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『Search for』 作者:ねこま / リアル・現代 リアル・現代
全角60999.5文字
容量121999 bytes
原稿用紙約181.65枚
 ずっとずっと応援してた。あの横顔をもっと近くで見たくて、自分のものにしたくて。



 三島由希、難関を突破して名門・私立明幹高校についに入学しました。お目当ては……そう、野球部主将の北里さん。ほかでもない、あたしの輝かしい高校生活は全て北里さんのためにある。そう言っても過言ではないくらい大好きだ。
「由希、あんた部活なにやるの?」
「決まってんじゃん! 野球部のマネ」
「はぁ?」
中学が一緒で、ここでもまた同じクラスになった美里ちゃん。あまり親しい仲ではなかったし、正直言うとこういう厚化粧で強気な子は苦手なタイプだ。
「……ちょっと美里ちゃん、あたしそのためにここに入学してきたんだからね? 目指したものは北里さん」
それでも考えただけでドキドキする。部員、ましてや主将とマネージャ。関わりたくなくても確実に接することができる。あたしは信じて疑わなかった。
「ねぇ、うちの学校野球部マネージャとってないよ」
「は」
「ほら、部活紹介欄に書いてあんじゃん。野球部女子マネはとりませんって。うちの学校野球部強いし厳しそうだもんね!仕方ないんじゃない」
「え……なにこれ」
愕然とした。確かに、入学案内の部活動紹介の欄には野球部のマネージャは募集しないとはっきり書かれている。
「うそ……じゃああたしは何のために……」
「目ぇ覚ましなよ。高校の運動部って大変そうだし、放課後は遊べた方がいいじゃん! 何か知らないけど部活全員加入だし、適当な文化部入って幽霊ちゃんになろーよ、ね」
そう言い残して美里ちゃんは去っていった。

 どうしよう、部活なんて。全員強制加入で野球部に入れなかった場合というのを考えていなかった。あたしは入学したててで美里ちゃん以外の友達もいない。複雑な構造のこの校舎を、一人でウロウロするしかなかった。
 窓からグラウンドが見える。硬式野球部だ。
「……北里さん!」
あたしは窓に飛びついた。遠くからだがハッキリと分かる。たくさんいる部員の中でもあたしの目にはひときわ輝いて見える、あれは北里さんだ。いつものユニフォーム姿と違って、練習用のTシャツを着ている。今のあたしには新鮮すぎる。

 二年前の甲子園、一年生ながら大活躍をした北里さんにあたしは大きな感動をもらった。そのころ中学のバレー部で二年生だから大会に出れる訳がない、と練習を投げ出していたあたしに多大なる影響を及ぼしたことも嘘じゃない。去年の甲子園、一回り大きくなってもっとクールになった北里さんが最初に放った大ホームランを忘れられなかった。明幹が三回戦で負けたときの最後のバッターが北里さんだった。レフトにフライをとられた瞬間、いつも無表情な北里さんが見せた悔しそうな顔がたまらなくてテレビの前で泣いてしまった。もう本当に本当に、最高の憧れの人。
 あの真剣なまなざし、男らしい体つき、通った鼻筋、あの表情の硬さにあの声! 全部自分のものにしたい! その一心でこの学校を選んだのだ。だからこんなに近くに北里さんがいることに、あたしは一人興奮してしまった。人目なんか気にならない程に。
「かっこいい…」
涙が出そうだった。なんて爽やかなんだろう… あたしは釘付けになってしまっていた。


「ねえ」
北里さんがバッドを三本持って素振りを始めた。あの素早い動きを生で見ることができるなんて。
「ちょっと」
一人の部員が北里さんに話しかけた。背の高さの違いが明確になって更に嬉しい。
「聞こえてる?」
北里さんが汗を拭った。なんて綺麗な汗なんだろう。
「ねえ、大丈夫?」
身振り手振りで部員たちに指導している。さすが主将、頼りがいがあ…

「あ痛っ!」
あたしは我に返った。突然誰かに背中を叩かれたのだ。咄嗟に振り返ると、あたしはすぐに固まってしまった。
 その少女は、長く真っ直ぐに伸びた黒髪と真っ白な肌、そして憂いげな黒目がちの瞳であたしを見ている。嘘みたいに綺麗な人だ。華奢な腕と足がすらっと伸びていて背も高い。まるでモデル並の美人だった。
「あの……何か?」
「今なに見てたの?」
声も細くて高い。あたしは自分が何でこんな人に突然声をかけられたのかが分からなかった。
「え、いえあの…」
「硬式野球部?」
こんな整った顔をこんな間近で見ていることにあたしはドキドキしてしまった。まるで芸能人のようなオーラが出ているその少女は、口ごもるあたしを更に動揺させる。
「見てるだけじゃなくてさ。行こうよ、グラウンド。私が連れてってあげようか」
「えっ! そんな、いいですよ…」
この人色々と喋るわりに一度も笑わない。微かな表情はただ目を細めてまぶしそうにするだけだ。あたしが遠慮しているのに関わらず、その細い指はあたしの腕にかけられた。
「私、金丸遥。ハルカでいいよ、あなたは?」
「三島由希、一年です…」
「ふーん。私三年だけど、気にしなくていいよ。じゃ、行こう」
あまりにも強引だ、と思った。この人は一体誰なの?
「あの…あなた誰なんですか?」
「野球が大好きな女子高生」
長い髪を舞わせるように金丸遥は走り出した。あたしの腕を離そうとはしない。あたしはその腕を見て、自分と遥の腕の細さと白さの違いに微妙なショックを受けた。階段を駆け下りるときにその腕は自然と離されたが、あたしは走る足を止めなかった。止めることができなかった。そしてその美少女が通ったあとは、校舎でさえ綺麗に見えた。
 非常に違った雰囲気が流れた。あたしは思った。何かに似ている、と。
 そのまま、生徒玄関の横の勝手口から外に出た。気合いを入れた掛け声がそこら中から聞こえる。遥は何も言わずに早歩きで硬式野球部へと向かっていった。
「ま、待って!」
あたしは堪えきれずに叫んだ。
「なに?」
「……あたし、やっぱ行かないです。帰ります……」
「どうして?」
どうしてって。あたしは北里さんが死ぬ程好きなのだ。その好きな人にこんな早く、こんな形で軽々しく近づける訳がない……。というよりも、実は勇気が出ないだけなのだが。
質問に答えないあたしに疑問を持った遥は、ゆっくりとこっちに歩いてきた。
「好きなんでしょ?野球」
「え、はい……」
「……。まぁ、気が向いたら一緒に行こうよ。女の子行くと喜ぶよー」
遥は表情ひとつ変えずに言う。こうもまで無表情だと、一体何を考えているのかさっぱり分からない。
「えっ。でもマネージャとってないし、女子は近づくべきものではないんじゃ……」
あたしがおそるおそる聞いてみたが、遥は答えずに座り込んで小さな紙に何かを書きはじめた。あたしが覗き込むと、遥は顔を上げた。
「これ、あたしの携帯のアドレス。メールくらいできるでしょ? 野球部に入ってみたくなったら、メール頂戴。はい」
「え」
渡された紙には短いアドレスが書かれていた。あたしはそれを見ただけで緊張した。
「あのー……どうしてそこまでしてあたしを連れていきたいんですか?」
「いいじゃない、なんだって。じゃあ、メール待ってるね」
少しの笑顔くらい見せてくれたっていいのに。最後まで遥はあの美しい顔を崩さぬまま、グラウンドに走り去って行った。あたしはそれを見送ることなく校舎に戻った。
「金丸遥……さん」
遥のアドレスを見つめる。そしてあたしはその紙を小さく折りたたんでポケットに入れた。あんな綺麗な人と話すなんて、人生で初めてかもしれない。同じ女なのに凄くドキドキした。
「いいなぁ、あんなルックス憧れちゃう」
野球部に近づかなかったことは後悔しなかった。よく自分の欲望に勝てたなぁと少し思う。まだ慣れない校舎は迷いそうになる。さっきは夢中で走ったから、よく覚えていない。
 やっとの思いで教室に帰り、荷物をまとめてリュックを担いだ。
 あたしは北里さんをただ見つめるだけでお腹いっぱいだ。近づこうなんて大それた行為できる訳がない。こうして、きっと北里さんが卒業していっちゃうまで勇気が出ないまま終わっても、それでいい…。
 夢のような出来事は、なくていい。ただ見つめていられるのなら。



 野球が好きという訳ではなかった。北里さんが好きだった。この中途半端で軽くてミーハーなあたしを、あの「野球が大好き」な美少女は一体どう受け止めるのだろうか。
 朝起きてみると、携帯がメールを一件受信していた。虚ろな目をこすってボタンを押すと、登録のされていないアドレスからだ。
「……え」
あたしは目を疑う。遥からだ。
『受信日時:4/8 23:45 件名:Re: 本文:明日、迎えに行くからね。ありがとう』
なんだこれ? まさか、と思って即座に送信メールを見る。『Re:』とついているということはつまりアレだ、あたしから送ったメールの返信ということなのだ。
 あたしは自分が信じられなくなった。確かに昨日の夜、遥にメールを送っている。しかしそれは空メールだ。必死に昨日の夜のことを思い出すと、そうだ、一度アドレスだけ打ったメールを作り、それを保存しておいた。そのまま寝てしまったのかもしれない。何かの拍子に誤って送信ボタンを押してしまったのだ。遥には「野球部に入りたくなったらメール頂戴」と言われていた。それが例え空だったとしても、メールを送ったという事実には変わりない。
「まずいよ…あたしにはそんなつもり…」
ふと、自分の部屋にかけてあるコルクボードに目が留まった。いつも眺めている景色のはずなのに、なんだかいつもと違うような感覚になった。そこには、北里さんが笑っている。甲子園が終わった後に出る雑誌の切り抜きをコピーしたものだ。どんなに精一杯探しても無表情な写真しかないけど、これ一枚だけ見つけた北里さんの笑顔のショット。ほんの少し前のあたしはもうすぐこの笑顔を近くで見ることができるという期待しか胸になかったのに。
 そしてその期待は写真の横に、自分で厚紙に書いた目標「目指すものはただ一つ! 明幹野球部のマネージャ! 絶対専願入試合格してやるー」と意欲満々のでかい字で表されていた。
 その夢を失った今考えると、あたしは一体何のためにこの学校を志望してきたんだろう?自分のレベルでは到底ついて行けないような難関高に敢えて無理して入学して、これから3年間も…頑張っていける自信なんてない。あの頃考えていたことは、ただただ北里さんと話ができることだけだった。その1年間の為なら、自分の高校生活残り2年間を犠牲にしても良いと思った。あの、あの笑顔の為なら。
「…そうじゃん」
あたしは呟く。この想いを我慢できないから、後悔しないために選んだこの高校で、うじうじしている訳にはいかない。
 何かの希望を小さく握って、今日も学校への道のりを一人歩き出した。


 さすが名門校と言わんばかりの授業の進みっぷりだ。とりあえずあたしは聞いたふりをする。隣の席の男の子―茅島君だっけか。―はもうぐっすり寝ているが、それ以外の人はみんな真面目に先生の放つ言葉をノートに書き留めている。
「おい三島、隣の奴起こしてやれ」
突然、自分の名前を呼ばれて驚いた。「え?」と教壇の方を見る。先生は顎で茅島君を指して「起こせ」と言った。あたしは仕方なくシャーペンで茅島君の肩を突いた。
五秒ほど間を置いてから、彼は勢いよく目を覚ました。
「何?!」
驚いたようにあたしを見て言う。
「茅島、寝てる暇はねえんだぞ」
先生がすかさず言った。あたしは椅子に座り直して授業体勢に戻る。
「あっ、すいません」
茅島君はようやく状況を把握したようだ。頭を掻きながら起きあがり、ひとつ、大欠伸をした。あたしはそれを怪訝な顔で横目で見た。ちょっと気になったのは、学生ズボンのポケットからぶら下がっている野球のバッドとグローブを形取ったキーホルダー。そしてやたらと不健康そうな目だった。

 放課後になると、遥は本当にあたしの教室まで迎えに来た。癖一つ無い真っ直ぐな黒髪は皆すれ違う度に振り返る。あたしの中には一瞬ためらいが生まれた。あの黒い瞳に吸い込まれてしまって良いものか、と。
「昨日はありがと。嬉しかったよ」
嬉しかったんなら、嬉しかったっていう顔をしてほしい。無表情は段々と無愛想に見えてきてしまう。遥はそう言っただけでフッと後ろを向いて廊下を歩き出してしまった。
「ちょ、待って」
あたしは慌てて追いかける。昨日の同じく、この人と一緒に歩くだけで違う世界に来た気分になる。そしてあたしは夢中になる。
途中、二人組の男子が遥に話しかけてきた。
「あ、ねぇ、今日チョコチップメロンパン食べたい」
何を突然、と思ったが、遥は「うん」と軽く交わしていた。あたしは気になったけどその人たちの顔はよく見なかった。
「ねぇ遥…さん、今の人たち誰?」
「野球部の部員ちゃん」
小馬鹿にしたように言う。
「あのさ……遥さんって、マネージャなの?」
「違うよ」
あまりにもあっさりと否定された。でも、今のあたしにはそうとしか考えられないような気がした。
「じゃあ何? 何でもないのに野球部の中に入れるってことはないでしょ」
「入れるよ」
あたしは必死に質問しているのに、遥は軽くしか答えてくれない。それどころかその足は加速していく。あたしは負けじと聞く。
「じゃあどうして?」
「そんなん言わなくても分かるでしょ」
「分かんないよ」
何で素直に教えてくれないんだ。あたしはちょっと眉間を寄せた。そんな事を考えているうちにすぐにグラウンドへと続く勝手口に辿り着いた。あたしは本能的に硬式野球部の中から北里さんを見つけようとキョロキョロしたのだが、あの中にあの輝きを持った人はいなかった。どうやらまだ来てないとか、部室の中にいるんだと思うけど… 今日は逃げない。あたしがこの学校へ来た意味を自分に分からせなきゃ。
 あたしがブツブツ独り言を言っていると、遥が「遅かったね」と言った。
「え、何? あたし別に遅いことしてな…」

 その時何故振り返ったのかは分からない。本当に自分でも分からなかった。
 強い風が吹いた。まるであたしの所にだけ集中的に吹いたように。時間が止まったようにさえ思えた。そして何よりも、今一番信じたいことが信じられなかった。
 目の前に、自分の胸の中で憧れるだけだったあの人が立っていることを。

「北里、主将のくせに遅刻なんて珍しいね。掃除当番だった?」
「いや……まぁ、そうだ」
この声だ。テレビでしか聞くことのなかったこの声。毎日夢に出てあたしに囁いているあの声。
 もはやときめきを大幅に越えていた。限界も通り過ぎていた。あたしの目からは大粒の涙が溢れ、鼻からは深紅の雫が輝かしく滴り落ちた。
「鼻血!?」
遥がこう叫んでからはよく覚えてない。






 目が覚めたのは見知らぬ場所だった。ハッとして起きあがった時にテーブルの角に頭をぶつけて一人で悶える。その勢いで鼻の穴に詰めてあったティッシュが落ちた。
 そうか、あたし北里さんの目の前で鼻血を……
 思い出すと同時に顔が一気に熱くなった。見るも無惨な顔をしていたに違いない。
 ここは黒板、テレビ、テーブルと長椅子が六セットあり、奥には使われていないようだが小さなキッチンが設備されていた。もしかしたら、野球部の部室かもしれない。踏み入れては行けないような所にいるような気がして、あたしは動くことができなかった。
 突然、扉が開いた。入ってきたのは見知らぬ背の高い男だった。野球のユニフォームを着ていることで、あたしはここが野球部の部室だということを確信した。
「……誰?」
その人は吃驚したようにあたしを見ている。誰、と聞かれても回答に困る。
「あ、えっと」
言葉が何も出てこなかった。野球部とは全く何の関わりもないあたしがここにいる理由なんてあるわけがない。鼻血が出たので運んでもらったなんて言えるわけがない。
「北里さんの知り合い?」
つり上がったような目を見開いて、その人は言った。
「そ、そんな訳ないです! あたしはただ……」
そこまで言うなり、あたしは固まってしまった。というより、全身締め付けられる感覚だった。
 その扉のその男の後ろに、北里さんが現れたのだ。あたしはゆっくりと息をのむ。どんな顔をすればいいのか分からない。
「あ、キャプテン。この子誰っすか?俺ちょっと休もうと思って来たんすけど、なんかこの子がいて」
「知らん」
再び鼻血が出ないかが不安だった。心臓の高鳴りは正常ではいられなくなっている。しかし今、自分がここにいるということに北里さんが不信感を抱かない訳がないという考えで今にでも逃げ出したくてならなかった。こんな時、なんて言えばいいの? 助けて遥、あたし一人じゃ嫌だ……
「遥の友達みたいだ。突然鼻血出して倒れたから、運んでやった」
あたしはバッと立ち上がった。
「は、運んでくれたんですか!?」
「仕方ないだろう」
あたしは、絞り出すような変な声を出してしまったことは百も承知、また泣きそうになる。北里さんとさっきの男は、あたしのことと関係のない話を始めた。野球用語のような、訳の分からない単語がたくさん聞こえる。一瞬、自分の居場所がなくて気まずいという気持ちも考えたが、それはすぐに流れた。
 あたしが発した質問に、北里さんが答えてくれた。ああ、これ以上の感動はあるのだろうか? ずっと夢見ていたことが一つ叶ったような思いだ。あたしストーカーかも、と思って気持ちを抑えた時もあったけど、そこを開き直ってこの高校に来て良かった。北里さんと同じ空気を感じることができるなんて、もう悔いはないと言える程だ。
「おい、お前」
「はい!」
あたしが笑顔で振り向いた。しかしそこには、あたしの憧れのあの優しい北里さんはいなかった。

 その代わりに、北里さんと全く同じ顔をした男がその低い声をあたしに浴びせたのだ。
「もう用はないだろ。早く帰れ。邪魔だ」
そして音を立てて扉を閉めて出て行ったのである。
 え?



