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『ステラの唄声  前奏曲〜三曲目』 作者:御堂 落葉 / ファンタジー ファンタジー
全角20386.5文字
容量40773 bytes
原稿用紙約70.3枚





 護ります。たとえ傷つこうとも、この四肢崩れ、血で手を染めようとも。アナタの為だけに。
 それが―――――――約束だから。


 ・少女の謳うプレリュード





 夜の雲の上を奔る、巨大な船に似た物体。
 その甲板に当たる船首で佇む、軍服のような詰襟とスカートの、茶の短髪の女性が立っていた。
 女性は自分がいる場所が危険かなどもはや気にも留めなかった。
 それ以上の危険が背後に立っていた。
「逃がさんぞ」
 首を回して、背後にいる男は女性の背中を突き刺すような視線を逸らさない。
 全身が真っ赤なコートを着込み、赤いマフラーによって口元が見えない。髪も紅く、茶の瞳に光はドス黒い。
 殺意に塗りたくられた目を数秒直視していた女性は自分を奮い立たせるように笑ってみせた。
「よくもまあ日本くんだりまで来るんですね。こんな親の代理で逃げ続ける影武者のために」
 タネ明かし。男の眼が見開いた。
「貴様……能力者か」
 ふふ、と女性は身体ごと振り返る。
「残念だけれど、この子は渡さないわよ」
 女性の足元には、白い布でぐるぐる巻きにされた白の髪の少女が横たわっていた。
 髪も肌も脱色が凄く、白すぎてどこまでが布か判らない。
 強い風に髪がはためき、甲板の地面に擦れている。
 それを一瞥した男はふん、と鼻で哂う。
「下らん、我々は純粋にそれ≠殺してしまえばいいんだぞ。それ≠護りながら俺と戦うつもりか?」
 男は手をすっと前にかざす。
「能力者相手にな……!」
 ピキビキ、と男の手から白い煙が立ちこめ、空気が瞬時に乾く音が伝わる。
 女性の姿勢が低くなり、警戒と共に舌打ちした。
「……噂はかねがね、グレイズ・カッシュウ。アンタのような殺戮集団に、この子は好きにさせない」
 ふ、と男の見えにくい口元が歪んだ。
「逃げられると思っているのか?」
 上を指差す。

 視線だけを上げた女性に目に入ってきたのは、鋼の翼が刹那を飛翔する―――――――戦闘機。

「な゛っ……!!」
「こんなデカブツなど、操る人間がいなくなればただの大きいだけの的だ」
「くっ……」
 苦々しい顔をする女性。
 それをせせら笑う男の背後に、もう一人の影が出てくる。
「キャハハ☆ 楽しかった〜♪」
 金きり音に近い声を撒き散らしながら、金糸の髪を結わえている化粧っ気のある少女が男の背後にやってきた。
 首にも腕にも指にも金属のチャラチャラした少女は、頬についている血を舐めた。
「グレイ〜、中のひとたち全員殺しといたよ♪」
 無邪気に笑いながら少女は子連れの女性を見てキョトンとした。
「なぁにこの不細工なひと〜? あれも殺しちゃっていいの?」
 数秒黙り込んでいた男は、面倒臭そうに息をついた。
「好きにしろ」
 きゃは、と笑い前へ躍り出た。
 手には銀の装飾の施された刃渡り30センチの短剣が握られている。
 その短剣には、べっとりと鮮血が付着し、ぽたぽたと垂れていた。
 その血が、どれだけの死の回数をもたらして在るものなのかを考えた女性は、頭に血が昇りかけた。
「ミナゴロシ♪ ミナゴロシぃ……!!」
 一気に投げた。
 見事に眉間へと飛来する短剣を、冷静に避ける。
 本当は、女性は能力者ではない。
 容姿だけでなく能力まで違う彼女に偽装が出来たのは、いざという時の度胸の強さだった。
 だからこそ、女性は腰に携えていた黒光りする銃を引き抜こうとした。

 ズグン……!!

 右腹部に、鋭い鉄の入り込む感覚と、熱いくらいの痛みが奔った。
 引きつった顔で女性は自分の腹部を見つめる。
 そこには銀の装飾短剣が深々と突き刺さっていた。
 直線を過ぎてゆくはずの短剣が、ありえない角度を成して屈折していた。
 なんで、と呟いた。
 思考が焼き切れた女性の視界で、短剣を掴む手が現れる。
「―――――――っ!?」
 見上げるよりも早く、目の前に立っていた少女は迷うことなく短剣を引き抜いた。
 ぶぢゅん、と音が漏れ、血の糸を引いて短剣が離れる。
「が、はっ……!!」
 蹲る女性に、少女は嬉しそうに刃先の血を見つめた。
「キャハハ☆ オバサン弱〜い♪ ホントは能力者じゃないんじゃないの?」
 ぐ、と口腔に広がる血の味を堪えて、少女を睨む。
「グレイ〜、どうすんのぉ? すぐ殺すぅ?」
 念のための封殺に、少女は躊躇うことなく女性の押さえている傷口を踏みつけた。
 ひぐぅ! と悲鳴を上げる女性を一瞬見てから、男は船首部分に背を預けて三角座りで眠る白い少女を見つめた。
「いや、まずはSTELA≠殺す」
 男は白い少女に向けて手をかざす。
 白い煙の溢れ出るその手の平を一度固め、一気に親指を弾いた。


 瞬間だった。


 金糸の少女の脚を押し退け、白い少女に抱きつくようにして庇った。
 ズドン……! と女性の後ろ肩に被弾した何かによって、血飛沫が飛ぶ。
「ぐ、がぁ……!」
 肺に血が溜まり、呼吸が出来なくなる。
 構うことなく、女性は血まみれの腕で少女を抱きしめ、

「………ゴメン、ね。ワタ……シはもう、ここ…までだけど、アナタ……だけで、も……生き残るのよ………!」

 身体に残っていた力、総てを掻き出して、女性は白い少女を船首から落とした。
 金糸の少女は哂う。
「キャハ、なにあれ、殺すなら自分でぇってやつぅ〜?」
 だが、表情の強張った男は金糸の少女を半ば睨んだ。
「いかん! 確実に殺さなければ……!!」
 船首へと駆け寄る男は、振り返る。
「メルティ……!!」
「分かったわよぉ……ウルサイなぁも〜」
 不承不承と金糸の少女は頷く。
 頭上を旋回している戦闘機の一機に指を差し、指先に力を込めた。
「―――――――」
 能力の発動。
 戦闘機はいきなり明後日の方向へ弾道ミサイルを4発射出する。
 だが、金糸の少女が指先を指揮するように動かすと、4発のミサイルも動きを変え、真っ直ぐ白い少女へと飛んでいく。
「消えちゃえ☆」
 四つの爆薬の詰まった鉄の兵器が、白い少女に衝突する。


