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『クリームパンとコーヒー牛乳』 作者:神夜 / 未分類 未分類
全角17888文字
容量35776 bytes
原稿用紙約51.8枚





 教室の窓際の一番後ろの席。
 他の席から少しだけ離れた――……違う、離れてるんじゃない。
 他の席から隔離されたその場所が、あたしの席。
 転校生が来たその日も、あたしひとりだけが輪の中に入れなかった。
 入りたくても、入れない。それがもう定着してしまったから。
 そしてそれが、――あたしという存在だから。



     「クリームパンとコーヒー牛乳、焼きそばパンとミックスジュース」



 城嶋直之(じょうしまなおゆき)が山辺第二高等学校二年三組に転校して来て、今日で一週間になる。
 その間で、二年三組のクラスメイトは城嶋直之がどんな男子生徒であるのかを大方理解したはずだ。担任に「城嶋直之くんだ」と紹介された際にいきなり片手上げて「よろしく!」と満面の笑みで言い放った時点で人見知りなどせず、明るい性格であることは一目瞭然で、それに加えて髪の毛はルビーみたいに透き通った綺麗な薄い赤色をしていて、顔だってその辺のアイドルなんて目じゃ無くて、しかも運動能力が抜群に良く、体育の時間は常にヒーローで部活動で鍛えている生徒を押し退けて何でも柔軟にやってしまい、転校して来てたった一週間でクラスの中心人物にまで上り詰めた天性の才能の持ち主である。それは二年三組が元々活発で城嶋直之を何の抵抗も無く受け入れたことも作用しているのだと思う。恐らくは、この二年三組の中で城嶋直之と喋ったことが無い生徒など、ひとりを除いては誰もいないのではないだろうか。
 そのひとりというのが他の誰でもない、活気あふれるはずの昼休みに誰もいない校舎裏にひとりで座り込んでクリームパン食べてコーヒー牛乳飲んでる桜野夢(さくらのゆめ)である。木々に遮られた太陽の光がスポットライトのように射し込み、校舎から響く昼休みの喧騒が微かにしか聞こえないこの場所は、学校で唯一の夢の憩の場であり、夢しか訪れない秘密基地みたいなものだ。昼飯を食べるときは必ず、風の日だろうが雨の日だろうが雪の日だろうが、例え雷が鳴っていても震えながらここに来る。ここがいちばん落ち着く、といつも夢は思う。
 右手に持っていたクリームパンを頬張り、甘い味を満喫したら今度は左手に持っているコーヒー牛乳を飲む。両方とも学校の購買部で買えるものである。クリームパンは購買部では夢一押しの秘密の混じった商品であり、パックのコーヒー牛乳はそんな秘密のクリームパンの甘味を消さずに引き立ててくれる最高の相棒だ。毎日毎日こればっかり食っては飲んでいるのだが、不思議と飽きないのがすごい。絶対にこれを買うために、わざわざ購買部のおばちゃんと仲良くなって横流ししてもらうという裏技を使っているのだが、その事実は夢とおばちゃん以外はもちろん誰も知らない。
 校舎裏を吹き抜けた風が夢の髪を撫で、ゆっくりと舞わせる。それをクリームパンを頬張りながらぼんやりと感じ取り、そろそろ髪切らなくちゃ、と何となく思う。ぺたんと座り込んだ夢のスカートの上に置かれた携帯電話のディスプレイに表示されている時計が、一時八分を指していた。五時間目の授業が始まるのは一時二十五分からである。それまでの時間を、ギリギリまで夢はここで過ごすのが日課だ。冬の日はさすがに寒くて凍えてしまいそうだが、九月である今ならこの場所は涼しいので快適である。
 クリームパンの最後の一口を頬張り、もごもごとしながらゴミを手持ちの鞄の中に入れようとして、校舎裏に散乱していた落ち葉を踏み締める音に気づいて顔を上げた。夢がこの場所を見つけて以来初めての訪問者は、夢を見つけると「あり? 先客がいたし」みたいな表情で少しだけ驚いた後、唐突に人懐っこい笑みを浮かべて片手を上げ、「ちわっす」と挨拶をする。太陽の光を受けた赤い髪がキラキラと輝く訪問者は、山辺第二高等学校『ウワサの転校生』であって、夢と同じクラスの城嶋直之だった。
 話したことがない奴を相手に、いきなり片手上げて「ちわっす」と挨拶するだけの度胸は当たり前のように夢には無くて、城嶋から視線を外して口の中にあったクリームパンを飲み込み、コーヒー牛乳をちゅーちゅーする。そうやって無視してやったのにも関わらず、城嶋は「そんなこと屁でもない」みたいな顔をして笑いながら歩み寄って来て、断りも無しに夢の隣に腰を下ろした。
 僅かに動揺して夢が横に視線を移したとき、購買部から買って来たカレーパンを取り出して勝手に食い始めようとしていた城嶋と目が合った。僅かな静寂、城嶋が齧りつこうとしていた動きを止めてカレーパンを夢に指し出し、真顔で「食べる?」と訊いてくる。
 夢は即答し、
「いらない」
 城嶋もすぐさま、
「いるっつっても、おれもやる気はないけどね」
 「はっはっはどうだ悔しいだろ」みたいな顔をして、城嶋が実に美味そうにカレーパンを食う。
 ……何だ、こいつ。夢は素直にそう思った。この一週間で喋ったことがないけど、城嶋直之がどのような奴なのかは知っているつもりだ。お調子者だってこともわかっている。わかっているのに、それでも初めて喋った人を相手にどうしてそんな口が叩けるのだろう。こいつには人に嫌われるかもしれないと思う、恐れというものが無いのだろうか。たぶん無いのだろう。パーフェクト超人、なんて出鱈目な人間はこの世には存在しないに決まっている。城嶋もそうだ。運動神経が良くても、頭はすこぶる悪い。数学の時間に居眠りしていて起こされた際に、「数学の公式が将来、どのように役に立つのかを論理的かつ数学的に、簡潔に述べよ」と意味不明なことを教師に言い放った男だ。城嶋に恐れは無いのだ。なぜなら、正真正銘の馬鹿だから。
