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『F8で待つ人 【長めの読みきり】』 作者:ドンベ / 未分類
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 ねぇ、降りないの?


「――えっ?」
 不意に声をかけられ、顔を上げた。ぼやけた視界はゆっくりと輪郭を取り戻してゆき……やがて目に映るのが、見慣れたエレベータホールだと気付く。微妙に視界が狭いのは、自分がそのエレベータホールをエレベータの中から見ているからだった。
「もうついたよ?」
 再度疑問形で声をかけられる。視線をずらすと、同期入社で今は上司のこれまた見慣れた女がいた。
 自分が今、出勤途中だと気付くまでに、わずかな沈黙が必要だった。
「……わり」
「謝ってる暇あったらさっさと降りる。ほら、のろのろしてると所長に怒られるよ」
「ん」
 短くうなずいてエレベータを降りる。
 待ちくたびれたと言うように、エレベータは勢いよくそのドアを閉じ、下層階へ下りていった。


 どうにも人生が退屈に思える時期ってのは、誰にでもあるものなんだろうか。波風立たない穏やかな日々と言えば聞こえはいい……聞こえが良くて、実際それが至上なのかもしれないとも思う。しかし毎日はどうにも退屈だった。朝目を覚ますのは、職場に行って煙草を吸うためじゃないのかと錯覚することがある。そして家に帰った俺はただ眠るだけ。わざわざ眠るためだけに家に帰るのは、職場にベッドがないからだろうと思った。
 退屈な日々の中で、それでも人は耳をふさぐことはできない。
 日常の些事がたてる物音に、俺は軽く顔をしかめた。
「よー。おつかれー」
 今朝のエレベータで一緒になった、同期入社で今は上司の女が俺に手を振った。
「どうしたのー? 顔が不景気。課長に怒られた?」
「うるせ」
「おー、ダウナー」
 なんだか楽しそうに笑い、上司様は煙草をくわえた。
 この女とは、二年前に同期で入社して以来の付き合い。激しい生き残り合戦で同期入社のメンバーの多くが退職したこともあり、今では心置きなく話せる数少ない相手がこいつ……と言えれば救いもあるが、そう思っているのはおそらく向こうだけだろう。職場での肩書きの変化から、俺は気軽にこいつの名前を呼べるような立場ではなくなっていた。入社当時、松本君と呼ばれていたこいつは、肩書きがかかわるとともに今では周囲から松本さんと呼ばれている。職場でこいつの名前を呼ぶとき、同期の俺でも松本さんと呼び、敬語を使う。それは社会人のマナーだったかもしれないし、マナーを超えた場所に信頼を見つけられなかった俺に問題があるのかもしれない。
「煙草、吸う人だったっけ?」
 隣に立つ松本に尋ねる。
 敬語モードを解除しているのは、ここがオフィスではなく喫煙所だからだ。
「ここで見かけた記憶、あんまないんだけど」
「わたしは忙しい人だからね。誰かさんと違って」
「……」
「うわぁー、落ち込んだー。こらこらこら、ジョークでしょジョーク」
「普通に笑えねぇって……それはさ」
 喫煙所には今、俺たち以外誰もいなかった。そのせいか、松本はいつもより少しリラックスしているようだった。
 俺たちの職場がある高層ビルは、この近辺じゃそこそこ背の高い部類に属する。俺たちが今いる喫煙所はそのビルの最上階にあるから、窓から見下ろす景色はそれほど悪くはなかった。晴れた日の昼時なんか、感受性に乏しい俺でも思わず眺めてしまうような景色が見れるのだが、しかしそれでもこの場所に人はあまり来ない。分煙化という名の喫煙者への圧力がそれだけ強くなってきたのか、それともわざわざ煙草を吸うためだけにエレベータに乗る気にはなれないのか。
 とにもかくにも、ここは俺にとって、自宅以外で気を緩められる唯一の場所だった。
「煙草はね、最近吸い始めて」
 松本が呟く。
「似合わない?」
「案外様にはなってんじゃん」
「ちょっとね、時代に逆行して若さをアピールしてみようかと思って」
「さすがに余裕あんね、誰かさんと違って」
「ふふっ。……ま、嘘だけどね。さすがにもう、若さなんて言うのはね」
 言って、松本は煙をたなびかせる煙草に目を向けた。まだまだ二十代半ばで、若さなんてアピールしようと思えばいくらでもできるだろうと思ったが、しかし煙草を見つめるその瞳は、若さではないなにかで曇っているような気もした。
「これはね、とある男に影響されて」
 松本は煙草を揺らしながら言う。
「その人がさ、すごく美味しくなさそうに煙草吸う人で。そんなに嫌なのにやめられない理由ってなんだろうと思って」
「……んで? 吸ってみた感想は?」
「理屈で説明できないことってあるんだね。貴重な経験でした」
「あ、そ」
 うなずきながら、軽くため息をこぼす。男という言葉が、たいして役にも立たない俺の脳裏にこびりつく。
 松本が影響を受けるほど近くにいる男の存在、そんなつまらないことを考え、俺は新しい煙草をまた一本手にとった。
「今日はまだ仕事?」
 松本が俺に聞く。
 俺は手にした煙草をくわえ、火をつけてから答える。
「たぶん」
「最近ずっと遅いんじゃない?」
「雑用はひたすら働いて経験積むしかねぇんだって。これ、お上からのありがたいアドバイス」
「チーフでしょ、それ言ったの。……もう、どうしてあの人、そういう言い方しかできないのかな」
「所長に課長にチーフ、か……」
「ん? なに?」
「俺は上司に恵まれてんなぁと思って」
「……」
 松本は俺の言葉に答えなかった。微妙に喫煙所の空気が重みを増したのは、上司という言葉に松本が特別な意味でも感じ取ったからか。
 漂い始めた淀みを消そうと、俺は口を開く。
「そっちはもう帰り?」
「あ……うん。そろそろお先にって思ってたけど……」
 話題転換を図ったつもりが、しかし松本は言いよどんだ。
 そんなに気にするなら出世なんかしなけりゃいいと思ったが、さすがにそれは口に出せなかった。
「この時間だと大変だろ、エレベータ」
「えっ?」
「ほら、帰宅ラッシュでさ」
「あぁ……」
 顔を上げた松本が、小さく苦笑する。
「うん、ま、あれはね……このビルで働いてる人、多いからね」
「苛々するだろ、あれ。たまにボタン押し間違える馬鹿とかいやがるし」
「疲れてるんだろうなって、わたしは思うことにしてるけど。まともに考えても損だし」
「それはそうなんだけどな……どうしてあんなでかいボタン押し間違えるんだか」
 このビルは二十階近くの階層がありながら、エレベータは五つしかなかった。五時半を過ぎれば多くの職場がいっせいに退社時間を迎え、帰宅の途につく社会人たちがエレベータへ押しかける。定員二十名ほどのエレベータがどれだけがんばったところでたかが知れており、エレベータに乗るまでで数分待たされることもざらだ。
 そしてまた、乗ってからが長い。押されたボタンには律儀に応えるエレベータは、ほとんど全ての階で止まっては、無駄にドアの開閉を繰り返す。中には乗りもしないくせにボタンだけ押す阿呆がいるらしく、エレベータのドアが開いたのに誰も外に待っていないということもある。エレベータを呼ぶボタンを押してからホールの脇にあるトイレに駆け込む奴らが、俺の職場にいる。たぶんそういう奴らが他にもたくさんいるのだろう。もちろん、エレベータに乗ってからボタンを押し間違える奴もいる。一階で降りるくせに二階のボタンを押してみたり、三階のボタンを押してみたり。てめぇだけこの階で降りてあとは階段使いやがれ……と、疲れている時は本気でそう言いたくなるほどに、間違える奴は平気で間違える。
「俺は定時退社には向かないらしい」
 少しふざけた調子で言う。
「毎日あんな苛々させられたら、三日ではげそうだ」
「とし君ならそうかもね」
 松本は微笑みながら言って、煙草を灰皿に投げ入れた。
「じゃ、わたし先に戻ってるね」
「あぁ」
「あんまり長居したらダメだよ? 怒られないためには、まず怒る理由を相手に与えないことが第一だから」
「肝に銘じておきます、松本さん」
「うん。とし君もがんばってね、お仕事」
 力強くうなずいて、松本は喫煙所を出た。俺の軽いジャブに、もうふらつくこともなく。
 とし君とは俺のことだった。俺のファーストネームが俊弘、名字が吉岡。職場には吉岡姓が俺のほかにもう一人いて、名前で呼ばなきゃどっちのことだかわからないでしょ?……というのが、松本が俺をとし君と呼ぶ理由だった。松本は喫煙所の外でも俺をそう呼んだ。
 松本さんと、とし君――二つの名前の間には、絶対的な差があるのだろうと感じた。

