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『雪融』 作者:タカハシジュン / リアル・現代 恋愛小説
全角21180.5文字
容量42361 bytes
原稿用紙約60.15枚
 chapter 1  凪の下の私
 三月初めのある一日だった。幾日、幾十日か、長く続いた暗澹とした空模様は気紛れに明るくなり、明け方の空の蒼さを幾重にも塗り重ねその色合いを増されたような大気が凍えながらあった。
 風は凪いでいた。珍しいことだ。鮮明な空のブルーより更に色濃くそして闇を宿す群青の海には、この季節絶え間なく波濤が荒れ狂うも同然に浮かび沈みして、牙の様な白いそのひとつの鋭さが、その海を露呈しきっている砂浜に近い丘の上にまで、目に見えぬ飛沫となって荒ぶる風と共に届くのがこの季節の常であるというのに、北からやってきて吹き荒ぶその風はこの日何処にもなかった。弱々しい陽光が下って硬く凝固した残雪に乱反射する光と蒼と、そして丘陵を彩る松林の常緑の生々しい色がちりばめられていた。しかし光も蒼も、それが透き通っていようと、私は何ら光明を見出すことができなかったし、松葉の緑は凍てついた季節にあろうとも命の証であるだろうに、一向に何物をも暖めようとはしないように見えるのだった。地表にこびりつき泥土に汚され踏み固められた雪、風雪に一冬さらされ続け表皮どころか芯奥まで凍えつくされたかのような木々の幹は黒ずみ、か細い梢は残雪を背負わされ拉がれていた。
 その梢が重みに抗い得ず、倒れこむように諸手から雪をこぼれ落とす、その鈍重な音がどこかで聞こえてきた。何処からかは知らない。ただ静寂の中で微かに響く。魁に先ず一塊が落ち、やがていくつもの塊が一斉に落下し、おそらく雪を粉にし舞わせながら最後のひとつが落ちて微かな音をとどめ、そして止んだ。再びほんの僅かのそれさえ失せたしじまが訪れた。風もなく、海も鳴かず、そして鳥の囀るもなく、ただ時折黒々とした鴉が影のように染みのように空を遊弋し、その巨大な翼を左右に開いてふてぶてしく羽ばたき、また梢の何処かに降りる、そんな音が聞こえてくるのだった。
 まだひどく寒かった。凍てついた世界はまるでどれもこれも金属のように硬質だった。大気までもが鉄琴の頭に響く音を奏で、また反響してさえいるように思えてしまうのだった。別段明らかな意思もなく、ただ力を込めて、横殴りに空気を薙いだ。凍結した宙の微粒子は薙いだ空間の分だけ、或いは瞬時に融けて何かの帳を引き裂いたかもしれなかったが、おそらく程もなくそれは四方の帳の覆い尽くすままとなり、すぐにでもまた微粒子は凝固するのだろうと思った。
 此処は海辺で、風を防ぐ松が長年来植樹されていて、その只中に墓地がある。私は凍える、そして凪いだその一日に海辺の墓所に赴こうとしていた。
 枯れた音が不意に聞こえた。宙に漂う氷の粒が、大気の動きで擦過し合うような風鳴りだった。慈悲の一片もない、凍てついた風だった。ほんの頬を撫でる僅かなものであったというのに、それは私のコートや固く結ばれたマフラーの隙間からするすると入り込んできて、私の身を思わず縮ませた。
 私はうめいた。顔をしかませると、私の顔の表皮までもが凍りついたように強張っているのがよくわかった。寒かった。そしてこんな寒い場所にラが眠っているのかと私は感慨を新たにした。
 私の足音が鈍く響いた。砂利のように凝固した長引く冬の小経に、いつ誰がつけたかわからずに足跡が凍り付いて残っていた。時としてそのとおりに辿り、また時としてそれを踏み外し、私は粗目の雪上に私の痕跡を刻印しながら歩き続けた。
 小径は、松樹林の合間や側を緩やかに上り下りする遊歩道だった。時折ぽかんと空漠とした場所に出ることもあったが、左右を松樹が立ち並ぶことのほうが多かった。雪が失せてしまえば散策する人影を見つけることはたやすい場所であった。だが冬の最中にわざわざここに赴く物好きはいないようだった。私は一人歩いていた。
 幾度目か、広場のような、木々の抜けた雪面が微細に隆起する平らかな場所に出た。私は足を止めた。熱気を宿さない冬場の太陽が雪原に降り注いで、四方に光を乱反射させていた。私はかがんだ。思わずかがんで、そして、硬く凍りついた雪原の表面を指先で薄く削り、私の手の中で咄嗟に氷の粒と溶けて濡らす水とを、空に向かって放り投げた。それらはそのいずれもが小さく飛び散り、その一つ一つが太陽を吸ってほんの僅かの間だけきらめいて落ちた。そのきらめきの向こう側に、私はラの儚い笑顔を見たような気がした。



 chapter 2  私からイーヤへの書簡
   イーヤへ
 長らく踏ん切りがつかなかったが、ラの墓に行ってこようと思う。
 ちょうど、もう少ししたらラの命日だ。いや、そうじゃないか。たまたまラの命日が、行こうっていう気持ちの置き場の近くにあったわけじゃない。ずっとくすぶっていたことが命日に背押されて決断した、させられたというところか。
 そのことをお前に告げ、行こうとしているということは、俺自身踏ん切りがついたような心地になったつもりでいて、実はちっともそうじゃない何よりの証明なのかもしれない。
 こんなバカみたいな、青臭いことを、真正面から言うことができるのは多分お前とRだけなんだと思うのだけれど、どうもやっていることはいつまでたっても堂々巡りのような気がしてならない。俺たちは、俺たちは? 俺だけなのかな、環の中にどうしようもなく閉じ込められて、前を向いてがむしゃらに突っ走っても、立ち止まっても、後ろを振り返っても、結局それは円周上で延々と繰り返される茶番なのかもしれないね。
 俺はこの環から抜け出す日が来るんだろうか。
 来るんだろうか。
