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『片翼の天使 四章』 作者:霜 / 未分類 未分類
全角37543.5文字
容量75087 bytes
原稿用紙約118.05枚

<第四章>


 少女が、泣いている。
 頬を伝う雫の一粒一粒が、汚れた床の上に染みていく。
「大丈夫。大丈夫だから」
 泣きやまない少女の体を優しく包み込みながら、もう一人の少女はそう言った。一体何が大丈夫なのか。本当に大丈夫なのか。本人でさえ分からないだろう。ただ、その一方的な言葉には確かな温かみがあった。ぬくもりというのだろうか。
 少女の嗚咽が少しずつおさまっていく。もう一人の少女は笑みを絶やしながら、少女が泣き止むのを待っていた。
「……ありがとう」
 少女が泣き止み、気持ちも落ち着いたところで、少女はお礼を言った。
「どういたしまして」
 少女は笑みを絶やしたまま、そのお礼を優しく受け取った。
 少女たちがいる場所はは、朽ち果てた教会のような場所だった。当たり前だがだれもいない。窓ガラスが全て割られているため風通しが良く、そこから入ってくる日差しはとても強かった。時間的には昼間だろう。
 そんな時間帯に、何故この少女はこんなにも泣いていたのだろうか。どうしてもう一人の少女はその年齢に相応しくない性格を持っているのだろうか。
 彼女らの境地は、かなり異様なものだった。
 一目見ただけで、彼女らの境遇は理解できるだろう。
 背中に、悪魔のような羽根を生やしていたのだから……。
 慰めていた少女は、少し迷いを持ちながらも口を開いた。
「ねえ。私たちは悪魔だから……こんな目に遭っているだけなんだよ。あなたはぜんぜん悪くないの。だから、そんなに泣かなくてもいいんだよ」
「だって……どうしてお姉ちゃんはそんなに笑っていられるの?」
 逆に聞き返してきた少女に対して、お姉ちゃんと呼ばれた少女は、
「彼らはこの姿がとても怖いの。私たちがどう思っていても、その恐怖までは消えることがないの」
「でも、もうこんな生活嫌だよ……」
 あきらめの言葉。
 それと同時に、少女の目じりから再び涙が溢れ出す。
 姉は、それが流れ落ちる前に指で掬い取った。
「大丈夫だから……。私たちがこれのせいで怖がられているのなら、こんなもの捨てちゃいましょう」
 こんなもの、とはすなわち羽根のことである。捨てるとはどういうことか――。
「捨てるってどうやって?」
 少女は、案の定訊いた。捨てるなんて軽々しく口にできるものではない。なぜなら羽根は体の一部であり、簡単に取り外すことなどできないからだ。
「……ちょっと痛いかもしれないけれど我慢すれば大丈夫」
「捨てるって、取っちゃうってこと!? 無理だよ!」
 驚愕している少女は青ざめてもいた。その行為は未知のものであり、どう考えても普通じゃない。
「大丈夫。これさえ取れれば、私たちはみんなと同じく暮らせるようになる。だれも私たちを傷つけたりはしなくなる」
「……本当?」
「本当に」
 少女は、その姉の言葉に勇気付けられたらしく、内心恐がっているが、
「わかったよ。やる」
 と言った……。
 姉は、それには何も言わず、笑みを浮かべて少女を見ているだけだった。


――本当に、愛しかったから……私は羽を捨てます。人間になるにはそれしか方法がないから。だから、ちょっと痛いけれど、我慢してね。エミリー……――



 古い山脈は、それほど高い山ではなかった。新しいほうの半分程度か。けれど、ティルたちはそのまま飛び越えるようなことはしなかった。
 なぜなら、砂漠が一面に広がっていたからだ。
 見渡す限りの砂の海。さすがにそんな中飛んでいくことはできない。だから、ティルたちは世界の中心から見て南西方向にある正式な入り口を目指すことにした。
 先生が言っていた時は東西南北のそれぞれの方向にあるらしいのだが、それは新しい山の話で古いほうは斜め方向にあるらしい。
 だから、ティルたちは今この街にいる――。
 

 ここは、カラスクムという地面が砂で覆われた街だった。
 日差しもかなり強く、帽子か何かで覆わなければ皮膚が焼け焦げてしまいそうだ。そんな炎天下の中、ティルとエミリーはふらふらと歩いていた。
「暑い……うわ〜」
 むしむしとする暑さの中、ティルはずっとその単語を繰り返していた。
「だれだって暑いんだから……少しは我慢しなよ」
 一方、エミリーはなんともない様子で歩いている。なんともないわけではないだろうが、比較的慣れているといった感じだ。
「どうしてそんなに平気な顔できるのかな……暑さに強いの?」
「趣味がサウナだからかもね」
「……それは冗談と取っていいんだよね……?」
 不毛な会話を続けながら。二人は適当にぶらぶらと歩いている。実は、特に用事はないのだ。ただ、宿にいても暑いだけなので外のほうがいくらかマシだろうとふんだのだ。大ハズレだったが。
 二人は、適当な喫茶店を見つけてその中に入った。
「すみません〜ブドウジュースください〜」
 エミリーは、そこら辺を忙しく歩き回っている店員に声をかけた。
「はい〜」
 そう返事をした店員は、さっと奥に戻り、すぐにジュースを持ってきてテーブルに置いた。そしてまた忙しく歩き回り始める。
「……なんか早くない?」
「何が?」
「やり取りが」
「ここっつったらこれが人気商品だからねえ……」
 そのやり取りで、ティルは重大なことに気づいた。
「エミリーって、ここに来たことあるの?」
「え……ああ……一応あるよ」
「すごいな〜。なったって――ふが」
 エミリーの鉄建がティルの頬にヒットする。
「ここではその単語はタブーだからね」
 そう言って、ジュースに口をつけなおしている。殴らなくてもいいじゃないか。しかも、今気づいてみれば、自分の分だけ注文しておいて、ティルの分は無いままだ。
 ティルも店員に声をかけようとした。しかし、あまりにも忙しく歩き回っているため、声をかける機会が全くできない。
 結局、ティルはあきらめることにした。
「そういえば、ブドウってなに?」
 ティルはブドウというものを知らなかった。ジュースになるのだから果物だろうという見当はついているのだが。
「ん〜。乾燥している地域にできるものだからねえ。実がたくさんなる果物だよ」
「へえ〜。すごいな。やっぱり――ふぐっ」
 脛におもいっきりけりを入れられしばらく沈黙するティル。
「馬の耳に念仏が」
 飽きれながら見ているエミリー。
 脛の痛さに涙を浮かべるティル。
 しかし、エミリーがいつもよりも元気が無いように見えるのは錯覚だろうか。


 
 店を出て、再び焼けるような日光に姿をさらしながら、どこに行こうか考えていたとき。
「ねえ。どうせ、情報収集するだけなんだし、別れて行動しない?」
 エミリーが提案してきた。
 天使たちのいる場所も近いということで、一応情報収集をするというを店を出るときに決めたのだ。たしかに、二人一緒に行動するよりは別れて行動したほうが効率はいいだろう。
 しかし、まだこの街に来て間もないティルは、ちょっと怖くもあった。
「エミリーはそりゃあいいかもしれないけど……僕はこの街よく知らないんだよ」
「ついでに色々回ってみればいいじゃん。あたしだって、ここに来るのかなり久しぶりだし小さい頃だったからほとんど覚えてないし」
「まあ、そうしたいんなら別に止めはしないけどねえ。ちゃんと訊いてまわってよ?」
 昔の知人などに会いに行っていたら目的を忘れてしまった、なんてことがあるかもしれない。エミリーはそういう少女なのだ。一応釘を刺しつつ、エミリーの申し出に了承する。
「なら、それでいいね。じゃ」
 シュッと左手を上げて、エミリーはティルから離れて行った。
 一人残されたティルは、あたりをきょろきょろと見回しながら、
「とりあえず日差し除けの道具とかってないのかな……?」
 独り言をつぶやきながら、どこか人が集まるところに足を向けた。




 エミリーは、周囲の人が歩く早さに合わせて一人炎天下の中歩いている。黒い三角帽子と外套をいつの間にか真っ白なものと取り替えてあった。
 何故ティルがいない間に取り替えたのかといえば、ティルに見られているところではそういう姿を見せたくなかったからだ。実のところ、エミリーは自分が悪魔だと周囲の人間にばれることが怖かった。特にこの街では。さらに、いつもいつも陽気な姿を見せているのに、人が変わったように用心している自分をティルに見られるのが嫌だった。
 もともとエミリーはそんなに元気な人間ではない。無理矢理繕っているというわけではないが、独りのときなどは無言で虚ろな表情をしていることが多い。
 だから、現在エミリーは影のように黙ったまま、街道を歩き続けている。
 途中、小さな道に曲がり再び大通りに出るという行為を繰り返す。エミリーは、ある場所を目指していた。古い記憶で自身は無いが、記憶の地図がたしかなら、その場所にアレがあるはずだ。壊されてなければ。
 そのまま数分狭い通りをくねくねと通り続ける。
 エミリーが足を止めたとき、目の前にあったのはぼろぼろの、今にも崩れそうな教会だった。
「良かった……まだ建ってたんだ」
 ティルと別れてから初めて独り言をつぶやいた。
 エミリーはほっとした心情とともに、その教会の中に足を踏み入れる。
 ギイッと蝶番の錆びたドアを押しのけ、広い空間へと入り込む。中もまた、ぼろぼろだった。ガラスのが全て割られた窓に、隅に押しのけられ、ただ朽ちていくだけとなった長椅子、木の板同然となったオルガン。床には何重にも埃が積もり、カーペットのようになっている。
 その古くも広いホールの中心には、十字の棒が二つ、地面に突き刺さっていた。その周囲だけ床が無く、そのまま地面に突き刺さっている。
 墓地のようなその光景に、エミリーは驚きもしなかった。なぜなら、これを作ったのはエミリーとかつては一緒だった姉であり、そこには自分の一部、悪魔の羽根が埋めてあったのだから。自分たちで千切り取った……。
 ぞっとするほどの痛みを覚えて、エミリーは肩を抱いた。エミリーにとって、ここは苦痛の場所であってそれ以外の何物でもない。この街だって、エミリーは好きではない。迫害を受け続けた街だから。
 昔のことをいろいろと思い出していると、ギィッという音がした。誰かが入ってきたのだ。
 あわてて振り返ると、そこにいたのは幼い少女だった。黄色と白の綺麗な花を持って、呆然とエミリーを見ていた。
「……お姉ちゃんだれ?」
 誰と問われて何と答えれば良いのか。答えられるほど何かを持っているものではない。
「んー。ちょっと道に迷っちゃってね」
 エミリーは適当に嘘をついた。どうせここにいることを不振に思っているわけではあるまい。純粋に知らないから訊いたまでだろう。
「お姉ちゃん迷子なの?」
「多分そうかな〜」
「かわいそう……」
 同情し始めた少女に対し、ちょっと笑いながら答えた。
「大丈夫。ちゃんと家には帰れるから」
 すると少女は、
「ホント!?」
 自分のことのように喜んで下げていた顔を上げた。家に帰れるのなら迷子じゃないだろうとか心の中でツッコミつつも、エミリーは少女に安心させてあげようとする。
「うん。だから大丈夫」
「そっか〜。良かった」
 ほ〜っと胸をなでおろし、再び元気になる少女。エミリーは、なんか昔の自分に似ているなと思った。自分だって、ここまで純粋だった部分はある。……もちろん今でも十分純粋だが。
 エミリーは、少女に何か訊こうとして迷った。そういえば、この少女の名前をまだ知らない。
「ねえ。あなたの名前を教えてくれるかな?」
「私の名前? 私はリンていうの」
「へえ〜。リンちゃんはなんでここに来たの?」
 そう尋ねると、リンはビクッと体を震わせ、おそるおそるエミリーに尋ねた。
「……お母さんに言わない?」
 エミリーは苦笑しながら、
「大丈夫だって。誰にも言わないから」
「約束する?」
「うん。指きりしようか」
 本当に指切りをして、二人は約束することを誓った。
「約束破ったら針千本飲むんだよ!」
 ちゃんとベタな決め台詞を言うリン。その様子がとても可愛らしく思える。
「それで、どうしてここに来てるの?」
「うん。ここにお墓があるから。ちゃんとお供えしなきゃって思ったの。でも、お母さんたちは絶対にここに近づいちゃいけないって言うから」
「へえ〜。そうなんだ」
 エミリーは、心の中でリンに感謝した。自分の墓にお供えをしてくれる人がいるなんて。当時はともかく、今だって想像できなかったことだ。今は、完全に嫌われているというわけではないらしい。無知だからこそ、なのかもしれないがとりあえず嬉しかった。
 持って来た花を丁寧に供えるリンを見て、古い過去の記憶が蘇る――。
 


