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『カミソリと鋏の使用法(完結)』 作者:中田町 圭吾 / ミステリ SF
全角54092.5文字
容量108185 bytes
原稿用紙約152.6枚
非人間が非人間に語りかけ、非人間が非人間を殺す、そんなお話。


 屋上に続くドア上部の磨り硝子の小窓から差し込む日差しが、ぶ厚く空中の埃を煌かせる。夏の終りでさえここの空気は仄かに冷たく、光差す海底の雰囲気に少し似ていた。僕はそいつの中を泳ぐようにドアノブに手を掛ける。ふと、絹を切り裂くようなか細い音が耳に飛び込んでくる。
 それは――酷く滅入る調だった。
 ドアの向こう側から聞こえてくるくぐもった音をそう、解釈した。静かに目を閉じ耳を澄まし呼吸を止めると、凡そこの様な場所には似つかわしくない、心底滅入るようなヴァイオリンの清らかな音色が耳朶を打った。選曲は途方も無く、病んでいる。同じモーツァルトでも、よりによってこんな場所にこの曲を誂えるとはいい趣味をしていた。そう、思えた。
 それもアイツらしいと微かに鼻で笑い、僅かに風の抵抗を受け重くなったドアを開くと、ギギギ……と錆びた蝶番の悲鳴が響く。その不快音すら、このヴァイオリンの音色の前では華を添える程度のアクセントにしか聞こえない。
 本当――酷く滅入る調だ。
 開け放ったドアの先は、灰色のブロックタイルで敷き詰められた平らな屋上が広がり、正午の日差しが柔らかな木漏れ日の陰を描いていた。陰の中央には、片手に携えたヴァイオリンを顎で抑えながら、一心不乱に掻き鳴らす青年が居る。遠目にも分かるほど、作法は滅茶苦茶、運指法(フィンガリング)も運弓法(ボーイング)もどこかぎこちないくせに、昏い陰鬱を孕んだ波長を濃厚に押し広げる様は、この場所がどういった場所であるかをかろうじて僕の中に繋ぎとめる。
 ここは――病院だ。
 暫く空気を歪ませるヴァイオリンの音色を楽しむのも一興だったが、今日は用事があった。
屋上にコツリと靴音を立てて一歩踏み出すと、ピタリとヴァイオリンの音が止まる。弦の上にあてがわれていた弓がゆっくりと腰元まで下ろされ、青年がゆるりと流麗な動作で振り返り――彼の腰元まである黒髪がふわりと宙を舞った。僕は挨拶代わりに片手を目線に上げると、彼は目を微かに見開いて一頻り驚いてから、同じ動作で挨拶を返してくれた。
「やあ、ビックリだ……村上じゃないか。てっきり院長≠ェ演奏会の閉幕を告げに来たのかと思ったよ」
「はは。相変わらずだな、宮古島」
「うん、まぁね……それにしても、やってきたのが村上で良かったよ。ここの医局院の院長ときたら騒音には矢鱈と神経質で、芸術を理解しない酷い無粋者だからね。ヴァイオリンのことを、単に板に糸を貼り付けただけの楽器だ、なんていい方するんだよ。ましてや、彼にとってその程度のものでしかない道具を頭の上でがちゃがちゃ鳴らされた日には、顔を真っ赤にして飛んでくるだろうね。村上になら分かるだろ?」
「なんとなくな。ま、今日は院長いねぇよ。専用駐車場に黒塗りのベンツが停まってなかったから――多分、外来にでも出向いてるんだろう。――でもな、宮古島、院長だって入院患者の体調とかを管理しなきゃーなんねーんだ。あんまり皮肉ってやるな」
「……いやいや、それにしても村上がこんな所に訪れるなんて意外も意外だよ。一ヶ月ぶりの来訪。一ヶ月ぶりの来訪だよ? 一ヶ月というと、世界を滅亡させるぐらいなら十二分に事足りる時間だ。そんな永い間君といった奴は一切連絡を寄越さないもんだから、寂しかったよ。胸が張り裂けんばかりにね……で、村上。そんな薄情な君が予期せず来訪したからにはそれなりの理由があるんだろう?」
 宮古島は一気にまくし立てると、器用に長髪の先にヴァイオリンの弓先をくるくると巻きつけて玩ぶ。僕は、彼の饒舌に多少怯んだものの――成る丈アッサリと返答した。
「僕だってたまには用事が無くとも君の顔を見たくなるさ、宮古島」
 宮古島は僕の返答にふうん、それは嘘だね、とさり気無く気の無い返事をくれると、屋上フェンスにもたれかかった。キシ……と金属製の防護ネットが撓む。
「もう一度言う――それは嘘だね。くだらない前置きは要らないよ。時間は足りないんだ」
 別段、嘘だとばれても構わなかったので、ああ、嘘だ、と答える。やっぱり、そうだろうね。にやり、と意地悪そうに笑んだ宮古島は、足元にヴァイオリンをそっと放り出すと青空と雲を背景に大仰に両手を広げた。
「どうせまた、くだらない事件を持ち込んできたんだろう?」
 いい加減飽きたとでも言わんばかりの宮古島に――それは、違う、と反論しようとして、ふと止める。当事者にとってそんな言葉で済まされる筈が無い――身内を猟奇的に殺されてしまうような事件であることに違いなかったとしても、宮古島にとっては、くだらない事件でしかないだろうから。それは、僕にしても同じだ。探偵役の宮古島の中継点――繋ぎ役として事件に絡む僕は、自分で事件を推理するわけでも無く、事件の被害者や加害者になることも無い。
 強いて言うなら、隠していた事実を言葉の暴力によって暴露されてしまい、逆上した犯人に襲われる程度の――探偵役以下の、本当、その程度の端役でしかないのだ。だから、宮古島にとって如何なる事件もくだらないように、僕にとっても、如何なる事件もくだらない。と、まぁ……言い訳みたいな論理を打ち切り、僕は、先ほどの宮古島の問いに、そうだ、と頷いた。
「たまには村上自身が解決してみるってのはどうだい? もしかしたらそれがきっかけで男としての魅力がアップするかもしれないよ」
 ……冗談。宮古島の物言いをやる気の無い笑いと醒めた端言でやりすごすと、僕もフェンスに寄ろうと一歩、歩みを進める。
「ああ、なんて良い天気なんだ」
 心底、晴天を慈しむ声。これから事件の顛末を語ろうとしているときに、それは場違いだ。往なそうと視線を送ると、天日を眩しげに目を細めて見つめる笑顔の宮古島は空を仰いでいた。彼の顔に、傍らの木々による陰影が映りこむ。
「『事件』なんて愚にもつかないものは投げ出してピクニックにでも行きたいね」
 事件をさも日常茶飯事のよしな事だとでも言わんばかりの宮古島。……いや、実際に今、そう言った。愚にもつかない、だと。探偵役だからとは言え、付け上がるな。勘違い野郎。ギシ……と空気が軋む音をたてるような、大抵の奴は縮み上がる冷めた視線で睨み付けると、
「村上、怖い顔で睨むなよ」
 と、宮古島はおどけた。なら、人が殺された事実を軽く扱うな、いや、扱わなくてもいいから、せめて空気を読め、と注意して置く。心底、この世界を楽しそうに生きる宮古島は得てして人の不幸に鈍感だから。こうして時々たしなめておかねばならない。そして、そういった部分が一等嫌いな僕は、彼を親しい友人として認めることを無意識の内に避けているのかもしれない。
これが未だ僕が宮古島を苗字で呼ぶ理由――……まさか。もっと因縁深い何かがあると僕は考えているが、今回に置いて、その件はどうでもいい。さて……と薄く呟くと宮古島の視線がすっと空から僕に降りる。宮古島の目は蒼に染まっていた。彼の瞳は彼の視界が捉えた景色の色に染まる。桜を眺めれば淡紅に、蛍光灯を見つめれば黄白に。鮮血を眺めれば真紅に。
今は、空を眺めていたせいで青色に染まっていた。それが、どういう病気かは知らない。そもそも、それが原因で入院しているのかどうかさえ知らない。知っても、どうにもならないし、どうでもいい。
「人の尊顔をまじまじと拝するのは止めてくれないか。薄気味悪い」
「あ、ああ……済まない」
 知らぬうちに呆けて、宮古島の瞳を見つめていたようだ……それは冷静に判断して嫌な構図だった。
「さて、もう一度聞くけど、用件は、何?」
 区切るように話す宮古島。皮肉か、なんだかは知らないが、意識の外に追いやって、用件を手短に話すコトにする。
「用件は、僕達の高校で最近突然頻発している自殺未遂の件について――だな」
「自殺未遂……というと今回の事件、まだ誰も死んでないのかい?」
 現時点では、というと宮古島は残念そうに――どうしてそこまで誰も死んでないことに対して残念そうな表情を浮かべられるのか、というぐらい残念そうな面持ちを浮かべた。ふうん、宮古島にも残念という『負』の感情はあるのか、と関心がわくも、あえて無視してその態度をやり過ごし、先を続ける。
「ここ一ヶ月僕が宮古島、君と会っていない間に四件、起きている」
「へえ」
 宮古島が猫であったなら――ヒゲを揺らし、ピクッと耳を跳ね上げただろう、ぐらい彼の食指は事件に対して動いたようだ。で? と先を促される。
「四件、だから、四人自殺未遂者が発生したわけだけど……」
「ちょっと待った」
 宮古島が手で制する。
「一件につき一人ずつ? 集団、とか、二、三人が一緒に、とかは無いの?」
 ああ……あらかじめ指摘がくるとは思っていたので、確認済みだ。首肯すると、ふむ、と宮古島は眉根に皺を寄せた。
「じゃあ、興味本位とか集団心理とかじゃない、個別心理だと考えるのが妥当、いや、でも四件連続というのは……」
 ぶつぶつと呟く宮古島。僕も、そこまで――これはブームや一過性の傾向ではなく、影響の有無に左右されない、個別の自殺だろうと予測するところまで思考は進めている、と自分なりの分析、見解を説明する。
人の心理は大勢、若しくは、極めて少数に傾くように出来ている。大勢に傾くのは本能、極めて少数に傾くのは理性。前者は客観性、後者は主観性。従属と乖離。対比といえば対比にも取れる具合で人の心情は傾く。今回のケース、初め情報を手に入れたときは、僕も年端も往かない餓鬼の過ぎたお遊戯程度にしか考えていなかった。
「一件目――は、緑ヶ丘高校二年、野岸秋子が6日PM11:00頃、自宅のマンションの十一階から投身し、全身打撲により意識不明の重体に陥った。死亡に至らなかったのは、落下位置の直ぐ傍にあった自転車置き場の屋根、ゴムマット素材に引っかかったためだと考えられている。警察の見解は目撃証言などから、自殺未遂の方向で調査を進めている。自殺未遂の動機は不明」
「投身か――彼女にとって死にきれなかったのは運が良かったのか悪かったのか。動機が不明ということは遺書は残されてない、か。彼女は自宅の十一階に住んでいるの?」
「ああ……そうだが?」
へぇ、と気がなさそうに、僅かな首肯で先を促す宮古島。気になったが、あとでまとめて聞けば良い。僕は先を続けることにした。
「二件目は、緑ヶ丘高校一年、河奈夏帆が9日PM8:30頃、自宅自室に置いて睡眠薬自殺を図る。服毒の種類にもよるが、彼女が用いたのは睡眠剤ベゲタミンA錠。極度の不眠症の人間でも、服用30分後に眠りに就くことができる、医者も慎重に処方する、一歩間違えば危ない錠剤だ。認可されてはいるものの、処方されるのは、ほぼベゲタミンB錠。A錠にお目にかかれる、のは割りとレア≠セ。彼女は病院に運ばれ、胃洗浄を受けたものの、昏睡状態が続いている。ほぼ自殺未遂扱いで調査が進められている。調査は主に、ベゲタミンA錠の入手経路に重きを置かれている」
「マニアックだね――ベゲAか。飲む拘束衣≠フ代名詞で有名だね。クロールプロマジンとフェノバルビタールの禁忌カクテルは適当量の十倍で十分に致死量……あ、でも死んでないんだよね? その娘」
「ああ、だがどちらにしろ薬害よる何らかの後遺症が残るだろうな」
「中途半端なのは気に食わない。それで、次は?」
「三件目も、同じく緑ヶ丘高校の一年、牧原勇一郎。12日PM8:00頃、自宅裏庭で全身にガソリンを浴び、焼身自殺を図った。焼身自殺は、自殺の中でもっとも苦痛を強いられる選択から、死に対する抵抗力の欠如、若しくは死を選んでまで何かを訴える場合にしか用いられない選択肢だが――彼が近くのセルフスタンドで、彼が所持していた単車にガソリンを給油した事実を、警察は既に突き止めている。おそらく、これが後になって使用されたんだろう。彼は、人体の表層部位が半焼したところで、火を消し止められ、病院に運ばれたが、一部、四度に至る重症を負っているせいか、意識が戻る見込み――むしろ、生存の可能性すら危ぶまれている」
「……焼身か。ほぼ一年前に起こった事件と同じ狂信者の手口だね」
 狂信者の手口。宮古島の放った単語が脳裏で拡散し浸透する。火花が爆ぜる音。感情の回路が痛ましい記憶の噴出により発火し、悲鳴をあげる。僕は瞬間息を止め、目を閉じ、心を落ち着ける。そして、噴出しかかったそれを、ゆっくりと押し戻し、蓋をしてから目を開いた。
「だが……あれは他者から強要された死だ」
「いや、彼らは心のどこかでは望んでいたさ。現世からの救済をね。でなければ、怪しげな密室に自分たちから閉じこもろうとはしなかった筈さ。とはいっても、今となっては全て燃え尽きて真相まるごと灰になっちゃったけどね」
「その話は――もういい。兎に角――こうして、自殺が連続したせいで、ようやくマスコミが活気付き始めた。そのお陰で浮き彫りになった、というわけでもないが、今回の自殺に関して気になるのは、遺書が一件も見当たらなかった件だ。高校生には割りと、いや自殺者には割りと稀らしい。そのことから、警察は自殺未遂に焦点を絞りつつも、若干、事故、殺人未遂の可能性も視野にいれている」
「若干、か。ま、村上の父親が属してる捜査一課にも情報が回ってきた、ってことはその可能性が無きにしもあらずって所だね」
「一方的な情報に絶対的な自信は持てないが、そういうことだろうな」 
そして、僕がここを訪れる決心をした四件目が昨日、遂に起こった。殺人なら警戒を呼びかけたり、不審者のマークを試みられるものの、自殺ではどうしようもない。自殺しようとしてる人間に説法をといたところで無駄なのだ。自殺者は最早、その思考で誰かに迷惑をかけようとしていることしか考えていない。
「四件目、緑ヶ丘高校三年、西原加絵。15日PM7:00頃、バスルームで溺れているところを家族に発見された。なんと彼女、家族の留守中に両手両足をタオルで結わえて、水をたたえたバスタブに頭から突っ込んだらしい。偶然帰宅した家族に発見されてから、人工呼吸の処置を施されたものの、無呼吸状態が、7,8分以上続いたらしい。脳細胞の一部が死滅。現在彼女は植物状態で、入院中だ」
「あはははははははははは! 馬鹿だねぇ、その娘」
 腹を抱えて爆笑する宮古島。何かが、彼の琴線に触れたらしいが――
「テメェ……何がおかしいんだよ」
 宮古島の肩を掴むと、金網に押し付けて真っ向から睨みつける。宮古島は笑い声を漏らしはしないものの、口元をゆがめたままだ。
「おっと、そう簡単に怒らないで欲しいな。ちょっと想像してみただけだよ。自分で両手両足を縛って、並々と水をたたえた風呂桶に頭から突っ込むシーンをさ」
自身の怒気がこめられた深い息だけが、耳に響く。落ち着け。自分に言い聞かせる。これが、宮古島だ。悲しみも、怒りも、喜びさえもなく、楽しみにだけ生きる人間の姿だ。まともに対処してはならない。怒りで汗が滲んだ掌を、宮古島の肩から緩慢にどける。それに、こいつは探偵役だ。僕は現段階ではまだ、こいつに縋らねばならないのだ。どれだけ気に食わないことであったとしても。冴えた人間なら既に法則に気付いているかもしれないが――だとしても、食い止めるにまで至ることは叶わないだろう。おおよその日にちと時間が把握できたところで、それは不変のものではないし、第一個に対してこの街は広すぎる。だとすれば、僕個人に解決することは不可能だ。探偵役の宮古島にしたって怪しいものだが――その連続性に、何らかの意図が見え隠れするのなら、それは不可能ではなくなる。そして――この事件は歪な様相を内括している。四人が四人、一つのカテゴリに収まっているくせに、それぞれが一千光年もはなれた星々のようにバラバラすぎるのだ。何の因果関係も無い、無意識に干渉しあう要素ですら見当たらない程、バラバラ。事件が起承転結の道筋に準えない、漠然とした四つの『起』の鍵だけが揃っているくせに、開くべき扉が見当たらない。そんなカンジだ。要はこの事件≠サのものが、どこに着陸したがっているのかが分からないのだ。
「駄目だね、情報が足りない」
 肩をすくめて、お手あげ、とでも云わんばかりに両手をホールドアップする都。だろうな、と思った。その次に何を聞かれるかも、大体予想がついていたので、先に答えておく。
「一応、オマエに会う前に甘木聖子にも会って、次に誰が自殺未遂を起こすか聞いたけど……人の生死に関わる予言は無理ですわよ。おばかさん≠ニ言われた」
 全く、口先だけの親切さが先にたって、肝心な時に役に立たない女だ。甘木聖子という預言者≠ヘ。
「まぁ、変わる未来と変わらない未来があるから。特に人の生死に関しては尚更、ね。例えばさ、村上、君が聖子に……いや、真実の意味で未来視が出来る人間なら誰でもいい、この僕、宮古島の死の未来≠予言してもらったとしよう。それは例えば――明日だ。君はどうする?」
「身を粉にしてまで、とはいかないが、成る丈その死からオマエを遠ざける努力はしてみる」
語尾に付け加えるべくして用意した自分のために≠ニいう言葉は抜いておく。
「アハ、村上の愛が感じられて嬉しいな……と、それは置いといて……人間がね、運命に逆らうことは理屈上不可能なんだ。これは、どんな条件下に置いてもいえる。どうにも厄介なものでね……人の死、というのは抗い難い法則に縛られているらしい」
「ちょっと待てよ、乗客が半数以上死亡した飛行機事故のケースに置いて、その飛行機に搭乗する筈だった政治家十数名が立て続けにキャンセルを入れたおかげで、無事死を回避したケースがある」
「それは初めから、死ぬ運命に無かったのさ。政治には権謀策略術数がつきものだ」
「詭弁だな」
「まあ、聞きなよ。人が死ぬという事実は避けられない。これはルールだ。法則だ。現象、構造、空間、その他諸々の成立要素によって得られる純粋すぎる摂理――所謂、公式なんだ。その人間がある地点で死ぬ運命と交差した瞬間、幾ら存亡の危機を回避しようとしたところで――現時点最強の防御力を誇る地下シェルターに潜ろうが、誰の手も触れられない危険物一つ無い平地に行こうが、二十四時間体制で医療スタッフの看護を受けられる状態にあろうが、問答無用に死ぬ。人間の防御オプションが、攻撃オプションに比べて極めて選択肢が少ないのはそのせいだ。ピストルをもった人間と、防弾服で全身防護した人間なら絶対的にピストルを持っている方が強い。原子爆弾を所持した人間と、放射能隔離施設に篭った人間なら圧倒的に原子爆弾を持った人間の方が強い。フィールド、条件諸々に差異はあるかもしれないけれど、人間はありとあらゆる防御力を貫く破壊力を有している癖に、ありとあらゆる攻撃から生身の自分自身を守る術を持たない。これは、何故か――それは、死亡する確率をゼロ以上に保つためだよ」
「違う」
「違わない、いや、本来の目的が違っていたとしても結果的には間違いじゃない。人間が死に易いというのは単なる条件にしか過ぎない。それ以上に根源的な摂理が人の死には存在している。例えば、例えば、だよ――さっき君が言った通りの事を実行してみたとしよう――ここに宮古島都という死の運命の間際に佇む人間が居て、彼を死の運命からヒョイと、どけてやる。と――どうなる?」
 出来の悪い生徒に語りかけるような宮古島の口調に、不貞腐れたような言い方になってしまう。
「宮古島は死なない」
「そう、僕は死なない。けれど、本来僕のいるべき場所――死という運命があるべき場所にぽっかりとスペースが空く。これはどうなるか? 当然空いたスペースには代償が必要になる。だから、代わりの誰かが入る。これが死の法則の第一段階」
 ――それじゃあ
「それじゃあ、宮古島は死なないだろ?」
「だから、第一段階なのさ。ここで絡まってくるのは、未来という時間質量の概念を伴った法則だ。さて、AからBの下に死の未来が移り変わった……けれど問題なのは、一寸先の未来に置いてBは死の運命と交わっていないという事実なのさ。Bは死なない、から同じ人間という質量を持った存在Cの下に死の未来が舞い降りる。だが、その時点でCもやはり死なない。次はD。Dも死なない、ならE……」
「でも、それは摩り替わる存在に死の運命が待っていないからだろ? 次のFにはAと似たような一寸先に死ぬ運命が待っているかもしれない」
「そうだね、だけど、ここにある死の運命はAのものなんだよ。Aだけを殺すために創られた運命でBやCやDやEやFを殺す事は不可能だ。そして人の絶対個数は無限ではない――」
「……なら、元々死の運命をヒョイとどけるなんて仮定自体が間違ってるだろ」
 僕の反論を無視して先を続ける宮古島。
「――何れこのループは数多の存在を隔てて僕に舞い戻るのさ。そして運命が違いようも無く、僕を殺す。僕の未来死を予測したところで――回避した先にも死は待ち構えている。だから、未来視に置いて人の生死を観測するという事は、死神を送りつけるのと同義なのさ。聖子は人の死を預言するのが不可能、なのではなくて、道理に適って無い――無理だと言っているだけだよ。だから聖子を一概に悪く思うのは良くない」
「たった一言そう言えばいいだろ、回りくどい」
「いや、ついでだし構造も理解しといて貰った方がラクだろ――さ、食堂にでもいって、事件についてゆっくりと話し合おうか。あのカチャカチャいう機械は持ってきてるんだろ?」
 先導にたって、屋上の扉を開ける宮古島。中から、清潔で、それでいてどこか陰鬱な気配を漂わせた空気が漏れ出し、屋上の澄み切った空気を汚す。後から続いて、扉をくぐる僕の耳に、
「所詮、死が定められているのなら、それは全てが死に繋がっているアミダクジを轢かされているようなもので――」
 と、呟いた宮古島の暗い声が、妙に響いた。