 はずだった。



 ―――――――リイイィィィィィン―――――――



 どこかから鈴の涼しげな音が過ぎり、その瞬間に、白い少女へと飛んでいたミサイルがいきなりバラバラになった。
「………っっ!」
「………え?」
 2人も唖然とした。
 ミサイルは総て爆発することなく、粉々にばらけて四散する。
 そうこうしている内に、白い少女は重力に従って雲の中へと落ちてゆき、見失ってしまった。
「……………」
 船首から覗き込んでいた男はじっと雲を見つめていた。
 金糸の少女は叫ぶように困惑する。
「ちょっとナニ今の!? ミサイル全部壊されたよ、グレイ!!」
 まだ何かぎゃーすか言っている少女を無視して、男は舌打ちをして船首から離れた。
「………仕方が無い。メルティ……エレシカに報告だ。失敗した、すぐにファインダー(探索部隊)をよこせ、とな」
「え〜、メンドくさ〜い」
 ぶーたれる少女に咎めの睨みを利かせると、少女は舌を出してどっかへと行ってしまった。
 一人残った男は視線を落とす。
 足元で、男の服よりも紅い血溜りに浮かぶ女性はぴくりとも動かない。
 確認するまでもなく、絶命していた。
「……………、……?」
 ふと気付く。
 女性の伸ばした右腕の先、中指だけが突き立っていた。

『ザマぁ見ろ』

 そう言っているようなその手を、ブーツの底で踏み砕いた。
 ベキベキ、と潰れる肉音の後に、風を切る静寂だけが耳障りに伝わる。
 もう舌打ちも嫌になった男は頭上を飛び交う戦闘機を見上げてから、歩き出した。
「ふん、掃除当番で済めばいいんだがな」
 毒づくように、自重して呟いた。


 =※=※=





 それはまだちょっと一歩手前の世界。ずっと眠り続ける。夜は更ける、日は出でる。

 まだ……少し前。





 ・1st song     日常世界





「―――――――あ……」

 頭が痛い。
 実質5時ごろまで起きていたせいであって、早い話が自業自得なんだが、彼にはそんなのどうでもいい。
 要は過去ではなく、現在をどうにかするしか人間には出来ないものなわけで。

「………うあ……亜……!?」

 頭の中でシンバルだらけのオーケストラが強制演奏を続ける。
 さらに横槍入れようってんだからたまったもんじゃない。
 誰だ眠りを妨げるのは、と苛立った。こっちは今シンバル部隊と交戦中だというのに。

「……………ってば! ……あぁ!?」

 加えてカーテンを開けて日光を青年に浴びせてくる。
 そこで照らし出された少女が誰かを知った。
 何を隠そう、こんなギャルゲーの王道イベント的ヒロインは隣家の幼馴染みの瑞樹 澪(みずき みお)じゃないですか、と朧気に青年は思う。
 思って……シーツを目深に被ろうとして、



「恭亜ぁ!? いい加減起きなさい!!」

 一気にシーツを剥がされた。
 朝の新鮮な空気を肺に送り込み、仕方なしに青年はゆっくりと起き上がった。
 もう貧血者もびっくりの真っ青顔で起き上がると、顔を覗き込んだ少女は目を丸くしてた。
「わっ、ちょっと恭亜、凄い顔よ? 何時に寝たの?」
「……………ごじ」
 とりあえず答えるだけ答えると、少女は呆れる。
「まったく……私が起きるのと入れ違いじゃない。身体に障るよ?」
 咎めの言葉に青年はうへぇ、と唸った。なんて時間から活動しだすんですかアナタは、と。
 青年はさもうざったそうに髪をかき上げてベッドから降りた。
 瑞樹 澪は学園の制服を着ていた。全体が白に蒼いラインが入り、コバルトブルーのネクタイが清潔感を帯びて首に掛かり、綺麗に流した栗毛色の髪と相まって清楚をかもし出していた。
 鼻筋も整った可憐な表情を曇らせて、ベッドから這い降りただらしない青年をねめつけた。
「もぉ……、早く寝ないから悪いんだよ?」
「って、いま何時……げぇっ、6時半!? なんつぅ時間にヒトん家入り込んでんだお前はっ」
 壁掛け時計を見上げて青年は叫ぶ。
 シンプルな白の上を追いかけっこする短針と長針。もうすぐ長針が短針に追いつこうとしていた。
「5時半にはこっちに来たけど、なにが早いの?」
 さも普通にきょとんとする澪に青年はありえねぇ、と愕然とした。
「こんの早朝起動型ターミネーターめ……俺を巻き込んでも未来は変わらねぇぞ!?」
「朝から何をよく解らないことを言っているの……?」
 訝しむ澪にため息でスルーしてから、背を押して部屋から追い出した。
「ったく……」
 伸びをする青年に、ドア越しから「早く着替えてね〜!」という澪の声がしてへぇへぇ、と曖昧に返事した。
 さっさと着替えて下に行かないと、またガヤガヤ言われると青年はハンガーに掛かっているハニーブロンドの制服を引っ掴んだ。







