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『『本屋』』 作者:ベル / 未分類 未分類
全角19211文字
容量38422 bytes
原稿用紙約55.95枚

 ――この世にバケモノなんているはずがない。いるとすればそれはこの本を読んでいる君――人間だ

 そんな意味不明な文章が、僕の手に取った本の第一ページだった。

 「……どういう意味だろこれ」

 霧島 幸助は、題名のない緑色のカバーに包まれたその本を見て言った。

 「いや、ということは何。僕のことをバケモノ呼ばわりですか? 大体著者名書いてないし」

 『本屋』
 それが霧島のいる場所だった。霧島の通う学校で噂になっているいわくつきのお店。誰も入ったことがないと噂されているが、自分でそこに入ったことがあるだとか。矛盾な噂が流れている場所。店に入ったものに何らかの変化が訪れるとか、行方不明になるとか。とにかくそんな意味不明な場所だった。
 彼が自動販売機でジュースを買おうとしたとき、小銭を落としてしまい、転がっていく小銭を追いかけて入ったビルの路地裏で陰をまとって営業をしていたのが、この本屋。初めは霧島もそんなにこの店に興味を持たなかったが、噂を思い出したのと、それともう一つ。この本屋自体の名前が『本屋』だということに非常に興味を示したからであった。
 そんなこんなで、店に入って本を探し始めたとき。目に留まったのがこの題名のない緑色の本だった。

 「……でもまあ。入っちゃったからには……ね」

 何も用事がないのに店を出て行くというのは、根の良い彼にとって、非常に罪悪感の残る行為であった。当然、そんな真人間な彼が、その本を本棚に戻すこともなかった。
 とりあえずその本の開いたページを閉じ、レジへと持っていくことにした。

 「すいません。この本ください」
 「……はいよ」

 レジへとその本を持っていくと、そこはなんともいえない空間であった。
 顔を隠している新聞の向こうから届くのは、タバコのにおいとしゃがれた男の声。顔を隠している新聞を見ていると、それは赤鉛筆でいくつも丸を書かれた競馬新聞であった。お世辞にも繁盛しているとは思えないような店。それが霧島の抱いた印象であった。

 「……さて、と」

 競馬新聞を持った手を降ろし、その隠れた顔が見える。
 オヤジ。
 それはいかにも近代的な若者が見てもわかる『オヤジ』であった。
 両耳にはさんだ短い赤鉛筆。不衛生とも言えるぶしょうヒゲ。暗い青色のジャンバー。開いたジャンバーのチャックの間から見えるのは、汚れた白シャツと茶色の腹巻。タバコをくわえた唇からはなんとも言えない匂いが漂ってきた。

 「えーとこの本は……何円だったかな」

 あろうことか自分の経営している本の値段を知らない有様。あまりのやる気のなさそうな顔に霧島自身も内心では「おいおいおいおい」と文句をもらしていた。
 その男が手に取った本をひっくり返し、裏側を見たときだった。わずかに視線が霧島の顔を捉える。霧島はその視線に気づいてはいなかった。わずか1秒程度、霧島の顔を見て、男はすぐさま視線を本の裏側へと戻した。そしてタバコを噛み潰して口を開いた。

 「はい、860円ね」
 「は……ッ?」

 男の言い出した値段に霧島は驚きを隠しきれなかった。まあそこらで売っている文庫本より何十ページか多いくらいのただの本。それが800を超える値段となるとどんな田舎ものでも騙されないだろう。しかし、現にこうして霧島はその値段を言い渡されていた。戸惑った霧島は、一瞬『サギだ』と口に出そうとしたが、レジに持っていってしまったのにケチをつけることなんて出来なかった。しばしの間開いた口が収まらなかった霧島は、小さく震える手で1000円札をサイフからとりだし、男に渡した。

 「はいよ、じゃあおつりの140円ね。ありがとうよ」

 これだけぼったくっておいてありがとうはないだろ。
 心の中ではき捨てた霧島は、男がなれた手つきでビニール袋につめる様子を見送り、その本とおつりを受け取った。

 「この本が、アンタにとっていい物になりますように」

 いや、いい物も何もないって。ぼったくってんのに
 心の中で今度はつっこみを入れた霧島は、重たい足取りで店を出る。その際に後ろから聞こえた『ありがとうよ』という間延びした声に霧島は、非常に何故か心の中にメラメラとどす黒い炎が湧き上がるのを覚えた。

 ※

 家に帰り、早速晩御飯を食べ終わった霧島は、自分の部屋でその本をかばんから取り出した。
 セロハンテープでふち止めされているビニールを破り、そこから例の本を取る。文字が何も書かれてはなく、裏側をひっくり返してもバーコードはおろか、値段表の記されてはいない。カバーを取ってみるが、同じ緑色が姿を現せるだけであった。

 「……ぼったくられたかなー。やっぱり」

 未だに文句をこぼしながらも、その本をまじまじと見つめる。綺麗な薄い緑色ではなく、その本を包んでいたのは、今にも取り込まれてしまいそうなほどの深い緑。見ているだけで森の中にでも引きずり込まれそうだった。

 「いやまあ買っちゃったのはしょうがないけどやっぱりこのページ数で860円はなあ」

 今更とも言える後悔を胸に抱きながら、霧島はその本を開く。さっきと同じ、意味のわからない文章――

 文章が違っていた。霧島の記憶の片隅に置かれてあったくだらない誰かのいたずらの様な意味不明な文章――『この世にバケモノなんているはずが無い。いるとするならばそれはこの本を読んでいる君――人間だ』といういったい何が言いたいのかも良く分からない、この本を実際に手にとってその内容を今見ようとした読者へのある意味では侮辱に等しい文章。それが二回目に開いた今は、更に意味を理解できない文章へと変化していた。