 昼飯はもう食べたかな、と聞かれたので食べてない、と首を振ると、じゃあ食べに行こうと誘われた。急ぎの用事も、断る理由も無かったので病院の食堂で膳を構えることにする。病院食は食わないのか、と聞くと、ああ、あれは色々と不味いからと嫌悪感に情けなく表情を歪めたながら宮古島は答えた。あくまでも病人らしくない奴だ。
玄関ホール脇のエレベーターを出ると、先に行ってといてくれ、と言われる。背中を見送ると、どうやら外出許可を貰いに患者センターの受付に行くようだった。先に、空いている食堂で食券を購入し、食品の乗ったトレイを窓際の席に置き、手はつけずに座っていると、気持ち肩を落とした宮古島が姿を現した。
「どうやら外出許可は貰えないみたいだ。病状があまり思わしくない、というよりも突発的なアクシデントを危惧しての処置らしいから、どうとも言えないけどね。あの院長にしては根回しが良い。それに理屈が道義的すぎるのが気に障る」
「じゃあ今回の事件は先送りになるのか?」
 僕としてそれは非常に困るのだが。
「いや、事件は事件だし……村上が事件の傍らに居る限り、事件はどんどん深度を増してややこしくなるし……事件の方も誰かに解いてもらうのを待っているだろうし……今この病院の別棟に入院してる、彼らについては僕が調べるとしても――外部調査はやっぱり必要だ。――気が進まないけど探偵役を知り合いの万能人間に依頼しようかな……」
 歯切れが悪い。どうにも気が乗らないようだ。いつでもどこでも、直進直進の変人・宮古島に依頼を躊躇わせるような人間。興味が沸いた。けれども、今解決しなければならない事件は目の前に転がっているのだ。余計な要素は、なるだけ排除しておくに限る。事件は、どこからどこへ飛び火するかわからないのだ。
「気が乗らないなら紹介しなくてもいい」
 と、一応、別の選択肢も用意しておく。
「うーん、気が乗らないは乗らないんだけど……でもやっぱり、揺り椅子探偵みたいに解決しようとしたって、結局、ある程度は情報量が必要だし――それに、多分、二、三日一緒に居るだけなら庵悟も本性見せないから大丈夫……だと思う」
「庵悟――響きからすると男、か。なんだ、宮古島にしてはえらく弱気だな」
 宮古島が悩む――余り見たことがないケースで、少し、反応に戸惑う。だが、宮古島はそんな僕の反応を別段気にする風でもない。
「庵悟は自分でも名乗ってる通り探偵だし、探偵の役回りなんだけれど、犯人にも成りえる自由自在のジョーカータイプの探偵なんだよね。人づてに聞いた話なんだけど、庵悟が探偵として招待を受け、出向いた先――小笠原諸島にある無人島の一つなんだけどね、それはもう古い古い洋館で各部屋の鍵とかもドイツかどこかの特注品らしくて、その鍵じゃないと開かない各部屋に合鍵無し、マスターキー無し、オンリーワン、唯一無二の鍵が一つだけ、部屋に宿泊する本人にのみにしか譲渡されていない状況にも関わらず――庵悟の部屋で密室殺人事件が起きたんだ。当然、皆が犯人を――」
「――まぁ、その庵悟って奴が犯人に思われても仕方ないだろ」
「うん。でも、庵悟も探偵役として招待を受けたのだし、探偵は探偵≠オなきゃならない。殺人の真犯人を発見する義務があるんだ――だから庵悟はどうしたと思う?」
「あー、えー、とそうだな、分からん。土下座して自分は殺してない、と一晩中かけて説明したとか」
 それじゃ探偵じゃなくてただの負け犬だよ、と宮古島は伽羅と笑う。
「それより大きな密室を誰にも……いや、違うね、犯人以外≠ノ悟られないように創り上げたんだ」
「密室より大きな密室?」
「そう。唯一の島との連絡手段として用いられていたクルーザーをぶっ壊して、外界と連絡がつくような電波系統を総じてぶっ壊したんだ。ぶっ壊している間、自分も含めて全員分の真っ当なアリバイを成立させて、自分の他に真犯人が居るかのような風を装ったのさ」
「……そいつ探偵じゃねえ……」
「疑われたまま探偵はできない。だから、自分自身を犯人候補から確実に外す。目的のために手段を選ばない、というよりは目的に関係無く、結末のためなら手段を選ばないタイプの人間なんだよ。それが庵悟の良いところでもあるけれど、時には諸刃の剣にもなる。だけど……そうだね……多分、きっと、メイビー村上なら何とかなるよ」
 ――希望推量を重ねて使われるとカナリ心配だ。しかも僕なら何とかなる、と何の根拠もない判の押され方なら尚更だ。むう、とこれからの前途多難さをそこはかとなく嗅ぎ取ってしまった僕は、五目蕎麦を啜る箸を止め、温くなった梅昆布茶をズズズ……と啜る。その僕を目前にして、宮古島は堂々と人の五目蕎麦のきくらげだけを選り分けてツマミ食いする。
「……おい」
 静かに話しかけると、奥歯でコリコリときくらげを鳴らしながら、何かな? と首を傾げる宮古島。
「勝手に人の飯を食うな」
「まあ、こういう未来もあったという事だよ。食堂に来た村上は、何を選んだところで僕につまみ食いされる運命から逃れられなかったワケだ」
 屋上の続きをここまで引っ張ってくるなんて。……まさに詭弁だ。というか、問題点はそこじゃない。今、問題なのは探偵役に誰を据えるかと言うことなのだ。
「流されてその庵悟とか言う名の男に頼むと、後で後悔しそうだしな……」
 大した意図も無くポツリと漏らす。すると、うんうん首を縦に振る宮古島。そうした方が良いよ、とオマケに一つ忠告までくれる。なら、初めから勧めるなよ、と言いたいところだったが如何せんそこは端役の分を弁えているため、ぐっと堪える。庵悟という探偵の人格に問題があるのは確かだが、論点が摩り替わってはならない。駄目なのは、容易に事件に巻き込まれてしまう癖に、探偵役が居なければ事件一つ動かせない僕の方なのだ。
 当ても無く茶をすする。木漏れ日が角度を変えて、ガランとした食堂の一角を日差しで染める。その間にも宮古島は他人の五目蕎麦を突っつきまわして木耳の個体数を激減させていく。
「なんだかなあ……」
 ウンザリするのとはまた違った意味で、まったりしてしまう。ズ……最後の一息で茶は空になった。同時に、宮古島のミッションもコンプリートしたのか、僕の五目蕎麦から興味を無くして離れていく。現金な奴め。宮古島の瞳を睨むと、真っ黒に染まっていた。木耳の色だ。一つ溜息を零すと、残りの五目蕎麦に取り掛かった。
 さて、探偵役には――誰を据えるべきなのだろう。



 僕のクラスの担任である神奈川教諭が、黒板に書いた公式をぼんやりと眺めながら、僕は事件について考えを馳せていた。数式を並べた大学ノートの隅に小さく自殺、と書き、思い出したように未遂、と付け足す。
 ――自殺未遂……そもそも自殺の概念とは一体なんなのだろうか? 鉛筆でコンコンとノートを突き、思考にリズムを与える。宮古島は自殺を単なる死の一種としか捉えていないようだし、聖子は自殺は生命の糸を我侭に寸断してしまう最低の行為だ、と罵っていた。ただしそれは他人の観点によるもので、自分にとっての概念ではない。問題に挑むのなら、自分なりの定義に従って動くべきだ。黒板から目を逸らし、窓の外をふと眺める。青春を謳歌する学生を称える様に、燦然と太陽の光線を受けた濃緑の葉が眩しいぐらいに輝いていた。
「自殺――未遂、か……そういったシチュエーションに直面した事が無ければ、理解不能なのかもしれないな……」
 自殺という行為について、僕の考えなどたかがしれている。
主観性においては、救い――
 客観性においては、弱さ――
 その程度の見識しか持って居ない。自らの手首にカミソリを当てる心境などとんと理解できないが、高い場所からミニチュアな地上を見下ろすとふと飛び降りたくなるような衝動に駆られるのは理解できる。曖昧な、概念。いや――道具を利用し自殺に赴く心境は、全くわからない、のだろうな。我が身一つで投身したり、入水したり……の類は理解しようと試みれば、理解できなくもない。何より、身一つさえあれば成せる手軽さが良い。本能的に、そういう自傷衝動を、人は生まれながらにして持ち合わせているのだし――だが、道具を使用して自身を破壊する、それは、多少常軌を逸している感がある。自傷という枠に大別するのなら、リストカットも首吊りもそう≠ネのだが、それは多分、その道具が目の前に有っても、通常の状態ならば行為に及ぼうとは到底、思えない。それに至るまでの確固たる意志が必要になるのだ。カタチなき意志を、現実世界にカタチとして顕現する強さが必要となる。突発的なモノであったとしても、それも強さとしての一つのカタチ――なのだろうか。

「結局僕が探偵をするんだね」
 病院の玄関ロビーに並んだ待合椅子の一つに腰掛けながら、宮古島は嬉しそうに相好を崩した。昼下がりのロビーは診療受け付けの一時休憩もあってか、閑散としていて、人の気配はほとんど感じられない。
「事件の概要をもう一度聞こうか」 
 外の景色の眩しさに目を細めながら、ああ、と頷き、四件の自殺未遂の概要を掻い摘んで説明為直す。四件の自殺未遂を全く関係無いという考えに行き着いた訳の説明。まず、四人の交友関係――学年の違いや、学園無いでの接触の有無から始まり、彼らの親の代にまで遡って調べてみたが、各々の関連性は皆無だった。しいていえば一部の生徒の学年が被るが――一般高校は三年までしかないことを考えれば当たり前だ。彼等、彼女等が秘密裏に密会を繰り返していた可能性も否めないが――学内の様々な人脈を駆使してアリバイを取ってみた限りでは――その可能性は低そうだった。彼、彼女ら四人周辺の噂話は、自殺に関する見解ですらロクに存在せず、表立った交友も、誰一人として重なり合うことは無かった。これは学年、クラスのわけ隔てなく、一つの集合体として活動するクラブに置いても言える。帰宅部繋がり、というのがあるのかないのかは知らないが、四人中帰宅部は一人だけ。あとの三人は全員、別々のクラブに属していた。僕が通う高校のクラブ所属率は四割を超えるか超えないか、なのでこの事実は偶然といえば偶然、奇妙と言えば奇妙、と映った。まぁ、それはただ単に、コイントスで表が四連続が出た、程度の偶然でしかない。
 そう、これは本題の前振り程度の些細な偶事でしかない。これを一連の事件として捉えた場合、その角度は自殺未遂≠ニいう一つのキーワードを中心にすえることになるのだが――一つ一つを個別に並べてみると異様さが直ぐ知れる。異様な点――それは、四人が四人とも違う自殺方法を選んでいるという点。学生の自殺行為は統計上、浮かび上がる三項目に限られている。投身、リストカット、首吊り。ほぼその三パターンで決まりなのだ――が、最初の投身自殺を除けば、何を血迷ったか異常な自殺方法が三つ選択されている。ここまで重なりが忌避されてきたのだから、自殺方法も重ならないべきだ――否――むしろその逆なのか、敢えて重なる自殺方法を避けて通ったかのような――偶然と位置づけるには余りにも余り、運命に意志という不純物が混入され捻じ曲げられたような感覚に、胸の奥が静かにざわめく。手元にある情報に違和感を感じずには居られない。
 残りの三つ、それは――服毒。焼身。入水。そして、ここではじめて、重なり≠ェ現れる。全て、未遂≠ノ終わっている点だ。