 夢がコーヒー牛乳を半分ほど飲み干したとき、聞いてもいないのに城嶋が言う。
「おれさ、昼飯ってひとりで食うのが好きなんだよね。いっつも昼休みになるとその辺に旅立つんだけどさ、ほら、級長の伊藤さん、って女の子いるじゃん? あの子が一緒に食おう一緒に食おうってうるさくてさ。で、今日こそはひとりで食おうって決めて秘密の場所を探し歩いてたら、ここに辿り着いたわけ。そしたら桜野さんがいたんだけど、まあいいかって思ってさ」
 最初に、級長の伊藤という名前に嫌気が刺した。次に、喋ったこともなくてクラスでも半端にされている自分の名前を城嶋が知っていたことが少しだけ嬉しかった。最後に、余計な火の粉が自分にかかるのは絶対に嫌だった。だから、ひとりで昼飯を食いたければ食えばいいのだと思った。城嶋にそんなつもりは無いんだろうけど、さっきの台詞が遠回しの嫌味に聞こえた。あんたがここにいるのなら、あたしがどっかに行ってやる。ひとりでカレーパン食ってろ赤髪馬鹿男。
 立ち上がろうとした夢を見上げ、カレーパンを食いながら城嶋が首を傾げる。
「どこ行くの? 便所?」
 女の子にそんなこと素で訊くな阿呆。
「違うわよ。ひとりで食べるのが好きなんでしょ。だったらあたしがどっか行けばいいだけじゃん」
 城嶋は心底不思議そうに、
「どうしてさ? そもそも先にここにいたのは桜野さんじゃん。そこにおれが割り込んだんだから、普通ならおれが出て行くのが筋だと思うけど」
 だったら出て行けよ、ここはあたしの秘密基地なんだぞ、とは当たり前のようには言えなかった。
 しかしこのまま自分がどこか違う所に行くのは何だか負けのような気がして、そしてここ以外に自分が行ける所など無いことに今更に気づく。もぐもぐとカレーパンを食いながら夢を見上げる城嶋を一瞬だけ睨み、やがてさっきまで座っていた場所に座り直す。不貞腐れた顔をしてコーヒー牛乳のストローを加えて、ちゅーちゅーと中身を飲む。何だかやり難い、と夢は思う。隣でカレーパン食ってる男が不思議で仕方が無い。まるで未知の生物のようだ。髪の毛が赤い理由は、実は宇宙人だからなのではないかとふと考える。……そういえばこいつ、何で髪の毛赤いんだろう。今更にその事実について深く思った。
 横目を使って宇宙人の様子を窺う。宇宙人はなぜか幸せそうな顔をしながらカレーパンを食っていて、目を細めて木漏れ日の射す校舎裏の光景を見つめている。吹き抜ける風にさらさらと揺れるルビーのように透き通った赤い髪は本当に綺麗で、どうも染めているのとは違うような気がする。染めてそうなっているのではなく、根元から赤いところを見ると地毛なのかもしれない。地毛が赤というのはそれはそれで恐いのだが、本当はどうなんだろう。
 そんなことを思っていた夢に向かい、城嶋が問う。
「そういえばさ、桜野さんっていつもひとりでいるよね。友達とか作らないの?」
 何でそういうことを素で訊けるのかが謎である。
「……別に。あたしの勝手でしょ」
「――援助交際してるってホント?」
 時が止まった。
 思わず城嶋を振り向く。城嶋は相変わらず校舎裏の光景を見つめていて、しかしそれでも夢に言うのだ。
「級長の伊藤さんに聞いた。あれって、ホントの話?」
 ――やっぱり伊藤か。冷たく沈んだ意識の中で、夢は氷のように笑う。
 二年三組の級長、伊藤沙織。こいつが全部の元凶だ。伊藤沙織はクラスの女子のリーダーみたいな感じで、誰も彼女に真っ向から逆らえない。逆らったら最後、陰湿なイジメの的にされてしまうのは目に見えている。もちろん夢も逆らうつもりなんて無かったし、何か衝突があってもすぐに謝ってやり過ごしてきた。それなのに。今でもはっきりと憶えている。五月八日の早朝、学校に登校して来た朝の教室で、夢の机にチョークで書かれていた文字。全身が凍りつき、伊藤がこちらを見て笑っているのがはっきりとわかった。あの日からひとりでいることを決めた。あの日からこの場所が秘密基地になった。伊藤沙織の名前を聞くだけで嫌気が差す、腹が立つ、――ムカつく。
 夢は氷の表情でつぶやく。
「信じたいなら信じればいい。軽蔑したいなら軽蔑すればいい。だからもう、あたしに関わらないで。もう二度と、あたしに近寄らないで」
 言うだけ言って、逃げようと思った。何か反論される前にこの場から走り出そうと思った。
 なのに城嶋は先回りをする、
「信じないし、軽蔑もしない。だってそれはただの噂じゃん。桜野さんの口からホントのこと聞くまで、おれは信じないし軽蔑もしないし、桜野さんに近づくことを止めないよ」
 ここで、それは本当のことだ軽蔑して二度とあたしに近づくな、と言い切ったらどうなっていたのだろう。
 そっちの方がずっと楽だったのかもしれない。余計な火の粉を浴びずに済んだのかもしれない。そのことをちゃんと頭では理解していたはずなのに、胸の奥から感情があふれていた。初めてだったから、なのかもしれない。こうして真正面からそのことを言ってきたのは、城嶋直之だけだった。それまで友達だったはずの人も誰ひとりとして、伊藤沙織が恐くて何も言おうとしてくれなかった。誤解を解いてくれようともしなかった。気づけばいつしか自分の殻に篭っていた。気づけばいつしか教室ではひとり切りだった。気づけばいつしか何もできずに風景の一部と化している自分がいた。
 気づけばいつしか、口を開いていた。
「……してないよ。してないに、決まってるじゃん……」
 あふれ出しそうな涙を堪え、それを誤魔化すかのようにコーヒー牛乳を飲む。
 滲んだ視界の隅で、人懐っこい笑みを浮かべて城嶋が笑った。
「そっか。だったらおれは桜野さんを信じる」