 
 
遠い遠い私の記憶……。
 私が生まれたのは、どこだろう。よく分からない。
 気が付いたら、姉に手を引かれ、歩き続けていた。
 私が意味もわからず泣くたびに、姉はいつも微笑んでいてくれた……。



 私が幼いとき、私たちはずっと旅をしていた。一つの街には長い間いることができなかったからだ。最初は、少し珍しそうに見るだけなんだ。でも、最初から嫌悪のような目で私たちを見る。
 私が五歳のとき、サーカスという見世物に住まわせてもらっていたことがあった。三角形の建物の中で、動物が色々な芸をしたり、人間が凄い技を見せたりする場所だった。
 私たちは、そこで飛んでいた。ただ、羽根を動かしながら飛ぶだけでみんなが歓声を上げる。私たちはそれがたまらなく嬉しくて、かなり長い間そこに居させてもらったような気がする。けれど、あるとき、変な人たちがショーの途中で騒ぎ始めたんだ。彼らは、十字架やニンニクを私たちに投げつけてきた。それと、火がゴウゴウと燃えている松明。
 そんなものを投げられて、私たちは黙っているはずが無かった。姉の制止を無視して私はその松明を弾き返した。そうしたら、サーカスの小屋を作っている布に火が燃え移っちゃって、私たちはそこに居られなくなってしまった。
 最後に言った団長の言葉、
「悪魔が……災いの元でしかなかったんだ!」
 細いステッキを振りかざし、私の元へ力いっぱい振り下ろす。あの時は、全く痛くなかっただっけ。姉さんが庇ってくれていたから。
 その代わり、心がとても痛かった。
 その後も、私たちはいろんな町を転々としていた。基本的には羽根を隠しているのでバレることはない。けれども、いつまでも同じところに居たらそのうちバレてしまうかも知れないだから、私たちはそんなに長く留まろうとしなかった。留まるほどの価値が無かったからなのかもしれない。だって、すぐに離れた街のことはほとんど覚えていないんだもん。
 私たちが唯一留まろうと決めた街は、カラスクムという砂で覆われた町だけだった――。



 時は夜。地面が砂で覆われた街の中を、私たち姉妹は歩いていた。
 空には三日月が掛かり、周囲にある星が辺りを明るく照らしていた。
 私たちは、外套にうずくまるようにしながら歩いていた。とても寒かったからだ。昼間、遠くから街を眺めていたとき、私たちは余計な傍観具を外していても熱くてたまらなかった。今は、その反対だ。街頭の中で手をこすり合わせながら、口から出る暖かい空気さえも漏らさないように外套の中に詰め込んだ。それでも、死ぬほどに寒かった。
「お姉ちゃん……」
 それ以上、私はしゃべることができなかった。段々と力が抜けていくような感じがする。限界なんだろう。
「もう少しだから、頑張って」
 そう励ます姉も、私と似たり寄ったりの状態だった。ブルブルと震える体は、私よりもひどいかもしれない。私のほうが余分に衣服を着せてもらっていたのだ。夜は寒くなるから、と言って。返してあげたかったが、そんな余裕は無かった。
 ドサッという音がする。
 前を見ると、姉が倒れていた。
 片膝を付く状態で、もう一度立ち上がろうとしている。
「お姉ちゃん……大丈夫……?」
 気力で声を絞り出す。でも、人のことを心配している余裕などありはしない。
 私は、姉に手を貸そうと腕を前に突き出そうとした。
 しかし、腕が上がらない。中途半端な状態で立っていたため、バランスが崩れた。
 ドシャッ。
 地面に崩れ落ちた私はお腹がぐう〜っとなっているのを感じた。そういえば、今日はまだ何も食べていなかったような気がする。砂だらけの場所なため、食べられる草が無かったのだ。
 眠くなってきた……。
 何とか顔を上げて姉の行方を捜そうとした。ぎりぎり見えたのは、立ち上がって私のほうに雇用としている姉の姿。
 どうして、私のほうが大丈夫なのに、こんなにもだめなの?
 なんで、姉さんはそんなに強いの?
 そんな疑問を残しながら、私の意識は飛んでいった。
 
 
 
 気が付いたのは、暖かかったからだ。
 私は、どこか暖かい場所で寝かされているのに気が付いた。地面が砂じゃなく、暖かい毛布をかけてもらっている状態で。
 眠気眼を擦りつつ、できるだけ早く起き上がる。あの時、気を失ってからどうなったのか。姉は一体どうしたのか。
「やっと気づいた? 案外ネボスケだねえ」
 目の前に座っている、黒い短髪の男。彼は、私の顔をまじまじと見てこう言った。
「凄いむくんでるね」
 さすがにムカついたので、私はソイツを蹴り飛ばした。
 ヒャアと悲鳴を上げる男。悲鳴だけは女みたいなやつだった。もう一発かましてやろうかと考えていると、
「エミリー。ダメッ! そんなことしたら失礼でしょ」
 いつの間にか居た(気づかなかったらしい)姉が、眉間にしわを寄せて怒っている。察するに、コイツは恩人のような人らしい。じゃなきゃこんな毛布とかあるはずがない。
「アンタ名前は?」
 私は、姉の制止を無視して尻を摩っている男に尋ねた。
「……まずは自分から名乗れよ」
 姉の制止を聞いている時点で知っているくせに。
 私が睨みつけたまま待っていると、怖くなったのか、
「ダズだよ……」
 ふんっ、とそっぽを向きながら訊いている私。
「ダズさんはね。あそこで倒れている私たちをここまで連れてきてくれたのよ」
 周りを見ると、ここは教会だった。独特のステンドガラスが壁にはまっている。そこからの光がとても綺麗だ。
 私たちが寝ていたのは、教会の一番前の普通司祭とかが立っているところだった。ただ、ぼろぼろのオルガン以外は何も無いのでかなりの広さだった。
「ここは誰も近寄らないからな。危なくて」
「何で危ないのさ」
「床が抜けるんだよ。あんたらも十分気をつけな」
 何というか、実際の年齢と言葉が合わない少年だ。まだ私と同じくらいだろうに(同じだったら十歳だ)口調だけはおっさんみたいだ。
「それと、そこに食いもんがあるから。全部くっちゃって構わねえ」
「本当に有難うございます」
 お母さんのように(いたなら多分こんな風なんだろう)礼儀正しくお礼する姉と、顔を紅く染めて、
「別に大したことじゃねえよ。気にすんな」
 照れているのがバレバレのダズ。
 なんにしろ、この少年のおかげで一命を取り留めたのは事実で、この後一ヶ月ほどここに滞在したのはコイツのおかげであり、コイツのせいでもある。

 

 基本的に、朝になるとダズがいて、食べ物を持ってきてくれるという生活が続いていた。
 私は、起きたら食事をして、その後ダズと教会の中で適当に遊ぶ生活を続けていた。姉は、色々と用があるらしく、炎天下の中街を出歩いている。
「ねえ」
 私は、ダズに尋ねた。
「んあ?」
「暇なんだけど」
 私は、地面に散らばっているガラスを丸めた物体を見ていた。ビー球というらしく、弾いて遊ぶものらしい。それを弾きながら言った。
「だから暇なんだって」
「そうだな」
「……それだけ?」
 私は食って掛かるようにしてダズを見る。ダズは、同じく暇そうにだらけていた。
「何かすることないの?」
「……何がしたいんだよ」
 むくりと起き上がってあぐらをかくダズ。ガシガシと頭を掻きながら、ダズは尋ねた。
「何か」
「じゃあ、そこのオルガンでも弾けばいいだろう」
 私はそこでどもった。楽器なんて弾いたことも無いので、どうすればいいか分からないし、そこまで気軽に言えるダズは多少弾けるのかも知れない。そう考えるとなんかシャクだった。
「音楽興味ないもん」
 そんなことを適当に言ってごまかす。
 すると、ダズは、
「そうか」
 と言ってまた寝転んでしまった。無気力なやつだ。
「ねえ」
「なんだ?」
「どうして私たちを助けてくれたの?」
 特に話す内容が無かったので、私は訊いて見た。今まで聞かなかったのもまた問題があるような気がしていたのだ。
「道を歩いて居たら女が二人倒れていた。アンタなら無視するか?」
「しないで居られる余裕があるのならしないね」
「だったら、俺は余裕があるから助けたんだな」
 満足そうに結論付けるダズ。酔った親父みたいだ。
「じゃあ、何でその後も食事持ってきたりしてくれるの? 大変でしょ」
「この街の人間は基本的に裕福なんだ。差がないだけなんだけどな。それで、困ってるみたいだから知り合いのパン屋に頼んでいつも売れ残ってるものを貰ってきてるんだ」
 ということは、この朝食用――その他もろもろ用のパンは昨日のも貰ってきたものなのか。
「俺がやったことなんて、家から毛布取ってきて、毎日余ったパンを届けてる程度だ。どこも大変じゃないだろ」
 そんなこと言われても、そうだね、なんて同意できるほど壊れた頭は持っていない。
「……なんで私たちを助けるの?」
 一番訊きたかったことがこれなのかもしれない。普通の人間とは相容れることができない種族なのだ。悪魔というものは。だから、私たちはできるだけ干渉しないように生きてきた。今回は仕方が無く干渉してしまったものの、ここまで続けるつもりは無いつもりだった。というか、そういうのは姉が仕切っているので姉が言ってくれると思ったのだ。でも、そんなのも全く無いようだ。姉はどうして人間と干渉することをそのままにしているのだろうか。すればするだけ傷つくだけだというのは分かっているはずなのに。
「それ、アンタの姉さんにも言われたよ」
「そりゃあそうだろうね」
「これ以上私たちに干渉しないほうがいいって」
 一応は言われたようだ。
「だったらどうして続けるのさ」
「……お前にゃ関係ねえよ」
 なんなんだそれは。いきなりはぐらかしやがって。
 顔を紅く染めて遠くを見ているダズは、何というか変だった。ついでにムカついた。
「って! 何で蹴るんだよ」
「五月蝿い! なんかムカつく!」
 ギャアギャアわめき散らす私とダズ。
 私はここに暖かいものを感じていた。今まで無かった、不思議なもの。
 だから、私もここに居続けることを悪く思わなかったんだ。
 