 よくわからない。いずれにしても、ラのところに行ってくる。
 それじゃあな。夏に会えたら会おう。


 そうだ。追伸だ。
 ウィンドミルが潰れた。三日前に建物も更地になった。
 俺とお前とRとラの痕跡は、もうこれでなくなっちまったな。
 ラの墓だって、ラって刻んであるわけじゃないんだしな。
 

 
 chapter 3  アミューズメントパーク「ウィンドミル」
 ハイライトフィルムという名のゲーセンが、少しばかりの改装期間を経て、アミューズメントパーク「ウィンドミル」という名称に変わってオープンしたのは、私が高校の頃だった。
 それまで体感ゲームの類の大仕掛けのアーケードゲームを並べていたハイライトフィルムは、ウィンドミルになって店舗スペースの半分以上をメダルゲーム場にシフトした。
 メダルゲームは、そもそも疑似カジノをコンセプトに作られたが、カジノがその目的とする賭博性、つまり獲得したチップなりメダルを現実の金銭と換金し人の射幸心を誘惑する部分を断絶させることを、当初から意図していたらしい。
 金銭を支払うことにより、メダルが貸し出される。与えられるのではないから持ち出すこともできず、金銭や景品に代えることもできない。そのメダルを持って、ポーカーやスロットや競馬やプッシャーゲームに挑み、それぞれのゲームにメダルを投入しそれぞれのゲームに勝利してそれぞれの勝ち方に基づいた倍率のメダルの払い戻しを受け、自分の手の中にあるメダルの数を増やしていくのがこのメダルゲーム場を支配するベクトルなのだが、極論すれば勝利し勝利し続けて手にするものは何一つない。
 確かに賭博師とは純粋に金銭を偏愛する人種ではなく、賭博それ自体のスリルを享受するために日夜ギャンブルに勤しむ人間のことであり、彼らは勝負しているときは確かに金銭をただの博打のためのチップとしてしか見ないが、しかし彼らは勝利の余得としての金銭を握り締め、それを放埓に使うことを夢見ている。だがメダルゲームはその一切合財全てがただのフェイクである。そこはカジノではなく、あらゆる面においてカジノを模したカジノのフェイクである。ギャンブルのフェイクである。そこでいかに華々しく勝利し、ポッドからメダルがジャラジャラ流れ出し、ケース何箱も抱えて歩き回っていても、その勝利は一銭の対価も得られない。
 メダルはただ単に、その場において消費しつくすことのみに用いられる。その場にいる人間はそのために時間を蕩尽する。勝利と敗北は起伏のようにそれぞれがやってくるが、勝利の豪奢も、敗北の沈降もなく、極論すればそれは堂々巡りのシステムに過ぎない。だから勝利したとき、賭博のもたらすあのふつふつと湧き上がってくる甘美な陶酔に似た感覚を味わうことがあっても、それは水で割ったワインのような味気なさ、というよりどことなく醒めさせる無味無臭なものが混在しているのであった。この感覚ですらフェイクであるのかどうか。もしそうであるならばその感覚の全ては一様に偽物の、安っぽいケーキのスポンジのような均一の廉価なのではなく、水に混じりこんだ油のように一方に濃厚なそれがあり、触れ合いながら交わらぬところに醒めた何かがある。
 私たちはそこに何度も行って遊んだが、殊更に賭博というものを偏愛したわけでもなく、十八になるまでの期間、ほんものの賭博をするための前段階としてそこに入り浸ったわけでもない。クラスの連中の中には目の色を変えて部活に狂ったり、或いは受験勉強に効果的な授業を行わない教師を弾劾して目の前の一点を取りに行く人間も幾人もいたが、そういう連中とはなんとなしに距離を置いて、私たちはそこに入り浸り、たくさんの時間を蕩尽した。
 勝ちもなく、負けもない。ただ一つ一つのゲームに勝利し続けていれば、勝っている間だけタダで遊び続けることができる。私は、私の分のメダルを使い果たせば容赦なくイーヤやRにたかったし、イーヤやRもまた同じだった。時々、勝ちすぎたときは、勝ちすぎた人間がいかにもうっとうしそうにメダルを分配するために歩き回った。
 使い切れなかったメダルは店が預かってくれる決まりだった。だけれどもたいていその期間は一月であるとか、預けられるメダルの上限は3000枚だとか、色々と面倒な取り決めがあった。だから突出した勝利は戦利品の分配と密着していた。私たちはその閉鎖された空間の中で勝ち負けに一喜一憂しながら同時にこの行為が不毛であることも熟知していた。それは完全な閉鎖系であるだけに、その環の中にある私たちにしてみればそれはいずれ終わりが来るものだろうと容易に予測できるものだった。実際終わりはやってきた。イーヤとRは県外の大学に行った。イーヤは東京、Rは地方だ。私は地元に残り地元の大学に進学したがイーヤもRも、そしてラもいない偽物の世界に私一人で行く気にはなれなかった。ラと別離し、でありながらラの影を捜し求めるために何度かウィンドミルに行き、失望と共に帰っていく以外で、私はウィンドミルだけでなく他のメダルゲーム場に足を踏み入れることはなかった。
 押し出されるように卒業、就職。真新しかったスーツもやがて着馴れ、杜撰なネクタイの結び目と相まって着崩れて行くと、ウィンドミルはオープンから十年を待たずに潰れ、更地になった。偽物の王城は白日にさらされ、跡地の買手はなかなかつかないようだ。そして、時代はもう、小さな子供たちが空き地で泥だらけになって遊ぶ段階にはない。彼らはもっと別の、精密で高度な遊びがあてがわれている。私は、今の職場の事務所の中でひっきりなしに交わされる、競馬やスロットといった本物の賭博の話題に少しばかり辟易し、そんな中で糧を得ている自分の生き方に少しばかり倦んでもいる。ともあれ、ラと出合ったあの場はもうこの世にはない。ラもこの世にいない。
 私はいる。
 私はいる? 
 私はいる?