 不思議だった。城嶋が未知の生物のようだった。
「……どうしてそんな簡単に言い切れるのよ」
 声が上擦ってしまう。泣きそうなことだけは知られたくなかったのに、気づかれてしまったかもしれない。
 それでも城嶋は気づかないフリをしてくれたのか、それとも本当に気づいていないだけのかは知らないが、「そりゃあ当たり前じゃん」みたいな顔をして、コーヒー牛乳を飲む夢を見つめて別段変わらない口調で答えを口にする。
「だって、好きになった人を信用しないでどうすんのさ?」
 何でこいつは、人をこんなにも簡単に信用できるのだろう。恐れは無いのだろうか。やっぱり無いだろう。なぜなら、
 ――っぶ。
 コーヒー牛乳を吐いた。
「うわっ、何、なんで吐くのさ!?」
 慌てふためく城嶋を他所に、夢は取り出したハンカチでコーヒー牛乳を拭いながら、
「……あんた今、なんて言った?」
 不思議そうに夢を見つめ、城嶋は一瞬だけ考えた後、「『うわっ、何、なんで吐くのさ』」と繰り返す。
「違うわよ馬鹿、その前!」
 また一瞬だけ考え、城嶋は言う。
「『好きになった人を信用しないでどうすんのさ』」
「そうよ、そこ。好きになった、ってあんた正気?」
「薬漬けでイカれてるように見える?」
 見える、とは思ったが口には出さず、
「好きになったって、あたしとあんたが喋ったのって今日が初めてじゃない。それで好きになったって言われて、信用する方がおかしいわよ」
 む、と城嶋が真剣な顔をする。
「ならば質問だ。好きになるのに理由は必要か。一目惚れした奴は正気ではないのか。答えは何だ」
「……っ」
 すぐに答えを返せない自分が情けなかった。
 確かに人を好きになるのに核たる理由なんて無いだろうし、一目惚れした奴が正気でないのなら世界中の大半の人間がイカれていることになってしまう。だけどそれでも、これとそれでは話が違う。いきなりそんなことを言われて、あたしにどうしろと言うのだろうか。「あたしも好きだったの」と答えて欲しいのか、「ごめんなさい」と頭を下げて欲しいのか、「黙ってろ馬鹿」と殴り飛ばして欲しいのか。一体何を期待して先の台詞を言ったのだろう。いや、もしかしたら何も期待していないのかもしれない。そもそも何も考えていないに決まっている。なぜなら、こいつは馬鹿だから。
 カレーパンの最後の一口を口の中に放り込みながら、城嶋は「おれの勝ちみたいだね」とつぶやいて誇らしげな顔をする。それがどうしてかムカつく。ムカつくくせに、上等な啖呵の一つも出て来ない。何と返答していいのかまるでわからず、どうしようもないムカつきと敗北感みたいな感情が胸の中で渦を巻いている。そんな夢の内心など気にする様子も無く、城嶋はどこからともなく今度は焼きそばパンを取り出して食べ始めた。
 言葉が見つかった。
「……そのパン、美味しいでしょ」
 言ってから、何を言ってんだろう、と思った。
 ただ、山辺第二高等学校の生徒の中で購買部の内部状況を最もよく知るのは恐らく夢であるはずだ。購買部のおばちゃんからいろいろな情報が流れてくる。そこでちょっとした経緯を辿るパンの存在のことを知った。そのパンというのが、クリームパンと焼きそばパンである。細かな経緯は企業秘密だから言えないが、この二つは夢のお気に入りのパンで、クリームパンが何かしらの理由で買えない場合は焼きそばパンとミックスジュースのコンビを買う。それも買えないときは昼飯は抜きだ。そこまでパンに執着している夢だからこそ、城嶋が食べた焼きそばパンのことで口を出してしまった。
 焼きそばパンを一口だけ飲み込んだ城嶋が、少しだけ驚いた顔で夢を見る。
「ふむ。マジで美味いね、これ。桜野さんも好きなの?」
「それとクリームパン以外は食べないもん」
「あ、じゃあクリームパンも美味い?」
「美味しい。あたしの一押しだから」
「じゃあ明日はクリームパンだな」
「買えないかもしれないよ」
「なんで?」
「人気商品だから。あたしは毎日食べてるけど」
「人気商品なのに?」
「パイプがあるから、購買部のおばちゃんと」
「だったら明日もここに来るからさ、おれの分も買っといてよ」
「いいけど。その代わりコーヒー牛乳奢って」
「大きい対価だな。おれがそんなに金持ちに見える?」
「見えない。でもあたしには関係無いから」
「酷いね。……しかし美味いものが食えるんだ、その条件を飲もう」
「交渉成立だね」
 そこまで言ってから唐突に、どうして自分がこんなにも人と会話しているのだろう、と思い至る。
 ふと口を噤んだ夢を不思議そうに見つめ、城嶋は焼きそばパンを食いながら「どうかした?」と首を傾げるが、夢は答えない。城嶋から視線を外し、俯く。心の中で思う。――どうしよう、なんか楽しい。あの日以来、学校で誰かとこうして話すのは初めてだった。忘れかけていたこの感じ。誰かと話すという行為の嬉しさ。何でこんなに楽しいだろう。高校ではもう二度と、友達と話せないのだと思っていた。だからこそ自分の殻に篭り、教室ではひとりで過ごし、誰の目から見ても風景にしか見えない桜野夢という存在を造り上げたのだ。それなのに、なんでこいつはその存在をこんなにも簡単に崩しているのだろう。そしてどうして、あたしは今、こいつと平然と喋っているのだろう。
 城嶋が言ったような、好きだとかそういう感情じゃない。それは違うと否定する。
 だけど、だったら何でこんな気持ちになっているのだろう。
「……あたしが好きだって、さっき言ったよね」
 何となくそう訊くと、城嶋は焼きそばパンを食いながら「言った。もしかしてまだ薬漬けのイカれた奴だって思ってる?」と冗談のような口調で答えた。
 少しだけ間を置いてから、夢は言う。
「……あたしは別に、あんたのことは好きじゃない」