ある日のこと、姉はいつものように私が寝ている間に出かけていった。私は朝起きるのが遅いので、そのために声を掛けないで出て行くのだろうけど、何というか楽しそうだった。かなりうきうきしているようだった。
 私は姉が居なくなってからムクリと起き上がり、どうしてそんなにうきうきしているのか考えた。というか、毎日どこに行っているのだろうか。
 しばらく考えていると、ダズが入ってきた。彼は、いつものようにパンの入った袋を持ってきていた。コイツは何か知っていないのだろうか。仮にも外を歩いているわけだし。
「ねえ」
「何だ? 今日はやけに早いじゃねえか」
 いちいち五月蝿いやつだ。
 私は、ダズのそんな皮肉(そういう気は無かったかもしれないが、私は確実に受け止めていた)を無視して訊いた。
「姉さんどこ行ってるの?」
 ダズは、パンを床に置いて、自分もまた床に座った。そして、そのまま腕を組む。
「さあなあ……基本的にねちねちくっついて回ったりしてるわけじゃないから分からん」
「予想もつかないの?」
「あー……どうだろうな。教会を右に曲がっていったってことは街の中心の方に向かっている訳だから……あそこは店とかあるくらい――つっても色々あるんだけど」
 店。ということは働いているということなのだろうか。そこから生まれる結論は一つ、ある程度稼いでここから離れる。身の安全が確保できるような街ではいつも少しだけお金を稼いでいたのだ。素性がバレない程度なので本当に少しの間だけだが。
 そう考えると、もうそろそろここにはいられなくなるという事か。私としては、なかなか居心地のよい場所だったんだけど……。とはいっても本当にこの考えがあたっているかはまだ分からない。
 ちょっとした寂しさを感じながら、私はダズに言った。
「姉さんの後追うよ。さっさとしな」
 寝転んでいたところだったダズは、一瞬躊躇しながらも、何も文句は言わなかった。コイツも多少気になってはいたのだろう。
 そんな感じで、私たちは姉の後を追うことになった。



 日中は毎日真夏日よりだ。この街に過ごしやすい日などありはしない。夕方からくれるまでの僅かな時間ならぎりぎり涼むことができるけど、その時間をすぎれば一瞬にして真冬となる。
 熱くてくらくらしそうだけれど、寒いよりはまだ良かった。私とダズは街の中心を適当にウロウロしていた。姉の後を追うといっても、とっくに出かけた後だったので尾行のようなことは不可能だった。だから、働いているのなら適当に探せば見つかるだろうという考えでこうしてウロウロしているわけだ。
 街の中心は、本当に店が多かった。基本的に食事ができる場所らしい。あと、飲み物を売っている場所が今まで見てきた街よりもかなり多かった。驚かされたのは、生のタマネギをそのまま売っていることだ。いや、確かに野菜の売っている場所に行けば手に入る。しかし、ここではそれ単体で、店を出している。
「何でタマネギなの?」
 と、ダズに訊くと、
「熱いとクラクラしてくるだろ? それがひどくなると倒れる人とかが出るんだけど、タマネギはそれを防ぐ薬なんだ」
 根拠があってのことなのか疑問はあったが、今はどうでもいいことだった。プチ雑学として頭の中にインプットして、姉の姿を探し回る。
 一二時間ほど歩いただろうか。
 とある喫茶店で、姉が働いているのを見つけた。
 私はダズを無理矢理引っ張り、よく見える日陰のある場所へと隠れた。
「……働いてるんだな」
 ダズの言葉にため息をつきながら観察を続ける。
 姉は、小さなリュックを背中にしょっていた。これは羽根が見えなくなるようにするためのものだ。背中に面する部分に穴を開けて、羽根をその中に入れてしまう。そうすると、リュックを背負った人間と変わらなく見える。この生活で培った、ちょっとした知恵だった。
 ちなみに私は外套を羽織ってきているので問題ない。熱いけれど、肌を露出させると日光で焼かれてしまうので避けるために外套を羽織っている人は多かった。
「あーあ。ここも結構いい場所だったんだけどなあ」
 私は寂しさを紛らわすために口に出してそう言った。
「どういうことだ?」
「お姉ちゃんが働くのは、もう少しでここを離れるからだよ。いつもそうだったもん」
 それを訊いたダズは、凄く驚いた。
「本当か!?」
「ほ、本当だってば」
 凄い勢いで聞き返すダズに私は驚きながらも答えた。あ、もしかしたらコイツも結構寂しいとか思ってくれてるのかも。そんなことを考えていると、私はなんだか申し訳ない気持ちになってきた。
「まあ、邪魔な人間が居なくなるだけだから。そんなに問題ないっしょ?」
 無邪気さを気取る私の声。多分、誰もこれが芝居だとは思わないだろう。今まで世話をしてくれる人は何人もいた。成り行き上だったり本当にしたくてしてくれている人もいたけれど、やっぱり迷惑が掛かっていることは事実で、長いこと居れば邪魔だと思う想いも段々と増えていく。こういえば、肯定はしないものの、否定する人間はあまりいなかった。
「いや、問題ありまくりだ」
 だから、いきなりそう返された私は驚いた。
「何でよ」
 どうせ善意で言っているくらいのものだろう。私はそう考えた。
「どうせ、本当のこと言えないからそんなこといってるだけじゃないの?」
「……いや、本当のことは言ったんだ。もしかしたら、そのことを気にしているのかもしれない。うわ……馬鹿なことしたかも」
 いきなり頭を抱えるダズ。
 何なんだコイツは。何をそこまで真剣に思い悩む必要があるのだ。
「てか、アンタ何か言ったの? お姉ちゃんに」
 ダズは一瞬躊躇った。私を見て。
「……お前の姉貴にどうして助けるんだ、って訊かれたときに……」
「に?」
「アンタに惚れたんだって言っちゃったんだよ……」
 情けない声でうな垂れるダズ。私は驚いた。
「はぁあ〜!?」
「いや、冗談じゃないんだけどな……もし、そのことで思い悩んでて――ってことなら明らかに俺が悪いじゃん」
「まあ、そうだけど」
 やっぱりそうか〜、と呻いてダズは再び沈んでしまった。
 私は、その横で黙考していた。
 まさか、この横に居るなんともチンケな男がそんなことを言うとは。しかも遠く及ばなそうな姉に。姉は全く化粧っ気がない。でも、それが逆に彼女の容姿を良く見せていた。すっぴんでも凄く綺麗なのだ。そのままのほうが無意味に化粧するより綺麗かもしれない。それなのに、この男。全くもって吊り合っていなかった。性格的にも顔的にもそれほど悪いわけではないが、姉のレベルが高すぎる。ましてや、悪魔なのだ。そんな秘密を持っていて普通の人間と愛を語り合うことなんてできるはずが無い。
 とにかく、私は急いでその場から離れることにした。姉が帰ってきたとき、そのときに訊いてみよう。



「ただいま〜。元気にしてた? エミリー」
 姉は、一仕事終えたということで僅かな疲労を見せながら微笑んでいた。
 私は、
「うん。特に問題なかったよ」
 などといって誤魔化した。いや、誤魔化してる状況じゃないんだけど。
 ダズは、姉が帰ってくるなり、いきなり立ち上がり、緊張しまくりの状態で成り行きを見ていた。
「お姉ちゃん」
 私は恐る恐る声を掛ける。
「なあに?」
 姉は、私の気持ちも知らないで陽気に訊いてきた。
「……なんで働いてるの?」
 沈黙。空気が一瞬にして凍りつく。姉は、口を開けたまま、それを閉じようとしなかった。
「……なんで知ってるの?」
 当然といえば当然の返答。そこで私は沈黙せざるを得なかった。この後どうすればよいかが分からない正直に話して良いのか悪いのか、見当がつかなかった。
 そこでダズが会話に混ざることになる。
「そんなことはどうでもいい。君はこの街から出て行こうとしてるのか?」
 なんか芝居がかった台詞だなあ。
 私はそう感じながらも黙っておいた。だって、一応ダズにとっては真剣なんだから。
「どういう意味ですか?」
「エミリーが、お金を稼ぎ始めたときはもうすぐ出て行く時だって!」
 二人の目が私に向けられる。
「だって……いつもそうだったでしょ? お姉ちゃんもそう言ってたし」
「たしかにそう言ってたけど。これとそれとはちょっと違うの」
 はい? と拍子抜けする私とダズ。もちろんそれだけで納得なんてことは無かったが、いきなりの否定に戸惑った。
「私は、ダズさんに日ごろお世話になってるから何かお返しがしたかったの。お金を稼いでるのはそのため。ここは良い町だから、まだ出て行こうとは思ってないよ」
 それを訊いて、私たちは喜んだ。
「本当!?」
「うん。大丈夫。それまでダズさんには迷惑が掛かってしまうけれど――」
「そんなのいいから。気にしないで!」
 ダズはかなり上機嫌だった。めちゃくちゃ嬉しそうだ。そりゃあそうだろう。とりあえず自分のせいではなかったのだから。結果は聞いていないみたいだけど。
 

 しかし、この決断があとでとんでもない結果を生むことになる。私はこのとき、無理にでも一緒に出て行っていればよかったと思っている。だって、姉さんは……。
 


 喫茶店で忙しく働く女性が居る。リュックサックをいつも背負ってせわしなく動いている。
 そこに一人の男が現れた。白い外套とフードで日光を遮断する人物。彼は、その少女を見つけて、
「彼女は……」
 そう呟いた。そして、男は彼女の元へと歩いていく。
 リュックサックの女性は、一人の男と軽く話をしていた。店に寄ってきた知り合いだろう。男はそんなことを思った。だが、どうでもいい。
 男は一直線に女性の元へと歩いていく、その様子は、彼女自身と話をしていた男にも気づかれていた。
「アンタなんだ?」
 席に座っている男が尋ねた。
 しかし、男は何も答えないまま、少女の肩をつかむ。
「イタッ!」
 少女が悲鳴を上げ、男が怒りを表し肩を掴んで話さない男に拳を振り上げた。
 だが、男は何のそぶりも見せず、殴りかかってきた男を吹き飛ばした。
 奥の席にぶつかり、苦悶の表情をする男。白い男はそれ以上構わなかった。目的ははじめから少女にあった。
 男は、少女が身に着けているリュックサックを引きちぎる。信じられない力だ。その痛みに悲鳴を上げる少女。だが、周囲はそれどころではなかった。少女から生える黒い悪魔の羽根。彼らは、それを見てしまった。忌々しい悪魔の羽根を。
 周囲から沸き起こるようにして、悲鳴や怒涛の声が上がり始める。吹き飛ばされた男も、信じられない、という目で彼女を見ていた。
 男は黙ってその光景を眺めている。
 大衆は、明らかに少女を敵と見なしたようだ。少女のほうは、その人々の視線を受けて、恐怖で固まってしまっている。人々は少女に向かって物を投げ、罵詈雑言をぶち撒けた。
 知り合いの男が、彼女のそばに駆け寄り、無理矢理立たせてその場を逃げる。
 人々は、彼らを見逃さなかった。魔女狩りをするかのように彼らを追い始める。
 いつの間にか、悪魔を殺せ、と口に出す人々がいた。
 さらには、磔にするんだ! と叫ぶものが板。
 それを見て、白い男フードの内側で微笑んでいた――。 
 
 
 