 その日も俺はいつものごとく、定時退社の時間を大きく回ってもまだ、職場に残っていた。午後十時ころ、ようやく今日の仕事から解放され、オフィスを出る。エレベータを待ちながら、疲れはため息という形となって俺の口から零れ落ちた。
 やがてエレベータがやってくる。時間が時間だから乗っている人間はいない。俺は無言でエレベータに乗り込む。この時間ならば、めったにエレベータで他人と同乗することもない。とは言えさすがは日本人、三日に一遍くらいの割合で見知らぬ他人と同乗することはある。疲れたお互いの顔を見合って、たまに「お疲れさまです」なんて言葉を交わす。そんな時、不意に疲れが報われた気になるから不思議だった。
 今日のエレベータは順調だった。俺のオフィスがあるのは最上階のひとつ下。一度も止まらなくても、一階に着くまで三十秒ほど時間がかかる。
 俺はエレベータの壁に背を預け、移り変わるデジタル表示を眺めていた。
 14……13……12……。
 順調に表示される数字は数を減らしていく。
 10……9……8――、
「……またかよ」
 俺は思わず舌打ちした。
 移り変わっていた表示が、8の数字のまま止まる。チン、というありふれた音が鳴り、やがてエレベータのドアが開く。止まったからには誰かが待っているのだろうと、俺は『開』のボタンを押す。しかし、開いたドアの向こうには誰もいなかった。薄暗く味気ないエレベータホールがドアの向こうにあるだけだった。
「くそ阿呆が」
 呟いて、今度は『閉』のボタンを押す。ボタンを押す手に、思わず力がこもった。
 たまにこんなことがある。夜遅く、俺がエレベータに乗ると、誰も待っていない階でエレベータが止まる。それ自体は、特に珍しいということでもない。喫煙所で松本と話したように、こういうことをする阿呆はどこにでもいるのだ。大方、トイレだのなんだのでオフィスを出たときに、惰性でエレベータのボタンを押してしまうような奴がいるのだろう。長く同じ場所で働いていると、そんな癖までついてしまうのだ。実際、自分も用がないのにエレベータのボタンを押してしまったことがあるから、あまり他人を責める権利は俺にはない。
 しかし、いつからか俺は気付いた。俺が夜遅くまで残業し、そして今日のように誰も待っていない階でエレベータが止まる時……それは決まって八階なのだ。もちろん、全部が全部八階というわけではない。二階でエレベータが止まり、本気で嫌がらせじゃないのかと思うことも、ごくごく稀ではあるがないとは言えない。
 それでも……と、そういうことだ。
 やはり、どうしてか八階でエレベータはよく止まる。
 よほど気の抜けた阿呆がいるのだろうと、俺はそう考えていた。
 だから俺は八階が嫌いだった。


