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『魔境の破片』 作者:九宝七音 / サスペンス ホラー
全角45254.5文字
容量90509 bytes
原稿用紙約139.95枚
 夜な夜な《謎の声》に悩まされる東条薫……。 それと同時期、若い水商売の女ばかりを狙った猟奇殺人が連続して起こっていた。被害者は皆、顔面の皮をそがれた状態で発見される。 犯人の名は《フェイスキラー》。《謎の声》は今夜も東条薫を破壊的欲望へと誘惑する……。
【光より生まれし闇よりの声】



 何故(なぜ)、そんなに俺の事を知りたがる?

≪知りたがってるんじゃない。お前が知ってほしんだろう?≫

 そんなことはない。俺は誰にも自分を知ってほしいなんて思っちゃいない。

≪嘘だね。お前は他人の理解を求めているんだ。誰かに愛してほしいと思ってる≫

 やめろ……。

≪お前は誰からも『愛情』を感じとったことのない、哀れな人間だ≫

 違う……。

≪違わないさ。その証拠に、お前は自分の親でさえも嫌っているだろう。誰も信じないし、信じようともしない。裏切られて傷つくのが怖いんだろう? だから勿論、恋なんてものもできないじゃないか≫

 俺は……。

≪ああ、知ってるぜ。お前は叶わぬ恋をしてるんだろう? とんだお笑い草だ! お前みたいな人間を好きだと言ってくれる人間がいるとでも思っているのか? 自分自身を好きになれない人間が、誰かに愛されると思っているのか?≫

 うるさい……。

≪セックスか? それが望みなんだろう? 単純だな。どうせお前は嫌われているんだ。強引に押し倒してヤッちまえ!≫

 頼むからやめてくれ……。

≪怖いのか? 嫌われるのが怖いのか? 嫌われていると解っているのに怖いのか? ふん、とんだ矛盾だな。だから言っているだろう。お前は誰かに理解されたがってるんだ。ふん、たかがセックスだろう。子孫を残すために遺伝子に組み込まれた行為じゃないか。生き物としては当然の欲求さ。性的欲求に美学なんて存在しない。それなのに人間は、それを認めたくないから恋だの愛だのと言う幻想を作り出して、それに酔いしれて自らを正当化している≫

 違う、違う……。

≪違う? ふふっ、他人から『愛情』を感じたことのないお前に何が解る? お前は幻想も見れない、ただ現実しか見れない哀れな人間だ。だから『愛情』の伝え方がわからないんだろう。どうすれば自分の気持ちが真っ直ぐ伝わるか解らないんだろう? それだからいつも、人を傷つけるんじゃないかと思ってビクビクしていやがる。まったく情けない奴だ!≫

 お前こそ何が解る?

≪解るさ。俺にはお前の全てが解る≫

 何者だ?

≪俺はお前さ≫

 嘘だ!

≪嘘じゃない。俺はお前の『闇』だ≫

 闇なんてない!

≪あるさ。人間誰しも抱えているのさ。お前は人間の本質を知りたがっている歪(ゆが)んだ探求者だ。そう、人間なんて皮を被った、ただの肉塊だよ。薄っぺらな皮を被った醜いただの《動物》だ≫

 死ね、死ねよ。

≪お前が死ねば、俺も死ぬさ。だって、俺はお前でお前は俺だからな。でも、その前にみてみたいだろう? 人間の《正体》って奴を……≫

 嫌だ!

≪いいや、お前は見たがってるよ。だから俺が存在するんだ。お前ができないのなら俺がやってやるさ。そう、俺はお前の認知的不協和を防ぐために、生まれたんだから。全てを正当化するために……。でも、お前はきっと誰からも理解されなどしないさ……≫


【マスク】

 四月十六日 午前六時……。

 部屋の天井には幾つもの鏡が張られていた。性欲におぼれ理性を失った人間はそんな己自身の姿を見て更なる興奮と快楽を覚えるのであろう。そのためにその鏡は存在する。
 ラブホテルの一室……。確かに、その部屋にあるダブルのベットの上には全裸姿の女が横たわっていた。しかし、そこに横たわっているのは彼女一人だけであって、相手と思われる姿はない。そんな彼女は、仰向けの姿勢で天井の鏡に映る自分の姿に見入っているようにも見える。
「酷いですね……。これで三件目だ」
 北川誠二(きたがわせいじ)のすぐそばに歩み寄ってきながら、若い男は顔を顰(しか)めそう呟いた。
「ああ……、どうやら今回も顔の皮を剥がれ取られているようだな。相変わらず随分と杜撰(ずさん)だ」
 北川は額の薄くなった自分の白髪頭を一度だけ撫ぜてから、相槌を打つ。そうして、ベットに横たわっている女のほうへと更に近づいていった。
 ムスクの香り……。女がつけていた香水の匂いか。それともこの部屋にもともと振りまかれていた匂いなのか。
 紅(あか)い顔。それは女の顔面の皮膚がほとんど削(そ)げ落ちているせいでそう見えるものだ。要するに顔面だけ、本来ならば皮膚の下に隠れているはずの異質な筋肉部分が露出しているのである。筋状の赤い筋肉や血管、無論、血液も顔面上ですでに凝固していて、随分と杜撰に女の顔を切り刻んだのだろう、顔面の所々にははげかけの皮膚が付着しており、それがその女の顔を更に醜いものに見せていた。そして、そこにある二つの目は、大きく瞳孔を開いたままで天井の鏡に映る自分の姿を擬視している。すでに生命が尽きているのは一目瞭然であった。
「やはり今回も、被害者は水商売の女でしょうかね?」
 若い男……岸省三(きししょうぞう)も女の死体のほうへ歩み寄ってきて尋ねてきた。
「恐らく、そうだろうな」
 北川は気のないふうにそう返事をして、女の首筋にできた大きな傷口に目をやる。どうやら致命傷はその傷口のようだった。頚動脈を刃物で切断されたらしく、そこからおびただしい血液が噴き出しているのがわかる。前の二件の事件と同じである。髪の質や、裸体から見てすると、被害者はまだ随分と若い女のようだ。恐らく二十代前半の女性であろう。
「岸君、すぐに被害者の身元と、前の被害者との関連性がないかを調べてくれないか」
 北川は死体から目を逸らし、岸の顔を見てそう指示する。
 あまりにも常軌を逸した殺人事件だ。
 顔の生皮を剥(は)ぐ殺人鬼。そんな悪魔が今、この近辺をうろついている。一体なんの理由で殺した女の顔面の皮をそぎ取るのであろうか……。


 最初の事件は今から一ヶ月前に起きた。今回と同じようなラブホテルの一室で女の無残な死体が発見された。現場の状況から被害者は、犯人との性行為途中で右首筋の頚動脈を鋭利な刃物で切断されて殺害されていた。そして、その被害者の顔面の皮膚は、まるで取れないマスクを無理に引き剥がすかのようにして削ぎ取られていた。……否、最初の被害者に関して言えば、削ぎ取られていたと言うよりも切り刻まれていた、と言った表現のほうが適切かもしれない。恐らく犯人とって人間の皮膚を剥ぎ取るという行為がその時が初めてだったのだろう。随分と手際の悪さが目立っているように北川には思えた。
 二週間前、神社の境内(けいだい)で見つかった二人目の被害者になると、犯人は少しばかり要領を覚えたのか、最初の被害者の顔面よりかは幾分かましな皮の削ぎ落とし方をしているようであった。しかしながら、異常であることに変わりない。
 一人目の被害者は高級キャバレークラブで働いていた二十三歳の女。
 二人目の被害者は某スナック店で働いていた二十六歳の女。
 そして今回で三人目……。恐らく現場の状況から見て、同一犯による犯行であると見て間違いないであろう。
…犯人は男か?
 今現在、有力視されていることはこれしかない。

 北川は殺人現場の部屋を出ると、大きく溜め息をつき、煙草を取り出して口にくわえた。
…これ以上、被害者の数を増やすわけにはいかないな。
 警察の威信に懸けても、それは絶対的な必須条件だ。
「早く、頭のおかしな奴を捕まえなきゃな……」
 北川は一人呟くと煙草に火をつけ、再び大きく息を吐いた。


【そこにある風景】

 四月十七日 午後七時……。

 飲み屋街の中心にある公園の前でタクシーを降りると、東条薫(とうじょうかおる)は人通りの少ない細い路地のほうへと歩いていった。週末のせいか、バブル崩壊後の不景気状況が続いているわりには、中々の人通りである。大声で話す千鳥足のサラリーマンの集団、笑顔で手を繋(つな)いで歩いている二人連れの若いカップル、もしくは男女共に入り混じった団体。無論、東条のように一人で歩いている者もいる。そんな人間達を横目で見やりながら、東条は足早に目的地へと向かう。
 目的の四葉ビルの前まで来ると、東条は一度立ち止まり煙草を取り出し口にくわえてから火を点けた。そして幅の狭い階段を昇り、二階へと向かう。
…『流星群(りゅうせいぐん)』。
 そこにあるのはそういう名の小さなスナックであった。
 東条は扉を開くと、おもむろに中に入る。
「あっ、いらっしゃいませ〜」
 一人の若い女が声をあげる。
「コンバンハ」
 東条はそう返事を返して、店の中を見渡した。思ったとおり客はいない。いつものことである。
「相変わらず暇そうだな」
 肩をすくめながら東条はそう言って、カウンターの一番奥隅のほうへと腰を下ろした。そこが東条のいつも座る場所だ。とりあえずはそばにあった灰皿を手元に引き寄せて、くわえたタバコをもみ消した。その間に若い女は、一旦店の奥へと姿を消し、氷とグラスを用意して戻ってきた。

…俺が幻か? それとも君のほうか?

「ママはまだ来てないの?」
 見れば解る事だが、東条はあえてそう尋ねみた。
「うん、まだ来てない」
 女は、棚の中から先週東条がキープしたボトルを取り出しながらそう答える。
「ふーん……」
 東条は気のないふうに頷きながら、自分がグラスに注ぐ琥珀色の液体を眺めた。幻想的な氷の音とそれに滲む琥珀色が少しだけ目に心地よい。多分、注がれたブランデーを飲むよりも注がれているブランデーを見ているほうが好きなのかもしれない。それとも、ブランデーを注いでいる彼女の姿が好きなのか……。
「明日、仕事休みでしょう?」
 女が唐突に尋ねてきたので、東条は慌てて本来なら彼女が立っているほうへ視線を向けた。
「ああ、そうだよ。そうじゃなきゃ来ないよ」
 東条がそう言うと女は微笑み、先ほど氷と一緒に持ってきたコーラをもう一方のグラスに注ぎ、ほんの少しだけ東条のブランデーをその中に加えた。
「いただきま〜す」
 女が東条にグラスを差し出してきたので、東条は自分のグラスを彼女のグラスに軽く突き当てた。
「お疲れさん」
 東条はそう言って、ブランデーを口に含んだ。
 いつもとなんら変わりない風景だ。東条は毎週土曜にはここへ来て、ブランデーを飲む。ただそれだけのことだ。もうこの店に通い始めて半年は経つだろうか……。
…理沙(りさ)。
 彼女の名前である。肩まで伸ばした髪に綺麗な二重の目。今年で二十六になると言っていたはずだが、少し童顔(どうがん)のせいか実年齢よりも幾分か若く見えるのは、東条だけだろうか。
 しかし、この《理沙》と言う名前が彼女の本名でない事を東条は知っていた。この店で働くときだけに名乗る源氏名……。以前、彼女の本当の名前を聞いた覚えがあるが、その時、酷く酔っていたせいかよくは憶えていない。だが、東条にとってはそんなことはどうでもいいことであった。
…俺が知りたいのは、理沙の本当の名前なんかじゃない……。
 東条は再びブランデーを口に運び、それから煙草をくわえる。
…俺が知りたいのは……。
 刹那(せつな)、煙草に火をつけようとしたその時、

≪知りたがってるんじゃない、お前が知ってほしいんだろう?≫

 東条の頭の中でそんな声が響いた。
 眩暈(めまい)がする。
…ブランデーを二口飲んだだけなのに。

≪怖いか? 怖いんだろう?≫

 再び声。

「どうしたの? なんか今日、元気ないね」
 不意に理沙の声がしたので、東条は慌てて煙草に火をつけた。
「あ、ああ。……明日ちょっとさ、憂鬱な用事があってね……」
 そう言って、東条は煙草を一口だけ吸ってすぐに灰皿でそれをもみ消した。
「憂鬱な用事って?」
 理沙は少しだけ顔を傾(かたむ)けると、そう尋ねてくる。
「明日、昔の友達に会わなくちゃいけないんだ。その事がちょっと重荷になっててさ」
「そんなに嫌な友達なの?」
 理沙は苦笑いを浮かべる。
「あ、否……、そういうのじゃないんだけど……。なんていうか……」
 東条は言いよどんで、下を向く。
 暫(しばら)くの沈黙……。
「ねえねえ、昨夜、また一人殺されてたよね」
 突然、理沙が話題の違う話を切り出してきたので、一瞬東条は返答に詰まってしまった。
「殺された?」
 東条は眉間に皺(しわ)を寄せて、ようやくそう切り返す。
「えーっ、知らないの? フェイスキラーよ。……ほら、水商売の女の人たちばかりを狙う殺人鬼。殺したあとに、その人の顔の皮を剥ぐんだって。信じられないよねぇ」
 理沙が顔を顰めて言う。
「フェイスキラー……」
 東条はそう呟いてから、再び煙草を手に取る。

≪俺は、お前さ≫

 再び頭の中で響く声……。

「ああ、理沙ちゃん……」

≪解るさ。俺にはお前の全てが解る≫

「なに?」
 理沙の表情が不審げに見える。

≪どうせ嫌われているんだ。強引に押し倒してヤッちまえ! ハハッ、そんな器用なことは出来ないか≫

「ゴメン、俺、急用を思い出した。……帰るよ」
 東条はそう言って、おもむろに立ち上がる。
「えっ、もう帰るの? 今来たばっかりなのに」
 理沙は呆気に取られているようだ。
「本当にゴメン……。また来るよ」
 東条はそう言って、サイフから五千円札を取り出しカウンターに置いた。
「じゃ、また……」
 東条は呟いて、深く目を瞑(つむ)った。

