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『His irritation』 作者:タカハシジュン / リアル・現代 未分類
全角3185.5文字
容量6371 bytes
原稿用紙約8.9枚



 相羽芳雄はリビングで自分の席にいつものとおり腰かけながら、上から下まで、両手にとって持ち上げた体勢で新聞を執拗に読んでいた。晩酌を終え、夕食を終え、テーブルの上には湯飲みが置かれていて、緑茶は半分ほど残っている。
 老眼が進んできたと紙面を読み進める折々に感じる。やむをえない。定年まであと数年、自分も年を取ったのだ。
 朝、出勤前に読んだ新聞を、夕べに再び読み返す。時事、世の中の出来事の移り変わりに過剰な興味があるわけではない。テレビはNHKのニュースがつけっぱなしになっていて、生真面目そうなニュースキャスターが次から次へと報道を継続していたが、その声も頭の中を素通りしていく。
 少しばかり暖房がききすぎているようだと相羽は思った。新聞を手放して広げたままテーブルの上に置き、エアコンのリモコンを探したが、それはテーブルの隅に置かれてあって、立ち上がらないと取ることが出来ない。億劫だ、そう思って部屋の不自然な暖かさを我慢する。再び紙面を手に取ろうとして、別に見ようと思って見たでもなく、しかし、相羽の隣の席に並べられたほとんど手付かずの夕食がまだそのままであることを見て、相羽はとうに諦めきったことだとはいえ鈍く苛立った。
 妻の倫子の食事である。盛り付けて一箸二箸口をつけたところで、最近倫子が週に何度か通っている韓国語講座に共に参加している何とかという主婦から電話がかかってきた。
 最初の十分間は、倫子は食膳を前にしてコードレスの電話機で話し続け、相羽が苛立たしく咳払いをすると、食事をそのままに奥の部屋に退き、電話を続けた。それでもう一時間になる。
 相羽は自分が昔気質の古い人間であることを承知の上ではあったが、極力自分の理解の外にあるものに対して寛容であろうとしながら、妻の電話の長さには常日頃から閉口していた。いや、それでも、長年連れ添い既に諦めに慣れている。多少の長電話は(彼が古い男であるから)女の楽しみなのだろうと思って、若干の不快さを我慢し容認してきたが、食事時の長電話だけはどうにも好きにはなれなかった。
 悪いことに相羽のそういった不満は、相羽自身が十分に自覚があることながら、短絡的に妻にばかり向かわないのである。倫子も相羽のそういう好みや人間としての気質をさすがにわきまえているから、殊更に食事時に他家に電話をかけるようなことはしない。だが先方の中にはそういう気働きが全く存在していない人もいるようで、何とかという韓国語講座の主婦も時間帯は全くお構いなしに電話をかけてくる。ひどい時にはわざわざ食事時に来訪してくる。
「いったいあの人は何なんだ。あの人にだって家庭があるだろうし、食事時だって当然あるだろう。電話だの出歩きだの、そんなことをしていて大丈夫なのか」
 いつか相羽はそう妻に尋ねたが、それは質問ではなく詰問であり、皮肉のこもったものだった。妻は、相羽がそういう配慮をもたない人間を毛嫌いすることを長年の経験から熟知していたから、その質問に対しては曖昧に答えていたが、機嫌によっては、十分に破綻しないことを計算した上で相羽の気を逆なでするようなことを口にした。
「旦那さんの食事はあらかじめ作っておいて、あとはレンジで勝手に暖めてやってくださいって言っているんですって」
「旦那はわびしくひとりで食事、女房は長電話で高笑いか」
 相羽は尋ねた。その人、いったいいくつなんだ。
「六十ですって」
「還暦のばあさんが、そんな右も左もわきまえない小娘みたいなだらしのないことをやっているのか。長電話をして」
「本当、あの人B型で、わたし振り回されてばっかりで困るのよ」
 倫子は口では困る困るといいながら、時間をわきまえずにかかってくる電話を中途で打ち切るようなことは一度足りともせず、話しかけられ話しかけ、延々と電話を続けるのが常だった。何がB型だと相羽は思った。
