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『Schwert der Todesferbe 【序〜六】』 作者:春一 / SF ファンタジー
全角91445文字
容量182890 bytes
原稿用紙約276.75枚
 時は六〇年後の未来。大戦中、同盟国の軍事支援を行う事に留まり、終止していた日本は、現在とそう遜色の無い人々の間のスタンスを、暮らしを、政治形態を保っていた。しかしそれでも、それに関わる反作用は黒い流血めいて滲み出す。人らしく剣を以って、争う事で解決しろ。



 序.


 戦わなければならない時というものは誰にも必ずある。
 争い傷つくことを誤魔化して、それを避けて、それから逃げ回っている人にもどうしようもなく訪れるものだし、毎日飄々とした態度で暮らしている人が、実際のところ毎日何かと鎬を削っていたりする――とか。例えばそういう事だ。
 争い事には当たり前のように決着があり、当たり前のように零れ落ちて敗北する何かが現れる。そして、良きにつけ悪しきにつけ、その結果は現実の一部となり、人々に経験を、世界に歴史を積み重ねさせてゆく。この際その大小に優劣はない。
 積み重なった経験は反省のもとに成り立っている。「これでよかったのだろうか?」という回顧のもとにだ。
 そして戦いとは「土壇場」である。あるいは「崖っぷち」とか、「背水の陣」である可能性も大様にして大きい。
 そんな場合に、後から顧みたときのように冷静で潔白な判断を下せていたかというと、そうではない事例が多い。
 故に世界の歴史は、人々の経験は、残念ながら全て正義で出来ているわけではないことは周知の事実だろう。

 敢えてわかりきったことを詠唱したい。確認がしたい。

「世界は、生きるべくして生きているだけだ」

                 ◆

 憂鬱な曇り空の下、木々とひなびた住宅街に囲まれて、寂びた白色の校舎が建っている。
 そして、
 心当たりがない。どうしてつるぎだけ、こんな目に遭わなければならないの?
 というような内容のうめき声が情けなく、その二階の女子トイレに木霊した。
 トイレ内のきれいに磨かれた鏡に頭だけをもたれて、ぐったりと動かない少女がいた。声の主である。
 彼女の身を包む、黒色のブレザーと丈の短いチェックのプリーツスカートは制服である。その年頃の女性並みに手入れの行き届いた黒髪を背の中ほどまで伸ばしていて、顔立ちは地味だが歳の割りにあどけない。身長は中くらいといったところだ。
 彼女はこの公立高等学校に通う二年生で、名を倉嶋つるぎ(くらしま−)といった。
 幼気味の顔を泣き出さんばかりに歪めた彼女は、今現在ある苦痛に苛まれていた。
 四時限目の終わったあたり、つまり昼休み頃からそれは唐突に彼女を襲っていた。
 昨夜は連日の雨だったが別段窓を開けて就寝した覚えはないし、あれにもまだ日にちはあるしそもそも自分はそういうタイプではないよな……などとつらつら、彼女はこの苦痛の発生原因について考えながら、身動きが取れる程度の気力を回復させるため、ほとぼりがおさまるのをじっと待っていたのだ。
 だから、友人がすぐ側まで近づいていたことに気がつかなかった。
「つるぎ」
 友人はその少女の肩を叩いた。
「……うわびっくりした」
 つるぎは少しだけ肩を跳ね上げ、そしてまた情けなくずるずると洗面台にもたれかかった。吃驚はしたが、テンションが上がっていない――もといその苦しみに耐えかねていて、普通の反応が出来なかったのである。友達の方を振り返ったが、正直余裕の少ない状態で鈍い反応を返してしまう。
「あ、元木さん……どうしたの? 帰らないの?」
 つるぎの振り返った先には、切れ長の瞳の別の少女が立っていた。
 彼女は薄く気だるげな表情をしていたが、つるぎに声をかけた前と後とで表情が変わっていない。つまりこれが真顔なのだった。
 今は帰りのホームルームも終り放課後だ。つるぎは、確か部活入ってないよね元木さん、と言った後にそう確認した。
「ん、そうなのだけど。何か体調悪そうだったから見に来た。――何、生理?」
 みもふたもないやこのひと、とつるぎは心中で苦笑いし、現実ではゆるゆると首を振った。
「わかんない。けど……部活は無理そう。今一条先輩の面を受けたらつるぎは死ぬ」
 つるぎの抱える苦痛、それは頭痛だった。友人も彼女の不調の理由を察したのか、浅く考え込むように指先で顎を撫ぜるという、クールなリアクションを見せた。
 つるぎは剣道部に所属していた。一条というのは長身の女子副部長の苗字である。長身の選手の面を受けると面金のない硬い布の部分に竹刀が当たって、常にない痛みを伴うのは稽古の宿命だった。
 酷い頭痛のとき、その脳天に竹刀の一撃を食らうとどうなるか……顎を撫ぜながら彼女は想像し、ふむり、と納得したように低く唸った。
「踏み込んでも衝撃が頭に伝わってつるぎは死ぬ」
「――それじゃ副部長には自分で伝えて帰ってね」
 が、過剰な弱音を吐き始めたため一瞬にして苛ついたので、元木唯(もとき ゆい)は友達を見捨てることにした。踵を返し、つかつかとトイレの出口へ向かう。
「ああう、言い過ぎた。言い過ぎたから! これはこれで本当に痛いんだよう……」
 唯はきり、と切れ長の横目だけで追いすがるつるぎを振り返ると『これはこれで』の意味を考え始めた。が、また一瞬で飽きてやめた。ふむ……とため息をつき、無表情に呆れを混ぜ、腕組みをしつつ言う。
「全く――剣道は打ち込む都度踏み込むものでしょうに。……ともあれ不本意だけれど、一条先輩以下には、つるぎが休む旨、私が伝えておくから」
「……感謝いたします」
 唯はその言葉に、少しだけ驚いたような表情を見せた。


 つるぎがよろよろと昇降口へ降りた頃、腕時計は 西暦二〇六七年 六月十七日 十七時五分を指していた。
 外では曇り空が泣き出して、今は霧のような雨が降りだしている。
 どうせ休むからには一刻も早く帰って眠ってしまえ、と唯に釘を刺された為、彼女は格技場へ自分の欠席理由を伝えに行ってくれた親友と別れて、独りぼっちでそこに現れたのだった。
 昔から変わらない、ひなびた木製の下駄箱からローファーを出して履く。復興の進んだ帝都の方では指紋認証式キー付の下駄箱だのロッカーだのが普通だという事だったが、先の大戦で全くと言って良いほど損害がなく、校舎の修繕の余地もなかったこの土地にはそんなものは見当たらない。そもそも高等学校のロッカーとかいうものに、ロックをかける必要があるかが甚だ疑問ではあるが。
 そしてつるぎは傘立てを見、そこに入っている筈のものを家に忘れた事に気づいて途方に暮れていた。
 霧雨に全てをぼやかされたグラウンドの情景を昇降口の窓越しに眺めて、十秒だけ。
 憂鬱な雨の情景に圧されてか、少女は軽くだが悶々と思いつめることにした。
 あんな情けない弱音を吐いた彼女だったが、実はこれまでに部活を休んだのはこれがまだ二度目でしかなかった。一度目も登校出来ないほどの高熱が出た日だったとか、そんなものである。
 それでも何故か思ってしまう。
「……気合が足りないのかなあ」
 弱音を吐いても泣きながらでも、最後までやり通すことくらいが自分のいい所だと思っていたのに――。意味のない焦りだけが何処かにこびりついていて、正当な理由で休むのだというのに、普段吐く程度の弱音がある意味で実現したことに罪悪感を感じてしまっていた。
「――はあ」
 そして焦りの理由はわからない。
 軽く救われなかった。
 十秒が過ぎたので、彼女は通学カバンを傘代わりに駅まで走ることにした。頭痛はその間も続いている。
 帰りの電車の中で、つるぎは頭痛と闘いながら狸寝入りをして過ごした。カバンの健闘も空しくびっしょりと雨に塗れた彼女を避けるように、隣に座っているおばさんが大きなおしりを少しだけずらしたが、その時停車した駅が彼女の自宅の最寄であった。当然降りる。
 そして彼女は、帰りのバス賃がない事に気づいて途方に暮れた。御札があるだろうと勘違いし、昼食で小銭を使い切ったせいだった。お金を引き出そうにもコンビニエンスストアのATMはとうの昔に廃止になっていたし、銀行の窓口も駅から遠かった。クレジットカードを持てる身でもない。
 改札を出たところで、踏んだり蹴ったり、と口にしそうになったが、周囲の人に痛々しい眼差しで見られるのは困るので、理性で言葉を押し込めた。
 押し込めて、彼女はまた通学カバンを傘代わりに自宅まで走ることにした。
 こんなことくらいで家に連絡なんて出来ないもの、と思いながら。
 頭痛は、その間も続いている。


 自宅まであと数百メートル、住宅街に差し掛かったところで、つるぎはいつも直進する狭い交差点を左に折れた。近道である。
 左折した先は割合大きなクヌギ林につながっていて、これをほぼ縦一線に切り裂く獣道を行けば帰宅まで大幅な時間の短縮になる。小学生の頃、この場所に近所の子だか同学年の男子だかと一緒に虫取りに行った事があったので覚えていた。今ではその隣にあった私有地(砂利の敷き詰められた駐車場だった)を国が買い取り、植林しているため面積が広がっている筈だ。
 だが今では無論、飛び交う細かい虫とか露をたたえた草木が気持ち悪くて、彼女が足を踏み入れる事はない。
 しかし今は雨でびしょびしょに濡れた身である。とっくに汚れることなどどうでもよくなっていたため、迷わず下草の生える獣道へと駆け込んだ。
 ――そこで唐突に、彼女は足を止めてかがみ込んだ。
「……痛」
 頭痛が激しくなっていた。
 先刻からガンガンしていているのは同じだ。ただその痛みが、頭の前の方に集中してきたような気がする。
 立ち上がろうとしたがぐらりと視界が歪み、彼女はもう一度座り込んでしまった。
「なにこれ……痛すぎ……」
 この林に入った途端である。しかも偏頭痛に変わったのだ。つるぎはますます早く帰って眠らなければと思うのと同時に、この頭痛は何か重大な病気なのではないかという、無知ゆえの薄っすらとした不安を感じ初めていた。
 中身が入ったままの竹刀袋を浅く杖代わりに立ち上がり、ゆっくりと近道を進む。
 完全に体調不良のつるぎをよそに、霧雨にしっとりと濡らされた木々の間は長閑だった。雨が弱いせいか、まだ小鳥のさえずりさえ聞こえてきた。
 しかし少女は頭痛をこらえ、気化熱にじわじわと体温を奪われていく身体を抱きながら前進することに精一杯だった。――精一杯だったので、雨の中で懸命に鳴いていた小鳥達が、いつしか残らず声を殺し始めたことに気がついていなかった。
 獣道も中ごろに差し掛かった、その時だった。
 妙なものがぬっと、つるぎの視線の先、獣道の右横合いから現れていた。
 つるぎは目を疑った。現れたそれは、真っ黒い球体にしか見えなかったからである。
「――……あ、え?」
 それは少女の身長をゆうに超える大きさだったため簡単に獣道を塞いだ。彼女はどうすることもできず、その場で立ち止まってしまった。
 風船かと思う。いやそれとも、何かイベントで使うものを搬送している最中なのだろうか?
 搬送するために森林をくぐることは非効率的であることと、球体の通って来た道程にある木々が全てへし折られていることと――真っ黒なそれが地面から数十センチのところで浮かんでいることにつるぎが気付く前に、球体の一部がジッパーを開くように横一文字に裂けた。
 そしてそこから巨大な眼球が現れる。
 木々に、甲高い少女の悲鳴が木霊した。
 つるぎは来た道を、カバンだけうち捨てて走り戻った。球体は少しだけその後ろ姿を見つめていたが、何の前触れもなく飛行を開始し彼女を追った。
 林全体に、めきめきと木々を折る音が無残に響いてゆく。
 走る彼女と浮遊するそれの距離は、少しずつにだが広がりつつあった。なにせ今つるぎの走っている獣道の周りには、細い樹木ばかりが生えている訳ではない。道幅と身体(?)がきっちり等しいくらいの球体は、それをへし折りながら進むことしか出来ず、結果人間の走る速度よりも遅く移動するはめになっていた。
 一方、後ろを振り返ることもせず全力で逃走していたつるぎは、林の出口に差し掛かっていた。
 そこではっと思う。
 あれを、外に、出すわけにはいかない。
 あの球体が林の外へ出るとどうなるから誰にとって危険だ、という冷静な打算があった訳ではない。彼女に今、そこまでの集中力と気持ちの余裕を期待する方が酷というものだった。
 ただ身体が動いた。
 幸い武器らしい武器がある事と、ほんの少しの心得がある事も後押しした。首だけで振り向くと、得物を構える時間だけはありそうだった。あの球体が何だかなんて想像もつかない。ただ大層不気味な目のついた、逃げた自分を追いかけてきた怖ろしい物だから排除する。そう決めた。
 悲鳴を上げた数秒後に、こんな行為に走っている矛盾を少しだけ哂う。
 全身で九十度反転し、つるぎは本能だけで握っていたような竹刀袋を、中身を出さないまま中段に構えた。
「――――」
 球体は何故か、今は木々に挟まったかのように静止している。打突出来る距離を大雑把にはかり、少女は気力を貯め終えた。
 が、その時同時に、卵殻を破って生まれようとする何かの幼生のように球体の表面が気色悪く動いたかと思うと、その部分が飛び出て五指を形成し拳を握り彼女を襲ったのである。
 所謂拳打であった。
 つるぎは悲鳴を上げることも出来ず、構えていた竹刀ごと吹き飛ばされる。
 何が起こったのかわからなかった。
 気がつくとぬかるんだ地面の上を滑っていて、幾度も視界が回転し、そして止まっていた。
 拳と自分の身体の間に偶然あった竹刀は、思い切りひしゃげて茂みの中へ消えた。
「あっ……か、は」
 泥の上を転がって止まり、十秒。彼女はやっとのことでうめき声だけを上げた。
 殴られた身体が痛い。が、身体のどこが痛みを訴えているのかがわからない。けれど、しっかりと頭痛が続いている事を知覚出来るのが残酷だなんて、彼女は場違いな事を思っていた。頭が混乱していた。
 一瞬前にあった勇ましさはとっくに吹き飛ばされていて。最早つるぎの身体は、物理的な故障以外の何かのせいで小刻みに震えることしか出来なくなっていた。
 仰向けに転がって、自分を殴りつけたらしい球体の方を見る。またその表面がうねり、飛び出てくる気配があった。
「あ……、あ」
 案の定、容赦なく、こんどは開かれた掌の形でそれは球体から突出してきた。
 涙で滲んだ視界を、彼女は閉じた。
 ――助けて、と。
 
 その時ちょうど、ダーツを放るような気軽さで、それは放たれていた。
 それはつるぎに伸びる漆黒の手、その甲の中心を易々と貫き、その勢いで一撃、太い樹木の幹に縫い留めた。
 口がない筈の球体が、人間の断末魔めいた叫び声を上げた。
 つるぎはその声に驚き、涙のにじんでいた瞳をはっと開く。
 球体――今や怪物――は、眼球を零れ落とさんばかりに充血しきった瞳を開き、苦痛を全身に表している最中だった。
 それを見て思わず一歩腰を泥に浸したまま後ずさった少女は、自分を襲ったはずの掌が脇にあった樹の幹に見事に何かによって縫いとめられているのを見た。
 棒状の何か。
 それがぞぶりとおぞましい音を立てて抜け、ひとりでに宙を浮き持ち主の手に戻っていた。
 その挙動に魅了されるように追った視線の先に、いつのまにか誰かが立っていた。
 全身が白色の――青年である。
 今は漆黒の、妙な形状の剣を携えた剣士と身を変えていた。先刻あの『手』を貫通していたのはその剣だと気づくまで、つるぎには一瞬の間が必要だった。……剣を投擲し、怪物の手を縫いとめ、今はどうやってかその手に戻したのだと気づくまで。
 彼女はもう一度目を疑った。見れば青年の服は、純白のマントに同色の細身で長袖の上下という――およそ、現実離れしたものだったからである。
 そして最初に真っ白だと感じた認識に同じく、そのうなじで細く束ねられた毛髪が、眉までが全て白、そして肌も一切の色を抜いたように真っ白だったのである。
 ただ、その繊細な作り物と見間違うほどの貌に乗った瞳だけが、青年の容姿に似合わず老人のように擦り切れていて、妙齢で悲しい紫の輝きを燈している。
 まるでその人物は、童話の絵本からたった独りで抜け出してきた騎士のようで――
 見入っていたと思う。だから、その球体に向かって立つひとに目だけで振り向かれたとき、少女は不意打ち気味に心臓を跳ね上げていた。
 そう、見合う間も半秒。
 剣士は機械的に紫の黒目を元の方向へ戻すと、一瞬で剣を腰だめに構え、刹那で球体を強襲した。たなびく白髪を連れて。
 球体も恐ろしい反応速度を見せていた。剣士が己に距離を詰め終える前に五つの『腕』を作り出し、防御に三、攻撃に二、器用に精確に動かして反撃を行った。
 剣士はその内の四までを二振りで斬り飛ばしたが、攻撃に割かれていた一の腕、その拳に対処することが出来ず剣の腹で受け止めた。
 拳一つにさほどの質量はないように思えた。だがどれだけの力がその腕にかかっていたのか、細身とはいえ長身の男の身体が簡単に弾き飛ばされ、幾つもの細い枝を折って藪の中へ消え、仕舞いに鈍い音を残して大きな幹に激突した。ずるりと青年の身体がくずおれ、座り込むような体勢になる。
 つるぎは息を呑んだ。そして、頭痛がますます酷くなってきている。
 彼女の居る位置からは、青年の貌は白い前髪が邪魔になって伺うことが出来ない。
 最早化物の標的は、手近に居るつるぎではなく己の身体に傷を負わせた剣士となっていた。彼女をそこに居ないかのように無視し、血走った眼のまま浮遊する身体を剣士の方へと動かしてゆく。
 まずい――とつるぎは思う。
 白い剣士の次は我が身と、諦めたのではない。
 酷くなる頭痛をおして、勝手に声が出た。
「――戦って」
 剣士はその時一瞬だけ、意識を失っていた。
「戦わなくっちゃ、あなた死んじゃう――」
 逃げても無駄だろうと、諦めてはいた。
 が、それは、剣士の死や自分の死、あわよくば怪物を退けて生き延びられるかもしれないという、今の状況全てをその剣士に丸投げしたのではない。
 ただ純粋に、今出会ったばかりの青年の心配をしていた。

 ――『逃げようとしても無駄だから』――

 ――『私のことはともかく』――

 ――『取り敢えず貴方の身は、戦う事で護れ』――

 と、ただ、壮絶な頭痛に苛まれながら強く願った。
 瞬間、剣士の握っていた剣、その刀身に嵌め込まれている紫の玉(ぎょく)が点灯していた。
 頼りない輝き。
 だがしかしつるぎには、その光は何かの目覚めを告げる合図のように見得た。
「――なに」
 いつの間にか意識を取り戻していた剣士は、そう壮年の声で呟いた。
 その驚愕に見開かれた双眸には、玉から発せられる輝きが映っていた。

 
 つるぎのその日の記憶は、そこでぷつりと終わっている。






 一.


 その時自分は夢を見ているのだと、つるぎにはわかった。
 というのもそれは、幾度も同じ夢を見るからだった。
 その夢には一つの形もなく、果てもなく、ただその状況は燃えさかる白い火炎で出来ていた。
 最初それを、戦時中の夢だろうかと思った。ぽっかりと無くなった子供の頃の記憶――七歳頃までのそれが、彼女にはなかった――が、夢として一時だけよみがえったのではないかと願ったのだ。
 だが、その炎から受ける印象は、苦しみだとか凄惨さだとかいう不吉なものではなく、そこで燃えているのが当たり前だと思わせられるような不思議なものだった。争いの結果としてもたらされた物ではないのかもしれないと、つるぎはそう勝手に解釈していた。
 そして夢は、そんな場面の中で二人の人物が対話をし、察するに殺しあうという単純な、しかしとても穏やかでない内容だった。
 貌はおろか、色も形もわからない二人は、傍らに居る筈の少女の存在に気づいていない。
「世界は、生きるべくして生きているだけだ。そこに善悪はない」
 あるいは憂鬱そうに一人が言った。
「知っている。だがお前が此処にいるという事実だけは、俺が認めはしない」
 憎しみを露にしてもう一人が答えた。
「抗うつもりか」
「ああ」
 直後、散発的に金属音が響き始めた。
 炎の中で影が躍る。
 優雅で張り詰めた躍動が炎越しに見てとれる。つるぎはその時、何故か二人が戦ってはいけないと思っていて、凄まじい焦りを感じている。だが身体が動かない。
 一瞬の後、凄まじい声音が上がって一人が倒れる気配を感じた。
 あまりにあっけない終わり方。
 あっけないと感じたのは――双方が争うことを望んでいなかったつるぎにとって、倒された側が見知った人物だと、その時理解していたからである。
「これは預かってゆく」
 生き残った人物は、炎によって炙り焼かれる空へ向かってそう宣言し、何かを拾い上げる。
 そして勝者たる彼は、殺した敗者を弔う事もせず陽炎のように去っていった。
 
