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『ゲドウ戦記【7】』 作者:甘木 / リアル・現代 お笑い
全角60227文字
容量120454 bytes
原稿用紙約180.35枚
世界征服を目指す悪の組織〈初代赤龍会〉――その実体は町内征服もままならない弱小組織。ひょんな事から、初代赤龍会の総長になってしまった月護龍太。龍太をサポートするのだか、足を引っ張るのだか分からない、初代赤龍会の濃い面々と引き起こす矮小で下らない事件の数々……。この作品は月護龍太に降りかかってくる苦難と苦闘の記録である。
 ノストラダムスは一九九九年に世界の終末が訪れることを予言した。
 ――インチキ予言者の世迷い言さ。
 ――いや、ノストラダムスの予言は一〇〇パーセント的中する。
 肯定派にしろ、否定派にしろ、人々は言葉にならない不安を抱えたまま予言された日を迎えた。
 大地は裂け、空は崩れ、街は炎に包まれ、絶望と恐怖の世界に支配される――ことはなかった。日本はおおむね平和なまま二〇〇〇年を迎え、さらには二一世紀をも迎えたのである。
 表面上は……。
 だが、人々が知らないところで終末は訪れていた。


 一九九九年七月、関東地方にある採石場跡地で日本の未来をかけた闘いがあった。
 日本支配をもくろむ秘密結社『大日本BF(ブラッディーファルコン)団』と、日本の平和を守る『日本平和推進機構軍』が、長年にわたる死闘に終止符を打とうとしていた。
『日本平和推進機構軍の諸君。諸君らがここまで来たのは褒めてやろう。だが、もう三人しか残っていない諸君らに、この私が倒せるかな』
『黙れ総統ブラッディーファルコン! たとえ最後の一人になろうとも、俺たちに正義の心がある限り貴様を倒す!』
『愚か者めが。だったらその身で己の無力さを知るがよい。いでよ四天王、この愚か者どもを倒すのだ』
『行くぞみんな! 今こそ正義の力を見せるんだ!』
 双方とも組織は壊滅状態。互いの信念を掛けた最後の闘いが始まった。
『観念しろ総統ブラッディーファルコン。四天王は倒したぞ、残るはお前だけだ!』
『本部を失った貴様ら日本平和推進機構軍に何ができる』
『俺たちには一蓮托生KAMIKAZEアタックがある!』
『なにぃ! その技を使えばおまえらも死ぬことになるのだぞ』
『正義のために死ぬのなら本望だ! ゆくぞ必殺の一蓮托生KAMIKAZEアタック!』
『うぉぉぉぉぉっ!』
 大地を揺るがす爆炎が上がった。
 眩い光と土煙が消えたあとには巨大なクレーターがあるだけ。
 これで終わり――日本の暗部で繰り広げられてきた巨大な悪と正義の闘いの終末――そう思われた。


 しかし、それがすべての始まりであった。
 大日本BF団と日本平和推進機構軍という二つの組織の消滅は、わずかに均衡を保っていたと悪と正義のバランスを崩し、幾多の悪と正義の組織が乱立する無法状態を生む結果となったのである。
 ある時は悪の組織が連衡合従して正義の味方と闘い、またある時は正義の味方が悪の組織と協力してライバル組織を潰しにかかる。力無きものは容赦なく叩き潰され、力有るもの同士が豺狼のように喰らい合う――まさに今の日本は正義と悪が入り乱れる混乱の世。
 そう。正義も悪も理念を失って、戦いのための戦いを繰り広げる外道の時代であった。


 *  *  *


 月光原市のほぼ中央にある月光原駅前広場から、南に向かって五〇〇メートルほど月光原商店街が続く。商店街は――落ち着いた色合いのタイルが綺麗に敷き詰められた歩道、圧迫感を避け開放感を出すために採光部を大きく取ったアーケード、耳障りにならない程度に流れるBGM――食料品や雑貨からオシャレなブティックまで揃っていて、平日の昼間でも人通りが途切れることはない。
 月光原商店街のほぼ中央に喫茶店〈れっどどらごん〉がある。温かい茶色の外壁と下品にならない程度の少女趣味の内装。気分が落ち込んでいるときでも〈れっどどらごん〉に来ると癒される柔らかい空気が満ちている。お店の雰囲気と、どんなお客さんでも思わず美味いと頷くオリジナルブレンドコーヒーで繁盛していた。加えて店を切り盛りするマスター代理の存在も大きい。マスター代理の卯兎よし野(うと・よしの)は、美人ではないが温かい笑顔と、小動物的なかわいらしさを有している女性だった。よし野の魅力に惹かれてやってくる客も多い。


 が、五月のある土曜日の午後。〈れっどどらごん〉はいつもとは違う様相を呈していた。店の前には目つきの悪い男達が入店を拒むように無言で立っている。もっともドアには『本日貸し切り』の札がかかっているし、この男達の圧迫感を無視して店に入ろうとするものもないだろう。もし店内に入ったら、店の外の状況などかわいいものに思えるだろう。店内には鋭い寒気のような空気が充満している。
 それは、
 頭を剃りあげた巨漢、ムカデのような傷が顔じゅうに走る中年男、表情のない整った顔を長い髪で半分隠した美人、ゴーグルのようなサングラスをかけた老人、ニコニコと笑顔なのだが目だけは冷たい光をたたえている美青年、包帯で顔を巻かれた性別不明の人物……日常生活ではあまりお目にかかれないタイプの人間が三〇人ほど集まっている。
 四人掛けテーブルをくっつけて、急遽作った会席に座った客たちが醸し出している空気だった。さらには窓にはブラインドが降ろされ、いつもは風景画が掛けられている壁には、墨色も鮮やかに「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」と書かれた掛け軸、さらには大きな和紙に「御芳名 ○○○○ ■■■■ △△△△ 皆同順」などと書かれたものも貼ってある。
 共通しているのは揃いも揃って黒ずくめの服を着ていること。それにもうひとつ。研ぎ澄まされた刃みたいな、触れれば身が裂かれてしまいそうな殺気を発している。
 客たちはひと言も発することなく、上座の人物を値踏みするような目で見つめている。上座の人物は――この場にはあまりにもそぐわない雰囲気の少年。平均的な背丈はあるのだが、身体が細すぎて華奢を通り越してみすぼらしく見える。草食動物的な表情がそれに拍車をかけている――この場の唯一の共通点である真っ黒な学生服を着て、おびえた目で周りを見わたしている。
「みっともないからキョロキョロするんじゃない」
 上座の少年の横に座っていた男が小声で注意する。
「でも……儀武オジサン、いったい何が始まるんです? ボク、わけがわかんなくって。このおっかない人たちは誰なんですか? もう帰りましょうよ」
 上座の少年は今にも泣き出しそうな声で、儀武(よしたけ)と呼んだ男の腕を握る。
「ここまできたら、泣きごとは言うんじゃない。どっしりと構えていればいいんだよ。あとは世話人たちがうまくやってくれるからさ」
 不安丸出しの少年とは対照的に、儀武は状況を楽しんでいるようだった。この場にそぐわない白いジャケットを着ていながらも臆する風もなく、ちょっと険はあるがハンサムと呼べる顔に生えた無精髭をなでている。
「そろそろ頃合いだな」儀武は皆の視線が少年に集まっているのを確認すると、正面の人物に向って小さく頷いた。
「御一党様」恰幅のいい白髪の老人が立ち上がり、居並ぶ面々に向って頭を下げる。「本日は御多忙な中、初代赤龍会二代目総長襲名式に御越し頂けましたこと、二代目総長月護龍太に代わりまして御礼申し上げます」


 ボクが二代目総長? はいぃぃぃぃぃぃぃ!


 ボクは月護龍太(つきもり・りゅうた)。
 今年、高校に入学したばかりの一五歳。
 学力、体力、容姿もすべて中の下。特技、賞罰なし。
 趣味は音楽鑑賞、映画鑑賞、読書(マンガが多いけど)。
 父親は中堅どころのサラリーマン。母親は専業主婦。東京で独り暮らしをしている大学生の姉。家は郊外にある建て売りの一戸建て(ローン残りは二〇年)。
 つまり平凡というデーターをコンピュータに入力したらボクになる。学校には必ず一人はいる空気のような、休んでも誰も気づかない存在。それがボク。
 みんなに注目されたいワケじゃないけど、少しは誰かがボクのことを必要としてくれる存在になりたい。と、思っていた。
 が、いまはそれを懐かしく思っている。
 だって……、
 今日からボクは、日本征服を狙う秘密結社『大日本ブラッディーファルコン連合会』傘下『初代赤龍会』の二代目総長。



 【1】 災厄の日



 例年、ボクの家の正月は静かに過ぎ去っていくのだが、今年は少し違っていた。
「龍太、受験勉強はちゃんとやっているか?」
 一升びんを握りしめた儀武オジサンが、ボクの肩にもたれかかるように腕を回してきた。
 風来坊で日頃は連絡も取れない儀武オジサンが、ふらっとやってきたのは大晦日の夜。それから五日間、連日朝から宴会状態。
「どうなんだ、第一志望の高校に入れそうかい?」
 この質問を聞かされるのはこれで二五度目だ。朝から晩までお酒を飲んでいる儀武オジサンは、酔っぱらい特有のしつこさで何度も聞いてくる。
「たぶん……」
 最後の追い込みの時期なのに、毎日宴会に引きずれ出されて勉強どころではない。
「『たぶん』とは情けない。今から気弱になってどうするんだ! この八角儀武(やすみ・よしたけ)のたった一人の甥なんだぞ。もう少しは俺の甥というプライドを持てよ」
 儀武オジサンはお母さんの弟――と言っても、お母さんと歳が一三歳もはなれているからまだ二七歳。ボクにとっては兄貴みたいな存在。けれど、高校卒業と同時に海外放浪の旅に出ちゃうし、日本に戻ってきてからもフラフラとしている。仕事だってなにをやっているのか解らない。少なくてもボクの知っているまともなオトナの範疇には入らない。
 そんな人の甥っていうプライドって何?
「第一志望の高校に入学できないでどうするんだよ」
「でも、弓野学園はレベルが高いし。ボク、成績あんまりよくないし」
「龍太、お前には覇気ってヤツがないのかよ。相手を完膚無きまでに叩きのめすぐらいの気迫じゃないと受験には勝てないぞ」
「他人と争うのって好きじゃないから」
「あぁぁぁ!」儀武オジサンは両手で自分の頭を抱えた。「龍太、お前は本当にいいヤツだよ。でもな、いいヤツすぎるのもある意味で醜悪だぞ」
「わかってるよ。ボクだって受かりたいから勉強はしているよ。それに、弓野学園に合格したら、お父さんが入学祝いに新しいパソコンを買ってくれるから、がんばるよ」
 ボクの顔をじっと見ていた儀武オジサンは、「入学祝いかぁ。よし、決めた。弓野学園に合格したら、俺からも凄い入学祝いをやるよ」にぃっと笑った。
「凄い入学祝いって何?」
「それは、合格してからのお楽しみだ。それより龍太も飲め、正月ぐらいは羽目を外すものだぞ」
 儀武オジサンはボクのコップに『大吟醸 大魔王殺し』をドプドプと注いだ。飲みかけのオレンジジュースが入っていたのに……。
「ぐーっといけ。それを飲んだら合格間違いなしだぞ。俺が保証してやる」
 おぼつかない手つきでコップをボクの鼻先に突きつける。
「飲めませんよ。ボク、未成年だし」
 未成年じゃなくたって日本酒のオレンジジュース割りなんて飲みたくないけど。
「龍太、男なら一気に飲みなさいよ。日本酒が苦手ならウオッカはどう?」
 さっきからボクと儀武オジサンとのやりとりを、ニヤニヤと見ていたお姉ちゃんが自分が飲んでいたウオッカをボクのコップにさらに注ぎ足す。
「飲め、飲め。酒ぐらい飲めなきゃ高校に合格なんておぼつかないぞ。父さんだって龍太と同じ年の頃は親の酒を盗んでは飲んでいたんだ。そのおかげもあって志望高校に入学できたんだぞ」
 酔っぱらった父さんは根拠のない経験談を言ってるし。
「龍太、飲んであげなさいよ。酔っぱらい相手に正論述べても無駄よ。ここは運命だと諦めたら」
 母さんが苦笑い浮かべて耳打ちした。
 う゛。みんな勝手なこと言って……。
「わかったよ。飲めばいいんでしょう!」
 ボクは淡いオレンジ色に染まった日本酒プラスウオッカを一気に喉に流し込んだ。
 ――その甲斐があってか、ボクは弓野学園に合格した。


 高校入学から一カ月。正月以来、音沙汰のなかった儀武オジサンから電話があった。
『龍太、おめでとう。見事に第一志望校に合格とは、やっぱり俺の甥だけはあるな』
「ありがとうございます」
『憧れの高校生活はどうだ?』
「ボチボチかな。最近やっと自分が高校生なんだって感じられるようになったけど」
『せっかく第一志望の高校に入学できたのに元気がないな。勉強はどうだ? 親友はできたか? クラブには入ったのか? 彼女はできたか?』
 儀武オジサンは矢継ぎ早に聞いてくる。
 勉強は大変なこと、親友どころか友達もできていないこと、クラブには入っていないこと、残念ながら彼女はいないこと――正確に言うならば、入学してから今日までクラスの女の子と口をきいたことすらない――ボクは包み隠さず白状した。
『俺が高校生の時は、入学式の日には彼女をつくっていたぞ。それなのにおまえときたら、友達はいない、彼女はいない、クラブには入っていない、おまけに落ちこぼれ予備軍かよ。かぁぁ情けない』
「う、うん。情けないと思う……」
 周囲は勉強も運動もできる凄い人ばっかりで、勉強も運動もダメなボクなんか誰も見向きもしない。みんな勉強や運動や趣味に一生懸命になって高校生活を楽しんでいるのに、ボクは何もしないうちに一カ月が過ぎてしまっていた。
「ボク……弓野学園に入学したのが間違いだったかな……」
『落ちこんでいてもしょうがないさ、これからが大切なんだぞ。おまえの高校生活をバラ色にする素晴らしいプレゼントをやろう。明日の土曜日は午後はヒマか?』
「うん。用事はないけど」
『だったら、学校が終わったら校門の前で待っていろ』


 気がついたら初代赤龍会二代目総長襲名式などという、悪夢のような出来事に巻きこまれていた。



 【2】 世界の理



 襲名式は滞りなく終わり――ボクは何がなんだか解らなくて、なすがままになっていただけなんだけど――強面の人たちは粛々と帰途についた。〈れっどどらごん〉に残っているのはボクと儀武オジサンとお店の人らしいお姉さんだけ。
 人のいなくなった客席に座ったまま、ボクはテーブルに置かれた龍をかたどった金色のバッチを見つめていた。
 初代赤龍会二代目総長って何? 初代赤龍会って何? あの怖い人たちは何? ボクは何? 脳がストライキを起こし、まともに思考が働かない。
「どうした龍太。呆けているヒマなんてないぞ」
 儀武オジサンに頭をこづかれて、やっと金バッチから視線を離すことができた。
「ボクはこれからどうなるんです? いや、なんでこんなことに?」
 ニヤニヤしてボクを見下ろす儀武オジサンを見ていたら、クラクラするような苛立ちと不安で鼻の奥が痛くなってきた。もしかしたら涙が浮かんでいるかもしれない。
「驚いたのは解るが、落ち着け龍太」
「落ち着けるわけないじゃないですか!」大きな声を出していないと自分を保てないような不安に襲われる。
「そんなに興奮しているって言うことは喜んでくれているんだな。そっかぁ、俺のプレゼントをそんなに気に入ってくれたのか。俺も嬉しいぞ」
 ボクの言葉を曲解した儀武オジサンは――たぶんわざとだけど――ボクの正面に座って、さも満足とばかりに煙草を吸いだす。
「気に入っていません。当惑しているんです! おっかない人たちに囲まれて……みんなの視線がボクに集まって……ボクがどれだけ心細かったか解らないでしょう! 寿命が縮まる思いだったんですよ!」突然目の前にケーキが現れた。「へ? なにこれ?」怒りの気勢をそがれてしまった。
「イライラしている時は甘い物がいいですよ。よろしければ召し上がってください」
 ほんわかとした空気をまとわらせたお店のお姉さんが、ことりとチョコレートケーキを置き、「お飲物は何がいいですか?」優しく微笑んでくれた。
「あ、ありがとうございます。そ、それじゃコーヒーをお願いします」
 お姉さんは一瞬キョトンとした表情を浮かべ、すぐに真顔になる。
「部下に敬語を使わなくって結構ですよ。遠慮なく命令してください。龍太さんは今日から総長になられたのですから」
「部下? え? お姉さんは初代赤龍会の人間なんですか?」
 お姉さんは背筋を伸ばして、「自己紹介が遅くなってすみませんでした。私は初代赤龍会若衆頭代理補佐見習いの卯兎よし野です」軍人のように敬礼した。仕事用のフリルで縁取られたエプロンを付けているし、ほんわりとした柔らかい雰囲気のせいで、真面目に敬礼している姿が妙に可愛い。
 でも、いまなんて言った?
「初代赤龍会若衆頭……代理補佐…………見習い?」
 若衆頭と言うことは初代赤龍会ってヤクザ? 任侠、極道、暴力、抗争、覚醒剤、指つめ、仁義なき戦い、死……脳裏には不吉な単語が鮮血ような赤い文字で浮かび上がる。ボ、ボク、ヤクザなんてなりたくない!
 ところで若衆頭の代理の補佐の見習いって偉いの? いや、そんなことはどうでもいいんだよ。ヤクザだよ、ヤクザ! どうしよう、どうしよう……。
 混乱した頭はどうでもいいことまで考えてしまう。


「龍太ぁ、おまえ初代赤龍会をヤクザだと思ったろう」煙草をくわえた儀武オジサンは、心持ち顔を上に向け煙を吐き出す。「俺が可愛い甥っ子をヤクザにするとでも思うか」
「違うの?」
 儀武オジサンはボクの顔を見つめる。じっっと、じっっっと――居心地が悪いんですけど。あんまり見ないで――そして、灰皿に煙草を押しつけ立ち上がった。ゆっくりと壁際に寄り、金糸で初代赤龍会と刺繍された旗の前に立つ。
「聞いて驚けよ。初代赤龍会はヤクザなんてちんけなものじゃない。日本征服を目指す悪の組織だ!」
「あ、悪の組織………………って、儀武オジサン頭は大丈夫ですか? 何か悩み事でもあるんですか? オジサンって、ちゃんと仕事もしてないみたいだし、いい歳して結婚もしてないし……お母さんも、いつもフラフラして落ち着きないって心配してたし……」
 驚きより呆れて、思わず突っこんでしまった。
「うるせぇ! 大きなお世話だ!」
 儀武オジサンの怒声とともに、後頭部に言葉では表現できない衝撃が走り――ボクの意識はチカチカと光りあふれる世界に飛んでいった。