 今日も食事はほったらかしだ。相羽は軽くため息をつくと、畳んでテーブルの隅に重ねてあった新聞の折り込み広告を何枚か広げ、自分に用事のない車やマンションの紙面を選んで、妻の皿の上にかけた。
 新聞も読み尽くした。
 相羽はリビングの書棚から昔一度読んだきりで後は飾り続けていた本を一冊取り出し、自分の席で興味もなく広げては流し読みをした。ニュースは終わり、ドキュメント番組に移り変わっていた。ようやく倫子が戻ってきた。あら、ありがとうございます。食事の上にかけておいた広告を見てしれっと礼を言う。ああ、相羽はつぶやいた。言いたいことはいくらかはあったが、どうせ何をいっても無駄だと思って黙っていた。その沈黙に、倫子の方はいくらか気まずいか、多少とも後ろめたさがあったのだろう、○○さんよ、やっぱり○○さんからだったわと例の還暦の長電話の友の名前を繰り返し、相羽にとってくだらないとしか思えない五十いくつと六十の女の長話の一端を披露した。韓国語講座の講師の、まだ若いくせに学歴を鼻にかけた高飛車な態度の批判、共同の教材をいつまでたっても返却しないだらしない参加者、母娘で一緒にやってきている参加者の娘の方の浮いた話、
「それで、電話をかけてきた○○さんのご親戚の、ほら、○○先生っているでしょう。市議の」
「……ああ、そんなのもいたかな」
「その○○先生がね、○○さん経由でその娘さんの話を聞いて気をもんで。結婚するなら早いほうがいいってせっつくから」
 何が議員だと内心で相羽は思った。人並みの節度もない人間が身内縁者にいる議員なんぞみっともない政治屋に決まっている。
 妻の饒舌を適当に聞き流し、相羽は注意をテレビに向けた。ドキュメンタリーの特集は官製談合についてで、鼠のような顔をした著名なジャーナリストがゲスト出演していた。官側の卑劣さ、手口の悪辣さについて罵倒を続け、番組の展開が所謂「天の声」、首長や議員が役人に圧力をかけるという部分に差し掛かるとジャーナリストの発言はさらに過熱化した。相羽にはデマゴーグに近似するように思えるものだった。
「腹立たしいわね」
 相羽の視線を追っていたのか、倫子が隣の席で憤慨し、先ほどで途切れてしまった饒舌をその話題で継ごうとしていた。
「まったくろくでもないわよ。インチキで口利きをして利益を得ようっていうんだから。何様のつもりかしらね。税金で食っていたり、選挙で票を入れてもらって食っているのに、そういう立場も忘れて、私服を肥やす? 自分の利益に結びつくようなことしかしないのだからね。こういう人間が世の中に溢れて、公の立場になんかいるから、世の中段々おかしくなっていくのよ」
 相羽はすっかり冷えてしまった湯のみの中の緑茶を一息に飲み干すと、新しく入れなおすために席を立ってキッチンに退いた。
 戻ってくると、既に番組は終わって、天気図を前に気象予報士が様々な解説を加えていた。相羽は座る前にリモコンでテレビを消した。
「健太郎のことなんだけどね」
 緑茶に口をつけるのを待ち、終えたのを見届けてから倫子が話を切り出した。
「あの子、就職活動なかなか苦労しているでしょう」
「……まあ、まだ世の中どこも景気がいいというわけにはいかないから。あの子が一番大変なんだから、長い目で見てやろう」
「それでね、○○さんにその話をしたら、○○先生に話してくれるっていうのよ。先生だったらどこかに声をかけてくれるだろうって」
「……」
「おかげで健太郎、どうにかなるかもしれないわよ。ねえ、いいお話でしょう。あなたは○○さんのこと毛嫌いしている部分もあるかもしれないけれど、あの人はあの人なりに、そういういい部分もあるんだから。男の子にとっては就職って大体一生ものになるでしょう。そういう時には親のわたしたちもあれやこれや、やれることはやっておかないとね」
2007/01/15(Mon)23:39:40 公開 / タカハシジュン
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■作者からのメッセージ
 生活していて澱が出て、その澱を濾過するために書くこともあれば、澱を澱のまま書いて自分で皮肉に笑っていることもオリはありますです。
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