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『暑さも寒さも彼岸まで 第五話』 作者:月明 光 / お笑い 未分類
全角37249.5文字
容量74499 bytes
原稿用紙約124.95枚
第五話 明なら働いてみよ光なら学んでみよ

「光様! 起きて下さい! 光様!」
「……な……何……?」
 激しく揺さぶられる感覚を覚え、藤原は目を覚ました。
 まだ半分以上眠っている意識で、藤原は考える。
 一体、明は何を焦っているのだろうか。
 今日は平日だが、今まで遅刻しそうな時間に起きた事は一度も無い。
 雷でも鳴ったのだろうか。
 だとしたら、先に悲鳴で目覚める筈だ。
 それに、今日天気が崩れるのは、午後からだと天気予報で言っていた。
 まさか、夕が何かしでかしたのだろうか。
 ……否、昨晩は泊まりに来なかった。
「大変なんです! 私にも何がなんだか……」
 ここで、藤原はある事に気付く。
 さっきから聞こえているのは、明の声ではない。
 明らかに男性の声だ。
 しかも、最も聞き慣れていて、故に違和感を覚えてしまう。
「な、何? 何かあったのか?」
 自分の声を出した時、違和感は驚きになった。
 これは、自分の声ではない。
 女性の……最近ようやく聞き慣れた声だ。
 非常事態である事を理解し、ガバッと上体を起こす。
 腰に届く程の黒髪が、動きに合わせて揺れ、肩に掛かった。
 いよいよ事態は深刻になってくる。
 周囲を見渡すと、そこは藤原の部屋ではなかった。
 余り入る事は無いが……ここは明の部屋。
 自分が寝ていたのは、明のベッドだ。
 もう何が何やら判らなくなってくる。
「光様……これは一体……」
 藤原は覚悟を決め、声のする方を向くと、
「…………俺?」
「いえ、あ、あの、私です。明……です」
 そこには、明と名乗る『藤原』が居た。
 鏡や写真でしか見られない筈の自分が、確かにそこに居た。
 まさかと思い、藤原は自分の身体を見る。
 肩に掛かった髪だけでも十分な気がするが、こういう状況は易々と認めたくないものだ。
 案の定、それは自分の身体ではなかった。
 まず、寝巻の柄が明らかに違う。
 身体も、全体的に少し小さくなった気がする。
 その中で、唯一昨晩より大きくなった部位がある。
「……あの、無闇に触るのは……」
「あ、ご、ごめん」
 『藤原』に言われ、藤原は自分の胸から手を離した。
 その時に出した声で、藤原は全てを理解する。
「……鏡、ある?」
「は、はい……」
 『藤原』に手渡された鏡で、藤原は自分の顔を見る。
 目に映ったのは、明の顔だった。
「な、なんじゃこりゃああああぁぁぁっ!?」
 かなり今更な叫びである。


「……要するに、明さんが目を覚ました時には、もう身体が入れ替わっていたって事か」
「はい……」
 朝の藤原家のリビング。
 藤原と明は、テーブル越しに向かい合って座り、状況の確認をしていた。
 だが、やはり原因など判る訳も無い。
 もちろん、元に戻る方法も判らない。
 となると、次に浮かび上がる問題は、
「……どうする、今日一日?」
「どうしましょう……」
 当然の様に、今日の形振りだった。
「入れ替わって生活……って訳にもいかないよなぁ……」
 藤原は溜め息混じりに呟く。
 明が学校に行けば、秋原やアリスに気付かれて騒ぎ出すかも知れない。
 明が普段こなしている仕事など、自分には到底無理だろう。
 しかし、明の反応は意外なものだった。
「私……学校に行こうと思うんですけど」
「え、何で?」
「い、いえ、あの、その……」
 藤原が尋ねると、明は頬を紅く染めて言い難そうにする。
 自分ではまずやらない仕草なので、藤原は見ていられなかった。
 同時に、何故明が学校に行きたがるのかを考える。
 答えは、案外簡単に見付かった。
「……明さんって、本当に妹思いなんだな」
「ち、違います! 他人の身体を、夕の授業が見たいなんて私情の為に使うなんて……!」
 藤原の一言に、明は更に紅くなって否定する。
「やっぱりそうなんだ」
「…………!」
 自分が簡単な誘導に引っ掛かった事を自覚し、明はぐうの音も出なかった。
「なるほど。だったら考えなくもないかな。隠し通す方法をどうにかしないと」
「……こんな時に身勝手な女だ、と思いますか?」
 快く協力しようとする藤原に、明は自己嫌悪気味に尋ねる。
 藤原は溜め息を吐いて、
「明さんなら、そう思うのか?」
 明に問い返した。
「……そうですね。変な事を言ってすみませんでした」
 そう答えて、明は頭を下げた。
 藤原としては、やはり明に夕の姿を見て貰いたい。
 明の前ではまず見せる事の無い、凛とした表情で働く夕の姿を。
 それに、自分の前に『自分』が居るのは、正直変な気分になる。
 明も、もしかしたら同じ様に感じているかも知れない。
 アリスや秋原が何をしでかすか判らないし、家事の大変さを知らない程に無知ではない。
 だが、入れ替わりによる見返りは、相当のものになる筈だ。
「……では、まずは朝食にしましょうか」
 そう言うと、明はいつも通りキッチンへ向かった。
 見た目には藤原がキッチンへ向かったので、少々異様な光景だが。


 その後、藤原は教えられる限りの振る舞い方、明は、最低限すべき事を教えた。
 程無くして、チャイムの音がする。
 恐らく、アリスが来たのだろう。
 この瞬間、二人の『演技』が始まった。
 荷物を整えると、明は玄関へ向かう。
 ドアを開けると、
「お兄ちゃん、おはよう!」
 アリスが飛び付いてきた。
「おはよう、アリス」
 明は挨拶を返しながら、アリスの頭を撫でる。
「……あれ? 今日のお兄ちゃん、何か変だよ?」
「えっ!? い、いや、ちょっとな……」
 怪訝な表情を浮かべるアリスに、明は心臓が跳ね上がった。
 懐いてくる様子が夕と重なったので、思わず夕の時の様に接してしまったのだ。
「……ま、良いや。行こ♪」
 外見の効果が大きいのか、アリスはすぐに笑顔に戻る。
 明は、心の中で一息吐いた。
 やはり、幼馴染だけあって、多少の誤魔化しでは見破られそうだ。
 藤原が真っ先に『アリスとの接し方』を教えてくれたのも頷ける。
 もしもバレたら藤原に迷惑が掛かるかも知れないし、騒ぎになって夕にバレれば、彼女の普段の姿が見られない。
 自分がしようとしている事の難しさを、改めて知らされた明だった。


 明とアリスが行った事を確認すると、藤原は溜め息を吐いた。
 承諾したとは言え、やはり不安である。
 明の事はもちろんだが、自分の事も。
 しかし、不安がってばかりでも仕様が無い。
 明が学校へ行ったのなら、自分も仕事をしなければ。
 まずは、朝食の片付けだ。
 だが、その前にしておくべきであろう事がある。
「……着替えないと……」
 現状が現状だけに躊躇ってしまうが、いつまでも寝巻という訳にもいかない。
 明が夕の事で一杯一杯だったから訊きそびれたが、彼女が当然の様に制服に着替えたのだから、大丈夫だろう。
「……今更だけど、夢オチじゃないよな?」


 藤原が服を脱ぎ始めた頃、明はアリスと共に通学中だった。
 アリスの話題に応対しながら、彼女の狭い歩幅に合わせて歩く。
 藤原は当然の様に行っているが、会話に意識が向くと、なかなか難しい。
 やはり、例え本人が否定していても、彼は彼女を大切に思っている様だ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何だ?」
 アリスに声を掛けられ、明は応える。
 もう十年以上、誰に対しても敬語を使っているので、タメで話すのは新鮮だ。
 出来れば、ここで慣れておきたい。
「アカリンが来てから結構経つけど、どうなの? 最近は、ゆーちゃんも週の半分くらいは来るんでしょ?」
「そうだな……」
 アリスに問われ、明は内心焦った。
 表に出さないように注意しながら、適当な答えを探す。
 だが、自分は藤原であって『藤原』ではない。
「アリスはどうなんだ? ほら、お前、初対面で明さんに噛み付いてたしさ」
 仕方が無いので、話を逸らす事にした。
 折角なので、自分について尋ねてみる事にする。
 この身体でなければ、なかなか訊けない事だ。
「ボク? ボクにとっては、もう大事な友達……かな。お兄ちゃんだってそうなんでしょ? だったら、ボクも。何だかんだで、すっかり馴染んじゃったもんね」
 明の問いに、アリスは屈託の無い笑顔で答えた。
 明は、胸の奥が熱くなる感覚を覚える。
「もちろん、お兄ちゃんは友達なんてレベルじゃないけどね〜♪」
 そして、アリスは嬉しそうに明に抱き付いてきた。
 こういう時は突き放すように、と言われたが、先程の言葉が尾を引いて、どうしても躊躇ってしまう。
 仕方が無いので別の手段を探した結果、明は溜め息を吐いた。
 藤原が、こういう時によくやる癖だ。
 ――光様も、望月さんと同じ様に思っているのでしょうか……?
 そんな事を考えた時、少しずつ校舎が見えてきた。


「とうとう着替えてしまった……」
 誰にでもなく呟きながら、藤原はその場に座り込んだ。
 場所は明の部屋。
 すぐ側には、脱いで間もない明の寝巻。
 そして、今身に纏っているのは、普段明が着ているメイド服である。
 黒いロングドレスに、白いエプロン。ヘッドドレスも完璧だ。
 男性の服とは勝手が違うので、色々と苦労した。
 他の如何なる感情よりも、背徳感が藤原の脳内を巡る。
 まるで、初めて女装する男性の様な気分だ。……実際、殆どその通りなのだが。
「さて……」
 いつまでも着替えで止まっていられないので、藤原は立ち上がる。
 少し重たい胸が、動きに合わせて揺れた。今日一日は、これが邪魔になりそうだ。
 大きく息を吐くと、部屋からも服からも、明の優しい匂いがした。
 普通の男性なら、既に心臓が壊れそうな程に高鳴っているのかも知れない。
 だが、藤原はそうではなかった。
 今は、これが自分の身体だからなのかも知れないし、まだ現状に戸惑っているからなのかも知れない。
 しかし、一番大きな比重を占める理由は、恐らく……。
 そう思うと、藤原は自嘲気味に溜め息を吐いた。
 雑念を取り払うと、藤原はキッチンに向かう。


 アリスと別れて、明は藤原のクラスへ向かう。
 最終学歴は高卒だから、学校を間近で感じるのは二年ぶりだ。
 学生時代は、本当に楽しかった。無論、今の生活も、負けず劣らず楽しいが。
 見る物全てが新しくて、希望だけが人生を照らしている気がして、そして……。
 ――いけませんね、朝からぼんやりしていては……。
 思わず郷愁に浸りそうになり、明は自分の頬を軽く叩いた。
 そして、藤原のクラスのドアを開ける。
 教室の生徒に挨拶をしながら、明は自分の席を探す。
 藤原曰く、秋原の後ろの席。
 秋原が既に居たので、見付けるのは容易だった。
「おはよう、秋原」
 出来る限り藤原らしく振舞いながら、明は秋原に声を掛ける。
「ふむ……『俺がお前でお前が俺で』状態か。ベタと言い捨ててしまえばそれまでだが、まあアリであろう」
「え……あ……あの……」
 一瞬で見破られ、明は次の言葉が出なかった。
 そんな様子を見て、秋原は小さく笑う。
「ふっ……この程度で動揺していては話にならんぞ、明さん。案ずるな。藤原はともかく、明さんが困る様な真似はせん」
「あ、ありがとうございます、秋原さん!」
 今日一日の協力者が現れ、明は心の底から頭を下げた。
 転校生の様な境遇なので、本当に協力してくれるなら助かる。
 せめて夕の授業を受けるまでは、彼の厚意に甘えたいところだ。
「事ある度に素に戻っていては苦労するぞ、『藤原』」
 苦笑する秋原に、明は思わず赤面する。
 これが藤原の身体でなければ……と秋原は呟いたが、明には聞こえなかった。
「さて、藤原。早速だが試練だ」
「試練……?」
 秋原の言葉に、明は怪訝な表情を浮かべる。
 秋原は真面目な顔になり、
「一限目は体育。無論、更衣は男子としてだ」