 くあぁ〜、と欠伸を噛み殺して階段を下りると、濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。
 廊下を素足で進み、リビングを過ぎってダイニングに向かうと、さらにその芳しい香りの正体がテーブルの上で湯気を吐いている。
 味噌汁、目玉焼きに鯖の塩焼き、お米が椀でどん。
 何気ない朝食のメニューだが、姫宮 恭亜(ひめみや きょうあ)は頬を引きつらせた。
「………なんだこの見事な料理の数々は」
「え? 普通に作ったつもりだけれど……変かな?」
 鍋を水で濯ぎ終えた澪はキッチンから出てきてエプロンで手を拭きながら恭亜の顔色を窺った。
 むぅ、と唸ってからとりあえず椅子に座り、箸を持って味噌汁の入った御椀を持って、口元に運ぶ。
 向かいの椅子に座って澪がじっとこっちを見つめるが、大したプレッシャーは感じない。むしろコミカルだ。
 ずず、と啜ると、永いこと水分を含んでいなかった口腔内に濃厚でさっぱりとした味噌の味が浸透してゆく。
「………ど、どうですか?」
 何故か敬語。上目遣いでまた顔を窺う澪と目を合わせながら数秒思案した。
 美味い。美味の極みだ。
 澪に気付かれないように恭亜は訝しんだ。
 ただの白味噌なのに、この絶妙な濃さ、眠い意識を覚醒させる程良い熱さ、豆腐と葱だけのシンプルな具材が雑な味を作らない。
 至高の一品だ。スーパーのタイムセールスで勝ち取った、ただの白味噌なのに。
「……………謎だ」
「え?」
「いや、なんでも」
 また啜る恭亜に、少し身を乗り上げる澪。
「美味しい?」
「ん、まあ美味いな」
「ほんと!?」
 嬉しそうに頬を染めて澪は立ち上がった。
 若干仰け反って恭亜は怖気付くが、こくこくと頷く。
「じゃ、じゃあ鯖も食べてみて! 今日は凄い上手く出来たの……!!」
「あ、ああ……」
 鯖の身を箸でほぐして口に含みつつ、ちらと澪を見る。
 どう? とこっちを見てくる。
「……そうだな、コレも美味い。まあ、全体を見るなら85点ってとこだな」
 きょとんとする澪。
「あとの15点は?」
「内5点は次回に頑張るためにってことで」
 社交辞令に近い言い分で味噌汁を啜る恭亜を、澪は頬を膨らまして睨んだ。
 明らかに不満そうだった。
「……あとの10点」
 は何? というのを省く澪に恭亜は目を合わせずに頬を引きつらせる。
「こんなクソ眠い時間帯に来やがった分だ」
 一気に澪の表情が泣き顔になった。
「なにそれぇ!?」
「うっせぇ!! 毎日毎日不法侵入しくさりやがって……! 多少の減点があっても80点以上じゃねぇーか!! 成績なら8以上じゃねぇか!!」
「なんで次回の期待よりも起こしに行くほうが減点大きいのぉ!?」
「そっちかい!!!」
 むむむ、と顔を赤くする澪を見上げながら、恭亜はため息をついた。
「ったく、メンドくせぇな……第一、7時には起きれるんだし朝飯はメンドイからいいっつてんだろうが」
「でも、朝ごはん食べなきゃ駄目だよ。7時じゃ料理なんて出来ないでしょ?」
「サプリ(栄養剤)飲むし」
 テーブルに手をついて憤然と立ち上がった。
「ちゃんとご飯食べなきゃ駄目!!」
「朝っぱらからデカい声だすなっての……!」
 まだ紅潮させた頬のまま澪が睨んでくる。
 鯖を食べながら恭亜はため息をまたついた。
「ってか頼んでもないのに飯作ってんなよ。今日みたいに夜更かしする日もあるんだからよ」
「……………夜更かしって言わないじゃない……」
「なんか言ったか?」
 なーんでも、と拗ねた顔を背ける澪。
 いつもこうだ。味噌汁を啜りながら恭亜は思う。
 何かにつけて家に入り込み、料理を作って待機している。
 人が寝ている隙に自宅に戻って飯、食ったらすぐに姫宮宅に着て恭亜を起こす、という図式だ。
 回りくどいったらありゃしない。精神的に鬼だ。
 昔から学園でも1,2を争うアイドル的存在の瑞樹 澪、16歳。眉目秀麗、成績優秀、性格温厚、気さくで世話好き、料理に目覚め5年で下手な主婦顔負け、さらさらの髪に母性表すふっくらバスト、運動神経は中の上で虫が苦手だが、それでも完璧と呼ぶに相応しい。
 まあ、唯一の負い目というか汚点というか、恭亜の世話を焼こうとつきまとうのが、学園の男子にとって厄介事だった。
 そんな渦中に放り込まれた恭亜からしてみれば悩み大きい迷惑だ。朝からちゃんとした美味い飯にありつけるのはありがたいが、どっちかっていうと面倒で嫌だというのが本音。
 口にした瞬間にマジで泣きが入るため、触れちゃいけないタブーと化しているが……。
 目玉焼きを箸で裂き、時計をちらりと見てから、
「澪、テレビつけてくれテレビ。8チャン」
 澪の傍に置いてあるリモコンを箸で差す。
 行儀が悪い! と文句を言いながらも、テレビをつけてチャンネルを操作する。
 狙ったタイミングのため、ブラウン管に映るキャスターの運勢占いコーナーが始まった。
 今度は澪がため息をつく。
「まったく、こんなのばっかり見て……最近通り魔事件だって少なくないんだからね」
「メンドくせぇ」
 さらっと言い切る恭亜をねめつけて、澪もテレビを見る。
『今日の運勢NO.1は射手座のアナタ! 近いうちに驚きの展開が待っているかも♪』
「あ、私1位だ」
 ふと嬉しそうに澪が微笑んだ。
 苛付くほどではないが、なんとなく釈然としない恭亜。
 しかも、
『逆に今日の最下位は乙女座のアナタ。大きな落し物がありそう、注意してね』
 ぐ、と飲み込もうとした米がつっかえそうになった。
 見事に最下位になった恭亜を苦笑しながら澪は口元に手を当てた。
「あらら、最下位かぁ……」
「とか言いつつも嬉しそうだぞ」
 味噌汁を啜る恭亜に、澪は可愛く舌を出して対抗の意を示した。
「大きな落し物、ねぇ……財布とかか」
「案外もっと大きかったりして」
「もっと大きい? ………命とか?」
 悪戯めいた上機嫌の澪の顔が、瞬時に強張った。
 テーブルを叩いて立ち上がる。
「やめてよ!! 縁起でもないっ!」
「う、わっ! わ、悪かったって、冗談だよ冗談」
「冗談でも駄目!!」
 凄い剣幕で迫る澪。その過剰反応につい反射で頷くと、うな垂れるように顔を伏せて澪は息をついた。
「………やだよ……恭亜まで……その、いなくなっちゃったら」
 声が小さくなる澪を、とりあえず座らせてから飯を急いでかっこみ、食器を積んで頭を下げる。
「悪かったって……軽々しく言わないからさ」
「……………」
「ほんっっっとゴメン!」
 両手で拝むように謝る恭亜に、負けたように苦笑を浮かべた。
「もぅ……ほんとだよ」
 積んだ食器を持ち、
「次言ったら、絶交だからね」
 スリッパを鳴らしながらキッチンへと歩いていってしまった。
 その背中を見つめてから、テレビのほうへ向かってため息をついた。
「………あ〜もう、自分で自分がメンドくせぇ。そう思うだろ? 後藤さん」
 ガシガシと頭を掻いてキャスターのおっさんに訊いてみたが、今日は曇りだとかほざいていた。