「だろうね。知ってるよ」
「……でも、好きになるかもしれない」
 一瞬だけ城嶋が驚いたような顔をしたのだが、すぐに、
「薬でもやっちゃった?」
「ぶん殴るよ」
「ごめん冗談。どうぞどうぞ、好きになってくださいな、夢さん」
「名前で呼ばないで」
「ごめん夢」
「本当に殴るよ」
 半ば本気でぶん殴ってやろうかと拳を握ったとき、風に乗って校舎裏にチャイムの音色が届いてきた。
 五時間目が始まる前の予鈴だった。あと五分で授業が始まる。そろそろ用意をして、残り二分を切ったら教室に向えば本鈴が鳴ると同時に席に着ける。ここ数ヶ月でその感覚を完全なものにした。下らない習慣だが、夢にしてみればそれはクラスで目立たないための必要最低限なことなのだ。城嶋のようにクラスの中心に立てるわけではない。だったら、このままを維持してひとりでいなければならないのだ。それが、あたしという存在だから。
 予鈴を耳にして、そう思ったとき、唐突に血の気が引いた。解け始めていた氷が巨大な柱を造り出す。それは何者も寄せつけない暗黒の闇を持っている。良い夢を見ていたのだ、と夢は思う。城嶋のことを好きになるかもしれない。そのことは否定しないし、城嶋との関係が続けばそうなるかもしれない。だけど、それはやっぱりやっちゃダメなことなのだ。クラスで半端にされている自分が城嶋と一緒にいれば、浴びなくてもいいはずの火の粉を浴びてしまう。わかっていたことだった。城嶋がここに来たときから、わかっていたことだったはずだ。伊藤沙織がいる限り、そして伊藤沙織が城嶋のことを好いている限り、あたしは城嶋と一緒にいちゃいけない。何かあれば、あたしだけではなく城嶋にまで迷惑がかかる。
 良い夢を見ていた。そして夢は必ず覚める。たった、それだけのこと。
「……さっきの約束、やっぱりナシにしよう」
 焼きそばパンを食い終わって満足気にしていた城嶋が怪訝な顔をする。
「約束って、クリームパンの?」
 夢は肯き、城嶋が問う。
「どうしてさ?」
「あたしといると、城嶋に迷惑がかかるから」
「……それは、夢がクラスから避けられてるから? だからそんな自分といたらおれと迷惑がかかる、だから約束をナシにしてもう二度と話さないでおこう。夢は、そう言いたいわけ?」
 言いたいわけないじゃない。それでも夢から覚めなければならないから。
 スカートの裾を握り、暴れる感情を理性で抑えつけて言葉を紡ぐ。
「そう。この場所が気に入ったんなら城嶋にあげる。だからもう、あたしに話しかけないで。そうしないと」
「馬鹿にすんなよ」
 校舎裏に本鈴が響き渡る。
 しかしそんなことなどお構い無しのように城嶋は座り込んだまま、夢を見上げた。
「好きになった女の子と一緒にいて何が悪い。迷惑なんてどうでもいい。おれと夢が一緒にいて何か問題が起こるのなら、そんなクラスこっちから願い下げだ。クソ食らえだね。……でも、この一週間でわかってるつもり。二年三組は、そんな陰湿なクラスじゃないよ。それは、おれよりも夢の方がわかってるんじゃない?」
 夢から覚めなければならないのに。それなのになんで。
 どうしてあんたはあたしの決意を無駄にするのよ。
 どうしてあんたはあたしが言いたいことを言うのよ。
 どうしてあんたは、そんなにも優しい顔であたしを見上げるのよ。
 馬鹿みたいじゃない。あたしひとりが意固地になって、馬鹿みたいじゃない。あんたに言われなくてもそんなことわかってるもん。……わかってるんだけど、もうどうしようもないんだよ。もう手遅れなんだ。教室でひとり切りのあたしという存在は、もう捨てられないから。このまま夢を見続けられる勇気は、やっぱりあたしには無いから。城嶋に迷惑がかかるは嫌だから。だからお願い、もう関わらないで。話しかけてこないで。好きになってからじゃ遅いの。そうなる前に、いつものあたしに戻らないと、そうしないと、
「自分に嘘をつくなよ」
 城嶋の一言で、高く積み上げられたはずの氷の柱がたったの一撃で木っ端微塵に砕かれた。
 本当は嘘なんてつきたくない。あたしだってちゃんと夢を見ていたい。ひとりは恐い。自分ひとりだけが世界から取り残されているようなあの感覚が何よりも恐い。抜け出したいけど抜け出せない。気づいたら果てし無く続く底無し沼の中にいた。手を伸ばしても誰も掴んでくれない。助けを呼んでも誰も振り向いてくれない。ひとり取り残されていた今までの自分に戻りたいはずがない。そんなことは自分自身がいちばんよく知っている、だけど。もう手遅れなんだよ。あの日から、あたしという存在は出来上がっちゃったから。それなのに、どうして、
 視界が滲む、肩が震える、抑え切れない感情が嗚咽と涙になってあふれ出す。
 その場に座り込んで泣き出した夢へと城嶋が近づき、同じように地面に座り込んで震える頭をそっと撫でた。
 卑怯だ、と夢は思う。手を伸ばしたら絶対に掴むくせに。縋るものが城嶋しかないのを知っているくせに。
 涙が止まらない、嗚咽が止まらない、震えが止まらない、いつしか城嶋に縋って泣いていた。
 それを何も言わずに頭を撫でてくれる卑怯な城嶋が、今はどうしてかすごく優しい気がした。

 その日、生まれて初めて授業をサボった。
 城嶋は、あたしが泣き止むまでずっと側にいてくれた。

     ◎

 城嶋直之が山辺第二高等学校二年三組に転校して来て、今日で二週間になる。
 あの日のあの昼休み以来、城嶋は昼飯時になると必ず夢のいる校舎裏に訪れるようになった。その理由は至って簡単、美味いパンが食えるから、である。夢が購買部のおばちゃんからクリームパンと焼きそばパンを買って校舎裏に行くのに対し、城嶋はコーヒー牛乳とミックスジュースを買って校舎裏に行く。城嶋とふたりで過ごす昼休みの四十分間だけが、学校で唯一、夢が笑える時間だった。城嶋と一緒にパンを食っているときだけが、下らない桜野夢という存在を消し去ってくれる。自分の殻に篭っていた夢に手を差し伸べ、引っ張り出してくれる。嬉しかった。楽しかった。笑い合える友達がいる幸せを、この一週間で十二分に分けてもらったような気がした。