 朝食の片付けも終わり、藤原はベランダで洗濯物を干していた。
 今日は天気が余り良くないので、恐らく午後からは部屋干しだろう。
 服を一つ一つハンガーに掛け、物干し竿に掛けていく。
 まずは自分のカッターシャツ、私服、下着、タオル等を掛け終えた。
「問題はここからか……」
 籠に残っている服を見て、藤原は溜め息を吐いた。
 かと言って、仕事を途中で放棄する訳にはいかない。
 藤原は勇気を振り絞って、明のメイド服、外出用のブラウスとジーンズ、その他下着等を掛けた。
 ――昨日、夕が来てなくて良かった……。
 もし夕の服まで干す事になれば、良心が痛む時間が二倍になっていただろう。
 背徳感に苛まれながら、藤原は屋内へ引っ込む。
「……一限目は体育だったな。鶴橋の授業……か。ま、あいつ程度で怖気付いてたら、うちの学校ではやっていけないけどな」
 明を心底心配しながら、藤原は再び溜め息を吐いた。


「ふっ……。明さんも、もう嫁に行けんな」
「…………」
 体操服に着替え、明と秋原は更衣室から出てきた。
 大勢の男子の中で着替えた所為か、明の頬は火照った様に紅く染まっている。
「……これが本当に明さんならば……嘆かわしい」
 それを見て、秋原は言葉通り嘆いた。
「ところで、明さんの学校はブルマだったのか?」
 それを自ら振り払う様に、明に話を振る。
 一歩間違えれば訴訟沙汰になりそうな質問だが、そんな細かい事を気にする彼ではない。
 明は我に返り、一度訊き返すと、
「私の高校は、ブルマでしたよ」
 秋原にとって意外な答えを返した。
「ほう、そうなのか。古き良き習慣を大事にするのは良い事だ。差し支え無ければ、色も教えて頂きたい」
 一気に息を吹き返し、秋原は更に尋ねる。
 藤原程に長い付き合いでもない明には、秋原が抱えている興奮が解らない。
 彼が持て余している情熱も、伝わらない。
「確か……紺でしたね」
 だからこそ、こんな質問にまともに答えているのだが。
「そうか。スタンダートだが、そこが良いな」
 秋原は、両腕を組んで満足そうに頷く。
 大方、不埒な妄想でもしているのだろう。
「ちなみに、うちのブルマは赤だ」
「ここも、まだブルマなんですか?」
「当然だ。でなければわざわざ入学せん」
 意外そうに尋ねる明に、秋原は言葉通り当然の様に言う。
 秋原が入試の面接で残した『武勇伝』など、明には知る由も無かった。
 もちろん、それはまた別の話である。
「でも、少し恥ずかしかったですね。学科の関係で女子が多い学校でしたけど、一応は共学でしたから」
 明は、苦笑を浮かべながら言った。
 男子の目が集中するので、体育祭は少々辛かった。
 特に自分の場合、上半身にも目線が集まるから、尚更だ。
「うむ。ブルマに恥じらいは付き物だからな。服を下に引っ張って隠す仕草は、それだけで胸キュンものだ。頬を染めれば尚良し。更に明さんの場合、胸も気にせねばならぬから、これらを数学的に解いていくと……」
 秋原は腕を組み、暫くの間唸る。
 そして突然発狂し、明は少したじろいだ。
 昇ぶる感情を吐き出した後、秋原は荒い深呼吸をする。
 周りの生徒は、まるでいつもこんな光景が繰り広げられているかの様な振る舞いだった。
 つまり、いつもこんな光景が繰り広げられているのだろう。
「こ、これは堪らん……! やはり、古い物を馬鹿には出来ぬな。学園モノが未だにブルマに拘るのも解る。棗はジャージ派らしいが、やはり恥じらいはこちらの方が大きいしな。……嗚呼、何故日本は、この様な素晴らしい文化を廃れさせようとしているのだ! 備前焼や友禅染と共に、ブルマも後生に伝えるべきではなかろうか!?」
 こうして、秋原は授業が始まるまでブルマの話を続けた。


 そして、いよいよ一限目の授業が始まる。
 整列した男子達の前に、一人の男性が立った。
 歳は四十代半ば程。
 筋肉質な肉体が特徴的な、いかにもな感じの教師だ。
 木刀でも持てば完璧だが、そんな小細工が無くても十分である。
「授業を始める。礼!」
 見た目通りのゴツい声に応える様に、男子達は頭を下げた。
 明も、周囲に合わせて頭を下げ、頭を上げ、腰を下ろす。
「……さて、今日はサッカーだが、その前に話がある。聴け」
 鶴橋の言葉に、男子達は溜め息を吐いた。
 彼の鋭い目線を浴びると同時に、全員が黙って彼の方を向く。
 暫く見渡した後、彼は話を始めた。
「忘れもしない昨日の事だ。ふと、焼肉が食べたくなってな。俺は、天王寺先生を誘って焼肉屋に行った。いつも話している、駅前の『萌芽』だ。あそこのレバーは格別だからな」
「あの、先生……」
 話の最中、一人の男子が声を掛ける。
 横槍が入った所為か、鶴橋は少し不機嫌な顔をした。
「何だ?」
「いつも思うんですけど、行きたいなら一人で行けば……」
「馬鹿野郎! 焼肉は一人でも大勢で喰った方が美味いんだ!」
 男子の話を途中で遮る様に、鶴橋は怒鳴った。
 その剣幕に、彼は何も言えなくなる。
 それを確認すると、鶴橋は更に続けた。
「で……だ。あいつは信じられない事に、いきなりキムチとライスから手を出し始めた。……ここは焼肉屋だ! 男が肉と戦う場所だ! 女子供が定食屋に行くのとは訳が違うんだよ!」
 いつも通りの展開に、男子達は改めて溜め息を吐く。
 話に意識が向いている所為か、鶴橋は気にする様子が無い。
「俺が注意して、ようやくあいつは肉を注文した。だが、あいつが焼き始めたのは、よりによってテッチャンだった……。焼肉は塩タンから始めるに決まってるだろうが!」
 何故、そんな事で自分達が怒られなければならないのか。解る者は、誰一人として居なかった。
 鶴橋の理不尽な怒りは、まだ収まらない。
「網焼きでいきなりあんな油っぽいのを焼いたら、火が強くなり過ぎて後が上手く焼けねえんだ! 物事には、ちゃんとした順序ってモンが在る。お前らも、結婚する前に相手を孕ませる様な事はするなよ!」
 焼肉と同列で話されても、説得力の欠片も無い。
 と正直に言える空気でもなく、男子達は只々黙っていた。
 この後も、鶴橋の話は二十分間に及んだ。


 選択物を干し終え、藤原は家を掃除していた。
 まずは、全ての部屋に叩きを掛けていく。
 掃除機では届かない場所に在る埃が宙を舞い、床へゆっくりと下降していった。
 そして、最初に叩きを掛けた部屋から順に、掃除機を掛けていく。
 どの部屋も普段の掃除が丁寧なのだろう、目立った汚れはどこにも無い。
 生活を営む以上避けられない埃を、掃除機で吸い込んでいく。
 リビング等の共同の部屋を終え、次は私室に向かった。
 まずは明の部屋。
 着替えにも使った部屋だが、改めて彼女の気品が窺える。
 全ての物が在るべき場所に収まっていて、一つの無駄も無かった。
 本棚を見ると、料理関係の本の群が、真っ先に目に映る。
 主婦なら一冊は持っていそうなレシピ本から、難しそうな栄養学の専門書まで。
 和洋中問わず、何でも揃っていた。
 仕事だからなのか趣味だからなのかは定かではないが、恐らく両方なのだろう。
 その他の本も、家庭的な女性を思わせる物ばかりだ。
 だからこそ、
「……何故?」
 何冊か在った車関係の雑誌や漫画は、不思議な存在感を放っていた。


 体育も無事に終わり、明と秋原は教室に戻っていた。
 クラスの男子達は、鶴橋の焼肉話に付き合わされた所為で、すっかり覇気を無くしている。
 秋原はそれを横目で見て、
「奴は三度の飯より焼肉が好きなのだが、同時に相当の奉行でな。数多の宴をぶち壊しにし、今では教師陣の間で『破壊神』と恐れられているのだ」
 明に簡単に説明した。
「拘りが有るのは良い事だと思いますけど……流石に考え物ですね」
 明は、苦笑しながら言う。
 自分も、紅茶に関しては拘りが有るが、それを人に向ける程ではない。
 そういう意味では、彼は人生を存分に楽しんでいるのだろう。
「さて、次は天王寺(てんのうじ)の日本史だな……」
 呟きながら、秋原は席を立つ。
 クラスメートが全員教室に居るのを確認すると、
「これより、恒例の賭博会を行う!」
 教室中に聞こえる声で叫んだ。
 同時に、体育で萎えていた男子達や、談笑していた女子達も反応する。
 そして、一斉に秋原の席に詰め寄り、行列になった。
 行列とはいっても、それはかなり無秩序で、人だかりと呼んでも差し支えは無い。
「『教卓で溜め息』に二百円!」
「『黄昏気味に窓の外を眺める』に百円!」
「『鼻歌交じりに入って来る』に百円!」
「『黒板にでっかく“I love Sakura”』に三百円!」
「『そもそも教室に来ない』に五百円!」
「『突然泣き出す』に四百円!」
「『その他』に千円!」
 次から次へと押しかける客を、秋原は的確に捌いていった。
 明は、訳が解らないといった表情で、只々その様子を眺めているだけだ。
 こうして、休み時間が終わる。


 始業のチャイムが鳴り、天王寺と呼ばれる教師が入ってきた。
 三十代と思われる男性で、どこにでも居そうな優男の印象を受ける。
 彼は、至って普通に教壇に立った。
 だが、その直後に大きな溜め息を吐く。
 力が抜けていく様に姿勢を低くし、教卓にへばり付いた。
 その様子を見て、何人かの生徒が密かにガッツポーズをする。
 残りの生徒は、それぞれ無念を露にした。
「先生、また奥さんと喧嘩したんですか?」
 教卓付近の生徒が尋ねるが、暫く反応が無い。
 数秒後、
「……そうだよ……」
 彼は細々とした声で答えた。
 更に数秒後、彼はようやく立ち上がった。
「そりゃさ、僕にも非が有るのは認めるよ。けど、正(ただし)が産まれてからというもの、正がどうとか正がこうとか正がそうとか……誰の妻なんだよ。はぁ……僕も正が嫌いな訳じゃないけど、桜(さくら)の半分以上を奪われた事は恨むよ」
 そう言って、天王寺は項垂れる。
 子供が出来たばかりの愛妻家ならではの悩みの様だ。
 天王寺の呟きはまだまだ続く。
「二人で出掛ける事も出来ないし、夜泣きもしょっちゅうだし、何よりも桜を付きっ切りにさせているのがなぁ……。お陰で僕なんて全然相手してくれないよ。子供を産んだばかりの女性は、乳が張っていて一番綺麗な時期なのに……」
 天王寺の言葉の意味に気付き、男子は多かれ少なかれ共感の意を示し、女子は一人残らずドン引きした。
「な、何で引くんだよ!? 夫として、妻に美しく在って欲しいと願うのは普通だろ!? 裸婦の美しさは、外国の絵画では昔から認められていたんだ! 日本は少し遅れたけど、今ではDVDでもPCでも当たり前に裸婦を見られるじゃないか!」
 天王寺は驚きながら問いかけるが、女子達は聞く耳を持たなかった。
 寧ろ、逆効果と言っても言い過ぎではない。
 こうして、彼はクラスの半数に敵視されながら授業をする事になる。