 仕事の内容はここしばらく変化していない。一言で言うと雑用が適切だろうか、『研修』名目でチーフ以上の人間がやるべき細々とした雑務が、次から次へと降りてくる。入社二年目でチーフ格の仕事をさせてもらえるのだから、それは喜ぶべきことなのかもしれない。しかし、俺に課される『研修』は、時間だけくって権限さえあれば誰だってできるだろうと思えるようなものばかり。別にこの仕事を軽んじるつもりはない。ただやはり、俺はありがたすぎるお上に恵まれているのだった。
「吉岡」
 背後から名前を呼ばれ、俺はオフィスの入り口で立ち止まる。
 振り向くと、俺の『研修担当』で、ありがたいお上の一員でもあるチーフが立っていた。
「どこに行く?」
 別に着席を義務付けられているわけでもないのに、そんなことを聞かれる。仕事中にオフィスを出て向かう場所などトイレか喫煙所くらいしかなかろうに、そんなことも一々聞かなければわからないのかと思いながら、俺は素直に答えた。
「喫煙所です」
「ほう……」
 低い声でうなるように言って、チーフは口元をゆがめた。
 この「ほう……」は、チーフの口癖だった。九割五分ほどの確率で、この口癖の後にはありがたいアドバイスが続く。従順さのアピールには不可欠な無表情を維持するため、俺は口の中で舌を強くかんだ。
 チーフが口を開いた。
「お前の仕事は喫煙所でできるのか?」
「いや、僕は――」
「僕はなんだ? あぁ? 僕は喫煙所でも仕事のことを考えてますとでも言うつもりか? 馬鹿野郎が、考えるだけで金が稼げるとでも思ってるのかお前は。そんなことだから同期の松本に遅れを取るんだろうが。おい、違うか?」
「……」
 どうしてそこで松本の名前が出てくる、そう考えた瞬間、痛みでは殺しきれなかった感情が顔に出てしまったらしい。
「……なにか言いたげだな、おい」
 チーフが楽しげに言った。負け犬の遠吠えを聞いて楽しむ奴らは、大体にして犬を鳴かせる術をよく心得ている、チーフもそんなタイプの人間だ。
「言いたいことがあるなら言え、吉岡。お前だってもう二年以上ここにいるんだろうが。何か思うことがあるなら今のうちに言っておけ。ほら、どうだ? 研修方法に不満でもあるか?」
「……いいえ、特には」
「じゃあなんだ、さっきの顔は。言いたいことあるんだろう?」
「……」
 何かあっただろうか……チーフの言葉に、念のため、言いたいこととやらを探してみた。
 だが、言いたいことなど一つも思い浮かばなかった。
 せっかく機会を作ってくれたチーフには申し訳ないが、俺は『言っても無駄』という言葉を知っていた。
 今、目の前に立つ人間に、何が期待できる。
「特にありません」
 俺はできる限りはっきりと、どんな奴にでも伝わるようにそう告げる。
 とたん、チーフの顔が曇る、大きな舌打ちのおまけで付きで。
「戻ります」
 口を開かないチーフにそう言い、自分のデスクに戻ることにする。こんな気分のまま煙草を吸ったって、美味く感じないだろう……そう思ったのだが、しかし俺の歩みは、再度チーフにとめられた。
「煙草でも何でも好きなだけ吸ってこい」
「……えっ?」
「どうせお前などいなくても問題ない」
「……」
 捨て台詞としてはそこそこ優秀なセリフを残して、チーフは立ち去った。
 俺はもう一度体の向きを変え、言われたとおり喫煙所に向かう。
 そういえば、最近、美味い煙草を吸うことが減った……最上階へ向かうエレベータの中で、そんなことに気付いた。


 ――八階の奴らが嫌いだ。
   顔も見たことないくせに、俺は心底、あいつらを嫌っていた。


 八階で止まるエレベータに気付いたのは、思い返せばそれほど昔のことではない。以前からそんなことはあったのかもしれないが、俺が八階を特別視し始めたのは、たぶんここ二ヶ月ほどのことだろう。
 夜遅くまで残業したある日の帰り、例のごとくエレベータが止まった。開いたドアの向こうには誰もいなかった。俺はため息一つで『閉』ボタンを押そうとした。だが、その手が止まった。
 声が聞こえた。それはひどく熱心に何かについて語る声だった。声にこめられた熱はおそらく情熱と呼ばれるもので、このビルがオフィスビルである限りその情熱は仕事へ向けられているはずだった。顔を上げると、常夜灯に照らされたエレベータホールの奥に、まだ明かりの灯る部屋があった。すりガラスの向こうで、人影が右に左に動く。たまに聞こえる乾いた音は、ホワイトボードを叩く音に似ていた。エレベータの表示は、「8」の数字で止まっていた。
 絶え間なく響くその生き生きとした声に――俺は、惹かれた。


 だから八階が嫌いだった。


 どうしようもなく日々が退屈だ。それは上司のありがたいお言葉に反論する気も起きないほど。どれだけありがたい説教だって、それが度を越せばありがた迷惑になるはずだ。ありがたいアドバイスなんて割り切っている自分が、きっとなにより退屈だと知っていた。
「辞めっかなぁ……仕事」
 自分ひとりしかいない喫煙所の中、以前から心のどこかで考えていたそれを口に出す。
 ここしばらく、そのきっかけを探すような日々が続いていた。何かきっかけがあればと思っていたから、何も起きない日々がどうしようもなく退屈に思えた。本当ならきっかけなど自分で作るべきものなのだろう。だがそんな気力はどこにもない。疲れて家に帰った俺には、転職雑誌を買いに行く気力すらないのだ。
 本当はもう、どうでもよかった。
 八階でエレベータを降り、夜遅くまで明かりの絶えないあのドアをノックしたら、その時世界は変わるだろうか。
 移ろう紫煙の中、そんな空想が俺を捕らえた。