「面倒だから一回しか説明しないからな。それじゃよく聞けよ」
 何事もなかったように儀武オジサンは口を開く。
「う、うん」ボクは卯兎さんがくれた氷嚢を後頭部に当てながら頷き、「痛ぁ」ぷっくり腫れたこぶに鋭い刺激が走る。
「大丈夫ですか総長。まだ休んでいた方がよろしいのでは?」
 卯兎さんは綺麗にそろえた眉をハの字にし、心配そうにのぞき込んでくる。
「よし野君、龍太のことは心配しなくていいよ。こいつは見かけによらず打たれ強いんだ。たぶん二階や三階ぐらいから落ちたって死なないよ。これぐらいならすぐ治る」
「そうなんですか? さすがは総長。お強いんですね」
 感動したように卯兎さんはボクを見つめる。
「う、うん。まぁ……」
 いくらなんでもビルの三階はちょっときついかも。でも、ボクが打たれ強いのは事実だ。事実というか、結果的にそうなったというか――格闘技全般が好きなお姉ちゃんに小さい頃から〈遊び〉と言っては色々な技をかけられたり、儀武オジサンに振り回されているうちに身体だけは丈夫になっちゃった。でも、運動神経とかは全然だけど。
「んじゃ、説明するぞ。まずは悪の組織の歴史からだ……」
 儀武オジサンの話を要約すると――。
 悪の組織の歴史は古く、南北朝時代までさかのぼり、〈悪党〉と呼ばれる権力に対抗する組織が始まりだそうだ。時代時代に時の権力者と戦っていたらしい。楠木正成や由井正雪など、歴史上に現れる著名人も悪の組織の人間だった。あの織田信長や西郷隆盛も悪の組織の人間だそうだ。ちょっと信じられないけど。
 国盗りを目指す大組織から、一地方の権力簒奪を目指す弱小組織まで、複雑に入り交じって悪の組織は正義(権力)と戦い続けてきた。ところが第二次世界大戦以後に悪と正義に世界に変化が起こった。敗戦による社会構造の変化を受け、組織の集約化が始まったと言う。合併・吸収・併呑――紆余曲折の末、『大日本BF団』と『日本平和推進機構軍』と言う二大組織ができあがった。
 二つの組織は大きくなり過ぎたが故、小競り合いは起こしても、全面的抗争には至らない。なぜなら、本気でぶつかり合えば互いの壊滅が待っているのだ。二大組織は奇妙な緊張を保ちながら対立を続けていた。
 一九九九年七月までは……。
 今となってはきっかけは何だったのかはもう解らない。いや、きっかけなど些末な事柄。二大組織の全面抗争が勃発し、共に壊滅した。それが終わりの始まりだった。
「……ま、こんなかんじで今は悪も正義もぐちゃぐちゃの状態だ。解ったか」
「う、うん。なんとなくだけど。でも、こんな凄い状態になっているのに、ボクなんかを総長にしたら……」
 ボクの言葉に儀武オジサンは口の端をゆがませるようにして笑い、
「ばーか、なに情けない顔してるんだ。混乱した状況だから楽しいんじゃないかよ」
 ボクのおでこをぺしっと指で弾く。
「よし野君、この情けない総長に初代赤龍会について教えてやってよ」
「あ、はい。え?」卯兎さんはウサギみたいに椅子の上で跳ね、儀武オジサンとボクの間を何度も視線をさまよわせる。「わたしなんかが説明するなんて」
「俺は部外者だしさ、やっぱり当事者が説明した方がいいだろう」
「そうですか。では、僭越ながら説明させていただきますね」
 卯兎さんは学芸会の小学生みたいに、ガチガチに緊張して直立不動の姿勢をとる。
「しょ、初代赤龍会は大日本BF団四天王の一人、ブラッディードラゴン元帥の右腕と言われたレッドドラゴン大佐がつくった組織です。ブラッディードラゴン元帥配下の組織の中では武闘派として名をはせ、正義の組織からは〈殺しの軍団〉と言われて恐れられていました」
「殺しの軍団ですか? や、やっぱり悪の組織は怖いんですね」
 目の前にいる卯兎さんも初代赤龍会の人間だ……あんな優しい顔しているけど人を殺したことがあるんだろうか?
「養父(ちち)は、いえ、レッドドラゴン大佐は人殺しはしません。たくさんの正義の味方の組織を潰しましたが、一人の命も奪ったことがないことが自慢でした」
 卯兎さんは誇らしげに胸を張る。
「えっ! レッドドラゴン大佐って卯兎さんのお父さんなんですか?」
「ですから総長、わたしのことは呼び捨てでかまいませんよ」
「でも、卯兎さんはボクより年上ですよね。たとえボクが総長でも、年上の人を呼び捨てにはできません。これは譲れません。それに総長になったばかりで、右も左も解らない素人のボクが威張っても格好もつかないし」
 卯兎さんはしばらくボクの顔を見ていたけど、小さくため息を漏らした。
「では、よし野と名前の方を読んでいただけますか。ここにはいませんが、わたしには弟もいますから、名字だと紛らわしいので」
「そ、それじゃ……あ。よ、よし野さん。これでいいですか?」
「はい。総長」
 よし野さんは温かく微笑む。
「話が逸れてしまいましたね。総長の先ほどの質問ですが、正確にはレッドドラゴン大佐は、わたしの実の父親ではありません。わたしの本当の父は悪の秘密結社〈卯兎組〉の首領でサンダーラビットと言います。僅か一〇人ばかりの小さな組織でしたけど、みんな家族のように仲がよくって良い組織でした。父は首領と言っても温厚でとても優しくて、周りの堅気の衆に迷惑をかけないよう無用な抗争は避け、いつも堅気の人たちに気遣っているような人でした。でも…………五年前の下北沢抗争の時に母と共に亡くなりま……した」
 よし野さんは俯いて何かを堪えるように背中を丸める。
 泣いているのだろうか。ボクがデリカシーのない質問をしたから。どうしよう、女の人を泣かせたなんて――頭の中が真っ白になって、苦い感情だけが次々とわいてくる。助けて欲しいのに、儀武オジサンは我関せずみたいな顔をしてコーヒーを飲んでいる。どうしよう……。
「あ、あのぉ、よし野さん、ごめんなさい。ボクが馬鹿なこと聞いたから」
「いえ、総長が悪いわけではありません」よし野さんは顔を上げた。目の周りを赤い。「嫌ですねぇ、歳をとると涙もろくなって……ははは」無理矢理笑っている表情が痛々しい。
「歳だなんて……よし野さんはじゅうぶん若いですよ」
 そう、よし野さんはまだ若い。本当の歳は解らないけど、制服を着ていたら高校生でも通用するぐらい。
「お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます総長。でも、わたしもう二二歳なんですよ。総長から見ればおばさんですよね」
「んにゃ、俺から見ればよし野君なんてまだまだ小娘さ。もっと恋して女を磨かなきゃだめだぜ。なんなら今から俺の彼女になるかい?」
 今まで黙っていた儀武オジサンがニヤニヤしながらちゃかすように言う。場の雰囲気を変えようとした気遣いだろうか。
「八角さんのような根無し草は遠慮します」
 よし野さんも察したらしく、にっこり笑って毒を吐く。
 でも、さっきまでの重い雰囲気はなくなった。やっぱり儀武オジサンって凄い。
「何度も話が逸れてすみませんでした。もう大丈夫ですから続けますね」
 最初の会ったときの柔らかい雰囲気を取り戻し、よし野さんはまた背筋を伸ばして話を続ける。
「卯兎組が支配する下北沢を正義の組織〈友愛平和党〉が狙ってきたんです。友愛平和党は大手建設会社と手を組み、住民を追い出して下北沢を再開発をしようとしていました。当然父は住民の意思を無視した再開発には反対でした。温厚な父でしたが、下北沢の人々を守るため戦うことを決めたんです。数を頼んで乗り込んできた友愛平和党に屈することなく、父も組員の皆さんも必死に戦いました。一進一退の抗争が続き……業を煮やした友愛平和党は、卑劣にも私の母を人質に取ったんです。卯兎組組員全員が無条件降伏すれば母を解放するって言ってきました」
「正義の組織が人質ですか? なんだか悪党みたいな感じですね」
「ええ、もうその頃は正義も悪も名前だけで、実態はヤクザとかわりありません。実際、友愛平和党は卯兎組組員を殺すため、関西からヒットマンを連れてきていました。それを知った父は、組員に累が及ばないよう全員を破門しました。そして私と弟を五分の兄弟分であるレッドドラゴン大佐に預け、単身で友愛平和党に乗り込みました」
 よし野さんは呼吸を落ち着けるかのように小さく深呼吸する。
「友愛平和党に行った父は帰ってきませんでした。父が出かけた日に下北沢は大火災に遭い、街の半分が焼失しました。火事が収まって三日後、父と母の死体が発見されたんです。父は母をかばうように母の身体に覆い被さって」
「火事に巻き込まれたんですか?」
「いいえ。父の身体には三〇発以上の銃弾が撃ち込まれていました。母の身体にも……父も母も友愛平和党に殺されたんです。友愛平和党は両親を殺し、下北沢の街に放火したんです。さらには放火したのは卯兎組だと噂も流して」
「………………」
 あまりのむごさにボクはなにも言えなかった。だって、ボクには両親もお姉ちゃんもいる。よし野さんに比べれば幸せなボクになにが言えるんだろう……情けない。ましてや上辺だけの慰めの言葉なんて、これまでがんばってきたよし野さんに失礼な事だろう。ボクができることと言えば、よし野さんの両親の冥福を祈るぐらいだ。
 テーブルの下で手を合わせ黙祷のまねごとをしてみた。
「総長お気遣い、ありがとうございます」
 ぺこっと頭を下げたよし野さんは、何事もなかったように話し出す。
「両親を失った私たちはレッドドラゴン大佐に育てていただくことになりました。レッドドラゴン大佐は父と同じように温厚で優しくて、私たちを自分の子供のように面倒見てくれました。本当に良くしてくれたんです。そして、わたしは高校卒業と同時に初代赤龍会に入りました」
「それって、両親の敵討ちを……」
 優しそうな人なのに悪の組織に入るなんて――やっぱりそうだろうなぁ。
「その感情がなかったと言ったら嘘になります」よし野さんは寂しそうな表情を浮かべ、「でも友愛平和党は下北沢抗争から二年後に、他の正義の組織に潰されてしまいました。フィリピンで幹部全員が殺されたようです。それで友愛平和党も消滅してしまいました。両親の敵も討てないうちに……」声が小さくなる。
「よし野君も話し続けて喉が渇いたろう、これでも飲んでひと休みしたらいい。続きは俺が話すよ」
 よし野さんに紅茶を渡すと、儀武オジサンはボクを見ながら首をコキコキ鳴らす。
「いい加減疲れてきたから簡潔に話すからな」
 儀武オジサンはよし野さん姉弟を引き取ってからの初代赤龍会の動きを説明しだした。本当に簡潔な説明だったけど、僅か三年の間に起こった出来事が信じられないほど色々あったことを伝えるには十分だった。
 それは――三年前にレッドドラゴン大佐が暗殺されたこと。レッドドラゴン大佐の跡目を巡って内紛が起きたこと。跡目は親戚筋である大日本ブラッディーファルコン連合会の預かりになったこと。初代赤龍会の抑えがなくなったため、月光原市は正義と悪の組織の草刈り場になっていること。よし野さんが若衆頭代理補佐見習いとなって初代赤龍会を守っていること。そして、今の初代赤龍会には構成員がボクを含めて三人しかいないこと。


「えぇぇぇっ! 三人しかいないんですか!!」
「す、すみません。若衆頭代理補佐見習いのわたしがだらしないから……レッドドラゴン大佐が亡くなってから、総長代理のコブラヴェルデさんは新平和推進機構に転職しちゃうし、幹部や平組員の皆さんも廃業したり他の組織に移籍したりしちゃって……気がついたら、わたしと代貸のブラックソードさんしか残っていなくって」
 顔を赤らめたよし野さんは、フリルで縁取られたエプロンの裾を握っている。
「そのうえブラックソードさんは別荘送りだし」
 よし野さんはため息混じりにつぶやく。
 別荘って……刑務所だよね。
「車二台全損に雑居ビル半壊だろう、自業自得だ。ありゃ当分シャバには出てこられないぜ。ま、当分別荘で頭を冷やした方がブラックソードのためさ」
 儀武オジサンは楽しいとばかり声を弾ませる。
 実質、ボクとよし野さんの二人だけ? 二人でなにができるんだよぉ。よし野さんは強そうに見えないし、ボクだって運動神経はないし。これじゃすぐに他の組織に蹂躙されて、ボクもよし野さんのお父さんみたいに…………嫌だぁ。死にたくないよ。
「よ、儀武オジサン。ボク引退します。今すぐ総長を引退します」
「あ? 馬鹿なこと言うなよ。さっき総長になったばかりだろう。子供の遊びじゃないんだから、勝手に辞めたりできないんだよ」
「で、でも、このままじゃボクが死んで、ボクが殺されて、ボクが蜂の巣で、ボクが総長だから、ボクが狙われて、ボクはなりたくなかったのに、ボクは嫌なのに……だから、だから引退、引退しないと命が殺されて、引退するから殺さないでぇ」
「ワケ解らねぇよ。龍太、まずはこれでも飲んで落ち着け」
 ボクは儀武オジサンが差し出したコップを一気にあおっ……た。でっ! 何これ? 口の中が、喉が、胃袋が焼ける。
 あれっ? 目の前がグニャグニャになって〜
 足に力が入らないや。周囲の音も大きくなったり小さくなったりして……ほっぺたが冷たくて気持ちいいな。どうして冷たいんだろう? 変だな、いつの間に床に寝ころんだんだろう? なんかどうでもよくなってきたなぁ。
 ――総長! 八角さん、何を飲ませたんです。
 よし野さんが心配そうな顔で近寄ってきたなぁ。だいじょうぶ、ボクはゼンゼン平気だよぉ。
 ――スピリタスさ。さすがは世界最強の酒だな、龍太も大人しくなったぜ。
 スピリタスって何だっけ? えっとぉ……あっ、ポーランドのウォッカだ。確かアルコール度数は九六度だっけ。
 ――よし野君、俺は疲れたからもう帰るよ。龍太の酔いが醒めたらこの手紙を渡しておいて。それじゃ龍太のことよろしく。
 儀武オジサンお声がどこか遠いところで聞こえるなぁ。
 世界が回っているのかなぁ、それともボクが回っているのかなぁ。ゆらゆら、ぐらぐらして周りがもう解らない………………。


 酔いが醒めたボクを待っていたのは、猛烈な吐き気と頭痛。たった三人だけの初代赤龍会。そして儀武オジサンの手紙。
 手紙には、
『初代赤龍会二代目総長襲名おめでとう。ま、色々と大変だろうけど頑張ってくれ。とは言え三人だけじゃ心許ないだろうから、俺からもう一つプレゼントがある。月曜日学校に行ったら二年二組の緋色正義(ひしき・まさよし)と言う男に会え。きっと良い事があるはずだ。
             俺は所用でこの街を離れるから、後は適当にやってくれ。八角儀武』



 【3】 船出のち沈没



 月曜日の登校は辛い。ただでさえ学校に拘束される一週間の始まりなのに、土曜・日曜日とよし野さんに初代赤龍会の現状を説明されて――構成員がいない。組織は貧乏。ライバルが多い――責任が重い塊となってのしかかっていた。
 総長になったけど、ボクは何をすればいいんだろう。よし野さんに聞いても『総長の思うようにされてください。わたしはついて行きますから』としか言ってくれないし。もう頭の中がグチャグチャ。
 はぁ、どうしよう…………。
「月護、じゃまだ。入り口で立ち止まってるんじゃねぇよ」
「あっ、ごめん」
 えっ? もう教室? どうやって学校まで来たんだっけ?
「おはよう」
 騒がしかった教室が一瞬静まり、クラスメイトたちは誰が入ってきたかと教室のドアに注目する。でも、入ってきたのがボクだと解ると「おう」とか「ああ」って、返事とも嘆息ともとれる反応をして、クラスメイトとの会話に戻っていく。
 ボクはみんなの会話をぼぉっと聞きながら授業が始まるの待つ。楽しそうなみんなが羨ましくて、所在ない気持ちでいたたまれなくなる――のは、先週まで。今日はそれどころじゃない。
『緋色正義』儀武オジサンはどんなつもりで会えって言ったんだろう。

 *  *

 昼休みになると同時に教室を出て、二年生の教室がある二階に向かった。
 二階でボクの足は止まってしまった――一年生は一階だし、特別教室や職員室は別棟だから、二階に来たのは初めてだった――同じ校舎にあるとは思えないほど雰囲気が違う。一階の廊下に比べて歩いている人達が大人びている。儀武オジサンよりも老けて見える人、スタイル抜群で〈色気〉って言葉が具現化されたような人。ボクが言うのも変かもしれないけれど、一年生は中学生と区別が付かない感じで、二年生ははっきり言って大人の世界って感じ。たった一年の違いなのにこの差はなんだろう。
 二年生でこれだけ大人びているなら、三年生の廊下はどんな感じなんだろう。まさか所帯じみた雰囲気じゃないよね。
 通り過ぎる人達がボクに視線を投げかけてくる。やっぱり一年生って分かるんだろうか。
 居づらい。凄く落ち着かない。職員室に入るときよりも緊張する。でもここにいても見せ物だし、う゛ぅぅぅ…………。


「あのぉ、すみません。ひ、緋色先輩はいらっしゃいますか」
「ん、あなた誰?」
 二年二組の教室から出てきた女の先輩は、まるでボクが珍獣でもあるかのようにボクをじろじろと見る。
「一年四組の月護龍太って言います。それで、緋色先輩は?」
「ふーん。正義の味方に会いに来るなんて、あなたも物好きねぇ」
「はぁ。えっ、正義の味方?」
「緋色くんのあだ名よ。ひいろ、正義でしょう。だからヒーロー正義で正義の味方。ぜんぜん正義の味方じゃないけれどね。どちらかというと変人よ。いい男なのになぁ、もったいないなぁ」
 女の先輩は苦笑のような表情を浮かべ小さく息を漏らす。
「はぁ」
 ボクはどう答えていいか解らず、女の先輩と視線が合わないように視線を落とした。
「あなたに愚痴っても仕方ないわよね。で、正義の味方だけど、朝から見ていないわよ。今日は来てないんじゃないかな。あいつ成績がいいけど、よく学校をサボるのよ」
「はぁ」
 なんかボクって間抜け。さっきから「はぁ」ばっか。
 でも、いまの「はぁ」はちょっと意味が違う――知らない人に会わなくてすむ安堵感から思わず漏れたため息だ――朝からのしかかっていた不安感がすーっと肩から消えていく。
「二日連続して休むことは滅多にないから、たぶん明日は来ると思うよ。なんなら伝言でもしてあげようか」
 ボクのため息を落胆と思ったのか、女の先輩はちょっと首をかしげるような仕草で聞いてくる。
「いえ、結構です。どうもお邪魔しました」
 ボクは頭を下げ、居心地の悪いこの場所から逃れるべく、少し早足で階段に向かった。
 ……自分の教室に戻っても居心地がいいわけじゃないけど、少なくてもじろじろ見られないだけでもマシ。いや単に相手にしてもらえないだけかもしれないけど。