 明と自分の部屋の掃除を終え、残るは夕の部屋のみである。
 言い方を変えれば、まだ夕の部屋が残っているのだが。
 部屋のドアの前で、藤原は息を呑む。
 覚悟を決め、藤原はドアを開けた。
「…………うわぁ」
 夕の『置き土産』をまざまざと目の当たりにし、藤原はドアを閉めた。
 そのままドアに背を委ね、ズルズルと腰を下ろす。
 ――このドアの向こうは、違う惑星が広がっている。
 果たして、どこをどう掃除すれば良いのだろう。
 そんな不安を抱きつつも、藤原は再び――恐る恐る――ドアを開けた。
 まず目に映るのは、机の上に山の様に積まれた本。
 最早『机』としての機能は、殆ど失われているだろう。
 それだけでは収まらず、本は床にまで浸食している。
 資料なのか書類なのかは定かではないが、文字で埋まった紙も床に散乱していた。
 絨毯の様にそれらが敷き詰められていて、足の踏み場などという次元の問題ではない。
 週の半分しか使わない部屋を、どうしたらこんな風に出来るのか。
 以前、この事で夕を咎めた事もあったが、
「ユークリッド幾何学の本がここで、位相幾何学の本がここ。今書いてる論文の資料がここで、教育学の本はこことそことあの辺り。……あ、そうだ。今、日本文学に嵌っててさ……あったあった。夏目漱石、志賀直哉、中島敦、安部公房に司馬遼太郎の全集! 面白かったから、どれも一晩で読んじゃったよ。光もどう?」
 全ての本や資料の所在を把握しているから、尚更質が悪い。
 彼女は『散らかしている』のではなく、あくまで『置いている』のだ。
 ここですらこれなのだから、本拠地は果たしてどうなっているのだろうか。
 藤原は色々と考えた結果、
「……姉さんに注意して貰うか……」
 ここは放って置く事にした。


 秋原が配当を配り終えると、明は彼と共に生物学教室へ向かう。
 廊下の生徒が目に付く度に、アリスや真琴が居ないかと冷や冷やしてしまう。
「……あの、秋原さん……」
 そんな自分を誤魔化す為に、明は秋原に声を掛ける。
 明が皆まで言う前に、秋原は解説を始めた。
「彼は、校内でも愛妻家として知られていてな。校内随一の公私混同野郎なのだ。妻と仲が良い時は、これ見よがしに夫婦仲を自慢し、授業にならん。妻と仲が悪い時は、奥底に沈み切って精気を失い、授業にならん。現美研は、その行動パターンを把握し、我が部独占の賭博にした訳だ。収益金は、我々がコミケ等の遠征へ新幹線で赴く為の資金になる。夜行バスなら金額は気にならないが、乗り心地が最悪なのでな……」
 そこまで言って、秋原は溜め息を吐く。
 恐らく、夜行バスに乗った時の事でも思い出していたのだろう。
 すぐにそれを振り払い、更に秋原は続ける。
「彼は三年程前に、現美研の暗躍もあって結婚に辿り着いたのだ。ちなみに、当時の現美研は、兄者が初代部長を務めていた。あの方の器の大きさは、二代目部長である俺など、足元にも及ばぬ。話を戻して……兄者に桜さんの写真を見せて貰ったが、天王寺程度の小物には不釣合いの美人だったな。まあ、何人も、努力次第で身の程以上の結果を掴めるという好例だ。だが、二人の愛の結晶である正が産まれてからというもの、奴の嫉妬は止まるところを知らぬ。酷い時は、正と一緒に授乳させて貰おうとしたらしい。折角兄者達が仲を取り持ってくれたと言うに……」
 そう言って、再び秋原は溜め息を吐いた。
 今度は天王寺の為の物なのか、それとも『兄者』の為の物なのか。
 きっと、両方なのだろう。
「私は何となく解りますよ、天王寺さんの気持ち」
 唐突に、明が天王寺に同意を示す。
「ほう、明さんも子持ちだったのか」
「…………?」
 秋原の返事に、明は怪訝な表情を浮かべた。
 だが、すぐにその言葉の意味を理解し、明は真っ赤になる。
「ち、違います! そういう意味ではありません!」
 明は必死に否定するが、
「もう少しだ……もう少しで脳内変換率が百%に……」
 当の秋原は、全く違う事に集中していた。
 何を何に脳内変換するのかは、彼のみが知る事である。
 明は溜め息を吐き、さっさと続きを話す事にする。
「私の場合、疎ましく思ったのは……夕です。幼い頃の事ですので克明に覚えている訳ではないのですが……。兄弟姉妹が居ると、どうしても色々と取り合ったり分け合ったりしなければなりません。その上、大人は幼い方を大事にしてしまいますから、物質的にも、精神的にも彼女の配分の方が多かったんです。勿論、憎悪の目だけで彼女を見ていた訳ではありません。ですが、愛情の目だけで彼女を見ていた訳ではありません」
「ふむ。俺は一人っ子である故、その辺りはよく解らんのだが……やはりそう思うものか」
 明の話に、秋原は腕組みをして頷いた。
 明は小さく微笑み、
「とは言いましても、それは彼女が私を慕う様になる前の話です。ほんの数年の話です。……ですから、天王寺さんも、何れは息子さんを愛でる様になりますよ。嫉妬心は、奥様への愛故に芽生える感情ですし、奥様が息子さんを愛でるのも、天王寺さんへの想いの延長だと思います」
 まるで秋原を慰めているかの様に述べる。
「要は、暫し見守れという事か……。まあ、夫婦喧嘩は、如何に我々と言えど喰えそうにないしな」
 秋原は腕を組んだまま、溜め息混じりに言った。
 これからも波乱が予想される日本史を憂いての事なのか、『兄者』への面目が立たない事を恐れての事なのか。
 明は、笑みを絶やさぬまま同意する。


 部屋の掃除もひとまず終わり、藤原は窓を拭いていた。
 それぞれの窓を、絞った雑巾で入念に拭いていく。
 内側を拭き、身を外に乗り出して外側も拭く。
 もちろん、桟の手入れも怠らない。
 雲の隙間から覗く太陽の光が、綺麗になった窓から差し込み、藤原を照らす。
 そろそろ雑巾が汚れてきたので、足元に在るバケツにそれを浸した。
 両手を水の中に入れると、ひんやりとした感覚が肘まで伝わってくる。
 雑巾の両端を掴み、ジャブジャブと水音を立てながらそれを洗った。
「……明さん、大丈夫かな……?」
 心の中に溜まった感情を吐き出す様に、藤原は漏らす。
 まるで、我が子を初めて学校に送り出した親の様な心情だ。
 明は、学校が初めてという事は無いだろうが、明草高校もまた、普通の高校ではない。
 確かに、形式上は学校に違いないのだが、教師陣の癖が強過ぎる。
 『十七歳の貧乳教師』すら、霞んで見えてしまう程だ。
 明は良くも悪くも寛大なので、彼らから変な影響を受けるかも知れない。
「次は梅田(うめだ)だったな……。夕まであと半分……頑張ってくれよ」
 窓の外を眺めながら、藤原は祈る様に言った。


 チャイムが鳴ると同時に、白衣を纏った教師が生物学室に入ってきた。
 正確には、『入ってこようとした』であるが。
 何故なら、
「ふぇ!?」
 扉の桟で躓いてしまったからだ。
 為す術も無く、彼女はつんのめって倒れた。
 ベチッと鈍い音がした事から、その痛さが窺える。
 数秒の間、そのまま何もかもが止まった。
 そして、梅田はゆっくりと立ち上がる。
「いたたた……」
 打ったらしい鼻を押さえながら。
 ようやく教卓の前に立ち、
「じゃあ……授業を始めます……礼」
 半泣きの顔で言った。
 そこら中から『大丈夫ー?』『可愛いよー』といった声が聞こえる。
 堪えようとした笑いが漏れ出す音も、同時に。
「そ、そんなに笑わないで下さいよー!」
 小学生の発表会の様な目で見られていると感じたのか、梅田は恥ずかしそうに顔を赤くして怒る。
 赤くなっていた鼻が、更に赤くなった。
 身長は百五十前半くらいだが、童顔なので、幼く見えない事も無い。
 さっきの転倒で乱れた髪に気付き、手櫛で整えると、元のセミロングに戻った。
 どうにか生物学室に静寂が戻り、改めて授業が始まる。
「……という訳で、前回話した通り、今日は再生についてです。ですが……その……皆さんに……残念な話が……」
 だが、数分も経たないうちに、梅田は言葉を濁した。
 言葉通り残念そうな声に、生徒達は怪訝な表情を浮かべる。
「他の生物教師の皆さんと……散々話し合ったんですけど……」
 段々、消え入る様になってくる声。
 聞き耳を立てる生徒が、波の様に広がっていった。
「私は……最後まで……反対……したんですけど……」
 少しずつ、声が涙声になってくる。
 目尻に涙を湛え、握った拳は震えていた。
 どこから始まったのか、生徒間でざわめきが広がる。
「……プラナリア……切る事になりました……!」
 そして、絞り出す様な声で、梅田は述べた。
 とうとう涙が溢れ出し、一筋の光になって頬を伝う。
 それと同時に、生徒達は安堵にも似た溜息を吐いた。
「な、何ですかそのリアクション!? 私は、私は……ッ!」
 そんな生徒達を、梅田は信じられないといった目で見る。
 それすらも、生徒達は愛玩種を見る様な眼差しで見ていた。
「はうぅ……だって、再生するとは言え、身体をちょん切るなんて……」
「あの、先生……」
 ふと、一人の生徒が呼び掛ける。
 数秒遅れて、梅田が涙目を向けた。
「今回は、何で買収されたんですか?」
「…………」
 その質問に、梅田は言葉を詰らせる。
 どうやら、買収を否定するつもりは無いらしい。
 少し経って、彼女は両手で両目の涙を拭いながら、
「だって……イチゴタルト奢ってあげるって言うから……」
 自分の意見を千円未満で百八十度変えた事を告白した。
 暫くの間、呆然とも慈愛とも受け取れる視線が、梅田に浴びせられる。
「……先生、誘拐された事ありますよね?」
 生徒から飛び出た言葉は、質問と言うよりも断定であった。
「な、何でそうなるんですか!? いくら何でもヒド過ぎますよ!」
 当然の様に、梅田は激しく反発する。
 そして、とうとう嗚咽を上げて泣き出してしまった。
 梅田の幼い応対を楽しんでいた生徒達も、空気が一変する。
 周囲の冷たい目線と、臨戦態勢になり始めた秋原に気付き、
「せ、先生。ギザ十あげますから泣き止んで下さい。お願いします」
 彼は冷や汗を流しながら梅田の機嫌を直そうと試みた。
「ほ、本当ですか?」
 一瞬にして彼女の口元が綻び、生徒達は胸を撫で下ろした。