 全てを語り終えた後、
「自殺の前日、普段と変わった様子は無かったと、彼らのクラスメイトは口を揃えて証言している。これは警察も調査済みの情報だ。七割方本当≠セと考えて間違いないだろう」
 と締めくくる。
「へえ、そう」
 宮古島はスッと目を細める。瞳は赤色に染まっていた。視線を辿ってロビーから外を覗くと、夕暮の風景が空一面に横たわっていた。受付の脇に備えられた壁時計を見やると、午後四時。昼過ぎから二時間にわたってぶっ通しでしゃべっていた計算になる。
「でもね、変わった様子が無いからと言って、あてにはならないよ。人はいつだって外見しか見ようとしない、内面になんてさしたる興味はないんだ。外面さえ笑っていれば、外見さえ笑って居られるなら、心の中で思う存分憎しみ、百ぺん殺そうが問題ないんだ――けれど、高校生にしては自殺のジャンルが多岐に渡りすぎてる感は否めないね……自殺未遂が連鎖している状況と同じぐらい奇異だ」
 僕は、同意するように微かに首を縦に振る。
「……いや、それとも、おかしいと僕らが思っているからおかしいのかもしれないね」
「うん?」
 思わず、間抜けた声を上げてしまう。コイツは今、なんていったんだ?
「いや、だから、本人達にはその自殺方法を選ぶことが至って普遍的だったのかも知れないよ。土地風土風習は同じ日本だとは言え、個人差ぐらい認められたって良い」
「万国共通、誰がどう見たっておかしいだろ?」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあ、村上は知らなければ在り得ない論者なんだね」
「……意味が分からん」
 また意図のつかめない宮古島の話を聞かされるのか、と思うとうんざりした。
「折れることを知らない剣が折れる事は決して無い、って言われると村上はどう考える?」
 聞かれると、ちゃんと付き合ってしまう僕も僕なのだが。
「あ? ……えーっと、まあファンタジー的にはそういう剣が合ってもおかしくは無いかもしれないな」
「じゃあ、折れることを知らない枝が折れる事は決して無い、って言われると、どう?」
「枝なんて台風でも吹けば直ぐ折れるし、人為的な影響で折れることだってまま在るだろ」
「模範的な解答を有難う。でも、それは誤答なんだよね。枝は折れることを知らなければ、折れないけれど……その枝が、何かの拍子に折れた瞬間、その枝は折れることを知ってしまっている――つまり枝は始めて自らが折れる可能性を知ってしまった、その瞬間から折れるという現象が可能になったんだよ。因果、若しくは相互作用、とも言うね」
「……それは詭弁だ……で、それが?」
「だから、今回の事件、村上はまだ殺人が起こりえていないと頑なに信じているせいで、実際に起きてしまった連続自殺未遂事件との乖離を起こしているんだ。本質を見極めないと真実には辿り着けないよ……君の周りにはいつだって殺人事件が起こる≠だろう? ――僕は今回の事件、大体構図を理解した。どうやら、僕みたいな探偵役が出しゃばらなくても十分解決できる。ましてや聖子や庵悟の出る幕なんて寸分も無い。もう一度、言うけど、今回は村上だけの事件だよ」
 雲行きが怪しくなってきた……。それはホームズを差し置いてワトソンが全てを知りえている、という理論の話だろうか? あれは確か、ワトソンが書き手、傍観者を演じているが故に、ホームズより先に事件を解決していなければならない、という類のパラドックスだった――けれど、僕はワトソンと同じ傍観者の立場であるものの、そこまで全知にはなれないし、ましてやホームズのように目先の事件を解決することしか能が無い、愚鈍にすらなれない。
「おい、舞台から探偵総じて引っ込んで、誰がオチつけるんだよ」
「心配しなくても大丈夫だって」
 宮古島は得意のアルカイックスマイルを僕に披露する。何が心配しなくても大丈夫なのか不明瞭なために、余計に心配になる。僕は途端に、どっと疲労感が押し寄せてくる双肩の重みを覚えた。



 事件に進展は無い方が良いのは当然だけれど、僕が居る限り事件は解決してもらうまで続く、という事実に初めて気づかされたのは、宮古島ミヤコという存在と遭遇してからだった。おぼろげなもやに隠れた記憶を無理やり引っ張り出すと、断片的にだが宮古島と会ったあの日の事が目蓋の裏にモノクロ映画の様に浮かぶ。
 雨の日だったか、風の日だったか、晴れていたのかは全く覚えていないが、あの日♂ョ上でいつものようにバイオリンを奏でていた宮古島と、その背中をぼんやりと佇んで見つめる僕が居て――当時――今から三年前の事なので、おそらく僕は中学生だったのだろう――その僕に、辛辣な口調で宮古島が言い放った。
「君が誰だか知らないけれど、腐りきった果実の匂いがするね。君はよほど酷い人間なのか、それともよほど酷い人生を歩んできた人間か――どっちかな?」
 初対面の僕は同い年にしか見えない後姿の少年の言葉に愕然とし、何故か心臓に鋏を突き立てられた痛みを確かに感じ取っていた。バイオリンをキュィ……微かに鳴らせ、少年は背を向けたまま言葉を続ける。
「何を言っているのか分からないって顔をしてるね。ふん、間の抜けた顔だ。自分のしてることに気付かずに他人を巻き込んでいるというのなら――尚更最悪だ。自分の存在が撒き散らす悪意に気づいていない人間が、僕は心底嫌いでね。そうすると、僕はその価値観に従って君を、最低野郎、だとかこのクソッタレ、と評価せざるを得ない」
 少年は顎にヴァイオリンを挟んだまま、顔だけを振り向かせる。夕闇の影に隠された表情に、紅い瞳だけが爛々と輝いていた。やけに網膜に焼き付いた、その光景。僕は……あの頃の僕は……、少年の勝手気ままな語り口を聞いて何を考えていたのだろうか。
 少年の言葉にショックを受け、呆然としていたようにも、心の底からドス黒く食道を突く、烈火の如き怒りが込みあがっていたようにも、少年の弾いていたヴァイオリンはストラディバリウスなのだろうか、と見当違いな考えを抱いていたようにも思える。どれもが当てはまり、どれもが当てはまらない。それは多分、あの時、僕は何かに固執して考えるというやり方に慣れなくて、自分自身が何者≠ゥでさえ、思考が及ばなかったから――
「君の名は?」
「…………」
 その問いに――その、単純すぎる問いにさえ、答えられなかった。答えたくなかったのではない。答えられなかったのだ。
 僕だ――誰だ? 
 自問する。暗い暗い自分の中に潜む思考の闇から、その問いに対する回答を引きずり出そうとして、僕は手を伸ばすが、何もつかめない。あまりにも長く沈黙しすぎたのか痺れを切らした少年は、僕を促すように、ヒュウと風を切るような細い音で弦を弾く。
 僕には、この状況において選択肢が大まかに二つ用意されていて――別段名前を名乗らない理由は無かった。僕の存在を固定してくれる記号に価値など無い。僕は、僕自身でさえ僕が何であるか≠理解していないのだから。
 病院の屋上から、少年の背後に一望できる街の片隅で、一際目を引いた看板の字を読む。
「……村上」
 それが、僕の名前代わり――いや、記号≠セ。ぼそり、と名乗る。
「村上、ね。よし、覚えた――にしても、名前を聞いたのに苗字を答えるなんて君も酔狂だね」
「違う。それが僕の名≠ネんだ」
 へぇ、と少年は小さく目を見開き、それから 三回、口頭で僕の名前を繰り返すと、満足げに頷く少年。
「さて、なぜ僕が君の名を聞いたのかというと、僕は村上に非常に興味がわいた。友達になりたい――そう思ったからなんだ。だから、これからは如何なる事があろうとも、僕は村上をおせっかいなまでに助けてあげよう。村上の人生先行きはきっと、多難に満ち溢れているから、僕を犠牲にするぐらいで調和がとれるよ……――おっと、また忘れるところだった。良くそれを知り合いにも窘められるんだが――まだ――僕は君に名前を名乗っていなかったよね」
 一方的なおせっかい宣言には不快感を覚えたが、行き成り、成り行きで友人宣言をされた事については、全く不快では無かった自分自身が、いまさらながらに不思議だ。今の僕――一つの人格として完成を目指す、今の僕なら絶対に、こんな怪しげな奴とは友達になろうとはしなかっただろう。
「僕の名前は、宮古島ミヤコ。姓が宮古島、名はミヤコ――って言わなくても分かるよね……僕の友達は皆、僕の事をミヤコって下の名前で呼ぶ。じゃあ、お互い名を名乗りあった事だし、午後のティータイムにでも洒落込まないか? 村上」
「いいね、宮古島」
 僕の警戒機構が無意識に作動した。僕は誰とも馴れ合ってはならない=B宮古島と名乗った少年は、意表を突かれたのか、今までにそういった皮肉で返された経験がなかったのか、僅かに目を見開き、悲しそうに、少しだけ眉根を下げた。いや――今、思い出すと、それは悲しそうだったのかどうか――なにせ、宮古島は出会ってから今日というこの日まで、二度と悲しみを仕草を表現することはなかったから――それに、今思い出すと、僕はどういう感情回路を経由して、宮古島に皮肉を放ったのか。それが未だに分からない。抵抗の術に用いる言葉での揶揄、皮肉に使うための語彙が決定的に不足していたのか、それとも今の僕には理解できない感情回路を連結して、その言葉は放たれたのか――。
 今となっては、その記憶からもたらさる真実は――僕の存在定義を最悪≠セと決定付け、脳内でぐるぐる渦巻く得体の知れない不安感で僕を支配した、不思議な瞳の色をした少年のことを、僕は、恐らくここから――嫌いだったのだろう、という、その一点だけ。
 閉じていた目を開くと、夕暮の日差しが六畳一間の僕の部屋に侵入し、壁紙をあの日と同じ透明な赤で染めていた。

5 - T
 
 ソニーのサウンドプレーヤーは読み取り時間が最速だが、ケンウッドの方が音の響きがいい、と僕は勝手に思い込んでいる。実際そうなのかもしれないし、全く持って間違っているのかもしれないが、気に入っているメーカーはケンウッドだし、僕の部屋の本棚の上に備え付けられたスピーカーもケンウッド製なので、ソニーについては考える必要は無い。そのケンウッド製のスピーカーがラマニノフのボカリーズによる美しいヴァイオリンの音色で空気を振るわせるのを片耳でやり過ごしながら、僕は盗聴を試みていた。
 盗聴内容は父の私用回線から流れ込んでくる、事件に対する警察調査の進展内容。相変わらず、警察捜査本部側では連続自殺未遂を一連の事件として取り扱うのか、それとも全くの別件として取り扱うのか、方針が定まっていないようだった。それぞれがまったく違うパズルのピースで構成されているようだ、とは父の部下の一人で若手の平松寛治刑事の意見。例え方が若手の割りに古典的だ、と笑っていられないのが警察側の状況。かなり切羽詰っているらしく、父親がまともな時間に帰宅しているのを最近見ていない。一度見かけた時も、目の下に隈の縁どりを疲労感と共に色濃く残していた。
 マスメディアの連日連夜の報道も、事件が起こるたびに異常なほど活気づき、日本という国は平和なのか平和じゃないのか微妙な線を辿っている事を再確認させてくれる。
 ――一ヶ月の内に同じ高校内で自殺未遂が四件。言葉にするとあまりにも薄っぺら過ぎる。アングラ系サイトで時折、自殺未遂した彼等、彼女等の映像を幾点かがアップされており、参照する事が出来たが、特に三件目で焼身した牧原勇一郎の死体は惨たらしかった。四肢に渡る火傷の跡が凄まじく、黒く焼け焦げた皮膚を晒し、胴体部位は炭化すら通り越して白い炭となり、ポロポロと剥がれ、ひび割れた隙間から中の肉が赤くマグマのように見え隠れしていた。
 彼が二度と正常な日常に帰ることは無い、と一目で理解できた。正直、直視に堪える映像では無いが、事件解決の情報に必要だから、と自分を納得させる段階を踏むことも無く、自殺者が現在どのような状況に陥っているのか判断し、ある程度の被害状況は知りえた――が、それだけでは全然足りなかった。 事件の概要を掴んだだけで、どうしたら解決に導けるのか、検討すらつかない。 
――意識せずに、笑いがこぼれた。
 初めはこぼれただけだった。が――こぼれたときの、自分の噴出した声を聞いて、感情は決壊した。腹の底からおかしくておかしくて仕方が無い類の爆笑が僕の表層に訪れる。涙を流して、鼻水を唾を撒き散らして、顎を痛むぐらいに開け放って何が楽しくて、笑っているのか自分でも不明のまま、僕はゲラゲラと笑う。……また、僕の感情回路が少し壊れたらしい。ショートの傾向が見られた午前中にメンテナンスしておくべきだった。笑いの嗚咽と、よじれる腹筋に痛む腹部を押さえながら、僕は表層と分離させた意識の中で、回路の修復に努めることにした。
 僕は、僕の精神体を深層意識の中に製造する。
 それは、世界から乖離する感覚。周囲を形作っていた聴覚、臭覚、視覚――総である現実と、個である自分を接続可能にする感覚機関を、僕は遮断する行為。
OFF
OFF
OFF
OFF
OFF――
 そうして僕は、完全なるスタンドアローンと化す。他者との共有を望めない、単体で自立する世界で、僕は精神体となった足部分をそっと地に下ろした。意識として、それは確認できたが、足裏から伝導する感覚は無い――というよりも、無い≠ニいう感覚を僕の意識が決定し、認識させているのだ。ここは、僕の世界なのだから、僕が僕自身の感覚にまつわるすべての物事をゼロから作成コトが可能だ。
 他の人間は、自分から欠けてしまった、失われてしまった感情をどうやって修復しているのか、知らないが――僕は、主に、ジャンクと呼ばれる不必要な記憶を利用して感情回路の修復を実行している。欠けたり、ショートして役目を果たさなくなった感情回路を正しくつなぎなおすために、記憶をのりしろとして使用するのだ。
 僕は、脳に蓄積された記憶のピースから手ごろなものを手にとってみるが――それはどれもとるにたらない記憶で、サイズが余りにも小さく、壊れた部分を修復できそうになかった。そこで、僕は探索≠ニいう意識を生み出した。その意識が、僕の精神に波紋を立て、足元から景色が広がっていくように、精神世界が視覚にその存在を訴え始めた。
 僕は――広大ドーム状を、果てまで満たすかのような透き通る池にその身を浮かべていた。
 池は――僕の意識が生み出したとは思えないほどリアルに、僕の肌を濡らしていく。それでいて、現実とは異なった浮力が働き、泳ぎの苦手な僕の体が無様に沈んでいくことはない。僕は、あまりの居心地の良さに、そっと身を横たえた。体半分が水面から浮き出し、波一つたたない世界は、静止したまま僕という存在を同じ場所にとどめ続ける。見上げたドームの天井は、紫水晶のように、様々な色合いを見せた。青、紫、白――そして、黒。光源の無い世界でそれは、薄ぼんやりと輝きを放っている。しばらくそうして、精神世界を漂っていたかった――が、僕には目的があった。第一、目的のためにこの池を生み出したのに、目的を果たさねば意味が無い。それに、僕から探索≠フ意志がその身を潜めたとき、この世界は音も無く崩れ、跡形も無く消え去るだろう。それは、何となく嫌だった。
 僕は浮いている身体を反転させると、池の中を覗き込む。底の暗闇が手に取れそうなほど透き通った水中に、アメーバ状の記憶の塊が無数に浮いていた。それらは結合、分解、流動を繰り返しながらうねうねと、たえまなく動き続けている。僕はそれを一つずつ手にとって、感情回路の欠損部分に見合うだけのサイズ、重みを有しているかどうか確認するが、僕の背丈ほど位置を漂っているものは、どれも、欠損部分に見合ったサイズを満たしているとはいえなかった。やはり、もっと深い位置から引きずり出してこなければならないのだろうか。その時僕は――以前、底に近い方で、使い勝手の良さそうな記憶がその身を漂わせていたことを思い出した=B
 それが、どんな記憶だったかは思い出せない=\―が゙、底に近い位置を漂っている記憶は、大抵がそれなりのサイズを有しているので、適当に――例え、それが僕の一部を構成する重要な記憶であったとしても、別段構わなかった。
 他人から奪い続ける僕に、今さら、何を失うものがあるというのだろう。失うことを怖いと思う僕が居たとすれば――無意識にそれを他人に強制している僕という存在は一体なんだ?
 僕は、滑らかに身体を滑らせて、水中に没していく。深く、深く。天井に浮かぶ、紫水晶の群れも、淡い光も、そして、透き通る水面さえも手に届かない場所へ深く深く潜っていく。やがて、周囲の全てが闇で染まり、水中に存在するという意識すら曖昧になった頃――目の前を埋め尽くす、大量の直方体型をしたアメーバにぶちあたった。
 それらは、表層のアメーバのように互いが互いを侵食しあい、混同しあい、同化、分離を重ねる変化といったものを見せずに、理路整然と隙間を余すところ無く、レンガブロックのように並んでいる。僕は、無造作にその一つに手を伸ばし――触れた。指先に、本来なら感じるはずの無い、質量がこもった重みを感じる。
 どれでもよかった――僕は、それを周りのブロックを崩さぬよう丁寧にくり貫くと――
 ふと――その手が止まる。
 いや――意図的に止めた、のではなく手が、腕が、体がフリーズ≠オたように微塵も動かない。僕は手を伸ばした、記憶を掴んだその、
 刹那――ホワイトノイズ。



【Fatal system error】
Please stop at once.

