、どうしても寂しい、という思いが付きまとっていた。もし一樹が先に来ていたら、会う時間が減ってしまうのは嫌だった。それに、ある日を境にして、京子は一樹を待たせることはしなかった。

『一樹は待つ人の気持ちがわからないんだよ。だって、わかっていたらこんなに毎回遅れるはずがないもの』と責め立てたことがある。
 付き合い始めの頃は、さすがに頭にきていた。何度注意しても、必ず遅れてくるのだから当たり前だ。
 一樹は『わかってるよ。ごめん』と言っていたが、京子は心の中で、絶対わかってない、と思った。さらに、もしかしたら一樹にそういう思いをさせれば、少しは遅れないようになるのではないか、とも考えた。

 ある日、京子はわざと遅れることにした。待ち合わせは、S駅の一番線ホーム、南側の階段下だ。
 京子は、待ち合わせの五分前には到着して、ホームが見渡せる線路を挟んだ三番線ホームでひたすら待っていた。案の定一樹はすぐには現れなかった。
 この駅は、平日でも休日でもさほど人の量など変わらない。違いといえば、服装が色とりどりで、若い層が増えている程度だ。何度もホームに突進してくる電車から、溢れかえる人の群れが、京子を覆い隠すようにして足早に通り過ぎていく。その人の群れは、数箇所ある階段に吸い込まれていった。

 また隣のホームに電車が滑り込んできた。何度この電車を見送っただろうか? 人間観察もそろそろ飽きてきた。
 その時、ようやく一樹が姿を現した。
 京子はこの混雑の中、見つかるはずもないのに、咄嗟に駅の柱に隠れた。少し鼓動が早くなる。一樹が、きょろきょろ辺りを見回している。とくにあわてる様子もなく、携帯を取り出して数回操作した後、耳元にあてた。
 間もなく、京子が肩から提げていた薄茶色の鞄から、振動を感じた。京子はその電話に出ることなく、ずっと一樹を見ていた。一樹が耳から携帯を離すと、振動が止まった。
 京子は少しだけ罪悪感を感じた。本当は今すぐにでも、携帯に出て会いに行きたくなっていた。しかし、数々の遅刻を許すことも出来なかった。
 既に、待ち合わせの時間から四十分経っていた。一樹は携帯をしばらく見つめていたが、階段の横に寄りかかって腕を組んでいた。
 京子はさらに時間が過ぎるのを待った。その間一樹は、タバコを吸いに行ったり、売店でコーヒーと新聞を買い、再びタバコを吸ったりして、最終的には待ち合わせ場所に戻ってくる。携帯も何度か見ていたが、帰る気は全くないようだった。
 京子は、少し肌寒さを感じてきたので、待ち合わせ場所に行くことにした。一時間半ほどの遅刻だ。
 もう三月とはいえ、風が冷たかった。京子は階段を上って、隣のホームに移動した。

 一樹を見つけるとわざとらしく『ごめん、遅れちゃったね。待った?』と言うと、一樹はにっこり笑ってこう言ったのだ。
『ううん。俺も今来たところ』
『え?』
 京子は目を丸くして驚いた。しかも、一樹に怒った様子は全くない。嫌味を言っているわけでもなさそうだ。
 一時間以上は待ったはずなのに、そんなことどうでも言い様に、『どこ行く? 俺腹減っちゃった』と笑顔で手を繋いできた。

 その手はとても冷たかった。

 一樹は嘘をついていたのだが、京子も騙していた身なので、問い詰めることも出来ずに今現在に至る。一樹には、待つこと自体そんな苦にはならない人なんだ、と思うより他なく、この作戦は失敗に終わったのだった。
 しかし、一樹の優しい嘘がとても嬉しかったのも事実で、その反対にこんな馬鹿げた事をしてしまった自分に落ち込んだ。

 京子は、すでに薄くなってしまったアイスコーヒーを、頬杖をつきながら一口飲んだ。
 京子が朝から頑張って巻いてきた、綺麗な栗色のセミロングは、すでにカールがとれかかっている。アイスコーヒーで口紅は落ちるし、汗でファンデーションは崩れていた。
 京子がトイレでそれらを直そうと、鞄を持って立ち上がった時だった。目の前の窓越しに、一樹が両手を合わせていた。京子はカバンを元に戻し、一樹を待った。

 ”カラン”
 席を案内する店員を手で制して、真っ直ぐこちらに向かってくる。
「ごめん」
 いつもは無邪気な笑顔だが、今日は真剣な顔で一樹は現れた。この猛暑で息を切らし、額には薄っすら汗が吹き出ていた。
「帰らないで」
 両目を瞑った顔の前で、両手を合わせ、許しを請う。
 どうやら、京子が鞄を持って立ち上がろうとした姿を、自分の遅刻のために怒って帰ってしまうところだと、勘違いしたらしい。

「二週間ぶりのデートなのに、帰るわけないじゃん」
 目線をはずし、一樹に膨れっ面を見せる。
「ごめん。ほんと、ごめん」
 片目を開きながらホッとしたのか「でも、ちょっと聞いてくれよ!」と京子の隣の席に座りながら言った。
 注文を取りに来た店員に、すぐ出るからと手を挙げて合図を送ると、いつもの遅刻の言い訳が始まった。
 一樹の遅刻の理由はいつも様々で、道端で老夫婦が倒れていたので病院まで連れて行ったとか、急に臍から芽が出たので切っていたとか、謎の飛行物体が頭に衝突したとか、秘密の任務を遂行していたとか、非現実的な事ばかりを並べたもので、当たり前だがどれも本当のことではない。実際は単に寝坊しただけなのである。

「それで? ふぅん。そりゃ大変だったね」と抑揚のない声で答える。
「で、遅れちゃったんだよね」
 一気に話し終えると、京子の水をゴクリと飲んだ。申し訳なさそうに、こちらを見てる。京子は、横目で一樹を見た。
「ごめんなさい」
 私の表情を伺っては言い訳する、一樹の焦りの表情が可笑しくて、ついには噴出してしまった。笑った自分を見てホッとする一樹の表情が、京子はとても好きだった。

 ◇

 空から大きくふんわりとした雪が、降りはじめている。二人は、帰りの電車のホームにいた。帰り道は別だ。二人の距離は遠く、線路を挟んだホームから微笑みあっているだけ。
 しばらくして、一本の電車がゆっくりと入ってきて、お互いの姿を隠す。京子は電車に乗ると、線路側の扉前まで移動した。少し、はにかんだ笑顔が見えた。
 電車の扉が閉まり、再びゆっくりと、電車がホームを離れていく。お互いの姿が見えなくなる。
 暗い窓に映る自分の姿を見つめながら、脳裏に焼きついて離れない愛しい人の姿に思いを馳せた。


 寒さで目が覚めた。
 冷房をつけたまま、寝てしまっていたのだ。横を向くと、隣で一樹が静かに寝息をたてている。
 京子は、一樹を跨いで冷房のスイッチを切りに行き、狭いリビングの冷蔵庫から麦茶を取り出し、口にした。

 ここは、京子が大学時代から借りている賃貸マンションだ。借りているといっても、学生の時は、親がお金を出してくれていた。さすがに社会人になってからは、自分のお金で借りている。1LDKと狭いが、なかなか居心地がいい。女の子らしい薄いピンクが主体の部屋は、大阪にいる京子の母が揃えたものだった。

 一樹は、こうしてたまに泊まりにやってくる。仕事が忙しいとかで、なかなか会えず、泊まりで会えるのは三ヶ月ぶりだった。
 時計を見ると、夜の十一時を少し回った頃だった。麦茶を飲み終えると、再び一樹を跨いで布団に入り、細くてしっかりとした腕に寄り添った。

 夢を見ていた。
 二人が出会った頃のあの奇跡的な始まりを。
 京子はゆっくりと目を閉じ、夢の中へと意識をすべらせた。

 まだ正式に付き合っていなかった二人。そんな二人の気持ちが、通じ合った瞬間だった。それは、まるでこれからの二人を祝福しているかのように、純粋な二人をあらわしているかのように、静かに空から雪が降ってきたのだ。

 偶然、出張先から一緒に帰ることになった。ただし一樹は家へ、自分は会社が用意したホテルへ。反対側の電車を待っていた。改札から別々になった。
 ホームで一樹の姿を認めると、微笑みあった。名残惜しかったのは、自分だけじゃないと確信した。
 寒い夜だった。白い息がこぼれる。鼻から入ってくる空気が冷たくて、手袋している手で覆った。
 白い影が目を霞めた。雪だった。すごく綺麗な雪だった。運命を感じた。涙がこぼれそうだった。

 私は今でも鮮明に思い出せる。一樹は、覚えている?

 京子は深い眠りに入った。


【第二章 水面下】

 エレベータの上矢印のボタンを、何度も何度も押している。赤月零児(あかつきれいじ)は、一刻も早く社長の神取進(かみとりすすむ)に話そうと、息をきらしながら同じ領地内にある、本社ビルにやって来たのだ。いつもは気にならない、エレベータの待ち時間が、今日に限ってやたらと遅く感じる。
 エレベータが静かに到着すると、最上階のボタンを乱暴に押した。ゆっくりと扉が閉まり、再び上っていく。
 やがてエレベータが電子音を鳴らし、最上階に到達した。
 激しく息をしていたが、おさまってきた。少し眩暈がする。社長室の前にいる秘書が、立ち上がり何か言ったが、零児は聞こえない。まっすぐに社長室をノックし、その返事も聞かず慌しくドアを開けた。社長の神取がどっしりと大きめの椅子に座り、こちらを睨んでいた。
「あっあの! と、突然申し訳ありません」
 直角に体を曲げながら、必要以上に大きな声を出してしまった。

 神取は、JINNO製薬の社長で、その規模は日本全国にとどまらず、海外にも支店がいくつか存在する。製薬会社でも、首位を争う一流企業で知られていた。
 神取は大柄の太った男で、五十六歳になったばかりだ。先週、バースディパーティを赤坂のPホテルで、大々的に催したばかりであった。
 JINNO製薬は、小中企業を食いつぶして大きく成長した企業で知られており、同企業から悪意を買う事もしばしばである。自殺に追い込んだ社長も、数人いる。
 しかしながらその実績は、世界的レベルに達していた。そのせいか神取のことは、この業界はおろか、他業界の大企業の社長すら恐れていた。
 別名『鷹の目』。
 その名の通り、神取の鋭い眼に睨まれたら、諦めるしか道はないのだ。威嚇するのに十分な眼力は、相手側に不利な取引でも成立させてしまう。神取の後ろには、常に黒い影が潜んでいることを、誰もが知っているからだ。
 そして、誰もその大きな力には逆らおうとしなかった。

 零児の後ろで、開きっぱなしのドアを叩く音がした。
「お茶をお持ちいたしました」
 先程の社長秘書が、冷たい中国茶を持ってきたのだ。
 社長秘書は何も言わず、ガラスと大理石でできた高価なテーブルに、中国茶を静かに置き、部屋を出て行った。
「座れ!」と低くしゃがれた声で言われ、零児はようやく首を上げ、黒い皮張りのソファーに腰を下ろした。神取も大きい社長椅子から立ち上がり、中央にあるソファーに、零児と向かい合う形で座った。
 ソファーの肘掛は、横に開くようになっている。そこから葉巻を取り出すと、先を切ってダンヒルのZIPPOで火をつけた。深く息を吸い込み、白い煙を吐き出す。
 零児は、それを見届けた後で大きく息を吸い込むと、ゆっくりと話し出した。

 一九九八年のことである。
 東京都立S医療センターに一人の患者、橘孝雄(たちばなたかお)、五十二歳が肺癌と診断された。癌の侵攻がかなり進んでおり、余命数ヶ月として想定されていた。
 しかしながら一ヶ月後、レントゲン写真から癌細胞が一つも見つからなかったのである。この不思議な現象を、医長の沢田一郎(さわだいちろう)が、JINNO製薬研究センターに、極秘で調査を依頼してきた。医長の沢田と神取は、大学の同級生で親しかったという。
 その調査の研究担当として、T大の研究員として務めていた、赤月零児が任命された。三年前、この研究の為にJINNO製薬から引き抜かれたのだ。

 零児は色黒で、小柄だ。その体つきに比べて顔のパーツが大きく、はっきりとした顔立ちをしている。
 研究への取組みは、T大でも群を抜いていた。徹夜で研究するのはもちろん、食事をしているときも、風呂に入っているときも、トイレに入っているときも、零児の頭の中は常に活発に動いていた。すでに研究したものは、頭に全てインプットされており、資料は必要なかった。

 一時間後、零児は社長室を後にしていた。およその流れを神取に話したものの、研究資料を作る必要があった。もちろん零児の頭の中には全て入っているが、神取に説明するのに、言葉だけでは不十分だった。
 研究センターに戻り、資料を急いで作成しなくてはならない。莫大な資料を作成するには、二年前に助手として務めている、佐藤勉(さとうつとむ)と手分けしても一週間はかかる。
 零児は頭の中で計算しながら、研究センターに足を急がせた。研究センターは本社ビルと同じ敷地内にあるが、百メートル程離れていた。

 神取は、零児が退出した直後、電話をかけた。
「莫大な金が動く。仕事の依頼だ」
 それだけ告げると、神取は電話を切った。

 三年前に起こった、癌細胞死滅の謎が解き明かされたのだ。

 ◇

 夏ももうすぐ終わりを告げるのに、残暑が厳しい。暑い日ざしが、カーテンを通して部屋に差し込んでくる。
 京子は、思いきって部屋の窓を開けた。熱風が体を通り過ぎて、部屋の中へ進入してきた。
「いつまで暑いんだろう」
 口をへの字に曲げ、いったん部屋の中に戻り、ベッドの上に敷いてある布団を、ベランダに持っていく。

 今日は、一樹が家に遊びに来る約束だった。すっかり夏バテしてしまった京子を気遣って、一樹は部屋でのんびりする事を提案してくれたのだ。部屋にいれば楽だといっても、その前の掃除が大変だ。
 涼子は髪を一つに束ね、部屋の隅から掃除機をひっぱりだした。時計は十一時を指している。一樹が来るまで、二時間しかない。手っ取り早く掃除をすませ、夕飯の買出しにいかないと間に合わない。
 掃除機の電源を入れると、ファンの音が鳴り出した。部屋で過ごそうと提案しているところをみると気づいていないようだが、今日は一樹の誕生日だった。
 今日は、腕によりをかけてご馳走を作ってあげようと、メニューを頭に思い浮かべた時だった。掃除機が突然大きな音をたて、何かを吸い込んだ。
 掃除機の先は、ベッドの下だ。ゆっくりと引き出すと、写真が一緒にひっついてきた。掃除機のスイッチを切り、写真を引き剥がす。

「あっ! この写真」
 京子は、笑みを含んだ顔になった。
 一樹と最初に撮った写真だった。付き合い始めた冬、箱根に行ったときの写真だ。緊張しているのか、中央に寄り添っている二人の笑顔は固い。その周りの風景が、寒さを添えている。
「なつかしいな」
 すぐそばの、ベッドに腰を下ろした。

 京子は一樹と遠出する時、必ずカメラを持参する。一樹と撮った思い出の写真は、京子の手によって全てアルバムに収められる。アルバムはすでに三冊を超えていた。特にお気に入りの写真のいくつかは、写真たてに入れられ、京子の部屋に飾られている。
 京子は、ベッドと隣接している机の引き出しから、新しい写真たてをだし、その写真を一樹が気づいてくれるのを期待しながら、テーブルの上に飾った。

 二十分遅れで、一樹は京子のドアベルを鳴らした。京子が急いで、ドアの鍵とチェーンをはずすと、そこには眠そうな顔の一樹が立っていた。
「どうしたの? なんだか疲れているみたいだけど。とにかく上がって?」
 コクリと頷き、一樹が家に入ってきた。
 一樹は、淡いグリーンの二人がけのソファーに腰掛けた。このソファーは、一樹からの贈り物だった。去年の誕生日に、京子がねだって買ってもらったのだ。

 京子はアイスコーヒーを入れ、一樹の前に差し出すと隣に座った。
 京子は、さっきから落ちつかなかった。一樹が、いつもの遅刻の言い訳をしないからだ。一樹をじっと見つめた。隣に座っている一樹は、目の前にあるアイスコーヒーにミルクとガムシロップを入れ、ストローでかき混ぜている。だが、アイスコーヒーは上半分だけしか混ざらず、下半分は濃いコーヒーだけがそのまま残っている。
「どうしたの? なんか元気ない?」
 京子は一樹のとろんとした目を覗き込んだ。
「えっ! あっ。ごめんボーっとしてた」
 頭を掻きながら申し訳なさそうな顔で京子を見た。
「なんか変だけど、大丈夫?」
「うん。ちょっと仕事で疲れててさ。最近残業多くって嫌になっちゃうよ」
「そうなんだ。忙しくなってきちゃったんだね」
 京子もアイスコーヒーを口にした。

 京子は、仕事が忙しい辛さを知っている。前の会社が、半端なく忙しかったのだ。出張が多く残業も多いのに、残業代は常に決められた金額しか支払われなかった。しかも、出張先がとても遠いい為、通うことはできず、ホテル生活を余儀なくされていた。
 精神的にも追い詰められ、休みはひたすら休養のために費やされた。いくら不景気とはいえ、三年間働いたものの、耐えられなくて辞めてしまった。
 一樹も、おそらく京子と同じ理由で、転職したに違いなかった。転職後、一樹は早く帰る日が多くなった。が、やはり忙しい時期もあるのだろう。

 あたりは、すっかり暗くなっていた。
 京子は、夕飯の支度を終わらせ、カーテンを閉めながら、ソファーで眠ってしまっていた一樹に声をかけた。
「一樹、ご飯できたよ」
 ゆっくりと目を開けると、テーブルにある、いつもとは違う豪華な夕食を見て呟いた。「あれ? 今日、なんかのお祝いだっけ」
「え? 本当に忘れてるの?」
「…………?」
 一樹は、きょとんとして首をひねっている。
「今日、誕生日でしょ?」
「あっ!」
 目を大きく開いて、京子を見つめた。
「だから、こんなご馳走……嬉しい」
 ニッコリ笑って、席につく。
 やっぱり今日の一樹は少し変。本当にどうしたんだろう。仕事、そんなに大変なのかな? 京子は何度目かの首を捻った。

 席に着いた一樹は、一点をじっと見つめる。とても優しい瞳。その先にあるのは、京子が飾った写真だった。
「あ! 気づいてくれた?」
 ウフフと照れたように笑う京子。
「ああ。懐かしいね」
「なんか、二人とも初々しいって言うか、緊張してるよね」
「緊張してるのは、京子だけだろ?」
「え? そんなことないよ!」
 二人は、懐かしさを胸に秘めながら、少しずつ笑った。

 一樹は、よっぽど疲れていたのだろう、京子のベッドで寝息をたてていた。
 前の職場での一樹はとても無口で、あまりしゃべらなかった。なかなか先に進まない仕事であるにもかかわらず、もくもくとこなしていた。
 一方京子は、パソコンに向かい独り言を唱えるぐらいに、口が動いていた。とにかくじっとしていられない性格なのだ。
 今考えたら、正反対の性格のように思えた。でも京子にとっては、自分にない落ちついた雰囲気のある一樹が、魅力的に見えたのだ。

「ん……」
 一樹がうなり声を上げ、寝返りをうった。
 仕事とプライベートを、きっちり分けたかった京子は、必ず自分の家から出勤すると決めていた。そして、それを一樹にも求めた。
 どんなに面倒でも自分の家で寝た方が、安らげるはずだ。仕事場に、プライベートを引きずるような関係はごめんだった。職場が一緒だった時期があったからか、その思いが強かった。
 京子は、誕生日プレゼントを一樹の横にそっと置くと、愛用しているベル式の目覚し時計を十時にセットした。
 明日は月曜日。
 あと一時間半は寝られるはずである。


【第三章 消えた細胞】

 季節で言うと、秋に入ったというのに全く暑さがひかない。今日も、三十度を越える日差しが照りつけていた。
 都内の二車線道路の歩道で、一人の男が手を上げタクシーを引きとめた。タクシーはウインカーをつけて男の前に止まり、後のドアが開いた。風神涼(ふうじんりょう)は、ゆっくりと乗り込んだ。行き先を告げると、タクシーは再びウインカーをつけて走り出した。
 タクシーの中は冷房が利いていて涼しく、風神の汗ばんだ皮膚をあっという間に乾かした。タクシーの運転手は、女性だった。今では女性のタクシードライバーは珍しくはないが、風神は、女性のドライバーが初めてだった。
 バックミラー越しに顔を見ると、目じりの皺が深く少し垂れ下がっていた。顔の下には、たっぷりと脂肪がついた顎が重そうにくっついている。おそらく四十七・八歳だろう。

 風神は、職業柄年齢を当てるのが得意だった。特に、女性に関しては、九十パーセント以上の確率で当てる事ができた。化粧をしていても微かに現れる、その下の皮膚の質感、皺、シミ等から年齢を割り出すのである。
 風神の職業は探偵である。
「九月になったというのに、暑いわね」と、ドライバーが話しかけてきた。
「そうですね」と、風神はにっこり笑って、ミラーで目線を合わせた。
 ドライバーは、笑顔で返されるとは思わなかったのか、意外そうな顔をした。

 風神は、四ヶ月前に三十歳になった。背は百八十センチ程あり、ほど良い筋肉がついている。髪の色は一見黒にしか見えないが、明るいところでは少し明るく見えた。ほんのりと日焼けをしているし、鼻筋が通っていて、堀が深く、日本人離れした顔をしていた。

 タクシーは住宅街に入り、しばらくするとゆっくりと止まった。
 タクシーを降りると、コンクリートの塀に囲まれた大きく四角い建物が、目の前に見えた。
 大きな門の前で、風神はインターフォンを押す。数秒後、女の声がした。風神は、自分の名前を告げると、門が開いた。
 庭に通されると、とても初老を迎えたようには見えない緑子(みどりこ)が、玄関先でにっこりと微笑んでいた。茶色の、美しいシルク素材のワンピースを着ていて、白い肌がよく映えている。

 初めて会ったのは、五年前になるだろうか。最初に仕事の依頼を受けたのは、その時だった。
 なんでも、大企業ソフト会社から、極秘とされている企画参加者リストを調査して欲しい、という依頼だった。その極秘とされるリストは、厳重に管理されており、一般社員には公開されていないものだった。ある特定のPCから、パスワードを入力しなくてはならなかった。しかも、そのパスワードは一日おきに変わり、数人の重役たちにしか知らされないものだった。
 当時、風神が今までこなしてきた仕事の中でも、相当難しい依頼だったが、引き受けた。
 風神は、小さい仕事から大きな仕事まで、何でも引き受ける。ペット探し、浮気調査、ストーカ調査なども、引き受けたこともある。それが経験になり、実力につながるからだ。苦労は買ってでもしろ、ということだ。
 その依頼を受けた当時、橘の隣にいた女性が緑子だった。ほとんど癖になっていた年齢当ては、緑子の年齢を二十九歳と割り出した。あまりに若く美しい人を、奥さんにしたものだと、ずっと橘を羨ましく思っていた。この時、橘は四十七歳だった。