   ◇  ◇  ◇


 仕事と言うものは、お偉方の機嫌一つでその量を大きく変化させる。増えることが常で減ることが滅多にないのは、社会の厳しさ故だろうか。
 その日、チーフの機嫌は最悪だった。
 おかげで俺の研修メニューは、いつにもまして充実していた。
「吉岡」
「はい?」
 唐突に声をかけられ、俺はしばらくパソコンに釘付けだった視線を上げる。俺の斜め後ろに立っていたのは、思ったとおりチーフだった。チーフはカバンを提げ、どこか悦に浸るような表情で俺を見る。おそらくもうお帰りなのだろう。
「これからご帰宅ですか?」
「だったらどうなんだ?」
「お疲れ様でした」
 どこか挑発的なチーフの言葉に、俺は素直に頭を下げる。これから退社すると言う心理的余裕のおかげか、チーフがいつものように突っかかってくることはなかった。
「お前はまだ終わらんのか?」
「えぇ……」
「相変わらずだな、お前は」
「そうですね……すみません」
 俺は苦笑しながらチーフの言葉にうなずく。
 どれだけ急かされたところで、終わっていないものは終わっていないとしか言い様がない。まだ終わらない俺の抱えた仕事とは、一週間分の営業の成績をまとめた週報の作成。ちなみに、この仕事を任されたのは三十分ほど前。まだ終わらないのかという言葉から考えれば、チーフなら三十分で終えられる分量なのだろう。
「時間かかってしまって申し訳ありません」
 俺はチーフに向かって軽く頭を下げる。
 チーフは俺の言葉を鼻で笑った。
「これくらいのこと、さっさと終わらせんか」
「はい……なるべく早く仕上げますので」
「まぁいい。明日の朝までに俺の机に上げとけ」
「わかりました」
「それじゃ、俺は帰るからな」
「お疲れ様でした」
 にこやかな笑顔でチーフを見送る。その後姿が視界から消え、さらに五秒ほど待ってから、俺は愛想笑いを消す。昔はこの笑顔を作るのが面倒で仕方なかった。最近じゃ大して苦もなくこの顔を作ることができる。随分と大人になったものだと思う。
 ため息一つで、気分をリセットする。
 そして、またパソコンと向き合う。
「とし君」
 声をかけられた。
「……」
 無言で声がした方に顔を向ける。そこに立っていたのは、もちろん、松本だ。
「あ、ごめん。今、忙しかった?」
 俺の目つきがよほど悪かったのか、松本がすぐさま申し訳なさそうに聞いた。忙しいなら後にするけど……そう呟いて、探るように俺の顔をのぞき込む。
 どうも自分が愚かに思えて仕方なかった。松本だってチーフだって、上司であることに変わりはない、ならばどうして俺はもう慣れてしまった愛想笑いを作れないのか。チーフ相手なら笑顔の一つくらい間単に作れるのに、松本が相手だとうまくいかない。どうしてか軽い皮肉でも言いたくなってしまうのは……とし君という呼び方のせいだろうか。
「……いや」
 俺は小さく首を振り、微笑む。
「大丈夫です。なんですか、松本さん?」
「……敬語だし」
 不満げに松本は呟いた。
 だが、それはいつものことだ。
「今日も遅くなるの?」
 すぐに調子を取り戻し、松本は聞く。
 俺はうなずき、
「はい」
「どれくらい? 九時くらいには終わる?」
 どうかしたのか、松本はそう聞きながら、俺のパソコンをのぞきこんだ。
「今、週報作ってるとこ?」
「はい、そうですけど」
「他に仕事ってあるの?」
「今日中にやらなければならないことなら、他に営業部署がとってきた仕事の発注書を三件作って、営業先候補のリストアップとかも今日中ですし……」
「それ……ほとんどチーフ権限ないとできないことじゃない」
「作るのは下書きまでですよ。ちゃんとチーフが確認します」
「……」
 松本が沈黙した。
 パソコンに向けていた視線を俺に向け、何か言いたそうに口を動かすが、しかし言葉が出てこない。
 今さらじゃねぇか、と思った。別に今日、特別に多くの仕事をやらされているわけではない。俺の仕事は、ここしばらく変化などしていない。だからもう慣れてしまった――むかつくチーフにも、仕事の量にも、深夜の帰宅にも。
 毎日が退屈なんだ。
 ただ忙しいだけでなんの変化もない毎日が。
「大した量じゃねぇよ」
 口を開く。
 松本が驚いたように目を見開く。
「これくらいのこと、毎日やってんだよ。昨日今日始まったことでもない……昨日今日始まったことなら、まだ救いがあるだろ。今さらお前がそんな顔してどうなるんだよ」
 毎日は退屈だ、だから変化があるならそれは喜ぶべきことかもしれない。だが、悪い方へ変化するのは……今以上に悪い方へ変化するのは、勘弁してほしい。
 松本とチーフは、立場的にはだいたい同じくらいの位置にいる。そしてチーフは、松本より三年も前からこの会社にいる。もし松本がチーフに抗議なんかしたら……それはぞっとしない。
 不思議そうに松本は聞いた。
「……とし君、敬語は?」
「なんだ、おい、同期入社。それは敬語を使えって催促か?」
「……」
 松本は無言で微笑んだ。
 さっきまでの影が消えた、それは綺麗な微笑だった。
「仕事、大した量じゃないんだよね?」
「おう」
「じゃあ、九時くらいには終わるよね?」
「終わったらどうなんだ?」
「飲みに行かない?」
「……飲み?」
 尋ね返す。
 まさか飲みに誘われるなんて思っていなかったが……そうか、松本は最初からそのつもりで俺に声をかけたわけか。
「急だな」
「飲み会なんてそもそも急なものだよ」
「参加者は?」
「飲み会のテーマが同期入社のみんなと旧交を温めなおすことなの」
「……うちの事務所にいる同期なんて、俺とお前だけだろうが」
「場所は駅前の串焼き屋さんね。わたしも今日は遅くなりそうなんだけど、早く仕事終わったほうが先にお店に行って席を取るってことでいい?」
「いいも悪いも……」
 断ろうかと一瞬思った。だが、松本はなんだか楽しそうに笑っていた。その無邪気な笑顔のせいで、断るための言葉が口から出てこない。わざわざタメ口を使ってまで作った笑顔を、今さら壊すのも気がひけた。
 上司からの誘いを断るのも野暮か……自分の中でそう言い訳を作った。
「わかりました」
 言葉とともにうなずく。
 もう敬語で平気だろうと考えながら。
「遅くなるかもしれませんけど……」
「それはお互い様だから。じゃ、わたしもそろそろ仕事に戻るね」
「お疲れ様です」
「とし君もおつかれっ!」
 明るい声とともに俺の肩を叩き、松本は自分のデスクに戻っていった。
 その背中を見送りながら、なんとなく思った。
 松本との会話は――ひどく疲れる。