 『物語は始まった』

 あの本屋であの文章を見てから、この本は一度も開いたことが無い。それなのにいつの間にか文章が変化していることに霧島は嫌な寒さに全身を包まれる。よく本などで目にする言葉――嫌な予感というものか。どうしても不安を自分の体から消すことが出来ない霧島は、急いでそのページを飛ばそうとする。そのページの端をつかみ、めくろうとする。するとどうだろうか。霧島の嫌な予感が的中するかのように、その手は動かなくなる。誰かもの凄くゴツい筋肉の鎧にまとわれたシュワル○ネッガーに腕をつかまれてるわけでも。何か見えない糸に腕を束縛されてるわけでもなく、自分の腕ではないような感覚。脳から発せられる腕を動かす信号を、まるで腕自身が拒否するかのように、霧島の腕は動こうとはしなかった。

 「な、なに……これ……」

 開いた窓から冷たい冬の風が部屋の中へと進入してくる。霧島の体へとまきつくように入り込んでくる冷たい風は、不自然な程に霧島のページの端をつかんだ腕へと集中するように、集まってくる。

 「うおわッ」

 不意に、部屋の中を走り回る風を引き裂くように、一筋の光がページの中から浮かび上がる。『物語は始まった』の『物』の文字から。一角め、二画目と。文字から光が次から次へと。光が文字全体を写すたびにその文字が姿を変えていく。

 『ゲームスタート』

 「――え? あッ?」

 本の中から現れる光の一筋一筋が、動かない霧島の腕を、首を、足を、顔を、頭を、胸元を、手首を。体のありとあらゆる場所へと絡みつく。抵抗するまもなく、霧島の体はその光の筋に引き寄せられる。

 「う……わッ」

 強い力に引っ張られ、声を上げようとする刹那。視界が真っ白になり、そこで霧島の意識は消えてゆく。

 
 

 ――そのページを飛ばした先に。彼の姿はなかった
 開かれた窓から入ってくる風が揺らすのは、ベージュ色のカーテンと、床に落ちた開かれた本の数ページだけであった。
 
 
 
 『ゲームスタート?』


 暗い静寂。暗黒の領域。絶望の闇。今の状況を言い表すならこれらが最適だろう。霧島の視界内に見えるものには何も存在はせず、分かるのは、ここが自分の部屋ではないということと、ここには何もないということだった。手を動かしても周りの物に触れることが出来ず、何かのにおいはないかと鼻を一生懸命動かしても何も嗅ぎ取ることは出来ない。そして何より、気が狂いそうなほどに静かで、怖い。霧島は、まるで深い海のそこにでも放り投げられたような感覚に襲われた。
 聴覚、視覚、触覚、嗅覚が封じられた世界。その中に一人。霧島はいた。頭がどうにかなるような感覚。長い間、五感を封じられ、何も分からない事に対するストレスか。それとも、何も分からないということへの恐怖か。もがけばもがくほどに、霧島の体は闇へととらわれて言く。ここはどこなのか。帰りたい。寒い。いやだ。帰りたい。かえりたい。カエリタイ。
 精神の崩壊が、今まさに霧島の中で行われようとする。頭の中には不吉をあらわす、決して思ってはいけないことでいっぱいになっていた。

 ――シニタイ――と

 そこで、最初からなかったも知れない彼の意識は、自らの精神世界の中へと引きずり込まれる。

 ※

 「ジャン、ケンッ」
 
 握った拳と拳が同時に振り下ろされる。
 
 「あいッ! こで!!」

 『ショッ』という掛け声と同時に今度は開かれた手のひらが同時に。
 じゃんけんであった。

 「――ショオッ!! ……うっし!!」

 振り下ろされる拳と手のひら。一瞬の沈黙を置いて手のひらがプルプルとわずかに振るえ、その手が強く握られる。その手の持ち主は、握った拳を大きく振り上げ、喜びを隠すという事はせず。その喜びを辺りをばら撒きまわる。身長が170近く。顔つきは大人の様な端整な顔立ちをしており、ひとつの学校には必ずいるスポーツメン系のクラスで人気者の様な感じだ。美しい顔立ちといわれれば、そういうわけでもなく。よーするに美しいとは違う、熱血なカッコイイ顔立ち。そのくせ子供のように飛び回って両腕を振り回す。俗に言うロンゲな茶髪が彼のかっこいい顔つきを、更に引き出させていた。
 その様子を見ていたグーを出していた手の持ち主……。緑色のローブに身を包み、頭には麦藁帽子というちょっとどころかかなり珍しいファッションの持ち主。女性だ。黒色のセミロングの髪の毛をいじる。
 二人のいた場所は、茂った草花が良く目立つ。日の光が良く当たる森の中であった。草木が風に揺られるたびに木枯らしが起こり、綺麗な波の音に似た音を引き出す。日輪の光が、緑の葉をすかして地面へとサンサンと降り注ぐ。はたから見れば、この気分の良くなりそうな森の中へとピクニックにでも来たのかと思う。しかし、この二人の有様を見るに、ピクニックに来ただとか、デートの来ただとか。あまりにもそういう風には見えなかった。
 ジャンケンをしている時の二人の表情は、あまりにも真剣なものであった。別にあっちむいてホイをして遊んでいるわけでもない。別に何かの取り合いでジャンケンをしているというわけでもない。ただ、手ぶらの状態でジャンケンをホントに真剣な表情でしているとするならば、今時の若者から見れば「何あいつら超キモ〜イ」で、多人数でタムロってる不良からは「おい、あそこのヤツラなんかまじめにやってるぜ? ダッセー」広い公園で野球している子供たちからは「あの人らちょっと頭おかしくない?」だろう。実際。何か取り合いをするわけでもないのに真剣な表情で大きな声を立ててジャンケンをしているものを見かけたら思わず避けてしまうだろう。しかし。
 この二人には共通の意思があった。
 その意思の名は『めんどくさい』
 
 女性は深いため息をつき、握った拳の人差し指だけを伸ばし、自分の目前にあるものを指差した。
 
 「普通、女の子に持たせる? 重たいのに……人って」

 その女性が指差した先。
 茂った草花に囲まれて眠っている人間。
 ――霧島幸助であった。

 「ジャンケンで負けたほうが悪い!」

 あくまで眠っている霧島を自分で持とうとはせず、男は持たないというジェスチャーか。隠すようにその両腕を組んだ。口を結んで最早何も言うまいとした男は、ブーイングをしながら悪口を連発している女性を無視しながら男はその場所を後にする。
 どうやらその男が本気で手伝ってくれないと察知した女性は、あきらめてその場にしゃがみこむ。どうやら眠っているらしいこの少年は何故こんな所で眠っているのか。いや、実際に眠っているとはいえないだろう。どれだけ呼び起こしてみても霧島は起きることなく眠り続け。女性から見れば心出るようにしか見えない。にもかかわらず脈はあると言う。どう対処すればいいか分からない女性は、とにかく一緒に森に来ていた男と自分の家に運ぶ事に――したのはいいが。男がめんどくさい。お前やれと言った事がジャンケンの始まりだった。

