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『落日のワルツ』 作者:碓氷 雨 / リアル・現代 未分類
全角10137文字
容量20274 bytes
原稿用紙約31.8枚
トラウマのようになって残っている友人との別れ、そして家庭の悩みを持つ新しい友人――。一筋の光を見失わないように、必死で生きる高校生たち。

 いい加減、ここから逃げたい。いつでも笑っていたはずの梨奈が、学校の帰り道でそ
つぶやいた。そして夏休みに入ると同時にぷっつりと連絡が途絶え、新学期になると彼女の姿は消えていた。学校からは転向と聞かされて、その他のことは何一つ教えてもらえなかった。
 あたしや梨奈が暮らしていたところはとにかく田舎で、梨奈はそれを嫌がっていたように思う。全て見透かされているような、窮屈な感じが苦しかったのかもしれない。
 もともと自分のことを全く話さない子だったけれど、家族よりも長い時間を共にしていたはずの彼女の苦しみに気づけないだなんて、友達として失格だと自分を責めてみたりもした。ただ、悲しくて寂しかった。今更だと笑われてしまうかもしれない。
 中学時代に一番仲の良かった梨奈は、出会ってたったの二年で消えてしまった。

 高校に入ってから、あたしは東京に出た。田舎が嫌だとかいう理由ではなくて、ただ近くに良い学校が無かっただけなのだが。
 けれど、あたしはすぐ後にそこを選んだことを後悔することになる。

 高校では、東京というイメージにぴったり合うような明るくて派手な子が多く、最初はどうしようかと不安になったが、見た目よりもずっと話の合う子が多かった。
 その中でも由里という女の子は趣味も話もよく合って、あっという間に仲良くなった。おっとりとしたやわらかい口調が、梨奈とよく似ていた。

 梨奈が消えてから丁度二年経ったある日、由里とプールに行こうと約束をした。
「千明、似合うねえ、水着」
由里はあたしを見てそう言ったけど、足の長い由里のほうがずっと似合っていたように思う。
 由里が食べたがっていたそのプールだけで売っているという梅ソフトクリームを買って、上着を着た。由里はほのかな酸味が良いとそれを絶賛しながら、あたしに秘密を明かしてくれた。
「実はさ、うちの両親って義理なんだ。うち、昔捨てられたんだよね。あんま昔すぎて、本当の親もぼんやりとしかわかんないんだけど。でもさ、今の親もいい人だけど、もとからあったかい家庭だったとこに横入りすんのは、やっぱきついよ」
 明るくて、派手で、いつも髪をいじっている彼女が抱える悩み。はは、しけさせちゃったね。ごめん。にかっと笑ってまたソフトクリームを口にする。
「……あたしもね、あたしも、由里みたいに大きなことじゃないけど、悲しいことがあるよ」
由里だけの傷だけど、あたしは知りたいって思うし、一緒にわかって行きたいとも思う。それならあたしの心にあるしこりを、由里に知っておいてもらいたいとも思った。
 梨奈の事を全て話した。由里はただうなずきながらそれを聞く。
「いま、何処でどうしてるかさえもわかんない」
あたしがそう言うと、由里は少し複雑そうな顔をし、そして“今も寂しい”と聞いた。
「今は、由里がいてくれるから」
そう言ってふ、と笑うと由里も同じように微笑んだ。
「そういえば、その子なんて言うの?」
なんとなく名前を伏せていたけれど、それに意味もなかったので、あたしはあっさりと答えた。
「三村梨奈」
 ……三村梨奈?
 由里はそう言って少し顔をしかめる。そして、重たい口を開けた。
「うち、その子知ってるよ」
「……え?」

 由里の話によると、今、梨奈はすぐ近くの高校に通っているらしい。髪の毛を金色に染めて、教師に逆らい、不良と絡み、随分な問題児で、この辺りでは有名らしかった。
「ねえ、会いに行こ」
由里は目をぱっと大きく開き、あたしの手をとってそう言った。
「え、無理だよ、今更」
「だめだよ。そのままじゃ、色々変わんないだけじゃん」
由里があまりにも大きな声を突然出したので、あたしは思わず言葉を失った。
「ね。うちも一緒に行くよ。だから行こう」
あたしがうなずいたわけじゃないのに、由里は勝手にそれを決めて、納得してしまった。
「じゃあ、始業式にね」
ひらひらと由里が手を振った。あたしは無表情のまま手を振り返す。
 新学期を迎えるのが、とてつもなく恐かった。