 最初の依頼から、半年かかってようやく調査が終わり、結果を報告しようと橘を訪れた。
 報告書に、同意の署名を貰うのだが、橘が留守であった為、代わりに緑子に署名をお願いしたのだ。その時に同姓同名のトラブルを防ぐため、署名の隣に生年月日を記入するようになっている。
 風神は、そこで初めて緑子が三十五歳だという事を知った。
 どう見ても二十代にしか見えない緑子は、肌がとても白かった。病的にさえ見える。その肌に、クリッとしたかわいい目と、高めの鼻、小さな口がバランスよくのかっている。とても整った顔をしていた。

 この依頼から、頻繁に橘の依頼を受けるようになった。付き合いは長い。
 それに、橘からもらえる報酬は、他のどの調査よりも群を抜いている。確かにその分難しく、危険が伴う仕事が多いが、嫌いな仕事ではなかった。
 今も仕事の依頼を受けている。今まで請けた仕事の中で、一番でかい仕事だった。
 依頼期間は未定だ。未定というのは、依頼が完了するまでという意味だ。

 今日は、初めてその依頼された結果を持ってきたのだ。

「ご無沙汰しております。調査のご報告に来たのですが、橘氏はおられますか?」
 風神は軽く頭を下げた。
「ええ」
 緑子は風神を家へと招き入れた。
「もうすぐ来ると思いますので、あちらの部屋でお掛けになってお待ちくださいますか」
 緑子は、玄関から一番手前の部屋を手で指し示した。
「わかりました」
 風神は、部屋に向かった。

 この部屋は、いつも風神が来ると通される部屋だった。依頼内容を聞きに来る場合と、調査報告する場合に使われていた。部屋は十二畳程あり、見た目はわからないようになっているが、壁には防音加工がされている。その壁に沿って、棚がいくつか並んでいる。棚には、高価な置時計や、彫刻物がたくさん並んでいる。
 風神は、部屋の中央にあるイタリア製のソファーに腰掛け、橘を待った。
 
 風神がこの仕事を引き受けたのは、もう二年前の事である。
 橘は、三年前肺癌に侵され、余命数ヶ月と申告されたにもかかわらず、何故か一ヶ月ほどで退院したという。その間に、最新の検査を受けたが、どこにも異常はないと医者に言われたらしい。不信に思わないわけはない。
 そこで橘は再度病院に訪れ、その時の担当医であった内藤(ないとう)に、話を聞いた。
 始め、内藤は口ごもっていたが、おそらく嘘をつけない人柄なのだろう、橘が少し脅したところ、しどろもどろになって、泣きそうな顔で話し始めた。

『このことはどうか、内密にして下さいよ。私と、医長の二人しか知らない事です。医長に固く口止めをされています。もし話した事がばれれば、首になってしまいます。どうか内密に、内密に』
 内藤は何度も念をおした。
 橘が頷くと、意を決して話し始めた。
『あの日、橘さんが病院に運ばれたその日、検査いたしました。橘さんは、間違いなく肺癌に侵されていて、余命二ヵ月の重症でした。これは何度も検査した結果ですので、確かです。
 それからおよそ一ヶ月後、レントゲンを撮りましたよね。癌の侵攻を調べるためです。それによって、投与する薬の強さが変わってくるので……
 私はこの時、目を疑いました。橘さんのレントゲン写真から、癌細胞が全て消えていたのですから。転移していた、癌細胞も消えていました。信じられませんでした。
 私は、この問題をひとりで抱えきれなくなり、医長に相談したのです。医長は、誤診を疑われて、私に再調査を命じました。しかしその結果は正しく、本当に橘さんの体から癌細胞が死滅していたのです。
 医長は、橘さんの体を最新の医療機具で綿密に検査しろと、言いました。血液検査、尿検査、CTスキャン等細かく検査し、医長に再度検査報告を提出しました。しかしながら、どこも異常は見当たりませんでした。本当にびっくりしました』
 そのときの状況を思い出したのか、内藤は興奮気味に一気に話した。
『で、その検査報告は今どこにあるのです?』
 手を膝の上にのせ、中央で組み、少し前かがみになって橘が聞いた。
『報告書は、医長に渡してしまいましたので、私には判りません』
 早く解放されたいのか、不快な顔した。
『よく思い出してください。医長と内藤さん、あなたしか知らない内密の話です。医長に何か渡されたり、何か頼まれたり、とにかく何か、医長からあなたへのコンタクトはありませんでしたか?』
『そう言われましても、毎日忙しいのでそう覚えていないですよ』
 内藤は、椅子にもたれ頭を掻いた。
『大事なことです。思い出してください。自分に何が起きたのか、どうしても知っておきたいんだ』
 先ほどよりは、少し口調が強い。
 橘の低く力強い、有無を言わせない声に驚いたのか、内藤はもたれていた背中をしゃんと伸ばした。
『そうですね……』と目を上に向け、何かを思い出そうとしているようだ。

 しばらく静かな時が流れた。時折、内藤がうなり声を出している。橘があきらめる様子はない。
 この部屋は、内藤医師の一人部屋になっているらしく、机が一つと椅子が二つあり、大きな本棚は、医療関係の本で埋まっていた。決して、綺麗な部屋ではなかった。机には、乱雑に紙が散らばっているし、付箋紙がたくさん貼り付いた本が何冊も重なっている。

『あ!』
 目を見開いて内藤が長い沈黙を破った。
『でも、検査報告かどうかは、わかりませんけど』
 少々落胆しているようだ。
『話してください』
『医長に、これくらいの茶封筒を郵便に出してくれと、頼まれました』
両手の人差し指で、四角を空に描きながら言った。
『それはいつですか?』
『郵便係の山本さんが休みだったから、えっと二十五日かな』
 内藤と橘は、壁に張ってある年間カレンダーに視線を移した。
 その日は、自分が退院した前日だった。橘は、それが検査報告の入った封筒だと、確信した。医長が何か行動を起こす時は、この病院で唯一事情を知っている、内藤に依頼すると思ったのだ。
『どこに郵送したのです?』
 鋭い目つきで橘は聞いた。
『うろ覚えなのですが、確かJINNO製薬だったと思います。うちは、よくそこの製品を使っていますので、頻繁にやり取りがあります』
『わかりました。安心しましたよ』
 橘はにっこりと微笑んだ。
『お忙しいのに、いろいろと済みませんでした。検査結果がどうなったか、気になったもので。実験台にされたり、何か体に埋めこまれたりしたらどうしようかと、最近はゆっくり寝れなかったんですよ。でも、医長さんが持っているならば安心です』
 橘は立ち上がり、ホッとした様子で頭を下げた。
『橘さん! 実験台なんて、映画じゃあるまいし、ありえないですよ。今日からは安心してお休み下さい』
 苦笑しながら内藤は言った。

 いや。現実にあるんだ……そういう世界が。そう心で呟いて、橘は病院を後にした。

 その数日後、風神のところに依頼が来たのだ。
 JINNO製薬で、現在メインで研究されている内容と、その経過。この二つを調査する為、風神は、JINNO製薬研究センターに助手として入り込んだのである。
 佐藤勉として。
 もう二年前のことだ。

「すっかりお待たせしてしまって」
 五分ほど経って、優しい顔つきで橘が現れた。
「橘氏が依頼されていた調査の、中間報告を持ってきました」
 橘が真剣な顔になった。


【第四章 友人】

 プルルル、プルルル
 ドアを開けると、電話が鳴っていた。家に帰ってきたばかりの京子は、慌てて玄関に鞄を放って、電話に向かって走り出した。
「はい。高科です」
「京子? 私、夏美。久しぶりやね。元気にしとった?」
 懐かしい声が返ってきた。声の主は、高校時代の友人小池夏美(こいけなつみ)だった。
「え、ほんまに夏美? 久しぶりやね。どうしたん?」

 京子は、生まれてから高校まで、大阪で両親と暮らしていた。どうしても東京の大学に行きたかった京子は、東京の大学に合格すると、ひとり暮らしを始めたのだ。
 さすがに東京に来て七年。普通に話す時は標準語だが、大阪弁でしゃべられると、不思議に京子もそうなってしまう。

「あんな。突然でびっくりせんといてな。私結婚するねん」
「うわ、ほんまに? おめでとう」
 京子は友人の結婚話に、テンションが少し上がる。
「私、来週から東京で看護婦になるねん。その時、京子に会えればええな……と思ってな?」
「ほんまに! 嬉しいわ。私も夏美に会いたいわ」

 夏美は一度、大阪の企業にOLとして就職したはずだった。しかしながら、高校からの夢だった看護婦を諦められなくて、夜間の看護学校に通っていたらしい。夏美が結婚する人は大阪出身だが、仕事で東京の本社に転勤が決まったという。二人とも東京に行くならば、結婚しようという事になったらしい。

 大阪から電話してくれているので、料金がばかにならないという理由で、京子から電話を切った。
 しかし、結局電話を切ったのは、三時間も経った後のことだった。久しぶりの友人からの電話で、話したい事がたくさんあったのだ。まだ話し足りないくらいだった。
 京子は、会社から帰ったままの格好で、冷房もつけずに話し込んでいた為、服が汗でびっしょりになっていた。冷房のスイッチをつけ、シャワーを浴びた。
 シャワーを浴び終えると、ベタベタだった肌が、爽快感を取り戻した。冷蔵庫からビールを取り出し、プルトップを勢いよくあけた。ビールを一口飲むと、喉が潤い、生き返る心地がした。三時間も電話していたのだ。喉がカラカラになっていた。
 京子は、ビールを片手に壁にかかっている時計を確認し、ほったらかしにしてあった鞄から携帯を取り出すと、短縮一を押した。
 しばらくすると電子音が鳴り、女の声が聞こえてきた。
「お客様のおかけになった番号は、電波の届かないところにおられるか、電源が入っていないためかかりません」
 京子は、もう一度時計を見る。十一時を少し回ったところだ。携帯をいったん切り、もう一度かけてみるがやはり同じ結果だった。
 一樹はまだ仕事をしているのか。こんなに遅いのは久しぶりだ。忙しいって言ってたしな……と、先週の一樹の様子を思い浮かべ、携帯をベッドに放り投げた。

 京子は、一週間後の土曜日に夏美と会う約束をした。一樹との無言の約束と重なってしまった為、早めに連絡を入れたかったのだ。無言の約束とは、毎週土曜日は何も言わなくてもお互いに予定を空けておき、会うことになっているという約束だ。付き合い始めた当初から、なぜか二人の仲で確立されていた。この前は、土曜日に一樹が仕事だと言って、電話をかけてきた。
 京子はビールを飲み終えるとなんだか眠くなり、布団に入って目を閉じた。

 ◇

 JINNO製薬会社の社長室で神取は、電話に向かって話していた。
「信用できる。大丈夫だ。前回も仕事の依頼をしたが完璧にこなしてくれたよ。まだ正式に依頼はしてないが、いずれ依頼する旨は話している。まあ、すでに準備をしているに違いない。わかっている。研究資料が一週間後に届く。二十日の金曜日に話そう。それでは失礼するよ」
 電話は切れた。


【第五章 推測】

 橘は言葉が出なかった。
 三日前の風神が持ってきた、途中経過の資料を何度も読んだが、どうしても一つの仮説にぶち当たってしまうのだ。報告書によれば、橘の検査結果を調べに調べ、ようやく癌細胞が死滅した理由がわかったというのだ。

 橘は、入院中に血を何度も吐いた。体の全てが弱っていくのがわかった。鼻の粘膜も弱まり、鼻血もしょっちゅう出ていた。自分の死が近いことを、毎日実感した。恐ろしかった。死ぬということが、こんなにも怖いなんて、思いもしなかった。
 いつ死んでもよかったのだ。緑子に会うまでは、死なんて恐れたことはなかった。
 入院期間中に、輸血を何回か受けた。こんなことをしても、死ぬのだから、意味のないことのように思えた。しかし、その輸血によって橘の体の中で癌細胞が死滅するほどの、突然変異が起こったのだ。
 その変異は癌細胞を抑制し、さらに抑制するだけではなく、癌細胞の一部の細胞と接合し引き離してしまうため、癌細胞は死滅するという事がつい最近わかったのだ。
 橘の血液中に、他の人には見られない成分が見つかった。その成分は仮名、I成分と命名されている。
 残念ながら、橘の血液中に含まれるI成分を、実験的に癌にさせたあらゆる動物達に与えたが、癌細胞は死滅しなかった。となると、輸血された血液中に、突然変異を起こす何かが含まれていることになる。つまり、I成分は癌細胞を死滅させた後にできる、ということだ。
 どちらにしろ、輸血した血液があれば謎が明らかになるのだ。

 JINNO製薬会社は、悪い噂をよく耳にする。市販されている製品が、どうのという訳ではない。仕事のやり方だ。ある一部では、闇のルートと繋がっているらしい噂も聞く。内密にこのことが進んでいるとすれば、金儲けの為に、突然変異を起こす血液を死に物狂いで探すに違いなかった。
 輸血に使われる血液は、百パーセント人の善意によっての献血でまかなわれている。人の血液は、人からしか製造されないのだ。決して、機械ではつくれない。
 JINNO製薬は、その善意ある人を地獄へと連れて行こうとしている。
 自分を死から救ってくれた血液提供者が、危険にさらされるのを見逃すことはできない。一般人であろうその人は、何も知らないのだ。
 家庭があるかもしれない、学生かもしれない、老人かも知れない、女かもしれない。橘にとって感謝すべき人なのに、その人の人生に害を与えるような行為をどうしても許せなかった。

 幸いに、輸血した人の名前は伏せられていて、誰かと特定するのは不可能だろう。最近、特に厳しくなってきている、プライバシー保護によるものだろう。しかし、その血液がどこの献血センターから送られたものなのか、少し調べればすぐにわかるはずだ。だからと言って、その献血センターで献血をした全ての人の血を調べるには、時間も費用もかかり不可能に近い。しかも、内密に事を運びたいだけに、到底無理な話である。

 目の前にあるドアから、コンコンと音がした。
「はい」と返事をするとドアが開き、緑子が心配そうに入ってきた。
「孝雄さん。まだお仕事を?」
 緑子は、冷たい緑茶と和菓子を橘の横に置いた。
「今度の件は、色々と根が深そうだけど、あまり無理をしては体によくないわ」
 小首をかしげて、橘を不安げな表情で見つめた。
 橘は、緑子が持ってきた緑茶を、ゴクリと飲んで答える。
「ん、とても根が深いね。風神の次の報告まで待つしかないが……」
「もう、だからそうじゃなくって」
 緑子は、橘を少し睨んだ後、諦めた顔をして溜息を吐いた。
「あなたの体のことを言ってるのに……。私のいう事など、聞いてはくださらないのね」と独り言のように呟いた。
「そんな事はないさ。緑子がいればこその私なんだから」
 にっこり笑って橘が答えた。
「あら? そうは、見えないけど」と言うと緑子は静かに部屋を出て行った。

 橘と緑子の間に、子供はいない。緑子の体が弱いせいもあるが、橘の仕事に関係していた。
 橘は、既に五十歳を超えているにもかかわらず、中年太りはまったくしていない。白髪交じりの髪と、額にある数本の皺は、老いを感じさせるよりも、むしろ品よく見えた。細く鋭い目は、その周りの皺によってとても優しく見える。笑うと目尻の皺が垂れて、その場を和ませる温かい雰囲気を醸し出す。
 しかしながら、その実態は、海外でフリーの傭兵をした経験を持つ殺し屋だった。東京都内の闇ルートでは、必ずその名を聞くだろう。
 現在、プロの殺し屋としては引退している。

 緑子と合ったのは二十八歳の頃で、プロの殺し屋の駆け出しだった。橘は、今まで何人もの人を手にかけていた。そして、何度も危険な目に遭ってきた。命を落としかけた事もある。職業としての殺し屋は、甘くは無い。恐ろしいほどの金が入るが、その代償として命を落とすヤツもいるのだ。また、足がつく危険性もある。一瞬の判断ミスが、命取りだ。
 それでも、橘はこうして自由に生きている。
 こういう職業の場合は、自分さえ守ればいいというメリットから、一人が基本である。というか、鉄則だ。守るものが増えたら、危険も大きくなる。だが橘の場合、それが強みになった。生きることが、どんなことよりも優先されるようになった。緑子に生きて会えることだけが、橘を強くしていった。

 あれは実に不思議な出会いだった。
 橘は、ソファーに体をあずけ、遠い昔の思い出に、意識を集中させた。


【第六章 過去】

 二十四年前、草葉がほのかに香る季節だった。爽やかな風が吹いている。
 橘は、真夜中、多摩川の土手を体力づくりの為に走るのを日課としていた。夜更けに出歩く人はなく、走る足音だけが一定のリズムで聞こえている。
 今の季節、昼間にはバーベキューをする若者が、賑わいをみせるこの場所だが、今は、ただしんと静まり返っている。黒々とした水の流れと、木々が重なりあう音が、妙に調和していて、心地よい。
 あと、三十分ほど走ろうかと考えていた、その時、突然後ろに衝撃が走った。
 後ろにまったく、気配はなかったはずだ。ギクリとした。
 ゆっくりと後ろを振り返ると、髪の長い女が立っていた。外灯のみの、わずかな光で見たその女は、とても若く美しかった。
 敵か、味方か、いや、味方なんて、いるはずもない。この世の全てが敵だと思っていたから。

 しばらく経っても、その女は、ただそこにゆらりと立っているだけだった。
「何をしている?」
 女が微かに、反応した。
「…………」
 女は答えない。こちらを見ようともしない。
 聞こえないのか、それとも耳が悪いのか。橘は再度、口を開いた。
「何を――」
「何も……」
 女は呟いた。
 なんだ、聞こえているのか。
 二人の間に、また無言の時間が流れた。そして、しばしの沈黙後、女はゆっくり空を見上げた。
「ただ、真夜中の風が気持ちよく吹いているので、外を歩いていたのです」
 目を細めて、黒い空を見続けた。
 変な女だ。
 橘は思った。しかし、美しいとも思った。透き通るような肌と、静かな声。今にも消えてしまいそうな、儚い印象をうけた。
 女は、橘を一瞥すると視線を外し、にっこりと、笑った。
「結婚するの。明日」
 女はか細い声で言い残し、目を閉じる。と、同時に、首を後にガクンとそらすような格好で、ひざから崩れ落ちた。
 間一髪のところで橘が支えると、白い綺麗なレースが手に絡みついた。
 その女は、真白なウエディングドレスを着ていたのだ。女は、どうやら気を失ったらしい。なにか、精神的な病気を持っている事は、すぐにわかった。声には力が無く、その目は、何も見ようとしていなかったからだ。
 このまま放って行けない。病気とはいえ、外見にかなりの魅力をもつ女性をこのままにしては、誰かに襲われるのは目に見えている。

 今思えば、そう考えている時点で、すでにこの女に魅了されていたのだろう。冷静ではなかったのだ。冷静でいられないほどに、この女に興味を覚えていたのだ。平常心であれば、そのまま立ち去るはずだった。
 自分の仕事を考えれば……

 翌朝、橘のベッドで目を覚ました女は、緑子と名乗った。とりあえず、そのドレスでは、動きづらいだろうと、Tシャツと短パンを手渡した。当たり前だが、女物の服など、ここにはない。少々大きめだが支障はないだろう。
 緑子は、コクリとうなづき、洗面所で着替えをはじめた。しかし、緑子は着替えた後も、そのウエディングドレスを放そうとはしなかった。

「ここにおいてくださいませんか?」
 突然、彼女が言い出した。
「え?」
 一瞬、彼女が何を言い出したのかわからなかった。
「ここにおいてください」
 もう一度、彼女は言い、深々と頭を下げた。
 橘は、すぐにダメだと言うつもりだった。しかし、出てきた言葉は、自分を裏切るような言葉だった。
「どうして?」
 その言葉に、自分自身も驚いた。自分の心が、フワフワ浮いてる感じがした。
「私には、行くところがありません。無理なお願いは、十分承知です」
 頭を下げたまま、答える。
「だって、今日、結婚式じゃないのか?」
「いえ、結婚はできなくなりました」
 ゆっくりと、頭を上げた。
「だって、彼は死んだから」
 淡々と静かに彼女は言った。

 日の光を借りて彼女を見ると、昨日の薄暗い中で見た彼女より、何倍も美しかった。艶とハリのある肌をしていて、頬はうっすらピンクがかっている。黒く、うねりのある柔らかそうな髪は、彼女の白い肌をより引き立たせる。今まで出会った女性の中でも、ここまで美しい女性は初めてだった。

 彼女は金森緑子(かなもりみどりこ)、二十一歳。小さい頃に両親を亡くし、祖父母に育てられたと言う。その祖父母も去年亡くなったが、婚約者がいたために経済的には不自由していなかった。しかし、その婚約者が先月不慮の事故死に見舞われ、残り少ない貯金で今を暮らしていると言う。
 彼女は『何でもするからここにいさせて』と何度も言った。
 橘は迷っていた。迷う必要などないはずなのに。
 しかし、真夜中に彼女と初めて会った時に、既に橘は心が動いていた。一目で人を惹き付けるには十分な美しさだった。
 迷っている時間が、一日、二日と、経っていく。今日こそは、今日こそは、と心に決めるのだが、その答えは、毎日違うものだった。
 そして、時間が流れれば流れるほど、自分の中で、緑子をそばに置きたいと思っているという確信が、増えていくだけだった。

 そうこうしている間に、緑子は、すっかりいついてしまった。彼女は、橘の身の回りの世話を献身的にこなした。二十一歳という若い年齢に反して、家事全般、手馴れたものだった。幼い頃から苦労してきたのだろう。
 こうして二人の奇妙な生活が始まった。

 緑子がきてから、もう三年が経とうとしていた。その間に、橘は家に帰ってこないことがしばしばあった。
 緑子は、何の仕事をしているのか一度聞いた事があったが、聞いても答えてはくれなかった。そればかりか、何も自分の事を話してはくれないのだ。この三年間、たわいも無い会話しかしたことがない。一緒に出かけることも、スーパーに買い物に行く事も、橘の部屋に入る事も、許されてはいなかった。
 橘が普通の人と違うことには、すぐ気づいた。最初は気になっていた緑子も、月日が経つにつれ、橘のことは疑問に持たなくなった。しかし、それは意識的にだった。なぜなら怖かったのだ。もし、彼の秘密が自分にばれれば、緑子はここを追い出されるかもしれないからだ。
 緑子は橘と一緒にいたかった。

 緑子がいつものように掃除をしていると、橘の部屋に続く廊下の電気が切れていることに気づいた。いつもは、橘の部屋には近づかないようにしている。
 椅子を持って、電球を取り替えていると、誰もいないはずの橘の部屋から物音がした。緑子は、深く考えずにドアを開けて入っていった。
 部屋には、あちらこちらに散らばった紙が、音をたてて舞っていた。窓が開いていたのだ。白いカーテンが、ゆらゆらと揺れている。すばやく窓を閉めて、散らばった紙を集め、机の端に置いた。
 ふと見ると、わずかに机の引き出しが開いていた。なにか、黒いものが光っている。緑子は、好奇心も手伝って、衝動的に引き出しを開けた。
 緑子の目に飛び込んできたのは、綺麗に磨かれた拳銃だった。恐る恐る手にすると、ずしりと重たい。
 よくこういうライターがあるが、それにしては重たすぎる。
 緑子は、まさか本物の拳銃だとは思っていない。
 よく見る映画のワンシーンを思い出し、拳銃を構えてみた。緑子の遅い腕では、映画のようにかっこよく拳銃は支えられない。仕方なく、両手で構えてみた。引き金に指を引っ掛ける。映画の真似事のように、力いっぱい壁に向かって引き金を弾いた。