 chapter 4  凍える夏
「あのさあ」
「なあに?」
「ごっこじゃなくって、本気で恋愛する事ってあるのかねえ」
 ラは僕から窓に目を向けて静かに言った。僕からはラの華奢な肩と、綺麗に伸びた白い背が見えた。「わたしには、多分、ないと思う」
 ラにしては珍しい静まった口調、そして沈黙がやってきて、それに慌てて、振り払うように僕は言葉をみつくろい、咄嗟に思いついた言葉を口走った。海、そう、空の色を吸った鏡面のような淡いブルーの海。透明の水。
「ねえ、海行こう」
「うみ?」
「うん、近くにもあるけどさ。もっと奇麗で、もっと静かな海岸があるじゃない。そこに行こう。みんなで行こう。ラの水着姿が見たい」
 そう言って、僕は少しばかり強引に、向こうを向いたラを引き寄せて、むき出しのままのラの胸に顔を埋めた。白い体のふくらみにぽつんと浮かぶ乳房の先端を舐めると、やあと言ってラは何も着ていない躰を反らす。「わたし胸がないから水着着るとしまらないの」
「でも見たいんだよね」
「やあなの」
「イーヤもRも見たがるよ。みんなで一緒に遊ぼう」
 仕方なさそうに笑いながらラは胸に顔をうずめる僕の頬に手を伸ばしてきた。同い年の女の子なのに、それにしてはひどく大人びて見えたラの細く長い指が、僕の頬を何度か撫でた。
 待って、待って、梅雨はようやくあけ、遅い夏がやってきた。
 短い、盛りの夏。
 例年に比べれば乏しいけれど、それでも気だるい夏。
 クーラーの寒さが混じる夏。
 細かい砂粒のようにあっという間に指の間からこぼれおちる夏。
 夏の終わり。僕らはようやく一日の時間を作った。
 電車にゆられる。
 窓を流れる木々の緑。糸を引く緑。
 錆びたレールの上を進む電車。合間合間の振動。
 冷房の中で、季節をなくした僕たち。
 汗も浮かべず笑顔をならべていた。
 丘陵を伝い走る電車は、やがて行く手に海を見すえた。
 漣が眠りを誘うように緩慢に響いていた。
 僕らはゆっくりと波打ち際に向かって歩いた。
「クラゲがいるぞ。おい」
 Rが顔をしかめた。無理もないさと僕は言った。もう夏は終わろうとしていた。昔くらげに指されたことを思い出した。鈍い痛みと痺れが続いた記憶があった。腫れ上がってきた患部に波打ち際の潮と白く乾いた砂を摺りこんだ。赤く炎症を起こした傷口が塩でひりひりとし、太陽に焼かれたことを思い出した。僕は傾いた太陽を見上げた。
 やはりクラゲがいるだけあって水も冷たかった。川のせせらぎのひきしまるような冷たさじゃない。護岸のためのテトラポットのない、外海の水が海岸まで直接やってくる水は、まろやかなぬるさの中に気がつけば唇を紫色に染めてしまう裏切りの冷ややかさを持っていた。
 イーヤが手を叩いて喜んだ。着替えてきたラはオレンジの蛍光色のビキニを着ていたからだ。
「胸がないからそんなにカッコいいもんでもないでしょ」ラはちょっと照れてそう言った。
「胸がないのは良く知ってる」Rと僕でハモって笑った。
 平日だったこともあって、人気はあまりなかった。遠い彼方から、近くの砂浜や岩場に打ち寄せてくる潮騒だけが、何かの鼓動のように響く中に、いくつかの家族連れの小さな子供のはしゃぐ声が時折遠く気だるく混ざった。
 どれぐらい泳ぎ、水をかけあって遊んだか。波に追い立てられるように僕は海から上がった。黒く湿った硬い波うちぎわをよろよろと歩き、真っ白な砂のところで大の字になって寝転んだ。背中から、砂は体を温めてくれはするけれど、砂はもうこらえきれないほどに焼けてはいない。体で感じた。太陽は時折かげった。辺りが雲の厚みの分だけうっすら暗がると、体の芯の冷えが外側に向かってぶり返してくるようだった。
 隣にラが座ってきた。いつのまにか白のパーカーを着て、肩や腕や胸もとを隠している。
「疲れた?」
「ああ、疲れて、ちょっとだるい」
「わたしも」
 僕は波の音に聞き入った。日ざしで僅かにほてった頬に、ラの濡れた髪からの透明な滴がいくつか落ちて流れた。眠気と疲れがゆっくりと僕を引きずり込もうとしていた。
「何泊かできればよかったね」
「どうして」
「だって、みんなとできるから」
 寝転んだままのどを震わせてゆっくり笑った。
「異常気象で大雪でもふって、学校の近辺が二日はマヒしてくれないとだめだろうね」
 明日は登校日で、何かのテストだ。ルーチンワークからの逸脱は歓迎すべきことじゃない。
「ねえ、見て」
 ラがそっと僕の裸の胸をゆすった。僕は体を起こし、ラの導く方向に目をやった。
 海、そこにRが浮かんでいた。ひょろっとした図体を小さく頼りなげに見えるピンクの浮き輪にはめ込むようにして、波の行き来に身を委ねて浮かんでいた。離れていてその表情ははっきりとは見えなかったけれど、幸せ以外のものを感じることはできなかった。こちらを見ているかどうかすら分からないRに向かって、ラは微笑みながら手を振った。横になり僕は目を閉ざした。
 漣が緩慢に聞こえてくる。
 漣が緩慢に聞こえてくる。
 その響きは、多分やさしい。奥底にどんな手ひどい裏切りを秘めていたとしても、それでもいい。その響きは多分やさしい。



 chapter 5  眠る地
 春がなく、夏がなく、そして秋がないわけがない。ここにも季節の訪れ、移ろいはある。そのはずだ。だけれども私にとってのこの場所はいつも凍える氷雪に覆われ、それと温度を同化し、そして頂こそ雪の帽子をかぶりながらも、それに抗うように黒い光沢を地上から突き立している墓碑の立ち並ぶところだというイメージがあるのだった。それはラの死を知って泣きながらこの場所にやってきたときの光景だった。私にとっては決定的に植え付けられた先入観だった。
 あの時もラの命日だった。この日もまたそうだった。ラは意図的にこの時期を選んだのではないか。そんな気がする。ラは雪が好きだった。だけれども気の早い雪が秋の終わりに訪れて、ほんの一夜、ほんの朝方だけ、世界の全てを白く染め上げる、そんなひとの足跡ひとつの欠損すらない浄化された世界を殊更に愛したわけでもないようだった。そんな世界は容赦なく、人の歩みや、車の轍、泥土、飛砂、粉塵、そんなものに汚れていく。また少しばかり気紛れに気温が上がれば、黒いしみのように溶けていく。そして冬の深まりと共にそれらの上にまた雪が折り重なり、僅かに溶けては、気温のせいで逆に強張り、また踏みつけられて圧雪となり氷の板となり、雪自体が本来持つ軽やかさから程遠いその残骸となって、やはり泥土や排気ガスに汚れていく、そんな雪融け前の重苦しい光景を好んでいると言っていたことがあった。
 ラは難しい言葉遣いなどしなかった。だけれども敢えて彼女の言葉をそのような言葉で代弁するとすれば、ラはきっと、雪という言葉の詩的な印象が邪魔だったのだ。雪を知らない土地の人が憧れる綿菓子のような雪の印象が邪魔だったのだ。
 何事もなかったかのように、ほぐれてゆくような温みの広がりわたる春の訪れと共に幕を引いて姿を消す残雪、その雪融けの頃はまだ訪れてはおらず、人の名を刻んだ石柱も氷同然に凍てついていた。文字の刻まれたその面は、日によって時刻によってやってくる横殴りの風雪が所々にこびりついていて、それを読むのに難渋した。読まねばラの墓標はよくわからなかった。森村というさして珍しいわけでもないが、しかしひとつの墓地の中においては指して数があるとも思えない姓を刻んだ黒い石が、唯一ラの眠る所在地を示していた。一度だけの来訪ではそれの在り処はなかなか記憶の中にとどまっていてはくれないものだった。