 おはよう。
 ぽんっと肩に手を置かれ、振り返ると由里がいた。心の準備はいかが? と彼女が白い歯を見せて笑ったので、
「そんなのいくら時間があっても足りないよ」
と答えた。由里は再びにっと白い歯を見せる。
 えー、九月というのに陽射しは強いままです。みなさんは夏休みを大切に過ごせましたか?
 掠れた校長の声が右から左へとすり抜けた。いつもはやたらと長い校長の話も、今日だけはひどく短く感じられた。一分、また一分と過ぎていくたびに、あたしの心臓は悲鳴をあげる。
 彼女に、梨奈に会うことは、あたしにとって良いことなのだろうか。あたしの望みはそれなのだろうか。
 けんかをしたわけではない。仲が悪くなったわけでもない。嫌いだといわれたわけでもない。ただ、彼女の苦しみにあたしは気付けなくて、梨奈はあたしに何も言わずに姿を消した。それだけのことだ。けれどあたしたちの中にしこりを残すには、充分な理由でもある。

 ねえ、やっぱりやめない? また今度でいいよ。
 そう言うあたしに返事すらしてくれないで、由里はぐいぐいとあたしの手を引っ張った。やめて、戻ろう。そう言うあたしの声は誰にも聞き入れてもらえないまま、道に落ちて行く。
 そして、あたしはその内に、抵抗することさえもを止めた。由里はそんなあたしに一度だけ「平気?」と言ってくれたけど、そんなこと聞くなら強制連行なんてやめてよ、と思いながらこくんとうなずいた。由里はそんなあたしを見て、またぐんぐんと歩き始める。
 由里の言った通り、あたしの通う学校から今梨奈の通っているらしい高校までの距離は近いもので、十分ほどで着いてしまった。
 思っているよりもずっとこわい。足はすくんで、身体はふるえ出す。それに気付いてくれたのか、由里はそっとあたしの手を握ってくれた。あたしもきゅっと握り返す。
 人の体温はあたたかい。たとえ指先まで冷え切っていたとしても、やっぱりあたたかい。それをなくしては生きていけないことなんて、みんな産まれた時から知っている。
 たとえそれを見失う時が来ても、寂しさを感じられるのはそれが愛しいと思う気持ちを失くしていないからだ。
 まるで、誰かを愛することが義務みたいに。

 しばらくするとざわざわと声が聞こえてきて、それと同時に生徒たちが学校から出てきた。
あ、終わったのかな。と、由里がこぼす。
 髪の毛がみんな明るいというか、色があざやかだ。金は勿論、赤、紫、青、茶、中には白い人もいた。鼻にピアスをしている人なんかも多かったけど、見るからに痛々しい。
 由里の手を握る力が思わず強くなる。由里はあたしの背中をやさしくさすりながら、無言で微笑んだ。あたしはそれを同じように返す。
 あれから多分二十分くらい待ったと思う。せっかく覚悟を決めていたのに、梨奈が来る様子は全くない。
「今日は休みなのかもしれないね。ていうか、サボりかな」
 由里はふう、とため息を吐いて、帰る? と尋ねた。
「今日はひとまず」
あたしはそう返事をする。ほっとしたような気が抜けたような、不思議な感覚が広がる。
「んじゃ、帰ろっか」
由里がそう言ってかばんを持ち直した、その時だった。
「……千明?」
 振り返るとそこには、少し東京になじんだ梨奈が呆然として立っていた。
「梨奈。梨奈なの?」
 少し髪が伸びている。黒かった髪は金色になり、まつげも長くして、青いアイラインを引き、鋭い目つきでこちらを見る、けれど確実に梨奈だ。
 梨奈。
 久々に会えた嬉しさに負けて、思わず触れたあたしの手は、梨奈にパシンとはたかれてしまった。
「来ないで。どうして来たの? 何で」
ぎっとあたしを睨み、そして答えてよ、とあたしを怒鳴りつける。
「会いたかったからだよ。それだけじゃだめなの?」
あんなに怖かったのに、言葉はすんなりと出てきた。けれど梨奈に届くわけがないことくらいちゃんとわかっている。
「かえって」
わかっているのに。
「あたしは会いたいなんて思わない。もうあんな風に千明とは付き合えないよ。わかるでしょ?」
 胸をえぐるような痛みが襲う。本当に悲しい時は涙も出ないというが、それは本当かもしれない。
「帰って。もうこんな所にまで来ないでよ」
彼女は低い声でそう言って、さっさと歩いていってしまった。
 あたしはただひたすら、そこに立ち尽くしていた。梨奈の残していった甘いコロンの香りが、あたしの脳に響いて、妙な感覚の中に取り残されてしまった。