 ものすごい音が、部屋中に響きわたった。火薬のかすかな臭いが、部屋中に充満している。壁には、二センチ程度の穴が開き、薄い煙が出ていた。
 緑子は目の前が真白になり、耳が聞こえなくなっていた。自分がどうなってしまったのか、しばらくわからないままだった。緑子は、銃の衝撃に耐えられず、後方へ突き飛ばされていたのだ。
 どのくらい、時間が経過したかわからない。一分にも、一時間にも、感じられた。
 目と耳が、ようやく感覚を取り戻した。手の力を緩めると、拳銃が床に転がった。
 緑子はゆっくりと立ち上がり、部屋中を見渡した。せっかくまとめた紙の束が、無残にも散らばっている。
 緑子は、また同じように散らばった紙を、無意識に拾い集めた。
 ちょうど半分回収したところで、緑子の手が止まる。見たことのある文字が飛び込んできたのだ。驚く速さで、頭が覚醒してきた。

 長谷川洋(はせがわよう)

 緑子の婚約者だった。

 いったい橘は、何者なのだろうか。急に怖くなってきた。
 そもそも、橘は初めて会った人と三年も一緒に暮らしている。普通に考えれば、あり得ない話だ。
 確かにあの時は、緑子もどうかしていた。悲しい事が一度に起こりすぎて、何もかもどうでもよくなっていたのだ。
 しかし、緑子はどこかで橘は悪い人ではないと、確信していた。だからこそ、ここにいさせてと橘にすがりついたのだ。
 三年間、一緒に生活していて、安心感さへ感じていた。

 橘は、魅力的な男だった。普段は無口で、決して顔を崩さないが、緑子が何か失敗する度に優しく微笑み、慰めてくれるのだ。余り笑わない人の微笑みは、不思議な魅力を発揮した。
 それは、婚約者の事を忘れかける引き金になった。
 しかし、この拳銃と、緑子の婚約者の名前が書かれた紙はなんだろうか。大きな疑惑が、緑子を一枚の紙に目を落とさせた。

 ◇

 空が美しい夕焼けを消し去り、町に光が灯り始めた。橘がようやく帰ってきた。鍵を開けて中に入ると、家中が暗かった。
「緑子? いないのか?」
 明かりが点いていない部屋に、問いかけた。
 こんな事は、緑子が来てから一度もなかった。昨日までは、夕飯のいい匂いがし、灯りのついた部屋で、彼女の微笑が迎えてくれたのに。
 不信に思いながらも、自分の部屋のドアを開けると、橘はすぐに違和感を覚えた。ドアのすぐ横にあるボタンを押し、電気をつけ、持っていたスーツケースを置いた。
 やはりどこか違う。今朝出てきた部屋と同じはずなのに、違和感を拭いきれない。
 鼻をひくつかせ、かすかに硝煙の臭いを感じ取った。

 なぜ?
 違和感は、疑問へと変わった。

 部屋を出ようと振り向くと、そこには緑子が拳銃を持ち、静かに立っていた。
 橘は、大きく目を見開いて、緑子の姿をとらえる。初めて出会った、あの日のように、目はうつろで、悲しげに見えた。
 廊下の灯りが、彼女の姿を、見たくも無いのに映し出す。その場にそぐわないような明るさだ。
 ああ、そうか、緑子が替えたのか……。
 確か昨日、電球が切れかかっていたな。
 頭が現実逃避をしようと、どうでもいいことを考える。
 二人は、見つめあったまま、いや、睨まれたまま、動かない。すでに潤んでいた、緑子の目から、涙が零れ落ちた。
 逃げられない。逃げるべきではない。今まで培ってきた橘の感が、そう告げていた。

 橘は必死で頭の中を整理する。どうして緑子が拳銃を持っているのか。どうして緑子は泣いているのか。
「どうして?」
 ようやく言葉がでた。
 あの時と同じだ。
 緑子に『ここにおいてください』と言われた時に、でた言葉と……。
「なぜ、そんなものを持っている?」
 目線を、緑子が持っている銃に注ぐ。
 間違いない。護身用に、机の引き出しに閉まって置いた小型の拳銃だ。
 部屋には、依頼の資料なども置きっぱなしにしてある。自分の仕事がばれた以外に、他の理由がみつからない。
 ごまかすか? いや、ごまかせることではない。目線を緑子の顔に戻す。
 緑子の涙が、またひと粒、頬を伝って流れ落ちた。その涙が、全ての真相を知っているように思えた。
「わからない。どうしてこうなってしまったか。私にもわからないの」
 緑子が独り言のように呟く。彼にも、わからなかった。
 自分の仕事を知られてしまったのは、その拳銃から察しがつく。しかし、なぜ、緑子は自分に拳銃を向けているのか……。

 緑子は、紙きれ一枚に書かれた真実を、全て知ってしまったのだった。
 橘が長谷川洋を殺したという事実を……。
 紙が机の上になければ、そして窓が開いていなければ知る事はなかったのに。知りたくなかったのに。

「長谷川洋」
 涙で濡れてしまった声を抑えるように、淡々とした口調で緑子は言った。
「え?」
「知ってる?」
 橘は、パンク寸前の頭で、その名前を検索したが、心当たりはなかった。
「いや。知ら――」言い終わらないうちに、緑子が口を開いた。
「殺した」
 橘が聞いたことのない、力強い声だった。
 鋭い目を、橘に投げかけた。
「あなたは、殺したのよ」
 橘は黙っている。
「思い出して! 長谷川洋よ!」
 緑子はもう一度言った。
 橘は、さらに頭をフル回転させ記憶を手繰り寄せる。目を閉じて、意識を集中させた。
 殺した、俺が殺した男。いつ? どこで? なぜ? 長谷川……洋。
 そういえば!
 小さな記憶の欠片が、見つかった。
 三年ほど前に、その名前を聞いた事があった。ある人から、依頼を受けたのだ。
 自分は、確かに長谷川という男を殺した。だったらなんだ、と言うのだ。自分の仕事を、こなしただけである。今まで、何人もの人を殺しているのだ。いちいち、名前を覚えてはいられない。
「その人は、その人は」
 嫌な予感が橘を包んだ。
「私の婚約者よ!」
 緑子が叫んだ。

 まさか? 橘は目を見開いた。
 まさかそんな偶然が、本当にあるのか?
 その男が緑子の婚約者だったなんて。
 絶望感が二人を飲み込んでいく。ゴクリゴクリと、ゆっくり、深く。
 そうか。それでか。
 緑子が、自分に拳銃を向けている理由がわかった。復讐というわけだ。
 急に頭が真白になっていく。
「洋はね。洋は、たった一人の、私の家族になる人だったの。とっても優しい人だったの。私の祖父母にも、とても優しかったわ」
 緑子は、溢れる感情を、洋との思い出を語りだした。
「やめろ! 聞きたくない」
 橘は、耳をふさぐ。
「だめよ。聞きなさい。あなたは、私から洋を奪ったの。洋との未来をあなたが!」
 緑子の綺麗な顔が、くしゃっと潰れる。
「どうしてよ、どうして、あなたなの!」
 緑子が叫んだが、橘の耳には届かない。

 橘は、今まで仕事だと割り切って、依頼を確実にこなしてきた。麻痺していたのかもしれない。人を殺す事に、なんの感情も湧かないのだから。何の疑問ももたなかったし、残された人の気持ちも考えなかった。橘にとっては、仕事でしかなかった。
 今、目の前にその残された人がいる。自分に拳銃を、突きつけようとしている。
 これは罰なのだ、と思った。抵抗する事も、できなかった。いつも大人しかった緑子が、激しい怒りに身をまかせて、小さな肩を震わせているのだ。

「私も殺すのね」
 静かな口調だった。
 橘は耳を疑った。
「どうして俺が緑子を殺す? あり得ない」
 緑子をしっかりと見つめ、答える。
 緑子は、両手で拳銃を構えた。
「だったら私があなたを殺すわ!」
 橘は、その場を動かなかった。
 そして、しばらくして橘の目から光が消えた。

 緑子は、その目を見たことがある。死を覚悟している目だ。

 三年前に緑子は、鏡の前でその目を何度も見た。
 死んでもよかった。なにもかも失い、一人で歩いていく自信がなかった。
 洋が残してくれた狭い部屋で、ハンガーに掛かっている純白のドレス。高いからいいと断ったのに、洋が買ってくれたものだ。そして、一度も着ることのなくなったウエディングドレス。
 最期に着ようと思った。結婚するはずだった明日に。
 そう、三年前のあの夜私は純白のドレスに身を包み、命を絶つはずだった。
 でも再び目が覚めた。私は、今も生きている。生きようとしている。そう思えたのは、橘のあの笑顔だった。

 橘は、真っ直ぐに緑子を見つめている。
 拳銃を持つ手が、震える。引き金に指をかけているのに、どうしても力が入らない。橘が滲んで見えなくなる。涙がとめどなく、溢れた。止まらなかった。
 私は殺せるのだろうか。三年前に婚約者を殺した男を。

 命が絶たれることをただ待つ、橘。
 その手は、だらりと垂れ下がっている。光を失ったその目には、涙がこぼれていた。

 できない。私にはできない。
 固く目をつむり、心の中にいる洋に語りかける。
 洋……ごめんなさい。私には、あの人を殺すことなんてできない。許して。
 緑子は拳銃を持ったまま崩れ落ちた。

 復讐するには、時間が経ちすぎていた。
 緑子が思っていたよりも、自分の中で橘の存在は大きくなっていた。橘を愛してしまっていた。何もかも遅すぎたのだ。
 橘は、静かに近寄った。緑子は、無我夢中で、さっきまで殺そうとしていた男の腕にすがりついて、何時間も泣き続けた。

 ◇

 そして現在、橘と緑子は一緒にいる。
 緑子が撃った壁の穴には、イミテーションの『モナリザの微笑』が二十四年前から飾られている。


【第七章 再会と疑惑】

 京子は、夏美と待ち合わせしたY駅に着いたところだった。約束した時間には、まだ少し早い。京子は改札を出て、辺りを見渡した。土曜日という事もあり、人通りが激しい。どうやら、夏美はまだ来ていないようだ。
 京子は、改札横の壁にもたれかかった。駅構内は、ねっとりとした空気が立ち込めている。京子は、花柄のハンカチで、額に浮かんだ薄い汗を拭った。
 五分もすると、夏美が現れた。高校卒業以来会ってないが、笑うとできる右笑窪と柔らかな雰囲気は、変わっていなかった。
 感動の再会を喜び合いながら、駅構内を出た。

 七時というのに、まだ空はうっすら明るかった。
 二人は、テレビでも紹介されたことのある、BARに入った。
 ここの店に入るのは初めてだったが、京子はテレビを見てからずっと足を運びたいと思っていた。そこは薄暗く、あまり広くはなかったが、とても落ちついた雰囲気が漂っている。店の奥に、二人で座れるテーブルと四人がけのテーブルがあり、カウンターの席が十席ほどあった。
 まだ少し早い時間なのか、客は少なく、テーブルに二組のカップルと、カウンターに一人で飲んでいる男が三人いた。大人ぽい音色のJAZが流れていて、京子は一目で気に入った。

 二人はカウンターに案内された。
「雰囲気の洒落た店やね」
 夏美が言った。
「ほんまや」
 店員が、先ほど注文したミックスナッツと、チーズを持ってきた。それらを並び終えると、今度は別の店員がドライマティーニと、カンパリソーダを置いていった。店員が去ると、二人は微笑み合いグラスを合わせた。
「かんぱぁい!」
 グイッと一口飲むと、グラスを置いた。久しぶりのカクテルは、とても美味しい。さっぱりとした感触が、口全体に広がった。
「ここに来るのは初めてやねんけど、これてよかったわ。ずっと気になっててん」
「へぇー、なんで行かなかったん? 仕事忙しいん?」
 夏美が、カンパリソーダをもう一口飲み終えてから聞いた。
「ううん。仕事は、転職してからだいぶ楽になってんけど、BARに女一人でなかなか来れへんやろ?」
 京子は、つまみのアーモンドを口に入れる。
「京子、彼氏おらんの? 彼氏と来たらええやんか」
「それは無理や」目の前で、手をひらひらさせた。
「私の彼氏は、よう飲まれへん。二人で飲みに行くなんて滅多にないし、飲んでもすぐ寝てしまうねん」
 夏美は笑いながら「かわいいやん」と言った。
 京子は、この前買った新品のハンドバッグからタバコを取り出し、火をつけた。
「なあ、それより婚約者について教えて欲しいわ。どんな人なん?」
 夏美は急に、笑うのを止めた。
 この前、電話した時には、詳しく話してくれなかった。
 大阪出身で、東京に転勤になった話ぐらいしか聞いていない。京子はとても気になっていた。
「うん。そのことやねんけど、その……実は、京子も知ってる人やねん」
 京子は、吸ったタバコの煙を、勢いよく吐き出した。
「ほんまに! うそ? 誰やろ」
 京子は、高校時代の男子を思い出していた。

「相原崇志(あいはらたかし)」
 夏美は、そう言った。

 相原崇志。京子が高校三年から、卒業まで付き合っていた同級生だった。
 京子の大学合格で、遠距離恋愛になり、別れてしまったのだ。お互い、嫌いで別れた訳ではなった。
 京子は、東京に来てからずいぶん長い間、崇志を忘れられずにいたのだ。大学で付き合った男は何人かいたが、その間も、崇志のことがずっと気になっていた。
 だからだろう。東京に来てからの恋愛は、長く続かなかった。

「そうなん。いやビックリしたわ」
 京子は、動揺を隠そうと笑った。すでに、二杯目のドライマティーニを飲み干そうとしていた。
 夏美はブルーハワイアンを注文し、京子はスプモーニを注文した。
「いつから? いつから付きおうてんの?」
「大学入ってすぐかな。だからほんまに崇志とはつきあい長いねん。七年になるかな。まぁ、その間に色々あったけどな。ようやく、ゴールインやわ!」
 夏美は、とても綺麗に笑った。
「そうなんや。ほんまにおめでとう!」

 京子は、一樹とつきあってから崇志を思い出すことはなくなった。しかし、今日こんな形で夏美から崇志の話を聞こうとは、思っていなかった。
 別れた男なのだから関係ないと思っても、なんだか複雑だった。それでも幸せそうな夏美を見て、二人を祝福するべきだと思った。

「なんだかホッとしたわ。京子に何て言おうかずっと悩んでてん。京子、崇志と付きおうてた時あったやんか。でも、もう七年前のことやもんね。それに、お酒の苦手な彼氏もおるしな?」
 からかい混じりに、夏美は言った。
「もう、ゆわんといて! お酒弱いの、気にしてんねんから」
 膨れた顔で、京子が答える。
 いたずらっぽい目をしながら、夏美は笑った。
「京子、何だかんだ言って、彼氏の事話すとき嬉しそうやな! ほんまに幸せなんやね。彼氏、会ってみたいわ」
「会わせてもいいねんけど、最近なんや忙しいらしくてな。私もあんまり会ってへんねん」
「そうなんや。それは、寂しいな」
「ん、少しな」と言って、照れた。
「ラブラブやんか!」
「まあな。でも、これから結婚する人には、負けるけどな?」
 意地悪そうな顔で、横目で夏美を見る。
「まあ、そらそうやろ!」
 そ知らぬ顔で、答えた。
「ほんま、恥ずかしがらんとよういうわ!」
「あんたもな」
 二人は吹きだして、大笑いした。
「夏美、幸せになりな。ならんと承知せえへんからな」
「ん。おおきにな」
 柔らかい笑顔が、二人にこぼれた。
 そして、再び注文した綺麗なピンクのカクテルで、乾杯した。

 夏美と別れたのは、十時半ぐらいだった。京子は、すっかり酔っぱらってしまった。
 久しぶりに、あんな楽しくお酒を飲めたのだ。限度を、少し超えてしまったらしい。
 気をぬくと、すぐにふらついてしまう。酔った体で、電車の扉を背にして、よっかかった。
 夏美、指輪してたな。いいな。
 ボーっとした頭で、夏美の薬指についていた、ダイヤの指輪を思い出す。
 同い年の友人の結婚が、うらやましい。自分も結婚を、考えないわけではない。まだまだ結婚に、夢も憧れもある。いつか、一樹と……、と考えないわけではない。
 しかし、一樹は何も言ってくれない。ほのめかしてもくれない。だからといって、自分からも言う気にはなれない。やっぱり、こういうことは男から言われたい。

 一樹のことを考えながら、何個かの駅を通り過ぎていく。
 指輪、欲しいな。結婚とかじゃなくても、一樹から貰いたい。今度の誕生日に、ねだってみようかな……。なんて考えてたら、降りる駅になっていた。

 京子はどうにか電車を降り、飲み物を買おうと、駅近くのコンビニへ入っていった。お茶を買ってコンビニをでると、ちょうど目の前に黒い高級車からでてくる長身の男が見えた。
 長身の男は、開いているドアに顔を近づけ、後部座席の男と話している。背格好も後ろ姿も、一樹に似ている。しばらくすると、長身の男は車のドアを閉めた。車が動き出し、暗い道路を走って行った。
 長身の男が、こちらを振り返った。
 その男は、一樹だった。

 一樹が、こんな場所にいるわけがなかった。
 京子は、夏美と会う約束で一樹とは会えないと、電話で告げたはずだ。『楽しんでおいで』と言ってくれたはずだ。酔いが、急速に醒めていく。
 しかし、確かにその男は一樹だったのだ。
 見たこともない黒いスーツを着て、昼でもないのにサングラスを掛けている。雰囲気も違う。なんだか別人で、怖くなった。
 そのまま長身の男は、サングラスをはずすと、近くにあるマンションに入って行った。
 一樹のマンションは、ここではない。何度か遊びに行ったことがあるが、ここからはかなり遠い。
 京子は、携帯を取り出して電話をかけた。数秒後、いつもの一樹の声が聞こえた。
「もしもし。京子? どうし――」
「今どこにいるの?」
 京子は、一樹の言葉をさえぎった。
「えっ? 家にいるよ。テレビ見てた。そっちは、今帰り?」
 おっとりした声が、返ってきた。

 一樹は、嘘をついている。でなければ、京子が見たあの男は誰なのだ。
 双子? いや、それはあり得ない。一樹に兄弟はいない。あれは一樹なのだ。
 京子が、見間違うはずなかった。二年もの間ずっと、その姿を見てきたのだ。どうでもいい男ならともかく、愛している男なのだ。

「どこの家にいるの?」
「何いってんの? 自分の家にいるに決まってるじゃん」
 一樹は、笑っていた。

 嘘だ。なぜ、嘘をつくのだろう。京子は、不安になった。浮気しているかもしれないと、強い疑惑にかられた。
 京子は、思い出した。
 そういえば最近、電話をしても繋がらないことが多かった。一樹は、仕事だと言っているが、それも本当かわからない。京子は思いきって、口を開いた。
「私、さっき知らないマンションに入って行く、一樹を見かけたんだけど」
 しばらく間があいた。
 その間に、京子の頭の中で浮気の確信と、不安がつのる。京子は、泣きそうになった。
「なんだ。ばれちゃった?」
 あっけらかんとした声が、耳に響く。
「内緒で、京子に会いに行こうと思ってたのに。ビックリさせたかったな。遅くなるの、わかってたんだけど、何時頃帰るのか聞かなかったからさ。京子が帰るまで、会社の先輩のマンションに上がらせてもらおうと思ってたところ。一息ついたら、京子に電話しようと思ってたんだけど」
「ほんとに?」
 疑った雰囲気を残したまま、京子は言った。
「あ! 何か疑ってる? ホントだよ。良くしてもらってる先輩のマンションが、まさか京子の住んでいる近くにあるなんて、俺だってつい最近知ったんだから。って、やっぱり俺疑われてるの? 俺のこと信じられない?」
 電話から聞こえてくるのは、聞きなれた一樹の声。優しい声。愛しい声だった。
 でも、あの車から出てきたときの雰囲気はなに? 今まで、見たことがなかった。今まで一度も。
「じゃあ、誰の車から降りてきたの?」
「あ、あれね。急に仕事が入ったんだよ。取引先の社長と食事してただけ」
「ほんとかな? サングラスしてたけど、取引先の人に会うのに、サングラスかけて行くかな!」
「もぅ……。あれは、取引商品だよ。そこの社長が、新しくサングラスを販売するっていうので、くれたんだ。俺がサングラスなんてガラじゃないけど、しかたないだろ。取引中はずっとかけてたよ。変だろう? 変わってんだよ。あそこの社長」
 はぁ、とため息をつき、一樹が答える。演技をしているようには思えない。
「ほんと?」
 少し軽い気持ちになって、聞いた。
「ほんとだよ。って言うか見てたんだ。俺の似合わないサングラス姿。あぁ、京子にだけは見せたくなかった」
「なんで?」
「かっこ悪いから」
「そうかな? すごい似合ってたよ」
 一樹が言うほど、似合っていないわけじゃなかった。
 むしろ、かっこよかったけど……、と思いながら京子は言った。
「まじかよ」
「うん」
「ねえ」
「うん?」
「俺のこと信用してよ。今から着替えて、会いに行くからさ」
「服も先輩の家に置いてあるんだ。すごいね」
「怒るよ! 今日は京子の家に行くことに決めてたから、持ってきたの!」
 さっきよりも声のトーンを低くして言った。
 一樹は、普段優しく穏やかなため、怒ると本当に怖いのだ。本気で怒らせる前に、さっさと電話を切ったほうが良さそうだ。
「はいはい。信用してます。じゃあ家で待ってるね」
「うん。すぐ行くから!」
 その声を聞いて、電話を切った。
 電話をかけたときとは逆に、とても心が軽くなっていた。

 一樹の話が本当ならば……。


【第八章 捜査】

 風神涼は、とても疲れていた。
 橘へ、二回目の依頼報告を済ませ、タクシーで自宅に帰る途中だった。もう夜中だ。すれ違う車もほとんどいない。
 風神は、昨日から寝ていないことを思い出し、睡魔におそわれるのを堪えて、報告内容について考えていた。
 タクシーは自宅まで、まだ相当走り続けるだろう。時間がかかりそうだ。

 先週の水曜日早朝、風神は清掃員の格好でJINNO製薬本社にいた。胸ポケットには、顔写真つきの証明書がぶら下がっている。もちろん偽者だ。
 JINNO製薬では、毎週水曜日に、契約している清掃会社が入ることになっていた。風神は、その清掃員として潜り込んだのだ。一階の裏扉から侵入し、バケツとモップ、雑巾、掃除機を持って社長室に向かった。
 風神は、JINNO製薬が何を企んでいるのか、調べる必要があったのだ。おそらく、零児が作成している研究資料の内容からいって、それが届いたらすぐに、神取は動くはずだった。
 誰もいない、最上階に到達した。
 エレベータを下りると、左正面の窓ガラスから、JINNO製薬の敷地が見渡せた。エレベータの正面は、広いフロアーになっている。この階には、社長室、秘書室の二部屋しかない。
 右通路奥に、社長室はある。社長室の前には、茶色の机が置いてあり、神取が部屋にいる場合は、訪問客を受け付けるように、秘書が座っているのだろう。
 社長室の横に位置するドアには、秘書室と書かれていた。風神は、秘書室に入ると、そっとドアの鍵を閉めた。
 デスクは一つしかなく、そこにはノート型パソコンが置かれていた。
 おそらく、秘書が、社長のスケジュールをすべて管理しているはずだ。
 風神は、すぐにノートパソコンの電源をいれ、慣れた手つきでキーを叩いた。スケジュールを見るためには、パスワードがいくつも必要だったが、風神は瞬時にそのパスワードを解き、五分としないでアクセスした。
 思った通りだ。
 研究資料が届く二十日の金曜日、神取は動きだす予定でいた。Aホテルのスイートルームが、予約されている。予約したのは、おそらく何も知らない秘書だ。時間は八時。風神は、そこで何か重大な情報が得られると確信した。
 JINNO製薬を後にすると、風神はすぐにAホテルへ電話して、今週の木曜日と、金曜日で部屋を予約した。風神は、JINNO製薬で何が行われようとしているのか、大体の予想はついていた。しかし、予想だけでは報告書は書けない。あくまで事実を突き止めるのが、風神の仕事である。