 そこで、いつものように目が覚めた。
 彼女は薄青く照らされた天井を、気だるそうに見つめた。意識がはっきりせず、今すぐ起き上がろうという気持ちになれなかった。
 この夢を見終わった時の常として、つるぎは妙な感覚にとらわれていた。懐かしいような悲しいような、複雑な心持ち。夢で見た断片的な状況を手がかりとして、記憶の中から更に『お話』をぼんやりと掘り起こそうとしてみるが、うまくいかなかった。
 夢の内容が、見た人間の心の深い部分と関連していることは有名な話だ。だから彼女は以前から、時折見るこの夢の内容を、自分が下意識で思っていることを何か、上手く、脳が勝手に抽象化し自分に見せているものなのだろうと暢気に考えていた。
 例えば今の夢ならば――
 あの口調からして、戦っていた人物二人はおそらく男だ。男同士が争っていて、その二人の決闘を女性である自分が見守るシチュエーションといえば、
「やめてー、私のために争わないでー」
 ということである。なにその薄っぺらい深層心理、と、つるぎは嫌になって、浅ましい思考を行った自分を自虐するように、夢の中にはなかった台詞を棒読みした。
 そうして気恥ずかしくなって、改めて布団を被ってから思う。ここは何処なのだろう。
 のそのそと上半身だけで起き上がり、ぐるりを見回すと、自分が横になっているベッドの周囲は白いカーテンで囲われている。天井と、見得る限りの壁も全て白だった。
 壁を眺めていたとき、アナログの壁掛け時計を見つけた。カーテンの隙間から漏れる光の色を見る限り早朝だろう、五時の少し前を指している。
 時刻を確認したことを皮切りに、はっきりと目が覚めた。
 まず何故か、自分は白い患者着を着て今まで眠っていたらしい。覚えている限り、自分でそんなものを着た記憶はない。ああつまり、自分は何故だか病院へ運び込まれたのだと理解した。
 次に、あの頭痛がすっきりと消えていることに気づいた。
 それに続いて、あの球体とそれに殴打された自分の事を思い出した。身体をせわしく動かして確かめてみると、頭に包帯が巻かれていて右のふくらはぎに大きなガーゼが張ってあった。また打ち身なのか、右の二の腕が少し痛んだ。
 ――詳しくは誰かに尋ねなければわからないが、わかる限りそれだけの怪我らしいことにとりあえずほっとして。
 そして最後に思い出したのは――あの青年の事だった。
 どうなったのだろう。彼も確か、あの球の化物に思い切り打ち据えられたはずだ。そして背中からぶつかった樹に持たれかかって、おそらく失神していた。
 球の化物は完全に頭に来ていたように見えた。
 常軌を逸した存在で――生物かどうかも怪しい物だったが、血走った眼球を見るに、あれは怒っていたとしか思えない。
 動かない青年。それに向かう憤激した怪物。
 その先を想像して、つるぎはぞっとなった。
 しかし確か――なにか、あの剣の一部が光を放ったような記憶がある。そして自分はどうしてか、たったそれだけの事に怪物を退ける事が出来るかもしれないという希望を見たはずだ。
 希望どころか、何故だかあの時はそう確信していた。
 だが今は、そのことに少しも自信は持てなかった。
 ――無理もない。土壇場に逆転の幻想を見るのは、追い詰められた者の常だ。
 ……どうして自分がここに、無事で居ることが出来ているのかはわからない。初め怪物は自分を襲ってきたが、目標を青年に変え、殺して――あの怪物がみなぎらせていたのは間違いなく殺意だったと思う――そのまま何処かへ行ってしまい、その後自分だけが保護されたという可能性すらある。
 そんなのはごめんだった。
 自分一人が生き残ることが後味が悪いからとか、あの青年のために進んで犠牲になることが個人的な理想だったからとか、そんなくだらないことを思ってそう感じたのではない。
 彼が赤の他人だとしても、一瞬でも心配した相手に死んでなど欲しくない、ただそう思っていた。そしてそう思うのは皆同じだろうと、彼女は考えていた。
 とりあえず起きて、確かめるべきだった。こんな目隠しめいた布に護られていたのでは何も知ることが出来ない。脇に用意されていた患者用のサンダルを履いて、カーテンを開いた。
 そしてその正面に、昨日の青年がいた。
 昨日からその服装のままでいるのか、全身が薄っすらと濡れていた。そして真っ白い前髪に表情を隠して、部屋の隅の壁にもたれて座りこんでいる。
 あの剣を抱いて。
 つるぎだけが驚愕した。
 窓から差し込む薄青い光の元で、二人は暫く身体だけで向き合っていた。
 直後に、青年は無事では済まなかっただろうという予想が頭にこびりついていたつるぎは、それは死体が運び込まれているのかもしれないという的外れな不安にかられた。
 動かない青年の肩を掴んで、がくがくと揺り起こすようにした。手を出しにくい云々ということよりも、本当に無事でないとしたらどうしようという不安の方が大きかった。
「あなた――」
「起きたか」
 驚くくらいの、やはり歳を帯びた声音で、青年はそう言った。
「――!」
 つるぎは間抜けな顔で一瞬固まり、
「…………起きてたんなら言ってください」
 思わず敬語になって抗議した。
 青年は静止した彫像めいた無表情で彼女を眺めていたが、やがて興が失せたかのようにまた目を閉じた。
「今お前に起こされたのだ」
「あ……、すいません……でした」
 つるぎが揺り起こすまで、青年は件の装飾剣を抱くようにして眠っていたのだった。
 沈黙が流れる。つるぎは、無事で良かった、という台詞をギリギリのところで飲み込んだ。出会ったばかりの人に、そしてこんな得体の知れない人に、自分はなんて可愛らしい言葉をかけようとしているのかと自省した。
 そしてしかし、何か少しは話さなくてはと思考をめぐらせたとき、すぐに当然の疑問がいくつか湧いた。
「……身体、大丈夫でしたか」
「ああ」
 これは、自分と同じように病院にお世話になっていない時点でわかっていた。訊いたのは単なる礼儀だった。
「それから、えっと。どうしてここに、いるんですか」
 青年は、その質問に対しては、まるで答える必要のないかのように身じろぎもせずに無視した。
 また沈黙が流れる。だが、少女はめげてはいけないと思った。
「もしかして、あなたがつるぎをここまで運んでくれたんですか?」
「……そうだが。でなければ、私が今ここに居る道理はない」
 つまりこれは、前の質問の回答でもあった。考えればわかるだろうにと馬鹿にされているような気がして、つるぎは少しむっとした。
 けれど、この言葉だけは忘れてはいけないと思った。気を取り直して笑顔で言う。
「ありがとうございました」
 青年は答えない。
「雨でしたし、つるぎ頭痛でしたし――あのまま放っておかれたら大変なことになっていたかもしれません。本当に助かりました。あ、つるぎっていうのはわたしの名前です。倉嶋つるぎといいます」
 と、慌てて付け足すように彼女は名乗ったが、青年は沈黙を守り続けた。聞いているのかいないのか、青年は紫の眼を伏せがちな角度にしたまま微動だにしない。
「そうだ。まだ名前聞いてませんでしたね。名前、聞いてもいいですか」
「……名は」
 まともと思われる反応があった。つるぎは一歩だけ前進をみたことに少し目を輝かせて、言葉を待った。
「名前など、ない」
「……そうなんですか」
 そう言う他にない。……つるぎは落胆し、そしてそれ以上に諦めを覚えてしゅんとなった。
 こんなタイプの人間と会話をするのは初めてだった。沈黙が苦にならない人物なんて実際には世の中にいないとつるぎは思っていたが、彼は真実何を考えているのかわからなかった。大げさな言い方をすれば、彼にとって会話という行為そのものが、生きる上で欠落してしまっているようにさえ見える。
 しかも名が無いとはどういうことか。つるぎは理解に苦しんだ。青年は薬の中毒者で、実はまともな思考が働いていないのではないかとか、ハンデを負った人なのではないかと彼女が勘繰らなかったのは、青年がさっき筋の通ったことを言っていたから。それだけでしかなかった。
 青年に聞こえないように嘆息して、つるぎは最後の質問をする事にした。話の流れで尋ねようとぼんやり思っていたのだが、それは叶いそうにない。
「……あの怪物はどうしたんですか」
「あれは、私が殺した」
 青年は事実だけを即答した。
 ある種当然の帰結。つるぎと青年が此処に居る以上、争って敗れ、少なくともあの怪物が二人を追えない状態にされたのは間違いないだろう。
 ――だが『殺した』とはどういうことだろう。
「それってどういう――」
「あ、つるぎ起きてる。おはよ!」
 明るく嬉しそうな声で、つるぎの質問はさえぎられた。彼女だけが声のした方を振り返れば、小柄な女性が扉のない病室の入り口に立っていた。スーツ姿だったが、背が低いせいか妙にそれが似合っていない。
 そしてその女性は、
「う、もしやお取り込み中だった?」
 それはまずいことをした、という風に、小動物めいた仕草で手で口を抑えた。
「ちが……、そんなのじゃない」
 つるぎは何故か赤くなって否定してから、おはよお姉ちゃん、と小さな声で付け足した。青年はやはり何も言わなかった。
 女性は二人を興味深げに見比べながら病室の中へ入り、個室の隅にある丸椅子をごりごりと引っ張ってくると、その上にちょんと座り、
「ま、大丈夫? 気分とか」
 存外落ち着きを孕んだ声でつるぎを気遣った。少女はうん、と素直にうなずく。
 つるぎよりも頭一つ小さいその女性は、彼女の姉だった。下の名を恵子(けいこ)という。
 ただし姉妹といっても二人に血の繋がりはない。つるぎが知る限り彼女は、十年前の戦時の事故で、読み書き以外の全ての記憶を失ったつるぎを唯一引き取ろうとしてくれた人物で、実際は遠い親戚だということだった。
 年齢は三十五歳。なのだが、その出で立ちはどう見てもつるぎと同年代かそれより下にしか見えない。
 そして彼女は、
「が、しかし『お取り込み中』ではなかったと」
 義妹をいじるのが好きだった。
「し、しつこいよ。違うってば……」
 つるぎはしどろもどろになって抗議する。そういう所が義姉の自分に対するからかいを増長させているのだと、彼女は気づいていない。
「ま、やっぱりそうだよね。だってその人なんにも喋ってくれないんだもん。寝る時までコスプレしているし」
 恵子はつまらなげに床につかない足をぶらぶらさせて、本人がすぐ側に居るのにも関わらず、ずけずけと言った。つるぎが気がつくまでの間幾度か青年と言葉を交わしていたのか、彼女は青年が、反論したり無駄に会話に介入して来ないことを知っているらしかった。
 因みに青年の剣は形だけのもの――装飾剣で、落としてあるどころか刃が丸くなっていたため、『ファッションの一環』として院内に持ち入る事を許可されていた。
「けどさ、その人怪我してたつるぎをここまで運んでくれたんだよ? 聞いたかもしれないけど」
 つるぎはまたうん、と頷いた。
「その事は聞いたの。お礼も一応言ったんだけど、ただちょっと……」
 言下に声をひそめて、申し訳なさそうに青年のほうを振り返る。恵子は義妹の言いたいことを察して、話の振り方がまずかったなと心中で自分に駄目出しした。そしてやはり、黙りこくった青年に遠慮なく、
「でもま、その人は大丈夫だよ? なんとなくだけど」
 無邪気に明るく微妙なフォローを入れた。無理もないのはわかっていたが、つるぎはそれに苦笑するしかなかった。恵子は続ける。
「帰った方がいいんじゃないって勧めたんだけど――ここにいるからって動かなかったんだよ、この人」
「え?」
 どういうことだろうとつるぎは思う――以上に耳を疑っていた。
「でも、何かつるぎの事心配してくれてるみたいだし、わたしも嬉しかったし。びしょびしょのまま悪かったけど、やっぱりどうしても動かないっていうから居てもらったの」
 どうして、と誰にともなく問おうとしてつるぎはやめた。青年に失礼だと思った。
 ともあれ、と恵子が話を続ける。
「つるぎの怪我は打ち身くらい、倒れたのも貧血だってさ。あんたちゃんと寝てた? おととい」
 そしてぴし、と上向きにつるぎの顔に人差し指を突きつけた。ここにずっと居てくれた、という話を耳にしてから、青年の方をまじまじと見ていた彼女は泡を食ってのけぞった。
「ね、寝てたよ? というか昨日は、すごい頭痛がしたの」
 恵子の目がすっと細くなる。
「……いつから? 朝はそんなこと言ってなかったよね」
「昨日のお昼くらいから」
「ふむ……脳貧血の原因なのかな。ともあれ先生に言っとくね?」
 ほんの多少だが医学の知識があった恵子は、半分独りごちるように浅く推察して、思い出したようにナースコールのブザーを押した。妹さんが気がついたら知らせてください、と言われていた。
 看護士が来るまでの間、つるぎはおずおずと恵子に尋ねた。
「……何があったのか聞かないの?」
 恵子は首を捻った。
「何って? ――ああ、つるぎがなんでここへ運び込まれたのかってこと?」
 すると何故か、わざとらしくくすくす笑いはじめる恵子。つるぎは笑われる理由が見当たらず怪訝な顔をした。
「つるぎ、あの林の中の道ですっころんだんでしょ? その人が教えてくれた」
「……え?」
 床に直に座ったままの青年を一度見、一瞬だけ戸惑ってから――
「……うん」
 少女はとっさに頷いていた。頷いておくべきだと、頭の隅で誰かが言っていた。
 非現実的な一部始終をまくしたてて、恥をかく自分を少し思い描いた。だがそれ以上に、事実を口にした時に何故か大きな畏怖に苛まれるのではないかと、単純に躊躇ったのだ。それに、隠せることなら家族には黙っていたいと思った。余計な心配はかけたくない。
 あの出来事が現実のものなのかどうか、青年と話をすり合わせた後で改めて話してもいい。敢えて嘘を言った(と、思われる)青年の真意を知りたくもある。
「ドジというか……まあ話を聞いてると、貧血でくらっときて、木の根っこに足取られちゃったって感じだけど。意識を失った時転ぶと、受身取れないから怪我もするでしょ」
 うんうんと何故か楽しそうに頷く恵子。
 つるぎは看護婦が来るまで、何も語らず、何も示さない青年の方を見続けていた。
 そして彼女は、青年が抱くようにして持っている装飾剣を、恵子がじっと見つめていた事に気がつかなかった。


               ◆


 だがしかし、つるぎが青年の真意を確認する機会はついに訪れなかった。
 意識を取り戻してから二日後に退院となった彼女だったが、その前の日、診察を受けている間に彼が姿を消してしまったのだ。
 つるぎは、病室に訪れる看護士数人に青年を見かけなかったか尋ねたのだが、彼女らは一様にして首を振った。
 お礼を言い損ねた――と彼女は落ち込んだが、その一瞬後にきちんと感謝の意を青年に伝えていたことを思い出した。
 何故言い損ねたと思ったのだろうと、つるぎは暫く考えた。
 そして結局、『どういたしまして』を言って貰えなかったからそう感じたのだろうと思った。

 朝の七時頃。少し無理を言って早めの診察をしてもらい、お世話になった先生にお礼を言って、つるぎはずっと付き添ってくれていた恵子と並んで病院を出た。退院明けで参加させてもらえずとも、朝練の見学をし、中間試験が近いこともあり授業に出席するつもりだった。カバンや制服は、恵子が自宅からとってきてくれていた。
 門を出たところで恵子が口を開いた。
「それじゃ。お姉ちゃん仕事行かなきゃだから、ここでね」
 恵子とつるぎの乗る列車の路線は違う。この地方都市は県の中心にあたる場所であるため、彼女らの自宅の近場に数本の異なる路線が走っていた。
 ブレザーのない夏服姿のつるぎは、うん、と頷く。
「いってらっしゃい。……ごめんなさい、お休み潰しちゃって。また研究忙しくなるって言ってたのに」
 つるぎの言う研究とは、恵子の仕事のことだった。彼女はつるぎを引き取るずっと以前から大きな組織に所属していて、そこで生命工学関連の研究に携わっている。研究所に缶詰になる事も少なくなく、必然的に家事をつるぎが行い、稼ぎを恵子が担当するという、二人で一人前のような生活をしていた。
 そしてその倉嶋家の主人たる恵子は、つるぎの言葉を聞いて呆れたような顔をつくり、
「あのねえ……。身内が倒れたら誰だって心配するもの。というかつるぎ、普段弱音ばっかりのくせに、律儀に謝るのやめなね? 見てると苛々するから。弱っちい人間は、黙って素直に強い人間の庇護下に居ればいいのよ」
 と、嫌味なく笑い、病み上がりの義妹に容赦のない言葉をかけた。つるぎは敢えて反論せず、素直な笑顔を浮かべて強い姉と別れた。


 つるぎが学校のそばまで来た頃、時刻は七時四十分を差していた。
 午前七時四十分という時刻はこの学校の生徒にとって、大抵の部活動の朝練習に最初から参加するには遅く、ホームルームから出席するには早すぎるという頃合いだった。朝早くから空いている図書室へ通ったり、勉強をするために早くに登校してくる受験生が、ほんの数人だけぱらぱらと正門をくぐっていく程度である。
 梅雨時に珍しく、その日はからりと晴れていて暑かった。とても遠くに見える雨雲がこの辺りへ訪れるまではと、少しばかりせっかちな蝉が懸命に鳴いていた。年々平均気温が上昇していて、六月に蝉が鳴くことも珍しくなくなってきていた。
 朝練の開始に間に合わないことをわかっていたつるぎは、別段急ぐこともなく徒歩で、正門の近くへ差し掛かっていた。
 つるぎの少し前を行く男子生徒が、半歩だけ足を止めた。一瞬正門の所のアスファルトに座っている誰かを注視して、それから別段何事もなかったかのように学校の敷地内へ入って行った。
 倒れて入院した生徒が復帰してくる……部活の友達、クラスの皆や唯はどんな反応を見せるのだろうかなどと、ぼうっと想像を巡らせていて、意識があまり現実に無かった少女は、男子生徒のその挙動に気がつかなかった。
 県立望星高等学校(けんりつぼうほしこうとうがっこう)と厳めしい縦書きの彫刻で記された学校表札に寄りかかって、アスファルトに直に座り込んでいる誰かと向き合うまで。
「――あれ?」
 それは、昨日病院から姿を消した青年だった。
 真っ白な服装も、髪も、持っているあの装飾剣も、何も変わった所がない。
「えっと。……どうしてここにいるんですか」
 最早多少、つるぎは怯えを含んだ声でそう尋ねた。
「怖がらせてしまったのなら、すまない」
 青年は言い訳をせず、謝罪だけをした。
 つるぎは押し黙ったままだった。そんな彼女の様子を察してかそうでないのか、青年は続けた。
「私の事は気にせずとも良い。お前に用があってここに居るのではない」
「じゃあ、どんな用なんですか」
 青年は答えなかった。
 つるぎも、なんとなく答えが返って来ないような気がしつつも尋ねていた。
 またも沈黙。
 気遣い屋のつるぎにとって、やはりこの状況は耐えがたかった。普段ならば、律儀にナチュラルに何か話さなくてはと思ってしまうところだった。
 しかしこの場合、話したいことは決まっていた。自分の見たことを夢だと疑っている以上、青年にカマをかけているようで少し嫌になったが、少女は今は半分以上の割合で夢の内容が現実にあったことだと思っていたので、こう尋ねた。
「一昨日、どうしてお姉ちゃんや病院の先生に嘘を言ったんですか?」
 青年は横目につるぎの方を見、気だるげに答えた。
「面倒だからだ。他意はない」
 ――面倒だから。それはつまり。
「じゃあ、あの時の事は、本当にあったっていうことですか?」
 つるぎは正直な所、一昨日自分が倒れる直前までの事について、『この青年』という物的証拠と『林で倒れた』という論的証拠を自認しながらも、半信半疑でいた。否、認められないでいた。
 夢の内容が、見た人間の心の深い部分と関連していることは有名な話だ。だから彼女は、一昨日見たあの夢の内容を、自分が下意識で思っていることを何か、上手く、脳が勝手に抽象化し自分に見せたものだったのだろうと暢気に考えていた。
 つまり、目玉の化物などという『ありふれた幻想』は、自分の乏しい想像力から生まれたそれらしい怪物のイメージではないのかと疑っていたのだった。
 その疑いが、今のこの空のように皮肉に晴れた。
「そうだ」
 現実の代弁者たる青年が駄目を押す。
 現実が受け入れられなかったのか、とあざ笑うでもなく、信じられないのも無理はない、とフォローを入れるのでもなく、ただ無感情に彼女の言葉を肯定した。
 つるぎは呆然と、その場に佇むようにして動けなくなった。
 あの出来事は真実だった。百歩譲ってそれはいい。
 けれどその事実を、どう受け止めていいのかわからず混乱していた。
 取り乱してはいない。ただ、『あれ』が危険であることはわかっていて、その事に混乱し取り乱すほどの焦燥を覚えられないから、どういう感情を出力し、どんな感想を述べたら良いのか迷っていた。それほど遠い実感だった。
 そうして固まっているとつるぎは、また一人、また一人と正門を通る生徒が、自分と青年にを怪訝そうに見比べては去って行くことに気がついた。
 はっとなってもう一度青年に問いかけた。さっさと事を運んで、この異様な状況を終わらせなくてはと思っていた。あの出来事が本当だったという遠い実感は、単なる気恥ずかしさに押し流されていた。
「……とにかく。今日はここに居るつもりなんですか?」
「そうだが」
 彼女が昨晩病室のテレビで見た天気予報では、今日の午後からまた雨が降るということだった。
 全くの勘だったが――雨が降り出してもこの人はここに居るのだろうな、とつるぎは思った。実際の所を聞くのも面倒になっていたつるぎは、
「つるぎと一緒に来てください。雨宿りの場所くらい教えてあげます」
 とっさにそう言った。




二.


 たん、と格技場の引き戸が開かれた。
「失礼します。遅くなりました」
 稽古はまだ、基本打突の反復練習の段階だった。十五人ほどで四角い輪状になり打ち合っている内の、出入り口側に居た男子とその相手だけが、つるぎともう一人が現れたことに気づいていた。
「あれ、倉嶋?」 
「うん、お早う暮里(くれさと)部長」
 他の者は、雨あられと響く竹刀の音でそのことに気づかない。暮里は向かい合っていた練習相手を少し放って、つるぎと話し始めた。放られてしまったその練習相手に向かって、少女はごめんなさいという意味で手をひらひらと振った。相手も手を上げて挨拶する。
「お前、この間早退した時倒れたって聞いたんだが……大丈夫だったのか?」
「ん、それはなんとか。心配かけてごめんね」
「いや、こっちこそ見舞いにも行けなくて悪かったな。……ま、こんな短い間ならかえって気使わせてたろうから、いいのか」
 ははは、と、全て防具を着装したままの一九○センチ近い巨体を揺すって笑う。そして、とりあえず良かったな、と頷いて、
「というか、そちらさんは?」
 同じ長身とはいえ、肩幅が広く、ほとんど巨躯というに相応しい自分とは対象的な、痩身の男を見て尋ねた。
 つるぎの背後に幽鬼のように立っていたのは、勿論あの青年である。挨拶なんてものは知らぬとばかりに、彼は無機質な紫の瞳で暮里を一瞥した。
「うん、この人は――」
 つるぎは青年が自分を病院に運んでくれたことから、彼に名前がないこと、何か用事があってこの学校に来ているらしいことを暮里に説明し、それから、
「この人を、放課後まで部室に居させてあげることって出来ないかな」
 朝練に顧問が顔を出さないことを見越して、部外者を校内に入れておけないか、という無茶な相談をした。
 部長という頼られるポストにいて、そういう役目に似つかわしい性格も自認している彼だったが、そのことと、校内のルールを破っていいかという問いに対して快く頷けるかどうかは別である。ちょっとこっち来い、と言って、つるぎだけを奥の水飲み場へ引っ張った。青年は黙って、扉の向こうに消える二人を眼だけで追う。
「なに?」
 つるぎが問うて、暮里はふうと溜息をつく。
「まあ、彼は美形だが」
「ばっ――」
「まあ聞け。――しかしお前、ちょっと、いや大分軽率なんじゃないのか。言わなくても気づいてると思うが、あれはどう見てもお前狙いだ」
「……つるぎとは関係ないって言った」
「いや、そもそも目的をきちんと話さないことが俺には怖いぞ。正当な理由があるんなら最初から堂々と学校の中に入ってくればいいんだし――たとえ本当にお前が目的でないとして、じゃあ何がしたいんだと」
 お前狙い――。つるぎは、そう考え決定づけることの軽薄さから、青年は倉嶋つるぎを追いかけてきているのではないかと疑う事を敢えて避けてきていた。それはひとえに、嵐山の指摘した通り、青年が顔と言わず肢体と言わず、格好良かったからだという部分もあったのだ。格好は奇抜とはいえあんな見栄えのする人が、自分に好意を向ける筈がない――自惚れを避けようという日本人的な性分が、自然と予防線を張っていた。
 そのことは理解した上で、行動したつもりだった。
 真実彼女が思ったのはただ、青年に一時、雨風を防げる場所を提供したいというそれだけの事。
 しかし今、その気持ちがほとんど暮里に対する交渉の材料にならないことに今更のように気づいて、つるぎは少し自分を恥じていた。何故か勢いだけで行動していたのだ。
「……」
 だから、少女は黙りこくることしか出来なかった。
 割合奥手な方とはいえ、男性にここまで弱いものかと自分の浅ましさが嫌になった。青年の異常な外見に言及しなかった分、暮里の筋の通った意見が輪をかけて理性的なものに聞こえてくる。
「……わかった、やっぱり無理だよね。帰ってもらう」
 暮里は一瞬だけ申し訳なさそうな顔をしたが、短く、そうしろとだけ言ってつるぎをたしなめた。
 だが、
「練習くらい見て行ってもらえ。剣術に興味がありそうな人だったしな」
 彼は仕方なさそうな顔をすると、つるぎの代わりに、部外者を長い間校内に入れておくことは出来ないという断りを青年に伝えに行った。
 やがて、二人の会話を傍で見守っていた背の高い女生徒が、暮里と入れ違いにつるぎのところへやってきた。
「おはようございます。体調の方はもう大丈夫?」
「あ、おはようございます……はい、大丈夫です。ご心配おかけしました」
 彼女が自然に敬語を使った相手は、一条という。手ぬぐいにまとめやすいようにと髪を短く切り揃えていたが、その口調にはたおやかな響きがこもっていた。ともすればお嬢様口調と受け取れるそれのために、つるぎに限らず、暮里を除いた他の生徒も、この女生徒と会話する時だけは敬語になる。
「そう、それはよかったです。でもまだやっぱり、練習に参加しては駄目なのですよね?」
「先生には――医者にはそう言われてます。だから今日は、見学だけしようと思って」
 それを聞き、一条は関心するように胸の前で手を合わせるようにした。
「なるほど、それは偉いです。早く復帰できるといいですね。――ときに」
 そしてあらあらうふふ、とばかりに、妙な微笑を浮かべた。
「意中の殿方とはいえ、学校へ連れ込むことは賛同しかねますよ」
 つるぎはその笑顔に凍りつく。先刻とは別段、彼女の表情に違ったところはない。しかし場の雰囲気が負のベクトルに向かって豹変していた。何かとても勘違いされているような気がしてならないが、その笑顔の前につるぎは、一条の発した言葉の意味を細かく汲み取るだけの余裕がなかった。
「う……それは……、無茶な願いとわかっていながら相談してしまいました、ごめんなさい」
「当たり前です。……心情的に全く察せないかというと、そうではありませんが、しかし――」
 そうして、彼女の独特な口調による説教が少しの間だけ続く。つるぎは低頭して、青年に軒先を提供することを完全に断念せざるをえなくなった。
 一条実夏梨(みかり)。男子と女子の垣根のないこの部で、副部長という立場にある彼女だったが、実質部長である暮里よりも偉いのは誰の目にも明らかだった。