 予想できたことではあったが、先に仕事を終えたのは松本の方だった。一人だとつまらないから早く来てよ、と声をかけられたのが一時間ほど前。三十分ほど前に、「飲み始めてるから」というメールがきた。
 そしてついさっき、携帯電話越しに「待ってるんだからね!」と怒鳴られた。
 俺はエレベータホールで、エレベータがくるのを待っていた。
「……面倒だな、なんか」
 気が乗らなかった。酒が嫌いなわけではないし、特別に今日疲れがたまっているということもなかったが、それでも気はすすまない。
 松本と向かい合って酒を飲む、それがひどく憂鬱だった。ほんの少し会話するだけであれだけ疲れる相手だ、アルコールが入ったからといって、気兼ねなく飲めるとは思えない。そもそも俺は、いつから松本との会話を疲れるなんて感じ始めたのか……よく思い出せない。
 松本のことばかり頭に浮かんだ。
 今すぐにでもこの現実から逃げ出したいと思った。
「……なんて言ってもな」
 エレベータがきた。
 憂鬱な呟きをその場に残して、俺はエレベータに乗る。
 エレベータがゆっくりと動き始める。低いモータ音、上向きのわずかな加速度。デジタル表示の数字はその数を正確にひとつずつ減らしていく。朝や夕方とは比べものにならないほど、順調に減っていく数字……どうせなら途中で止まってしまえと思った。そしてもう二度と動かなくなればいいと。
 そう思った矢先だった。
 ……チン。
 聞きなれた音とともに、エレベータは動きを止めた。
 八階だった。
「飽きないね、ここの人も……」
 言いながら、俺は『開』のボタンを押す。
 いっそ誰かが乗ってくれば、俺の気もまぎれたかもしれない。
 しかし開いたドアの向こうには、やはり誰もいなかった。
 ドアの向こうにあるのは薄暗いエレベータホールで――そしてさらにその奥には、

 ねぇ、降りないの?

「――えっ?」
 声が、聞こえた。
 すぐ耳元で、俺を誘うような。
「えっ……」
 驚きで言葉が出てこない。
 慌てて後ろを振り向くが、そこに人はいない。
 飾り気のないエレベータの壁があるだけ。
 でも……聞こえたはずだ。
 俺を誘うような声が。
 ねぇ、降りないの?と――、
「まさか……」
 俺はドアの外に目を向けた……正確に言うなら、エレベータホールのさらに向こう……いつものごとく明かりの灯る、あのオフィス。
「誘っ……て、る? 俺を?」
 そう、あの明るい部屋の中には――きっと、退屈なんてないのだ。毎日が戦争のように忙しく、しかしその忙しさは報われるためにある。誰もが同じ忙しさの中、意味のある歯車として、ひたすら理想を追求するために回転する……あそこはきっと、そんな場所なのだ。
 俺が、ずっと求めていたような。
「……」
 声が出なかった。
 代わりに足が動いた。
 狭いエレベータの中で憂鬱を抱えている場合じゃない、俺には叩くべきドアが見えた。だったらそのドアをノックすればいい、世界はきっと一瞬で変わる。
 今までの日々の中に、思い残すものなんて――、
『待ってるんだからね!』
「……松本」
 不意に脳裏に浮かんだのは、松本の姿だった。居酒屋の片隅で、慣れない煙草を吸いながら、ひたすら待ち続ける松本の姿……俺を待つ、松本の姿。
 他の誰でもない、俺だけを待つ。
「……」
 俺は踏み出しかけていた足を戻した。
 明るいあの場所を見つめながら、『閉』ボタンを押す。
 やがて視界は、分厚いドアに遮られ……、
「悪いけど……今日は上司を待たせてるから」
 俺は代わり映えのしない日々に戻った。