 「ま、多分生きてるだろうから……ね」

 霧島の顔にいくつも樹木から千切れ落ちる葉っぱを振り払い、霧島の脇とひざ裏に手を伸ばす。霧島の体をすくい上げるように持ち上げた女性は立ち上がる。
 ――お姫様だっこ
 本来ならば男が女性に対して行う。女性がカッコイイ男にして欲しい行動ベスト5に入る事を、逆の立場で行われている。今、この場所で。

 「あ、以外に軽いわこの子」

 なんて事を口にしながら、女性は草花を踏み潰しながら、自分の家へと歩いた。

 ※

 天井。それが天井だと認識するのに、少し時間がかかった。それまで自分の目の前にあった暗闇は消え去り、茶色い木の板だけが視界に入る。首元にはフカフカの感触。マクラだ。視線を下のほうに向けると、白いシーツが自分の体にかぶさり、横になっていた。どうやら自分はベッドで寝ているらしい。霧島はそう思い、ここはどこかと視線を動かそうとしたときだった。自分の部屋ではないということはすぐに分かった。その理由は、霧島の顔の上に浮かんだ一つの見知らぬ女性の顔。
 
 「あ、起きたみたい?」

 起きたことを自分で確認したのになぜか疑問系で話すこの女性は誰なのか。キレイだなー。内心思いつつ、赤らめた顔を隠そうと勢いよく起き上がった。女性はその起き上がる動きにあわせて曲げた腰を伸ばしていく。

 「君ねー、森の中で寝てたんだよ? 何であんなところで寝てたの? 君は誰? どこから来たの?」
 「え、あ、あの……」
 「やめとけやめとけ。一度にいくつも質問するから困ってる」

 自分の心のうちを代弁してくれた男の声に、目の前の女性は反応してあ、そっか。と納得する。霧島も一緒にその声の持ち主に振り向く。その声の主人は、振り向いた霧島の顔を見て軽く頭を下げたあと、「よっ」軽々しく声を上げ、小さく微笑んで手を上げる。男の霧島から見てもその男はカッコヨク見えた。それは美しくてカッコイイというものではなく、昔霧島がテレビでよく見ていたヒーローのカッコイイであった。茶色い首までの髪の毛と、耳たぶのした辺りまで伸びた髪の毛は、ロンゲというよりも、霧島にとってはカッコイイお兄さんのイメージを強く引き立たせた。

 「じゃあ質問タイムだ。お前の名前は?」
 「え? え、あ……き、霧島……幸助、です」

 突然の問いかけに戸惑った霧島は、あわてながら自分の名前を言った。

 「キリシマコウスケ? 変な名前だなー」

 変な名前。茶色い髪の毛に黒色の瞳をしているもろに日本人の男にいきなりそんなことを言われた霧島は少し悪印象を感じた。

 「何歳だ?」
 「14歳です」

 「どこから来た?」
 「どこからって……日本に決まってるでしょ」
 
 男は悪い発音でニッポン? とカタコトで首をかしげる。ま、いいやと開き直って更に質問を続けた。

 「どうして森で寝てた?」
 「森……。森!? 嘘……」
 「嘘ついてどうする。質問を続けるぞ」

 「どうして森で寝てた?」
 「どうしてって……自分でも、よく……」
 「ふーん」

 あらかた自分の聞きたいことが聞けたのか、男はしばしの間うつむき、何かを考えるように黙りこくった。入れ違いに女性が口を開く。

 「私はセリスッ。セリス・リーネ。よろしくね」

 日本人の癖にいきなり外国系の名前を持ち出した女性に、霧島は頭を抱えた。この人たちがおかしいのか。自分がおかしいのか。微笑を絶やさない女性を視界に入れないように俯き、自分の頭の中の考えを整理することにした。

 (……僕は確かあの時、緑色の本を開いて。ページを飛ばそうと……それで光の帯で何かに引きずり込まれて……暗闇……!!)

 霧島は頭の中で思い出した恐怖に耐え切れず、両腕を強く抱いた。体の芯からあふれ出る体の震えは、とめようとも言う気にもならなかった。暗闇。闇。何も見えない。恐怖が頭の中を塗りつぶす。考えたくない暗闇が、頭の中から消し飛ばそうとしても、ゴキブリのように何度も何度も頭の中に目障りなくらいに現れ続ける。
 その霧島の様子を見ておかしいと思った女性、セリスは、震える方に手を置いた。

 「だ、大丈夫? ねえ、君?」

 