≪俺はお前の『闇』だ≫


【未だ見ぬ男】

 井筒春子(いづつはるこ)はタクシーを降りると、すぐに自分の店『流星群』へと向かう。
 午後九時……。本来、店は午後八時に開店するのだが、それよりも一時間ほど遅れてくるのが春子の習慣であった。別に怠けているわけではないのだが、自分の子供達のための夕飯の準備やら、店で出すつまみの買出しやらでどうしても一時間ほど遅れてしまうのである。要するに一時間の間だけ、店は同店で働く理沙に任せているのだ。
 しかしながら、最近になって少々気がかりなことが起きていた。例の《フェイスキラー》と呼ばれている殺人鬼の事である。話によると、なにやら水商売の女ばかりを狙っていると聞いているのだが、春子が店に着く一時間ほどの間、理沙は店に一人きりなのである。大体において、自分の経営している店はスナックなので、来る客はほとんど飲み会の二次会や三次会なので来るものがほとんどだ(と言っても、顔なじみの客ばかりであるが)。そうであるから、午後の十時を過ぎるまで客が入ってくることは滅多に無いのである。理沙はまだ若い。フェイスキラーの毒牙に掛かった被害者は皆、二十代の若い女ばかりだと聞いている。春子はすでに四十を過ぎているのでまさか自分が狙われることはないだろう、と思っているのだが、理沙に関してはそうは思えなかった。無論、この飲み屋街には理沙ぐらいの年齢の女が働いている店は無数にあるので、切羽詰るほどの心配はしていないが、《もしかしたら》と言う考えは拭(ぬぐ)いきれないでいた。
 春子はそんな事を考えながら少し足早に店のほうへと向かうことにする。
 
 春子は自分の店の前まで来ると、一度そこで立ち止まった。来月は、この店を立ち上げてちょうど十年になる。バブル期は随分と客の入りが良かったのだが、バブルが崩壊して以降、客の入りは三分の一以下に落ちてしまった。そのため、雇える女も今現在、理沙一人だけであるのが現状である。しかしながら決して大きな店ではないし、幸運な事に昔ながらの客がまめに通ってきてくれる事もあって、この店はどうやら無事に十周年を迎えられそうであった。それはそれで幸せな事であろうと春子は思う。
 春子はおもむろに店のドアを開けて中に入る。カウンターにはいつものように理沙が退屈そうな表情で座っている。案の定、客はまだ来ていないようだ。
「オハヨウ」
 春子は理沙に声をかけてから、ショルダーバックを店の奥へいったん置きに行く。夜中に『オハヨウ』と言う習慣は、夜働く者特有の挨拶だ。
「あっ、ママ、オハヨウ〜」
 理沙は一瞬だけ笑顔を作り挨拶を返してきた。
「リサっち、今日もご飯食べてないんでしょう? チャーハン作ってきたから食べる?」
 春子はバックからプラスティックの容器に詰めたチャーハンを取り出すと、理沙の前に差し出した。
「やったね! 私ちょうどお腹空いてたの」
 理沙は手を叩き喜びながら、容器の蓋(ふた)を嬉々としながら開けた。
 その時、不意に春子はカウンターに置かれたグラスに目が止まった。飲みかけのブランデーが残ったグラスが二つ。一つは理沙のものだろう。そして、その横に置かれた五千円札……。
「誰かお客さん来てたの……?」
 春子は理沙に尋ねる。
「うん、東条君が来てた。でも、いつものようにすぐに帰っちゃったけどねぇ」
 理沙はチャーハンを頬張りながら答える。
「いつごろ?」
「う〜ん、七時ぐらいにきて、十分ぐらいで帰ったよ」
…東条。
 春子は《彼》の名を頭で呟いた。
 《彼》がここに初めてきたのは、どうやら半年ぐらい前からのようだった。どうやら、と言うのは春子が未だその《東条》と言う人間に会ったことがないからである。全ては理沙に聞いた話なのだ。理沙の話では、東条と言う人物は理沙よりも二つ年上の男らしく、毎週土曜の七時にここへ来るというのだ。しかし、来てから三十分もしないで帰るのがほとんどらしく、春子がその客を未(いま)だ見ていないのはそのせいである。
…それにしても。
 春子はチャーハンを頬張る理沙を見やる。
「リサっち、東条君がここに来始めてから土曜日は随分と店に来るのが早くなったわね」
 春子がそう言うと、理沙は驚いたような表情を返す。
「そうかな……?」
「だって、この店は八時開店よ」
 春子がそう言うと、理沙は少しだけ声を上げて笑った。
「そんなの解ってるよぉ。私、ここで働き出してもう三年になるんだから」
「でも、普段はそんなに早くここに来ないでしょう?」
 春子が尋ねると、理沙は少し上目使いになり、なにやら考えているふうな表情をした。
「そう言えば、そうだよね。……なんでだろう?」
 理沙は呟くようにそんな事を言う。
「そんなの私が知るわけないでしょう。フフッ、おかしなコ」
 春子はおかしくなって、思わず笑った。
…東条。
 春子はカウンターに残されたグラスと五千円札を再び見る。
「ねえ、リサっち。……東条君って、名前なんて言うの?」
 春子の唐突な質問に、理沙は今度は面喰った表情になる。
「どうして?」
「どうして、て……、東条って苗字(みょうじ)は……」
 春子が理沙の問いに答えようとしたとき、不意に店のドアが開いた。
「よーぉっ、ママ、リサっち、相変わらず客がいないねぇ」
 顔なじみの中年の客だ。後ろには若い男の連れがいるようで、どうやら二人ともすでにかなりの酔い具合のようだった。
…さて、仕事始めようかしら。
 春子は一度だけ理沙に肩をすくめて見せると、満面の笑顔を客に向けた。
「あ〜ら、いらっしゃい。随分と久しぶりね」


【心の音】

 四月十八日 正午過ぎ……。

 日曜日……。東条薫は某ファミリーレストランに来ていた。ちょうど昼食時であるので客の数も多い。東条はそんなレストランの一番隅の窓際の席を一人陣取っていた。
 今日は、昨日から東条の頭を悩ませる、ある人物に会わなければならなかった。
…石野琴枝(いしのことえ)。
 彼女と出会ったのは、東条が高校を卒業して間もなくのことであった。
 当時、これと言って何の目標や夢もかった東条は、高校を卒業しても進学するつもりもなく、就職するつもりもなかった。その頃仲の良かった友人達はほとんど社会に出ることを決めたようだったが、その時の東条には別にどうでもいいことであった。しかしながら、毎日何もせずぶらぶらしているだけでは勿論、なんの収入が得られるわけでもなく、収入がなければ飯も食えず、生きていくことさえ困難になるので、東条は適当なところでアルバイトを見つけては、こつこつと働いていた。そんな時、バイト先で一人の友人ができた。名前は神園千尋(かみぞのちひろ)……。彼女も、当時の東条の心境と似通ったものを持っていたせいか、東条と神園はよく気があった。
 そんなある日、千尋が私の友達、と言って一人の女を連れてきたことがあった。それが、石野琴枝である。
 石野琴枝は、ショートカットのよく似合う中々にボーイッシュな女であった。一つ一つの言葉は常にはきはきとしていて、いつも無邪気な笑顔を浮かべていた。とても明るく、行動的で、とにかくどんな人間にも悪びれることなく接していた。
…いつからだろう?
 東条は珈琲を口に運ぶ。
…いつからだろう、あいつのことが気になり始めたのは。
 いくら考えてみても、東条にはそれが思い当たらなかった。気付いたときにはいつの間にか、東条の思考は石野琴枝のことばかりで支配されてしまっていたのである。別に自分がそんなふうになるとは、東条自身まったく思ってもいなかった。
…それなのに……。
 バイト先で千尋に会うたび、先に口から出る言葉は石野琴枝のことばかりであった。
…どうかしてる。
 自分らしくない自分にいらだつ毎日が続き、東条はそう思うことで自分の気持ちを押さえつけていた。それであるから、そんな自分の気持ちを他人に相談することはなかったし、もちろん石野琴枝本人にも伝えていない。しかし、自分の気持ちを押さえつければ押さえつけるほど、胸の中に蟠(わだかま)る切なさは、日増しに増大していった。
 そんなある日、東条は千尋と石野琴枝で映画を見に行く事を約束した。東条にとって、それは実に心浮かれることであった。もちろんそれは、なんでもない日に石野琴枝に逢える嬉しさもあったし、普段見ることのできない彼女を知ることができるかもしれない、という一種の期待感があったからである。しかし、その日はあいにくの雨で、東条がそこで知ったのは、あまりにも耐え難い事実であった……。

≪死にたかっただろう?≫

 突然、頭に響く声。
 眩暈がする。
 東条は煙草をくわえ、窓の外を見やる。爽やかに晴れ渡った空。あの時とまるで違っている。そして静かに店内に流れる有線音楽。その音楽に交わるように聞こえる声。

≪たかが失恋だ。よくある話だろう? でも、お前の場合は少し違う≫

 東条は一度頭を振り、それから暫くしてあの頃の自分を冷静に分析してみる。

 十九歳の夏の終わりのあの頃の自分……。先のことなど考えずに、一人でも生きて行けると高を括(くく)っていた自分……。そしてひたすら純粋で、一人の女に恋したあの頃の自分……。
…季節が過ぎるのは早いな。
 東条はそう思う。自分は随分と変わってしまった。卑屈で汚れて情けなくて……。大人になんかなりたくなかった。いつの時でも自分は自分らしくありたかった。ただ、自分を信じて走っていたかった……。
…あの日……。
 三人は映画を見終わると、このファミリーレストランにきて食事を取っていた。
『あのね、東条さん……』
 石野琴枝は自分の食事を平らげると東条に言った。
『なに?』
 あの時、東条はじっと石野琴枝の顔を見つめていた。
『私、結婚することになったの』
 唐突な石野琴枝の発言に、東条ははじめ、たちの悪い冗談かと思った。
『琴枝、妊娠しちゃったんだってさ』
 そんな千尋の言葉に驚き、東条は言葉を返せなかった。石野琴枝の方を見やると、恥ずかしそうに顔を赤らめている。東条は自分の動揺を態度に出さないようにするのに精一杯だったので、相手の名前を聞く余裕もなかった。
…そんなこと、知らなかった。彼女に恋人がいるなんて。
 締め付けられたかのように胸が苦しくなり、食べていた食事さえも喉を通らなくなった。そして東条はその時ようやく悟ったのである。……自分はこんなにも石野琴枝のことが好きになっていたのだと……。

≪でも、どっちにしたって叶わぬ恋だった。そうだろう?≫

 東条は短くなった煙草を灰皿に押し付けると、近くにいたウェイトレスに珈琲のお代わりを頼んだ。
…どうしてあの時、自分の気持ちを打ち明けられなかった?
 今更ながらそう思う。

≪あたりまえだろう。もしあの時、そんな事を言っていたら、お前は完全に嫌われていたんだ。否、きっと軽蔑されていただろうな!≫

…強く想っていれば、相手がいつか気付いてくれると思ってた……。
 しかし、そうではなかった。言葉とは、想いを伝えるためにあるのだという事を、その時東条は初めて知った。
 石野琴枝の言葉にショックを受けたあの日の夜、東条は一人で浴びるほどにアルコールを呷(あお)った。そのまま死んでも構わないと思っていた。ただ、息をするのも辛いほどに胸が苦しかった……。アルコールでおぼつかない足元を引きずりながら東条は自棄(やけ)になって、《噂》で聞いていたある女に声をかけ、モーテルに連れ込み一夜を共に過ごした。セックスの経験はその時が初めてではなかったが、女を抱くのは東条にとってその時が初めてであった。
 翌日、酔いが醒め、一緒のベットで眠っていた女を見て、東条は激しい後悔を覚えた。
…どうして、どうして自分はこんなところにいるんだろう。
 東条は解っていた。その女を抱いてるときにも、石野琴枝の姿をダブらせていた事を。違う女を抱くことで、無理に石野琴枝の事を忘れようとしたことも……。しかし、あとに残ったものは激しい後悔だけであった。
 その日を境に、自分の中で一つの何かが音をたてて崩れていくのを東条は感じた。

≪そう、その日がお前の誕生だ!≫

 再び東条はレストランに流れる有線音楽に耳を傾ける。なんだか物悲しげな曲だ。今日はどうも東条の心と同じく、切ない歌が店内に流れることが多い。東条は運ばれてきた珈琲を口に運びながら、前髪をかき上げた。
…あれからもう、七年も経ったのか……。
 あの日から東条は、神園千尋と石野琴枝に何の連絡も取っていなかったのだが、つい先日、神園千尋から久しぶりに会って話でもしよう、と連絡が入ったのである。東条はあまり気が進まなかったがその誘いを断るわけにいかず、今こうして待ちぼうけをくっているのである。
 しばらくはそんな事を思いながら時間を潰していたが、やがて店の入り口から小さな子供を抱えた女性が入ってきた。そのすぐ後ろには神園千尋の姿も見える。
…琴枝、石野琴枝? 否、もう苗字が変わってるんだ……。
 東条は思いながら、二人に向かって手を上げる。すると二人は東条に気付き、笑顔をこぼしながら足早に東条のほうへ近づいてきた。
「うわぁー、久しぶりだね東条さん! 髪の毛伸ばしてる〜」
 やけに明るい声で、石野琴枝は一気に捲くし立てると東条の向かいの席に腰を下ろした。胸で抱えている小さな子供は、不思議そうに東条の顔を見つめている。
「ヤッホッ、お久だね」
 昔よりも少し痩せた感のある千尋も東条にそう声をかけてから、石野琴枝の隣に腰掛けた。
「ああ、久しぶりだな……。七年ぶり、か」
 東条はそう返事を返しながら、二人の顔を交互に見やる。
…二人とも、あまり変わってないな。
 東条の見る限り、特別二人になんら変わった様子はない。あの頃と変わっていることといえば、常にショートカットだった石野琴枝の髪型がセミロングになってることと、子供が一人いることぐらいだろうか。
「もう東条さん、せっかく結婚式の招待状出したのに、来ないんだからぁ。……それにちっとも連絡くれないし」
 石野琴枝は子供の頭を撫ぜながら、東条に言う。
「ホントだよ。友達はちゃんと大事にしなきゃいけないぞ〜」
 琴枝に続いて、千尋もオチャラケタ表情をして頷く。
「そうだな……。連絡はしようしようと思ってたんだけど、色々忙しくって」
 東条は呟くようにそう言って、少し俯いた。何故か酷く胸の鼓動は落ち着いている。あの頃は琴枝を目の前にするだけで、動悸が早くなるのを感じていたのだが、それがない。
…なんだ、俺、平気じゃないか。
 東条は顔を上げ、琴枝の腕に抱かれた子供を見る。色白で、丸顔の本当に小さな赤ちゃんだ。どうやら女のこのようである。
「その子は二人目か? 何歳になる?」
 子供に微笑みながら、東条は尋ねる。
「もうすぐで二歳よ。可愛いでしょう? 上の子はもう七歳。今日は旦那とお留守番してる」
 そう答えて、琴枝は子供の頬を軽くつついて見せた。
「ねえ、それよりもあなた……、なんだか随分と雰囲気が変わったよね。なんだか喋り方も男っぽくなったしさ」
 千尋が眉根を寄せながら東条に言う。琴枝も隣で頷いている。
「そうかな? 前よりもハンサムになったって事か?」
 東条がそう尋ねると、二人は悪い冗談と思ったのか大きな声で笑った。
「名前は……子供の名前はなんて言うんだ?」
 東条はそんな二人を尻目に、そんな事を尋ねてみた。
「エリナ、江利菜っていうの」
 琴枝が答える。
…目は琴枝似か。鼻は、旦那さんかな? ……本当に琴枝の子なんだな。
 そう思うと、少しだけ感慨深くなった。あれから七年……。もう、あの頃のように東条の中で琴枝は映らない。
 東条は、子供から琴枝と千尋の二人に視線を移す。二人とも実に幸せそうな表情だ。
…自分はどうだ?
 もし仮に、琴枝と結婚ができて自分が彼女の隣に座っていたとしたら、琴枝は今と同じような笑顔を振りまいていただろうか、と東条は考える。……自信はなかった。否、きっと《ありえない》話だろう。しかし、あの頃は琴枝を幸せにできるのは自分だけだと思っていた。ほかの誰よりも琴枝を想っているのは自分だけだと思っていた。だが結局、東条はその気持ちを琴枝に打ち明けることができなかった……。そして時は流れ、今こうして琴枝の幸せそうな表情を見ていると、何故だか自分も嬉しくなる。