 時刻は7時15分。
 8時半が学校の開始時刻なのに対し、彼等の通学時間はわずか20分。
 しかも、途中までは恭亜の自転車に二人乗りするため、10分程度で済む。
 そんな時間に家を出るのもおかしな話だが、澪が部活をしているため早いのだ。
 何が哀しきかな、恭亜も一緒に連れて行かれる。というか、澪が今までずっと姫宮宅で茶を飲んで和んでいたため、回避しようがなかった。
 万年帰宅部の恭亜は渋々と玄関に向かい背後に声をかけた。
「澪、行くぞ」
「あ、ちょっと待ってよ……!」
 廊下に一瞬姿を現し、リビングへ向かうと手を合わせる音がする。
 戻って部屋を覗くと、本棚の上に乗っている写真立てに拝み手で目を瞑る澪。
「おじさん、おばさん……行ってきますね」
 そこに映っている綺麗な女性と凛々しい男性とが、小生意気そうな子供と家の前で立っている姿。
 じっと見つめていた恭亜に気付き、澪はバツが悪そうに立ち上がった。
「あ………ごめんなさい、余計なこと……」
 苦笑しながら首を横に振った。
「なんでお前が謝るんだよ、悪くねぇから今ずっと待ってたんだよ」
 ただ、疲れたように笑ってしまったせいか、まだ澪の表情は暗いままだった。
「早く行くぞ」
「あ、うん……!」
 玄関の前で靴紐を結んで身を起こすと、慌てて出てきた澪が扉を閉め、持っていた鍵を差す。
「………っつかさぁ……なんでお前俺ん家の合鍵持ってんだよ」
 え? と振り返り、手に持つ白いリボンテープの可愛らしい鍵を見つめ、恭亜へ向き直る。
「だって、コレが無いと恭亜の家に入れないから……」
「……………」
 家宅侵入云々には着眼しないことを前提に小首を傾げる澪。
 もう何も言いたくなくなった恭亜は疲れた風に自転車の鍵を開けた。
「行くぞ」
「あ、うん」
 後ろの荷台に、スカートを整えてから乗り込む。
 伊達に鍛えていない恭亜は一気に走り出す。
 勢いよく突き進み、坂を下りてゆく。
「風が心地いいね」
 後ろから澪が言ってくる。
「今日は午後から暑くなるって言ってたね」
「もう6月も半ばか……お前んとこの活動はどうなってんだ?」
 澪はブラスバンド部のソロフルートの若きエースだとか天才だとか管楽器界の最高位金字塔だとか云われている。
 それ相応の実力を誇り、大会がある度に金のトロフィー片手に姫宮宅に来襲してくる。
「うん、そろそろ来月大会があって練習したいしね」
 ふぅん、と生返事する恭亜の背中を、ちらりと見てから頬を膨らませる。
「そういう恭亜だって、道場とかどうなの?」
「どうなの……って、どういう意味だ?」
「大会とかだよ」
「は? 無いに決まってんだろ、あんな空手・柔・合気・テコンドー・剣道一緒くたの奇天烈道場」
 あぁそっか、と納得する澪。
 坂を下り終えると道を曲がり、徐々に減速する。
 学園のアイドルと隣家の幼馴染みだというだけでも男子生徒に睨まれている昨今。
 登校までこんな密着状態でやって来ようものなら洒落じゃ済まされない可能性が生まれる。

『別に私は、恭亜なら気にならないけど?』

 と澪に言われたことがあるが、そんなこと≠オたって無事で済む人に言われてもあまり鵜呑みには出来ない。
「そろそろ降りろ」
「え〜、まだいいじゃない」
「降・り・ろ」
 頬を膨らまして不満気に降りる澪。
 澪の歩く速度に合わせてゆっくりと自転車を進める。
 そろそろ距離を取っておかないと、誰に見られそうで怖い。
 落ち着かない気分で歩いていると、澪が顔を覗き込んできた。
「ねぇ、またお弁当作らないでいいの?」
 前々から恭亜のための弁当を作りたがる澪。
 腕上げがしたいし、と言い訳めいた返答をされたが安心すべきです、ほぼ毎朝ご馳走を喰らわされていますから。
「遠慮しとく」
 これもほぼ毎日言っている返答なので、不満気だが澪は何も言わなかった。
 さっきから訳がわからない。笑ったと思えば、いきなり怒り、さらっと落ち込む。
 表情がころころと変わって面白いといえば面白いが、謎は謎。
 首を捻る恭亜を小走りで抜けてゆき、振り返って男子100%撃墜の笑顔を向けた。
「早く行こうよ、恭亜!」
 はためくスカート。後ろ手で持つ学生鞄。厚い雲間から覗くなけなしの陽光が栗毛の髪を透かせ、より一層スマイルが眩しいぜ!!
(……とか思うのは幼馴染みの特権ですか? 学園の野獣どもへの宣戦布告ですか?)
 恭亜の苦悩の張本人は手を振って無邪気に手招いていた。


 =※=※=





 彼方へ、彼方へ。途方もない彼方へ。それは必然か偶然か決められない。

 それでも、やっと手に入れた。





 ・2nd song     変わる世界





 予鈴が鳴り響き、今日の授業が終わる。
「今日はショートホームルームはありません〜。でも、1年生はまだ授業があるので、あまり長居しないようにしてくださいねぇ〜」
 担任、小早川 小夜子(こばやかわ さよこ)のまったりとした声と共に解放される生徒達。
(1年はまだか……さっさと帰るか。今日は道場もねぇし)
 鞄に何も入れず、置き勉主義者全開の姫宮 恭亜は席を立つ。
 背後から声がした。
「恭亜」
 振り向くと、そこには鞄と何かの細長い黒のケースを持った瑞樹 澪がいた。
「なんだお前か」
「なんだって何よ、なんだって」
 少し目を細めてじとっとした視線を送ってくる。さすがに人の多い場所では頬は膨らませないらしい。
「これからヒマかな。またフルートの練習―――――――」
「ヤダね」
 即座に切り落とした。
 途端に澪の表情が曇る。
「なんで?」
「メンドくせぇ」
 口癖発動。う、と澪の表情は苦々しいものに変わる。
 ふと恭亜は視線を巡らせた。
 教室にいるほとんどの男子生徒がこっちをちら見ている。
 理由を挙げるのは無粋だが、確実にもう一つの理由は恭亜に対する嫉妬だろう。
 しかも憎悪付きかもしれない。学園のアイドルの誘いをあっさりと蹴る男子なんて、恭亜ぐらいなものだ。
 段々その視線にイラッときた恭亜は、学生鞄を肩に担いでさっさと教室を出て行った。
「あ、待ってよ恭亜……!」
 慌てて澪も追ってくる。
 隣りにくっ付いた澪は歩きながら恭亜の顔を覗き込んだ。
「恭亜、何か怒ってない?」
「別に」
 端的に答える恭亜に、澪はうな垂れるように納得して前を向き直す。
「朝もさっさと教室に行って寝てたし……あ、授業中に寝るの厳禁! 隣りであたふたしちゃったんだよ?」
 ビッと指を差して顔を近づけてくる。
 苦虫を噛んだような顔でそっぽを向く恭亜。家も隣りなのに、座席まで隣りだから苦悩だ。
 澪は恭亜の服の袖を軽く摘んで懇願の表情をする。
「ねえお願い、今日は道場ないでしょう? フルートの練習を手伝ってよ、恭亜楽器結構上手いし」
 瑞樹 澪のお願い。
 円涼堂(まどかりょうどう)学園の男子生徒の99%が求めるイベントだろう。羨ましかろう。
 だがその1%の例外である恭亜からしてみれば慣れとは恐い、懇願は嬉しいとは思えない。
 とにかく恭亜の常套手段は『三十六計逃げるに然る』である。戦術的撤退。思考フル回転。
「あ、そういや俺、これから人と落ち合う約束あったんだった」
 なんてアホらしい嘘。
 絶対にそんなの信じるはずがない、と思うだろう。
 だが、
「え、そうなの?」
 素で信じやがった。したり顔で恭亜は内心ガッツポーズ。
 そうなのだ。普通なら馬鹿な逃げ腰に感じられるが、恭亜のようないい加減な人間性が生んだど忘れと思ったらしい。
 澪の人の良さも関係するが、なんにしても即席の嘘が大分効率良く働いた。
「これから会いにいくんだ。まあ夜まで帰ってこねぇから、飯なんて作ってたりすんな。それと、」
 恭亜は澪の耳元で囁く。
「今夜は声がやかましいだろうけど、聞き耳立ててんなよ?」
 含みのある物言いに、数秒その言葉を考え込んでいた澪はようやく意味に気付き、耳まで真っ赤にして顔を上げた。
「な゛っ!? な、ななな、ななっ……!」
 面白い反応にくっくっく、と噛み締める笑いをしながら足早に恭亜が歩き出し、
「きょ、恭亜のばかぁ……!!」
 若干人目を忘れた澪の激怒が背後から轟いた。



