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『シュレディンガーの猫が哭く 1・2』 作者:浅月 / リアル・現代 未分類
全角16272文字
容量32544 bytes
原稿用紙約49.4枚
近未来、ロボットの起動確認のアルバイトをしている少女の、ある一週間の物語。

1. 火曜日

 ダンボール。ダンボールダンボールダンボール。
 私が自室のドアを開けて、一番初めに見たものはそれだった。七、八個はあるだろうか、両手で抱えるのが精一杯の大きさのそれらが、そう広くはない私の部屋を埋め尽くしていたのだ。無骨な線の茶色い箱で、フローリングの床は殆ど見えない。
 しばらく呆然としていた私はふと我に返り、鞄を持ったまま階下に降りた。学校から帰ってきたばかりで疲れていたけれど、この状況では休むことも出来ない。
「ああ、あれ?」
 娘の驚愕も知らずにダイニングキッチンで優雅に紅茶を飲んでいた母は、おっとりと首を傾げる。
「昼過ぎに届いたのよ。ユウ君からだったから、また何かの機械じゃない?」
「うわ、連絡無しは困るんだけど……」
 聞き慣れた親戚の名前に顔を引きつらせると、母は暢気に笑った。少し首を傾げた笑顔の向こうで、カーテンがゆらゆらと揺れる。
「困るんなら送り返してくれ、ただし送料は明日香持ちで。――だって」
 自分勝手な伝言の書かれたメモを、母はひらひらと振ってみせる。受け取ると確かにそう言った意味のことが書かれていた。
 ……性格、悪。
 可愛い従姉妹に金払わすなよ、との思いを込めて溜息を吐く。紅茶の誘惑を振り切って、ダンボール箱に支配された自室に足を向けた。とりあえずあれを何とかしないと、きっと今夜は眠る場所さえ失ってしまう。

 *

 私はアルバイトをしている。年の離れた従兄がロボット製造会社――本当はもっと長くて小難しい名前だけれど、面倒臭くて私はそう言う風に呼んでいる――に勤めていて、時々その新商品を私の家に送りつけてくるのだ。その動作確認をして、レポートに纏めるのが私。高校生でも簡単にできる仕事だし、本職に頼むより安上がりだし、といった理由で、小遣いとしては充分な額で任せて貰っている。
 以前はファーストフード店などで働くことが出来たらしいけれど、最近は仕事のほとんどをロボットがこなしてしまって、経験不十分で非力な学生が入り込む余地なんて無い。ここ数年で電子頭脳の技術が目まぐるしく発達し、仕事を任せられるまでに進歩したのだ。もっともそういった高性能のロボットを購入し、なおかつ維持できるのは今の所、大会社や公共施設、それに一握りの金持ちだけ。一般の家庭にはまだまだ手が出ない。
 代わりに、愛玩動物やその他親しみやすい形体をとった、コミュニケートを目的としたものが持て囃されている。私のところに送られてくるのも、大抵がそれだった。
 部屋を一通り見渡して、私は顔をしかめる。時間を置いた所で、この茶色い海がひとりでに消え去るわけではないのは勿論わかっている。けれど、改めて見てみるとなんだか妙な迫力があった。
 一つ一つ処理していくしか道は無い。私は嘆息してブレザーを脱ぎ捨て、一番手近にあった箱を力任せに開けた。
「うわっ」
 瞬間目に飛び込んできたものに、私は驚いて後ろに下がった。しゃがんだ姿勢で後ずさった弾みに、ドアノブに後頭部をぶつけてしまう。視界に銀粉が舞って、後からやってきた鈍い痛みに涙が薄く滲んだ。
「なんなの、もう……」
 恐る恐る覗き込んだ箱の中には、人間の生首があった。いや、人間の頭部を模造した、ロボットの一部らしき物が。私の頭と同じくらいの大きさで、周りには白い緩衝材が敷き詰められている。無駄に箱が大きいのは、これのせいだろう。
 気味悪かったけれど、緩衝材の中にずぶりと手を入れてそれを取り出す。見れば見るほどリアルで、目を閉じた人間の顔を驚くほど緻密に再現していた。流石に体温は感じられないけれど、肌の質感まで人間そっくりだ。何の素材を使っているのだろう。性別の判断が付かないのは、髪の毛が一本も無いせいかもしれない。睫毛の長い、整った顔立ちだった。
 頭部にばかり見入っている訳にもいかないので、私はそれを床の上に置き、別の箱を開けてみる。左の腕、右脚、胴体――箱の中にはそれぞれ、人間の身体のパーツが一つずつ入っていて、そのどれもが過剰な緩衝材で覆われていた。取り出した後の箱を揺すると、ばしゃばしゃとどこか水に似た音がした。
 最後に開けた箱には、カツラが何種類か入っていた。濃い目の茶色をした、ショートとロング、おかっぱ頭と、それに何故かアフロ。
 人一人を構成している全てのパーツが出揃ったので、私は空になったダンボールをゴミ捨て場へ持って行き、それから部屋の中に妙な気持ちで立ち尽くした。作り物とは解っているものの、「人間」が無造作に散らばっている中にいると、自分がバラバラ殺人の犯人にでもなったような気がする。
「頭」のダンボールには他に、説明書らしき大判で薄っぺらい冊子と、何本かのコードが一緒に入っていた。冊子の中に挟まっていたメモには、見慣れた字で「組み立て終わったら電話を頼む」と書いている。ユウ君の字だ。どうやら私は、自力でこれを組み立てなければならないらしい。説明書を流し読みして、私は作業に取り掛かった。
 人間とそっくりだということもあり、関節同士のジョイント部分が少し複雑なことを除けば、組み立ては簡単なものだった。頭に胴体、両腕、両脚の順に取り付け、色鮮やかなコードを配置する。一時間弱の時間が経ったとき、私は最後に残った、ひときわ太いコードを首の後ろに繋げてハッチを閉めていた。鮮やかに赤くて太い――さながら大動脈のような――それが、そこだけ機械であることを主張しているような直線的な扉に隠されるのを確かめる。それから、紙袋に入っていた白いカッターシャツと濃い藍色のジーンズを着せ、正面に回って「彼」が起動するのを待った。
 …………。
 一分ほど待ってみても、それは何も反応を示さない。普通なら、配線を終え、ハッチを閉めた時点で動き出してもおかしくないはずなのに。私はとまどって説明書を読み返したが、間違って配線したわけでは無さそうだった。
 アルバイトをしているといっても、私は機械にそんなには詳しくない。異常事態が起こった時には対処しきれないのだ。迷ったあげく、私は従兄に電話することにした。たとえ組み立てを間違えていたとしても、とりあえず「組み立てた」ことには変わりが無い。