 ――邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ……。あたしはどれくらいそこにいただろう。邪魔だ、と北里さんに言われてから多分長針は一周したと思う。頭が痛い。目の前が真っ白になる。目が動かせなくなる。
 何? あれが北里さんなの? 何年間も憧れ続けた北里さんなの? あたしはあの人に会ってあんなやって突き放される運命だったの? あたしの事をまだ何も知ってもらっていないのに、一気に嫌われてしまったような気がした。「邪魔だ」。この言葉は痛すぎる。毎日、あの人の笑う顔だけを思い浮かべて今日まで来たのに。
 もう涙も出なかった。帰らなきゃ、とは思うのだが体が動かない。馬鹿だなぁ、いつまでもここにいたらまだ邪魔がられてしまうのに。あたしの願いはいつだって叶わない。
「遥……遥の友達みたいだ……遥の」
北里さんが言った言葉を繰り返した。遥って、金丸遥だよね。名前で呼ぶんだ。もしかしたら、二人は付き合ってるのかもね。そうだよ、遥はあんなに美人なんだもん。いくら北里さんでも、身近にあんな綺麗な女の子がいたら好きにならない筈ない。
 どうでもいいことまで考えた。あたしが考えなくてもいいことまで、考えたくもないことまで。どこまでマイナス思考で深読みしてんだろうとも思った。たった一言言われて勝手に傷ついただけなのに。自分の中で一番大きいと思っていた北里さんの存在は、自分が思っている何倍もその何倍も、あたしのすべてだったんだ。あたしの、すべてだったんだ。

「……帰ろう」
あたしはやっと立ち上がることができた。足元がふらつくことは誤魔化せない。だけど、今はこの場所から去ることが先決だとあたしの心は言っていた。
 そして北里さんが閉めた扉を開ける。
 ガチャン。
 そのとき見た光景は、忘れたくても忘れられないものになった。


「……遥さん?」
開いた口が塞がらない、というのはこういうことだ。あたしはこのとき呆気にとられて間抜けな顔をしていただろう。
 だって仕方ない。あの、あの可憐で清楚で素敵な女の子代表(とあたしは勝手に思っている)の金丸遥が、あんな姿でいるのだから。
 野球のユニフォーム。一言で言えばこれだ。薄汚い土がたくさんついていて、洗っても取れないような跡になっている。深く被った帽子の奥には、ぎらぎらとした眼差しが汗にまみれていた。あの長い黒髪は後ろで一つに束ねられ、気にならないようお団子にされている。いつもの、あの制服姿の遥とは全く違う遥がそこにいた。

 投球練習。と言うんだろうか? 遥は、右手にグローブ、左手にボールを持って、大きく振りかぶった。そして次にあの長く華奢な足を大きく上げた。少し風が吹いたのか、砂が舞うのが見える。その状態で、彼女は一度動きを静止した。
 あたしは瞬きも忘れていた。見入る、食い入るように。
 遥の投げ方は女の子とは思えなかった。ソフトボール部の子たちとも少し違った。上手投げ、しかも速い。しゃがんで構えてた人(キャッチャーというやつ)のミットにいい音が響いた。パァン、と。
「いいよ、今の」そのキャッチャーは言う。その言葉を聞くと、遥は帽子を一度脱いだ。
そして、爽やかに笑った。
「あ……」
笑った。あの遥が。
 もう一回、と言った風にキャッチャーは遥にボールを投げ返した。あれ? あのキャッチャー……
「茅島君じゃん!」
あたしは目を丸くした。同じクラスの、しかも席が隣の茅島君だ。野球の好きそうなキーホルダーを持っていたのを思い出した。野球部だったのか。
 遥はボールを受け取ってから、帽子を深く被り直した。そして何を思ったんだろう、あたしの方を振り返った。一瞬、ドキリとする。あたしはまだ遥の何かを知ってる訳ではなかったんだ、ということが頭に浮かんだ。さっきまで知っていた遥じゃないことに、初めて会った時の何倍も緊張してしまう。
「由希!」
遥は初めてあたしに笑顔を見せた。普段無表情な人が笑うと、こんなにも心惹かれるものがあるのかと思いこんでしまうくらいに綺麗だった。その眩しそうな笑顔は少し不器用にさえ感じた。
「由希、大丈夫だった? 鼻血」
遥が走って近寄ってきた。あたしは自分が鼻血を出したことを過去のことにしていたので、突然掘り返されて驚く。自分でも分かるほどに作り笑いをして、小さく頷いた。
「それより……ちょっと驚いたよ」
あたしが顔を引きつらせて言うと、遥は突然下を向いてユニフォームについた土をはたき落とした。
「ちょっと引いたでしょ? こんなの」
「ううん。吃驚したよ」
あたしは慌てて首を振った。引いただなんて、とんでもない。今見た光景があたしにとってどれだけ新鮮で、輝かしいものだったなんてのは言えたものではないけれど。
「私、野球部員なの。選手なの。……女だけど」
また、遥は照れくさそうに笑った。そこに茅島君が駆け寄ってきた。お、三島さん。といったようにあたしの顔を見て、そのあと遥を見た。
「二人は知り合い?」
あの不健康そうな目を見つめると、意外と顔が整っていることに気づいた。まぁ、北里さんに比べたらこれっぽっちのものでもないのだが。
「昨日知り合ったんだ。廊下の窓から野球部のことずっと見てたから、捕まえてみたの」
「へぇ。遥さんらしい」
茅島はやたら遥を慕っているようだ。ここであたしはふとおかしなことに気づいた。他の一年生らしい人は違う場所で先輩に指導を受けている。茅島君だけ何故自由に練習しているのだろう? この質問はすべきかしないべきか、迷った。しかしそれを口に出す前に、あたしは何かを感じて振り返った。
 北里さんの声が聞こえたのだ。いつもテレビの前で見ていたあの真面目な顔。生で見るとやはり迫力というものが全く違うが、それでもあたしの憧れた北里さんの低い声があたしの耳には大きく入ってくる。さっき邪魔がられたばかりなのに、あたしは見とれてしまった。あの人は、どうしたってあたしの大好きな北里さんなのだからしょうがないことではあるのだが。
「三島さん?」
茅島君に呼ばれて、急いで我に返った。「何見てたの?」「ううん、別に」……明らかに違和感のある会話だ。あたしは好きなモノに入り込んでしまって周りが見えなくなるタイプだから怖い。いつ北里さんに想いを寄せてることがバレてもおかしくないとこの時気づけて良かったと思う。そうならないうちに、今日は退散だ。
「……じゃあ、あたし帰るね!練習頑張って。ばいばい」
あたしは相手の反応を見る前に走り去った。残された遥と茅島君がどういう会話を交わしたのかは分からない。色々想像したが、もしかして『三島さん、北里さんのこと見てたね』なんて言われてたらどうしようと一番思った。少し後味の悪い別れだったかもしれないけど……考えるのはやめよう。
 あたしは足早に荷物をまとめ、玄関を出て歩いていた。放課後にしては少し遅めで、部活帰りにしては少し早めの時間なため人通りが少ない通学路を一人で進んでいく。一組の高校生カップルが曲がり角からあたしの前に現れたときには、目障りな……と僻んでみたが、それはあたしには関係ない。
 違うことを考えよう。そうだ、遥のこと。まさか野球部の選手だったなんて考えてもみなかったことだった。というか、今まであたしの知ってた中で女の子の野球部員っていたかな。こんな事を言うと男女差別だなんて言われるかもしれないけど、女が野球、ってまだ馴染んでいる訳ではないなぁと思う。だけどあの姿の遥を見て、決して変な印象はもたなかった。大袈裟に言うと感動した。それは遥のあの非凡な容姿のせいもあるかもしれない。あれを見て憧れる人も絶対に少なくないと思う。そして一球しか見れなかったがあの投球、あれも練習を積み重ねたというのがにじみ出ていたと思う。野球自体は特別詳しいわけではないあたしでも分かった。あれは上手なんじゃないかと。しかも確か右手にグローブをつけてたな。なんて言うんだっけ、そういうの。サポ……ああ、サウスポーかぁ。あの細い腕であんなに速くボールを投げられるんだ。凄いなあ、凄いなあ……
「えっと」
考えることに少し疲れたあたしは、全く無意味な独り言をこぼした。


 春の夕方に、突然色々なことがありすぎたあたしの心を描くような不安定な空がこの目に映るものを少しだけオレンジ色に照らした。




「おはよう」
あたしは無言で顔をあげる。そこには茅島君が立っていた。あの日以来、茅島君とも遥とも一言も話していなかったあたしは度肝を抜かれたように目を広げる。
「……え、おはよう」
あれから一週間は経っただろうか。あたしは結局美里ちゃんと一緒に華道部に入った。週一回しか活動がないというのに誰も出ていないからほぼ帰宅部同然の部活だ。
 同じクラスで隣の席だというのにも関わらず、茅島君はあたしに一度も話しかけはしなかった。それどころかずっと耳にイヤホンを付けて机に突っ伏しているので、話すどころの問題ではないのだが……その茅島君に突然初めて挨拶をされたのだ。
 茅島君は自分の席に座った。その後は沈黙だったので、特に用事もないのに挨拶したのか。しかしあたしがそっと隣を見ると、バッチリと目があった。あたしは慌てて反らす。
「あのさあ、もう野球部来ないの?」
茅島君は目を反らさないまま、頬杖をついてあたしに言った。
「……用事ないもん」
「冷たいなぁ、遥さんが寂しがってたよ? もしかしたら自分のあの姿を見られたから、避けられてんじゃないかって」
「そんな訳ないじゃん!」
あたしは体ごと茅島君側に向き直した。それでも彼は何も動じないであたしを見つめている。
「本当に……本当に、あたしあのとき格好いいって思ったんだよ、遥さんのこと。本当はもっと見たかった。茅島君と遥の投げる練習してるとこ」
「じゃあどうして帰っちゃったん? どうして次の日から来てくれなかった?」
「それは……」
ふと、北里さんの顔を思い出す。大好きな人に嫌われてしまうのは乙女にとって一大事だ。あの日から一度だけ、北里さんと廊下ですれ違った。あたしはもしかしたらあたしの顔を覚えていたらどうしよう、という気持ちで通り過ぎたのだが、北里さんはそんな事ひとつも気づかずに行ってしまった。そうだよな、覚えてる訳ないよな、あたしのことなんて。
「三島さん?」
「え」
茅島君に腕を叩かれて我に返る。
「言いたくないんなら別に言わなくてもいいけど。あと、俺のこと茅島君じゃなくて呼び捨てでいいよ」
「えっ! そんなんいいよ別に」
「俺が嫌なの。なんなら隼人って呼んでくれるー? 俺の下の名前ハヤトっていうんだ。覚えてね」
茅島君は無邪気な笑顔を見せた。可愛い人だなぁ、と正直思った。
「……いや、でも」
「あらそう。じゃあ俺は三島って呼ぶよ」
「呼び方なんてどうでもいいじゃん!」
「またまたぁ。怒るなよ。な、三島! 今日は一緒に野球部行こうな」
あたしはただ呆気にとられた。なんでちょっと親しくなったからってあたしは入ってもいない部活に行かなきゃいけないのだと。茅島君を引き留めようとしたのだが、奴は仲間と一緒に連れ立って便所に行った。……男の子ってのは扱いにくいから苦手だ。あ、もちろん北里さんは【男の人】だから別だけど。
 それにしても、まさかあの遥が自分のことを避けられてるとか心配するだなんて思わなかった。もっと自分に自信持っとけばいいのに。あたしがあの部活に近寄らないのはただ、北里さんにこれ以上嫌われたくないだけ。ずっと好きだった人だもん、それだけは譲れない。
 前も言ったけど、夢のような出来事はなくていいのだから。

 数学の授業中に、誰かの携帯電話の着メロが鳴った。教師は喋る口をとめてその音に耳を傾ける。その音は鳴り続ける。どうやらメールではないようだ。あたしの前の席の子も、その前の席の子も突然後ろを振り向いた。え、あたしじゃないよ、というようにあたしも振り向く。すると、一番後ろの席に座っている男子と目が合った。その男子はあたしの顔を見て、口の前で人差し指を立てて「シーッ」というポーズをとる。笑った時の八重歯が光った。
「おい、ハチヤ! バレてるぞ」
教師が突然怒鳴った。八谷と呼ばれた一番後ろの席の男子は小声で「あちゃー」と言う。そして今度は教室中に響き渡るどでかい声を出した。
「へいへい、すいませーん電源切っときやす」
「次鳴ったら取り上げるからな」
そう言って授業は再開された。あたしがもう一度振り向くと、八谷は机の下で必死にメールを打っているようだった。
「うわぁ、ありゃ取り上げられるよなぁハチ」
茅島君が小声であたしに言う。あたしは黙って頷いた。
「あ。ハチも野球部員なんよ」
「へえ」
また、野球部ってのはキャラが濃いなぁと思う。八谷という男は顔からしてお調子者タイプだ。もっと健全な野球部員として坊主とかにすればいいのに、やたらと凝った髪型をしているし。
 ここであたしは、あることを思い出した。
「あのさ、何で茅島君と遥さんだけ別に練習してたの?他の人たちみんな北里さんについて何かやってたじゃん」
「えっ」
茅島君は意表をつかれたような顔をした。そして目を泳がせる。言葉が全く出ない、といった風な顔をしていた。そのまま黒板に目を反らし、シャーペンを走らせた。シカトかい。あたしはそれ以上どうすることもなく、授業へと戻ることにした。

 思いがけないことが起きた。放課後になって突然腕を引っ張られ、あれよあれよという間に階段の踊り場へと引き摺られたのだ。
「ちょ、何するの!」
その手を振り解いて、そいつの顔を見た。そこには遥がいつもの無表情のまま立っていた。
「は、遥……さん」
「遥でいいってば」
やっぱり遥はあのときみたいに笑わなかった。あの日見た光景は嘘だったかのように、全く野球をやっているようには見えない。
「……遥。何の用?」
「野球部行こうよ」
遥がそれを言うと同時に、後ろから茅島君に肩を掴まれた。あたしは二人の強引さに逆に笑えた。よかった、遥とまた話すことができて。

 高校野球。一言でいうと大変そうだ。そして何よりも青春してるなぁ、と客観的に見て思う。そして久しぶりに見てしまった、あたしの大好きな人。
 あたしは北里さん(とその他の部員)に気づかれないように部室に潜入した。別にそういうつもりでいた訳じゃないんだけど、また邪魔になると悪いから。少し横目で北里さんを見つめる。あの表情は真剣そのものだ。さすが主将。圧迫感があるし。
 あたしたち三人は、他に誰もいない部室でひとつのテーブルを囲んで座った。外ではもう練習が始まっていて、気合いを入れる掛け声がそこら中から聞こえる。その中でもあたしの耳には北里さんの声ばかりが入ってくる。
「ねぇ、二人は練習に行かなくていいの?」
「いいよ、どうせ今やってるのノックだろ」
茅島はつまらなそうに言う。どうして?とあたしが聞くと、首をかしげて少し笑った。そして立ち上がる。遥は相変わらず表情を変えないが、自分で入れた紅茶を突然一気に飲み干した。
「ねえ由希。女の子があのユニフォーム着て、グローブ持って、乱暴にボール投げて走り回って……ってどう思う?」
遥は突然あたしに言う。あたしは解答がどうこうじゃなくて、あまりにも急な質問であたふたしてしまう。
「かっ、かっこいいと思うよ! 自分のやりたい事やってるんだなって思うし、今なんてそんなの当たり前だし……」
どうしても目があっちこっち行ってしまう。今言っていることは嘘偽りなんて一つもないのに、何でだろうか真っ直ぐ見ることができない。黒板の方を向くと、茅島君が制服からユニフォームに着替えていたので慌てて向き直す。
「……私ね、行きたい所があるんだ」
遥が話し出した。
「行きたいとこ?」
「うん、どうしても今年行きたいの。そしてそこでボールを投げたいのね」
遥の目は黒く澄んでいた。その目に映るものはあたしじゃない。あたしはピンとひらめく。
「あ。甲子園?」
自信満々で当ててみたのだが、遥はあたしの顔をまじまじと見て、口角だけを少しあげ首を横に振った。
「そんな大きい夢見てないよ。でも正解。私は県立野球場のマウンドに立ちたいの」
遥が言うと同時に、着替えを終えた茅島君が高笑いした。あたしはその笑い方にカッとなった。
「何で笑うの!」
「いやぁ違う違う。謙虚だなって思って。実際の遥さんの実力なら甲子園が夢だって言ってもおかしくないからさ」
茅島君は優しく微笑みながら遥を見た。あたしもつられて遥の顔を見る。
「そう言ってくれんのはアンタだけ」
そして遥は着替えてくると言って部室を出て行った。何もない表情の中に、どこか寂しそうな雰囲気を感じた。

 茅島君と二人残された部室で、気まずい時間が流れる。こういう沈黙は嫌いだ。
「……あのさ。茅島君は遥といつも一緒に練習してるみたいだけど、どうしてなの?」
なんだか意味のわからない質問である。そして今日の授業で聞いた内容ともダブっている。気を遣っているのがバレバレだ。
「んー?俺、キャッチャーだから。遥はピッチャーだから」
かったるそうな答えである。でもそれだけじゃあたしの質問への答えになっていない。じゃあどうして二人だけ別メニューなの? みんなと一緒にノックをしないの?
「もしかして、遥を認めていない人がいるとか?」
「……」
「そうだとしたらあたしその人に言いたいよ。遥はあんたが思ってるような中途半端な奴じゃないって」
「それは遥さんをフォローしたいってこと?」
「うん。あたし知りたいよ。遥のこと。あたし今まで普通の中の普通で生きてきて、それで満足してたつもりなの。他人より目立つことだけはしないようにって。だけどそれは自分の好きなことを抑えつけてることになってたと思うんだ。でも遥は……自分のやりたいこと、やるべきことをしっかりやってる。応援したい。だからもっと知りたい」
「遥さんは……」
急に感情が高ぶったのか、茅島君は眉間を寄せて何かを言おうとした。しかしその言葉はかき消された。乱暴に開けられた扉によって。
 バァァァンッ
 扉を開けたのは……この学校の数学の教師だ。白髪まじりで見るからに怖そうな顔をしていて、あたしも何回か見たことがある。朝の校門の前で生徒たちの登校を待ち伏せ(?)しては服装や髪色を注意してくるあの教師だ。
「大熊監督!お久しぶりッス」
茅島君は立ち上がって一礼した。こいつが野球部の監督? 去年の明幹の監督と言えば、(テレビでしか見たことが無いが)もっと若くて賢そうな顔をした……確か、吉野監督だったかな。あの人は有名な野球監督らしく、そのおかげで明幹が県大会を圧勝して甲子園へ行ったとかなんとか言っていたはずだったが……
 その監督はフラフラ歩きながら近寄ってきた。酔っぱらいじゃあるまいし、ちょっと気持ち悪い。
「おう。新入部員。と……誰だこの女は? 北里のやつマネージャとったのか?」
「いえいえ、とってませんよ」
そのジジイの問いかけに茅島が答える。
「そうか。まぁどうでもいい、この部は全て北里に任せてるからな。俺は楽でよいよい」
そう言うとそのジジイはあたしの肩に生暖かい手を置いた。全身に寒気が走る。あたしはそいつに気づかれないように茅島君に目配せをするが、彼はただ苦笑いするだけだった。
「おい、遥はいないのか?」
「あ、今着替えてくるって言ってさっき出ていきましたけど……」
「そうか。いやあ、女がいるってのぁ華になるなぁ。なあ、なあ」
今度は両手であたしの腕を掴んできた。これはあれだ、セクハラだ。
「おい、お前名前なんてーんだ?何年何組だ?」
「……一年三組の三島です」
あたしが小声で言うと、そのジジイは突然馬鹿笑いし始めた。そしてあたしの腕を引っ張って再度部室の扉を開けた。

