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『愛のある風景』 作者:模造の冠を被ったお犬さま / リアル・現代 恋愛小説
全角7954文字
容量15908 bytes
原稿用紙約24.25枚
 彼女はとても素直だった。素直でハッキリしていて、そして純真だった。だからこそ簡単なことに抗えなくて自分に嘘を吐く。嘘を吐く行為が慣例化し彼女の仮面が日に日に厚くなる様は正視に堪えられるものじゃなかった。僕の恋心を媒介に、なんとか彼女の仮面を剥ぎ落とそうとして──。 絵描きと親気取りと店番と冷血で織り成す、忘れたものを取り戻す物語。





 海の絵がある。
 離れを改装した小さなアトリエに、まるで波打ち際から切り取って来たかのような海の風景がある。

 大きなキャンバスに描き込まれているのは、碧い海に白い砂浜。それに対比する、空の蒼と雲の白。
 水の中で煌めくのは小魚の鱗。ときおり水面から飛び跳ねてみては、ぽちゃんと涼しげな波紋を広げる。波打ち際の穴の中から姿を現すのは蟹。ダンスに誘うかのように、大きなはさみで手招きをする。陽光に熱された岩場で羽を休めているのは海鳥たち。今にも鳴き声と羽ばたきが聞こえてきそうな、慌ただしい気配。波頭が崩れていく。白波は何度も何度も打ち寄せては返る。