 私は、踏み固められていない雪の中をあがくようにして歩いた。一歩進めるたびに足首まで埋まった。何度かバランスを崩しそうになった。何度か踏みとどまった。散々迷った。いくら僥倖にも凪の日であったとはいえ、海にむき出しに隣する丘の上の墓地は、耳朶がちぎられるほどに寒かった。そのくせうろうろと歩き回って、コートの下では汗をかいていた。足首の隙間からはとうの昔に雪が入り込んでいて、ブーツの中でどろどろに溶けて靴下は濡れ、冷ややかさで爪先を痺れさせていた。
 ようやく見つけた。
 その風景は、記憶と合致するようで、しないようで、私はまごつきながら墓碑の面の氷雪を擦るように払い落とした。森村家之墓という文字が現れた。当たり前のように、誰かが訪れた形跡はなかった。ラの命日のはずだが、生き残ってラの記憶を宿す人間たちはラを追憶する儀式をあまり為そうとはしていないようだった。だが私自身偉そうなことなど言えはしなかった。だけれども、それがいくら望んだ死であったからといって、また生き残った人間がそれぞれの得手勝手な主観で死んだ人間に追憶を捧げることが死者を慮ることのない不遜な行為だからといって、私自身幾度も幾度も逡巡し続けたが、だが子供にもわかるような底の浅い偽善であっても、
 偽善であっても、
 私はそれを為そうと思ってここにやってきたのだった。墓碑の頭頂の雪を払った。ラがどんな神様を信じていたかわからなかったが、私は私の両親から教わったやり方で手を合わせて心の中でラに話しかけた。それは私にとって、ラを悼む心情なのか、ラに許しを乞う気持ちなのか、自分のことであるのによくわからないのだった。だが私がそれを為したいという気持ちを持っていることは事実なのだ。
 森村幸子、何て時代遅れの名前だろうか。
 本当にそれがラと同一人物なのか、疑おうと思えばそれさえ疑うことのできる、つまりはラという存在が本当に死んだのかさえわからず、ある日突然消失してしまって、二度と会えないでいる、その人に、私は祈りを捧げた。
 墓に行く前日の夜、イーヤから電話がかかってきた。Rと東京で会って飲んでいるということだった。その証拠に、イーヤは笑い、絶叫し、ゲラゲラと品なく笑っていた。そして、明日だろ、頼む、そうつぶやいてイーヤは受話器越しにすすり泣いた。多分Rも泣いていただろう。私はそう信じたかった。だからそのことを殊更に確認することもなく、私は電話を切った。
 墓碑に向かって別れを告げて、私はまた雪を掻き分けるようにし、難渋しながら帰路についた。



 chapter 6  ごっこ
 プッシャーゲーム、それは暇つぶしという徒労感をもたらすメダルゲームの中にあって、最もそれに適合した、つまり擬似的な大儲けから程遠く、緩慢にそれが続いていくだけのものだ。
 透明なガラスの壁をしたケースの中に、メダルの無造作に敷き詰められたパネルがある。パネルはたいてい電動で、いろいろな方向にスライドしている。
 パネルは動く。その表面に敷き詰められたメダルはスライドによって時折落下する。パネルはまたスライドすることによって壁の中に吸い込まれていく。だが壁に設けられた隙間は狭く、パネルの上のメダルも同時に奥に引き取っては行かない。だからメダルはパネルが吸い込まれた分だけ押し出される。
 規則正しく、吸い込まれたパネルは押し出されて戻る。もぐった分だけ、パネルの上にはメダルの敷き詰められていないむき出しのスペースが生じる。
 そこを狙って、差込口からメダルを投下する。うまい具合にむき出しのスペースにメダルが落ちてくれれば、パネルが壁に吸い込まれるのに連動してその上のメダルは投げ落としたメダルの数だけ押し出され、パネルの上からこぼれる。こぼれたメダルは報酬としてプレーヤーの手にもたらされる。ある種の人間にはきっと、それはゲームの宿命であるだろうが、何が面白いのかきっと把握できないに違いない。もっと効率的にかつ高倍率でメダルを稼ぐゲームは他にいくらでもあるのだ。だが憑かれたようにメダルを投げ入れ続ける。そんなこともある。
 ラはそれに夢中になっていた。それがラとの出会いだった。
 同じぐらいの年頃に見えた。ただいつもラは私服だった。私たちは学校帰りだったから詰襟の制服がほとんどだった。だから最初、私服で登下校しているN高やS女子の子じゃないかと思っていた。
 ラのことを思い出すと、それが初めて出会ったときの格好であった確証はどこにもないのだけれど、真っ白なタートルネックのセーターを着てその白さの中に伸ばしていた髪を垂らした印象が強くていつもその姿が思い浮かぶ。
 その姿であったかはともかく、ラは確か、メダルを使い果たして、未練ありげにパネルの動く姿を眺めていた。たまたまこちらはケースいっぱい勝っていたから、何度か躊躇した後で、ひとつわしづかみにしてラのメダルカップに入れてやった。きょとんとして、それからニコっと笑って、それだけで、再びプッシャーゲームへの不毛な挑戦を始めるラの横顔を見ていて、調子のいいやつだと思わないでもなかった。笑顔ひとつがお礼がわりというのは、現金といえばそうだった。
 ラはたちまちメダルを使い果たしたようだった。またひとつかみやった。また使い果たした。またやった。
 イーヤとRがやってきた。二人ともそれぞれの勝負に負けてメダルを無くしてしまったようだった。私の調子がいいのを、横目で見ていたんだろう。たかりに来た。だが私もその時は負けが込んできていたし、大体ラに随分吸い取られていたから、たいした数が残っているわけではなかった。短気なイーヤは何やってんだと私をののしり、乏しい残数のメダルを盗賊のように奪って去っていった。
 そちらのほうに気を取られていて、ふと振り向くとラの姿もなかった。首を何度か左右に動かして店の中を探して、スロットのほうに姿を見つけた。お礼ひとつもなくて退散かよと舌打ちした。そうしている間に自分のメダルを使い果たした。そうしている間にラがスロットで一山当てた。マシンからメダルが狂ったように流れ落ちてきた。
「すげえな」
 私はラに近寄って声をかけた。
「なあ、こっちはなくなったんだ。さっきあげた分返してよ」
 ラはちらっとだけこちらを向いて微笑んだ。
「ダメ」
 なんて女だと思った。
 その後、ウィンドミルに行く度にラを見かけた。いつの間にか私にとってラはイーヤやRと同じように、私が勝った時私のメダルを吸い取っていく困った運命共同体になっていた。そのくせ悪友どもとラが決定的に違うのは、イーヤやRとは持ちつ持たれつ共栄共存であったのが、ラは搾取していくくせに自分が提供することは拒絶する決定的な吝嗇を持っているところだった。なんて女だ、いつも私たちは憤慨していた。気がついたらラは搾取の対象を私だけでなくイーヤやRにも広げていたから、私たちは憤慨まで共有していた。
 最初、あいつとかあの女とか呼んでいたラをラと呼ぶようになったのは、ラがラと名乗って私たちが面食らった後からだ。最初何のことかさっぱりわからなかった。あだな、わたしのこと、そうラが説明しても、よく意味がつかめなかった。そもそもどうしてあだなが一文字なんだ。由来は?