 翌日、教室でぼけっと空を眺めていると、今日はまだ由里と言葉を交わしていないことに気が付いた。ふらふらと行く場所も知らないまま流れる雲をしばらく見つめて、ふと思う。
 あたしは弱い。弱くて仕方なくて、だからいつも優しい誰かに守られてる。たとえば梨奈とか、今なら由里とか。
 だけど今更、彼女らがいなければあたしは何かしなければいけないことに気付くことさえできないという事実を知ってしまったのだ。
 由里に会えと言われたから梨奈に会いに行き、梨奈に来るなと言われたから会いに行くつもりはない。あたしは、どうしたいんだろう。どうすればあたしにとって“最善”なのだろう。
 一番傷ついている振りをしておいて、一番誰かを傷つけているのはあたしかもしれない。
 結局その日は彼女と言葉を交わすことのないまま、あっさり時は流れてしまった。いつもならこういう時、由里の方から話しかけてくれるのだけど、今日はそれもなかった。きっと昨日、あんなことがあったからだろう。なんて、また当たり前に自分中心に受け取っていた。明日になればあたしも由里もいつも通りだ、と。
 けれど、あたしの調子が戻っても、由里はおかしいままだった。話しかければ返事はするけど、「うん」としか言わないのだ。
「今日の緑川の話、意味不明じゃなかった?」
と数学の生真面目な教師のことを話しても、
「ここ、わかる?」
と理科の問題集を差し出しても、
「うん」
としか言わないのだ。それで会話が成り立たないわけではなかったけれど、どうしても調子が狂ってしまう。ねえ、どうしたの? と少し声を響かせて聞いても、やっぱり力のない声で彼女は「うん」と言う。それが一週間も続いたのだから、あたしは梨奈なんてそっちのけでどうしたものかと頭を抱えた。

 その日は恐くなるくらいに強く雨が降っていた。グランドに水溜りがあるわけではなくて、グランドが水溜りのようになっている。ざあざあと耳に侵入する雨音は、あたしを責めてるみたいに思えてひたすらに恐ろしかった。
 由里は相変わらずで、あたしは何度も彼女の好きなアーティストや本の話を持ち出してみたが、無駄だった。ここ二、三日は「うん」に「そうだね」と「わかるよ」が加わりバリエーションは増えたものの、結果としては同じことだった。
 一体、しっかり者の彼女に何をしたらこんな風になるのだろうか。彼女に何かが起こったことは眼に見えてわかるが、三つの言葉しか言わないのだからどうしようもない。
 今日も同じように、由里を取り戻すことができないまま終わろうとしていた。
 家に着くと、制服も髪の毛も全てびしょびしょだった。傘の意味なんてほとんどない。
「あらあら、大丈夫?」
そう言って母はバスタオルを手渡してくれた。あたしはしっかりと髪の毛の水分を拭き取っていく。
「あ。そういえば」
突然何かを思い出したような顔をして、母は言葉を続けた。
「由里ちゃんがね、帰って来ないらしいのよ。あんた、何か知らない?」
「え……」
一瞬目を丸くしてからあたしは何のためらいもなく家を出た。
「待ちなさい、ちょっと」
母はあたしを止めたけれど、あたしは傘を開きながら
「平気。ちゃんと戻るよ」
と言い走り出した。雨音だけが脳裏に刻まれて、雨の匂いだけがあたしを突き刺していく。
 あたしの足音が雨を踏んで雨があたしの身体を叩く。やっぱり傘の意味はあんまりなくて、けれどあたしはこれでもかというほどしっかりと傘を握り締めていた。
 由里が逃げ込みそうな所を近いところから当たって行った。公園、映画館、カフェ、行きつけの小物屋。だけどどこにもいなくて、あたしは今すぐにでも泣き崩れてしまいたかった。
 やっぱり何かあったんだ。独りで、悲しんでたんだ……。
 そう思うとまたじわじわと何かが押し寄せてくる。もう、見つけられないこととわかってあげられなかったことのどちらが哀しいのかすらわからない。
 声が枯れるくらい彼女を呼んだ。返って来るのはあたしの声と、雨音と、車の音だけ。それでも呼んだ。呼ばないと、あたしが不安に負けてしまいそうだった。
 けれどもやっぱり疲労というのは溜まってしまう。ずっと走り続けていた足をあたしはようやく止め、がくんと肩を落とした。だめだ。見つからない。雨は視界や耳の邪魔をしたし、何よりももう疲れ切っていて、歩くことさえ辛かった。
 かといってこのまま帰るなんてことはしたくない。由里はあたしを支えてくれた。一番恐かった時に。
 次はどこを探せばいいだろう。そう思いながら足を必死に動かし、歩き出す。目の前にあるぼやけていたものがだんだんとくっきりとあたしの瞳に映る。木。道路。それから、人。
「……由里!」
“そのこと”に頭が追いつくより先に、あたしの口は彼女の名を呼び、力をなくしていたはずの足は走り出した。
 ぱしゃん、と傘を落とし、ぎゅっと由里にしがみつく。
「よかった」
体温を失くし、冷え切った身体を、強く強く抱きしめる。
「見つからなかったらどうしようと思った。寒いでしょ? とりあえず帰ろう。話はちゃんと後で聞くから」
ね? と言い聞かせるように言うと、由里はやっと表情を作り出した。
「帰りたくない。帰れないの」
見ると彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「どうしたの?」
「聞いちゃったの。前に。あ、あの家の本当の子が、う、うちが苦手で、何であん、な子引き取ったの、って」
ひくひくしゃくりあげながらそういい終えると、由里はわあっと泣き崩れた。
「わからないよ。家なんてあそこしか知らない。うちは、どこに帰ればいいの?」
あたしの制服をきゅっと掴んで、子供のように泣き続ける。あたしはずっと無言で彼女を抱きしめ続けた。