 その日、風神はAホテルの一室にいた。すでに神取が予約したスイートルームには、盗聴器をしかけてある。
 盗聴器をしかけたのは、風神の知り合いである、坂田(さかた)だった。坂田もまた探偵で、特に盗撮、盗聴に関する仕事が得意だった。お互いに一人で仕事をしているが、今回のように盗聴する場合は、いつも坂田に頼んでいた。
 坂田の腕が確かなのは、よく知っていた。逆にPC関係を得意とする風神が、坂田から依頼されることもしばしばあった。その坂田は、前日、神取が予約した部屋に宿泊したのだ。

 夜八時になった。風神は、大きなヘッドホンを片耳にあてた。話し声は聞こえない。まだ、到着していないのだろうか。
 ベッドの横の机に、盗聴器具が置いてある。ヘッドホンは、そこにつながっていた。
 黒く四角い器具は、盗聴器から、信号を受信し、電波を音声に変えて、ヘッドホンを通じ、風神の耳に届ける。かなり細かい音まで、拾えるようだ。空調の音まで聞こえる。
 十五分を過ぎた頃、ドアをあける音がした。
 ホテルのボーイの声と、神取らしき低い声、風神がよく知っている零児の声、あともう一人、男の声が聞こえてきた。と、同時に風神は録音テープを回し始め、イスに座るとペンを持った。
 やがてボーイが去り、ドアが閉まった。

 部屋では、お決まりの挨拶が交わされている。
 風神は声を元に、関係図を紙に書きしだした。男が三人。神取と零児と、もう一人は沢田一郎と言う、東京都立S医療センターの医長だった。
 やがて零児は研究資料を元に、研究結果を話し出した。

 二時間ほど経って、零児は部屋を出て行った。どうやら零児は、研究以外でJINNO製薬には関わっていないようだ。
 部屋に残された二人は、疲れた様子もなく話し出した。
『あの研究員が言うように、突然変異を起こす血液があるとすれば、あの時、患者に輸血された血液以外に考えられない』
 医長である沢田が、言った。
『その血液提供者の名前は?』
『わからない。名前まではわからないが、どこの献血センターから運ばれたかは分かる』
『で、献血センターの場所は?』
『Y市M区にある献血センターだ。しかし、それだけではどうにも探せない。なにしろ、献血をする何百万人の人が、どこの献血センターに行くかは、想像がつかない』
二人はしばらく黙ったままだった。
 神取が重い口を開いた。
『確かではないが、人間の習性から考えると献血は定期的に、しかも一度行った事のある場所へ行く人が多い。M区にある献血センターに、信用できる人を派遣させろ。そこで採取される全ての血液と身元を、研究センターに送れ。赤月に調べさせる。地道な作業だが、最も確立が高く、正確な方法だろう』
『そうだな。わかった。莫大な金のためだ。仕方が無い』

 どうやら、突然変異を起こす血液を探すらしい。
 風神は休む暇なく、ペンをはしらせている。重要な情報が、次々と出てくるのだ。耳を澄ませ、注意深く聞いていないと、聞き漏らしそうだった。
 明日までに報告書を書き終えて、橘に報告しなくてはならない。時間からいって、再度録音テープを聞いている暇はない。
 橘は、風神に急いで報告書を提出してくれと、要求していた。
 風神は、ヘッドホンの音量を上げた。

『ところで、その血液提供者がわかったとして、どうやって連れてくる?』
沢田が言った。
『連れてこなくてもいい。血液さへあればいいのだから』
『というと?』
『その血液で、突然変異を起こさせる成分を抽出し、それを増幅させることに成功したら、もう、そいつに用はないということだ』
『…………』
 沢田はごくりとつばを飲み込んだ。
『その血液は、JINNO製薬だけが持っていればいい』
『つまり、殺すと?』
 神取は、にやりと不気味に微笑んだ。
『殺し屋にな』
 沢田の表情が曇る。
『そんな顔をするな。心配ない。プロ中のプロだよ。失敗は、万に一つもない』
『そうか。それならいいが』
『我がJINNO製薬に、癌治療の特効薬が手に入るのだ。癌患者は、喉から手が出るほど欲しがるだろう』
 橘が不適な笑みを浮かべた。
『莫大な金、か……』
 沢田もまた、不気味に微笑んだ。

 風神は、驚きを隠せなかった。研究内容からいって、金儲けのために血液提供者を探すだろうという事は想像がついていたが、まさか殺しまでやるとは。
 神取は恐ろしい男だ。金のために人を殺す事を、なんとも思っていない。
 おそらく、血液提供者がわかったら、引き続き零児が研究を担当することになるだろう。そして、零児は殺された人の血液だとも知らないで、研究に没頭する。
 研究が終われば、零児達は神取にとって、邪魔者に過ぎない。秘密が漏れることを恐れ、また秘密を自分のものにするために、それらの多くの人を抹殺するに違いなかった。
 となると、風神も消されることになる。
 どうにかして、神取たちよりも先に血液提供者を探し出さなくては、自分の身が危険だ。しかしながら、自分は医療関係に幅広いコネを持つ沢田よりも、早く見つけられるのだろうか。
 風神は、冷房が利いている部屋にもかかわらず、全身から汗が噴き出していた。


【第九章 携帯電話】

 季節は、すっかり秋になっていた。夜には少し、寒さを感じるほどだ。
 京子は、布団を干そうとベランダに出ていた。
 今日は、天気もよく、秋晴れと言うのにふさわしい陽気だ。心地よい風が、京子の頬をなでた。
 京子は、ベランダで大きな伸びをする。とても、気持ちがいい。あんなに、せわしく鳴いていたセミも、もういない。
 京子は、秋から冬にかけての季節が好きだった。夏バテ気味の体調も、ようやく良くなってきているし、なにより京子は冬服をたくさん持っていた。一樹と会うときは、どれを着ようか、前日から迷うのだ。そんな幸せな季節が、これから訪れようとしていた。
 あの雪の景色を思い出すと、とても幸せだった。
 冬は、一樹のことが好きになりはじめた季節。好きと確信した季節。一樹と初めてのキスをした季節。これから始まる二人は、楽しさと、不安と、幸せの中にいた。それは、もう二年も前のことだったが、京子はあの時の気持ちを一度も忘れた事はなかった。

 突然、背後から聞きなれない電子音が聞こえてきた。
 京子は、部屋の中に戻り、耳でその音をたどると、ベッドの横で携帯が鳴っていた。一樹の携帯だった。おそらく、昨日一樹が部屋に来たときに、落としてしまったのだろう。
 電子音は、まだ鳴っている。小さな液晶ディスプレイには、非通知としか、出ていない。
 京子は少し迷ったが、携帯を手に取り、電話に出た。
「もしもし、あの……」
 プッ、ツーツーツー
 京子は、携帯の主でないことと、折り返し電話するように連絡できると、言おうとしたのだが、電話は何も言わずに切れてしまった。
 誰だろう。間違い電話……? 
 京子は、深く考えるのをやめた。一樹への疑惑が、頭をもたげてきそうだったからだ。
 京子は先月、駅前で見た光景で一樹の浮気を疑ったが、一樹は否定した。すべて納得できたわけではなかったが、信用することに決めた。大事な人を疑うことはとても辛かったし、一樹の京子への態度は、いつもと変わらなかったからだ。
 京子は、昨日、一樹が明日も仕事だ、とぼやいていたことをふと思い出した。となると、携帯がないと一樹が困るかもしれなかった。
 京子は少し悩んだが、携帯を会社へ届けることにした。まだお昼過ぎだったし、家にいてもたいしてやることが無かった。
 京子は、お気に入りの白のニットと、茶色が主体の幾何学模様のスカートと、ヒールの低いショートブーツを履いた。薄く化粧もした。
 携帯を届けるほんの僅かな時間とはいえ、一樹に会うのだ。一樹の前では、綺麗な格好でいたかった。
 京子は、マンションをあとにした。

 一時間半後、一樹の会社があるS駅に着いた。京子は、改札を下りて、すぐ目の前にある大きな地図看板を見た。
 一樹の会社に行くのは、初めてだった。名刺を貰っているので、住所はわかる。
 京子は、名刺と地図を見比べて一樹の会社を探した。すぐに、目的地は見つかった。駅に近く、歩いて行くと五分ぐらいだろうか。
 京子は、北口に向かって歩き出した。
 休日だからなのか、人数は多い。京子が気になるような、お洒落な店がたくさん建ち並んでいる。
 少し歩くと、オフィス街に入った。ここは、さすがに人通りが少なかった。京子は、いつもここを一樹が眠そうな顔で、行き来しているのかと思ったら、なんだか嬉しくなった。
 一樹の会社に、到着した。そこは、とても高いビルで、いくつかの会社が入っていた。
 京子はビルに入ると、自分の携帯を取り出し、名刺に書いてある番号を押した。

 ◇

 風神は、とても忙しかった。
 先月、Aホテルで神取が言っていたように、次々とM区の献血センターから血液サンプルが送られてきていた。それらを整理するのが、風神の仕事だった。
 零児はその横で、整理された血液を調査し、見たこともない成分が含まれていないか、調べている。
 もう、一ヶ月も同じ事を繰り返していたが、一向にその血液提供者は見つからなかった。
 風神は、その作業と同時に、M区内で最近賃貸された場所を調べていた。
 ここ最近の間に、賃貸されたマンションは三件。この中に、神取が雇った殺し屋がいる可能性は高い。殺す相手が見つかったときに、すぐにでも動けるのが殺し屋の鉄則だ。だとすると、殺し屋は今、血液提供者がいる可能性が一番高いM区にいるはずだと、風神は考えたのだ。

 風神は、研究センターでの仕事を終えると、夜遅くにM区に行き、その三ヶ所を実際に見て回っていた。とても危険な行為だったが、じっとしていても、いずれ自分は殺されてしまうのだ。風神は、動く事しかできなかった。
 今日は、その最後の一ヶ所に行く予定だ。他の二ヶ所とも、殺し屋らしい人影は見られなかった。残る場所は、あと一つ。ここがだめだとすると、もう一度ふり出しに戻って、考え直さなければならない。
 風神は、祈るような気持ちでその場所へ向かった。


【第十章 嘘】

 夜七時頃、あたりは暗くなっていた。だいぶ、日が落ちるのが早くなっている。
 マンションの真っ暗な部屋では、力の抜けきった京子がソファーに座っていた。
 京子は、なにもかもわからないことだらけだった。一樹が、三ヶ月も前から仕事を辞めていたなんて。

 京子は、あの時確かに、一樹の働いている会社の入り口で電話をかけたのだ。
『はい。栄西株式会社です』
 感じの良い声がした。
『あの、わたくし、高科京子と申しますが、営業二課の小島一樹さんはいらっしゃいますか?』
『はい。少々お待ちくださいませ』
 受話器からは、メリーさんの羊≠フ電子音が流れてきた。京子は、ビックリした一樹の声を想像して、笑顔になる。
 ずいぶんと長くメリーさんの羊≠聞いていたような気がする。電話がつながっていることを、忘れてしまったのかと思うほどだ。京子は、少しいらいらしてきた。
『もしもし?』
 先ほどの声が、聞こえてきた。
『大変お待たせしてしまって、申し訳ありません。あの、小島一樹さんは、こちらにはいらっしゃいませんが?』
 京子は、がっかりした。一樹はきっと、営業で外回りをしているのだ。会えないかもしれない、という事を考えてなかっただけに、ショックだった。
 しかし、携帯は返さなくてはいけない。京子は尋ねた。
『あの、失礼ですが、小島さんは何時頃、そちらにお戻りになるでしょうか?』
『いえ、あの。小島一樹さんは、三ヶ月前に退社なされておりますが』
『えっ! そんなはず。本当ですか?』
『はい。確かに、営業二課の小島一樹さんは退社されております』
 目の前が真っ暗になった。

 それから、どうやって電話をきったのかわからない。どうやって家にたどりついたのかもわからない。ただ、気づいたらソファーに座っていたのだ。

 会社に行くと言っていた一樹。
 仕事の帰りに、先輩のマンションに寄り道していた一樹。
 仕事が忙しくて、なかなか会えないと言った一樹。
 さっきから京子の頭の中で、何度も繰り返しているその言葉たちは、すべて嘘だったのだ。
 なにも信じられない。今、一樹は、一体どこで何をしているのか? 考えたくなかった。
 しかし、京子の頭は、そのことから離れてはくれなかった。京子にとって、一樹は唯一の存在だ。もし、一樹が自分から離れていくような事があれば、何もかも失って、何も残らない。そうしたら自分は一体どうなってしまうのだろう。
 京子は、ソファーの上で膝を抱え込んだ。
 きっと、狂ってしまうに違いない。
 京子は怖かった。一樹に問い詰めて、真実を知り、そして別れなくてはならない状況になるのが、とても怖かった。しかし、このまま、一樹への疑惑を持ち続けたまま、付き合うことも辛い。でも一樹を失うぐらいなら、耐えてみせる。京子は、心の中で何度も呟いた。
 一樹は、いつもと変わらず、優しかった。昨日だって、あんなに楽しく過ごしたのだ。どうしても、自分を見つめる優しい目をした一樹が、嘘だったとは思えない。一樹は、自分を愛してくれている。このことには、自信があった。たとえ、他に女がいたとしてもだ。だとしたら、この疑惑を抱えたまま、いつもと変わらない自分でいれば、一樹を失う事もない。
 京子は、そう決心した。

 どの位の時間が、経過しただろう。暗い暗い部屋の中で、一樹の携帯が鳴った。京子は昼にかかってきた人だと思い、無言で電話にでた。
「…………」
「もしもし、京子?」
 一樹の声が聞こえてきた。不思議と、とても懐かしい。
「一樹!」
「あぁよかった。京子が出てくれてよかったよ。携帯忘れて、大変だったんだ」
 安堵した一樹の声が聞こえる。涙が滲んだ。

 本当は、真実を聞きたい。今、どこにいるのか。今日は、何をしに行っていたのか。どうして嘘を、ついたのか。仕事はどうして、辞めてしまったのか。京子は、自分の中に渦巻く疑惑のすべての言葉を飲み込んだ。
「携帯どうする?」
「ああ、今から取に行きたいんだけど、大丈夫かな?」
 それから一樹は、携帯を忘れたことに気づいた経緯や、今日してきた仕事について、陽気に話し出した。
 京子は黙って聞いていたが、頭の中では、一樹の言葉は瞬時にかき消されていった。
 どうして、携帯を忘れたのか。一樹が携帯を忘れなければ、こんな疑惑に駆られる事はなかったのに……。京子は、一樹が携帯を忘れたことを悔やんだ。
 今まで、必死でこらえていた涙がこぼれた。すでに声は、涙声になっている。

「京子、聞いてる?」
 黙ったままの京子に、一樹は不満そうに聞いた。
「うん」
 京子はできるだけ、普通に答えたつもりだった。しかし、一樹は電話越しに、京子のいつもと違う気配に気づいた。
「どうした? なんか様子が変だけど、もしかして、泣いているの?」
 京子は、慌てた。一樹には、自分が疑っているということに、気づかれたくなかった。
「うん、ちょっとね。今、Love OR Kiss′ゥてたから、また泣いちゃったよ。何度見ても泣けちゃうんだよね」
 咄嗟に嘘をついた。
「ほんとに? なんだ、そうだったんだ。えっ、てことはやっぱり俺の話聞いてなかったんだ。もう!」
 一樹はどうやら、信用してくれたようだ。

 Love OR Kiss
 なんてこてはない恋愛映画なのだが、ヒロインを一途に思うせつない英国紳士の物語に、京子はすっかりはまってしまったのだ。
 映画を見たときからビデオを買おうと決め、それからテープが擦り切れるほど何度も見ていた。その度に、京子は必ず泣いてしまうのだ。一緒に付き合わされる一樹はすっかり内容に飽きて、泣いている京子のそばで寝てしまうのだが。

「でもやっぱり、泣かれると、なんだか心配。今から家出て、すぐに行くよ。二時間はかかると思うけど」
「わかった。待ってる」
 京子は、涙声のまま言った。
「うん! じゃあ、あとでね」
 電話が切れた。

 一樹がやっぱり大好きだ。離れることなんて、できない。


【第十一章 震え】

 あるビルの屋上から、倍率がよく、精度もよく、値段も一流の双眼鏡を覗く男がいた。
その双眼鏡の向く先は、M区の、とあるマンションだ。このビルは、そのマンションから百メートル以上離れた場所にある。
 風神はひたすら、そのマンションの主を待ち続けた。ターゲットは、六階の一番右端の部屋だ。今は、まだ真っ暗で何も見えない。
 かなりの時間が、経過していた。風神は、今さっき買ってきたホットコーヒーを一口飲み、タバコに火をつけた。
 だいぶ、体が冷えてきている。足元には、すでに吸い尽くされた、いくつかのタバコが散らばっていた。夜空には、都会に似合わない綺麗な星が見えた。冬にむけて、空気が澄んできているのだろう。タバコをくわえながら、両手を上にあげ、伸びをする。あくびが出た。
 あぁ今日も眠れないのかな。少し弱気になってみる。イヤイヤと首を横に振ると、両手で頬を叩いて、気合を入れ、首につる下がっている双眼鏡を再び覗いた。
 部屋の明かりがついていた。帰ってきたのだ。

 風神は、口にくわえていたタバコを吐き出し、足元で消した。時間はすでに十二時を回っていた。
 双眼鏡の倍率を上げて、覗き込む。男が一人で、部屋をうろついている。しばらくして、冷蔵庫からビールを取り出すと、立ったままビールを飲みだした。その行動は、普通の独身サラリーマンに見える。
 風神が、がっかりし、次の手を考えようとした時だった。部屋の明かりが消えた。その男は、帽子をかぶりベランダに出てきた。帽子を深くかぶっているので、顔はよく見えない。右手に、何か持っている。男は右手をゆっくりと上に持ち上げ、銃を構えた。その矛先は、百メートル以上も先の双眼鏡で覗いている風神だった。
 体が金縛りにあったかのように、硬直した。暑くもないのに、汗が体を流れた。双眼鏡を覗いたまま、動けない。帽子をかぶっている男の口が、かすかに動いた。男は口角を上げ、微笑んでいた。

 どう考えてもその男から、覗いている風神の姿が見えるはずがない。まして、気づくはずはない。では、どうして風神に向かって、男は銃を構えているのか。
 風神は、双眼鏡からようやく目を放し、ビルの陰に隠れた。自分の心臓の音がはっきりと聞こえる。あの、不気味に笑う男の顔を思い出すと、叫びだしそうになった。確実に殺されると思った。あれが、プロの殺し屋なのだ。今まで積み重ねてきた風神の腕では、太刀打ちできない。現に、百メートル以上はなれた場所からの、覗きがばれたのだ。
 風神は全身から震え上がった。
 只者ではない。こんな男が存在するなんて……。

 ようやく少し落ちつき始めた風神は、自分のしたことを後悔していた。もし、あの場で殺されていたら、すぐに身元が割れ、依頼主である橘の命もなかっただろう。
 風神は、急いでこのことを報告する為、橘家へ向かった。

 ◇

 男は、電話をかけていた。
 プルルル、プルルル、プルッ。
 三回目のコールがなり終わらないうちに、声が聞こえてきた。
「ねずみが一匹、うろついているが?」
「殺してくれてかまわん」
「それは、正式な依頼か?」
「相変わらず、融通がきかない奴だ。顔は見たのか? 今度見つけたら始末しろ! 依頼だ」
「顔は見えなかったが、承諾しよう。威嚇しておいたから、再び姿を現すかどうかは疑問だがな」
「頼んだぞ」
 電話は切れた。
 男の電話の相手はJINNO製薬社長の神取だ。神取は、どこからか、情報が漏れていることに頭を悩ませた。どうにかしなくては、今までの労力と、金が無駄になってしまう。挙句の果てに、莫大な金が手に入らなくなる。
 神取は、無駄という言葉が一番嫌いだった。

 ◇

 ようやく橘家に着いた風神は、いつも通される部屋にいた。緑子は、真夜中の突然の訪問にもかかわらず、嫌な顔ひとつしなかった。
 すぐに、橘が部屋に入ってきた。お決まりの挨拶もなく、橘が話し出した。
「こんな急な訪問だ。何か重大なことがあったんだな。早速話してくれ」
「そうなんです。大変なことがありました」
 風神は、殺し屋に会ったことを事細かに話した。話しているうちに強烈な恐怖を思い出し、手が震え出した。
 橘は、黙って聞いていた。そして、風神が話し終えると、静かにゆっくりと口を開いた。
「その殺し屋を、突き止めたことを悔やむ必要はない。しかしあなたは、もう二度とその殺し屋に会ってはいけない。次に会ったそのとき、命はないだろう。JINNO研究センターで、大人しくしていなさい」
「わかりました。しかし、私は殺し屋の顔を見ていません。それに、殺し屋がその場所を移動することも考えられます。私の行動は、命を脅かし、無駄な働きだったとしか思えません。本当に、申し訳ありません」
 深々と頭を下げる。
「いや。百メートル以上も離れたところから、人の気配を感じ取れる、そんな殺し屋は、数人しかいない。調べればわかるかもしれない。それに、殺し屋が今の場所から移動することはないだろう。M区からは、動くことはできないからな。それに、殺し屋も同様に君の顔を見ていない。もし街角で会ったとしても、わからないはずだ。でも、あなたには探偵の臭いが染み付いている。そのことに気づかれる可能性は高い。M区には近づかない方がいい。だが、私は君にやって欲しいことがあるのだ。その危険なM区でだ。断ってくれてもいい」
 橘はあくまで優しく言ったが、真剣な目をしていた。

 風神は、結局橘からの依頼を引き受けた。確かに危険なことだったが、やってやれないことはないだろう。どちらかと言うと、風神は、橘の素性について考えていた。殺し屋に対して、自分に的確なアドバイスをした橘は、一体何者なのだろうか。ずっと思っていたことだった。
 風神は今まで、依頼主のプライバシーに一切関わらないようにしてきた。しかしながら、橘への疑問は膨らむばかりだった。依頼の内容といい、的確な推理といい、支払われる額といい、風神が仕事してきた他のどの依頼主とも、全く違っていた。
 風神は、橘の言う通りしばらく大人しくすることにした。