「ない」
 なんとなく、それでいいじゃない。なんだか明るそうだし。
 というわけでラはラになった。ラが森村幸子になったのはラが死んだ後のことで、それも私たちはラの生前ラが自分で自分のことをそう名乗ったことはなかったから、未だにラはラであって森村幸子ではないような気分を宿している。それでいてラの死を否定することなく是認しているのは、ラが自殺したことを聞いたとき、衝撃や、悲しみや、悔恨や、そして罪悪感に押しつぶそうになりながらも、その一方で、ああやっぱりなというどことなくの納得が私たちの中にあったせいだったと思う。
 ラは変なやつだった。私たちが学校を終えてウィンドミルに行くと大抵いた。私たちが遊んでいてラがいないというのはめったになかった。それもいつも一人ぼっちだった。たまには学校の友達でもつれてくればいいじゃないかといったら学校になんて行ってないもんねといたずらっ子のように答えた。登校拒否かよと冗談を言ったのはおよそそんな印象がラには窺えなかったからだった。ラは首を振った。進学してないんだよ。中卒かよと尋ねると、そんなもんと答える。何で高校行かなかったのと聞くと、さあと答える。
「さあってことはないだろうさ」
「じゃあ聞くけどさ、何で高校行ってるの?」
「何でって、そりゃあさ」
「さあ、っていうのが一番正しいんじゃない?」
 そうかもしれないと思った。ちょっと舌足らずの、間の抜けたようなやや甲高い声色で、しかも論理的な様子からは程遠い話でありながらも、ラの言葉は時々妙な説得力があった。
「勉強好き?」
「まさか」
「将来なりたいものがあるの?」
「考えたこともないよ」
 ラは笑った。
「まるで、ごっこだよね」
 私たちも笑うしかなかった。確かにそれはごっこだった。高校生ごっこ。そしてそれは夕方近くになってくるといい加減飽きてきて、私たちはウィンドミルにやってきて今度はカジノごっこに興じるわけだった。
 そしてあれはいつごろだっただろうか。
 ラが笑っていた。ウィンドミルで当たり前のような顔をして、私とイーヤとRと一緒になって遊んでいた、その合間だった。
「ねえ、ごっこしよう」
「何のごっこだよ」
「レンアイごっこ」
「レンアイごっこ?」
「ねえ、セックスしたことある?」
 私たちは、微かに震える言葉を交わしながら、戸惑いと困惑と、直線的に湧き上がってくる単純な欲望のない交ぜになった或る不思議な浮遊感覚の中で、ラとルールを決め交わした。
 レンアイごっこ。
 レンアイごっこをして、ラとセックスするということ。
 だけれどもそれはレンアイごっこなのだということ。
 ホンキになってはならないのだし、みんな一緒になってでもダメなのだということ。
 ウィンドミルの店内はやや薄暗く、絶え間なく有線のBGMがヒットチャートに乗るガラクタのような音楽を繰り返し流している。ゲーム機の照明が、ブルーの、ピンクの、オレンジの蛍光色に瞬いては失せ、その都度色白のラの顔をそれぞれの色に染めていっては消えていった。その陰影のもたらす、僅かにもたげる睫毛やひとより薄い鼻や唇の肉付き、ひとより淡い唇の色、華奢な肩、そこへ下るほのかに茶色の髪の毛、ほんの僅かに膨らんだ胸元、そういったラの肉体の全てがその時まるで反転するかのように私たちの前に意味を持って現れた。それはそれまで、ラには悪いが、何の情欲もそそらないただの友人のそれだった。ラは、あの頃の少しばかり柄の悪い言い方を好む年頃の私たちにとって見れば、ダチのようなものだった。もちろん私たちはとうに女の肉体というものについて情欲と興味とを覚える年頃になっていた。それを自分のものにし思うままに蹂躙することはそれまでなかったが、それを試したいという気持ちは当たり前のように吹き荒れていた。
 ラはそういう対象ではなかった。だがラが突拍子もなくそんなことを言い始めると、たちまちラの肉体は私たちにとって意味あるものになってきたのだった。
 順番を定めた。最初は私になった。自転車をウィンドミルに置き去りにして、すぐ近くにあるこれまで通り過ぎるだけだったホテルに行った。ラは服を脱いで、私はその白い肢体に稚拙に吸い込まれていった。
 虚脱してラと別れて自転車を取りにウィンドミルの駐輪場に歩いていった。遅い時刻になっていて家にどうやって言い訳をしようか、ぼんやりと思い浮かべながらだった。暗がりの中に私の自転車がぽつんと置いてあった。乗ろうとしてサドルに違和感を受けた。降りてみて確認して違和感があって当たり前だと呆れた。私が先んじて楽しんだその腹いせとでも言うのか、多分イーヤとRの仕業だろう。サドルは一度引き抜かれて、わざと逆向きに取り付けられてあった。ばらして元に戻そうとしたがびくともしない。R辺りがばか力でねじ込んで締め上げたようだった。もたもたしてもいられないから、仕方なくその格好で乗り込み、ふらつきながら夜道を家に向かった。ずっと違和感が続いていた。
 それ以来、そのことが私たちにとっての儀式になった。
 ラが誰かと寝る。残された二人はその最中に自転車のサドルを逆向きにつける。フェラチオしてもらったとイーヤがガッツポーズすると、逆向きサドルの翌日の学校の駐輪場で私とRはイーヤのマウンテンバイクの前と後ろのタイヤの空気を抜いた。



 chapter 7  レンアイ
 大学時代真理が彼女だった頃、私は彼女に熱烈に愛されることに戸惑い辟易していた。それは贅沢なことだとわかっていたのだけれども違和感を拭い去ることができなかったのも事実だった。
 同じサークルで同じ学年で、コンパの幹事や何かのイベントの準備といった雑務を先輩から押し付けられると、大抵二人で一緒に作業するようになった。私はそういう作業をあまり苦にしないほうだったから真理を手伝ってやることが何度かあったが、真理はそれを私の好意だと思ったらしい。好かれて悪い気はしなかったが、それが真理の勘違いだろうということは最初からわかっていた。そのうちに熱烈に愛され、そのうちに体の関係も結んだ。お互いの体を貪り合う時期が一段落すると、そのうち真理は私が私でないことに気づき始めたようだった。