 *  *

 気が付いたら教室には誰もいなかった。
 一瞬、移動教室でボクだけ置いて行かれたのかとも思ったけれど、教室の窓から忍びこんでくる光は橙色。教室の外から流れてくる音も、運動部のかけ声になっている。そう言えばボクの記憶は五時間目の途中までしかない。昨日の夜から緋色先輩に会うことばかり考えて、緊張と不安でゆっくり眠られなかったから……居眠りしちゃったんだな。クラスメイトはボクのことなんか気にしていないから、下校時間になってもボクを起こそうなんて人もいないし。でも、先生も気が付かないなんて、
「ボクって本当に存在感がないなぁ」
 つい思っていたことが口から出てしまった。どうせ誰もいないから聞かれる心配もないけれどね。
「素晴らしい! そのもって生まれた存在感の無さ、悪の組織のトップにふさわしい!」
 えっ? 誰? 見回しても教室には誰もいない。でも、しっかり聞こえた。あれは絶対に空耳じゃない。
「一般人にその気配すら感じさせない隠蔽性、まさに闇に生きる人間の資質。その資質、しっかりと確認させてもらった」
「誰です? 何処にいるんですか?」
「失礼……」
 声はボクのお尻の下から聞こえる。座っていた椅子を覗きこむと、小さなマイクとスピーカーが貼りつけてあった。
 なんでこんな所にスピーカーが?
「……自己紹介が遅れた。私は緋色正義」
 緋色先輩? だって今日は休んでいたんじゃ。
「本当に緋色先輩なんですか? どこから話してきているんです?」
「私が本当の緋色正義であるかは難しい質問だな。私が緋色正義である証明は認識論や哲学の分野であり、一言ではこたえかねる。が、私は私が緋色正義であると信じて一七年生きてきた。これが答えにはならないだろうか。それともう一つの質問だが、私がいるのは第二クラブ棟のSFクラブの部室だ。用があるのならここで待っているが」
「今すぐ行きます!」
「だったら、黒板上と掃除道具入れの上にCCDカメラを仕掛けているので、手数だが回収してきて欲しい」
 教室を飛び出そうとしたボクにスピーカーが命令する――緋色先輩って偉そうな感じの人だなぁ。まさか、会った途端に怒られたりしないよね……なんか、胃が痛くなってきた。


 第二クラブ棟は昔使っていた木造の旧校舎を再利用したもので、渡り廊下を挟んで別棟と平行して立っている。ちなみに第一クラブ棟は新校舎の建て替えの時に一緒に建てた鉄筋コンクリートの建物で、学校が認めた正式な部が入っている。同好会や研究会のような学校から予算を貰っていない集まりは、すべて第二クラブ棟に押し込められている。学校からの予算という束縛がない分、みんな気ままにやっているとは聞いているけれど。どんな場所なんだろう。
 ……人気もない不気味な場所じゃなくって第二クラブ棟は活気あふれる場所だった。建物こそぼろいけど、各部室からは音楽や笑い声が響き、廊下もひっきりなしに人が歩いている。ボクが想像していた暗い雰囲気はみじんもない。
 一つの教室を壁で仕切って、二つのクラブが部室にしているようだ――前後の入り口には意匠を凝らしたネームプレートが張られている。トライアスロン同好会、鉄道模型研究会、ライトノベル愛好会、メイド研究会、実践萌え同好会……いったいどんな活動をしているんだろう。
 一つひとつのネームプレートを確認しながらボクは歩き続けた…………ないんですけど。三階建ての旧校舎を回ってみたけど、どこにもSFクラブの文字はない。緋色先輩は確かに第二クラブ棟って言ったのに。
 三階まで二往復してもSFクラブは見あたらない。回収したマイクに向かって尋ねてみても、スイッチを切っているのか全く反応がない。部室は見あたらないし、緋色先輩とは連絡とれないし、諦めて今日は帰ろうかな……いや、緋色先輩は待っている。でも、このままじゃ埒があかない。
「あのぉ、すみません。SFクラブの部室ってどこにあるか知りませんか?」
 知らない人と話すのは苦手だけど、意を決してアニメ同好会と書かれた部室から出てきた人に声をかけてみた――太っていて学生服がパンパン。おまけに脂ぎった長髪を後ろで縛っている変な人だったけど。
「ん、SFクラブぅ? そんなクラブあったけ? 知らないなぁ」変な人は妙に甲高い声でそう言うと、いま出てきた部室に向かって「部長ぉ、SFクラブってありましたっけ?」さらに声のトーンを高めて質問する。
「ある」の声と共に、背は高いけど痩せて貧相な男が、ゆぅらりと言う感じで出てきた。
 部長と呼ばれた人は、枯れ枝のように細くて長い指で廊下の奥を指さす。
「廊下の突き当たり右」
 部長はほとんど口を開けず、くぐもって聞きづらい声でボソボソと言う。
「さっき見ましたけど、荷物がいっぱい積んであって通れなかったです」
 使っていない机や椅子や段ボール箱が積まれていて、まるで人の立ち入りを拒んでいるように見えたんだけど。
「通れる。左端の段ボール。あれ動くから。奥に廊下続いてる。廊下の先にSFクラブ。でも、気をつけた方がいい。緋色、変なヤツだから」
 と言うと、部長はボクがお礼を言うよりも早く、ゆぅらりと部室に吸いこまれていった。廊下の奥を指さしたまま。
「あ、ありがとうございます」
 なんか変な人だなぁ……あの部長が変な人って言う緋色先輩って…………考えるのはよそう。場所も解ったし、とりあえず行こう。

 *  *

 段ボール箱の向こうには、思った以上に綺麗な廊下が続いていた。色々と荷物は置いてあるけれどホコリもチリもない。廊下を少し歩くと昔の化学実験室のドアに『SFクラブ』と書かれた金属プレートと、一メートルほどの長い板がかけられている。板には墨色も鮮やかに毛筆で『大日本ブラッディーファルコン連合会 初代赤龍会弓野学園支部』と書かれている。
 なにこの看板。いくら人通りがないとは言え、初代赤龍会は悪の組織なんだから、大ぴらに看板を出したらマズイよ。昨日だってよし野さんに『私たちはあくまで秘密結社なんです。一般の人には存在を知られず、日常の影で暗躍するのが本質なんですよ。ですから、総長も初代赤龍会二代目総長になったことを言いふらさないでくださいね』と、いつもの笑顔からは想像もできないほど、真面目な顔で真剣に言われたばっかりだ。
 急いで外した看板を抱きかかえるようにして、SFクラブの部室に飛びこんだ。
「緋色先輩、これなんですか! えっ?」
 部室のドアを閉めると同時に室内の照明が落ちた。
 真っ暗――窓はふさがれているようで光は入ってきていない。突然の闇にボクは一瞬自分がどこにいるかすら解らなくなって、看板を抱きしめたまま立ちすくんでしまった。
 と、突然、
「わははははははははは。ようこそ我がSFクラブに。初代赤龍会総長月護龍太くん、君の来訪を心より歓迎しよう」
 部室の奥にスポットライトが当たり、大柄の人物の姿が浮かび上がる。
 真っ赤で爆発したように乱雑に跳ねている髪、一八〇センチを超えている身体に真っ黒なマント、顔は……大きな口だけしかなかった。ローリングストーンズのロゴマークをリアルにしたような絵を描いた仮面をかぶっている。大きな口からでろりと出ている舌の絵が肉感的で、仮面とはいえけっこう不気味。
 そして、マントから出ている仮面男の右手には一輪のバラが握られていた。
 でもボクは妙に落ち着いて仮面男を眺めていた。人間って突飛すぎる事態だと驚くよりも、逆に冷静に――呆れるとも言うけど――なれるんだなぁ。
「君が世界を欲するなら、このバラに口づけしたまえ」
 バラをボクの方へと差し出す。
「どうしたのだ。世界は欲しくないのかね?」
「あのぉ、仮面にマントって暑くないですか?」
 バラを差し出した手が止まり、ボクもどうしていいか解らず、ただそのバラを眺めていた。
 ………………。
 ………………………………。
 膠着状態を破ったのは仮面男の方だった。
「せっかくの総長の来訪故、趣向を凝らしたのだが、いまひとつウケが悪かったようだな。少々残念ではあるが、その冷静な態度。さすがは総長になる人間だけはある」
 いや、冷静じゃなくって呆れていただけなんです。
「改めて自己紹介しよう。私が緋色正義だ」
 仮面男は仮面をゆっくりと外す。
 えっ!
「どうしたかね。いまさら驚いた真似の気遣いは無用」
「…………」
 ボクは心の底から驚いていた。だって仮面の下の顔は凄く整っていて――欧米人のように彫りが深くって、心なしか目も青味ががった濃灰色に見える――ボーイズラブのマンガに出てくる登場人物みたいで(いや、ボクにそんな趣味があるワケじゃない。お姉ちゃんが好きで無理矢理読まされたから)、ハンサムと言うより綺麗の割合が大きい。
 ちょっときつめの目に冷たい光が帯びていて、薄い唇に冷笑のような笑みが浮かんでいるけど、綺麗さを損なうものじゃない。真っ赤に染めた髪は似合わないけど……。
 こんな人が本当にいるんだぁ。
「ん、その手にしているのもは?」
「あっ、そ、そうですよ。この看板、この文字は何ですか」
「三条流で書いたが総長には気にいらなかったかな。やはり青蓮院流で書くべきであったか。それにしても総長に書のたしなみがあるとは、なかなかの教養」
 緋色先輩は腕を組んで満足そうに頷く。
 三条流? 青蓮院流? なにそれ?
「昨今は印刷文字でも書流を模倣したものがあるが、やはり直に書いてこそ墨字の醍醐味。そうは思わんかね? 伝統である書をないがしろにするような風潮は嘆かわしいものがある…………」
 それから一〇分、緋色先輩による現代教育と書道についての講義が続いた。ボクは緋色先輩の勢いに圧されて、「はぁ」とか「そうですね」としかこたえられなかった。
 さらに緋色先輩に看板がマズイことを理解させるのに一〇分。
 凄く疲れる時間だけが流れていった。

「……残念だが、総長の希望とあれば看板は外そう」
 緋色先輩は端正な顔に本当に残念そうな表情を浮かべる。まだ未練があるのか横に置かれた看板の方に視線を送っている。
「さて、私に用があるようだが、用とはなにかね?」
 緋色先輩はまっすぐにボクを見つめる。凄く綺麗で……恥ずかしいんですけど。真っ直ぐに見ていられなくって、視線を外してしまう。
「あ、あのぉ、ぼ、ボクもよく分からないんですけど、儀武オジサンが……あっ、儀武オジサンというのはボクの母方のオジサンで。その儀武オジサンに緋色先輩に会えって言われて……」
「みなまで言う必要はない」
 緋色先輩はボクの言葉を制した。
「八角氏から詳細はすべて聞いている。君が初代赤龍会の総長になったことも、初代赤龍会がおかれている状況も」
「儀武オジサンを知っているんですか?」
「知っているとも。八角氏は私の人脈の中でも最重要に位置している。八角氏がもたらしてくれる情報は有益で貴重なものが多い。そして今回は非常に特殊な情報の提供の代償に、初代赤龍会総長月護龍太の補佐と初代赤龍会の再興を命じられたのだ。私としては喉から手がでるほど欲しい情報だが、私は君という人間を知らない。故にCCDカメラとマイクを仕掛けて今日一日君と言う人物を観察させてもらった」
 CCDカメラを持ち上げて、口の端を歪めるようにして小さく笑う。
「合格だ。君の存在感の無さは見所がある。いまから私は君の補佐役となって初代赤龍会再興に協力しよう」
 存在感の無さって褒め言葉じゃないよね。やっぱりボクって存在感ないし、誰にも相手にされないし……えっ、えっ! ボクの補佐? 初代赤龍会の再興? 協力?
「ひ、緋色先輩、初代赤龍会に入ってくれるんですか?」
 緋色先輩はマントを跳ね上げると、
「私が初代赤龍会に入った以上、この月光原市一、いや日本一、もとい宇宙一の組織にしてみせよう! 大船に乗ったつもりで任せたまえ。わはははははははははは」
 ひとしきり高笑した後、急に真顔になった。
「初代赤龍会再興に課題は山積しているが、最大の課題は資金の問題だ。資金がなければ組織の維持、人員の雇用、作戦の遂行などに支障をきたす。故に我らがなさねばならない第一は」
 緋色先輩は言葉を止め、ボクを指さす。
「アルバイトだ!」
 こうして初代赤龍会再興の第一歩は始まった。

 *  *

「ところで緋色先輩。儀武オジサン提供の特殊な情報って何ですか?」
「こたえるのは簡単だ。が、それを聞いてしまったら世界各国の諜報機関に命を狙われる危険もあるが、それでもかまわないかね?」
 緋色先輩は昨日の夕飯の献立でもこたえるように、さらりと言う。
「冗談ですよね」
「冗談? 私は冗談は好まないが」何を言うのだとばかり、眉毛の片方だけ上げボクを一瞥する。「で、聞くかね? それとも聞かないかね?」
「け、結構です」
「賢明な判断だ。世の中には知らなくてもいいことは多いからな」
 にやりと笑った緋色先輩の笑顔が、ボクの判断が正しかったことを証明してくれている。
 こんな危なそうな人と一緒に、ボクはやっていけるのかなぁ……儀武オジサン、ボク凄く不安なんですけど。



【4】 初代赤龍会の旗の下に



 地方都市の商店街は閉店時間が早い。飲み屋やコンビニを除けば、たいていの店は午後九時までにはシャッターを下ろしてしまう。喫茶店〈れっどどらごん〉も午後八時には店を閉め、店内の電気も消えるのが日常だった。けど、今日は八時半を過ぎてもブラインドの隙間から明かりが漏れていた。
「えぇぇぇぇっ!」
 〈れっどどらごん〉の窓を震わすような女性の叫び声が上がった――幸いなことに〈れっどどらごん〉の窓は二重になっていて、叫び声が外に漏れることはない。


「あのぉ……本当に、本当に、本当ぉぉぉに、初代赤龍会に入ってくれるんですか?」
 よし野さんは細い眉毛を何度も上下させ、にじるようにして緋色先輩に近づいてゆく。
「いかにも」
「う、嘘や冗談じゃないですよね」
「私は自己の利益に結びつかない嘘はつかない。ここで嘘をついても何も利益はないからな、私の言葉は真実であると受け取って欲しい」
 噛みつかんばかりに顔を寄せてくるよし野さんが見えないかのように、緋色先輩は表情を変えることなく平然とコーヒーカップに口をつける。
「あ、ありがどぅうございまず……えっぐ、えっぐ、えっぐ…………」
 よし野さんは腰から下を失ったかのように身体がスッと垂直に降下し、トンッと床に座りこんでポロポロと涙をこぼしはじめた。
 よし野さんの広がったスカートの裾がボクの足にかかっている。なんだか足を動かしちゃいけない気がして、動けないまま妙に味が感じられないコーヒーをすすっているしかなかった。
「総長に質問があるのだが。いいかな?」
 緋色先輩はコーヒーを飲み干すと、動けないでいるボクを見て悪戯じみた笑みを浮かべる。
「はい」
「この女性は初対面の人間に対して、泣いて歓待の意を示すようなエキセントリックな性格をしているのかね?」
 言葉の割に、緋色先輩の顔には驚きの色はない。
「違います……たぶん」
「そうか。ならよいのだ。同僚がエキセントリックな性格では、常識人の私としては対応に困るのでな」
「はぁ、そうですねぇ」
 先輩の方が何倍もエキセントリックな性格だと思うんですけど――ボクは喉まで出かかった言葉を飲みこんで笑顔でこたえた。笑顔にしてみたつもりだけど、ひょっとしたら引きつった顔になっているかもしれない。だって、頬がピクピクしているもん。
「おどうさぁぁん、組員の方が増えたんでずよぉ……嬉じいでずよぉ……えっぐ、えっぐ……きっど昔みだいな初代赤龍会にしてみぜまずからぁ……えっぐ……見守っでいでくだざぁぁい…………」
 どこから出してきたのか分からないけど、よし野さんは写真を胸に当て泣き続けている。
「ぎっど、ぎっど……えっぐ……初代赤龍会を月光原市一の組織にじまずがら……えっぐ、えっぐ、えっぐ…………」



 よし野さんが泣きやみ、落ち着きを取り戻した頃には、壁に掛かった時計は九時を指していた。
「緋色さん、コードネームはどうしますか?」
 よし野さんはイタリアンハンバーグが載ったお皿を――泣いたらお腹が空きましたねぇ。なんて言って、よし野さんは料理を作っていた――緋色先輩の前に置く。
「コードネーム? そんなものが必要なのかね?」
「はい。秘密組織と言っても、作戦遂行時には自分の名前を名乗らなければならないことがあります。しかし、本名を名乗るわけにはいきませんから」
「確かに本名を名乗れない状況もあるな」
「そうですよ。それにコードネームは幹部だけの特権なんですよ。普通は戦闘員Aから始まって、手柄を立てて初めてコードネームが貰えるんです。けれど緋色さんは総長のお知り合いですし、八角さんの推薦もありますから特別待遇なんですよ」
「コードネームは幹部の証か。ところで卯兎さんも若衆頭代理補佐見習いと言う役職なのだから、コードネームはあるのだろう。コードネームは何かね?」
 緋色先輩は咀嚼のテンポを狂わすことなく質問する。
「本当はコードネームなんて貰えるようなことはしていないんですけど、いちおうイエローラビットという名前を貰っています」
 よし野さんは顔を赤らめて消え入るような声でこたえる。
 ちょっと背中を丸めて顔を赤らめるよし野さんはとても年上には見えない。ふてぶてしい態度だけ見れば、緋色先輩の方がずっと年上に見える。
 イエローラビットか。ふわふわと柔らかそうなイメージで、よし野さんに似合ってるな。
「イエローラビットね。初代総長はレッドドラゴン、別荘送りになっている組員は確かブラックソードだな」緋色先輩は三人の名前を口の中で何度か繰り返し、「では、総長のコードネームは?」ボクを見る。
「シルバードラゴンと言います。儀武オジサンがつけてくれたんです。名字が月護だから月の色と言うことでシルバー、名前が龍太だからドラゴンでシルバードラゴンす。こんなかっこいいコードネームはボクには似合わないですよね……」
 よし野さんは「凄く似合ってますよ」なんて言ってくれてるけど、無理して言っているのが分かるよ。何よりボク自身が似合っていないと自覚しているしさ。本当はバイオレット船虫とか、土留め色ホオジロタマリンなんて冴えないコードネームがお似合いなんだ。
 ボクに比べて、よし野さんは似合っていていいなぁ。ん?
「ねえ、よし野さん。イエローラビットのラビットは名字からとったんですよね。じゃあ、イエローはどんな理由でつけたんですか?」
「初代赤龍会に入ると義父に告げた時、着ていたセーターがヒヨコ色だったんです……だからイエローなんです。安直ですみません」
「可愛くていいです。凄く、本当に似合っています!」
「ありがとうございます。総長にそう言っていただけると、この名前にちょっとだけ自信がもてました」
 よし野さんは照れくささそうに手をスカートの前ですりあわせる。
「要するにだ」イタリアンハンバーグを綺麗に食べ終えた緋色先輩は、ボクとよし野さんを交互に見てから話しだす。「要するにコードネームは色を表す言葉と名詞の組み合わせであればいいのだな」
「はい。あ、でも、名詞じゃなくって動詞や形容詞でもかまいませんよ。ご希望とあれば接続詞とかでもいいですけど」
 接続詞? それって〈しかし緋色〉とか〈緋色、そして〉と言うこと? なんだか売れない演歌歌手の歌みたいだなぁ。
「命名方法は分かったが、咄嗟にコードネームなど思いつかないな。ましてや自分自身の名となると尚更のことだ」
 緋色先輩は端正な顔を少しだけ曇らせて腕を組む。
「あのぉ、緋色さんはお綺麗ですし髪の毛が赤いから、ビューティーレッドなんてどうですか。それともカーマインハンサムの方がいいかしら。そうですよ、カーマインハンサムがいいですよ」
 よし野さんはこれで決まりとばかりに胸を張る。もう少し胸があると決まるんだろうけど、ちょっとボリューム不足なのが悲しい。
「ちょっと待ちたまえ。なぜ私が笑いを誘うコードネームを付けなければならないのかね。残念ながら卯兎さんの提案は辞退させていただこう。総長には何か妙案はないかな?」
「えっ、あっ、緋色先輩の名前が正義だからジャスティスレッドなんてどうですか」
「悪の組織の一員が正義とはシャレにもなっていないな。ん? でも、それはそれで諧謔的でいいかもしれないな」
 緋色先輩は目を細めてうっすらと笑みを浮かべる――顔が整っているから、仮面じみた表情になって怖いんですけど。
「ならば、名前をもじって〈偽りの朱〉と言うコードネームにしよう。総長これでかまわないかね?」
 ボクに反論するべきところもなく、緋色先輩のコードネームは〈偽りの朱〉に決まった。でも、よし野さんは「カーマインハンサムの方が格好いいのにぃ」なんて愚痴っていたけど。
「で、私のコードネームも決まったことだし、初代赤龍会の今後について話そうではないか」
 緋色先輩は真っ赤な髪を手ぐしで掻き上げ、さも楽しい話を語り聞かせるがごとく、ずぅぃと身を乗り出す。