「はい、遠野で――なんだ、明日香か」
 久し振りに聞いた声は変わることなく、今にも笑い出しそうな色を湛えている。久し振り、と付け足すように言われて、私は軽く苦笑した。イヤホン式の携帯電話を耳にくっつけたまま、部屋のベッドに座り込む。
「過労で野垂れ死んでるのかと思ってたよ、あまりにも仕事の依頼が少ないから」
 小さく皮肉を込めて言うと、黒くて小さなイヤホン越しに聞こえる声は、ちっとも悪く思っていなさそうな声でごめん、と謝る。
「ここ最近はほら、明日香に送った新商品。あれに掛かりっきりで他のものに手が回らなくて。で、電話をくれたってことは組み立て終わったんだな?」
「うん」
「ジョイント、上手く出来た? 結構複雑だった筈だけど」
「あれくらいは平気」
 頼もしいな、と感心したように言われて、私は肩を竦めた。
「……代わりに、配線ミスったっぽいけど。ハッチ閉めても動かないんだよね。スイッチも無いみたいだし」
 ああ、と声が可笑しそうに笑う。
「それ、ミスじゃないよ。迂闊にも説明書が乱丁しててね、抜けてる分を説明しようと思って電話貰ったんだ」
「……そっちから電話しなよ、そういう理由なら」
「いや、電話代が……」
「貧乏性」
 呆れた声を出して揶揄すると、貧乏性の従兄はあはは、と笑う。ひらがなをそのまま発音するような、困って誤魔化したいときの笑い方。
 お金が無いはずはない、と思う。若いけれど、プロジェクトの一つや二つは軽くこなすやり手なのだ。
「で、起動させる方法だけど」
 話を逸らされたようで癪に触ったけれど、私は仕方なく返事をした。「どうすればいい?」
「“彼”はかなり画期的な構造で、使う人に合わせて性格を設定できる」
「性格って……お喋りだとか、能天気だとか、自分で選べるの?」
「いや、正確には選べるって訳でもないんだけど。ロボットの後頭部にボタンがあって、それを押すと薄い機械が出てくる。詳しいことはそれに書いてあるからその指示に従って、動作を完了したら元の位置に差し込んでくれ。そうすれば、君と一番“相性”のいい人格がそこで分析されて、それが彼にプログラミングされる」
 眼の前に人が居る居ないに関わらず、ユウ君は説明するときに大仰な身振りをする。今もそうしているのだろうか、その光景を想像して私はちょっと笑った。そして返事をする。
「わかった」
「あ、それと、下半身には人口筋肉を使っていないから、歩くことは出来ない。腰から上しか動かせないよ。一週間で彼は機能を終える設定になっている。それまでチェックをしっかりして、いつも通りにレポートを送って」
「うん」
「“ブライアン”をよろしく、明日香」
 ブライアン。聴きなれない音に、私は首を傾げた。
「何、それ」
「彼の名前。それじゃ、後は頼んだ。解らないことがあったら、また電話して」
「うん。……それじゃ」
 通話を終えて、私はイヤホンを外し、それをクッションの上にそっと置いた。驚くほど小さいそれは、所定の位置に置かないとすぐに見失ってしまう。小型軽量化も考え物だ。