 私が、長いすに寝転がってぼーっとしていたとき、大きな足音を立てながら姉とダズが飛び込んできた。玄関のドアを突き飛ばすように蹴り開き、似たような荒々しさで閉じる。
 その異様な光景に私は、
「何かあったの?」
 と非常にのんびりした様子で尋ねた。すると、
「みんなが襲ってきてるんだ!」
 必死の表情でダズは私を見た。私はいきなりのことで戸惑いを隠せなかった。
 姉を見てみると、いつもつけているはずのリュックサックがなくなっている。そこで理解した。大衆にその姿が晒されてしまったのだろう。悪魔を見て喜ぶ人はあまりいないから。
 大抵は、忌々しい気持ちとともに、嫌がらせに走る。
「なんでそんなことになっちゃったの!」
 私はダズに食って掛かった。一緒にいたということはもしやコイツが何かしたのかもしれない。私の言いたいことが理解できたのか、ダズは首を横に振った。
「俺のせいじゃない! 俺はお前らが悪魔だろうがなんだろうが構わない! 俺の気持ちは変わらない!」
 うそを言っているようには見えない。何気にクサイことを言ってしまっているが、そこはパニくっているだけだろう。私はどちらかというと冷静なほうだった。こういうことは少なからず経験しているから。
「変な男が近づいてきて、無理矢理リュックを破いたんだ」
 ハアハアいいながら、二人は椅子に座って落ち着こうとしている。
 突如、玄関からドンドンという音が聞こえてきた。誰かが外から叩いているようだ。その音は、時間がたつに連れて数が増え、音も強烈になっていった。
「やばい……! 着ちゃったよ!」
 顔を蒼白にして辺りを見回すダズ。
 私も、警戒して辺りを見回した。
「悪魔ァ―――――!」
「消えろ!」
「街から出て行け!」
「殺してやる!」
 いろんな言葉が外から飛んでくる。私はそれらに構わず、部屋の中心に来るように二人を促した。ドアを叩いて憎たらしい言葉を吐き出すだけならまだマシなほうだ。
 私がそう思っていると、案の定、全てのステンドガラスに大きなひびが入った。石で割ろうとしているのだろう。だから移動したのだ。
 蜘蛛の巣のような形のひびは、段々大きくなり、最終的には紋様さえも無くなって無数の亀裂だけが満遍なく広がっている。
 もうそろそろだ、そう思ったとき、
「頭を隠して!」
 姉が持ってきた毛布で自分たちの体を覆った。
 それと同時にあちこちでステンドガラスが砕け始めた。
 シャンガシャン!
 大小さまざまなガラスの破片は、教会のあちこちに飛び散った。もちろん、私たちの上にも。毛布によって怪我は無かったけれど、このままでは中に入られてしまう。
 玄関も、最後のドカン! という音と共に開けられてしまった。ぼろぼろなんだ。仕方が無い。民衆は、恐怖と憎悪の感情をストレートに表していた。
「お前らが住み着いてる悪魔か……!」
 毛布を剥ぎ取り、姿を見せた私たちを彼らは忌々しく吐き捨てる。
「だったらなんなんだよ……」
 私は冷めた声でそう言った。もう慣れているため、感情というものが全く出てこない。どうにでもなれ、といった感じだ。
「ふざけるな! 災いをもたらすだけのくせに!」
「勝手に決め付けてんじゃねえよ!」
 反論したのはダズだった。
 私たちの前に立ちはだかり、叫んでいる。
「一体この二人が何をした!? あんたらは何でそんな理由で傷つけるんだ! 大人のくせに!」
「うるせえよ! 悪魔に味方するならテメエも同罪だ!」
 男がそう吼えた。そして、一番近い場所にいたダズをおもいっきりぶん殴った。
「アグッ……」
 弧を描くようにして、私たちのところまで殴り飛ばされる。それを見て、私の怒りが爆発しそうになった。だが、なっただけで爆発はしなかった。姉が、本気で怒ったから……。
「ただ存在するだけの者に良いも悪いもありません!。私たちはあなたたちを悪と見なしますよ」
 姉は冷徹にそう告げる。
「何が悪だ。悪魔が人間の姿を、真似るな!」
「……どうせ予想していたのなら、災いを受けてもかまわないな? その身に受けろ」
 脳震盪でも起こしたのか、ダズは姉にかばわれたまま動かない。姉は、ダズを守るように、私と二人以外の対象を容赦なく吹っ飛ばした。
 同心円状に広がる衝撃。その威力は、周囲の人々を文字通り吹き飛ばし、近くに並んでいる長いすさえも軽々と壁際まで吹き飛ばした。端っこにあったオルガンまでもが壊され、ただの板切れに成り果てる。災いと呼ぶに相応しい効果だった。
 民衆は、その力に悲鳴を上げ、一目散に逃げ出し始める。倒れた人を躊躇せず踏み倒して逃げるさまは、哀れとしか言いようが無い。
 辺りが静まり返ったとき、サァアアという音と共に湿っぽい空気が広まった。ガラスの割れた窓を見やると、雨が降っていた。
 湿っぽい。私の心を表しているかのように、その雨はしとしとと降り続ける。
 一瞬にして変わってしまった教会の中心で、私は涙を拭わなかった。
 


 次の日、姉は朝からどこにも行かなかった。ダズはもまた来なかった。そのかわり、
「……あんた誰だよ」
 壊れた玄関に立っている、白い外套を着た人物。彼は、私たちを見てこう答えた。
「嫌われた存在のようだな」
 私は感情が逆なでされるのを感じた。
「だったらなんだ!」
「……そっちの女のほう。昨日の力はかなり凄かったな。妹を見逃しておいてやるから俺のところに来ないか?」
 意味が分からない。見逃すってどういうことだ。すでに私たちは見つかってしまっているというのに。
「お前らだって、もうこんな生活嫌だろうに。苦しみから解放されたいだろう? 誰にも嫌われること無く、悠々と生きて行きたいだろう?」
 それはそうだ。だが、コイツが求めているのは姉のようだ。そんな了見飲めるはずが無い。
「……もうちょっと詳しく説明してくれませんか?」
 だが、姉は少し興味を持ってしまったようだった。
「お姉ちゃん!?」
「エミリー、大丈夫だから」
「……簡単に言わせてもらえば、俺はあんたらを見つけ次第殺すことになっている。けれど、アンタの力は凄い強かった。だから、利用させて欲しいんだ。その代わり、アンタの妹は見逃してやる。金だってそれなりにくれてやる」
「分かりました。雨が上がったら日の夜、街の南西で会いましょう」
 男が笑った、ように思えた。
 けれど、私はそんなことどうでも良かった。
「何で!? 何で勝手に決めちゃうの!? お姉ちゃんどうなるかわかんないんだよ!」
 これだけは許せない。私は姉に詰め寄った。胸倉を両手で掴み、姉の顔を睨みつける。
「……どうしてそんなに笑ってられるの……?」
 私はその場で崩れ落ちた。そして、また泣いた……。
 男は、いつの間にか姿を消していた。
 再び、私と姉だけがいる世界に戻った。
「もう……疲れちゃった」
 初めて訊く姉の弱音。姉は、これまで一度も弱音を吐いたことが無かった。ずっと前向きに生きていて、私を支えてくれていたんだ。
「私は、満足してるから。エミリーと一緒にここまで来れたんだし」
「お姉ちゃん、行っちゃうの……?」
 少女が、泣いている。
 頬を伝う雫の一粒一粒が、汚れた床の上に染みていく。
「大丈夫。大丈夫だから」
 泣きやまない少女の体を優しく包み込みながら、姉はそう言った。一体何が大丈夫なのか。本当に大丈夫なのか。本人でさえ分からないだろう。ただ、その一方的な言葉には確かな温かみがあった。ぬくもりというのだろうか。
 私は姉の胸で泣いた。これが最後かもしれないから。もうこんなことしてもらえないかもしれないから、いっぱい泣いた。
 姉は笑みを絶やしながら、私が泣き止むのを待っていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 姉は笑みを絶やしたまま、そのお礼を優しく受け取った。
「この雨は、長く降るけど今日の夜にはあがっちゃう」
 姉は、寂しそうに呟いている。私は黙ってそれを訊いていた。明日には、姉はいないということだった。
「私たちは悪魔だから……こんな目に遭っているだけなんだよ。あなたはぜんぜん悪くないの。だから、そんなに泣かなくてもいいんだよ」
 悪魔だから。私たちはそれだけで今まで傷つけられてきた。心さえもがズタズタになるまで。
 私は姉に尋ねた。いつも、こんなにも陽気でいられる姉に。
「だって……どうしてお姉ちゃんはそんなに笑っていられるの?」
 姉は、微笑んだまま何も言わなかった。
 私は、それを訊いて姉が居なくなった後どうやって生活していけばいいのかを考えて、恐怖した。とても考えられるものじゃない。
「もう、嫌だよ……」
 あきらめの言葉。
 それと同時に、私の目じりから再び涙が溢れ出す。
 姉は、それが流れ落ちる前に指で掬い取った。
「大丈夫だから……。私たちがこれのせいで怖がられているのなら、こんなもの捨てちゃいましょう」
 こんなもの、とはすなわち羽根のことである。捨てるとはどういうことか――。
「捨てるってどうやって?」
 私は、そのまま姉に訊いた。捨てるなんて軽々しく口にできるものではない。なぜなら羽根は体の一部であり、簡単に取り外すことなどできないからだ。
「……ちょっと痛いかもしれないけれど我慢すれば大丈夫」
「捨てるって、取っちゃうってこと!? 無理だよ!」
 私はその姉の考えに驚いた。その行為は未知のものであり、どう考えても普通じゃない。自分の腕を折ってしまえといっているようなものだった。
「大丈夫。これさえ取れれば、私たちはみんなと同じく暮らせるようになる。だれも私たちを傷つけたりはしなくなる」
「……本当?」
「本当に」
 私は、姉が信用できなかった。本当にこれで嫌われることがなくなるのか。でも、姉は私をだましたことは無い。それに、私だってこれ以上こんな生活を送りたくは無かった。姉は決めたい場行ってしまうだろう。止めることなんてできない。だって……とめたいけど、それはわがままでしかないから。面倒見て、なんて言えないから。
「わかったよ。やる」
 私はごくりと唾を飲み込んでそういった。
 姉は、それには何も言わず、笑みを浮かべて私を見ているだけだった。
 
 
 
 いつもの乾いた砂のにおいが私の鼻を刺激する。その匂いは慣れ親しんだものであり、最近かげなかったものだった。久しぶりに元気よく飛べるからか、鳥たちもいつもより大きな声でわめき散らしている。
 気持ちよい朝、私は飛び起きた。
 あまりの痛さに気絶してしまったらしい。
 昨日の記憶が、中途半端なところで途切れている。羽根を取ろうとしたところまでは覚えているのだが……。
 周りを見回すと、そこには誰も居なかった。私独りだけ、ボロボロの教会の中で寝ていた。
 視界が段々歪んでくる。涙がたまって落ちそうだった。姉は、どこにもいなかったから。けれど、私は目をゴシゴシと腕で擦った。泣いてはいけない。もう、涙は枯れたんだ。必要ないんだ。
 背中を触ってみると、いつもはあったはずの羽根がなくなっている。それらは私の目の前に無残な姿で千切りとられていた。
 計四枚の羽根。姉は自分で自分の羽を千切ったんだろう。私は最後まで面倒をかけてばっかしだった。この羽根は埋めてあげよう、と思った。この教会に。私たちがいたということを記すために。
 私は床に放り投げてあった紙袋を掴み取った。そこに入っていたのはかなりの大金。どこでも一年位は遊んで暮らせるくらいの額だった。これは姉が自分を犠牲にして私にくれたものだ。本当に必要になったときに使おう。
 私は、とりあえず墓を作るために床を壊し始めた――。