 タン、タン、タンタンと、カーボン製の竹刀が断続的にかち合う音が、張り詰めた掛け声が、高い天井に木霊してゆく。
 硬いカーボン刀がなるべくぶつからないようにと高い位置に設けられた窓は一様に全開されており、爽やかな風を室内に取り入れていた。
 埃と木造建築のにおい。
 望星高校の剣道部は、大きな成績こそあまり残していないが、校舎が建造されたと同時――戦前よりもっと昔の、二十一世紀の初めからある息の長い部だった。戦中は剣術を身につけようという人が増え、部員も今の倍以上いたとつるぎは聞いていた。だが、今では女子の部員は彼女を含め五人(団体戦に出場できる最小の人数である)程度、男子も十二人ばかりでの、男女合同の練習風景となっている。
 その『平常心』と筆文字で大きくプリントアウトされた重たげな垂れ幕の下で、つるぎは正座し、青年は壁に寄りかかって立ったまま見学した。
 会話はない。これから追い出すはずの人に愛想を振りまくのはなんだか失礼な気がして、つるぎは練習に見入ったふりをしていた。先日助けてもらったというのに、こんなことになってしまったことに対して青年に引け目を感じていたが、友人達の手前、状況として浮いた存在の彼に、病院の時のように絡んでいくことは難しかった。
 青年も無論、練習を見ているのかいないのか、腕を組んだまま沈黙しつづけていた。
 やがて八時十五分をまわり、練習終了となった。朝のホームルームは八時半から始まる。
 暮里と副部長の一条が全員を集めて黙想をし、まとめの挨拶をする。暮里は、俺も含めた三年生は受験で忙しいかもしれないが、夏までは出来るだけ出席してほしいというような内容を喋ってから、こう続けた。
「気づいていた人も多いと思うが、今日は倉嶋の知人の方が来てくださった」
 青年は、つるぎに引っ張られてゲスト席――つまり全員が並んだその向かい側、暮里と一条の二人の隣に座らされていた。
 しかし紹介あれど、本人からの挨拶はない。軽い会釈すらもないので妙な空白が出来たが、暮里がそこにフォローに入った。
「彼は一昨日、倒れた倉嶋を病院まで運んでくれたんだそうだ。それで今日は、その後の倉島の様子が気になったので見に来られたんだとか」
 それを聞いた部員達は、怪訝そうな表情をする者半分、何か事情があるのだろうと勘ぐることを避ける者半分、という反応をした。
 これでいいんだよな、と暮里が目配せして、つるぎは、うんそれでいいの、と返す。
 様子が気になって見に来た、という説明も微妙なものだが、下手な嘘をつくよりもそれと思われる真実を並べた方がマシだと暮里が言ったので、つるぎもこの説明内容に異論はなかった。
 いずれも、青年が何を以って口を開くか全くわからない、そのための措置だった。
 そのことを身に染みて実感しているつるぎが頭を抱えたのは、次だった。
「それで、練習の方どうでしたか。貴方も剣をたしなんでおられるようですが」
 暮里は青年が装飾剣を持っていることだけを見てそう尋ねたのではない。
 勘だった。暮里は青年の擦り切れた瞳だけがものを言っているのを見た後で、その彼がついでのように装飾剣を持っているのを見、彼が何の経験を積んだ人間なのかということを大まかに推察したに過ぎなかった。確証はあったが。
 つまり単純に、本能のように、剣を振るう者として、剣を振るう者の意見を聞いてみたいと思っただけのこと。
 つるぎは、ああ訊いてしまった、と思う。何も答えが返って来ない確率が九割、興薄げな返答をされる確率が一割だと瞬時に予想がついて、いたたまれなくなった。
 だが彼の返答は、そのどの予想にも該当しないものだった。
 はたして、暮里の問いに、彼は答えていた。
「……護身にはなり難いだろう」
 刹那の沈黙。
 物憂げな、まるで見た目に見合っていない壮年の声。つるぎ以外の全員は一時、その声の出所が彼であることを疑った。だがそのすぐ後、そんなことが重要なのではなく彼の紡いだ言葉の意味の酷さが重要なのだということに気づき、騒然となった。
 青年がそもそも、部員達は護身のために剣術を学んでいるのだと理解したことに問題があった。それでは単なる保身――護りの意味で、部員達には実際、試合に勝利するためだとか、昇段の審査に受かるためだとか、大小の差こそあれアグレッシブな目的があるのだから。しかもその、護りの意味においてすら成り立っていないと云われたのだから、憤るのは当然といえば当然だった。
 そんなおかしな格好をしておいて、何を言いやがる――誰かが叫んだのを皮切りに、男子部員の数人が青年に掴みかかろうとした。
 それを、一条が静かに制止した。
 彼女は、止めに入らなかった暮里に抗議の視線を向けてから、
「戻りなさい」
 抑制のきいた声でそう男子部員に告げた。彼らは一条に気圧され、すごすごと元の位置に戻った。
 暮里も日和ったわけではない。ただ怒りを押し込めるのに必死であっただけで、彼は今もむっつりと押し黙っている。
「私を含めた全員はおそらく怒っています。――今の発言を取り消していただけませんか?」
 彼女を知る人が聞けば震え上がるような冷徹さで、一条は青年に尋ねた。全員がそれぞれ自分の中で感じた大小の憤りを忘れるほど、それは冷たかった。一番縮み上がっていたのはつるぎだった。
 が、
「取り消す必要はないだろう」
 無自覚にも、青年は完全に望星高校剣道部と敵対する構えをみせた。
「そうですか――わかりました」
 一条はちらりと時計をみた。八時十七分を指していた。
「では、皆さんは着替えて、ホームルームに出席する準備をなさってください。お疲れ様でした」
「一条先輩はどうするんですか……?」
 つるぎがおずおずと尋ねた。一条はきり、と彼女の方を向く。
「私はこれから、この方に日本の高校剣道を教えて差し上げようと思います」
「な……そんなの駄目です! 危険ですよ!」
 青年と一条実夏梨、どちらの身が危険だというのか、つるぎは自分でもわからなかった。あるいは両方だったのだろう。
 一条はつるぎの言葉を無視して青年に問う。あれほどざわついていた部員達は震え上がって、彼女の言葉に従順に従い、既に殆どが更衣室に入ろうとしていた。
「剣道のジャッジに則った一本勝負です――貴方が勝てば今日一日男子部室を提供致しますが、私が勝てば先刻の発言を取り消してください。異存ありませんか?」
 彼は何も返答しない。それを肯定と受け取ったのか、一条は置いてある自分の面の前に正座し、汗で冷たくなった手ぬぐいをもう一度額につけ始めた。
 是とも否とも云わない相手とみて、一条は無茶な交換条件を持ち出したのだった。それでも相手が答えを返さないのだから、もう無理矢理にでも対戦へ持ち込んでしまう他ない。そしてこの際相手の剣術の種別なども関係なかった。剣道のジャッジに則るなどというのは建前である。たとえクラスの点呼に遅れようと、なんらかの形でこちらが決定的な勝利をおさめるなり、相手に確とした腕前を見せてもらうなりの納得する理由が見つかるまで、退くつもりはなかった。
 一人状況に取り残されたつるぎが、泡を食いながら訊く。
「こ、この人の防具と、竹刀は」
「――暮里くん、借りても構いませんよね? それと奈良橋くん、倉嶋さん、副審お願いします」
 剣道の審判は主審一、副審二によるその瞬間での多数決と、打突が決まったかどうかを確りと把握出来なかった際の棄権の数を加味して行われる。言わずもがな主審は暮里である。更衣室に入り遅れた二年生の奈良橋は逃げ損なって捕まり、大人しく紅白の旗を取りに奥へ消えた。
「鎧はいい。その模造の剣だけ貸せ」
 青年が言い、暮里の竹刀を求めるように手を差し出した。暮里は黙ってカーボン刀を青年に握らせた。
「では、私は突きは避けましょう」
 一条は初めて青年の意思がみられたことに獰猛な笑みを浮かべ、しかし事務的に返した。
 事態は最悪だった。
「先輩、やっぱりやめましょう! 防具なしで決まったら、喉でなくても怪我しちゃいますよ!」
「でしたら全て剣でいなせば良いだけです。そもそもそれが、彼が私に敗北しないための最低限の方法です」
 手ぬぐいが乱れないように面をゆっくりと被り、紐の位置を調整し、ぎりと頭を締め上げるように面紐を引くと、それを後頭部で結わえ始めた。
「それならつるぎは審判をやりません。……こんな馬鹿な試合には手を貸せません」
「いいでしょう、それでは倉嶋さんは隅で小さくなっていてください。――暮里くん、紅坂くんを呼んで来てくださいますか?」
 一度二度、一条が軽やかな音をたてて叩くように引っ張ると、面紐の結び目は固く締められた。
「わかった」
 彼女の言葉に暮里は頷いた。
 状況は強制的に進んでゆく。一条は気の済む結論を見つけない限りやめないだろう。最早どうすることも出来ず、つるぎは傍観者となり下がるしかなかった。
 危険を感じたら割って入ってでも止めようと固く誓って、自分の竹刀を脇に置き、試合を行うスペースのすぐ傍で見守ることにした。
 暮里が紅坂を連れてきた。
 やがて用意を終え、白いラインで区切られた場外で、長身の二人が対峙した。
 片や、西洋の騎士物語に登場しうるような様相の真白の剣士。その手には、その身なりにおよそ似つかわしくない竹刀だけが握られている。
 片や、腰の細いたおやかな女流剣士。面から垂れまでの防具を全てきちんと着装し、万全の体制で試合に望む構えである。
 剣道の試合開始時の体裁がわからない青年は、竹刀を片手にぶら下げたまま先に、互いが剣を交えることの出来る中心まで近づいた。ルールとしては、互いが同時に、相手に合わせるように竹刀の先が触れる程度の位置まで歩き、そこで審判の合図によって試合開始となるのだが――自然、相手に合わせずとも場内の適当な位置まで足を進め、それ以上近寄ってはならないと青年が判断したのは、やはり理屈ではなく間合いというものを理解しているからに思えた。
 その事実にも微動だにせず、一条はすり足で歩を進め、左手に握る竹刀を両手で中段に構え、一度中腰となってから立ち上がり、剣線を青年の喉へぴたりと固定した。本来ならば、この一連の流れを互いに行うのである。
 構え終え、あとは仕合うのみとなった二人に、主審の暮里が言った。
「最後に確認するが、一条は強い。貴方に依存はないか?」
 普段くだけた喋り方をする暮里が硬い口調なのを聞いて、つるぎは震えた。
「ない。早々に始めるがいい」
 青年は簡潔に答えた。その間、視線は面金の中の一条の瞳に固定していた。一条も、その紫の瞳を真っ直ぐ見返していた。
「わかった。それでは、一本勝負――」
 一条の全身に力が満ちる。
「――始め!」
 開始と同時に彼女は打って出た。竹刀を本当にぶらさげて、携えただけの格好の青年に防ぐことは叶うまいと、涼やかな掛け声と共に全速で面を狙った。
 だが、青年はそれを体裁きで回避する。そして鍔迫り合いに持ち込まれまいと、身をひねっていなすようにし、彼女の背後へ円に回り込んだ。
 ふらふらとした戦意のみられない、しかし流麗に過ぎる動き。一条は流石に戸惑ったが、背後にいる敵、その打点たる脳天の空間座標を精確に頭の中に思い描くと、身のひねりと共にまたも面を繰り出した。
 それを此度は、青年は片手だけで操る竹刀でいなし落とす。
 そうした一条による攻戦一方の展開が、驚くほど長く続いた。
 しかし青年はくるくると、その全ての打突を巧みにかわし続け、ときに竹刀で受け止めた。
繰り返した動きはいつかパターン化する。そのパターンを染み付かせ、初撃を囮とし二撃を本命とするという方法も一条は試みたが、かわす事に拘らない青年はそのことごとくを手に持った竹刀であらぬ方向へと弾いてゆく。
 本来ならば青年はここで、戦意がないとみなされ審判に注意を受けるところだった。が、彼のそのおかしな動きから、最早他流試合の装いを呈している。暮里をはじめ審判の三人は誰も口を挟まず、苛々しながら彼の余裕に満ちた回避劇を見つめていた。
 ――拳闘に於いてそうだが。空振りというのは、行った者の消耗を著しく促すものなのだという。
 そして竹刀と竹刀での戦いに於いて、空振りという事態はまずない。互いの竹刀で受け止め、ひねり、払うことはあっても、打突を繰り出した先に何もないということはほぼありえないのである。竹刀で防御を行った方が、攻めに転じるにあたって効率が良いからである。
 開始三十秒ほどで、既に一条の疲労は重たいものになっていた。練習の疲れもないわけではない。敵が消耗を狙ってきているのは火を見るより明らかだった。
 だが、それを実現させているのは、一条の鋭い打突を必ず回避することが出来るという絶対の自信の筈である。彼女はそのことに気づき、いたくプライドを傷つけられ、以上に頭に血を昇らせた。
 この青年は、基本打突の反復から模擬試合までという、練習の一部始終を見ていた筈だった。
 だから彼は知っている筈なのだ。故に思う。
 防具をつけないと敢えて宣言したことは、挑発だったのか?
 審判がおり、ルールに則った試合という場において戦意を見せないことは問題であると知っていながら、剣術のスタイルそのものが違うということを見せることで、そのリスクを計算して避けたというのか?
 一条はまずい、と思う。眼前でカトンボのように翻るこの男が、異様に頭に来て仕様がない。
 元々感情を抑えるのは得意だったし、冷静に物事に対処することは好きだった。だが今彼女は、練習の疲れで様々な制御が利かなくなっていて、かつ、『青年が回避という比較的楽な立ち回りで自分を貶めている』という感情的な観念が頭にこびりついて離れず、我を見失いかけていた。
 互い、隙というものは、殆どの場合攻める時に発生するものである。そこをこそ狙い、殺すのだが――戦闘に於いて防御というものは、相対的な成功回数が遥かに攻撃を上回る。故に、防御という簡単な行動を成功させ続けるだけで攻めの構えすら見せず、あたかも自分の方が上だと思わせていると取れる青年の態度が、一条には非常に腹立たしかった。
 だから彼女は忘れていた。攻撃の一度の成功が、勝負の全てを決めるという至極当たり前な現実を。
 忘れていたから、感情に任せた、甘い蜜のような攻撃を一つ、青年に繰り出していた。
 青年はそれをゆっくりと、空いた手の甲で受け止めた。そして言った。
「ここは小手というのだったか。――お前の勝ちだ」
 わざとそうして受け止めたことは誰の目にも明らかだった。もう興味もないと、紫の瞳が冷たく告げていた。
 一条はその、隠された言葉を確かに聴いて愕然とした。
 だが、審判という立ち位置上、二人の間に流れる空気を感じ取れない暮里が口を挟んだ。
「一条の打突は面を狙っていた。小手を狙う意思はない、だから――」
「真剣であれば私の左手は終わっている。それで十分だろう」
 やはり興薄げに言い、青年はつるぎを振り返ることもせず、竹刀を放って出口へと歩きかけた。が、
「お待ちなさい」
 一条がそれを制止した。彼女は肩で息をし、力なく剣を握っていた。そして悲しい悔しさが――全身に滲んでいた。
 けれど誰にも弱さを見せることのないようにと、
「約束通り、放課後まで男子部室をお使いになって構いません」
 強い声で言った。
「――私の、負けです」
 青年は何も答えなかった。
 試合はあっけなく結末をみた。
 彼はただ悔しさに身を震わせる少女を一瞥し、手を胸に当てて礼をすると、部室のドアの方へ歩み寄って行った。
 部員はいつの間にか全員が格技場を後にしており、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。

                ◆

 予報通り、その午後の望星市はまた雨模様となった。
 雨が降り出した頃、つるぎは四限の現代史の授業を受けていた。歳若い、二十代ともとれる女性教師が教壇に立って、朗々と説明する。
「――そうして十五年前の二○五二年、連合国から合衆国に派遣された視察団員の一人が暗殺されるという事件が起こったのです。これをラガーディア暗殺事件と呼びますが――」
 彼女はその講義を聞くでもなく、暗く泣き出した窓の外を眺めていた。
 教壇のところに黒板というものはない。毎回、教師が事前に用意したデータを生徒一人一人の座席にあるモバイルに表示し、それを授業専用のソフトを用いてキーボードで打ち込みメモを取るという方式が取られていた。生徒間の授業情報のやり取りはやはり小さなデータデバイスで行われるのだが、何故かそれを「ノート」と呼ぶ習慣があった。
「――では、何故連合国は視察団を派遣したのかというと、それは合衆国が大規模なエネルギーの買占めを行っているのではないかという疑いがかけられていたからなんですね。既にその年、今と同じように、世界的に鉄鉱石と化石燃料の不足は叫ばれていたし、世界に占める合衆国の大気汚染の割合が大きかった事も問題視されていたからです」
 つるぎは見るでもなしに、グラウンドの向こう側、体育館の隣にある格技場の方を見ていた。
「そして、暗殺を行ったのは個人ではなく国だったという事がその後の調査でわかり、合衆国の信頼に陰が差します。私はその時十六歳、皆さんと同じ高校生で、帝都の隣県に住んでいたのですが、本当にその年は激動の年だったと言っていいと思います。先進国同士で結ばれていた星の数ほどの同盟や条約が断ち切られて、結局EU諸国と合衆国の戦争にまで発展したのです。それが十年前、二○五七年のことでした」
 一条先輩はどうしたろうか、と思う。いや、あの人は強いから、強くあろうと思うだろうから、落ち込んだ素振りなんて見せないのだろう。だがそれと、受けた実質のダメージというものは別だ。少女が心配したのは無論そちらのことだった。
「さてそこで、日本はどうしたかというと。端的に言えば、皆さん知っての通り合衆国に味方しました。というよりは、する他ありませんでした。当然ですね。様々な決まりが崩れたとはいえ、日本にはまだ合衆国の基地がいくつかありますから」
 どうして彼はあんなことをしたのだろう。
「――ですが日本は、やはり戦争を行わないことを誓った国家です。先週お話しした、太平洋戦争以来の合衆国による後進国攻撃のときと同じく、我が国は軍事支援を行うにとどまりました。――いや、とどまるという表現にも欺瞞があるのかな……戦争を止めることは無理でも、戦争に手を貸さないという選択肢を選ぶことも、可能ではあったのですからね。勿論そんなことをしていたら、日本は色々な意味で不利な立場に立たされたのでしょうが」
 意図は無論、いつものように、自分の想像する域にないのだろう。
 模擬戦の最後で、あの二人の間に流れた妙な雰囲気。それを読み取ることの出来なかった自分には、一条がどれほど傷ついたかも、青年が何を彼女に伝えたくてそうしたのかということも、知る資格などないのだろう。
「支援を行うにあたって、日本は悩みました。対内外への体裁のためでなく、非戦国としてどうすべきなのか考えました。戦争を止められずとも、血を流さない方法は何かないものかと試行錯誤したのです。その結果考えられたのが――」
 当事者だったというのに取り残されてしまった――青年に関する嫉妬にも近い感情が、少女の心を少しだけ占めた。
「――高度な作戦行動が可能な、人工脳と機構身体による生体兵器の開発、そしてそれを戦地へ提供することでした。人間同士の戦いなど誰も望んでいないはず、そうある種の打算を持ったんですね。当初は様々な議論を醸しましたが、それを実現する技術だけは既に十五年前には確立されていました。初期に五十機を投入してから、瞬く間にそれはポピュラーになっていったのは教えるまでもないことでしょう。――身近にそうしたアンドロイドが珍しくなくなるのも、遠い未来の話ではないかもしれません」
 すまし顔を少しだけ赤らめる。馬鹿なことを思ってしまった。
 と、そこで終了のチャイムが鳴った。途端、パーソナルコンピューターに映っていた板書が消え、つるぎははっと思索の輪から引きずり出されて画面を見、座席に座ったまま右往左往するという器用な仕草を見せた。
「それでは次の時間は、終戦までの流れをレクチャーします。復習お願いしますね」
 女性教師はそう言い残し、さっさと教室から出て行った。
(なんて馬鹿な子なんだろう、この私)
 少女が思っても、六月二十日の四時限目という時間が戻って来ることはない。今はもう昼休みだ。
 若者らしく時間を湯水のように使ったところで、そう使ったなりの、うじうじと思い悩んだなりの成果を出さないわけにはいくまいと思って、彼女は部室に居るはずの青年の様子を見に行くことにした。
 ノートはやはり元木唯に頼る他なさそうだと憂鬱になりながら、クラスの友人に捕まる前にと、差し入れを買いに購買部に走る。どうせ何も、彼は食べるものなど用意してはいないだろうから。
 一階の外れまでの足取りが妙に軽かったことに、彼女は気づかなかった。


「あ、来た」
「なんてこと、本当につるぎ来ちゃったよ」


 顧問には格技場に忘れ物をしたと嘘を言って鍵を拝借し、つるぎはそれを使って扉を開けた。格技場の中に男女の部室があるので、一繋がりになった鍵束の中に必要なものは全て含まれていた。
 普段、その入り口の軒下のスペースで女子部員がたむろしている。一番の心配は、そこに居る連中に見つからないかどうかということだったのだが、今日はそこに誰もいなかった。ほっと胸を撫で下ろした彼女は、いくつかの差し入れは胸に抱いて、自分の分は袋の端をくわえて、普段立ち入らない男子部室に足を踏み入れた。
「……お邪魔しまぁふ」
 唇を閉じているためもふもふとおかしな響きになったが、一応の挨拶をする。
 ばたばたとうるさい雨音を聞きながら木製の引き戸を開け、蛍光灯をつけると、正面に四角く区切られた背の高いロッカーが浮かび上がった。そしてその脇に、胴着を干したハンガーがある。構造は女子部室と同じだった。防具類は格技場の床に並んでいるので、ロッカーの中には今は何も入っていない。予想よりも整頓されていて汚い感じはしなかったのだが、流石にハンガーから漂う匂いはあまり快いものではなかった。
 そしてハンガーの反対側、壁にもたれて青年は座っていた。表情を変えず、目の動きだけでつるぎの方を向いた。
「や、驚かせちゃってごめんなさい。お腹空いたでしょ。食べません?」
 袋を開けてカレーパンを差し出し、彼女は彼の斜め前、ロッカーにもたれて座った。
 素直に受け取ったくせに、彼はありがとうとも言わず、片手で持ってそれを噛み千切った。
「おいしい?」
「――ああ」
 それを聞いて彼女はほっとし、自然と顔を綻ばせた。無論自分で作ったものではないが、渡したものが美味しいと言って貰えれば嬉しい。お礼の言葉などなくても、それが聞ければ問題はなかった。
 自分の分のカレーパンも開封して、つるぎも黙々と食べた。女性らしく食事時に会話をしたいタイプではあったが、相手がそれを望まないだろうと思ったので、本当に黙々と。けれど痛々しい苦痛は前より和らいでいたと思う。これがこの人物の自然体なのだと気づき始めた――単なる思い込みであるかもしれないのだが――せいかもしれなかった。
 普段購買で昼食を済ませる時は、おにぎりだのパンだのを数個買って昼食とするつるぎだったが、今日はその二つ分を青年に割いた。自然、食事の終りは早かった。
「今日」
 零れ落とすように少女の唇が動いた。青年は衣擦れの音と共に少し身じろぎをして、つるぎの方を見た。
「どうしてあんなことしたの」
 難詰するような口調ではなかったと思う。
 そも、感情のまま試合を持ちかけた一条に彼女は反対したのであるし、それ以上に――青年が始めて人間らしい意志を表した事に、失礼ではあるが自然な疑問を感じていたからそう尋ねただけだ。
「さあな。……わからないということは私の意思ではないのだろう」
 言葉遊びではない。彼は事実しか話さない。
「そうなんだ。よくわからないけれど」
 飄々と彼の言葉を額面通り受け止めると、つるぎはまた尋ねた。訊いてばっかりでつるぎ、うざったい女の子だなあと苦笑しながら。
「今日はどうして学校に来たの?」
 青年はやはり、その問いには答えなかった。
「はあ、平和ですね」
「……」
 少女は響く雨音がうるさくなる前に、退屈だと愚痴る代わりにそうのたまった。
「だってそう思いませんか。つるぎが小さい頃は、人同士が殺しあいをしていた時代だったんですよ。覚えていないけれど。――だから今こうして、なんにも喋ってくれない人を相手にして、うんうん唸って、何喋ったらいいのかな、なんて考えていられることは幸せだと思う」
「…………」
「うん。だから白さんも、そんな眉間にしわ寄せてむっつりしてることないんだよ? 今は幸せ、平和な世の中なんだから」
「………………」
「あああやっぱりつっこまれなかった……。白さんていうのはあなたの呼び名。真っ白いから白さん。剣士さんでも別に良かったけれど」
「……………………」
「なんで白さんの方を選んだかっていうとね? なんだかそっちの方が可愛かったから。剣士さんだとなんかこう、知らない人が聴くと馬鹿にしてるみたいな感じに聴こえ」
「私の目的は」
 安穏とした言葉を遮って彼は云った。
「十年前に倒し損ねた男を、必ず殺すことだ」
 生涯の目的を。
 紫の瞳には、その持ち主の内側から何者かの姿が投影されていた。
 周りのものなど何も映らない。他のことなどどうでも良い。歩くときも、食事をするときも、呼吸をするときも、彼の脳を占めていたのはその男の事だった。
 ただ一時、そのこと以外のノイズを感じそうになったから、それを追い払っただけのこと。
「逃がしはしない」
 その言葉は誰に向けて言われたものなのか。
 つるぎにわかる、はずもなかった。ただ寂しそうに口をつぐんで、青年のことを見つめることしか出来なかった。
「ごめん、なさい」
 そして、調子に乗って嬉々として喋ったことを詫びた。何に対して謝ったのか明確にはわからなかった。
 頑丈なトタン屋根を叩く雨音が、いやに大きく聴こえた。


「ちょ、あんたつけてきたの? つるぎのこと」
「覗き犯に弾劾されるいわれはないわ。――だってあの寂しがりが、お昼御飯一人で済まそうなんて思う筈ないもの」
「のぞ……声しか聞こえてないっていうの。それにあんたも共・犯」
「けど彼、見た目通りすっごい電波さ――あ」


 なにをなさっているのですか。
 男子部室の壁一枚向こう、水飲み場から一条の声がして、つるぎは冗談でなく飛び上がった。
 だがその一瞬後、自分は特段何も悪事を働いていないことに気づいた。彼女を打ち負かした青年に食事を運んでいたが、一条実夏梨はそんな事を咎めるような陰湿な人物でないはずだ。
 水飲み場からまた、聞き覚えのある別の声で必死に謝罪するのが聴こえた。嫌な予感がして素早くそちらを覗くと、案の定、
「あ、つるぎ。やほ」
 普段格技場の軒下で昼食を摂っている数人が、勢ぞろいしてそこに居た。ついでに何故か、一人だけ堂々とした態度の元木唯も。青年が今日一日男子部室に居つくことになった噂を聞きつけた女子部員達は外でつるぎが来るのを待ち伏せし、唯は不審な行動に出たつるぎの後をつけ、彼女が格技場の鍵を空け男子部室に入った後、こっそりその隣の水飲み場に忍び込んで聞き耳をたてていたのだった。
「や、や、や」
「や?」
「『やほ』じゃない!! いつからそこに居たの!?」
 つるぎは真っ赤になって激昂した。しかし特段の迫力がなかったので、覗き犯の一人がぬけぬけとそれに答える。
「いつって多分、最初から?」
「馬鹿ぁ――――っ!!!」
 己に内在する酸素の限りに叫んでから、少女はくらっと四つんばいになって落ち込んだ。こんなコメディみたいな現実が、よりによって自分に降りかかったことを末代まで呪おうと思った。何の末代なのかはわからなかった。みんなきかれてたすべてきおくされたぜんぶ、とぶつぶつ復唱する。
 一条がそれを見、ぷっと吹き出した。笑ってはいけないと思ったが、止めることが出来なかった。
「あれ、そういえば」
 その笑いを聞いて、女子部員達がぴんっとある事に気がつく。
「一条先輩はどうしてここにいるんですか?」
「あ、それはですね。この方に差し入れをと思いまして。今朝の私の非礼を、お詫びしたいところでしたから」
「つまり先輩も抜け駆けなんです……ね」
 唯が飽きれたように指摘する。
「うふふ。まあ、そういうことですね」
 しかしそのことを悟られても動じないのは、年長の貫禄というべきか。
 一条は、彼のことについて、やはり心のどこかでそのおかしな外見で判断していたと結論づけ、午前の間ずっと自省していたのだった。
 結局その昼休みは、格技場の板張りの床の中心で、それぞれの弁当とかパンを持ち寄って小さな昼食会が開かれた。
 既に自分の分を食べ終えていたつるぎも、慰められながらそのおこぼれにあずかった。涙で視界が滲んでいたので、パンを渡してくれた唯の姿はモザイクがかかったように見えた。
 一人男性であった青年はからかわれて、箸でつまんだ卵焼きを「あーん」させられたのだが、それを難なく食べた。それに可愛い可愛いと反応した女子部員達につるぎは何故かむすくれ、唯が呆れ、一条が微笑ましく思って微笑む。
 外は寂しいだけの雨が降り続いていたが、会食の様子はほのぼのと温かだった。


 けれど、それは、相手が何をしているのかということに特段の興味はなかった。寧ろ、油断した所に現れる方が有利というものだったが、目標物の傍に居る騎士が油断をすることはなかったし、それに――それ自身が機を読むという利口さを持ち合わせていなかったのである。
故に容赦なく現れた。
 グラウンドの中央付近の中空に、捻れ、滲み、曇天を背景に広がりつつある闇色があった。







 三.


 一方、某所。
 そこは病的なまでに清掃されていたが、堆肥めいた薬品の臭いがひどく鼻につく室内だった。デスクの上には物々しい電子顕微鏡が並び、部屋の隅では最新の遠心分離機が低い音をたてながら稼動している。誰かが観察や実験のまとめをした無数の書類は、別室の暗い棚の中で眠りについていた。
 そこは倉嶋恵子の職場である。しかし彼女が今行っているのは、仕事とは別の個人的な作業だった。
 白衣を着、取り回しのし易い丸椅子に腰掛けて、普段使わない眼鏡をかけ、レンズの二つある左右の視界を動かし視認物を立体的に捉えるタイプの顕微鏡を覗いていた。
 そのシャーレ上にあり、観察されているのは、小さな黒いかけら。
 それは恵子が、つるぎが入院していたあの病院の病室に落ちていたのを拾って来たものだった。元々はもう少し大きかったのだが、今は観察し易いように割られ、小さくなっている。既に硬化しきっており、また何故かその表面が炭化していたので、観察出来る大きさと状態に加工するのは少々難儀だった。
 詳しく言えばそれは、あの時あの青年の白い衣装に付着していたもの、それが病室で落ちたもの――何らかの手段によって『殺害』されたはずの、あの黒い球体の怪物の破片だった。
「――これは」
 その実体をレンズで捉えた瞬間。
 仕事中、どれだけ一人になろうとも、決して独り言を漏らさない彼女が呟いていた。
 恵子は、その欠片があの怪物を構成していたということを知らない。
 けれどそれは彼女にとって決して忘れることのできないもの、しかして今は未知のものだった。彼女が口の端にひきつった笑みすら浮かべて戦慄したのは、熟知していて、しかも失われた筈のその組織がいつの間にか――おそらく終戦から今までの間にだ――見たこともない状態へと変化していたからだった。
 否、あれは表面が炭化していた――ということは熱でタンパクが変質したか? それも否だ。表面を焦がす程度の温度で、あの組織の殆どが変わったりはしない。
 ……恵子は最初から、あの白い青年が述べた『つるぎが転んだので病院に運んだ』という証言を疑っていた。気がついたつるぎに「何があったのか聞かないのか」と問われ、知っているぞとばかりに青年に聞いたままの事情を説明したときも、何気ない素振りを取り繕った裏で、身内として真実をつるぎ本人の口から聞きたい気持ちで一杯だった。
 義妹が何故失神したのかということまではわからない。あるいは、その頭痛が原因であることは真実なのだろう。しかし、転倒して怪我を負ったという部分にははっきりと嘘がある。
 気持ちを落ち着かせるために一つ深呼吸をし。
 そこで恵子は、隣室へ移動した。休憩時間を潰して顕微鏡を覗いたので、一息つこうと思ったのだ。
 そちらの個人デスクが配置された部屋は、整然とした実験室とは裏腹に、最低限の器具が置いてあるほかは手付かずのレポートの山であり、雑然としていた。何人かで泊りがけで使用したりする場所なので、個々の嗜好品――家族の写真やキャラクターものの可愛らしい文鎮など――が所々にあり、多少の生活臭すら漂うといった風情である。
 安っぽいコーヒーメイカーから自前のマグカップに中身を注ぐ。半分閉じたアルミサッシから外の夕日を眺め、立ったまま一口だけすすった。航空自衛隊に所属し、入間の防衛戦で死んだ父親が吸っているのを見るのが好きだった記憶があるが、彼女自身は煙草はやらない方だった。紫煙が死を招くのだという固定観念が、染み付いていた。
 アナログの壁掛け時計が、五時半頃を差している。
 思考を整理しよう。
 そもそもにおいて――あの剣には見覚えがある。
 実際、見覚えがあるどころの話ではなかったが、自分と深く繋がりのあるものだということを認めるのが忌々しかった。今更自責したいとも思わない。
 そして、ああ、あれを剣と呼ぶことは間違っている。間違っているのだ。あれを開発した日本の科学者達が、『戦う道具の象徴』として、また『EU諸国側への見かけ上のあてつけ』として、その形状を中世の西洋で使われていた十字両手剣(クレイモア)の形状を真似てデザインしたにすぎないのだから。実際には、標識灯とエアインテーク以外は、あれの外見など如何とでもすることは出来た。
「――安易な平和の生み出すもの、か」
 額をごつりと窓に当てる。それはその時の状況に参りかけている時の、妹と共通の癖だった。
 そうしながら、科学者の癖になに詩的表現を使ってやがるこの私、と自分を叱咤する。参るのにはまだ早すぎる。けれどその言葉は実に正鵠を射てもいた。