 *  *

 平日の月光原商店街は人通りが多い。ましてや夕方となれば夕飯の買い物や学校帰りの人たちでごった返している。そのなかでボクと緋色先輩は商店街の側溝の金蓋を外しては、溜まった落ち葉や泥を掻きだしていた。
「緋色先輩、ひっ!」
 緋色先輩の突き刺すような視線を受け、ボクは後ずさってしまった。
「総長。今なんと言ったのかね? 私の本名が聞こえた気がするが、まさか初代赤龍会の公務中に本名を呼ぶようなマネはしていないだろうな」
「も、もちろんです。偽りの朱さんと呼んだんです」
「ならいいが。で、用事は何かな」
「ボクたち、一体何をしているんでしょう?」
 緋色先輩は伸びでもするような姿勢で上体を起こし、スコップを差し出す。
「商店街の排水溝に溜まったゴミの掃除だが、総長は分からずにやっていたのかね?」
「掃除は分かるんですけど、どうしてボクらが掃除をしなきゃならないんです。」
「愚問だな」
 緋色先輩は教壇上の教師のように腕を組んだ。上下とも学校指定の濃紺のジャージに足下は長靴って格好なのに、緋色先輩が着ているとびしっと決まって見える。まるで上等のスーツを着ているみたい。ボクは……ジャージがだぶだぶで長靴ががふがふで、畑仕事を手伝う中学生みたいにしか見えないと思う。
「我々の最終目的は何かね?」
「一応、日本征服です。できるかどうか分からないけど……」
「ちゃんと理解しているではないか。ならば、理由は自ずと分かるだろう」
「すみません。本当に分からないんですけど」
「仕方がない、まだ早いが休憩にしよう。では、こちらに来たまえ」
 緋色先輩は露骨に失望の表情を浮かべ、路地の奥へ入っていく。小さな公園に着くと、ベンチに座るようアゴで示す。
「絶対的な武力をもっての支配、経済による支配など、日本征服にはいくつかの方法があることは、総長も理解していると思う」
 前置きもなしに緋色先輩は話しだす。
「しかし現状を顧みれば、これらの方法の実行が無理であることは理解できるだろう。我々は人的にも、経済的にも矮小な存在だ。人員の補完策としてアルバイトを雇用したとしよう。時給は最低八〇〇円は必要だし、危険手当や交通費など諸経費がかかってくる。仮に人員問題が解決して征服作業に着手できたとして、今度は支配地域に対する慰撫問題が発生するのだ。支配地域人民の支持を得られなければどうなるかは、フランス革命やロシア革命など世界の歴史が証明している」
「はぁ。凄すぎて実感はないですけど、日本征服が大変なことは分かりました。でも、それが排水溝掃除と繋がるんですか?」
 緋色先輩はにぃと嫌な笑みを浮かべ、
「資金と人民の支持を同時に獲得するためだ」
 空になったコーヒー缶をべっこんと握りつぶす。スチール缶なのに……。
「いいかね、我々の拠点である〈れっどどらごん〉は商店街に位置している。卯兎さんの自宅も同位置にある。もし我々の征服作業の際、商店街の人々から反感を買ったらどうなる」
「〈れっどどらごん〉が襲われ、よし野さんが危険にさらされる……ですか?」
「その通り」
 そうかなぁ、商店街の人って親切な人が多いし……。
「故に、我々は初代赤龍会の名前でこの仕事を受けたのだ。合法的な資金調達によって組織の立て直しを図ると同時に、他人が嫌がる仕事を率先して行う初代赤龍会を『良い組織』と思わせる一石二鳥の作戦なのだよ。鬼神をも欺く知謀とは、正にこのことだろう」
 緋色先輩は満足げに頷く。
「でも、アルバイト代って全部掃除して五〇〇〇円ですよね。これだけ広い商店街を掃除するのって、あと三日はかかりますよ。割が合わないんじゃ」
「総長、大局的に物事を見ていただきたい。我々が得る資金の多寡よりも、我々が得る民衆の支持という無形の利益の方が大きい。それに、商店街会長から排水溝から出てきた金に関しては我々が取得してよいとの承諾も得ているのだ」
「それって猫ババ……やっぱ、まずいですよ」
「日本征服と言う大逆を企む人間が、猫ババごとき恐れてどうするのだ。さぁ、休憩はおしまいにして作業を続けよう。のんびりやっていたら三日では終わらなくなる」


 結局、ボク達が三日間も放課後を潰して得た利益は、商店街からの正当報酬五〇〇〇円と排水溝に落ちていた非合法報酬二一〇六円、人目を盗んで自動販売機の返却口を調べて手に入れた三一〇円の合計七四一六円。それにどこから迷い込んできたのか、ワニガメ一匹とアンゴラウサギ二匹も捕まえた(カメとウサギは緋色先輩がペットショップに売りに行って五〇〇円になった)。

 *  *

「龍太さんも緋色さんも、排水溝掃除ご苦労様でした」
 アルバイト最終日に〈れっどどらごん〉に行くと、よし野さんが笑顔で出迎えてくれた。本名を呼ばれ緋色先輩は一瞬目を細めたけど、初代赤龍会の公務以外は普通に名前を呼ぶことを思い出したようで表情をゆるめる――ボクの提案で公務以外では本名を呼ぶことにしたんだ。だって総長と呼ばれるのって結構恥ずかしいしね。だから、緋色先輩はボクのことを月護君と呼ぶし、よし野さんを卯兎さんと呼ぶ。
「お二人ともお疲れでしょう、疲れた時には甘い物が一番。ホットケーキを作りましたから食べてくださいね」
 テーブルの上には八段重ねのホットケーキと、甘みある柔らかい匂いを漂わすコーヒーが置かれている。
「わたしも龍太さんのお手伝いができればよかったんですけど、お店を勝手に休むわけにもいかなくって、すみませんでした」
「よし野さんが謝る必要ないですよ。お店もあるし、なにより結構肉体労働でしたから、女の人には無理ですよ。それに凶暴なワニガメやアンゴラウサギがいたし」
 ボクはワニガメに食いちぎられたジャージの裾と、アンゴラウサギによる腕に残った痣がよく見えるよう袖をまくる。
「私も月護君と同じ意見だ。〈れっどどらごん〉からの安定収入は、初代赤龍会維持には欠かせないからな」
「そうですか。じゃあ、わたしはお店を頑張りますね」
 よし野さんは、力こぶをつくるポーズをする。でも、よし野さんの力こぶは初代赤龍会の現状を示すみたいに小さなものだった。
「卯兎さんには引き続き店をやってもらうとして、問題は我々だな。高校生である以上、そうそう学校を休むわけにもいかない。かと言って単発のバイトがそうあるわけでもないし、あったとしても金銭的には芳しいものではないだろう。これから諸機材の購入、人員の確保など課題は山積しているのだが、さすがの私も打つ手がない状態なのだ」
 緋色先輩は軽やかに腕を動かし、優雅にホットケーキを食べながら、難しい表情を作る。
「よし野さん、なにかいいアルバイト知りませんか?」
「そう言う情報は詳しくないんです。排水溝掃除のアルバイトだって、緋色さんに聞くまであることを知らなかったんです」
「うまい話なんてないですよねぇ」
 ボクとよし野さんが同時にため息をついた時、
「お困りのようだな諸君」
 厨房の奥から声が響き、儀武オジサンがぬっと現れる。
「儀武オジサン!」
「八角さん。いつのまに?」
 今度はボクとよし野さんは同時に声を上げる。
 緋色先輩も驚いたようで「むぅ」と鼻を鳴らす。
「儀武オジサンは用事があって街を出て行ったんじゃないですか?」
 儀武オジサンは大きなバッグの中から煙草をとりだし、火をつけゆっくりと吸い込む。
「ん、そうだぜ。だけど用事が済んだから帰ってきたんだよ」
 もわぁと白煙を立ち上らせこたえる。
「そうだ。土産があるんだ。北海道名産〈木彫りの熊の置物〉と、長野名産〈ハチの子の缶詰〉、それに鹿児島の〈桜島大根〉。みんなで仲良く分けてくれ」
 バッグから取り出し、ボクの目の前に置く。
「なんです、このお土産。用事があったんじゃないんですか?」
「あったよ。日本縦断温泉巡りパートワンって用事がな。今回は登別温泉と白骨温泉と指宿温泉に行って来た。やっぱ温泉はいい。日本人は温泉だな。そうだ龍太、月光原なんて征服しないで、別府温泉あたり征服しに行かないか」
「初代赤龍会には大分まで行くお金なんてないです。総長のボクですらアルバイトしなきゃならない状況なんです」
 ボクを総長にしながら、勝手にいなくなった儀武オジサンに対する怒りがわいてきて、言葉がきつくなってしまう。
「怒るなよ、いい社会体験ができてよかったじゃねぇか。でだ、龍太たちは次のアルバイトがなくて困っているんだろう。俺がいいアルバイトを紹介してやるよ」
 椅子に座った儀武オジサンは映画の悪役のように、膝に乗せた木彫りの熊を撫でながら善意とも悪意ともつかない笑みを浮かべる。



 【5】 日本の伝統



 儀武オジサンが帰ってきてから一週間。放課後になると、ボクと緋色先輩は〈れっどどらごん〉に寄るのが日課になっていた。なぜって、アルバイトを紹介してくれるはずの儀武オジサンが〈れっどどらごん〉に入り浸っているから――もったいぶっているのか、別の理由があるのか分からないけど、『例のアルバイトだけどな、今日はまだ教えられないんだ。また、明日来てくれよ』と言うばかり――仕方なく日参しているんだ。でもボクとしては、よし野さん特製のチーズケーキが食べられるし、早く帰ったってすることもないから不満はない。緋色先輩の気持ちは分からないけど、初代赤龍会のためと割り切っているみたい。
 今日も授業が終わると同時にボクと緋色先輩は〈れっどどらごん〉に向かった。


「学業に励んできたか」
 カウンターの隅に陣取った儀武オジサンは、大盛りのピラフから顔を上げると、毎日言っているセリフでボクらを迎えてくれた。
 いつもと同じセリフと言うことは、今日もアルバイトの紹介はなしかな……ボク的にはその方が嬉しい。だって儀武オジサン絡みの仕事じゃ、なにがあるか分からないし、嫌なことが起きそうな予感がして……。
「例のアルバイトだけどな」
 儀武オジサンはまたピラフに顔を戻し、
「今日紹介できると思うぜ。ちょっと待っていろ」
 満足げに頬張った。


 ボクと緋色先輩が席に着くや、セーラー服姿の女の子がすすっと寄ってきた。身長は一五〇センチそこそこの小柄で、気の強そうな顔をしている。日焼けした褐色の肌、猛禽類じみた鋭い眼差し、意志の強そうな太い眉毛、真っ黒な長い髪の毛を無造作に後ろで縛っている。膝上一〇センチのスカートを穿いているけれど、可愛らしいと言うよりは、凛々しいと言った感じがする女の子だ。
 その女の子がぐっと腰を割って中腰になる。上目遣いにボクらを見つめる目には力強い色が浮かんでいた。膝の前に置いた両掌を見せ、親指を包むようにして人差し指から順番に折ってゆく。
 何をするつもりなんだろう?
 と、緋色先輩が椅子に座ったまま少女に向き直った。凄く真面目な表情をしている。
 えっ? 何がどうなっているの? 何をするつもりなの?
 二人の尋常ならざる雰囲気に、店内にいたお客さんがちらちらと眺めている。けど、女の子は気にする風もなく、睨めるように緋色先輩の目を真っ直ぐ見る。
 女の子は中腰のまま握った拳を返して手の背を見せる。
「これにてお引き合い願います」
 甲高い声が店内に響き渡る。
「まずは、お座りなさい」
 背筋を伸ばした緋色先輩がきちんと両手を膝に置いてこたえる。
「これにてお引き合い願います」
「まずは、お座りなさい」
「これにてお引き合い願います」
「まずは、お座りなさい」
 二人とも表情を崩すことなく、同じやりとりを繰り返す。
「再三の御言葉に従いまして、ご免を被ります」
 少女は中腰のままで床に片膝をついて左手を突き出す――拳は握ったまま仰向けにして。
「さあ、お控え下さいますうよう」
 女の子を諭すように緋色先輩がこたえる。
「御言葉ながら、未熟者でございます」
「手前とて未熟者でございます。さあ、お控え下さいますよう」
 緋色先輩はいつもより声のトーンを落としている。
「お控え下さい」
「さあ、お控え下さいますよう」
「お控え下さい」
「さあ、お控え下さいますよう」
 またも互いに譲り合う。
「さように言われましては仁義になりません。是非ともお控えお願いいたします」
 女の子は緋色先輩を真っ直ぐ見上げ、声を強める。
「逆意とは存じますが、再三の御言葉に従いまして控えさせていただきます」
 女の子の勢いに押し切られるよう、緋色先輩は小さく頭を下げる。
「早速お控え下さいましてありがとうございます。向かいまするうえさんとはお初にございます。手前、いたって口不調法、あげます言葉、前後間違いありましたら御免お許し被ります。手前、縁もちましての親分と発しますは、大日本BF団四天王の一人がブラッディードラゴン元帥の右腕、初代赤龍会一代目総長レッドドラゴン大佐、従います若い者にございます。未熟者の身をもちまして、姓名の儀、声高に発しまするは失礼さんにございます。姓は純鈎(じゅんこう)、名は麗魅(れみ)、通称ブラックソード。聖リチャード女子高校一年A組に籍を置きます、御視見通りの駆け出しにございます。恐惶、御見知りおかれまして、行く末、万端よろしく御頼み申し上げます」
 立て板に水というか、朗々と流れるように口上を述べ、女の子は頭を深々と下げた。
 何言ったんですか? あまりにも独特の節回しと早口で、よく分からなかったんですけど……なんだか重要なことを言っていたような気もするんだけど。
 と、緋色先輩は少し前屈みになって、
「御念の入った御言葉に申し遅れました。例の通りうえさんとは初めて御意かないます。自分、初代赤龍会二代目総長シルバードラゴンの若い者で、名は緋色正義、通称偽りの朱と申します。弓野学園二年二組に籍を置きます、お見かけ通りのしがない者でございます。どうぞ御見知りおき下さいまして、御同様お引き立て願います」
 女の子にも負けることなく、よどみなく口上を返し、お辞儀する。
 ボクはと言うと何をどうして良いのか分からず、
「緋色先輩、先輩たちは何していたんですか?」
 小声で尋ねた。
「総長でありながら、仁義が分からないとは情けない」
 緋色先輩は呆れたと言うよりは、小馬鹿にしたような表情を浮かべ肩をすくめる。
「いいかね、今のは仁義と言って渡世人の挨拶のようなものだ。そもそも渡世人というものはだな……」
「えぇっ! このボクちゃんみたいな人が新しい総長なの!」
 素っ頓狂な声が緋色先輩の説明を遮る。
「まだ子供じゃん。なんでレッドドラゴン大佐の跡目がこんなガキなんだよ。弱そうだし、頭も悪そうな顔してるじゃん」
 両腕を腰に当て睨むようにしてボクに顔を近付けてきた――ジロジロと、ねぶるように、ボクの周りをぐるぐる回りながら、ふんっと鼻を鳴らす。はっきり言って態度悪いんですけど――さっきまでの腰の低さからは想像もつかない豹変ぶり。
「あたしがいない間に勝手に跡目を決めやがって。それもこんなに弱っちそうなガキだぜ。草葉の陰でレッドドラゴン大佐も泣いているんじゃねえのかよ。あぁ、なに見てるんだ、言いたいことかるのかよ」
 女の子はボクの前で仁王立ちし、ボクの目を突くような勢いで人差し指を突きつけてきた。
「あたしが仁義を切ったのに、テメエは挨拶もなしかよ。あぁ、なにか言ったらどうだよ。なんだ、テメエには口がないのか」
「え、あっ、えぇと……ボ、ボク、二代目総長で弓野学園一年生の月護龍太って言います」
「は? 龍太? 覇気のねぇツラしてやがくるせに、いっちょ前に龍なんて名乗りやがってよ。テメエのどこが龍なんだよ。龍を名のるんなら男気とか覇気とかみせやがれ。あたしはな、レッドドラゴン大佐の男気に惚れて初代赤龍会に入ったんだ。なのにこんなに覇気のないガキが新総長だぜ。やってられねぇよ。なにが龍だ。せいぜいがヘビぐらいじゃないか。今日からテメエは蛇太と名乗れ」
「すみません」
 女の子の剣幕におされて、ボクの口は無意識のうちに謝罪の言葉を告げてしまった。でも、なんでボクが謝らなきゃいけないの? 龍太なんてどこにもある名前じゃないか。逆に蛇太なんて名前があったらおかしいと思うんだけど。
「なんで、そこで謝るんだ。男だったらがつんと言い返してこいよ。本当に情けねぇヤツだな。蛇なんて勿体ない、ミミズやゴカイで十分だ」
 女の子がボクに変な名前を付けるたびに、緋色先輩が紙ナプキンに〈蛇太〉〈蚯蚓太〉〈沙蚕太〉と書いて文字を教えてくれる。
「蚯蚓太は……名前じゃないような…………」
「ああぁ、声が小さくて聞こえねぇな。はっ! ミミズじゃ仕方ないか」
 小さい体をめいっぱい反らした女の子は、うっすらと笑みを浮かべて――これが嘲笑という表情なんだろうけど――顔を横に向け、わざとらしく耳に手を当てる。
「純鈎君、そのへんで勘弁してやってよ。これでも龍太は俺の可愛い甥っ子なんだからさ」
「八角の叔父貴! こいつが叔父貴の甥っ子?」
 純鈎と呼ばれた女の子は心底驚いた風に、ボクと儀武オジサンを何度も見る。
「冗談。全然似てないじゃんか」
 確かに儀武オジサンとボクはあんまり似てない。儀武オジサンはいい加減なところはあるけれどワイルドでカッコイイし、物知りだし、どこにいても生きていくような生命力のようなものが表情に出ている。かたやボクは勉強もスポーツもできないし、顔だって平凡だし……。
「いやいや似てるぜ。ほら、繊細で感受性豊かなところなんかそっくりだろう」
 儀武オジサンはボクの肩を抱いて顔を並べる。
「…………」
 純鈎さんは口を小さく開けたままボクたちを見ている。
 緋色先輩はボクと儀武オジサンを一瞥して「戯れ言を」と小声でつぶやく。
 ボクも違うと思います。儀武オジサンの〈センサイ〉は〈繊細〉じゃなくって〈戦災〉だと思う。儀武オジサンが関わるとロクな目に遭わないし、何もかもグチャグチャになるし。
「反論がないところをみると納得してくれたようだな。さて……」
 儀武オジサンはボクたちのテーブルにつき、呆けている純鈎さんにも座るよう声をかける。
「君たちはさっきから大声で初代赤龍会のことを話しているだろう。一応は秘密組織なんだから、大声で世間様に喧伝する必要もないだろう。ま、俺はかまわないんだけどな、よし野君がハラハラしっぱなしで仕事にならないんだ。いや、仕事が変にはかどっているというべきかな」
 儀武オジサンはため息混じりにカウンターを指差す。
 カウンターじゃよし野さんが、雨に濡れた子犬のような目でボクたちを見ていた。心配を誤魔化すために無意識で作ったのか、カウンターの上には色とりどりのパフェが並べられている。そしていま新たなストロベリーパフェが完成したところだった。
「今日は店を早じまいするそうだから、話はそれからにしてくれよ。でな、おまえらが責任とってアレ食えよ」
 儀武オジサンが火のついていないタバコで指し示した先には、合わせて一二個のパフェが並んでいた。