 だけど、やっぱり夢はいつか必ず覚めるものだから。学校という限られた空間の中で、誰かと誰かがふたり切りでいることを隠し通せる訳はないのである。たったの一週間で、夢の夢は現実へと引き戻された。否、言い換える。一週間も保ったのだ。それだけで、奇跡みたいなものだと思う。それでも、その奇跡が永遠に続いて欲しいと望んでいた自分も、確かにいた。奇跡が続き、城嶋とふたり切りでパンを食べていられれば、どれほど嬉しくて楽しくて、そして幸せだったのだろう。
 恐れていたことが起こった。いつものように購買部でクリームパンと焼きそばパンを買って、いつものように校舎裏に行こうと踵を返したとき、夢の表情に浮かんでいた微笑が消えた。目の前に立っていた三人の女子生徒、伊藤沙織を含めたその取り巻き。問答無用で腕を引っ掴まれ、引き摺られるように校舎を出た。校舎裏からかなり離れた体育館裏まで連れて来られ、投げ飛ばされるように壁に追いやられた。
「――あんた、何か勘違いしてない?」
 伊藤沙織の第一声がそれだった。
 伊藤沙織は、顔も良ければスタイルも良い。茶色に染め上げてカールを巻く髪の毛、綺麗に整えられた化粧、少し吊り目なのがどこか可憐で、スカートから伸びた足は白くて細く、胸だって夢の倍くらいはあるような気がする。顔も良ければスタイルも良い、それだけでもクラスの中心人物になれるようなすごい武器を持っているはずなのに、この女はどこか間違った性格をしている。自己中心的な人間。自分の思い通りするためには手段を選ばない、敵に回すと最も質の悪い人間だ。そんな女が今、夢の目の前に取り巻きを携えて立っている。
 買ったばかりのパンが入った袋をぎゅっと胸に抱き、夢は俯く。どうしていいか、まるでわからなかった。こんなことがいつか起きるとはわかっていた。そのために、こういう状況になったらどうすればいいのか、なんてことをよく考えていた。それなのに、そんな考えなど本当にその状況に陥ったときには何の役にも立ちはしない。俯いたまま歯を食い縛る。恐い、苦しい、どうしてあたしだけがこんな目に遭っているのかわからない。何にも悪いことなんてしてないのに、それなのになんで、あたしだけこんなことになってるのだろう。
 五月八日、登校して来た教室、机に書かれていた文字。
 どうして、あたしだけ――?
 伊藤沙織が、俯く夢を覗き込む。
「ねえ、何であんたが直之と一緒にいるの? 何であんたが直之に付き纏ってんの? どうしてわからないかな。あんたと直之じゃ全然吊り合ってないじゃん。直之が迷惑してるの、わかんない? 直之がわたしに言って来たよ、あんたがウザイって。どうにかしてくれって」
 ――嘘だ。城嶋がそんなこと言うはずが無い。それにあんたこそ何を勘違いしてるんだ。あたしが城嶋に付き纏ってる、だって? 馬鹿言わないで。あたしから城嶋に近づいたときなんで一度も無いの。付き纏ってるのは城嶋の方。いつもあそこにいるから、いつも一緒にお昼ご飯食べているだけ。そこで少し喋っているだけ。八つ当たりもいいところよね、あんたが城嶋に纏わり付いても相手にされないのに、あたしが相手にされていることが悔しいんでしょ。勝手に勘違いして勝手に八つ当たりされたら迷惑、不満があるならこんな下らないことしないで城嶋に直接言えばいいじゃない。嫌われるのが恐いんでしょ? 城嶋が振り向いてくれないのが恐いんでしょ? 情けない人よね、あなたって。
 そう言って笑い飛ばせたら、どれだけ心地良いのだろう。そんなことを言えるだけの勇気があれば、自分はもっと変わっていたのだろうか。あの日のあの早朝での出来事も、少しは変わっていたのだろうか。机にチョークで書かれた文字。悪意の篭った、幼稚極まりない嫌がらせ。しかしそれを行った奴がこの女では、それが嘘だろうが何だろうが本当のことにされてしまう。事実、そのせいで夢はひとり、世界から取り残されてしまった。伊藤沙織の名を聞くだけで嫌気が差す、腹が立つ、――ムカつく。
 その思いが、表情となって出てしまったらしい。伊藤沙織が実に不機嫌そうな顔をする。
「何よその目。文句でもあるわけ? ――大体さ、何であんたがまだ学校にいるのよ? さっさと辞めちゃえば? そっちの方があんたに取っても、わたしたちにとっても楽だと思うんだけど。どうせあんたが学校辞めても困る人なんて誰もいないしね。それにあんたが学校辞めれば、もっと会えるようになるよ。休日だけじゃなくて、平日も会えるじゃない。その方が、あのオヤジも喜ぶんじゃない?」
 とくん、と心臓が鼓動を打った。言い表せない怒りが胸の奥底から湧き上がる。
 そして、伊藤沙織が核心に触れた。
「あんたはあのオヤジとエンコーしてりゃいいじゃん」
 五月八日、登校して来た教室、机に書かれていた文字。
 ――援助交際してる最低な女――
 気づいたら、伊藤沙織の頬を引っ叩いていた。
 乾いた音が鳴り響く中、伊藤沙織の体が左に揺らぎ、取り巻きふたりが驚いた顔で硬直し、踏み止まった伊藤沙織を夢は真っ向から睨みつけ、焼けるように熱い引っ叩いた右手を握り締めて大声で叫んでいた。
「何にも知らないくせに無責任なこと言わないでっ!!」
 あんたのその発言で、あたしがどれだけ苦しんだと思う。
 あんたが笑っているとき、あたしひとりがどんな思いでいたと思う。
 世界にひとり切りで取り残されることが、どれだけ恐いかあんたにわかる?