 絵の具の臭いがこもった部屋で、塀櫃千代はひとり「嘘」と呟いた。
 キャンバスに原色のシアンが飛ぶ。
 碧い海も白い砂浜も蒼い空も白い雲も小魚の鱗も水面の波紋も蟹の穴も大きなはさみも熱した岩場も海鳥の羽も波頭も全部、一緒くたにされてシアンの底に沈む。
 こうして海がシアンに塗り潰されるのは何度目だろうか。このキャンバスは何度も海を描かれ、そのたびにシアンで覆われてしまう。海溝の底のように光が届かない、ひた隠しにされた過去がある。
 絵筆をもった手の甲で汗を拭う。作務衣に染み付いてしまった絵の具の臭いが秋の夜へと意識を吸い寄せる。描いた絵は気に入らなかったが、それを塗り潰してしまったことで千代は清やかに絵筆を置いた。
 小窓を開ける。ぽっかりと満月が浮かんでいた。月見がてらに散歩に行こうと決め、絵の具のついた作務衣を脱ぎ捨てる。
 もともと離れだった座敷を改装してアトリエにしている。この家の主、大神尤太が千代のために設えたのだった。大神尤太はいつも千代を気にかけており、このアトリエもその好意からの産物だった。ありがたく使わせてもらってはいる。けれど千代がその好意を鬱陶しく感じているのもまた事実だった。
 渡り廊下で斎に出会った。まるで機械のように仕事に忠実で優秀な大神尤太の秘書であるがその代わり、機械のように愛想のない男だった。千代はすれ違いざまに「いってらっしゃいませ」と耳打ちされた。空耳かと思い振り返って見たが、斎はすでに渡り廊下を行き過ぎていて千代の声量で呼び止めることはできなかった。
 愛想のないくせに、なぜ今だけは挨拶などしたのだろう。千代は遠ざかっていく斎の背中姿を見ながら考えていた。そもそもなぜ「いってらっしゃいませ」なのか。寒空の下を、千代が下着姿で家の中を出歩いている。それは服を着替えるためだろう。着替えるのは外出するためだ。そんな思考を一瞬のうちに巡らせたのだろうか。千代は浮かんだ想像を振り払う。考えても詮無いこと。
 廊下から見た池の庭には月が映りこんでいた。つられて空を仰げば、荘厳な月がそこにある。
 家の門を出て、溜め息を吐いた。この家は千代にとって息苦しい。過保護なまでの愛情を傾ける大神尤太。無駄が一切ない厭味なまでの完璧な斎。絵ひとつうまく描けない千代は自分の能力を恨んでいる。
「あれ? 千代姉さん」
 いつの間にか足が白の店へと向かっていた。ここ一年は、憂鬱になる度に白のことを思い出している。ささくれた心に瑞々しさを与えるような何かが白にはあった。当の本人は寝間着姿で、眠そうに瞼を擦りながら欠伸交じりの声で、
「今晩は僕に夜這いをかけに来てくれたんですか?」
 平坦な口調で、悪びれもせず、気取った風でもなく、商売口上でもない話術を使う。
「煙草と三角チョコ三つ」
 千代もその話術に乗ったりはせず、蓮っ葉に交渉する。
「五百円になります」
 気を悪くした様子も見せずに白は右手を突き出し、代金を要求した。
 千代は大げさに手を振る。
「財布の持ち合わせがない」
「そうですか。では、ツケにしておきます」
 そういって右手を袖にしまうと、左手で煙草と三角チョコを取り出す。
「用意がいいな」
「お得意様ですからね」
 青い月が千代たちを見下ろしている。千代が初めて白に会ったあのときも、月が出ていた。
 キャンバスに向かって黙々と筆を振るっていた。そのときもやはり海の絵だった。絵を描くということは即ち、絵の中に入り込むこと。絵の中から自分の本体へと指示を出して絵を描かせるものなのだ。暑い陽射しを浴びながらさざなみの音を聴く。千代はこのとき砂浜の中で佇んでいたが、急にジリリリリリリリリと骨董物の固定電話が鳴るのを聞いて我に返った。意識を中断されることに憤る千代は電話に出まいとしていた。けれどもいつまで経っても鳴り止むことのないベル音は、再度集中しようと試みる千代を嘲笑うかのようだった。ついには千代も折れた。「もしもし、大神家ですが」受話器の向こうから、いつになく焦燥を浮かばせた──それはもう狼狽と言っていい──斎の声が聞こえ、千代は驚愕に見舞われた。
「あ、もしもし塀櫃さんですか。大変です。直ちに、です。とにかく来てください。え。あ。場所は羈束市立病院です。尤太様がお呼びです。今すぐここに……」ここで千代は受話器を置いた。斎が取り乱すところなど、見たことがない。大神尤太が千代に助けを求めるのも未曾有のできごとだった。何より、場所が病院であることが千代を駆り立てた。
 着替えをする間もあればこそ、がま口財布を引っつかみバスに乗り込む。バスの最前席に陣取っていると、後ろから視線を感じた。
「こんなところでも会うとは奇遇ですね」
 少年のようにしか見えない、しかし落ち着いた男性が最後尾の座席にいた。他に乗客はいない。
「失礼しました。貴女は僕を知らないんでしたね。僕のことは白と呼んでください。大神家から五分ほど歩いたところで駄菓子屋を商っています。店番をしている最中、貴女が散歩しているのを幾度か見かけますよ」
「駄菓子屋。郵便局の斜向かいの?」
 白と名乗る男性は大きく首肯し、笑顔で言葉を紡ぐ。
「どちらに行かれます?」
「市立病院」
「でしたら僕と同じだ。ご一緒しましょう」
 信号待ちでアイドリングストップしている合間に白は、伺いを立てることもなく千代の隣へと移動する。
「煙草吸う?」
 白は袂から煙草を差し出した。
「いえ。私は吸わないの」
「そうでしたか」
 深夜のバス内。車窓から見た青い月が、千代に白との出会いを印象付けた。
「でも、ライターを持ってませんでした?」
 散歩には何かを持って出歩くことはない。でも、外出着であるジーンズのポケットにはいつもライターが入っている。
「乾性油を加熱するのに使うのよ」
 使って、それをポケットに入れたままになっている。財布のようにいつも使うものではないから特に苦もない。用途がないから出しておいてもいいのだが、脱ぐときには忘れている。ジーンズだから小まめに洗濯をする必要がなくてそのままとなってしまっている。
「僕はね……」
 千代の記憶がそこで途切れる。何の前兆もなく、ぽつりと放たれた言葉であったことは覚えている。けれどその内容が思い出せずにいた。
「僕に見惚れちゃってます?」
 真面目と呼ぶにはあまりに心のこもっていない声で白が言う。
 千代は自分のペースで煙草を一本取り出し、火を点け、咥える。
「煙草を吸う女の人ってカッコいいですよね」
 大きく吸い、吐き出す。
「白が、そう仕立てたんでしょうが」
「そうですね」
 千代が喫煙者になったのは、まぎれもなく白の影響。おぼろげな思い出の中に白がいる。病院内の数少ない喫煙室はすし詰めで、けれどその中にあって白だけは軽やかに煙を浮かべていた。
「僕も吸っていいですか?」
 千代は軽く頷く。
「一本ください」
 受け取る白の手は青白い。
「火を点けてもらえます?」
 ぼっ、と点火したがすぐに風によって吹き消されてしまった。白の咥える煙草に手を翳して、風除けを作ってみても結果は同じだった。
「点きませんね」
 千代は白の前に屈み、かちりとライターの歯車を回す。
 かちりかちりかちりかちり。ガスに着火しない。