「遅いっ! ほらっ、早く来る!」
 俺の姿を見つけるなり、松本は叫んだ。周囲の視線がいっせいに集まるが、松本に気にした様子はない。
 酔っているせいか慣れないせいか、おぼつかない手つきで煙草を取り出し、不機嫌そうな表情のままそれをくわえる。
「座りなさい」
「……お前、相当飲んだだろ」
「うるさいこと言わないで座る! そして上司にお酌するっ! ほらっ!」
「……」
 どうやら同期の上司がご乱心の様子だ。
 今日一日は我慢することにして、俺は松本の正面に座った。
 まずは言われたとおり、テーブルの上にあったビールを松本のグラスに注ぐ。それからやってきた店員にビールを頼み、松本にならって煙草に火をつける。
 松本がじっと俺を見つめていた。
 意味ありげな視線を俺にぶつけ、
「……で?」
 尋ねられた。
 意味がわからなかった。
「お前……意味がわからんぞ。何が聞きたいかもっとわかりやすく頼む」
「どうしてこんなに遅くなったの」
「そんなもん……」
 聞くまでもなく仕事のせいじゃねぇか……と言いたかったが、しかし酔った松本の姿があまりに新鮮で、思わず笑ってしまった。
 慌てて手で口元を覆うが、片手では隠しきれない笑顔の欠片が指の間から漏れる。店内は飲み屋らしい喧騒で満ちていたが、松本はしっかりと俺の押し殺した笑い声を聞き取ったらしい、ただでさえ険しかったその顔が、余計に曇った。
「なによ。わたし、なにかおかしいこと言った?」
「いや、違う。そうじゃなくて……」
「じゃあなによ」
「……エレベータがさ」
 仕事のことを口にするのはやめようと思った。酔っ払った松本に仕事のことを思い出させるのも嫌だったし……それになんだか、気分が良かった。
 入社したての頃、同期の仲間で集まり、こうして酒を飲んだことを思い出していた。新しいことだらけの毎日は文字通り修羅場で、しかし早く一人前になろうと必死だった……そんな、退屈ではなかった日々。
 考えてみれば、あの頃はエレベータに苛立っている余裕さえなかった。随分とたくさんのことが変わった今、こうして松本はまだ俺の目の前でビールグラスを傾けている。名前の呼び方さえ変わってしまった、俺の前で。
 最近ずっと重荷でしかなかった同期の縁が、狭い居酒屋の中で不思議なほど温かい。
 仕事のことなんてすっかり消えた頭で、俺は続けた。
「ほら、あのエレベータ、頭悪いだろ?」
「頭悪い?」
「そ。誰も待ってないのに止まったりとか。まぁ、エレベータよりさらに頭悪い奴らがいるせいなんだけどさ」
「この時間ならそんなこともないでしょ」
 不機嫌そうな口調で言われる。
 どうやら納得していただけなかったらしい。
 だが、どれだけ反論されようと、事実なのだからしょうがない。
「どうせわたしと飲むのが嫌で、だらだら仕事してたんでしょ」
 松本が拗ねるように言った。
 その言葉はついさっきまでその通りだったが、もちろんうなずけるはずがない。
「だからエレベータだって言ってるだろ」
「……」
 松本が俺を睨んだ。
 無言の視線は、なかなかに迫力があった。
「お待たせいたしました」
 タイミングよく、俺のビールを持った店員がやってくる。ビンのビールとグラスを俺の目の前に置き、
「食べ物の注文はよろしいですか?」
「あ、じゃあ、漬物と串の盛り合わせ一つずつ」
「かしこまりましたー」
 気持ちのいい笑顔でうなずいて、店員が注文を伝票に書き込む。
 俺は煙草を灰皿に押し付け、スーツの上着を脱ぐ。
「あとビールもう一つ」
 松本が低い声で注文を追加した。
「はい、ありがとうございます」
 店員は笑顔を崩さず答える。
 やがて店員が立ち去ると、松本は再び俺の顔を睨みつけた。
 そして、
「エレベータがなんだって?」
 どうしても待たされたのが許せないらしい、尋問でもするように松本は聞いた。
「こんな時間に混むはずもないエレベータが、なに?」
「……だからな、止まるはずもないのに止まるんだよ」
「どうしてそうやって嘘つくのよ」
「いや……嘘じゃないって。今日だってな、八階で――」
「ほーら、嘘だ」
 松本が俺の言葉を遮った。
 してやったりと言わんばかりの顔で、松本は俺を見る。
「適当なことばっかり言うから、そうやってすぐばれる嘘になるの」
「……は?」
 こればっかりは本当に意味がわからなかった。今の俺の言葉のどこが適当だったのか。少なくとも嘘はどこにもないはずだ。
 松本はグラスに余っていたビールを飲み干し、言った。
「だって止まるはずないもんね、八階なんて」
「……止まるはずない?」
「あれ? とし君、知らないの? そっか。だからこんなわかりやすい嘘を――」
「知らないって、なにを?」
「……とし君?」
 思わず身を乗り出していた。松本が不思議そうに俺を見る。
 だが……知らない?
「八階に止まるはずがないって、どうしてだよ」
「あ、うん、だって……」
 どこか釈然としない様子で、松本は話し出した。
「知らない? うちのビル、八階にはテナント一つも入ってないの。入居の募集もしてない。とし君は知らないみたいだけど……昔ね、事故があったの。まだビルの工事してた頃で、でもその頃から入居テナントの募集はしてて……それでね、下見に来てたある企業の人が、巻き込まれて――」
 松本の言葉は続く。
 俺の背筋に、薄ら寒いなにかが走る。
「――その人ね、亡くなったの。事故のこと、わたしは詳しく知らないけど……このビルのオープン当初は、その事故のせいでテナント集まらなくて大変だったんだって。今はもう、八階以外の階は一杯になってるけど、それでも八階の募集はしないんだって。どうしても入りたいっていう会社があれば、事情を説明した上でいつか入居することもあるかもしれないみたいだけど……」