「よく聞け、下手くそども!!」
練習中の野球部員たちは何事かと振り向く。馬鹿でかい声で叫ぶこの教師はイカれてる。やめろ、せめてあたしの腕を離せ。
「今日からマネージャが入ることになったぞ! 喜べ、喜べハッハッハ」
そう言うとジジイはあたしの腕を掴んだままその手を高々と挙げた。あたしは恥ずかしさのあまり顔が上げられない。辺りはシーンと静まりかえる。
「ん? どした? 嬉しくないのか」
「……大熊監督、うちはマネージャなんてとってませんから。冗談はやめてください」
そう言ったのは北里さんだった。もう最悪だ。何で北里さんの前では変な印象ばっかり……
「なんだ北里。女の子いた方が楽しいじゃねえかよ。遥だけで満足か?」
「そういう問題じゃないでしょう」
少しだけ顔を上げて、北里さんを見た。あたしのことを睨んでいるような気がした。あたしはマネージャなんてやりたくないよ、やりたくない。どうでもいいからあたしから目を離してほしい。
「おい三島、お前からも挨拶しろ、マネージャになりましたーって」
「そんな事……」
この自分勝手な変態教師に一言言ってやろうと思って顔を上げた。するとユニフォーム姿の遥が目に入った。
 由希、マネージャに入ってくれるの? そう言わんばかりに期待いっぱいの顔をしていた。そう、それは間違いなく笑顔だ。
 あたしは、今まで普通の中の普通で生きてきた。自分の好きなことを精一杯やるならば、きっと誰かに反論を受けるに違いない。あたしはそういう危険があるなら最初から行動しない。人に嫌われるのは苦手だ。それなら人の前に出るようなことはしない。自分の要求を表に出すのは勇気がいることだ。それと同時に我が儘なことだ。無い物ねだりはしたくない。今のあたしはマネージャになれる訳がない。だってこの野球部にマネージャという枠は無いのだから。
 でも、本当に願っていたことを諦めるのは、もっと勇気がいることなのかもしれないと思う今、あたしは目の前に憧れの人を二人抱えている。
 北里さん。遥。ここであたしがこの部活に入りたい、と我が儘を言ったら、きっと北里さんに嫌われるだろう。でもここであたしがこんな部のマネージャなんかやりたくない、と言ったらきっと遥は傷つくだろう。
 嫌われたくない。北里さんに。でもそれ以上に思うことがあった。
 裏切りたくない。遥を。

「……三島由希……です。この部に入りたくて……マネージャにさせてください。お願いします」
そして自分に正直に。あたしはこの想いをうまく言葉に出来ただろうか。




「認めない」
これが北里さんの答えだった。あたしは胸が苦しくなって、泣き出しそうになるのを必死にこらえた。
「おい北里よ、おめえはいつまでたっても堅いままだなぁ。このむさ苦しい野球部なんかのマネージャやってくれる子なんてなかなかいねえべ」
「たくさんいましたよ今まで。そして今までも同じように断ってきた。その子だけ認める訳にはいかないでしょう」
そうだ、そうだよな。北里さんの言う通りだ……ほんの少し前のあたしだったらこう言ってただろう。でも今は――
 遥は北里さんとジジイ(大熊監督?)の言い合いをあたしの方は一度も見ずに静かに聞いていた。
「うるせえ、俺が入れるって言ったんだ。今日から三島にはマネージャとして来てもらう」
「大熊監督、うちは自分たちで全て責任を取ることになっているので。掃除も、洗濯も、記録も全部自分たちでやります。いくらなんでも勝手すぎます」
「北里、ちょっとどいてろ。お前の意見ばっか聞いてらんねえ」
そう言って大熊監督は北里さんを押しのけた。しかし相変わらずあたしの手は掴んだままだ。あたしは引き摺られるように歩く。数多い部員たちの前に立たされたあたしは、顔を背けたまま動けなかった。
「おい……今日の掃除の担当者は誰だ」
大熊監督が低い声で言う。すると部員の中の一人がさっと手を挙げた。背が低いのもあるがあまり野球向きではなさそうな体型をしている。
「じゃあ洗濯担当は誰だ」
誰の手も挙がらなかった。部員たちは少しキョロキョロする。大熊監督がもう一度「誰だ」と言って答えを促すと、さっきと同じ部員がゆっくりと手を挙げた。
「一人だけか?」
「はい」その部員は答える。
「昨日は誰がやった?」
「……俺です」
全てを悟ったかのように、大熊監督はあたしの手を離して大きくため息をついた。そしてまた大声で言う。
「三島がマネージャとして入ることに賛成の奴は手を挙げろ!」
長い沈黙が起きた。まるで時間が止まったかのように、誰も動かなかった。
 あたしはこの部に入りたい。きっとこれは揺れることはあっても決して変わらなかった、あたしの本音だ。わざわざ自分のレベルに合わないこの難関校を選んで、死にものぐるいで勉強したのも、この部活に入るため。受験だ、受験だとみんなが騒いでもあたしには不安なんてなかった。――もし今、あたしがこの部に仲間入りすることを拒まれたら、あたしの夢はそこで終わる。でもきっと、ここまでやって駄目だったんだから、きっと悔いなんて残らない。

 そのとき、手が挙がった。あたしはたまらず顔を上げて目を見開く。それは掃除、洗濯を任されていた部員だった。
「俺……」
声を震わせて、その部員は言った。
「洗濯とか、掃除とか、そういうことしてる時間も惜しんで野球やりたい」
あたしは息をのんだ。全員が思い詰めた表情になり、そしてまた少し長い沈黙が起こる。あたしは自分で瞬きをしているかしていないかが分からないほどに目が釘付けになっていた。
 すると、その部員の後ろにいた背の高い男も勢いよく手を挙げた。
「俺、同感!」
全員が相当驚いたらしく、一瞬にしてその男に視線が注がれた。そして次に起こったのは連鎖反応だった。次々と、そして高々と高校球児たちの腕は挙げられる。一人、また一人、いつしか部員のほとんどが清々しい顔で手を挙げはじめたのだ。戸惑うあたしはどこを見たらいいのか迷う。その中に、うちのクラスの八谷もいた。あたしと八谷の目が合うと、あいつはニンマリと笑った。北里さんはそれを厳しい表情で見つめている。
「私も、そう思う!」
遥が細い腕を目一杯空に向けて伸ばした。あたしと目が合うと、たまらなく笑顔になる。
「ハッハッハ、決まりだな、北里。じゃあ三島、今日からよろしく」
大熊監督は満面の笑みを浮かべてあたしの肩を叩いた。あたしはみんなの笑顔を見て、つられて笑ってしまう。嬉しい。
「はい!」と、あたしは目一杯笑って返事をした。
「……どうかと思いますよ」
全員が全員、笑顔になることはなかった。北里さんは、これだけ言い残していつの間にかその場からいなくなっていた。





 楽しいことが始まる時は、街の色が変わる。気分が鮮明になって、何もかもを信じてみたくなって、不思議だ。今日まさしく、あたしの気分はバラ色だ。何故ならこのあたし三島由希は昨日からあの名門・明幹高校野球部のマネージャになったのでありますから。
 あたしは花びらを舞わせるかのようにスキップしながら家から学校への通学路を進んでいた。
「何やってんだアンタ」
浮かれ度満点で飛び跳ねていたあたしを、この言葉と共に自転車がサーッと越して行った。八谷だ。こういう時って「ちょっと何よー待ちなさいよー」とか言って怒ってやるのが少女漫画っぽいけど、あたしは明幹高校野球部のマネージャ。そんな些細な出来事でカッカしたりしない。通り過ぎていく彼の後ろ姿を睨み付けるだけで十分なのです。
 今日は学校の近くにあるコンビニに寄るために少し早起きした。あたしのマネージャとしての初の差し入れを買うために。
「何にしよっかなぁ」
そういえば、前遥が廊下でメロンパン強請られてたなぁ。よぉし、メロンパン三十個買いだ! あたしは店頭に並んでいるメロンパン全てをカゴに入れてレジへ持って行った。財布は寂しくなったが、それよりもあの部員たちの喜ぶ顔が想像出来てならなかった。まだ名前も性格も何一つ知らないけど、野球部の選手たちだ。これからきっと楽しいことがある。そしてあたしはこんな都合の良いことまでこぼしていた。
「きっと北里さんもすぐ分かってくれるよね」
両手にコンビニの袋を持って、小走りで学校の校門を駆け抜けた。いつも向かう生徒玄関じゃない、反対側へと走る。それは野球部の部室への道のりだ。
 早朝に少しかかっていた霧も、今となってはすっかり晴れていた。今日は穏やかな日になりそうだ。あたしは、早く遥と一緒に部活に行きたいなぁ、このメロンパン見たらみんな何て言うかなぁ、北里さんは……笑ってくれないかなぁ。こんなことを考えながら、足取り軽く部室のドアを開けようとした。
 ふと、近いような遠いような声が聞こえた。雑音に紛れてよく聞こえないが、あたしは必死に耳をこらして聞いた。男の声と女の声、それぞれ一つずつ。あたしはすぐに聞いてはいけない話だと判断したのだが、人間の本能が働いてしまった。聞きたい、気になる! あたしはそっと声のする方を覗いた。
 え? あれ、北里さん――……
 その男女はあたしから少し離れた場所にいて、顔も容姿も全く分からなかった。特に女の方は草の茂みが邪魔をして死角になっている。しかし長年かけて鍛え上げたあたしの北里アンテナは瞬時に作動した。あれは北里さんだ。しかしあたしにはいつものような鼓動の高鳴りは起きなかった。代わりに、頭の中で切り裂かれてしまうような痛みが走った。
 なにあれ?
 北里さんの胸から背中、肩にかけて細い腕がかけられていたのだ。そして北里さんも誰かをしっかりと抱きしめている。そのまま二人は小さな声で会話を続けていた。やがてその声はぴたりと止まった。
 あたしの体は拒否反応を起こしている。見ない方がいい、見るな。これ以上見たら立ち直れなくなるぞ。そんな声がどこからか聞こえてきたような気がした。いつの間にか緩んだ両手は、先程買ったメロンパンを落としてばらまいていた。

 目を、離すことはできなかった。あたしの数メートル先にいる北里さんと女の人は、どちらともなく濃厚なキスをしたのである。
 目の前がまっしろだ。あたしの心が遂に悲鳴を上げた。あたしは懸命にその場で後退ると、無我夢中で走り去った。






 なにあれ? あたしは今一体何を見たの? 北里さん、あれは確かに北里さん。二人は何なの? どういう関係? 有り得ない、そんな事有り得ない。ああ、何でしっかり相手の女の人の顔を見なかったんだろう。あたしは馬鹿だ。流れる物を抑えられない。足元がふらつく、足元が……
 あたしはその場に倒れるように座り込んだ。登校して来る生徒たちの通る廊下のど真ん中だったので、過ぎゆく人は変な目であたしを見る。でもそんな事どうでもいい。この現実を、今見てしまった映像をあたしの頭から消したい……! そして全て嘘だという事を知りたい……! あたしは声が出るほどに泣いた。手も、足も、頭も心も、全て小刻みに震えていた。
「三島?」
あたしを呼ぶ声がしたのは分かった。だけどそれに応じることはできなかった。あたしの頭の中はまるで走馬灯のように色んな事がぐるぐる廻っていて、最終的に全てのものがさっき見た光景へと繋がっていってしまうのだ。誰かがあたしを呼んでいる。顔を上げなくては……だけど、動けない。すべてがぐちゃぐちゃで分からない。
「おいお前、何やってんだよこんな公共の場で」
その声が聞こえると同時に、おでこを押されて無理矢理に顔を上げさせられた。涙と鼻水で人に見せられるような顔ではないことは分かっているのだが、抵抗はしなかった。
 目の前にいたのは、八谷だった。
「……はちやぁ……」
あたしはそれでも涙が止まらなかった。八谷と一緒にいたらしい茅島君が座り込んであたしの背中を軽く叩く。その暖かい手に、あたしは更に胸が苦しくなった。
「とりあえずここから移動しようぜ、迷惑になる」
八谷はそう言うと教室とは違う方向に歩き出し、理科実験室と札のかかった部屋に入っていった。茅島君はそっとあたしの腕を引っ張って立たせると、壊れたように大泣きしているあたしと一定の距離を保ったまま歩いた。ふらつけばふらついた分だけ、茅島君は立ち止まっていてくれた。
 八谷は理科実験室の奥のテーブルに腰掛けて、面白くなさそうに口を噤んでいた。あたしと茅島君はその横で椅子に座る。あたしはまだ顔を上げられずに俯いたまま泣き続けた。
「なぁ、三島……どうしたら泣きやむ?」
八谷は呆れたように言う。
「まぁハチ、そうせかすなよ。でも話せばスッキリすると思うし、三島が泣きやんで話せるようになるまで俺ここにいるから」
話す気なんかない、本当のことなんてこの人たちに言える訳がない……。そうは思ってみたものの、傷ついた時に支えてくれる人がいるのは本当に嬉しいことだ。一人じゃないと気づけた時に、少しだけ強くなれる気がする。
「でもなぁ、俺たちには話しにくい事かもしれねーよ。面倒くさそうだから遥さんでも呼ぶ?」
そういうと八谷は携帯電話を取り出してメールを打ちながらそのまま実験室から出て行った。茅島君は何も言わなかった。ただ泣きやまないあたしの隣に、座っていれくれた。


「……あたしね……」
自分の気持ちを話そう、と思う訳ではない。ただ遠回しでもいい、分かってもらえなくてもいいから、こぼそうと思う。
「うん」
「……ずっとずっと、好きな人がいて。もう生活してる中でその人のことばっかりしか考えられなくて、そういう日々を……もう一年以上も、続けてたの」
「うん」
茅島君は小さな相づちを打ちながら、途切れ途切れなあたしの話に真剣に耳を傾ける。
「ずっと自分のものにしたかったよ? あの人の全てに触れてみたい。ずっと傍にいたいって、ずっと思ってた。でもねそれはあくまで妄想。あたしにはその人に近づく勇気は持ってなかったみたい」
これはあたしの本音。何度も何度も考えてるけど、嘘偽りなく情けない本音。惨めで格好悪いとしか言いようがない。好きな人に近づけずに、頭の中で妄想するだけなんて。
「うん。それで?」
茅島君に促されて、どう言おうか迷う。この先はもっともっと惨めな自分しかいない。それをクラスの男の子にさらけ出すなんて、それは本当に恥ずかしいことだ。
「そ、それで……」
「ためらわなくても良いよ。何も思わないから」
茅島君の言ったこの言葉に、あたしは何故だか涙が止まらなかった。優しくなんてない、あたしの話を聞いたところでどうこうする訳ではない。それでもあたしはこの人の暖かさを感じた。今のあたしが一番欲しい距離感をおいていてくれた。
 あたしは鼻をすすって一息つく。
「それでね……その人が……」
ここは話せばスッキリする気がする。きっと茅島君は本当に何も思わない。あたしのことなんてこれからも放っておいてくれると思えるのだ。いま、自分が思ってること、言いたければ言えばいい。
「……」
言葉が出てこない、というより、声が出ない。緊張とは少し違うが、何かあたしは震えてしまっていた。
「……」
「……」
「うん。分かった。じゃあいいよ」
茅島君は不自然な程早く諦めた。あたしの震えはおさまる。彼は優しい笑顔で続けた。
「人に軽々しく言えないくらい本気で悩んでるんでしょ」
そのとき、朝のチャイムが鳴った。これが鳴り終わる前に校門へ入らないと遅刻になる。そしてこの後五分後にはSHRが始まるのだが……
「教室行かなきゃだね」
あたしが目をこすりながら立ち上がると、茅島君はあたしの腕を掴んだ。
「あー。別にいいんだけどさぁ……ちょっと、話聞いてくんない?」
彼の表情は冗談にはできないように深刻だった。あたしはそのまま椅子に座り直した。
「まぁ、俺は恥ずかしいとか秘密にしたいとかあんまり思わないから言うけど。俺にも好きな人がいてさ」
「え。……うん」
あまりにも唐突な話っぷりに、あたしは大きな相づちを示す。
「っていうか、最初は憧れだったんだけど。初めて見たのはこの学校に見学に来た時だったんだ。とりあえず最初は一目惚れだったねー。あんな綺麗な人見たことないってくらいだった。それで自然とその人ばっか見ちゃってたんだけど」
「……え」
「俺は何度もこの学校の野球部に見学に来た。そしてその度に好きになってた。いつだったっけな、その人から話しかけてくれたんさ。ポジションはどこ? って」
あたしは表情ひとつ変えずに茅島君の目を見つめていた。
「俺はすぐに答えたよ。そこから少しずつなんだけど話せるようになったんだ」
茅島君の目は澄んでいた。でも、それは……
「それって、もしかして……」
あたしたちの目が合うと、茅島君は優しく目を細めた。

 ガララッ
 あたしがその先の言葉を言おうとした時、実験室の扉が開いた。驚いて振り向くとその扉の向こうには、遥が肩で息をして立っていた。
「は、遥? どうしたの?」
「い、いま、ハチが……」
気が動転しているのか、ただ走ったので疲れているだけなのかは分からないが、遥は苦しそうに答えた。
「ハチがどうしたって?」
茅島君が言う。
「由希が理科実験室で茅島に襲われそうだって、ハチからメールが来たの!」
「は?」
あたしと茅島君の声が綺麗にハモった。遥もほぼ同時に「は?」といった顔をする。あたしはその後すぐさま笑ってしまった。
「あはは、なにそれ! はははは!」
あたしの爆笑に、二人は唖然とする。遥はその情報が嘘であったことを認識して、少し恥ずかしそうに笑った。
「HR抜け出してまで来たのにー」
「遥さん、俺がそんなことする訳ないじゃないですかっ」
茅島君は少々顰めっ面で言った。確かに茅島君にしてみればそんな全く冗談を吹き込まれてたまったもんじゃない。しかしあたしと遥の笑顔につられたのか、仕方なさそうに笑って言った。
「遥さん、最近よく笑ってるね」

 茅島君がさっき言っていた「好きな人」のこと。あたしは本心だなと思う反面、もしかしたらあたしと同じ立場の人があたし以外にもいるってことを教えたかったのかもしれない。あたしに、一人じゃないんだよって事を言って励まそうとしたのかもしれない。これはあたしの勝手な憶測だけど。でも――もし本当に恋をしているとしたら、だったら一緒に頑張りたいなぁ。あたしが北里さんを好きなように、茅島君も遥のことを想っているのなら。