 私自身は私を止めたつもりもなければ変節したつもりもなく、偽りも演技もなかったのだとは思う。だけれども私の素のままの姿は彼女のレンアイにおける偶像を、どうやら全うすることができない様子であった。だから彼女がヒステリックに私をなじり始めた時期になっても私はどこかで醒めていた。私は他の誰かに心を移したわけでもなく、他の誰かと寝たわけでもなかったが、真理に好意を抱いていてもそれが真理がそう礼賛しているレンアイと同等のものを彼女に仮託しているわけではどうやらないようだった。躰が目当てだったと陳腐に難詰されるそんな嵐に、ものを言わず堪えていると、嵐は去っていった。嘗て彼女のレンアイにおける偶像であった私は、次には呪詛を捧げる悪魔の像に堕していたようだった。
 いま真理がどこで何をしているのか、全くわからない。彼女には悪いがあまり思い出すこともない。多分彼女の中の私の像も、今では悪魔ですらなく、粉微塵に砕けて痕跡をとどめてはいないのではないか。彼女が今もなお偶像を追い求めているのか、私同様に緩慢な虚無の海をぼんやりと泳いでいるのか、それはわからない。
 裏切りというのは難しい。むしろ意図的にそうするのは見上げたものなのかもしれない。そうではなくて、自分にそのつもりはないのに、そうなってしまったという苦さが頻繁に繰り返される。
 それは仕方がないのだと、自分が悪いわけじゃないのだと、真理のときは真理には申し訳ないがそう思えた。だけれどもラが自殺したことを聞いたときはそうではなかった。私たちは笑いあっていたけれど、私たちのいずれもラと笑いあう中でラの笑顔の向こう側にあるものをわからないでいた。そこには私たちのわからない何かの糸がたなびいていたのかもしれなかった。それはそれぞれの因果となって水面下で結びつき、時折表層に現れるものであったのかもしれなかった。だけれどもそれは、底にあるものがそのままの形で浮かび上がるとは限らないのだった。むしろねじれて、全くさかしまにあるものが姿を見せたかもしれなかった。そして結果だけを見れば、私たちはラの肉体を散々楽しんだのだったし、ラはやがて死んだ。
 それは私たちのせいではなかったのか。そして、私たちのせいであったとしても、なかったとしても、私たちはそれをどうしてつなぎとめることができなかったのだろうか。
 見知らぬ女から電話がかかってきた。ラの死を告げてきた。最初何が何だかさっぱりわからなかった。ラ、ラって、幸子は自分のことを名乗っていたんですよね。だからあなた方にとって幸子はラなんですよね。うん幸子が死んだんです。ラが死んだんです。ごめんなさい、一年近くも前のこと。まだ去年の、雪が融けない頃。
 自殺だった。遺書代わりに、私たちにとって見知らぬ女、ラにとって、何かの縁のあった友達らしい、その女に手紙が届いた。自殺の少し前に書かれ投函された手紙のようだった。事情聴取というと大げさだけれど、見知らぬ女の話では警察が調べに来たとのことだった。手紙も何日か戻ってこなかったとのことだった。
 手紙。
 私たちはその中身に脅えた。ラが何をつづったのか、それに脅えた。だがそれよりも先に、死んだ森村幸子が本当に私たちのラであったのか、それを疑った。何度も疑った。
 見知らぬ女と私たちは落ち合った。見知らぬ女は臙脂色の分厚い装丁の図鑑のような本を小脇に抱えていた。中学の卒業アルバムだと見知らぬ女はいって、ページを開いた。三年何組だかの集合写真があった。見知らぬ女の幼い顔が映っていた。そしてその隣に、やはり幼い、そしてくすんだ表情のラがいた。私たちの前で見せていたあの、どことなく儚くはあっても愛らしくもある笑顔の片鱗はどこにもなかった。そしてその集合写真の下には、立ち並ぶ人の背格好を模した図があって、そこにそれぞれの名前が付記されていたが、何度左から右から数えてもラの顔立ちをした幼い少女のところには森村幸子と書いてあるのだった。
 それでも私たちは疑ったが、見知らぬ女は新聞の切抜きを見せた。お悔やみ欄だった。森村幸子という名が、雪融けの時節の日付の元に死ぬには若すぎる年齢に添えられながら掲載されていた。愕然とした。
「幸子ね、最後に私に手紙をよこしたんです。そこにあなた方の電話番号が書いてあったから連絡したの。ごめんなさい、私、連絡しようと決断するまで一年もかかってしまった」
 私たちはよろよろと見知らぬ女が教えてくれた海辺の墓地にラに会いに行ったが、私たちとラとの間には冷たい墓石が隔たっていた。それは、ラの命日とされる日付に近いある一日のことだった。
 見知らぬ女は、ラが自殺であったことは私たちが問い詰めて漸く教えてくれたが、どうして自殺したのかは教えてはくれなかった。ラの手紙を見せてくれたわけでもなかった。私たちはそれが私たちのせいであるかもしれないことに脅えた。私たちのやったことの全てが罪悪であるようにさえ思えた。それは違うと見知らぬ女は言ったが、それが真実である保証などはどこにもなく、わたしたちはひどく曖昧なそれに安住することはできなかった。そして、見知らぬ女には私たちを救済し、そのために体よく私たちを欺瞞する、そんな義務はないのだった。
 泣くこともできなかった。ただぽっかりと空いた黒い穴に自分が沈み込んでしまった自覚はあった。



 chapter 8  フェイダウェイ
 ラはすり抜けて行く。
 ラはすり抜けて行く。
 私の手は柔らかく、穏やかになるよう抑制され、ラの曲線の輪郭を崩さぬよう侵さぬよう撫で擦ったが、ラは陶然とする様子ではなく、嫌悪もなかったが、まるで慈しむかのように私を見つめるのだった。それは、自分の拙劣さ、未熟さに対する私の嫌悪をいつも曖昧なものにさせるのだった。
 息を乱し、鼓動を早めさせているのはわかったが、ラのまなざしは変わらない。それは、どこか醒めていたせいではなかったのか。
 ラはすり抜けて行く。そして届かない。イーヤやRの番のとき、イーヤやRと寝るラはもっと別だったのだろうか。それとも私たちはまるでラに支配されているかのように似たり寄ったりだったのだろうか。ラはまるで躰が受けた感触の全てを制御下においているかのように崩れなかった。そして、その白く細い躰のどこにも、イーヤやRと交わった痕跡を見つけ出すことができないのだった。私はその白い肌に唇を寄せて、吸い、そこに赤い斑点を刻みつけようとした。だがラの細く長い指が私をたしなめるようにそっと抑えた。
「ダメ」
「どうして」