 ────。

 白は千代にキスをした。
「すみません」
 額にではあったが。
 それはいつもの浮薄な言葉でなくて、何かに怯えるような真っ直ぐな言葉だった。自分でもその声音に驚いたようで、他の話題を作ろうと無理やりに口を動かした。
「それにしても、名月ですよね。とても趣深い。ホラ、千代姉さんもご覧になって……」
 月があるはずの場所には暗雲が立ち込めていて、ほのかにその青い陰影が残されているのみだった。
「ごめんなさい。あんまり間近に千代姉さんの顔があるものだから。我慢できませんでした」
 悲壮さすら湛える白の顔がある。
「謝るってどういうわけ? ねえ、白。悪いことだと思ってる? 私に許しを請うているの?」
 千代は問い詰める。どこか、からかっているような語調も含んでいる。
 白はそれを、鋭敏に気取った。
「ええ。実はこれっぽっちも悪いと思っちゃあいません。隙あらば胸にも触れてやろうと目論んでいました」
 白は普段のペースを取り戻している。
「まあ、それは大変。未遂に終わってよかったわ」
「ただの劣情だけで冗談や冗句を言ってるんじゃありませんよ」
 白は憤慨した様子で、鼻息荒く言い切る。
「もっと他の反応はないんですか?」
「例えば?」
「もう……」と言って、間を置いて披露する。「僕の初恋の人は千代姉さんなんですよ」
 白の顔にはいつもどおり緊張感のない表情が張り付いていたが、どうやら本当に嘘ではないらしい。肩肘を張った口調ではないからこそ、自然体そのままの言葉であると物語っている。
「かわいくなくて、おしゃれじゃなくて、絵の具まみれで絵の具くさい女を好きになるなんて変わってるね」
「それは自覚しています」
「私のどこがよかったの?」
「もう忘れました」
 軽口に反して、今度は千代が緊張しているようだった。さっきから煙草の煙を吐き出すのを忘れてしまっている。言葉は止め処なくとも、息を詰まらせている。
「動因を思い出せないなら、大した思いじゃないのよ」
「きっかけより“好き”の感情のほうが重要だと、僕は考えます」
「あのさ。私と白の歳の差は……」
「『歳なんて、好きの感情の前では関係ない』と言って欲しいんですか?」
 まだ充分に長かった煙草を携帯灰皿に押し付けて、千代は新しい煙草に火を点けようとする。けれど、焦っているからかライターに火が点かない。
「私は白が好きだけど。けど、そんな意味じゃなくて」
「千代姉さんが僕を好きにならないといけないなんて、そんな傲慢なことは言ってません」
「でも、それじゃ」
「千代姉さんは僕に愛されていればいいんですよ」
 断崖絶壁の縁に立っているような千代に向かって白は笑顔を向けた。
「そんな顔しないでくださいよ」
 無明の闇の中で蹲っているような千代に向かって白は言葉を投げた。
「綺麗な月です。ね? 千代姉さんも見上げて。青い青い月です」
 ゆっくり顔を上げた千代の目に映ったのは、月を隠して仄か青色に輝く雲海の現実か。それとも、白の見る青い月だったのだろうか。
「やっぱり口にしたいです」
 小首をかしげる千代。その顔を両手で引き寄せる。
「怒られたって謝りませんからね」
 唇が触れ合う。
 白は少し恍惚になって呟く。「最初のキスは煙草の匂いがした……」しかし、すぐにもとの調子に戻ったようで、「千代姉さん? いつまでもボーっとしてると本当に胸を揉みますよ?」
 がばっ、と千代は身を起こす。
「ああ、残念」
「大人をからかうもんじゃないわ」
「僕だって大人ですよ。ひとりで店番できるぐらいには」
 白は左の袂からマッチを取り出し、それを擦った。ぼう、と浮かぶ炎は煙草の先端に近づけられる。
「煙草も吸えますしね」
「違法だけどね」
 千代は呆れたようにその白の喫煙姿を見ていたが、何かがふつふつとこみ上げるように表情が変容する。
「白。あなた、私から火を借りたわよね」
「結局、火は点きませんでしたけどね」
「今、左手で取り出したものはマッチよね」