≪本当にそうか? そう思い込みたいだけなんじゃないのか?≫

…うるさい、消えろ! これでよかったんだ。

 東条は、カップに残っていた珈琲を一気に飲み干した。
「エリナちゃんを抱かせてくれないか?」
 子供の前に両手を差し出し、東条は言う。
「落とさないでね」
 琴枝は笑いながら、東条の両腕に子供を預けた。
 思ってた以上に軽い子供の体に東条は少々驚いたが、その場で『高い高い』をしてみせる。子供は声を上げて無邪気な笑い声をあげる。
 そして、東条も微笑んだ。


【破壊的人格の誘惑】

 どうして、どうして俺を苦しめる?

≪苦しめるだって? ハハッ、よくもそんなことがぬけぬけと言えるもんだ! 俺はお前とは比較にならないほどに苦しめられたんだぞ≫

 誰に?

≪お前に決まっているだろう。……お前は小さな頃から、嫌なことや理不尽なことがあると全て俺に押し付けてきたんだ!≫

 そんな……。

≪お前は生きる資格など持っていない!≫

 やめてくれ。

≪大体、お前は母親の胎内から産まれてきたときから《死にかけ》だったんだ。そうだろう? 母親のへその緒がお前の首に巻きついていて、お前は息をしていなかったんだ≫

 ああっ……。

≪そうだ。俺はお前の全てを知っている。あの時、あのまま死んでいるべきだったんだ。お前はこの世に産まれてくるべきではなかった!≫

 やめろ……。

≪お前が死んでいれば、お互いこんなに苦しむことはなかったんだ。生きることに何の意味がある? お前は生きていて良かったと思ったことがあるのか? 生を全(まっと)うすることに一体なんの価値がある? 死んでた方が楽だろう?≫

…違う、違う。

≪何が違う? お前という《存在》に何の意味があるんだ? さあ、答えてみろ!≫

 俺は……。

≪苦しんで傷ついて、裏切られ貶(おとし)められ……そんな世の中でもお前はまだ生き続けたいというのか? お前は未だに誰かに愛されると思っているのか?≫

 解らない……。

≪まだ解らないのか? 人間の醜さがお前にはまだ解っていないのか? ならお前が解るまで俺が見せ続けてやる≫

 もうやめてくれ!

≪それは自分自身に言っているのと同義だ。言っただろう? 俺はお前なんだよ。《破壊》を求めているのは、おまえ自身なんだよ≫


【化粧】


 四月十九日 午前一時……。

 東条が気付いたとき、そこはどこかの部屋の一室であった。
…モーテル?
 部屋の雰囲気からそう察した東条は、慌てて起き上がった。どうやら、ベットに眠っていたらしい。そして東条のすぐ隣には、若い女が一人、小さな寝息を立てて眠っていた。
 部屋には酷くアルコールの匂いが漂っている。どうやら東条自身はそれほどのアルコールを摂取した様子が無いようなので、恐らく眠っている女から臭っているものなのだろう。

≪さあ、始めようか?≫

 唐突に東条の頭の中で声が響く。
…やめろ。
 東条は頭を振って、両耳を手のひらで強く塞ぐ。

≪何を今更恐れる。もうお前も慣れただろう?≫

…やめろ、やめてくれ。

 刹那、東条の横で眠っていた女が、ううんと唸り声を上げて寝返りを打った。東条は驚き、思わずベットから降りる。
「ああ、頭痛い……。あれっ、ここどこよ?」
 おもむろに目を開けた女は仰向けのままそう呟くと、やがて東条のほうへ顔を向けた。
「東条さん? ……ここ、もしかしてラブホじゃないの……?」
 女は上半身を気だるそうに起こしながら、辺りの様子を窺う。
「そ、そうみたいだな」
 東条は慌てて答える。
「ちょっとぉ、何でこんなところに連れてくるのよぉ。もしかして、酔った私を犯す気だったの? へえ〜、東条さんってそんな《趣味》があったんだぁ」
 女はそう言って、だらしなく笑う。どうやらアルコールが抜け切れていないらしい。
「ねえぇ、今何時? 私そろそろ帰らないとさ。……まさか本当に私を抱きたいなんていうんじゃないんでしょうね? それなら生憎、私はそういう《趣味》は持っていませんので、他の人を当たって頂戴ね」
 女はそう言って、一頻(ひとしき)り笑うとベットから降りた。

≪ほらみろ! この女もお前を拒んだぞ。お仕置きするべきだろう?≫

…だめだ、やめてくれ!

 東条は再び耳を塞ぐ。
「ちょっと、東条さん、何やってるのよ。早く帰りましょうよ。喉も渇いたしぃ」

≪さあ、制裁をくわえろ!≫

…嫌だ、嫌だ、嫌だぁ。
「やめてくれぇぇぇぇぇぇ!」
 東条は絶叫すると、ベットの傍(かたわ)らに立っていた女へと勢いよく走り寄り、そのまま女をベットに押し倒し、馬乗りになって女を押さえつけた。
「なぁ、俺のことが好きか……?」
 東条は女に尋ねる。

≪そうだ。それでいい≫

「ち、ちょっと、何よ突然。気分悪いんだから、今そう言う冗談はやめてよ」
 女は顔を顰める。
「冗談じゃないんだ。ちゃんと答えてくれ!」
「な、何言ってるのよ?」
「俺のこと、好きだよな?」
「俺、って……、東条さん、酔ってるの? それとも本当に頭おかしくなっちゃった?」
 女は、尚も東条の言動を悪い冗談だと受けと取っているようで、その表情にはまだ笑みがある。
 東条はそんな女の態度に苛立って、思わず女の頬に力いっぱいの張り手をした。パチンッ、と痛々しい音が部屋にこだまする。
「答えるんだ! 俺のこと、好だよな? 愛してるよな?」
 東条は懇願(こんがん)するように女に詰め寄った。そこでようやく女も東条の態度が冗談でない事を悟ったのか、急に青ざめた顔になって、先ほど張り手を喰らった頬を撫ぜながら憮然とした表情で馬乗りになっていた東条を押しのけた。東条はその反動でベットから転げ落ちる。
「ちょっと、あんたホントに頭おかしんじゃないの?」
 女は転げ落ちた東条を見下ろしながら、侮蔑に満ちた表情で罵声を浴びせた。

≪さあ、殺せ! 殺せ!≫

 東条の頭に響く声。
「頼む、俺を好きだといってくれ。愛してるといってくれ。……誰か俺が必要だといってくれ……」
 東条は泣きながら呟くようにそう言って立ち上がる。

≪誰もお前を愛しはしない。誰もお前を必要とはしない≫

…そんなこと言うなよ。

≪お前は生きていてもしょうがない人間だ≫

…やめてくれ。

≪お前は、産まれたときに死ぬべき人間だったんだよ!≫

…よせ!

「寂しいんだ……。一人は嫌なんだ……。誰か、誰か俺を理解してくれよ…」
 東条は子供のように泣きじゃくりながら、再び女のほうへと歩み寄る。そして、おびえた表情の女の襟首を、おもむろに掴んだ。
「なぜ着飾る? お前はただの醜い肉塊じゃないか!」
 低く歪(ゆが)んだ東条の叫び声。……否、すでにその声は東条のものではなかった。
「ち、ちょっと放して!」
 女は青ざめた表情で、東条の手を引き剥がそうとするが、その手はびくともしない。
「知らないだろう? 自分の素顔を知らないんだろう? 皮膚と言う化粧の上に、更に化粧塗ったお前達は自分の本当の素顔を知らないんだろう? 醜い己の姿を知らないんだろう?」
 東条は呪文のように呟きながら、突然襟首を掴んでいた手に力を込めて、女の着ていた服を一気に引き剥がした。
「きゃぁ!」
 女は悲鳴を上げて、一歩あとずさる。その体はすでに恐怖のためか、がたがたと震えていた。
「さあ、俺がその化粧を綺麗に落としてやるよ」
 東条はそう言って、再び女の体を両手で突き倒し、ベットに押し倒した。そして、今度は胸にあった女のブラジャーを引き剥がす。女の乳房が露骨に揺れて、顕(あらわ)になる。
「胸の膨らみは性別を表すものの一つだ」
 東条は言いながら、女の乳首を舌で一なめした。そうして今度は、女の着ていたズボンをパンティーと同時に引き剥がす。
「ひっぃ!」
 女の怯えた悲鳴。
「性別を識別する一番簡単な方法は、相手の性器を見ることだ。……お前にはペニスがない。そう、お前にあるのはヴァギナだな。……フフッ、そうだ、お前は《女》だ」
 そう言って、今度は女の性器を右手でまさぐる。
「お前の汚れた醜いヴァギナの中で、新しい生命は育つんだよ。汚れた中で育ったものは
汚れたものにしかならない。だから人間なんてみんな汚れていて醜いんだよ」
 東条はそう言ってから、上着の右ポケットに手を入れた。そうしてそこから小型のナイフを取り出す。
「ああ、お願い、許して! お願いだから助けて! 私が悪かったから」
 女は泣き叫びながら東条に懇願するが、それに構わず東条は女の首筋にナイフを当てた。
「生きることに何の意味がある? なぜ生きたいと思う? 俺には理解できないな……」
 東条は呟くように言ってから、無表情のまま女の首筋に当てたナイフを引き上げた。
「ヒイッ!」
 一瞬の女の悲鳴。
 首筋から飛び散る鮮血。
 痙攣する裸体の女。
 全てが短い時間の中である。
「ああ、なんてことを……」
 そう呟く東条の声は、いつものものに戻っていた。

≪さあ、その女の化粧を綺麗に落としてやろう≫


【第四の犠牲】

 午前七時……。

「なんてこった……」
 北川誠二はベットに横たわった裸体姿の女の死体を見ると、思わずそう呟いてしまった。頚動脈を掻っ切られ、顔面の皮膚をそぎ落とされた女の死体。
…四人目の被害者。
 一見して北川はそう悟ると思わず怒りを覚え、握りこぶしを固く作った。
 ラブホテルの一室。金色に染めた髪。艶のある肌。やはり被害者は若い女のようである。女の横たわるベットは今まで以上に鮮血で染まっていた。
「まさかこんな早くに次の犠牲者が出るなんて……」
 いつものように岸省三が北川のそばに歩み寄りながら、そう呟いた。
「これで警察の面目も丸つぶれだな。きっと夕刊には『無能な警察』と見出しの付いた記事が書かれるだろうな」
 北川は自嘲気味に笑って、自分の頭を右手で撫で上げた。
「マスコミは犯人の事を《フェイスキラー》だとか言って騒いでますよ。……まったくおき楽なものですね」
 岸は言いながら肩をすくめて、大きな溜め息を吐く。
「岸君、早急に被害者の身元の確認をしてくれ。それと今晩から、夜間のパトロールを強化する。特にモーテル付近とこの飲み屋街だ。不審人物を見かけたら直(ただ)ちに職務質問をすること……。私は暫くこの近所で聞き込みをしてみるよ」
「了解しました」
 北川の言葉に岸は頷いた。