 教室に入ると、現実に戻されたように感じた。というよりも、さっきの実験室が夢見心地だったという方が正しいかもしれない。一限が開始されて5分後くらいに、あたしは一年三組の教室の扉を開けた。生徒全員と教師の視線を一気に浴びて、あたしは突然不快感に襲われる。茅島君と同時に入ると怪しまれるかもしれないという事もあり、茅島君は二限から来ると言ったのだが……。こんなんならあたしが後で来れば良かった。古典の教師に「ちょっと保健室に行ってました」と嘘の言い訳をして自分の席に座ろうとすると、一番後ろの席にどかんと座っている八谷が何やら誇らしげな笑顔であたしを見ながら頷いていた。この野郎、あとで茅島君に謝れよ。よほどこの言葉を言いたかったが、あたしは何食わぬ顔をして授業へと溶け込んで行った。
 しかし、どうしても話し相手がいなくなってしまうと《あの場面》が浮かんできてしまう。すると急に胸が苦しくなる。駄目だな、こんなんじゃ身がもたない。これ以上茅島君に迷惑をかける訳にもいかないし、関係のない遥にも心配させてしまうと悪い。あたしは必死に違う事を考えた。中学のときに爆笑した思い出、ああ、あの時はやたら笑ってたなぁ。でもそういうのは今となっては何が面白かったのかよく分からないものだ。結局あたしは北里さんの事を脳裏に霞ませながら、授業中ずっと頭を抱えていた。

「ねぇ、由希」
意外な人からお声がかかった。それは中学が同じで、高校も一緒になった美里ちゃんだった。実は同じクラスだったのだが、外見からいってもあたしと美里ちゃんは全く釣り合わない。この前よりも濃くなったアイラインの部分を見つめながら、あたしは軽い返事をした。
「何?」
「……なんか噂なんだけどさ、由希が硬式野球部のマネになったって本当?」
「は? 誰に聞いたの?」
あたしは少々の焦りを感じた。まだ昨日の今日の話なのに、噂というのはそこまで早く伝わるものなのか。
「誰にっていうか……まぁ、その辺の人に。なんか野球部の部員さんで女の人がいるじゃん? その人と由希が仲良さげに話してるのよく見かけるらしくてさ、そこから話が発展してったっぽいんだけど」
「へ、へぇー……」
あたしは曖昧な返事をした。美里ちゃんはあたしの顔を見て続ける。
「部活入る前にさぁ、あんた野球部の主将さん狙いだって言ってたよね? もしかしてそれ関連でその女の人使ってんの?」
しまった、と思った。あたしは入学したてのあの日、北里さんと同じ高校に入ったという嬉しさあまりこの子に北里さんに憧れていることを言ってしまっていたのだ。
「……使ってる訳ないじゃん」
そこだけは否定しなくてはと思った。遥だってあたしにとって大切な憧れの存在だ。その遥を自分の良いように使う訳がない。
「まぁ、女子部員って言ったってマネージャ同然なんだろうね。あ、分かった! それでこの人のコネで入れてもらったってやつでしょ!」
美里ちゃんは人差し指を立てて閃いたように言った。あたしはこの子の言う色々な言葉が頭にきたのだが、強く言い返そうとは思わなかった。でも勘違いしている所は修正しないといけない。
「女子部員は、マネージャじゃないよ。ちゃんと部員だよ」
「……そう」
面白くなさそうな顔をする美里ちゃんは、ふと思い出したようにこう言った。
「でもさ由希、あの野球部の主将さんって彼女いるって話も聞いたよ! 本気の恋になる前に諦めとくのが吉〜ってか」
彼女が話し終わる前に、あたしはその場から離れた。教室を出て意味もなく廊下を歩いていく。
 そんな事いちいちあたしに言わなくても良いのに。彼女がいるという事を聞いても今は大きなショックは受けない。何せあの場面に遭遇してしまった後だから。本気の恋になる前に? ――あはは、もうちょっと早くそれ言ってくれれば良かったな。そしたらもしかしたら、もしかしたら憧れだけで終わってたかもしれないじゃん。だけどあたしは直接北里さんを見て、こんなにもいっぱいになる自分を知ってしまった。追いたいと思ったんだ。
 あたしは廊下の窓を開けて外を見た。何にもない、いつも通りの景色……の筈だけど、今はそれが少しモノクロに見えるのは、あたしの中の輝いてた部分がすさんでいるからなのかな?
 そんな事を考えているあたしの背後を、茅島君がさりげなく通って行った。その後ろ姿を見ると、あたしはまた少しだけ励まされるのだった。


 あぁ、部活初日にして行きたくない衝動にかられてしまうとは。行きたくないというよりも、北里さんの顔を見たくない。いや、見たいのは確かなのだが、思い出したくない。今となってもしかしたらあれは見間違いだったりして、などという都合の良い妄想も浮かんできたのだが、やはり一度受けたショックは大きかった。でも初日からサボる訳にはいかないし、行くしか道は無いのだが……。
「あのなぁ。マネージャってのはこういう時こそスパイクの掃除しとくもんだろ」
放課後になり、とりあえず部活へ来たのだがやることの見つからないまま部室でボーっとしていたあたしに八谷が言った。
「え、あぁ。スパイク? どこにあんの」
「さっきみんな自分でやったっつの。つーかトンボがけくらい手伝え」
「トンボ?」
怪訝な顔をしたあたしに対して、八谷は嫌味ったらしくため息をついた。
「まぁいいよ、それにしても腹減ったー。腹減ったなぁ。マネージャ」
「何かイライラしてる? 練習中になんか食べちゃ駄目でしょ」
「差し入れくらいねえのかよ」
八谷は片目を細めて言う。差し入れ……ああ、そういえば今朝コンビニで奮発してメロンパン買ったんだった。混乱してどっかに落としちゃったんだっけ。勿体ない、せっかくみんなに喜んでもらおうと思ったのに。
「仕方ねー、さっきもらったのでも食うか」
そう言うと八谷は自分のロッカーから袋を持ち出してあたしの向かいに座り、パンを頬張り始めた。あたしはそれを見て鳥肌が立った。
「そのパン、誰からもらったの?」
「え、あぁ、なんか来たらココにあった。『差し入れですー』って書き置きあってその横にどっさり。お前じゃないんなら遥さんかなぁ」
そのパンは明らかにあたしが今朝買ったものだ。あたしはそんな書き置きを用意した覚えはないし、そのコンビニの袋ごとどこかで落としてしまったことも間違いない。きっと誰かが拾い集めて置いたんだろうけど、わざわざ書き置きまでするなんて……。あたしは少しだけ腹が立った。そして小声で「あたしの金返せ」と言った。
 え、何か言った? と八谷に聞かれたが、何も応えなかった。
 そして八谷はメロンパンを口に無理矢理押し込んで、
「六時まで自主トレになってるから、その時間までに全員分のタオル用意しとけ。いいな」
と言って出ていった。
「ちょっと待っ!タオルどこにあんの……」
もちろん、あたしの声は届くはずもなく。

 あたしは八谷が出た後に自分で用意しておいたジャージに着替えた。小さな鏡に自分を写し、おぉ、マネージャらしいではないかと喜んでみる。その後また少しの時間部室で呆けていたが、これじゃあマネージャになった意味がない、と思い直して立ち上がった。部室のドアを開けると、まずユニフォーム姿の茅島君が目に映る。彼はまたいつものように遥と二人で投球練習をしていた。あたしは投げられたボールを追うように見てから、遥に視線を移す。
 あたしが見ていることは二人とも気づいているはずだ。だけどこちらを向かない。そしてその二人の間でも、いつもとは違う真剣な空気が流れているのだ。
 ザァッ ビュンッ パシィッ
「まだ弱い!」
遥を挑発するように茅島君が言った。すると次に遥はさっきよりも大きく足を挙げ、見て分かるほどに力いっぱい投げる。するとその球はしゃがんで構える茅島君の前で一度バウンドした。
「力んじゃ駄目でしょ。ただ頑張って投げただけじゃあ思うようにコントロールできない」
さっきの八谷もそうだったのだが、なんだかあの茅島君までやたらとイライラしているように見える。遥は一度グローブを外して汗を拭った。肩を上下させて息をしている。あたしは今は二人の会話に入り込んではいけないな、と感じた。
「マネージャ」
「……。え、あぁ。あたし?」
突然そう呼ばれたので誰のことだか分からなかった。振り向くと、あたしのマネージャ入りに一番最初に賛成したあの小柄な部員が立っていた。
「あ、はい。あの、これ洗濯お願いしてもいいっすか?」
「あ!うん!」
やった、仕事ができた。とあたしは心底はしゃいだ。その洗濯物は土まみれで相当汚いTシャツが三枚ほどだったが、やることが無かったあたしにとっては天からの贈り物にさえ感じられた。
「じゃあ、お願いしますね」
「あ、ちょっと待って!」
あたしは即座にその部員を引き留めた。
「洗濯機、使い方教えて……」
驚かれたというより、明らかに呆れられた気がした。

「桐原君っていうんだ。そういえば名前知らなかったよね」
洗濯機は部室の奥へ入った所の一角に二台あった。そのまた奥にはシャワールームが設備されている。私立というのもあり、割といい環境が揃っていた。
「そうだったかもね。はい、じゃぁあとはこれでスタートボタン押すだけだよ」
「おし、分かった!ありがとう」
「いえいえ。これからよろしくね」
桐原君はかしこまって挨拶をした。
「ねえねえ、なんか今日みんなピリピリしてない? 何か焦ってるっていうか、時間に追われてる感じ」
あたしは気になっていたことを聞いてみた。
「あぁ、まぁそうだろうね」
「何で?」
「もうすぐ試合があんの。練習試合みたいなのなんだけどね、その相手が県内だとうちと並んで強豪って言われてる学校なんだ。ってのがあるんじゃない? みんな的には。その試合で成果をあげれば甲子園につながる県大会のメンバーに入れるかもしれないし」
桐原君は淡々と話す。気弱で内気なイメージはついているのだが、芯がしっかりある子だなぁ、何だか偉そうながらそう思った。
「あ、そうだマネージャ、その試合のメンバー決まったらメンバー表を作らなきゃいけないんだけど、お願いしてもいい? ただ選手の名前書くだけだから簡単なんだけど」
「もちろん! やるよ!」
あたしは再び仕事が出来て舞い上がった。でもそれと同時に、桐原君への疑問が生まれた。
「掃除とか洗濯とかもそうだけど……今までマネージャ的なことは全部桐原君がしてきたの?」
彼は一瞬目を伏せて黙り込んだ。しかしすぐに、真っ直ぐにあたしを見た。
「そだよ」
あたしは返す言葉に迷った。あのとき、桐原君が言ってたこと。“洗濯とか、掃除とか、そういうことしてる時間も惜しんで野球やりたい”。これはあたしに響いた気がする。彼が野球をするためにこの部にいることを強く確定するように。
「あたしさ、頑張るからね、マネの仕事。桐原君は思いっきり野球やっていいからね」
精一杯彼を励まそうとした出たのがこの言葉だった。これを聞いて桐原君は嬉しそうに頷いた。「じゃあ、練習頑張って」あたしはそう言って部室の方に戻ろうとした。
「あ、マネージャ」
あたしが振り向くと、桐原君は思い詰めたように言った。
「今日の朝、俺マネージャの後ろにいたんだ。だから、その……落としたやつ、集めて部室に置いといたよ」
「え」
あたしは急に鼓動が早くなるのを感じた。さっき八谷が言ってた書き置き付きでパンがどっさり置いてあったというのは桐原君がやった事だったのか。朝……っていうのは、ていうのは……。見られていたらしい。あたしもとんでもない物を見てしまったけれど、そのあたしを更に見ていた人がいたとは。何とも言えなく気持ちが悪くなる。
 と、言うことは。桐原君はあたしが何を見たせいで手の力が抜けて、それでも全身全霊かけて逃げ去ったかも知ってるってことだろうか? それは嫌、そのことだけは今は言われたくない。何も言わないで。何も思わないで。
「あの二人はね――」
「言わないでよ!!」
突然のあたしの罵声に、彼はすぐさま言葉を止めた。あたしは自分の無駄な涙腺が緩む前に部室の出入り口へと走った。

 告白をする前に、恋が終わってしまうのはよくあることだ。ただ北里さんのことを夢見るだけだったあの頃、たとえ北里さんに彼女がいても、好きな人がいても、あたしは北里さんのことをずっと好きでいられると思ってた。
「……あたしはそんなに強くないよ」
誰もいない部室。夕焼けのまぶしいオレンジが窓から入ってくる。あたしはテーブルに顔を伏せて、自分を否定するようにわざわざ独り言をこぼした。

 カツン。コンコン。
 窓が鳴った。あたしはゆっくりと体を起こして、振り返る。窓の外には何も無い。あたしは即座に窓を豪快に開けた。
 窓の丁度下に、遥がしゃがんでいた。いつもの無表情であたしを見る。
「どうしたの?」
「億劫になっちゃった。ちょっと付き合ってよ」
そう言うと遥は緑のフェンスを越えて道路に飛び降りた。そこであたしを手招きする。
「付き合うって、どこに……」
そうは言ったものの、まるで出会った時のようにあたしは吸い込まれた。別にそこまで強引な訳じゃないのに、遥に自然と引きつけられてしまうのは前と同じ。あたしは少々手こずったが、遥と同じ場所からフェンスを越えて外へ出た。遥は帽子を深く被って、真っ直ぐに走り出した。あたしは後を追う。遥が通ったあとは、街が綺麗に感じたのも同じだった。

 遥が立ち止まったのは、団地はずれにある小さな公園だった。策と公園の名前が書かれた看板があるとはいえ、もう誰も利用しないし誰も整備してないような雑草だらけの空き地だ。かろうじてブランコだけはなんとか使用できそうである。遥はそのブランコに腰掛けると、履いていたスパイクを脱ぎ捨てた。あたしはその隣のブランコにそっと座る。すると遥はざっと立ち上がり、広いスペースに出て首にかけていたタオルを持ち投球フォームを素振りしはじめた。ブォン、といい音が聞こえる。
「ねえ遥、勝手に抜け出して来ちゃって大丈夫?」
あたしがそう言うと、遥は動くのを止めた。
「何で?」
「え、試合近いんでしょ? みんな頑張ってたじゃん」
あたしの素直な疑問だった。すると遥は大きなため息をつき、再びあたしの隣のブランコに座った。
「由希までそういう事言うんだ」
突然遥がとても物悲しそうな顔をして、さっき投げ捨てたスパイクを履き直した。あたしは何も言えなかった。
「茅島も由希も同じこと言うんだなぁ。じゃあそれが正しいってことかな」
日が暮れるか暮れないか、微妙なグラデーションを帯びた空を見上げて遥は言う。
「……ごめんね由希? 別に怒ってる訳じゃないんだよ。たださぁ、今日の茅島見た? 何であんなに焦ってんのかな」
その答えはあたしの中ですんなり浮かんだ。
「それは遥に試合に出てもらいたいからだよ! 今頑張ってこの練習試合に出られれば、甲子園につながる大切な試合にも出る可能性が高くなるんでしょ? 茅島君は遥のことを想って必死なんだよ」
これは正解だと思う。あたしの中では半信半疑とはいえ、茅島君は遥のことを好きなのだ。たとえそれが恋愛感情じゃなかったとしても、あんなやって付きっきりでバッテリーを組んでいるのだから間違いない。それに、いつか遥は言っていた。“県立野球場のマウンドに立ちたい”。その夢が叶うところまで行けるかもしれないのに、どうしてそんな事に疑問を抱いているのだろう。
「必死かぁ。……茅島は私と野球やってて楽しいのかな」
「……楽しい?」
「みんなして北里みたいになっちゃったらたまんないじゃん」
あたしは突然北里さんの名前が出たので驚いた。たまらず遥の横顔を見る。長い睫毛が綺麗なカーブを描いていて、虚ろな瞳は潤いを帯びていた。
「北里はさぁ、迫力も能力も才能もあるし、実績もある。これからだって優秀な結果を残せると思う。でも由希、今のあいつ見てて楽しそうだって思える?」
あたしは何故だか顔が熱くなった。遥はまさかあたしが北里さんに惚れてるだなんて思いもしないだろう。
「……」
真っ赤になって黙っているあたしは、端から見たら分かりやすい他の何でもないのだが、熱弁している遥にあたしの隠れた感情は届かなかった。
「今のあいつらはさ、野球がしたいから試合に勝ちたいんじゃなくて、試合に勝ちたいから野球やってるんだよ。私はそういう風になりたくない」
この他にも何個か男子部員たちに対する反論を言っていた。あたしが聞いているか聞いていないかなんておかまいなしに、遥は自分の思う事を並べていった。
「まぁ……嫌いじゃないけどね」
最後に聞こえたこの言葉が、あたしの中に妙に残った。

 結局あたしは遥の愚痴を聞かされるだけのために呼び出されたらしい。一通り話し終えると、遥は立ち上がって帰ろっか、と歩き出した。空き地から学校までの道のり、あたしと遥は特に言葉を交わさなかった。あえて一つだけ、桐原君に頼まれていたメンバー表の書き方を口頭で簡単に説明してもらっただけだった。

 その日あたしはメンバー表の専用用紙と冊子になっている野球部員名簿を持って帰った。夕飯を食べ終わってから、自分の部屋でそれを広げる。昨年の甲子園に出場した人には顔写真がついていた。あたしは本能的に北里さんの写真を携帯のカメラで写す。我に返ると自分が気味悪くて仕方ないのだが、数年かけて養われてしまった習性なのだ。
「北里稔、11月16日生。182センチ67キロ、AB型」
あたしはこれを三度声に出して読んだ。昔に調べ上げてあったからこのくらいの情報は既に知っているのだが、改めて身長と体重の確認をした。
「変わってないかぁ。……あぁ、気持ち悪いなぁ……あたし」
分かり切ってはいるのだが自分で自分に引いてしまう。そのとき、名簿から一枚の紙切れがはらりと落ちた。それを見ると大熊監督の名前や実績などが書かれている。あたしは冊子の表紙を開けて、ページを一枚はぐった。
「あっ……」
そこには去年の明幹野球部の監督、吉野隆文と名前が書かれていた。その横には顔写真が貼られているのだが、顔にマジックペンで大きくバツが書かれていた。
「何これ? 酷いなぁー……」
前に大熊監督と初めて会った時にも思ったのだが、去年の明幹高校の野球部監督はこの吉野だった。高校球児時代も大学野球でも有名だったらしいのだが、その後数学教師としてこの明幹高校に就き野球部の監督となったのだとか。テレビで見た時にはこの監督のおかげで明幹は強くなった、と言われていたのに、何でこんな……。
 そのとき携帯の着信音が鳴った。茅島君からのメールだった。「明日は副キャプテンの誕生日だから、何か差し入れおねがいしまーす」副キャプテンって誰だ? あたしは慌てて名簿から探し出した。
 駄目だなぁ。こんなに沢山いる野球部員にマネージャはあたし一人。まだ入り立てとはいえ名前も顔も分からない人ばっかりだ。まだ一言も話したことがない人だって山のようにいる。こんなんじゃまた北里さんに呆れられてしまう。何でもいいから役に立たなくちゃ。あたしは両手で携帯を持った。「その人の好きな物なに? あと、前の監督について知ってる事あったら教えて!」そのあと5分後くらいに副キャプテンの好きなものは杏仁豆腐と唐揚げだ、と返信が来たが、元監督については何も触れられなかった。
「杏仁豆腐と唐揚げか……」
あたしは少し苦笑いした。杏仁豆腐の作り方ってどんなだったっけな、なんて事を考えながら部屋を出た。