【第十二章 血液】

 月日が流れた。十一月もすでに、残り少なくなっている。
 ものすごい勢いで、電車がホームに滑り込んできた。
 京子は、朝の通勤ラッシュのさなかにいた。電車にどうにか乗ると、目の前にある、吊革に手を伸ばした。人が押し込まれるようにして、ドアが閉まり電車はまもなく発車した。
 京子の目の前には、短い制服のスカートをはいた女子高生が二人座っており、朝だと言うのに妙なハイテンションで話をしている。どうやら二人は、恋の話をしているようだった。声が大きいので、隣に座っているおじさんは少し迷惑そうに見えた。京子は、自分にもこんな時が合ったのか……、と懐かしい思いで見ていた。
 高校生の頃は、周りのことなど一切目に入らず、自分の目の前で起こる全てに、一喜一憂していたものだ。恋もほとんどが独りよがりで、友達に何度も相談したり、泣いたり、笑ったり、悩んだり、そんな風に毎日過ごしていた。それでも、毎日元気で、楽しく過ごしていた。
 しかし、今、京子はずっと眠れない夜を過ごしている。一樹は相変わらず優しかったが、京子の精神状態は限界に達していた。

 駅を、いくつか通り過ぎ、人も減ってきた時だった。京子は急に眩暈がした。
 やばい、貧血だ! そう思った時には既に遅かった。いけないと思いつつ、吊革から手を放し、後ろに倒れてしまった。
 突然、大きな衝撃を受けたサラリーマンのおじさんが、迷惑そうに振り向いた。しかし、すぐに真剣な顔になって、京子を抱き起こし、「大丈夫ですか?」と何度も繰り返した。
 京子は、「済みません」と力なく言うと、意識が遠のいていった。
 サラリーマンのおじさんは、次の駅で駅員を呼び、京子を運ばせた。

 京子が目を開けると、移動していく天井が見えた。どうやら、キャスター付きベッドでどこかに運ばれているようだ。
「ここは?」
 頭がボーっとしている。
「気がつかれましたか? ここはS医療センターです。あなたは、Y駅付近の電車の中で倒れられました。覚えていますか?」
 医師らしき人が、答えた。
 思い出した。自分は貧血で、電車の中で倒れたのだ。
「あなたの名前は?」
 その医師が尋ねる。
「高科京子です」
「あなたのお住まいは? 連絡する人はいらっしゃいますか?」
 すぐに京子は、一樹のことが浮かんだが、それは一瞬のことだった。頭が正常に動いてくれない。
「Y市のM区――」
 なんとか答えると、医師の返事も聞かず目を閉じた。そして深い眠りに入った。

 京子を見る医師の目が、一瞬怪しく光ったことも知らず……。

 京子は、再び目を覚ました。病院の一室と思われる部屋の窓から、夕日が差し込んでいた。今度は、頭がスッキリとしている。
 すぐに、会社を無駄欠勤していることに気づいた。急いで立ち上がると、ちょうど看護婦が姿を現した。
「何してるんですか? もう少し、安静にしていなくてはいけませんよ。まもなく担当医から、お話がありますので」
「あの。会社に無断欠勤しているんです。電話をかけに行きたいのですが」
 看護婦は仕方なく、了解してくれた。
 京子は、院内に設置されている電話ボックスから電話をかけた。会社の上司に事情を話し、なんとか『お大事に』と言う返事をもらい、医師の待つ部屋へ足を運んだ。
 医師の説明は、短時間で終わった。極度の疲労からくる、重度の貧血だと言っていた。二、三日安静にしていれば、回復するらしい。ただし、念のため血液検査することを告げられた。
 京子は、血液を採取した後に、病院から自宅へ帰っていった。

 ◇

 医師は、京子の血液を少量、他の試験管に移した。そしてそれを、JINNO製薬研究センターに送った。
 この医師は、沢田だった。神取から、M区に住む患者の血液を、JINNO製薬研究センターに送れと言われていた。
 M区にある献血センターの血液を調査してから、もう二ヶ月が過ぎていた。少しでも、多くの血液を調査する必要があったのだ。
 神取は、M区に突然変異を起こす血液があると言っていたが、本当なのだろうか。やはり、M区に限定するのは、あまりに無理があるように思えてならなかった。

 ◇

 京子は、仕事にいけない二日間を寝て過ごした。この二日間は地獄だった。仕事をしている間は、一樹のことを忘れられていたからだ。ベッドの中にいると、嫌でも考えてしまうのだ。疑惑を持ち続けながら、一樹と一緒にいることが、もう既に、限界だった。

 ◇

 数日後、JINNO製薬研究センターの一室から歓喜の声が上がった。
 声の主は、赤月零児だ。風神は、すぐにその声を聞きつけ、零児の元に走りよった。
「どうしたんですか?」
「とうとう、とうとうやったんだ!」
 零児は、I成分を引き出す血液を見つけたのだ。
「やっだじゃないですか。おめでとうございます」
 風神は、喜んでいるように見せた。
「すぐに社長に連絡しなければ……」と言って零児は部屋を出て行った。
 零児は、社長を信じて疑わなかった。社長は、自分に、世紀の発見をくれた人物なのだ。これで、癌細胞から人類は救われるのだ。
 風神はすぐに、その血液者の名前と住所が書いてある紙を探し出した。そして、ポケットに手を突っ込んだ。ポケットに用意しておいた、小さな紙と鉛筆で、すばやく書き写す。
 それは、探偵がよく使う手段だった。移動中の場合や、張り込みの際に、相手に気づかれることなくメモができるのだ。

 三十分後、零児が帰ってきた。
 社長の神取が言うには、その血液中から突然変異させる成分を取り出し、本当に癌細胞を死滅させることができるのか、また、その成分を繁殖させることができるのか、引き続き調査しろという事だった。しかも、期間は三日しかないと言う。零児は血相を変えて、研究室に入って行った。
 零児は、連日連夜徹夜で、ここ最近ちゃんとした睡眠をとっていない。それでも、神取の言うとおりに、三日後には結果を出すだろう。零児はある意味、天才だった。

 名前と住所が判明した。
 風神は、先月、橘に言われた依頼を実行しなくてはならなかった。しかも、三日後、零児が結果を出す前に……。
 依頼内容は、突然変異を起こす血液保持者を、橘家へ連れて行くことだった。失敗すれば、その血液保持者は、確実に殺される。
 なんとしても、その人を三日間の間に橘に会わせなければならなかった。

 ◇

 JINNO製薬の社長、神取は、早速電話で話していた。
「やっと見つかった。おそらく三日後に、正式に依頼することになるだろう。それまでは、まだ殺さなくていい」
「ずいぶんと待たせられた気がする。とりあえず名前と住所を教えてくれ」
 神取は、零児が持ってきた血液者リストを見ると、赤いペンで丸く囲まれた部分を読み出した。
「高科京子。Y市M区○○町××××−八〇九」
「…………」
 電話からは何も聞こえなくなった。
「聞いているか? 大丈夫だろうな」
 待ちきれず、神取が言った。
「わかった。三日後に電話してくれ」
 電話は、一方的に切れた。


【第十三章 車】

 風神は、悩んでいた。どうやって、怪しまれず、その人を連れ出すか。
 本来ならば、殺し屋がいるM区に足を運び、気づかれずに連れ出すには、念入りな計画が必要だ。しかし、時間がなかった。連れだすとしたら、今日しかなかった。今日は、約束の三日目だった。
 風神は、車でM区に向かっていた。助手席には、血液保持者の住所と名前等が記された紙と、写真がクリップで留めて、置かれている。風神は、短時間に情報を集めていたのだ。
 風神は、決心した。少々手荒で危険ではあるが、怪しまれないだろう。

 ◇

 その日京子は、残業もなく、早い時間に家路に着こうとしていた。
 すでに夜は寒く、吐く息も白い。
 コートを着ていなかった京子は、寒さに震えた。家に着いたらゆっくりとお風呂に浸かって、その後ビールを飲もうと考えながら、すでに信号が点滅している横断歩道を走って渡ろうとしたときだった。急ブレーキの音が、あたりに響きわたった。一瞬、何が起こったのかわからない。
 信号無視の車が、京子めがけて突っ込んできたのだ。咄嗟のことで、ビックリした京子は、後ろにひっくり返った。急いで車から降りてきた人が、何か言っている。
「大丈夫ですか?」
 やっと聞き取れた男の言葉に、京子は自分が無事であることを確認した。
 ゆっくりと立ち上がって、すっかり汚れてしまった服を叩いた。
「大丈夫みたいです。私もボーっとしていたものですから」
「本当に済みません。お怪我ありませんか? あの、近くに家がありますので、そちらで」
 深々と頭を下げた。
「いいえ。本当に大丈夫ですから」
 京子は断る。
「いえ、でも、本当に。僕の気が済みませんから」
「本当に何でもないですから!」
 京子は、早くこの場を去って家に帰りたかった。しかし、男は京子の腕を掴み、頭を下げ続けた。
「お願いです。お願いします」
 引き下がる気配が、全くない。
 京子は、この男に根負けして、車に乗ることにした。

 もうすでに、車に乗ってから四十分が経っている。この男は、最初に名前を聞いただけで、終始無言だった。
 京子は後悔していた。なぜ、車に乗ってしまったのだろう。他人の車になんか……。しかも男。自分の軽はずみな行動にあきれて、溜息が漏れた。
「あの、お住まいはどちらに? 近くに、家があると言っていましたよね」
 京子は、思いきって尋ねた。
「ああ、済みません。考え事をしていましたから気づかなかった。私は、風神涼という探偵です」
「探偵?」
 風神は、京子を一瞥する。
「少々ややこしい話ですので、後ほどゆっくり話します」
「え?」
 京子は唖然とした。この人は、何を言っているのだろう?
 素性の知れぬ、しかも、自分とは全く接点のない探偵という職業。半ば、拉致された状況。しかも、後ほどって、いつ? 京子は、混乱した。どう考えても怪しい。チラッと、運転している風神を見る。ナンパ? それとも誘拐? 考えれば考えるほど、怖くなってきた。
「あの、私、降ります。車、止めてください」
 車のドアに手を掛ける。
「それは困ります。もうすぐですから」
「もうすぐって? 一体どこへ」
 険しい顔になる。
「私の依頼主の所です」

 車が信号で止まった。
 風神は、京子の乗っている助手席に手を伸ばすと、ビクッと京子の体が、硬直した。それに気づいた、風神は、苦笑いながら「そんなに、怯えないで下さい」と言い、助手席のダッシュボードから、絆創膏と、資料を取り出し、京子に渡した。
「え?」
「傷」
「え?」
「手」
 京子は、手を見た。右の手のひらの横に、すり傷があった。
「あっ」
 全然痛みがなかったので、気づかなかった。
「怪我をさせてしまって、すまない」
 信号が青に変わった。風神が前を向き、再び車が走り出した。
 京子は、迷ったが、貰った絆創膏を、怪我の部分に貼った。血が、服につくのが嫌だったからだ。
 それにしてもこの人、こんな暗い車内で、よく気づいたな……。
 京子は、再び運転に集中する風神に、視線を送る。
「どうして?」
「ん?」
「擦りむいてたの。気づかなかった」
 風神は、一瞬何のことを言っているのかわからなかったが、すぐに気づいた。
「ああ、傷? 職業柄、観察は鋭いほうでね」
 少し笑いながら答えた。
「絆創膏、ありがとう」
「いや。こちらこそ、ビックリさせて悪かったね」
 京子は、もう一つ手渡された紙に目を落とした。風神がそれに気づくと、車内のバックミラーのそばにある、スイッチを押し、電気をつけた。
 京子は、明るくなった電気に視線を奪われたが、すぐに視線を紙に戻した。そこには、自分の名前、生年月日、年齢、住所、そして、写真が添付されていた。何これ?
「高科京子。二十六歳、一九七六年八月二十日生まれ。B型」
 突然、風神がしゃべった 。
「なん、何なんですか?」
 目を大きく見開いた。
「調べた」
「何で?」
「探偵だから」
「降ります。私、降ります!」
 怖くなって、京子は叫んだ。
「嘘をついて、君を車に乗せたことは、謝ります。だけど、降ろすことはできない。どうしても、君に会いたいって人がいるんだ」
「私に会いたい? 誰が? そんなこと私には、関係ないで――」
「その方の名前は、橘と言います」
 風神が京子の言葉を遮った。
「橘?」
 京子は、聞いたことがなかった。知り合いでもない。どうして、こういう事になってしまったのか、理解できない。京子はわからなかった。わからない事だらけで、悲しくなった。一樹のことも、今の状況も……
 両手で顔を覆い、下を向く。目を固く閉じた。

 何もかも、どうでもいい。わからない事だらけでも、いい。どうせ、誰も答えてくれない。問い詰めたら、一樹とも終わりだ。でも、もういい。もう限界。一樹のことも、あきらめる。だって、しょうがない。信じれるものがない。愛されてる自信がない。こんな自分は大嫌い。もう、疲れたよ。一樹、私疲れた。

 あきらめられるの? わからないままでいいの? このままでいいの? 何が怖いの? 傷つくのが怖いの? もうボロボロじゃない。何を今更、怖がっているの? このままでは、傷は深くなるばかりよ。もう一人の京子が言う。
 
「大丈夫?」
 風神が声を掛けると同時に、京子が髪を振り上げ、起き上がった。
 このままでいい筈がない。幸せになんかなれない。自分と向き合わなきゃ。一樹を失っても、わからないことを、そのままにしてはいけない。
 もう、わからない事はたくさんだ。家に着いたら、一樹に電話しよう。全部、話そう。そして、終わりにしよう。こんな自分。

「その人に」
「え?」
「その人に会えば、全てわかるの?」
「はい」
 ふぅ、と一息つく。
「タバコを吸ってもいい?」
「どうぞ」と言って、風神は車についている灰皿を開けた。


【第十四章 信じる心】

 橘家に着いた二人を、緑子が笑顔で迎え入れた。京子は、広い屋敷のような家を見て、唖然としていた。見るからに、お金もちの風格が漂っている。そんな家に入るのは初めてだった。
 緑子がいつものように、風神を部屋に案内した。京子は、緊張気味に風神の後を付いていった。そこには、橘という紳士的な男が座っていた。
「ようこそ。高科京子さん。ずっと会いたかったのですよ」
 橘が、京子を見て立ちあがり、笑顔で挨拶した。
 京子はどうしていいか、わからなかった。なんせ、会った事もない人の家で、名前も知らない人が自分の名前を知っていて、そして笑顔で迎え入れてくれているのだ。
「あの?」
 京子は、風神の方を向き、せがむような目をした。
「こちらにいらっしゃるのが。橘さんです」
 風神は、橘の方に手を差し出した。
「あの。初めまして……」
 言葉が出てこない。
 そんな様子を見て、橘がニッコリと笑う。
「初めてお目にかかるのに、お話したい事があると言われてもお困りでしょうが、まあ、お座りください」
 京子は橘に言われたとおりに、目の前にあるソファーに腰を下ろした。その隣に、風神が座った。
「どうか、これから話すことを、心を落ち着かせて聞いてください」
 橘は、京子の目をしっかり見つめた。
 京子は、緊張した。
「高科京子さん、あなたは今、命を狙われています」
「はい?」
 頭が真白になった。

 橘は、事のいきさつを、わかりやすく簡潔に話し出した。京子の血液のこと、それを巡ってJINNO製薬で行われようとしていること、殺し屋に命を狙われていること、それが、明日であること。それらの事柄は、一時間もすると、全て話し終えた。京子は、あまりの出来事に、震え出していた。
「どうして、私がそんなことに。私は何も知らないのに」
 自分が殺されるという現実に、吐き気がする。
「守ります」
「えっ?」
「私は、三年前にあなたの血液で助けられました」
 橘が、大きな両手を組んで、膝の上においた。
「私は、癌でした。しかも、もう末期で助かる見込みはなかった。しかし、あなたの血液が輸血されたのをきっかけに、癌細胞は死滅し、私は助かったのです。だから、今度は私が、あなたを助けたい」
 京子の手を取ると、ギュッと力強く握った。
「私を、信じてください。あなたを必ず助けます」
 京子は、泣き出した。顔も知らないこの男が、私を助けてくれる。初めて合った人なのに、なぜか、信じられる。とても不思議だった。
 それは橘が握った手が、とても暖かかったからかもしれない。

 どのぐらいの時間が経ったかわからなかったが、ようやく落ち着いてきた。自分の置かれている立場を、理解できるようになっていた。それも、橘のおかげかもしれない。
 この人は、自分を助けてくれる。そして、それを信じられる。
「じゃあ、私、そろそろ帰ります」
 京子が席を立った。
「だめです。危険すぎます。私の家にいてください」
「でも、着替えも持ってきていないし、一度家に帰りたいのですが?」
 京子は、一度家に戻って長居するであろう橘の家に、一樹との写真を持ってきたかった。一樹と、しばらく会えなくなるだろうし、せめて写真を側に置いておきたかった。本当は、声を聞きたい。電話をしたい。だが、外部との接触は、橘に禁じられていた。
「わかりました。家まで送ります。ただし、私もついていきます。必要なものを取ってきたら、また我が家まで一緒に行きましょう」
 京子の決断を変えることはできないと思った橘は、しかたなく言った。
「ありがとうございます」
 京子は、お礼を何度も繰り返した。
 すぐに車が用意され、風神が運転し、その後ろに橘、京子が乗り込んだ。緑子が心配そうに三人を見送った。

 ◇

 JINNO製薬研究センターでは、零児が睡魔と戦っていた。すでに、零児の努力で、血液が癌細胞を死滅させることがわかっていた。
「もうすぐ。もうすぐで、繁殖できるかどうかがわかる」
 零児は、研究室にある洗面所で、鏡を見ながらブツブツと呟いた。
 水道の蛇口を思いっきりひねり、ジャバジャバと音をたてる冷たい水を掬い、顔にたたきつけた。顔が一瞬ひんやりとして、皮膚に緊張が走ったが、それはすぐに消えた。
 ここで、寝ては間に合わない。あと少し、あと少しだ。零児は自分に言い聞かせた。
 洗面所から戻ると、一気に目が覚めた。零児は、すでに帰宅している神取に電話をかけた。


【第十五章 涙】

 車が、京子のマンション前で止まった。
 すっかり夜は更けて、周りからは物音ひとつしない。ただ、風神の車のエンジン音が静かに響きわたっていた。
 京子は、荷物を取るためにマンションに入って行った。エレベータに乗り込み、八階へ行くボタンを押した。
 まさか、自分がこんなドラマのような展開に巻き込まれるなんて、昨日までは思いもしなかった。どっと疲れがでた。何も考えたくはなかった。早く橘の家に戻り、眠りたかった。
 やがてエレベータが到着し、鞄の中から鍵を取り出して部屋のドアの前で立ち止まる。ドアに鍵を差し込んだ。ガチャリ≠ニ音がして、ドアを開けようとノブに手をかけた。
 しかし、開かない。不思議に思った京子は、会社に行く時鍵をかけ忘れたのかと思い直し、もう一度、鍵を反対に回してみた。すると、ドアは不気味に開いた。

 京子は、靴を脱ぎ、真っ暗な部屋の中へ入って行った。
 誰かいる?
 気配を感じた。と同時に動機が激しくなる。
 誰?
 京子は、すぐにそばにある電気のスイッチを押した。部屋中が明るくなると、京子は安堵のため息を漏らした。
「ああ、もうびっくりした! 脅かさないでよ」
 そこにいたのは、ソファーに座っている一樹だった。
 一樹は、何も答えなかった。
「どうしたの? 急にくるから何もないよ。それに、私これから出かけなくちゃいけないの。せっかく来てくれたのに、悪いんだけど……」
 京子は、奥の押入れから大きめの鞄を取り出し、服を詰め込んだ。
 一樹は、一言も話さない。ただ、じっと京子を見つめていた。鋭く、悲しく。
「さっきから、ダンマリね。ホント、どうしちゃったの?」
 京子は、服を詰め終わると、アルバムから写真をいくつか取り出し、手帳にはさんで鞄に入れた。
「ここに、いたいなら居てもいいけど、私しばらく帰れそうもないの。理由はちょっと話せないけど、電話するね。あっ、そうだそうだ!」
 京子は、テーブルに置いてある箱根の写真を持っていこうと、写真たてを手にとった。
 一樹が、立ち上がった。
「理由は、知っている。言わなくていい」
「えっ?」
 京子は何の事かわからず、一樹の方を振り向いた。写真たてが京子の手を離れ、床に落ちた。
 硝子細工の写真たては、無残に砕け、飛び散った。
 京子が見たものは、一樹が自分に銃を向け、立っている姿だった。
「なっ、何をしているの? 私をビックリさせようとして、こんな事してるんでしょ?」
 一樹は、何も答えない。ただ、じっと立っている。それが答えを示しているかのように……。
 まさか、まさか。JINNO製薬の雇われた殺し屋が、一樹なの? そんなはずない。違う。違う! 
 京子は、これまでの一樹の行動と、橘の話していた事柄を重ね合わせていた。頭の中で、見事に一致してしまうのを、必死でかき消そうとした。

 一樹が、京子の知らないマンションに入って行ったのは、殺す相手がM区にいると知って、そこで張っていたから。
 一樹の携帯の無言電話は、おそらく神取からの電話。
 一樹が仕事を辞めたのは、JINNO製薬から依頼を受けたから。
 そして、一樹がここに居るのは、私を殺すために雇われた殺し屋だから。

 京子の涙が、頬を伝わった。
 どう考えても、つじつまが合いすぎる。否定したい気持ちが大きいのに、事実は、一樹が殺し屋である事を指し示していた。

「嘘、でしょ……」
 京子は、独り言のように言った。
 一樹は、相変わらず黙っている。
 京子は、今までの一樹が、全て偽りのものとは思えなかった。少なくとも、今ここで、拳銃を自分に向けている一樹とは、全然違う。
 京子は、一樹が浮気していると疑っていた。しかし、心の奥で、一樹が本当に愛してくれていると感じていたから、今まで耐えてこれたのだ。そのことに関しては、一樹から嘘は見当たらなかったはずだ。一樹は、殺す相手が京子だったとは、知らなかったに違いないのだ。

「私を殺すなんて、一樹にできるはずないよ!」
 京子が泣き叫んだ。
「だって、一樹は私を愛し――」
 何かが、京子の左頬をかすった。一瞬の出来事だった。
 京子は目を見開いて、ただ立っていた。その瞳はしっかりと開かれているのに、何も見えてはいなかった。床に京子の栗色の髪が、音もなくゆっくりと散らばった。頬からは血が噴き出している。
 京子は、自分の左頬に手を当てた。ヌルッとした感触が、手先から伝わった。
 手には、血がべっとり付いている。自分の心臓の音が、よく聞こえる。その音しか、聞こえていないのかも知れなかった。
 周りの音がよく聞こえない。ただ、一樹が自分に向かって、引き金を弾いたことだけは理解した。
 一樹は、私を確実に殺すのだ。今まで、一緒に過ごした日々がまるで、何でもなかったかのように……。自分はどこかで、一樹には私を撃てはしないと思っていた。だが、その考えは甘かった。目の前に居る一樹は、殺し屋なのだ。いつもの優しい目も、口も、雰囲気も、何もかもが京子の知っている一樹とは違っていた。
 京子は、急に怖くなった。とても大切な一樹が、他人に見えた。逃げ出そうとした。が、思うように走れない。
 玄関までの距離は、とても近いのに、遠くに遠くに感じられた。足がもつれ、倒れた。殺し屋の一樹は、少しも焦ることなくゆっくりと近づいてくる。京子は、四つん這いになって、必死で玄関の方へ移動する。
 その時、頭の上でカチリ≠ニ音がした。そしてゆっくりと、こめかみの辺りに、銃を突きつけられた。
 京子の呼吸が、一瞬止まる。その場の、時の流れが止まったかのように……。そして、ゆっくりと力が抜けた。
 
 殺される!