 早じまいした店内に残ったボクたちは、カウンターに陣取ってまったりとした雰囲気に包まれていた。
「ところで純鈎君、いつ出てきたんだ? まさか食い物がまずくて逃げ出してきたんじゃないだろうな?」
「逃げちゃいない。今日出てきたんだよ」
 純鈎さんは儀武オジサンの問いかけに大儀そうにこたえると、椅子の背にもたれかかるようにして座り直し、苦しげな息を吐く。
 苦しそうなのも無理はない。純鈎さんはパフェを四個も食べたのだ――いくら甘い物が好きでも、四個も食べれば気持ちも悪いだろう。ちなみに緋色先輩は「甘い物はあまり得意ではないのだが」と言いながらも六個、ボクは二個が限界だった。
「そう言えば八角氏は『器物破損で君が別荘送り云々』と言っていたが、少年院とはそんなに簡単に出てこれるものなのかね。差し支えがなければ後学のために少年院での生活というものを教えてくれないかな。それとよし野さん、クリーム系で舌がなずんでしまったから、口直しにあんみつか羊羹でも貰えないだろうか」
 緋色先輩の注文を聞いた途端、純鈎さんは顔をしかめ、
「あたしは少年院なんか行ってねぇ。別荘に押し込められていたんだ」
 口を押さえるようにしてこたえる。
「緋色君、俺は純鈎君が少年院に入っていたなんて言ってないぜ。純鈎君はああ見えてもいいところのお嬢様なんだ。ご両親はいくつもの会社を経営しているし、別荘も国内外に幾つも持っているんだぜ。ま、当人は単純な乱暴者だけどな。なにせクラスメイトがヤクザに因縁つけられたと聞いた途端、単身でヤクザの事務所に乗りこんで暴れたあげく、ビルや車を壊してよ。ご両親が事件をもみ消したから警察沙汰にはならなかったけど、こいつは軽井沢の別荘で謹慎よ」
 儀武オジサンはニヤニヤしながら、ポケットから出したウィスキーのミニチュアボトルに口をつける。
「あたしは間違ったことはしてない」
 儀武オジサンに背を向けた純鈎さんは怒鳴るように言う。
「分かってるさ、確かに間違ったことはしていない。ただ、物事には限度と言うものがあるだろう」
 儀武オジサンは頭を掻き、フケでもついたか指先をふっと吹く。
「悪いのはあいつらだ。あたしは悪くない! クラスメイトがヤクザに脅されたんだぜ、それをとっちめてなにが悪いんだよ! よし野さん、あたしに昆布茶お願い」
 純鈎さんは苛立たしげに立ち上がり、大股でトイレに行ってしまった。
「ま、純鈎麗魅がどんなヤツか分かったろう。単純で短気で暴力的だけど、悪いヤツじゃねぇよ。同じ初代赤龍会の仲間なんだから仲良くやれよな。苦労するだろうけどよ」
 儀武オジサンは不吉な言葉をさらりと言って、タバコに火をつける。
「麗魅ちゃんは、ちょっとがさつで、猪突猛進で、近所の不良も一目置くほどの乱暴者ですけど、根は良い子です……たぶん……だったらいいけど……はぁ」
 よし野さんは嫌な思い出でもあるのか、表情を曇らせて大きなため息をつく。
 なんか、儀武オジサンやよし野さんの言葉を聞いていると、凄く不安になるんですけど。
「よし野さん、便座にカバーつけてよ。お尻が冷たくて風邪ひきそうだよ。ほら、鳥肌が」
 純鈎さんはスカートの裾を持ち上げて太股を見せる。
 ――緋色先輩と違うタイプだけど難儀そうな人だなぁ……少なくても恥じらいはないみたい。


「ところで純鈎君。君は二代目総長である月護龍太君に力を貸してくれるのかね?」
 二皿目の羊羹を食べ終わったところで、緋色先輩は唐突に切り出した。
「あたしにこいつを総長として仰げと言うのか。頭は悪そうだし、運動神経はなさそうだし、根性もなさそうだし。嫌なこった!」
「月護君の学力、運動能力、根性に関しては、純鈎君の予見を否定するつもりはない。が、純鈎君は先代のレッドドラゴン大佐には恩義があるのではないかね?」
「あるさ。恩義はあるけど、こいつにじゃない。レッドドラゴン大佐にだ」
 緋色先輩に顔を向けたまま、純鈎さんはボクに指を突きつける。
「それは承知しているとも。が、現在の初代赤龍会の構成員は私を含め三人。うち二人は戦闘戦力とは言い難い。この幾多の組織が互いを潰し合う状況下で、戦力の乏しい初代赤龍会が生き残れる確率は非常に低いと言わざるを得ない。情けない話だが、その時期はそう遠いことではないと断言できる。君は恩義あるレッドドラゴン大佐が作り上げた、この組織が消滅してもかまわないと言うわけだな。義理も人情もない部下を持って、レッドドラゴン大佐も草葉の陰でさぞ嘆いていることであろう。新参者ながら回向の一つでも」
 整った顔に苦渋の表情を浮かべ、緋色先輩は「観自在菩薩……」と般若心経を唱えはじめる。
「ボクが総長じゃ心許ないのは分かっていますけど、根性も体力も鍛えますから仲間になって下さい」
「麗魅ちゃん、わたしに懐いてくれていたじゃない。いまになってわたしを見捨てて余所に行ってしまうの? やっと二代目総長が決まったのよ。これからが大変なの、お願い手伝って」
 よし野さんは大粒の涙をボロボロ零しながら、純鈎さんの左手を握る。
 緋色先輩の読経と、よし野さんの泣き声が唱和して一つの波となる。その波が大きく小さく、うねるように店内を震わしている。
「行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……」
「お願い麗魅ちゃん、わたしたちを見捨てないで……」
「……掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」
「……義父さんのためだと思って、お願いよぉ」
 熱気というのか、念というのか、重苦しい空気が純鈎さんの周りに渦巻いている。少し離れたところに座っている、ボクでさえなんとも言えない重圧を感じていた。
「菩提娑婆訶……」
「お願いよぉ……」
 純鈎さんは右手で髪の毛を掻きむしると、
「だぁぁぁあ! わかったよ。入るよ。入ればいいんだろう! だけどな、あたしはレッドドラゴン大佐のために入るんだ。テメエのことを認めたワケじゃないからな!」
 ボクの顔を見て、ふんっと鼻を鳴らした。


「万事丸く収まってなにより。さて、お待ちかねのアルバイトの話をしようか」
 カウンターから立ち上がった儀武オジサンは、純鈎さんの横に立ち純鈎さんの肩に手を置く。
「今回のアルバイトの依頼主は、この純鈎君の父親で聖リチャード女子高校の理事長でもある純鈎聡一郎氏からの依頼だ」
「親父からの依頼だと。八角の叔父貴に意見するのは気が引けるけど、それだけはやめた方がいい。あの男が絡むとろくなことにならない」
 純鈎さんは嫌そうな表情を浮かべ、儀武オジサンの手を振り払いレモンスカッシュを一気に飲み干す。
「純鈎君が父親を苦手にしているのは知っているが、割がいいんだ。それにもう前金を貰っているしな」
「前金なんか返してしまえよ。と言うか、親父絡みならあたしはやらない」
「悪いが純鈎君に辞退はできない。前金は君が壊した自動車の弁済に使い切っている。まあ、後金だけでも五〇万円にはなるから悪い話じゃないだろう」
 五〇万円!
 五〇万円の言葉はボクの理解を超える金額だった。だってお年玉を集めても見たことないお金だし、お父さんたちがボーナス時に支払うローン代金よりも多いんだもん。
 よし野さんも「凄いですねぇ。このお店の何日分の売り上げかしら」なんて感心している。
「私達には選択の余地はないということですか。しかし金銭的には問題はない。いいでしょう」
「さすがに緋色君は世の中がよく分かっている。なんやかや言っても、ものを言うのは銭だよな」
 緋色先輩の同意に気をよくしたのか、儀武オジサンはニコニコと笑みを浮かべる。
「龍太もいいだろう」
 キラリとばかり歯を煌めかせた笑顔をボクに向ける。
「う、うん」
 儀武オジサンの笑顔が気になるけど、緋色先輩も反対していないし――純鈎さんは不機嫌そうな表情で頬杖ついているけど――ボクは頷いた。
「報酬は分かりましたが、我々は何をすればいいのです?」
 緋色先輩にも不安があるのか、目を細めて儀武オジサンをじっと見る。
「期間はこんどの三連休。場所は聖リチャード女子高校。で、仕事は」
 わざとらしく言葉を止め、儀武オジサンはタバコに火をつけ、深呼吸するように煙を吸い込む。
「仕事はオバケ退治だ」
 煙と一緒に吐きだした「いい話だろう」と言う言葉は、すぐに消えていった。



 【6】 Arbeit Macht Frei 1



 聖リチャード女子高校――純鈎財閥の教育部門・純鈎教育財団によって、月光原大学の付属高校として五年前に開学。国際社会に通じる人間形成を目指し、各種語学教育に力を入れている。また、クラブ活動に手厚い補助を与え、文系理系クラブとも全国大会に出場する力をつけてきている。生徒数四六一人――新設校ながら人気の高い学校として有名になってきている。
 その聖リチャード女子高校の正門に、一台のマイクロバスが着いたのは、土曜日の午前九時過ぎのことだった。



「総長、早く降りてきたまえ」
「テメエは本当にグズだな」
「龍太さん、いえ、総長。用意はできたんですよね。お早く」
 みんなはボクの気持ちなんかお構いなし。好き勝手なことを言っている。
「嫌だぁ!」
 冗談じゃない。誰が降りるもんか。ボクはマイクロバスの後部座席にうずくまって、みんなの声を無視するべく両手で耳をふさぐ。
 けど、耳をふさげたのは僅か数秒だけ。乱暴に手を引きはがされてしまった。
「龍太ぁ、遊んでいるんじゃねぇよ。時間がもったいないから早くしろ」
 儀武オジサンはボクの手を握ったまま、怒気を抑えるように一言一言区切るようにして言う。真っ赤な地に白いハイビスカスが染め抜かれたアロハシャツ、細身のサングラス、うっすらと伸びた無精髭。どう見たってカタギには思えない出で立ちの儀武オジサンが、苛ついた声をだしている。本当は怖くてたまらないけど、こればっかりは譲れない。
「オジサンがなんと言っても、ボクは出ません!」
「しゃあねぇな……」
 ちっと舌打ちと共に、ボクの右腕はねじられるようにして引き上げられた。
「痛、痛い! オジサン……手、手を離して」
「いいからバスから降りろ。降りたら手を離してやるよ」
 儀武オジサンの手に力が入り、肩の関節がねじれてぎゅりと嫌な音をたてる。もう座ってなんかいられない。ボクの身体は歪に反り返ったまま、一歩一歩とマイクロバスの昇降口へと押しやられる。
「降りるから。でも、ちょっと待って。心……心の準備が」
「総長のおまえが出渋っていたら話にならないだろう。いつまでも未練たらしくしやがって。四の五の言わずに観念しろ!」
「わぁ!」
 右腕が自由になった途端、ボクの足は僅かな時間だけど空中を駆け――足に風を感じたのは一秒にも満たないかもしれないけど――転ぶように地面に手をついてだらしなく着地した。
「白か。総長は清純路線なのだな」
「うわぁ! そんなもの見せるんじゃねぇよ!」
「総長、あのぉ……」
 みんなの視線がボクの下半身に集まっている。なんで……って、スカートがまくれている。
「わぁぁぁぁぁあ! 見ないで、見ないで!」
 顔中の血が沸騰したかのように熱くなる――スカートがこんなに簡単にまくれることも、まくれたら凄く恥ずかしいことも初めて知った。恥ずかしくって、じっとなんかしてられなくって、ボクはお尻を押さえて後ずさる。
「『わぁぁぁぁぁあ』じゃねぇだろう。おまえはいま女子高生なんだから、女の子らしく『きゃあ』とか言えよ」
 儀武オジサンは頭をガシガシ掻きながらマイクロバスから降りてくる。
 そう、ボクたちは――初代赤龍会の全メンバー――アルバイトのために変装していた。最初は私服で行くことになっていたんだけど、儀武オジサンが「女子高に潜入するのに男の姿、ましてや部外者の格好はマズイだろう。三連休とはいえクラブ活動や寮生もいるんだからよ」正論なんだか、嫌がらせで言ったんだか、アヤをつけて……結局、ボクたちは聖リチャード女子高校の制服姿で行くことになった。
 でも、女装なんて恥ずかしくって……。
「総長。もっと堂々とできないのかね。我々はなんらやましいところはない。なのにオドオドされると、我らまで怪しい目で見られるではないか。先程から衆人の視線を感じないかね」
 確かに視線は集まっている。休日だけど結構な数の生徒が登校しているようで、何人もの女の子が校門を出入りしている。その生徒たちがさっきから訝しげな視線を送っているのは気づいている。でも、それはボクに対する視線じゃなくって、緋色先輩に対する視線だと思うんだけど。
 だって、細身とはいえ一八〇センチの長身がセーラー服を身にまとっているんだ。膝上二〇センチのスカートに黒のオーバーニーソックス――緋色先輩にあうセーラー服やオーバーニーソックスがよくあったな――それに真っ赤な髪の毛を左右で束ねてツインテール。緋色先輩は端整な顔立ちだから似合っていると言えば、似合ってはいるけど目立ちすぎ。なのに緋色先輩には自覚がないようで、腰に手を当ててボクを見ながらヤレヤレとばかり首を振る。
「大丈夫です、凄くお似合いです。全然違和感ありません。勉強も運動もできないし、生まれてこのかた男の子とつき合ったこともないような、地味な女子高生そのものですよ。誰が見ても冴えない女の子です。このわたしが保証します」
 よし野さんはオーバーに胸を叩く。
 褒め言葉じゃない気がするんですけど……ニコニコしているよし野さんの顔を見ていると、そんな言葉も言えずに、ありがとうございますなんて言ってしまう。
 似合っていると言えば、聖リチャード女子高の現役生徒である純鈎さんは当然としても、よし野さんのセーラー服姿は全然違和感がなかった。
「わたしみたいなオバサンが、いまさらセーラー服ですか……恥ずかしいです。でも初代赤龍会のためですものね、恥ずかしいのは我慢します。似合っていなくても笑わないでくださいね」
 今回の作戦は金額が大きいから、よし野さんもお店を臨時休業して参加することになった。で、マイクロバスの中で着替える前は恥ずかしそうに言っていたのに、ボクたちの中じゃ一番まともな女子高生に見える。
 さすがに儀武オジサンが女子高生に変装するのは無理だから、純鈎さんのお父さん、つまり理事長に言って、保健医代理の肩書きを貰って学校内に入ることになった。自分だけセーラー服が着られないせいか、朝から儀武オジサンの機嫌が悪い。
「ところでよ龍太、ヘソまで隠れる白のブリーフはないだろう。いまどき中学生だって穿かないぞ。下着にもっと気を遣わないと、いざ本番の時に女の子に笑われるぞ。その点、俺はいつ何時コトに及んでもいいように黒のビキニパンツだ。本当のオシャレというものを見せてやる」
 アロハシャツの裾を払うと、儀武オジサンはジーパンのチャックに手を……。
「きゃぁぁぁ!」
 こんどはちゃんと言えた。なんて思いながら儀武オジサンの手を押さえる。ボクだけじゃない、緋色先輩も、よし野さんも儀武オジサンの腕を押さえている。
「変なもの見せるんじゃねぇ!」
 トドメに純鈎さんが見事な後ろ回し蹴りを儀武オジサンのアゴに。
 さすがの儀武オジサンも、糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちた。チャックに手をやったまま。
 ――なに、あの人たち。
 ――露出狂が出たみたいよ。
 ――あんな赤い髪の毛の女の子ってウチの学校にいたっけ?
 隠密裏にオバケ退治をするため、わざわざセーラー服まで着たというのに、みんなの視線が集まっているんですけど。
「ここにいたら人が集まっちまう。とりあえず理事長室に行くぞ」
 純鈎さんは校門をくぐって大股でズンズンと歩いていく。
「早くついてこいよ。この学校は広いから迷っても知らないぞ」
「ちょ、ちょっと待ってよ純鈎さん。お、重っ……」
 ボクは気絶している儀武オジサンを引きずって後を追った。
 ――あれって純鈎さんじゃない。理事長の娘のさ。
 ――暴力女って噂の純鈎?
 ――純鈎と一緒にいるんだもん、あいつらも変なヤツだよきっと。
 ――だったら関わらないようにしなきゃ。触らぬ神に祟りなしだよ。
 なんか色々な意味で注目度一〇〇パーセントなんですけど。