 吉野監督について。あたしは何かあるんじゃないかと疑っている。明幹野球の歴史を作った恩師の写真にバツをつけたのは一体誰が何を思ってのことなんだろう。そしてどうしてこの監督は辞めてしまったのだろう。マネージャとして、このくらい知りたくなるのは当然だと思った。
 次の朝、まず部室に行って作ってきた杏仁豆腐を冷蔵庫に入れた。また北里さんがあそこで誰かと抱き合っていたらどうしよう、見たくないと思いつつあの場面のあの場所をそっと横目で見たが、そこには誰もいなかった。
「あたし、野球部の事なんにも知らないんだよね」
あたしは教室で自分の席に着こうとした茅島君に、挨拶もなしに言った。
「どしたの急に?」
「ねぇ、何でもいいからあたしに教えて。今からあたしが聞く事、知ってたら全部答えて」
あたしは少し怒ったような口調で彼にぶつける。茅島君は少し引いたように苦笑いした。
「おいおい、何朝っぱらからやる気出してんだ」
後ろから八谷がからかってきた。あたしはこいつにも同じように当たる。
「あのさ、前の監督ってどうして……」
あたしがこう言いかけた時、八谷の手があたしの口を塞いだ。「んっ」とあたしは目を丸くする。八谷は顔を近づけて小声で言った。
「お前それ他の人たちにも聞いたのか?」
おい、答えろと促されたが、口を塞がれていてどうしようもない。あたしは首を振りながら手を離せとジェスチャーした。
「……茅島君にしか聞いてないよ。答えてくれなかったけど」
「遥さんには?」
「聞いてないよ」
あたしがこう言うと、八谷と茅島君は同時に良かったと言った。あたしの疑問は更に深まる。
「いいか、二度とそんな事聞くんじゃねえ。お前には入れない領域だからな」
八谷がこう言うと同時に、SHRが始まった。あたしは隣に座る茅島君に目配せをしようとしたのだが、彼はあたしと目を合わせないようにしていた。
 それならばあたしが一番何よりも聞きたい事を質問してみようか。二限の授業中――たまたま自習だったのだが――に、茅島君に小声で話しかけた。この質問は緊張した。別に今となっては痛みも半分だとは思うのだが、知りたくないという気持ちと知りたいという気持ちが三対七ほどになっていたので、恐る恐る聞いてみる。
「北里さんの彼女って誰?」
茅島君は呆気にとられた顔をした。
「北里さんの彼女?」
あたしはただ頷いた。答えるんなら早く答えてくれ。何年何組の何さんだ。何だったらその人を研究して北里さん好みの女を解明してやろうじゃないか、などと開き直ったことも考えていたのだ。
「……北里さんに彼女なんかいる訳ないって」
茅島君はこう言って笑った。あたしは違う違う、だって……とあの時見た事を言おうとしたが、やめた。今言ったらあの時にあたしが泣き崩れた理由も明らかになってしまう。危ないところだった。
「北里さんが野球部は恋愛禁止って決めたんだよ。あと部室の周りを関係者以外立ち入り禁止にまでするような人が、自分で作った規制を破る訳ないじゃない。まぁ先輩方は隠れて誰かと付き合ってる人もいるかもしれないけどさ、北里さん自身は絶対有り得ないと思うよ」
 えっ?
「そ、そうなんだぁ。恋愛禁止だったんだ」
あたしは生返事をして茅島君から目を反らした。というより、勝手に目が泳いだのかもしれない。頭の中が今聞いた別の事でいっぱいになった。
 関係者以外立ち入り禁止……?
 あたしは混乱する頭でよく思い出した。あの衝撃的な現場を見たのは、部室のすぐ傍だったはずだ。あれ、おかしいな。あの北里さんだったら、徹底的に立ち入り禁止にすることもやりかねない。と、いうことは、ということは――
「うそでしょ……」
あたしの目のずっと奥に、北里さんと遥が並んでいた。



 ただ聞いた話だけではあたしの思い過ごしとしか考えられない。あたしは授業が終わると同時に部室に走り込んだ。ほうきとちりとりを持って部室の周りをウロウロ歩き、掃除をするふりをして部外者の出入りがないかを見張る。
「まさか、まさかだよね。そのまさかだなんて事ないよね」
あたしは独り言を連発した。あの野球一筋の遥がそんな……でも分からない。そうだという証拠がある訳ではないけれど、違うという証拠がある訳でもない。
「おい、お前」
近くで不意に声が聞こえたので振り返ると、なんとそこには北里さんが制服姿で立っていた。あまりに突然のことで体が硬直する。
「あ、はいっ」
北里さんが映る世界はとても鮮明だった。
「そんな所の掃除なんかしなくていい。練習の準備をしておけ」
「はい! えっと」
あたしは即座に準備に取りかかろうとした。部室の横にある、練習用の道具が入った倉庫を開けようとしたのだが、鍵がかかっていて開かない。北里さんは眉間を寄せてあたしに近づいてきた。心臓が高鳴り始める。駄目だ、やっぱりこんなに好きなんだ。
 まだ放課後が始まってほんの数分。誰もグラウンドに来る人はいない。この広い校庭に、あたしと北里さん、二人きり。

 この真剣なまなざし、男らしい体つき、通った鼻筋、この表情の硬さに、この声。
 全部、自分のものにしたかった。

 北里さんがポケットから鍵を出して、倉庫を開けた。その動作一つ一つが、全てスローモーション。あたしは精一杯の声を振り絞った。
「北里さんは……」
ゆっくりとあたしの顔を見る北里さん。その目にあたしが映っている。
 彼女いるんですか?
 遥と付き合ってるんですか?
 どんな人が好きですか?
 あたしの事どう思いますか?
 あたしの事――……
 聞きたいことは数え切れないほどあった。今だったらどんな質問でもする勇気があった筈だ。今だからこそ、聞ける事があった筈だ。

「北里さんは、野球やってて楽しいですか?」
あたしのもう一つの憧れが、あたしの脳裏を横切った。そしてその人が疑問に思っていたことを、あたしは選んだ。
「そんな事を聞いてどうする」
北里さんは怪訝な顔をする。それと同時に、あたしは遥が切なそうな顔をして言っていたことを思い出す。野球がしたいから試合に勝ちたいんじゃなくて、試合に勝ちたいから野球をやっている。本当にそうなのだろうか。あたしが見た北里さんは、楽しそうとかじゃなく、ただ真剣に、野球をやることが当たり前かのようだった。あたしも聞きたい。北里さんは、野球をやってて楽しいですか?
 北里さんは暫く黙っていた。かと言ってそれを流そうとする訳でもなく、深く考えているようだった。あたしは今この人の答えが聞きたい。
「楽しいからという理由一つでは辛い事が多すぎる」
目を細めながら、北里さんはぽつりとこぼすように言った。あたしは「え?」と聞き返す。
「俺はやり遂げなければならないんだ。何としてでも」
そう言うとほぼ同時に、部員のみんなの声がした。あたしは慌てて我に返る。と、遥があたしに走り寄って来た。由希、今日は早く来たんだねと、いつものあの澄んだ声が聞こえてくる。だけど決して耳に入らない。あたしは遥と目を合わせることが出来ずにいた。
「遥」
北里さんが呼ぶと、遥はそのままあたしの前から消えた。今のあたしの態度はあまりにも不自然だったかもしれない。だけど北里さんが遥を呼んだ声だけは、あたしの耳にしっかりの残るのであった。

 知らない事が、多すぎる。



 北里さんは練習用ユニフォームに着替えていた。いつの間にか茅島君や八谷や桐原君も来ていて、いつものように練習を始める。この時あたしはいつもこの場に取り残されるのだ。あたしは黙ってジャージに着替えても、自分でやるべき仕事が分からなかった。何かしなくちゃと行ったり来たりしてはみるものの、何をしたらいいのか全く分からなかった。一瞬、北里さんと目が合った気がしたのだが、すぐに反らされてしまった。そしてあたしは更に孤独になる。
「ねえ、冷蔵庫ん中に美味そうなんあったんだけど、食べていーのかな」
「いいんじゃね」
ふと近くで話す部員たちの声がした。あたしはハッとなる。それはきっとあたしが昨日作ってきた杏仁豆腐。まだ一度も話したことのない副キャプテンの誕生日だという事なのでついでに全員分作ってきたのだが……
「丁度腹も減ったし、いっぱいあるからいただいちゃおう」
「じゃ俺もー」
あぁ、ちょっと待ったとあたしが思いかけた時、茅島君がその二人に駆け寄った。
「先輩たち、せっかくなんだしそれ練習終わってから食べましょうよ」
その二人は何でだよーと言いつつも茅島に推されてキャッチボールを始めた。あたしはホッとする。
「最後にみんなで食べるために作ったんだもんね」
茅島君はあたしとのすれ違い様に小さく言った。茅島君に見えはしないが、あたしは頷く。この人にはいつも、自分の心が見透かされているようだ。言葉にしにくいのだが、妙な安心感があった。
 練習を終える声が北里さんからかかり、全員が球拾いとグラウンド整備を始める時間になった頃、あたしは茅島君に引っ張られて部室へ来た。さあ早くと催促されてあたしが作ってきた杏仁豆腐を冷蔵庫から出し、机に並べていく。茅島君は黒板に十八歳おめでとうの文字を書いていた。
「待ってそれ、恥ずかしくないかな?」
あたしが言うと茅島君はくしゃっと笑った。
「こんくらいしなきゃでしょ」
それを見てあたしもたまらなく笑顔になる。スプーンも並べ終えてから、あたしも一緒に黒板に絵を描いた。彼の描いた下手くそな絵が笑えて、あたしの描いた下手くそな絵も笑ってくれた。そして彼はこの計画を一人で考えていたのだという。他の部員たちで今日が副キャプテンの誕生日だと知る人は少ないだろう。あたしは彼の心の優しさに感動した。
「誕生日祝われて嫌な気する人なんていないでしょ。ちょっとだけ息抜き」
茅島君が笑うたび、あたしも自然と笑顔になる。そして彼は部室を出て、大きな声でこう言った。
「マネージャが俺たちに差し入れ持ってきてくれましたよ!」
厳しい練習で空腹を我慢していた部員たちは駆け寄る。あたしは部室の中に人が入ってきて、美味そうだとか有り難うだとかの歓声をただ呆然と聞いていただけだった。
 驚いた。この人は自分が褒められる場面をあたしに譲ってくれたのだ。
「あっ……」
一人の部員が黒板を見て驚いていた。あたしはすぐにそれがこの野球部の副キャプテンだと分かった。
「堀田さん今日誕生日なんですか! おめでとうございます」
それに気づいた他の部員たちが次々に拍手をする。おめでとうございます、と言われて照れていたその人は、あたしに向かって言った。
「何で誕生日知ってたの? 凄い嬉しいよ」
「え、違いますあの……」
あたしは自分が恥ずかしくなった。全てを否定しなくては。茅島君の顔を見ると同時に、
「さすがうちの部のマネですね!」
あたしにとってはあまりにわざとらしい彼の言葉だった。それと同時にさっきと同じように拍手が巻き起こる。あたしは自分の顔が真っ赤になるのが分かったので、慌てて顔を隠す。可愛いなんて声も聞こえたが、今は調子に乗る余裕もないくらいだった。必死に顔を上げて出入り口の所を見たら、遥が笑顔で手を叩き、その横で北里さんが腕を組んで立っていた。
 なんとなく笑っているように見えたのは多分幻覚だと思う。今のあたしに茅島君のこの計画は嬉しすぎるものだったのだ。

 


 ――俺はやり遂げなければならないんだ。何としてでも。
 北里さんが背負ってるものは、きっとあたしには分からないんだと思う。分かろうとしても分からないんだと思う。だけど分からないんだとしても、あたしは分かろうとしたい。
「今日ごちそうさま。明日レギュラー決まるから、メンバー表頼むね」
帰り道の途中で突然桐原君に一声かけられた。彼とあたしは帰る方向が同じだということをこの時に知った。
「明日決まるの? そっか、緊張だね」
「うん、緊張だ」
「桐原君は入ってるかな」
暗い道を二人並んで歩く。端から見たら恋人同士に見られるだろうか。何も考えずに桐原君の顔を見るが、暗くて表情は読めなかった。空には既に無数の星が広がっていた。
「俺は無理だよ」
そういえば、桐原君はこの間までろくな練習も出来ていなかったのだ。ほぼ雑用として毎日働いていた。
「もっと早くあたしがマネになってればよかったね」
同情の意をこめてあたしは言った。最近、桐原君が北里さんと一緒に投球練習をしているのを見た。捕手である北里さんのミットに向かって、小柄な体を思い切り振り回して球を操る。桐原君の投げ方には特徴もあった。サイドスロー、というらしい。腕をほぼ肩の高さまでにしか回さずに投げるのだ。そしてそれは、真っ直ぐに北里さんに吸い込まれていた。
「桐原君は、投手なんだよね」
「うん、一応ずっとそれでやってきてる。けどもう終わりかなぁ。背、伸びないしさ。諦めて野手に転向した方がいいって何度も言われたんだ」
生暖かい風が通る。もうすぐ夏がやってくるのだ。桐原君にとって最初の、北里さんや遥にとって最後の、夏。
 そしてあたしは思っていた。桐原君にも頑張って欲しいが、あたしが今一番応援しているはずの投手は遥だ。明日のレギュラーのメンバーでは投手に名前が挙がるのは誰だろうか?遥の名前はあるだろうか? “女だから”なんて言っていた遥の名前はあるのだろうか。そしてあたしにはもう一つ、思い出すことがあった。
「桐原君、あのさ。この前の朝にあたしを部室の近くで見たって言ってたじゃん」
「え?」
何のことだか思い出しているようだ。あの北里さんが濃厚なラブシーンを見せつけてくれたあの朝。それを見たあたしの後ろ姿を桐原君は目撃したと言っていたのだ。
「それで、その事話した時に、最後に〈あの二人はね――〉って言ったの覚えてる?」
「あっ、うん」
あたしは息を飲み込んだ。夜道には、他に誰もいなかった。
「あの二人って、北里さんと、遥……?」
静かだった。桐原君は暫く黙っていた。あたしの鼓動と、息づかいが聞こえてしまうのではないかと思うほど静まりかえっていた。あたしはただ、何も言わずに彼から出る答えを待つ。
 もし本当に遥だったら、泣いちゃうかも。なんて本気で考えていた矢先、既に涙がたまってきた。
「何で?」
沈黙を破ったこの言葉。あたしは心底驚く。次に来る言葉は「そうだよ」の「そ」だと思っていたからだ。
「何でって……。じゃあ、桐原君は〈あの二人はね――〉の後に何を言おうとしてたの?」
「北里さんのことって、あんまり踏み入れない方がいいみたいだよ」
桐原君はあたしを遠ざけているようだった。ふと、あたしは今日教室で茅島君と八谷が前の監督について話そうとしたときに焦りだしたことを思い出す。
「ねえ、それってもしかして前の監督と何か関係あるんじゃ……」
あたしがこう言うと、桐原君は再び沈黙を始めた。焦ることもなく、ただ俯いている。そのまま数分、直線の道を歩き始めた。
「俺たちも、ほとんど内容は知らないんだ」
桐原君がぽつんと言った。それはほとんど独り言のようだった。
「先輩たちの噂で聞いた話。もう本当に口止めされてるみたいだけど」
「どんな話?」
知りたい、といわんばかりにあたしは食い付いた。北里さんのこと、この野球部の前の監督のこと、そして遥のこと。もっと知ってもいいと思ったんだ。
「……いや、やっぱりやめとく。みんなが口に出さないようにしてるんだ。頭の片隅にあるかないかくらいが丁度いいんだよ」
桐原君は自分に言い聞かせるように言っていた。あたしは突然頭が痛くなる。
「“みんな”」
「え?」
「みんなって、誰のこと?」
分からないうちに、あたしの目は涙でいっぱいになっていた。これを落とす訳にはいかない。下を向いて、上を向いて、瞬きを我慢して必死にこらえた。
「部員のみんなだよ」
けれどあたしの我慢は、この言葉で崩れ落ちた。
「じゃあ、あたしは“みんな”には入れてないんだよね……」
震える声で言った。桐原君はあっという顔をする。何であたしは彼にこんな顔をさせたんだろう。そしてどうしてあたしは今、泣き叫くことしかできないんだろう。
「野球部のこと、知りたいって思うことはいけないの!?」
あたしは声を張り上げて彼にぶつけた。彼は驚く以上に残酷なものを手にしたような表情を出した。
「気になるからだとか、そんな好奇心だけで入り込んじゃいけないと思う」
あたしの態度とは裏腹に、桐原君は淡々と言う。あたしの中にある細いものがふっと切れて、暗い中にある帰路を無我夢中で走り出した。



 家に帰ってから、制服のままベッドに倒れ込んだ。
 駄目だ、やっぱり知りたい。あたしも野球部に入りたい。あたしの腕は自然と携帯電話に伸び、また自然に茅島君の番号で受話器をあげた。
 プルルル…… プルルル……
「出ない……。もう」
あたしは髪をくしゃっと握った。次に履歴の中から遥の名前を見つけたが、そのボタンを押すことはできなかった。野球部員名簿を開く。あの監督の顔写真。そのバツは、大きく、そして二度と消えないものだった。
 一体、この野球部の過去に何があったのか。あたしが知りたいのはただそれだけだ。北里さんの背負っているもの。それは野球部が背負い込んでいるものでもあったから。
 あたしはこの野球部の、マネージャなんだから。


 その日は結局茅島君からの折り返しの電話は来ず、朝になっておはようと会話を交わした後にやっと「昨日ごめんね」と言われた。
「なにか用事だった?」
「ううん、急用だった」
あたしが素っ気なく言うと、ふうんと納得していて、その内容には触れてこなかった。あたしとしては聞いて欲しかった。そんなの只の我が儘だとは思うのだが、茅島君から聞いてくれれば自然に話を持って行けると思ったのだ。
「今日、メンバー発表なんだってね」
苦し紛れのような話題を出す。茅島君は「え、うん」とだけ言った。
「一年生がレギュラーになることって、やっぱり難しいの?」
「そりゃそうでしょ。北里さんは一年の時から四番打ってたみたいだけど」
うん、知ってると心の奥で頷いた。
「今年は控え投手が入れれば良い方かなあ」
そう言って茅島君は欠伸をしながら立ち上がった。そして今登校してきたばかりの八谷と何か話していた。
 知りたい事が多すぎる。あたしの脳裏を北里さんと遥が横切ったので、もみ消すように机に突っ伏した。桐原君の言うように、あたしは好奇心だけで入り込もうとしているのだろうか?
 ずっと、いてもたってもいられないような気持ちだった。早く部活に行きたいと思った。