【犯罪心理学的な見解】

 午後九時過ぎ……。

 今日は月曜日である。大体において週末に客の入りがそれほど期待できないのだから、週初めはそれこそ閉店まで、客が誰一人来ないというのも珍しくはない。そんな日は深夜過ぎまで理沙とカウンターの中でぼうっとして時間が過ぎるのを待つしかない。
 井筒春子は、いつものように自分の店の扉を開けた。すると、意外なことに若い男の客が一人入っていて、理沙と楽しげに会話をしている姿が目に入った。
…まさか東条、くん?
 一瞬そう思ったが、春子に気付いた若い男の客がこちらを向いて、そうでないことに気付いた。
「おっ、ママ、おひさしぶりっす」
 若い男は扉に立つ春子に向けて、グラスを上げる。
「あらっ、柊(ひいらぎ)くんじゃないの。久しぶりねぇ」
 春子は思わずそう声を上げた。
 柊直哉(ひいらぎなおや)……。まだ二十代の若い男である。確かフリーライターいうもの珍しい仕事をしている男だ。少し前までは、頻繁にこの店に顔を出していたが、ここ最近姿を見かけなかった。無論、歳盛りの若者が、このような寂(さび)れた店に頻繁に足を運んでいたのは、恐らく理沙が大のお気に入りだったからであろう。若者を満足させる店は近所にいくらでもあるのだ。そうでないのなら、この店の雰囲気が好きなのであろう。しかし、二十代の若者にそのような中年じみた感性があるとは思えなかった。
「柊くん、イギリスに取材に行ってたんだってぇ」
 理沙が春子のグラスを用意しながら言う。
「へぇー、なんの取材?」
 春子はバックを置いて、カウンター内に入りながら尋ねる。
「それは秘密。……と言っても、大した取材じゃなかったんだけどね。退屈な仕事だったよ。理沙ちゃんと話しているときのほうがよほど充実しているね」
 柊は言いながら、ママのグラスに自分のボトルを注いだ。
「らしいよ、リサっち?」
 春子は理沙に言う。
「う〜ん、ちょっとウザイかも」
 理沙はそう言って笑う。
「おいおい、一応僕は客なんだぜ。もうちょっと希望の持てる返答を返してほしいね」
 柊は言ってから、顔を顰めて肩をすくめてみせた。
「まあ柊君、『リサっちにフラれた記念』と言うことで、とりあえず乾杯」
 春子は揶揄するように言いながら、柊のグラスに自分のグラスをあわせた。
「はぁー、嫌な記念日だ」
 柊はわざとらしく肩を落とし、グラスをあわせる。
 暫くは三人で、たわいもない会話をしていたが、ややあって春子は、今日の夕刊で見た記事を思い出し、思わず口を開いた。
「あっ、そういえば……、四人目の犠牲者が出てたね」
 春子が言うと、理沙が驚いたような表情になる。
「えっ、本当? ……わぁー、最悪」
「なになに、四人目の犠牲者? 最悪って?」
 柊が興味ありげに尋ねてくる。
「ああ、そうか。柊君、日本に帰ってきたばっかりだから《フェイスキラー》の事、知らないんだぁ」
 と、理沙。
「フェイスキラー? ……なんじゃそれ?」
「今、ここら近辺を徘徊している殺人鬼よ。水商売をしている女の子ばかりを狙っていてね、殺したあとに、必ずそのこの顔の皮をはいでるって言う異常者なの」
 春子は少しだけ真面目になって、そう言った。
「ははぁ、なるほどね。どおりで今日は、警察をよく見かけるわけだ」
 柊は納得したように何度も頷く。
「その殺人鬼の犠牲者の四人目が、今日みつかったってわけ」
「ふーん、四人も殺しちゃってるんだ。そりゃあ、ちょっとした大事件だね」
 柊は他人事のように呟く。
「ちょっとしたどころじゃないよ。おかげで私なんか不安な毎日を送ってるんだから」
 理沙がふくれっ面になって言う。
「…そうは見えないけど」
 と、柊。春子も頷く。
「もう、二人とも最悪ぅ〜」
 理沙は肩をすくめて、苦笑いを浮かべた。
「なぁに、心配するなって。もしそんな事があったら、僕がリサっちを守ってあげるよ」
 柊はトンッと自分の胸を叩いた。
「あてになんな〜い」
 理沙は顔を顰めて言う。
「そう言えば柊君、昔、犯罪心理学を勉強したことがあるって言ってなかった?」
 春子は思い出して、そう尋ねる。
「まあね、普通の人よりは少し詳しいかも」
「じゃあさ、一連の犯行から、ある程度の犯人像とかが想像できるんじゃないの?」
「絶対無理っぽい!」
 理沙がここぞとばかりに口を挟む。恐らく先ほどの仕返しのつもりなのだろう。
「確かに、難しいな。第一、事件に対する情報が少なすぎるよ」
 ブランデーを口に運びながら、柊は素直にそう認める。
「私が知ってるのは……、まず、被害者は皆、二十代の若い子で水商売の仕事をしている女の子。それと、犯人は被害者を殺したあとで顔の皮をはいでる……。殺害方法は、鋭利な刃物で頚動脈を切断……。新聞や週刊誌に載っていたのはこんなところかな」
 春子は言って、理沙の顔を見る。
「うん、私が知ってるのもそんなもの」
 理沙は頷く。
「なるほどねぇ……。で、殺された女の子達って、どこで死んでたの?」
 柊が眉間に皺を寄せながら尋ねてくる柊は、しかしなぜかわざとらしい。
「ラブホテルって言うのがほとんどみたいよ。中の一人は、神社の境内で見つかったらしいけどね。まぁ、人通りのないところで全裸姿で見つかったって言ってから、いかがわしいことの最中だったんでしょう。……昨晩殺された子も、この近くにある『ミスティー』っていうラブホテルみたいだし……」
 春子は答える。
「犯人は、変態男だね」
 理沙は言い切る。
「性交の痕跡はあったの?」
 柊が理沙を無視して尋ねる。
「セイコウって、なに?」
 理沙があっけらかんとそう尋ね返してくるのに対して、柊は大きなため息をついた。
「はぁー、今時の若い子は上等な言葉を知らないからなぁ。そのくせ、セックスには興味深々で誰彼構わずにすぐに寝る」
「ああ、エッチのことなんだ。……でもなんか、それムカツク」
「いやいや、別に君に言ってるんじゃないよ。僕は、現代社会においての愛の薄さを嘆いて言ってるんだよ」
「……やっぱりムカツク」
 理沙は頬を膨らませ、柊を睨んだ。それを見て春子は少し笑うと、柊のグラスにブランデーを継ぎ足す。
「そこら辺は、よくは知らないけど、現場には精液なんかは残ってないみたいよ」
「なるほどね……」
 柊は頷いて、煙草をくわえた。
「いまのところ、殺された人たちに繋がりはないんだよね?」
 理沙が春子に尋ねてきたので、春子は頷いた。
「ほぼ無差別の殺人か……。そりゃあ警察も手を焼くだろうな」
 柊は呟くように言って、紫煙を吐き出した。やはりどことなく柊の態度がとぼけた感じがするのは気のせいだろうか。
「ねえ、こう言う犯人って《快楽殺人者》とかいうんでしょう?」
 理沙が顔を顰めながら柊に尋ねる。
「さあ、どうだろうね。快楽殺人者にもいろいろなパターンがあるらしいよ。……人を殺すことで性的快感を得る人間……。このパターンの人間はほとんどの場合、正常なセックスでは不感症の場合が多いらしんだ。人をナイフで刺したり、首を絞めたりして始めて性的な快感を覚える。……男の場合はその瞬間に初めて射精したと言う殺人者もいる。……他にも人殺し自体を楽しんでる人間もいるなぁ。要するにゲーム感覚で人を殺していくんだ。ほら、人を殺したあとで、わざと意味ありげなメッセージを残していく犯人。こういう輩はそのパターンに入るんだろうね。このパターンの人間は頭のいい奴が多いんだ」
「他には?」
「う〜ん、これはかなり特殊なパターンになるんだろうけど《意思のない連続殺人鬼》なんてのもいるよ」
「どういう意味?」
 理沙は聞きながら、メンソールの煙草をくわえる。
「自分ではその人間を殺した記憶がないんだ。……でも、朝目覚めてみると自分の体が誰かの血で染まっていた……」
「それって、二重人格者って奴じゃないの?」
 春子は尋ねる。
「まあ、一般的にはそういわれてるけど、実際に《二重人格》って言うのは厳密じゃないんだ。と言うのもね、自分の制御しきれない人格が一人でもいれば、少なくともあと何人かの人格が潜んでいるらしいんだよ。だから、《多重人格》っていう方が正しいんだ。心の中に隠された潜在意識が発達したもの。……多重人格症状の実例でもっとも有名なのは『イブの三つの顔』と題された症例かな」
「どんな話?」
「えっとね……、二十五歳の主婦イブ・ホワイトさんは原因不明の頭痛と、どこからか聞こえてくる声に悩まされていたんだ。この声の主が、彼女の第二の人格イブ・ブラックだった。イブは十九歳の頃に結婚したらしいんだけど、不感症のため結婚生活は決して幸せなものではなかったらしいね。イブ・ブラックは、彼女が第二子を流産した頃から、時々彼女が知らない間に出現していたんだ。プロテスタントのホワイトが慎み深く控えめな性格であるのと対照的で、第二の人格イブ・ブラックはわがままで見栄っ張り、というまったく逆の性格だった。……そして治療が進むうちに、また一人の人格が現れたんだ。その人格はジェーンと名乗り、以後、彼女の人格が中心となっていき、ホワイトとブラックの存在は消滅してしまった。要するに、今まで生きてきた自分とはまったく違う人格になってしまったわけだね」
 柊は、言いながら今まで吸っていた煙草を灰皿でもみ消し、ブランデーを一口口に含んだ。
「なんかそれって、いやだね……」
 理沙が複雑そうな表情を浮かべる。それに対して、柊は軽く肩をすくめて見せた。
「この話には、まだ続きがあってね……、その後ジェーンは再婚後に自殺を図ったんだ。でも、それは未遂に終わったんだけど、その途端に第四人格のエベリンが出現したんだよ」
「四重人格……」
 春子は呟く。
「興味深いのはね、イブ・ホワイトはブラックの存在を知らないが、ブラックの方はホワイトの事をよく知っていたってことなんだ。それと、第三人格のジェーンは、ホワイトとブラックをよく知っていたけど、彼女達はジェーンの存在を知らなかった。他にも、ホワイトはジェーンと交代することができたんだけど、ブラックとジェーンはそれができなかったらしい。……それらを踏まえて考察してみると、ホワイトとブラックは正反対の人格であり、ジェーンは、よりホワイトの人格を強く受け継いでいて、なおかつ両者を統合した人格であったと考えられる。再婚したジェーンもまた、ホワイトと同様に不感症だったらしいんだけど、そのことが両者の近さを示しているのかもしれないね。……要するに、自殺未遂という出来事を通して、文字通り、《生まれ変わる》ことがなければ、彼女達の病は癒えることがなかっただろう」
 柊はそう言い終えて、再び新たな煙草をくわえた。
「本当にそんなことってあり得るのかしら……?」
 春子は首を傾げる。
「さあ、それはどうだろうね。……もっと信じられない実例もあるよ」
「どんな?」
「イブの場合、確認された人格は四人だった。でもね《極めつけ》はシビルって言う若い女の子に見られたものなんだ。彼女の症例は、シビルの知らないシビルの中の《他人》が次から次に出現して、ついには十六の人格を数えたという信じられない例もあるんだ。……イブの場合と同じようにシビルもまた、生真面目で道徳的な性格だったらしい。でも、それは彼女があまりにも一面的で枠の狭い人生を送ってきた事を示す表面的な顔でしかなかったんだ。シビルの例で特徴的なのは数が多いばかりではなく、その中に《男の子》が二人混じっていたことなんだ」
「そんなことが、あるの……?」
 と、理沙は驚きの表情をする。
「僕達の心の中の意識されない部分は、非常に広大だよ。……男女の性を分けるものは、第一には肉体的な違いだけど、人間は性というものを《観念》としても持ち得る。だから、シビルが心の中に《男の子の心》を抱えていたとしても不思議はないと思うよ。実際に、肉体は男だけど心は女という人間、勿論、その逆もあるけど……、今時珍しくないだろう?」
「オカマとオナベ…?」
 理沙は呟いて、軽く肩をすくめ春子を見る。
「性同一性障害ともいう」
 柊は苦笑いを浮かべる。
「確かに、そういう人っているよね。……昔、それっぽい人が何回か店に来たことがあるわ」
 春子がそう言うと、理沙は笑う。
「ああ、いたよね。名前なんて言ってたっけ? あのオカマっぽい人」
「…窪(くぼ)、とか言ってなかったけ?」
 春子が答えると、理沙ははしゃぐようにして手を叩いた。
「そう、そう! そんな名前の人だったね。いい《カモ》だったんだけどなぁ」
 そんな理沙を見ながら、春子は柊のほうへ目を移す。普段なら柊もこんな時は大声で笑うはずなのだが、どうやらそうではないらしく、目を細め物思いにふけったような表情をしている。
「人間の心はガラスと一緒さ。一度割れてしまうと修復するのは難しい。そうだな、その破片に自分の知らない何か他のものが映りこむ事だってありえる。……魔鏡の破片か……」
 柊はそう言って、グラスに残ったブランデーを一気に飲み干した。


【新たなる事実】

 四月二十日 午前十時…。

 北川誠二は、デスクに座って珈琲を飲んでいた。最近寝不足のせいか、急に睡魔が襲ってくるため、特別に苦い珈琲を用意させていた。
 そんな時、突然、岸省三がつんのめりそうな勢いで北川のそばまで駆け寄ってきたのである。
「北川警部、被害者四人に繋がりがありましたよ!」
 そんな岸の第一声を聞いて、北川は思わず立ち上がった。
「岸君、本当か?」
 北川は眉間に皺を寄せて尋ねる。
「ええっ、先ほど解ったことなんですけど、被害者の四人はある《サイト》で繋がっていたんですよ」
「サイト?」
「インターネットです。……昨日死体で見つかった日下部佳子(くさかべよしこ)が持っていた携帯電話で、そのことが解かったんです。どうやら水商売をしている女性が語り合うと言うホームページがあるようでして、被害者の四人はそこにあるチャットで何度か書き込みをしていたみたいです」
 岸は少し興奮した様子で捲くし立てるように言う。
「と言うことは、犯人もそれに参加していたと言うこともじゅうぶん考えられるわけだな」
「ええ、そうです。フェイスキラーをとっ捕まえるのも時間の問題ですよ」
「よし、名誉挽回だ! 五人目の犠牲者が出る前に全力で犯人と思われる人間を洗い出せ」
 北川は強い口調で言う。
「はい、勿論です! ……さっそく今から捜査にいってきます」
 岸も強く頷いた。