 コンパスはそれほど短くないが、ゆっくりと歩きながら燃えるような夕陽を浴びて恭亜は進む。
 だらだらと自転車を押して、自分で創りだした空白を埋めるスケジュールを練った。
 まあ、コンビニや漫画喫茶だってある。時間はいくらでも埋められるし、ぼーっとしてるのは嫌いじゃなかった。
 さすがに夕陽を数時間も眺めていられる真性の暇人ではない。
 とりあえず幼馴染みに訝しげられないように、自転車を自宅に置いてからにした。










 さぁてと、と首をコキコキ鳴らして恭亜は予定通り漫画喫茶を出た。
 時刻は夜8時過ぎ。
 かれこれ2時間もの間、ざっと目で追って発見した大手出版社の有名な少女漫画を読み漁った。
 澪が面白い面白いと勧めてきたことのある漫画で、ふざけんなの一言で一蹴したが、
『だって恭亜、姫宮なんて苗字なのに勿体無いし。私、恭亜が少女漫画読んでもおかしいとは思わないよ?』
 とのことらしい。余計ふざけんな、だ。
 苗字が女っぽいのは認めるが、女扱いされて嬉しいわけがない。というか言い訳の後半は完全に個人的発言に近い。
 まあそこまでベタベタな少女漫画でもなかったし、たまにあの漫画の話をしたがっていた気がするので、いい機会だと思った。
 速読術を漫画に起用してみたが、こと国語的なものは澪をも凌駕する左脳派だ。場面場面は記憶に残した。
 近いうちにさらっと話を振ればいい。
 なんにせよ12巻まであった本を総て読破し(主人公の少女が女ライバルに唆されて彷徨う彼氏を捜して街を疾走するシーンで終わるという、なんか微妙に先が気になるところまで読み終えて)外に出ると、雲に覆われた灰の暗闇が広がっていた。
 このままこっそりと帰って、今日はもうさっさと寝てしまおうと思い、恭亜は商店街を後にした。



 繁華街から少し離れた住宅地区をのんびりと歩く恭亜。
 薄手のブレザーとはいえ、そろそろ暑くなりだした季節を早く動くと、簡単に汗が出てくる。
 早くクーラーの利いた部屋に帰りたいが、汗をかいてベトベトになるのは抵抗がある。
 普段道場で殴り合いに近いことをやっている反動で、凄いまったりが好きになりつつある。
 時たま吹く風を頬に感じ、細い路地を歩いた。

 パタタ……、

「ん?」
 髪に何かがかかった。
 虫だろうと頭を揺らしながら頭上で手をぱたつかせたが、

 パタタ、パタ……、

 また髪に何かがかかる。
 どうも虫ではなく、何か粉のようなものらしい。
 嫌そうな顔で頭をはたき、手に乗った粉を見つめた。
「なんだこりゃ……」
 しかめっ面になった。
 粉、というよりは軽い金属片。薄ら黒い破片で、しかも引きちぎったというよりは、スライスされたような平べったさがある。
 手の上の謎物質を凝視していると、彼の周りにもぱらぱらと降ってくる。
 なにか、と思わず上を見上げた。
 黒い雪の振る、雲に覆われた空。
 その視界の中心で、一点だけ白がある。
 段々とその白い点が大きくなり、点ではないことが判った。


 判った瞬間、恭亜の思考が刹那の停滞を起こした。
 それは、白い布に覆われた―――――――



 人間。



 「………っでぇぇぇえええええっ!!?」
 反射的に叫んだ。
 そして学生鞄を投げ捨ててダッシュする。
 真上かと思った白い塊は、落下地点が少し前にずれていた。
 白濁した思考のなかで、間に合え! と叫ぶ自分がいる。
 タイミングギリギリで両腕を差し出し、脚に全力を込めて飛び込み。
 白い塊を抱きつくように受け、地面へ倒れこんだ。
 地面に真っ直ぐと落ちる勢いを殺しきれずに、コンクリートで舗装された地面をごろごろと数回転して停止した。
 数秒間、言葉はおろか音すら無い静寂に包まれた。
 やがて、
「……………………………………………………っつぁあ〜……」
 恭亜の蒸気機関車のように空気を吐く声が辺りに染み込んだ。
 灰の空を見つめ、呆然としていた恭亜は自分の腕に触れる柔らかい何かに気付き、上半身を起こした。
 腕に抱くのは、所々赤みがかった白い布。
 その中に包まれている重量感の正体は、
「お、おんなぁ!?」
 見たこともないほど白い少女だった。
 髪は脱色したって出来ないような純白で、肌も病人を通り越した白一色。
 桜色の唇とかやや褐色めいた目元などよく言うが、何から何まで真っ白だ。だが、不思議とその白さに異様さを感じなかった。
 歳は小学生高学年ぐらいだろうか、幼いその顔は凍ったように動かない。
 人形の類と思ったが、胸の辺りが小さく反復を繰り返しているあたり、呼吸はしているようだった。
(………生きて、る?)
 そんな感じはまるで無い。死んでいるように気配が無く、目を閉じると本当にそこにいるのか疑いたくなるほど大気と一体化していた。
 それに、吸い込まれそうなほど洗練された相貌。
 可憐というより、綺麗という感性に似ていた。達人の生涯最高の出来映えの、硝子細工のような木目細やかさ。指先一本触れただけで価値が下がってしまいそうな繊細さ。夢物語でも無いような、まさに見たことの無い美しさ≠セった。
 見惚れている恭亜をさらに現実から遠ざけたのは、彼女を包む同色の白い布に付着している赤が、血であることが判ってからだった。
「―――――――、」
 言葉を失いかけた。

 空から降ってきたこと。あまりにも人間離れした容姿。血だらけの服装。

 またもや停滞しかけた思考を完全に戻すきっかけが起きた。
 身を捩った際に、白い布が肌蹴てしまう。
 まあ、別の意味では意識がぶっ飛びそうになった。
 なぜなら、白い布から露出した肌はどこまでも壮麗で可憐だ。
 そう―――――――どこまでも。
「……………は?」
 思いっきり見てしまった。
 肌蹴た布から出てきた細い体躯は、胸にも腹にも脚にも……何も身に着けていない。