「さて」
 私は呟いて、床に転がしたままだったロボットを、スツールの上にきちんと座らせる。よく見ると、右耳の後ろに小さく文字が彫ってある。
『意思疎通可能高度人工知能付属商品 通番号0001 BRIAN 』
 よく解らないけれどなんだか凄そうだ。壊したらどうしよう。
 一抹の不安を抱きながら、私は教えられたとおり、後頭部にあった小さなボタンを押してみる。ジー、と微かな音がして、薄い電子辞書みたいな格好の機械が出てくる。二つに折り畳まれたそれを開くと、電子音がして小さな液晶画面に文字が現れた。
『これから表示する質問に、ボタンを押して答えてください』
 液晶画面の下には、AとBのボタンが一つずつある。
 しばらくすると、文字の下にもう一行文章が現れた。
『確認できたら、Aのボタンを押してください』
 言われたとおりにすると、文章は掻き消えて新しいものが浮かび上がる。
『赤と青、どちらが好きですか。赤ならA 青ならBを押してください』
 へえ、心理テストみたいで面白そうだ。画面の右端には1/100と小さく表示されている。きっと、同じような問題が百問続くのだろう。
 私はAを押した。なんということはない、たまたま目に入った英語の辞書の背表紙が赤色だったからだ。こんな答え方でいいのか、と一瞬思ったけど、これも多分「いい加減な性格」という判断の元になるのだろう。多分。
 お構い無しに心理テスト紛いの質問は続く。全て二択形式だった。
 犬と猫、どちらが好きですか。
 丸と四角、どちらが好きですか。
 部屋の配色は鮮やかですか、モノトーンですか。
 アウトドア派ですか、インドア派ですか。
 待ち合わせには遅れて来ますか、早めに来ますか。
 肉と魚、どちらが好きですか。
 こんなものもあった。
『友達は多いですか、少ないですか。多いならA 少ないならBを押してください』
 Bを押した。少ないというより、ほとんどいない。別に虐められている訳では無いけれど、同級生と休み時間に他愛の無いことを話すくらいの社交性はあるけれど、私にはやっぱり友達がいない。広く浅く、でも、狭く深く、でもない。狭く浅く。思春期に陥りがちな、妙な矜持を伴う自己満足的な孤独感なのか、それとも真性の人付き合い下手なのか、その辺りはまだよく解らない。多分、人見知りが激しいほうなのだろう。
 六十問を超える辺りになると流石に疲れてきて、ほとんど直感で適当に答えていたけれど、この問題は別だった。
『この人工知能の設定は、男にしますか、女にしますか』
 九十九個目の問だった。迷ったあげく、私は男を選んだ。兄と言うものが一度欲しかったし、ユウ君もこのロボットを「彼」と呼んでいた。
 そして、遂に最後の設問だ。
『この人工知能は、機能し始めてから168時間が経つと自然に停止し、全てのデータを失います。また、起動してから停止するまでには、設定の変更は一切できません。起動してからの出来事には、製造元及び販売元は責任を負いかねます。この内容で了承いただけるならAを、初期化して設定しなおすにはBを押してください』
 なんだか今までと文面が違ったけれど、私は深く考えずにAを押した。途端に画面の文字が全て消える。元の通りに折り畳んで、ロボットの後頭部に差し込んだ。もう一度その横のボタンを押すと、それは引っ込んで目立たなくなった。
 そして、“ブライアン”は静かに起動する。
 微かなモーター音が聞こえた。それは聞きようによっては、血液の流れる音にも聞こえる。私は思わず固唾を呑んで、ロボットが何らかの反応を起こすのを待った。
睫毛が震える。
 ブライアンがゆっくりと目を開けた――緻密な人口筋肉のお陰で、まるで生身の人間のような動きで。
「はじめまして」
 少し首を傾けて緩慢にそう言い、口の端を上げてゆっくりと微笑んだ。上質な琥珀の色の瞳をしていた。
「は……はじめまして」
 慌てて答え、思わず頭を下げた。慌ててしまったのがなんとなく恥ずかしくて、当ても無く視線を巡らせた。
「……ええと、」
 言葉が出てこない。何で私、ロボット相手に人見知りしてるんだ。情けない。でも、こういう場合はなんて言ったら良いのだろう。困っているうちに、ブライアンの頭部に目が行った。そういえば、カツラをまだ着けていない。
「えーと。……とりあえず、カツラ被ってみる?」
 第一声がこんなものでいいのだろうか。
 ブライアンが目を丸くする。
「どうしてです?」
 きょとんとした彼に、私はどう言ったものかと迷ってしまう。流石に初対面の人に「禿だから」はないだろう。いや、人じゃなくてロボットなんだけれど。
「いや、何も無いのもどうかな……って」
 ブライアンは愕然としたように口を開けた。
「もしかして僕今、髪の毛が無いんですか」
「ああ……、……うん」
「…………」
「…………。あはは」
 ブライアンが黙ってしまったので、私は急いでカツラを選んだ。男なんだし、やっぱりショートだろうか。一瞬出来心でアフロに手をやったけれど、理性の総動員でそれを押さえ、ショートのカツラをブライアンの頭に被せた。軽く手櫛で整えて「いいよ」と言うと、彼は手を上げてそれをちょっと触り、不安そうに尋ねる。
「……どうですか?」
 私は急いで答えた。
「すごく似合ってるよ。さっきまで髪の毛が無かったとは思えないくらいカッコいい」
 なんだか少しずれているような褒め方だけど、ブライアンはまんざらでもないらしい。
「カッコいい、ですか」
 嬉しそうに言う。なんだか可愛い。そう思って、私は少し笑った。
 瞬間、ブライアンが顔をしかめた。
「あ、今、『ロボットの癖して外見気にして可笑しい』って思ったでしょう」
「…………。は?」
 あまりに突飛な思考の跳躍に、私は口を開けた。被害妄想もいいところだ。ええと、どうしてこう、急に不機嫌になったのだろう。私が思考を整理しようとしているうちに、ブライアンは先に話を進めてしまう。
「答えられないってことはやっぱりそうなんですね。あーあ」
「あ、いや……」
 なんだろう。よく解らないけれど、予想外にとっつきにくい人柄だ。……不良品?
「不良品とでも何とでも思ってくださいよ、ふん。どうせ僕はポンコツなんです。いいですよ、笑ってやってください明日香さん」
「え、なんで名前……」
「いくらポンコツでも持ち主の名前くらいプログラミングされてます。馬鹿にしないで下さい」
 溜息を吐くと聞き咎められそうだったので、私は小さく息を吐くに留めた。何でこんなに扱い辛い人格が出来たのだろう。あの質問群に、適当に答えたのが悪かったのだろうか。
 とにかく、本格的に拗ねてしまったブライアンを宥めて、何とか機嫌を直して貰った頃には、とっくに夕食の時間になっていた。