【盗撮】

 正午過ぎ……。

 加賀美庄司(かがみしょうじ)は本来なら、この時間帯は仕事中のはずであった。しかし二時間前、加賀美の携帯に電話が入った。電話の相手は柊直哉……。否、本名は別にあるのだが……。 柊の声を聞くのは二年ぶりであった。中学の頃から人付き合いの悪さで有名な柊のほうからコンタクトを取ってくるのは、実に珍しく、加えて柊が加賀美に久しぶりに会いたい、などといってきたから加賀美はなおさら驚いていた。しかし、彼とは中学時代からの悪友である。仕事のほうは他の者に頼んでおけばいいし、別に柊の誘いを断る理由もなかったので、加賀美は誘いに乗ることにした。
 薄暗い照明、小音量で流れるクラシックジャズ。高校時代、加賀美たちがよく通っていた喫茶店である。あの頃と変わらず客はいない。もうすぐ柊もこの喫茶店に姿を現すはずである……。 加賀美は煙草をふかしながら、柊が来るのをゆったりと待っていた。
 柊が姿を見せたのは、加賀美がここへ来て二十分ほど経った後だった。
「相変わらず、時間にルーズだな」
 加賀美は第一声に柊にそう言って、皮肉な笑みを浮かべた。
「ハハッ、僕の腕時計はいつも二十分遅れているんだよ」
 柊は呑気にそう返事を返すと、加賀美の向かい側に腰を下ろす。
「しかし、珍しいな、お前から連絡をくれるなんて。一体、何を企んでんだ? 俺に女を紹介してほしいのか? それとも金か?」
 加賀美が紫煙を吐き出しながらズボラにそう尋ねると、柊は肩をすくめて煙草を取り出す。
「加賀美……、お前、まだラブホテルの経営者やってるの?」
 唐突な柊の質問に、加賀美は一瞬面喰って咳き込みそうになった。
「や、やってるけど……、それがなんだよ?」
 加賀美がそう答えると、柊は一度気のないふうにふーん、と返事をして煙草に火をつけた。
「この前さ、お前のホテルで女の子が殺されてたよね。……フェイスキラーだっけ?」
「あ、ああ……」
 加賀美は戸惑いながら頷く。確かに昨日の早朝、加賀美の経営するラブホテル『ミスティー』で、女の他殺体が発見されていた。どうやら顔面の皮を剥ぎ取られた死体らしく、今、世間を騒がせている《フェイスキラー》とか言う殺人鬼の仕業らしかった。おかげで加賀美は昨日、何時間もかけて警察の質問に答えなければいけない羽目になったのである。無論、そのせいで客の入りが悪くなるのは明白であろう。加賀美にとっては迷惑この上ない話だ。
「加賀美、お前さ、犯人見ただろう?」
 何故か柊はゆっくりと言葉をつむぐように質問してくる。
「ば、馬鹿だな。犯人見てたらとっくに警察に言ってるよ。第一、俺が犯人を見てたとしても、俺のホテルはカップル内では人気のデートスポットなんだぜ。だから客も多いわけ。だから、いちいち客の顔なんて憶えちゃいないよ。まあ、そいつが私はフェイスキラーです、とでも言ってホテルに入っててくれれば話は別だけどな」
 加賀美は冷静を装ってそう答える。
「へえー、そうなんだ。……でも、《ビデオ》には映ってたろう?」
 柊が表情を変えずにそんな事を言うので、加賀美は再び咳き込みそうになる。
「ビ、ビデオ? ……な、なんのことだよ。うちは防犯カメラなんてつけてないぜ」
「あれ? 隠すことないじゃん。僕達は中学時代からの友達じゃないか。……知ってるんだよ、お前が全室に隠しカメラを設置しているのを……。それをウラで捌(さば)いてるんだろう? 相変わらずアクドイなぁ。お前のホテルに入っている客はそんなこととはつゆ知らずにセックスに勤しんでる。それがウラビデオになって流出してるって言うのにね。出演料がただのAV男優とAV女優だ」
 柊はそう言って一頻り笑うと、そこでようやく煙草に火をつけた。
「お前、誰にそんなこと聞いたんだよ?」
 加賀美は上目使いで柊を睨む。
「なぁに、心配は要らないさ。昔のよしみで警察には黙っといてやるから」
「……チッ、ビデオが欲しいのかよ。フンッ、二、三本お前にくれてやるよ……。大体、俺はちゃんとビデオに映ってる奴らの顔には、モザイク処理をしてやってるんだぜ。それだけでも良心的だろう?」
 加賀美は観念してそう言うと、煙草を灰皿でもみ消した。
「良心的? それは違うだろう。《保身》のためじゃないのか? お前のホテルに来た客が流出したビデオを見ないとは限らない。もし、そのビデオを見た客が自分が映ってると解れば、お前は訴えられかねない……」
 柊は肩をすくめて言う。
「ハンッ、なんとでも言えよ」
「ハハッ……。しかし、残念ながら僕は、他人のセックスには興味がないんだ」
「じゃあ何が目的だ? 金か? お前は友達を強請(ゆす)るつもりか?」
 加賀美がそう言うと、柊は首を横に振る。
「……僕が欲しいのは、フェイスキラーの映ってるビデオだ。あるんだろう?」
「悪いが、それはできねぇな」
 加賀美は即答する。
「どうしてさ? そんなもの売り物にならないだろう。まさかマスコミにでも譲るのかい? そんなビデオをお前が警察に贈呈するとは思えないし」
 柊は首を傾げながらそう聞いてくる。
「お前、馬鹿だな。あんなビデオは滅多に手に入らないんだぜ。それこそウラビデの何倍もの価値になる……。まあ、その代わりちょいと危険だけどな」
「ははん、なるほどね。……《スナッフ・ピクチャー》にするつもりなんだ……」
 そう言って、今度は柊が加賀美を睨んだ。
「そうだ……」
 加賀美は柊の視線を受けたまま頷く。『スナッフ・ピクチャー』とは、ヤラセや作り物ではない《本当の殺し》のシーンが入った映画のことである。マニアの間ではそのような映画はかなりの高額で取引されているのだ。無論、本当に人を殺しているシーンを撮るのだから、それは間違いなく非合法なことではあるが……、それでも、本当に人を殺しているビデオが偶然とは言え、加賀美の手に入ったのである。これを利用しない手はない。
「そうか、スナッフ・ビデオか……。仕方ない、そうなれば話は別だ。僕は今から警察に言って話をすることにしよう」
 柊は無表情で言いながら、席を立ち上がる。
「お、おい、待てよ! 友達を警察に売るのか?」
 加賀美も慌てて立ち上がって、柊を引き止める。
「売る、なんて人聞きが悪いなぁ。アダルトビデオならともかく、人殺しのビデオを作るなんてまさに人道をはずれすぎてるよ。これは君のためなんだ」
「ち、ょっと待てよ」
 加賀美は柊の手を掴む。
「加賀美、往生際が悪いぞ。……まったく」
 柊は肩をすくめる。
「……そうだなぁ、僕を引き止めたければいい事を教えてあげよう」
 柊はわざとらしくそう言って、無邪気な笑顔を作った。そして、その笑顔のままでこう言った。
「僕を殺すか、僕にそのビデオを見せるか……」
 それを聞いて加賀美は呆れ、再びどかりと椅子に座った。
「チッ、テメェの性格の悪さは天下一品だよ。……解った。今度の土曜日、ここで落ち合おう」
 加賀美がそう言うと、柊は再び肩をすくめた。
「良かったよ。お前に殺す、って言われなくて」


【告白】

 四月二十一日 午後七時半……。

 水曜日……。本来なら、東条が『流星群』に姿を現す曜日ではない。しかし、東条はそのスナックのカウンターに座ってブランデーを飲んでいた。無論、客は一人もいない。
「珍しいよね、東条君がこんな日に来るなんて」
 理沙が静かにそう言った。
 沈黙……。
 今日はやけに静かだ、と東条は思う。
「君に……、君に逢いたくなったんだ……」
 東条はぽつりと言う。別に理沙の気分を上げてやろうと思って言った、うわべだけの台詞ではない。それは東条の本心であった。しかし、理沙は普段から客などに何度もそういわれたことがあるのだろう、作ったような笑顔でありがとう、と言葉を返す。
…そうじゃないんだ。
 東条は理沙に気付かれないように溜め息を落とした。
…どうして俺は、よりによって水商売の女なんかを好きになった?
 誰も好きにならないと決めていた。
 自分は誰からも愛されない。
 自分は誰からも必要とされていない。
 自分は生きていてもしょうがない。
『そう《思い込んでる》自分を変えなきゃ』
 誰かが昔、東条に言った言葉だ。でも、東条はそれができなかった。もし、自分を前向きな性格に変えることが出来たなら、東条の《存在》は恐らく消えてしまうだろう。自分が死んでしまうことに抵抗はなかったが、消えてしまうのは嫌だった。
…だから、誰も好きにならないと決めたのに。
 誰からも好かれないのなら、自分が好きにならなければいいのだ。そうすれば傷付くことなどないのだ。
…簡単なことじゃないか。
 しかし、それができなかった。しかも、よりによってその相手が《水商売》をしている女なのだ。……彼女達の職種は馬鹿な酔っ払い男達を相手にする商売。そう、リピート客を獲得するために、男達に気に入られなければならない仕事である。だから、嫌な客が来ても彼女達は笑顔を崩さず、素早く男達の性格を見抜き、それに見合った女を演じるのだ。そう、愛人でもいい、恋人でもいい、彼女達は男達の《ゴッコ遊び》に付き合えばいいのである。方法はなんだっていいのだ、とにかく男達に気に入られなければならない。そうすれば、やがて男達は錯覚と勘違いに陥り、この女は自分のことが好きなのではないか、と思い始める。そうなれば、彼女達の商売は成功したといえるだろう。男達はその女をモノにしようと躍起になり始め、その店に頻繁に通うようになり、高価なプレゼントや金を渡しに来たりなどする。たとえその男達が、下心見え見えの男だと解っていても、決して嫌な顔などせずに、笑顔でそれを受け取るのだ。大雑把にいえば、水商売の女たちは男達を《騙す》のが仕事だ。……少なくとも東条はそう思っている。
 それなのに、東条は理沙と言うスナックの女を好きになってしまった。しかし、そうとわかっていた分、東条は冷静でいられたのかもしれない。

≪それ以前の問題だろう?≫

 だからなのだろうか、東条は理沙に対して下心もなかったし、なんの見返りも求めなかった。ただ純粋に彼女のことが好だった。別にこの店に来て、彼女となんの会話を交わせなかったとしても良かった。彼女が笑ってくれれば、東条はそれでよかった。彼女が働いている姿を見ていればそれでよかった。ほんの一瞬でも、彼女の姿が見られればそれで良かったのだ。
『こういう仕事してると、軽い女に見られちゃうのよ』
 いつか理沙が、東条に言った言葉だ。東条はプライベートな彼女をあまり知らない。俺はそうは思わないよ、などと気の利いた台詞をいえなくはなかったが、理沙に対して嘘はつきたくなかった。だからその時、東条はそれが仕事だろう? と答えたのである。否、実際、彼女の言葉をどこまで信じていいのか解らないでいるのだろう。無論、いくら水商売とはいえ、人間であるのには違いないのだから、本音が出ることもある。それを東条は見極められないでいるのだ。
…俺は信じない。誰も信じない。

≪そうだ、誰も信じるな!≫

…俺は臆病者だ。

≪傷つくのが怖いからだろう?≫

…その通りさ……。

 例え理沙に、自分の気持ちを告白したとしても、彼女は決して嫌だとは言わないだろう。勿論、良いとも言わない。嫌だといえば、東条がこの店に来なくなる可能性が大きいし、そうすれば店の売り上げは落ちてしまう。だから彼女は決して『YES』とは言わない。
…俺は知ってるさ、君が考えていることぐらい。どうせ俺は君にとってはいいお客でしかないんだ……。

≪俺はお前の全てを知っている≫

…そうだ、理沙は自分のことをほとんど話さない。そのくせ俺のことは色々と聞きたがる。

 それは東条に関心があるからではないだろう。相手の性格を見抜こうとして東条の事を色々と聞きたがるのだ。例え、東条が理沙の事を聞いたとしても、彼女が本当の事を言っている確証など何も無いのだ。

…じゃあ、何故俺は、理沙のことが好きなんだ?

≪騙された《振り》をしてるつもりが、本当に騙されているのさ≫

…そうじゃない。

≪モテない奴ほど、すぐに水商売の女に夢中になる≫

…そうかもしれない……。俺は馬鹿だ。

≪理沙はお前に優しいか? ハンッ! 人間の優しさなんて、常に見返りを求めているものなのさ。それが本当の優しさと言えるのか? そんな感情は人間にとって不必要なんだよ! 『優しさ』なんて感情よりも、『強欲』という感情のほうが人間にはお似合いさ!≫

…そうだな。

≪さあ、そろそろ決めようか、《五人目》を!≫

「東条君? どうしたの? 顔色悪いよ……」
 理沙が心配そうな表情で東条の顔を覗き込む。
…幻だ。
 東条は目を瞑る。
…否、俺が幻なのか?
「東条君……?」
 東条は理沙の呼びかけには返事をせず、代わりにグラスに残っていたブランデーを一気に飲み干した。
「理沙ちゃん、もし俺が君のことを本気で好きだったらどうする……?」
 東条は理沙の顔を見つめ、真摯にそう尋ねた。
「えっ? ……ど、どうしたの?」
 理沙は不意を突かれたような表情だ。
「真面目な話だよ。……そうだな今度の日曜日、一緒にドライブにでも行こうか?」
「あ、ああ、今度の日曜日は、もう予定が入ってるの」