 早い話が、彼女は全


「ど、わああああああああああああああああああああ!!!」


 男の条件反射。
 恭亜は咆哮で自らの思考を中断した。










 ドタバタガタン!! と騒々しい音がして、フルートから口を離して耳をそばだてる。
 バタン!! と玄関が盛大に閉まる音が響き、ドタドタドタと階段を駆け上る音も聴こえて、瑞樹 澪は首をかしげた。
(………恭亜?)
 それっきり、大きな音は聴こえない。
 ただ時たま、馴染みの隣人が何かを焦ったように叫ぶ声がするが、言葉までは聴き取れなかった。
 彼の言い分だと澪の知らないガールフレンドと、家であれだのこれだのやるかもしれないかもと集中が出来なかった。
 にしては随分と騒々しい。
 喧嘩、という単語が不意に浮かんだが、余計な詮索をして嫌がられるのもはばかられた。
 危惧する表情で窓の向こうの家を見つめる。
 まあ、そういう≠アとなら明日はあの家には行かないほうがいいと判断した澪は、雑念と格闘しながらフルート練習を再開した。





 玄関の脇に停めてある自転車に、あらん限りに脚をぶつけた。
「っ痛ぇえ……!!」
 だが、その脚の速度はほとんど死んでいない。
 見事なまでの華麗な回転で、玄関を滑り込むように入って玄関を蹴りで閉めた。
 靴を脱ぎ散らかし、それ≠担ぎ直して階段を一段飛びで上る。
 上りきったところで視線を巡らし逡巡、迷った末に自室とは正反対の部屋へ駆けドアを開けて、もう何年も使っていないベッドの上にそれ≠静かに置き、そこでやっと姫宮 恭亜は呼吸を整えることを許された。
 はぁ、はぁ、と肩で息をいながら壁に背もたれ床にどかっと座り込む。
 梅雨時期の全力疾走のせいで珠のような汗をだくだく流しながら、肺に酸素を取り込み二酸化炭素を吐き出す。自然破壊の小さな運動。そんなの関係ない状況ではあるが、そんな感性がしょうもなく生まれて消えた。
 ベッドの上のそれ≠見て、幾分か冷静になれてきた脳を出来る限り回転させた。
 由々しき事態だ。
 それなりに判断能力の高い恭亜の脳が生み出した結論は、『まずはコイツを家に運ぼう!!』だった。
 熱くすぎて、ブレザーを脱ぎ捨て、シャツのボタンを全部開けて息を整えきる。
 ゆっくりと立ち上がり、額をシャツの裾で拭ってそれ≠ノ近づく。
 白い布に包まれたそれ≠傍観していたが、やがてどうしていいか判らなくなって、また壁を背に座りなおした。
「……くっそ、なんなんだよ。一体……」
 天井の蛍光灯を眺めながら、恭亜はぼんやりと呟きながら目を閉じてみる。
「なんなんだよ……なに、が………どう……………な……って……………、………―――――――」
 気が付いた時にはもう、深い深い意識の奥底だった。


 =※=※=





 『なんてことない日常』『変わり果てた日常』。決してあってはならない副音声。

 一体それはどちらの日常なのか……。





 ・3rd song     恭亜の雑念





 差し込む陽光に当てられて、姫宮 恭亜は目を開けた。
 昨日は頭が痛かった。
 今日は、
「い、でででででっ……!」
 腰にキていた。
 といのも、壁に寄り掛かるようにして眠ってしまったため、嫌でも目覚めるしかなかった。
 フローリングの床に転がり、逆海老の体勢で矯正。
 くは〜、と息を吐いて立ち上がり、現状を理解した。
 それは、もう使うことの無いと思っていた部屋の、綺麗に洗濯して敷いておいたシーツの上に眠る、一人の少女。
 総てが白い少女。紅い血の染みて乾いた布に梱包されているような姿。
 天井を見上げ、未だに瞳を閉じて息をしている。
 じっとそれを見つめたが、恭亜は着心地の悪い着衣に気付いた。
 まだ学生服を着ていた。しかも少し泥がついて汚れている。
 顔をしかめて回復してゆく意識から、
「………メンドくせぇ」
 とりあえず毎日のように言い慣れた言葉が出てきて、余計に鬱になった。
 多少は余裕が出てきた。
 まずは現状維持しかないが、どうすればいいのだろう。
 もう一度少女を見つめてから、疲れたように息を吐いて、ちらと壁掛け時計を見てからため息をもういっちょついて

「………って、え゛ぇっ!? 8時10分!!?」

 バネ仕掛けのように弾かれて時計を凝視する。
 恭亜を裏切ることなく、時計は8時10分前を進んでいる。
 やばい、と青ざめた。
 学生鞄を掴んで一気にドアを蹴飛ばして開け、
「……………」
 ほんの少し少女を見つめてから、階段を駆け下りた。