 京子は、強く目を閉じた。


【第十六章 絶望】

 風神は、車内でタバコに火をつけた。橘が車を降りてから、十分が経過していた。橘は、急に車から降り、マンションの入り口に向かったのだ。何を感じ取ったかは、風神にはわからなかった。
 一人の男が、マンションから出てきた。風神は、こんな夜更けに出歩く人が居るのかと、目で追っていた。長めの薄いコートが、歩くときの風でめくれ上がった。胸に光るものが見えた。銃だ。
 風神は、殺し屋だと直感した。あの時の双眼鏡で見た男が、こちらに向かって歩いてくる。風神は、息を呑んだ。見つかれば殺されるかもしれない。しかし、殺し屋は車の横を通り過ぎて行った。
 風神は、しばらく動けなかった。

 その十分後、橘が高科京子を抱いて、戻ってきた。
 京子は、ぐったりとし、顔色が悪く、死んでいるように見えた。
「まさか、もう?」
「いや。気を失っているだけだ」
 風神は、助手席のドアを開け、寝れるように倒し、橘の手から京子を助手席に移した。
 顔には、血が付着している。三センチほどの傷が生々しく、左頬を血で染めていた。この流れる血が、癌を死滅させるのだ。何も知らない、ただの女の子なのに。
 風神は、京子をかわいそうに思った。運転席に戻ると、橘がよく知る病院へ向かった。
 ◇

 京子は、夢を見ていた。あんなに眠れなかったのに、今はずっと眠っていたいような気がする。
 夢の中で、一樹が笑ってた。いつもの待ち合わせに場所に、一樹が遅れてやってくる。言い訳をしている一樹を見て、私が笑ってる。手をつないで、町を歩いた。怖い映画を見て、隣でびくびくしている一樹の手を握り締めた。
『だからいったじゃない!』
『だって』
『怖いの苦手なくせに、見たがるんだから!』
 けんかした。でも、すぐに仲直りする。二人で、公園のベンチに寄り添って座った。いろんな話をした。一樹の前で、大きなあくびをする。
『でっけぇあくび!』
『だって、昨日遅かったんだもん』
 一樹の肩によりかかる。一緒にビデオを見た。買い物もした。家具を見に行って、売り物のソファーに座った。
 クリスマスには、二人で夜景の綺麗なレストランで食事した。
 一樹の誕生日に、時計を買った。一樹は『もったいないから』と言って、なかなか時計をしなかった。船に乗った。夜景を見た。二人は笑っていた。何もかも幸せだった。

 広い廊下から、足音が聞こえる。誰かが来る。ドアの前で、音が止まった。ゆっくりドアが開いた。その人は、私のそばに来た。寝ている私の手を握り、私をずっと見つめている。悲しげな、息が詰まりそうなぐらい、切ない表情。
 手に何か? 冷たい? 涙……。泣いているの? どうしてそんな目で私を見るの? そんなに、強く握ったら、手が痛いよ。ねえ、誰、誰なの? 誰かが、私の名を呼んでいる。声を押し殺して、泣いている。苦しい顔をして。
 それなのに、私を置いて、静かに出て行ってしまった。

 ◇

 眩しい! 目を閉じる。京子は、目を開けるのが苦痛なぐらいに、ずっと暗闇の中にいた。
 もう一度、薄目を開けると、手足の感覚が甦ってきた。手のひらに温もりを感じ、横を向くと、橘の家で見た綺麗な人が、自分の手を握っていた。
「私?」
「気がついたのね。心配したのよ」
 緑子は、優しく微笑んだ。
 京子も、力なく笑った。
「三日も気を失っていたのよ。思い出したくないでしょうけど、気をしっかりね。負けてはだめよ」
 その言葉で、何もかも思い出した。一樹が、私を殺そうとしていた事。橘さんが助けてくれた事。
「ずっと、手を握ってくれていたのですか?」
「ええ。橘を呼んでくるわ。待っててね」

 どうやら、ここは、病院のようだ。個室なのだろう。京子以外、誰もいなかった。
 しばらくして、橘と緑子が入ってきた。
「気づきましたか?」
 橘は、にっこりと微笑んだ。
「はい。すっかりご迷惑をおかけして」
「いやいや。気にしないで下さい」
 橘は、京子のそばにある丸い椅子に腰を下ろした。
「それで、気づいたばっかりで申し訳ないですが、二週間の間、命の危険はなくなりました」
「え? どういうことですか?」
「裏の世界にも、掟があります。殺し屋同士が勝負する場合、その間、何人たりとも邪魔は出来ないのです。もちろん、彼もあなたに手出しできません。私は、あの時、一対一の勝負を申し込みました」
「勝負?」
「はい。ただ」
 橘は、一度視線を落とし、再度京子を見つめて、言った。
「ただ、一騎打ちは、殺し屋にとって死ぬか生きるかの勝負です。私が死ねば、あなたの命もないと思ってください」
「そんな!」

 そんなことってある? 一樹が死ぬか、でなければ橘さんと私が死ぬか。そんな残酷なことって……。
「誰も、死なない選択はないのでしょうか?」
「彼は、プロです。彼が生きている限り、あなたは狙われます。そして、あなたが生きている限り、命を狙いにくるでしょう」
「じゃあ、どうすれば!」
 京子は、泣き顔になるのを、必死でこらえた。
「私は、この問題を根絶するつもりです」
「いったい、橘さんは?」
 何者なのだろうか? ここまで、裏の世界とやらに詳しい。それに、言葉の節々には、自信がうかがえた。
 そんな、京子の思いを見透かすように、橘は答えた。
「引退しましたが、私もプロです。私を信じて下さい」
 橘は、まっすぐで、優しい目をした。

 そうだった。あの時、一樹が京子に向かって拳銃を突きつけたとき、目の前にあるドアが開いたのだ。ゆっくり目を開けると、橘が銃を一樹に向けて立っていた。そして、気を失う前に、橘と一樹の声を聞いたような気がする。
 だけどまさか、こんな事になるとは、思ってもいなかった。

 橘と緑子が出て行ったあと、京子は泣き崩れた。自分が助かれば、一樹は死ぬ。自分が死ねば、一樹は死ななくてすむ。こんなことって、こんな運命だったなんて。
 二人の未来は、この先、重なることはない。残酷な未来が待っているだけ。悲しんだって、答えなど見つかるはずないのに。
 ドアの叩く音がして、緑子が入ってきた。京子は泣きじゃくりながら、緑子にすがりついた。
「緑子さん! 私、どうしたら」
 緑子は、すがる京子を必死に抱きしめた。
「どっちかなんて、選べない」
「え?」
「殺し屋は、私の彼なんです!」
 緑子は、目を微かに動かした。
「そう」そして悲しそうな表情になる。
「でも、でもね。自分が死ぬのも、恋人を見殺しにするのも運命じゃないの。あなたが決める事なのよ。あなたしか、選べないの。あなた以外の誰にも」
 緑子は、静かに言った。
「ただ、橘は、あなたに生きて欲しいと願っている。そのために自分の命を賭けているの」
 京子は、はっとして、緑子からゆっくり離れた。
 一樹に生きていて欲しいと、願えば、自分は、もちろん、橘も死ぬことになる。私の為にだ。この人が辛くないわけじゃないのに、自分のことで頭が一杯になっていた。
「ごめんなさい。橘さんも、奥さんにも迷惑かけてしまっているのに」
「私は、橘の妻ではありません」
 緑子が、京子の両手を握った。
「えっ!」
「みなさん勘違いなされますけど、結婚していないのです。まあ、二十四年間ずっと一緒に住んでいますからね。そう思われても仕方ないのですけどね。私の夫になるはずだった人は、死にました。殺されたんです。橘に」
 京子は声が出なかった。

「あの時、婚約者が死んだとき、私は何度も死のうと思った。でも、助けてくれたのはあの人だったの。私は、彼に恋心を抱いた。そんな時に知ったんです。あの人が、婚約者を殺したと。あの人を、殺そうと思いました。でも、できなかった。とても、とても愛していたから。そして、今こうして一緒に居るのです。今があるから、あの時、死ななくて良かったと思っています。今、一緒に生きているから、あの時、彼を殺さないでよかったと思っています」
「緑子さん」
 京子が呟く。
 緑子は、少し優しい顔になって、言葉を続けた。
「あの人が、私と結婚しないのは、婚約者を殺したという罪の意識が、今もあるのでしょう。確かに、その事実は、一生消えません。私も忘れません」
 遠い目をして話す緑子は、今にも消えてしまいそうだった。

 京子は、自分の押さえ切れない感情で、緑子に話してしまったことを後悔していた。
 もし、殺し屋が、京子の恋人だと知れば、橘はどうするだろう? 緑子の婚約者を殺した時と重なってしまうかもしれない。辛い思いをさせてしまうかもしれない。橘をそんな目に合わせるつもりは、なかった。
「あの、今のことは。殺し屋が私の彼だってことは、橘さんには、内緒にして下さいますか」
「ええ。京子さんが、そう言うなら。でも、橘は見抜くでしょうね。彼は殺し屋のプロですもの。相手が何を考えているか、何を思っているか、何を見ているか、すぐにわかってしまうのよ。わかりたくもないのに」
 遠くを見ながら、緑子が答えた。

 ◇

 夜がやって来た。
 京子は、病室の布団で眠りに入ろうとしたが、なかなか寝付けなかった。
 目を瞑って、一樹と出会った、あの雪の景色を思い出そうとした。しかし、あんなに鮮明に思い出せていた景色も、感情も、思い出せなかった。というよりも、思い出さないようにしているのかもしれなかった。切なくなるだけだから。
 二週間は命を狙われないと、言っていた。だとしたら、一樹に会っても、何もされないという事だ。
 一樹に会いたい気持ちが、浮かび上がった。でも、それはすぐにかき消された。
 会えない日は、あんなに恋しく思えたのに、今はそれが辛いだけだった。今までの幸せな思い出が、自分を苦しめる。今にも叫びだしそうだった。この辛い状況を生きぬいてまで、切り抜ける必要があるのだろうか――。

 緑子の言葉が京子の頭を駆け巡った。

『あの時、死ななくて良かった』

 でも、一樹が死んだら自分はどうなってしまうのか、想像もできなかった。自分が死ぬことで、一樹が無事ならばそれでもいいと思った。愛する人に殺されるぐらいなら、自分で命を絶とうと何度も考えた。そうすれば、橘も勝負などしなくてよくなるのだ。
 しかし、いつまでたっても、緑子の言った言葉が耳から離れることはなかった。

 ベッドの横にある窓が、風で小刻みに震えた。外は強風なのか、冷たい風が、窓の僅かな隙間から入り込んでくる。
 寒さを感じた京子は、布団を肩まで寄せて寝返りをうった。硬い何かが、頭に当たった。細長い貴金属のようだったが、暗くてよく見えない。ベッドの横についている電気をつける。それは、ネクタイピンだった。
「誰かの忘れ物かな?」
 首をひねりながら、ピンを裏返す。京子は、息を呑んだ。

 なんで、これが、ここに?

「そんな……」
 京子は、手で口を覆った。目から涙が、滲みだした。
 それは、京子が、一樹の誕生日に送ったものだった。
 前の会社では、スーツなど着たことなかった一樹だが、転職してスーツで通勤するようになっていた。それを知る京子は、八月の誕生日にプレゼントしたのだ。
 ここに一樹が? そんなはず。だったら、なぜネクタイピンがここにあるのか。ネクタイピンの裏側には、名前と日付が彫ってある。間違いなく京子が、一樹に贈ったものだ。一樹は、ここに来たのだ。
 京子が、あの暗闇の中で見た人は、一樹だったのか? 夢じゃなかったのか?
 京子は、ネクタイピンを握り締め、胸に当てた。そして、決心する。
 一樹は、私に会いに来てくれたのだ。私は? どうしたい? 残された時間は、わずかだから。いつも逃げてばかりの自分が、嫌だから。風神に連れてこられる時、そう決心したじゃない。
 京子は、自分が今、一番望むことを、心のまま正直に行動しようと思った。悔いが残らないように。


【第十七章 選択】

 次の日、京子は病院で退院の手続きをした。病院を出ると、すぐに携帯で電話をかけ、都内の病院に向かった。
 一時間後、京子は病院の入り口付近の待合室で、座って待っていた。午前中なので、人が多い。病院に行くと、こんなに病気の人が居るのかと、いつも驚く。
 薬を貰う人、本を読んで診察を待っている人、病院内で知り合った友達と話している人、テレビを見ている人、何もしないでボーっと立っている人、車椅子の人。この人たちは、みな生きる為に、病院に来る。じゃあ、私は? 生きる為に、どこに行けばいいのだろう。
 十分後、ナース服の夏美が姿を現した。
「急にごめんな」
 京子は、立ち上がり、顔の前で両手を合わせて謝った。
「ほんまに突然なんやもん。どうしたん?」
 白い清潔な白衣を着ている夏美は、笑いながら言った。
「お願いがあんねん。あんな」
 夏美の耳元でささやいた。
「え、無理やで。ばれたら首やわ」
「そこを何とか、お願いできへんか?」
 京子は懇願するものの、夏美は首を縦には振らなかった。無理なのは、わかっていたのだ。だが、もしかしてと思った。
「そうか。変なお願いしてごめんな。気にせんといてな」
「せやかてそんなん、どうするん? なんか悩み事でもあるやったら、ちゃんと相談してな?」
 心配そうに、夏美は京子を覗きこんだ。
「あっ、ややわ。私ったら、仕事中にごめんな。また、いつか連絡するわ。元気でな!」
 京子は、逃げるように夏美に別れを言って、病院を出た。
「え、ちょっ、京子? いつか……って?」
 遠ざかる京子を見つめながら、夏美は、不安そうに呟いた。

 その後、京子は手当たり次第、病院を駆け巡ったが、どこも相手にしてくれなかった。 でも、どうしても手に入れたい。裏の道に精通している、橘さんなら、もしかして?  京子は、橘家を訪れることにした。

 橘は留守だったが、緑子が暖かい紅茶と、苺のケーキを出してくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ。橘は、いつ帰ってくるかわからなくって、ごめんなさいね」
 苦笑いをしながら、京子の真向かいに座った。
 横にある大きい窓からは、柔らかな夕日が差し込んでいる。緑子は、紅茶にミルクと砂糖をいれ、スプーンで静かにかき混ぜた。京子も同じようにした。
 しばらく二人は、黙ったままだった。
 紅茶の湯気が、うっすらと空気中に漂い、そして消えていく。京子はその様子をずっと眺めていた。
「今日は、橘に何か用が?」
 先に口を開いたのは緑子だった。
「え? ええ」
「答えは、もう出たの?」
 緑子が、紅茶を口に運んぶ。
「えっ!」
「ほら。どうしたらいいかって私に聞いたでしょ?」
「ああ、一応。でもまだ迷ってます。とりあえず自分のしたいことを、しようと決めましたけど」
「そう。私は、京子さんの考えてる事、なんとなくわかるわ。気持ちもね。自分もそうだったから」
 緑子は、京子を見つめた。
「…………」
「当ててあげましょうか?」
 京子は顔を上げて、緑子を見た。
「薬を探しているのでしょ? おそらく死ねる薬を……」
 一瞬、呼吸が止まった。その通りだったからだ。

 京子は、橘に会って、夜眠れないから、と言う理由で、睡眠薬を貰おうと思っていた。病院では、ことごとく断られた。ちゃんとした、原因がないと、処方してもらえないのだ。
 橘なら、裏のルートとかで、手に入れることが出来ると思った。もちろん、眠れないから睡眠薬が欲しいのではない。そんな見え透いた嘘、橘なら、見抜いてしまうと、わかっていた。
 でも、どうしても手に入れたかった。手に入れなければ、ならなかった。

『あの時、死ななくて良かった』

 京子の耳に、緑子の言葉が、再びよみがえる。
 自分の決断が、間違っているのは、わかっている。でも、こうすることしか、できない。他に、方法が見つからない。こんな自分を、生きる決断をした緑子には、知られたくなかった。でも、緑子にはわかっていたのだ。
「そんなに驚かないで。私もそうだったと、言ったでしょ?」
 遠い目をしながら、緑子は言った。
「私も、あの頃は死のうと思ってたわ。手っ取り早く、薬でね。まあ、なんでも良かったんだけど、最初に睡眠薬を飲んだわ。でも、すぐに起きてしまうの。薬の量が足りなかったのね。挙句の果てに、夢遊病になったわ」
 京子は、ゴクリと唾を飲む。
「それで、やっと毒薬を手に入れたの。一瞬で楽に死ねる薬よ。死んだ婚約者と結婚するはずだった日にね、飲もうとしたの。でも、その日に橘に会ったのよ。今考えれば、本当に奇跡だったわ」
 緑子の表情に、京子は、唇をかみ締めた。
「京子さん」
「はい?」
「あなたに、その毒薬あげましょうか? 私にはもう必要ないから」
 京子は、驚いた。死の決断をしている私に、緑子が協力してくれるなんて思いもしなかったから。

 一瞬で死ねる薬。しかも楽に。何を迷うことがあるだろう、京子は、ゆっくりと頷くと、緑子が立ち上がり部屋から出ていった。

 勝負の日、京子は、決められた場所で待っていなくては、ならない。橘に、そう言われたのだ。その場所で、橘か、一樹が来るのを残酷にも、待てということだ。そんな事、自分には耐えられないと、すぐに思った。
 その前に自分が薬を飲めば、二人は勝負をしなくてすむ。自分のために、命をかける橘を決して死なせたくはなかった。
 いくら命の恩人だからといっても、それは自分の中に流れる血液のせいなのだ。京子が、助けたいと思ってしたことではない。そして、何より一樹も死なずにすむ。

 緑子が戻ってきた。小さなジッパーつきのビニール袋に入った、薬を持って……。


【第十八章 望み】

 京子は、不動産屋にいた。
 中に入ると、少し古びた机とイスが目の前にあった。右のスチール製棚には、賃貸雑誌が無造作に置かれている。窓には、たくさんの張り紙がしてあった。
 京子は、椅子に座り、白髪交じりの初老を迎えた不動産員に話しかけた。
「すいません。あそこのマンション、空いてた部屋ありましたよね?」
 近くに見える、マンションを指した。
「ああ、あそこね。二ヶ月ぐらい前に埋まっちゃったんだよ」
 メガネを微妙に調整しながら、クリアファイルを取り出した。
「そうなんですか? あの四〇二号室うまっちゃったんですか」
「えっと、ん? お客さん、四〇二号室じゃなくて、六一五号室だよ」
 にっこり微笑んで、答える。優しい笑顔だ。
「あ、そうでしたか。勘違いしてました」
 京子も微笑む。
「えっと、今だったら――」
 不動産員は、資料をペラペラめくり、空いている部屋を探そうとした。
 京子は、正面にある時計を、ワザとらしく見る。
「あの、ごめんなさい。時間がないので、また来ます」
 立ち上がり、頭を下げる。
「そうかい? じゃあ、また待ってるよ」
「はい」
 鞄を持ち、後ろを向いて、すぐそばにある引き戸に手をかけた。
「残念だったね」
 後ろから声がした。
「え?」
「マンション。気に入ってたんでしょ?」
 京子は、振り向いた。
「まあ、人生うまくいかないこともあるさ。でも、それも運命。次には、必ずいいものが見つかるよ。だから、また来なさい」
 そういうと、京子の暗い顔を見ながら、ゆっくりと微笑んだ。
 京子は、笑顔を作って会釈をし、引き戸を開けた。
 おじさん、もうこれそうもないよ。そう心の中で呟いて、京子は、不動産を後にした。
 すでに日は沈み、寒さが身にしみた。
 さっきから飛び出しそうな心臓の音を抱えながら、一樹が、先輩の家と言っていたマンションに入った。ここに来るまでに、ずいぶん悩んだ。でも、心は決まっていた。
 エレベータに乗ると、六階を押した。エレベータが到達すると、マンションの廊下を歩いて、六一五号室を探した。それは、一番奥にあった。果たして、一樹はいるだろうか。
 京子は、深呼吸をして、インターフォンを押すと、その場にそぐわない明快な音をたてた。
 物音一つしない。もう一度押す、がやはり同じだ。いないのだろうか。京子は、下を向いて、ため息をついた。
 もし、一樹が部屋にいたとしても、会える約束なんてない。でも、じっとしていられなかった。
 京子は、もう一度押そうと、手を伸ばしたその時、“コトッ”とわずかに音が聞こえた。それは、とてもとても小さく、普通ならば聞こえないような音だった。しかし、京子は、聞き逃さなかった。それだけ、神経を研ぎ澄ましていたからだ。
「一樹?」
 京子は、問いかける。
 微かに気配を感じる。ドアの向こうに、一樹はいる。そう確信して、もう一度声をかける。
「一樹、いるんでしょ?」
「何しにきた」
 ドアの向こうから、低い声がした。
 やっぱり一樹はいるんだ。京子は、涙が出そうになったのをこらえた。
「一樹? 忘れ物を届けに来たの」
 京子は、一樹が病院のベッドに落としたネクタイピンを鞄から取り出す。
「…………」
「一樹、そこにいるでしょ? 橘さんに聞いたけど、一樹今は銃を握れないって! だから、今の一樹は、私を殺さないでしょ? 今は、恋人同士でしょ? 中に入れてよ」
 京子は、ネクタイピンを握った手でドアを叩いた。
「おねがい……」
 堪えていた涙がこぼれる。
 だが一樹は、答える様子はなかった。京子は、ドアを叩くのをやめてその場にしゃがみこみ、ドアに寄りかかった。
 手が冷たい。京子は自分の両手に息を吹きかけ、ゆっくり目を閉じる。

「一樹、今何考えてる? 私は一樹の顔しか思い浮かばないよ。笑ってる一樹しか、思い浮かばないよ。一樹、私と出会ったことを後悔してる? 私は、今はよくわからない。でも、一樹と過ごした日々は、私の宝物なの。夢のように感じるけど、日常生活のあっちこっちに、一樹との思い出がたくさんあって、忘れる事できないの。
 今はそれがとても辛いけどね。でもね、残された時間は後少しだよ。後悔したくないの。だから、ここに来た。一樹と私は、殺し殺される運命になった。でも会いたかったの。今でも一樹が変わらず、大切な人だから!」
「…………」
 一樹は、ドアの向こうで聞いているはずなのに、やはり何も答える事はなかった。

 時折、ドアの開け閉めや、人の声がしていたが、今は、何一つ物音がしなくなっていた。
 何時間が経過したのだろう。京子は、夜の寒さで、震えだしていた。ネクタイピンを握る手もかじかんでいる。

 寒い。
 一日中歩き回っていた京子の体は、限界だった。それでなくとも、精神的に大きなダメージを受けたばかりだ。すでに、足の感覚はなくなっている。
 京子は、足を抱え膝に顔をつけて、ため息をつく。自分の汚れてしまった靴を、手で擦る。