「マッチというかマッチ箱です。街で肌を露出したお姉さんから貰いました」
「何でマッチ持ってるのに火を借りるのよ」
「細かいことを気にしますね。ちょっとオイルが減るだけじゃないですか。なんなら、僕のマッチあげましょうか?」
 千代は肩を竦める。
「いい? 女の子の純情は減るからね。覚えておいたほうがいいわよ」
「代わりに純愛を差し上げますよ」
 やはり気取った風はない。千代は肩を落とし、うなだれる。
「さて、と。重大発表も済んだことですし、そろそろ帰ります」
 ガックリとうなだれた格好のまま、首だけを持ち上げて、
「じゃあね」
「また、すぐ会いましょう」
 不吉な予言か、あるいは不幸な予告を残して白の背中は夜の闇にまぎれていった。
「あ、そういえば。今度会うときにはツケを払ってくださいね」催促の言葉を残して、今度こそ本当に夜の闇にまぎれていった。
 「初恋の人だ」と宣言されるのは気恥ずかしいような、むず痒い気分にさせた。千代は嬉しがっている。そのことに間違いはない。けれども、同じく告白を意味する「好きだ」の台詞とはまた違う、感傷的にさせる要素が白の言葉にはあった。それは“初恋”に連想される、青春だとか甘酸っぱさなのだろう。白紙のノートの第一ページに書かれていたのは、まず何より先に空白を埋めていたのは、自分の名前だったというなんだか申し訳ない気持ちになってしまうのだった。白は、一方的に千代が好きなのだと言った。千代が自分のことを好きになる必要はない、と。しかし、いくら変わり者の白といえど愛する人から愛されたいだろう。そんなことは火を見るより明らかだ。千代はそれに応えることができるのか懊悩している。自分の気持ちに整理がつかないでいた。
 足は家に帰ろうとしている。大神尤太のいる家が安心できるのだと、無意識に判断したのだろう。鬱陶しさや息苦しさを感じてはいても、それが真実だった。
 門の前には大神尤太が待っていた。大きな上背を丸めて、両手に白い息を吹き込んでいる。いつから待っているのだろう。その姿は酷く惨めで情けないものだが、千代の目からはまた違って見えた。千代を視認して大神尤太は顔を綻ばせる。それを見て千代も微笑む。踏み出す一歩一歩は軽妙で、生き生きとしていた。半ば走り歩きの千代を、大神尤太は大きな腕で抱きとめた。
「どこに行っていたんだい?」
「月が綺麗だったから、散歩に」
「風邪をひかないようにね」
 ダンディズムを備えた大神尤太の口調はどこまでも甘い。丁寧にたたまれた半纏を千代の肩にかける。
「斎くんがお茶漬けの用意をしていってくれたよ」
 千代が外出しようとしているのを察知し、すぐに用意したのだろう。その後、自分のマンションに帰っていった。そうでなければ、大神尤太の指先はあれほどまで白くなることはない。斎がいれば、その斎の手前で子煩悩じみた行動は起こさないし、もし起こしたとしても斎が止めている。斎にとって小娘ひとり風邪をひこうが構いはしないが、彼の仕える社長が結核でも患ったら一大事。出迎えることを引き止めて、自分が門の前に立つ役目を負うことは容易に想像できる。かと言って、斎はべつだん千代を疎んじているのでもない。その証左に、帰ってきたら空腹だろう千代のために茶漬けを用意している。
 完璧な判断力、無欠の忠誠心、迅速な実行力。それらが集結して斎ができあがっている。
 自分には不相応な人間ばかり周囲にいると、千代は感じている。
 かき込むようにして茶漬けを胃袋に入れると、千代はアトリエに向かった。
 悩みがあればアトリエにこもる癖がついている。心の靄を晴らしたい一心で絵筆を手にとっても、その瞬間は忘れることができるだけで、書き終われば靄が疲労感とともに増大する。それをわかっていても一時の忘却を得たいがために絵を描く。自分の悩みを糊塗する行為と、キャンバスを塗り重ねる行為とがあまりに似通いすぎていて喜劇的だ。
 外に出る前、換気のために開けた窓から風が入ってくる。閉じようとして、月が目に入った。