5 - U

 記憶が飛んだような――気がした。朦朧とする意識を、覚醒させるように僕は首を振って、現状を確認する。 てらてらと絡みついた触手を思わせる醜い壁で四方が囲まれており、右手側にスチール製の扉が一枚。それから、眼前には牢屋があった。そこは、牢屋なのだとはっきりと認識できた。格子を境目にして、向こう側に、全てを飲み込む闇が、毒竜のあぎとのように口をぽっかりと開いている。
 そして、その中に閉じ込められている誰か≠ェ――檻の格子をガチャガチャ不快に鳴らしている。ソイツの姿は、まるで背後から強烈なスポットライトを当てられているかのように、シルエットしか判明せず、闇との輪郭が酷く不明瞭で、亀裂めいた唇の赤さだけが奇妙なまでに目を引いた。ソイツはそこから何かを叫んでいるようだったけれど僕には聞きとれなかった。僕は、その男とも女とも大人とも子供とも区別のつかないソイツの唇の動きを読む。

や   め   た   ほ   う   が   い   い

 ソイツは繰り返し、繰り返し、それだけを再生していた。
 何を――。
 何を――?
 意図が掴めない。何を――だろう。何を止めておいたほうが良い、のだろう。彼は、僕の何に対しての中止、禁止を呼びかけているのだろう。このどこだか分からない場所で。僕が、今何をしようとしてしていたのか、の状況判断すらおぼつかぬこの場所で。
 思い出せない。
 思い出せない。
 状況を判断すると、僕は今、精神体と化して、自己の精神世界に何か≠しにきたらしいが――僕は、一体何の目的でここへやってきたのだろう。

 目が醒めた。

 僕は、自室の机に、つっぷしていた。盗聴しようとした網を張りながら、その待ち時間を持て余して居眠りしていたようだ。間抜けにもほどがある。盗聴のイヤホンマイクを耳に差し込んだまま、目を閉じて、記憶を振り払うように首を左右に振る。それから、大きく深呼吸。落ち着こうと、夢の内容を思い出そうとしたが――やめておいた。
 あまり、夢見は良くなかった気がする。夢は、記憶や、表層下の意識が連結されて具象化に至るものだ。ゆえに、思い出さなくても良い、蓋をしておいた方が良い記憶が夢に現れていた可能性もある。全てが全て楽しい記憶ばかりではないのだ。むしろ、正の記憶に比べて、負の記憶の方が遥かにその数を増している。その中には、腐敗し、膨張して、穢れた体液を垂れ流す、汚染の固まりでしかないような記憶も在る――それは――それらは、手に取ったりせずに放置しておくに越した事は無い。
 ザ、ザ、ザと一瞬の雑音。自宅内から電信が発生したノイズ。波長を合わせるためにダイヤルをいじると、その奥から砂嵐に紛れた会話が浮き彫りになる。僕は、一字一句を逃さぬよう聞き耳を立てた。
『五件目、起きないと良いですね』
 父の部下、平松寛治の声。
『一緒くたにするな、馬鹿。捜査本部ではまだ、別件扱いだ』
 続いて父の声が聞こえる。
『でも、マスコミに取材を受けた緑ヶ丘高校の生徒の間では、メディアの連日報道もあってか、既に連続自殺未遂事件として噂されているみたいですよ。個人の情報もネットに流出し始めたらしくて情報規制に歯止めが掛からないって広報課の担当が愚痴ってましたし。それに、興味本位で自殺未遂の生徒を探っている学生もいるらし――』
『警察が解決するのが先だ! 心配要らん……クソ、相手が未成年だと聞き込みもロクに手が回らん……学校側が非協力的すぎる――第一、年端も往かないガキが何で世の中を悲観する必要があるんだッ!』
『耳元で怒鳴らないでくださいよ……最近の子供は良く分からないところありますからねー』
『馬鹿、オマエら若造も同じだ』
『バカバカ言わないで下さい。それに同じじゃないです。僕には彼等の心境なんてまるで想像つかないですよ』
『もういい……十八時、また最初から事件の関係者を洗い直す』
『またですか? 協力してくれないんじゃないですかね。止めませんけど、あんまり度が過ぎると社会問題に発展しますよ』
『……粘るのは、捜査の基本だ』
『古臭いですね』
『馬鹿。古典的でシンプルな方法は、いくら遠回りだとしても、解決には特効薬なんだよ』
『そのお陰で時効にされちゃってる事件も幾つかありますよね』
『それは時代のせいだ。法医学も科学捜査も現場検証も以前より格段に発達している。あと頼りになるのは足ぐらいだ』
『今回のも解決できなければ、時代のせいになるんですかね』
『若造が知った風な口を聞くな。余計な事は考えなくていい』
 父の一言を最後にプツッと音信は切れ、元の砂嵐に戻る。遠くで父の書斎のドアがキイ、と開く音がしたので、イヤホンマイクを急いで外し、盗聴器具の電源を切ると一緒くたにまとめて傍らのルーフに突っ込んで、隠す。机の上に置いていた小説を手に取ると、適当なページを開いたところで――コンコン、と僕の部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
 と短く入室の許可を与えると、草臥れたグレーの背広で身を包んだ父が静かに入ってきた。
「捜査が忙しくなって、また暫く帰って来れ無さそうだ……色々、構ってやれなくて済まないな」
「父さんが、気にする事無い」
 本当、気にする事では無い。
「生活は、大丈夫か? 小遣いは足りてるか? 宿題はちゃんとしておくんだぞ」
 僕は小学生かよ。と心の中でぼやいたが黙っておく。
「大丈夫だよ。毎日、滞りなく時間は過ぎていってるよ」
「……そうか」
 疲れを吐き出すように、言葉の溜息を吐くとそれじゃ、父さんは行くな、とだけ短く告げ、僕の部屋から静かに去っていった。仕事も家庭も両立させようと奔走する父親。そんな彼のことは、嫌いではない。嫌いではない、という要素が、好きである、という要素に表裏一体として、繋がりはしないのだけれど、それでも僕が嫌悪感を抱かない貴重な人間の一人であることには違いない。あまりにも静寂すぎるこの部屋に、玄関のドアが父の手によって開かれる音が届いた。
 僕は、小説を開いたまま、祈るように、目を閉じた。



 ジリリリリリリリ――けたたましく、アナログ式目覚まし時計のような音が鳴る。あまりの騒々しさに、何事か、と思って薄ら意識を醒ますと、ああ、そういえば最近携帯の着メロを、宮古島の悪戯で古い電話の受信音に変えられたんだっけ、と思い出す。就寝前にベッドの枕元に放り出しておいた筈だ。近い方の手で頭の脇辺りをモゾモゾ探ると、プラスティックの固い感触が返ってくる。そのまま手に取ると、通話ボタンを押した。
「……ふぁい、もひもひ」
 呂律が回らない。寝起きで体が麻痺しているらしい。
「あれれ? 寝てたの……かな?」
 柔らかい癖に、妙に耳に通る声。脳裏に、中性的な顔立ちをしたボーイッシュショートの少女の面影がよぎる。相手は――霧音か。僕の携帯に登録されている数少ない友人の一人だ。本名、湖畔霧音(コハンキリネ)――僕が通う学園内においては、金さえ払えば文字通り何でもやってくれる便利さから、学年を問わず、名が知れ渡っている。使いっぱしりから、恋愛の仲介役、情報の切り売りをしたり、メール告白の代行役も兼ねたりする。それにより、同性は勿論のこと、異性からも重宝がられている。普通そこまで身軽だと、その存在を軽く見られる傾向があるが、金払いが悪いとすぐにブチ切れ、仕返しとは名ばかりの百倍返しを――それもかなり悪質で陰険なやり方で反撃されるため、彼女のことを恐れている生徒も多数いる。そのお陰で、彼女は学園内における重鎮の一人――他に有名な生徒としては占い師≠フ甘木聖子や会長≠フ狗藤正義(クドウセイギ)、走り屋$^田春(サナダハジメ)らがいる――として、君臨しているわけだが――その霧音が、こんな深夜に何の用事なのだろうか。凝った筋肉を弛緩させながら、むくり、と上半身を起こして「なに?」と問い返す。自分でも今の問いかけは不機嫌に聞こえた。
「ゴメンゴメン、寝てたって知らなかったんだよー」
 謝りながらも、全然悪気の無い声。まぁ、そういうヤツだ。
「いや、いいんだ。それは謝らなくても――で、こんな時間に何の用事?」
「こんな時間って……まだ十二時ちょっと前だよ? 村上って健康優良児だねぇ。朝は早起きして寒風摩擦とかしてる派? この前マルマル大辞典≠ナ寒風摩擦特集やってるの見たんだけどさー、やっぱあれって健康にいいらしいねぇ。幼稚園の頃は、寒いからすっごくヤダったんだけど、今ならやってもいいかな――あ、でもこんな年齢にもなって人に柔肌を見せるのは――」
 この霧音という少女は、生まれついての喋り好きで、こちらが話題修正してやらないと、どこまでも主題から逸れていく。
「あのさ、僕は寝てたんだ」
 言い含めるように、言い聞かせる。
「うん、みたいだね」
「で、僕はだな、オマエから電話がかかってきた理由を手短に聞いて、とっとと安眠を貪りたい」
「むー……早急だなー村上は。女の子と話すときはもっと余裕を持たなきゃ。こう……長年連れ添った妻と夫のようなピロートークとかないの?」
 早速抗議があがった……だから僕は彼女が苦手だ。
「……心底どうでもいい。第一、僕はエスプリのきいた会話ってヤツが苦手なんだ。そのせいで友達少ないのはオマエも知ってるだろ。で――なんなんだよ」
「マイラバー、村上の声が聞きたくなったってトコロかな? ひとりで眠る夜は体が疼いて疼いてしかなくて」
「絶対嘘だな。切るぞ」
「あぁん、待って、らめぇ……」
 数秒前の会話と何の脈絡もなく、唐突に垂れ流される色艶めいた霧音の息遣い。携帯から耳を外して、顔を覆った。目を閉じる。頭痛がした。電話の向こうでは、まだ一人演技が延々と続いていた。僕は、低く押し殺した声で呻く。
「気色の悪い声を出すな。新手の嫌がらせ?」
「ちょっ、ちょっと待って! なにそれ!? 折角、わたしみたいな可愛い女の子が……その……あえぎ声とか……漏らしみたりなんかしちゃってるんだから、もっと別の反応ないの!?」
 その……あえぎ声とか……≠フあたりで、ちょっとトーンダウン。それ以外は抗議の早口でまくし立てられた。
「オマエさ、友達に、会話中いきなりそんなことされたら嬉しい?」 
「…………」
 会話がぷっつりと途切れた。霧音の息遣い一つさえ伝わってこない。無言。僕も問いかけたものの、彼女から回答が返ってこないので、ひたすら無言のまま待つ。すると焦ったように――
「でもねでもね! 嘘じゃないよ! 寂しかったのはほんとだよ! だって村上、一週間も電話くれないんだもん」
 弁解の声。ん……会話がとんだ? それに、これと似たようなやり取りどこかでやった気もする。寂しかった=\―どこかで同じ台詞を聞いた気もするけれど――思い出せない。寝起きで思考が正常に作動していないのだろうか。掠れる目を擦る。ふあ、と大きな欠伸を一つ入れると、テレビの電源を入れた。ロンドンブーツの赤い方が心底楽しそうにメール送信している姿を横目で見やりながら、再度「何が嘘で何が本当なんてのはどうでもいい。電話したからには理由があるんだろ。話せよ」と投げやりに聞き返す。これだけ会話を引きずったのだから、どうせ急を要する情報ではないだろう。受信口の向こうで霧音が何か言おうとして口ごもる気配があったが、それは唾と一緒に飲み込んだようだ。
 耳元で、ゴクンと喉が鳴る音がした。
「あー……知らないんだね。情報遅いなー。てかね、そろそろミヤコのお世話になった方がいいんじゃない? って忠告してあげようと思っただけなんだよね」
 宮古島のところに行け、か。探偵役は大事だからな。忠告は有難い。が――
「それは今日、行ってきたばかりだ」
「え――そうなの? ミヤコ、何て言ってた?」
 意外そうに、やや高い声のトーンで聞き返してくる霧音。
「僕一人でも解決できるとか云々」
「ふーん……」
 霧音が、興味があるのかないのか――何かを含むような呟きを漏らす。その後に、再び沈黙の帳は落ちた。今日は彼女との会話が良く途切れる日だ。そして、彼女との会話がいつもより、長く続いている。もしかしたら、記録――友人関係を記録といった類の、数字で計測することができるなら、の話だが今回の彼女との会話はあの日∴ネ来となる濃密な時間に支配されている――のかもしれない。
 テレビの光が明滅し、まるで宇宙船の中に閉じ込められた様な重苦しさをたたえる僕の部屋のカーテンが、風によってそっと煽られ、裾から夜空が覗く。そこには、この現実が染みだらけの黒でゆっくりと押し潰されていくさまを見守る星たちが、満天の輝きを放っていた。
「あのさ……村上にとって酷かもしれないけどさ」
「うん」
 心なしか沈んだ霧音の、触れれば折れてしまいそうな声が、僕の鼓膜に透き通る。
「それは無理じゃないかな、とわたしは思うんだよね」
 僕も、そう思うがゆえに、同意した。
「……だよな」
「そうだよ、だって今回のも――食い止められなかったじゃない」
 ――今回の――?
「それは……」
 何の事だ? ……と問おうとして、はたと気づく。気付いたその一瞬で、掌は汗でべっとりと濡れていた。リモコンを掴み、震える指先でチャンネルを滑らせていく。切り替わる時間がもどかしかった。やっとお目当てのニュース番組にたどり着くと、専門家と討論する見知った顔のニュースキャスター。
 見出しが画面の隅、申し訳程度に載っている。
 連続自殺未遂、五件目にして遂に死者発生!!
 冗談のように悪意に塗れたテロップ。
「……あー」
 意図せず、口を割る呻き。煌々と――そのテロップが網膜に焼きつき、胃液がこみ上げる。黒く、脳から舞い降りる、汚染された負の感情。人はそれを――憎しみ、と表現するかもしれない。そして、それは本来、僕自身に向けられるべきものでであるはずなのだが、僕は、宮古島の色素の薄い笑みを思い浮かべていた。
 僕に事件が解決できるだって? そう、信じたなら宮古島はただの阿呆で――宮古島は阿呆を装うことはあるが、阿呆ではない。アイツは恐らく――事件の焦点を絞りやすくするために――様子を見やがった。僕に探偵役を任せるなどとうそぶき、僕がさらに誰かを死なせるまで、僕を泳がせやがった。
 最低だ――性根からして腐ってやがる。
 でも、本当に最低なのは――僕の方で。僕は僕自身を、そう罵ってやるべきなのだ。僕は人を死なせることしかできない。今さら解決したって、救われない人間は既に、大勢生まれてしまった。そして、これからも、生まれていく。
「もしもし、もしもし?」
 霧音が僕に呼びかける。その声は、現実とは乖離した場所から発せられているようで、妙に遠く聞こえた。

 6、9、12、15――三日ごとに起こっていた自殺だが、この日初めて法則が壊れる。死亡に至った自殺者は、僕が通う学園の生徒だったが――自殺未遂、ではなく今回は――死亡。そして、日付は17日PM10:30――すなわち、今日。