 こうして、生徒が実験をしている最中、教師がギザ十に目を輝かせるという異様な光景になった。
 梅田は、心底嬉しそうに、ギザギザの側面を指で撫でている。
 少し得した気分になるのは解るが、ここまでの反応を示す人は、滅多に居ないだろう。
 その様子は、海で拾った普通の貝殻を大切にする少女と何ら変わらない。
 生徒達は、梅田がギザ十片手に指導した通りに実験を進めていた。
 体長二センチくらいのプラナリアを、シャーレに乗せて、メスで三つくらいに切る。
 大抵の場合、その三箇所それぞれが、約二週間で完全再生するらしい。
「先生」
「はい」
 生徒に呼ばれ、梅田はギザ十をポケットに仕舞った。
 そして、呼んだ生徒の席へと歩いていく。
「何ですか?」
「これで良いんですよね?」
「……そ、それは……」
 生徒に確認を頼まれ、梅田は止むを得ずシャーレを覗き込んだ。
 そこには、三つに切断されたプラナリアの姿。
 頭部にある目が、こっちを恨めしそうに睨んでいる様に見えた。
「は、はい。それで良いです。再生には数日掛かるので、何日かに一回観察して下さいね」
 少し顔を青くさせながらも、梅田はどうにか平静を保つ。
 急いでプラナリアから目を離し、元の位置に戻ろうとしたが、
「お、おい、それはヤバいって」
「大丈夫だって。こんなモンじゃ全然……」
 別の席が騒がしいので、溜息を吐きながらもそこへ向かった。
「どうしたんですか?」
 そう尋ねた次の瞬間。
 シャーレの中で行われた惨劇の跡が、梅田の目に飛び込んだ。
 さっきのとは比べ物にならない位に、梅田の顔から血が引いていく。
「な……な……な……」
 余りの衝撃に、梅田は次の言葉が出なかった。
 代わりに、そのシャーレを震える指で差し、生徒に目で尋ねる。
 その生徒は、至って平然とした表情で答えた。
「普通に三等分するのも芸が無い気がしたので。これは二十に分けたんですけど、とある研究者は四十以上に切って、それでも再生したそうです。細かく分けた分、再生に時間は掛かりますけど、ちゃんと観察はしますから」
「…………」
 それさえも、今の梅田には聞こえていない様だった。
 彼女の目線の先には、原型が判らない程に切られたプラナリアの破片の数々。
 梅田は、何かを叫ぼうにも声が出ず、そのまま固まっている様な表情だ。
 そして、次第に身体から力が抜けていき、その場に崩れる。
 床に打ち付けそうになった頭を、近くに居た生徒がギリギリで支えた。
 既に梅田は気を失っており、起き上がる気配は無い。
 生徒達の間に、響動めきが走った。
「お、おい……もしかして、『アレ』が目覚めるんじゃないのか?」
 そんな生徒の一言で、更に響動めきが大きくなる。
 今にもパニック状態になりそうな状態だ。
「静まれ! 授業中だぞ!」
 秋原の一声で、全員が一斉に静まり返った。
 そして、意見を仰ぐ様に、視線が秋原に集まる。
 秋原は何度か咳払いをして、いつになく荘厳な表情で口を開いた。
「もし、仮に『アレ』が目覚めたとしても、それは止むを得ない事だ。これは……祟りだ。自然を敬い、愛でる心を忘れてしまった我々に、山神様がお怒りなのだ」
 秋原の言葉に、誰も、何も言えなかった。
 ツッコむ事すら、出来なかった。
 藤原が『藤原』でなければ、ツッコんでいたかも知れないが。
 生徒達が、『アレ』を怒らせたと思われる張本人から離れていく。
 戸惑いと恐怖で身動ぎすら出来ない彼の肩を、秋原は二、三度叩いた。
 まるで、上司が部下に解雇を告げているかの様な光景だ。
 秋原も退避し終えた直後、梅田は目を覚ました。
 ゆっくりと起きあがり、未だ動けない生徒の方を向く。
 その瞳は、普段の無邪気な幼いそれではなかった。
 数々の死線を乗り越えてきた、戦いに飢えた猛獣の様な目だ。
 それと同時に、生物学室の空気が一気に張り詰めるのを、室内の全員が感じた。
「おい、小僧……」
「は、はい!」
 声もまた、普段の明るい声ではなく、厳格すら醸し出している。
 彼は、上擦った声で答えた。
 梅田は、彼の目前まで近寄り、彼の胸座を掴む。
 彼は抵抗する事すら出来ず、その場で膝を付いた。
 梅田の方が十センチ以上背が低い事など、微塵も感じられない状況だ。
「若いからって調子乗ってると……痛い目に遭うぜ。何なら……俺が直々に、このプラナリアみたく粉々にしてやろうか?」
「い、いえ! 滅相もない!」
 それだけで人が殺せそうな程の声に、彼は涙目になって訴えた。
 梅田は見下す様に笑い、
「けっ……解りゃ良いんだよ」
 胸座を掴んでいた手を離した。
 彼はその場に崩れ、正座の様な体勢になる。
 梅田は姿勢を低くして、彼の耳元で囁いた。
「次に俺の目の前でそんな事したら……その命(タマ)、遠慮無く殺(と)るからな」
「…………!」
 彼の全身を、戦慄が駆け巡る。
 それに耐えられなくなり、彼はその場で意識を失った。
 同時に、梅田もそこに倒れ込む。
 一連の流れを、残りの生徒達は、遠巻きに眺めていた。
 猛獣の前に逃げるしか術の無い草食動物の様に。
 誰もが言葉を失う中、
「このギャップ……イイ……!」
 秋原だけは、相変わらずであった。


 午前中の仕事である掃除も終わり、藤原はベッドに身を預けた。
 明の優しい香りを嗅ぎながら悶々……などという趣味は無いので、ここは藤原の自室である。
 家中の掃除となると、流石に草臥れてしまった。
 自室の片付けだけで済ませる普段とは訳が違う。
 藤原は大きく息を吐き、そのまま昼前の一時に流されていった。
 ボーっとしている頭で、色々な事を考える。
 ――ちゃんと、元に戻れるのか……?
 一日なら、入れ替わっての生活も新鮮に思えるが、それ以降はそうも言ってられないだろう。
 こうなった原因は解らないし、元に戻る方法も、もちろん解らない。
 アリスなら、もしかして何か知っていたりするのだろうか。
 明が帰ってきたら、訊いてみるのも手段の一つかも知れない。
 ――明さん、いつもこんな事してるのかな……。
 朝、明に『他人の物を勝手に動かさないように』と教えられた。
 つまり、彼女もそうしているのだろう。
 掃除の際も、他人の物を動かさない様に苦心しているのだろう。
 確かに、自分が何度か部屋を散らかしたままにしていた時も、明はそれらを動かさなかった。
 他人に勝手に部屋を弄られると困る、という事を配慮しての事だろう。
 そして、二つの膨らみに手を乗せて、思う。
 ――やっぱり邪魔だよな、これ……。


 三限目も終わり、明と秋原は美術室に来ていた。
 四限目の授業、美術が始まるまで、あと数分。
「……藤原」
「…………? ……あ、ああ、どうした秋原?」
 数秒経ってから自分である事に気付き、明は慌てて応えた。
 辿々しい誤魔化し方に、秋原は小さく笑う。
 案の定明は頬を染め、飽きる事無く秋原は脳内変換に挑んだ。
 『百%突破!』と秋原が叫び、室内の生徒の視線が、数秒の間集中する。
「ふっ……これでは今日一日が限界だな」
「す、すみません……」
 明は、言葉通り済まなさそうに言った。
 明だけでなく秋原も限界の様な気もするが、明はそんな事を考えない。
「いつ元に戻るのか判らないのであろう? 言動には注意するべきだ」
「そう……ですね」
 秋原の指摘に、明は素直に頷いた。
 お前こそ注意するべきだろう……と、藤原ならツッコんだかも知れない。
 だが、明の脳内は、不安で一杯だった。
 このままでいれば、暫くは夕を見守る事が出来る。
 彼女の職場に、平然と居座る事が出来る。
 妹が気になって仕方無い姉にとって、これ程魅力的な事があるだろうか。
 しかし、この姿では出来ない事も、決して少なくはない。
 夕に、『姉さん』と呼んで貰えなくなる。『姉』として頼って貰えなくなる。
 師匠に合わせる顔が無くなってしまう。メイドとして働けなくなる。
 詰る所、今までに築いてきた『西口明』を、全て放棄しなければならなくなるのだ。
 それだけは、絶対に出来ない。
 裏切って、傷付けて、それでも我を通して、ようやく今の自分が在るのだ。
 そんな自分を、他の誰かに譲る訳にはいかない。
 そう考えているうちに、始業のチャイムが鳴る。


 その教師が美術室に入った途端、明は室内の空気が一変した気がした。
 入ってきたのは、本来の自分よりも少し背が高い女性。
 引き締まっている身体から、日々の努力が窺える。
 年齢は二十代後半と思われ、服装と共に落ち着いた雰囲気を放っていた。
 絹の様に白くてきめ細やかな肌。
 宝石をそのまま埋め込んだかの様に澄んだ瞳。
 極めつけは、神経が通っているとしか思えない程にしなやかに揺れる長髪だ。
「では、授業を始めます」
 そんな彼女の奏でる声は、暖かな優しさに満ちていた。
 その瞬間、明は、自分の全てが彼女に魅了されている事を自覚する。
 魅力的な女性は、同姓をも虜にしてしまうという事なのだろうか。
「今日は、誰かとペアを組んで、お互いの絵を描きましょう」
 魅了される余り、彼女の『声』を『言葉』として認識するのに、かなり時間が掛かってしまった。


「……あの、秋原さん?」
 ペアを組んだ秋原に、明は怪訝な表情で尋ねた。
「十分で終わるから、辛抱して頂きたい」
 だが、秋原はあくまでもこのままで始めるつもりの様だ。
 他の生徒が、何か言いたそうな表情で二人をチラチラと見ている。
 『考える人』のポーズのまま、明は赤面してそれらの視線に晒されていた。
 一方秋原は、特に気にする事無く鉛筆を走らせていく。
 明と画用紙を交互に見ながら、早送りで見ているかの様な速度で動く右手。
 それを見てようやく、明は生徒達の視線が集まるもう一つの理由に気付いた。
「……よし、終わった。ご苦労だったな」
 秋原がそう言ったのは、丁度十分後だった。
 彼の作品を見て、明は言葉を失う。
 自分の姿勢はもちろん、視線に晒されて困っている表情も、忠実に描かれていたのだ。
 それだけでなく、遠巻きに二人をチラチラと見ていた生徒達の微妙な表情も、美術室そのものも、完璧に再現している。
 秋原が描いていたのは、『藤原』ではない。
 『美術室で考える人のポーズをさせられ、生徒達の視線に晒されて困っている藤原』だったのだ。
 周囲の環境に刺激されて刻々と変化する人を、見事に画用紙に閉じ込めている。
 背景を克明に描かなければ、これ程にはならなかっただろう。
 他の生徒達も秋原の絵を見に集まり、各々が感嘆の声を漏らした。
 騒ぎを聞き、教師も集団の一部になる。
「十分でこれ程の絵が描けるなんて……流石ね、秋原君。出藍の誉れとはよく言ったものだわ」
 そして、惜しみ無い賞賛の言葉を浴びせた。
「この程度でそれ程の言葉を貰っては、兄者に申し訳無い。俺が兄者を超える事があるとすれば……否、兄者が生きておられる限り、不可能であろうな。兎が眠らねば、鈍い亀に勝ち目は無いであろう」
 当の秋原は、とても謙虚である。
 普段の言動からは、到底考えられない光景だった。