 あんたがいるから。あんたがあんなことをするから、わたしは、
 乾いた音と共に、今度は夢の体が左に傾ぐ。ものすごい力で叩かれたせいで何もできずに地面に倒れ込んでいた。転がったパンの入った袋を慌てて引き寄せ、引っ叩かれた右頬を手で押さえながら伊藤沙織を見上げる。伊藤沙織も夢と同じように右頬を赤く染めていた。が、夢とは対照的の憎悪に似た表情をしていた。叩くべき相手に叩かれた。そのことが、伊藤沙織のメーターを吹っ切ったのかもしれない。
「調子に乗ってんじゃないわよ。エンコーしてる女が偉そうなこと言っても、誰も信じてくれないんだから」
 髪の毛を鷲掴まれて無理矢理立たせられる。
 悔しくて涙が出た。そんな夢を見つめて満足そうに笑う伊藤沙織がこれ以上無いくらいにムカつく。振り上げられた伊藤沙織の右手が恐くて、夢は力一杯に目を閉じて涙を流す。
 何であたしだけがこんな目に遭うんだろう。何であたしだけが悪者扱いなんだろう。もう戻りたくないのに。やっとこの地獄から抜け出せるかもしれないって思ったのに。誰か、誰でもいいから。誰からあたしの差し伸べた手を掴んでよ。誰かあたしの叫びに振り向いてよ。誰でもいいから、助けてよ。恐いんだよ。辛いんだよ。苦しいんだよ。ひとりはもう、嫌だよ。誰か、誰か助けてよ。……助けてよ、城嶋……。
 伊藤沙織の振り上げられた手は、しかしいつまで経っても振り下ろされなかった。
 恐る恐る目を開いたそこに、願いが現実のものとなってそこにあった。
「探したよ夢。腹へって死にそうだったんだからさ、早く来てくれないと困る」
 伊藤沙織の右手を掴み、城嶋直之は夢を見つめて笑う。
「……直之、」
 バツの悪そうな顔をする伊藤沙織の手を離し、まるで彼女がここに存在しないかのように無視して、城嶋が夢の手を掴む。状況がまだあまり理解できていなかった夢の手を引き、体育館裏から歩き出そうとする。その背に向けられる、伊藤沙織の声。
「待ちなさいよ直之」
 城嶋は立ち止まりはしたが、振り返りはしなかった。
「どうして桜野なの。何でわたしを拒んで、そいつなのよ。エンコーしてるような奴と一緒にいてもいいことなんて一つも無いわ。それに、あなたとわたしなら吊り合うでしょ? そいつなんかよりわたしの方が可愛いし、スタイルも良い。どうしてあなたが桜野と一緒にいるかなんてわからないけど、絶対に後悔するわよ。今ならまだ間に合う、だからわたしと、」
「――はっきり言わないと、わからない?」
 城嶋直之が山辺第二高等学校二年三組に転校して来て今日で二週間、その間にクラスメイトは城嶋の性格を大方理解していたはずだった。担任に「城嶋直之くんだ」と紹介された際にいきなり片手上げて「よろしく!」と満面の笑みで言い放った時点で人見知りなどせず、明るい性格であることは一目瞭然で、それに加えて髪の毛はルビーみたいに透き通った綺麗な薄い赤色をしていて、顔だってその辺のアイドルなんて目じゃ無くて、しかも運動能力が抜群に良く、体育の時間は常にヒーローで部活動で鍛えている生徒を押し退けて何でも柔軟にやってしまい、転校して来てたった一週間でクラスの中心人物にまで上り詰めた天性の才能の持ち主である。お調子者で、いつも人懐っこい笑みしか見せない転校生だったはずだった。そんな城嶋直之が、初めて感情を剥き出しにしていた。
 冷酷なその瞳が、今は何よりも恐かった。
「おれはね、何の証拠も無いのに人を陥れる奴が大嫌いなんだよ。そんな奴と付き合うなんて、死んでも御免だね」
 真っ向から見据えられた伊藤沙織が僅かに後ずさり、必死に何かを言おうとして、そこに城嶋が先回りする。
「それともう一つ。おれのことを悪く言っても別に構わないし、何かして来ても文句は言わない。けどね、」
 こんな城嶋を見るのは、初めてだった。
「夢のことを悪く言うのは許さない。もしまた、夢に何かしたら、そのときは女だからって容赦しない。どんな手を使っても必ず、おれはそいつを、――潰すよ」
 何も言い返せなかった伊藤沙織から視線を外し、夢を手を引いて城嶋が歩き出す。
 体育館裏からグラウンドに出た際に、唐突に城嶋が夢を振り返り、「ちょっと言い過ぎたかな?」みたいな顔をして苦笑する。
 不思議だった。城嶋が未知の生物のようだった。

     ◎

 誰もいない校舎裏で夢が焼きそばパンとミックスジュースを頬張り、その隣で城嶋がクリームパンとコーヒー牛乳を食べる。最近では毎日交替でクリームパンと焼きそばパンを食べていた。今日は夢が焼きそばパンで、城嶋がクリームパンの日だ。どうしても相手の食べているパンが欲しいときは、半分だけ交換して食べる。それはいつしか、夢と城嶋の間では暗黙の掟みたいなものになっていた。
 だから、城嶋がクリームパンを半分だけ千切ってこっちに差し出したとき、それが何を意味するのかをすぐに悟った。焼きそばパンを半分だけ千切って差し出されたクリームパンと交換し、そしてパックのコーヒー牛乳とミックスジュースをふたりの間に置いて、互いがどっちを飲んでもいいようにする。クリームパンと焼きそばパンを互いに食べると合わないような気がするが、そこは秘密のパンの効力が働いてマッチさせてくれるから不思議だ。昼休みの喧騒が微かに聞こえる校舎裏で、夢と城嶋は何も言わずにパンを食べる。
 城嶋はこの一週間と同じで、何も訊いて来なかった。今まではそれが有り難かったが、今は少しだけ事情が違う。先の伊藤沙織とのやり取りをどこまで城嶋が聞いていたのかは知らないが、もう話さないでいるのは限界なのかもしれない。――いや。本当なら言いたいのかもしれない。城嶋だけにはわかっていた欲しいと思う。城嶋ならちゃんと聞いてくれると思う。誰も聞いてくれなかったこと。言っても誰も信じてくれなかったこと。言うのをもう諦めてきたこと。だけど、もう一度だけ、言ってみよう。城嶋なら、受け入れてくれると思う。