 ――呼びかけるセリスの声も、今は耳に入れたくない
 暗闇は嫌いだ。あんな中では生きられない
 今はただ
 この暗闇を消すことだけに集中したい
 
  『こんな急展開は無いだろ。ねえ』

 
 霧島がセリスともう一人の男、クォル・ベイネットにいつの間にかベッドに寝かされていた件から一週間が経つ。この一週間で霧島が分かったことは三つ。
 一つ、ここが『エルダ』という国だと言う事。
 一つ、霧島の常識はここでは通じないと言う事。
 一つ、間違いなくここは地球ではないと言う事。
 久々の客人という事で、おもてなしの料理を出された霧島は最初、思わず目をむいた。洗って千切ったキャベツを皿いっぱいにいれ、他は調味料のコショウだけと言う今まで霧島の家庭の中では存在さえ知られなかったもの。野菜が割かし苦手な霧島にとって、キャベツだけを胃袋に詰め込めと言われえると言うことは自殺行為に等しい。黙りこくったまま何とかやり過ごす手段を考える途中。セリスが笑顔で「食べないの?」と言ってきったのが、霧島の良心を突き刺した。観念してそのキャベツをコショウにつけて食べてみたが、キャベツの味や匂いはすべて消えていて、どちらかと言うと自分たちが普段食べているポテトに近かった。
 パリっとした食感に、少しだけ辛味のあるコショウ。以外にもベストマッチしたその料理を、気づけば霧島は両手にキャベツを持って口に運んでいた。お持て成しに美味しかったとはいえ、いきなりキャベツを出してくるなんて貧乏な家ではあるまいしと霧島は思った。他にも、どの家にでも必ずあるはずのテレビ、冷蔵庫、キッチン。常備されていなければ逆におかしいと思うほどだ。おまけに、水を出すはずの水道と言う概念は無く、水は川から汲んでくるものらしい。更に、家の中を見回すと、それらはすべて木造。壁や、手すりでさえも。プラスチックやコンクリート、それらは無いのか、と霧島が聞くと、二人は口をそろえて「それは何」と。
 二人の話では、今霧島がいる場所は、エルダと言う緑の大国の首都『ミドガルズオム』から少し離れた森の中の一軒家の中らしい。
 プラスチックもコンクリートも無いくせに、なぜか窓ガラスはいくつも設置されているこの家の外をのぞくと、そこは、長いこと森の中で暮らしたセリスやクォルにとっては、当たり前の光景。毎日目にする当たり前だが、ビルという名のコンクリートの森の中で生きてきた霧島にとっては、深緑とはこう言うことか、と、深く分からされるほどの、緑。その光景を目にした霧島は、外に出ることを夢に見ながらも、まるで奴隷の様に二人、特にクォルに奴隷のように働かせれていたわけだ。
 そして、いつもの様に掃除に洗濯。更にセリスが手伝ってくれるにもかかわらず、両腕一杯の洗濯物を運ばされていたときの事だった。

 「洗濯物をすぐに片付けて、外に来てくれよ」

 それだけを言っクォルはドアノブに手をかける。セリスが僅かに眉をひそめた。クォルの後姿を見送りながら霧島とセリスは洗濯物をその場に置き、クォルに続いて外に出た。
 都会の人が癒しを求める理由が分かったかもしれない。霧島の第一印象が、それだった。普段見慣れている灰色のコンクリートで出来たビルの姿はどこにも無く、普段かぎなれていて、変なにおいともなんとも思わなくなった排気ガスも無く、道路と言う家の外に広がった世界に無い道を、我が物顔で進んでいく大型トラックも、少しでも街の見栄えを良くするようにと植えられた小さな木々も、何も無い。広がる世界は、一面が緑。
 霧島の眼は、今まで腐っていたのだろうか。これほど見たことも無いすばらしい景色を見て、眩しいと感じてしまう。それとも、眩しいと感じさせてしまうほどに、この世界が綺麗過ぎるのか。家を出た先にいるクォルは、目に入らなかった。空を仰ぐ。空を隠そうともしないで、木々たちは霧島に空を見せるようにその体をくねらせていた。都会では見られなかった広くて青い空。空を隠した灰色の混じった重たい雲は、無い。霧島は、思った。もしかしたら、今まで自分が暮らしていた世界は、偽りのものだったのか。今まで見上げた空は、自然を大切にしなかった人間たちに見せまいと、わざとあの雲で空を隠していたのか。

 「呆けてる暇は無いぞ。それを取れ」

 目にしたことの無い世界に、思わず脳がとろけそうになった霧島に、クォルは声をかける。
 それ? ハっと我に返った霧島は、空に向けた顔をすぐさま真正面に戻した。そこにあるは草花に刃の部分を絡みつかれて、その場所で地面と垂直に柄を空に向けて立っている木刀が、一本。柄の部分を汚れた包帯で巻かれた木刀は、倒れることなく不思議にそこにある。一筋の光を空から浴びて、腐ることなく立っているその木刀に、何故か霧島は心を惹かれた。木刀ではない何か、まるでその木刀に人の魂が宿っているかのように、霧島は木刀の向こうに勝手な人の顔を想像する。

 「早く取れ。でないと、手遅れになるぞ」

 静かながらも、緊迫感が漂う感じで言葉を投げつけるクォルに、威圧されきった霧島は何を言い返すまでも無く、その柄を握る。その手にしっかりと馴染む木の感触。今までふれたことの無かった木刀が、掴んだだけで自分の体の一部に思える。掴んだ手を振り上げる。ぶちぶちと、絡みついた草花がちぎれて宙を舞い、地に落ちる。日の光を遮断するように、光のラインと霧島の視線の間で、木刀は静止する。木刀の影が、霧島の右こめかみから、左の耳にかけて、姿を現す。羽みたいな軽さ、とはこの事か。重たく、長いもので1キロ以上はあると聞いたことがある木刀。決して力が強いと自分でも思ってない自分が、ティッシュを持つように軽々と木刀を持ち上げている。

 「……やっぱりな」

 木刀を振り上げた霧島の様子を見て、クォルをホっと安堵を付く。
 
 「危ない!」
 「え?」

 瞬間、遅れて家を得たセリスの叫び声が霧島の右耳から左耳を突き通り、霧島の体は誰かに抱きかかえられて、宙に浮く。木刀を持ったまま今いた場所から遠ざかる霧島が見たものは、何も無かった空から落ちてくる一筋の銀線。それに続くように沢山の黒い影が、落ちてきた。

 「ボーっとしない!」
 「え……っと、セリスさん、今までどこに?」
 「準備してたの! ……ホラ来た!」

 霧島の体が宙へと放り出された 。自分を抱えていたセリスの姿は、空を見上げたまま浮いている霧島の視界には入らなかった。次の瞬間、霧島の背中に何かがぶつかる。背中を強打し、数秒ほど呼吸が出来なかった霧島は、今時分の背中にぶつかったものが地面だと気づく。背中を押さえながら顔を上げた霧島は、目を剥いた。
 緑色の風が、駆け抜ける。
 驚くべきほどのスピードで、セリスは駆け抜けた。黒い影の脇をすり抜けるように。瞬間、まるで時代劇のように黒い影が地面に倒れ伏せる。次に、セリスの後ろから二つ目の影が襲い掛かる。セリスは振り向きもせずに右拳を自分の右肩の上に振り上げる。裏拳、というものか。その拳をまともに受け、少しぐらつく。そして、その影は霧島めがけて飛んできた。影が飛び上がったことにより、セリスの背中へと振り上げたブーツの靴底が見えた。あわててハイハイで飛んできた黒い影をかわす。影の正体を確かめようと、動かない影を見据える。
 影の正体は、黒装束をまとった人間。
 一体何が起きたのか、先ほどまで死ぬほどこき使われていた自分が、なぞの戦いに巻き込まれている。あまりの突然の事態に、霧島は戦うセリスから視線をはずさないように、後ずさりでその場から離れようとする。