 ――『失われた筈のあの兵器を所持していた青年が、何者なのかということはともかく』。

 既にすべき事はわかっていた。
 残りのブラックコーヒーを一気に飲み干すと、続けて二件の電話番号をダイヤルした。

                ◆

 昼休みが終わる。
 予鈴が鳴った丁度その時、青年が何かに気づいていた。
「来たか」
 ご馳走様でしたなどと云う筈もなく、剣を携え、微塵の未練も感じさせずに突然格技場の外に走り出る。
「あ、え? ちょっと」
 当惑した少女達は目だけでそれを追い、つるぎはそれを脚で追った。
 そして――何故かその時また、じわりと頭の芯が痛んだ。この前と同じような、どこかいやらしい痛み。
 すぐに歩くことも辛くなった。それだけはこの前と違い、痛みの激しさの増し具合に容赦がなかった。
「なに、これ。また――」
 板張りの床を歩き、格技場の玄関で靴を履いたところで、痛みに思わず膝をつく。
 広々とし、地平を雨にぼやかされたグラウンドの右手に校舎がそびえている。手前側が旧校舎、奥が何十年か昔に増築された新校舎。しかし若者の数の急激な減少に伴って、旧校舎の方は今はもぬけの殻である。そして膝をつく彼女のその背後、格技場の廊下に繋がって体育館がある。体育館は旧校舎と屋根のついた通路で繋がっていて、建物は全体としてL字型をしていた。 
 今はその全てが雨に叩かれ、ほの暗く淀む。
 青年はそんな情景を背負いながら、彼女の様子も知らぬげに、既にそれと対峙していた。
 まだ格技場に近い位置にいる彼との距離は、四十メートルほどあるだろうか。つるぎが見上げた時、グラウンドの中心近くの空中に、バックの雨雲の灰色より尚重たげな暗黒色の粒子が無数に現れており、それが中心に集合して何かの形を形成しつつあった。
「あれって。……まさかまた……」
 白色の騎士はそれを見て、遠慮や容赦、先触れの一切もなく、その中心に向かって手に持つ剣を投擲した。
「ちょっと待っ……!」
 膝をついたままそれを目視したつるぎは、思わず制止の言葉を放つが、遅い。
 腕力以外の何かの力をも乗せられた剣は、四十の距離を刹那に喰らい、壮絶な速度と自重を伴って、収束しつつある闇を狙い通りに、切っ先から柄頭へと貫徹した。闇はもう一度粒子へと戻り、渦を巻くように流れてから四散する。
 剣はあり得ない弧を描き、騎士の手へと戻る。
 しかし散った粒子達が、ざわり、と。まるでそれが総体として意思を持つかのように全体で脈動すると、波濤として騎士と少女へ向かって殺到した。
「――っ」
 騎士は眼前に右掌をかざす。
 少女は頭を覆い隠してうずくまる。悲鳴をあげる暇も与えられず、中途半端な呼気を漏らしたのは彼女だった。
 雨音など瞬時にかきけすほどの、無限に中身の入った砂袋をぶちまけるような音。
 白色の騎士が手を突き出した先の宙、黒い剣が腹を見せて恐ろしい速度で回転し、粒子の津波を受け止め、防いでいた。
「倉嶋つるぎ、退け。この黒い流砂はお前を狙うモノだ」
 釣りは外れだったがな――と騎士は少女に聞こえないように呟く。そこに在り得ない何者かの影が黒い波に過ぎり、消える。
 この対峙のみが彼の目的。
 この化物達を使役している者の狙いが倉嶋つるぎという人間だと知ったのは、無論あの時。場あたり的に捜索をしていて、ようやく気配を辿って見つけた『それ』が人間を襲っていたので、結果として『それ』を倒すことがその人間を助ける結果となっただけの時だった。以来彼は少女が狙われていると気づいていながら――気づいていたからこそ野放しにし、相手側に己の存在を悟らせないよう行動したのだった。
 まさにそれは、少女を餌とした釣りに違いなかった。
 故に彼は、どんな理由で彼女が狙われているのかなどということに、一片の興味もない。
 少女は、怯えきった表情で異常な光景に目を見張る。彼の、退け、という言葉が聞こえていたが、その場から動けなかった。そして黒い粒子は弾かれた先から二人の三間先の位置に収束し、先刻と同じように形を作り上げてゆく。
 それに反比例して黒の奔流が薄くなり、吸い込まれて去り行き、終わる。剣は軸が折れ解き放たれたプロペラのように一度宙に浮くと、曲芸のように柄を捕らえられ持ち主の手へと収まった。
 騎士が脇構えに似た体勢に落ち着くのと、粒子が元の姿態へ戻るのとは同時。
 そいつが成した肢体の全身は黒。そして人型の、巨人だった。並び聳える校舎の、二階程度の高さがある。両腕は刃物らしき形状に変態し、頭部と思われる箇所に紐状の物体が何本も生えていた。あれを頭髪だとするのなら、ドレッドのようにも見える。視覚を必要としないモノなのか、これに眼球は見当たらなかった。
「陳腐だな」
 そう言うな、と返答が――造り上げるのにも苦労するのだ、と余裕に満ち満ちた言い訳が――彼の耳には聴こえた。
 無論幻聴。
 彼が心から葬りたい男はここに現れない。どれほど手駒を割く気なのかは知らないが、まだ当の本人は現れない。
 だが断片だけは見つけた。騎士の宿敵たる男の、これは分体。
 外れは外れ。これを手がかりとした気配をもう一度辿り地道に周到に追跡して、そして殺す。或いは少女を餌にし続けていつか奴をおびき出し、そして斬り捨てる。そう、これ以降の方針を二通りに絞った。
 方法は単純で長期的。堅実な作業に違いない。
 故に、その中途での敗北などあり得ない。そも、考慮の内にない。
 黒い刀身の表面を斬撃と硬化の源たる薄い力場で覆い直し、騎士は白い箒星のように翔けた。会戦の合図などという流暢な断りは無論なく、そして少女の方を振り返らずに。
 己を見下ろしてなお高すぎる位置にある首を一太刀で落とさんと、一蹴りでその高さまで到達し、横薙ぎに剣を振り払う。しかし左の刃物に阻まれる。合わさった獲物を弾き、巨人の胸板を蹴って距離を置くと、騎士は間髪居れずにもう一度折り返し跳んだ。
 彼は今度は、剣を宙で操るようなことはせず、柄を確実に握り、渾身を以って巨人と切り結んだ。相手も刃物使いなのだ。敵の持つ一対のそれに不足はあり得ず、自身に漂う慢心もあり得ず、この対処は当然だった。
 刃と刃が弾け、鉄と鉄が擦り合わされる音声が雨天に鳴る。
 ほの暗い大気に明るい火花が明滅する。
 巨人の動きは騎士のそれに比べていささか愚鈍だったが、頑丈さは生身の人間の比にならないようであった。フェイタルな剣戟はより硬度の高い刃の部分で受け止められ、浅いものはその体勢を崩す一要素にもなりえない。


 そして戦いの音色は、既に昼休みを終え、午後の授業となった各々の教室の中へ、そして淡々と庶務をこなす教師のまばらに残る職員室へも届き、
「なんだありゃあ!?」
 その気だるく陰鬱な空気を引っ叩いていた。
 外は暗く空気は湿り、昼間だというのに蛍光灯の明かりを点けられた室内に、その慟哭と衝撃は波紋のように広がった。
 三階にある三年一組の教室、昼食で腹が膨れ、その眠気のせいで今ひとつ授業に集中出来ないで居た男子生徒がいた。外がうるさいなと、半眼でふと窓の外を見る。
 そこに、ブラウン管越しに見れば楽しめるような幻想が広がっていた。そして彼は、先刻の叫び声を上げたのだった。
 すまし顔をしてモバイルに向かっていた生徒の殆どが彼の方を見、窓際の何人かは彼の視線の先を見てどよめき、窓際と廊下側とで驚きの差を広げた。その差を縮めたのは、最初に驚きを見せた彼の、
「そ、外だ! 校庭で誰かが戦ってる!」
 という台詞だった。
 『戦ってる』。その言葉の指すその状況での意味が理解出来ず、廊下側に居た活発な男子の一人が、席を立って窓の方へと動いた。教師は勿論それを止めた(外の状況がどうであれ止めたのだろう。因みに教師は外の状況をその時まだ知らなかった)が、興味を持った何人かが同様に席を立ったため、その流れを止めるに至らなかった。
 戦うという言葉は何たるを指すか。人同士の喧嘩ならばわかる――この教室に居る全員は、それを見たこともある。
 そしてしかし、教室の中の全員が、見た。
 雨天の下、純白の衣装と毛髪の騎士が、漆黒の巨人と戦っている様を。


 繰り出される刃を空いた拳でいなし、騎士が剣を振りかざす。それを弾かれ、その暴力に振り回されるままの勢いを利用して乗せ、更に筋力以上の力を上掛けした踵を繰り出す。およそ無茶苦茶、されど傍から見れば拮抗したその状況は、しかして生身の人間の身体を持つ騎士にとって、一打一斬の被害がまさに必死だった。
 故に、騎士は切り札を持たない。彼のイニシアチブはその速度だけ。殴る蹴る斬り捨てる、その内のいずれかの手段ならぬ動きで敵を粉砕する――。その事だけを頭で、雨に嬲られるその身体で反芻する。
 いつ動き出すのかもわからない力は考慮に入れない。
 ――今はそれだけ。


「く……う……」
 蚊帳の外。つるぎは脳髄の割れそうなほどの頭痛をおして、身体を起こそうとしていた。
「大丈夫!?」
 流石の唯が顔色を変え、靴を履く間も惜しいとばかりに、つるぎに駆け寄った。
「――……」
 しかし反応を返さない。
 それに続き、一条が、女子部員達が駆け寄る。
 しかし彼女達はつるぎの方を見た後で、格技場の外、校庭で繰り広げられる戦闘を目に入れ、凝視し、そして凍りついた。
「なに、あれ」
 何かに苦しみ、うずくまる友人を差し置いて見入るほどの、それは異常な光景。
 目を疑い、その後に彼女らは、自分達が今までに認識した経験というものを疑った。人間とは、あのような挙動が可能な生物であったのかと。
 とにかく迅(はや)い。何だ――これは。否、その無駄のなさすぎる動作の所為で、単に腕を振り回すだけならば常人でも出すことの出来る速さを、有り得ない高速だと錯覚したのだった。そしてそれを相対する巨人へ向けた攻撃意志で統制しているのは、あの、先ほどまで卵焼きを噛んでいた青年に違いなかった。
 巨人が一歩動く都度雨水を含んだ大地に亀裂が入り、騎士が剣を振るう度に湿った大気が逆巻いて驟雨が避ける。
 つるぎもそれを一瞥した。
「う……あ」
 しかしそれどころではなく、ただ呻くことしか出来ない。身体を起こすこともやはり叶わない。
 ぐらり――と何もかもが揺れた。
 視界が一度だけほぼ百八十度回転して、自分が仰向けに倒れたことに気づく。目に映っている雨天の色彩が己の脈動と共に数度反転し、身体を叩く雨の温度が皮膚を溶かすほどに熱く感じられ、自分にかけられているのであろう少女達の声が知らない男性のそれに聞こえる。
 あの青年に何か、とてもひどいことを云われた(――された?)気がする。釣りは失敗? 聞こえたよ。彼の目的は倉嶋つるぎではない、そう口にされたのは真実。けれどあの怪物とこの頭痛はセットでやってくる、そして彼は自分の通う学校にあつらえたように現れていた。学校の住所の書かれた生徒証は、自分が以前倒れた際ブレザーの内ポケットに入っていたはずだ。いつの間にかそんなところまで探られたの? 勝手にテンション上げて、差し入れまでして、独りで楽しげに喋り捲ったのは、この私。
 わかってる。知ってた。
 けれど、今は、そんなこと如何でもいいくらいに――痛いの。頭が痛くて私が脆くてこの胸が切なくて狂いそうなの。彼女の心情を言語に直せばそうだった。実際には凄絶な痛みと寸分の気恥ずかしさの混合物が年頃の少女の内で渦巻いただけ。人はいちいち思ったことを、感じたことを、文字に直す作業をしない。余裕のないときなら尚更だ。
 そしてその時、ざりりと、
 何時か何処かの状況がそのまま、彼女の脳内にだけ去来した。
 
 橙色のフィルターのかかった視界、
 黒鉄の枷に全身を拘束された子供、
 その向かいのゲートから現れ這い出る何か、
 悲鳴、
 燃える剣。

 なんだ、これは。
 いつの、ことだ。
 ああ――あの時だろうか? マドウダイサンシキコウギセイアツヘイキ<――>のキドウシケンのときだ。二○五六年、二月十六日、二十時零分零秒のことだ。誰か男の人が律儀に大声で目的と時刻を宣言したから覚えている。キドウシケン、の所までは幾度も聞かされたので耳が慣れたせいもある。その時は橙のフィルターの向こうしか見ていなかったからわからないのだが、あの子と自分の状況もそう変わりはなかった筈だ。自分とあの子は普段は一緒に居るのだが、そういう時だけああしてフィルターの内と外に分けられて、二人して鉄の枷に拘束される。枷をつけるといつもそこから針が飛び出して来て痛かった。枷は太いコードで大きな機械につながっていた。今も手首に細かな跡が沢山残っているのはそれのせい。だから夏服は嫌い。気楽に喉を裂くような寒く乾燥した空気は、前時代的な作りの通気口を伝って、あの地下室にも侵食していた。その時が冬だと知っていたのは、いつも少しの間しか出してもらえなかったけれど、あの子と二人で上で遊んだこともあるから。自分とあの子のいる薄暗い部屋にだけはその時、何故か空調がきいていなかったように思う。橙のフィルターの向こうの部屋は四方を大きな硝子で囲われていて、その部屋の様子を白衣を纏った大人達が観察し易いようになっていた。よくわからない波形とか、オーディオのボリュームを示すバーのようなものを表す機械が山と設置されているのが見える。けれどそちら側の音は聞こえない。自分の部屋に聴こえて来るのは巨大な通気口の恐ろしい通風音と、凍えかけた自分の震える息遣いと、拡声器から出てくるあの子の声だけ。見えるのはその子と、その子にただ一振り与えられた黒い剣。そうして最後に、フィルターの向こうでは怖いことが行われる。フィルターの向こうのゲートからあの子に向かって何かが吐き出されるというパターンだけわかっていて、具体的に何が怖かったのかという事はわからない。そう、知らない。知らないのだ。ただまだ小さな子供だった頃の自分に、それを彼の感じる恐怖だとわからせる為なのだろうか、非常にストレートな恐怖であったことは覚えている。そう例えば消しゴム大ほどもある大きさの食肉性の蛆が無数にまろび出てくるだとか。
 ――あ、知らないって云ったそばから掘り起こしちゃった。
 部屋の大掃除をしていたら昔弄り回していた玩具群がごろごろ転がり出た時みたいに、よせばいいのに転がった朽木をつついたら中に巣食っていた細かな無数の蟲が一斉に這い出た時みたいに――、
「い、あ……」
 その一時だけ、つるぎはその殆どを思い出し、現在と繋がり、
「いやああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
 仰向けに倒れたまま胸を張り出し、雨を飲み込みこみながら空に啼いた。
 齢二十にも満たない、幼げな少女の貌に浮かんだのは、痛烈な狂気。
 掘り起こされたトラウマは、苦痛でしかない事実をを忘却させられ十年を過ごしてきた人間にとって、あまりに悲惨な事実に対する慣れや緩衝など与えられている筈のない少女にとって、精神を蝕み正気を侵す闇以外の何物でもなかった。
 決して全てを思い出した訳ではない。けれどその記憶は、夜に見る夢に勝手に存在する設定や前提のように感じられ、畏れや悲しさが暴発しても、思い出したことそれに自体に不思議と違和感を感じなかった。

 それが気絶している間に観た夢ならば、
 どれほど良かったろうかと少女は思う。

 夢ならば、痛みだけが残ってしまっても、それが幻想とわかるのだから。
 しかし彼女の幻想は、現実という今あるものと繋がりを果たしていた。
 故に。
 どれだけ苦痛であろうとも、何もしなかったその先に待つ後悔を滅ぼすために、動こうと決めた。すべき事は一つだと、己に言い聞かせた。
 心的要素で軋む身体で立ち上がり、つるぎは突如として、騎士と巨人の相対する場所へと足を向けた。
「馬鹿っ! 待ちなさい! どうするつもり!?」
 倒れ、そして今起き――叫び。それだけでも異常な行動で面食らったが、次の動作で親友が今最も危険な場所へ向かおうとしている事態に気づいて、唯はそれを必死に止めた。手首を掴んでも振りほどかれたので、羽交い絞めにする。
「ごめん、離して」
 しかし容赦なく、つるぎの肘が唯の鳩尾に入った。
「あ……!」
 自分よりも小さな少女を組み伏せたと思った唯は、思わぬ一撃を受け、まばらに咳き込んでくずおれた。つるぎはそれに意識を向けることもなく、グラウンドの中心へ向かって走った。先刻息の続く限りに叫んだせいか呼吸が乱れていたが、何故かその所作に迷いは感じられない。
 今目の前で起こったことが信じられず、一条は驚愕していた。――あの倉嶋さんが友達に乱暴を振るった。彼女は稽古の時でも、優しすぎる性格だと思っていたのに。
 訳がわからず殆ど混乱していたが、彼女の行き先であろう場所を見て戦慄し、走った。追いかけた自分の方が身体能力は上なので、すぐに追いついた。それを遠巻きに観ている女子部員達は只管に驚きを見せ、何も出来ないでいる。
「倉嶋さん! 一体どういうつも――」
 一条はつるぎの肩を掴んだが振りほどかれず、代わりに見つめられた。
 その瞳に何かを問われたような気がして、一条はそれ以上動けなかった。何が問われたのかはわからなかった。
 つるぎは一条の手をゆっくりと肩から外し、踵を返すと、戦場へ向かって迷わず駆けた。
 迷いが無く見えたのは、殆ど見せ掛けだった。


 雨に濡れたとはいえ整地されていたグラウンドは最早、剣戟でズタズタにされていた。巨大な爪跡が無数に走り、長く戦う場としては、速度を主軸に戦闘を行う騎士にとって、其処は不利な場所へと変じつつあった。刃を不器用に振り回しては、足場を切り裂き隆起させるのは殆どが敵。計算されたものでは無いのだろうが、このままではジリ貧になる事は目に見えていた。
「埒が明かん」
 そう呟き、騎士は巨人から一気に距離を取り校舎を背にする。間もなく巨人がそれを追撃したが鈍い。騎士はその顔の前で、既に改めて剣を構え直していた。
 そしてその刀身に纏わせる力場のゲインを一挙に引き上げた。
 騎士自身も黒い剣の周辺の空間が歪んだように幻視するほどの、それは一段階上の力の発現。雨で垂れ下がった筈の彼の髪が、大気の流れ以外の眼に見えぬ力で、ふわりと浮かび始める。
 負荷は大きい。
 彼はとある手段を使って、その身体を疲弊させることなく働かせ続けることを可能としていた。だがそれでも周囲の状況が変わり、序々に追い詰められていくのなら、そんな能力には一片の価値もない。まして敵の被害がどれほどなのか推し量ることが出来ない。
 それならば、瞬間的な攻撃効率の上昇でいい。一撃で必殺――それに及ばずとも、この状況の打開となりうる大威力を試みるまでだった。
 十年の休眠で蓄えた体力の五分の一の減衰をみながらも微動だにせず、魔騎士は黒剣を下段に静と構える。そのまま力を貯め終える以前と同じフォーム、同じ速度で、迫りつつある巨人を逆に、前傾姿勢で猛襲した。
 細く息を吐き、
 そして一撃。
 剣と無骨な刃物、互いの得物が一瞬だけかち合った。しかし威力の篭らぬ刃物がぱさついた固形食品のように崩れ、それに繋がる硬質な腕が、肩が、頚椎が、頭部が――黒剣の斬り上げ、その進攻に伴って容易く滅ぼされ、瞬く間に巨人の上半身は消し飛んだ。
 破壊に対する抵抗も摩擦も感じさせない、その軌跡は黒い三日月。
 が、
「――っ」
 黒い粒子となって散った構成物が、VHSテープの逆回しを律儀に観賞した時のように、一瞬にして修復し元の形状を取り戻していた。
 凶悪な光熱が復元された漆黒の胴に集まる。魔騎士はそれを視認して真後ろへ跳ぶ。しかし間に合わない。復元部に取り込まれ、やむなく手放された剣が取り残された。
 逆襲としての熱線が黒の巨人から放たれた。
 その射線から逃れられる筈もなかった騎士は、己の右掌に再び力場の盾を纏わせる。無理な負荷に耐えず、装着されていたフィンガーレスグローブが千切れ飛び僅かな血飛沫が舞う。
 そして、壮絶な衝撃を沸き起こらせて衝突した。
 指向性を持って放たれた、雷めいた一筋の光は、魔騎士の右掌、その薄い膜に阻まれて進行方向を幾つにも逸らし――実に十箇所以上にも渡って、彼の背後にあった校舎に降り注いだ。
 校舎の中に居た人間はその時、最早全員がグラウンドでの戦闘を見ていた。
 小規模な流星群は校舎の窓硝子をゼラチン紙か何かのように溶かし突き抜け、教室の机を椅子を串刺しにし、二階で呆然と佇んでいた女教師の脇腹を弾き飛ばし、三階で逃げることもせず興味深げに高みの見物を決め込んでいた男子生徒の頭を焼き砕いた。
 その着弾に続いて爆発する。火付きの悪い筈の鉄筋の建造物に一挙に火の手が上がり、あちこちで切迫した悲鳴が巻き起こった。
 生徒は、職員は、悲鳴を上げる前にその殆どがパニックに陥って出口へ殺到し、階下へ向かって逃げた。校庭とは反対側の窓から飛び降りようとする者もいた。熱塊によって直接負傷した友人を、生徒を助けようとする者は、火炎と黒煙の中にみるみる内に取り残されていく。
 グラウンドの中心に走っていたつるぎは一瞬立ち止まって、その光景を見たが――ふいと顔を背けた。あれは、あそこはもう助けられない。
 血の滲む程唇を噛み締めて、行くべき方角へと走る。
 そして、彼女とは対象的に、悪夢のような惨状を視界の端に収めるでもなく。
 炎の橙色を背負い、阿鼻叫喚たる悲鳴を聞き流しながら、騎士は砲撃の余韻に痺れて動かない巨人を見やった。
 その身体には突き刺さるように、彼の黒剣が突き刺さっていた。否、丁度巨人の上半身、その修復位置にあった剣が不覚にも呑み込まれたのだ。
 力場の盾や、物体を宙で操る力、またその運動能力は、彼に元から備わったものだった。元来彼は剣使いなどではなく、あの黒剣は元々は他人の所有物であり、故に失われようと、折れ砕けようと知ったことではない。
 しかし――と、視線を移し、彼は己の右掌を見やる。ズタズタに傷ついて小刻みに震えている。筋肉が幾分か断裂したのかもしれない。なんという体たらくか。敵の攻撃に防御の度合いを合わせると、自分の身体は悲鳴を上げるようだった。いつの間にかあの剣に戦いを依存していたのだ。自分の能力に応用の利く武装など他に有り得ず、長く実戦から遠ざかっていた所為に違いなかった。
 少し飽きれる。
 その存在を咎め、持ち主から取り上げた物に頼らねばならないとは。
 そしてその剣を己が身に内包した巨人は、また光熱を一条二条、魔騎士へと向かって撃ち放つ。今度は多少威力を絞られていたそれは、しかし連射という形で彼を襲った。彼はしかし、やはり巧みにその光芒をかわす。その都度彼の背後にある校舎が、体育館が爆火を上げてゆく。
 とてもではないが近寄れない。
 只の分体の分際で、遠距離攻撃を行うとは――。限定時間にのみ動く人形である筈だというのに、稼動に必要なエネルギーを削り、放出する攻撃を行うというのか。
(……そこそこ手が込んでいる)
 思い、魔騎士は次砲を前回りに転がることで避ける。この熱線を見ると、敵が開戦当初に近接攻撃を行使していたのは、その状態で彼を打倒出来れば僥倖という程度のフェイクであり、彼同様その巨人も、身を動かすだけならば永久なのだろう。
 元が似たモノなのだ。彼はその予想に、特段の意外性を感じなかった。
 鉄筋を穿って支柱を折り、四度五度その砲撃の衝撃に襲われた旧校舎が、ついに形骸を保てず崩れ始めた。騎士の身長に合わせた高さ――下層ばかりを撃ち抜かれ、建物のベースが悉く破壊されたせいだった。地下に仕掛けられたダイナマイトで破壊されるように、大地に呑み込まれるが如く消えていく。
 今旧校舎と体育館を連ねる通路、そのL字型の内側の角の部分へ移動し、崩落しつつあるその建物を背に敵に追い詰められていた彼は、落ちてきた瓦礫に潰されないようにと余計な回避行動を余儀なくされる。
 ――巨人が、その未来位置を予想するのは容易かった。
 歪な三角形の巨大なコンクリート塊を避けた先、次動の跳躍への力を込めるべく膝立ちになった彼を、とどめのようにその幅を広くされた閃光が襲っていた。
 避けられない。
 その時、ざっ、と。
 一つの影が躍り、覆い被さり、押し倒すことで彼の身を救った。
「うあっ!」
 その誰かの背中に中くらいの瓦礫が落ち、悲鳴を上げる。女性、子供の声。
「……くぅ……、あっ……」
 白いブラウスに鮮血が滲む。つるぎだった。
 仰向けに押し倒された彼はしかし、敵からの次弾の来襲、その輝きを見て、
「たわけ!」
 彼女を跳ね除けた。残る左手に盾を宿らせ、直接砲撃を遮る。
「何故出てきた! むざむざ死にに来たか!!」
「……うるさい」
「――な、」
 突き飛ばされ、倒れた体勢のまま、つるぎは暗く深く言い放った。痛みで身体を動かすことが出来なかったが、口の端に鋭利な笑みが浮かぶ。
「……わたしみたいなフツーの人間に護られた人が何言ってるの?」
 機銃の掃射めいた光条の乱射が二人を襲う。盾の面積を無理矢理にでも広げなければ防げない。彼に少女の戯言に付き合う余裕はなくなった。
「……ぐっ、う――。不甲斐無い……ね。この間もそう。あなた一人の力じゃ、結局あの化物に立ち向かえないの」
 そして一瞬にして守護の盾に皹が入り、砕けた。
 騎士は避ける動作の途中に腕を撃ち抜かれたが、つるぎを引き倒すようにして移動させ、手近な瓦礫の裏へと避難した。白い衣装に紅の血液が迸る。
「わたしは――」
 揺さぶられ、投げ倒されたつるぎは切れ切れに言葉を紡ぐ。そして少女は上体だけで立ち上がり、腕を傷つけられても表情を変えず、次にどうすべきか、それだけを思考していた騎士の襟首を両手で掴み上げた。そこで初めて、彼は無機質な表情で彼女を見る。
「――わたしは、もう自分の眼の前で、誰かが傷つくことを許さない」
 揶揄するような笑みは消え。代わりに彼女の貌に浮かんだのは、痛烈な焦りに似た狂気だった。際限なく見開かれた瞳は焦点が定まっておらず、黒目が耐えず揺れている。その様子は、何処か親の仇に迫る子供に似ていた。
 崩落の中、騎士はやはり興薄げにそれを無視し、敵の方へ視線を戻す。
「離せ」
「厭よ」
 無駄撃ちを避けるためなのか光の雨を止めていた巨人は、光熱をその腹部に溜め込んだまま、瓦礫に身を隠す二人へと前進し始めた。
「――だから白さんには死んで欲しくない。教室に居た子達は、護れ……なかった」
「…………。当然だ、限度がある。そもそもお前は誰をも護ることなど出来ぬ」
 くだらないと思いつつも何故か、彼は答えていた。
「出来るよ」
 つるぎはゆるゆると首を振った。それは違う。
「少なくとも、あれの持ち主を――今はあなたを、助けることが出来るはず」
 言下の言葉は自己への、そして先刻垣間見た忌まわしい情景への問い。
 刹那だけ躊躇したが、しかし、やるべき事に、願うべき想いに違いは無い。頭痛はとうの昔にひいている。
 真っ直ぐに彼を見つめ、そして命令した。