 あの時も寒かったな……。
 京子は、思い出していた。一樹と初めて旅行に行ったあの日のこと。
 雪がすごくて、綺麗で、空気がすんでて、寒くて。でも二人だったから、暖かくて。今思えば、なんであんな寒いところに行ったのかわからない。
 真っ白な世界。二人だけしかいない世界。手をつないで、歩いた。足跡も、二人分。冷たい雪の上で、寝っころがった。空が高くて、灰色で、小さな白い雪がチラチラ舞っていた。横を向けば、一樹がいて、微笑んでて、抱き合って、キスをした。すごく寒いはずなのに、顔だけが、暑くなった。
 二人で、笑った。使い捨てカメラで、写真を撮った。二人よりそって……。

 微笑みながら目を閉じると、京子は、意識が遠くなるのを感じた。

 ”カチリ”
 静かだが、鍵のロックが外れる音がした。その音に、目を覚ます。
「え?」
 京子がゆっくりと立ち上がった。あんなに開かなかったドアが開くと、そこには、一樹が下を向いたまま立っていた。
「一樹!」
 そういうと、京子は、一樹に抱きついた。
「お前、バカだな」
 目を細め、小さな声で呟いた。
「うん」
「本当にバカだよ」
 吐き捨てるように、もう一度行った。それでも一樹の手は、ゆっくり京子を抱きしめた。
「うん」
 一樹の胸に埋もれていた顔を上げた。その目は、涙で一樹の顔さえ見えなくなったが、冷たくなった体から温もりが染みわたっていった。

 ◇

 二人は、朝になるまで抱きあったまま、離れようとはしなかった。カーテンの隙間から光が漏れている。今日もいい天気のようだ。
「お腹すいたね。なんか作ろうか?」
 京子は、一樹から離れると立ち上がった。
「何も冷蔵庫にないよ」
「それじゃ、何か買ってこようか?」
「うん」
 優しく一樹が答えた。いつもの一樹の表情だった。殺し屋の一樹の姿はどこにもない。とても柔らかな顔で、微笑んでいた。

 京子は、鞄を持って外に出た。とても弱い日差しが京子を包み込んだ。京子は眩しさのあまり、目を瞑る。いつもと変わらない毎日が始まろうとしていた。
 一樹と一緒に入れるのは、あと九日の間だけだった。九日目がくる前に京子はこの世からいなくなるつもりだった。
 京子はポケットから、袋を取り出し見つめた。緑子がくれた毒薬のカプセルだ。京子は、白と綺麗な赤色のカプセルを袋ごと握り締め、またポケットに戻した。
 さっきから付きまとう、これから起ころうとしている悲しい出来事を頭から振り払い、近くのスーパーに入って行った。

 ◇

「一騎打ちとは、たいそうな自信で」
「九日後には必ず」
「当たり前だ。そうでなくても、一刻も早く事を進めたいのだ。わかっているだろうな」
「わかった」
 神取からの電話を切った。
 一樹は、どうしても、やらなくてはならないのだ。殺し屋のプライドが、そうさせていた。ターゲットが京子でないなら、一撃目で確実に心臓を貫いただろう。しかし相手は恋人の京子なのだ。
 一樹は、あの時一瞬ためらった。だから、一撃で殺せなかった。神取には、京子との関係を知られてはいけない。そうと知れれば、すぐに別の殺し屋に京子を殺させるだろう。どうしても、それは避けたかった。

 ドアのチャイムが鳴った。一樹は、緊張した。一瞬にして気配を消すと、ドアの穴からそっと覗いた。
 京子が立っていた。一樹は、緊張を解きドアを開けた。
「たくさん買い過ぎちゃった!」
 京子は、両手に袋を抱えにっこり笑った。
「チャイムを鳴らさなくてもいいよ。ビックリする」
「あっそうか。見知らぬ家だから、つい」
 一樹は、京子の両手から袋を取りあげると、台所へ置いた。
「本当に買いすぎだな。何日分あるんだ?」
「わかんない。でも、一樹たくさん食べるでしょ?」
 京子は冷蔵庫を開け、台所に置いた袋から次々と食品をしまっていく。
「ねえ。今日はどこ行く? 映画とか見たいのある?」
「いや。家からは一歩も出れない」
 一樹は、京子に気づかれることなく一瞬真剣な、悲しい目をした。
「そうか。だったら、ビデオ借りてくれば良かったね」
 京子は、がっかりすることもなく答えた。
「あっそうだ。"Love OR Kiss"家から持ってこようか?」
「行っておくけど、俺は見ないよ」
 京子が大きな声で笑った。


【第十九章 日常】

 神取は、情報がどこから漏れているのか、探っていた。最近辞めた社員、研究員を調べたが、怪しい人物は見当たらなかった。おそらく、一騎打ちの相手関係者だということは、見当がついていた。
 神取は、もう一度考え直してみた。最近辞めた者を調査して、何も見つからないとすると、まだこのJINNO製薬にいることになる。かなり詳しく知られているため、内部にいる者が怪しいのは間違いなかった。
 元はと言えば血液を巡る事件は、二年前に起きたのだ。そうだ、二年前。神取は、外で控える秘書に二年前に入社、しかも中途入社した人物のリストを持ってくるように言った。
 五分もすると、社長室のFAXから、一枚の紙が音をたてて出てきた。それは、二年前の中途入社リストだ。
 神取は、それを受け取ると、調査を開始した。

 ◇

 京子と一樹は、幸せな日々を送っていた。これが、最後の幸せな時だということを忘れるぐらいに。
 朝はゆっくり起きて、遅めの朝食を一緒にすませ、テレビをみたり、京子の家から持ってきたゲームで遊んだり、本を読んだり、ビールを飲んだり、お昼寝したりした。誰が見ても、普通の恋人同士だった。何もかもが、いつもと変わらなかった。
 ただ、京子が寝たあと、一樹は神取と電話をする事があった。京子に気づかれる事のないように、細心の注意を払っているのがわかった。
 京子は気づいていたが、寝たふりをした。そんな日は、不安になり悲しくなり、涙を堪えなければならなかった。最近はそんな日が多くなっているような気がした。
 あと四日で、二人は離れなければならない。永遠に――

 ◇

 風神は、研究者としての仕事を終え、自宅に向かっていた。さっきから、後をつける気配がする。風神は、振り向かず歩き続けた。しばらくすると、その気配はなくなっていた。
 まずいかもしれない、と風神は、経験上から察していた。細心の注意を払って、自宅に戻り、車に乗り換えて橘家へ向かった。

 橘家に着くと、いつものように部屋に通された。
「もう少し、お待ちくださいね」
 緑子が、ホットコーヒーを持ってきててくれた。
「ええ。突然ですみません」
「いいえ」
 にっこり笑うと、部屋を出て行った。

 風神は、橘が昔、名の知れた殺し屋だったことを知った。おそらく、そうではないかと思っていたが、ようやく確信が持てた。
 あの日、京子が橘に抱えられて戻ってきた夜に、全てを聞いたのだ。橘によると、その殺し屋は、Zと呼ばれているそうだ。彼の後ろを獲れるものは、いないという意味で、裏の世界で呼ばれているらしい。おそらく、その実力は、海外でも五本の指に入るだろうと言っていた。
 確実、冷静、無感情。初めて京子のマンションで顔を見たとき、そんな言葉が似合うように感じていた。
 橘に言わせると、昔の自分に似ているらしい。人であって、人でない。どこか、感情が欠落している。そんな昔の自分に。
 今の橘からは、想像もつかない、と風神は思った。

 しばらくすると、橘が部屋に入ってきた。立ち上がろうとする風神を手で制した。そして、自分も座る。
「どうしましたか?」
「今日、後をつけられました。たぶん、情報を漏らした内部の人間を探しているのでしょう」
「そうか。予想はしていたが、ずいぶん早いな」
 橘がソファーに寄りかかった。
「ええ」
「君は、早々に仕事を辞めて、この家にいなさい」
「は?」
 風神は、耳を疑った。なぜ俺が? それに、仕事を辞めれば、真っ先に疑われてしまう。
「何故です?」
「神取の行動は、恐ろしく早い。明日にでも、君は、殺されかねない」
 風神は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「いや、ずっとじゃない。数日だ。一週間もすれば、全てかたをつけるよ。それまでの、辛抱だ。それに、君にはもう一つやってもらいたいこともある」
 有無を言わせない、雰囲気がそこにはあった。
「はい。わかりました」
 風神は、そう答えるしかなかった。


【第二十章 最期】

 気づけば、最後の夜になっていた。今まで感じた中で、一番早く時が経ったような気がした。
 京子は、一樹の肩に頭を預け、座っていた。二人の間には、何も会話はない。ただ、静かにお互いを感じていた。沈黙がやけに重く感じる。それが、最後だといわんばかりの重い暗闇が、二人を飲み込んで行く。
 心がつぶれそうになる。泣きそうになる。このまま時が止まればいいのに。
 それでも、京子が、ゆっくりその沈黙を破った。
「ねえ」
「ん?」
「最後に聞いてもいい?」
 ただ、そこにある空間を見つめて、京子が聞く。
「ん」
「本当の事、言ってね」
「…………」
「私のこと、本気で好きだった?」
「…………」
 再び沈黙が続く。
 京子は、口を固く結び、沈黙に押しつぶされないように、悲しみを堪えていた。
 一樹が本気でも、本気じゃなくても、私は、大好き。だから、こんな質問なんて意味がないのかもしれない。でも、聞かずにはいられない。だって、最後だから。もう二度と、会えないから。
 京子は、心の中で祈る。
「今」
「え?」
「今、俺が何を言っても、嘘だと思うだろう」
「…………」
 今度は京子が黙る。
「でも、本気だった」
 京子の目から、涙がこぼれた。全てが報われた気がした。これで、これで私の人生、悔いはない。
「一樹、ありがとう」
 小さな声で答えた。

 夜中の三時。京子は、台所にいた。一樹が寝たのを確かめてから、そっとベットを抜け出したのだ。
 京子は、いつも持ち歩いていた薬をポケットから出した。食器棚からコップを出し、水を注いだ。その音に、一樹が起きないか心配したが、大丈夫だった。コップを持ってリビングに行き、ソファーに置いてある鞄から、写真を取り出した。
 あの時、割れてしまった写真たて。中身の写真は、割れるわけはなかったけど、ガラスの破片で、傷だらけになっていた。心の中と同じように、クシャクシャになっていた。
 京子は、その写真を胸に当てた。そして、ゆっくり立ち上がり、ベッドに戻った。

 一樹は、微かな寝息をたてていた。その寝顔を見ると、また、泣けてくる。何度泣いても、涙は枯れることはなく、溢れてきた。
 もう、この顔を見ることはない。
 声も、温もりも、沸きあがる感情も、全て無に返る。
 怖い。恐ろしく怖い。でも、逃げられない。

「一樹。私、幸せだったよ」
 京子は、そっと呟くと水を口に含んだ。
 さようなら……
 薬を口に入れ、飲み込んだ。そして、ゆっくりベッドに体をすり込ませる。

 一樹の胸に頭をのせて、目を閉じた。


【第二十一章 決闘】

 一樹は、橘が指定した場所にいた。街から数キロ離れた、何かの工場跡のようだ。あたりは静かだったが、時折、割れてしまっている窓から冷たい風が激しく吹いた。一樹は、まわりを見回す。かなり広い。邪魔になるようなものもなく、音が響いても誰も気づくことはないだろう。
「いい場所だ」
 独り言を言った。

 “キー”と、背後のドアが開いた。振り向くと、橘が立っていた。
「早いな」
 橘は、一樹の姿を認めると、呟いた。
「そっちもな」
 一樹と、橘は、お互いに近づいた。
「京子さん、指定の場所に来なかったが」
「ああ、家で寝ている」
「やっぱりそうか、君は」
 橘は、顔をしかめた。
 初めて、一樹と対面したとき、微かに感じた違和感。そして、京子の目、表情を見れば、わかっていた。わかっていたが、聞くのが怖かった。
「もう、関係ない」
 橘の思惑を、見越したかのように一樹が言う。
「そうか」
 橘は、一樹の目をまっすぐ見据えた。
「それより、何か薬を飲んでたようだが?」
「薬?」
 橘が眉をひそめて、聞く。
「心配ない。おそらく強めの睡眠薬だろう。それより鍵、渡しておく」
 一樹は、鍵を放り投げた。
 その、マンションの鍵は、橘の足元まで滑っていった。
「ここに、京子さんがいるんだな」
 首を縦に振り、無言で答える。
「わかった」
 橘は、その鍵を拾う。すぐそばにある、積み重なった鉄筋の上に、それをそっと置いた。
「勝ったものが、この鍵を持っていくことにしよう」
「そうだな」
 二人は、その鍵を見つめた。
「君は、Zというそうだな」
「その名は、好きじゃない」
 再び、お互いを見た。
「裏の世界で、名をもらえるのは、腕がいい証拠だ」
「興味は、ない」
 一樹は、フウとため息をつく。
「おい、おっさん。ここに、だべりに来たのか?」
「いや」
「なら、そろそろ、始めようぜ」
 一樹は、懐にある銃に手を伸ばそうとした。
「君は、それでいいのか?」
 その手が、銃に触れたまま止まる。
「何が言いたい」
 苛立ちながら睨んだ。
「君は、恋人が殺されてもいいのか?」
 一樹が、あきれたように、笑った。
「仕事にプライベートは持ち込まない主義なんだ。それに、何が言いたいか知らないが、俺が死んでも、次の殺し屋が来るだけで、何も変わらないさ」
「そうかな?」
「そうだろ?」
「もし、私が勝ったら、そうはさせない。必ず、根っこから潰す」
 橘は、ゾクリとする、冷たい目で言い放った。
「好きにしてくれ」
 一樹が、橘の威嚇に動じることなく言い返すと、それを見ていた橘は、ニヤリと笑った。

「いいだろう。始めよう」


【第二十二章 お願い】

 雪? 雲? 体がフワフワする。誰? 
 誰かの声が聞こえる。優しい声。懐かしい声。笑ってるの? 
 私の頭を優しく撫でる。くすぐったい。その大きな手は、私の頬に触れる。悲しい目をして。
 え? 何? 聞こえないよ。呼んでるの? 私を呼んでるの? 
 待って。そっちには、何があるの? いかないで。私を置いて、いかないで。
 私も連れてって。

 手を伸ばすと、そこに確かな感触があった。
 京子は、ゆっくりと目を開けた。白い天井が見える。
 ここは? 私どうして? ボーっとする頭を、フル回転させる。
 そうだ、薬を飲んで……
 ガバッと、起き上がる。
 さっきから感じていた温もりをたどると、自分の手を握っている緑子がいた。
「緑子さん。私どうして!」
「ごめんなさい」
 京子の手を握り締めたまま、緑子が言った。
「え、どういうこと?」
「京子さんに渡した薬は、よく効く睡眠薬なの」
「え?」
 京子の顔が、一瞬にして悲しい表情に変わった。
「じゃあ、一樹と橘さんは」
「ええ」
「そんな!」
 京子は、混乱した。

 私は、死ぬつもりで薬を飲んだ。一樹と橘さんを戦わせたくなかったから。なのに、どうして生きているのだろう。
「緑子さん?」
 唇をかみ締め、今にも溢れてくる感情を抑えようとしたが、間に合わなかった。
「酷い……、酷いよ!」
 京子は、そう言いながら握られている手を振り切った。
「ごめんなさい。あなたに恨まれようとも、あなたを死なせたくなかった」
「私は、私はそんなこと、望んでいなかった!」

 本来なら緑子の気持ちを、嬉しいと感じなければならなかったのだろうが、今の京子に、そんな余裕は、どこにも無かった。これ以上、感情が爆発しないように抑えることで精一杯だった。
 緑子の震える小さな肩を、大きな手が慰めるように置かれた。京子は、その手から視線を上に向けた。
 橘が静かにたたずんでいた。
 京子の目が、ゆっくり大きく開かれた。ここに、橘がいるという事実は、もう一つの決定的な事実を語っている。
 京子は、震えた。寒さなんか感じるはずも無いのに。両腕をかかえるようにして、その震えを止めようとする。
「か……ずき?」
 焦点の合わない目で、独り言のように呟く。
「…………」
 橘は、京子が答えなど求めてはいないことを、知っているから、無言のままだ。
 京子は、頭を抱え込み泣き叫んだ。泣き叫びながら、ベッドから這い出て橘の方へ向かう。そして、橘の胸ぐらをつかんで、力強く引っ張った。
「どうして、どうしてなのよ!」京子は、橘の胸を叩く。
 橘は、何度も何度も繰り返される京子の攻撃を、静かに受けとめ続ける。
「殺して、私を殺して。お願い!」
 悲しい声が、主をなくした部屋に響き渡った。橘は、辛そうに顔を背ける。
「殺して、殺してよ!」
「京子さん」
 緑子が、京子の肩を後ろから抱きしめる。
「いや、死なせて」
 それにもかまわず、橘の胸を叩き続けた。
「京子さん! 京子さん!」
 緑子は、必死に呼びかける。京子は、体をひねり、それを振り払った。
「もう、放っておいてよ! 私は、死にたいの」
 橘は、コートのポケットに右手を入れ、何かを取り出した。それをつかんだまま、手を京子の顔の前にさしだす。京子の視線が注がれるのを確認すると、手をゆっくり開いた。
 京子の顔は、さらに悲しみの色が濃くなった。橘が持っていたのは、ネクタイピンだった。
「これを、君に持っていて欲しいそうだ」
 橘が聞いた、一樹の最期の言葉だった。
 京子がその言葉に、意識を遠のかせると、身体から力が抜けた。橘はネクタイピンを握り締めた右手で、京子を支えた。その横では緑子が、両手で口を覆い、泣き崩れた。
 橘の左手は、だらんと垂れ下がって、ピクリとも動かない。左肩のあたりが、黒く染まっている。
 一樹が撃った弾は、橘の左肩を貫通した。
 致命傷には至らなかったが、かなりの出血をしている。応急処置程度の止血をしてあるが、それでも血が滲んでくる。
 そんな状態のまま橘は京子の元へ来たのだ。
 恨まれようとも、叩かれようとも、遠くなる意識をギリギリのところで保って、ここに来たのだ。それが、礼儀であると思ったからだ。

 ◇

 風神は、JINNO製薬の研究所にいた。真夜中の研究所は、不気味な雰囲気を醸し出していた。
 風神の足音が、あたりに響きわたる。いつもは、夜中を過ぎても、明かりがついているが、幸い、今日は誰もいないようだった。
 風神は、橘から報告を受け、癌細胞死滅に関する全データを抹消するべく、この場所にいたのだ。誰もいないといっても、ゆっくりしていられない。
 風神は、資料、血液サンプル、培養された血液、その全てを保管してある室内に、火を放った。ガソリンを撒いておいたおかげで、それらは、よく燃えた。もう、ここに用はない。
 風神は姿を消した。

 その隣の一室で、赤月零児は、寝息を立てていた。誰よりも長く働く彼は、常に研究所内に泊まっていた。家に帰るのは、一ヶ月に一回ほどだ。しかし、ここ最近は、全く帰っていなかった。
 零児は、焦げ臭さに、目を覚ました。寝癖だらけの、髪の毛をかきむしりながら、部屋を出た。
 眠気が一気に覚めた。そこは、火の海になっていたからだ。零児は、火の粉がふりかかるのを、両手で振り払いながら、逃げ出した。
 燃え盛る炎の中で、考える。
 誰がこんなことを? あの燃え方は、放火だ。火の回りが速すぎる。
 零児は、頭の中で計算しながら、怒りを堪えていた。
 許さない。絶対許さない。今までの研究内容は、頭の中に全てある。しかし、血液がない。これが無ければ、どうにもならないのだ。
 絶対、許すもんか。俺の、俺の研究を、無駄にした奴を、絶対許さない。
 零児は、復讐を誓った。


【第二十三章 無に返る】

 翌日、JINNO製薬の神取は、怒りで震えていた。
 Zは、殺し屋の勝負で負け、研究所は、半焼した。何もかも、振り出しに戻ってしまった。いや、振り出しならまだよかった。もう、取り返しがつかないところまで、来てしまっていた。
 神取は、研究所を、火の不始末という形で処理した。極秘で進めてた研究が公になることは、どうしても避けねばならなかった。
 唯一の研究を知っている、零児も姿をくらましていた。その助手の佐藤勉も、同じく姿を消した。
 零児は、研究以外に興味が無い。となると、当然、犯人は佐藤勉だ。高科京子の方は、血液採取後に殺すとして、新しい殺し屋を探さねばならない。
 神取は、携帯を取り出し電話をかけた。

「悪いが、今回の件は、命がいくつあっても足りない。断らせてもらう」
「今、他の依頼で取り込み中なんだ」
「無理だな」
「断る」
「悪いな。力になれない」
「おいしい仕事だが、相手が悪い」
「あきらめな」
 返ってくる言葉は、どれも同じだった。何も言わず切られる時もあった。
 いくら金を積んでも、命が危険な仕事はやらないということなのだろう。殺し屋の癖に、死ぬのは、怖いのだ。
「屑どもが!」
 神取は、吐き捨てた。
 こうなれば、金は数倍かかるが、海外の殺し屋を手配するしか無い。神取は、再び電話をかけようとしたその時、社長室の電話が鳴った。
 誰だこんなときにと、舌打ちをし、無言で電話に出た。
「代わりの殺し屋はみつかったか?」
 低い声が聞こえてきた。
「誰だ?」
 神取は、眉をひそめる。
「この件から、一際手を引け。そうしなければ、今ここで、貴様を消す!」
「何のことだ?」
 神取の背中に、汗が伝った。
「とぼけても無駄だ」
「誰だお前!」
 神取は怒鳴り声を上げた。
「名乗る必要も無い。手を引くのか、引かないのか」
「意味がわからない」
「それが、答えか?」
 神取は考えた。
 この男、ここで殺すといっているが、どうやって、殺そうというのだ。セキュリティーは、どこの会社よりも、厳重にしてあるし、JINNO製薬の敷地内には、このビル以外、高い建物は無い。この男の言っていることは、這ったりだ。
神取に、少し余裕が出てきた。
「そうだ。と言ったら?」
 神取が手に持っていた携帯が、粉々にはじけた。一瞬の出来事だった。しかし、窓には、弾が通過した跡がくっきり残っていた。
「…………」
 神取は、初めて命の危険を察知した。それは、恐ろしく寒気がするものだった。耳を受話器からわずかに外していた神取は、再び、受話器に耳をあてた。
「次は、外さない」
 不気味な声が聞こえてくる。
「わっ、わかった。この件に関して、一際手を引く。二度と関わらない」
「本当だな。嘘ならわかっているな?」
「ああ」
 電話が切れた。

 神取は、その場にしゃがみこんだ。
 恐ろしかった。どこから撃ってきたかもわからない。しかも正確に、携帯を狙ってきたのだ。砕け散った携帯を見ると、再び、寒気がした。
 どうやら、この件はあきらめるしかなさそうだ。まだ、命が惜しい。まさか、自分が命を狙われるなんて、思っても見なかった。いつだって、自分は一番安全なところにいたはずだ。神取は、唇を噛みながら、窓からJINNO製薬の敷地を見渡した。莫大な資金を投じて、二年の月日を費やしたが、全て無に返った。
 神取はガクリと肩を落とした。