「……ごっこだから」
 そしてまた、ラはすり抜けて行くのだった。
 粘膜、虚脱、弛緩。耳に残る呼気の音は漣のように寄せては返した。その時私の腕の中にあったラは目を閉ざし、私はラの躰を手にしながらそれが果てしなく遠いものであるかのように感じた。
 遠い彼方から、肉欲を吐き出した後の怠惰な感覚を経て私が私にささやいてきた。それは言葉ではなかった。もっと曖昧な、線の引くことのできず輪郭を描くこともできない、灰の中のうずみ火のようだった。ほのかなぬくもりの存在のようだった。だがその存在は感知できても所在はわからないのだった。だからそれがラに対する思慕であったのか、未だによくわからない。
 好きだから抱いた、抱き続けているのは好きだからだ、そんな風に短絡的に線を引くことができれば、その風景は一変してしまう。ラが遠い遠い彼方で曖昧に微笑んでいる。
「ごっこだよ」
 ラの微笑は微粒子になって四散して行く。
 飛び散ったそれは、目には見えない。だが残滓と成って私の中にこびりついている実感が、確証もないのに私の中には確実に存在している。



 chapter 9  立ち止まって未遂
 一昨年かその前であったか、ラの墓に行こうとして途中まで行って海を見て立ち止まった。躊躇い躊躇いしてのことだったから、とうにラの命日は終わってしまった頃だった。春の海は、厳寒期のそれの荒れ狂う様からすれば嘘のように虚脱してしまっている。潮の色合いは刻々と変化し続けながらも、大体の基調としてどことなくはっきりとせずまた濁った、暗がりを宿す青が多かった。風は怠惰なほどにぬるびていた。
 イーヤも一緒だった。Rはこなかった。私とイーヤは松樹林の一角の、ぽつんと開けて海が見える、おあつらえ向きに始終海風に湿り続けているようなベンチが置かれている、そんな場所で立ち止まって、それより先に進む気持ちを萎えさせていた。イーヤはコートのポケットからくしゃくしゃになったラークを取り出し、そのうちの一本を風から守り火をつけた。イーヤが煙草を吸うようになったことをその時初めて知った。
「なあ、お前、いま女いるの」
 イーヤが干からびた声で聞いてくる。私はいないと答えた。全くの事実の吐露だった。
「作らないのか」
「面倒だからね」
 実際面倒で億劫としか思えなかった。ラに義理立てしているとか、罪悪感があるとか、そういうことではないと自分では思っていた。ただ、他人が他人を愛しまた愛されるという光景が空疎な茶番に見えてならなかったし、自分がその渦に巻き込まれることがあっても、それがやはり陳腐な劇にしか見えない心地が私の心の中にこびりついていた。
 どうしても自分のものにしたい女と出会ったわけではなかった。どうしても寝たい女とであったわけではなかった。だからそんな風に思っていたのかもしれない。私は高尚な哲学者などではなく、禁欲的な宗教家でもないしその時もそうだった。女に対する思慕やもっと直截な肉欲を感じないわけではなかった。だがそういう私自身を私が醒めた目で見ているのも事実だった。
「レンアイごっこか」
 私がつぶやくと、イーヤは返事の代わりに紫煙をゆっくりと吐き出した。ごっこだ、そう思うとき私にブレーキがかかる。私は私のやることや感じることがごっこという言葉によってたちまち単なる茶番劇になる瞬間を幾度も繰り返している。
 お前はどうなんだ。私はイーヤに尋ねた。同じだ、面倒くさそうにイーヤが答えた。
「大して気持ちよくねえんだよな。自分でやってたほうがマシだって時もある。大体鬱陶しいしな」
 私は鼻で笑った。
「ラとのセックスはよかったよな」
 何がよかったとか具体的にそういうわけじゃないんだけど、ラとのセックスはよかった。そうイーヤはつぶやき、しばらくその場に二人で無言でいてから、無言できびすを返し戻った。


 chapter 10  カイソウ
 留年というものをしなければ、高校一年は高校二年になりそして三年になる。その当たり前のものを失効してしまうこともなく、私たちは当たり前のように学年を高めていったが、そのことに別段努力をしたわけでもなく注意を払ったわけでもなかった。周囲の、しっかりとした人間たちは、何年先か何十年先かのことを考えて着実に勉強を積み上げていたが、私たちは収まるところに収まって適度にまじめに過ごしていれば収まるところに収まり大した妨げもないところにいたのだった。それは平凡だが悲観することもなく行き場に悩むこともあまりない成績もそうだったし、それぞれのそれぞれなりの経済状態の違いはあっても基本的に大学には行ってもいい、というより大学には行けというそれぞれの親のやり口もあるということでもあった。
 そこから飛び出してもっと突飛なことをやろうとか、そこから飛び出してもっと熾烈に学んで高みを目指そうとか、そういうことは私たちには皆無だった。三年になろうと、受験が控えていようと、ウィンドミルに行って虚偽の遊戯に身を浸していたし、そこでラと顔をあわせてレンアイごっこを繰り返していた。そんな日々の中で、いつしか私は、すがりつくようにラと寝ていた。私は私なりに、他の連中はどうか知らなかったが、漠たる不安を抱えていたのかもしれなかった。この曖昧な日々が曖昧なままに無限に継続していくことへの苦痛も疲労もあり、それでいてそこから飛び出すことへの恐怖もあった。ラとのセックスは、そういうものを吸い出す行為でもあるかのようだった。ラは不思議に、私を包み込むのだった。
 そこまで露骨にはっきりとではない、だが私はそれに類することをラに告げたことがあった。ラは困ったように微笑んだ。
「そっか」
 だが、吐き出すといって全てが吐き出されたわけではなかったし、また吐き出すばかりでもないのだった。ラと交わり続ける中で、私の中に何かの残滓がしまわれてもいった。それは心痛む甘美な染みのようなものだった。
 その年の夏は、寒い夏だった。
 夏に海に行って、すぐに秋が来た。何度かの模試の結果と判定によって、私たちは散り散りになる事が見えてきた。来年、いやもう冬が終わってしまえば、この景色は終わってしまうのだということを私たちはウィンドミルで遊ぶラに告げた。そっか、ラは微笑した。
「ごっこも終わり。おうちに帰る頃なんだね」
 薄暗いウィンドミルの一角、微笑んだラ。