「だから、安心して――戦って」

 少女が微笑みを取り戻した瞬間、
 巨人に取り込まれた黒剣の玉に紫炎が灯り、
 光輝くまま内側からその宿主を爆壊させた。
「――なに!?」
 さしもの彼が驚愕した。瓦礫越しに熱い爆風に煽られながら、その眼をあらん限りに見開いた。
 剣は爆発の惰性のまま吹き飛ばされ、空と雨とを斬って廻りながら堕ち、主の足元へと突き立つ。凄まじい熱を帯びた刀身が雨に晒され、細く水蒸気を上げた。
 光を失っていたその起動標識は刀身の玉を初めとして、全てが紫に点灯している。
 『使え』と命令されるかのような錯覚を、騎士は感じた。
 驚きもつかの間、彼は己の得物をすぐさま無造作に引き抜いた。内部から爆散させられた巨人が、膨大な熱量(エネルギー)を用いながらも修復されていく様を見る。そして瓦礫の中で使い手と剣、完成された形で立ち上がり、穴が空き血液の噴出す腕で構え、敵と相対した。
 武装というモノの魔力にとり憑かれる、それも良い。
 柄に篭った熱さで手に火傷を負ったが、構わない。
 攻撃的に哂った。
「ゆくぞ」
 少女に対する礼はない。ただその白い表情には一瞬だけ、初めて人らしく見える、凄絶な歓喜だけが浮かんでいた。
「……なんて都合のいい人」
 半ば飽きれた様に苦笑して、つるぎは彼の襟首を離し、瓦礫に持たれかかった。
 ――気が遠のきそうなほど酷い背の痛み。傷の血は流れ出る程ではないが、今も滲み出ている。けれど、今気を失う訳にはいかなかった。
 何故なら旧校舎の崩落はまだ止まっていない。つるぎは這いずってその場所から逃げようとしたが、いつの間にか其処から出られなくなっていた。身体を動かした先で、ごん、と何かに頭をぶつけて止まる。
 騎士とつるぎ、その二人をドーム状の不可視の盾が覆っていた。
 それは先刻、巨人の閃光を騎士が防いだ時に用いられたそれと同質のもの。しかし規模の大きさがまるで違っていた。
「――え?」
 驚くつるぎの頭上、落下してきた瓦礫を、そのドームが防ぐ。
 それは、次に行う作業のための時間稼ぎ。敵の攻撃から、動けないこの位置を瓦礫から守護する防御の陣だった。
「四、いや五か」
 騎士が呟く。彼はいつしか瞑目していた。
 そうして、今は燃える新校舎の内部を探っていた。今崩れている旧校舎の中に人は居ない。

 一階の職員室で、腹部を喪って倒れた者が一人、
 階段の踊り場で、煙に巻かれて動かない者が一人、
 二階の教室で、頭部を亡くして棒立ちになった者が一人、
 三階の廊下で、何故か折り重なって燃える者達が二人。
 
 それぞれ、皆、死んでいた。
 騎士が意識を飛ばし、視ていたのは、戦闘の巻き添えを喰らい死亡した人間の数を数える為だった。
「痛覚ではない、悲愴でもない――憎悪なのだな」
 尚も瞑目し続け、死んだ五人に訊く。
「そう、憎いのか。痛かった、ではなく、苦しかった、でもなく――お前達の命を奪ったモノを、誰よりも何よりも殺してやりたいと――そう、最期に思うのだな」
 熱くもなく、冷たくもなく。巻き添えにして悪かった、などという侘びは無く。ただ無表情に確認する。
「いいだろう!」
 しかしそれが、
「――お前達のその生命! この私が使ってやる――!!」
 唐突に紫の双眸を見開き、轟然と咆えた。
 その言葉を待ち望んでいたが如く、紅の炎に炙られる建物から白い輝きが五つ飛び立った。そして不可視のドームをすり抜け、騎士の持つ黒い剣に吸い込まれる。
 壮大な、しかし暖かな衝撃が、剣を中心として辺りに伝わり拡がった。
 戦闘区域から一刻も早く逃れようと背を向け、走り去ろうとしていた者全てが振り返り、その波の中心を見る。つるぎや唯、一条や女子部員達はただ只管に呆然として、鍔に筒のようなパーツを広げ、五条の白光を呑み込み続ける黒剣に見入っていた。
 その波動は弔いの響き。
 その事を理性の外の部分で感じて、正門から、裏口から、或いはフェンスを乗り越えて闇雲に敷地の外へと逃げようとしていた職員や生徒達が、燃え崩れる校舎を振り返り、何かに気づいていた。
 ――何かが足らない。
 ――置き去りにしたモノがある、と。
 そう感じた。
 学校に通うことが楽しみだったある者にとってそれは、校舎それ自体の事だったのかもしれない。
 話に付き合ってくれる事が楽しくて、いじりまわしに走った教師の事だったのかもしれない。
 或いは、同じ教室に先刻まで一緒に居た友人の事だったのかもしれない。
 失われたそれが実際には何かわからないまま、人々は只どうしようもない喪失感に苛まれた。
 そして白く燃える反撃の狼煙に向かって、校庭の反対側に居た誰かが叫んだ。
「やっちまえ――――――っ!!」
 騎士の耳にも、つるぎの耳にもそれは届いた。
 やがてその声の意思は周囲に伝播し、雨天の下、グラウンドを包む一つの声となる。
 声援、だろうか。
 否、それはやはり、切実なる一つの声音に過ぎなかった。
 巨人が修繕を終え、四散した熱を掻き集め、砲撃を開始するが、遅い。収束を中途にした光条は、硬度と規模を増大した不可視の盾の前に敵わず、易々と弾かれていく。

『其は、戦いに宿る光芒』

 そして人々の声を聴いたか聴かずか、青年がその顔の前で剣を構え、詠唱する。

『敵を斬り、その妻を犯し、その息子の首を刎ねる混沌の先――』

 憂うでもなく、嘆くでもなく、

『その先にこそ平和を齎さんと願う、其は人の光である』

 単に、“剣”という事象の本質を捉え、言葉を紡ぐ。

『幾十の私欲に拘泥し、幾百の瓦礫に苦悶し、幾千の屍骸に惑おうと、』

 ああ――と、つるぎは思う。

『――誰彼の為に光は燃ゆる』

 そういう意味なんだ、わたしの名前って。

 低い声の切り、黒い魔剣の刀身に、更に巨きな、白く燃える炎の刃が爆発的に形成された。
 雨を纏い大気を纏い、己という炎を掻き消す筈のそれらさえ逆巻かせ、燃え上がっていた。核たる黒剣の内部から、航空機のエンジンを廻すような、恐ろしい駆動音が聞こえてくる。
「……その黒い意思の、断片すら残さん」
 間髪入れずに宣言し、騎士は盾をその中空に纏ったまま、剣を携え、つかつかと巨人に歩み寄る。
 巨人は怯えたように攻撃を激化させた。が、全てが盾の前に無力化されてゆく。
 その腹部に蓄えられた熱が失せ、遠距離攻撃の源を失くした巨人は、腕の刃物を振りかぶる。
 騎士は盾を解き、その温い斬撃を素手で受け止めると、
 弔辞もなく、無造作に彼の首を刎ねた。
 斬り痕から白い炎が燃え広がり、巨人の全身を包み込む。
 
 修復など、叶わない。
 あらゆる生物の活動を絶つ事の出来るその部位を、生命そのもので形作られた剣で斬り落とされた巨人は、傷痕ばかりの地面の中心に、仰向けに倒れ伏した。
 白色の火炎は、黒い肢体が消えるまで燃え続けた。






 四.

 
 暗い1LDKの部屋に戻ると、電気をつける前に、リビングの棚に備え付けられた留守録の明かりに眼が行った。ボタンを押す。
『二件、です』
 オンフックにして視聴しようとすると、ソリッドビューが表示されず音声だけが流れた。向こうはおそらく携帯電話か、旧式の電話機なのだろう。
『あ、つるぎ居ないか。今日遅いんだね』
「お姉ちゃ……」
 思わずすがるような声が漏れた。
『――ともかく、わたししばらくそっちに帰れなくなっちゃった。突然の事で、一旦戻る暇もなくって本当ごめん。でも』
 姉が謝っている――家を空ける事に。毎度毎度、強い笑みを浮かべては仕事に向かう筈の彼女が。驚いて、いつも以上に聞き耳を立てていた。
『――やることが出来てしまったの。もしかすると一週間、いやもっと空けるかもしれない。でも心配しないで? ちゃんと戻って来るから』
 なんだろう、この違和感は。戻って来るから? そんなのは当然の事だ。
『そう……それと』
「…………」
『学校を、わたしの居ない間暫く休んで。そしてその間、私が今から言う住所の家に向かって、そこでお世話になって』
「…………」
 伝えられた住所は帝都の某区――空襲の被害の及ばなかった区域だった。そこへ至るまでの移動手段としてリニアを使って欲しい事と、明日にでも出かけて欲しい事、そして相手方の電話番号が付け加えられていた。時間を超過したので、もう一度録音が入っていた。
『十七時、三十三分、六秒、です。再生が終わりました』
 電話番号――。つるぎははっとして、血がこびりついて開かなくなったスカートのポケットをこじ開けると、アンテナが少々曲がってしまっているイリジウム携帯電話を取り出した。時計表示は正常だった。一応メモリーを確認をしたが、件数は前に見た時と同じ。破損した様子はないようだった。
 その着信履歴を見ると、やはり五時半頃、恵子からのメールが入っていて、そこにも同じように行き先の住所と連絡先が記してあり、丁寧にその家主の顔写真までもが添付されていた。
 つるぎは素直に、しかし緩慢に、それを手帳にメモした。恵子はあの巨人が学校に来襲したことを知らない内に連絡して来たのだ。
 恵子の言うやる事、とはなんなのだろう。口ぶりからして、泊り込みの実験などではなさそうに思えた。
 それに行き先の帝都には、一体どんな人物が居るのだろう。旧知とだけ教えられたが、それだけではまるで頼りない。
 けれど今、そんな事がどうでも良いと思えるくらいに――
「……どうして今、一緒に居てくれないの?」
 どうしようもない寂しさを感じた。尋ねたい事が山ほどあった。
 それに、
「白さんの目的、何処かでわかってて、知らないふりしたせいで、つるぎのせいで、あんな、あんな事になったのに……」
 背中の傷は、治療する必要もなくいつの間にか塞がっていた。
 暫く休めと言われた学校は、既に無い。
 助けてくれた白い騎士も、今は何処かへ去ってしまった。
 揃った状況の全てが自分に、この街から出て行けと囁いているように思えた。
 少女は切れ切れに呟くと、暗い部屋の中で、がっくりとフローリングの床に膝をついてうなだれた。辛かった。もう歩けないと言っているのに、誰かにぐいぐいと背中を押されている錯覚を覚える。そしてそれ以上に、己を此処から消え去らせてしまいたい程に、あの時すぐに学校を離れなかった事を悔やんだ。奇妙な事件に巻き込まれ、怪我を負ったその退院明け、のうのうと日々に立ち返ろうとした自分を呪った。
 そう。あの森で、彼と出会った時から全てがおかしくなり始めていたというのに。
 それに気づかない振りをした自分を、心底責めた。
「どうしたらいいの……?」
 その問いの、答えを与えてくれる者など居なかった。


               ◆


 結局、早朝に家を出て帝都へ向かうことにした。
 身体も心もぼろぼろにくたびれ果てていたが、見かけ上報道記者達の動きの少ない今、出かけるしかないと思った。昨日のあの事件は、テレビでも、民放と国営放送を合わせた二十一のチャンネル全てで報道される大事件となっていたからだ。あと半日もすれば、このアパートへ誰かが取材に押しかけるかもしれなかった。
 袖の絞られた白の半袖と、若干プリーツの入ったロングスカートを選び、古傷を隠すための皮のバングルをした。大き過ぎないショルダーバッグに、洗濯の容易そうな四日分の着替えと上着になりそうなカーディガン、それに化粧品と、読みかけの文庫本をつめた。ミュージックデバイスのプレイヤーはチョーカーのように首に留めた。
 青年の言ったことが本当だとすれば、自分がこのままこの街に留まれば、また学校と同じ事になる。それではたまらなかった。昨晩には、金銭の続く限りあちこちを転々とすることも多少本気で考えたが、貯金の何処までを切り崩して良いのかわからず断念した。恵子の携帯も昨日の夜から繋がらなかった。
「はい。姉が帰って来るまで、一週間くらい空けることになりました」
「なんだってこんな時に、お姉ちゃん帰らないのかい?」
「でも、仕事ですから」
「大変だな……ともかく気をつけて行っといでな」
「はい。じゃあちょっと行って来ますね。あとを宜しくお願いします」
 ぺこりと頭を下げてつるぎは無理に笑い、大家に手を振った。
 気丈だな、健気だね――少女にいずれかの言葉をかけてやろうとして、しかし大家はやめておいた。そういう御世辞は辛いものなのだと、彼女のやつれた顔が語っているような気がしたからだ。


 駅に着くと改札の脇に、彼女のよく知った顔が、煙草を咥えながら気だるそうに立っていた。朝日の中に漂う紫煙というのが、奇妙な組み合わせだとつるぎは思った。
「……来てくれなくても良かったのに」
 気持ちが腐っていたせいか、思わず卑屈な言葉が口をつく。しかしその表情は、いつの間にか明るさを取り戻しかけていた。
「そう思うのなら、律儀にメールなんて送らないで欲しいものだわ」
「あはは……、ごめんね。でも元木さんにだけは言っておきたくて」
 唯だった。つるぎと唯の自宅の最寄り駅は無論違う。始発でここまでやって来たことをおくびにも出さず、彼女はつるぎの弱音を聞き流した。
 唯は丈の長い半袖のワイシャツに緩くネクタイを締めて、程よくダメージの入った黒のデニム地のパンツを履いていた。長い黒髪をかきあげて、その後に、独特な甘い香りのする煙草を携帯灰皿に押し付けつつ言った。
「随分突然だね。恵子さんが忙しいのはわかるけど、なにもこんな時でなくても」
 つるぎは力なく首を振る。
「ううん――でも何か、昨日の事が起こる前に連絡していたみたいなの」
 つい恵子に対する不満を漏らしそうになったが、頭は多少冷えていた。昨日唯にメールを打った時は我慢したつもりではあったが、その不満がにじみ出ていたのかもしれない。留守録を聴いたとき不自然に思ったことまで、きちんと説明しなくてはとつるぎは思った。
「前に? ああ、それもそうか。でなければ真っ先に家に戻るものね……だから今は、連絡出来る状況じゃないのかもしれないわけ、か。恵子さん」
「うん。携帯も繋がらなくて……それに、電話の様子が変だったし……」
「変?」
「深刻そうだった、ううん真剣そうだった――というか。帰って来る時期も曖昧みたいな事言ってたから。もしかすると仕事とは少し違うのかも。よくわかんないんだけどね」
 柔らかく苦笑する。
 それを見た唯は、少しだけ考え込むような仕草をとる。
「そう……。というか、帝都か……」
「うん」
「個人的には羨ましいわ。学校も一旦とはいえ無くなったのだし、お金さえあれば私だって出かけるのに」
 無表情に強がっていた。全く不器用なその物言いに、つるぎは少しだけ噴出した。それを見ていささか憮然としたが、背の高い彼女は他所を向いて、照れたように何も言わなかった。
 軽い沈黙が流れる。そこで突然、つるぎが唯に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい」
「……何が?」
 わかっていながら、敢えて問うた。
「乱暴、しちゃったから」
 唯は少なからず、つるぎに暴力を振るわれたことにショックを受けていた。あの時の彼女が普通でなかったというのはわかっていたが、それでも納得の行く理由を教えて欲しかった。少女同士ならば尚の事だった。
 けれど、言った。
「まあ、いいわ」
 今、つるぎは自分の事で手一杯の筈だ。そのことを掘り下げるのは今はよそうと、唯は思ったのだ。
「事情はつるぎが帰ってから、何もかも落ち着いてから訊くことにするから。――けれど、これだけ尋ねて良い?」
「なに?」
 つるぎは唯に、いや他の誰にも、あの巨人が自分を狙って学校に現れたらしいということを話していなかった。打ち明けられる筈がなかった。
「あいつは、何処へ行ったかわからないの?」
「…………。うん」
「そう。まあ確かにああいうのは、『何処其処へ行く』なんて教えていく人には見えないものね」
「うん……でも、どうしてそんなこと訊くの?」
 唯は一瞬きょとんとしてから――薄く、不敵めいた笑みを浮かべた。
「別に。あなたを護れる人が居るのなら、彼くらいだと思っただけだわ」



 二人はそれぞれ、つるぎは上りのホーム、唯は下りのホームに立ち、向き合い、手を振り合って別れた。先に訪れたのは下りの列車だった。その車両が全て走り去ったあと、向かいのホームに誰も居なくなったのを見、つるぎは列車が友達を奪い去ってしまったかのような小さな感傷を覚えた。
 そして、直後に訪れた上り列車に乗りこんだ。

                ◆

 リニアのプラットホームは、八番線までを鉄骨と屋根とで覆った広々とした空間だった。
 ホームの数が五と少ないのは、従来の新幹線に比べ、速度的な点で人の運搬効率が格段に上昇したためだった。戦時中に他のインフラと同様、比較的大規模に破壊された新幹線の線路は、本数を少なくしてリニアに対応したリアクションプレートの敷かれた物に置き換えられており、用済みになった路線の敷かれていた土地は、無論それぞれの鉄道会社の所有する物とした上で売りに出され、今は見る影も無く他の用途に使われている。
 つるぎは自由席のチケットを買って改札を通る。天井からぶら下げられた古めかしい電光掲示板には、オレンジ色の輝きで、東京行きの列車はあと二十二分で発車する旨が表示されていた。
 それを上目に見つつ、長いエスカレーターを上がる。それに連れてあちこちから、特別急行以上のもの独特の発車信号や、ホームの淵へ近づき過ぎた誰かに対する電子音声の警告が聴こえてくる。平日ともあって人は少なく、スーツ姿の男性が多く見られたが、子連れの女性や旅なれた風体の青年の姿もある。そして筒状の巨大な屋内に、蝉の声と共に強めの風が吹き抜けていた。
 そうした普段にはあまり感じる事の出来ない慌ただしさの中、エスカレーターを登りきると、つるぎは昼食を求めて売店を訪れた。適当に馴染みの銘柄のカレーパン(昨日の昼も同じ物だったことに彼女は気づいていない)数個と、ドリンクを選んでレジへ向かうと、その脇のラックに差してある新聞に目が行った。
 ひどく粗い写真で、第一面に、見慣れた校舎が燃える情景が大写しにされていた。
「すいません、これもお願いします」
 とっさに、代金を払い終える所だった会計に、その新聞を足していた。


 窓際のシートに座り、記事を読んだ所に拠れば、あの事件の被害者は負傷者二十人、死者五人ということだった。明日からどうするかという事ばかり考えていて、昨夜はニュースを聞き流していたので、今きちんと確認しようと彼女は思ったのだ。
 何故か、白い騎士と、黒い巨人の事には少しも触れられておらず、現存するどのようなテロリストや過激派でも公立高等学校を爆破するメリットは無いという消去法じみた切り口で、生徒や教員、その他学校関係者の個人的な怨恨から来る犯行の可能性が高いのではないかとそこには綴られていた。どれほどの威力を持った爆発物や火器ならば、鉄筋の校舎に対してあれだけの破壊をもたらす事ができるのかという部分に関しては、ほとんど言及されていない。おざなりにされていると言って良かった。
 昨日の今頃にあった出来事が、既に改竄されたまとめとして、自分という当事者の手の中にあった。メディアの嗅ぎつけの迅速さにつるぎは改めて驚愕し――それ以上に、何か眼に見えない大きな力によって真実がねじ伏せられ、平然と隠蔽されている事に、途方も無い空恐ろしさを感じた。
 が、直後、じわじわと怒りがこみ上げてきた。関係者の仕業?
 ――ふざけている。
 校舎を失くしたあの学校に、虚言で汚名を被せるつもりなのかと、つるぎは唇を噛み締めた。細い肩さえわななかせて、握る紙面に皺を刻みつけた。
 そこでしかし、はたと気づいた。いや思い出した。
 事件のそもそもの原因が、自分にあるのだということに。
 線路の継ぎ目の揺れを乗客に伝える事もなく、リニアは都会へ向かって疾駆して往く。





 つるぎが東京駅に着いたのは、十一時をまわった頃だった。
 改札を出てすぐ、人ごみの中、きょろきょろと辺りを見回していると、こちらに手を振る人物がいた。
「やあ、こっちこっち」
 真円のサングラスをかけている。そのレンズを上へずらした所、見た目三十絡みに見えるその人物は、骨ばった輪郭の目立つ男だった。無精髭を生やし、よれよれのシャツとズボンに身を包んでいる。ずぼらなのかお洒落なのかよくわからない風体で、その口元には人懐っこい笑みが浮かんでいた。背はやや高いといったところだろうか。シャツからのぞく腕はやけに筋ばっていた。
「ああ――こんにちは。すみません、助かります」
 もう一度人ごみを見渡す。なんという人の数だろう。改札まで迎えに来てもらっていなかったらどうなったろうかとつるぎは思う。リニアに乗り込む前に連絡したとき、素直にお願いしておいて良かったと、彼女は心底安堵した。
「いやいや、こんなに可愛い子なら待つのも歓迎だ。倉嶋つるぎちゃん……でいいのかな」
「あ、はい……そうです。でも、どうしてわかったんですか?」
 目上の男性に、落ち着き払って「可愛い」と言われた事に頬を赤らめたが、出来るだけ平静を装ってつるぎは訊いた。
「君と同じだ、写真だよ。恵子から時々見せてもらってたからね」
 つるぎが手に持っていた携帯電話を指差して彼は言う。その画面には、昨日恵子から受け取っていた添付ファイル――その男の顔写真が写っていた。
 一方男はといえば写真も、携帯も手に持っていない。顔を覚えられているのかと、つるぎは驚いた。
 彼は改めて、と前置きして、
「黒種彼方(くろざね かなた)といいます、どうぞ宜しく」
 そう名乗った。






 帝都、というのは無論、皇族を再びまつりあげた戦時からの通称で、都市部のあちこちを焼き払われはしたが遷都が行われなかった為、今も呼び名は「東京都」が正しい。
「……ここが帝都」
 そんな由来や、都内では今時その呼び名を抑えようとする風潮があることを知らないつるぎは、迷路のような駅の地下構内を抜け、八重洲口の情景を見てそう呟いた。
 正面に伸びる八重洲通りには、街路樹として、今は葉ばかりの桜が植えなおされていた。その両脇に無秩序に並び立つビル群の所々に薄汚れた幕が引かれており、建設や修繕の途中である様子のものが少なからず見える。火花を散らし、硬質なコンクリートか鉄を機器で研削する音が、数箇所から遠巻きに聞こえてきていた。
「都内に出たことはあんまりないのかな」
「え? あ、はい。……というか初めてで」
 見慣れない都会の景観に見入っていて、隣を歩く男に話しかけられ、つるぎはあたふたと答える。
 地元の街に出れば同じように無機質な建造物群を見られるが、やはりそのせせこましさやそれぞれの大きさは、田舎に無いものだとつるぎは感じた。――その所々が過去の空襲に因るものなのだろう、破壊によって綻び、手直しされている様には、違和感と希望に似たものの綯交ぜになった、複雑な感情を覚えた。
「そっか、案外寂びれているだろ。まあそれは、この辺りに用のある人が少ないせいもあるが。ここも被害の少ない方だが、まだまだ仮住まいの人も多くてね――戦中、皇居や古い建造物は流石に攻撃を避けられたらしいが、インフラに関しては酷い物だった。今通って来た駅舎も地上部は造り直されたものさ。殆ど一からね」
 つるぎは、え? と思わず彼方を方を振り返っていた。そんな事は知らなかった。
「そうだったんですか……。いえ、寂びれてるというか、大きさに圧倒されてました」
 色々な意味で素直なその感想に、彼方はあははと笑った。
 呑気な感想をもたらした後で、つるぎはふと十年前の記憶を思い起こそうとして失敗した。自分が七才の時、何処で何をしていたのかということを覚えていなかったからだ。
 
 ――昨日の事件の時、大切な事の切れ端を思い出せた気がするが、そこまでだった。

 しかし、都会の景観にしては不自然に点在する空き地とか、修繕されている建物がいやに目につくようになっていた。それに今更のように腹が立って、少し寂しいのは何故なのだろう。
 二人は少し歩き、有料駐車場に停めてあったマニュアル車のスカイラインに乗り込んだ。その一九〇〇年代のまさに最後の方に製造されたと見られる化石めいた車が、彼方の愛車であった。
 発進させてしばらく、高島屋跡を右折しながら、彼方が言葉を選ぶようにナビシートのつるぎに訊いた。
「さて……どこから話したものかな。恵子にどこまで聞いている?」
「えっと……。黒種さんは、お姉ちゃんの古いお知り合いってことくらいしか……」
 本当にそれだけなので即答すると、彼方は割と派手に驚いた。運転中だったため、フロントウィンドウの向こうを凝視するように、「なんだって?」と声を上げた。
「じゃあ俺、どう見ても怪しいおじさんに見えるよね。どれだけ省略して教えてんだ全く……。君もそんな人の所を迷わず訪ねたら駄目だぞ?」
 後半は笑いながら言われてしまった。全くその通りだったが、けれど今度は事情が事情だったので、そこは曖昧な笑みで誤魔化しておいた。まさか、自分の居る場所には化物が現れるので、ともかく自宅から離れようと思ったのだ、などとは言えなかった。
「まあ、戦争の頃同じ職場に居たんだ。部署が違ったから、同僚という訳でもなかったが」
「というと……病院で使う機器を造る会社とかですか?」
「まあそんなところかな。そこでたまたま突っ込んで話す機会があって――それから社の中では一番の仲間になっていたと思う、少なくとも俺にとってはね」
 つるぎの脳裏に、今朝別れた唯の後ろ姿が浮かんだ。親友ということなのだろう。多くの場合、男女でここまで親しいと当人達に言わしめる間柄と言えば恋人同士なのだろうが、彼方は「仲間」と断じていた。恵子の強靭な性質から考えても、それは違和感がないなとつるぎは思う。
 ……それにしても、戦時中という苦しかった筈の状況下で、流されてこの男性と恋に落ちなかった事は、褒めるべきなのか咎めるべきなのかとつるぎは悩んだ。
「会社がなくなってからは、メールのやり取りだけになってしまったがね。お互い忙しくて年賀状も出せなかったんだ」
「え、じゃあもしかして――」
 彼方は悪戯っぽく笑う。
「そうそう。そのメールに、昔から時々、勝手に君の画像がつけられてくるんだよ。それで顔を覚えていたんだ」
「あはは、なるほどです……」
 苦笑いしながら、つるぎは少し真面目に姉の正気を疑った。年頃の女の子の写真を、男の人に無理矢理送りつけているなんて。
 彼方も、少しうんざりしたかのような顔つきなって、溜息混じりに続けた。
「いやあ……これで俺、結婚してるからね。携帯に女の子の画像が入ってたんじゃ……、しかもそれが、家内が知らない女からのメールに添付されてたものとか……もうな。後ろ暗い所なんてないのに、隠すのには苦労したよ」
「あ――そうなんですか。それは削除するしか」
「けどそうも出来なかった」
 つるぎがくすくす笑いながら言うと、彼方は真顔になってそう言った。当然というべきか、それを聞いた彼女の顔が少しひきつる。
「ああ、つるぎちゃんのファンでもあったけど。それとは別に、消せない理由もあったんだ」
 やんわりと勘違いを否定しながら、彼方は左折するためのウインカーだけ上げて、ブレーキを上げて車を停車させた。かちかちという、今時ありえないクラシカルなウインカー音がする。
「理由……?」
 つるぎは首を傾げる。彼方は今しがた赤へと変わった信号を見、ハンドルの上にもたれかかった。
「実を言えば、俺は昔、恵子に引き取られて間もない頃の――小さい時の君と会ったことがあるんだ。覚えていないだろうけど」
「――え?」
 またも初耳だった。恵子がこの人の所を訪ねろと指示したのには、やはりそれだけの理由があったらしい。つるぎは驚き、直後、半ば食い入るように訊いていた。ある一つの単語がこの上なく引っかかった。
「覚えていないってどういうことですか。わたしが記憶をなくす前に……わたしには小さい頃の記憶が無いらしいんですけど、その時に黒種さんとお会いしてたって事でしょうか?」
 彼方は少し苦い顔をして、謝るようにゆるくかぶりを振った。
「ああいや……そうじゃない。単に、君がまだ小さい頃だったから覚えていないだろうと思っただけだ。紛らわしい言い方をしてすまない」
 つるぎはあからさまに消沈した。しかし当然だ、とも思う。
「……そうですか。いえ、わたしこそごめんなさい、突然変なこと訊いて……って、え?」
 しかし俯きかけた顔を、無意識に運転席の男へ振り向ける。
「わたしが記憶喪失だったっていうこと、ご存知なんですか」
 彼方はどこか神妙に頷いた。
「ああ、恵子から聞いてる。どんな理由でそうなったのかは教えてくれなかったが、七才までの読み書き以外の記憶がないんだってね、君は」
「はい――うん、まあ、そこまで気にしてるような事でもないんですけど。子供の頃の事で、自覚あんまりなくて」
 相手に無駄な気を遣わせまいと、つるぎは微笑んでみせる。けれどその言動は、つい先刻真剣な面持ちで彼方に尋ねた事と矛盾していた。彼方はそれを悟りつつも、彼女の方を横目で一瞥するだけに留め、それ以上の言及をせず、ともかく、と切り出した。
「今思えば俺が、たった独りで子供の面倒なんて見れるものかと、恵子を疑ってかかったというか、諭しにかかったのが悪いんだろう。この十年間、成長していく君の姿が映った写真を送りつけて来たのはそのせいだと思う。……まあ責めないでやってくれ」
 彼方は仕方なさそうに笑う。呆れている筈のその表情は、けれど何処か微笑ましげだった。
 負けず嫌いな姉のことだ、有り得る話だとつるぎは思う。しかし年若い彼女は、いや育児の対象たる少女は、そうすることによって恵子自身が、子を育てているのだという自覚を得ているということまでは見抜けなかった。
 確かに少し恥ずかしい。けれど何故か姉を責める気は起こらなかった。いや寧ろ、常日頃からそこまで自分のことを気にかけてくれていたんだ――と、今日この時という辛い状況下で、放置されてしまった事に対する寂しさから来る不満さえ氷解していく気が、彼女にはした。
「まあそんな経緯で、俺はつるぎちゃんに一度会ってみたいなと思っていたという訳。昨日突然恵子から電話をもらって、君を少しの間預かって欲しいと訊いた時は、少し嬉しかった」
 口説き文句のようなその言葉に、つるぎはついくすくすと笑ってしまった。この人は奥さんが居る筈だというのに、これが常なのかもしれないと思ったからだ。
「ありがとうございます。つるぎも黒種さんに会えて嬉しいです」
「そうか。それは、有難いな」
 言下に彼方はギアを入れ、クラッチを踏み、スカイラインを発進させた。信号が青に変わっていた。