――そのあとは、人間の真似して旅を続けた。悲しかったけど、寂しかったけど、もう泣くことだけはやめようと思った。ティルたちの居る村に着いたのはそれからかなりあとのことで、住もうと決めたのも、天使の翼を持つソラと人間のティルが楽しく遊んでいたからだ。仲間に入りたいと本当に思った。彼らなら、私をなんでもない一人の人として認めてくれると思った――



「お姉ちゃん?」
 ふと気が付くと、リンが外套の裾をくいくいと引っ張っていた。
 エミリーははっと気が付いてリンを見る。
「あ、あれ? もうお供えは終わったの?」
「もう終わったよ。綺麗でしょ」
 リンは、得意そうに墓に添えられた花を見せる。普通に横に置いただけなのだが、エミリーはリンの頭をなでてあげた。
 ありがとうね。
 頭をなでられているリンは子犬のように、気持ち良さそうにしていた。
「さってと、私もそろそろ真面目に働かないと怒られちゃうから行かないと」
 といってもティルが怒るところなんてあんまり想像がつかない。女性には優しいところがティルのいいところだと思う。ダズと違って。
「帰っちゃうの?」
 リンが本当に寂しそうに言う。
 エミリーは、それをみて微笑んだ。昔の自分に似ているような気がしたから。
「また明日来るから大丈夫」
 そう言うと、リンは大喜びした。
 一人で毎日こんな所にいるということは、友達がいないのかもしれない。今度来るときは、ティルも一緒に連れて行こうか、そんなことを考えた。
「またね! お姉ちゃん!」
 手を振って立ち去るエミリー。玄関のドアに手を伸ばしたとき、エミリーがドアノブを握る前に玄関の扉が開いた。
 いきなりのことで驚いていると、
「リンー! またこんな所に居たのか。早く帰んないと怒られるぞ!」
 短髪の黒髪の少年が現れた。それは、昔とは少しかわったものの、以前とほとんど変わらないダズの姿だった。
「ぇぇぇえええええええ!?」
 無意味に絶叫してしまうエミリーだった。



 暑い街の中心で、ティルが聞き出せたことといえば、街の南東に行ってみろ、という助言だけだった。何があるのかまでは教えてくれなかった。
 そんなわけで、ティルは暑さで倒れそうになりながらも言われた通りの場所へと足を向けていた。周囲の光景は、ひっそりとした住宅街らしい。なんだか段々分からなくなってきた。
 ぼんやりした視界にはっきりと見えているのは、以前に無理矢理登った山に比べれば断然低いなだらかな山脈。南東といえば、そこには山脈を潜り抜けて中心へと行くことができる門のようなものがあるはずだ。実際見たことがないのでなんともいえないが、普通出入りすることは禁止されているらしいので、もしかしたら門番でもいるのかもしれない。天使の門番が。
 気が付けば、街を出てしまうところだった。山の根元まで街が広がっているのかと思えば、そうではないらしい。といっても、良く見れば遠くに穴らしきものが空いている。多分、そこが門なんだろう。
 ティルが歩き続けてたどり着いた場所は、大人二人分が歩けるくらいの幅で、天井のない洞窟だった。遠くからは気づかなかったが、ここでぱっくりと山が割れていた。上のほうはほんの数メートルぐらいしか開いていないけれど、いかにも門という言葉を連想させるものだった。
 そして、その入り口には本当に天使が立っていた。
「白い翼……話掛けても大丈夫かな」
 ティルが近づくと、その天使はティルを睨みつけながら言った。
「何の用だ」
「ええと……特に用はないんだけど通れないよね?」
「当たり前だろうに」
 通さないように門番がいるのだ。当たり前の返答だった。
「どうしようかなあ……」
 ティルが困ったようにぼやくと、天使が反応する。
「何か問題でもあったのか?」
「いや、この先に友達が連れて行かれちゃったんだよね」
 ティルがそういうと、全てが分かったというような目で天使は見てきた。口が笑っている。
「それは諦めるしかないな。俺らはあそこに留まらなければならない理由があるからな」
 段々多弁になってきている。実はこの門番暇なのだろう。周りに人気は皆無だ。こんな所にどのくらい立っているのかは知らないが、暑いので辛い事この上ない。
「何でさ?」
「建前は人間社会を制御するためだな。大規模な戦を起こさないようにするためだ。だから、この世界には国というものがない」
「そうだったの? でも、戦争に勝った国があったんじゃないの?」
「俺らが潰したんだ。つっても、その中心となる王都だけだけどな。人間を退避させて、宮殿ごとぶっ壊した。だから今は街ごとで色々と判断してる。一まとめに統一してしまうものはなくなったんだ」
「そうなんだ」
 ティルは、建前という言葉を忘れていなかった。だから、ちょうどいいので訊いてみた。
「じゃあ、本当の理由は何なの?」
「ああ……まあ、人間は何かと怖がるからな。こういう姿を見ると。だから保護しなきゃならない」
「でも、怖がらない人だっているよ」
「それは分かってる。でも、今はより多くの天使の力が必要なんだ……大樹が折れかけている」
「大樹?」
 続けてティルが大樹とやらについて聞き出そうとした。
「それ以上は教えられないな。つーかしゃべりすぎか」
 しかし、失敗に終わってしまった。
 ティルは訊いたことを整理してみた。
 良く分からないが、大樹というものがこの先にあって、ソラはそれがある場所にいる。ついでにここは通れそうにはない。
「ねえ」
「なんだ?」
「ここって、絶対に通れないの?」
「人間は通すなって言われてるからなあ。無理矢理通ろうとだけはしないでくれよ」
 門番はそう言って、無気力に手を振った。もう帰れという意味だろう。
 ティルは門番の言うとおりに街へ戻る道を歩き始める。
 どうすれば通れるだろうか。ここさえ通ればかなりソラに近づくことができるかもしれないというのに。
 ティルは、暑さも忘れて急いで街へ戻っていった。
 
 

 ティルがようやく宿に戻って部屋のドアを開けたとき、その中には見知らぬ人物がいた。エミリーと、黒髪の短髪の男。知り合いだろうか?
「ええと……はじめまして?」
「なにやってんの……いいから早く座りなよ」
 エミリーはせっかくのあいさつを台無しにして、一番近い椅子をティルに寄越した。それにティルはおとなしく座って見る。
「それで、結局何だって?」
 エミリーが問うと、男が答えた。
「だから、あのときはお前の姉さんを止めようと思ったんだけど、ぶん殴られて気絶したらしくて、そのあとは仕方なく門まで行ったんだけど後の祭りだったって話」
「不甲斐ないねえ」
「……言うな。あの苦しみがこみ上げてくる」
 相当辛いことでもあったんだろうか。ティルは勝手に同情してその話を訊いていた。一応口を挟んでも良いだろうと判断して、訊いてみる
「エミリー、ちゃんと情報収集してきた?」
「ああ〜、それなりに」
 それなりにって、大丈夫か?
 ティルが疑わしげな目で見ていると、エミリーはその視線から逃げるかのようにして、男の紹介を始めた。
「これダズ」
 早っ!
 一応続くと思っていた予備知識みたいなものも全くないようだ。
「えと、ヨロシクです。ティルっていいます」
 ティルが自己紹介を簡潔に済ますと、
「ああ、ダズだ。よろしく」
 こっちも早かった……。どうでもいいということなのだろうか。
「それで、この人は何を?」
「この街の住人」
「へえ」
 それはなかなか良い働き振りかもしれない。あそこを通るための手段を知っているかもしれない。希望的観測だが。
「それで、何の話をしてたの?」
「昔の失恋話」
「まだ終わらすな。始まったばかりだ」
 落ち着いた物腰でエミリーの解釈を正すダズ。年齢に似合わず大人っぽい。
「一応、門のところまで行ってきたんだけど、やっぱり天使がいて無理だったよ。ダズさんどこか別の入り口があるとかそういう噂訊いたことない?」
 そこまでしゃべると、ダズは凄い勢いでしゃべった。
「行くのかお前ら!?」
 ティルが驚いて何も言えないでいると、
「行くよ。無理矢理にでも」
 エミリーが真剣な目でダズに言った。
「つっても俺は知らないからなあ。抜け道なんて」
「強行突破しかないの?」
「それって天使と戦うってことか?」
「当たり前じゃん」
 たしかに、何も無いのならば、それしかないだろう。あの人と戦うというのはさすがに気が引けるけれど、他に方法がない。
「でも、何か騒ぎを起こせば何とかなるかもしれないなあ……」
 ティルはそう言って漠然と考えた。……なかなかきっかけになるものが浮かんでこない。
「はーい! あります〜」
 エミリーが元気よく手を上げた。
「悪魔になって、街のみんなを脅かすの。門に天使がいることを知っているから、みんなはあっちに大勢で走って行っちゃうから、そこを何とか上手く利用して――」
 ダズはそこで口を挟んだ。
「お前、絶対恨んでるだろ」
「遠い昔のことなど忘レタワ……」
 機械的な口調でそう言うエミリー。説得力は皆無だ。
「とはいっても、なかなか良さそうではあるよね。だけど、結局天使と戦うことには変わりないんじゃない? 助けを請うために行くわけだから、門の先に行くわけじゃないし」
 エミリーはうーんと唸ってそのまま黙ってしまった。
 ダズもアイディアが出ないらしい。
 しかし、この先どんどん進んでいけば、天使と戦うことは避けられなくなるだろう。ソラを取り戻したいという気持ちは確かにある。でも、それで人を傷つけることはいいことなんだろうか。天使だって、無駄な争いは控えたいはずだ。何で人を攫うように連れて行ってしまうんだろう。……僕はどうすればいいんだろうか。
 なかなか晴れない心の霧。
 ティルは、窓から見える空を眺めた。
 このまま平和に、穏便に済ますことはできないのだろうか。



 何も変化のないその場所で、ただずっと立っているだけのその天使。
「……またあんたか」
 天使は、ため息と共にそう呟いた。
 ティルは再びこの場所へと来ていた。特に理由はない。何となく、この人と話がしたかったのだ。
「暑い中ごくろうなこった」
「それはお互い様じゃないですか」
「確かに」
 天使は自嘲気味に笑って、その場に腰を下ろした。
 どうせ誰も来ないのだ。サボったって問題はないだろう。
 ティルも近くに腰を下ろして、
「ここは交代で見張るものじゃないんですか?」
「基本的にはそうだ。が、俺は常時になっている」
「食事とかは?」
「時間になったら奴等が持ってくる。もうすぐ来るころだからアンタも早く戻ったほうが良い」
「どうして?」
「……近づくものは殺す規則だ」
 ティルは驚いておきながら、恐怖は感じなかった。この人は、そういう人じゃない。それが分かっていたから。
「もしほかの人に見つかったら殺されると?」
「アンタはもちろん俺も殺されるだろうな。職務怠慢とかで」
「厳しいんですね」
 天使は天を仰いでいた。この人は、どのくらいずっとここでこんなことをしているのだろう、とティルは思う。しかもサボっていたら殺されるなんて、何かがおかしいような気がする。
「いや、まだ優しいほうだとは思うぞ」
 天使は苦笑してそれを否定した。
「どうして?」
「俺は……犯罪者なんだ。だからこれは刑罰の一つ。でも、普通は殺されていてもおかしくはないんだ」 
 なかなか暗い過去がこの男にもあるらしい。余計な詮索はしないほうが良いだろう。ティルは、そう判断して立ち上がった。
 外套についた砂をパンパンと手で払い、天使の方を見る。
「そろそろ帰ります」
「おう。すまんな」
「……また来ますね」 
 天使は笑顔でそれに返した。悪い人ではないと思う。それでも、だからこそ法を犯す場合もあるといえばある。この人はそういう人なんじゃないかなあと考えながら、ティルはその場を後にした。