「あ、恭亜……」
 ダイブ&スライディングで教室に滑り込んだ恭亜を見て、瑞樹 澪は頬を赤らめた。
「くはぁ! ま、間に合った……!!」
 床でぐでぇ〜っとする恭亜を見兼ねて、頭痛めいた表情で澪は近づいた。
「もお! 恭亜ったら汚いよ!?」
「その声は澪さんではないですか、ああ……どこからか救いの手を差し伸べてくれるはずだった澪さん。なんでアナタはこんなところにいるんですか?」
「え……だ、だって……誰か、来てたんでしょ?」
 何故か誰か≠ニ遠めな表現だったのに、ピンときた恭亜はうな垂れながら顔を起こした。
「なんだ俺ん家に女が居たとでも言いたげですな〜。気になんの?」
 腰を屈めて眺めている澪の顔が紅潮した。
「そ、そんなわけじゃ! ……ない、け…ど………」
 何でか青菜に塩な反応を示す澪に、恭亜は首をかしげながら息をついた。
「別に昨日は誰とも逢ってないぞ?」
 澪の目が丸くなる。
「え? でも昨日は―――――――」
 そこまで言って、澪は姫宮 恭亜という人間を思い出し、人目を忘れて頬を少し膨らませた。
 にしし、と意地の悪い笑みで見上げてくる恭亜。
「嘘だったの?」
「ったりめぇだ。さっさと帰って寝たかったっつの」
「………ばか」
 拗ねたように桜色の唇を尖らせる。
「るせ、馬鹿っつーな。っていうかな澪さんよ、寝転がっている人間にスカートで屈んだら見えるモノだってあるわけですよ」
 何が? と言おうとしかけて、ボン! と顔が赤くなった。
「わ、わあっ!?」
 スカートを押さえて立ち上がる澪に、ニヤニヤ笑いながら恭亜も身を起こして机に座る。
 ふてくされた表情で澪も自分の席に着く。
 だが、いかんせん席も隣同士なので逃げたようではないことは確かだった。
 まだ少し顔を赤くさせながら澪は恭亜をねめつけた。
「でも、誰とも会ってないってことは一人だったの?」
「んあ? あ゛〜そうですそうです、ホントはずっと漫画喫茶にいた。お前が言ってた少女漫画読んだぞ」
 え? 澪は嬉しそうに輝かせた表情で振り向く。
「なんだっけか……『クライン・レイン』だったか?」
「うん! 読んでくれたんだぁっ、で? どう? 面白かった?」
 机の上にうつ伏せになりながら恭亜は記憶を引っ張り出しながら唸った。
「う゛〜……ま、嫌いじゃなかったぞ、ああいうのも」
「ホント!?」
「嘘ついてどーすんだよ」
「ふふ♪ だって恭亜嘘つきだから」
「っか〜、メンドくせぇ」
 両腕で枕にして寝る恭亜を後ろから見つめて、澪は満足そうに笑った。
「はい〜、予鈴鳴りま〜す。さっさと席に着きやがってくださいねぇ〜」
 担任、小早川 小夜子が入ってくるとワラワラと席に着く生徒達。
 赤みがかった茶の髪をウェーブさせた髪を腰まで伸ばし、碧のワンピースに栗色のカーディガンという、『どこの深窓のお嬢様だ』とツッコミたくなる格好の小早川 小夜子はのんびりとした口調で出席名簿を開いた。
「あらあら、今日もお休みのいないクラスで、先生嬉しいわぁ♪」
 24時間体制で日向ぼっこしてそうな、とろんとした顔で微笑む。
 というか、一度ロングホームルームで生徒達の修学旅行の班決めの際にこっそりと寝こけてたりする、奇想天外キャラが生徒にかなり慕われている教師だ。
 しかも、自分の授業中に居眠りしたという伝説まで残す、文部科学省を震撼させ兼ねないレベルの人物でもある。
 歳もまだ21だった気がするが、その度胸は余裕からか、ただ間が抜けているだけなのか。
「あらあら、今日も2時間目までですね〜。今度の体育祭の種目決めして、係も決めちゃいましょ〜」
 それではまた〜、と教室を出てゆく小早川 小夜子を見てから、ぐでーっと恭亜は机に突っ伏した。
 澪はクラスの誰かに声をかけられるよりも先に恭亜の傍に立った。
 ぐ、と生徒達の苦悶する声がした。恭亜といる以上、誰も澪に話しかけられないからだ。
 そういう意味では恭亜がアイドルバリアと化しているが、澪には自覚はないようだ。
「恭亜は種目なににするつもりなの?」
「パン食い」
 狙ったように即座に答えたので、澪は眉をひそめた。
「なんで?」
「決まってんだろ。ちょっと走るだけでパンが食えるんだぞ? タダで」
 しょうもない、といった感じで澪は肩を竦めた。
「もう、食い意地ばっかりだね」
「常時泰然主義と言ってもらおうか」
 ふふ、と吹き出す澪。
 学園の男子が命を捨ててもやりたいと願う瑞樹 澪との何気ない会話。
 四方八方から突き刺さる視線を無視して、恭亜はもう少し眠りたくなった。
「寝てないの?」
 と訊いてくる澪に視線を向ける。
「うんにゃ、帰ってきてすぐ寝ちまった」
 そう答える恭亜に、澪は小首をかしげた。
「そういえば……恭亜、昨日すごい慌てて帰ってこなかった?」
 どきり、とした。
「………不審者に追われてたり?」
「恭亜、喧嘩だったら絶対に負けないじゃない」
 ぐ、と唸った。
 まさか白一色の落下少女を家に連れ込んだとは言えない。しかもこんな場所でなんて。
「そんなにウルさかったか?」
「うるさいってほどじゃなかったけれど……隣りだからね、結構聴こえたよ」
「いや、観たいテレビがあったから急いで帰ってきたんだ」
「ふぅん……」
 納得しているのか疑っているのか判らない反応をしながら澪はサラサラの髪をかき上げた。
 何はともあれ、会話の切れたところを見計らって恭亜は惰眠を貪ろうと顔を伏せた。