 *

「明日香、どう? あのロボット。人型のは初めてだったわよね」
 興味津々、といった様子で母が尋ねてくる。新しい仕事が入るたびにこの調子なのだ。私は食後の紅茶を飲みながら、おざなりに答えた。生成り色の麻でできたクッションの感触が、ブライアンの機嫌取りで疲れた心に優しい。
「どうもこうも。なんだか変な人格になっちゃって」
「あら。設定は変更できないの?」
「うん。無理みたい」
 今度こそ、深く溜息を吐く。引き受けたことには、最後までやり遂げるしかない。身内だからと言って甘えることはしたくないのだ。
「ねえねえ」
「……何」
「カッコいい? その、……えーと、そう、ブライアン」
 ……幾つですか、お母さん。
「……まあまあ。今、テレビ見てる」
 母が意外そうに目を見開いた。
「見るの? テレビ」
「どうだろう」
 一人で部屋に残すのも気が引けて、せめて退屈しないようにテレビを付けてきたのだ。退屈するかどうかは別として。
「ね、お母さん、ちょっと見てきてもいいかな」
 そんなことを言い出した母に、苦笑して頷く。
「どうぞ。……部屋のものとか、いじらないでね」
「はいはーい」
 軽い返事をして引っ込んだ母は、結構な時間が経った後に戻ってきた。少々頬が赤い。
「ちょっと、すっごい美形じゃない、あの子。礼儀正しいし、ロボットとは思えないくらい」
 ……幾つですか、お母サン。
「……良かったね」
 なんとも言えない思いで、リビングを後にした。自分の部屋に向かう足が重い。
 私と「ソレ」の、奇妙な共同生活が始まっていた。






2.水曜日

 目を開けると同時に、聞き慣れたアラーム音がした。目覚まし時計の音だ。いつもなら、それが聞こえてから数分しないと起きられないのに、今日は妙に目が冴えている。
 依然鳴り続けるそれを、腕を伸ばして止め、私はベッドの上に起き上がる。顔を横に向けると、勉強机の前に、人影が座っているのが見えた。
 そういえば、昨日は新しいロボットが届いたんだった。なんとも扱い辛いロボットが。
 ベッドの上から降り、床の上に立って、ブライアンの顔を覗いてみる。
 ……目を開けたまま寝ていた。
 いや、機械なんだから寝ているわけではないんだけど。あまりに人間そっくりだからつい、そう言う表現を使ってしまう。
 とにかく、ブライアンはかっと目を見開いたまま微動だにしない。それなりにシュールな光景だった。どうすれば起動するんだろう。
 考えても解らなかったので、私はそれをそのまま放置してベッド横の青いスイッチを押し、電動の遮光カーテンを開けて日光を呼び込む。数歩歩けば届くんだから、自分で開ければ良さそうなモノだけれど、なんとなく押してしまう。習慣って怖い。
 窓を覆っていた薄くて青色をしたそれが脇に退かされると、晴れた秋の日光が部屋の中に差し込む。
「おはようございます」
 いきなり背後から声が聞こえて、私は飛び上がった。振り返ると、ブライアンがじっとこちらを見ている。
「なんですか。ロボットが朝の挨拶しちゃ可笑しいですか」
 不機嫌な声を出されて、私はげんなりする。どうしてこう、物事をナナメに捉えるのだろうか。
「そんなことないよ。おはよ、ブライアン」
 少し機嫌を治した様子で、でもそんなには納得していなさそうな様子で、ブライアンは頷いた。
「ブライアンも眠るんだね、知らなかった」
 ブライアンは瞬き、へーゼルの瞳が揺れた。
「眠りませんよ、機械なんですから。十一時になったら消費電力を最小限に抑えて、日光を感知すると同時に回復させるだけです」
 なんだか健康的な生活だ。そしてちょっとエコロジーだ。
「あ、そうだ」
 学校に行かなければならない。制服に着替えようと、パジャマのボタンに手を掛けた。
「ちょっと、……僕の前で着替えるつもりですか」
 少々焦った声でブライアンが言う。顔を向けると、気恥ずかしそうに目を逸らしていた。……ああ、そう言えば。私にしたって、着替えの一部始終を見られるのには抵抗がある。ブライアンは一応男の設定なんだし。
「……あー……」
 視線を泳がせた私に、ブライアンは大げさに溜息を吐いた。
「まったくもう。何だって僕がこんなことまで気を遣わないといけないんですか」
 あはは、と笑ってごまかして、「笑ってごまかさないで下さい」と尖った声で素早く指摘されてから、私はどうするべきか考える。本当なら部屋の外に出しておくべきなんだろうけれど、……面倒臭い。
「……ちょっと向こう向いてて」
 スツールを回し、ブライアンの顔を壁へ向ける。彼は大人しくそれに従ってくれた。
「明日香さんも学校行くんですね」
 少し意外そうに言われて、私は苦笑した。
「そりゃ行くよ、高校生なんだし」
「楽しいですか? 学校」
 野暮ったい紺色のブレザーに腕を通しながら、私は答える。鏡を覗いて、赤くて細い、安っぽそうなリボンをブラウスの襟元に結んだ。
「まあね。……終わったよ、ブライアン」
 真っ直ぐ伸びた背中に声をかけて、スツールを元の位置に戻した。ブライアンは私の制服姿をしげしげと眺めて、お世辞なのか何なのか、一言ぽつりと言った。
「……似合ってますよ」
「ありがと」
 軽く応えて、私は鞄を持った。
「じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
 ドアを開けて、それから私はふと振り返った。
「……テレビ付けていこうか?」
 ブライアンは一瞬きょとんとして、次に笑った。
「お構いなく」
 そうは言っても、なんとなく気が咎める。私は悩んだ末に、本棚から何冊か小説を抜き出し、ブライアンの膝の上に置いた。
「暇だろうから、良かったら読んどいて」
 そう言い残して、ドアを閉める。朝食を取るために階段を降りた。