≪ほらみろ! 思ったとおりだろう?≫

…うるさい。……そんなことは解ってたさ。

≪さあ、はっきりさせよう! 五人目だ。この女が五人目だ。それがお前の死へとつながる!≫

「君は何も知らないんだな……」
 東条は理沙に言う。
「なにを……?」
 理沙は訝しげだ。
「俺から見れば、君は幻なんだ。でも、君から見れば、俺は幻さ……」

≪俺はお前さ≫

…そうだな……。
 東条は少しだけ俯いて、再び理沙の顔を見た。
「俺、理沙ちゃんのことが好きだ……。こんな事を君に真面目に言うこと自体が馬鹿だって解ってる。でも、ちゃんと言っておきたかった。俺の気持ちを、君に伝えたかった……ずっと」
…俺はみっともないな。
 東条は言いながら、自分でそう思った。
 刹那の沈黙……。
 不意に理沙の言葉が聞こえた。
「どうして自分の気持ちを私に伝えることが馬鹿だと思うの?」
 そう尋ねる理沙は、本気で怒っているような表情だ。
「……私が水商売をしてるから? そう思ってるのなら私は今すぐこのグラスをあなたに投げつけてこの店を追い出すわ。……偏見されることには慣れてる……。だから、東条君が私の事をどう思ってたって構わないよ。でも、私が女であることに変わりはないの。だからそんな告白のされ方はイヤよ。なんだか最低」
 理沙にそう言われ、東条は彼女を傷つけた事を知った。
…俺はいつもそうだ。
 相手を気遣って言葉を選んでるつもりなのに、結局は相手を傷つけてしまう。
…俺は自分のことしか考えていないのか?
 自分が傷つくのは勿論嫌だった。しかし、相手を傷つけるのも同等に嫌だった。
…それならどうしてなんだ?
 解らない。一体、本当の自分はどこにいるのだろう……。
 しかし、それと同時にこれでいいのだ、と東条は思う。何も変わらないこと、何も変われないこと……、それら全てが自分の背負う運命なのかもしれない。
…俺は、誰も好きになっちゃいけないんだ……。
「じゃあ、俺は君になんて言えばいい? 教えてくれないか。そうすれば、君は俺の事を好きになってくれるのか? 君を好きだという気持ちだけじゃダメなのか? 君は何を求める? お金か? 高価な宝石か? ルックスか? 優しさか? それともセックスか? ……全部まやかしだよ。俺はそんなまやかしさえも持っていないんだ。……だから君を好きだって言う《言葉》しか伝えられない……。俺の言い方が悪かったんなら謝るよ」
 東条は俯いて、そう言う。
…俺は、何を言ってるんだ?
 頭の中が酷く混乱している。
「私、東条君の事、何も知らない……。だから、東条君の気持ちには答えられない」
 理沙も俯いて、そう言う。
…そうさ。
「君は……、俺の事を知らない。でも、俺は君の事を知っている」

≪俺はお前の全てを知っている≫

「えっ?」
 理沙は顔を上げ、東条の顔を見つめる。
「俺さ、生まれたとき、母親のへその緒が首に巻きついていて息をしていない状態で胎内から出てきたんだ。本当は死んでいてもおかしくない状態だったんだよ。……でも、俺は生かされた……。別に産まれたくて生まれたわけじゃない。だから生かされたことに少しも感謝できないんだ。それどころか、そのまま死んでいればよかったと思っている。そうすれば、こんな思いをせずにすんだんだ。こんなまやかしの世界なんて知らずにすんだんだ……」
 東条は言いながら、涙を流している自分に気付いた。
「……理沙ちゃん、こんな俺は君の目に歪んで映るか? お願いだ、俺を助けてくれ……、俺を救ってくれ。……もう、一人は嫌なんだ。君だけでもいい、君ひとりだけでじゅうぶんなんだ、俺を理解してくれ……」
 東条の目からは涙がとめどなく溢れてくる。自分が情けなくてしょうがないのだ。
「東条君……」
 呟く理沙の瞳は、哀れみの色が浮かんでいた。否、侮蔑の瞳だろうか。それともただの幻か。

≪もう思い残すことはないか? そろそろ幕を閉じようじゃないか≫

…待ってくれ、もう少しだけ……もう少しだけでいい。
 東条は大きく一度だけ深呼吸をして涙を拭った。そうして、席を立つ。
「俺、そろそろ帰るよ。……ごめんな、変なこと話しちゃって」
 そう言って東条は少しだけ微笑んだ。
「東条君……、あなたはもしかして……」
 理沙がはっとして何かを言いかけたが、東条がそれを途中で制した。
「この前、君が言ってた《フェイスキラー》って言う殺人鬼……。今度、そいつが誰かを殺したときは、その時はもう顔の皮を剥いだりしないよ。……否、《剥ぐことができない》んだ」
 東条はそう言って、メンソールをくわえた。
「……今度の土曜日、またここに来るよ……」
 そう言い残し、東条は深く目を瞑った。


【雨の土曜日・1】

 四月二十四日 午後六時過ぎ……。

 土曜日……。

 柊直哉は愛用のジッポーライターで煙草に火をつけてから、一度だけ煙草を吸うと狭い自室の部屋の電気を点けた。本来ならば、まだこの時間帯は電気を点けなくともいくばくか明るいはずであったのだが、今日はあいにくの雨のため、外はすでに薄暗かった。それに柊は未だ職務時間でもあった。しかし、そのようなことは気にならない。
…さて、世間をお騒がせする殺人鬼さんのお顔を拝ませてもらおうかな。
 柊は、先ほどジャズ喫茶で加賀美庄司に手渡されたA4サイズのクラフト紙封筒をテーブルに置くと、一旦その場に腰を下ろす。中にはビデオテープが一本はいっているはずである。
『いいか、絶対このビデオは外に出すな……。まあ、これが一般流出すればお前も警察の御用になる覚悟だけはしとけよ』
 加賀美が柊にビデオテープを渡しながら言った言葉である。
…そんなことは言われなくても解ってるさ。でも、それだけの危険を冒す価値はあるだろう?
 柊は自嘲気味に一人笑うと、封筒の中からビデオテープを取り出す。
…今時、VHSなんて古いよ。時代はDVDだ。
 そんな事を思いながら、柊はテープをビデオデッキにセットする。しかし、まだ再生ボタンは押さない。今吸っている煙草が全て灰になるまで少し焦(じ)らそうか、と思ったのだ。

 実は月曜日に『流星群』で《フェイスキラー》の事を聞いた以前から、柊はその事件を調べていた。何かと興味深い事実が多く、好奇心豊かな柊にとっては、中々に退屈な日常を離脱させてくれそうな予感を抱かせる事件のようだった。
 水商売の若い女ばかりを狙う犯人。
 被害者は殺されたあとで、顔面の皮を削ぎ落とされている。
 犠牲者は今のところ四人。
…五人目は、いつだ?
 柊は短くなった煙草を、灰皿でもみ消した。紫煙が霧のように部屋に充満している。
 柊には、ある程度の犯人像が予想できていた。そうであるから、このビデオを見て犯人の顔を見ても、さほど驚かない自信があったのだが、それでも胸の動悸が高鳴っている事を柊は感じていた。
…恐らく犯人は、中年の男だろうな。
 そう思いながら、柊はビデオデッキの再生ボタンを押す。それと同時に、外から聞こえていた雨の音が強くなる。どうやら、雨は激しさを増したようだ。
 柊は、一瞬だけ窓の外に目をやって、それから十八インチ画面の小型テレビのブラウン管を見つめた。
 ノイズ音。
 灰色の砂嵐のような映像。
 しかし、それらは一瞬で消え、ホテルの一室と思われる映像が画面に映し出された。どうやら、天井の隅に設置されたカメラのようで、大きなダブルベットを中心とした斜め見下ろしの映像だ。画像も酷く荒く、目が慣れるまでは非常に見難い。
 画面に映し出されたベットの上には、どうやら二人の人間が並んで寝ているようだ。顔はよく見えない。
 やがて片方の人間が目覚めたようで、ベットから起き上がりきょろきょろと辺りを窺うような仕草が見受けられた。
…これは……。
 未だその人間の顔はよく確認できなかったが、遠めに見ても柊の想像していた人間とはどちらにしても違う。
 ややあって、もう一人のほうも目覚めたようで、なにやら最初に起きた人間と会話を交わしている様子だ。声のほうも小さく、非常に聞き取りにくい。
 柊はテレビの音量を上げることにする。そして、画面に向かって更に目を凝らした。
…ああ、こいつは!
 ようやく二人の顔が確認できた。しかし、その刹那、柊は思わず驚愕して叫びそうになった。
 画面に映る二人は、なにやら揉めている様で、ついにはつかみ合いになっているようだ。
…馬鹿な……、そんな馬鹿なことがあるはずない……。
 柊は自分の体が震えていることに気付いた。それを止めようと煙草を取り出し口にくわえる。
 二人の人間が罵(ののし)りあう声が画面から聞こえる。そしてついには、一人が相手をベットに押し倒してから殺し、そのあとで顔面の皮を削いでいる様子がビデオカメラには淡々と映し出されていた。
 吐きけがするほどの生々しい映像だ。
 柊はそれでもその映像を見続ける。
…フェイスキラー……。
 そう呼ばれる殺人鬼の正体……。
…なんで、僕が《知っている》奴なんだ。
 頭の芯がぼうっとしている。煙草のせいだろうか。それとも、あまりにも衝撃的な映像のせいか…。
「東条薫……」
 柊は映像の中で、殺した相手の顔面の皮を剥ぎ続けるその人間の姿を見続けながら、一人呟いた。



【雨の土曜日・2】

 午後六時半過ぎ……。

「北川警部!」
 岸省三が大声で自分の名前を呼んだので、北川誠二は驚いて目を覚ました。どうやらデスクでうたた寝をしてしまっていたらしい。やはり日ごろの寝不足のせいであろう。
「どうした?」
 北川は欠伸(あくび)をこらえながら、部下である岸の顔を見る。
「被害者四人に共通する人間が、一人だけいましたよ。やはり例のサイトを通して知り合った仲間の一人のようですね」
 岸が勢い込んで言う。
「本当か……?」
 北川は目を細め、慎重に確認する。
「ええ。……名前は東条薫という二十代の若い人間ですね。住所のほうも突き止めました。犯人がこいつの可能性であるのはじゅうぶん考えられることですよ」
 そう言う岸の表情は、なにやら複雑気だ。。
「そうか……。よし、とりあえずその東条薫を重要参考人として引っ張ろう」
 北川は静かに言って、立ち上がった。
「了解です。……あっ、僕一人で行ってきます」
 岸は、何故か遠慮気味に言う。
「どうした岸君? なんか様子がおかしいぞ」
 北川は不審がってそう尋ねる。
「いえ、大丈夫ですよ。なにかあったら連絡しますんで」
 岸はそう言って、足早に部屋を出て行った。



【雨の土曜日・3】

 午後七時…。

 外は雨が降っていた。酷く暗い雲が空を覆い、それはまるで、東条薫自身の心を映しているようでもあった。
…土曜日か……。
 東条は、傘に当たる雨音を耳にしながら『流星群』へと向かっていた。いつもの週末に比べて、今日はこの飲み屋街は人通りが少ない。それはこの雨のせいなのだろうか……。
 通いなれた細い路地に入り、スナックへと向かう。
…理沙と会うのも、今日が最後かもしれない。
 そう思うと、酷く胸が苦しかった。
 いつものビルに入り、階段を上がる。
 そして扉の前に立つ。
…鍵。
 扉の鍵は閉まっている。
…当たり前か。
 この扉の鍵を持っているのは、《自分》なのだ。
 バックから鍵を取り出し、鍵を開ける。
 中は電気も点っておらず、真っ暗だ。
 もう通いなれたこの店だ。暗闇の中でも電気スイッチの場所などすぐ解る。
 東条は電気を点ける。
「いらっしゃ〜い」
 それと同時に、カウンターから理沙の明るい声が聞こえる。
…君が幻なのか? それとも俺のほうか?
いつもと変わりはない。
「コンバンハ……」
 東条はいつものようにそう言って、カウンターのいつもの席に座る。
「この前は、ゴメン……」
 東条はカウンターに座ると同時に、そう言葉を発した。
「ううん、私もゴメンね……」
 理沙も俯き加減で言う。しかし、その声にはいつもの張りがなく、なんとなく憂鬱げだ。
 それでも理沙はいつものようにブランデーと氷、そしてグラスを用意する。
「俺さ、あれからずっと考えた……。理沙ちゃんのこと、自分のこと、俺が育ってきた環境……。ずっと、イヤになるくらい考えてた」
 グラスに注がれるブランデーの琥珀色。淡々と店内に響く東条の声。
…俺の存在は《消えてしまう》のか?
 東条は刹那そう思って、酷く怖くなった。今、目に映っているものが見えなくなってしまうという恐怖。理沙と逢えなくなるという恐怖。
…人間はなんてちっぽけで、弱い生き物なんだろう。
 人は皆、何かにすがりついて生きている。しかし、あまりにも長い時間すがりついているため、結局はそのすがりついていたものさえも見えなくなってしまう。そうやって一つずつ大事なものを見失っていくのだろう。
 東条は続ける。
「……でも、いくら考えても何も解らなかったし、何も変わらなかった……。でもさ、何かを変えられなくても、時間は流れて周りはどんどん変わっていくんだ。……ずっと俺は、そんな中で取り残されているような気がしてさ、すごく不安で怖かった…。今までも、これから先もずっと一人なんだって考えると、すごく胸が苦しくなって涙が出そうになるんだ……」
 東条はそこまで言って、グラスを口に運ぶ。
「どうして、自分は一人だ、って考えるの……?」
 理沙は相変わらず憂鬱気な様子だ。東条は理沙にそう問われて、自嘲気味な笑みを浮かべる。
「こんなこと言うと、また君を怒らせるかもしれないけど……、特にこの店にいるときは理沙ちゃんは他のお客さん達にチヤホヤされるだろう? 勿論、それが疎ましく感じることがある時もあるだろうけど、それが君の自信の一つにつながっているんだと思う。誰かに好かれたり愛されたりしてる、って思えることは自分自身への自信になるんだと思う。……でも、俺にはそれがないんだ。否、もしかしたらあったのかもしれないけど、それを感じたことが一度もなかったんだ……」
「誰かに直接好きだ、って言われたいの?」

≪他人の理解を求めてるんだ。誰かに愛してほしいんだろう?≫

「そうじゃないんだ……。でも、そうなのかもしれない……」
 東条は呟くように言って、俯いた。
「……そうだな。多分、君にちゃんと答えてほしいんだと思う。だから、俺は一人の男として君に聞くよ……」
 東条はそう言って、深く目を瞑った。
…さようなら。
「理沙ちゃん、俺は……君にとってはやっぱりただの《客》だよな?」
 ややあって、東条はそれだけ言った。
 暫くの沈黙。
 憂鬱げな理沙の表情は変わらない。
 その状態のままが三分は続いただろうか、ようやく静かに理沙が口を開いた。
「東条君が……、はっきり言うことが東条君のためなら、私もひとりの女として言うね……」
 意を決したような理沙の声。
「東条君は、この店のお客さんだし、友達だよ。……私は東条君にそれ以上の感情は持てない……」
…そう、それでいいんだ……。
 東条は静かに顔を上げる。
「君に逢えて、良かった……」
 何故か東条の目からは涙が溢れてくる。
 もう、何も怖くはなかった。
…俺は消える。
 ずっと、理沙を見守り続けた自分の役目はこれで終わるのだ。
 怖くはない。でも、悲しかった。寂しかった。
…結局、何も変わらない。
 意識が薄れていく。
…あの猫は?
 この店に来る前に東条が出逢った一匹の子猫。
…あの猫はどこへ行った?