 早くも秋原が描き終わったので、次は明が描く番である。
「ふっ……お望みとあらば何枚でも脱ごう」
 モデルの秋原は、かなりやる気の様だ。
 片足だけを椅子に乗せ、波止場で格好付けている人のポーズをしている。
 明は秋原の言葉に応える事無く、絵を描き始めた。
 数年振りに見る真っ白な画用紙に、学生時代が蘇る。
 遅くまで残って絵を描いた事。
 誰でも好きな人を描けと言われた途端、生徒全員が自分に詰め寄って来た事。
 白い絵の具を使う度に、何故か男子生徒がそわそわした事。
 どれもが、今では思い出の一つである。
「ところで、秋原さん……」
「うむ。説明せねばなるまいな」
 明が皆まで言う前に、秋原は難しい表情になった。
 先程生物学室に降臨した『アレ』を、気にしない訳にはいかない。
「梅田先生はドジっ娘で泣き虫だが、小さい身体で精一杯授業をしている姿が、微笑ましくて人気なのだ。真琴嬢は『オーバー百五十は邪道っス』とコメントしているがな」
 そこまで言って、秋原は少し躊躇う。
 ポーズを崩す事は無かったが。
「……彼女はスプラッタな話に弱くてな。実験も、他の生物教師に言われなければなかなかやらぬ。そして、スプラッタケージが一定まで溜まると、気を失うのだ。そして……奴が降臨する。奴に関しては、俺もよく解らぬ。生物を愛する心が神を呼ぶのか、前世が番長サミットの創始者なのか……。そんな訳で、今では明草高校七不思議の一つなのだ。まあ、慣れてしまえば、あのギャップもなかなか萌えるのだが」
「そう……ですか……」
 藤原は、普段からこういう教師陣を相手にしているのだろうか。
 幼馴染に魔法使いが居る事を考えれば、大した事無いのかも知れないが。
 そういう意味では、藤原も『普通の人』ではないのかも知れない。
「……絵、御上手なんですね」
 彼女については余り触れてはいけない気がしたので、話題を変える事にする。
 案の定、今度は秋原も話し易い話題の様だ。
 現に、梅田先生の話の時よりも表情が崩れている。
「ふっ……常に絵師としての成長を続ける兄者を手伝うには、まだまだ足りぬ。兄者が同人誌を書く際に背景を請け負っているのだが、側に居れば否応無しに判る。俺と兄者の力の差が……な。特に人物画では雲泥の差だ。ストーリーを受け持つ棗はともかく、俺は精進を怠る訳にはいかぬ。兄者の描くキャラに俺の背景が追い付かなくなれば、何もかも台無しだからな」
 秋原の言葉から、『兄者』への尊敬の念や絵への思いが窺える。
 方向こそ違うものの、明にも敬愛する人が居るので、共感するには十分だった。
 彼をこれ程までに心服させる『兄者』とは、果たしてどの様な人なのだろうか。
 自分がそうされた様に、彼も人生観を変えられたのだろうか。
 取り敢えず明に言えたのは、
「その思いを忘れなければ、きっと追い付けますよ」
 半分は自分に言い聞かせる為の言葉だった。


「……あら」
 生徒達を見回っていた女教師が、明の絵を見て立ち止まった。
 そして、明の側で絵を覗き込む。
 彼女の髪から甘い香りが漂い、明の鼻を抜けた。
 明の体に緊張が走ったのは、それと同時だ。
「藤原君、画風変えたの? ずいぶん絵の雰囲気が変わったけど……」
 その一言で、明は恍惚から覚める。
 ――……不覚。
 例え身体が入れ替わっていても、どんなに藤原らしく振る舞っても、こういう事は誤魔化せない。
 秋原も、かなり険しい表情をしている。
 ――何とかしなければ。
「……ぶ、不器用ですから」
 一杯一杯の明から放たれた言葉は、文脈を完全に無視していた。
 流石の秋原も、動揺を拭えない様だ。
 一番驚いているのは、
 ――わ、私は一体何を!?
 明本人だが。
 幸い、女教師は特に気にしていない様だ。
 もっとも、画風が変わっただけで人格が入れ替わっている事を見抜ける人など、まず居ないだろうが。
「これはこれで、味があって良いわね。でも……」
 その言葉と同時に、明の右手が女教師の右手に包まれる。
 自然と身体も密着し、明は心臓が跳ね上がった。
「ほら、力抜いて。ここをこうして……」
 明の手を意のままに動かして、女教師は絵を加筆していく。
 彼女の吐息が間近で感じられ、明は平静を保つのがやっとだ。
 こんなにドキドキしてしまうのは、自分が男性の身体だからなのだろうか。
 少なくとも言えるのは、自分は間違いなく彼女に心酔しているという事だ。
 まだまだ未熟者である本来の自分も、数年後には彼女の様になっているのだろうか。
 若い頃の師匠も、こんな風に魅力的な女性だったのだろうか。
 そんな事を考えながら、明は女教師に全てを委ねている。
 女として、理想的な女性である彼女を、少しでも間近で感じていたいから。
 この心地良いときめきに、もう少し浸っていたいから。
 その時、校内放送が室内に響く。
「美術科のてらまちたいが先生。美術科のてらまちたいが先生。お電話が入っております」
「……あら、ごめんなさいね、藤原君。私、ちょっと行かなくちゃ」
 放送を聞いて、女教師は身体を離し、 職員室へ向かった。
 明は、彼女の残り香を嗅覚へと迎え入れながら、呟く。
「……たいが?」
「寺町虎牙(てらまちたいが)。虎の牙と書いて『たいが』と読む」
 そんな明に、秋原が答える。
 ポーズは相変わらずだが、そろそろ身体の各所が震え始めていた。
「虎牙……ですか。女性の割には、変わった名前ですね」
 秋原の言葉に、明は素直な感想を言う。
 まるで、特撮のヒーローか何かの名前である。
 あんなに美しい女性なのに、親はどんな意向で名付けたのだろうか。
 だが、そんな明を見て、秋原は含み笑いを浮かべた。
 そして、それはすぐに声を上げての笑いに変わる。
 明は意味が解らず、怪訝な表情を浮かべるだけだ。
 秋原はポーズを保ったまま、明に告げる。
「いつ、誰が、 彼を女だと申した?」
 数秒の間、明はその言葉を咀嚼する。
 数秒の間、だけだった。
「ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!?」


 美術室から出て来た明は、未だにショックが拭えない様だった。
 視点が定まらず、意識はどこか別の世界を漂っている様に見える。
 そんな明が物や人にぶつからない様に気を遣いながら、秋原は隣を歩いていた。「寺町先生は、女よりも女らしい漢として有名でな。
その美貌、立ち振る舞い、全てに於いて校内ではトップクラスなのだ。この高校を見学した際に彼に魅せられ、ここを志望する中坊も少なくない。そんな連中は総じて辛酸を嘗め、とんでもない性癖に目覚める者も稀に居る。……全く、罪深い『女』だ。ちなみに、俺は胸の形状で容易に見破る事が出来た」
 秋原の説明も、今の明には満足に届いていなかった。
 男性でさえ、あれ程見事に女性として輝く事が出来るのに、自分はどうだろう。
 女性として生を授かりながら、彼にも及ばないなんて。
 これでは、師匠の領域に至るなど、夢のまた夢である。
 自分があらゆる意味で未熟である事は承知しているつもりだったが、改めて痛感させられた気分である。
「……気に病む事は無いぞ、『藤原』。俺は、絵師として人体を熟知しているからな。パッドで膨らませた胸など、判別出来ねば沽券に関わるのだ」
 秋原が慰めの言葉を掛けるが、今の明は聞く気分にすらなれない。
 項垂れたまま何かを延々と呟き、力無く歩いていた。
 秋原は少し考え、呟く様に言う。
「喜ぶが良い。五限目は英語。……夕先生の授業だ」
「ほ、本当ですか!?」
 その瞬間、明の表情がパッと明るくなった。
 この高校の教師陣に押されて忘れかけていたが、本来の目的は、夕が教壇に立つ姿を見る事である。
 もうすぐ、夕の姿を見る事が出来る。
 そう思うだけで、胸の奥が温かい何かで一杯になった。
 さっきまで何か思い悩んでいた気がするが、もう気にならない。
 愛しい妹の事を考えるのに、悩みなど邪魔なだけである。
「もう昼食の時間ですよね? 早く行きましょう、秋原さん♪」
「う、うむ……」
 たった一言で、危険な程に立ち直ってしまった明に、流石の秋原も少し驚いていた。
 その時、秋原のポケットから、携帯電話の着信音が鳴る。
 秋原は明に頭を下げてから、電話を手に取った。
「俺だ。――そうか。……して、今は? ――判った。報告ご苦労」
 簡単に話を済ませ、秋原は電話を切る。
 その表情は、動揺こそしていないものの、難しいものだった。
 明も、自ずと緊張が芽生えてくる。
「堀が、四限目の体育で足を痛めたそうだ。先に保健室に向かいたいのだが、構わんか?」
 秋原の問いに、明は即座に頷いた。


  保健室を前にして、秋原は立ち止まった。
 進もうとする明を片手で制し、その場に留ま る。
「……行かないんですか?」
 そんな秋原に、明は怪訝な表情を浮かべた。
「明さんに、覚悟を決めて貰おうと思ってな」
「覚悟……ですか?」
 秋原の台詞に、明は更に首を傾げる。
 保健室に行くのに、どうして覚悟が要るのだろうか。
 それ以前に、怪我を治す場所に覚悟が要るのは問題ではないのか。
 まさか、梅田の様な、症状を悪化させかねないドジッ娘が居るのだろうか。
 自分だけで考えても仕方無いので、秋原に詳細を問う。
「この保健室に居られるのは、明草高校の女帝、今宮(いまみや)。『保健室には妖艶な保健婦が居る』という王道を貫いておられる御方だ。現美研が独自に行うアンケートでも、『ボンテージが似合いそうな女性』第一位、『鞭を振るって欲しい女性』第一位、『罵られてみたい女性』第一位、『女王様と呼んでみたい女性』第一位、『海でブラジル水着を着ていそうな女性』第一位、『そもそも存在自体がエロい女性』第一位、『こんな姉が欲しかった・教師の部』第一位などといった具合に、どこぞの化粧品の様に、数多の誉れ高き実績を誇っておられる」
「は、はあ……」
 秋原の長い説明に、明は尚更疑問を抱いた。
 ボンテージやブラジル水着など、良く解らない単語が在った事が一つ。
 とにかく凄い女性みたいなのだから、不安がる必要は無いと思うのが一つである。
 普通の人なら、この時点で色々な事に気付くだろう。
 だが、この手の知識に疎い明は、ライトノベルでは書けないくらいに詳しく、且つ解り易く説明しなければ解らない。
 その事に気付いた秋原は、初心(うぶ)な明に萌えつつも、この場での詳しい説明は諦める事にした。
「要は、寺町先生を天使と喩えるなら、今宮先生は悪魔だという事だ。興味を持った相手を魅了し、自分の欲望が満たされるまで弄ぶ、恐怖の悪魔。
故に、二つ名は『悦楽のサキュバス』。『偽りのセラピム』である寺町先生と共に、男心をくすぐって止まぬ存在だ。そんな彼女が、堀とは言え、男と同じ部屋に居るという事は……。この扉の向こうに如何様な光景が広がっていても、後悔せぬか?」
 代わりに、要点だけを纏めて明に問う。
 保健室に何をしに来たのか判らなくなりそうな質問だ。
 が、明が答える前に、保健室の中 から聞こえてきた。
 透かさず、秋原はドアの前で聞き耳を立てる。
 釣られて、明も隣で同 じ様にした。
「せ、先生、こんなのダメですよ……」
「あら、もう怖気付いてるの? 若い割に根性が無いわね」
 聞こえてくるのは、少し怯えている堀と、どこか艶めかしい女性の声だ。
「ほら、この辺りなら……」
「ああっ!? ぼ、冒険し過ぎですよ先生……」
「……よし、次は堀君ね」
「も……もう、立っているのが不思議なくらいですよ」
「ふふ……私はまだまだ物足りないわ」
 明には、二人して何をしているのか判らない。
 だが、眼前の秋原が明らかに興奮している事だけは、容易に判った。
「……お、意外と大胆ね」
「僕も、一応男ですから」
「素敵よ、その心意気。お姉さん、ちょっと興奮してきたわ」
「や、やっとですか? 僕なんて、もうドキドキしっぱなしで……」
 次第に余裕を無くしていく声と、それに比例する様に高ぶっていく声。
 秋原の身体が、何かを押し殺す様に小刻みに震えていた。
「せ、先生! そこは……!」
「そこは……何?」
「さ、触るだけでどうにかなってしまいますよ。だから……」
「……えいっ」
「あっ…… ああああぁぁっ!?」
 二人のやり取りを聞いていた秋原が、急に立ち上がった。
「明さんには、ここで待っていて貰いたい。この先の扉に、どの様な光景が広がっているか判らんからな」
 紳士的に振る舞う秋原。
 だが、何かに対してうずうずしているのは明らかだった。
 明は怪訝な表情を浮かべ、
「しかし、秋原さんは……?」
 秋原に問う。
 秋原はあくまでも冷静に、
「俺は何を見ようが構わん。というより見たい」
 且つ、溢れ出す情熱を抑えられないまま答えた。
 そして、ノックもせず秋原はドアを開ける。
 放っておけず、明も秋原の後ろから保健室を覗き込んだ。
 そこに広がっていたのは、大体どこも構造は変わらないであろう保健室。
 入ってすぐの場所にあったのは、足の短い机。
 それを挟んで向かい合う様に置かれた二つのソファには、
「先輩! わざわざ来て下さったんですか!?」
 歓喜の声を上げる堀と、
「あら、この子のお見舞いかしら? それとも、あっちの相談?」
 妖艶な声と表情で迎える女性が、向かい合って座っていた。
 机の上には、塔の様に積まれた木の板。
 崩さない様に下から抜き取り、上に積み上げるゲームと思われる。
 かなり危険な積まれ方で、今にも自壊してしまいそうだ。
 沈黙する秋原の顔を、明が覗き込む。
 当て所の無い、形容し難い感情に充ち満ちた表情だった。
「足は大丈夫か、堀?」
 そんな秋原の代わりに、明が堀に尋ねる。
 藤原と同じ口調にしようとして、少しわざとらしい言い方になってしまった。
 堀は気付く事も無く、笑って答える。
「はい、ちょっと挫いてしまっただけなので。今宮先生がちゃんと手当てして下さいましたし。それで、成り行き上ゲームの相手をする事になったんです。先生のプレイングが大胆なので、ドキドキしっぱなしですよ」
 その時、今宮がニヤリと笑った事に、堀は気付かなかった。
 今宮は、人差し指でそっと自壊寸前の塔に触れる。
 白衣に勝るとも劣らない白さの指で触れられた塔は、呆気無く崩壊した。
 音を立てて崩れる塔に気付くも、堀に打つ手など無い。
 只々、呆然と眺めるだけだった。
「ふふ……貴方の番に崩れたから、私の勝ちよ」
 明にも劣らない大きさを誇る双丘の前で腕を組み、今宮は言い放った。
「そ、そんな……」
 堀は、ショックで何も言えない様だ。
「じゃ、二千円で良いわ。頂戴」
「か、賭け事なんて聞いてないですよ!?」
 催促の手を出す今宮に、堀は心底驚く。
「当然じゃない。男と女の真剣勝負なんだから」
 言葉通り当然の様に、今宮は述べた。
 お金を取る理由を説明していない気がするが、現状では誰も突っ込まない。
「ぼ、僕、そんなに持ってませんよ」
「あら……そうなの」
 戸惑う声で拒む堀に、今宮は胸を強調しながら迫る。
「だったら、足りない分は補って貰わないと。貴方のカ・ラ・ダ・で♪」
「ひ、ひいッ!?」
 微塵の冗談も感じられない表情で背中に腕を回す今宮に、堀は今にも泣き出しそうな表情になった。
 逃げる事さえ儘ならず、堀の小柄な身体は今宮に絡まれていく。
 目尻に涙を蓄えて、堀は秋原と明の方を見つめた。
 伝えたい事は、一つしかないだろう。
「……行くぞ、藤原」
「えっ、は、はい……」
 だが、秋原は何事も無かったかの様に、明を連れて去った。
 どうやら、堀は八つ当たりの対象になってしまったらしい。
「せ、先輩!?」
「もう……あんなに興奮させたんだから、最後までしなさいよ」
「興奮の意味が違いますよ!」
「欲望に意味や理由なんて無いのよ、坊や」
「ひゃ!? や、止めっ……うわあああああぁぁぁッ!?」
 そんな痴話を背中で聞きながら、秋原達は保健室を後にした。
 明は、今も本当に帰って良いのか迷っている。