「見つけたぁあ!!」


 教室に響くソプラノの声に、クラスの全員が視線を向けた。
 前の扉の前に佇むその少女を見た瞬間、全員が何事も無かったかのように自分達の会話を再会し始める。
 何故なら、その少女がこのクラスに来たということは、たった一人のために来たということだった。
 少女はズカズカと教室に入り込み、腰に手を当てて、うつ伏せの恭亜を見下ろした。
「恭!? 起きろバカ助!!」
 少女は胸を張って叫ぶ。
 叫ぶ、といっても少女の小柄すぎる身体から出る音声はそれほどでもなかった。
 ただ、近くで聴くとこれが騒音問題なわけではある。
「起きろっていってるのだ! というか起きてるんだろうがゴラァ!!」
「……………」
「ちょ、ちょっと恭亜?」
 危惧する澪の声がしたので、面倒臭くなった恭亜はこっちから仕掛けた。
「返事が無い。ただの屍のようだ」
「……っ!!」
 カチンときた少女は、ほんの少し頭を下げ、反動で右足を綺麗に振り上げ、一気に振り落とした。
 判っていたかのように恭亜が跳ね起きると、少女の踵落としが机……恭亜の頭のあった場所を見事に打ち付けた。
 ズドォン……! と鈍い音が机の中で反響した。
 ちらと見ていた男子生徒が「お〜」と感嘆の声を上げる。
「おい、そこの野獣ども。言っておくが、スパッツ履いてるぞコイツ」
 ツッコんでみたが、小さな声で「………それでも良し………!」という返事がした気がして、聴こえていた恭亜だけは背筋を凍らして前を向いた。
 恭亜の視界に入ってきたのは、机から脚を戻して腰に手を当て直す少女。
 制服を着込み、赤っぽい茶の髪を首まで無造作に伸ばす、かなり体格の小さい少女。
 顔は澪に負けず劣らず眉目秀麗で、やや吊り目で強気の表情で八重歯がキッと出ている。
 とにかく中学生並みの小ささで、これが一個下とは到底思えない。
 睨み続けてくる少女を、恭亜はげんなりとした顔で相手した。
「またお前か。なんだ今日は、メンドくせぇ」
「うっさい、うっさい、うっさあ〜い!!」
 両腕を高く上げて叫ぶ。確実にこの室内で一番喧しい少女はビシィっと指差した。
「やい恭っ! 昨日勝手に帰ったのは、どういう了見だ!?」
「あん? 俺は2時間で終わったからだろうが。お前は6時間分フルであったんだろ?」
「に゛ゃにぃ〜!? そうか……それでお昼時に行っても誰もいなかったのか……てっきりボイコットかなんかかと」
「学年総出でやることじゃねぇだろ」
「ええい、だまれだまれぃ!」
 腕を振って大きな声を張り上げる少女に、恭亜はため息をついた。
「で? もの凄く訊きたかねぇが、用件っつのはまさか……」
 笑いもせず、迷いもせず、少女は肩から指先まで真っ直ぐと恭亜を指差した。
「決まっているだろう。昨日の分、今すぐ闘えぇ!!」
 ここで効果音があるなら、『ズシャアアアン!!』みたいな雷めいた音がしたことだろう。
 だが恭亜は即座に斬り捨てる。
「断る」
「にゃにおぅ? な、何ゆえにだ!?」
「メンドくせぇ」
「に゛ゃあ!? お、おどれの言い訳なんて聞きたくないのだ! 一日一戦!! それが約束だぞ!?」
「一日に一回闘う余力あんなら世界のために一善してくれ」
 ふざけ半分の言葉に気付いた少女は、フーッフーッと威嚇しながらこっちを睨みつけた。
「してるぞ! 毎日帰り掛けのコンビニで、5円と1円のおつりは全部募金箱に入れてるのだ!!」
 さも偉そうにふんぞり返る少女。ちょっとムカっとした。
「いっそ間違えて500円玉入れちまえ」
「ふぎゃあっ! あ、悪夢を甦らせるにゃー!!」
 もうやったらしい。
 は! っと、自分がここに来た理由を脱線させられた少女は首を振ってから再び恭亜に噛み付いた。
「ええい、だっせんさすなー!! いいから闘え闘えぃ! 昨日も道場にいなかったし……ていうかなんで毎日来ない!?」
 振り出しに戻ってしまったことに、本当に頭痛が起きそうな恭亜はため息をついてうな垂れる。
「ネコ。俺はお前と違って暇じゃないんだ」
 かーっと喉の辺りで少女は威嚇の声を発した。
「だ・か・らぁ! ネコって言うなっちゅーとろうがあ!!」
「ネコじゃん」
 見た目が。
「ネコじゃなーい!! 音子だ、お・と・こぉ……!!」
「音読みにしたらネコじゃん」
 名前も。
 むぐぐ、と唸って一歩後退。
 またもやフシャー! という声を出しながら睨みつける少女。
 猫っぽい……というか、まんま猫な少女の名は小早川 音子(こばやかわ おとこ)。
 円涼堂学園1年の女子生徒で、何を隠そう恭亜と澪の担任、小早川 小夜子の歳の離れた妹だ。
 どう見ても高校生には見えない体躯を猫のように敏感に動き回らせていて、女子生徒間のマスコットキャラとしてチヤホヤされている。
 本人はもの凄く嫌がっている上に猫っぽさを頑なに否定しているが、時たま授業中に目の前で机から零れ落ちる消しゴムに一瞬反応しているらしい。しかも、陽光の出ている時間帯は必ずと言っていいほど眠りこけているらしい。
 眠り云々だけは猫というより、姉妹仲の遺伝が関わっているようにも思えたが。
 また彼女は恭亜と同じ、とある道場の門下生。つまり、恭亜は兄弟子に当たる。
 彼女も何かにつけては恭亜に突っかかり、今までの黒星一色の戦績を塗り替えてやろうと闘いを挑んでくる。迷惑さ加減では澪と張るレベルの苦悩を強いられている。
 まあ実際こっちのほうは澪とは違って、からかって遊んで時間が過ぎれば口実を考えては逃げるといったことが何度も効く相手なので困っているほどではない。
「本名にしたって『おとこ』って……ぷっ、男だってさ♪」
「おいコラちょっとまて。いま『おとこ=xぉにアクセントつけたな!? お≠ノアクセントだこのスカタン!!」
「スカタン、って……古い言葉知ってんな〜」
「こないだテレビで見ただけに゛ゃー!」
 置いてけぼりを食らっている澪が、呆れ顔になった。
 恭亜も陰でニヤリと笑う。今日も上手く話を脱線できた。
 抗議の言葉を音子が口を開いたが、後ろから誰かが口を塞いだ。
 音子の背後に立っているのは、ほんわかとした笑顔の小早川 小夜子だった。
「あらあら、音ちゃんだめですよ。上級生のクラスで暴れたりしては〜」
「む、もごむぐぐもごぐふもふふー!」
「あらあら、何を言っているのかよく判らないですよ〜♪」
 姉の拘束にもがく音子。
 小夜子はちらと壁に掛かっている電子時計を見て、
「そろそろ授業開始でしょう? 早く戻りなさいね〜」
「はぷっ……! でも、恭との決闘がっ」
「あらあら、どうせ道場でコテンパンにされているのでしょお〜? 学校でまで騒ぎになったら、お姉ちゃん困りますよぉ〜」
 苦笑する小夜子。
 こんなときに限って先生ではなく姉として懇願してくる。事実効果覿面の音子は小夜子の腕の中で渋い顔をした。
「お願い、音ちゃん」
「う゛〜……わ、わかったのだ。だから放してくれ」
「はい♪」
 解放された音子は、たたたーっと駆けてゆくと扉の前で回転。
「恭! 今日こそは倒してやるんだからな! 憶えと―――――――」
「あ、今日俺休むわ。誠也さんに言っといてくれ」
 目を丸くして驚愕にわなわなと震える音子。
「フシャーッ! 最後まで言わせろバカ恭ぉ〜!!」
 やられキャラよろしく、ピューっと走り去ってしまった。
「大変だね、恭亜……」
 嵐の後の生き残りの澪がそう呟く。
 ため息をつくと同時に予鈴が鳴る。
 小夜子は教卓に向かいながら楽しそうに微笑んだ。
「さぁて、種目決めしちゃいましょうね〜。あ、それから……今度のパン食い競争はハズレ有りになったので、覚悟していてくださいね〜♪」
 さらっと爆弾を投下する小夜子に、恭亜は何度目かも忘れたため息をつく。
 隣りの席に座り、ちらりと恭亜の横顔を見てから、

『別に昨日は誰とも逢ってないぞ?』

 恭亜の一言に、何故か胸を撫で下ろす自分がいて頬を赤らめて恭亜を睨んだが、気付かない当人は欠伸なんてしていた。





 ――続く――
2005/07/27(Wed)16:35:08 公開 / 御堂 落葉
■この作品の著作権は御堂 落葉さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
三話目更新です。
甘木さん、レスによる感想と指摘ありがとうございます。
う〜ん、澪の定番キャラってやっぱり難しいんですね。表現も今一つという評価も含め、精進が必要ですかねぇ……。
あ、それから開き直るようで大変申し訳ありませんが、一話一話が(文が)長いのはもう短い表現内に収められるほど上手く書けないので、スルーしていただけると嬉しいかな、というかお願いします(土下座)。
稚拙な文章を長々と書いていますが、これからも読んでいただけることを願って、就寝でも。
それでは失礼しました。(そしてベッドへ特攻)
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