 五


 
「しかし、大変なことになったね」
 郊外へと車を走らせながら彼方が言った。
「――ご存知なんですか」
 つるぎは前を見たまま、どこか淡々と訪ね返した。恵子が、つるぎの通学している高校の事も話していたんだろう。報道されているニュースと照らし合わせれば気づくことだ。あまり驚きはしなかった。
「あれではまるで空襲だよ。よく怪我しなかったな」
「……はい、校舎の外にいましたから」
 あれはわたしのせいなんです、という言葉を彼女は飲み込む。伝えた所で事態は良い方向へは向かわない。相手を混乱させて、無意味な重荷を背負わせてしまうばかりだし――自分でも上手く説明など出来ないと思う。苛つきと自責が胸の内で混じり合って、つるぎは俯いた。
「まあそれじゃあ、とりあえずタイミングは良かった訳だ。うちでうじうじしているよりは、俺の家に来た方が余程いいさ」
 事件が起こる前に恵子からの連絡が入ってきたことを思い出しながら彼方は言う。「――ほら、下見てると気持ち悪くなるよ」
 ごめんなさい、と謝ってから、つるぎはナビシートの中で前を向き直す。
「黒種さん、お姉ちゃんから、つるぎを黒種さんちに行かせたい理由って何か聞きましたか?」
「ん? あー……仕事忙し過ぎるから、とは言っていたけど」
 それ以上はわからない――と口でだけ言い、我ながらおかしな尋ね返し方だと彼方は思う。高校生なら、そう身の回りの心配をしてやる必要もない筈だが……いかんせん急で、上手い切り返しが思い浮かばなかった。
「でもわたし、別に少しの間なら一人でも大丈夫なんですが……。お姉ちゃんもそれを知ってる筈なのに、わざわざ知らない人の所に預けるのはおかしいかなって」
 あの事件が起こる前に連絡が来ていた、というのがやはりつるぎには気になった。以降、電話が繋がらないという事も。
 ……まるで、あの事件が起こる事を予見していたかのような。
「もしかするとだが、それだけ長く空けるということなのじゃないかな」
「……そうなんでしょうか」
(流されてばっかり)
 何故かはわからないが、自分には昔から、人に迷惑をかけてはいけないという強迫観念めいたものがあるとつるぎは思う。いや、「迷惑をかけてはいけない」というか―― 「一人でやっていかなくてはならない」と思うのだった。小学生の頃から家事を率先して覚えたのはその為だった。
 他人と比べてその度合いがどうだ、などと客観視出来る筈のない領域であるし、自意識過剰であるのかもしれないとも思う。実際に出た行動でしかわからない事もある。ましてこの国には、初めからそういう空気が漂っているらしい。
 けれど、ともかく、何故だか――人の手を借りて物事を済ませようとすることが、彼女はとてつもなく嫌だと感じるのだった。それは確かな事だった。

 安易にそうしてしまうことで、誰かが手遅れになるまで傷つくかもしれないから。

 今回に限った事ではない。そして、何故そう思ってしまうのかがわからない。
 もしかすると、忘却してしまった過去の事に起因しているのかもしれない。しかし、失くしてしまったはずの思い出の事を考えるのは苦しいだけで。
 だから、今のこの状況は、黒種彼方という人物と知り合えた事とは別の領域で、色々な意味で耐えがたかった。護ってくれる人の言うままに帝都に出てきた自分に、抗いがたい無力感をつるぎは感じていた。
「そんなに俺が信用ならないかな」
 再びうなだれ始めたつるぎを、見かねたように彼方が言った。相手は女の子だ。情に訴えたやり方でまるめこんでしまえ、というヒモさながらの思考順路だった。
「そんなことはないですけど……でも、安易に人に従っては駄目、と仰ったのも黒種さんです」
 どうしたらいいんですか? などと上目に見つめられては、彼方は黙るほかなかった。素直で記憶力がいい――いつもこうならば生きにくそうだ、とやや失礼な感想を彼はつるぎに対して抱く。
「よしまず、その黒種さんっていうのやめよう。俺の家内まで黒種さんじゃやりにくそうだしな。彼方でいいよ」
「……はあ」
 かなたさん、とつるぎは愚直に復唱する。
「そ、彼方さん。長く泊まってく事になるんだろ? それなら楽に行った方がいい。俺達もそう振舞ってもらった方が楽だし――俺には、恵子がつまらない嘘を言い置いていく奴には思えないね」
 言下に、嘘をついていたとしても、という言葉が含まれている気がした。
 つるぎは一瞬だけ沈黙する。
「……彼方さんて」
「うん?」
「お姉ちゃんのことわかってるんですね」
「女性の中では二番目にね」
 悟った様に笑ってみせ、なんとか誤魔化せた――と彼方は心中でだけ、ほっと息をついた。


               ◆


 いつのまにか神田まで出ていた。
 ビル街を抜けるとすぐに、見るからに木造とわかるせせこましい年代物の住宅が目についてきて、下町らしく、商店と住宅を兼ねているものも多かった。あちこちに、いつのものなのかもわからないポスターが張られ、窓の手すりなどに用いられた金属の表面にはいちいち赤錆が浮いている。
 少し大きな震災なんて来たらみんな壊れてしまう――などと、つるぎは素朴な危惧を抱いた。人通りはとても少なかった。
 その中を、黒のスカイラインは巧く路地を縫って走っていく。サイドミラーが何度も生垣や電柱に触れそうになったが、その実一度も擦る事はなかった。彼方はこの辺りを走り慣れていた。自宅周辺となれば、当然といえば当然なのだが。
 気が早くも、木製盥の中で水に浸されている最中の西瓜が軒先に出されている木造の日本家屋、そこが黒種家だった。冷水が、傾きかけた初夏の陽光を反射していた。
 その玄関の前に、白い布が横たわっている。
 彼方が車内で目をすがめ、停車させたその横で、つるぎが凍りついていた。
「――白さん?」
「知り合いか」
 頷く。白い布に見えたのは、あの剣士の羽織っていた外套だった。黒い剣は脇に放られ、彼の身体はアスファルトの上にうつぶせに倒れている。
 つるぎはすぐさまスカイラインのドアを開き、剣士に駆け寄った。彼方もそれに続く。
 二人が彼の様子を覗き込めば、剣士の目を瞑ったその女性とも思える貌には、大量の汗が浮かんでおり、肩で息をしていた。
「大丈夫!? ほら――しっかりして!」
 つるぎが揺すらずにその頬を叩く。それで剣士は、真っ白い髪の間から瞳をうっすらと開けた。その瞳は紫色をしていたが、彼方は動じなかった。
 瞳の動きだけで周囲を確認すると、剣士はつるぎを手でゆっくりと突き放して立ち上がろうとした。が、その細い体躯が折れて、棒人形のように横倒しになった。
 まだ汗をかいているから熱中症ではない……だとするとなんだろう。わからない。いや、汗が乾いていないだけなのかもしれない。
 混乱しかけて剣士の肩を揺り動かし続けるつるぎを手で制して、彼方が荒い呼吸を続ける彼へ向かって囁いた。
「動くのは無理だ。ひとまず中へ運ぶよ」




「ん、寝ちゃった……熱中症ではないけど、ちょっと疲れてたみたいね」
 後ろ手にふすまを閉め、氷嚢を掴んで濡れた手をエプロンで拭きながら、髪を背で束ねた女性がつるぎと彼方に伝えた。二人はひとまず安堵を覚える。
 その控えめな印象の女性は彼方の妻だった。彼女は座布団に腰を落ち着けながら改めて、沙由(さゆ)ですと名乗り、つるぎに微笑んでみせた。つるぎも慌てて名乗り、頭を下げながら上目に観察したところ、二十代の半ばだろうか。若さにあまり似合わない落ち着きが漂っており、華奢な女性だった。
 三人が居るのは黒種家の居間である。深い茶色の木材と、ざらつく壁土で支えられた空間。それに見合った古さと色彩の調度品が揃えられているのは、以前の住人から使わない分だけ譲り受けた物だからなのだと彼方はつるぎに説明した。狭い庭に面した障子は開け放たれており、低いテーブルを囲む三人の顔を若干下から照らすように採光していた。
 新婚だもんで子供はまだいないんだ――と、つるぎが尋ねる前に彼方は教えた。
 扇風機の風にあたりながらも、うちわで咽元を扇ぎ始めた彼方がつるぎに尋ねた。
「白さんと言っていたけど、あれは誰なんだい」
 問われた彼女は逡巡する。何と答えたらいいのだろう。
 けれど、正直に言おうと彼女は今更のように小さく意を決した。ここに彼が現れたことも、やはり何か意味のあることなのかもしれない。それに、もしまた危険な事態に迫られるとして、彼方と沙柚の二人は知っておいた方がいいと、そう思った。追い出されるのは覚悟の上だった。信じてもらえるかどうかという懸念は、あまり頭になかった。
「あの人は――」
 つるぎは、昨日あった学校での事件、その少し前の日の下校途中にあった事――そして一連の戦闘は、おそらく自分が関わっている、いや原因であるらしい事を二人に伝えた。
 彼方は腕組みをして終始無言でいた。沙由は、彼方が聞くべき話なのだろうと二人にお茶を出しながら聞き流すつもりだったようだが、話の最後の方では真剣に耳を貸していた。
 つるぎが話し終えた後、妙な沈黙があった。
 先に口を開いたのは沙由だった。怒ってはいないとわかる、しかし無表情でつるぎに訊く。
「冗談では、ないのね?」
 つるぎは強く頷いた。
「はい」
「もしも何も起こらなさそうなら、私達にも黙っていようと思った。信じてもらえるはずないから――ってことかな?」
「……はい」
「…………。んー……」
 こめかみに指を当てて唸ったのは彼方。
「つるぎちゃんの話が本当だとするのなら。俺達もそう呑気に構えていられないな。――鉄筋の校舎をぶっ壊せる化け物が来るかもしれない。このぼろい家ばかりの一帯がどうなるかなんて想像もつかないよ。本当に備えようと思ったら俺達は君を追い出さなくてはならないが、その辺どうだろう」
 沙由はその言葉に対し少しだけ抗議の目線を送ったが、黙っている。
 昨日、恵子の言葉は無視して、こことは別の所に行こうとも考えた――などという言い訳をしても意味がない、とつるぎは感じた。今更、たらればを言っても詮無いことだった。
 今さっき置いた荷物を持ちあげる。
「わかりました。ごめんなさい、やっぱり出て行き――」
 立ち上がりかけたその背に、彼方は言ってやった。
「嘘だ」
 はあ、と嘘っぽい溜息をつく。演技を演技するのも大変だ、と彼は心中でひとりごちる。事情を知らないせいだろう、顔にこそ出ていないが、はらはらしながら様子を伺っている沙由がやけに可愛く見えた。
「その話が嘘か本当かは知らないが、実質行き場のない女の子をほっぽり出す訳にはいかないよ。人でなしじゃあるまいに」
「え……」
「君はこの家に居てもいい。歓迎だって気持ちも変わってない」
 振り返ったつるぎを正座のまま見返して、沙由も頷く。
「でもね、これだけ覚えておいて欲しいの。……何を気をつけたらいいのかわからなくなっちゃったら、すぐにとは言わないけれど、素直に人に訊いた方がいい、って事は。それが、つるぎちゃん一人の問題じゃない時もあるから」
 そういうことだ、と彼方がたしなめる。
 あ――とつるぎは気づく。自分はまた、同じことを繰り返したと。
 指摘された通り、もう何が、どうすることが正しいのかよくわからなかった。今もそうだ。
 昨日の、白い剣士の言葉が思い出される。
 ――『倉嶋つるぎ、退け。この黒い流砂はお前を狙うモノだ』――
 彼が悪意を混ぜずに伝えたのは只の情報。けれど少女は思ってしまう。あの惨事は、全て自分のせいで引き起こされたものなのだと。……自分一人で、手に負えない問題を抱え込もうとし始めてしまったのはそれからだった。
「ごめんなさい……」
(参ってんな、これは)
 無理もない、と彼方は思う。ごめんなさいを連呼しているのが痛々しかった。人死にが出てしまっているのだからありふれた感慨だろう。
 が、このまま落ち込まれるだけ落ち込まれても、面倒なだけといえばそうだった。そもそもからして責任感の強そうな少女だ。いいや、と彼は否定で切り出す。
「何が悪いのかってことを履き違えたら駄目だ。仮に本当に、その巨人とか、目玉とかの狙いが君だったとして……そいつらが存在する事自体、最初から『人にとって』悪だと思うがね」
 その時、たん――と、
「――その通りだ」
 寄りかかるように襖を開いて現れたのは、青年だった。今は外套だけ外され、上下共に細身の衣服が露わになっている。背中の裾がタキシードの燕尾のように伸びたその服は、やはり何処か異質な意匠だった。
 つるぎが、沙由が、彼の身を案じる言葉を発する前に、襖の縁に片手をつきながら青年は二の句を次いだ。
「此処は何処だ。今は何時だ」
「……ここは俺の家、今は六月二十一日の午後二時三十三分だ。君が倒れてるのを俺たちが見つけてから三十分以上経ってる」
 何故か、さも面倒くさそうに彼方は教える。
 剣士は部屋の中を見回すと、つるぎの姿を見つけて、しかし視線を伏せがちに別の方向へずらした。
「えっと、“白くん”でいいのかな?」
 彼をしげしげと不思議そうに眺めていた沙由が訊いた。彼は興味深そうな女性の視線が自分に向いていることに気づき、それから、そんな呼び名もつけられたな、と茫と思い返す。
「私の事か」
「うんうん。もう起きても平気なの?」
「ああ」
「そっかそっか、良かった。うん、じゃあ、白くんの分のお茶も持ってきますね」
 淡白な反応も意に関せず、沙由は胸の前で手を合わせて喜ぶと、薄い座布団から腰を上げてぱたぱたと奥へ消えていった。
 その仕草を見、なんだかかわいい人だなあとつるぎは思い、そして自分より先に沙由が、タイミング良く青年を気遣っていた事に何故かやや愕然とした。大丈夫? と慌てて訊く。青年はやはり、ああ、とだけ答えた。
「また、ここに、来るの……?」
 少しの間をおいてから、つるぎは青年にもう一度問うた。
 彼が何故ここにいるのかとは、もう問う意味はないだろうと彼女は思った。どうやってここまで来たのかという事もどうでもよく感じられた。真実として、『戦いしかしない彼』がここにいる、その事だけが今注視すべき事だろう。
 訊いてからつるぎは一瞬、頬杖をついた彼方を振り返り、そしてすぐ視線を彼の方へ戻した。
「……わからない」
 つるぎは青年に食ってかかろうとする。
「嘘を――」
「面倒な女だ。焦るな。今更お前に嘘を教えて何になると?」
 冷淡に言い捨ててから、彼はうちわを扇ぎ続ける彼方の方を見据えた。彼方はそれを思考の読めない真顔で見返した。何故かやはり、その様子に驚きの二文字は見られない。
「黒種彼方、お前は後悔しないのか」
 彼方は一応、事実を取り繕うためにこう訊きかえした。
「何故初対面の君が、俺の名前を知っているのかな」
「すぐに答えろ」
「……俺が何に後悔するんだ?」
「倉島つるぎを、本当にこのままここでかくまう積もりなのかと訊いてるんだ」
 彼方は肩をすくめて、皮肉っぽく彼の言葉を鼻で笑った。
「当然だろ。親友の妹だ。それに俺は、この子が気に入ったんでね」
「……たわけが」
 青年は舌打ちして後ろ手にふすまを閉め、壁にもたれた。今座るつもりはないようだった。
 一連の会話に、つるぎは言い様のない違和感を覚えていた。青年の口数が、無論饒舌とは言わないまでも、多い気がする。
「ともあれ君が、話に聞いた“白さん”か。改めて、初めましてどうぞよろしく」
 青年は彼方のその挨拶を当然のように無視する。意に関せず彼方が問う。
「最初に。君はつるぎちゃんの前に現れる化け物を退治してくれていると聞いたんだが、これは本当?」
「当たり前だ」
「そうか。ならばまずは、彼女を守ってくれて有難う。女の子は世界の宝だからな」
 ……何言ってるんだろこの人。つるぎはついにテーブルの向こう側にいる男に、ついに呆れを感じ始めた。自分が立ったままなのを思い出し、何故か馬鹿らしくなって荷物を置き、彼方の向かいに座った。もうお世話になるって事でいいか。沙由さんの居る時は結構まともな事言ってたのに……。
「では次。次にその化物がいつ現れるのかということは、もう把握してるのかな」
 青年は呆れたようにかぶりを振った。
「わからないと言ったろう。予兆が、昨日ほど精確ではない」
「ほう、逡巡でもしているのかな化物が。微妙な」
 揶揄するような物言いを聞き流し、青年は反論せずに黙った。
「予兆っていうのはなんなんだろう」
「お前達に説明したところでわからない。感覚だからだ」
「ほう……」
 彼方は顎の無精髭をじょりじょり言わせて撫で、少しだけ考えてから、
「……じゃあ次、そもそも、君の追いかけている男というのは何者なんだ」
 さっくりと核心と思われる事を訊いた。
 昨日望星高校に現れた「化物」は「男」とは違ったのだから。つるぎが先刻事の仔細を明かした時、彼方は彼女に尋ねていた。確かに「殺し損ねた男」と言ったのか、と。
 だが、青年はつるぎを睨みつけた後に、老いた声音でこう会話を切った。誰のことだ其れは――と。
 嘆息して、彼方は頭を掻いた。
「どうしても言えないの?」
「…………」
 睨まれても怯まず、つるぎも問うたが、彼はイエスともノーとも答える気はないようで、会話は終えたとばかりに他所を向いた。
 沙由が結局、全員分のお茶のおかわりを運んできたので、つるぎと彼方はひとまずそれをすすった。自分はお茶請けの煎餅の袋を開封しながら、沙由は言った。
「つるぎちゃんに今更嘘をついても、仕方がないと言っていませんでしたか」
「…………」
 彼方が沙由に、聞いてたのかと問う。彼女は小さく頷いた。
「無理に問い質すのは嫌なんだけど――でも、その事って、私にとってもきっと重要な事だから」
 それでも彼は、答えない。僅かに拳を握っただけで。
 彼方は諦めたようにかぶりを振る。
「まあいい。話したくなったら言ってくれ。そして俺達が協力が出来るのなら、何でもいい、指示してくれ。俺達は自分の生活を護る事にやぶさかではないんでね」
 彼方のその言葉は暗に、青年もこの家に置いておくべきだという意見を提示していた。彼は沙由とつるぎの方に向き直ると、構わないかと確認する意味で目配せをした。二人はそれぞれ、大丈夫だという意味で頷いた。つるぎにとっては、話したい事もまだあったからだ。
 青年は少し逡巡したようだったが、やがてこう言った。
「……それは、約束する」
 もうこれ以上、無用な死者を出すわけにはいかないから。

               ◆

「――今の仕事?」
「はい。んっと……差し支えなければでいいんですけど」
 そろそろ訊かれる頃だろうなと、彼方は思っていた。平日毎日家に居たのなら、疑問に思われるのは当然といえばそうだった。
 黒種の家に、つるぎが青年と共に泊まる事になって三日目、昼食の席での事だった。鍋一杯に作っても四人なら食べきれるよね、と沙由が云い、毎食のようにつるぎも手伝ったその時のメニューはカレーライスだった。まだ子供の居ないこの家では、普段あまり作らないのだという。
「私立探偵だよ。ここが事務所なんだ」
 面倒だったので、彼方はタッパーの福神漬けを皿に取りながら即答した。
「うちはね、世襲制なんだ。二代前からだけど」
「……………………そうなんですか?」
 探偵、で、世襲、ときた。つるぎはスプーンを口に運ぶ手を止め、一瞬言葉を失ったが、そんな家系もあるのだろう、と若者特有の適応力を駆使して思い直す。
「あれ、でも、世襲って……以前は医療機器の製造会社に勤めてらしたんじゃ?」
 彼方は何故か、やや苦い顔を作った。
「んー……そこはまあ色々あって、ね。親父と同じ道なんて歩いてたまるかって、理系の大学に通って、そっちに一旦就職したんだ」
「おおう……男前ですね」
「どうだかね。結局クビになってしまって、今はこうやって親父の思惑通りになってしまってる訳だし」
 二人の会話に、興味深そうに耳を傾けていた沙由が驚いた声を上げた。
「え、前のお仕事って、辞めさせられちゃってたの?」
「話したことなかったか?」
「ないない。というか全然違う事言ってたよ? 会社が終戦のあおりを受けて倒産しちゃったから、とか」
「そうだったっけ? ……しかしまあ、戦争から滴る蜜に集まるメーカーなんて、大量生産しかしていないだろ、多分。潰れて良かったんじゃないか」
 まるで他人が勤めていた会社の事のように云う。
 しかし沙由は、既に違う事を考えているようだった。
「うーん……。……あ、違う事って言えばこの間もそうだよね。高校の時の友達に、彼方のこと三十四歳って教えたら、三十六だぞ、って……実は二つ上だったなんて、なんとなく言い直しにくい」
 むう、と沙由は憤然としてむくれる。
(経歴詐称……なの?)
 ちょっと大きな勘違いなんじゃ、と、無論人事なので自分のカレーにマヨネーズを足しながら苦笑するつるぎだったが、
「それ、お前が勘違いしたとかじゃないの?」
 彼方は首を捻って訊き返していた。
「ちがうよ。私ちゃんと、彼方と会った時教えてもらった歳から数えてたもの。気になったから彼方の保険証とか探してみたんだけど、どこにも見当たらないし」
「そんなことしてたのかよ……」
「どうして何処にも身分証、ないの? これじゃあ何かあった時困ります」
「全部頭の中に入ってるんだ、本籍も交付日も認定日も沙由とキスした回数も。……というのは嘘で、いやキスした数は覚えてるけど、然るべき場所に閉まってあるよ。だから大丈夫」
 そんな話のすり替えめいた睦言を紡ぎながら、沙由の髪を撫でる。
「…………覚えてるのなんか当然です。もういいです、いっつも言ってる事適当なんだもん。ばか」
 身分証は現物があることが重要なんですよ、と律儀に冷たく突っ込もうとしてつるぎはやめた。馬鹿、と夫の胸を軽く拳で叩いた、沙由の顔がそうまんざらでもないものだったからだ。ごたごたは彼方の口車により、一瞬でその萌芽を摘まれたらしい。
 沙由さんこういうのが好きなんだ……と、つるぎは彼方に対するものとは違う意味で呆れそうになる。それでも彼女の仕草が可愛らしかったので、突き放し切れないのが自分でも意外だった。
「……たわけが」
 四杯目のおかわりをつるぎに要求しながら、それまで一度として会話に参加していなかった青年がぼそりと感想を漏らした。
 つるぎは二人の様子を傍観し、何故か小さなわだかまりを覚えていた。


 夕方。
 その時、沙由は町内会の集まりに出て行き、彼方は秋葉原まで傍受の為の機器を揃えに行っており、黒種家には青年とつるぎの二人しかいなかった。
 つるぎは二階、黒種夫婦の寝室に一人で居て、貸してもらった端末とヘッドフォンでロックを聞き流していた。身体伝導のスピーカーもいいが、昔からある大きめなヘッドフォンで、鼓膜に直接ビートを刻まれる方が彼女は好きだった。
 彼方がそもそも神田に居を構えようと思ったのは、探偵の仕事に必要な機材を楽に揃えられる秋葉原に近いからなのだという。何処まで本当なのかはわからなかったが、彼はつるぎにそう云っていた。
 叩きつけるようなサウンドを耳にしながら、つるぎは畳に正座したまま、天板をガラス張りにしたカジュアルなテーブルの上に、うなだれるように首を垂れてぼうっとしていた。
 開け放たれた窓と障子の間から、終わりかけている橙の日の光が目に痛いほど強く差し込んでおり、人いきれのように濃い湿気を含んだ梅雨の風がつるぎの前髪を揺らした。気の早い日暮が一匹だけ鳴いていたが、人工的な音に身を預けた彼女の耳にそれは届かない。
 ここ数日、何もすることがなかった。
 自分を狙って訪れる筈の「何か」について対策を考えるでもなく――考えようもなく――、彼方と沙由の二人も何故か敢えてその話題を避けているとわかったので、つるぎが出来る事といえば、ご飯づくりの手伝いと、青年の傍を離れないこと、それだけだった。
 無論突っぱねられるだろうと思って気がひけたが、玉砕覚悟で青年に自分に何か出来ないかと問うた所、私の傍に居ろ、それだけでいいという返答が返ってきていた。
 一瞬、現実逃避のように、故に根拠もなく、それが高圧的な恋の告白かと吃驚しかけた彼女だったが、実際それは、お前には何も出来ないという宣告の言い換えであった事に気づき、青年に対して不条理な怒りを抱き、しかしすぐに萎み、また無力感が押し寄せてきて何も言い返せなかった。
 反面、恐怖だけは不吉な小石のように積み重なっていった。
 今日も、何事もなく、一日が終わっていく。
 しかしそれは、「あの五人」という死者の上に成り立つ一日でしかなかった。それが怖かった。
 いつ来襲するかも精確にはわからない怪物の事より、あの五人に、自分の眼の届かない所から覗かれているような気がしてならない、その事に大きな空恐ろしさを覚えた。
 つまり、自分があの人達を殺してしまったのだと、感じていた。
 その中の一人として顔など覚えてはいない。一人だけ居た教師にも、関わる機会が無かった。しかし真実として、現象として、あの廊下ですれ違ったかもしれない人が、自分のせいで死亡しだのだ。
 自分さえ学校に居なければ、否、それこそ最初から居なければ――。
 思考が無闇と昏い方へ落ちていく。普段、それは意味のない事だから、適度な所でよしておけ――と思考を食い止めようとする理性領域が、何故か今日は殆ど誰かに蹂躙されて死んでいた。そこで思考を辞してしまえば、死んだ五人を、今一度自分の手で殺し始めるような錯覚に陥るからだった。
「――――」 
 青年には頼れない、と思った。基本的にあの人は――怖い。だからこその憧れもあったけれど、今はその畏れが先に立った。
 彼方は信用しづらい、と思った。
 沙由は――受け止めてくれるだろうか。
 そして唯や恵子は――ここにいない。
 ああそもそも、わたしには、頼る所なんてなかったっけ――自己愛だと自覚しながらもそう思い直す。それに何から打ち明けて良いのか全くわからなかった。打ち明けた所で、悩むな、悩んでも仕方ないと切り捨てられて終わるだろう。沙由が「一人で悩まないで」と言ってくれたことを覚えていたが、今のこれは如何考えてもわたしが一人で落ち込み始めているだけだ、と、思ってしまう。
 だから――頼ってしまうのは、駄目だ。
 端末のスイッチを切り、乱暴にヘッドフォンを外し、部屋の隅にたたんである布団に仰向けに埋もれた。
「…………ん」
 ――不意に、途端に薫ったのは、ひとの匂い。
 おそらくそれは女性と男性のそれが入り交じっているのだろう。
 彼方と沙由を見て感じたわだかまりは、これだった。何故だかわからないけれど、二人が仲良くしている所を見るのが、彼女にとっては少しだけ辛かった。……わたしには誰も居ないというのに。
 ――「入り交じって」。
 そしてそう、普段去来する微量の夢想が、もう正常な歯止めが白痴のように薄っすらとしたものへと弱り果てていた少女の思考を、瞬く間に塗りつぶし始めた。
「……なんて嫌な子、なんだろぅ……」
 しかし彼女の口と手は、最後の理性で紡がれた言葉とは反対のことをし始めていた。親指の腹を甘噛みして、もう片方の手をおそるおそる下に這わせた。
 少女は物悲しく鳴く日暮に耳を塞ぎ、橙に燃える太陽にも目を瞑ろうと思った。
 一時の、瞼の中の闇と夢想と静寂に甘え、もう自分の、脆弱で切ない息づかいしか聞こえないようにと。