 その日彼女を家に連れて帰ると、母は
「あらあら、お家に言っておかなきゃね。シャワー浴びてらっしゃい」
と柔く微笑んでくれた。
 由里は赤く腫れた目で
「すみません……」
と言い、あたしはそんな彼女をシャワールームまで案内した。
「先に入っていいの?」
「いいよ」
「でも」
「いいから。入って。風邪ひくよ」
ためらう彼女の言葉をさえぎって、あたしはにっこりと微笑んでみせる。
「ごめんね……」
しゅん、と肩を落とす由里。
「謝る必要なんかないよ。由里はなんにも悪いことなんてしてないでしょ」
あたしがそう言うと、由里はかすかに口角を上げた。そしてシャワールームの扉が閉まる。あたしはすぐそこにあった椅子に腰をかけ、読みかけの本にてをやった。
 その本はベタベタのラブストーリーで、ありがちな話だ。
 二人の女と男がいる。玲子と雄二だ。二人は一緒に暮らしていたけれど、玲子が忙しくなるにつれてすれ違いが起こり、別れてしまう。だけど、玲子は彼が忘れられずに、会いに行こうと家を飛び出す。真夜中の二時に。
 今読んでいるのはそこまでで、だけどきっとハッピーエンドだろうと予想がつく。というか、これを読み始めたのは
「ハッピーエンドで後味もいいから読みやすいよ」
と由里が言っていたからなのだ。聞いていなくてもハッピーエンドだろうと思うだろうが。
 けれどそもそもハッピーエンドとは何だろう。主人公の恋や努力が実ること? それがない未来に幸せがあるとしても、実ればハッピーなのか。もしも雄二がものすごい遊び人なら、別れたほうが玲子の為なのに。それでも人は痛みのある幸せを選ぶのだろうか。
 自分が思うだけではどうにもならないことの方が多い。あたしはそんな簡単で困難なことを、もう当たり前のように知っていた。
 ぺら、とページをめくったその時、由里が
「お先―」
とシャワールームから顔を出した。あたしは本にしおりを挟み、シャワールームへと向かった。