7−T

「大勢によって造られた既成概念から抜け出せない人間は世の中にたくさん居る。村上がその内の一人であったとしても全然不思議じゃないし、気に病むこともない」
 宮古島は誰が死のうが、何人死のうが平気の平左。彼にとって、五件目にして死者を孕んだ連続自殺未遂――既に未遂ではなくなったが――事件は、僕が霧音と一緒に病院を訪れた事実にすら劣るのだから、開いた口が塞がらない。文句を言っても恐らく詭弁ではぐらかされてしまうのだろう。
「日本全土に置いて人が死ぬ確率よりも、村上と霧音のツーショットの方が珍しいよ。前者は三十秒に一回程度、頻発するよしなごとだけれど、村上と霧音が二人仲良く並んで見舞いの花束を持ってくる姿なんて三十秒に一回も見れないからね」 
 などと言って。
 ほどよく空調の効いた病室から窓の外を眺めると、鬱陶しいぐらい快晴の空が広がっていた。窓から遠くに地平線の如く広がる街が見える。あれ僕らが住んでいる街。そしてここは、六階にある特別病棟の入院患者に割り当てられる個室。宮古島の巣とも言える場所。彼は、僕と出会ってからの三年間、ずっと入院生活を続けている。上半分が六十度に傾けられたベッドにその身を預ける宮古島の隣で、たっぷりと水を満たした花瓶に切花の水仙を生ける霧音。僕は、病室に備え付けられているパイプ椅子に座って、宮古島に頭を下げていた。
「なぁ、僕がどんな人間であろうが――お前が言うように僕が既存概念から抜け出せない類の人間だったとしても、そんなこと全然知ったこっちゃ無い。今、大事なのは、終わらせないと勝手に進行していく事件を解決に導くことだ。早く終わらせないと――次もまた死ぬ。ここから、加速の一途をたどる予感がする。僕は――そんな事態だけは、絶対に避けたい」
「ふぅん……そう」
 下げた頭の上から、気の無い返事が降ってくる。
「人が死ぬのは性質上、当然の事だし、僕としては間引いた方が良いと思うんだよね。最近馬鹿な未成年を馬鹿にする、これまた馬鹿な大人も増えてきてることだし。互いの関係を一度見直す意味も込めて、今回の自殺未遂事件、一過性のシンドロームとして見守ってみるっていうのはどうかな――と僕は思ってみたりもするんだよねぇ」
 瞳を掛けられたシーツと同じ白さで透き通らせながら宮古島は、悪意無く言い放つ。
「いい加減にしろよ、宮古島――」
 僕はギリ、と奥歯を噛み締めると宮古島の患者衣の胸倉を掴んだ。
「おまえは――」
 胃の底から自分でさえ真意の掴めない黒い怒りが突く。
「おまえは――それで良いって言うのか、なあ? 自分の周囲に居る人間からじわじわくたばっていくのを指を咥えてじっとしていれば良いっていうのかよ?」
 宮古島の瞳を見据える。宮古島の瞳は、白からじわじわと灰色に色を変化させ、やがて黒に定着した。僕の――瞳の色だ。宮古島の冷たい掌が、胸倉を掴む僕の手首にかかる。余りの冷たさに、その部位に鳥肌がたった。
「僕はね――村上。現実世界で生きる人間には綺麗事なんて適応でき無いと考えているから、村上を責めたりはしないけれど――僕はね、以前から彼らに、一つ聞いてみたいことがあったんだ」
「……何だよ。またオマエお得意の詭弁か?」
 胸倉を掴む手を緩めず、ぶっきらぼうに言う。
「詭弁か……そうだ、まだ君や――君を含めた彼らはそこに居る=B観念は観念によって支配され、実在の物質によって支配されているわけではないのに――根拠や、理由を求める……か。やっぱり、やめておくよ。聞きたいのは山々だけれど、出来るなら、聞きたくないし――聞かずに済めば、君達の心を悪戯に惑わせることもない」 
「ああ?」
 僕は僅か、胸倉を締め上げていた手を緩めると、スッと宮古島は逃れる。皺になったシャツの胸元をポンポンと払い、そして、僕の横に立つ霧音の方に向き直った。
「霧音――折角見舞いに来てもらって悪いんだけど、ちょっとだけ、外に出ておいてくれないかな?」
 と明るく笑みを浮かべる。
 霧音は、心配そうに僕らの顔を交互に見やっていたが、僕がうなずくとその場に渦巻く他者を許容しない――否――拒絶するような雰囲気を悟ったのか無言のまま背を向け、音も立てずに病室のスライドドアがら姿を消した。二人だけに、なる。僕はそのタイミングを見計らって、二人きりになることを提案した宮古島よりも先に口を開く。
「僕は、昨日から――いや、ずっと昔から考えていた。僕は、やっぱりおまえが嫌いだ。何を考えてるのか正体不明で、言ってる内容も全然理解できない」
「他人が連ねる言葉なんて理解しないに越した事は無い。真実なんてものは自分自身で積んだ経験、自分自身で練り上げた思考のみでしか語れない。人が自らの手で完成させた理論を言語化して他人に手渡した時点でそれは他人にとって、自分にとってさえも真実ではなくなる。例えば、村上が重力に束縛されているという事実は、村上自身が身を持って知っているから真実にはなりうるだろうけど、その重力を発しているのは地球自身だという常識≠、村上は知っているだけで、本当に地球が重力を発生させているのかどうかを村上という存在は知らない――あの雲が、どこからやってきたのかを誰もが知らないようにね」
 前髪をいじりながら、遠い目で空を眺める宮古島の横顔を睨む。ペースに巻き込まれないように、間合いを計る。
「全然関係無いだろ、そんな事」
「いいや。それが、実在や観念とは相反しながらも互いに干渉しあうものでね――一見、関係なさそうに見えても、実はその裏で密接に繋がっていたりする。ときに村上――君は自分が居るだけで事件が発生し、君の周りの人間が大した抵抗もできずに大勢くたばっていくという事実を、君自身≠ェその眼で確認したのかい?」
「確認する=H 何を言ってる。 確認せずとも、それは常に僕の周りで幾度となく繰り返されてきた約束事=\―呪い≠ンたいなもんだ。だから、当然の如く、一番いやというほど思い知っているのは僕だ。確認すべくもない。そいつは理解さえ及びつかない決定的な異質さを備えた僕の習性だ。幾ら忌まわしく思おうとも、自分で自分のそれを抑制しようが無い。だから、僕は必死で僕自身の咎を償うために事件の侵攻を阻止しようとしている」
「それは――どこまでが本当?」
「全てが真実だ。重力に束縛されている事実と同等に位置する、現実だ」
「そう……じゃあ、聞くけど――村上は僕と初めて遭遇したあの日≠ノは――確か、君は自分自身を最悪な存在だと捕らえていなかったよね? なら、三年前のあの日=Aどうして君は僕と同じ場所に立っていて――そして、君の周りには誰も居なかったんだ?」
 ――。
 ――?
 宮古島は――何を言っている。
「記憶はね、個人差こそあるものの本質的には不変だ。すなわち、記憶によって、己に内在する過去はすでに固定されていて――未来を形作るための要素にしか成りえない。さっきの問いが漠然としていて答えられないのなら、改めて問い直そう。村上はあの日*lに最悪な奴だと言われて初めて、自分の存在が周囲の人間を殺していることに気づいたのでは無く、僕と屋上で遭遇する前からその事実を知っていたんだよね?」
 ――僕は、知っていた? 僕が、僕の存在が人を殺してしまうということを? あの宮古島と初めて遭遇した日から?
「――い、いや、ち、違う、ちょ、ちょっと待て、そんな――そんな僕を――僕は――」
 焦る。焦る。焦りに苛まれる。全身から脂汗が噴出す。僕はこみ上げる胃液を噛み殺しながら、自分自身に必死で呼びかける。思い出せ。思い出せ。思い出せ。
 十五歳。僕を救おうとしてくれた教師が死んだ。その教師と一緒に大勢のクラスメイトが死んだ。何人かが生き残った。
 十四歳。僕を愛してくれた女の子が殺されかけて生き残った。だが、その娘の両親や友達はまとめて殺された。
 十三歳。僕の傍に居た大切な誰かが殺された。その人以外にも誰か、大勢が死んだ。僕はその年の暮れに、宮古島ミヤコという少年に出会った。
 十二歳―――――――。
 十一歳――――。
 十歳――。
「あ……れ……?」
 どうして、それ以前の記憶が無い。
空  白  だ  空  白  だ  空  白  だ  空  白  だ                          












い。

 プツリと僕の歴史を司る糸は切れていて、十二歳以前の僕に辿り着けずに、僕は背筋に戦慄が走る。僕は、十二歳以前、一体何処に居て、何をしていた。そして――誰かを――死なせていたのか?
「村上は身を持って自分自身の存在を最悪だと知っている、としよう。だとすれば、居るだけで無差別に他人を殺せてしまうような存在だと、自分自身でその事実に到達した時代が必然的に在って然るべきで――その観念により、君がそれを真実だと捉えたのなら、それはまごう事なき君だけの真実≠セ。そんなものには、誰も触れないし、変えようがない。だが――僕に最低≠セと定義されて初めて、君が自分の真実に気づいたのだとしたら――」
 宮古島が静かに、目蓋を閉じる。
「それはただの思い込み≠ノしか過ぎない」
 僕は心臓の動悸で呼吸という行為が苦しくなる。胸を掻きむしりながら、喉を笛のように鳴らす。おかしい。こんなのは間違っている――十二歳以前の僕は一体何処に行った。救いを求めるように、宮古島を見上げると、宮古島の瞳は濁った赤色に染まっていた。
「あはは。今回の矛盾は、君にとってちょっと決定的すぎたかな?」 
 その赤色は、見たことがある。薄皮に覆われた皮膚を、毛細血管が赤く染めた色。宮古島が目蓋の裏側に広がる世界の色になっている。そして、その――血と肌になった宮古島が、ゆっくりと唇を嘗め回して湿らせると、僕の肩に手を回して、そっと耳元で囁いた。
「ねえ、村上。君は真実を知っていたんだろう? なら、どうして一度でも――」
 じくじくと脳が疼く。身体中が軋軋鳴り、僕は一つの生命体として、剥き身にされ焦がされる。
「――死のうと思わなかったんだい?」
 ガシャン――と。見も毛もよだつような騒音が、脳の中心から発生し
「うるさい!」
 無意識に振り上げた拳が、宮古島の頬を殴りつけていた。宮古島は数歩後ずさってよろめきながらも、にやにやと笑みを絶やさない。

ほ う ら 。 そ う や っ て き み は す ぐ に こ わ れ る

 脳内に響く声。その一言を機に、僕の身体は僕以外何かに憑かれたようにびくん、と歪に跳ねる。感覚は――既に喪失していた。四肢の自由などまるできかず、遠くから映画のスクリーンを眺めているようなシーンが繰り広げられていく。いつの間にか、掌に握っていた銀色の果物ナイフが、日差しに擦られて鈍く輝いていた。
 ――君が、一体何が殺せたというんだ? 
 ――それは思い上がりじゃないのか?
 宮古島の声が、ぶよぶよとした鈍い空気で隔てられた遠い遠い世界でポツリと落ちた。
 僕の世界は、一旦そこで、完全に決壊した。