 ……彼女がそう、本能領域での決心を固めて暫く、開いたままの窓から白い人影が降り立った。


               ◆


「ただいま」
 がらがらと軋む、擦り硝子をはめ込まれた引き戸を開き、沙由が帰宅した時、
 二階から、
 なんであんたが出てくるの――
 という女の子の凄まじい怒声が聞こえて来て、直後、ふすまに何かを叩き付けでもしたのだろうか、階段を通じてよく響く物音がし、次に盛大に何かを倒す音がした。
 自分への怒鳴り声なのだろうかと、根拠もなく沙由は一瞬目を瞑り首をすくめた。しかし階段の上、廊下だろう、そこでまだ責めたてるような叫びは続いている。自分へ対するものではない、そして只事ではないと把握して、彼女は荷物を玄関に放り階段を駆け登った。
「どうしたの、大丈夫!?」
「………………ぁ……」
 部屋の外側に倒された襖の上、つるぎが青年を押し倒してその上に馬乗りになり、彼方が貸したパーカーの襟首を締め上げていた。
 涙目になり耳まで紅くして、しかし憎しみだけを抜け落とした表情で、つるぎのみが沙由の方を振り返っていた。
 少しの沈黙に、日暮の声の一小節がすっぽりと収まった。
「つるぎちゃん……?」
 つるぎの表情に、恐怖と混乱がありありと拡がっていくのが見て取れた。青年はつるぎに横顔を向けており、沙由の側からは表情を伺い知れなかった。ただ、抵抗する様子はない。
 沙由は直感的に、ふすまを外されてしまった自室の中を覗いた。そこには、ガラステーブルの上にヘッドフォンが投げ出されており、口の開いたつるぎのショルダーバッグがあり――女性の下着がうち捨てられて居た。
 沙由の表情がさっと変わる。そして、青年の方を凝視した。
「あなた――」
「違う……違うん、です」
 俯いて慌てず、少女は目を背け、何故か居た堪れない程恥じらいながら懺悔の様にぽつりと否定した。
「あ……」
 今これ以上問うことをしてはならない、と沙由は自分に言い聞かせた。同時に状況を察して、安堵した。ともかく――良かった。
 やがて青年が、
「……退け」
 命令しながら、ゆっくりとつるぎを押しのけて立ち上がる。
 彼はやはりというべきか、いやこんな時でも――無表情だった。しかし沙由にだけ見て取れる困惑も、その顔に浮かべていた。
「白くん、ごめん。ちょっと席外してくれるかな」
 沙由が二人を、等量に見比べて云う。
「……わかった、屋根に居よう」
 そう云い、開ききった障子から身を乗り出し、瞬く間に屋根へと登って行ってしまった。彼はそこで、食事と休憩の時以外はずっと周辺の警戒にあたっていた。
 彼が上に登りきるのを見送りながら、あとで差し入れを持って行ってあげなくちゃ――と沙由は青年に対してすまなく思う。そしてつるぎの隣に座って、その肩を優しく抱いた。
「まず、下いこっか。――パンツ大丈夫?」
 廊下にぺたんと座っていたつるぎは、放心したように彼女にされるがまま、本当に微かに、ん、と頷いた。



 二人は居間に降り、隣り合って座った。涙目で呆然としているつるぎの肩を、沙由がゆっくりと擦っていた。
 頃合を見て、沙由は話しかけた。
「……途中で入って来られちゃったかあ」
 沙由が持ってきてくれた、グラスに入ったポカリスエットを茫と見つめながら、泣き腫らした顔のつるぎはやはり小さく頷く。
「駄目だよ、ちゃんと鍵かけとかないと。間違って入って来た人、困っちゃうから……」
「軽蔑……しないんですね」
 つるぎは素の疑問をぶつけた。友達はみんな――無論、明け広げに「そういう話題」を喋る人物も居たが――こういう話に関して、こと冷たい態度を取るからだった。
 沙由はつるぎの歳若い疑問に敢えて、ううん、と首を振った。それから、皆案外していると思うよ――とだけ正直に答えた。
「…………そうなんですか」
「うん」
 だから沙由は、つるぎが何故そうしたのかということをわざわざ訊かない。ちょっと色々疲れちゃってたんだろうな、と浅く推察しただけで。
 しかし、年長たる彼女は疑問を覚えた。青年に暴力を振るおうとしていたのだから、このことは尋ねなくてはならない。
「恥ずかしかったのはわかるけれど、どうしてあそこまで……怒っちゃったのかな」
「あれは……」
 少女は何故かいじらしく言い淀む。
 「その行為」をしていた事より打ち明けにくい事とはなんだろう、と沙由は首を傾げた。
 つるぎは暫く黙りこくった後で、やがてゆっくりと言葉を紡いだ。
「あの布団だったから、彼方さんが出てきて、どうしてかわからないけれど、その後……白になったんです」
(……呼び捨てになってる)
 気づきながら、沙由は頷いて先を促した。自分の夫がこの少女の夢想の中に現れていた事は、この際如何でも良い事だった。
「あの人、終わって、換えてる時に丁度、来て……でも、わたしが何をしてたのか知ってる顔してるのに、いつもみたいに無視して」
 紛れも無い悲しさが、少女の幼い顔を占めていた。
「……だからわたし、言ったんです。軽蔑してよ、って。こんな時に何してるんだって怒ってよ、って……」
「…………」
「でもやっぱり、なんにも、言ってもらえなかった」
 少女は自嘲するのとは違う、儚い笑みをもらした。
「だから怒っちゃったんです。自分が馬鹿みたいで、何で想像の中にあなたが出て来たの、って」
 言いながらまぶたが熱くなってきていた。なんて情けないんだと叱咤してみても、止まってはくれなかった。
 手で必死に涙を拭きながら、つるぎは子供のようにしゃくり上げ始めた。
「ばかみたい……ほんとに……」
「そんなことない」
 少女の細い肩を抱き寄せ、困惑していた青年の顔を思い出しながら沙由は語る。
「多分だけど」
 一度うん、と自分に対して彼女は頷いた。
「本当に吃驚して、何を喋っていいのかわからなくなっちゃったんじゃないかな、白くんは」
「……でも、驚いてなんて――」
「そうかな? 本当にそう、思う?」
 問われると確証がなくなるつるぎだったが。けれどあの青年が驚く、という人間っぽい感情を表すことなんて、
「――ぁ」
 そこまで考えた時、つるぎは自然と声を漏らしていた。
(人ではないって、思ってた?)
 そして自分の、その冷淡ですらある思考に愕然となる。
(人らしい気持ちが、白に見つけられなかったからって?)
 少女の様子を見て取って、沙由はもう一度微かに頷いた。
「あの人、いつも感情を表出しにしないでしょう? ならもしかすると、予想だけれど、心の中で笑っていても泣いていても、同じ表情をしているんじゃないかなあって……時々思うの。つるぎちゃんもわかってはいると思うんだけどね」
「…………」
「男の人は、特に極端に強い人や弱い人は、だからこそそうなのだけど、考えている事が――自分の中の認識が一つの方向に向いてしまってそのまま、っていう事が時々あるから……。つるぎちゃんって普段大人しいから、あんな事する筈ないって思ったんじゃないかな、彼は」
 それだけ女の子の情は深いし、人は多面性を持ってるって事なんだけどね――と苦笑いしながら沙由は付け足す。青年にその手の経験は皆無なのだろうという予想は、敢えて口にしなかった。
 けれどつるぎは別の事を考えていた。沙由が今言った事は、優しい言い訳を自分に教えてくれているに過ぎないのだと、そう理解した。
 何より“白という青年”の事を理解しようとしなかったのは、自分も同じだったのだから。
「でも、ちょっと、白くんに甘えちゃったね」
 沙由の言う通りだった。互いにすぐには理解し合えないという対等な立場で、「どうせ彼の事だから」抵抗されはしまいと、いや何も叱咤してくれないのならと、掴みかかったのは少女の方。少女は小さく頷いた。
「…………謝らな、きゃ」
 涙を止め、しかしまだしゃくり上げながらつるぎが言って、
「ううん?」
 沙由は首を横に振った。そしてきっぱりとした口調でこう続けた。
「謝るのは、男の子の方。入って来ちゃったのもそうだけれど、何も言ってくれないのなんて駄目だよ」
 そう言って沙由は、母性的に微笑んだ。
「…………謝らなくても、いいの?」
 知らず、敬語が取れていた。
「うん、いいの。待ってても、いいんだよ」
 でもちゃんと、許してあげてねと、沙由は確りと少女に伝えた。余計な話はもういらないだろうと思ったから、本当にそれだけ。
 つるぎはまだ目に涙を浮かべながら、けれど自然と顔に温かみを拡げて、見ていた沙由が本当に可愛らしいと思える表情で微笑んだ。
 あんな所を見られてしまって情けないし、死にたいくらいに恥ずかしいとは、思う。
 けれど一時、そんな事は如何でも良いと思えるくらいに、今の少女には、沙由に貰えた心づくしの言葉が、途方もなく嬉しかったのだった。

 その後二人は、夕飯の支度も忘れ、星が輝くまでたわいもない話をした。
 その日は、深夜に近くなるまで、雨が降る様子はなかった。

 ――そうして、モラトリアムは終わっていく。






 六.





 ――夜が視えるか?


 眠るたびずっと瞼の裏側に浮かんでいたのは、深々と降る雪の中、妖精の様に踊る少女の姿だった。
 もう、その前後に何があったのかという事を鮮明に思い出す事は叶わない。
 しかしその後に見た情景ばかりが、オレの息をし、歩を進める為の一つであり全ての理由だった。

 軍服の大人達と衛星(ほし)の見守る、およそ端の見えない荒地だった。しかし彼女は、オレからすれば気がふれたのではないかと思える程のはしゃぎようで、足元の土壌を確かめるように、冷たく澄んだ大気と戯れるように、両手を広げて空に微笑みかけ、長い髪をたゆたわせてくるくると回り続けていた。妙な鼻歌さえ聞こえてくる。
 綺麗だなと思った。

 けど、雪っていう情景とか、その中で舞う少女っていうモチーフに見とれたんじゃない。

 血を吐くほど辛い思いをしても、自害に及んでもまだ足りないようなこの状況下で、いつになっても笑みを絶やさない彼女の立ち居振る舞いに、憎悪にも似た激しいものを感じていたのだ。とうの昔に笑う事を辞めたオレからすれば、それは弱者の妬みに違いなかった。
 後になって知った事だが、造形として作為的に弥生系の日本人をベースにされたのだというその貌は、全くと云って良いほど日の光を浴びる機会が無かった為だろう、色が病人のように白く頬がこけていた。だが、幼かった自分達同士を比べてもより優しかったと思う。そしてオレと同じ黒髪をしていた。
 初めて見る雪にはしゃぐ小さな背中に、おまえは部屋の向こう側で良いなと、その時のオレは殺意さえ込めて心からの毒を吐いた。
 途端に、振り向いたその大きな瞳に涙が溜まって、軽い平手を貰った。大人に着させられた互いの粗末な防寒具が、周辺に埃っぽい匂いを撒き散らした事を覚えている。

――このわたしが、羨ましいと、その口が言ったのか――

 声には出さなかったが、その時彼女はそう言ったのだと思う。鬼の様な形相だった。
 詰め寄られてもう一度平手。責め立てるように詰問するように、逆側からもう一つ。
 次に平手は拳に変わった。そして雪の上に倒れたオレは馬乗りになられて、殴って、殴って、殴られた。途方もない数。そして殴っている方の拳に血が滲む程長い間。
 身体は脳は反撃を起こすつもりもないようで、つまり心地良い陵辱を施されているのかと錯覚させられるほど執拗に殴られた。向こうも同じ事を考えていたのか、優しい少女の口元には恍惚とした、蕩けるような微笑が浮かび始めた。大人達は彼女がオレの首に手をかけ、息の根を止めにかかった時にやっと動き出し、彼女をオレから引き剥がし、羽交い絞めにして取り押さえた。
 危なかった。そんな人生の卒業の仕方を強いられても困るものだ。
 彼女は暴れもせずに捕まり、同じ笑顔のまま柔らかな降雪越しに、舌足らずな可愛らしい口調でこう囁いた。

「――きみにもいつか見せてあげる。
 何も出来なくって、かみさまにお願いすることしかできないときの、あのまっくらなけしきを――」

 瞳を瞳孔ごと散大させ始めた彼女は、鎮静剤を打たれ、奥へ連れられていった。
 なんだ――と口内の血を吐き捨てながらオレはつまらなげに独白した。あいつも、オレと同じくらい辛かったのか、と。
 そういえばあいつは笑ってしか居なかったなと、その時やっと気づいたのだ。笑うことしかないあれは、決して笑わないオレと、何が違うっていうんだろう。
 だから、

 一人で取り残された荒地で、ぼうっと、でも自然に、あいつを護らなくちゃなあと思ったんだ。

 そういう結論や感慨に達するように誰かから仕組まれているのだという、知った気になっていただけの、けれど頑健な予防線は、その瞬間を境に如何でもよくなっていた。多くのことが溢れて決壊したんだと思う。
 そう思ったから、それ以後辛い事に直面するたびに、幼心に自ら背負い込み、だからこそ自覚させられた。
 このオレの手は、足は、血は、肉は、骨は――眼球は脳髄は毛髪は、彼女を助く為に在って、他に意味なんて在り得ないんだ、と。

 他の事は何も考えられなかったし、見えなかった。
 昔から今まで、それだけ。


 ――おまえはまだ、優しかったあの闇を覚えているか?

               ◆

 半月に近い三日月が、夜空の中でもその色とわかる黒い雲に喰われていった。雨である。
 雨は、黒種と筆書きされた表札の家の前に立っている、黒い外套を羽織った男の身体を見る間に濡らしていった。
 その男の全身は黒で統一されていた。外套の裾はもう十年も着込んだものかと思う程に擦り切れていて、ざんばらの黒髪も何処か浮浪者を思わせた。まだ筋肉の薄い首筋は若者のそれであり、鋭角的な顔立ちは美貌とわかったが、しかしその貌は、口に水を含ませれば棺の中に居ても差し支えないと思わせられる程の、生気の薄さが伺えた。
 ずっとそこに居たのだろうか?
 男は自分が見つけられている事にとうに気づいていた。目の前の木造の日本家屋――その屋根の上から、つい笑い出してしまいそうな程尖った敵意と殺気が発せられていたから。
 泣き出した夏の虚空に自分と同じ紫の双眼が浮かび、観察されている気さえする。
 彼は痺れた。
 ヒトの世の物では在り得ない地力に裏打ちされ、敵対する事に自身の滅びを約束されるこの威圧感に。
 ――つい、その滅びに寄り添ってみたくなる。
 現に一歩でもこの家の敷地に入り込んでしまったのなら戦わざるを得なくなるのだろう――と彼はただ自覚しながら、外から中へと声をかけることにした。喉が渇く程疼いて仕方がないが、それでも彼女を目にする間、問答無用の暴力を振り向けられるのはごめんだった。
 一時言葉を交わすくらいなら、冥土への土産として許してくれるだろう。そう無謀な打算を持ったのだ。
「……ごめんください」
 屋根の上の白い青年は動かない。
「はあい」
 懐かしい声だなと、倦み疲れかけた瞳の奥で男は思う。それがよく知った人物のものだとわかったのは、落ち着きの度合いから推し量れる声の歳の頃から判断しただけだったが。
 やがて玄関から、サンダルを突っかけながら長い黒髪の小柄な少女が軒先に出て来て、
「えっと……どちらさまですか」
 きょとんとしながらそう尋ねた。無理もない、玄関口に現れた彼の容姿は如何見ても人間だったから。
「名は、」
 伏せていた紫の視線を、男は少女の大きな褐色の瞳へと向ける。
「名前なんて、ないんだ」
 そう、寂しそうに――けれど初めて生気を灯しながら嬉しそうに、少年のように彼は微笑った。
「やっと会えた」
 細い身体を抱きしめてしまいたい衝動を必死に抑えて、手を差し伸べる事もせず、黒色の彼はただ心底から嬉しそうな顔をして微笑んだ。
 軒先の少女――つるぎは思わず、あれ、と零していた。

 ――「……名は」――

 ――『名は、』――

 ――「名前など、ない」――

 ――『名前なんて、ないんだ』――

 脳裏にいつかのやりとりが思い出される。
 途端、
 心臓を鷲掴みにされるような存在感が、二人の頭上で膨れ上がった。
 あらゆる観念をまさに俯瞰する様な、圧倒的な負の肌触り。
 それが何なのかと確認されるその前に、二階、瓦屋根の上から玄関口に向かって白い死神は頭から飛び降りた。
 漆黒の切っ先を敵の喉元に向けて。
 落雷めいた強襲に備えて脚を開き、黒い外套の人影は躊躇いの無い所作で、柄底に掌を当て己の獲物をほぼ垂直に突き上げた。
 寸分狂わず剣の頂点同士がかちあい、紫炎の灯る視線が交差して一瞬――
 火花を散らして突撃を受け流した地に立つ青年が、左脚を主軸とした全回転、そのスラッガーめいた一撃で相手の獲物を強打した。
 鈍重な鋼鉄を弾けさせる、耳をつんざく様な音。
 しかし己の黒剣を放さない白の青年は落ち葉のように吹き飛ばされ、故にこそふわりと、路地の八メートルほど先、円形にアスファルトを照らす街灯の明かりの中に着地した。それほど距離を離されたのである。
 ゆらり――と起き上がる彼と、未だ玄関から一歩も動いていない彼の、同じ紫色の視線がもう一度繋がった。
 雨が降り続くにつれて、虫達の声が遠ざかっていく。
 白い外套の中に剣を納め、青年が言い放った。
「待ちわびた」
 彼の口の端にはいつかの様に、戦いの機会を嗅ぎ取って歓喜する破綻した笑みが浮かんでいた。
 無論である。
 今、跳べばひと撫でで首を落とせるその距離に“奴”が現れているのだから。
 玄関先の二人は、全身をくまなく毒矢で射殺されるような錯覚に陥る。敵意の対象でないつるぎが膝を笑わせて、その場にかしずいた。
 対する白色の彼は、燃え立つ様な表情で、しかし静かに思い返していた。
 長かった。
 十年前、如何してあんな小さな子供を葬らなければならないのかと、神様とやらに抗議を申し出たくなった時もあった。
 そう、そもそも最初は憂鬱だったのだ。吐き気さえした。目覚めた途端、いや産まれた直後に、連中の満場一致して望んだことが、人として七歳程度の子供を消し去る事にあると思い知らされたのだから当然だ。
 それにこの、白い剣士という肉体の意志――成り立つ過程で付加される属性――も無視出来るものではなく、つまり身体も、その黒い子供を殺める事を拒んでいた。
 しかし殺した。行動に移す上では容赦なく。
 けれど生きていた。やはり一滴ばかりの情けが残ったために。
 だから“連中”は、その護り手である彼に、憂慮の種を摘み損ねたその時から今までという十年の間休眠を強いた。
 休眠とはいえそれは、意識のある人間を無理矢理に土葬する事と同義だった。死ぬことも許されなければ、肉体がないから食べることも、眠ることも、会話することも叶わない。途方も当ても際限も無い、黒と紫が永遠に交わり続ける空間に剥き出しの姿でプールされたまま、思考だけを許可されたのである。
 そして、彼という精神は人のものとは違ったが、それと繋がりを果たした肉体が人である以上、時の体感は常人と同じでしかなかった。
 故に、彼は破綻した。
 連中が意図したのはそう、洗脳にも似たこと。
 結果として現れたのはつまり、一人の男の自壊。
 “彼”に最初に設定されていた最低限度の人間性は余すところ無く死に、代わりに、連中の手から離れ隷属する事を終える唯一の方法――“奴”を世の中から抹消するという認識だけが入り込んだ。
 他の事など――如何でもいい。
 私は自身の死と消滅と、その先にあるはずの自由を勝ち取る為の戦いしか――行わない。
 それは固い決意ではなく、唯一の解答。
 誘う様に敵に剣を突きつけて、云った。
「あらゆる全てを諦めて辞せクサナギ。必ずお前は私に殺される」
 黒い外套から獲物を引き出し、構え、他方の青年が返した。
「知っているよキリエオラス。でもそれがどうした?」
 それらは固有名詞ではない。故に彼ら二人の名前はない。片や獲物の銘からついた仇名、片や種や存在としての呼称である。
 草薙、と呼ばれた彼の持つのは――片手でも扱いうる程のサイズの黒い剣である。両刃の刀身の中ほどに、彼の瞳と同じ色の玉が嵌め込まれていた。
「オレは必ず君を殺すが、どうせいつか、君の意志を継いだ何かがオレを殺し返す。
 君は、君自身が宿っただけのその身体が死ぬ事で、潰えたりはしない存在だから。
 君は彼らに命じられるがまま永遠に生き続け、オレは個人として刹那で役目を終える。勝ち目は無い。故にオレは、十年前にあらゆる事を諦めている」
 同じ瞳、
 同じ獲物、
「けれど一つだけ、どうしても取り戻したいものが――あるんだ」
 しかしてクサナギはそうどこまでも真摯に云い、彼もまた誘うが如く、キリエオラスに向かって剣を突きつけた。
「だからもう、どうしようもなく潰し合おう」
 これ以上の言葉は要らない。
 対峙する二人は、一時傍らの少女の事さえ忘却して、暗黒色の雨天に舞い上がった。

                 ◆

 黒いマントを羽織った男の人は一瞬だけ、座り込んだわたしの方を振り返って優しく――一瞬のことだったけれどきっとそういう顔だった――笑い、夜空に吸い込まれるみたいに飛び上がった。思わず、舞い上がりそうになる髪をわたしは抑え、眼を瞑る。
 それから二人の飛び去った方を見やる。白と黒の点は軽業師のように物凄い速さで屋根づたいに移動していって、時折金属同士をぶつけ合う澄んだ音が小さく聞こえて来た。多分あの黒い剣同士で斬りつけ合い始めたのだ。
 背筋に無数のなめくじを這わせたみたいに、ぞっとした。指先が一瞬にして冷えたのがわかる。
 四日前の、燃えている学校の情景がフラッシュバックする。
 落ちてくる灰色の瓦礫を、獣みたいな女の子の金切り声を、白い服に滲んだ鮮血を思い出す。
 戦いの、匂いがした。
 彼方さんと協力するって、言っていたのに。
 玄関に現れたあの人を見つけた途端、白の気配が豹変した。人から別の何かに変わったみたいだった。それはつい数日前も感じた雰囲気。白の目的は、十年前に倒し損ねた誰かを今度は必ず――ころしてしまうこと。
 ということはきっとあの人がそうなんだ――
 黒い外套の男の人――白からクサナギと呼ばれていた――は、無防備に微笑みながら何と言ったか。

『やっと会えた』

 その声に、不吉な感覚を感じるより先に、
 手の届く場所から遠くなってしまった情景が被ったのは何故なんだろう。

 何一つ訳がわからなかった。
 ただもう、きいんと響きながら遠ざかっていく金属の音色は自分と関係の無いものである筈がなくて。わたしは焦燥に突き動かされて――追いかけなくては――そう決めて、走り出そうとした。
 と、そのわたしの肩を誰かが掴んで制止する。凄い力。わたしはがくりと、人形の様に首から上を前倒しにしてしまう。
「行っては駄目だ」
 彼方さんだった。――いつの間に中から出てきたんだろう。
 彼方さんは二人の飛び去った方角を見上げて、ゆるくかぶりを振った。
「馬鹿野郎共が……」
 そして呆れ返ったような様子で呟いた。今からやりあうつもりか、と。
 まるで二人を知っているみたいに。
 その表情は脂汗を流すくらい焦りにまみれながらも、積み将棋をするみたいにぐりぐりと何かについて思考していることがなんとなくわかる。
「あれは一体誰なんです!?」
 彼方さんの様子を伺っていたわたしは、走り出す事を諦めて訊いた。一から十まで直感だが、この人は知っている、答えてくれると感じたから。
 そして彼方さんは何かに気づいたようにはっとし――けれど途端に無感情になってわたしの顔をじっと見て、
「それは――」
 淀みのない、返事と所作で、
「――本人に直接尋ねるといい」
 わたしの右目に、懐から取り出した黒金の拳銃を押し当てた。