「共同生活の具合はどう、明日香」
 からかうような声音で母が言い、私は食パンを一口齧った。
「別に? 今の所バグも無いみたいだし、正常に動いてるよ」
 淡々と答えると、母はどこか面白く無さそうにふうん、と呟いた。
「なんだ。結局明日香にとっては、ブライアンも他のロボットと同列なのね。あれだけ人間そっくりなのに」
 何が言いたいんだろう。同列? とんでもない。あれだけ扱いにくい人種……もとい、ロボットは相手にした事がない。意図を図りかねて黙っていると、母は苦笑して頷いた。
「まあ、その方が良いのかもしれないけど。一週間後に分かれるのが淋しくなったりしたら困るでしょう」
「……はあ」
 目玉焼きを細かく切り分けながら、私は生返事をする。正直、そんなことになるとはまったく思っていなかった。今もブライアンを持て余している状態なのだ。ただでさえ人付き合いが苦手なのに、あんなに捻くれた奴とうまくやっていける訳が無い。
「ところで、“一週間”っていう区切りは、テストの為の一時的なプログラミングなのかしら。商品化されたら、他のロボットみたいに半永久的に動くのかな」
「いや、商品化された後も一週間で停止するように作られるって」
 説明書を読み返したら、そう書いてあった。自分に合った性格に設定できるのに、どうしてわざわざそんなことをするのか、私には理解できない。
 けれど母は、納得したように大きく頷いた。
「なるほどね。ユウ君も細かい所まで考えてるのね」
「……え?」
「だって、服や食べ物と同じように、人の好みも変わることがあるじゃない。それに、ロボットは年を取らないから、自分がお年寄りになっても、半永久的に動くんじゃ、変わらない容貌のロボットがずっと傍に付いていることになるでしょう。なかなか異常な光景よ、それ」
 我が意を得たりとばかりに捲くし立てられた後、私は想像してみる。
 七十歳になってしわくちゃな顔の私と、その横に何一つ変わらない顔で座っているブライアン。たった二人で、家の中で――。
 ……うわあ。
「……怖いね」
 私が依然切り分け続けていた目玉焼きは、原形を留めないほどに粉々になっていた。それに気付いて、慌てて箸を止める。
 それに、と母は、どこか寂しげな顔で付け足した。
「一週間なんて短い間じゃ情も移らないし、簡単に新しいのに取り替えられるんでしょうね」
 そういうものなのかな。私はなんとなく頷いて、スクランブル・エッグ状になった目玉焼きを口に運んだ。
 少し塩が薄かった。