 「……え?」

 背中に、ひんやりと何かが突きつけられる感覚。恐る恐る首だけを後ろに向けると、黒装束の男が見事なまでの長さと曲がりを保った長いとがった銀色を自分に突きつけていた。血の気が引く。自分の血が凍りつくように冷たくなるのが分かった。分かる、今の状況から察するに、自分の背中に突きつけられているのは、剣。

 「……!」

 ふと、恐怖のあまり、体を震わせていた霧島に、黒装束の男はゆっくりと崩れ落ちる。視界が、黒で埋め尽くされる。倒れ来る男の体を抑え、何とか押しのける。黒い世界の向こうで立っていたのは、青い装束に身を包んだクォル・ベイネット。大丈夫か? クォルは手を差し伸べた。何とか。小さな声でつぶやいた霧島は、その手を取る。

 「ねえ、一体、この人たちは誰? 何で僕がこんな目に……」
 「今は説明している暇は無い。来たぞ!」
 「え? あッ!」

 視界の上のほうから、黒い影が次々と落ちてくる。3,5,9,13。13人もの黒い影に、四方を埋め尽くされる。逃げ場を失った霧島は、クォルの背中に隠れる。

 「おいッ、戦いにくいから寄り付くな!」
 「そ、そんな事言ったってッ」
 「自分の身くらい、自分で守れ!」

 すがるように寄り付く霧島の体を、クォルは突き飛ばす。見放された感が強かった霧島は、なぜかそのクォルの態度に怒りを覚える。霧島の心を覆っていた恐怖のマイナスが、怒りによってプラスに書きかえられる。
 その態度は無いんじゃないのか……!? やってやるよ!
 心の中で、クォルに対する態度に、怒りと、あんな態度を取られた自分へと悔しさが渦巻く。後ずさりしか出来なかった霧島の体が、油が入ったようによく動く。

 「ああもう……こうなったらヤケだ!」

 手に持った木刀を構え、霧島は叫ぶ。
 空は、何事も無いかのように青い。
 

 『クォルは実はひどい人だった。怒らせないほうがいいかも』

 
 13人もの黒装束の男たちに四方を囲まれ、緊張感が張り詰める。クォルと背中合わせで敵を見据える霧島の額から、脂汗が一滴。鼻の横をたれていき、脂汗は霧島のアゴで一瞬止まる。
 一秒後、脂汗が地に落ちる。刹那、まるで動く気配の無かった周りの男たちが一斉に行動を開始した。一人一人が、霧島から見て左へ左へと行動を開始する。黒い影が躍る、霧島とクォルを中心とした回転演舞。ダンスを踊るがごとく、音も立てずにただ二人の周りを回り続ける影の二つが、不意をついて動いた。標的に狙われたのは霧島。左右から同時に迫り来る男たちに慌てて、霧島は振り下ろされる剣と自分の間に木刀を割り込ませる。意味は無い。霧島は思った。人を斬る事を目標とし、その体を研ぎ澄まされた銀色の刃を、所詮は木刀一本では勝ち目も無い。斬られることを覚悟し、霧島は目をつぶる。
 
 斬ら……れる!

 男二人の剣が、霧島の木刀を真っ二つにしようとする。瞬間、霧島の両耳の横から、角ばった形を持った灰色の何かが、男二人の顔めがけて飛び込んだ。石。霧島の危機を察知し、クォルが後ろも振り返らずに手首のスナップだけで石を飛ばした。石の角ばりが額にぶち当たり、男二人は額から血を流しながら崩れ落ちる。二つの影が地面へと吸い込まれるように落ちたとき、攻撃をせずにただ回り続けていた男たちの、残り11人が一斉に飛び掛る。今度こそダメか。あきらめかけた霧島の後ろで突如、突風が吹き荒れる。霧島の小さい体が突風でその場から弾き飛ばされる。飛び掛ってきた男たちの脇をすり抜けるように、霧島の体は男たちの作った陣から放り出される。男たちは、放り出された霧島を見もせずに、すでに自分の前からかかってきた男6人を地面に倒れ伏せたクォルにその銀色の刃を向ける。
 男たちの体と刃が、確実にクォルとの距離を埋めていく。標的とされているクォルは、ゆっくりと襲い掛かる男たちに、顔を向け――
 
 ――笑う

 体を開き、握った右拳を引く。男たちの刃が今まさにクォルの体中を蹂躙しようとする瞬間、拳は空を切り、男たちめがけて進む。空を切っただけのクォルの拳の周囲から、渦巻く何かが姿を見せる。風だ、拳の周りの空間を歪めさせるほどの凝縮された風が、クォルの小さくつぶやいた言の葉が、引き金だったのか。つぶやかれた言葉に答えるように、凝縮された風は意思を持って男たちへと、疾る。

 『ワール・ウィンド』

 意思を持った風が、20を超える帯と姿を変える。それらの帯が、鞭のようにしなり、伸び、男たちの体に叩き付けられる。空を切る音が、連なるように鳴り響き、やがてはそれは一つの轟音へと。男たちは思わず苦しそうな声を漏らすが、その声も轟音によってかき消される。男たちの体は、叩きつけられた風に吹き飛ばされることも許されず、ただ空中で人形のように踊らされるばかり。
 20の帯がすべて叩きつけられると、役目を終えたかのように空間に溶け込むように消えていく。何がおきたのか理解できない霧島は、ただ唖然とするばかりであった。