 藤原宅のキッチン。
 藤原は、昼食の為に野菜を切っていた。
 今日のメニューは野菜炒め。
 明が作り方を一通りメモしてくれたので、恐らく失敗はしないだろう。
 メモを読んでいる最中、『千切り』という言葉が目に留まる。
 先日、アリス達のクラスで調理実習があった時の事を思いだしてしまった。
 アリスが千切りを千回切る事と勘違いしたりして、現場は大騒動だったらしい。
 そんな話を聞いたので、藤原は授業が終わると同時に逃亡した。
 案の定、アリスは自分を捜し回っていたらしい。
 最早兵器と化してしまった『食物だった何か』を片手に。
 幸い、秋原と真琴がそれを完食したので、大事は免れた。
 何故二人が自殺行為に及んだのかは、容易に想像出来る。
 居合わせた人曰く、二人は『幸せそうな笑顔で、悶えながら天に召された』らしい。
 『らしい』が三回も付いたが、全て伝聞なので仕方が無い。
「……そう言えば、明さんは知らないんだよな、この話」
 緑黄色野菜を切りながら、藤原は呟いた。
 思えば、自分は明とそれ程積極的に会話をしない。
 学校で起きた由無し事も、特に話したりはしない。
 同じ屋根の下に住んでいるのに。
 自分ではそんなつもりは無いのだが、まだ彼女との間に隔たりが在るのかも知れない。
 元はと言えば、彼女とは両親の都合で知り合う事になったのだ。
 赤の他人である彼女と普通に生活しているだけでも、充分凄い事だと思う。
 しかも、今では彼女の妹までも入り浸っているのだ。
 所詮、自分は雇った側であり、彼女は雇われた側。
 無理に仲良くなる必要など無い筈だ。
 もちろん、好き勝手の限りを尽くす両親の僅かな憐憫を否定する訳ではない。
 家事を一手に背負う事の大変さは、今日で充分解った。
 『おはよう』と言う相手が居て、『いってきます』と言う相手が居て、『ただいま』と言う相手が居て、『おやすみ』と言う相手が居る。
 彼女が来る前に、そんな日がどれ程あっただろうか。
 だから、彼女は掛け替えの無い存在である。
 要は、馴れ馴れしくし過ぎなければ良いのだ。
 ちゃんと話すべき事を話して、お互いにお互いを知り合って、尚且つプライバシーに土足で踏み込まない様にする。
 とても近くて、でも決してくっついてはいない。
 そんな距離を保てばいい。
「って、これじゃあ『赤の他人』の関係じゃないよな……」
 そこまで考えて、藤原は苦笑した。
 結局、明や夕は、もう『赤の他人』などという関係ではないのだ。
 そして、雇う側と雇われる側の関係でもない。
 自分にとって、彼女達は……。


 購買でパンと飲み物を買った明は、秋原の隣を歩いていた。
 秋原が行く方向に付いていくだけなので、どこに着くのかは彼女にも判らない。
「あの……堀さん、放っておいて良かったんですか?」
 その途中、明はずっと考えていた事を秋原に尋ねた。
「構わん。いつもの事だからな。今宮先生は、あの通りギャンブルが好きでな。競馬、競輪、競艇、パチンコ、宝くじと、何でもやっておられる。校内でも、何かと現金を掛けたがるのだが、恐ろしい勝率の上に、敗者には容赦せん。負けた天王寺が家庭崩壊に追い込まれかけた程だ。
我が部も、今宮先生が賭け事に参加する事は禁止している。しかし、まさか怪我人にまで手を出していたとはな……」
 明に問いに、秋原は長めの説明を返した。
 賭け事の好きな教員はいかがなものかと明は思うが、自分の妹も教員なので、深くは考えない。
「……夕は、大丈夫なのでしょうか?」
 ふと不安になり、明は秋原に尋ねる。
 夕が、もし金銭トラブルにでも巻き込まれていたらと思うと、居ても立ってもいられない。
「ふっ……案ずる事は無い。彼女とて、流石に未成年相手に鬼にはならん。金の代わりに、簡単な罰ゲームを受けるだけだ」
 秋原の答えに、明は胸を撫で下ろした。
 次の瞬間には、それがぬか喜びに変わる事など、知る由も無い。
「主な内容は、コスプレをしての授業だ。憶えている限りでは、首輪、獣耳数種類、ブルマ、ジャージ、スクール水着、制服エプロン、裸ワイシャツ等だな。恐らく、夕嬢が最も辛かったと思われるのは、ビキニ姿での授業であろう。貧乳教師に、敢えてビキニ……流石は悦楽のサキュバス。解っておる」
「な…………!?」
 同情しているのか感心しているのか判らない秋原の言葉に、明は二の句が継げなかった。
 どのようなものなのか判らない物も幾つかあったが、水着と並列されているのなら、そういう物なのだろう。
 教師にその様な服を着せて、授業をさせているなんて。
 しかも、胸にコンプレックスを抱いている夕に、胸を強調する服とは。
 姉として、妹がそんな目に遭っている事を見逃す訳にはいかない。
 明は、その旨を秋原に伝えようとしたが、
「…………」
「どうした?」
「い、いえ! 何でもありません!」
 それはそれで見てみたいという、あってはならない考えが頭を過ぎってしまい、何も言えなかった。
 これでは、自分も他人の事を言えないではないか。
 当事者は、相当の恥辱を受けているのに。
 頼られるべき姉がこれでは、合わせる顔すら無い。
 それでも、妹のあられもない姿が、何故か浮かんできてしまうのだ。
 一緒に風呂にも入っているのに、何故今更?
 その答えは、いくら考えても出てこなかった。
 まさか、これが、秋原が常日頃から崇拝しているという止事無い感情、『萌え』なのだろうか。
 だとしたら、何と恐ろしい感情なのだろう。
 理性というしがらみを、こうも容易く振り解いてしまうなんて。
 とにかく、妹がそんなことになっているのなら、せめて事実を確認しなければ。
「……あ、あの、秋原さん」
「何だ?」
「その時の写真か何かありませんか?」
「写真も動画もあるが……それがどうした?」
「私にも、一枚譲って下さい」
「何と!?」
 これで、証拠を押さえる事が出来た。
 体が元に戻ったら、夕とゆっくり話をしよう。
「そうか……まさか明さんが……そうなのか……」
 秋原は、大層驚いた様子で、何やら呟いていた。


 秋原が屋上のドアを開けると、既にアリスと真琴が居た。
 真琴は嬉しそうに、押し倒す様にしてアリスに抱き付いている。
 アリスは、どうやら必死の抵抗の後らしく、すっかり脱力していた。
 良く解らない光景に、明は言葉を失う。
「……あ、先輩。こんちはっス」
 先に二人に気付いた真琴が、いつもの明るい笑顔で挨拶した。アリスに抱き付いたまま。
 こうも普通に接されると、却って返答に困ってしまう。
 その時、アリスの瞳に『藤原』が映り、生気が戻った。
「お兄ちゃん!」
 真琴を振り払うと、アリスは全力で駆け寄り、『藤原』に飛びつく。
「お兄ちゃん、またマコちゃんがセクハラしてくるよぉ……」
「ま、また?」
 半泣きの顔で見上げるアリスに、明は尚更疑問が深まった。
 アリスと真琴は女性同士なのに『セクハラ』とはどういう事なのか。
 以前、藤原家に来た時の真琴は、正義感に満ちた、人当たりの良い少女といった印象だった。
 確かに、自分で子供が好きだとは言っていたが、それが『セクハラ』に繋がるのだろうか。
 しかも、『また』という事は、よく行われているという事だ。
「先輩、邪魔しないで下さいよー。そろそろ脱がそうと思っていたんスから」
「脱が……!?」
 白昼堂々とんでもない事を言い出した真琴に、明は驚きを隠せなかった。
 『子供が好き』が、こういう意味だったとは。
 もしかして、他の女子高生もこんな感じなのだろうか。
 だとしたら、自分が高校を卒業して数年の間に、色々と変わってしまった様だ。
「ふむ、それは残念だ。もう少し遅れておれば、アリス嬢のあられもない姿を見られたものを」
 秋原が、言葉通り残念そうに呟いた。
 別段驚いていない事から、これがいつもの風景である事が窺える。
「まあ、さっきの体育の授業で、望月さんのブルマ分は充分補給したっス。秋原先輩、今日も、見えそうで見えてる萌え写真を揃えてきたので、見て欲しいっス」
「ほう、それは楽しみだな」
 そして、真琴と秋原は、さっさとフェンス際へ行ってしまった。
 ショックが拭えないらしく、アリスは『藤原』に抱き付いたままだ。
 こんなに小さな娘に猥褻紛いの行為をして、平然としているなんて。
 明は軽く不快感を覚えるが、高校生のアリスを『小さい娘』と思う時点で、二人と大して変わらない。
 もちろん自覚する事も無く、明は『藤原』の姿である事も忘れて咎めようとするが、
「お兄ちゃん。女の子は、傷付いている時が一番無防備なんだよ」
「…………は?」
「つまり、お兄ちゃんに慰めて欲しいんだよ。性的な意味で」
「…………」
 どうやら、これもいつもの光景の様だ。