「あれ? ティルは?」
 昼間からエミリーの所に訪れたダズは、一人人数が足りないことに気づいた。
「さあ。どっか行きたいところでもあるんじゃないの?」
 完全に興味がないエミリー。
 実際のところ、どこに行っているのかは知っていた。だが、わざわざダズい教えても意味がないので黙っているだけだ。
 ダズは、そんなエミリーの内面をぜんぜん気づいていないようだ。今日は一体どのような用事で来たのだろうか。
「で、何のよう?」
「特に用事は無いんだが、コイツが会いたいいって言って聞かなくて」
 ダズは後ろを見る。
 エミリーが見ると、足が四本あった。つまり後ろに誰かが隠れている。ということだ。
「隠れる必要もないと思うんだけどな」
 ダズがぼやいていると、
「お姉ちゃんこんにちは!」
 出てきたのはリンだった。
 これには驚いた。たしかに二人は知り合いのようだったが、一緒に歩くような中だとは思ってもいなかった。
「ダズ……アンタこの子とどういう関係?」
 以前の自分たちみたく、どこかで育てたりしているのかもしれない。そういう優しさがダズにはあった。できることならば持たないほうがいい優しさが。
「どういうって……兄弟?」
「はあ?」
「そういうのは親に言ってくれ。ちなみに、ストリートチルドレンなんてこの街にはほとんどいないからな。一応言っとくが。暑さか寒さで大抵死んじまうから」
 捨てられた瞬間死体になる、ということなのだろうか。どのみち少ないことわ何となく分かるような気がする。この街は一応経済的にも豊かなのだから。街が富んでいると、自然とそういう人たちはいなくなる。そういうことを考えると、ラズたちの街はかなり貧しいことになってしまうが。まあ、発展途中の街だって良いことはたくさんある。
 リンは、てとてと、とエミリーの下まで歩いてきて腰に抱きついた。
「良かった! また会えた!」
 再開することのどこがそんなに嬉しいのだろうと考えながら、
「うん。良かったね。元気にしてた?」
 などと言ってみる。この感じ、姉とはこういう人だったのかと思ってしまう。自分のことよりも、他人のことに意識を優先する感じ。
「元気にしてた!」
 本当に元気に答えるリンに対して、自分もこんな感じだったのかなあと考えた。
「ところで、この先の予定は決まったのか?」
 ダズが心配そうな表情で尋ねた。
「予定? とりあえず突っ込むことしか考えてないけど」
 ティルは交渉に行っているようだが、無駄だろう。どう考えても通してくれるはずがない。種族として他と隔絶している天使たちが、どうして自分たちのテリトリーに他の種族を入れるだろうか。無駄な交渉をするぐらいだったら、力でねじ伏せてしまえば良い。話によると、門番は一人のようだ。天使の一人や二人倒せないようではこの先が思いやられる。
「本当に行く気なのか?」
「どうして?」
「危ないだろう。どう考えても。それにそこに行ったとしても、居るとは限らないだろう? 嫌な話になるけど、もう死んだかもしれないんだ」
「姉さんのことを言っているの?」 
「そうだよ。他に誰がいる」
 ダズは、エミリーたちの目的は姉を助けることだと思っているらしい。たしかに、そうだ。
 エミリーは、姉を助けるためにわざわざティルとソラの中を切り裂いたのだから。
 フィッツの村に偶然天使が通り、都合よく森の中を探したりするはずがない。エミリーがたまたま近くに来た天使に連絡を取り、その場所を教えたのだ。
 目的は、姉を助けること。自分の力を最大限引き出すためには人間が必要だった。エミリーは旅をしているときに自分の力について学んでみた。といっても、学んだというより、一つの結論を知ったというだけだが。
 天使には、炎や風といった自然のものと契約する力がある。天使がソラを捕まえたのも、契約というものの力だ。悪魔には、物と契約する力がある。人間や普通の石ころなどを利用する契約だ。
 羽根は、それぞれの力を行使するための鍵となっている。だが、羽根をなくしたエミリーにも少しだけの力は残っており、誰かと体を共有することによって以前の力が完全に戻るということを実際に体験し、それを使って姉を救おうと決意した。
 そのために、同じ目的を持ち、世界の中心へと足を踏み入れる覚悟のある者が必要だった。ソラは確かによい友達だった。助けに行きたいという気持ちもある。だが、姉もまたエミリーは助けたかったのだ。
「そうだね。そうだった」
「無理して行く必要があるのか?」
「……少なくとも、私が助けに行きたいのは姉さんだけじゃないから」
「それはティルに関係していることか?」
「私が勝手に巻き込んじゃったんだけど、ちゃんと償いはするつもり。だからどうしても行かなくちゃならない」
「そうか……」
「ダズは、この街で元気にしていてくれればいいよ。何もするなって言っているみたいで悪いけどね」
「いや、俺は何もできないからな……」
 ダズは、そう言って黙り込んだ。自分でも分かっているのだろう無力だということを。だからこそ、辛くてたまらない。
 エミリーもまた辛かった。色々と世話になっておきながら何のお礼もできないでいる。せめて、姉が無事だったなら、ダズの元へ一番最初に連れて行ってあげたい――。



 無意味に時間をかけるわけには行かない。日が経てば経つほどお金は消費されていく。一応、まだ結構な残りはある。減らしたくないのなら、稼ぐという手もある。でも、これ以上無意味に父がくれたお金を使うのは気が引けた。
 ティルが宿に戻ると、ダズと小さな女の子とエミリーがいて、なにやら雑談をしていた。
 エミリーは、ティルが戻ってきたことに気づいて急に真剣な顔になる。ティルは何となく分かった。案が出たということを。しかし、ダズの様子を見ていると彼のほうはまだ聞かされていないようだ。いきなりエミリーの表情が変わったのに心配している。
「ティル。もしかしたら、天使と戦わずに抜けられるかもしれない」
 エミリーはいきなりそう言った。
「どうやるの?」
「街から離れたところで砂嵐を作るの。街が壊れるくらいの強いやつを」
 そんなことしたら大変なことになるだろう。想像しなくても分かる。
「ティルの言いたいことは分かってる。でも、私はこの街に復讐したい。人を殺すつもりはないし」
「いくらなんでもけが人くらいは出ると思うけど」
 ティルはダズの方を見た。やはりダズも今聞かされるのが初めてらしく、目を剥いている。街を壊すということはダズたちの家もなくなってしまうということだ。了承してくれるのだろうか。
「それは誰か扇動してくれれば大丈夫だと思う。一番後ろから押してくれる人がいれば」
 エミリーはそこでダズを見た。
「具体的にどうするの? それから」
「砂嵐を山にぶつける。そうなると、みんなは自然と門を通らないと助からない話によれば門番は一人だけだし、一応砂嵐はぎりぎりのところで止めるつもり。私たちはそこで混乱している間にに頭上を抜ける」
 かなり大規模な作戦だ……。できないわけではないが、被害というものを完全に無視している。
 ダズはその話を聞いて、
「それで満足できるんならいいんじゃないか? どうせ石を積み重ねた家だ。また重ねれば直るだろう。扇動も……まあ危なくないんならやるよ。死んでくれってのはごめんだけど」
「いいの? 自分の故郷なのに。家だってそんな簡単なはずないよ」
「いいんだよ。この街はエミリーに償いをしなきゃならない。そのくらいだったら安いもんだろう。あっちは殺す気だったんだ」
 一体どんな過去だったのか、ティルは知らない。けれど、聞くのは止めておいたほうがよさそうだ、と判断した。思い出すのも辛いことだと思う。ティルも、ソラと遊んでいたころを思い出すのは少し辛いから。
「ティル? この作戦で行くけどいい?」
 ティルは、答えられなかった。
 復讐。したい気持ちは分からないでもない。けれど、人を傷つけるということにティルは抵抗があった。やられたからやり返すのか? そうした場合、再びやり返されるかもしれない。そういった憎しみは嫌いだった。それに、あの天使のこともある。仕事をしくじれば殺される。戦わずに逃げたとて、彼の命はなくなってしまう。だからといって、命を削りあうような戦いはしたくない。
 ……我が儘だ。どうしようもない、自分の心の弱さだ。
「……ごめん。もう少し待ってくれる?」
「構わないよ。決めるのはティルだしね」
「ありがとう」
 ティルは、そう言って部屋を出た。
 宿屋を出ると、外は段々暗くなっていた。これから一気に気温が下がっていく。でも、できるだけ早くあの天使に会いたい。
 ティルは、門へと再び向かい始めた。
 風が強い。そんな中、ティルは慣れた道のりを黙って歩き続ける。
 外套が自分の身体に巻きついてくる。そのせいで、足が少し遅くなる。
 彼に会って、自分はなんと言うのだろうか。何といえばいいのだろうか。どうか通して欲しい、と土下座でもして頼むのだろうか。ティルの心の内にあるものは、戦いたくないという思いだけ。ソラを理由にして誰かを傷つけたくない。甘ったれているのだろうか?
 程なくして、ティルはあの門へとついた。
 強い風と寒気の中、天使はいつものように立っている。とても苦しそうだった。
「また……か」
 低い声で天使は呻く。迷惑というわけではないだろう。どちらかというと驚きの方だ。今にもこちらに走ってきそうな様子である。多分、あっちから見たティルは、ひどく弱々しい存在に見えるのだろう。すでに氷点下を切った気温。吐く息は白く、その一つ一つが空に舞い上がっていく。荒々しい風に吹き飛ばされながら。
「僕は……どうしてもここを通りたい……あなたはここを誰も通したくない……」
 僕は、夢遊病に掛かっているかのような口調でポツリポツリと呟いていった。とても聞きづらい状況でも、天使はティルの声を聞き取り、はっきりと頷いた。
「そうだ」
「僕はそれでも通らなければいけない……だから、明日僕はまたここに来る」
「…………」
「あなたは僕に会えないかもしれない……何もできずに死んでしまうかもしれない……」
 ティルは、それだけを言って天使に背を向けた。これ以上は、無理だ。
 ティルが、天使から逃げるように遠ざかっていく。考えたくはなかったが、ここで殺されるという可能性もあった。犯行声明をその身で出しに来たのだ。賢い人間でなくとも、その場で殺せば全てをなかったことにできることは分かる。けれど、天使はしなかった。したくないんだろう。ティルには分かる。それを知るだけ彼と話をしたから。
「お前の名は!?」
 天使はそれだけだった。それだけを叫んだ。
 ティルは驚いて彼を見る。少し戸惑いながらも、
「僕は、ティル」
 答えた。天使は、
「俺の名前はアラドだ。会えることを楽しみにしている」
 何を楽しむというのだ。ティルはそう心の中で言い返した。
 アラドは戦うことが好きなのかもしれない。殺し合いは嫌いだけれども。正々堂々と、そういった雰囲気がアラドの声には含まれていた。奇襲で来るのにどうしてそこまで同道としていられるのだろうか。やはり自分は弱いのか。
 葛藤が葛藤を誘い、ぶつかり合う。ティルは、エミリーの作戦に乗ることを決意した。アラドはティルたちを見逃しはしないだろう。決して。だからそこまで堂々としていられるのだ。そう、ティルは考えた。
 ソラは、こんなことをして喜ぶはずがない。でも、そこまでしてもティルはソラを助け出したい。このとき、初めて自分の心を知った。そして、もう戻れないことを理解した。
 