≪バッグの中さ。お前のバッグの中にいるさ!≫

…バッグ? まさか……。

 東条は慌てて自分の持っていたバックを開いた。
 血だ。そしてなにか得体の知れない毛むくじゃらの物体。
 東条はそれを掴み上げる。
 猫の顔だ。首から下のない猫……。
…お前がやったのか……?

≪そうさ、俺がやったのさ! お前と女への最後のプレゼントさ!≫

「きゃゃゃああああぁぁ!」
 理沙の悲鳴。
「この体は、俺のものだ!」
 おぞましく歪んだ東条の声。
 刹那、コトリッ、と扉から物音がした。
 そこには、青ざめた顔の春子がいた。
「リ、リサっち……? リサちゃん……」



【カオル】

 午後七時半…。

 《東条》と行書体で書かれた大理石の表札。どこにでもある団地の一角でどこにでもある普通の一戸建ての家だ。
 岸省三はその家の前でパトカーを降りると、玄関の軒下で傘をたたみ、今一度表札を確認してからインターホンを押した。


雨は未だ、激しく降り続いている……。



【変貌】

 午後七時半過ぎ……。

 井筒春子は自分の店へと向かっていた。春子にしては非常に珍しい《早出》である。と言うのも、今日の昼過ぎから行っていたパチンコが、久々に長時間の当たりを記録したのである。そのため一旦家に帰る時間がなくなり、春子は家に適当な電話をいれ、このまま仕事に行くと言う旨(むね)を伝えた。化粧や服は店にも置いてあるので、なんの差し支えもないであろう。雨であるにもかかわらず、春子は気分よく店へと向かっていた。
…そう言えば……。
 春子は歩きながら、ふとあることに思い当たった。
…今日は土曜日。
 時間を確認する。
…七時半か……。東条君がまだいるかも。
 春子は未だに見たことない、東条という名の客を思い出した。理沙の話によると、毎週土曜日の七時前後に店に来て、長くても三十分ほどしかいないという。若い男だとは理沙から聞いているが、もしかしたら少し偏屈な若者なのかもしれない。
…それに。
 東条という名の客はこの前の水曜日にも来た、と理沙が言っていた。しかし、その日からどうも理沙の様子がおかしく、この三日間、理沙はあまり元気がない様子であった。春子は何度か理沙にわけを聞いたが、理沙はなんでもないというだけで、結局理由は聞き出せないままだ。
…まあ、今日はパチンコで勝ったことだし、店が終わったらリサっちになんかおごってあげようかな。
 と、春子は考えた。コンビニで売っているプリンをおごっただけで随分と喜ぶ女だ。プリンよりも上等なものを買ってやれば、少しは元気になるかもしれない。
 店のあるビルの前にたどり着くと、春子は傘をたたみゆっくりと階段を昇っていく。
 そして扉の前に立つ。そこにある《流星群》看板は電灯をともしていた。ということは、すでに理沙が店に来ているということだ。
 春子は扉に手を掛けた。
 と、その時、扉越しに声が聞こえてきた。
 理沙の声だ。
 あまり大きな声ではない。
…だれかお客が来てるのかしら? ……もしかして、例の東条君かな?
 春子はそう思い、扉を少しだけ開けて中を覗いてみた。
 カウンターが見える。
 その内側には勿論、理沙が立っている。やはり誰かと話しているようだったが、その表情はあまり明るくはない様子だ。
 もう少しだけ扉を開けてみる。客は誰だろうか……?
…えっ?
 刹那、春子は自分の目を疑った。

「……でも、いくら考えても何も解らなかったし、何も変わらなかった……。でもさ、何かを変えられなくても、時間は流れて周りはどんどん変わっていくんだ。……ずっと俺は、そんな中で取り残されているような気がしてさ、すごく不安で怖かった…。今までも、これから先もずっと一人なんだって考えると、すごく胸が苦しくなって涙が出そうになるんだ……」
「どうして、自分は一人だ、って考えるの……?」
「こんなこと言うと、また君を怒らせるかもしれないけど……、特にこの店にいるときは理沙ちゃんは他のお客さん達にチヤホヤされるだろう? 勿論、それが疎ましく感じることがある時もあるだろうけど、それが君の自信の一つにつながっているんだと思う。誰かに好かれたり愛されたりしてる、って思えることは自分自身への自信になるんだと思う。……でも、俺にはそれがないんだ。否、もしかしたらあったのかもしれないけど、それを感じたことが一度もなかったんだ……」
「誰かに直接好きだ、って言われたいの?」

 理沙は確かに会話をしている。しかし……。

「理沙ちゃん、俺は……君にとってはやっぱりただの《客》だよな?」
「東条君が……、はっきり言うことが東条君のためなら、私もひとりの女として言うね……」

 否、理沙がしているのは会話とは呼べない。

「東条君は、この店のお客さんだし、友達だよ。……私は東条君にそれ以上の感情は持てない……」

 何故なら、カウンター越しには《誰一人として客などいない》のだ。
…何をしてるの?
 春子は生唾を飲む。
 相手のいない会話。
 理沙は誰と話しているのだろう。
 否、違う。
 会話などではない。
 全ては……。

 
 理沙一人の口から出ている言葉……。


 突然、理沙は何を思ったのか自分のバックの中を探って、中から何かを取り出した。

…ヒッィ!

 春子は思わず悲鳴を上げそうになった。
 理沙がバッグから取り出したのは、鮮血に染まった猫の首だったのだ。

「きゃゃゃああああぁぁ!」

 理沙はそれを掴んだまま悲鳴を上げる。
 刹那、理沙の表情が変わった。

「この体は、俺のものだ!」

 醜くかすんだ理沙の声。
…何が起きてるの?
 春子の頭は、一瞬にしてパニックに陥った。
…東条君。
 理沙は確かにそう言っていた。
 そうだ。理沙の苗字も《東条》だ。
 《理沙》と言う名前は、彼女がこの店にいるときだけに語る源氏名……。
…東条薫。
 それが理沙の《本名》であった。
 不意にコトリッ、と扉が音をたてた。思わず春子の腕に力が入り、音をたててしまったのである。
 その音に気付いて、理沙はゆっくりとこちらを向いた。
「リ、リサっち……? リサちゃん……」
 春子は呟くように、彼女の名を呼んだ。



【自由を求める狂気】

「やあ、ママさん。初めまして」
 理沙……、否、東条薫は薄ら笑いで歪んだ声のまま、春子に向かって軽く手を上げた。
「り、リサっち……」
 春子は呆然として彼女の名を呟くが、東条は首を振り、チッチッと舌をならす。
「あいにく、今その女は俺の意識下に引っ込んでるよ。ようやく自分のことに気付いて怖くなったんだろうな。まったく無責任な女だぜ。暫くは出てこないだろうよ。……まあ、おかげでこの体は俺の自由になったって訳だ。女の体って言うのが気に食わないが……まあ、仕方ないだろう」
 東条はそう言って、ハハッと笑う。
「……それよりもママさん、そんなところに突っ立ってないで座ったらどうだ? 今日は特別に俺が相手してやるよ。勿論、特別だから金はもらわないよ」
 言いながら、東条は春子の方へと近づいてくる。
 しかし春子は、今自分の目の前で起きている現象がまったく理解できないでいた。これは理沙の悪ふざけなのだろうか、それとも今、目の前にいるのは理沙とは別の人間なのか。だが、春子の目の前に立つ女は、間違いなく理沙本人のものであった。ただ、その声は到底理沙のものとは思えないほどに酷い声だ。
「あなた、誰なの……?」
 春子は思わずそう尋ねる。
「誰か? 俺が……? ふん、さあね! 俺に名前なんて無いよ。……そうだなぁ、世間では俺の事を《フェイスキラー》だとか言って呼んでるな」
 そう言って、東条はポケットから小型のナイフを取り出した。
「まさか……!」
 それを聞いて、春子は思わず一歩後ずさった。
「怖いか? 俺が怖いか?」
 東条は薄ら笑いを浮かべてながら、更に春子との距離を縮めている。
「さあ、おとなしく座れよ。……何がいい? 水割りか? ロックか?」
 春子は東条が近づいてくるたびに、少しずつあとずさる。
…逃げなきゃ!
 そう思った刹那、春子はすぐに体を反転させて扉のほうを向いた。
「馬鹿が……」
 そう東条の声が聞こえたかと思った瞬間、背中の一部にわずかな衝撃が走った。
…えっ!
 そう思ったときには二度目の衝撃。
「ううっ……」
 春子はうめき声を上げて、衝撃の走った箇所に右手をやる。
 右手のひらが生暖かい液体に濡れる。
 多量の血だった。
 春子はそのままの状態で体を反転させ、再び東条のほうを向いた。そしてそのまま扉に背中をつける。
「理沙ちゃん……、どうして……」
 眩暈がする。体の力が抜けていく。
「なんだ? もう終わりか? 人間は地球上で最も賢く、最も強い生き物なんじゃないのか? ハハッ、笑わせるね! こんなちっぽけなナイフを二回背中に突き刺しただけで、もう死んじまうのか?」
…これは悪い夢?
 春子は床に膝をつきながら、一瞬だけそんなふうに思った。
「ハハッ、予定が狂っちまったなぁ。《五人目》は俺の中にいる女のはずだったのにな。……まあ、別に構わないけどさ」
 東条は一頻り笑いながらそう言うと、今度は自分の首筋に自らナイフの切っ先を当てた。
「ああっ、これで俺は本当の自由を手に入れる! もう、この女の体に縛られることはないんだ! ハハッ、素晴らしいだろう?」
 大声で東条はそう叫んで、自分の首筋に当てたナイフを勢いよく手前のほうへ引いた。その動作には微塵たりとも躊躇いは無かった。
…何を……!
 しかし、春子がそう思った刹那には、東条の首筋からは噴水のような鮮血が飛び散り、そしてすぐにその体は糸の切れたマリオネットのごとく、床に崩れ落ちていた。
 何が起きたのか?
 何があったのか?
 何がどうなっているのか?
 結局春子は何も理解できぬまま、そのまま力尽き、床に崩れた……。



【何も無い部屋】

 岸省三から連絡があったのは、十分前のことだった。どうやら東条薫の母親から話を聞いたらしく、東条薫は今現在、あるスナックで働いていると言うのである。
 北川誠二は岸とそのスナックがある飲み屋街の近くの公園で合流し、それからそのスナックへと向かった。どこかで救急車のサイレン音が聞こえる。付近のようだ。
「岸君、この店か?」
 北川は岸に尋ねる。
「ええ、母親の話ではここのはずですけど……」
 そう答える岸の表情は、何故か不安げだ
 北川はそんな岸を尻目に、スナックの扉を開けた。
…おや?
 扉を開けた瞬間、北川は異変に気付いた。
「あれ? ここ、ただの空き部屋じゃないですか」
 北川の後ろ背から部屋を覗きこんだ岸が言う。
 そう、そこはまさに空き部屋だった。
 電気もついていない薄暗い部屋。その部屋には物の一つも置かれていない。ただ、広い空間が広がっているだけだ。
「どうなっている……?」
 北川は呟くように言う。
「東条の母親にハメられましたかね?」
 岸は不審気な表情だ。
「かもしれんな……。よし、もう少しここら近辺を探してみよう。それでも見つからなかったら、もう一度、東条の家へ行こう」


 それから二時間ほど北川たちは東条薫が勤めているというスナックを捜し、聞き歩いたが、結局見つけることはできなかった。
 無論その後、東条の家へと向かったが、北川たちが東条の家へたどり着いたときには東条の母親はすでに、首を括って息絶えていた……。