 片手にクリームパン、片手に焼きそばパンを持ったまま、夢はそっとつぶやく。
「……話、聞いてくれる……?」
 城嶋は返事はしなかったが、静かに肯いた。
 少しだけ間を置いてから、夢は言う。
「……あたしの両親ね、あたしが小さい頃に離婚したの。理由は詳しく教えてくれなかったけど、たぶん不仲になっちゃったのが原因だと思う。夜中にお母さんとお父さんが言い合ってるの、何回か聞いたことある。それで離婚して、あたしはお母さんの方に引き取られた。今はもう、お母さんは再婚して幸せだからそれでいいと思う。最初は抵抗あったけど、今のお父さんもあたしは好きだから。……でもやっぱり、本当のお父さんも好きなんだ。だってそうでしょ。この世でたったひとりの、血の繋がったお父さんなんだもん」
 コーヒー牛乳のパックを手に取り、少しだけ飲む。
 最初は間接キスだとか何だとかで恥ずかしかったが、慣れれば何でもできるようになるらしい。
 夢は続ける。
「それで、高校二年生になったときにお父さんの住所をお母さんから教えてもらって、連絡したら会えるってことになった。嬉しかった。小さな頃に別れてからずっと会ってなかったから、本当にもうドキドキしちゃって。まるでデートみたいにお洒落して、お父さんと会った。最初は照れ臭くてまともに喋れなかったんだけど、次第に打ち解けて、やっぱりあのお父さんなんだ、と思ったらもう止まらなくて。小さな頃みたいにお父さんにべったりくっついて、レストランでご飯食べたり、いろんな所を回ったり。楽しかった、すごく。……でも、たぶんそのどこかで、伊藤沙織に見られちゃったんだと思う。次の日に学校行ったら、机に『援助交際してる最低な女』ってチョークで書いてあった」
 ――そしてあたしは、ひとりになった。
 城嶋は僅かな間の後、
「……否定しなかったの?」
「したよ。したに決まってるじゃん。……けどね、城嶋も知っての通り、伊藤沙織はああいう人間だから、誰も逆らえないんだ。本当はわかってくれたはずの友達も、伊藤沙織が恐くてあたしの誤解を解いてくれようとはしなかった。現実を思い知ったの。悪いことなんて何もしてないのに、あたしだけが悪者になって、否定すればするほど嫌がらせ受けたりイジメられたり。だからもういいやって。だったらもうひとりでいようって。……城嶋は言ったよね? 友達を作らないの、って。答えは作らないんじゃなくて作れないの。作りたくても、もう手遅れなんだ。あたしはもう、ひとりだから」
 ――そんなあたしの手を、貴方が掴んでくれた。
 感謝してる。あたしに夢を見せてくれたこと、本当に感謝してる。
 今度は城嶋がつぶやく。
「……今度は、おれの話をしていい?」
 夢が城嶋を見つめたとき、赤い髪が風に揺られて綺麗に光った。
「おれさ、こんな赤い髪してるじゃん? これって、母親の腹の中にいたときに何か特別なことが起きて変色しちゃったからなんだ。この赤色が、おれの地毛なわけ。黒に染めても意味が無くて、生まれたときからずっとこのままだった。……実はすっげえコンプレックスなんだ、この髪の毛。小学生の頃とかどうして自分は他の人と違うんだろう、ってめちゃくちゃ悩んだ。でも答えは見つからなくて、泣きそうになってたときに、友達のひとりにこの髪の毛のことを馬鹿にされた。あのときの光景は、今も覚えてない。気づいたらキレてて、小学生のくせに友達を馬乗りで殴って、気絶させてた。拳についていた赤い血だけが、今も目に焼きついてる」
 「まったくしょうがねえ馬鹿だよな」というような顔をする城嶋が、ものすごく悲しそうに思えた。
「それからは触らぬ神に何とやら状態。誰もおれに近寄らないくせに、それでも遠巻きにおれのことを罵る。悪魔だの鬼だの陰口も叩かれた。死にたかった。どうしておれだけがこんなに目に遭うのかわからなかった。死ぬほど悩んだけど、結局答えは出なくて。その呪縛は、二年間続いた。小学校を卒業するときに父親の仕事で転校することになって、まったく知らない中学校に行くことになった。チャンスだと思ったよ。呪縛から逃れる最後のチャンスだって。どうすれば皆と打ち解けられるか考えて、まずは明るい性格にしようと思った。担任に紹介された瞬間、片手上げて笑いながら挨拶すりゃ皆笑ってくれる。そうすれば第一歩目は成功、次は髪の毛のことを聞かれても『カッコイイだろ?』とか『ルビーカラー、最近の流行』とか表面上で笑っておけば、多少のことを言われても耐えられる。はは。内心では言い表せない感情抱いてるなんて、誰も知らないだろうね」
 今も笑っている城嶋が、泣いているように思えた。
「第二歩目は、クラスの人気者になることだった。そうすれば髪の毛のこともまるで気にされなくなるし、のけ者にされることもない。それにはどうすればいいか考えて、辿り着いた答えが運動神経だった。得意じゃないスポーツを死に物狂いで、それこそ血流すくらいに練習して、誰よりも上手くなるように努力した。それが成功して、体育の時間ではヒーローで、何かして遊ぶときは必ず誘ってもらえた。造り上げた城嶋直之って存在が、たちまちクラスの中心人物になったよ。……下らない努力だったけど、おれに取っては必要最低限なことだった」
 城嶋の話を聞いていたとき、脳裏に不穏な考えが過ぎった。