 藤原の昼食は、野菜炒めと紅茶だった。
 昼のテレビを見ながら、リビングで昼食を食べる。
 余り料理をしない自分が作った割には、なかなか美味しく出来たと思う。
 もちろん、明が丁寧に作り方を書き残してくれていたからだが。
 切って炒めるだけの料理を選んでくれたことからも、彼女の気遣いが窺える。
 それにしても……。
「……合うのか、これ?」
 添える事になった紅茶を見て、藤原は呟いた。
 調理中にも、同じ事を呟いた筈だ。
 彼女が紅茶好きである事は知っていたが、ここまでとは。
 よくよく思い返してみれば、明が紅茶以外を飲んでいる姿を、殆ど見た事が無い。
 朝、起きてきた時には、洗ったばかりのティーカップがある。
 夕方、帰ってきた時には、紅茶と茶菓子を用意している。
 夜、風呂上がりに飲むのは、冷やした紅茶だ。
 糖尿病を心配しつつも、藤原は紅茶を一口。
「……美味い」
 明が書き残した通りに煎れただけで、こうも違うものか。
 流石、家事を生業としているだけはある。
 ただ、
「あとは、夜の相手と朝の奉仕を覚えれば完璧であろうな」
 と秋原に言われた時に、褒め言葉として受け止めていたのは問題だと思う。
 姉妹揃って、箱入りどころかロシア人形の一番内側で育てられたのではないだろうか。
 言うまでもなく、秋原の方に根本的な問題があるのだが。
 夕が持ち込んだ話を彼が再燃させた所為で、収束がどれ程大変だった事か。
 そんな事を考えていた時、唐突にビデオの起動音がした。
 少し驚いて藤原がビデオデッキを見ると、予約していた録画が作動していた。
 どうやら、明がセットしていたらしい。
 この状況で、よくここまで周到に準備出来たものだ。
 体が入れ替わった事による混乱と、仕事中の夕を見られるという驚喜が、上手い具合に打ち消し合ったのだろうか。
 彼女が何を見たいのかが気になり、藤原は録画中のチャンネルに変える。
「今日のテーマはバナナです。栄養満点で食べ易く、遠足のおやつになるか否かで今も議論が続く人気果物。しかもエロい。そんなバナナの効果的な調理法を検証すると同時に、各学問の権威が、バナナはおやつに入るのかを徹底討論。更に、カリスマAV男優、斉藤鷲が、バナナのエロい食べ方を教えます」
 主婦が好みそうな健康番組だった。
 今も、毎日勉強しているという事か。
 明の飽くなき向上心に感心し、藤原は昼食を食べ終えた。
「……バナナは食後のデザートだろ」


 アリスと真琴を気にしながら、明は四人で昼食を食べていた。
 今日の昼食は、購買で買ったパン。
 自炊を主としている彼女にとっては、珍しい体験だ。
 とは言っても、今の状況では、味わっている暇など無い。
 夕の授業を受けるまでは、何としても正体を看破されないようにしなければ。
 危険因子の片方――真琴は、
「これが、弓道部を取材した時に撮った写真っス。この胸当ての辺りなんて、弓道着萌えには堪らないと思うっスよ」
「うむ。的を見据える凛とした横顔、緊迫感がひしひしと伝わってくる構え……。実に趣深い画だな。いやはや、真琴嬢も腕を上げたものだ」
 秋原に写真を見せているので、それ程気にしなくて良いだろう。
 問題は、
「……でね、結局、堀君が保健室に行った事に、授業終わるまで誰も気付かなかったんだって。やっぱり地味って損だよね。行方不明になっても気付いて貰えないかも」
「は、はあ……」
 身体をくっ付けて、積極的に話し掛けてくるアリスの方だ。
 下手な応対では、長く保たないだろう。
 唯一の頼りである秋原も、真琴の相手で手一杯である。
「ボクは、お兄ちゃんと二人でなら行方不明になりたいけどね」
「そ、そう……」
 しかも、反応に困る発言が多い。
 最近の学生は、こうも不純な異性交遊が当然なのだろうか。
 自分が学生の頃は、憧れの人と目が合っただけで夜も眠れなくなる様な純な生徒ばかりだったのに。
 とは言え、自分には、誰かに恋焦がれた経験は無い。
 メイドになるべく、自身の能力の向上に全ての時間を注いでいたからだ。
 こうして学生と触れ合っていると、少しあの頃の自分を後悔してしまう。
 だが、あれも師匠に少しでも近付く為の事。
 青春を犠牲にしたものの、自分は確かに成長した。
 様々な資格も取得したが、それは勉強の後に付いてきたに過ぎない。
 今なら、大抵の人に満足して貰える仕事が出来る筈だ。雷の日以外は。
 それでも、まだまだ師匠に追い付いた気がしない。
 一体、どうすればあの人に触れる事が可能なのだろうか。
 ずっと、ずっと考えている事なのに、未だ納得出来る答えが見つからない。
 けれど、誰かの背中を追い続ける事で生涯を終える事が出来るのなら、それはそれで良いのかも知れない。
 そんな事を考えていた時、ふと、明はアリスの目線に気付く。
 誰かを疑う時に見せる、若干の敵意を感じさせる目線だった。
「……どうした?」
「なんか、いつものお兄ちゃんじゃない気がする」
 アリスの答えに、明は心臓が跳ね上がった。
 真琴と写真の取引をしていた秋原も、僅かだが反応する。
 それに呼応するかの様に、天候は少しずつ、だが確実に悪化の一途を辿っていた。
「どうしたっスか、望月さん?」
「言葉通りだよ。『この人』は、ボクの知ってるお兄ちゃんとは違う。そんな気がするんだ」
 真琴の質問に答え、アリスは明から身体を離した。
 流石に、普段から藤原にベタベタしているだけはある。
 そんな妙な感心を、明は抱いた。
「言われてみれば……何か変な気がするっス」
 アリスの懐疑が、真琴にまで伝染してしまった。
 やはり、付け焼刃の振る舞いでは厳しいものがあったのだろうか。
 それでも、もうしばらくは穏便にやり過ごさなければならないのだ。
 他でもない、大切な妹の為に。
「人聞きの悪い事言うなよ。俺が俺でないなら、一体誰だっていうんだよ?」
 明は、あくまで冷静に対応した。
 自分だって、メイドとして藤原の世話をしているのだ。
 仕え始めてそれなりに時間も経ったし、易々と押し切られる訳にはいかない。
 少し考えた後、アリスは急に表情を明るいものに変えた。
 明に擦り寄り、上目遣いで見上げる。
「お兄ちゃん。エッチなこと、しよっか?」
「え、エッ……!?」
 ストレート過ぎるアリスの言葉に、明は一気に顔を紅く染めた。
「若い男女が寄り添ったら、する事は一つだけでしょ。ね?」
「な……いや……でも……その……未成年ですし……もっと健全な……」
 自分の苦手な方向から攻められ、明はもうグダグダだった。
 助けてくれる筈の秋原は、真琴共々アリスに情熱を持て余している。
 そして、アリスの身体が、再び明から離れていった。
 その表情は、やはり再び懐疑的なものになる。
「やっぱりおかしい。いつものお兄ちゃんなら、とっくにツッコんでるのに。お兄ちゃんがツッコミを止めたら、この小説はお終いだよ」
「ぐ…………」
 アリスの言葉が、偽りを纏った自分を掘り返そうとしている感覚を覚え、明は何も応える事が出来なかった。
 藤原らしい応対の仕方なら、彼と生活しているから大体判る。
 だが、ツッコミだけは、容易く真似出来るものではないのだ。
 突拍子もない言動を的確にツッコむには、語彙力を判断力と反射神経が必要である。
 リズムを損なわない為の、タイミングを読む能力も欠かせないだろう。
 秋原やアリスと連日会っている藤原は、自然とそれらが鍛えられているのだ。
 一方自分は、ツッコむ機会すら滅多にない。
 自分の知り合いは、白昼堂々『エッチ』なんて言わない。
 こんな致命的な問題に、どうしてもっと早く気付かなかったのだろうか。
「まあ待たぬかアリス嬢。藤原は唯一のツッコミなのだ。ツッコミ疲れも少々はあろう」
 秋原が、問い詰めるアリスに割って入ってくる。
 助け船を出され、明は少しホッとした。
 そんな時、秋原の袖を引く真琴の手。
 秋原が真琴の方を向くと、彼女の少し潤ませた上目遣いが目に映った。
「……先輩の嘘吐き」
「な……ッ!?」
 後輩の不意を衝いた萌え台詞に、秋原は少しよろめく。
 幼女大好きな元気娘という印象が強いだけに、ギャップのあるしおらしい仕草は破壊力抜群だ。
 息が乱れ、頭を抱えるが、どうにか数秒で復活した。
「ふっ……甘いな、真琴嬢。この程度の萌え台詞では、俺は沈まんぞ」
 そして、余裕たっぷりの声と表情で言う。
 もちろん、普通の人ならよろめく事すら無いのだが、この場にそれをツッコむ人は居ない。
 だが、真琴もまた、表情には余裕が窺えた。
 その口から発せられたのは、
「……先輩はもう、萌え死んでいるっス」
 大胆にも勝利宣言である。
「ふっ、何を馬鹿な事を。数多のギャルゲーや同人誌に触れてきた俺が」
 唐突に、秋原の言葉が途切れる。
 明がそれに気付いた時には既に、秋原はゴトリとコンクリートに横たわっていた。
 ダイイングメッセージなのか、左手がフレミングの法則になっているが、多分誰にも解読出来ないだろう。
 助け船が沈み、明は心の中で悲鳴を上げる。
「さて、これで『アナタ』の味方はもう居ないっス」
「『キミ』がお兄ちゃんの皮を被った時点で、結果は見えていたんだよ」
「いえ……あの……私は……」
 アリスと真琴に詰め寄られ、明はまともな返答も出来ぬまま後退った。
 誰かの代わりをする事が、こんなに難しい事だったなんて。
 今更ながら、明は軽率だった自分を後悔する。
 明は『明』で、藤原は『藤原』なのだ。
 多少誤魔化したところで、親しい人ならすぐに判ってしまう。
 偶然体が入れ替わったのを良い事に、少々舞い上がり過ぎていた。
 明がそんな後悔に苛まれていた時、アリスは何か思い付いたようだった。
 その表情が、自分にとって良くない何かが起こる予兆である事は、容易に判る。
「ボク、一人だけ思い当たる人が居るんだよね。ボケなのかツッコミなのかハッキリしなくて、下ネタの耐性ゼロの人」
 どうやら、アリスは気付いてしまったらしい。
 自分が本物の藤原でない事だけでなく、正体まで見破ってしまうなんて。
 愛は強しという事を、明はまざまざと見せつけられた。
「ところでマコちゃん。ボク、アカリンのバストサイズ知ってるんだけど、教えてあげようか?」
「マジっスか!? ロリショタ以外にはあんまり興味無いっスけど、明さんの胸なら話は別っス!」
「実は、今も成長しているらしくてね……。僕が聞いた時には、確か」
「すみませんでした! もう嘘吐きませんから止めて下さい!」
 こうして、明の野望は終わった。