 *  *

「社会資料室の動く鎧。第二棟三階の入ってはいけないトイレ。更衣室の鏡に映る白い影。グラウンドを走る幽霊ランナー。武道場にでる幻の剣士。寮の風呂場の怪……以上が聖リチャード女子高校の七不思議と言われるものです。皆さんにお願いしたいのは、この七不思議が真実か単なる噂なのかの確認。もし本当に怪異現象があるのならば、その早急な解消です」
 理事長室に案内されたボクたちは、依頼主である純鈎さんのお父さんには会えなかった。代わりに事務長の肩書きを持つ女の人が――ドラマに出てくる有能秘書って感じ。背も高いし、高そうなスーツを着てるし、黒フレームのメガネをかけてるし、なにより委員長がそのまま大人になったような堅苦しさがある――感情のない声で用件を簡潔に言う。
「皆さんも校内で拠点がないと不自由でしょうから、保健医控え室を提供いたします。あそこならばガスも水道もトイレもあります。夜は寮の来客用を二部屋用意してありますので、そこにお泊まり下さい。なお、入浴は寮生たちが使いますから午前零時以降にお願いします。それと……」
 事務長さんは後ろのドアを開け、一人の女の子を招き入れる。
 動く……日本人形?
 これはボクの頭に浮かんだイメージ。でもたぶん他の人も同じだと思う。だって烏の濡れ羽というのだろうか、背中の中程まで伸ばした真っ黒で艶のある髪、眉の上で真っ直ぐに切りそろえている。色白で丸みを帯びた顔に一重の切れ長の目と、朱を入れたみたいに赤い唇。硬質というか表情がないように見える顔。
 そうして人形のように、背筋を伸ばした姿勢を崩すことなく入ってきた。
「紹介します。彼女は三年生の常居雪南(とこい・ゆきな)さん。民俗学クラブの部長でもあります。常居さんには今回の件をすべて話してあります。七不思議についても詳しいので、皆さんのお手伝いをしてもらうことにしました」
「常居です。解らないことも多いでしょうから、何でも気軽に聞いてください」
 事務長さんに促されるように挨拶した常居さんの声は、ちょっと掠れた感じのする低い声だった。
 常居さんは首を動かさず、体を動かしてボクたち一人一人の顔をじーっと眺め、
「よろしければ皆さんのお名前を教えていただけますか」
 日本人形のような表情を崩すことなく尋ねる。
 この常居さんという人はちょっと変わっているかも。だって、よし野さんや純鈎さんはともかく、緋色先輩の女装やヤクザテイスト満載の儀武オジサンを見ても眉一つ動かさないんだもん。
「七不思議についての詳細は保健医控え室でします。では、そろそろ行きましょうか」
 ボクたちの自己紹介が終わると、常居さんはスカートのひだをほとんど揺らすことなく、静かな足取りで理事長室を出ていく。本当に人形みたい――この学校の七不思議って動く鎧だよね……動く日本人形じゃないよね。



「この学校の七不思議はもうお聞きでしょう。よくある学校の七不思議と思われているかもしれませんが、私の調査によれば、この学校で起こる怪異現象はすべて事実と思われます。ただし七不思議ではなく、怪異現象は六つしか確認されていません。未確認の事象はいくつかありますが、事務長からも何も言われてはいないので今回の件からは省きました。なお確認の定義は、怪異現象が複数回発生していること。複数人数による視覚など五感で認識。この両方の条件を満たしたものを確認としています。具体的には動く鎧は去年だけで三回、今年に入っても一回の目撃報告がありますし……」
 保健医控え室に着くや、常居さんは唐突に話しだした。
 六畳ほどの室内には使い古されたソファーとテーブルの応接セット、壁際には折り畳まれたパイプ椅子が数脚、トイレとおぼしきドアの横には小さな台所。がらんとしていて、応接セットがなければ倉庫のようにも見える部屋。その部屋の真ん中を常居さんが陣取り、ボクらは常居さんを取り巻くようにしていた。
「なお七不思議の七つ目に関しては、音楽室のひとりでに鳴るピアノとか、屋上に現れる血まみれの老婆とか、いくつか未確認事象が報告されていますが……」
 ボクらの存在をまるで無視したように、常居さんは蕩々と語り続ける。
 ボクはどうリアクションしていいのか解らず、椅子に座ることもできずにただ聞いているしかなかった。よし野さんも「はあ」と呟いたきり黙って聞いている。緋色先輩は冷笑するかのように、口の端を少し歪めている。純鈎さんは聞く気がまるでないように、頭の後ろで両手を組んで室内を見回している。儀武オジサンは保健医にでもなったつもりか、アロハの上に白衣を引っかけて、くわえタバコでニヤニヤしている。なんだかマンガに出てくるモグリの医者みたいなんですけど。
「そのあたりで戯れ言は止めてもらおう。この学校の怪異現象というものが真実か、それとも錯覚誤認の類かは我々が決める。ま、怪異現象などは単なる錯覚や思いこみ。すなわち世迷い言と相場は決まっているがな」
 緋色先輩が拒絶の色を滲ませた声で、常居さんの話を遮る。
「世迷い言ですか」
 いままで表情がなかった常居さんの顔に表情が浮かんだ。それは笑みとも、渋面ともつかない複雑な表情――でも、好意的ではないことだけは確か。
「物事の真実を知ろうとしない人には、言葉を連ねても無駄なだけですね。いいでしょう、怪異現象を身をもって経験すれば、例え猿以下の感受性しか持ち合わせていない人間でも納得できるでしょう」
 常居さんはこんどははっきりと笑みを浮かべ、ついてきなさい、と有無を言わせない口調でボクたちに命じる。
「俺は部外者みたいなものだから、ここに残るからな。じゃあ、おまえらがんばれよ」と、真心の入っていない儀武オジサンの声援をもらって、ボクたちは保健医控え室を出た。

 *  *

「このトイレは入ってはいけないトイレと言われています」
 常居さんがボクらを連れてきた場所は、図書室や調理室、会議室など特別教室が入っている第二棟の三階の女子トイレ――左右五つずつ向かい合わせに並んだ個室。その一番左奥を指差し、当たり前のことのようにさらりと言う。
 感情を見せない常居さんに比べて、ボクはさっきから落ち着けないでいた。だって女子トイレだよ。いくら女装しているとはいえ、男のボクが男子禁制の場所にいるんだ、こんな場所で落ち着いていられる男なんているはずがない……すみません。いました。緋色先輩は堂々と仁王立ちして、怪異現象が起こるというトイレを見ている。
 ボクらの調査のため『使用禁止』の立て看板をトイレ前に出しているとはいえ、見慣れた小便器がない空間は男子を拒む雰囲気を持っている。誰かが間違えて入ってこないだろうか……気になって、つい振り返ってしまう。
「さっきからキョロキョロしやがって。イヤらしいことでも考えているんじゃないだろうな」
 純鈎さんは呆れたように半眼にした目で冷たい視線を送ってくる。
「ち、違うよ。落ち着かないんだよ。だってここ女子トイレだし……」
「女子だろうが、男子だろうが、トイレなんて大して違いはないだろう。気の小せぇ野郎だな」
「そんなこと言ったって」
「あーぁ、レッドドラゴン大佐が生きていたらなぁ。こんな場合でもどーんと構えていたから、あたしたちも安心できたのによ。なのに、こんなのが総長だし……あたしは運がないよ」
 純鈎さんはわざとらしくため息をついて横を向く。
 ボクにだって言い分はあるんだ――総長なんてなりたかったワケじゃないし、儀武オジサンが勝手に決めたことだし。それに純鈎さんだって男子高校のトイレに入ることがあれば、ボクと同じ気持ちになるはず。純鈎さんみたいな人には、はっきりと言わなきゃ気持ちや考えは伝わらないのかな。だったら……。
「あのぉ、純鈎さん」
「あ? なんだよ、うるせぇな。今は初代赤龍会としての公務中なんだぞ、テメエも総長なんだから、常居先輩の話をちゃんと聞けよ」
「はい」
 最初に話しかけてきたのは純鈎さんの方なのに……。
 いけない。どんな形であれボクは総長なんだ。するべきコトはちゃんとしなきゃ。気を取り直して、怪異現象が起こるという便器を見た。
 どこにでもありそうな、ありふれた和式便器。個室の中には落書き一つあるわけでなく、綺麗なものだ。ただ、そのドアにはスライド式の鍵が三つもついていて、そこだけが異質さ醸し出している感じがする。でも、女子トイレだと安全面を考慮して、幾つも鍵をつけているのが普通なのかもしれない。今まで女子トイレに入ったことがないから、ボクにはそれが思い過ごしなのかどうか判断がつかない。
 ボクの後ろから頭越しに覗くようにして、緋色先輩も便器や個室の中を観察している。
「それでこのトイレになにが起こるというのだね。おおかた、入ったらドアが開かなくなるとか、便器から血まみれの手が出てくるとか、人が覗けないはずのドアの下の隙間から覗く目があるとかの馬鹿げた話だろうがな。ま、使用中に本当に手が出てきたら、恐ろしさのあまり、小心の私などはショック死をしてしまうかもな」
 緋色先輩は大袈裟に身体をふるわせる。さっきから緋色先輩は常居さんに突っかかるような物言いをしているけど、緋色先輩ってオカルトとか不思議とか嫌いなんだろうか。そう言えば以前、テレビで心霊特番をやっている時「科学を理解し得ぬ無知蒙昧な輩の戯れ言だな」って呟いていたっけ。
「ふん」常居さんは緋色先輩を無視してボクたちに、「このトイレで起こる怪異現象は、想像力が欠如したウドの大木が言うようなものではありません」さっきと同じように無表情なままで語り出す。
 抑揚のない声のせいか、心なしかトイレ内の温度が下がったように感じられる。
「このトイレは閉まらずのトイレなのです」
「閉まらずのトイレ?」
 ボクとよし野さんと純鈎さんの声がハモった。
「ちゃんと鍵を掛けたのを確認しても、使用中にドアが勝手に開いてしまうのです」
「使用中にドアが開くんですか。怖いですね。でもそれは、鍵の故障や構造的なことじゃなくって、怪異現象が原因なんですか」
 よし野さんは個室から逃げるように腰を退いている。
「はい。最初は鍵の掛け忘れや、鍵の故障も考えられ、ドアの交換や鍵の増設を行いました。なのにしっかり鍵を掛けていてもドアは開いてしまうのです。物理的理由は一切ありません。となれば考えられる原因はただ一つ霊障です」
「ドアが開くのが霊障ならば、そこいらにある自動ドアの動力源も幽霊かね。いやぁ、クリーンなエネルギーだ」
 緋色先輩の揶揄に常居さんはちょっとだけ表情を歪めたけれど、何事もなかったかのように話し続ける。
「この霊障は時間も相手も選びません。このトイレを使えば必ず起こるのです。毎年それを知らずに使ってしまう新入生が後を絶たず、そのたびに騒ぎになり、泥縄的に鍵を増設していった結果がこれです」
 三つの鍵を一つずつ指し示す。
「下らない。自分の鍵の掛け忘れを棚に上げて騒ぐとは……小児と女人は救いがたしとは、まさにこのことだな」
「だったら自分で確かめてみてはいかがです。その勇気があるならばですが」
 冷たい笑みを浮かべて、常居さんは緋色先輩を見上げる。
「よかろう。調べなければならない事案は多いのだ、ちゃっちゃと済ませてしまおう。では、総長、トイレに入りたまえ」
「えっ!」
 ボクが入るの? だって、いま『よかろう』って緋色先輩が言ったじゃないですか。
「時間がもったいない。男らしく……おっと、いまは女人に化けているのだったな。だったら女らしく早く入りたまえ」
 えっ、えっ! 緋色先輩に背中を押されて個室に押し込まれてしまった。
「鍵をちゃんと掛けるのだぞ」
「は、はい。それより、みんなちゃんと外にいますよね?」
 暗くもないし、綺麗な個室なんだけど、僅か一枚のドアが閉まるだけで言いしれぬ不安がわいてくる。
「いるから安心したまえ。で、どうだ? 鍵が勝手に動くとか、何らかの異常現象はないかね」
「変化はありません」
 ドアの前に立って鍵を注視しているけど、鍵が勝手に動き出すような気配はない。ドアを動かしてみても鍵がしっかりかかっていて開くこともない。おかしいな……ドアは必ず開くんじゃなかったのかな。
「さて、五分経ったがドアは開かないぞ。これは閉まらずのトイレだったのではないのかね」
 ドアの向こうから緋色先輩の勝ち誇ったような声が聞こえる。
「月護くん」少し間をおいて常居さんの声が聞こえてきた。「あなたはいまどのような状況ですか?」
「え? あ。ドアの前に立っていますけど」
「では、便器にまたがって腰を落としてみてください。それとドアは気にせず前を見ていてください」
 ボクは言われるままに腰を落として、クリーム色の個室の壁を見る――便意もないのに便器にまたがっているのって、なんだか馬鹿なことをしている感じがする。いつまでこうしていればいいんだろう……。
 !!
 息をのむ気配がして横を見ると、
「えっ!」
 よし野さんが両手で口を押さえてボクを見ている。
「総長……ドア開いています」
「わ、わ! 見ないで!」
 パンツを下ろしているワケじゃないけど、便器にしゃがんでいる姿を他人に見られるのは凄く居心地が悪い。
「ほら、ドアは開いたでしょう」
 勝ち誇ったような常居さんの声と同時に、純鈎さんが個室に飛びこんできた。
「あたしたちを脅かそうとして、テメエが開けたんじゃねぇんだろうな」
「違う、違うよ」
「本当かよ」
 純鈎さんはボクを個室の隅に押しやると、ドアを叩いたり床をつま先で蹴ったりしている。
「怪しいところはないようだな」ちっ、と舌打ちしてボクを睨みつける。「もう一度だ。もう一度やれ」
「純鈎さんが信じられない気持ちは解りますが、何度やっても結果は同じですよ」
 苛ついた純鈎さんとは対照的に、常居さんはなんだか楽しそう。
「いや、ぜひとももう一度やりたまえ。何らかの偶然が重なってドアは開いたのかもしれない」
「おや、自分の目で見たことも信じられないとは。まあいいでしょう。月護君もう一度お願いね」
 苦々しい表情の緋色先輩を一瞥して、常居さんは微笑みの表情を浮かべる。
「はい」
 ボクに選択肢はないようだ。諦めてドアを閉め、緋色先輩の忠告通り何度も鍵がかかっていることを確認して…………ドアは開いた。
「ふふふふふ……納得していただけたかしら」
 日本人形のような顔が笑むとなんとも言えない凄味が出るんだなぁ。
 表情がないと思えた常居さんが表情を浮かべるのに対して、緋色先輩は目をちょっと細めただけの硬質な顔つきで閉まらずのトイレのドアを睨んでいる。
「あら、真実を知ったショックで言葉も出ないのかしら。可哀想にねぇ。でも真実は変えられないものなのよ。これでボクちゃんにも解ったでしょう」
 常居さんは緋色先輩に顔を近付け、猫なで声でゆっくりと言う。
「ああ、よく解ったとも。この下らない事柄の解決方法がな」
 緋色先輩は閉まらずのトイレのドアを拳で軽く叩いた。
「あら、どうするんですか? 主旨を変えて、生け贄でも捧げて祈祷するとか、お札でも貼るんですか?」
「冗談。科学の力で解決してみせるとも。ま、指をくわえて結果を待っていたまえ」
 振り返った緋色先輩は、笑顔の常居さんに冷たい笑顔でこたえる。


 緋色先輩は『五分ほど廊下で待機していて欲しい』と言うと、残るように指示した純鈎さんを除いたボクたちをトイレから追い出した。
 と、トイレの前で待つボクの耳に、べぇぎ、ばぁぎ、と不穏な音が聞こえてくる。
「いいぞ。入ってきたまえ」
 緋色先輩の声に入ってみると……ドアがなかった。すべての個室のドアは無惨にも割られて床に積み上げられている。
「これは……」
 常居さんは口を開いたまま硬直している。
「どうだ。すっきりしたろう」純鈎さんが制服の袖で額の汗をぬぐう。「いやぁ、合板って割りづらいんだよな。一撃じゃ割れなくって二撃三撃と入れちまったぜ。それにしてもアンタもやるな。ほとんど一撃で破壊していたじゃねぇかよ。なにか武道をやっているのか?」
「たしなみ程度にな」
 汗一つかいてない緋色先輩はスカートについたホコリを払うと、呆けている常居さんの肩に手を置く。
「物理学と破壊工学の力によって問題は解決だ。これでいかがかな」
「な、なにをしたんです。こ、これのどこが解決なんです!」
 我に返った常居さんは、顔を紅潮させて緋色先輩の胸ぐらを掴んだ。
「笑止。問題は解決しているではないか」
 緋色先輩は常居さんの手を払いのけ、セーラー服のスカーフを直す。
「この事象の問題点は、隠れている場所が不意に露呈されることに起因する。ならば、初めからすべてをオープンにしていれば問題はなくなる。しかし、一つだけドアが無ければ、それを怪しむ人も出てくるだろう。ならばすべてのドアをなくせば違和感はなくなる。もとより人間が排泄行為を行うのは自然の摂理。当たり前の事柄が、なぜ恥ずかしいのだ。それを隠そうとする行為自体が愚かしいのだ。これで仮に霊障なる馬鹿げたことがあったとしても、ドアがなければ勝手に開くなどと言うこともできまい。すなわち使用中にドアが開くという現象は解消されたのだ」
「よく解らないんですけど、これでいいんですかねぇ」
 よし野さんが緋色先輩と床に積み上げられたドアの残骸を見比べながら呟く。
「我々が受けた依頼は問題の解消。問題を解消したのだから疑念は無用。それより、少し早いが昼食にしましょう。久しぶりに身体を動かしたら腹がへってきた」
 緋色先輩はトイレから出ていく。その後を「あたしも腹へったよ。学食に行こうぜ」と言いながら純鈎さんがついて行く。
「本当にこれでよかったんですかねぇ」
 よし野さんが小首をかしげながらトイレから出て行く。
 トイレから出るときボクが振り返ると、ドアの残骸の前で常居さんがブツブツとなにか呟きながら肩をふるわしている姿が映った。
 廊下に出た時。
「私はこんなやり方は認めないわよ!」
 叫び声がトイレから響いてきた。