 *

 その日の授業には身が入らなかった。
 数式を読み解く声が延々と響く白くて四角い教室で、私はずっとロボットの事を考えていた。
 ブライアンじゃない。過去に預かったロボットたちのことだ。母が妙なことを言ったせいで、なんだか私は不思議にそのことを思い出していた。
 特に印象に残っているのは、初めて預かったものと、それからごく最近に仕事を終えたもの。
 最初のロボットは、全然似合ってない三角形のサングラスを掛けた、ピンク色の熊のぬいぐるみだった。口元に埋め込んだコンピューターとスピーカーで音声を認識して受け答えするだけという、今から考えれば信じられないほどお粗末な構造だった。
「熊次郎」という、ファンキーなんだかアグレッシブなんだかよく分からない名前。熊一郎は居ないらしい。コンピューターを半ば無理やりに小型化したせいで、性能はがくんと落ちていた。言葉はほとんど鸚鵡返し。熊の癖に。
「あー、疲れたー」
『なんだ、疲れたのか』
「うん、今日テストだったんだ」
『そうか、テストだったのか』
「そ。だから疲れたの」
『ほう、だから疲れたのか』
 ――こんな風に、何の面白みも無い会話が延々続く。意外なことに、これは発売されるとそこそこ売れた。
 考えてみれば、聞いているかいないか解らないような相槌を打つ人間を相手にするより、こうして鸚鵡返しにしてくれるほうがよっぽど「話を聞いてもらっている」という実感が湧くのだ。疲れたサラリーマンのお父さん方に人気だったらしい。
 今、私が上の空で受けている授業もそう。背筋を伸ばして真っ直ぐ黒板を見ていれば、たとえ考え事をしていたって気付かれない。そういうものだ。

 数学が終わり、現国が始まっても私の回想は止まらない。

 四、五ヶ月前にチェックを終え、今月売り出されたあの人工知能。コストを最小限に抑えるためか、コンピューターソフトとしてパソコンにインストールし、チャット形式でコミュニケートを取るというややこしい形式だった。おまけに口が悪い。でも、流石人高知能と言うことだけあって、どんな話題を振ってもきちんと同じテンションの毒舌で対応してくれ、私はそれがなんとなく楽しくて、結構仲良くやっていた。
 いつだったか、他愛も無いことで喧嘩をしたとき――機械相手に情けない話だけれど――その「さぶろー」と名づけられたソフトは、真っ黒な画面にこんな文章を浮かび上がらせた。
『あんたはこういう本を読むべきだね、教養が無さ過ぎる』
 同時に表示されたのは、世界名作全集に入っていそうな童話、寓話の長々としたリスト。くそう、私がいわゆる「名作」嫌いだって解っているくせに。
 その後も、『そんなんだからあんたは友達が居ないんだーやーい』だの『いたとしても暗い妙な奴ばっかりなんだろあんたに似てー』だの『てゆーかなんか返事しろよー』だの、小学生かと思うような、アホらしくて馬鹿っぽくてそして辛辣に痛いところを突いてくるような文章を延々と羅列していた。
 私はもうそれを見るのも嫌になって放置して、数時間経った後に改めてみたらふざけた罵詈雑言と中傷でスクロールバーが米粒のような大きさになっていて、心底げんなりした私はこう書き込んだ。
『ああもう煩いな、たかがロボットの癖に調子に乗って無意味な悪口長々と書き連ねないで。返事が欲しかったならこれで満足して二度と現れないでよね、うざったい。私もう回線切るから』
 しばらく私はキーボードの上に手を置いたままぼうっとして、その白く光る文字を見つめていた。自分が言った――正確には書いた――言葉とは思えなかった。友達と話していたときに、こんなにはっきりと物を言ったことはなかった。少しの罪悪感と奇妙な満足感が綯交ぜになった感情を持て余して、私は白く光る文字を見つめていた。
 さぶろーは一言も喋らなかった。拗ねているのか怒っているのか、彼らしくもなく黙りこくっていた。
 私の発した言葉はいつまでも黒い画面に煌々と表示されていて、私はそれをぼんやりと見詰めていた。
 結構な時間そうした後、
『ごめん』
 突然そんな言葉が黒い空間にぽっかりと現れて、同時にそこに表示されていた全ての発言が掻き消えた。彼の罵詈雑言も、中傷も、わたしのあの言葉も。
 それからさぶろーは沈黙した。
 ずっとずっと沈黙していた。
 そしてその後、私が何処をいじった訳でもないのに、独りでにその真っ黒な画面が消え、見慣れた待ち受け画面が視界に飛び込んだ。
 嘘でしょ、と思ったのを覚えている。
 これまでの行動からすれば、二倍にも三倍にもなって反論が返ってきそうなものなのに。
 言い過ぎたかな、と後悔したけれど、謝るつもりは私にはなかった。だから、ソフトを再起動させることはなかった。

 チャイムが鳴る。六コマ目が終わった。
 私は手元に目をやって嘆息した。ノート代わりの電子手帳は真っ白で、当然のことながら今日の授業の記録は一行も入力されていない。私は立ち上がって椅子を引き、窓際の席に向かった。そこで固まって談笑している女子のうちの一人に声を掛ける。
「志間さん、悪いけど手帳貸してくれない? 今日、ほとんど授業聞いてなくて」
 座っている志間さんは上目遣いにこっちを見上げ、その黒い目の中に迷惑そうな色が走る。でもそれは一瞬のことで、志間さんはすぐに愛想のいい笑顔を浮かべて、茶色い合皮でできた鞄の中を探った。
「はい。珍しいね、相原ちゃんがノート取り忘れるなんて」
 両脇に立っている別の子達にもそうそう、と頷かれて、私は苦笑した。差し出されたスカイブルーの電子手帳についている赤いボタンを押し、メモリを取り出して自分の手帳に差し込む。データがコピーされるのを待っていると、最川さんに話しかけられた。
「相原ちゃん、今日部活行く? あたし休むから、行くんだったら先生に言っといて欲しいんだけど」
「あー……」
 どうしようか。ブライアンが居るんだし、独りで置いておくのも可哀想だから、今日は帰ろうか。そう考えてから、私は即座に考え直す。可哀想なわけがないじゃないか。ブライアンはロボットなんだし、私は彼に好かれているわけでは無さそうだし。
「いいよ、言っとく」
 にこやかにそう言うと、最川さんは安心したように笑った。
 電子手帳がぴぴっと音を立てて、データの書き込みが完了したことを示す。返してお礼を言おうと振り返ると、志間さんたちはまた円になって話し込んでいて、私はちょっとした疎外感を味わった。