【404 Error】
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7–U

 いつもより、雲が流れる速度が早い。夏の湿った南風は、その身を潜め、秋の気配が濃厚に漂い始めていた。放課後、僕は、学園最寄り駅構内のざわめきにまぎれて佇んでいた。今朝、登校時に乗っていた自転車が、鍵のかけ忘れにより盗難の憂き目に合ったのだ。我ながら抜けているとは思うが、過ぎてしまったことは仕方が無い。帰り道で新調することも考えたが――今日は、何となく億劫だった。精神に薄い皮膜がかかっているようで、瞼が重たい。意識しない部分で、疲労が溜まっているようだ。こんな日は、早く帰って惰眠をむさぼるに限る――と、まぁ――占い師♀テ木聖子に捕まったのは、そんな時だった。
 良い具合に僕は、気を抜いていたし、掃除当番の任をサボタージュせず全うしたため他の生徒よりは若干帰宅時間が遅い。学園では一角の人物である彼女が目立たずに、僕に接触するには、丁度のタイミングだったといえる。とはいえ――さすがは占い師≠ニいったところか。幾つかの不確定要素を経て、現時点、僕はここに立っているはずなのに――彼女は僕の居場所を的確に予測して居合わせた。
 ちなみに、僕は学園を出たときから、駅構内に至るまで気を抜いていたつもりはない。普通の人間に――彼女を普通の人間の埒内におさめるのはいささか間違っている気もするが――尾行されていたなら、おそらく百パーセント察していただろう。僕が根源であることを明確に理解している者は少ないが――それは裏返せば、僕が根源であることを知っている者も居る、ということだ。
 果たして、その中の何人が僕に殺意を抱かずにいられるだろうか。
「ったく、話したいことがあるなら学校で言えばいいだろうに」
 音も無く、横に伸びる影に視線も向けずに文句を言う。影は、低い太陽の斜陽を浴び、長く、線路をまたいでのびていた。
「村上は学園から孤立しているから。生徒の前で声をかけるとどうしても目立ってしまうでしょう?」
 成る程。建前にしては立派な理由だ。
「オマエも霧音と同じ助言を僕にするつもりか? それなら生憎間に合ってる」
「そう邪険に扱わないで下さい。私は助言――というよりも、今日は回答の一つ≠教えて差し上げに参ったのですから」
 その発言に驚いたわけではないが――僕は聖子の方へ振り向いた。きちんと着こなした制服に、腰元まである墨を零したような美しい黒髪を垂らし、切れ長の瞳には常に憂鬱を湛えている少女が、プラットホームで電車を待つ僕の背後に立つ。気障な言い方をするならば、それは幻想的だった。夢の入り口に差し掛かった気分だ。世界の中心が、まるで駅構内の、停止線一歩手前から始まっているかのような錯覚を覚えるが――僕は、目を閉じて、開いた時にはもう、その幻想を打ち消していた。少女を視界から外す。線路を挟んだ向こう岸に、夕陽が沈んでいた。左端に僕の通う学園、右端には宮古島が入院している総合医療センターが深い影を落としているのが見える。
 聖子の言う――回答の一つとは、彼女の役割を考えるならば、つまりこれから起こりうる可能性――選択肢の一つとして抑えておくべき事柄――。探偵役にしてみれば願っても無い、それこそ密室トリック解決に至る道のきざはしを掴む程度には、重大な助言を彼女は僕にくれようとしているが――
「……興味ないね」
 冷めた僕の物言い。生憎、僕は聖子を信用していなかったし――そもそも地に足のつかないあやふやさを許容する占いや予言といった類の話が嫌いだった。云ってみれば、そんなもの、過去から未来へ売り渡される後遺症のようなものではないか。人としての可能性を、そんなものに左右されるのはゴメンだった。そんな僕の発言を受けて――聖子はまったく、と薄いため息を漏らした。彼女の影が僕の足元でゆれ、何をする気だろうと眺めていると、彼女は線路を背にして僕の目の前に立ちはだかった。
 腰に当てた手を当てて、女教師のように凛とした姿勢で講釈を垂れる。
「村上、あなたは預言者≠フ存在を相当、胡乱げだと評価しているようですが、言わせて貰えば、預言者なんて曖昧な存在を生み出し、許せてしまう人間の存在自体が余程胡散臭いと言うものです」
 ふん――云うことに事欠いてこの女は――
「それは――とても酷い矛盾だな」
 鶏が先か卵が先か――その思考ループを生み出した人間の思考自体を疑うなんてのは、天秤で、天秤自体の重さを量ろうと試みるようなものだ。馬鹿げてる。構内のアナウンスが、キーンと耳を劈くような金属音を交えながら列車の到着予告を告げる。注意をうながすアラームが、ひといきれによってもたらされる雑音を押し流すさざなみのように響き渡る。そして――その最中にあっても、聖子の凛とした声は一欠けも失われること無く、僕の耳にしっかりと届いていた。
「そうですね。村上の言うとおりです。ですが、私達は元より、そう受け止められることを恐れてはいません。むしろ、そう取ってもらって構いませんし――多面性を持つ、人の一面においてそれは正しくその通りです。人が人である限り、人は人を否定できない。その事実を否定すると言うこと自体が既に矛盾を内包をする要素を備えていますから――今日、村上に話しておきたいことも、大体そういう属性に与する信憑性の薄い与太話――だとしても村上には」
 そこで、一旦言葉を区切ると、理知的に眼鏡の鍔を上げる聖子。一陣の風とともに、列車が流動性の壁と化し、ホームに滑り込んできた。その風が、彼女の黒髪を絡めとり、重力を感じさせない軽さで翻らせる。やがて列車が停止すると、髪は元通りの場所に寸分も違わず落ち着いた。
「わかってる……」
 あえて諭されずとも。僕には、必要なのだ。治療をしない病人がどこに居るだろう。それが致命的で、気休めでしかなかったとしても、己の意志一つで否定できる事柄であったとしても、無条件に受け入れなければならないことも、ある。僕の言葉を最後に打ち切られた会話を持て余したまま、列車に乗り込むと、ガラガラの車両に苦もなく向かい合わせで空いている、連結口横の座席を発見し、腰を落ち着ける。互いの表情すら打ち消すほど、黄昏の光で満たされた窓の傍らで向かい合って――
「で――さっきの話の続きだけれど――与太話と評されるような話を聞いて役に立つのか――いや――それよりもまず、それを僕に話すメリットはなんだ」
 本心を見抜こうと、聖子の瞳を捕えることを試みる。が――
「預言者はいつだって気紛れなのです」
 彼女はあらかじめ僕の問いを予想していかのように、迷い無く言い切り、瞳を僕の視線上から切った。余りにも――歯切れがよすぎる。心地、頭をもたげる不信感――だが、僕はそれを無視して押さえつける。まだ、この時点で探るのは無意味だ。話は始まっていないのだから――もし、それが途中で引き返すことを許さない話であったとしても――死人まで生んでおいて、今更引き返すも引き返さないもないだろう。大体、彼女も僕に裏を探られるのは予想済みだろうし、裏を探りながら話さない人間の方が少ないのだ。誰もが、相手の言葉の裏に、何らかの意思を汲み取ろうとする。その言葉が空っぽであったとしても。なんて、面倒くさい時代だ。僕は大きく息を吸った。
「で、何を話したいのかな?」
 大きく息を吐き出す。
「話す前に、まず質問に答えてもらいましょう」
「問いに問いで返すのか? 感心しないな」
 おそらく話をスムーズに展開するための彼女の話法なのだろうが、敢えて茶々を入れておく。会話はキャッチボールだ。リズムが良いと心地よく相手の飲み込まれてしまう。あくまで決定権は、僕が保持していなければならない。
「他人から情報を得る場合は、なんらかの代償が必要なのは当然――」
「――押し売りだとしても?」
 彼女の言葉を途中でぶつ切りにする。我ながら無粋だが――ここまでの形振り構わなさは、必要だろう。必要だろうと思うことで許容する。彼女は、喋りかけていた口をゆっくりと閉じ、見下すような、邪な笑みをその口元に浮かべた。
「押し売り――ですか。情報を取捨選択できる立場に無い村上がそれを言うのは、滑稽以外の何者でもありませんね」 
「…………」
 反論しようとして――言葉に詰まる。詰まって――それでも何か言い返そうとしたが、詰まった時点で、僕は核心を掠られたのと同じだった。
「オーケー。分かった。先に、君の問いに答えよう」
 ハンズアップして肩の力を抜く。負けを認める。聖子は満足したようにうなずくと、制服のポケットから、一掴みタロットを取り出し、手元でパラパラと繰り始めた。シャッフル音と、列車が継ぎ目を踏み抜く音だけが淡々と響く。夕日の赤に染められた世界は、窓の外の景色さえ見なければ、永遠に停止しているかのようだった。
「村上は、人ありき――その存在の不確定さは一体何のさじ加減によるものだと、考えますか?」
 存在の不確定さをつかさどる根拠ないし要因――についての問い、か。そんなもの、どこにでもありえる。現に僕が、いつもとは違うルートを選択し、こうして甘木聖子と列車での帰路を選択しているのが良い例だ。概ね回答すべき正答の予想はついたが、僕は、彼女の漠然とした問いの焦点を絞るために、問い直す。
「……さじ加減、とは?」
「人が不確定な理由――砕いて言うならば、人の行動の気まぐれ、ランダム加減を図る根源は一体何ですか? という質問です」
 それは、人が人として存在可能な理由を聞いているのと同じだ。思考や知識、経験それらの全てを統合して一つに束ねて出力するもの――それは行動に基づく因果によってもたらされ、表層的な位置から深層へと影響を与える――もっと過剰に述べるのなら、精神そのものに支配を与えるもの。
「……情動や感情?」
「近いですね」
そっけなく言い切る聖子。僕はこれに少し面食らう。
近い? 僕はこれで正解だと確信したが――
「――それは仏教用語とか哲学言語じゃなくて、もっと俗っぽいものなのか?」
 静かに、こくり、と頷くと聖子は制服スカートのしわを伸ばすように手で押さえつけてから、腰を落ち着けなおした。長期戦の構えだろうか。真正面から、眼鏡の奥に潜む、曇った視線で僕に答えを促す。
「迷い……とか……? ああ、でもそれは出題内容の気まぐれとほぼ同義だな……ううん……分かるような気はするけど――こういう感覚は、もどかしいな」
「そうですね。ヒントを差し上げるとすれば――それは、明確であり、仔細詳らかでありながらも、因子の飛散を咎められることもなく、一冊の本にさえ纏め切れないものでしょうし、それを纏めようと試みる者は居ないでしょう。その根源は気まぐれやランダム加減、ひいては人間の不確定さ以外のファジーをも包括し、区別、区分けさえしなければ、手に余るほどに巨大な要素ですから」
「巨大――か。存在の細分化に零落していく世界に巨大な統合要素なんてありえるのか? ……なんて考えてたら一生思いつかなさそうだな、ギブアップだ」
 本日、二度目の敗北宣言。
「答えは簡単だったんですけれど、ね」
 ぱらぱらぱら、とタロットをめくる音がぴたりと止む。継ぎ目を踏む音だけが露になる。聖子は、たっぷり一呼吸置いてから、
「人間の存在の不確定さ――それは弱さ≠根源に据えているのです」
 と、沈んだ声で告げた。弱さ……か。弱さ、ね。それは確かにそうだが――
「強い人間だって迷う時があるかもしれない。どれだけ精神が強靭だとしても、人は揺らぎ、己の意志を完全に制御する術など持たない。強さなど、時間軸に置ける未来の展望のなさにはいとも簡単に駆逐される」
 折れない枝がありはしない様に。だが、聖子はその程度の反論なら既に予想済みだったのか
「人間は強くないから迷うのです」
 一刀の下に切り伏せる。そいつは、宮古島並みの詭弁だ、と文句を言おうとする前に、息も付かせぬタイミングで聖子は語り始めた。占い師≠ニ呼ばれるだけあって、なかなか会話術にも長けている。それとも先ほど、僕が会話の流れを分断したことに対する、意趣返しの意も込められているかもしれない。
「そもそも、人の強弱の決定付けからして村上は間違っています。村上の識別は、強くも弱くも無い、普通、という状態を存在の基本――デフォルトとして置いているのでしょう? ですが――」
 カードを止めた指先を捻るように弾くと、タロットは手元で扇状に広がった。占い師≠ニいうより、手品師≠ノちかい手業だ。
「――人は弱くて当たり前なのです。言い換えるならば、人は弱くなければその存在を現世に許容されない。なぜなら――」
 広げられたカード扇の先端を飛び石気味に、指を滑らせながら一枚のカードを抜き出し、僕の前に差し出す。そこには逆位置の鎌をもたげた死神≠ェ、描かれていた。
「このカードは私から見れば崩壊を意味し、村上から見れば再生の意味になるでしょう。人にはこうした、常に生死が背中合わせの運命が付きまとい続けます。片方だけで、永遠に存在するなどありえない――生を育まねば死は生まれず、死を待たねば生を歩むことは叶いません」
 役目を果たし終えた、カードが裏返され――不吉を示す死神は消える。閉じられた運命だけが彼女の手元に残り、それもやがては、他の雑多な運命に混ぜられ飲み込まれていった。
「人は人としてこの世に存在した時点から、最終的に、そして絶対的に死ぬことしかできません。産まれる以前の人間は、人間としての定義を保つための意識が無く、人間という人格フレームは無の状態からこの世に貸与する形で具象化されますが、死に逝く事象に置いて人は、必ず人としての人格を携えたまま、この世から消滅し――貸与されていたフレームを土に還します。百パーセントの確立で消滅し再生の訪れない人となりを形成する人格の存在価値を果たして――強い≠ニ定義できますか?」
「……誰かさんも同じことを言ってたかな。死の運命からは逃れられない、だとかなんとか」
 遠い昔のことのように覚える。ページを捲らなければ辿り着けないような――遠く。つい最近にも、村上から同じ話を聞いたが――僕はそれ以前にも、同じ内容――それは趣を異にするが少女から聞いている――

 二年前、茹だるような真夏。僕によって引き起こされた事件。大勢の人が死に、少女の周りを取り囲んでいた人間も洗いざらいこの世から消滅――文字通り、密閉された空間を焼失させる紅蓮の炎により消滅してしまった。仏教僧侶による、救済とは名ばかりの地獄絵図が実行され、信仰が狂気を越えた狂信の夜は訪れた。静謐と湛えられた、湖畔に面する湖のような闇を劈き、かがり火がマグマのように星空を煮え立たせる。密閉空間が、炎による熱膨張に耐え切れずボロボロと崩れ落ちた、そのつま先から阿鼻叫喚が漏れだす。蒸し焼き。焼身。痛覚の最大級。そして――少女は、それを見ていた。濁った瞳を、暴虐の紅で彩られながら。全てが溶け落ちていく。記憶も、絆も、大切なものから、一つずつ灰に成り下がる。最早、それに愛情は抱けない。
 僕は彼女だけしか救えなかった。救うのは誰でも良かった。一人だけしか選べないのなら、一番未来が残されているものが選ばれるべきだと、そういった理由から僕は彼女を選択しただけだった。一番未来が残されているということは――それより辿る道先で最も長く苦しみを味あわなければならない、ということを失念していた。その季節から、唐突に始まった絆。関係。少女にはその糸が、炎と同じ紅色に見えたのだろうか。少女は僕の傍を離れようとしなくなった。罪の重さを常に視認できる状況――それは生殺しでしかない。真綿で首を絞められているようなものだ。いっそ、恨まれ、憎まれ、謗られ、罵られ、その果てに――彼女の痛みを一身に贖うことのできる死が、待っていれば良いと僕は思っていた。願ってすらいた。だが――少女は、そうしなかった。手渡し、握らせたナイフは、少女の震える小さな掌から零れ、音も立てずに、白い砂浜に突き刺さり墓標と化す。彼女の行き場をなくした感情を弔うように、その身に潮風を浴びた銀のナイフは、次第にその身を朽ちさせていった。
『大丈夫。わたしは大丈夫。村上は、きっと寂しいだけなんだよ。たとえ心無い馬鹿な誰かが、村上の事を罵ったとしても、私が抱き締めていてあげる。絶対に離さないから、村上は好きなようにすればいいよ』
 暑く、意識すら混濁してしまいそうに容赦なく、太陽が燦然と輝く日。彼女は、浜辺で友人と両親の亡骸が入り混じった小さな灰の山を、寄せては返す白波に両手で掲げて、風に晒しながら、儚く透き通るように笑った。
『誰だって死ぬの。それが早いか、遅いか――それだけで――あとは誰かの記憶になって終わり。その記憶も、時間の流れが早いせいで、直ぐにうつろってしまう。ほんとう、人って――人の魂って脆くて、儚くて――悲しいね』
 疲れた笑みで、泣きはらした赤い瞳で。彼女は僕に振り返る。そっと僕の無防備な胸板に手が置かれ――彼女の掌にナイフが納まっていたのなら、僕は――そう夢想したが、汗でしっとりと張り付いたシャツ越しに感じたのは彼女の掌の柔らかな感触だけだった。心臓越しに添えられた彼女の気配に、温もりに心が疼いた。ビリビリと、全身に甘く、仄かに痛む痺れが走る。
 こういう居た堪れなさを何と言うのだったか――
 
 ――もう――思い出せない。
「弱さ≠ヘ人の必要最低条件なのです。無と有、死と生の間を肉体と精神で繋ぎとめる曖昧さ、それが不確定さ、となるわけです――。つまり事象を確定させるためには強さ≠ェ必要で在り、自殺にも何らかの他者性が――村上、聞いてますか?」
 流れる車窓を見送る僕に、訝しがるように声をかける聖子。
「……聞いてるよ」
 億劫。自然、唇が重くなる。いつだって――そうだ。人は弱いが故に、死を恐れる。だからこそ、完成された個人による死など在りえない。他殺にしろ、自殺にしろ、何らかの他者性が関わっている。僕はその他者性を直接的な死に結びつけるための触媒だ。触媒であるからこそ――僕と長く触れれば、触れるほど、死を与えられる者、死を与える者――そのどちらかに、変質する確率が跳ね上がる。自分の周りで人が殺されていく――ということは、僕に共通点があるということで――殺した人間も、僕と何らかの係わり合いを持つ人間である可能性が高い――と。そういうことだ。どうして、今まで気付かなかったのか――忘れていたのか――? 忘れていたとしたら――なぜ。
 夕焼け空に筆先で伸ばされたような薄雲が伸びている。空に雲が浮かんでいると、自分と空の距離がはっきり遠くなったように感じられ、寂しくなる。やり場の無い、自分自身へ向けられた、冷めた怒りの矛先で゙頬が火照る。僕の愛すべき最低――。生涯、顔を突き合わせていかねばならないのなら、憎むより、愛する道を選んだ方が楽だ、と。初めはそう考えていた。盲目的に、信じていた。信じれていれば、いつかは無条件にそれは自分にとって、真実に摩り替わると。だが――その最悪はいつもと同じ仕草で、僕の傍に居る人間を奪っていく。今回は――今回こそはと、幾度も思い直し、罪悪感を噛み締めながらも、反面、宮古島や聖子、霧音――僕の最悪さ加減を知りながらも未だ傍に居てくれる彼ら自身を巻き込まないで済んでいることに、どこか胸を撫で下ろしていた。
 だとしても――平穏は破られる。わかっていた。いつかは、こんな日も来るのだろう、と。わかってはいたが――やはり、そんなに簡単に受け入れられるものではない、な。結論に至るには十二分に足る条件が手元に投げつけられ、僕はそれを認識してしまっていた。あとはもう――決着をつける機会しか残されていない。
 ――所詮肉だろ。二年前に出遭った消滅の担い手――仏教僧侶と終ぞ同意見には辿り着けず――皆が皆、救われようと群がる現実だからこそ、救いがないんだろうな――一年前に死なせてしまった教師の意見にもそぐえず、僕は未だ、自身のやり場の無のなさに身を焦がされている。地表に影を描く雲が、ちぎれながら、歪に歪み、形成され一つの姿へと帰属していく。光と影で己の体表を彩りながら――。

 兎角イメージに置いてだな、と袈裟に身を包んだ猛々しい体格の仏教僧侶は所在なさげにバチでゴツゴツと畳を鳴らした。
「人の身体を裂傷するって際にゃ、カミソリの方が断然有利なんだけどよ、人の運命を両断するって際には鋏の方が断然有利っぽいと思うんだよな。んで、俺は苦しんでいる人間への救済寄与としては、どうも肉体を壊す方法――直接打撃以外は思いつかねー。でもよ、村上は違う。村上は無意識のうちに肉を斬らせて骨を絶つ。いや骨どころが、ソイツの運命とか生命とかの螺旋を司る中心部分からバッサリいくんだから余計に性質が悪い。俺よりも、だ」
 一旦言葉を区切ると、仏教僧侶はバチを床について凭れ掛かり、豪奢に描かれた天井絵を見上げる。視線の先を追うと花鳥風月、さまざまな生類が描かれていた。
「だから――人を殺す場合に置いて、俺はカミソリだとか包丁だとかそういった刃物を振るい――そして、村上は不可視の鋏を振るう。同じ刃物を使ってるトコは変わらないのに、俺と村上は随分違う」
 刃。鋏。違うのはそれ自身の質ではなく――使用者の意図だ。使用者が選択した使用法によってそれらは、様々な表情を見せる。なぜならどちらも人に扱われるべくして作られた道具なのだから。刃を二枚重ねれば鋏として機能させることも可能だし、鋏を二つに分解すれば二枚の刃として使用することも可能だ。
 鋏で、天高くから垂れ下がった一本の糸を断絶するイメージを思い浮かべた。バツン、と関連性を閉じられ分かたれた二つの線。元は一つの線ではあったが、片方は重力から解き放たれ空へ緩やかに舞い上がっていく。片方は重力にその腕を引かれ地に落ちた。魂、そして肉体。それらを分離させるのが、僕の鋏の役目であるとすれば――目を閉じる。夕暮れは瞼の裏さえも通過して、網膜に赤を焼き付ける。
 さぁ――そろそろ終わろう。終わらせるだけで良い。最後まで僕は持たないかもしれないが――終わらせるぐらいなら、それぐらいならまだ、責任を全うできるぐらいに、余地は残されているだろう。僕は空の上の空に存在する神に祈る。全ての運命をつかさどり、時には法則さえも捻じ曲げる絶対神。想像し、その巨悪さと自分の矮小さとの比較に小さく、身震いをした。