「それ、誰から聞いた話だ?」
「ビルの管理会社の人。設備のメンテナンスとかの連絡、今はわたしが担当してるから、そのおかげで仲良くなった人に聞いたんだけど……とし君? どうしたの?」
 松本の声の調子が、いつの間にか心配そうなものに変わっていた。
 だが、どうしたと聞かれても、答えられるはずがなかった。
 俺は……松本の話が本当だとするなら、じゃあ、俺が見たあれはなんだった? 八階で止まったエレベータは? 明るい窓の向こうで動き回っていたのは誰だ? ……聞こえてきた声は?
「……その、亡くなったって人」
 俺は口を開く。
「働き者だっただろ」
「えっ? あ、そういえば……管理会社の人、そう言ってたかも。お葬式に出席したとき、家族の人から話を聞いたって……とし君、この話、知ってるの?」
「いや……」
 知っているはずがない。こんな話を知っていたら、八階でエレベータを降りようなんて考えるはずがない。足を踏み出した先に、たとえどれだけ充実した日々が待っていようと……たとえ俺が、それを求めていようと。
 求めていたから見えたのだろうか。八階で止まったエレベータ、そのドアの向こうに見えたまぶしい世界は、俺の作り出した幻だっただろうか。それとも、本当はそんな日々の中で生きるはずだった、生きるはずなのに生きられなかった誰かが、諦めきれずにまだ八階にいるのだろうか。
 どえらい奴に見込まれたもんだ……俺は思わず苦笑する。まさか俺のような人間を能力で見込むとは思えない、ならば俺を誘った理由は、たぶん誘えばついてきそうに見えたからだろう。甘い誘いに現実を放り出し、幻想でもいいから満ち足りた日々の中へ……そうかもしれない。幻想でも良かったのかもしれない。
 でも、俺は今、ここにいた。
 どうひいき目に見ても楽しいとは言えない日々の中に。
「とし君? どうしたの? あの……もしかして、本当に八階でエレベータ止まったの?」
「……止まったよ」
「え、じゃ、じゃあそれって――」
「俺がボタン押し間違えたからな」
「……」
 松本の表情が固まった。
 たっぷり数秒かけて俺の言葉を理解し、
「よっ、よくも騙したなっ!」
「いってぇ……」
 おしぼりを投げつけられた。
「なによっ。やっぱりとし君知ってたんじゃないっ!」
「詐欺ってのは、基本的に騙された奴が悪い」
「うるさいっ! そんなの止まるに決まってるじゃない! ボタン押せばっ……」
「ん? どうした?」
「あれ? でもおかしいよ? 今、たしかエレベータって、八階のボタン押しても止まらないように設定されて――」
「こら、松本。あんまり複雑なことを考えるんじゃない」
 投げつけられたおしぼりを松本の手元に置きながら、その言葉を遮る。最近のエレベータがコンピュータで制御されていることくらい、管理会社の人間と疎遠な俺でも知っている。テナントが入っていないなら、素通りされるよう設定されているのは当然だ。
 まだ納得できないらしい松本は、身を乗り出して口を開くが、
「あ、あの、としく――」
「お待たせいたしました」
 最高のタイミングで店員が食い物を持ってきた。言葉を遮られた松本は、目の前に並べられる料理と酒を恨めしそうに眺め、並んだばかりのビールを勢いよくあおると、
「とし君」
「ん?」
「さっきの話は嘘? 作り話なんでしょ?」
「真実はいつも心の中に」
「うるさーいっ!」
「痛い……」
 割り箸を投げつけられた。
 おしぼりよりずっと痛かった。
「もうっ、なんなのよとし君っ!」
 さっきから怒鳴りっぱなしの松本は、酔って上気した頬をさらに怒りで赤く染めながら、身を乗り出して俺に詰め寄る。
「酔っぱらいからかって楽しいの!?」
「酔っぱらいだってわかってるなら、少し自重しろ」
「いいのっ。最近上の人との付き合いばっかりでつまらなかったから、今日はとし君と一緒に楽しいお酒飲むって――」
 そこで松本は、口元を押さえた。せわしなく泳ぐ視線は、やがてうつむき加減に手元にある灰皿へ向けられた。
 俺は軽く息をつく。
 同期では出世頭の松本も、それなりの苦労を抱えている。……当然じゃねぇか。
「俺さ、仕事辞めようかと思って」
 心の中で鬱積していた気持ちが、不意に素直に口から出てきた。
 口を開くと、松本の視線は勢いよく上がった。
 俺をまっすぐに見つめ、
「……辞める?」
「そう。ずっと考えてたんだよ……いい加減、むかつく上司にゴマするのも疲れた。仕事だって、そりゃ誰かがやらなけりゃならん仕事なのはわかるが、それでもやっぱ俺のしてることはちょっとな。俺に面倒ごと押し付けて、そしてなんかやる気満々で会議に出てるチーフとか見るとな……正直、耐えられなくなるんだよ。俺だってあの場に立ちたいと思ったから、こんだけ必死にやってんのによ」
「とし君……仕事、好きなの?」
「働くのは好きだったぞ、昔から。学生の頃もバイトは楽しかったしな。典型的な日本人なんだろ、俺」
「……でも、辞めるの?」
「……」
 すぐには答えず、俺はグラスに口をつける。俺を見つめる松本の瞳は揺れていて、聞こえてくる声は震えている気がした。だから見ていられなくなって、俺は視線をはずした。
 もっと前からこんな風に話ができたらよかった……そう、思った。一歩先を行く同期の愚痴を聞きながら、一歩遅れる俺が愚痴を返す。そんな風に退屈だと感じていた時間をすごせたら、八階でエレベータが止まることもなかったかもしれない。俺が仕事を辞めたいと思うことも。