                   ◆

 怒号一声、
 白と黒の二人が、渾身を以て切り結ぶ。
 既に住宅街を抜け、二人はネオンで視覚の確保しやすい電気街まで移動していた。純白の衣装のキリエオラスが一旦逃げをうち、ここまでクサナギを牽引してきたのだった。灯りの乏しい場所では、彼の白色は目立ち過ぎ不利でしかない。
 八階建て大型電気店の直上――傍に寄れば赤々と燃える炎と見間違うような、オレンジ色のネオン看板の輝きを直下から受け、鍔迫り合いの姿勢を崩さずキリエオラスが問う。
「それは何だ」
 相手の獲物を見て。
 それは、キリエオラスの持つものと似た意匠の、やはり黒色の剣。ただ彼の大剣とはサイズが異なり、クサナギの持つ方は片手でも扱いうるような按配だった。
「――君のと同じだよ」
 言下にクサナギは、不意打ち気味に刹那だけ柄を握る力を弱める。そうして引き込んだ相手の刃を、やはりいなすように左方向へ敵の身体ごと弾いてやった。
「十年かけて新調したんだ。奪われてしまったから」
 彼らはネオン看板の淵で対峙していた。だからキリエオラスが体勢を崩した方向には、何も無い。
「――――」
 キリエオラスは、動物的な体重移動で感を得る。外套の端を敵の剣に刻まれる感覚を得ながら看板の角を蹴り、電気店の通りを挟んだ向かい側、ほぼ同じ高さの建物に飛び移った。一瞬前に彼の立っていた場所をクサナギの剣が薙ぎ、スパークと共にネオンの縦一列が死に、消えた。
 ざりり、とブーツの底を擦って白の剣士は着地する。
 二人の間、十メートルの距離を再び雨と、夜と、呑気に瞬くオレンジの輝きが埋める。
 互いの立つ建物が挟んだ下は歩行者天国で、繁華街とはいえ夜の街とは言いがたい秋葉原の路地に人は多くは無い。
 それくらいが救いだろうか――とキリエオラスは強制された無意識下で思い、クサナギに関しては周囲の人間の有無は考慮の内にない。
 挑発の意味を込めながら、キリエオラスが向かいのビルへ向かって叫ぶ。
「なんだ。お前、ヒトの仲間がいるのか」
「そうとも」
 クサナギはあっさりと答える。
 事実をキリエオラスに漏らす事に、さしたる重要性が無いかのように。
 性能の上下に関してなど知れる筈もないが、仮にも自分の剣の模造を謡うのなら、複製したとしても十年では足り得ない、ましてそれを一人で行う事など不可能だ。組織だった協力者――バックアップが存在するらしい。そう彼は、当然の帰結を導く。
(……どの道警戒する必要性は増えたな)
 それはそうだ。このような莫迦に協力する、或いはそれを利用する人間などは、あらゆる意味で破綻している。彼は節度を喪った人間ほど恐ろしい敵はいないと、無条件にその味方だからこそよく知っていた。それが冴えた殺り方で対処してくるのなら、何度殺されるかわかったものではない。今までのような化け物と延々戦い続ける方がまだましというものだった。
 思い、しかし揶揄したような笑みを湛え、白色の騎士は挑発の態度を崩さない。
「――全く哂える。嫌いで嫌いで仕方のない肉袋の手下を率いてロード気取りか。かつての様な青い誇りを護る事は叶わなかったとみえる」
 そうして薄く嘲笑する。
 クサナギは若い美貌を無感情に変えた。それから、産まれた時から知っていた事実をただ述べるようにこう返す。
「それが諦めるということだ」
 その人間達は用が済んだから此処へ来る道すがら皆殺しにしてきた、という真実から来る言い訳を彼はしない。
 途端、彼の周囲の情景が波紋を広げるようにぶれる。一瞬のみ、円形に雨が曲がり色が滲んだ。
 無造作に緩慢に、クサナギの剣の切っ先はキリエオラスの喉元を捉える。
 めきり――と、生き物の骨を肉の上から踏みしだく様な音色がした。
「――伸長しろ」
 それは剣の内部から。
 命令と同時、その異様な音が連続して聞こえ、胎生の生物を出産する様にありえない急成長を遂げる様に切っ先が――馬鹿のような勢いで延びた。
 その無秩序だが直線の軌道は、爆発的な初速を持たされただけの、食肉性の爬虫類の舌の動きに似ていた。
 キリエオラスは驚愕しながらも、その人間としての諸動作の伴わない刺突をそこそこの間を持って避ける。
 延びた切っ先は彼の背後にあった貯水槽を覆う鉄板を薄紙の様に貫徹して、闇夜故に光を湛えない黒々とした水を噴出させる。
 街の灯りから離れた、より暗い屋上の端にキリエオラスが着地した。
 空白。ざあと流れる出血めいた貯水。
 縮み戻るのか、否――
 骨を砕く音が産声を上げ、未だ水を噴出させるタンクの他方を食い破り、生きた剣の切っ先が再度の突撃を試みる。
 それに対し無機物でしかない被攻撃者の剣が、自衛と逆襲の唸りを上げた。――大上段からの大根斬り。執拗に迫る相手の刃をコンクリートの床面に埋め込んでやるかのように細い呼気と共に一撃、叩き落した。
 ――墜とすだけでも済まさない。
「――自壊しろ」
 キリエオラスは呟くや、間を空けず、触れ合った刃に過振動という強制死を加え始めた。今は生体と化した剣の刀身が、接した箇所から伝導するように――分解させられていく。粉のように四散してゆくそれは、文字通りの風化。
 先端から伝わる滅び。軽い目眩を覚えながらクサナギは振動に侵された先端部を見捨て、柄を思い切り手繰り寄せ引きちぎった。“剣”の内部循環液が盛大に噴出す。そしてビル同士の谷間にだらしなく落ち込んでいく、今は軟質の刀身を鞭の様に扱い、ネオンの瞬く自分の立つビルの方へと引き戻した。
 どたり、とクサナギの背後に生きた剣の残りが――死んだ様に落下する。
 その動きを持ち主が、紫の瞳のみで追った一瞬、
(――今)
 硬質な鉄筋をブーツの爪先で踏み砕いて飛び、キリエオラスは再び電気店の屋上へと襲い掛かる。
 クサナギの剣が一瞬で所有者の手元へと圧縮される。硬い元の剣の姿を取り戻したそれは、白い弾丸の様に飛来してきたキリエオラスの斬撃をすんでの所で受け止めた。
 路地を歩く人々は誰も気づかない、しかしビルの谷間に大きく反響する金属音と輝き。
 ぎりぎりと握る剣を押し、相手に呼気を吐きかけるようにキリエオラスが言葉を紡ぐ。
「生きた剣。そんな下手物を持ち出してまで私を殺したいか」
 あくまで表情を変えないクサナギが受ける。
「……こちらの意志を通したければ、あちらの要求を呑む必要があった。それだけだ。君への殺意が、そんな瑣末な現実で汚される事は無い」
「同情を禁じえないな。これも全ては、私がお前からこの剣を奪った故のことか」
 その言葉を聴いたクサナギは一瞬、呆けたような顔になる。それから薄く笑い――、
「違うな」
 暖色から寒色へのグラデーションを辿るように表情を変え、
「貴様が、あいつをオレから奪って行ったから、だ――!」
 言葉と憎しみを迸らせた。
 そして感情に任せた前蹴りが繰り出される。
「っは――」
 腹を持っていかれたキリエオラスは更に側頭を掌で弾かれ、屋上の中ほどまでごろごろと転がった。
 それに向かってすぐさま間をつめるでもなく、つかつかと静かに苛立った靴音をたてて黒い影はにじり寄る。
「貴様はまず、何故あの子を殺めない」
「…………っ……」
 白い影は少しだけ呻いて、何も返さない。
「聞こえなかったか? 言葉通りの意味だよ。何故、殺めない」
 緩慢に立ち上がりながらキリエオラスは、たわけが、と呟いた。こいつは何もわかっていない。
「連中の望みは、お前という、世の崩壊因子を取り除く事一点に尽きる。連中の同類であるあの娘を殺す理由は、何処にも、ない」
「だからこそ、だろう? 貴様は目的を達する為に手段を選ばない――人間を擁護するためにはやり方を選ばない筈だろう?
 オレの目的はあいつを人間から奪い返すこと。故に、あいつが居なくなればオレが自害して終局というものだ。貴様もそれを知っている筈。だから敢えてもう一度、問おう。
 貴様はオレに対する慢心からあの子を殺さなかったのか?」
 キリエオラスは先のクサナギの様に、何を言われたのか一瞬理解出来ず、或いは可愛らしい顔できょとんとしてしまった。
 なんて勝手な思い込みをしているのだ、この男は。
 真剣に怒りを載せた貌を見ていると、哂いがこみ上げてきた。もう止まらない。駄目だ、こいつは。なんて無知なんだ。人間が同族に対してどれほど甘いのか、どれほど兄弟の情とやらで結ばれきっているのかわかっていないのだ。
 連中は私に、群れの全体を護れ、しかし同族の犠牲は出すなと強制してきたのだから。
 先進国でのうのうと暮らす男が不必要な人死にはナンセンスですよねとのたまった。
 何処かの神父は慈悲に溢れた瞳で貴方ならば全てを救いうるだろうと信仰した。
 紛争で両親を亡くした子供がこんなのは僕の人生でないと云い張った。
 そもそも奴らは生きようとする欲が強すぎる。
 生き抜こうとする意志でなく、自由に気ままに生きようとする、動植物にとって不必要でさえある欲が。
 故に、自らが原因であるはずの、避け得ない戦いで生じた自然死さえ認めない。
 だから目の前の男は、人間が嫌いだ嫌いだと云う癖に相手の事などわかっちゃいない――
 殺し合いというものがどれほど馬鹿げているものなのか、何一つ理解していないんだ――

 ハハハハハハハハハハハハハ――――!!

 笑って哂って嘲笑った。
 どうもあちらは引いている。気が触れたのかとでも思ったのだろうか、だが構わない。この際だ、教えてやる。彼は詠唱するようにこう咆えた。
「たわけ! たわけ! たわけ! たわけ!! お前は大たわけだ!!
 慢心!? 在り得ない! 私に毛ほどの隙があるものか!! 私の望みはこのような境遇から早々に解放されて無に帰され、終焉(おわり)を感得することのみだ!!
 私の目的を阻むモノがあるのならそれは、私を造りあげた連中の所業だ! 人を壊すな、潰すな、殺すな――創造せよ、尊重せよ、延命しろ――そういうくだらない、しかし如何あってもキリエオラスに逆らえない前提の事だ!
 つまりだ、代弁してやろう。私があの娘を殺すやりかたを採らなかったのは――」
 白い彼はかしずいたまま、肩から先の動きだけで敵の左心を狙い大剣を投擲した。直後、根源的な意志の強制力だけでその飛翔に爆発的な推進力を加える。
 黒い彼はその弾道弾めいて襲い来る剣を反射のみで避ける。故に次動、挙動に繋がりを持たせられなかった。
 避けた剣を追うように視界に白い羅刹が現れる。それがあらん限りの自力で、右拳で、
「――趣味じゃあ、無いからだよ」
 自分の頬を殴りつけた。
 白い彼は喧嘩相手が仰向けに倒れる様を見送って思う。

 ――嗚呼、最早。
 何処までが自己の意志(プライド)で、何処までが連中の思惑なのかもわからない。

 どさり――と頬に痣をつくる程度のダメージを負って、クサナギが濡れたコンクリートの上に倒れこむ。
「立て」
 空を切って廻り、黒い大剣はキリエオラスの手の中に曲芸のように戻る。それを構えるでもなく彼は命じた。
「それが」
 クサナギは血を吐き捨てて立ち上がる。
「――それが群隊の多数決なら。オレは連中に今まで、あの子を追うためだけに生かされたとも考えられるな。全く癪に触るよ。そして十年泳がされた意図さえわからない」
 悔しさの片鱗さえ覗かせず、つまらなげにそう半分独白めいたことをして、彼は数歩先に転がっていた自分の剣を執る。
 それに対するキリエオラスは、ただ返答を黙殺した。
 体内のあらゆる動脈に絡みつくような殺気を二人が再度、等量同時に纏おうとした時。
 会合に遅れた友人がやって来たかのような呑気さで階段室のドアが開かれた。

               ◆

 云える事は云ったのだ。もう私には関わりの無いことだった。
 後は彼の首を刎ねる事だけに専念し終止しようと決め、再び剣に思念を込めた、その時だった。
 がちゃり――と軽そうな鉄のドアーを開けて屋上にやって来たのは黒種彼方だった。
 傘も持たず雨に濡れ、隣にあの娘を連れている。その下顎にいかにも悪党くさく拳銃の発射口を突きつけていた。娘はそれにも関わらず、何故か取り乱したような様子はない。ああ、その程度のことでは、彼女は動じる心を忘れたのだ。
「二人ともこちらを向け」
 もう向いている。そして殺り合いが中断している。
「何をしている」
 あくまでいつもの通り、気だるげに私は問うた。しかし心中ではどす黒い怒りが渦を巻いている。私の闘いに雨でなく、本物の水を差しに来たのだから当然で、もうこれは正当な申し開きをされても許せそうにない。
 ……だが黒種の意図する所がわからない。故に其処から動けなかった。
 黒種はそういった事も無論わかっている。私一人へ返すのではなく、黒と白の二人に対して言った。
「此処で戦うのをよして貰いたくて出てきたんだ。もし君等二人のどちらかが、つい本気でその剣を行使するなんて事になったら大変なことになるのでね」
「今すぐにその子を離せ」
 そもそもそんな事態を顧みない、目の前で対峙する男が云う。
「何を考えてる黒種。その子を人質にしながら、キリエオラスと撤退しようという考えなら最初からご破算だ。貴方がその子を盾にしているのなら、オレは神田中の人間を人質に取っている」
 ああ――流石は二代目、という所。つまり面倒な機能は排除されているらしい。合理的だ。
「キリエオラス――いや、白くんと撤退するつもりなんてないさ。今はどちらかといえば俺は、君の味方であると思うよ」
「……なんだと?」
 聞き返したのはクサナギである。私としては、黒種が味方か如何か等というのは瑣末な事だった。
 ともあれ――厭な事柄を聞いてしまった。このまま続けていれば私は必ず倒されていたらしい。そうただ茫洋と思考を巡らせ、私は剣を外套の中に納めた。口内に湿り気が戻ってきて、思考が急速に冷えていく。――もうやめだ。
 
 死ぬことそれ自体の痛みはいい。
 殺されることそれ自体の慙愧はいい。
 ただもう、あの場所へ一旦でも返される事は御免だった。
 なんて興ざめ。また一からやりかたを考え直さねばならない。私は三人に背を向ける。
 背中でクサナギが、私の方を振り向いた気配がある。黒種が拳銃を握り直す気配がある。娘がさすがに小鳥のような声で悲鳴を上げた。
 二人はどうせ、互いが抑止力になっていて動けない。脊髄の中を指でかき回されそうな殺意はとりあえず受け流す事にして、私は退場しようとする。
「つるぎちゃんをこのままにしておいていいのかい?」
 ……意外な事に、私を制止したのは黒種だった。そしてその言葉に今度こそ彼の企図を掴みかねて、は――? と返してしまう。
「そのままお前が保護しろよ。クサナギが東京中の人間を喰らい尽くすより先に、それの眉間を撃ち抜こうとする格好を見せる事は出来るだろ」
 彼はしかしかぶりを振った。何故か呆れられている。
「そういう事じゃない。彼女の助力なしで本当にクサナギを倒せるのか、と訊いてるんだ」
 それはつい数日前と同じ問い。
 彼はそうして底意地の悪い笑みをルンペンみたいなその顔に浮かべる。どの様な種類であれこんな状況下で笑顔をつくれるのだから、彼もいささか壊れている。そんな事を考えながら私は、当然の答えとばかりに言ってやった。
「もう一度言っておくが。私はそんな不確かな現象には頼らない。何故って、その妄念の権化みたいな娘の気まぐれを信頼するやり方からして間違っている。――ではな」
「さ――……」
 娘が何か言いかけている。私は当然それを無視し橙の電灯の煌く屋上の淵へと歩き、フェンスに足をかけた。
「さっきから……それとか、現象とか……」
 もう私に声を届かせる事も、黒種に状況説明を求める事も諦めているようだった。
「……わたしのこと、なんだと思ってるの」
 だからだろうか。彼女は独白めいて、ひどいよ――とだけ呟いた。
 ああおそらく、彼女の言う通り私は非人間なのだろう。外見はともかく、中身が違うのだからそれは当然で。生涯をかけて成したい目的だって狂っている。そしてそのことを頭でしかわかっていない。
 だから彼女には何も言ってやれない。
 でも――だからどうした。
「別に何者とも思っていない。路傍の石ころにも等しいさ」
 だからそう、余計な言葉さえ付け足して伝えた。
 途端だった。何故か彼女に圧し掛かられて、何かしら問い詰められた時の事を思い出した。


 終止ヒグラシが啼いている。
 監視の休憩を入れようと思って一つ屋根を降り、鍵の開いている窓から中へ入った時。
 そこに独り、少女が横たわっていた。
 袖の長い履物を履いていた筈だが、彼女は今は下半身を総てはだけていた。どうしてか小さな全身をくの字に曲げて、瞳を潤ませ切なげな声を上げている。乱れた黒髪は口元にかかり畳に広がりしており、頬は熟れ初めの林檎の様に赤い。……総じて子供の目一杯の背伸びが限りなく成功した時の様な、そんな健気な妖艶さが漂っていた。
 ――仔細まで視えたのは。四角い窓から差し込む夕日に紅を与えられたその場所だけが、ヒトの巣に閉じ込められた人魚を主題に据えた絵画の様に美しかったから。
 否、人魚と云う形容も間違いなのだろう。私が魚類の尾ひれと見間違った箇所は、それこそ人そのものの姿の一端であるのだから。
 私が彼女のその時の様子を見ることを、止せばいいのにとは思わなかった。私がしていたのは視姦ではなく、認めてはいけない筈の賞賛を心中で送っていただけだからだ。
 どこまで健気で、
 どれほど淋しそうで、
 そしてなんて報われないんだろう――――
 理由もなく、そんな感慨が外側から襲いかかってきた。
 茫漠と思いに浸っている内、絵画の人魚と眼が合った。彼女はそれまで天井を向いており、私が部屋に入ってきた後も少しの間だけ、まるで見られることを受け入れていたかのように行為を続けていた。だから彼女はその時、真なる思惑が毛ほども読み取れない退廃的な瞳で、何処か億劫そうに私の方を向いたのだ。
「ごめんね白、ちょっと――あちらを向いていて?」
 それから、薄っすらと大人びた調子でそう命令した。断る理由もないので私は緩慢に窓の方を向いた。
 少し荷物を漁る音、ちり紙を箱から引き出す音、あくまで落ち着いた衣擦れの音がしてから、
「うん――もういいよ」
 許可が降りたので彼女の方を向き直る。娘は丈の長いスカートに履き替え終えており、そして初めて恥じらいながらこう尋ねてきた。
「見てたの?」
「――ああ」
 悪びれずに私は答えた。向こうもそんな事はわかっている筈なのに、何故いちいち訊いたりするのだろう。御伽話からたった一人で抜け出してきた人魚がいきなりくだらない人形に戻った気がして、私はそちらの方に虚を衝かれてしまった。こうもころころと、呪的な手法を用いずに自身の性質を変える生き物なんて見たことがない。
 そっか――と溜息混じりに彼女は言い、それきり黙った。
 最早私にとって退屈の象徴でしかないヒグラシが啼いていた。
 早々に休憩を済ませてまた屋根へ戻ろう。もう全く興が失せてしまったからそう思う。
……というか、興とはなんのことだったか?
「邪魔をした。不快に感じられたのならすまない」
 簡潔に謝って部屋を出て行こうとする。――と、通り過ぎざまぐいと引っ張られた。飼い主に置いていかれそうになる子猫のような瞳をした少女が、私の袖を小さな手で掴んでいた。
「気持ち悪くなんか、ない。…………でも、他に何か言うことないの」
「別に無い」
 それはそうだろうに。何も言うべきことなどないから私は出て行こうとしたのだ。
 と、突然視界がぶれた。目の前の少女が何故か私に掴みかかってきたのだと認識した時には既に胸倉を掴まれ、ふすまに思い切り背中を叩きつけられていた。
 何かを訴えたいが、それは絶対に口にしてはならない――目じりに涙を貯めながら、彼女はそんな様子であくまで自己のために怒っていた。そういう顔をしていたと思う。
 ――最初に出会った時。
 まず何を置いてでも窮地に立たされていた私を案じたお前の言動は欺瞞だったのかと、彼女にとって要求めいたことをその時思ってしまった。無論、表層意識の命令であの剣が起きる筈はないと知っている。
 されどその時の私はおかしかった。
 何故だろう。
 そして私のために怒っているのではない彼女がひどく憎いと思ってしまったからだと、どうしてか瞬時に気づかせられた。
 怒りに震える少女の幼い顔を見ながら自問した。
 ――要求だと? 私がか?
 莫迦な、在り得ない。
「……怒ってよ」
 混乱しかけた頭の中に、少女の声音が染み込んでくる。
「どうしてかなんてわからないけれど、そもそもこんな事になっているのはわたしのせいなんでしょう? あなたは一人で頑張ってて、わたしは何も出来なくて、それでも争いごとに出て行って負けた時真っ先に死んじゃうのはあなただと思う。でもそんなのおかしいでしょ? 争いごとの原因ってわたしなのに。その時死ななくちゃいけないのはわたしの筈なのに。元木さんとか学校の皆が普通にやっていけた筈の毎日を滅茶苦茶にして、人を何人も殺してしまったのはわたしなのに――……。
 そんな人間が今なにをしていたと思う? わらっちゃうでしょう?」
 襟首を掴む力が弱まっていく。少女は自身を罵倒しながらいかにも可笑しそうに薄笑いしていたが、瞳だけは涙を流さず泣いていた。
「それはお前が悪いのではない。誰か知らない他者のせいだ」
 私は彼女の自罰に僅かな恐れを覚えながら事実を云った。
 実際、クサナギの目的が彼女であることは間違いない。だが、その事とあの建物が崩壊し人間が死んだことまでを総て抱え込もうとする必要性はない――度が過ぎている。
 私の言葉を聞いてか聞かずか、血を吐くように彼女は続けた。
「だから、私がみんなにひどいことをしたっていうのが原因だから。わたしがみんなを助けるっていう結果が欲しかった。――そうすれば何もかも元に戻るから」
 ひどいことをした――そう感じているのか。
「でも、貴方に、貴方みたいにどこまでもすごいひとに出来ることがないって言われたら、反論もできなかった。……わたしっていうちっぽけな人間をただの一時成り立たせるために行動を起こして、生きること死ぬことを決める“今”の、脚を引っ張っていいはずなんてないもの!」
「違う」
 私は云った。それは、違う。
 だが、何を「違う」と否定してやっていいのか、明確にわからなかった。
 彼女に出来る事は何もないと言って、“今”の邪魔をするなと伝えたのは私だ。……今もそう思っている。いや思いたかった。だからだろう、彼女を擁護出来るはずの言葉が何も出てこない。
「……何がちがうの?」
 すがるような眼で訊いて来る。
「…………っ」
 或いは『彼女個人』を救いたいと助けたいと思ってしまった――という、刹那のイレギュラー。そんなさざ波のような衝動が収まってしまった今、私に出来るのは、やはり言葉を噛殺すことだけだった。
 それがいけなかった。
 当然というべきか、論拠もなく上辺だけで擁護に走られたと感じたのだろう。彼女はついに激昂した。
「なんであんたが、出てくるの――」
 刃物を携えて、彼女が彼女自身に切りかかる所を幻視する。
 ほとんど絞首めいた勢いで突き押され、私の背後の引き戸が簡単に外れた。互い、戸ごと廊下に倒れてしかし、彼女は動じることもなく私を問い詰めた。
「ねえ、教えて」
 あくまで静かに。
「私はこの先何をしたらいいの? 何処へ行けばいいの? 誰と会えばいいの?
 ……毎日毎日そんなこと考えて実際にもやっているのに、なに一つとして上手くいった試しがないの。
 剣の稽古では一年生に先を越されちゃうし、学校の成績は別に普通だったけど、お料理だって大した特技じゃない。このくらいなら私じゃなくたって出来るもの。
 ……そんな風にぼんやり生きていたら私のせいで人が死んだの。わかる? 人が、死んだのよ」
 こいつは何を言っているんだ。何故気づかない?
 この娘が得たかった「みんなを助けるわたし」はもう既に、私に戦えと命じたその時に、現実の中に組み込まれているっていうのに――。彼女はどうしてか、自己の正しい行いまでを無価値なものだと決め付けてしまっていた。
 痛々しかった。それに反比例するように苛立ちがつのっていく。何故、気づかない。何がそうさせている。
 だからだったのだろうか。
 それとも最初からだったのだろうか。
 私はその時何故か、彼女をもうああいった戦いの場に立ち合わせたくないと考えていた。
 だから黙する。
 彼女に何も出来ないなどとは、最早思わなかった。
 けれど、自分に何か出来るのではという希望持ってもらっては……困るんだ。
「……ねえ。何か……言ってよ。助けてくれなくてもいい、教えてくれなくてもいい、叱ってくれなくてもいいよ? ――ただ君の、声が聴きたい。少しでいいから、軽蔑してたっていいから……聴かせてよ」
 ――黙殺、した。
 少女の顔に途方もなく暗い影が落ちていくのがわかって、
 直後ぱたぱたと、暖かい雫が首元に零れて来た。
 彼女から顔をそむけた私には、それを涙だと理解するまでに時間が必要だった。
 彼女は私の顔から眼を離さずに泣いていた。やがて私の胸にすがるようになり、黒種沙由がやってくるまでそうし続けた。

 誰か胸を抉られる――というのはこういう感触(いたみ)なのだと、私はその時肌で感じたのだ。

                  ◆

「別に何者とも思っていない。路傍の石ころにも等しいさ」
 ああ。
 やっぱりわたしはそうなんだよなあと、何処か納得させられながら彼の言葉を聞いた。沙由さんの手助けがやはり気休めに変わってしまったことが悲しかった。
 うん、それはそう。これは当然のこと。だってわたしは、彼に比べてどうしてもちっぽけに過ぎるから。だから、どうして、なんで――っていう混乱とか、疑問みたいな気持ちは浮かばなかった。
 ――あはは。
 もう自分のことを、馬鹿みたいだとも思えないから終わっている。
 あんまり予想通りの答え過ぎて、むしろ笑いをこらえる事に懸命だった。
 彼方さんに銃を向けられていることも忘れて、がっくりと膝をついてしまった。――あれ、おかしいな、なんか立ち上がれない。
 遠くの方から声が聞こえてくる。
「……わかった。じゃあ君は、つるぎちゃんをもう必要としないということだな」
 彼方さんかな。
「ならば彼女は、クサナギに引き渡そう」
「――な」
 息を呑んだのはクサナギと呼ばれた男の人。そして私はその言葉で一発で覚醒した。
「何を、言って」
 訊こうとすると、乱暴に立たされてもう一度銃口を突きつけられる。その挙動はひどく手馴れていた。
「他意はないさ。君の答えがどうであれ、つるぎちゃんは彼の方へ渡すつもりだった。
 物事には、短期的に処理すべき事柄と長期的に達すべき事柄がある。今気をつけるべきは前者だ。そうだろう? 俺のところで彼女をかくまったって、いつまた君とクサナギがぶつかるかもしれない。そして俺にはそれを力づくで掣肘出来る手段がない。だからこうした。沙由さえ護る事が出来ればそれでいいんでね。
 ――つまり俺が言いたいのはこうだ。餓鬼の喧嘩は人様の迷惑を顧みて他所でやってくれ。俺達には何の関わりもないことだ」
 雨の中だというのに構わず煙草をふかして、彼方さんは嘆くようにただ大人の意見を吐いた。護れる奴しか護れない、護らない。そう言っていた。誰も彼もを護らなければならないと、さっき白とクサナギさんの戦いを迷わず追おうとしたことがそうであるように、善意の射程を見境なく、そして無限に持ってしまっているわたしとは違う見解だった。
「だが、彼女を渡すだけでは信頼されもしなかろう。俺も一緒に連れていくといい」
 そうさらりと怖いことを告げて、黒い男の人の方を向く。
「間諜だった人間の云うことが信じられると思うのか」
「間違えるな。アナリストだよ、所謂スパイとは違うさ。ともかく君の目的の半分はそれで達せられるんだ。あとの事は力づくでどうにかしてみろよ。餓鬼なんだからな」
 そうして彼方さんはくっくと可笑しそうに哂う。……その顔はひどく優しげで、落ち着きに満ちていて、とても場違いなものに見えた。そしてわたしには、ここ一連の会話の中身が掴めなかった。
 最初からわたしを、あのクサナギという人に渡すつもりでいた。ということは彼方さんは、自分も最初からそれに同行するつもりでいた、ということ――? 拳銃を向けられたときより背筋が薄ら寒く感じられてしまう。……このひとは、沙由さんを助けるためならば本当になんでもするつもりでいるのだ。
 じゃあわたしは、どうしたらいいのだろう。
 ――路傍の石ころにも等しいさ――
 そう言われてしまったダメージの中で思考する。初めから何もかもを決めていた彼方さんを手本にしよう。
 何度も彼に対する諦めから止まりそうになりながら、それでも決定しなくちゃいけないんだ――と考えた。
 必要とされていないことは、向こうの都合に過ぎないと無理矢理に思い込む。短期的に捌くべき事柄。それだけを見てこの“今”、彼の役に立てることは何かと選択する。
 ――おおう、やっぱり彼方さんは正しいや。そう思いながらわたしは言った。
「行きます」
 この状況下わたしの宣言は、なんてどうでもいいことなんだろう。それでも言葉を繰る。
「その人の所に行きます。……勿論、君は助けに来てくれるって信じながら行くの」
 他二人の意見は知らない。だから白の方だけを向いて言った。彼は非道く驚いた表情をしていた。
 ざまをみろ――うふふ。
 もうわたしが何処に行くのかということを、他人が話し合って決めてしまうことはたくさんだった。拳銃を突きつけられたままで、いやに暖かい雨もあるものだわ――なんて妙に詩的な感想を抱きながら、わたしは呪いを残して行くことにした。
「――恋することってまっくらなのかもしれないわ」

 そのときわたしは、笑いながら泣いていたと思う。
 白の役に立つのはいいけれど、なにかが怖くてたまらなかった。


2007/07/21(Sat)23:38:35 公開 / 春一
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 初めましての方は初めまして、いつもの方はお早う御座います。
 春一と申します。
 つるぎは学習性無力感を得てるんだろうな――などと書き終えてから思いました。

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