【終焉〜そこにあるのは風〜】

 一年後……。

「東条薫は、幼い頃から父親に酷い虐待を受けていたらしんだ。そう、それが多重人格症状を引き起こすことになった原因の一つであることには間違いが無い。もともと彼女は空想癖の強い子だったらしんだ。大体、《子供》って言うのは、自分の身に降りかかった災いを素直に受け止められない。……そう、自分の身に災いが降りかかると子供は、自分ではない《他の誰かに起きたことだ》と思い込むんだよ。例えば、空想の中で創り上げた友達だったりね。それが子供の頃には、精神的な不安を軽減する一種の防衛になるんだ。でも、その度合いが強いと空想だったはずの人間が《人格》を持ってしまうんだ。つまり《意思》だね。これが人間の心の不思議なところだよ。……東条薫は母親の胎内から産まれたとき、首に母親のへその緒が巻きついていて窒息死寸前だったらしんだ。その事を、東条薫は父親に虐待を受けながら聞かされ続けていた。『お前はあの時死んでいたほうが良かったんだ』ってな具合だろう。しかし、幼い彼女はその事を受け入れきれず、それは自分のことではなくほかの誰かのことだ、と強く思い続けた。そう、それが《もう一人の東条薫》なんだ。でも、その頃はまだ《もう一人の東条薫》は何の人格も持っていなかった。……《彼》が明確になり始めたのは、実はそれほど昔のことではないらしんだ。と言うのも、オリジナルの東条薫は……う〜ん、ややこしいから、オリジナルの方は《理沙》と呼ぼうか……。理沙は十九歳の頃、ある一人の人間に恋をしている。その相手は、あろう事か理沙と同性の《女》だったんだ。それまでに理沙は何度か恋をして付き合いをした経験もあったみたいなんだけど、それらは全て普通の男だった。しかし、十九歳の頃、理沙は一人の女に恋心を抱いてしまった。……多分、理沙はそんな自分を受け入れられなかったんだろう。話によると、その恋は、結局ダメみたいだったんだけど、その日理沙は失恋のショックで初めてレズビアンを抱いたらしんだ。……恐らく東条薫が一人の人格として姿を現し始めたのはちょうどその頃だろね。そうさ、理沙は自分がレズビアンとは認めたくなかったんだ。だから、《男》の東条薫を創りだしてしまった。そうすることによって心のバランスを保っていたんだよ」
 柊直哉は一気にそこまで話し終わると、ブランデーを一口口に運んで煙草に火をつけた。そして、一度だけ紫煙を深く吸い込むと、再び続ける。
「……この症例で興味深いのは、オリジナルと別の人格が《同名》だってことだね。大概、多重人格の症例は、人格ごとに皆それぞれ違う名前を持っているものなんだけど、彼女の場合は同名だったんだ。これはすごく珍しいことだよ。……多分、その原因は彼女が《理沙》という偽名を罪悪感無く使うことができる状況下にいた、ということが一つの要因じゃないかと僕は考えてる。そう、彼女は仕事で《理沙》と言う名で通っていたからね。その名前で呼ばれることが多かっただろう。……まあ、そのことは彼女の治療をすることではさほど重要な問題ではないだろうけど……」
 そう言って、東条は再びブランデーに口をつける。
「そんな事が……。理沙ちゃんは根っからの明るいコだと思っていたから、そんなことがあったなんて、私全然知らなかったわ。理沙ちゃんからもそんな話聞いたことなかったし……」
 井筒春子は、少し複雑気な表情をする。
「そりゃそうさ。《理沙》っていう人格自体は非常に明るい女の子だった。だから、精神的に負担になる出来事なんかは、全て無意識に《男の東条薫》に吸収させていたんだよ。だから、理沙自体は自分がそのような過去や出来事を背負ってることに気付かないでいたんだ。俗に言う《潜在意識》ってやつだね。理沙は全てをその中に封じ込めていたんだ。だから、男の東条薫は理沙とは対照的な性格で、どうしようもなく暗い性格の人格だったわけだよ」
「でも、その男の東条薫の人格は、未だ現れないんでしょう?」
 春子は首を傾げる。
「そうなんだよ。恐らく、東条薫の人格は一年前のあの時に《消滅》してしまったんじゃないかなぁ」
 柊は言いながら頭をかく。
「どういうことなの?」
 と、春子。
「実はね、これも多重人格の症例としてはすごく珍しいことなんだけど……、東条薫は理沙に恋心を抱いてしまったらしんだよ……」
「それって……」
「そう、傍(はた)から見れば自分自身に恋してしまったんだ。無論、理沙自身はそのことに気付いていなかった。……それが一年前、ママが《フェイスキラー》に背中を刺された日だね……、あの日、東条薫は理沙に自分の想いを打ち明けたらしんだよ」
「男の東条薫の人格は、理沙ちゃんに告白したの?」
 春子は驚きの表情をする。
「まあ、そうなるね。しかし、理沙は東条薫を受け入れなかった……。つまり理沙は自分自身を否定してしまったことになるんだ。その時点で、東条薫の《存在意義》はなくなってしまったわけだよ。だから消滅してしまったんじゃないかな……」
 柊は灰皿で煙草をもみ消しながらそう言った。
「なるほどね……。理沙ちゃんは、自分の心の中にそんな人格があるっていう自覚は無かったの?」
「どうやら、無かったみたいだ。でも、男の東条薫は理沙という人格を知っていた事になるね。それとどうやらフェイスキラーという人格も知っていたようなんだ。……フェイスキラーの人格は、理沙の存在も東条薫の存在も知っていたみたいだね。……結論を言えば、何も知らなかったのは《理沙》という人格だけだったわけさ。……こう言う症例は、前にも話したことがあるけど……、多重人格者においては珍しくはない症状だよ」
「ふーん、なんだか複雑ね」
 春子は頷いて、煙草をくわえる。
「で、《フェイスキラー》と言う人格は、どうして人を殺して顔面の皮を剥いだりしたわけ?」
「う〜ん、簡単に言ってしまえば《肉体の開放》をする一つの手段だった。……大体、フェイスキラーと言う人格は非常に凶暴な人格なんだ。そう、理沙の心の《闇》を集結させたような人格だ。……この《フェイスキラー》という人格がいつごろから明確になってきたのかはまだ解っていないけど、彼は理沙の意識を自分で操りたかったんだ。つまり、肉体の完全支配をしたかった。……だけど、それには《理沙》という人格と《東条薫》という人格が邪魔だった……」
「えっ、人格って言うのは、自由に入れ替わったりできないの?」
 春子は頓狂な声を上げる。柊はそれを聞いて少しだけ笑った。
「それは無理だよ。多重人格症状って言うのは飽く迄も《潜在意識》さ。普段では意識されない部分なんだ。だからね、その潜在意識に何らかの刺激を及ぼすようなことがないと、その人格は表層に出ることができないんだ。そう、例えば普段はおとなしいけど車に乗った途端、人が変わったようにスピード狂になるやつだとか、カラオケでマイクを持った途端、放さずに歌い続ける奴だとか……要はそれと一緒のようなものさ」
 それを聞いて、春子は笑う
「ああっ、なるほどね」
「でも、確かに例外は無くも無いんだ。そういう症例はいくつか出ているみたいだよ。……理沙の症例では、まず《東条薫》という人格は、土曜日の夜に理沙の意識を支配できることが多かったみたいだね。しかも、かなり特殊で《理沙》と《自分》の意識を同時に表層化させることができたみたいだ。だから、理沙は東条薫と会話することが可能だったんだ。まあ、理沙自体はそのことには気付かずに自分自身と会話してたことになるんだけど……。でも、段々と理沙という人格よりも東条薫という人格のほうが意識が強くなっていったみたいだね。だから、理沙って言う人格はもしかしたらママの店にいるときにだけしか存在しなかったのかもしれないよ。だけどそれに対し、フェイスキラーの人格は理沙の人格はおろか、東条薫の意識すらも操れなかったみたいだね。……それでストレスを募らせたフェイスキラーという人格は、さらにその凶暴性を増していったみたいだ。そして、どうにかこうにかして、東条薫の人格に《割り込む》ことが可能になったみたいだ。それでも、最初の頃は《フェイスキラー》はただの《声》だけでしかなかったみたいだ。……まず彼は、東条薫の持つ《闇》の部分を刺激していった。そうすることで、東条薫の持つその闇の部分を《憎しみ》に変えてしまおうと目論んだ。そうすることで、東条薫の人格を自分の意識と《同調》させようとしたわけさ。……東条薫という人格は、確かに根暗で人間に絶望しているような性格を持っていたみたいだけど、微かな希望も持っていたようなんだ。その《希望》というのが理沙だった……」
 柊はそこまで言って、一旦言葉を止めた。
「もしかして……?」
 春子は不安げな顔をする。
「そう、フェイスキラーはそのことに気付いたんだよ。東条薫の希望である理沙を《破壊》すれば、東条薫の存在はなくなる……と。だけど、フェイスキラーは理沙の意識の中に割り込むことがどうしてもできなかった。だから、その《代役》として理沙と同じような人間を次々と殺していったんだ。そして、その顔面を剥ぎ取り、わざと死体を醜くして東条薫に見せていた。『お前の希望はこんなにも醜いんだぞ』的な意味を含めてね」
「そんな理不尽な……」
 春子は絶句した。
「理不尽だけど、それが事実さ。……でも、東条薫はそれでも自分の《希望》を捨てなかったんだ。それがせめてもの救いじゃないかな? ……でも結局、東条薫の希望は砕けたんだけど、それでも彼は最後に理沙に『君に逢えてよかった……』って言い残したらしいよ。まあ、結果的にはフェイスキラーを表層化させてしまったんだけどね。奴は理沙自身にも自分の存在を知らしめ、理沙の意識を奥底へと封じ込めた……。しかし、奴はそれでも満足しなかった。フェイスキラーの求めていたものは、《完全なる解放》だったんだよ。だから理沙自身の体を破壊し、自分の意識を更に自由なものにしようとした。そんなことは現実的には無理なんだけど、それがフェイスキラーの持つ《思想》だったわけさ」
 柊は言い終わって、自分の腕時計を見た。時刻は午後の十一時……。相変わらず客はこないようだ。
「それで、今、理沙ちゃんは?」
 暫くの間を置いて、春子が尋ねてくる。
「ああ、この前も話したけど、まだ僕の知り合いの施設に入っているよ」
 柊は答える。
「じゃあ、まだアメリカにいるんだ」
「そうだよ。日本ではまだ多重人格の研究があまり進んでいない。だから治療も難しいんだ。それに、日本に帰ってきたら、速逮捕されちゃうよ。果たして、日本で《多重人格》という精神病が認められるかな? もし認められたとしても何十年も裁判を続けた後さ。日本においての《多重人格症状》っていうのは、まだ懐疑的でしか見られないからね。……そう、理沙ちゃんには何の罪も無いんだよ。人殺しをしたのは飽く迄も《フェイスキラー》という理沙とは別の人格なんだ」
「理沙ちゃんの人格は……」
 そう春子が尋ね終わる前に、柊が口を挟む。
「まだ出てこない。自分の身に起きた現実が受け入れられなくて未だ意識の奥底に隠れているみたいだ。催眠療法でようやく話ができるくらいかな……。もっぱら理沙ちゃんの意識を支配しているのは《フェイスキラー》さ」
 柊はそう言って、再び煙草をくわえる。
「理沙ちゃんの病気は治るのかしら……?」
 春子は不安げに尋ねる。
「正直な話し、難しいだろうね……。でも、理沙ちゃん自身が自分の身に起きた現実を受け入れることができれば、治る可能性はでてくる。だけど……、治ったとしても、それはもう僕らの知っている理沙ちゃんじゃないかもしれない……」
「いつか柊君が話してくれた、イブ・ホワイトとかいう女の人と一緒?」
「そう、その可能性が高いだろうね」
 柊は言いながら、少し俯く。
…割れたガラスは、元には戻らないさ。
 暫くの沈黙……。
 ややあって、春子が口を開く。
「それにしても、驚いたわよ。柊君が実は《刑事》だったなんて」
 春子はそう言ってくすくす笑う。
「えっ、そうかな? 僕は見た目から敏腕刑事に見えるだろう?」
「絶対見えないわよ。大体、フリーライターだったのは昔の話でしょう? ……それに、柊君の本名は《岸省三》っていうのね」
 春子からそう言われて、柊は舌を出した。
「ありゃ、ばれた? ……もしかして、僕のむかし書いた記事読んだの?」
「ええ、読ませてもらいましたよ。『ペンネーム柊直哉。本名岸省三。現在、警察になるために猛勉強中』って書かれてあったわ」
「ハハッ、それって五年前ぐらいのやつだね……。いやぁ、参った!」
 柊は肩をすくめる。
 一年前、柊は友人の加賀美から受け取ったビデオを見て、《フェイスキラー》の正体を知った。しかし、それをすぐには上司である北川誠二には知らせなかったのである。しかし、インターネットの件で東条薫の名前が重要参考人としてあがり、フェイスキラーの正体が明るみに出るのも時間の問題だった。その前に柊は、事の真相を自分ひとりで確かめたかったのだ。それでまず、東条薫の実家を訪ねた。しかし、その時すでに東条薫の母親は首をつって死んでいたのである。そばには遺書が残されており、柊がそれを読んでみると、どうやら母親は自分の娘が殺人鬼であるという事実にうすうす気付いていたらしく、それに耐えかねて首を括ったようであった。母親の体に触れるとまだぬくもりが残っていて、柊が着くほんの数分前に自殺をしたようであった。とりあえずその遺書は柊が隠し持ち、それから慌てて柊は《流星群》へと駆けつけたが、扉を開けてみると晴子と理沙が血だるまになって倒れているのを見つけた。柊はすぐに救急車を呼び、倒れた二人を運ばせて、それから上司の北川に嘘百八な事と思いつきな店の名前を言ったのである。
「でも、よくバレれなかったわね」
 春子は呆れ顔で言う。
「なぁに、バレたらバレた時さ。……それに、リサっちには『君は俺が守る』、なんて大見得切ってしまったからね。まあ、仕方ないさ。……こんな言い方悪いかもしれないけど、リサっちのお母さんが自殺してくれていたおかげで、この計画がうまくいったようなもんさ。父親は五年前にすでに他界していたし……。リサっちには他に親類関係の人がいないからね。彼女の安否を気遣う人間が、他にいなかったんだ。それでうまくいってる」
「もしかして、柊君、性格悪い?」
 春子は笑いながら聞いてくる。
「ああ、よく言われる。でも、瀕死の二人を救ったのは僕だよ。よく助かったよね。僕はてっきり手遅れかと思ったけど」
 そう言って、柊も笑う。
「こう見えても、私はしぶとくて執念深いの」
 春子は肩をすくめて見せた。柊は笑う。
「おっと、そうだ! そう言えば来週から新しい女の子がこの店に来るとか言ってなかったっけ?」
 柊は嬉々として聞いた。
「ええ。若い子入れないと、柊君みたいなお客さんが来なくなっちゃうからね。……可愛い子よ」
「本当? で、名前は?」
「《リナ》ちゃんって子」
 春子はそう言って、再び笑らった。
「リナちゃんか……、どんなコか会うまでのお楽しみって奴だね」
 柊もそう言って笑った。



 柊が店を出た頃には、深夜をとうに過ぎていた。
 細い路地に人通りは無い。
 柊は先ほどまで笑っていたのに、何故か憂鬱だった。
 空を見上げる。
 無数の星が見える。
…人間ってなんなんだろう?
 少しだけ、哲学的な事を考えてみるが、すぐにやめた。
 不意に風が吹いた。
 そう、そこにあるのは風……。
…風を感じた。
 そう思うと、何故か少しだけ憂鬱さが消えるような気がした……。
 人間であることの喜び。
 人間であることの悲しさ。
 人間であることの不思議。
 人はそれら全てを受け入れていかなくてはならない。
…僕はそれらを素直に受け入れて、これから先もうまく生きていけるんだろうか?
 そう考えると、少しだけ不安になった。
 しかし、それでいいのだ、と柊は思う。
 不安が解消されれば、それは希望となりえるのだから……。
 柊は煙草をくわえ、火をつけた。
「一度きりの人生か……」
 柊は一人呟いて、煙を吐き出した。



                 《了》











2006/01/21(Sat)12:22:32 公開 / 九宝七音
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■作者からのメッセージ
『意外な結末』……。本や映画にこの様な見出しが書いてあると思わず飛びついてしまう。多少強引でも良い、矛盾していても良い、そこに至までの伏線さえあれば私はそれで納得してしまう。

この作品もそんな渇望を抱きながら書いたものである。

もし、この作品で少し表現が変だなとか、文章がおかしいぞと思ったところは、最後まで読んだ後もう一度読み返してほしい。それは、結末に至る伏線になっているはずだから……。(これって、ただの言い訳にしか聞こえないぞ…笑)
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