 でももう遅いのだろう。別に今の職場に問題があるわけではない、事実松本は精力的に働いている。問題があったのは俺だ。転機はどこかに転がっていたかもしれないのに、現実に腐ってそれを見過ごしていただろう俺が、なにより問題だ。
 自分でチャンスを不意にしたなら、今度は新しいそれを自分で探しに行かなければならない。八階に足を踏み出そうとした俺は、きっとここに残っていたってなにもできない。自分を誘う声に、現実を放り出してもいいと思ってしまった俺は。
「前から考えてはいたんだよ。消極的ではあったけど」
「どういうこと?」
「どこかにチャンスがあれば、今の仕事くらいってさ。……でも、そんな考え方じゃ、いつまで待ってたって、チャンスなんて来ない気がして」
「で、でも、そんな急に――」
「お前に敬語使うのも」
「……えっ?」
「本当は嫌だった。敬語なんか使ってる自分が」
 煙草を口にくわえなければ、同期と気楽に話すこともできない……それはきっと悲しいことだ。本当はどんな場所でも対等でいたかった。たとえ上下の関係があったって、そんなものどうでもよく思えるくらい強い縁は――、
「松本さん……なんて、言ってる自分がさ」
 あったはずなんだ。
「……今のままじゃ、無理っぽいから。明日からいきなり変えるのは、俺にはできそうもないし」
「そんなの、気持ちの問題じゃん……」
「その気持ちを変えるために、まず現実から変えてみようってことだよ」
「……」
 松本は沈黙した。重々しい仕草でビールを口に運び、それから煙草に火をつけ、いかにもまずそうに吸い込む。
 俺も黙ったまま、ずっと手をつけていなかった串焼きに手を伸ばす。昼から何も食べておらず、体は食い物を求めているはずだったが、しかし少し冷めた焼き鳥はそれほど美味くなかった。沈黙が料理の味を落としている感覚、せめて空気が少しやわらぐまで間をつなごうと、俺は煙草をくわえる。
 唐突に松本が顔を上げた。
 白い煙を吐き出す俺を見、くすっ、と小さく笑って、
「相変わらずだね」
「……はっ? なにがだ?」
「それ」
 言いながら松本が指差したのは、俺の手に握られた煙草。
「相も変わらず美味しくなさそうに吸うんだね。そんなに嫌なら吸うのやめればいいのに」
「そんな簡単にやめれるなら――」
 そこまで言って、俺は思わず言葉をとめる。
 松本がしてやったりという表情で笑った。
「仕事、好きなようにすればいいと思うよ」
 柔らかく微笑んで、松本は続けた。
「ビール片手に煙草吸うときくらい、誰だって笑っていたいだろうしね。……実はね、なんとなくこうなる気はしてたよ。まさかもうとし君が決めてるとは思ってなかったけど。今日もね……なんかちょっと、愚痴とかこぼしてくれたら嬉しいなって思ってて……それで明日から、とし君が少しでもやる気になれるなら……てね。でも残念、ちょっと遅かったんだね」
「……肺がんになったら、全部俺の責任にしていいぞ。なんなら俺の生命保険の受取人、お前にするか? 肺がんの治療費って名目で」
「いいよ。なんか、すぐにやめれそうな気がするから」
「あぁ……だよな」
「がんばってよね」
 明るい声で松本が言う。
「やさしい同期の気遣い無視して仕事辞めるんだから、煙草くらい美味しく吸ってもらわなきゃ困るからね」
「善処する」
「うん。辞表はいつ出すの?」
「時間かけたら迷いそうだから。明日にでもチーフに話す」
「そっか。……よし! じゃあ今日は仕事の話はここまでっ!」
 強い調子で言って、松本は立ち上がる。
 店の奥に向かって、
「店員さんっ! ビール追加! それから車エビの串焼き二人前お願いっ!」
 豪快な松本の頼みっぷりに、店内の酔っぱらいたちが軽く拍手をした。松本は「どもども」なんて言いながら愛想を振りまき、店の奥からは「ありがとうございます!」という威勢のいい声が返ってくる。ひとしきり店内を盛り上げ、満足したらしい松本は腰を下ろす。
 苦笑する俺を見、
「次に二人で飲むときは、とし君の就職祝いだね」
「……そうだな」
 松本の言葉に俺はうなずく。
 美味しくなさそうと言われた煙草を灰皿に押し付け、
「そのときはお前に、美味い煙草の吸い方ってやつを教えてやる」
「期待してるよ。……でもさ」
「ん?」
「もし美味しい煙草が吸えなくてもさ……たまにはこうやって会おうよね」
 そこで松本は、言葉を切った。
 俺を恥ずかしそうに見つめ……入社してから今日までの、共に過ごした全ての時間を声に乗せて、
「――せっかくの同期なんだから」
「……」
 俺はうなずいた。
 何も言わず、でも……力強く。


 俺が煙草を心から美味いと思えるようになったら――その時、松本に伝えよう。
 ありがとう、と。


2005/06/09(Thu)00:04:09 公開 / ドンベ
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■作者からのメッセージ
 数ヶ月ぶりに投稿します。お久しぶりの方はお久しぶりです、そしておそらく多くの方がそうだとは思いますが、はじめましての方ははじめまして、ドンベという者です。

 本当に久しぶりに書き手としてこの場に来ました。なんだか微妙に緊張します。あまりキャッチーな要素のない、読み切りとしては長い部類の文章ですが、読んでいただければ嬉しいです、そして読んでくださった方、本当にありがとうございました。
 どんな形でも感想をいただけましたら本当に嬉しいです。つたない文章ですが、よろしくお願いいたします。

 誤字修正しました。ご指摘くださり、本当にありがとうございます。……お恥ずかしい限りで。
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