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「喧嘩は駄目だぞっ!」
 宮古島の病室を出るなり、壁に凭れ掛かっていた霧音にビシッと指を突きつけられた。鼻の先に伸びた指先から腕を伝い、彼女の表情へと視線を向ける。そこはかとなく漂う陰りの気配。人気の無い廊下に居ては、耳を澄まさずとも、声は容易に漏れだしてしまう。宮古島はそれを想定していなかったのか、あるいは。だが――彼女の陰りの要因はそれだけでは、ないはずだ。彼女なりに決意を固めたのかもしれない。心配かけて悪かったと謝り、病棟中央ホールのエレベーターへと足早に歩き出す。霧音は、宮古島に別れを告げていないことが気になるのか、僕と病室のドアを何度か見比べていたが、結局は、僕の後についてきた。
 しばし、無言。彼女が、隣に並ぶ。何か言い淀んでいるのは、分かった。自分から言い出して見舞いについてきたせいもあってか、僕らの関係について首を突っ込みづらいのだろう――僕はそう、思うことにした。
「……なんか大声だしてたけど」
 窺うように、斜め下から僕の顔を覗き込む霧音。
「ああ、まぁな」
 僕は彼女に視線を合わせず、首肯する。前だけを見据える。時折、霧音の掌が僕の掌に触れる。指先がゆっくり絡めとられかけたが、僕は自然にその指を離した。僕の横顔に、霧音の視線が注がれる気配。そちらに目はやることはない。
「まぁな……って」
 二つの重なった足音だけが、リノリウムの廊下に響き渡る。誰もいない世界。もし、今、靴音を並べる霧音が消えてしまえば、僕は一人になる。人は孤独に耐え切れない生き物だ。思考する獣は、静的システムに耐え切れる構造をしていない。社会の輪の中にあることを根底においているから――だから、発狂する。そして、その末路は必ずしも不幸と呼べるものではない。僕は、それはそれで幸せなのだろうと思う。現実の軋轢に押しつぶされて正気を破裂させるか、緩やかに喪失への坂道を下るか。創造の裏返し――崩壊の道を辿るものにとって、それは些細な問題だ。
 全てを失うか、自分を消すか。
「オマエが気にすることでも無い。僕と宮古島は元々仲が悪い。それが、図らずも悪化しただけだ」
「うーん……とはいってもねぇ。気になるものは、気になるだよねぇ――長引きそう? 長引くと困らない? 今まで探偵やったこと無い人間が、幾ら探偵役からオマエは探偵ができるんだぞっ! ってお墨付き貰っても、気休め程度にしか聞こえなくない? 協力はどうしたって必要になるから、早めに仲直りした方がいいと、あちしは思ったりなんかしてみたり」
「あー……ま、そうだな」
 頭をかきながら――聖子との会話を思い出す。探偵役――か。弱者が弱者を裁く権利など無い、と聖子は言っていたが――それは例外なく、彼らにも当てはまる。立場上の強者は、絶対的な強者ではない。犯人の悪行を暴くのは探偵の役目だが、それ以上の権利を求めるのは冒涜だ。裁こうが、諭そうが。探偵がどれだけ傍観者であり、罪の裁量を測れる存在であったとしても――感情は、そんなところとは別の次元に質量を有している。だとしても、本当に裁く権利を持ちうるのは被害者の方なのだと、僕はそんな奇麗事に逃れるつもりもない。罪は消せず、償えもしない。悔恨と傷痕と汚濁だけを記憶に残す。過去は不変だ。罰でそれらを消したり、償わせたりするのはもとより不可能なのだ。時は過ぎ、二度と元には戻らない。そうして――記憶と現実のはざまに取り残された者は、一体どういう選択肢を選べばいい――? 社会に紛れて生きようとするなら逸脱できず、逸脱しようとすれば社会から抹殺される。憎悪は、次第に行き場を失って鬱積していく。
 その果てにあるのは――風化か、決壊か。
「元気ないね。やっぱりミヤコと喧嘩したの後悔してるんだ」
「そうでもないさ」
 エレベーターの降下スイッチを押した。下向きの矢印が描かれたボタン。擦り切れて、その絵が掠れかかっている。後悔――その感情も重ねれば、重ねるほど、いつしか磨耗し掠れ鈍っていく。ゆっくりと、ボタンから指を離して腕を下げる。手首を薄い硬質のものが擦れる感触。紙の縁が滑ったような感覚だった。
 やがてエレベータの到着ベルが、静寂が隅々にまで行き渡る入院棟七階に短く鳴り響いた。なんとなしに振り返ってみる――看護士だけでなく、患者の姿ですら見当たらない。ほんとうに――人気の薄い階だ。節電のためか、電灯が切られ、窓からの採光が照明がわりになっていた。薄ぼんやりと白む廊下の奥まで、足元から黒い川が続いている。
「どしたの?」
 霧音に背後から声をかけられる。先にエレベーターに乗り込んでいた。僕は、いや、なんでもと首を振り、彼女の隣に並んで閉のスイッチを押した。切り分けられる世界。人の世界は個室化された空間の連続で完成している。物理上の共有はある得るが、精神上の共有はほとんどありえない。家族という絆の集合体ですら、必ずしも共有されたそれを持ち合わせているわけではないのだ。事実上、それは人口の数とほぼ同数の個室が存在しているということだ。さながら、頭蓋に閉じ込められた脳のように。それ自体で行き場は無く、自分の中で世界は展開され、何れ収束し、結末を迎え入れる。存在した瞬間から――初めから、墓場の下で生涯を終える。何れ、そんな日もくるのだろう。
 階数ボタンを押そうとして、僕は霧音と二人きりになった――誰の手も及ばないこの空間だからこそ、その個室が崩れ去るのを躊躇っていた。収束。砂時計の砂が、ろうとの口に飲み込まれ、最後の一粒がいつまでたっても落ちきらないイメージ。押そうとして、押さずにそのままの姿勢を維持する僕の手を見て、霧音があっ、と小さく奇妙な声をあげた。眉根を寄せて、僕の手首を指差している。
「その怪我――どうしたの?」
 右手首を裏返すように捻る。手首の皮膚上に、一直線に血液が滲み、溢れていた。ポケットを抑えて拭くものを探したが、ハンカチやらティッシュやら――そんな気の利いたものを持ち合わせていなかったため、垂れ落ちる前に左手の親指で拭う。ぴりっ、と電気が走るような感触と共に傷が露になった。覗いた傷跡は、出血量から予想できる通り何の事は無い、薄皮が一枚切れているだけの大した傷では無かった。見ようによってはリストカットに見えなくも無い。自殺の失敗作。
 笑える。それは――真実の意味でも、失敗を示していたのだろうから。隣で、霧音が、肩に下げたトートバックをガサゴソやりはじめた。横滑りの視線でそれを観察しながら一階のボタンを押すのと、同時に霧音があった、と嬉しそうな声を上げた。
「ね、さっきの傷のトコ、出して」
「なんだよ」 
と言いながらも律儀に手首を差し出すと、ペタリと張り付く感触。そこには、保護色の市販より少し大きめ、正方形に近い形をした救急サイズの傷テープが張られていた。
「消毒してないけど――大丈夫だよね。男の子だし」
 少し切った程度で絆創膏も大袈裟だと思ったけれど、礼は言っておくことにした。
「サンキュ」
 これが最後の礼になるかもしれないから。
「ううん、全然」
 柔らかく微笑みながら、首を振る霧音。
「あ! そう言えばお腹が空いてるんだね、あちし」
 とってつけたような台詞を、鼻歌まじりに唄い始める霧音。まるで、子供みたいだ。僕の沈みそうになった感情は、その声によって引き上げられる。浮上した先には、彼女の笑顔があって、それは眩しかった。だから、僕は再度、その光が届かない場所にまで身を埋めていく。水面上にある彼女の笑顔が見えなくなる前に、目を細めて睨んでやると、彼女はあさっての方向を向いて、かすれた口笛を吹いた。些細なコミニュケーションはこれほどまでに簡単なのに――どうして、人が人を理解するのは難しい。
 今の気持ちを悟られないように、疲れた顔で笑う。
「……分かったよ、何か奢ればいいんだろ。食堂でなんか食わせてやるよ」
「えーしょくどー? ムードないなー。ムードないのきんしー」
 不平をあげられる。あまりにも所作が自然すぎて眩暈がしそうだった。彼女はそこまで――至ったのだ。遂に。
「絆創膏一枚に恩着せすぎだろ。それに……大体ムードってなんだよ」
「絆創膏一枚じゃないよ。私の愛も込められてるよー。大好き、村上」
 背後に回られ、そっと抱きしめられる。彼女の姿は完全に死角に入った。ここからは、彼女の表情は見えないし、彼女の仕草ですら、気配でしか捉えることは出来ない。だとしても、僕は動かない――何があったとしても。背中にそっと彼女の体温が密着し、胸板に片手が巻きつけられた。淡い抱擁。
「大好きなんだよ、村上」
「……言ってろ」
 ――僕は。
「――僕は、オマエが嫌いだ」
「――そっか」
 落胆した風でもない彼女の声。予定調和、とでも言うのだろうか。どちらが終わるにせよ――僕は、自分を落ち着かせるように、深呼吸した。
「なぁ、霧音。昔オマエが言ってたよな。魂には、カタチがないって。だから壊れない、って。それは多分、まちがってたんだよ。あの時、否定してやればよかったよ、なんて今更だけど――オマエは十分戦ったと思う。終わってもいいんじゃないか?」
「終わっても良い、ね――でもね、村上。終わるためには始まりが必要なんだよ。なのに、私が始まったのは、全部無くした終わりの日から。どうやって――終われば良いの?」
 霧音が僕の心臓に当てた掌に、服の上からぎゅっと力がこもる。それは、自分の心の痛みを抑えようとしているのか。それとも、僕を殺そうとしているのか。ただ、重なった僕らの息が、静かに、個室に積み重なってその質量を増していく。重みはひっそりと臨界点を越えるときを待ち望み――そして
「――もう、無理なんだよ」

world’s end:before

「はっ、はっ、はっ――」
頭が――痛い。これほどまでに痛覚を明確に認識したことは無かった。まるで異物の固まりだ。脳に、焼けた火箸を突っ込んでかき混ぜられているような、灼熱と異物感と吐気を伴った激痛。掌で、滝汗と共に抑えつけた額の奥で、ぐちゅぐちゅと、水っぽい音が響く。頭蓋の中身――柔らかい豆腐程度の固さしか持たぬそれを、ミキサーかドリルかなにかで撹拌され――細切れにされた赤い毛細血管と、ピンク色の半固体がふやけたコーンフレークのように容器にべったりとへばりつく想像。涎が、涙が、鼻水が――体液の流出が止まらない。陸にあげられ、死に逝く魚の気分とはこんなものだろうか。水分を失いつつある脳は乾燥して重みを失い、脳漿に飲み込まれるように溶解していく。やがて膝は体重を支えるだけの力を失い、自重に震えるだけの棒と化す。それは、末端神経――視覚や聴覚や触覚による世界との接合に致命的な障害が及び、肉体が痛覚のみによって支配され、既に破綻が訪れていることの証明。つまり、僕は最後まで持たせることができなかったのだ。感覚器官による接触が、実在に対して崩壊の兆しをみせれば、当然、電気信号もその役目である伝達をはたせず、次第に四肢の先端から自由は失われていく。
 エレベーターの階数表示が、涙でにじみ掠れた視界で変化を告げた。色彩認識は、最も必要としない視覚要素であるのか――光を失う前に世界は色褪せ、今は黒と白で満たされている。ゴシック、モノクロ、無声映画。縦に、細切れのホワイトノイズが走る。そろそろ、光の認識も危ういのかもしれない。視覚がそんなだからか、視覚より優先順位の低い聴覚はさらに酷い状態に陥っていた。体の平衡を司る三半規管にまで影響が及んでいないのは不幸中の幸いといえた。
 やがて僕を乗せたエレベーターの箱は、重力を緩和し、停止する。目的地への到着を示す案内音は得体の知れない不安へと胸を駆り立てる警告音、網膜の裏で点滅するランプは危険信号に感じられた。箱から外界へ体を押し出す前に、表示を確認する。一本線。おそらく、一階だ。降りられる――。震える膝でバランスをとりながら、壁に手を突き、重苦しく開いた鉄製ドアの隙間に、押し付けるように身体を滑り込ませる。だが、麻痺したつま先でのすり足が、エレベーターと、ロビー間のわずかな隙間に取られ、転倒。受身すら満足に取れずに、気付いたときには顔面から地面に激突していた。鼻骨と前頭葉に衝撃。眼底から脊椎を駆け上る火花が散る。激痛の上塗り。身を芋虫のように縮こまらせて呻いた。痛みが引くまで喉の奥から絞りだしたような荒い深呼吸を繰り返す。だが、外部からの衝撃により表皮痛覚が刺激され、その伝導信号に乗じて伝達速度が勢いを取り戻したのか、体がほんの少しだけ自由を取り戻す。痛みをこらえるために、硬く閉じていた瞼を開くと、世界に色彩は取り戻されていた。
 はいつくばって――再起動を拒む体に鞭を打って僕は前へ進む。視界の奥の奥に先細りの光が見える。あれは、きっと病院の出入口だ。多分、そうだ。汗ばんだ手を床に押し付けて、腕だけで這って光を目指す。このまま気絶すればいいではないか、このまま、倒れていればいいではないか。ここは病院だ。誰かに任せてれば良い。僕の本能に取り込まれた理性が、僕の耳に囁きかけるが、それとは違う何かが僕の根源的な何かを突き動かしている。それは――恐怖や焦燥の類。崩壊への抵抗を止め、瓦解を促し、楽になりたい。それでは駄目なのだ。何が駄目なのか――思い出せないでいる。
 ふと、床に濃い影がさした。誰かが、僕の様子に気付いて近づいてきたのだろうか。肘で身体を起こして、影の主を見上げようとする――と、僕の行動に気付いたのか影の主が言葉で制した。
「あ、そのまま。そのままでいいよ、村上。もう――逃げたって意味ないから」
 匍匐前進の姿勢で、床に肘を突いたまま、うつむき加減に息を切らし――逃げる。僕が何から逃げる必要があるというのだ。その脈絡のつかない単語について考察するが、痛みがそれを許さない。影がひょろっと僕を避けて、背後に回りこんだ。足元が見える。黄色い厚底サンダルに華奢な白い足首がはまっていた。
「うっわー。酷いね、こりゃ。いつかやるかなー、やるかなーと思ってたけど、とうとうやっちゃったね」
 呆れたような声。僕が何をしたと――否――僕は何をしたんだ。千切れかけた記憶の連結を試みる。ひっくり返されたパズルのような、記憶のカケラを一つずつ配列していく。薄黄色い蛍光灯。清潔さを保ちながらも拒絶を示す、四方の白い壁。薬品の匂い。白い鉄製のドア。密室。箱。ほの暗い。ここはどこだ。行われたのは。僕。鈍く光を放つ鏡。鏡ではない。あるのは――惨劇。俯瞰認識。僕は、僕を背中から捉えている。開閉口とは逆側の壁に向かって、新しいことを覚えた幼児のように飽きず、何度も何度も腕を上下に振って叩きつけている。再生の速度を落とす。僕の手のひらは――ナイフを握り締めていた。凶悪な赤色。暴力。目の端で視認。4≠フ数字。視界の角度を変える。壁は――壁だと思っていたそれが、生体活動を停止した瞬間。がくがく震えるたびに、赤い液体が間欠泉のように吐き出すそれは、血だまりに足を滑らせ、力なく、腰を地につけた。押しピンのとれたポスター。重力の顕証。光は無い。その入れ物にも、僕の瞳にも。僕はそれの上から覆いかぶさって、片方の手で押さえつけると、魚を三枚に下ろすように真二つに解体する。頭頂。額。鼻梁。口蓋。咽頭。胸骨。鳩尾。腹部。臍。膀胱。性器。上から下まで丁寧に、それでいて力強くナイフで切り分けていく。硬いものと柔らかいものの反動が掌に跳ね返り、破れた水袋の如く溢れ出す体液。ぴしゃり、と。果実を握りつぶした音を立てて、体温よりあたたかい、真冬にシャワーを浴びたような、体の芯から与えられる、心休まる温もりに深い溜息を吐く。海溝から吐き出された感慨の気泡。白く濁ったそれはゆっくりと喫水線上に昇華した。3≠ノ変化した。錆の匂いが、寸分余すところ無く隅々まで密室を埋め尽くしていた。金属性の腐敗臭――唐突に、胃の奥から食道を駆け上がる熱流。喉元を過ぎ、横隔膜を嗚咽で引き上げられた酸性の液体は、床にびちゃびちゃと醜い音を立てて広がった。
「ちょっと……大丈夫? 壊れるまで、まだ時間あるから、しっかりしてよね」
 宮古島の声が、投げつけられる。気遣いを挟む余地の無い、冷徹な声。僕の現状を楽しんでいる風にも聞こえる。口元にまとわりついた体液を拭って、首だけで声の主の方へ振り返る。
 僕は思い出した。