 私たちは自然とラを取り囲んだ。そして、二つの腕を広げて、ゆっくりと、優しく、ラをそれぞれが包み込んだ。まるで私たちは中心のラにまとわりつく、暖かい海、淡いグリーンの海、温い水の海に生えるカイソウのように揺らめきながら、ラを抱擁し、腕で唇でラを愛撫した。
 ラは驚き、困惑し、身を縮め、頬を染め、それでも私たちの為すがままになってそれを受け入れた。ラの髪の毛に、ほっそりとした躰に、唇に、閉ざされた瞼に、絶え間なくだが緩慢に私たちがまとわりついた。イーヤやRのそっけない体のごつごつとした感触が渦のようにラを庇護しているようで、その核心にあるラに向かっていざなっているようでもあった。
 私はその時、それが錯覚であることを自覚していながらも、この上なくラが好きだと思った。その感情が私の奥底から湧いてきていた。


 chapter 11  そして
 気ぜわしい春が一度は雪を溶かした。それに促されるかのように、イーヤとRは旅立っていくことになっていた。最後にみんなで一緒に、そんなつもりでウィンドミルに行ってラと会って、でも最後のつもりがそんな心地は吹き飛んでしまっていた。イーヤがラにキスをした。Rがラにキスをした。私の番になった。ラは私を見つめ微笑んだが、私の肩越し、窓の向こうの暗闇の中に、街頭に照らされてきらめきながら降りてくる雪を見つけ、外に出ることを促してきた。
 駐車場。粉雪をてのひらに乗せてみて、ラは歌うように言った。私はぎこちなく両手を空に向かってあげた。粉雪はラの赤いコートをゆっくり白く彩りながら、僕の掌ではたちまち溶け姿を消した。またね、そう言ってラは背中を向けた。
 ゆっくりと降ろされた私の手のひらからは、水滴がぽつん、ぽつんと落ちていた。待てよ、私は全く少年の声色で叫んだ。声の高さを制御することができない苛立ちが兆した。ラはこっちを向かなかった。先走った春が消し去ってしまった雪、でも夕方からの雪がほんの僅かだけ地面を覆い、奇跡のようにあの瞬間だけ蘇った雪、ラはすぐに消え去るだろう足跡を一つ一つまるで丁寧に刻むように歩きながら、私に背を向けゆっくりと歩いていった。
 手をのばせ、心の中で僕は怒鳴った。奇麗にそろったその足跡を黒く踏み乱しながら慌てて追いかけ、ラの手を掴んだ。
 ラが、振り向いた。
 笑っていた。微笑んでいた。私は手を離して、肩を抱き、すがるようにラにキスをした。ラは、むせ返る時に背を撫でてくれるかのように、私の背中に手を置いた。
 なあ、私はそこまではつぶやくことができた。続き、それは心にもないことだったのだろうか。その場しのぎのことだったのだろうか。イーヤやRは側にはいなくなった。だけれどオレは、ここにいる。なあ、あのさあ、ごっこじゃなくてさ、ホントに……。そういいたい気持ちが咽喉奥で。
 キスでそれが伝わればよかっただろうに。
「サヨナラするコイビトのごっこ」
 キスから遠ざかり、私との距離を取り戻したラの唇は、ほころびながらその言葉を伝えた。私はその言葉に硬直して、自分の口走ろうとした言葉を凝固させてしまった。そして、もう一度向けられたラの背中、もう手を伸ばすことができなくなったその姿がゆっくりと薄闇と粉雪の中に消えていくのを、黙って見つめるだけだった。それが最後だった。それからもう二度とラには会えなかった。何度かウィンドミルに通って、大学に行ってからも一人きりになってからも通って、ラを探したけれどラはどこにもいなくなった。電話はかけても誰も出ず、やがて案内の声が現在使用されていないことを繰り返し告げるようになった。



 chapter 12  森村幸子から北村直子宛の手紙
 おひさしぶり。
 唐突にごめんなさい。
 昔の私のことを、知っているあなたに、甘えたくなっちゃった。ホントにゴメンね。
 そしてこんなことを書くこともあなたにとって迷惑だろうし、こんなことを書き残すことでもっと別の、あなたに対する迷惑が広がっていくだろうなと思うと、申し訳なさでいっぱいです。だけれども、世の中に、私にとって、それを告げられるのはどうやらあなたのほかにはいないみたい。
 ずうずうしいって、私自身思うけど、でもあなた以外にお願いする人もいない。そのことをわかってもらえるとうれしい。
 私、多分この手紙が届く頃、もう生きていないと思う。
 疲れちゃったんだ。理由は、多分あなたの中に咄嗟に浮かんだそのせいだと思う。うん、多分それは大体間違いじゃないと思う。父に愛され、父に抱かれていたときからずっと、いつかこんな日が来て、こんな風な決意をして、私は死ぬんだろうと思い続けてきたけれど、やっぱりそうだった。そうなった。
 それでね、そのことはもう私の中で結論が出ていて、だから私はそうするのだけれど、心残りがね、あるんだよ。
 直子、お願いです。私が死んだことを、三人の男の子に伝えてください。
 手紙の末尾に、みんなの名前と、連絡先を書いておきます。
 そして伝えて。あなたたちのせいで私は死を選ぶわけじゃないんだよって。
 この男の子たちはね、私のごっこにずっとつきあってくれていた人たちなんだ。
 本当でない、ごっこ。
 本当が、怖いの。本当のものが怖いの。だから、ごっこしてた。
 でも、いつまでもごっこは続かなかったんだ。それでバイバイしちゃった。ただそれだけなんだ。
 楽しかった。
 だから、あなたたちのせいじゃないんだよって、それを伝えてほしい。
 ごめんなさい。
 私はそれしか他になにもないけれど、あなたと出会えた幸運にとても感謝しています。ごめんなさい。それ以外に私は何にも報いることができないね。あの人たちにもそうだった。
 ごめんなさい。
 
 あの人たちの前では、私はラと名乗っていたんです。
 ラのごっこ。
 そして、私自身のごっこも、もうおしまい。
 バイバイ直子。私なんかが言っても何の説得力もないけど、幸せにね。これは心からそう思う私のほとんど唯一の真実です。あなたの幸せを願ってやみません。あの人たちをそう思うのと同じように。
 もうじき、雪が融けるね。







━了━
2006/06/14(Wed)00:47:14 公開 / タカハシジュン
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