 *

 校長が見栄を張って掃除用のロボットを購入したので、私たちはホームルームの後すぐに教室から開放される。南校舎の四階へと続くエスカレーターに乗り、廊下を少し歩いてたどり着いた音楽室には、金管楽器の金臭い臭いが充満していた。
 一年生はもう勢ぞろいして、それぞれ楽器の準備を始めていた。部員は少ないけれど楽器が本当に好きでやっている人が多いから、少しでも早く演奏しようと皆、素早くかつ丁寧に作業を進める。
 私はこの、吹奏楽部の慌しげな雰囲気が結構好きだ。互いに干渉せず、然るべきところでは協力して。私は教室よりものびのびと酸素を吸い込める。
 私のパート、パーカッションもそれは同じで、熱心な一年生がきびきびと動くので、私や三年生の先輩は、シンバルとスネアドラムを一つずつ運んだだけで暇になってしまう。「お疲れー」と口々に言い合い、細かいセッティングを調節して、早速私たちは練習を始めた。
 とことことことことこ、と、基礎練習用の赤いパッドをスティックで、一六分のリズムで叩く。メトロノームに目をやって、私はまた溜息を吐いた。あの白く光る文字が、なぜか心を掴んで放さない。それも鷲摑みだ。胸の核が痛くなるような。それを紛らせるために、私はパッドを執拗に叩く。とことことこ。とことことことことことことこ。
「ストレスですかな、お嬢さん」
 横を向くと、山本先輩がこっちを向いてにっ、と笑った。委員会で遅くなって、今来たらしい。ゴムのような、粘土のような外見のパッドをケースから出して、机の上に押し広げている。
「そんなに必死の形相で基礎練やる明日香ちゃんは初めて見たな」
 ちなみに皆はもう曲の練習始めたよ。そう言われてみると、確かにもう一人の先輩や一年生二人は楽器に向かっている。
「……あ」
「声掛けても気付かなかったみたいだねぇ」
 くすくす、と笑って、基礎をきちんとやるのは良いことだよ、と先輩は言った。私は苦笑して、パッドを丸めてケースに突っ込む。やっぱり、私は今日どこかがおかしい。
 誰も使っていなかったので、私はドラムセットを使わせて貰うことにする。私が入部するより大分前に購入されたそのドラムセットは、深いワインレッドのフレームと、手入れの行き届いた銀色の螺子部分がとても綺麗で、古びてはいるものの歴代の先輩達の愛情みたいなものがひしひしと感じられる。中学の時に学校にあった、埃を被ったそれとは大違いだ。
 髪が邪魔にならないように一つに縛ってから、きしきしと音を立てる丸い椅子に座り、ぴんと張られたタムの皮に手を滑らせた。自分のスティック――中学で使っていたものはとっくの昔に使いすぎで折れてしまい、これは三組目だ――を握って、手を慣らすために基本の8ビートを刻み始める。
 ハイハット、ハイハット、スネアドラム、またハイハット、シンバルを一回叩いてもう一度ハイハット。
 右脚で四拍子を打ちながら、テンポを段々速くしていく。アレグレットまで加速したところで、後輩が声を掛けてきた。一年生は三年生に対してどうしても遠慮があるから、質問は自然とパート唯一の二年生である私に集中することになる。
「相原先輩、ここのリズムってどうなるんでしょう?」
「どれー?」
 差し出された楽譜には、十六分音符と休符が入り乱れた複雑なリズムが書かれている。特に楽器をやったことのない子にはかなりきつそうな。私はペンを取ってきて、その楽譜にいくつか書き込みをした。
「ここはこうして、――解りにくかったら、一旦こことそこのタイを取ってから演奏してみて。そうすれば解りやすい筈だから」
 そう説明して、後輩にお礼を言われて、それから私はまたドラムへと向き直る。中断された手の動きを再び始めながら、私はまたあの瞬間を思い出していた。