 「な、何……今の、すごい……」

 たった今霧島が目にしたのは、ゲームやアニメでよく目にすることの出来る、魔法。カッコイイと霧島は思った。今男たちをなぎ払った風もそうだが、そんな魔法を使ったクォルを。しかし、同時に風に叩きつけられた男たちの姿を見ると、畏怖の念さえも抱いてしまう。目を剥いて失神している男の腕は180度逆の方向にありえないほど曲がり、折れた骨が皮を突き破り、血に染まった体を見せる。うつむいたままピクリとも動かない男を覆った黒装束は、体全体から吹き出ている血がしみこんでいて不気味なくらい赤色を作っていた。
 霧島は改めて思う。ここは自分が住んでいた日本じゃない。他の外国でもない。地球でもない。地球上に存在する人間にあんな事が出来れば、それこそ世界は一週間で滅んでしまう。どこだか知らない世界。けれど、間違いなくここは地球と言う楽園のように平和な場所ではなかった。明らかに田舎とも思えるこんな森の中でいきなり刃物を持って襲い掛かってきた黒装束もそうだが、なによりそれらを半殺し以上まで持っていったクォル自身が、危険だ。

 「一体、何者……」

 かろうじて言葉を発する事の出来る男の一人が、血反吐をはきながら言う。今にも死んでしまいそうな男を見て、クォルは答える。

 「魔法使いだ。ナメんなよこのやろー」
 「ふふ、やはりな……その力、さすがは、しゅ――」

ゴキリ。鈍い音を立てて、喋ろうとした男の延髄に何かが振り下ろされる。踵。クォルの踵が、男の首めがけて振り下ろされたのだ。多大な量の血を嘔吐し、男は一瞬だけビクリと痙攣しする。男は白目を剥き、クォルに向けていた首が地面に落ちる。それきり、男は喋ることも、動くことも無くなった。殺した。クォルが、この男を、殺した。霧島は震える。

 「な……なに、を?」
 
 無意識のうちに、霧島はつぶやいた。

 「なに、やってるの……?」

 今度は意識して、霧島はクォルに問う。霧島の問いに、クォルは振り返りながら、

 「なにって、俺何かしたか?」
 
 まるで、そうすることが。殺すことが当然のように、クォルはあっさりと答える。その言葉で、霧島の頭の中で何かが千切れる。

 「なにって……なんで、なんで殺したの!?  この人はもう動けなかった! 剣を取って襲い掛かってくることも無かった! なのに、なのになんで!」
 「なんでってお前……殺さなきゃいつかまた襲われるかもしれないだろうが。殺られる前に殺らないと、こっちの命が危ないんだ」
 「……! 僕は! クォルやセリスさんの事情は知らないけど! やりすぎなんだって!」
 「あーのな……いいかげんに――」

 ため息をついたクォルは、舌打ちをついてイズの服のすそをつかみ、グっと引っ張る。そのまますそを離し、霧島を自分の後ろへと放り投げた。間髪いれずに、霧島がいた場所に、どこからわいて出たのか、黒装束の男が剣を振り下ろす。男の振り下ろした剣
は、動きを止めずにクォルの股下から上へと襲い掛かる。右足を引いて半歩の体制でよけたクォルは、男の腕を取り、足を払って地面へと投げ飛ばす。男が地面に打ち付けられ、追撃をして、終わる。クォルは自分の頭の中で描いた結末を思う。しかし、クォルは本能で危険を察知する。地面に投げつけられた男はが、笑う。クォルが後ろへ下がるのと、男が何かを繰り出すのは、ほとんど同時だった。クォルの視界を、たてに何かが切り裂く。ハラリとクォルの髪の毛が数本、地面に落ちる。

 今の武器は、何だ?

 クォルは下がりながらも、男の繰り出した何かを見送る。銀色のその体は、曲がりが強く、かつ、異常なまでの鋭さを保っていた。刀。男が刀を振り上げた体勢で、クォルが下がっていくのを見ると、男はゆっくりと起き上がる。持っていた刀をもう片方の手で持っていた鞘に収める。男は口にたまった血をその場に吐き捨て、構える。
 腰を落として左手に持った鞘を、腰の辺りで持つ。右手で柄を握り、顔だけをクォルに向ける。刀を扱う者の中で、優れた使い手が好んで使う型。居合い。クォルは男を見て、意外そうに目を見開く。

 「へえ、『黒影』のザコらにしちゃあ、かなりのヤリ手だなあ」
 「……」

 クォルが軽く笑い、男は黙りこくる。柄に添えた右手に力を込めた。瞬間、男の体がフっと沈む。霧島がクォルがそれを視認したとき、男の踏み込みはすでに二歩目に到達していた。その速度は最高速度に乗った自動車に匹敵しえたかもしれない。そして男は二歩目でここから更に加速した。確実に男の踏み込みはクォルとの距離を埋め尽くしていく。霧島の目から見れば男の姿には残像が出来ていた。一秒を10で割った速度で、男は更に三歩目を踏み込む。

 ――残り2歩

 握った柄を、反発力をつけるため、鞘へと押し込む。
 足裏は地面を数センチも浮くことなく、滑るように疾る。それは攻撃を繰り出す踏み込みへと足捌き。まさに最高の一撃を誘う最後の一歩。

 ――残り1歩

 刀は空気断層を作りながら鞘内から空気の滑走路へと走り始めていた。そして、高速移動の最中に男はクォルを見届ける。自分が初歩を踏み込んでから数秒と立っていない。所詮は近接戦闘を得意としない魔法使いか。この人を一秒も早く殺すことだけを目的とされた武踏『秋水』の速さに反応できなかったのだろう。
 クォル・ベイネットは、未だ笑みを残したままピクリとも動かない。
 