「練習が終わったら、部室でミーティングだ」
部活が始まった時、北里さんが言った。全員が低い声で返事をする。あたしも緊張していた。いつものようにそれぞれがやるべきことを始め、あの孤独感が襲ってきた時に、あたしはふと思い立って部室の扉を開けた。
 まず目に入ってきたのは、北里さんだった。そして次にこの間誕生日だった副キャプテンの堀田さんがいることに気が付いた。二人はテーブルの上で何かに悩んでいるようだ。
「どうした?」
ぼけっとしているあたしに気づいて、堀田さんが言った。
「あっ、えと、あの……」
実はこのとき、いつも携帯に配信されている無料占いを見ていなかったことに気づいたので、自分の荷物の所に行こうと部室に入ったのだった。いつもなら部室にいるのはあたしだけになるはずだから、油断していた。
「なあ、ちょっと来て」
動揺していたあたしに堀田さんが手招きした。あたしは言われるがままに二人に近寄り、向こうに行きたい気持ちを抑えて堀田さんの隣に座った。テーブルの上の物に目をやるが、それはあたしにとって意味の分からない資料ばかりだった。
「今最終チェック段階だよ」
「あの、レギュラーってキャプテンたちが決めるんですか……?」
キャプテンという言葉を本人に向かって使ったのは初めてだった。北里さんは流すように「ああ」と言った。
「あの監督がこんな面倒くさいことする訳ないって」
そう言って堀田さんが笑う。北里さんは手に持ったシャープペンを一度回した。その指先に見とれてしまった。
「こんなギリギリまで決まらないなんて初めてだよなあ、北里」
あたしはしめたと思った。あのことを聞く絶好のチャンスだと、無情にも思ってしまったのだ。
「どうしてですか?」
北里さんが指の動きを止めた。目線が上がるのにあたしは気づく。
「そりゃあさ、前は吉野監督が……」
「堀田」
いつになく太く、低い声だった。そして鋭い目で堀田さんを睨み付ける。あたしは自分の欲望に勝てなかった。もう、これを知るのは今しかないと心の奥底で勝手に決めつけたのだ。
「前から気になってたんですけど、吉野監督ってどうして辞めちゃったんですか?」
 バァンッ
 すっと、冷たい空気がこの部屋を埋め尽くした。北里さんが、力一杯にテーブルを叩きつけたのだ。あたしは目を見開いてそれを見る。一瞬だけ、北里さんの目線があたしの目線とじっとりと交わった。体が硬直して、そのときになって初めて大変なことを聞いてしまったのだと感じた。
「……おい北里、落ち着けよ」
「す、すみません……あの、あたし」
北里さんは、何も言わずに出て行ってしまった。扉を閉じる音が何よりも耳に響く。あたしは立ち上がって見送ることしか出来なかった。頭が熱い……あたしはまた北里さんを怒らせてしまったのだ。
「三島さん、気にしなくていいよ。何も知らなかったんだし仕方ないって」
堀田さんに背中を叩かれて、あたしは強く唇を噛みしめた。こうなることなんて考えれば分かってた筈なのに。でも、どうしても知りたかったんだ。このままじゃあたしだけは野球部なのに部員じゃない気がしてならなかった。みんなが一緒に背負い込んでいるものを、あたしも背負いたかった。
 長い長い静寂だった。あたしには外で練習する部員たちの声すら聞こえなかった。それを破ったのは、堀田さんのこの言葉だった。
「……。なあ三島さん、練習もミーティングも全部終わって、全員が帰ったら、一年だけ残るようにこっそり連絡してくれないか? 来々軒に」
来々軒というのは、学校のすぐ近くにあるラーメン屋である。薄汚いイメージなので客はあまり多くないようだが、高校の近くとあり学生客は度々あるらしい。
 あたしは、堀田さんの顔を見てしっかりと返事をした。



「それでは、これから来週の練習試合のメンバーを発表する」
北里さんはやはり怒っているように見えた。あたしは隠れるように一番後ろに座ったのだが、
「マネージャ、ここに来て呼ばれた人にユニフォーム渡して」
と言われてそそくさと前に出る。この部室いっぱいに野球部員が並ぶと、やはり圧迫感があると思った。
 茅島君も、八谷も、桐原君も、そして遥も。みんな緊張しているようだった。あたしは一番前のテーブルに置かれた背番号入りのユニフォームを見て息を飲んだ。張りつめた空気が包む。
 そして遂に北里さんは始めた。
「まずは一番、サード片平亮介。背番号5」
「はい!」
三年生の片平さん。この前名簿で写真は見た。あたしは慌てて背番号5のユニフォームを渡す。
「ありがとうございます」
片平さんはあたしに深々と頭を下げてユニフォームを受け取った。三十人以上いるこの野球部から、サードというポジションで一番だと認められた人。あたしは精一杯にこの人を激励しなくてはならない。
 続いて二番、三番も三年生から選ばれた。
「四番はキャッチャー、北里。背番号2」
北里さんが自分で自分を呼ぶが、誰一人として異論がある人はいなかったようだ。北里さんが四番を打つのは当たり前のこと、と、全員がそう思っていたのだ。あたしはすかさず背番号2のユニフォームを北里さんに持って行った。北里さんは何も言わずに受け取った。
五番に、ショートで堀田さんが呼ばれた。背番号6を渡すと、「ありがとう」と小声で言っていた。あたしはもっと小声で「頑張ってください」と返す。六番、七番は二年生の外野の先輩だった。
「八番、ピッチャー米山淳平。背番号1」
「は、はい!」
投手だ。驚いたように立ったのは二年生の先輩だった。すらっと長く伸びた身長に長い手足。ほっそりしてはいるが腕の筋肉はしっかりしている。嬉しそうにあたしの元に駆け寄ってきた。
 遥じゃなかった。桐原君でもなかった。
 あたしはチラっと桐原君の方を見たが、やはり一年生だということで期待はしていなかったのだろうか、特に動揺した顔はしていなかった。そしてあたしはどうしても遥の方を見る事が出来なかった。
「マネージャ、1番お願いします」
米山さんがあたしの肩を叩いた。あたしはすぐに背番号1のユニフォームを渡す。これを渡すのは、きっと遥だと心の奥底で期待していたのに。あたしの手から離れる瞬間、微かにそう思った。
「九番、ファースト青木俊。背番号3。以上」
北里さんが言い終えて、二年生の青木さんがユニフォームを取りに来た。あたしはそれを渡した時に、もう一枚ユニフォームが残っているのに気づく。
「背番号10……」
あたしはそれをじっと見つめた。
「えー、それと投手控え、桐原肇。背番号10」
北里さんがそう言った瞬間、部室にざわめきが走った。
「え?」
突然の出来事に、あたしも思わず声を挙げてしまった。


 桐原君はその場から動こうとしない。この空間が全部しいんと静まりかえって、視線は全て桐原君へ向かっている。あたしもただじっと彼を見ていた。彼自身は、固まったまま北里さんを見つめていた。
「早く取りに来い」
北里さんが言った言葉は、部室いっぱいに響いた気がした。桐原君は覚束ない足取りであたしの元へ来る。あたしは急いで背番号10を手にとって、彼に差し出した。
「……」
それを受け取ろうとしない桐原君に、あたしは無理矢理それを押しつけた。
「ちゃんとしなよ」
消えそうな声を出すと、それに反応して桐原君はユニフォームを受け取る。すると北里さんが突然大きな声を出した。
「これはあくまで練習試合だ。県予選が始まるまではまだ何があるか分からないからな、気を抜かずにしっかりやるように。以上、お疲れ様でした」
お疲れ様でした、と全員声を合わせた。あたしも出遅れないように声を出す。部室の奥のロッカースペースで、次々に部員たちが着替えをして帰って行く中、あたしは一年の部員全員を回って「終わったら来々軒に」という事項を伝えた。
 あたしも制服に着替え終え、再び部室へ戻ろうとすると、北里さんと桐原君が黒板の前で話しているのが見えた。そして一番後ろの椅子には制服姿の遥が足を組んで座っている。あたしがそれに気づいて足を止めると、遥と目が合った。しかしすぐに反らされ、遥の目線は黒板の前の二人へと注がれていくのが分かった。
「分からないというのなら、すぐにお前を除名してもいいんだぞ」
北里さんの低い声があたしの耳に入ってきた。
「そうじゃないんです、ただ俺は今までろくに練習にも参加していなかったし……」
「それは今は関係ない。お前はもう練習できる環境に立ってるじゃないか。俺はお前との投球練習を見て、しっかり見て決めたんだ。何か文句があるというのか」
「文句だなんてとんでもないんです。ただ俺よりももっと経験も実力もある人がいる筈で……」
桐原君の手が小さく震えているのが分かった。
「そんなものはあろうがなかろうが意味はないんだ。要はやる気だ。お前に今、やる気があるのか無いのかが問題だ」
「…………」
桐原君が黙り込んだ時、遥が立ち上がった。そして静かに二人に近づく。桐原君がそれに気づき、遥の方向に顔を上げた瞬間だった。
 遥が思いっきり彼の左頬を平手で叩きつけた。
 張り裂けたように良い音がした。あの北里さんでさえ、目を見張った。ずっと無表情だった遥が、その顔を崩した。
「あんたみたいな奴が、一番腹立つの!」
あたしはすぐに遥を止めようと前に出た。しかし、それより早く北里さんは走り去ろうとする遥の腕を掴んだ。桐原君は、何も言わずに下を向いている。呆けて何も出来ないという風に、下を向いている。
 あたしはそこで動けなくなった。北里さんと、遥。見たくない二人だと、目を瞑りたくなった。
「ちょっと離してよ! 私ここにいたって何の意味もない。何の意味もないじゃない!」
遥は必死に北里さんの腕を振り払って、部室の扉を破るように外に飛び出して行った。
「遥!」
北里さんが後を追う。あたしはハッとなってそれを追った。これ以上惨めな自分なんて見たくない、そう思いながらも。あたしの足は北里さん、そして遥を追ってしまっていたのだ。
 空は暗く目一杯に雲だった。今にも雨が降りそうだ。
「どんなに頑張ったって、あたしが女だってことは変わらないじゃない! あんたは結局最初からあたしの名前なんて除外してたんじゃない。何で、何であいつなのよ!」
暗くなったグラウンドの真ん中で、遥は遥ではないかのように見えた。体中全ての声を放出するかのように叫ぶ。そして北里さんも、いつもの冷静さを失っているようだった。
「ちょっと落ち着け。何でお前を除名なんかしなきゃいけないんだよ。お前は歴としたこの野球部の投手だろうが」
「うるさい! そんな事思ってないくせに。あんたは結局自分のプライドの固まりなのよ。女がいたら他の学校に舐められると思ってるんでしょ? そうなんでしょ!」
声を二重にして、そして裏返らせて遥は次々に北里さんに投げつける。北里さんも負けてはいなかった。
「お前は自分の劣等感を押しつけてるだけじゃないか! 男だろうが女だろうが関係ない。俺が見ているのは実力と努力だけだ。自惚れてるなよ、お前にはそれが足りなかっただけだ」
この言葉を聞いて、あたしは胸が締め付けられた気がした。いつの間にか歯を食いしばってしまっていた。
 そして遥もまた、黙っている。眉間を目一杯寄せて、まるで見たくない物を見たかのように。聞きたくない事を聞いたかのように。
 違うよ北里さん。遥に足りないのは実力でも努力でもない。ただ、自信がないだけなんだ。周りに臆病なんだ。何より自分を信じてあげられないんだ。無表情の中でそれは消えてしまっているかもしれないけど、あたしは分かる。どうしてあたしを野球部に入れたかったのか、分かるよ。
「見窄らしいぞ遥。俺にどうこう言う前に、――桐原をどうこう言う前に、自分を省みたらどうなんだ」
北里さんは下を向く遥に向かって容赦なく大きな鉛を打ち付けるように言った。この低い声は、他よりもずっと迫力がある。
「北里……」
あたしはずっと、北里さんの背中の後ろから二人をただ呆然と見ていた。微かに聞こえたのは遥の震えた声だった。
「あんた変わったよ。変わった。……一年前は、あんな事がある前は……」
「黙れ、馬鹿かお前は!」
突然北里さんが取り乱して罵声を浴びせた。
「関係ない事ばかり持ち出してくるな! そんな雑念を持っているから選ばれなかったんだ。それが分からないのか!」
あたしが入る隙間なんて無い。そんなこと、きっと最初から分かってた。
 でもきっと、このあたしの考え自体『関係ない』。

 あたしは罵声を投げ続ける北里さんに走り寄って、自分の出せる力全てを振り絞って思い切りその大好きだった顔を平手で打ち付けた。ほんのさっき、遥が桐原君にやったように。
 悔しい。悔しい。あんなに頑張っていた遥が、悔しい思いをするのは当然だ。だけど何故だかあたしも悔しい。苦しい。
 野球部に入ってから、あたしは何度人前で泣いただろう。その回数をまた増やしてしまうことになった。
 
「由希……!」
遥があたしの名前を呼んだのも、久しぶりな気がした。北里さんはあたしなんかの平手打ちでよろめくはずもなく、ただそこで鋭い目を光らせていた。あたしは今の自分の行動に、後悔なんかしていない。あたしは北里さんを挑発するように言葉を発した。
「あたしが今よく考えた結果です」
「お前に何が分かるって言うんだ」
凄味のある声。北里さんはあたしの挑発をこれでもかという程に受けて立っていた。
「北里、やめて!」
遥が、北里さんを止めるようにその胸に飛び込んだ。あたしは綺麗に舞った長く黒い髪から目が離れなくなった。あたしにとっては、遥が北里さんに抱きついたようにしか見えなかった。
 北里さんは何も言わなかった。ただ、自分の胸に顔を寄せる遥の細い肩をしっかりを包み込んだ。
 あたしはこの二人に向かってやめてと叫びたかった。北里さんの目は見た事のないくらい穏やかだ。他の人には見せないその表情。あたしはこの二人がこういう関係であることを目の当たりにして、足の力が無くなっていくのを感じた。あの朝のキスシーンを思い出した。あの時に見た女の細い腕と、今目の前にいる遥の腕があたしの中でぴたりと一致していくのが分かった。この二人、あまりにもお似合いすぎる。いつか来ると思っていたこの瞬間。それが今だという事を、あたしはまだ受け止められていない。
 ――もう駄目だ。あたしはその場に座り込んだ。




 あたしの荷物はいつの間にかここに運ばれていた。
「えーと、じゃあ全員にラーメン一つずつで」
堀田さんが言うと、店の奥から「はいよっ」と夫婦の声が重なって聞こえてきた。ふと出入り口を見ると、「来々軒」の文字が反転して見える。ガラスの窓から見える空は真っ暗だった。さっきは小雨もちらほらしていた。
 あたしは二人の世界に入ってしまった北里さんと遥の前で、何もすることができなかった。すぐに茅島君があたしの元に走ってきて、腕を掴まれて引き摺られたような気がする。その後抜け殻状態のあたしを、彼はここまで引っ張ってきてくれたのだ。小さな店内に、堀田さんと一年部員数名が座っていた。
「6人か……。他の奴は帰ったか?」
「はい、用事あるからとか言って」
15人いる一年部員の中ででここに残ったのは、あたしを入れてたったの6人だった。桐原君が堀田さんの顔をおそるおそる見る。
「ん? 何だよ」
「いえ……あの、何ですか。何か話でもあるんですか」
桐原君は先程あった出来事でまだ混乱しているように見えた。遥に叩かれた左頬は紅潮しているようにも見えた。
「うん、まあな。お前らにも話した方が良い気がしてきた事があってな」
落ち着き払って堀田さんは言う。そして自分で注いだお冷やを一気に飲んだ。
「堀田さんー、北里さんに怒られんじゃないすか?」
「何だよ八谷、俺だって副キャプテンやってんだぞ? いつも北里一人に任せとく訳にもいくまい」
八谷は笑いながら頷いていた。
 その後、ラーメンがそれぞれ運ばれてきた。少しこってりしてそうには見えるが、食べると案外気にならない。これでもかという程の太麺がこの店のうりだった。数分間全くの雑談が続いていた。ラーメンは太麺か細麺かだとか、みそ派か醤油派だとか。どう話が飛んだのかは分からないが、自分の海外旅行自慢を始める奴もいた。そんな中、あたしはずっと俯いて黙っていた。何を考える訳でもなかったが、顔を上げるという事が困難だと思った。
 いつの間にか、あたしの隣に茅島君が座っていた事に気づいた。なるべく皆から離れていたから、少し驚く。彼はあたしの目の前にあったティッシュから一枚取り、思い切ったように鼻をかんだ。「うああ」と一息ついてから、あたしの顔を見た。
「親父くさい」
あたしは小さく笑った。目に力が入らなくて、睨んだように思われたかもしれない。
「……なあ。俺、三島の事少し分かってきた気がするんだ」
「え?」
堀田さんたちは引き続きしょうもない雑談で爆笑している。深刻な話をする雰囲気は全くない。茅島君は、あたしたち二人が何か話している事を周りに気づかれないようにするためにとても小さな声で話しているようだった。
 あたしの目が激しく泳いだのに気が付いたのか、茅島君はほどけたように笑顔を見せた。くまが出来たその目が優しく垂れ下がり、あたしの緊張を解した。
「そんな顔するなよな」
「なにがよ」
「俺も泣きたい気分だよ。まさかって感じ」
あたしは茅島君が苦笑したのを見て思い出した。あたしが北里さんの衝撃的シーンを目撃して、狂ったように泣き崩れたあの朝、茅島君と話した事を。
 ――俺にも好きな人がいてさ。
 あたしの頭にはあの時の茅島君が鮮明に映し出されている。
 ――初めて見たのはこの学校に見学に来た時だったんだ。とりあえず最初は一目惚れだったねー。あんな綺麗な人見たことないってくらいだった。
 あたしはようやく気力を取り戻したように、眉を上げた。
「あれ本当の話だったの!」
突然大声を出したあたしに、茅島君は心底驚いた表情を見せた。堀田さんたちの方をチラッと見たが、彼らは彼らで盛り上がっていたので気づかなかったようだ。
「ご、ごめん」あたしは背を丸める。
「何だよ。信じてなかったの?」
「気休めかと思ってた」
「あはは。俺、そんなに気が利く人間じゃないって」
 眉をハの字にして、茅島君は笑う。
「俺たち、失恋者同士じゃんね」
茅島君の言葉に、あたしも苦笑いするしかなかった。
 失恋か。あたし、ついに失恋したのかな。