 あたしがシャワーを浴びて出てくると、由里は椅子に座って真剣な顔でこちらを見つめた。
「今日はありがとね」
「ううん。前は由里が助けてくれたから」
由里は一瞬微笑んでから、これからどうしよう、と不安そうに目に涙を溜めた。それから下を向く。
「どうにかしなきゃ。でも」
 何が正しいのか、何が間違いなのか、もうなんにもわかんない。
 今にも泣き出しそうだった。ただ、時計の規則正しい音だけが、静かな沈黙を刻み付けていた。
「逃げてもいいのに」
複雑そうな顔つきで悩み彼女に、思わずあたしはぽつんと落とした。
「今は、逃げたっていいのに。身体ひとつでわざわざ自分から傷つきにいくことないのに。今すぐどうにかしなきゃとか、そんなことないよ」
 多分、その時あたしは由里よりずっとずっと何倍も真剣な顔をしていたと思う。由里は目をぱちくりと見開いて、じっとあたしを見つめた。
「でも、どうにかしなきゃだめでしょ」
「辛いなら今は立ち向かわなくってもいいよ。あたしの家にいていいよ」
なんて幼くて仕様のない意見だろう。だけど本当にそう思ったのだ。
「あたしがいるよ。独りで傷つかないで」
 真剣だった。
 そのくらい大切だった。
由里はしばらくぽかんと口を開けていたけれど、だんだんと顔が和らぎ、ふ、とわらった。そしてきゅっとあたしに抱きつく。
「ありがとう」
 何故だかあたしが泣きたかった。

 その後に、彼女はすぐ変える準備を始めた。
「ご飯くらい食べて行けばいいのに」
あたしがそう言うと、
「辛くなったらなぐさめてね」
と言って、笑った。
 玄関に行くと、母もあたしと同じように
「あら、ご飯くらい食べて行ったら? お腹も減ったでしょ」
と言ったけれど、由里は「お気持ちだけ……」とまた微笑んだ。あたしは何も言わずに彼女を見送った。弱弱しく、けれど、前を向く姿はうらやましくも思えた。
 次の日、学校で見た由里はいつも通り、いや、いつも以上に明るかった。
「テレビとかみたいにさ、上手くは行かないけどね。でも平気。それに、千明もいてくれるんでしょ」
瞬間、なんてキザな台詞を吐いたのだろうと突然恥ずかしくなり、あたしは顔を赤らめた。由里はけらけらと笑ってポケットを漁り、あたしの目の前に一枚のメモを差し出す。
「それよりさ、これなんだけど」

 今日は五時間目までしか授業がなかったので、帰宅部のあたしはさっさと家に帰って、ただいまも言わずに征服のまま自分の部屋のベッドに寝転んだ。
 そして、胸ポケットからくしゃくしゃになったあのメモを取り出す。
「梨奈ちゃんと同じ高校の友達に聞いてみたんだよね。ま、昨日のお礼ってことで。行くかどうかは千明次第だけど」
そう言って由里が渡してくれたそれは、梨奈の住所だった。もう来るなと怒鳴った、変わり果てた彼女の。
 正直、こんなものをもらってもどうしようもなかった。あたしにはそんな勇気なんてこれっぽっちもないし、行ってもきっと追い返されて悲しいだけだ。
 それでも、気になって仕方がないのも事実だった。
 ちらりと時計に目をやる。まだ四時過ぎだ。五丁目ならバスで十分。そんなに遠くない。今から行けば六時間目まであったとしても丁度家に着く頃だろう。
 行ってみようか。いや、行こう。
 そう決めると身体がうずうずしてきてしょうがなくなった。神経質なのかそうじゃないのかわからないとよく言われるが。全くその通りだと思う。
 家を出てからの記憶は全くない。ひたすら緊張の嵐だった。
 梨奈の家までは迷わなかった。この近くに小さなかわいいカフェがあり、由里とよく来ていたのでその周辺はよく知っていたのだ。
 けれど大変なのは梨奈の家に着いてからで、何度インターホンを鳴らそうとした手を引いたことかわからない。
 来たなら潔く鳴らしてしまえばいいのに、つい弱気になってしまってどうも上手く行かない。
 けれどこのままではいけないと覚悟を決めたその瞬間だった。かちゃりと音を立てて、目の前にある扉がすんなりと開いた。
「あ……」
 見ると、すらりと背の高い女性がこちらをぎらりと睨んでいる。
「……何の用かしら」
一瞬母親だろうか、とも思ったが、確か彼女の母親はもっと小柄で柔らかいイメージだったはずだ。
「あの、梨奈さんは……」
彼女のナイフのような眼を見ないように俯きがちにそう聞くと、彼女は
「梨奈?」
と顔をしかめた。益々恐い。
「ああ、あの子か。ちょっと待って」
そう冷たく言い放つと、彼女は“ちょっとあんた”と鋭く梨奈を呼ぶ。なによ、と低い声が遠くから聞こえた。
「あんな子にも友達なんてものができるのね。おかしな世代だわ。それじゃあ、出かけるから」
「あ、はい。ありがとうございました」
「ええ」
女性は表情一つ変えずにすたすたと歩き始める。それと同時に、金色の髪の毛があたしの視界に入った。
 ぱっと目が合った瞬間、お互いに凍り付いてしまった。向き合ったまま、ぴくりとも動かない。
 先に重たい沈黙を破ったのは梨奈の方だった。
「何しに来たの。もう来るなって言ったよね」
すごい気迫に思わず後ずさってしまいそうになったが、あたしも負けずに言い返す。
「言われたよ。学校には来るなって。だけど、ここ家だもんね」
「じゃあ、今言う。来ないで。家にも」
「もう来ちゃったし」
ぽんぽんと言い返すあたしを見て、梨奈は深くため息を吐いた。
「前にも言ったでしょ。もうあんな風には戻れない。じゃあね」
くるりと背を向けた梨奈に、あたしはまたすかさず言い返した。
「でも嘘じゃないじゃない」
梨奈の足がぴたっと止まる。
「昔一緒に笑いあってたことまでなかったことになるなんて嫌だよ。嘘なんかにしちゃわないでよ」
言っている内に目頭が熱くなってきて、堪えるのに必死だった。
「いまも大事なんだよ」
 だいじにしたいんだよ。そんなおもいでばっかりなんだよ。
 梨奈にこちらを向いてもらうことだけを考えてた。それしかなかった。