「準備はいいね」
 エミリーが訊いた。
 昼前のの気持ちいい頃合。今はまだちょっと暑いくらいの気温だ。暑さに慣れ始めたティルにとってこの時間帯は実に過ごしやすかった。
「大丈夫」
 もう、迷いはしない。
 ティルは戦う決意を前面に押し出し、気を引き締める。
――友のために我等は一つに――
 二人の身体が透明化し、それらが重なり合っていく。二人が完全に重なったとき、そこに瞬時に現れたのは、黒い羽根を生やしたティルだった。黒い外套に作業服という様はいかにも悪魔――らしい感じを出している。
 ティルは、それから精神を集中させた。
――いい? 周りにある砂を巻き上げるんだよ。イメージするの。あと、力を出すイメージも――
「分かってる」
 ティルがそういうと、ゆっくりと、周りの砂がティルの周りを回り始めた。中にモグラが掘り回っている感じである。とりあえず弱かった。
――それだけできれば大丈夫。そのあとは、力を入れちゃって!――
 ドン! 何かが一気に注入されたような、そんな感じの音を立て、モグラが砂嵐へと姿を変えた。
 ゴゴゴゴオオゴガガガァァ!
 砂嵐というよりは、竜巻である。
 ティルはその中心で、ドンドン力を注入していった。
「ハアッ……ハアッ……これぐらいでいい?」
 ティルによってかなりの規模の竜巻が形成されたようだ。ティルには正確な大きさを知ることはできなかったが、エミリーはその辺をちゃんと知っているみたいだった。
――大丈夫。ちょうど街を覆う程の大きさだね――
 簡単に言ってくれるが、これでかなりの力を消費している。あとは、これを維持しなければならない。無理矢理作ったものだ。ちゃんと力を注入し続けなければ途中で消えてしまうかもしれない。
「分かった。じゃあ、始めよう」
 汗だくの状態で、ティルは空へと舞い上がった。最初はこれだけでも結構な疲労だったのに、今ではそれほど苦痛じゃない。ティルは内心かなりの進歩だと思っていた。どのみち疲労困憊なのは変わりないが。
 ゆっくりと、砂嵐を動かす。人がちゃんと逃げ切れるようなスピードに保つ。
 そして、街へとその破壊を踏み込ませた。
 砂の生み出す轟音によってほとんど聞こえないが、民衆の悲鳴やら何やらが聞こえ始めた。その中に、ダズに避難させようとする声が混じっている。
「にーげーろー! 門だ! そっちに行けば助かる!」
 それを訊いて、ティルは笑みを浮かべた。
 ここまで上手くいくとは思わなかった。もともと計画が大雑把すぎるのだ。これがただの陽動だと知ったら彼らはなんと言うだろうか。街を壊されたことに憤慨するかもしれないが、そこはエミリーの分野なので特に何も言わないで置く。
 街の半分を破壊した頃合。
 ティルの力は限界に近かった。
 今にも墜落しそうな状態で、目を血走らせながら、ぎりぎり砂嵐の方向を維持している。すでに民衆は逃げただろう。家にいたとしてもこの轟音では気づかないはずが無い。
 ティルは、震える身体を持ちこたえて、天使がいるだろう場所をキッと見据える。ソラを助ける。その想いだけが、今のティルを動かす動力となっていた。
 でも、さすがに厳しい。
 ティルは無意識のうちに無理かもしれないと思った。
 だって、まだまだ先が遠すぎる。
「エミリー……もう、無理……」
――何言ってんの!? 男でしょ!――
 男だろうが女だろうが無理なものは無理である。
 こういうときの大序差別ほどひどいものはないと思う。
 ティルは、とうとう力尽きた。
 浮力を失い、重力の影響を受けて地面へと引っ張られていく。
――のわああああああああ!?――
 エミリーが心の中で叫び声を挙げている。それを訊きながら、薄い意識の中で周りを見ていた。ドン、という衝撃と共に砂が舞い上がる。地面にぶつかったのだろう。身体はどうなってしまったのか。それを探る力もなかった。もうもうと舞う砂埃。ティルは、その砂埃の中に黒いものが混じっているのを見つけた。
「これは……?」
 手を差し伸べると、一つの黒い羽が落ちてきた。狙ったかのようにティルの手のひらに乗る。
――私たちの羽根だ……だって、他に考えられないもん――
 たしかに、こんなもの運良く見つけられるものではない。
――教会なの? ここは―― 
 立って、周りを見回しても何も無い。ぐるぐると周りを回る竜巻以外は。
 ティルは、羽が自分の周りを旋回しているのに気づいた。一つ一つが舞うように、しかし落ちずにずっとティルの周りを舞い続ける。
「これは……暖かい」
 羽根からぬくもりを感じる。
 同時に、寒気も感じる。それは、この羽根が持つ記憶だった。羽根が今まで見てきた記憶をティルの脳内に焼き付ける。エミリーとその姉の生い立ちの記憶――。
 だから、こんなにも嫌っていたんだ。
 悪魔というだけで、エミリーたちは迫害を受けた。姉を失い、何の意味もないお金を握り締めて旅立った場所。ティルは、思った。たしかに壊してしまいたいと。
「エミリー」
――なに?――
「もし、これが終わって、ここがまた作り直されたらどうする?」
――うーん……とりあえずダズんとこ行ってみるかな――
 その答えに、ティルは笑みを隠せなかった。憎いとはいっても結局はその程度。エミリーはとても強いと思う。
 ティルは、また飛翔した。
 力が沸いてくる。さっきの羽根はいつの間にか消えていた。でも、何となく分かる。自分たちの力になってくれていると。








 ティルは、弱り始めた竜巻に力を入れ直す。
 一度壊してすっきりするのなら、徹底的に壊してしまえばいい。エミリーの想いがさっぱりと消えるように、ティルは力を惜しまず発揮した。


 こういうことなのか。
 アラドは、目の前の光景に驚きを隠せなかった。見渡す限り人人人。カラスクムの街全人口が集まってきているようだ。総勢三千人。恐怖の表情を顕わにしている人々は、門を通らせるよう叫び続けている。先に見える街には、信じられない規模の砂嵐が暴れまわっている。ティルの仕業だろう。この混乱に乗じてここを通る気だ。たしかに、このまま砂嵐がこちらまで来るのなら民衆を通すしかないだろう。そうしなければ、全員死んでしまうから。自分も含めて。もし、全員が内側に避難すれば、あとは砂嵐が山にぶつかる事で霧散してくれる。けれど、この中に隠れているティルは見つからないように逃げようとするだろう。門を通すことは避けたかった。そうしなければ、ティルは大樹へと向かってしまう。
「早くしてくれよー! もうすぐこっちまで着ちゃうだろ!」
 浅黒い肌の人間が、アラドにつかみ掛かる勢いでそう言う。だが、アラドはどうしたらいいか迷っていた。
 民衆と砂嵐。ティルは、今どこにいるのか。本当にこの人々を殺す気なのだろうか。
 決断しかねるアラド。彼は、後ろから何かが迫ってきているのを感じた。
 砂を蹴り飛ばして走ってくる人物。その姿は近づいてくるにつれて鮮明になっていく。その姿は、黒髪の天使だった。
「ユール!」
 最近何かと積極的に手伝ってくれている少年だった彼は、自分に興味があっていろいろと面倒な役割を受け持っているらしい。食事や連絡などの担当もこの少年だった。ティルには脅しのようなことを言ったが、この少年はティルと同じく優しい天使だ。無意味に人を殺すようなことはしない。
「どうしたんですか!? この人たち……それに砂嵐!」
「どうして来た?」
「どうしてって……もう昼じゃないですか」
 当たり前のことのように言うユール。そういえばそうだったか。アラドはもう昼時だということを忘れていた。そんなこと考えていられる状態じゃないので仕方がないことだが。
「ユール。俺はちょっとこの中から人を探さなければならない。だから、ここで足止めしててくれないか?」
 絶対に、ティルはこの中に紛れ込んでいる。そうじゃなければこんなことをする意味がない。この中で、多分砂嵐を遠隔操作しているのだろう。人間にそんなことができるとは到底思えない。けれど、そうでなければあまりにも偶然過ぎる出来事だ。ティルは命がけでここを乗り切る期なのだ。だったら、こちらから探して止めればいい。時間は限られているが、あの少年の顔ははっきりと覚えている。見つけ出せないことはない。
 アラドは、ユールにその場を頼んでティルを探し出そうとした。
 だが、そのとき。
 さっきまで暴れまくっていた砂嵐が、一瞬にして掻き消えた。周囲の人々は前方を見ているため、まだ気が付いてはいない。気づいているのは自分だけのようだった。
 そして、街から迫り来る黒い点に気づいたのも自分だけだった……。その黒い点は近づくに連れて次第に大きくなり、こちらへと向かっている。アラドは止めようとした。本能がそう告げている。だが、飛ぼうとした瞬間、それが無理だと分かった。周囲にはひしめく様に民衆がいる。ここで飛ぶということは周りの人間を吹き飛ばすということだ。死人は出ないだろうが、怪我人は出るだろう。こんなところでパニックを起こされたら圧迫されて死ぬ人間が出るかもしれない。……動けなかった。
 黒い点は、凄まじいスピードで向かってくる。そして、一瞬にして真上を通り過ぎた。アラドには見えていた。その姿が。その顔が。
 それはまさしくティルだった。
「くそっ!」
 悪態を付き、急いで門の入り口までアラドは戻った。そこはまだ空間ができている。人々はまだ門を通ろうとはしていない。
 ユールの元まで戻ってきて、アラドは叫んだ。
「後は任せた。俺は追う!」
 アラドは翼を広げた。バサリと広がる白い翼。だが、アラドの翼は片方だけしかなかった。
「追うんですか!?」
 信じられないような意味でユールは訊いてくる。無茶だ、といいたいのだろう。だが、それでも追わなければならない。
 アラドは、一瞬にして空へと舞い上がり、狭い門を抜けて世界の中心へと飛び去った。
 