「三島さん以外は聞いた事あるかな」
堀田さんが突然言った。あたしは丁度レンゲに麺を乗せ終えた時だった。かかさず茅島君が一歩出る。
「いえ、そんなに詳しくは聞いてないです。最初と最後……というか、結論は知ってますけど」
「じゃあ十あるうち、どのくらいだ」
茅島君は一度ううんと唸った。そしてすぐに「二か三ですね」と首を振った。
「そうか。じゃあそろそろ、話始めてもいいかな」
時計を見て、堀田さんは落ち着き払って言った。全員がはいと返事をする。あたしも小さく声を出した。
 この野球部の、過去について。ついにあたしは辿り着いた。




 転がるように家に帰って、あたしはまずトイレに駆け込んだ。便器の前にしゃがみ込む。そして嗚咽を繰り返した。涙と鼻水が入り交じった。あたしは握りしめた拳を解けなかった。
「由希、どうしたの? 大丈夫?」
母が聞いてきても、答えられない。あたしは自分の想像力全てを使い果たしてしまったような気がした。
 遥と北里さんが背負っていたもの。
 あたしの想像を、はるかに超えていた。

 堀田さんの話を思い出す。
 ――決して他言にしないでほしい。そして決して、北里を責めないでほしい。

「決して他言にしないでほしい。そして決して、北里を責めないで欲しい」
「去年までいた吉野隆文監督。若くて顔立ちもよく、誰でも親しみを持てるような好青年だった。優しさと厳しさを持って、誠意を込めて生徒に接していた。選手として一人一人を見ていた。教師であり、野球部の監督でもあった。吉野監督のおかげで、春の選抜高校野球、夏の甲子園。吉野監督になってからほとんど出場していた。優勝こそした事はなかったが、準優勝まで行ったのも皆知ってると思う。吉野監督の采配は確実なものだった。それまで内野手だった奴を突然投手に転向させたり、打順をまるまる変えたりする思い切りのいい野球をしてた」
「だけど、その思い切りのいい吉野監督でさえもどうしようもなかった問題があった。それが金丸。――金丸遥の存在だった。当時金丸は、自分を抑えてこの野球部のマネージャだったんだ。部員になりたいと言う時の周りの目が怖かったんだろうな」
「金丸はよく練習が終わった後に一人残ってこっそり自分の練習をしていた。屋内練習場の鍵はあいつが所持してたから。それを知っているのは北里と、俺と吉野監督だけだった。監督はいつも遥を応援していた。あの二人は特別仲が良かったんだ。金丸も吉野監督の前ではよく笑っていた。その時のそこには男女というものが成り立つ事なんて無く、しっかりとした教師と生徒、監督とマネージャ、そして選手だった。
 北里は金丸と出身中学が一緒で、幼い時から野球をやっている彼女を知っていた。表面上ではそれを応援していたらしい。だけど心の内では、密かに女が野球だなんてと笑っていたと言っていた。あいつはそれを悔やんでいた。――俺たちが高校の野球部に入ったばかりの時、当時の部長は一年にはろくな練習も与えない始末だった。彼らが引退する夏までは、ほぼマネージャ同様の扱いで、球拾い、掃除洗濯水の用意、俺たちがやってた。この悔しさは桐原がよく知ってるよな。
 いつだったかな。隣の高校と練習試合をしたことがあった。吉野監督は先発メンバーを全て三年生にしたんだが、いざ試合が始まってみると初回から打たれて飛ばされて、還られて。一方うちらは三者凡退。いやな空気が包み込んだ。四回が終わったときに監督は選手の交代を申し出た。バッテリーをそっくり入れ替える、と。捕手に呼ばれたのは北里だった。投手は片平。一年バッテリーで相手も見くびったのかもしれないが、裏の裏をついてくる北里は大したもんだった。一気に流れを明幹に持ち込んで、その試合で北里は本塁打を打った。唖然だった。俺たちもそうだったけど、先輩たちはもっと呆然としていた。
 すごいじゃないか北里。驚いたぞ。と、吉野監督は北里にベタ惚れになった。北里もまた、あの時自分を指名してくれた監督に感謝の気持ちを持っていた。
 自分の実力を明確なものにした北里は、それから吉野監督にも見込まれて四番を打つほどになった。同じ一年とは思えなかったな。誰もがその伸びのいい才能を羨んでいた。
 トントン拍子で強くなった明幹は、何の隔てもなかったかのように甲子園へ進んで行った。初めての事で緊張はしてたけど、俺はまだベンチ入りさえ出来ずに応援席で見てた。みんな覚えてるかな、北里は二回戦で一年生ながらの四番でホームランを放った。甲子園でだぞ。もうそのころは三年生も北里の実力に尊敬する程だったんだから、あいつは凄いよ。三回戦で負けた時も、運命的にあいつが最後のバッターだった。レフトフライ。普段あれだけ顔を崩さないあいつが、初めて悔しそうに空に吠えた。試合終了後、相手校の校歌を聴いている時に隣にいた片平にごめんと言ったらしい。だけど控え室に帰った後は、いつもと変わらなかったという。夏が終わったら秋が来る。お前らにはまだ全部残ってる。監督が言った。
 三年生が引退したが、秋季大会も絶好調だった。部内の問題一つなく、こんなに上手くいっていいのだろうかと思う程だった。春の選抜大会への出場が決まり、北里は更に注目を浴びていた。その頃から、吉野監督は選手たちの前で歌を歌うようになった。歌といっても掠れた声の応援歌で、見てるこっちも恥ずかしくなってしまうような内容の歌詞を自分で作ってくるのだ。試合に勝つごとに聞かせてやるよと、誰かが音痴だなと笑った後に言った。北里も楽しそうだった。
 夏の時にも会ったライバル達にまた会える楽しみと、新しく出場してきた所との鮮烈な闘い。だけど北里は強かった。明幹というより、北里が凄かったんだ。俺も途中一度だけ出場したんだが、さすがに足が震えた。緊張するな、楽しめと監督に言われなかったら、一人で立ちすくむ事しか出来なかったかもしれない。みんないるから思える。北里がそこにいる限り、信じていいのだと。結果準優勝。試合が終わるたびに聞けた吉野監督の賛美歌は、最後の最後で聞けなかった。北里は夏ほど悔しそうな表情は見せなかったが、大きな大会を終えて安心する間もなく夏への準備へ取りかかっていた。俺は呆れるほかなかった。
 吉野監督の批評が全国的に薄く浸透した頃だった。一年間マネージャとして明幹の勝利に貢献し、かつ練習後は自分の投球練習を怠らなかった金丸が監督に『練習が終わったら自分の練習の相手をして欲しい』と申し出てきた。要は捕手をしてくれということだ。そこに北里が俺がやるよと割って入った。金丸とバッテリーこそ組んだことはなかったが、小さな頃から捕手をやっていた北里、そして投手の金丸。何の問題もないと思われるのだが、金丸はそれを断ったそうだ。北里は遠慮しているんだと思っていた。そして吉野監督の捕手姿を見て、あいつは何であんなくらいの変化球が取れないんだとか、重心がなってないだとかと嘲笑ってた。俺の目にはそうは映らなかったが、北里はそれを指摘し続けていた。
 今日も投球練習するんだろう、俺が捕手をやってやる。と、金丸に申し出る北里を見た。俺は何でそんなに執拗になるんだと思ったが、あいつのプライドの高さを思えば納得できる。その他に違う感情があったかもしれないが、その時の俺は分からなかった。しかしその場でも、金丸は申し出に対し首を横に振った。何故だと聞くと、ただ監督がいいと言うのだ。
 夏の全国高校野球大会に、出場が決まった。地元の新聞は今年も大物だと北里を取り上げていた。当時三年生のマネージャが二人辞めたので、金丸がベンチ入りして記録員になることになった。
 明後日には大阪へ発つという日の夜、俺は北里に呼ばれてグラウンドに来た。落ち着かないから来たと言っていた。俺も同じ気持ちだった。とりあえず一秒でもいいから長くボールに触れていたかった。甲子園という大舞台には、さすがの北里も馴れないんだろう。
 屋内練習場に小さな灯りがついているのに気づいたのは、それから約三十分後だった。消し忘れだろうと言って、北里はスペアキーで鍵を回した。すると鍵が閉まったのだ。つまりこの扉は元から開いていたということになる。もう一度鍵を回して、扉を開けようとした時に、俺は後ろから肩を叩かれた。驚いて振り向くと、そこには県予選の決勝で闘った高桑商業の岸本という投手が立っていた。決勝は両者一歩も譲らずで、本当に苦しかった。同点のまま迎えた最終回で北里が生んだ一点の差でうちらが勝利した。岸本にどうしたんだと聞くと、パーカのポケットに手をつっこんで別にと返事をした。北里はそれを一瞥してから、練習場の扉を開けた。
 あっと声が聞こえた。金丸の声だった。
 俺は開いた口が塞がらなかった。吉野監督はこっちに背を向けていたのでまだ気づいていない。これでもかというほどきつく、金丸を抱きしめていた。
 北里が突然罵声を浴びせた。おい、何してんだ、と。その瞬間、先程現れた岸本がポケットからインスタントカメラを取り出し、フラッシュを浴びせた。罵声とフラッシュを一度に浴びさせられた監督は、振り返るなり怪訝そうな顔をしていた。それはみるみる動揺に変わっていった。あのとき一番混乱していたのは北里だろうか。ふと金丸を見ると、上半身の服装が乱れているのが一目瞭然だった。俺は何も言えなかった。北里はどういうつもりだと怒鳴っていた。監督は何も言わなかった。何とか言え、どういうつもりだと言って北里は監督の胸ぐらを掴んだ。岸本はすかさず再度カメラを向けシャッターを切る。その動作を俺が止めていたら良かったんだろう。だけどあんまり急な事だらけで俺も相当混乱していた。
 北里が、岸本に何故写真を撮ったんだと怒鳴った。岸本はこの学校のグラウンドの横を通りすがったら、監督と女がこの練習場に入る所を見たという。近くのコンビニでカメラを買い、戻ってきたのだと言っていた。それをどうするつもりだと言うと、お前らを甲子園になど行かせない、と一言放って去っていった。俺は一度そいつを追おうとしたが、北里の怒りは完全に吉野監督の方に逆戻りしていた。
 気持ちを落ち着かせろと両者に叫んだが、どうしようもなかった。北里は握りしめた拳で監督を殴ってしまった。鈍い音が聞こえる。そしてもう一度振りかざす。金丸が北里の腕を押さえようとして、ぶん投げられた。
 顔を血の色が覆っても、監督は決して手を出さなかった。俺が呼んだ救急車が到着し、監督は運ばれた。喧嘩なら警察を呼ぶと言われたが、俺は北里の右拳を隠して投球が顔面に当たったのだと言い通した。ここで事件を起こしたら、出場停止も有りかねない。免れたい。それだけは免れたい。金丸は病院へついていって、頬骨に軽傷があったと俺に電話を入れた。一日入院すれば大丈夫だという。俺と北里は部室に残って、気持ちを整理しようとしていた。俺の隣に座った期待の大物捕手は背中を曲げて項垂れていた。
 今が何時かだなんて、分からなかった。
 好きだった。と、北里はぽつんと言った。そして大変な事をしてしまったと続けた。俺は監督を殴った理由についてそれ以上深くは聞かなかった。自分の事を滅多に話さない北里が、今の心境を語っただけでももの凄い事だと分かったからだ。あいつの中で何かが動き出してしまった事に気づいた。
 謝ろう、と提案してみた。北里は何も言わなかったが、少ししてから小さく頷いた。どっちが悪いかなんて分かるわけはないけど、どちらかが行動を起こさなきゃ何も変わらない。ましてやもうすぐ甲子園が始まるのだという時に、チーム内が割れる事なんて許されない。俺はこのとき北里が納得してくれて良かったと思った。感情的になっても、やっぱりこいつは芯が強い男だ。早く明日になって、病院に行って、気持ちを新たにしよう。
 そして早朝、突然家の電話が鳴った。高校の教頭先生からだった。
 ――吉野さんが、野球部のマネージャに猥褻行為をしたというのは本当か。朝から学校に電話がかかってきた。甲子園に出場辞退した方がいいんじゃないか、と。写真を持っているから、さもないと報道陣にバラして問題になるぞ、と。
 岸本だとは瞬時に分かった。俺は今日主将と一緒に学校へ行きますと言って電話を切った。即座に北里を呼び出そうと思ったが、それよりも早く北里が家に来た。二人で監督の入院した病院へと向かった。
 吉野監督は頬に分厚いガーゼを宛がっていた。昨日一睡もできなかったという顔をして、表情が空っぽだった。瞬きを忘れてしまったかのように天井をただ見つめていた。
 俺たちが入ってまず、すまなかったと言われた。
 北里も、すみませんでしたと言った。すると監督がゆっくりと俺たちの顔を見て、お前らが謝る事は一つもないんだ、と。掠れた声だった。
 自分の欲望を抑えきれなかった、自分は最低な男だ――。監督が目を閉じる。北里が岸本に撮られた写真で脅迫されている事を監督に言うかと思ったが、その事については何も触れなかった。病院を出た後、それを言ったらきっと少なくとも自身は辞任するだろうから言わなかった、と言われた。確かにそうだと思う。自分たちだけで何とかしなくては。北里が吉野監督以外の下で甲子園へは行きたくないと我が侭を言うとは思わなかったから、少し嬉しかった。
 学校の職員室へ着くと、まず教頭に一枚の紙を渡された。それは昨日のあの場面をとらえた写真が印刷されたファックスだった。電話のあとに送られてきたらしい。吉野君の猥褻行為に加えて、君(北里)の暴力行為。これが周りに知れたら学校としても大問題だ。いつの間にかそこには校長や、休日出勤していた職員たちが集まってきていた。おいおいどうするんだとこそこそ口走る人もいた。どうしようもねえよこんなもん。辞めるもんか、出場辞退なんてするもんか。
本当に、言葉の通り、どうすることもできなかった。というか、しなかった。何とかしなくてはとか言ってたくせに、漫画の主人公みたいに正義の意を持って岸本に向かって行く事をしなかった。話をしに行く事もしなかった。結果、逃げるように大阪行きのバスへ乗り込んだのだ。脅迫されている事を知っているのは俺と北里だけだった。教頭たちには頭を下げて詫びた。誰にも言わないでくれと頼んだ。監督に関しては、ずっと知らせられないままという事はないだろうけど、他の部員たちには絶対に知って欲しくない。最後の夏に期待している先輩方にも、最悪の事態は免れて欲しかった。
 あれ、金丸は? と、誰かの声が聞こえた。集合時間になっても金丸は来なかった。吉野監督が暗い顔をした。あの時、自分の所為だと思っただろうか。その後すぐに監督の携帯電話に金丸から連絡が入り、具合が悪いので遅れていく。必ず行くので待っていてください。と言われたらしい。
 監督は以前と全く変わらなかった。何事もなかったように見えた。いや、違う、何事もなかったんだ。こう思わなきゃいけないだろうが。俺は自分に言い聞かせた。バスが、金丸を乗せずに出発した。俺たちの夏が、本当に始まったのだ。
 宿舎に着いて、明日から本格的に練習だと言われ、眠りについた。何もない。もう忘れるんだ。
 金丸が来たのは、それから三日後だった。風邪をひいたんだと言っていた。お前の周りで何か変わった事はなかったかと聞くと、何もないと首を振った。後になって北里にもうその事は考えるなと注意された。忘れよう忘れようと思っても、俺の中では形として残っている『出場辞退』の文字。ここまできて有り得ないだろうと思ってももやもやが晴れないが、日にちは刻一刻と大会へと進んでいった。
 俺の心配することは一つも起こらなかった。甲子園が始まった。俺は入場行進にも参加して、ベンチにも入った。三日目の第三試合で俺たちはエラーを三度も出したが(そのうちの一つは俺だった。考えすぎて目の前が霞んだ)一点差で勝利した。吉野監督は春の時と変わらず、汚い歌声を聞かせてくれた。金丸も北里も、笑っていた。ちゃんと腹の底から笑っていたんだ。
 二回戦はまさかの逆転負け。去年より数倍悔しかった。涙が出た。宿舎に戻って夕食を食べていた時に、監督が皆の前で謝罪した。当時のキャプテンが何で監督が謝るんですかと聞くと、こうでもしないと気が済まないんだと呟かれた。
 その夜、川の土手に俺と北里と金丸は来ていた。北里が、今になって“あの事”を出してきた。俺は驚いたが、金丸は全てを語った。実は金丸が皆より一歩遅れて来たのは、岸本の所に行ってたのだという。岸本から直接脅しを受けたそうだ。彼の前で手をついて頼み込むと、あっさりと承諾してくれたと言っていた。そしてその場で証拠写真を燃やしてくれたらしい。俺は信じられなかった。嘘だろ? と言ってみたが、金丸は岸本君だって高校球児なんだから、話せば分かってくれるよと笑った。
 そうなのかもしれない。考えすぎだったのかもしれない。地元に帰り、時間が経つに連れて俺もそう思えるようになってきた。結局夏の甲子園は毎年出場しているの強豪高校が優勝し、終わった。
 九月。忘れられない月になった。三年生が引退し、当たり前のように北里がキャプテンになった。吉野監督が教頭に何を言われたのかは知らないが、辞任するなんて話は出てこなかったので、触れないでおいた。
 岸本がふらっとやって来た。地元の大学を受験することにした、と報告された。奴はあの時は悪かったな、とにやりと笑った。北里は頷いた。
 岸本の用事はそれだけだと思ったが、違った。部室の個人ロッカーの中に、あの写真が貼られていたのだ。俺はぞっとして、全員のロッカーを次々に開けていった。全てのロッカーに、あの二枚の写真と、遥と吉野監督がホテルに入っていこうとしている写真が大量に焼き増しして貼られていた。俺は血の気が引いていった。金丸は写真を燃やしたとは言っていたが、ネガを燃やしたとは言わなかった。岸本はまだ持っていたんだ。貼られた写真を全て排除しようとしたのだが、間に合わなかった。ぞろぞろと部員たちがやってくる。北里も、金丸も戻ってきてしまった。ほぼ全員に、写真を見られた。北里は新たに見た金丸と監督のツーショットに呆然としていた。
 うわ、何これ? 金丸さんと監督じゃん。嘘、マジで? うわー。いいのかよ。
 そんな声がいっぱいに聞こえた。部員たちの視線の先はほとんど金丸に向けられていた。俺がかき消そうとしても、無駄だった。金丸が走って部室を出て行った。即座にそれを追うと、向かった先は屋内練習場だった。
 中に入ると、吉野監督が素振りをしていた。『おお、金丸。今日も投げるか』――何も知らない吉野監督は、笑顔でそう言った。金丸は泣き出した。近くに転がっていた金属バッドを地面に叩きつけ、大声を挙げた。
『これ以上恥かいて、野球なんかやりたくない。マウンドになんか立ちたくない! マネージャなんてやりたくない』
 俺の隣にいつの間にか北里が来ていた。手には三枚写真を持っている。そのうちの一枚、ホテル前で撮られた写真を俺に見せた。見ろよこれ、首の所で色が変わってるだろ? 合成写真だぞと、低い声で言った。
 事態を監督にも説明した。確かに二人はホテルになんて行ってないと言った。俺は心底安心した。
 やはり俺は最低な男だと、監督が膝をついた。金丸は横で泣き崩れている。もう駄目、私は野球部には戻れない、と嘆いていた。俺と北里は皆に話せば大丈夫だと説得したのだが、無駄だった。岸本に裏切られたショックもあったんだろう。その日から、金丸は完全に塞ぎ込んだ。
 部員たちには説明をして、ちゃんと分かってもらえたはずだ。金丸にそう言っても、彼女は何も言わなかった。そして翌る日、野球部宛に退部届が提出された。
 その日の夜だった。吉野監督が、屋内練習場で、首を吊って自殺した。
 俺が金丸に、ロッカーの中にある荷物だけでも取りに来て欲しいと連絡して、夜に北里と三人で学校に訪れた時だった。金丸は一言も話をしなかったが、俺たちの後ろを歩いていた。もう本当に野球を辞めるのか、と北里が問いかけると、数秒は何も言わなかったが、小さく首を横に振った。
 良かった、金丸、それだったらマネージャは辞めて部員として野球部に戻らないか。と俺が言うと、『まだそれは出来ない』と小さく言われた。
 用事があったのは部室だけだった筈なのに、何であの時屋内練習場の扉を開けたのかはよく覚えてない。吉野監督が俺たちを引きつけたのかもしれない。
 室内は真っ暗だった。電気を付けると、あっと全員の声がハモった。
 自分の身体が凍るという経験を、これまでどのくらいしてきたんだろう。だけど十七年間生きてきて、あれほどまで頭を締め付けた映像はなかった。
 人間の形をした、人間ではないもの。もう外側しか残っていないかのように、真っ白だった。普段俺たちと同じくらいの目線で物を見ていた吉野隆文は、俺たちよりも一メートルは高い所から見えない物を見下ろしていた。その白目の大きさは決して生きた人間のものではなかった。足元には小さな脚立があり、ギャラリーに吊されたロープがその首に食い込んでいた。
 口の中から、どす黒いどろどろした液体と、透明な物が噴出したような跡があった。人間の穴という穴から何かが飛び出している。目から、耳から、鼻から、有り得ないような量の汚物がわき出していたのだ。そして手首からは血が滴り落ちていた。
 俺はがたがたと震えだした。声を出そうとしたのだが、出なかった。代わりに吐き気が催してきた。金丸も口を抑えていた。北里が変わり果てた監督に向かってずんずんと進んで行った。途中、足元でからんと音がしたので見ると、小さなナイフが血まみれで落ちていた。北里が監督の手を握ると、手首の傷口ががべろんと広がった。その真っ赤な人肉の中に、俺は確かに血に染まった骨を見たのだ。
 抑えられなくなり、俺は一歩出て下水道に嘔吐した。金丸が何かに気づいて練習場の中に入ったが、すぐに戻ってきた。その手には一枚の紙が握られている。
 遺書だった。そこにはこう書かれていた。
『お前達の神聖な場所で、こんな物を残してしまって申し訳ない。だけど俺はどうしてもここを死に場所にしたかった。許してくれ。――本当に、すまなかった。次の夏は、優勝してくれよな』
 これだけ……? と、金丸が泣き出した。俺も目頭が突然熱くなった。
 北里が膝をついた。そして叫んだ。俺、今日の昼に遥が野球部を辞めたのはお前の所為だって言ってしまった、と」
「それから何日間か、野球部は活動停止になった。その間俺と北里が言葉を交わす事はなかったし、金丸とは顔を合わす事すらなかった。久しぶりに部員が集まった時も、全く覇気が感じられなかった。俺は毎晩あの映像を思い出しては食べた物を吐いてしまっていたので、筋肉も少し落ちた。北里も同じ様に見えた。秋季大会にも参加はしたが勝つ事なんて無く、春の選抜は高桑商業高校が出場した。岸本の念願は、あれで叶ったんだろうか」
「人間の死というものを、俺は未だに乗り越えられていない。あれから吉野監督の事を口にする者はいなかった。葬式には参加したが、その事について話す事もなかった。
 時期は戻るんだが、真冬になった頃、北里に金丸から入部願いが届いた。金丸がふっと部室にやって来た時、部員たちは言葉を失ったが、それを影でどうこう言う奴もいなかったんだと思う。金丸遥は表情というものを失っていた。他の部員と話をすることはあっても、笑うことはなかった。本当に久しぶりに見た彼女は、確かに整った顔をしていたが、あの頃の様な華やかさが無くなっていた」
「部員として、選手として野球部に復帰した金丸だったが、北里と俺以外はほとんどマネージャ扱いをしてしまっていた。新入生が入ったら、お前とバッテリーを組ませるつもりだと北里が言った。新しい監督が就くまで、自分が野球部の全ての責任を取る、と」