 ――勝った

 浮かび上がるのは狩猟者が獲物を殺すのを確実としたとき湧き上がる、抑揚の無い歓喜。その感情の赴く先で、ユラリと腕の動き出すさまを見た気がした。だが、それではあまりにも遅すぎる。今更の反応であり、腕は空を切ることも無く、刀の錆になるだろう。
 男は冷め切った思考の中で冷徹な判断を下した。その曇りなき思考が乱れたのは最後の一歩を踏み込もうとしたときだった。
 氷の紫電に全身を貫かれたような氷点下の痺れが体の中心を突き抜けた。
 彼の剣士としての本能が、圧倒的な力を持って思考を捻じ伏せ肉体を支配する。何一つ考える間も無く、男は全力で体勢を投げ出しながら最後の一撃を繰り出すための踏み込みを、横に体躯を投げ飛ばすための一歩へと変更した。自分の無意識下の行動に驚愕とも呆然ともつかない思いを抱く。男の躯はバランスを崩しながらも勢いを完全に留める事無く、某立ちするクォルの右側面へと流れた。そして、男の双眼は目撃する。
 まるで、途中のコマを切り取ってしまったフィルムのように一瞬にして、それまで彼が目の当たりにしていたクォルの立ち姿が変わっていた。笑いを消さぬまま、両腕をダラリとさせ、棒立ち同然から――ナイフを握った右手が袈裟懸けに振り下ろされた姿へと。いつ、そのナイフは繰り出されたのだろう。懐のうちに潜んでいたとして、一体どれほどの速度で、その刃は閃いたのだろう。剣風が渦を巻き、大気を乱す。さながらナイフが振り下ろされたという事象を世界が思い出したかのように、男の纏う装束の裾が、空気の断層に巻き込まれ千切れ飛んだ。
 心が凍る。
 あの完全に此方が征したはずの間合。あそこから一瞬にしてナイフを繰り出したという剣速の驚異に。そして、あのまま刀を繰り出していたならば、地面に倒れ付していたのは自分だと言う事実に。男は続いて身体の奥底から湧き上がってきた戦慄とも高揚ともつかない何かに、爛と眼を輝かせた。どれほど早かろうが、どれほど切れ味鋭かろうが、もはや意味は無い。既にその必殺の一撃は撃ち放たれてしまったのだから。そして、自分はその一撃を躱したのだ。黒装束が傘のように広がる。ところどころ破れたそれは、草臥れた番傘を彷彿とさせた。男はそのまま流れに身を任せ身体を一捻りすると、さらに加速のついた一撃をクォルの横合いから叩き込む。体重、加速、回転速。すべてが一身に満たされた刀の速度。クォルから見て、右方上後部からの袈裟懸けの一撃。
 クォルが武器にナイフを選んだのは、ある意味正解だったかもしれない。本来距離をとって戦う魔法使いにとって、距離の侵略は死に体当然。そしてそれを補うのが、少ない体力でも、心もとない筋力でもそれなりには扱えるナイフ。しかし、そのナイフの切っ先が向く先が、ただの兵相手だったならば、この男は負けるはずが無いだろう。しかし、その切っ先の向く先が、そのナイフをものともせずに相手を切り裂けるものだったならば。
 
 ――武器の選びはいい、しかし、相手が悪かった、クォル・ベイネットッ
 
 その瞬間、男の瞳と、クォルの笑ったままのつむった様な頼りない双眸が交錯した。ゾクリ、と男は全身に怖気が走るのを感じた。ゾワリ、と男は全身の肌が泡立つのを感じた。
 永遠の刹那、開いたクォルの双眸は、その光のどこにも死と敗北の絶望は無く、冷たいほどの余裕を湛えていた。瞬くように生じた疑念を消し飛ばすように声無き雄叫びを張りあげつつ、男は刀を振り下ろした。ここに来て引くことは能わず。ただ、渾身の一撃を見舞うのみ。烈閃が輝く。そして、無垢なほど白く塗り込めた意識の端の、剣閃の隙間から彼は見た。

 ――ユラ――リ

 それは、さながら陽炎の如く。
 男の剣客最高の剣は、何の手ごたえも無く空を切り、床へとめり込んだ。まるで幻でも目の当たりにしていたように、そこにクォル・ベイネットの姿は消え去っていた。地を蹴る打音も耳朶を打たず、動作にて巻き起こる風の揺らぎも微塵も感じず。そして、驚愕する間もなく背後で爆ぜる殺気。
 
 避け――

 ゴトン、という鈍い音が一瞬だけ静まり返ったその場一体に響いた。重なるように、何か液体が噴き出す音がその場を犯しつづける。

 ……雨?

 不意に、空からシャワーのように何かが降り注ぎ出し、男とクォルの攻防を捉えることの出来なかった霧島が、濡れた頬を拭った手の平を見て唸り声を上げる。声の響きはその場の呪縛を解き放った。現実が姿を現す。ヒュっとクォルはナイフを地面向けてその場で振るう。地面めがけてナイフから飛び出したその紅は、明らかにそれが血であることを表していた。その脇で、空まで鮮血を噴きださせている物体は断頭された首の無い体。クォルの足元に転がるのは閃光に断たれた首。首はしばらくパクパクと驚いたように口を動かしていたが、やがて動かなくなった。

 「中々強いけど、俺には適わないネ」

 不敵な笑みを浮かべるのクォルの前で、死体は尚も血を噴出している。
 地面と言う名のキャンバスは、血という名の絵の具で真っ赤に染まっている。 


 『イズ』


 クォル・ベイネットは笑っている
 

 男の首からあふれ出る血の雨は、とどまることを知らない。何秒過ぎても、何分たっても、一向にとどまる気配が無い。
 首の無い男の体から、霧島は視線を眼下で転がっている生首へと下ろす。30ちょっとの歳だろうか。少しだけ生えた短いひげが、男の年齢を教えている。生首の顔はすでに血を失いすぎたせいか、真っ青に青ざめている。黒っぽい、白っぽい肌しか見慣れていない霧島には、それがとても不快に思えた。が、何よりもまず。死んでいる。目の前で、男の生首が転がっている。
 目に光は無く、だらしなく開けた口から飛び出した赤い舌。最早今この場所にさっきまでの男はいない。代わりにあるものは、ただの生首。
 動悸が止まらない。心臓の音がバクバクいっているのが分かる。どうしようもなくあふれ出す冷や汗が、鼻の頭を伝う。今、自分の顔も、青ざめているのだろう。目尻に涙を浮かべているのだろう。霧島は、頭の中で思考をめぐらせる。そして、男の体が血を噴出すのをやめ、その体が地面へと倒れたとき。霧島は、自分の手を染めている血を見て、体を一度振るわせる。
 胃から何かがせり上がる感覚。その血の付いた汚い手で、口を押さえる。何も出来ぬまま、何もいえないまま、霧島は口に溜まった胃酸を吐き出す。黄色い液体が赤い血に混ざる。霧島はそれを見て、ただ呆然とする。前の前で起きた人殺しを認めるのが嫌で、ただ思考をめぐらせる。今時分はどんな顔をしているか、この体は震えているんだろうな。あえて目の前の生首ふれないように、霧島は考える。片手に握った木刀に、力を込める。