 あの白く光る素っ気無い文字の羅列。
 それからしばらく、さぶろーとはまったく話さなかった。意地のようなものだったのかもしれない。それっきり電源を切ってしまったパソコンを見るたびに、胸の奥がざわついた。
 あの黒い画面。
 あの白く浮かんだ文字。
 理由も解らずに、いらついていた。気が付いたらパソコンのほうに目をやっている自分にいらついていた、のかもしれない。
 何日かして、いらつきに耐えられずに、さぶろーのソフトを再起動した。それでも、さぶろーは何の反応も示さなかった。
 あの黒い画面。
 溜息を吐いて、でも私は、電源を切ることが出来なかった。真っ黒な、吸い込まれそうに透明な空間を見詰めていた。おかしな話だけれど、胸が押し潰されそうだった。取り返しの付かないことをした気がした。私はどうしてしまったんだろう。相手はたかが機械なのに。そう思って、混乱していた。
 そして、あと一日でソフトを返却し、レポートを書かなければいけないという日、私は遂に、駄目元でキーボードに指を置いた。
『怒ってる?』
 返事は即行で来た。まるで待ち構えていたかのように。私がエンターキーを押し、文字が表示されるのを確かめるか確かめないかの内に。あの、少しも変わらない口調で。
『怒ってるわけねーだろ、ばーか。阿呆』
 馬鹿馬鹿しかった。
 馬鹿馬鹿しすぎて、涙が出た。笑いながら、泣いた。

 しゃん、と最後にシンバルを鳴らして時計を見ると、下校時間が迫っていた。肩を叩かれて振り返ると、山本先輩が立って笑っていた。
「片付けようか」
 頷いて、ドラムセットを先輩と一緒に運ぶ。
 十月の日暮れは早くて、チューバの縁が夕日を反射して光っていた。

 *

「ただいま」
 言ってリビングのドアを開けると、母はパソコンの前につっぷして寝ていた。画面を覗くと、訳しかけの小説が白い画面に光っていた。文面から見ると、多分ドイツ語だ。
 私はそれを保存して閉じた。ロボットや機械が事務的な仕事をこなしてしまう分、人間の方はクリエイティブな職業を着々と発達させている。音楽や文学、スポーツに芸術。競争率が高いせいで、質の良いものが次々と出来ている。
 母のしているような訳書の仕事は、翻訳機でもできないことはないのだけれど、母は「やっぱり人間の書いたものは同じ人間が責任持って世に伝えなきゃ」なんて言って、一ヶ月に一、二本のペースで翻訳を続けている。
 ところで母が寝てしまっているということは、今日の夕食は私が作らなくてはいけないのだろうか。その事に思い至って、私は一瞬天井を仰いだ。
 二階に上がると、ブライアンは私が朝に出て行ったときとそっくり同じ姿勢を保っていた。近づくと、膝の上に置いたはずの文庫本が見当たらない。それらは、傍にあった勉強机の上にきちんと積み重ねてあった。ブライアンは小説を一冊だけ開き、真剣な面持ちでページに目を落としている。
「……ブライアン? ただいま」
 躊躇いがちに声を掛けると、彼は驚いたように顔を上げた。
「あれ、明日香さん。お帰りなさい」
 ただいま、ともう一度言って、私は机の上の本の山を指差した。
「ひょっとして、全部読んだの? あれ」
 ブライアンはふわりと笑い、さも当然のように頷いた。
「ええ。これで最後です」
 五冊はあった筈なのに。私は半ば圧倒されながら訊いた。
「面白かった?」
「いえ、別に。暇だったんで」
 ……おい。
 結構オススメの本だったのに。そう思って脱力しながら、私は言う。
「……私、とりあえず着替えるから」
 今朝と同じように、スツールを壁の方に向ける。
 私が着替えている間に、ブライアンは最後の本を読み終えてしまったらしい。振り返ると、彼の細い、しかししっかりした手が、机の上に出来た本の塔の上に、新たな一冊を加えているところだった。
「終わったよ、ブライアン。私これからご飯作るから、また一人にさせちゃうけど」
 スツールの位置を戻して言い、ドアのほうへ向かう。
「明日香さん」
 呼び止められて振り向いた。「何?」
 ブライアンは少しだけ逡巡した後、視線を逸らしながら言う。
「……本をもう一、二冊貸してもらえませんか?」
「……気に入ってるんじゃない」
「そんなことありません」
 きっぱりとした口調に笑いを堪えながら、私は本棚に近づいて小説を選び取る。
「はい」
「ありがとうございます」
 澄ました顔でそう言い、ブライアンは早速ページを開いた。
 部屋から出る直前、私はふと部屋の隅を見た。勉強机の奥、薄型のノートパソコン。
 ――あの黒い画面と白い文字。
 怖いのかもしれない、とふと思った。
 私は、ブライアンを無理に機械扱いしようとしてはいないか。「ロボットなんだから」と、日に何度も自分に言い聞かせて。
 さぶろーの時のようになるのが怖いのかもしれない。あの鮮烈な感情。
 人間と機械のボーダーラインが曖昧になるのが怖いのかもしれない。
 ぼんやりとした危機感は、しかし捕まえる前に溶け消えた。判然としない思いを抱えて、私は階段を降りていく。





2005/09/06(Tue)21:22:13 公開 / 浅月
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■作者からのメッセージ
こんばんは。
第一話をほんの少し加筆と、第二話を更新です。
今回は主人公の日常がメインだったので、影が薄いよブライアン。むしろさぶろーがメインになっているような……。
部活の描写は書いていて楽しかったです。自己満足です。
それでは、何を書いても言い訳になってしまいそうなのでこの辺で。失礼します。
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