「色々話したが、とりあえず以上だ。最初にも言ったが、絶対に誰にも言わないでくれ。そして北里や金丸にも、何食わぬ顔で接してくれ。お前らが北里や遥とチームメイトである以上、これは知っておいた方がいいと思ったんだが、俺は本当にこの話をして良かったのか少し疑っている。胸のうちにしまって、死ぬまでずっとしまっておいてほしい」











 あたしは吉野監督の死に様を想像すると頭がぐるぐる回り出した。その日は食べ物が喉を通らなかった。
 堀田さんが見た後すぐに吐いてしまうような光景を見て、北里さんは何を思ったのだろう。遥は何を思ったんだろう。どうやって立ち直れたんだろう。
 全然知らなかった。ニュースにもなったのかもしれないけど、知らなかった。自分を明幹オタクだと思っていたあたし以外の部員たちも、死んだという話は聞いていたらしいが自殺だとは知らなかったようで、唖然としていた。
 何食わぬ顔で、接する事ができるだろうか。あたしは遥や北里さんに、何も出来ないままなのだろうか。
「だからと言っては何なのだが、それで北里はマネージャという制度を廃止した。三島さんが入る時も、っていうか今もだけど、あいつだけ反対してただろ?」
堀田さんの言葉が耳の奥で繰り返される。北里さん、そんな理由があったんだ。じゃああの二人は、お互い過去を忘れるために抱き合っているの? 悲しみを消すために、北里さんは遥を抱くの?
 そうじゃないことなんて自分の中ですぐ分かった。野球を通じて、亡くなった吉野監督の無念を晴らさなきゃいけない。優勝しなくちゃいけない。そんな中で、二人は素直に惹かれあったんだ。北里さんは、遥のことを好きになったんだ。
 しかしあの名簿の写真にバツを書いた犯人は、やはり北里さんなのだろうか? 自分の好きな遥をとられた想いだったんだろうか。

「おはよ」
「おはよう」
いつもと変わらないはずの、茅島君との挨拶を交わす。茅島君の目の下のくまはいつもより濃く感じた。
「眠れなかった?」
あたしがそう言おうとしたのに、先を越されて同じ事を聞かれた。
「ううん、うっすら寝た」
俺も、と茅島君は答えた。それからは何も言わなかった。

 授業中に、あたしの頭ん中に衝撃が走った。
「あああ!」
教室全体がざわついていたので、あたしの叫びが目立つ事はなかったが、うとうとしていた茅島君には十分の打撃だったらしい。「どしたの?」と呆れた顔をされた。
「あ、あたし……そういえばあたし……」
昨日、北里さんにビンタしなかったか!?
 うわあ、すっかり忘れてた!
「どうしよう、茅島君!」
「何がだよ」
狼狽えまくるあたしに、目を細める。
「あたし、昨日あたし……」
そう言ってあたしは数回自分の頬を軽く叩いて見せた。
「あたし何!」
茅島君はイライラして促してきた。あたしは頭が混乱する。ああ、どうしよう、北里さんに合わせる顔なんてどこにもないじゃないか。「あたしが今よく考えた結果です」なんて、偉そうな口利いてしまったじゃないか。「お前に何が分かるっていうんだ」その通りだよ北里さん。昨日のあたしは何も分からないただの迷惑なあなたのおっかけじゃないですか!
 ははっ、と、茅島君が笑った。
「もう、本当おかしいよね三島って。何一人で慌ててんのさ」
そう言うと英語教師に茅島君が当てられた。教科書の文を読んでから、彼はあたしの方を見てもう一度笑った。
 あたしの緊張や不安や蟠りを、一瞬で消してくれるこの笑顔。あたしは今までも、これからもきっと茅島君が隣にいないとやっていけない気がしてならない。

「おい三島。今日腹減りそうだから何か買ってきて」
休み時間になって、八谷があたしの机を叩いてきた。
「えっ! あたし今日そんなにお金ないよ」
「部費があるだろうが部費が! お前の財布の中身と部費はイコールだ」
こいつ……と思いっきり怪訝な顔をしてやった。
「昨日の事、気にすんなよ」
頭にぽんと手を置かれた。と思ったら、そのまま払いのけられた。
 こういうのも、八谷の優しさなのかな。
 大丈夫、三島はちゃんと野球部員だよ。最近見た夢の中で、茅島君がこんな事を言っていたのを思い出した。



 高桑商業高校。今度の練習試合の相手。まさかここだとは思わなかった。県内でうちと並ぶ強豪だって聞いてたけど、昨日の話と照らし合わせるとちょっと怖い。
「今日は全員ランニングから始めるぞ。校外……そうだな、十周だと少ないか?」
北里さんが堀田さんに問いかけた。
「十五にしようぜ」
だだっ広いようなこの学校の周りを十五周か。みんなこのくらい余裕なのかな。あたしは新しいジャージを身に纏って、笛を首にかけてから一番後ろに並んだ。
「アップしてから始めるように。行くぞ」
北里さんが走り出した。みんなは慌てて飛び跳ねたり、屈伸をしてその後から走り出した。遥も一番後ろで走り出していた。あれっ、こういう場合あたしも行くべきかな。それとも部室で残ってタオルとか用意しておくべき?
 迷った時に、先頭を行く北里さんと堀田さんがあたしの方を振り向いた。
「マネージャ! そこで帰ってきた奴に何周目だかカウントしてやれ」
「暇だったら自転車で追っかけてきてもいいよー!」
あたしは心の中であっと叫んだ。
「は、はいっ!」
腹の底から返事をした。口が半開きになる。
 い、いま、北里さんあたしのことマネージャって……
 昨日、あたしが最悪の無礼をしたなんて、無かったことみたい。初めて呼ばれた。初めてマネージャって。
 歓喜溢れてはしたない顔をしてしまっていることは分かるのだが、どうしても顔がにやけてしまった。認めてくれたのかな。こんな上手い話があるんだろうか。好きな人を叩いた翌日に、好きな人に自分を認めてもらえるなんて。

「おい、あんた野球部のマネさんかなんか?」
「……」
「えっ」
歓喜の世界に浸っていた時に突然変な声をかけられたので、ついうっかり不自然な形相で振り向いてしまった事に気づく。
「あっ! すいません、何ですか?」
あたしの変貌ぶりにその男はきょとんとしていた。紺色のバンダナを頭に巻き、面長でつり目で、狐のような顔をした色の黒い痩せた男だ。黄色いTシャツに細いジーンズを履いている。
「あんたは野球部の関係者か?」
「ええ、一応……マネージャですっ」
あたしはふんと胸を張った。笛を吹いてやろうかと思ったら、その男は不気味に口だけで笑った。
 あたしは少し顔を遠ざけてその表情を疑る。
「北里の奴……本当の勝負はまだついてないんだぜ……」
「え?」
男はにやにやと笑った後、あたしに「北里に俺が来た事を伝えておけ」と行って去っていった。歩き方もフラフラしているし、高校生ではなさそうだ。
「俺が来た事を伝えておけって……あんたは誰だ」
独り言をこぼした瞬間、一週目を終えた部員の集団が帰ってきた。先頭にはやはり北里さんで、あたしは今立ち止まらせて言うべきか後で終わった後に言うべきか迷った。おろおろしているうちに、北里さんは通りすぎて行った。
「三島ぁーあと何周ですかーちゃんと言ってくださいねー」
八谷が野次を飛ばしてきた。何様だ。
「八谷はあと20周です」
「は!お前ふざけんなよー」
八谷はわざわざ立ち止まってあたしに叫び投げた。他の部員がそんな八谷の背中を押して走り出した。
 なんだか平和だ。昨日と一転してるじゃないか。
 あたしは大きく深呼吸をして、グラウンドの空気を感じた。

 クーラーボックスの中に大量のスポーツドリンクを用意しておいて、走り終えた部員たちに配る。なんとも青春の一ページじゃないか。「先輩、どうぞ」「ああ、ありがとう。いつも頑張ってるね」なんつってな。北里さんに……なんつってな。
「北里さん、はい、どうぞ」
あたしは目一杯の笑顔でドリンクとタオルを差し出した。しかし北里さんはそのままスルーし、代わりに八谷があたしの手からドリンクを奪い取った。北里さんは別のタオルで汗を拭っていた。
「……」
「ああー。疲れた。久々にこんなに走った」
八谷が大声を出す。あたしはタオルを奴に押しつけて、北里さんの方へ進んだ。
「あ、あの、北里さん」
「なんだ」
北里さんはあたしに背を向けた状態のまま返事をした。
「えと、さっきお客様が来たんですけど、北里さんに」
「誰だ」
「名前言われなかったんですけど、狐みたいな顔の、ほっそい男の人です」
北里さんが、突然あたしの方を向いた。
 気づいたら周りの先輩たちも一斉にあたしに注目していた。
「……えっ?」
あたしは急に慌てた。なんかまずい事でもあっただろうか。
「なんか言ってたか、そいつは」
「いえ、ただ北里さんに自分が来たことを伝えろ、って……」
周りの雰囲気も、異様に冷たかった。北里さんも大量にかいた汗が全部冷や汗に変わったような顔をしていた。
「くそ……岸本のやつ、またなにか……」
北里さんが歯を食いしばって言った。
「き、岸本? 岸本って……」
あたしは堀田さんの話を思い出した。すると、堀田さんが突然あたしの背中を強く叩いた。八谷が思いきりあたしの腕を引っ張る。
「うわ! な、何」
八谷に耳元で「バカじゃねえのかお前」と言われた。堀田さんもあたしを睨んでいる。しまった、あの話を聞いたことは言っちゃいけないんだった。
「北里……」
遥が心配そうな声を出す。
「おい、マネージャ。次またそいつが来るような事があったら、そいつが帰る前に俺に知らせろ。ただ部室には絶対に入れるな」
「は……はい。分かりました」
北里さんはそれからずっと険しい顔をしていた。


 あたしが笛を吹くと、三人の部員が走り出し、スライディングを決める。一番速かった人が勝ち残り、どんどん勝った人同士で競争をする。なんだかゲームみたいな練習だ。
 堀田さんがあたしの横に立った。
「今日はバット使って練習しないんですか」
「まあ、こういう日もあるね」
あたしは笛を吹いた。走り出した時につまづいて転んだ人がいた。
「あはは、残念!」
堀田さんが手を叩いてその部員をからかう。転んだ本人も笑っていた。

「三島さんさ、この部活楽しい?」
「え? ……何ですか、急に」
「いやあーどうなのかなって思って。すんげえ楽しそうにしてる時もあれば、つまんなそうにしてる時もあるように見えるからさ」
堀田さんが低い声で言った。
「楽しいです、凄く。毎日が夢みたいに楽しいです」
「……マジで? それは言い過ぎだろ」
「本当です。みんな輝いてて、頑張ってて、大変な思いしてるって目に見えて分かるのに、優しいし。あたしなんか野球のルールも詳しく知らないのに、ずっと憧れてたこの明幹のマネージャにしてもらえて、夢みたいなんです」
堀田さんは嬉しそうな顔をした。
「え、ずっと憧れてたの?」
「え! あ、いやその、それは……」
いつの間にかあたしたちは夕日を浴びていた。今日も、この夢のような時間が終わっていく。
部員と北里さんたちは、また別の練習を始めていた。本格的なノックのように見えた。

「三島さんがこの部に来てからさ、なんとなくだけど雰囲気変わった気がするんだ。北里なんか今まで見向きもしなかった一年部員に目を配るようになったし、あの性格は仕方ないんだろうけど、前より柔らかくなった気がする。桐原なんて雑用のためにいたような部員だったのにさ、ちょっと投げてみりゃ面白い選手になりそうだって分かった。……金丸なんて、もっとだよ。なんか突然練習サボった時もあったしさあ、堅苦しい感じがなくなった。俺が思うには、多分全部三島さんが来てからなんだ」
堀田さんは一つ一つを思い出すように話していた。その言葉を聞く度に、あたしは恥ずかしくなってしまう。そんな訳ない。あたしがこの部に何かをもたらしたなんて。
「俺が一番嬉しかったのは、誕生日祝ってくれたのだけどね。あんなん初めてだったし」
「あ! あれは考えたのあたしじゃないんです。茅島君なんです」
「茅島が?」
あたしは大きく頷いた。
「へえー、あいつ確かにそういうとこあるかもなあ。でも茅島、ずっとあれはマネージャが計画してくれたんですよーとか言ってたぜ」
「違うんですよ。あたしがあんまりにも部に馴染めなかったのを見たのかよく分かんないんですけど、茅島君がわざとあたしが考えたって言ってくれて……」
「……言わなきゃ分かんなかったなあ。あはは」
「訂正できて良かったです」
その後、二人で少し笑っていた。沈黙のあとに、
「こうやって茅島のいいところが分かったのも、三島さんのおかげだと思うなあ」
堀田さんの顔に夕日があたって、汗が光った。あたしが首を振り続けていたら、練習中の部員から呼ばれて、堀田さんは行ってしまった。

 あたしはこの部になにができたんだろう。
 本当に、堀田さんが言うように、何かいいものをもたらしているんだろうか。
 そんな訳ない。自惚れちゃいけない。……とは、思うけど。
「由希ー! 球拾い手伝って」
遥が手を振ってあたしを呼んだ。あたしは飛び跳ねるように立ち上がって走り出した。
 憧れていた高校生活。この今一瞬の自分は、十分手に入れてるんじゃないかな。
 こんな時が、ずっとずっと続けばいい。


2006/08/20(Sun)19:33:14 公開 / ねこま
■この作品の著作権はねこまさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ちょいと直し入れました。
長い間書き続けてますが、そろそろなんとか終わりそうです。
夏のクーラーは26度が丁度いい。

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