 大気を切り裂き、稲妻の如き凄まじいスピードで、ティルは門を潜り抜けた。
 ティルは、そのままスピードを緩めず飛び続けている。
 眼下の光景は、白一色の世界だった。細かい砂の粒子によって覆われた世界。この地形の名を砂状砂漠と呼ぶ筈だ。ティルは、先生の懐かしい姿を思い出しながらその単語を思い出した。門の外も似たようなものだったが、さすがにここまで綺麗な状態ではなかった。砂といってもすぐ下にはちゃんと地面があったし、草だってわずかに生えていた。でも、ここにはそれがない。
 ここまで変わってしまうのだろうか。とうとうこんなところまで来てしまったのだろうか。
 ティルは、いつの間にか進むのを止め、空間に静止していた。その光景に見とれていたという理由もある。だが、本当の理由はもう一つのほうだった。
 後方からかなりのスピードで接近してくる者がいる。逃げられはしないだろう、そう悟ったからだ。
 ティルが振り返ると、そこには片翼の天使が息を荒らげていた。かなり上がっているらしい。
「アラドさん。僕は通り抜けました」
「たしかに、そうだな……ティル」
――翼が片方しか無いのに……――
 エミリーは絶句しているらしい。訊くところによると、翼――もしくは羽根が有るか無いかでは格段の差が出るらしい。先ほどティルが力を取り戻したのも、羽根による力だといえる。この特殊な力を出すためには、この羽根や翼がとても重要なのだ、と。
 アラドは片方だけでここまで追ってきた。疲労はかなりのもののようだが、片方だけでもそれだけの力があるということだ。ティルに追いつけるだけの。
 アラドは、上がった息を整えながらティルに話しかけた。
「ティル……君はここを抜けた。もういいだろう。君は頑張ったけれど、この先はそんなもの通用しないんだ。この先は大樹に住む天使の領域。一人で何かできることなんてありはしない。あそこは聖域なんだ」
「僕は、一人じゃない」
「悪魔と契約したんだろうな。会っていた時はそんな羽根持っていなかったけれど――」
「僕は悪魔と契約したんじゃない。友達と約束したんだ」
「……別に君の友達が悪魔だからって悪く言っているわけじゃない。本当に、この先は危険なんだ! 何百といる天使たちを相手にどうやって戦う!? 君たちはたしかに普通より強い力を持っているかもしれない。その証拠に、君は疲れていなくて、俺は疲れている。普通の大人の天使を超える力だ。でも、それだってた多勢には無勢だ。絶対に勝ち目がないと断言できる!」
「これ以上特別な力なんていらない。天使とも戦う気なんて無い。友達を取り戻すだけです」
「君らは取り戻しに来ただけだろうけど、あっちは誘拐されたと思うだろう。君らを敵視することに変わりは無い!」
 拉致があかない。
 どっちの主張も聞き入れられないのだ。これ以上はなしていたって意味は無い。どちらもそれは分かっていた。
 それでも、なるべくならここで争うことを避けたかった。争いたくなかった。どうしてここまでアラドが争いを拒むのか分からなかったが、ティルにとって争うということは、ソラのために、という理由がどうしてもついてしまう。怪我ならまだしも、殺し合いなんてしたくはない。
 けれど、そしなければ駄目だというのなら、話は別だ。もう、ティルは決意した。これから先どんな事態になっても、ソラを救うことだけは諦めないと。例え自分たちのみに危険が迫ろうとも、後悔はしないと。
「ここで、天使との戦い方を学ばせてもらいます……」
 ティルはそう言って、懐から釵を取り出した。三つ又の部分で相手の刃を受け止めたり、先端や柄の部分でで敵を突き刺したり殴打したりできる武器だ。父親と戦ったときに一度使ったが、今回もティルは使うつもりだ。スパナなどという道具は手近にあって、という場合のためのものだ。今回は本気で臨まなければならない。だから、準備だって本気でしておかなければならない。それが礼儀だ。
「分かった。殺しはしないから本気で来い」
 アラドも覚悟を決めたらしい。ただ、彼の場合倒してから連れ戻すという意味合いのほうが強いようだった。ここまでティルの身を案じてくるのにも驚かされる。でも、手加減はしない。
 空中で、ティルは蹴った。ドゥン! という音と共に空気が反発する。それを利用してティルはアラドに急接近する。釵というのは接近用の武器だ。相手の間合いのうちに入ることで進化を発揮する。
「はあああっ!」
 勢いをそのまま利用して、ティルは右手の釵を振り下ろす。刃物のように切りつけることはできないが、これでも相当な打撃力がある。そして、左のほうでは外側から横に振り切る。同時攻撃だ。
 アラドはそれをじっと見ていた。その攻撃が当たる刹那の時、アラドは長い棒を懐から取り出して、弧を描くように回した。その動作だけで、二つの釵が弾き返される。アラドは、そこから隙の無い突きを繰り出してくる。ティルはぎりぎり片方の釵で軌道をそらした。もう片方の釵を利用して、三又に棒を引っ掛け長い部分を交差させる――武器を破壊するための技だった。だが、それに気づいたアラドは棒を引き戻すと同時に下方向に回転させた勢いでティルの顎を砕きに掛かる。
 避ける事はできなかった。ティルは、わずかに上へ逃げたところで棒の一撃を受ける。顎に的確に入った攻撃は、砕きはしなかったものの上体を崩してしまう結果となった。ティルは、次の攻撃から逃れるため、一旦後方に下がろうとする。
「所詮この程度か……」
 下がっているのにもかかわらず、ティルの耳元でアラドの低い声が囁かれた。回避に気づいて追ってきたのだ。ここまでぴったりと着けられるとはティルも思わなかった。振り下ろされた棒を右肩に食らって、そのまま下に墜ちていく。
 強い……!
 衝撃波で無理矢理落下を止め、再び上空にいるアラドを睨みつける。アラドは、黙って生還していた。さっきとは正反対の行動だ。
 だが、言いたいことは分かる。もうやめよう。これ以上する必要は無い。負けを、認めろ。
 ティルはそんな雑音を振り払った。そんな言葉を聞いている暇は無い。これが自分の選んだ道なんだから。どうしても助けたいのだから。
「あああああああっ!」
 再びアラドに向かって突撃する。アラドは牛のように思ったかもしれない。その通りのような突進振りだった。ティル自信笑ってしまいそうなくらい。
 長く戦っている暇は無い。組み合いの力はアラドの方が明らか。だったら、持ち前のタフさを利用するだけだ。
 ティルは衝撃の塊を前に放ってから、それを追う様に特攻していた。
 アラドは、当然の如く衝撃の塊を回避する。しかし、ティルの突進までは回避できない。だから、逃げたところで叩きつけるように棍棒を構えていた。
 ティルはそれを釵二つで受け止めようと交差させる。そのまま二人はぶつかった。
 ガキィイン! と耳障りな音を立てて弾かれた釵。そして、頭に下ろされた棍棒。さすがにアラドも驚きを隠せなかった。アラドは再び肩に攻撃する気でいた。ティルは自分から当たるように仕向けたのだ。一瞬の、その隙を作るために。
 ティルはアラドの腰にしがみついた。そして、背後に回りあらん限りの力空に向かって放出する。反発する力は地面に向かうための動力となり、重力と合わさることで絶大なスピードを得た。
「タフさしか自慢できるものが無くてね!」
 ティルはさっぱりとした表情でアラドに声をかける。まだ勝ったわけではない。次の衝撃に耐え切れなければ意味がない。だが、ティルに負ける気は無い。
――ちょっと! アタシも中にいるの! ヤバイって!――
 心の中で叫びまくっているエミリーのことは放っておく。
「くそおっ!」
 アラドは、全力でそれに抗った。地面に落ちまいと、ありったけの力を放出している。けれど、スピードは多少そぐことができたけれど、止めることは無理だった。大規模な砂嵐さえも作ってのけるティルの力にアラドは対抗しようが無い。
 地面にぶつかろうとするとき、二人は叫んでいた。それは人の言葉でも天使の言葉でもない。ただの絶叫だった……。  



 広い平面の土地のある場所に、大きな穴がぽっかりと空いていた。
 その中に、ティルとアラドはいた。
 地面が砂のため、ぶつかった衝撃はかなり緩和することができた。それと、アラドがかばってくれたため、それほどの怪我にはならなかった。何というか、勝ち負けなんかどうでもよくなっていた。
「何で助けたんですか」
 それでも、力を使い果たした事実がある。ティルはそのまま疲労困憊で倒れていた。アラドはその隣でぼ〜っと空を見上げている。どうやら意識がなくなりかけているらしい。あの衝撃をかばっておいて意識があるのだからまた凄いと思う。
「……俺は誰も傷つけたくなんてないんだよ。おれがここにいるのだって、あの娘を助けようとしただけなんだ」
「その娘ってだれですか」
「分からない。数年前、その娘はいきなり大樹に連れてこられたらしい。見た目は人間だった。翼がなかったんだ」
「それで?」
「その娘は聖女という役を受けるようだった。だから、俺は反対したんだ。無理矢理連れてきた人を犠牲になんてできなかったんだ……」
 その後の結果がこれなのだろう。聖女という意味は分からないけれど、選ばれた者という響きはある。判決に反対すればそれなりの処置をしなければならないのだろう。考えが違えばその集団に属する意味もまた変わってくるだろうし。
「門を守っている連中というのは大抵何らかの理由で追い出された天使たちだ。もし、大樹で何かあったら戻って相談してみるのもいいだろう」
 アラドが段々早口になってきている。それが疑問だった。
「どうしたの?」
「話は終わりだ。早くここを出ろ」
「どうして?」
 同時に、頭上から大量の砂が流れ込んできた。一気に迫り来る砂に対して、ティルは息ができるように頭を空気のある場所へ確保することしかできなかった。
「アラドさん!」
 ティルは叫んだ。砂の中に埋まってしまった天使に対して。
 砂の落下が静かになったとき、アラドの姿はどこにも見当たらなかった。ティルは砂から這い出て、辺りを掘り始める。
「アラドさん! 返事して!」
 焦燥感が募る。このままでは窒息死してしまう。ティルは一心不乱に砂を掻き分けた。
 そのとき、ティルは誰かが接近しているのを感じた。
――北東の方角から誰か来てる……天使だ!――
 早く逃げなければならない。ティルは迷っていた。どうすればいい……?
 辺りを見回すと、アラドが持っていた棍棒がわずかに顔を覗かせていた。これがあれば何とか分かるはずだ。ティルは、棍棒を抜き、再び砂地に突き刺す。見えやすいよう半分だけを突き刺した。
 そして、ティルはその場を去った。
 翼を広げ、宙に静止し、一気に加速する。疲労なんて気にしている暇は無い。とりあえず見えなくなるところまでは逃げなくてはならない。
 アラドは大丈夫だろうか。そんな心配を振り切って、ティルはひたすら飛び続けた。



「―――――アラドさん!」
 誰かが呼んでいる。
 アラドは、頬に微かな痛みを感じた。誰かが叩いているらしい。それほど痛くはなかった。
 アラドはゆっくりと瞼を開いた。陽の明るさに顔をしかめつつ、その呼びかけている人物を見る。
「ユール……か?」
 アラドは内心残念に思っていた。ユールが助けに来たことではない。ティルが行ってしまったことだ。天使一人倒すことができたとしても無謀なことに代わりはない。自分は、再び幼い子供を死に追いやるつもりか。
 アラドはぼーっと空を仰いだ。自分は今まで何をやっていたのだろう。どうしてこんなところで時間をつぶしているのだろうか。仲間に追いやられてこんな所にいるわけだが、考えてみればこんなことに従う必要も無いといえば無いんじゃないか。ただ世話をしてもらっているかいないかの違い。そんなもの、自分独りでも可能なことだ。
 大樹にいる天使たちに対する不審はあのときからずっと持ち続けていたのだ。一人にすがり生きて行くことを認めなかった自分はどこに行った。こんなことをしているくらいなら、やりたいことをやって完全に追放されたほうがマシだ。
 横には、自分の棍棒と二つの釵が砂の上に置かれていた。
「お前が探したのか?」
「ええ。棍棒が見えていたおかげで場所が分かりましたから。その変な武器は掘っている途中で見つけました」
「そうか」
 ついでに、この武器も渡しに行ってやろう。アラドはそんなことを思った。
「ユール」
「どうしたんですか?」
「俺は大樹を攻撃する――」
 アラドより、ひとまわり小さな天使の驚き声は、アラドが驚く程に大きかった……。


 

2005/02/01(Tue)19:39:59 公開 /
■この作品の著作権は霜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
重いので、四章だけにしてみました(汗
一応、四章(だけ)で原稿用紙100頁ぶんあるようで……。全部あわせると約250頁だったり。質はともかく、量は投稿条件みたしてるんだなあとしみじみです。だらだら書いているつもりはないんですけどね(汗 どうなんでしょうかね。そこら辺。
最近、題名変えたほうがいいのかなあとちょっと思案中(笑 ぜんぜん内容と関係ないですよね。
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