「……という訳で、流石の明さんも、寺町先生の正体は見破れんかったのだ」
「あはは……。でも、しょうがないよね。ボクも最初は全然判んなかったし」
 明が事の経緯を明が話した後、その話題に花が咲いた。
 彼女が言いたがらない事は、一つ残らず秋原が話してしまう。
 お陰で、彼女は終始赤面していた。
「それにしても、妹さんの為にここまでするなんて、明さんも度胸あるっスね」
「度胸というよりは……その……夕が皆様に迷惑を掛けていないかが心配で……」
 真琴の言葉に、明は少し照れながら答える。
 端から見れば、今の自分は、未だ妹離れが出来ない姉にしか映らないだろう。
 だが、若干十七歳で教師をしているとなれば、心配するのも無理はない筈だ。
「その内、見事な百合の花でも咲かせるんじゃないっスか?」
 真琴が、冗談交じりに続ける。
 対して明は、その言葉の意味が解らなかった。
 首を傾げる明を見て、真琴はそれを察する。
 ボケ殺しの可能性を感じ、真琴は秋原に耳打ちした。
「先輩! 意味が通じてないっス!」
「まあ、明さんなら仕方あるまい」
「ここは、ストレートに○○○とか×××って言う方が良いっスか?」
「否。放っておく方が、後々面白そうだ」
 一連の会話は、全て漏れていた。
「望月さん、○○○や×××って、どういう意味ですか?」
「う〜ん……。伏せ字にならない様に喩えるなら、S極同士やN極同士がくっつく様なものかな?」


 昼食の片付けを済ませた藤原は、次の仕事、買い物に向かった。
 メイド服だと目立ち過ぎるので、白いブラウスとジーンズに着替えている。
 本日二度目の女体での着替えだったが、用を足すときと比べれば、なんて事はない。
 それよりも、今、自分が居るのは外。家の中とは訳が違う。
 この身体の本来の持ち主が明である以上、細心の注意を払わなければ。
 その為には、歩き方にも気を付ける必要がある。
 背筋をピンと伸ばし、知人に会えば笑顔で挨拶。
 ひったくり対策に、ショルダーバッグは歩道側にぶら下げる。
 取り敢えず、これくらいは最低限度だ。
 緊張感に満たされながら、住宅街を歩く藤原。
 これ程までに、外出に気を遣った事が、今までにあっただろうか。
 そして、試練は訪れる。
 向かいから来た女性が、すれ違おうとした時に、
「……あ、西口さん。こんにちは」
 挨拶をしてきたのだ。
「こ、こんにちは」
 可能な限り自然な笑みを浮かべ、藤原は挨拶を返す。
 『自然に』と意識した時点で、不自然な事は鏡を見ずとも明らかだが。
「今から買い物ですか?」
「え、ええ……」
 話を適当に流しながら、相手が自分の知っている人か否かを確かめる。
 二十代後半くらいの女性で、背丈は百六十程。
 やや控え目だが、体型は全体的に整っている。
 両手に膨らんだスーパーの袋を持ち、赤子を背負う彼女からは、母親の優しさと強さが感じられた。
 ここまで見て、藤原は改めて判る。
 自分は、この人を知らない。
 どこかで見た気がしないでもないのだが、名前までは出てこない。
 それも、当然の事だろう。
 自分は、明の事をよく知らない。
 知ろうとした事すら無かったのだ。
 なのにどうして、彼女の交友関係を知る事が出来よう。
 とにかく、相手の名前が判らないというのは、会話に於いて致命的だ。
 久しぶりに会った人の名前が思い出せない事の恐怖は、改めて語るまでもない。
 こういう時は、一人で悩んでも仕方がない。
 数人の知恵を持ち寄れば、素晴らしい案が浮かぶものだ。
 藤原は、自分の友人の中でも頭が良い部類に入る、棗と秋原の言葉を思い出す。


「主語回避のストラテジーという語法が在ります。本来は恋人の父親抔、直接的な呼称を用いり難い相手に對して用いるのですが。恐らく、名前を思い出せない相手にも応用出来るのでは?」
「実はな……『鏑木』は『かぶらぎ』と読むのだ。これで、人類の謎が一つ解けたな」


 藤原は、棗に心から感謝し、秋原を心から憎んだ。
「ところで西口さん、また噂になってますよ」
「な、何が……ですか?」
 彼女の言葉に、藤原は割と素で尋ねる。
 彼女は、冗談っぽく笑って、言った。
「またまた。そんなの、西口さんのひったくり撃退劇に決まってるじゃないですか」
「…………」
 声には出さなかったが、藤原は一瞬意味が解らなかった。
 その言葉の意味を理解し、改めて驚く。
 護身術で並の男性よりも強いとは聞いていたが、これ程とは。
 過去に思いを馳せながら、彼女は続ける。
「現場に居合わせた私も、あれは絶対忘れられませんよ。ひったくりを目撃するなり、傍を通ったバイクを借りて疾走! 相手もバイクでしたけど、私にはとても同じ乗り物には見えませんでしたよ。確か……『ドリフト』でしたっけ。あんなのどこで会得したんですか?」
 どうやら、凄まじいカーチェイスを繰り広げたらしい。
 という事は、掃除の最中に見付けた車の雑誌は、つまり……。
「万引き犯を捕まえたり、銀行強盗を退治したり、本当に明さんは強いですよねー」
 明と親しい人と会話をして、藤原は改めて思った。
 彼女は、一体何者なのだろうか、と。
 こういう場合、何か新しい事が判るのが普通なのに、まさか疑問が増えるとは。
「この辺の人達は、感謝と親しみの意を込めて『微笑みの修羅』って呼んでるんですよ」
 その呼び方は、多分女性に対する褒め言葉ではない。
 そう言いたかったが、この話を引っ張りたくないので止めておく事にした。
「お前も強くならないとね、正」
 女性は、背中の赤子の方を向いて言う。
 その時、藤原の喉まで出かかっていた物が、ようやく飛び出てきた。
 赤子の名前を聞いて、ようやく思い出す事が出来たのだ。
 実際に会話するのは初めてだが、確かに見た事がある女性。
 彼女の名前は……。
「じゃあ、私はこれで」
「は、はい、天王寺さん」
 お互いに会釈して、天王寺桜(てんのうじさくら)は去っていった。
 完全に彼女が見えなくなってから、藤原は、一番不安に思った事を呟く。
「俺、今日はここの平和も守らないといけないのかな……?」


「さて、今のアカリンにはちょっと酷かもしれないけど、真面目な話して良いかな?」
 明が散々辱められた後、アリスは言葉通り真面目な顔になった。
 彼女が余り見せない表情に、明は少し驚く。
「朝起きたら、体が入れ替わってたんだよね。何となくでも良いから、原因に心当たりは無いかな?」
 アリスは、あくまで真面目に尋ねた。
 そこで、明は改めて思い出す。
 アリスは、西洋魔術師の子孫で、彼女自身も魔法を使える。
 非科学的な現象なら、彼女が一番頼れる筈だ。
 夕の授業を受ける為とは言え、彼女に黙っていようとした自分を、責めない訳にはいかない。
「いえ……別段そういう事は……」
「ふむ。こういう場合、雷鳴と同時に頭をぶつけているのがお約束なのだがな」
 アリスの問いにも秋原の問いにも、明は首を横に振った。
 今朝も昨夜も、特に変わった事は無かった。
 昨夜と言えば、今日雷が落ちるかも知れないと言う天気予報に怯え、ティッシュ一箱を照る坊主に変えたぐらいだ。
 ちなみに、藤原が目覚める前に全て処分したので、恥をかく心配は無い。
 入れ替わっている事に気付いたのは、起きてすぐに朝のシャワーを浴びようと、寝巻を脱いだ時だ。
 ちなみに……見てはいない。
「う〜ん……原因が判れば、何とか出来るかも知れないのに」
 アリスは、腕を組んで考え込む。
 この様子だと、明確な答えは期待出来そうもない。
 今回の一番の謎は、原因が判らない事に尽きるだろう。
 流石のアリスも、これではお手上げの様だ。
「でも……」
 つぶやく明に、アリスは顔を上げる。
 秋原と真琴の視線も集まり、明はばつが悪い表情を浮かべた。
 皆様が期待している様な話ではありませんが……と明は前置きする。
「私は、光様と体が入れ替わった事を、プラスに考えているんです。光様には申し訳無いですし、楽天的である事も承知ですけどね」
「妹さんの仕事ぶりを見られるからっスか?」
 真琴の問いに、明は首を横に振った。
「それもありますけど……。光様が、私の見ていない所でどんな生活をしているのか、私はよく知りません。そういう事を、余り自分から話して下さらないので。
最近はそれ程でもありませんけど、どこか間を置かれている気がするんです。やはり、まだ、御両親の事を、本当の意味で許してはいないのでしょうね。だから、お二方が残した私にも、当て所の無い感情を抱いているのだと思います。
恐らく、光様自身も無意識のうちに」
 そこまで話して、明は少し間を置く。
 どうやら、アリスは『素直になれない藤原』を想像しているらしい。
 その証拠に、彼女の瞳は、明らかにどこか違う場所を見ていた。
 明が続けようとした時に、ようやく戻ってくる。
「でも、私は、もっと光様の事を知りたいですし、私の事も、もっと知って頂きたいんです。仕事とは言え、同じ屋根の下で暮らす事になったのですから。その意味で、今回体が入れ替わった事は、有益だと思っています。光様の学校でのご様子を知る事が出来ますし、光様に私のことを知って頂ける。これを期に、私と光様の距離が少しでも縮まれば、これ程良いことは無いと思います」
 明の話が終わり、少しの沈黙。
 だが、アリスの噴き出す様な笑い声で、それは破られた。
 訳が解らず、明は首を傾げる。
 真琴も解せないらしく、怪訝な表情を浮かべた。
 秋原だけは、確信は出来ないものの、何かを掴みかけているらしい。
 ひとしきり笑った後、アリスは周囲に説明を求められている事に気付いた。
「あはは……ごめんごめん。一人だけ納得しても意味無いよね。ちょっと滑稽だったから。結論から言わせて貰うと……大丈夫、近いうちに元通りになるよ」
「本当ですか!?」
 アリスの言葉に、明は思わず身を乗り出す。
「うん。だって、これは、アカリンとお兄ちゃんが望んだ事だもん」
「…………え?」
 笑顔で答えるアリスに、明は再び首を傾げた。
 それとは対照的に、秋原は合点が行った様だった。
 真琴が一番長く考えたが、最後には手をポンと叩いた。
「あ、あの……私には何が何だか……」
 遠慮がちに尋ねる明に、アリスは答える。
「アカリンは、お兄ちゃんに『お前の事なんて知りたくない』って言われた事、ある?」


「さて、そろそろお開きにしよう。明さんも、もう気が気でない様だからな」
 明が時計を気にする様子を十六回楽しんでから、秋原は言った。
 それとほぼ同時に明は立ち上がり、
「では、失礼します」
 一礼すると、出口へと早足で向かう。
 その時、出口が開き、疲れ切った堀が現れた。
 その手には、弁当を抱えている。
「や、やっと解放されました……。あ、藤原先ぱ」
「また後で!」
「は、はい……」
 そんなものは無視して、明は教室へと急ぐ。
 堀は、只々それを見送るしかなかった。
 改めて正面を向くと、
「じゃね、堀君」
「教室で待ってるっス」
「夕べはお楽しみでしたね」
 アリス、真琴、秋原が、続々と屋上を去っていく。
 堀は、やはりそれを見送るしかなかった。
 開けたドアを押さえてしまう辺りに、彼の正確が窺える。
 そして、屋上に一人残された堀。
 下り坂の天候が、冷たい風を彼に浴びせた。
 独りで使うには余りに広い屋上で、弁当を広げる。
 少し塩を効かせ過ぎたのか、それは少ししょっぱい味がした。
「これが涙の……青春の味なんですね」
2007/03/09(Fri)11:57:15 公開 / 月明 光
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■作者からのメッセージ
先日、高校の卒業式でした。
多分、もう二度と高校には行かないでしょうね。
坂道ばかりの道を自転車で四十分もこげるほど、もう若くないですし。
でも、最寄り駅にあるツタヤが、うちの近所よりも良い品揃えしているんですよね。
『涼宮ハルヒの憂鬱』を借りるついでに、顔を見せても良いかな、とは思っています。
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