【第二十四章 無色】

 一樹のいない生活が、始まった。それは、見事に色あせて、悲しみだけがそこらじゅうに広がった世界だった。
 一樹と過ごした時間は、二年。短く、あっという間だったが、色んな場所に一樹との思い出があった。それは、日常に、ちりばめられている。
 ベッド、リビング、写真、玄関、道路、電車、携帯、テレビ、ソファー、アイスコーヒー、駅、コンビニ。
 一樹の残り香は、京子を苦しめる。生きている間、ついて回る。思い出すのが辛いのに、気がつくと、一樹のことで頭がいっぱいになる。
 涙は、三日で枯れた。もう、泣くこともない。だが、それが余計に辛かった。それに、今は冬。雪が降れば、また、思い出す。
 楽しかった思い出は、苦しいだけだった。忘れることも出来ず、もがき苦しむ毎日。どうすることも出来なくて、逃げ場も無くて、息ができない。
 京子は、そんな毎日を過ごしているうちに、次第に何も感じなくなっていった。

 ◇

 二00三年 夏

 風神は、別の仕事で、動いていた。

 橘の依頼が終了して、一年半以上がたとうとしていた。風神にとって、あの依頼は、大きな経験となった。依頼期間も、一番長かった。報酬も、今まで貰った中で、群を抜いていた。
 依頼終了日、橘家で、高科京子を見かけた。二週間少しぶりだったが、見てわかるぐらいに痩せてしまっていた。橘に聞いていたが、殺し屋Zは、恋人だったそうだ。
 自分で望まない血液を持ち、組織に狙われただけでも気の毒だと思っていたのに、恋人までもが、その一味だったなんて、彼女の悲しみは、はかり知れない。かける言葉も見つからなかった。
 その後、橘とは会っていない。
 人と知り合う機会が多いこの職業だが、今まで、こんなに恐ろしく、尊敬できる人はいなかった。
 JINNO製薬は、あれから、悪い噂は聞かない。本当に、あの件から一際手を引いたようだ。
 製薬業界で、『鷹の目』と呼ばれ恐れられている男を、橘は、如何にしておとなしくさせてしまったのか、風神には、想像もできない。
 さらに橘は、元殺し屋とはいえ、裏世界で指五本以内に入る現役に勝ったのだ。そんな男と仕事したことを、怖くもあり、自慢にも思う。何より、実力につながった。今は、探偵事務所に所属しているが、いずれ、自分の事務所を持つつもりだった。

 風神は、今日の仕事を終えて、車で自宅に帰る途中だった。
 さっきから、後ろに見え隠れする、車が気になっていた。付けられてるとは思わなかったが、次の角で、ハンドルを思いっきり切った。わき道に入ると、バックミラーで確認する。しかし車は、ついてきていた。
 風神は、眉をひそめた。

 付けられてるのか? 何故?
 今度の仕事は、簡単な仕事で、何より、付けられるような危険な仕事ではない。
 では、違う件か?
 仕事によっては、風神のターゲットが他の探偵を雇い、逆に見張られる場合がある。しかし、それにしては、明らかに素人じみている。あまりにも、尾行の基本がなっていなかった。
 幸いに、この辺は、混雑する道ではなかった。さらに、空いている時間帯の為か、車は数えるほどしか見当たらない。
 風神は、素人の尾行を振り切ろうと、スピードを上げた。その車も、スピードを上げてくる。風神は、さらにスピードを上げると、鮮やかにハンドルを切った。何度か角を曲がると、後ろの車が見えなくなった。
 撒いたと思いスピードを緩め、周りに気配を寄せれば、海が見え隠れしていた。ここは埋立地で、まだ開発途中だ。人通りも少ない。
 風神は、突きあたりまで来るとエンジンを止めた。目の前はすぐ海だ。その海と対面する形で、いくつもの倉庫が建っていた。時折船の汽笛が聞こえた。
 車を降りて、伸びをする。一服しようとタバコを取り出し、少し歩いた。
 しばらくすると、車の音が聞こえてきた。風神は、耳から音をたどり振り向くと、振り切ったはずの車がそこにいた。
 風神は、乗っている相手を確認すると、くわえてたタバコを落とした。風神の記憶が、急速によみがえる。
 その男は、赤月零児だった。
 零児は車を降り、近づいてくる。その手には、拳銃が握られていた。
 風神は、車に戻ろうとしたが、離れすぎていたため、間に合わない。風神の車と、同じ方向から来る零児を後ろにして、走り出した。
 何故、今更、赤月が? JINNO製薬の件は、片付いたはずだ。神取? いや、ありえない。橘が、『神取は、もう二度と手を出さない』と言っていた。では、個人で動いているのか? とにかく、逃げなくては。
 後ろで拳銃の音が聞こえた。驚いて、振り向くと、車に拳銃を向けている零児がいた。どうやら、風神のタイヤに向かって、発砲しているようだ。
「くそっ!」
 まだ、ローンが残ってやがるのに……と考えながら、舌打ちをする。
 風神は、足には自信がある。この職業で、鍛えられた。しかし、ここの土地勘がない。「逃げ切れるか?」
 自分に問いかけた。

 零児は、ようやく見つけた風神を逃すものかと、必死に追いかけた。
 そう。彼の名前は、佐藤勉なんかじゃなく、風神涼だ。
 何も当てがなかった零児は、この月日をかけ、ようやくたどりついたのだ。自分の命を懸けて注いできた研究を、一瞬にして灰にした憎き相手を。
 必ず殺してやると、零児は、拳銃を握り締めた。

 風神は、走り続けていた。しかし、同じような倉庫がたくさん並んでいる為、どこを走っているのかわからなくなっていた。あたりは、暗くなり始めていて、更に道がわからなくなる。
 零児の姿は見えない。しかし、零児のしつこさは、よく知っていた。
 研究所で、助手として一緒に働いていたからよくわかる。失敗しても何度も、何度も、根気よく研究を続けていた。しかも集中力は、何時間だって続く。研究以外、何もいらないかのように没頭していた。もう、それは、常軌を逸するぐらいだった。
 自分を殺すまであきらめないだろう。しかし、何故ばれたのか。あの時、研究所には誰もいなかったはずだ。研究は一段落していたから、さすがの零児も帰っただろうと思っていたのだ。いくら急いでたとはいえ、確認しなかった自分のミス。後悔の波が押し寄せる。

 零児は、頭がいい。恐ろしくいい。
 風神の仕事も、その環境も、人間関係までも、頭にインプットしてある。ある程度の行動は予測できる。
 零児は、すでに頭に入っているこの場所の道と、風神の行動パターンを計算した。そして、頭の中で出た答え通りに、風神をジリジリ追い詰めていた。

 風神は、さすがに走りつかれ、歩き始めていた。どこを見ても零児の姿は見えなかった。
 その時、倉庫の影から暗闇にまぎれて、零児が現れた。風神は、その姿を認めると、また走り出した。
 右、左、左、右。角を曲がるが、似たような風景からか、同じような場所をぐるぐる回っている気がする。
 風神は冷静でいられなくなっていた。零児は、それを見越して、行き止まりに追い込んだ。
 風神が、次の角を曲がると、その先に壁が見えた。
「しまった」
 ゆっくりと、零児が近づいてきた。
 風神の顔に、絶望の色が浮かんだ。
「久しぶりだな、佐藤勉。いや、風神涼」
「よく調べたな。もう二度と会わないと思っていたのにな」
「よくも、俺の研究を台無しにしてくれたな」
「あれは、仕方が無かった。神取は、あの血液を培養できた後、その血液提供者を殺そうとしていたんだ」
「だから、なんだ?」
「それだけじゃない。その後、研究内容を知っている俺たち全員を殺すつもりだったんだ」
 零児の眉がピックと動いた。
 風神は、それを見逃さなかった。
「本当だ。今は無いが、証拠もある」
「うそだ」
 零児は、かすかに動揺し始めた。

 零児にとって、神取は、絶対的な存在だった。
 自分を研究者として認め、研究に没頭させる環境を与えてくれた。これ以上ない、恩恵を与えてくれた人物なのだ。しかも自分は、少なからず神取の役に立っていると思っていた。自分を必要とし、信頼されていると思っていた。だから、殺そうとしているなんて考えられなかった。

「嘘じゃない」
「うそだ。信じないぞ」
 零児が、銃を構える。
 くそ、ダメか。覚悟を決めた風神は、壁を背にして目を瞑った。しかし、聞こえたのは、銃声ではなく、人の倒れる音だった。
 目を開けると、零児が倒れていた。零児の側には、男がいた。男は、零児の手から離れた銃を拾い上げた。
 風神は、その光景を見て、絶句した。

 そこには、いるはずもない、殺し屋がいたからだ。


【第二十五章 それから】

 照りつける日差しが、徐々に強くなってくる昼頃、風神は電車内にいた。これから仕事に出かけるためだ。三日前に、零児に車をやられてからずっと電車だった。
「面倒だな」
 独り言を小さく呟く。
 天気予報では、昨日から梅雨入りと言っていたが、今日は晴れている。肌にまとわりつく湿気は、日を追うごとに不快さを増してきていた。
 風神は、その蒸し暑さに、イライラしながら頭を悩ませていた。
 言うべきか、言わないべきか。

 三日前、零児に殺されると思ったその時、思わぬ人に助けられた。というか、死んだと聞かされていた人にだ。
 風神が息を呑むほど驚いたその人物は、殺し屋Zだった。確認しようと口を開きかけたが、一樹がその前に、言葉を発した。
「言うな。その名は、気に入らない」
 風神は、ゴクリと唾を飲む。
「死んだと思っていた」
「俺もだ」
 一樹は、零児の銃をいじりだした。見事な手さばきで、銃が分解されていく。
「どうして、助けた?」
「ただの気まぐれ」
 やがて、銃がばらばらになり、一樹の足元に部品が散らばった。そして、銃の要である部品だけを手に取り、遠くに放り投げた。
「じゃあな」
 その場を去ろうとする一樹を呼び止めた。
「お前、いいのか?」
「何が?」
 背を向けたまま一樹が聞く。
「何って。いや、いい」
「忠告しておいてやる」
「え?」
「日本を離れたほうがいい。アンタの腕なら海外でも通用するだろ」
 そう言うと、静かな気配を残しながら、歩を進める。
「…………」
 一樹が消えると、そこには、風神と、倒れている零児がいるだけだった。
 風神は、ハッとして零児に近寄った。どうやら、気を失っているだけのようだ。風神は複雑な心境でその場を離れた。

 敵だと思っていた殺し屋Zは、自分を助けた。気まぐれで。しかも、ご丁寧に忠告までしていった。
 確かに、零児がこのままあきらめるとも思わない。日本にいては、危険なことはわかる。海外に出るのもいいかもしれない。
 それに、高科京子はこのことを知っているのか? 教えたほうがいいのか?
 橘は、Zが生きていることを知っているのか? Zを撃った張本人が知らないはずはない。何より、決闘で、死を確認するはずだ。
 何故? 高科京子の恋人と知っていたからか? では、何故このことを彼女に話さないのか? 何故、Zは彼女に会いに行かないのか? もう二人を阻むものは、何も無いというのに。
 Zは、記憶を失っているわけでもなさそうだった。あえて、避けているのか。
 言うべきか、言わないべきか。Zがあえて避けているなら、俺には何も言う権利はない。
 風神は、考えた末に、黙っていることに決めた。

 ◇

 またせわしなく月日が流れ、一樹がいなくなって三回目の春がきた。
 一樹がいない事実にすっかりなれ、何事も無く過ごせるようになった。それは、楽になったという意味ではなく、一樹がいない生活を、何も感じることなく過ごせるようになったということだ。
 心の痛みも、悲しみも、楽しみも、何も、何も感じない。生きている心地もしない。京子は、それでも生きなければならなかった。

 朝、会社に行く前に、いつもと同じようにテレビをつけた。天気予報がやっていた。新人アナウンサーが、笑顔で各地の天気を伝えていた。今日は、比較的暖かいようだ。
 テレビを消そうと、リモコンに手を伸ばした。“ププ”と軽快な音がして、画面が天気予報から、男のアナウンサーが姿を現した。
 京子の手が止まった。画面の右端に、大きくテロップが出ていた。

 JINNO製薬会社で殺人未遂

 男のアナウンサーは、番組が変更になったことを説明し、事件の詳細を語りだした。
「JINNO製薬元研究員赤月零児(三十八)が、同会社社長、神取進(五十九)殺人未遂容疑で指名手配されました。警察は――」
「え?」
 京子は、リモコンで音声を大きくした。


【最終章 雪】

 二〇〇五年 二月

 英語、中国語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、日本語。顔のつくり、文化の違う人たちが、異なる言葉を話している。日本にあって、日本じゃない、無国籍地点。風神、橘、緑子は、空港にいた。
「まさか、風神さんが、アメリカへ行くなんて」
 緑子が、ゆっくり微笑んだ。
「ええ」
 風神は、もっと早く行こうと思っていたが、事務所の仕事の都合で、遅くなってしまっていた。その間、風神の前に零児が現れることはなかった。
「まだ、少し時間があるわね。私何か飲み物買ってくるわ」
 後ろにある大きな時計を見てそう言うと、緑子は、二人から離れていった。二人は、しばらく緑子の後姿を見ていたが、橘が口を開いた。
「いい選択だ。君なら、海外でも十分にやっていけるだろう」
 力強い視線を、風神に送る。
「ありがとうございます。それ、前にも言われました」
「前?」
「Zです」
 橘の表情が一瞬変わったが、すぐに元に戻った。
「そうか。会ったのか」
「はい。一年半前に」
「…………」
「殺してなかったんですね」
「…………」
「緑子さんはこのことを?」
「いや。緑子に言えば、京子さんに言ってしまうような気がして」
 首を横に振る。
「ダメなんですか?」
「それは、一樹君が決めることだ」
 橘は、もうZとは、言わなかった。
 緑子が戻ってきた。ホットウーロン茶を三つ買ってきた。一つずつ配ると、二人を見た。
「何を話していたの?」
「いや。なにも」
 橘が答える。
「本当かしら?」
 緑子は、いたずらっぽい目で、風神を覗き込む。
 風神は、笑顔で返した。

 ◇

 あの事件の後、JINNO製薬は、業界トップからひきずり降ろされた。社長神取の殺人未遂事件だ。
 零児は、あの時、風神に言われたことが、頭に引っかかっていた。調べてみると、神取のあくどい人格が浮かび上がってきた。
 零児は、自分以外に対して神取がどんなに手を汚そうと興味はなかったが、自分をも切り捨てようとしていたことが許せなかった。裏切られた気がした。
 憧れ、尊敬していた反動で、怒りの矛先は、風神から神取に移った。
 秘書に顔を知られていた零児は、あっさり社長室までたどりついた。神取は、別段驚くことも無く、目だけを零児に向けた。
「なんだ?」
「お久しぶりですね。社長」
 その鋭い目線に臆することなく、答えた。
 神取の『鷹の目』の効力は、もう零児には効かないのだ。
「生きていたのか」
「ええ。しぶとくね」
 そう言うなり、零児は新しく購入した銃で、今でも自分を見下す神取を撃った。その突然の出来事に、神取はなすすべも無く目を大きく見開き、口をパクパクしながら倒れた。神取は、そのまま気を失った。
 発砲の音を聞いて秘書が駆けつけると、そこには、倒れて動かない神取に拳銃を向けている零児がいた。
 秘書と零児の目が合った。秘書が叫び声を上げると、零児は秘書を押しのけ逃げていった。秘書は、すぐさま、震える手で警察を呼んだ。

 致命傷には至らなかった神取は、救急車で近くの病院に運ばれた。駆けつけた警察は、秘書に事情を聞くと、すぐに赤月零児を指名手配した。
 元々、何の計画もなしに、怒りのまま神取を殺そうとしていた零児は、すぐに捕まった。
 警察の介入を余儀なくされたJINNO製薬は、今までの悪事が、芋づる式にメディアで放送される事となった。
 神取は、社長の座はおろか、数々の違法行為の主犯として逮捕されることとなった。

 ◇

「じゃあ、そろそろ行きますね」
 空港の出発ロビー案内の放送を聞き、風神が言った。
「頑張りなさい」
「体に気を付けてね」
 そう二人の言葉をもらうと、ゆっくりと頭を下げ、二人を背に歩き出した。歩きながらふと、搭乗口付近の大きな窓に視線を向けると、一機の飛行機が、厚い雲に覆われた灰色の空に向かって離陸したのが見えた。
 その空からは、今にも雪が降り出しそうだった。

 ◇

 朝から霜が降りるほどの寒さで、日中も気温は上がらない。こんな寒い日は、どうしたって一樹のことを思い出す。
 もう三年。
 時間は京子の胸に一樹を残したまま、あっという間に過ぎていく。

 時がたてば傷もいえる。よく耳にする言葉だけど、傷が癒える分、悲しいほどに思い出が色濃く残されていく。
 闇の中にのめり込みそうになる思考回路を慌てて引き戻すと、冷たい風の中を再び歩き始めた。少しでも気が晴れるようにと履いた、お気に入りのコートとブーツ。その効力はいまいちだ。

 気が付けば、見知らぬ道。両側に見えるのは、銀杏の木だ。一ヶ月ほど前に散ってしまった葉が、乾いた音をたてている。
 ここは、どこだろう。なんだか、寒さが増してきたような気がするし、迷う前に戻らないと……。
 そう思うのに、足が逆を向いてくれない。いっそこのまま、行ってしまおうか。一樹との思い出がない、見知らぬ所へ。忘れたい。忘れたくない。忘れられない。切なさに胸が締め付けられる。
 京子は自分の胸元に手をあて、着ているコートを握り締めた。
 一樹、一樹。いつまで私の中にいるの? 忘れさせてくれないなら、一人にしないで欲しかったよ。一緒に、連れていって欲しかった。
 胸の中にいる、決して消えない一樹に問いかける。ハーと白い溜息を吐く。
 また同じだ。頭の回路は、何度も同じことを繰り返す。答えは、一度だって出ないのに。
 かなり歩いたはずなのに、見知らぬこの道はまだ続いている。京子は、ポケットに冷たくなってしまった手を入れ、再び歩き始めた。

 どうりで寒いはずだ。京子は、しばらく立ち止まる。
 雪が降り出し始めていた。ふわり、ふわりと、並木道を白く染めていく。それがあまりに綺麗で、京子の胸の切なさを、さらに深めた。
 並木道を舞う雪が少し量を増すと、京子はゆっくりした速度で歩きだす。目の前にチラチラ降る雪を見つめる。水の光をたたえていて、キラキラと輝いている。
「綺麗だな」
 虚ろな目をしながら、呟く。
 京子には、一樹と心が通じたあの雪の日が、見えていた。
 突然、視界の端に黒い靴が飛び込んで、現実へと引き戻される。
 そう言えば、この道を歩いてからまだ、人とすれ違っていなかった。雪が降る寒い日に、出歩く人は少ないのだろう。さらに、大通りからは外れているような道だ。
 京子は、特に深く考えず、黒い靴から上に視線を走らせる。
 え?
 心臓がドクンと跳ねた。
 似てる。
 そう思った。
 まだ遠くにいるその男は、ゆっくりと京子に近づいてくる。京子の目は、一点に集中した。いや、目だけでなく体中の細胞がその男を追う。心臓は、急に鼓動を早めた。
 わかってる。ありえないことぐらい。でも似てる。焦がれてやまない人に。もう二度と会えないその人に。
 男が近づくたびに、京子は涙が出そうになる。
 嘘だ。違うよ。冷静な自分は否定する。でも、ひと粒の奇跡を祈っている。
 ドクンドクン……。
 その人はうつむいていて顔が見えない。背格好は一樹そのものだ。
 二人はゆっくり近づくが、まだ確認できない。
 どうしよう。何がどうしよう?
 一樹じゃなかったら? 一樹だったら?
 京子は震える手で、唇に触れた。もうすれ違うまで数秒なのに、怖くて見れない。目をつむって、立ち止まる。
 でも勇気を持って祈るような気持ちで目を開けて、今まさにすれ違うその男の横顔を見た。息が止まる。

 一樹だった。

 間違いなく一樹だ。
 え? 何で……生きてた? 夢?
 いろんな感情と一緒に、京子が再び呼吸を始める。無色だった景色が、ひどく美しく見えてくる。涙がにじむ。ゆっくり振り返る。
 その男は、そのまま歩を止めない。京子は、確かめるようにその背を見つめる。
 やっぱりそうだ。一樹の背中だ。間違いない。
 涙がこぼれた。声をかけたいのに、まだ怖い。もし、違ったら。まだそんな事を考える。だって、三年も死んだと思っていた。夢じゃなきゃ、幻かも知れない。声をかけたら、消えてしまうかもしれない。
 そんな事を考えてると、その男は突然歩みを止めた。そして、ゆっくり振り返る。
 京子は、大きな声で泣きだした。


【エピローグ】

 雪は降り積もり、二人分の抱き合った跡と、同じ道を歩む足跡だけを、優しく残す――

 白い、白い雪と、モノクロの世界。
 何より大切なものを無くしたと思っていた。
 死ぬよりも辛い現実の中、すべてが色あせて見えた。

 あの時、一樹が振り向いたその時、ただそれだけで、白黒世界が彩りを取り戻した。
 京子は、動かない。いや、動けなかった。全身の力が抜け、漏れる嗚咽を堪えきれない。
 一樹は、その場にしゃがみこみ、泣きじゃくる京子に、ゆっくりと近づいた。
「京子?」
 その声に、京子が顔を上げだが、すぐに手で顔を覆い下を向く。
「ばかだな……お前」
 一樹の目が細く歪み、京子を引き寄せ、抱きしめる。
 フワリと鼻を掠める懐かしい香りに、一樹は目を瞑り思いをめぐらせた。

 会うつもりなどなかった。会う権利も、会わせる顔もなかった。偶然だった。雪が降ったのも、この道を歩いていたのも。だから一樹は、そのまま通り過ぎようと思っていたのだ。だけど、背中に突き刺さる視線を感じ、振り返らずにいられなかった。一樹だって、京子を忘れた日などなかったのだ。
 自分は死んだ人間であり、殺そうとした人間だ。時が傷を癒し、薄れ、別の男と一緒になって幸せになってくれればいいと、一樹は、そう思っていたのだ。
 
「バカは……俺か」
 冷たくなってきている京子の身体を、自分にめり込ませるぐらい強く抱きしめた。
 京子の流す涙は、とめどなく溢れ、一樹の肩を濡らしている。
 雪が、周りをうっすら白に染めるその時までに、果たして京子は泣きやんでくれるだろうか? 泣きやんだら、何を言えばいい?
 そんな事を考えながら、一樹は空を見上げ、込み上げてくる想いと一緒に、唇をかみ締めた。
 聞こえるのは、京子の泣き声と、降り積もる雪の音。
 雪は、あの時のように二人を祝福し、優しく降り注いでいた。
2008/01/05(Sat)09:13:06 公開 / 流月楓
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■作者からのメッセージ
はじめまして、流月楓と申します。

初作品、登竜門初投稿です。

この作品は、ずいぶん前に実際に夢で見たことを、小説にしています。
かなり衝撃的な夢だったので、思い入れのある作品です。

初めての小説執筆作品なので、至らない点が山ほどあると思いますが、読んでいただけた方、ご意見、ご感想をお願い致します。

序盤の改行、文を修正しました。
エピローグを追記しましたが、いるのか、いらないのか、迷っているので、ご意見頂ければ嬉しいです。
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