 【7】 Arbeit Macht Frei 2



 聖リチャード女子高校の学生食堂は、やっぱり女子高の食堂だなと感じさせる、明るい内装の施設だった。仄かに桃色がかった壁、落ち着いた木目調の八人掛けのテーブル。汚れが目立つ壁、実用本位の飾り気の無いテーブルが並んだ、弓野学園の学生食堂とは大違い。
「怪異現象には発生時間が決まっているものもあります」
 常居さんはマーボー丼セットを――マーボー丼、ミニサラダ、牛乳プリン付き。サラダとデザートが付いてくるあたりが女子高らしいと思うけど、マーボー丼と牛乳プリンって合うんだろうか――食べ終わると、前置きなしに話しだす。
「社会資料室の動く鎧は深夜しか確認されていませんし、寮のお風呂場で起こる怪異現象ももっぱら夜に発生しています。逆に更衣室の鏡に映る白い影や、武道場の幻の剣士は確認された時間もさまざまで、発生に固有の時間はないようです」
 休みの日とはいえ、学生食堂には寮生や部活の生徒が結構来ている。楽しそうに食事したり、談笑したり、華やかな雰囲気が伝わってくる。でも、ボクたちのテーブルの周りだけは誰も近寄らずがらんとしていた。それは無理もないかもしれない。だって目つきの悪い儀武オジサン、真っ赤な髪の緋色先輩、椅子の上であぐらを組む純鈎さん、むっつりと眉間にしわを寄せたままの常居さんが陣取るテーブル。ボクだって赤の他人だったら、こんな怪しげな集まりの近くには近寄らない。でも、残念ながらボクは当事者なんだよね。だったら少しでも早く依頼を片づけないと。ボクが口火を切るしかないかぁ。
「じゃあ、次は更衣室と武道場の怪異現象を解決すれば良いんですね」
「時間があまりないのは解っていますが、残念ながら更衣室も武道場も終日使用しているため、今日は調査はできません」
 常居さんはすまなそうな声でボクに頭を下げる。
「だったら夜までは何もできないわけですか?」
「いえ、陸上部の練習は三時までですから、夕方にはグラウンドを走る幽霊ランナーに取り掛かれます」
「幽霊ランナーってどんなものなんですか?」
 食べるのが遅いよし野さんはやっとウドン定食を食べ終え、のんびりとした口調で聞いてきた。
「幽霊ランナーの正体は分かっているんです」
 常居さんはクリアファイルから一枚の紙を取り出しテーブルに置く。
 それは新聞のコピーだった。


「……幽霊ランナーの正体は一〇年前に死んだ相原英司という名前の高校生です。相原さんは優秀なランナーで、高校二年生の時から色々な大学の関係者が見に来ていたぐらいです。しかし三年生の春、陸上部の練習中にこのグラウンドで倒れ、そのまま帰らぬ人となりました」
 常居さんは新聞のコピーを指差す。新聞には『陸上練習中の高校生死亡。生徒の体調管理に落ち度か』と、小さな記事が載っていた。記事を読むと――私立鳳ケ原高校三年生の相原英司さんが陸上部の練習中に心筋梗塞で死亡したこと。相原さんは体調不良のまま練習しており、学校側の健康管理に落ち度があるのではないか。と、書かれていた――人が一人死んだのに、あまりにも簡潔に書かれていて、なんとなく寂しい気分にさせられた。
「あのぉ、学校の名前が私立鳳ケ原高校となっていますけど、この学校とどう関係しているんですか?」
 よし野さんは小首をかしげる。
「疑問はもっともです。聖リチャード女子高は開学してまだ五年ですが、前身の学校があったんです。私立鳳ケ原高校と言って、林田財団が運営する三〇年の歴史を持つ学校でした。しかし一〇年前ぐらいから林田財団の本体である林田産業が経営不振に陥り、その影響でしょうか、生徒の数も減っていきました。そして相原さんの事件もあり、学校経営が立ちゆかなくなりました。その時、今の理事長が鳳ケ原高校を買い取り、新たに女子高として再出発したのです」
「そうなんですか。なんとなく建物の作りが古い感じはしていたんですけど、そう言う理由があったんですね」
 よし野さんは納得とばかり頷いている。
「ええ、建物そのものは古いですが、再出発に当たり色々と改装したそうです」
 常居さんはそう言うと、思い出したように手を叩いて、
「そうそう、純鈎グループが学校経営に乗り出したのは、なんだかお姉様に事情があったみたいです。そのあたりのことは純鈎さんから聞いて下さいね」
 純鈎さんに揶揄ががった笑みを送る。
「姉の事情?」
 緋色先輩はお茶の入ったカップを手の中でゆるゆる回しながら言う。
「ああ、この学校は親父が瑠魅(るみ)姉ちゃんのために買ったんだよ」
 純鈎さんは椅子の上であぐらを組んだまま、つまらなさそうに言うと、窓の方に顔を向けてしまう。
「姉のために学校を買うとは剛毅だな。何故かね?」
 緋色先輩の質問にすぐにはこたえず、純鈎さんは無言のまま窓を眺めていた。そして緋色先輩の方に振り返ると、大きなため息をひとつついた。
「あたしの家にも色々あるんだよ」
「家庭の事情というやつかね。それならば詮索はすまい」
「すまないな」
 純鈎さんは睨むような目で常居さんを一瞥すると、また窓の方を向いてしまう。
「では、皆さんには三時からグラウンドで幽霊ランナーを退治してもらいます。私は所用がありますので、いったん失礼させていただきます。後ほどグラウンドで会いましょう」
 睨まれた常居さんは気にする風もなく、テーブルのコピーをクリアファイルに仕舞う。
「ちょ、ちょっと待って下さい。退治って何をすればいいんですか?」
 席を立とうとした常居さんに、ボクは慌てて声を掛けた。
「ああ、それなら簡単です。グラウンドを走っていれば、相原さんは現れ、走者を追い抜いていくはずですから、更にそれを追い抜けばいいだけです。ただし、相原さんは現れる時間が決まっているわけではありませんから、何周かグラウンドを走っていただかなければならないかもしれませんが」
 常居さんは事務的な言い方でこたえ、立ち上がる。
「待ちたまえ。なぜ、追い抜けば怪異現象が解決するのだ。確固たる理由があるのだろうな」
 緋色先輩は薄い笑いを浮かべ常居さんを引きとめる。
「相原さんは『僕を追い抜く人がいれば成仏できる』と言っていたそうです。その言葉は陸上部員が何人も聞いています。相原さんは陸上部の後輩たち面倒をよく見ていたらしいですから、後進の育成が気になって成仏できないのかもしれません」
「練習の疲労が生んだ幻聴が根拠とは、なんとも心強いことだ」
 常居さんは緋色先輩の皮肉に慣れたのか、相手にすることなく、それでは失礼しますと言って歩き出してしまった。


「皆さんはジャージを用意してきているんですか? あのぉ、私ジャージは持ってきていないんです。どうしましょう、取りに帰った方がいいんでしょうか?」
 学生食堂を出て行く常居さんの後ろ姿を見ていたら、よし野さんのすまなそうな声が聞こえてきた。
 ジャージ? そう言えばボクも用意してきていない。どうしよう。三時までは時間もあるし、儀武オジサンに車を出してもらおうかな。
「緋色先輩はジャージを持ってきているんですか?」
「持ってきていないが、別に問題はないだろう。どうせ幽霊ランナーなどは錯覚の類だろうし、グラウンドを走るくらいならこの格好でも問題はない」
 緋色先輩はにやりと笑ってスカートの裾をちょっと持ち上げてみせる。
 えっ、でも、緋色先輩のスカート短いし、走ったら問題があるんじゃ。
「あたしは寝間着代わりにTシャツとスパッツを持ってきているから問題ないぜ。走るのは得意だから、おまえらが走る前にあたしがこの黄金の足で追い抜いてやるよ」
 純鈎さんはあぐらを崩し、伸ばした右足を上げてみせる。
 日焼けしているけど、すらっとした純鈎さんの足は綺麗だった。
「なに嫌らしい目で見てるんだよ。テメエは足フェチの変態なのか? さっきから盗み見るようにチラチラ見やがって。男らしく堂々と見ろよ。ほら、見せてやるよ変態野郎!」
 純鈎さんはさらに高く足を上げる。スカートがめくれそうなくらいに。
「龍太さん。足がお好きなんですか。だったら私も及ばずながら、ご協力しますよ」
 よし野さんは顔を真っ赤にして、おずおずと足を上げる。
「ちが、違います!」
 ボクだって男だから女の子の綺麗な足が目の前にあれば、視線のひとつも行くし嬉しいよ。スカートがまくれて隠れていた真っ白い太股とか見えたらドキンとするし。でも、足よりは、やっぱり顔とか髪の毛とか……特にムネとか…………オシリとかの方が………………だぁあ! そんなことはどうでもいいんだ。なんか周りの視線が集まってきているし……なんとか、なんとかしなきゃ。
「よ、儀武オジサン。車出して下さい。ジャージがないから家に取りに帰りたいんです!」
 ボクは自分の顔が赤くなってきてることを誤魔化すためにも、精いっぱい大声を出して儀武オジサンの肩を揺さぶる。
 儀武オジサンはうるさいとばかりボクの手を払いのけ、
「大きな声を出すなよ。ま、調査期間は明後日まであるんだから、今日は様子見でいいんじゃないか。必要なら明日にでも車を出すしよ。気軽にいこうぜ、気軽によ」
 窓辺のテーブルにいる女の子たちに顔を向けたまま、どうでもいいという感じで言う。
「総長、他人の嗜好にとやかく言うのは良いことではないことは承知しているが、後学のためにも是非教えてもらいたいのだ。女性の象徴であるムネや、生殖器を内包した下半身に興味を示すのは理解できるが、それを上回って足に興味を示すとはどのような理由があるのかね?」
 緋色先輩は背筋を伸ばし真面目な表情でボクを見つめる。
「ボクは純鈎さんの足も、よし野さんの足も、興味ありません!」
「なんだと! あたしの足なんか見る必要もないってことか!」
「私みたいなオバサンの足じゃ満足できませんよね」
 純鈎さんは跳ね上がるように立ち上がり――スカートがめくれ、その奥にスカイブルーの何かが見えた気もするけど、そんなこと言ったら殺されちゃう――よし野さんはスカートの裾を握ったまま悲しげにため息をついている。
「違う、違う! 純鈎さんもよし野さんも凄く魅力的な足だよ……じゃあなくって……」
「やっぱり足フェチの変態なのか」
「本当ですか。ありがとうございます」
「大腿部の肌の張りや、色艶が性欲をそそるのかね?」
「恥ずかしがることはないぞ龍太。男なら多かれ少なかれフェチズムはあるんだ。俺だってバックシームのストッキングにハイヒールを履いた女の足が目の前にあれば、理性なんて簡単に吹っ飛ぶぞ」
 だから、だから……どうすりゃいいんだろう。

 *  *

 ボクらが保健医控え室に戻ると、応接セットの上に真新しいジャージが四着置かれていた。ひとつひとつに「卯兎よし野様」「緋色正義様」「麗魅ちゃん」と名前が書かれた和紙の短冊が貼られている。もちろんボクの名前が書かれた短冊もある。なんだか純鈎さんのやつだけノリが違っているけど。
「ほう準備がいいな。サイズもぴったりだ」
 緋色先輩はさっそく自分の名前が書かれたジャージを広げ袖を通している。
「常居さんが用意してくれたんでしょうか? それにしても綺麗な字ですね」
 よし野さんは『卯兎よし野様』と書かれた短冊をボクにも見せてくれる。黒々とした墨字がバランス良く紙の中央に描かれている。書道の流派は解らないけど綺麗な字だ。細身だけど生き生きとしている。
「常居さんって書道をやっているんですかね。ジャージも用意してくれて……」
「違う!」
 ボクの言葉は純鈎さんの言葉に遮られた。
「これ書いたのは瑠魅姉ちゃんだ」
 純鈎さんは自分の名前が書かれた短冊を握りしめると、ため息混じりでつぶやく。
「ということは純鈎君のお姉さんが、このジャージを用意してくれたのかね。しかし君は我々と一緒にいる間、携帯もメールもしていなかったではないか。それなのにどうしてお姉さんがジャージがないことを知っているのだ?」
 緋色先輩の疑問はボクの疑問でもあった。だってボクたちの周りには他の人はいなかったし、純鈎さんも電話も掛けてなければメールも打っていないんだもん。
 純鈎さんは腕組みして周りを見渡し、なにか納得したのか、ふっと肩の力を抜いた。
「隠してもしょうがないよな」
 苦笑いととも違う、諦めと恥ずかしさが混ざったような笑みを浮かべると、純鈎さんは小さく息を吐いた。
「瑠魅姉ちゃんは見えないんだ。いや、透明人間や幽霊ってワケじゃないよ。ちゃんと生きている。ただ、凄い恥ずかしがり屋でさ……忍者のように姿を隠しちゃうんだ。家族にだって姿を見せないんだよ。あたしだって瑠魅姉ちゃんの姿をはっきり見たのは小学校五年生の時が最後だもん。姿は見えないけど瑠魅姉ちゃんは、あたしのことを凄くかわいがってくれたんだ。いつも姿を隠してあたしを見守ってくれて、あたしが困った時には陰ながら助けてくれたんだ。で、いまもそれが続いているんだ」
「と言うことは、学生食堂に姿を隠した純鈎君のお姉さんがいたということかね?」
「たぶん。いや、確実にいた。いたからこそジャージを準備してくれたんだ」
「だが、我々以外の気配などは一切感じなかったが」
 緋色先輩は納得できないとばかり眉間にしわを寄せる。
「武道の達人ならともかく、普通の人には絶対見えないよ。赤外線センサーか感熱センサーを使えば別だろうけどね。たぶん今だってどこかに身を隠して、あたしたちの話を聞いていると思うよ」
「私とて武術の心得は人以上にはあるつもりだが、気配はまったく感じられないぞ。にわかには信じられない話だな」
 緋色先輩は腰に手を当て、何かを探るように目を細めて周囲を見回す。ボクも緋色先輩の視線を追って見回した。けど、ボクたちの他には人はいないし、人の気配なんて微塵も感じられない。
 と、背後から、カタッと小さな音。振り返ると入り口に大きなクーラーボックスが置かれていた。さっきまではなかったのに……。
 ジャージの時と同じくクーラーボックスの上には『これからも麗魅ちゃんと仲良くして下さい。走った後に皆さんで飲んで下さい。 純鈎瑠魅』と書かれた和紙の短冊が置かれている。開けると、色々な種類のスポーツドリンクがぎっちり詰まっていた。
「いつのまに!」
 緋色先輩は端正な顔を歪ませて、吐き捨てるように叫ぶと、もの凄い勢いで保健医控え室を出て行く――すぐに『どこにも人はいなかった』と放心したような表情で戻ってきたけど。
「おい、おい、なに騒いでるんだよ。純鈎君のお姉さんが見えようと見えまいと問題はないだろう。それより、せっかく瑠魅さんが差し入れしてくれたんだ、気合い入れて幽霊退治に行けよ」
 儀武オジサンは勝手にスポーツドリンクを飲みながら、正論を述べてくれる。
 そりゃぁオバケ退治はボクたちの仕事だけど、今はどちらかというと見えないお姉さんの方が気になるんですけど。
「ほら、そろそろ三時になるぞ。さっさと着替えてグラウンドに行け」
 儀武オジサンはジャージをボクに投げつけて、犬でも追い払うようにしっしっと手を振る。

 *  *

「も……う……は……し……れ……ま……せ…………ん」
 よし野さんは息も絶え絶え、今にも崩れ落ちそうになりながら戻ってきた。
「総……長……すみ……ま……せん」
 視点の定まらない目をボクの方に向けて頭を下げると、ぺたんっと地面に座りこんでしまう。肩を揺らしながら荒い呼吸を繰り返している。
「よし野さん、大丈夫ですか?」
「は……はい…………す、少し……休めば…………」
 よし野さんはボクに歪んだ笑みを向け、ちょっと休みますと言うと大の字にひっくり返ってしまった。
 本当に大丈夫だろうか。よし野さんって運動は苦手そうなのに、無理してグラウンドを五周もしてくれたし――凄く遅かったけど――初代赤龍会のことをおもって一生懸命走ってくれたんだよなぁ。
「ありがとうございます」
 ボクは小さな声で寝ているよし野さんに礼を述べた。
「総長、他人の心配をしている場合ではないぞ。次は総長の番だ、準備はいいのかね?」
「あ、はい」
 緋色先輩は心配そうに言うけれど、ジャージには着替えているし、準備体操もしたから大丈夫だと思う。
「卯兎さんが走っても幽霊とやらが出なかったことをみると、走る速度に関係があるのかもしれない。だから走るに当たって、周回ごとに速度を上げていって欲しいのだ」
「えぇっ! ボク走るの得意じゃないです。徐々にスピードを上げるなら、ボクなんかより、足の速い純鈎さんや緋色先輩の方がいいんじゃないですか」
「それはもっともだ。が、私と純鈎君はこの調査の切り札だ。はっきり言おう。走力に劣る総長と卯兎さんは捨て駒なのだよ。幽霊とやらが出るまでに体力を消耗するわけにはいかないのだ。だから調査段階では総長と卯兎さんに頑張ってもらいたいのだ。これもすべては初代赤龍会のため、喜んで人柱になってくれたまえ」
 緋色先輩はボクの肩に手を置いてにっこり笑う。
 人柱……そりゃあボクは走るのは速くないけど、面と向かってそこまで言わなくてもいいじゃないかと思うんだけど。
「と言うことだ。テメエは初代赤龍会のために死ぬ気で走ればいいんだよ。途中で倒れて死んでも、テメエの屍はちゃんと燃えるゴミの日に出しやるから安心しろよな」
 冗談にしてもひどいよ。


「スピードが落ちてきたぞ。もっとスピードを出したまえ!」
 はぁ、はぁ……ひゅぅ、ひゅぅ……。
「龍太さん、無理なさらないで下さいね」
 はぁ、はぁ……ひゅぅ、ひゅぅ……。
「テメエはカタツムリか、とろとろ走っているんじゃねぇよ! 死ぬ気で走れ!」
 はぁ、はぁ……ひゅぅ、ひゅぅ……。
 わ、わかっているよ。けど、足が思うように動いてくれないんだ。口をこれだけ大きく開けているのに、どうして空気が肺の中に入ってきてくれないんだろう。肺の中で一方的な燃焼が続いているのに、酸素という燃料が一向に供給されない。酸素……。
「遅い! そんな速度じゃ幽霊は出てこないぞ!」
「人柱らしく我が身を犠牲にして走りたまえ!」
「死なない程度に頑張ってくださーい」
 はぁ、はぁ……ひゅぅ、ひゅぅ……だから走ってるじゃないか。
 ボクがこれだけ苦しいおもいをしているのに、どうして相原さんは出てきてくれないんだ。ボクなりに精いっぱい走っているのに。走るのは苦手だって言ったのに。
「それでも男か。キンタマついてるのかよ!」
「麗魅ちゃん、はしたないですよ」
「男をやめるのならプーケットの病院を紹介するが……それが嫌ならば男らしく走りたまえ!」
 はぁ、はぁ……ひゅぅ、ひゅぅ……。
 ボ、ボクは男だ。それにボクのうちにはお姉ちゃんがいるから女の子は足りてるし、なによりボクは月護家の跡取り息子だから男をやめるワケにはいかないよ。
「グズ! 男をやめちまえ!」
「必要とあらば女性ホルモンを打ってくれる病院を教えるが」
「龍太さん、女の子になっちゃうんですか」
 はぁ、はぁ……ひゅぅ、ひゅぅ……好き勝手……言って……走るよ。
 死ぬ気で走ればいいんでしょう! もうどうにでもなれ!
 ただぶら下がっているだけのように重い腕に力を入れ、思い切り前後に振る。身体が前傾する。足がそれに追いつこうと必死に前に出てくる。走るって難しいことじゃない――でも、それは酸素があってのこと。ボクの肺には酸素が足りなくて凄く苦しい――腕を振るんだ、足を前に出すんだ、腕を、足を、腕、足……えっ!
 ボクの横を真っ黒なランニングシャツのランナーが追い抜いていった。
 あれが相原さん……?
「りゅ、龍太さん。出ました、出ましたよ!」
「総長、走るのだ。追い抜きたまえ!」
「早い。凄ぇ……」
 黒いランナーは凄いスピードでどんどんボクを引き離していく。必死に走っているけど、追い抜くどころか追いつくことだって無理。黒いランナーの姿が小さくなっていき、ふっと消えた。
『君も僕を超えられない。僕を追い抜く人がいれば成仏できるのに』
 消える寸前にボクの耳に確かに聞こえた。黒いランナーの悲しそうな声が。