 霧音。

「ナイフで全身を滅多刺し。そんでもって、腑分け。恨みでもあったの?」
 宮古島は肩を竦めると、顎をしゃくって死体を指し示す。そこには、力なく四肢を伸びきらせて座り込む一体の壁があった。僕の壊れかけた視界でも、それは確かめられる。蝉の抜け殻のように、体は表面部でパックリと二つに分かたれていた。恨みなんてない。ただ、彼女は――
「人を殺していたんだ。何人も」
 掠れて自分の耳にすら届かない微かな声。だが、しっかりと宮古島には届いているようで――彼は口元を歪めた。笑みに。
「それは大変だったねぇ。でもそれってさ、村上がやってることと、そんなに変わりないじゃん」
 胸が抉られる様だった。喉の奥から、熱病のように熱い吐息が排泄される。四肢から力が抜けていくのがわかった。心臓の鼓動がやけに耳につく。渇きに焼け付く喉が冷たい水を欲していた。
「違う――僕は、そんなものとは違うんだ。僕は殺したくなんかない。殺すことを目的とし、またそれを過程とする殺人なんて許せない」
 涙が溢れた。彼女と、僕は違う。先天性と後天性。僕は望まずして、先天性を獲得し、彼女は自ら望んで後天性を獲得した。鏡合わせではない。そこには天と地ほども差がある――そう、信じたかった。
「違うも何も……個人の意識、無意識の問題をあげるならお門違いだね。誰にとっても結果が全てだよ。個人の思惑なんて、総意の前には常に無力だよ。それは、善悪や好悪の目盛りでは図れない」
 目を閉じた。宮古島の声だけが体内で反芻される。後は何も聞こえない。この世界は空っぽだった。何も無かった。初めから、世界には――何も無くて。
「人殺しが人を殺すのは、同義的にも倫理的にも錯誤だけれど。人殺しが人殺しを殺すのは、どうなるんだろうねぇ? 村上」
「彼女は、僕を殺すために鍛錬を積んでいた。殺人性を獲得しようと、人を殺せる人ではないものに≠ネるために彼女は研鑽を積んでいたんだ。だから、僕は彼女を止めたかった。でも、彼女は止まらなかった」
「でも、村上は彼女に殺されても良いと思ったんでしょ? なら、なぜ逆に彼女を殺したの?」
 もう、無理なの=\―と彼女は言った。それは継続の放棄か、停止の放棄か。あの時僕は、彼女が人ではいられない、そこまで来てしまったのだと、理解したが――正体は不明だ。僕は、五人を手にかけ、またそれを隠そうとしなかった彼女を人ではないもの≠ニ定義して、殺害した。
「僕はそれを確信しているわけではなかった。というよりも、確信していたかもしれないが、信じたくなかった。彼女は、そうではないと、信じたかった。だから、試したんだ――それで彼女は実行して――失敗した。そのときに諦めるべきだったんだ。諦めれば――他にも道はあったはずだ」
「諦めるべき? 他にも道はある? ……ハッ。村上はいっつも往生際が悪くて、そのうえ頭も悪い。記憶を使いすぎなんだよ。だからすぐ壊れるし。彼女は長い時間かけて憎悪を募らせ続けてきた。コップから水が零れるまで溜め続けてきた。それが、決壊しただけだよ――というよりも、今日という日が来るまでに風化しきらなかった、と言った方が正しいかな」
 一年前に事件があった。彼女の回りの人間が、焼死した。僕の存在のせいで。それと関連付けるならおそらく一回忌≠ナある今日に、僕を殺害する計画を立てたのだろう。一年耐えて、憤怒が憎悪が風化しないなら――原因である僕を殺そうと。
「理想は幻想。村上が世界をどう捉えようが勝手だけど、その腐った乙女みたいな女々しい思考をそろそろやめてくれないか? 吐気がするよ。どこまでいったって、救われない人間は救われない。彼女は誰にも救うことができない境遇に陥った。なら、どんな手を差し伸べようが無意味だよ。それについてだけは、村上が気に病むことは何一つとして無い。彼女が、手を差し伸べて欲しくて村上に付きまとっていたとしても、そういった手が彼女に触れることは無い。彼女は、普通の人間とは別の階層に達してしまったのだから」
 因果応報。破壊を与えたものと同等の存在――すなわち救済が彼女の周囲には無かった。だから、それを同位の存在である破壊自身にしか求める術がなかった、というのは皮肉だ。
「僕は、君に言ったとおり、早々に気付いていたよ。おかしいとは、思っていたんだ。余りにも情報量が少なすぎた。警察捜査の情報蒐集家のように粗忽なメスならいざ知らず、学園内部に居る学生が、学内に流布する噂によって情報を得るとすれば、普通は枚挙に暇が無い筈だ。最後に誰と一緒に居るところを見た、だとか最後にどこで見た、だとか、ね――なのに、君は言ったよね情報がロクに出回っていない=\―と。すれば、誰かの手によって情報が規制されたと考えるべきだ。若しくは、その逆。殺人未遂に至らしめられた彼らの口から情報が漏れるのが規制されていた。そして、そんな支配力を持っている人間で――事件の最中におかしな行動をとったのは霧音=\―彼女だけだ」
 初めて法則が外れた五件目で掛かってきた電話。おそらく、あれは探り、だったのだろう。あの五件目は、本物の自殺=\―彼女は、動揺する。死者が発生する速度が加速したのならば、警察もそれなりの警戒態勢をしかねばならないだろうし、僕と宮古島も積極的に動き出す。一週間と少しで、四件。この街は平均より規模が大きく、在住者も多い。そのあたりを考慮に入れるなら、下手な動き方さえしなければ、十分に捕縛されるには至らない数字だ。だが、それがさらに加速するのなら――どうなるかわからない。警察は巡回のペースをあげ、住民も過敏になる。そこで把握しておきたいのが、僕と宮古島がどこまで調査を進めているか、だ。僕らは、事件を未遂や解決に導くことができなくとも、常に警察が至ることの出来ない真相にまでたどり着いている。彼女は、僕らの情報が最先端であると考察し、僕に探りをいれたのだろう。でなければ、僕と彼女があんなに長い間、会話をかわした記憶は未だかつて、たった一度しかない。
「おそらく、命日から逆算して――村上を殺すまで何人死なせるか、まで計算の範疇に収めていた筈だ。そうすれば、偶然の本物≠除き、君を含めて五人、というのはキリの良い数字じゃないか? ――というのはあくまで推測でしかない話だが――村上の世界においてはすべてが真実になりうるのだから、怖いもんだ。さて――神に抵抗することは不可能だが、精一杯あらがって真相について語ってみようじゃないか。村上――」

world’s end:after

 幕は――下りた。ここからは、何も無い世界だ。今まで病院だと思っていた建物は初めからそこになかったかのように瓦礫混じりの廃墟と化し、光は一粒でさえその姿を消していた。それでいて暗闇というわけでもない。灰色の曖昧な景色が世界の果てまでを覆いつくす光景。一面の曇り空から、雪よりも黒く、雨よりも白い灰が、絶え間なく降り注いでいた。僕の穏やかな心を表すように。
「俯瞰認識症、という精神病がある」
 宮古島が一歩、僕の前を行く。そして、地に積もる灰に足跡を残しながら、僕が後から付いてくるのを確認するでもなく、迷いの無い足取りで先へ先へと赴く。
「それは――簡単にいうならば、人が元来持ち合わせる接続性を喪失させる症状だ」
 激痛は治まっていた。とすれば、僕は壊れてしまったのだろうか。街並みをぼんやりと眺める。そこから色彩は失われていた。僕の視界が先ほどのように色彩を失っているわけではない、とわかるのは、宮古島の服の色が認識できるからだ。壊れてしまったのか、壊れていないのか――それすらも、曖昧になった世界。
「人は、眠っている間に、意識を停止させる。覚醒中に集積した情報を整理するためだ。そして、それは欠かせない行為であるが故に、人は眠りを必要とし、三大欲求の中に、それを含めた」
 灰は見た目以上に質量を有している。宮古島の頭や肩の上に、薄く灰が積もり始めていた。
「何故、欠かせないのか」
 宮古島は僕に聞かせるという風でもなく、独り言のように延々とつぶやいている。
「それは、その整理された記憶こそが、昨日と今日――つまり過去と現在を繋ぐ架け橋となりうるからだ。言い換えれば、それなくしては、時間認識、空間接続といった類の――日常生活に置ける連続性の持続が不可能になる。人から睡眠の権利を剥奪すると、精神障害が引き起こされ、幻覚症状や記憶障害があらわれるのは、そういうわけだ。これらは、持続を失いかけてるのか、それとも防衛機構が働いているのかは不明だが――ね。ただ、もし、それが人の手によって自由に配置変換できるとすれば」
 宮古島が足を止めた。僕も合わせるように立ち止まり、止まったまま動こうとしない宮古島の足元から視線をあげた。灰は、どこまで降り続いている。視認可能限界域にまで降雪するそれは、地表をどこまで覆い尽くしているのだろうか、とふと気になった。世界がこのままの姿を持続するのなら、調査機のように延々と立ち止まることなく、光景を命に焼き付けながら、歩き続けるのもいいかもしれない、と思った。
「それは個人による単独での世界認識が変更可能なることを示している――つまり、人は孤のままでラプラスの悪魔≠ノ摩り替わる。全ての事象を把握し、行動理論を予測し、全世界の人間が共有できる未来を予測する必要は無いんだ。あくまで、自分の認識を変換するだけでいい。自らの手で人を殺す、という行為を認識し、記憶に変換してしまったのなら、それを別の、捏造した記憶と交換すれば良い。それだけでその事実は消える。問題は――被害を受けた人間は、被害を受けたその周囲の人間はどうなるのか――だけど、それも主観認識が全て解決してくれる。要は、自分以外の誰かが殺したと、記憶を捏造し交換してやれば、君の認識はその通りになり、現実はその後からついてくる=v
 灰。灰。灰。燃やし尽くされた跡。何か不要なものが燃やされ、深海の底で、悠久の流れと共に身を潜める朽ちた遺跡のような街に降り注ぐ。決してその景観は美しくなく。それでいて、嫌悪を覚えるものでもない。
「神――なのさ。俯瞰認識者、とはね。唯一神であり、そして偽神でもある。決定論しか持ち合わさず、己の願うほうへと世界は傾いていく。それは、全ての願いが叶えられる、夢のような話さ――人が、堕落する生き物でなければね。……廃れない人間など、いない。だから、自然、世界も破滅へと誘われるのさ。としても、壊れるのは認識者が捉えた世界だけ。世界総人口、六十億の人間が認識する六十億通りの世界、そのうちのたった一つが壊れるだけさ」
 語尾は聞き取れないほどかすみ、宮古島は崩れるように膝を突く。灰に両手を突き、神に祈りを捧げる姿勢で小刻みに肩を震わせた。
「僕は、そんなものを望んじゃないなかった……普通に生きて、普通に死んで。そうしたかった――そうありたかった。僕は人間なんだ。人間が人間であること以上に、何を望む? 飛べない人間にとって大空を自由に駆け巡る翼を与えられるということは、偽りの希望でしかない。偽りが故に強度を持たない希望は、何れ全て無に帰す。まるで初めから何もなかったかのように。……妬ましかったよ。その時点で、全ては敵意の対象だった。だから、僕は――」
 力なく、顔だけを振り返らせる宮古島。その瞳は、曖昧な灰色で満たされ、濡れていた。
「――オマエを作ったんだ」
 その言葉は、僕にとって何の意味も持たなかった。幽鬼のようにふらりと立ち上がり、僕の胸倉を掴み揺さぶる宮古島。
「もう何も感じないだろう? もう何も考えられないだろう? ええ、おい――オマエは人形だからな。村上=\―オマエがその存在だけで、人を死なせてしまう、という認識を決定付けたのは、僕だよ。そして――オマエは忠実だった。僕のカケラとして世界と接合し、その認識通りに人を死なせ続けた。殺意を抱いていない人間にまで、殺意を抱かせて、人を殺させた。素敵だよ。オマエはほんとう、素敵だよ――……最悪に、な」
 宮古島が僕の抜け殻をそっと突き放す。僕の身体は音も無く、灰の上にその身を横たえた。ふわり、と舞い上がる飛沫。顔にぱらぱらとかかる――記憶の残骸。
「そして、それも……僕なんだ」
 去っていく足音。彼はどこへと向かうのだろう。また僕のような存在を生み出すのか、それとも――。彼は僕に最低限の自我だけを残し、僕を置き去りにした。どこだかわからないこの世界の片隅に。灰が積もる。僕を、その身の下に覆い隠すように。いつしか、足音は消え、しんしんと降る灰の気配だけが取り残された。僕は一人になっていた。いつか一人になることを望んでいた気がする。それなら、僕は――願いを手に入れた。
そういうことだ。
 
 ――ここは寒い――

 露出した二の腕に掌を当てて、風を避けるがそれでもなお、ここは寒い。
 灰色の雪が降り、
 廃墟と化した瓦礫に分厚く積もり、
 埃の様に層を成していく街。
 そして、
 人の温もりが消え、
 誰も居なくなってしまった街。
 誰も居なくなってしまった世界。
 それは、
 枯れた景色。
 焼け落ちた現実。
 朽ち果てた未来。
 二の腕に当てていた掌を額に翳し、
 灰の隙間から空を眺めるが、
 依然朝日が降り注ぐ気配は無い。
 もう何百時間も同じ暗闇の日常が続いているだけの世界。
 だからこそ、僕は自分と同じ匂い、
 人間を探してうろつき回る。
 たった一人でぼくは歩く。
 けれど、何処かにむかう意志は無駄なのかもしれない。
 そんな、よからぬ疑念が浮かぶ。
 怖くなって、

 ……ねえ誰か――

 震える喉を振り絞って叫ぶけれど、ぼくの声は廃墟の群れに木霊して拡散し、消えるだけ。
 おそらく、この世界は、地上の何にも与しない。
 だとしても、空はある。
 なら、宇宙からこの世界はどう見えるのだろうか。
 灰色――
 それとも――

 ……いいや――

 馬鹿らしくなって首を振って、
 思考を途切れさせ、
 右手に携えた蓋の無いペットボトルから喉に水を流し込む。
 ひとときの潤い。
 叫んだ喉に侵入した雪埃を肺腑に流し込み、ぼくは心は微かな痛みを覚えた。
 その間にも、時間の隙間を埋めるように雪は降り積もっていく。
 歩き始めたときよりも、深さは増している。
 とうとう膝上にまで達した。
 歩を進めるたびに、微細な灰の粒子が足にまとわりつき、随分歩きづらい。
 けれど、ぼくはただ、歩き出す。
 意味も無く、また歩き出す。
 遥か昔、
 幸せではなかったけれど、
 大切な人が居て、
 その人たちと触れ合い擦れ合いながら生きていたあの頃を懐かしみながら。
 今はもう失って、何もかもが無くなってしまったけれど――
 あの頃のぼくは――
 悲しみという日々に幸せという答えを探しながら、
 痛みを抱えて道の上を歩き続けていた。
 確かに生きていたという実感を伴っていた。
 何も無い虚無の現状と比べると、
 空気の様にいつも傍にあった普遍さが今では愛おしい。
 人は全てを失って初めて、失ったモノの大きさに気づくみたいだ。
 誰かの瞳なら、
 誰かの声なら、
 誰かの身体なら、
 誰かの想いなら、
 必ず未来に辿り着けると信じていた青い自分自身を後悔しても遅く――
 ぼくは往くしかない。
 誰も居ない一人ぼっちのこの世界を。
 誰も居ない一人ぼっちのこの世界を。
 埃に似た雪と、毀れた街と、果てしない闇だけの世界を。
 ぼく以外の全ての人にとって、とうの昔に終わってしまった、世界を。
 そのまた逆の可能性を持つ世界を。

 ――ぼく往く
 
 昔、ぼくがぼくであった季節を、
 思い出すだけで、胸が痛む景色を、
 一つずつ拾い集め、胸に焼き付け、記憶として抱えながら。
 見上げた空は、透明な闇で、星ひとつ瞬くことは無いけれど。
 ぼくに意味など、無くなってしまったけれど

 ――ぼくは往く

 世界は、壊れない。
2005/09/29(Thu)16:48:30 公開 / 中田町 圭吾
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■作者からのメッセージ
終了です。あとがきなどと、そんなおこがましいものを書けない作品になってしまいました。
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