 夢と城嶋は、根本的な所では違っていても、似たような道を辿っていたのではないか。唯一の違いと言えば、それは夢が今もいる地獄から城嶋が抜け出せたということ。それが果たしてどんな形だったとしても、城嶋は夢より一歩先を歩み出している。城嶋が言いたいことは何となくわかる。おれができたんだから、夢もできる。城嶋はたぶん、そう言いたくてこの話をしているのだと思う。そしてもしかしたら、城嶋は昔の自分と夢を重ね合わせていたのではないか。信じたくはなかった。だけど、もしそうだとするのなら。
「……あんたがあたしに話しかけたのは、単なる哀れみだったわけ?」
 口に出すつもりは無かった。しかし気づいたら、口から出ていた。
 城嶋が驚いた顔でこちらを振り向いたときになってようやく、最悪なことを聞いてしまったのだと思った。
 お願いだから否定して、と心の中で叫ぶ夢とは裏腹に、城嶋が無表情になる。
「……そう、だったのかもしれない」
 でもね、と城嶋は夢を見つめた。
「それは最初の、ここで出逢ったときだけだった。でも、今は違うよ。それは言い切れる」
 城嶋がそっと微笑む。
「昔なんて関係無く、おれは夢が好きだから」
 どうしてあんたは、あたしが今、いちばん欲しい言葉をくれるんだろう。
 どうしてあんたみたいな奴が、あたしの側にいてくれるんだろう。
 泣き出しそうになっている自分を隠すように俯き、夢はつぶやく。
「……まだ、あんたのことを好きになったわけじゃないからね……」
 どうしてあたしは、こんな言い方しかできないんだろう。
 どうしてあたしは、あんたみたいに素直に気持ちを伝えられないんだろう。
「知ってる。でも、好きになってくれていいから。おれは、夢を裏切らない。それは約束する」
 城嶋が笑う。そんな城嶋が、今はどうしようもないくらいに愛おしい。
 風に揺られて舞うルビーのように赤い髪へそっと手を伸ばし、夢は照れを隠すかのようにぶっきら棒に言う。
「……でも、この髪は好き。あんたはコンプレックスだ、って言ってたけど、この髪の毛は本当の城嶋直之だから」
 きょとんとする城嶋に少しだけ微笑みかける。
 やがて城嶋が自分の前髪を見上げ、
「夢が好きになってくれるんだったら、おれも好きになれるかもしれないね、この髪の毛」
 どこかから鳴り響くチャイムの音をぼんやりと耳に入れながら、夢と城嶋が互いに見つめて笑う。
「サボる?」
 城嶋のその問いに、夢は肯く。
「サボる。だってまだ、クリームパン食べてないもん」

 差し伸べた手を掴んでくれたのは貴方だから。
 あたしの声に振り返ってくれたのも貴方だから。
 そして、貴方はあたしに夢を見させてくれた。
 その夢は、覚めることはないのだと思う。感謝してるよ。
 ひとりじゃ無理かもしれない。でも、今は貴方がいるから。
 時間がかかると思う。でも、それでも、少しずつ、歩み出して行こうと思う。
 手を差し伸べ、振り返ってくれた貴方と一緒に。
 誰もいない校舎裏で、夢と城嶋がクリームパンと焼きそばパンを食べる。
 傍らに置かれたコーヒー牛乳とミックスジュースの水滴が、太陽を反射して光っている。

 夢はいつまでも、覚めることはない。

「ねえ城嶋」
「なに?」
「ずっと言えなかったけど、一つだけ、また言っていい……?」
「どうぞ」
「名前で呼ばないで」
「……ごめん夢」
「殴るよ」








2005/04/09(Sat)19:45:55 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
「皆さんこんにちは、七海紀紗です。この度、神夜が風邪で寝込んでしまったので、わたしがこの作品の紹介を――」
「あー、ちょい待て。何かあれだ、一日寝たら一気に熱が下がって学校にも行けたから問題無い。頭が少しだけフラフラするが許容範囲以内だし、本気で頼もうかどうか悩んでたけど、もういいよ紀紗」
「…………」
「そう膨れっ面になるなって。お前あれだぞ、三作品連続でヒロイン級の座を奪ってんだからもういいだろ」
「貴様、紀紗を愚弄する気か。その罪、死ぬより重いぞ糞餓鬼ッ!!」
「焔!? や、やめ――」

さて。そんな馬鹿なことはどうでもよくですね。ホントに不思議なことに一晩寝たら風邪が治ったので、こうして途中まで書いてあったこの【クリームパンとコーヒー牛乳】を書き上げて投稿する訳です。本当はこの題名、【クリームパンとコーヒー牛乳、焼きそばパンとミックスジュース】にしようかどうか悩んだのですが、長いの却下となりました(オイ) 以前投稿した【夢々】が少年漫画風読み切りなら、これは少女漫画風の読み切りですかね。よくわかりませんが、なかなか楽しく書けた作品なのです。が、神夜が楽しく書けたときに限って出来が悪く、出来が悪いと思ったヤツほど実は読み易かったりするのですが、その変は気にしない気にしない。しかし、今日び伊藤沙織のような女子高生はいないだろうなあ(マテコラ)
さてさて。本当なら【セロヴァイト】も終ったし、電撃小説大賞に応募するための小説をもう一作品書こうかと思ったのですが、さすがに〆切まで5日も残っていなかったこの状況で新作書いてあらすじ書き上げれる自信も度胸も勇気も気力も無い訳で。面白い面白くないは別として、来年のためにコトコト煮込んだスープみたいにじっくりと書こう、と思う神夜なのです。
そんな訳でこの作品を読んでくれた皆様、誠にありがとうございました。中途半端に長いので前後編にしようかと思ったのですが、もう手遅れなので知りません(オイ) 誰か一人でも楽しいと思ってくれた方がいることを願い、神夜でした。
(※文章内の題名だけ変更(マテ))
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