 ──糊塗するために用いた幾千の言動。
 どこから現れるのか、ずむずむと湧いて出る暗雲に小さな切れ目が走った。

 ──思案をかぶせるあまり、見失ってしまった無垢の心。
 切れ目が次第に広がっていき、円の輪郭を垣間見る。

 ──どれほど大事なものだったのか、それすら思い出せないでいる。
 完全な円が現れ出る。それは心中にまで届く青い光を放ち、ひたすらに神々しく輝いている。

 「私」と呟き、そのまま言葉を連ねようとした自分に叱咤する。
 絵の具剥離剤を棚から下ろし、キャンバスの上に厚く塗る。その上に濡れた布をかぶせて乾燥を防ぐ。剥離剤が絵の具に浸透するまで時間がかかる。
 千代は、自分自身に対して何を隠してきた。厚く覆われた絵の具の奥にある、隠したかった最初の絵は一体なんだっただろうか。隠蔽したものは何。
 とり憑かれたかのようにペインティングナイフを振るい、キャンバスを削る。垢を擦るようにぼろぼろと古い絵の具が落ち、イーゼルの下に積もっていく。その作業に千代は没頭する。

「たまには人物像でも描いてみたらどうだい?」
「駄目よ。タダでモデルになってくれるような人なんてなかなかいないし、それに、私の好きな人がモデルじゃなきゃ描く気にならないもの」
「君がいつも『描くものない。描くものない』とうるさく言ってるものだから、僕なりの案を出してみたんだけどね」
 縁側でふたり、談笑していた。
「私、口に出して言った覚えはないわ」
「ああ、そうだった。君のことを考えていると、本当に口に出して言ったことなのか、それとも君が頭の中で考えているだけのことなのか区別がつかなくなるんだよ」
「勝手に私の気持ち、決めないでよね」
「でも、本当のことだろう?」
 うららかな日差しを浴びていた。
「僕じゃモデルになれないかな?」
 言った「好きな人でないとモデルになれない」と「思考を読める」の話を瞬時に重ね合わせて考えると千代は錯乱した。
「バッカじゃないの! 誰があんたなんか。いい気になるのも、そのぐらいにしないと見苦しいわよ」
 このやりとり、随分と昔の出来事である。
「今ならタダだよ。久しぶりに休暇が取れたんだ。君と過ごしたい」
「あんた、バカよ。そんな簡単に休み取っちゃっていいわけ?」
 二十代に入って間もない、若い頃の千代。
「それとも、もうひとつの条件に反しているのかな。やっぱり、モデルは好きなひ──」
「うっさい。誰があんたなんか描くもんですか」
「残念だな。僕はこんなにも君を好きなのに」
「バーカ」
 それは養父として。娘として千代と接している──千代を愛しているからだ。千代の恋心は決して大神尤太に悟らせてはいけないものだった。

 ──だから隠蔽した。
 厚い絵の具の層の中に。今までずっと塗り固めてきた。聡い大神尤太にも気取られないように。

 何度、剥離剤を塗りたくっただろう。
 幾重もの嘘の下敷きにされながら、その絵は幾分も衰えていなかった。押し潰されることもなかった。覆いつくすべき海の絵のほうが、取り込んだ絵に同化して穏やかなものへと変容している。小魚も蟹も海鳥も、絵の秘めるものが光であったからこそ、その絵が嘘であるにも関わらず活気に溢れた絵になったのだった。
 千代がアトリエの中で大神尤太を思いながら描いた絵は、今も微笑んでいる。

 いつの間にか、夜が明けていた。

 月は出ていない。





2007/04/07(Sat)17:05:48 公開 / 模造の冠を被ったお犬さま
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■作者からのメッセージ
 帝王に捧げる第四部。

 私自身は虚言も隠匿も厭わないサイテーの人間だったりします。今回の私の隠匿は混乱を招くことができたでしょうか。仕込み期間が長すぎて自分ですら隠匿の事実を忘れるほどでしたので混乱しなかったとしても仕方のないことかもしれません。でもそれは、現実に存在していて、日常の中に潜むノイズとして残っていくことでしょう。それらが堆積し臨界を迎えたとき、存在に気づかなかったものはしっぺ返しを食うことになる。
 崩壊に至るまでの時間は、刻々と観察していれば長すぎるし、忘却するには短すぎます。
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