 どのくらい長く、二人で立ち尽くしていたんだろう。もう帰るべきなのかとためらっていたところに、やっと梨奈が口を開いた。背を向けた姿のまま。
「あたしの親、離婚しちゃったの。お父さんの浮気で」
「え?」
「収入の多いお父さんの方につかされたから、苗字は変わってないんだけど」
「そうだったの……」
「うん。で、転校したの。だれにも言いたくなかった、そんなこと。普通に親がいて幸せそうな千明のことがうらやましくて、憎くてしょうがなかった。結局そんな感情に負けちゃって、会えなかった」
「……」
 もう何も言えなかった。どうしようもない感覚に襲われて、また泣きそうになった。
「お父さんはすぐに再婚して、新しいお母さん……あ、さっきの人なんだけど、その人が来て。でもうまく行かなくて、こんな風にぐれた」
 梨奈は淡々と語り続ける。あたしは相槌すら打てなくなって、黙って梨奈の背中を眺め続けた。
「見損なったでしょ? 千明は何にも悪くないのにね」
ふ、と笑って彼女はこちらを向く。この小さな身体で、独りでそれを背負ってきたのだろうか。そうなら、それは大きすぎる事実だろう。あんなにも優しく、繊細な女の子だったのに。
「そんなことないよ。辛かったんでしょ?」
 目がどんどん水分を増やしていく。
「ずっと」
 梨奈の顔からは微笑みが消える。
「……独りで」
 視界がどんどん霞んでいく。どれが哀しかったんだろう。憎まれていたことか、それとも、彼女の背負ったことの重さか。
「ごめんね」
 俯いて涙を堪え続けていると、梨奈の泣きじゃくる声が聞こえた。
「いっぱい、いっぱいひどくて、本当にごめん、でも」
 それでも、許してくれてありがとう。
 目の奥がじんと熱かった。
 髪を染めても、教師に逆らっても、不良と絡んでも、ひどい問題児でも、どんなに意地を張っても、まだ梨奈は弱くて優しい高校生なのだ。片親がいなくなって、寂しくないわけがない。新しい親に虐められて、辛くないわけがない。
 あたしは泣き崩れそうな梨奈のもとへ行って、背中をさすった。
「大丈夫だよ。梨奈は悪くない。……なんにも」
それでもごめんねと言い続けるものだから、あたしは余計に辛くなり、言葉を失った。
 近いことは辛くて、幸福でもあった。
 落ち着くと梨奈は、こんなに泣いたの何年ぶりかな、と屈託のない笑顔を見せた。そして、互いの連絡先を交換する。
「髪の毛、黒に戻そうかな」
とり名は髪を指先でいじった。
「黒も金も似合ってるよ」

 もう沈もうとしている日の光が、梨奈の金色の髪の毛を美しく照らしていた。
2006/06/18(Sun)20:24:54 公開 / 碓氷 雨
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■作者からのメッセージ
久々にSSでないものを書いたので、文章が乱れているかもしれませんが、良ければ評価お願いします。
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