「これで皆さんにも相原さんの存在を納得していただけたでしょう」
 常居さんは皆さんと言いながらも、得意げな顔で緋色先輩だけを見ている。
「いまの月護さんの力走でも解るように、相原さんはそれなりのスピードがないと現れません。それに相原さんを追い抜くには生半可な速度では無理です」
「あの存在、いや、あの現象が何であるかの詮索は今はおいて……」
「あら、詮索はしないのですか? それとも霊の存在を認めたくないから逃げているだけでしょうかね」
 常居さんは緋色先輩の言葉を遮って、カナリアを食べた猫のように満足そうな笑みを浮かべる。
「以前も言ったと思うが、我々の目的は怪異現象の解消だ。怪異現象の視覚的認知問題など些末なことなのだよ。我々の存在理由を勘違いしないでしてもらいたいな」
 緋色先輩は常居さんに冷たい笑みを返す。
「あら、そうだったんですか。私は自分の非を認められなくって、虚言を弄しているものと思っていましたわ。おほほほほほ」
「依頼の本質を忘れ、些細なことに拘泥するわけにはいかないからな。はははははは」
 常居さんと緋色先輩先輩は互いの顔を睨むような視線で見つめたまま、乾いた笑いを続けている。
 おほほほほほほほ。
 はははははははは。
 二人ともマジに怖いんですけど……。


「あと少しだ。抜け! 抜け!」
「緋色さん、抜けますよ。頑張って、頑張って!」
 純鈎さんも、よし野さんも声の限り応援している。
 そう、いまグラウンドでは緋色先輩と相原さんの激走が続いていた。相原さんが出現してからかれこれ八周、緋色先輩は相原さんのすぐ後ろを走り続けていた。相原さんを追い抜くのに、あと少しってところで引き離される――もどかしい戦い。
「緋色先輩、あと少しです、あと少し!」
 ボクだって喉の奥が痛くなるくらい大声を出し続けている。
「相原さんを抜かないと依頼は遂行できませんよ」
 常居さんの声援だか、冷やかしだか解らない声。
「ほら、そのコーナーでまくれ、まくれ」
 儀武オジサンは競輪場のオヤジみたいなヤジを飛ばしている。
 緋色先輩は色々な応援を受けながら必死に走って…………ない。走るのをやめ、ボクたちの方に向かって歩いてくる。
 浮かない表情の顔にうっすら汗を滲ませた緋色先輩は、どうして走るのをやめたんですかの問いに答えることなく、走路横に置かれたベンチに座りこんで、いま自分が走っていたグラウンドを睨んでいる。
「具合が悪いんですか?」
 よし野さんがスポーツドリンクを差し出しながら、緋色先輩に声をかける。
「いや、身体は問題ないです。ただ……」
 緋色先輩は言葉を濁らし、前に落ちてきた真っ赤な髪を鬱陶しげに掻き上げる。
 スポーツドリンクに口をつけることなく、ボトルを握りしめたままグラウンドを睨み続け、首を一回コキっと鳴らして立ち上がった。
「純鈎君、こんどは君が走ってくれたまえ」
「かまわないけどさ、アンタまだ走れるんじゃないの? ぜんぜん元気そうじゃん」
 純鈎さんは緋色先輩を見上げながら、入念に手足の柔軟をしている。
「疲れてはいない。ちょっと思うところがあってな」
「そうかい。ま、あたしが相原を追い抜いてやるから見てなよ」
「ああ、楽しみにしている」
 緋色先輩は爽やかと言うべき笑みを浮かべてこたえる。
「じゃあ、行ってくるぜ」
 純鈎さんは親指をぐっと突き立て、にぃぱっと笑ってグラウンドに走り出した。


 自慢するだけあって純鈎さんは早かった。僅か半周したところで相原さんが現れたぐらいだ。でも、純鈎さんの足をもってしても相原さんを抜けずにいる。
「あぁ惜しい。あと少しなのに」
 よし野さんの言葉じゃないけど、あと二、三歩で追い抜けそうなのに、その数歩が足りていない。
「純鈎君でも無理か……やはり奥の手を使うしかないか」
 緋色先輩は嘆息混じりでつぶやくと、儀武オジサンと何やら小声で話しはじめる。何を話しているのかははっきり聞き取れないけど、『ほう、そんなものが』とか『ならば必要なのは』という緋色先輩の言葉がとぎれとぎれに聞こえてくる。
 儀武オジサンの「俺が喋ったなんて絶対に言うなよ」の言葉に、緋色先輩は軽く頷き、グラウンドの反対側――すなわち灌木の生える敷地の先、校舎の方に向かって独り言を言い出した。
「麗魅さんを含む我々の目的は、この学校の怪異現象の解消です…………私はあなたに…………を用意してもらいたい…………麗魅さんが嫌がることは重々承知しています。しかし、ここで我々が契約を履行できなければ嘘つきと呼ばれるでしょう」
 緋色先輩の声は体育館から流れてくる運動部のざわめきで、はっきりとは聞き取れない。
「…………瑠魅さんを除く我々はこの学校の部外者だから汚名は一時的なもの…………が、瑠魅さんはこの学校の生徒であり汚名はこれから三年間も続くのです…………私の要望が瑠魅さんの機嫌を損ね、あなたにも累が及ぶかもしれませんが…………すべては瑠魅さんの名誉の為なのです…………なにとぞ協力して下さい」
 誰もいない方向に向かって、緋色先輩は深々と頭を下げた。
「あら、先程まで否定していた霊の存在を目の当たりにして、自我が崩壊しておかしくなったのかしら」
 常居さんはなかば怪しみ、なかば呆れるように、少し腰を引きながら頭を下げる緋色先輩を覗き込む。
「大望を成さんと志せば、小人の誹りを受けるは世の常か。ま、小人がいくらわめこうが気にはならないがな」
 頭を上げた緋色先輩は常居さんに視線を向けず、肩をすくめる。
「あなたが錯乱したようだから、哀れんで声をかけてあげたのに、その言い方はなによ!」
「錯乱? 私は極めて冷静だ。冷静だからこそ勝利の女神にお願いしていたのだ」
「なに言っているのよ。どこに勝利の女神がいるのよ。誰もいないじゃない。それに霊的な存在である神様に縋るのは、あなたのポリシーに反するのじゃないの」
「は? 私は神などという弱者の幻想に縋るつもりはない。私が協力を求めた相手は現実の人間だ」
「はあ? 誰もいないのに? 本当におかしくなったんじゃないでしょうね」
 常居さんは誰もいない敷地を訝しげに眺め、思いっきり大きなため息をついて肩をすくめる。
「きゃっ!」
 女の子らしい叫び声と同時に派手に転ぶ音が聞こえた。
「痛ぁ、なによこれ。こんな所に段ボール箱なんか置かないで……えっ? さっきまで、こんな物なかったわよ!」
 常居さんは突然出現した段ボール箱を前に凍り付いている。その凍り付く常居さんを助け起こすでなく、緋色先輩は段ボール箱を開け中身を確認している。
 ――みゃぁう。段ボール箱の中から可愛らしい鳴き声が響いてくる。
 みゃぁう? なにが入っているの?
「早速の御手配、誠に感謝に堪えません。これを活用して見事に依頼を完遂してみせます」
 緋色先輩は段ボール箱を抱えたまま校舎に向かって頭を下げ、ニコニコと楽しそうな表情をしてボクの方に歩いてくる。
「さあ総長、道具は揃った。さっさとこの馬鹿げた鬼ごっこを終わらせようではないか」
「えっ?」
 緋色先輩に腕を掴まれ、取調室に連行される犯罪者のように、強引にグラウンド横の用具室に連れ込まれてしまった。



「龍太さんカワイイですよ」
 よし野さんは笑い堪えながら、顔を真っ赤にして褒めてくれる。
「緋色先輩、これはいったいなんですか?」
 ボクの頭には猫耳がついたカチューシャ。ジャージのズボンのお尻には黒くて長い尻尾が縫いつけられている。両手にはマンガチックな猫の手グローブ。顔は白と茶色の二色に塗り分けられ、鼻の横にはヒゲも描かれている。
「猫のコスプレだ。見れば解るだろう」
 緋色先輩は段ボール箱から取り出した、猫コスプレグッズを手際良くボクに装着すると満足げに頷く。
 ――みゃぁう。
 緋色先輩の頷きと同期するかのように、ボクのお腹に縛られ貼りつけられている虎猫が鳴いた。
「コスプレは我慢するとしても、この猫はなんなんですか?」
 ボクはグローブをはめた右手でお腹の虎猫を指差した。よほど暢気な性格の猫なのか、縛られボクのお腹に貼りつけられても嫌がりもせず、鼻先に来たグローブの匂いなんかかいでいる。
「良いことを教えよう。八角氏に教えてもらったのだが、実は純鈎君は猫が弱点なのだよ。子供の頃に酷い目に遭ったらしく、猫に恐怖心を抱いているのだ。それで解るだろう」
「はあ」
 なにが言いたいのだろう? 緋色先輩の言葉の意味が分からず、ボクは間抜けな返事をしてしまった。
「『はあ』ではない。いいかね。人間は自分が怖れる物に出会えば、それから逃れようとして思いもかけぬ力を発揮することがままある。すなわち火事場の馬鹿力というやつだ。しかし人間は意識して火事場の馬鹿力を出すことはできない。だが、恐怖の対象さえあれば」
「で、ボクの猫の格好なんですか?」
「その通り。総長が猫の格好をして純鈎君を追いかければ、純鈎君は恐怖から火事場の馬鹿力を発揮し、逃げようとするあまり目前の相原を追い抜くことも可能だろう」
「でも、ボクの足じゃ純鈎さんには追いつけないですよ」
 いくら純鈎さんが猫が嫌いでも、ボクの足が遅くて近寄れなかったら、効果がなくて意味がない。
「案ずる必要はない。総長にも火事場の馬鹿力を発揮してもらえば良いだけだからな」
 目を細めた緋色先輩は段ボール箱に両手を突っこみ、ゆっくりと鈍色の物体を引っ張り出す。太い握り、握りの先には僅かに内側に湾曲した肉厚の鋼の刃。それは鉈――正確には腰鉈と呼ばれる物だった。
「鉈なんて出してどうする気ですか」
「軍艦の艦長は自分の船が沈む時、艦と運命を共にするそうだ。今我々が置かれている立場は、それによく似ている。この依頼が失敗すれば、初代赤龍会は汚名を被ることになるのだ。軍艦で言えば沈没だ。そんな時、組織の長として総長はどうするかね?」
「え、あ……」
 咄嗟に答えが見つからず、ボクは莫迦な声しか出せない。
「みなまで言わなくても結構。責任をとるため自決は当然のこと。しかし自決など、そう簡単にはできない。自決もできず己の責務が遂行できなかった後悔に苦しむ総長を見るのは、部下としては腸が断ち切られるように辛い。ならば総長の苦しみを取り除くため、涙をのんで介錯するのは部下の務め。すなわち総長が火事場の馬鹿力を出せず、依頼を遂行できない時は、私がこの鉈で総長を斬ります。すべては初代赤龍会の名誉のため故の決断」
 緋色先輩は暗い笑みを浮かべて、ボクの顔をじっと見つめる。
「じょ、冗談ですよね」
「私は冗談は嫌いだ」
 緋色先輩の目の中で昏い炎が踊っている。
「さあ、走ってもらいましょう。初代赤龍会の名誉のためにも、今すぐ逝きたまえ!」
 緋色先輩は両手の鉈を握りなおし、鉈をゆらりと振り上げた。
 せ、先輩。字が違ってる。それじゃ天国に行っちゃうよ……。
「わぁぁぁぁぁっ!」
 ――みゃぁぁぁぁぁっ!
 ボクは用具室を飛び出しグラウンドを、純鈎さんを目指して、地面を思いっきり蹴った。


「遅い! それが総長の限界ではあるまい。もっと、もっと速く走りたまえ! それともここで散華するかね」
 真っ赤な髪に鉈――まるで現代のなまはげ――目に殺意を込めた緋色先輩がぐんぐん迫ってくる。
 嫌だ、嫌だ、こんな所で死にたくない。こんな莫迦げた格好で死にたくない! こんな格好で死んだらみんなの笑いものだ。
 ボクだって彼女は欲しいし、エッチもしたいし、バイクの免許も欲しいし、秋葉原にあるメイドカフェにも一回ぐらい行きたい。だからまだ死ぬわけにはいかないんだ。
 それに死んだら、本棚の奥に隠してあるエッチな写真集が見つかっちゃうし、パソコンのフォルダの中のせぇくしーなお姉さんたちの画像も――高校受験の最中にも巡回して集めたボクのお宝だ――見つかっちゃうかもしれない。
 し、死ねない。絶対死ねない。
「それが総長の限界なのかね。そんな速度では純鈎君に追いつくことなど永遠に無理だぞ」
 緋色先輩は走りながら両手の鉈を交互に振り下ろして、鉈の手触り、重さの感触を確かめている。
 ボクの視線に気づいた緋色先輩は、不快感をそのまま表情に出し、
「振り返るとは、たいした余裕だな。さっさと火事場の馬鹿力を発揮したまえ」
 と言うや、鉈を振り上げて地面を蹴った。
 飛び上がった緋色先輩はボクめがけて鉈を振り下ろす。
「わぁぁぁぁぁっ!」
 間一髪。本当に髪の毛一本の差で鉈がボクの横を通過していった。
「せ、先輩。シャレになってないです。当たったら本当に死にますよぉ」
「私が単なる脅しで鉈を持っていると思っているのかね。私は殺人罪の汚名を甘んじる覚悟で総長を殺るつもりなのだよ。観念したまえ!」
 緋色先輩の声がすぐ後ろで聞こえた。
 ひゅん! 風を切るような音。背中が急に涼しくなり、パタパタと軽い音がする。
 えっ? 振り返ると斬られたジャージがたなびいていた。
「ちっ。目測を誤ったか。が、次こそ」
 緋色先輩は本当に残念そうに独りごちる。
 マジだ。この人は本当にボクを殺るつもりだ。
 殺される! 嫌だ! 死にたくない! 助けて! 助けて!
 ボクは必死に腕を振り、足を前に動かす。ボクの人生があと何十年あるのかは解らないけど、たぶん今ボクが出している以上のスピードは出せないだろう。ボクの足はボクの体力なんてお構いなしに、メチャクチャに加速している。緋色先輩の気配が僅かずつだけど離れていくのが解る。
「助けてーーーっ!」
 いつの間にか大きくなってきていた純鈎さんの背中に向かって、ボクは肺の中に残っていた空気を絞り出すようにして助けを求めた。
「ゴチャゴチャうるせぇ! あたしが真面目に走っているのに、テメエらなに遊んでいるんだ……」
 苦しそうに口を少し開け、険しい表情で純鈎さんは振り返る。
「純鈎さん、助けて……ボク殺される……緋色先輩が……」
「猫!」
 振り返った純鈎さんの表情が一瞬のうちに変化した。険を含んで細くなっていた目が見開かれ、紅潮していた頬が見る間に血の気を失っていく。
「ね、猫! ば、馬鹿、来るな、来るな!」
 純鈎さんの声は裏返っている。
「助けて……緋色先輩に殺される」
「来るな、来るな、来る……きゃぁぁぁっ!」
 いつもの純鈎さんからは想像もできない女の子らしい悲鳴を上げて逃げ出した。
「待って……純鈎さん、緋色先輩が……待って」
「猫嫌、猫嫌! きゃぁぁあああぁぁぁっ!」
 凄い加速だ、悲鳴にドップラー効果がかかっている。もしタイムを計っていたら、オリンピック記録を塗り替えたかもしれない。
「きゃぁぁあああぁぁぁっ!」
 純鈎さんは加速を続け――相原さんを追い越した。
 その瞬間、相原さんは走るのをやめ、ゆっくりと空を見上げるた。そしてボクの方を向いてニッコリ笑い…………消えた。『ありがとう』の言葉を残して。
「やったぁ! 純鈎さん、緋色先輩。相原さんが成仏しました……よ?」
 依頼遂行の喜びを分かち合うはずの純鈎さんの姿は遙か彼方に――悲鳴を上げたままグラウンドを飛び出して行っちゃった。
「あのまま住宅地に行っちゃったら、凄くマズイような気がするんだけど」
「にゃうん」
 ボクの独り言にお腹の虎猫が同意するように鳴く。
「ついに観念したかね」
 と、背後からとっても冷たい声が響いてきた。
「チョロチョロと逃げ回って往生際の悪い。が、ついに我が刃の露と消える覚悟ができたようだな」
 振り返ると髪の毛と同じぐらい、真っ赤な殺意の炎を瞳に燃やした緋色先輩が、鉈をぶらんと下げたまま立っている。
「あのぉ、依頼は遂行できたんですけど」
「依頼? 遂行? そんなのは関係ない。私とて少しは武術の心得はあるつもりだった。が、総長、あなたはずぶの素人なのになぜ私の刃をことごとくかわすのだ。ずぶの素人にかわされっぱなしなど、この私のプライドが許さない。私のプライドのためにも黄泉路に逝ってくれたまえ!」
 あ、あの。手段と目的が入れ替わっているんですけど。
 鉈を振り上げるとボクの脳天めがけ、躊躇なく振り下ろしてくる。
「またもかわすとは……この私を愚弄するつもりか。大人しく死にたまえ!」
 わ、わ、わ。緋色先輩、完全に頭に血が上っているよ。
「逝けぇぇっ!」
「わぁぁぁぁ!」


 緋色先輩が冷静さを取り戻すまで約一五分。猫コスプレ男(プラス虎猫)と赤髪鉈男の命をかけたレースがグラウンドで続いた。



 つづく
   
2006/03/14(Tue)21:03:40 公開 / 甘木
■この作品の著作権は甘木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
覗きに来てビックリ。データが飛んでいたんですね。
皆さんからいただいた感想が消えたのは悲しいですが、残念がっても詮無きこと。改めて投稿させていただきます。

文学性も、あっと驚くような展開もない拙い作品ですが、読んで頂ければ幸いです。もし宜しければ甘口・辛口・中辛・罵詈雑言でもかまいませんので感想をいただけると幸いです。
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