 「……さて、キリシマ? 大丈夫か?」

 頭の上から、クォルの声が降り注ぐ。霧島は顔を上げ、その暗い瞳でクォルを見据えた。口元がつり上がっている。実際には、霧島に微笑みかけているんだろうクォルの笑顔が、悪魔の微笑にしか見えなかった。

 「聞いてるか?」

 クォルは手を差し伸べる。真っ赤な血……、いや、すでに黒ずんでいるその手を、霧島に差し伸べる。

 「……! やだッ……!!」

 パチンという音と、手に残るかすかな痛み。はじかれた手をしばらく見ていたクォルが、霧島に視線を戻す。ひどくおびえた顔。まるで幽霊でも見るようなまなざしが、クォルに突き刺さる。体全体が大きく震えている。両腕に収まりきらない木刀にしがみつき、軽蔑と恐怖、さまざまな感情のこもった表情浮かべ、クォルから目を離さない。

 「そこまでおびえんでも……なあ」

 もう一度、差し伸べようと伸ばした手が霧島の顔の前でとまる。その手をひっこめて、頭の後ろを人差し指で軽くかく。困った、という風に目を閉じて、お手上げのジェスチャーか、両手を軽く振る。うーむと軽くうなった後、クォルはきびすを返す。

 やっぱ、こいつらじゃなくて俺におびえてるんだろうなあ

 少しうつむいて、笑いをこぼしたクォルは額を手で覆う。

 「……セリ――」

 一瞬だけあらわにした悲しげな表情を、顔を上げると同時に笑顔に変えたクォルが、一部始終を倒れた男たちの上に乗って見ていたセリスに呼びかけようとしたとき、クォルは振り返る。
 そして、見開いた眼に、声も出せずに、助けを呼べずに今まさに生き残りと思われる男の、両刃の斧の振り下ろしが霧島の脳天めがけて振り下ろされる光景が写る。瞬間、クォルの脳内で様々な考えが駆け巡る。
 ナイフ――間に合わない。魔法――無理。どうすりゃ――
 ――また――失うのか?
 どうすることも出来ずに、クォルはつぶされるであろう霧島の頭を見たく無いがために、眼を瞑る。現実から眼をそらすように。

 ガツッ

 ……ガツ?

 頭がつぶされた音でも、頭蓋ゴツが叩き割られた音でもないその音を確かめるために、クォルは恐ろしそうにまぶたをゆっくりと開く。
 そしてその眼に、木刀で、振り下ろされた両刃の斧を「はじき返す」霧島の姿と、弾き返された両刃の斧の刃が、男の肩の肉を切り裂き、体内に入り込んでいる光景が写る。

 「ガアアアアッ!」

 男の悲鳴がとどろく。肩に突き刺さった斧をつかみ、引き抜く。斧の刃は血をまとい、また、男の肩からも血は吹き出る。つかんだ斧を地面に叩きつけ、男は必死で肩を抑える。が、抑えたところでその痛みに耐えられるわけも無く、男はのた打ち回りながら、絶叫を発し続けている。
 そんな男を気にも留めず、霧島は何が起きたのかが分からず、ただ木刀を眺めていた眼が、木刀の柄の部分に掘り込まれた何かを捕らえる。

 「……エス……違う。イ、ズ?」

 柄に掘り込まれた『E's』という文字を、霧島は無意識のうちに口にする。誰かの名前なのか、何か物の名前なのか、ソレは分からない。けど、霧島は『それ』を口に出した瞬間、体内で何かがゾロリと蠢いた。
 ドクン、と魂が慄いた。脳天を貫く頭痛が走る。
 それは衝動。馴れ親しんだ衝動。生まれたその時から共にあった衝動。
 ピシリと何かにひびが入った。
 
 ― まあ、ほめてやる ―
 
 それは自分が神かの様に威張り散らした小さな微笑で

 ― 行け ―

 それは透き通った雪のような微笑で

 「――あああああ……!」

 頭の中にヒビが入ったかのように、知らない景色が入り込んでくる。自分の視界が、木刀を眺める視界でなく、赤い炎に包まれた知らない町の中へと変わっていく。
 自分の目の前で、知らない男が背を向けて誰かと対峙している。
 そして男は、こちらを向いてかすかに口を振るわせる。どこか悲しい影をまとって。そしてソレを隠そうと苦笑いを浮かべ

 ― 生きろよ ―

 男の向こう側で、その男と対峙していた挑発の男が手のひらを目の前の男に向ける。その眼は、月の様な金色と――気高き狼の様な銀色――
 
 男は、最後に付け加えるように優しい笑みを浮かべ、言う

 ― なあ? ―

 景色がグニャリとゆがんでいく。男は、再び背を向ける。そして、白と黒の光が男を包んで――

 ― イズ ―

 「にい――」

 その男が誰かも何も分からないけど、霧島はその男に手を伸ばす。
 大事なものを失ってしまいそうな、そんな気がして。

 「ああああああッ!!」

 頭の中に入ったヒビが広がるように、頭痛は霧島を襲った。
 気が付けば、霧島の目尻に溜まった涙があふれかえっていた。一つ瞬きをすると、そこは炎が渦を巻く見知らぬ街中ではなく、緑色の光が降り注ぐキレイな森の中。果てしなく続く頭の痛み。霧島は木刀から手を離し、その場にうずくまって頭を抱える。
 さっきのが何だったのかは分からない。けれど、今も眼に焼きついている。金と銀の眼。
 冷たくて、見るものを射抜いてしまいそうな、キレイな月――

 頭の中でイズという誰かの声が鳴り響いている
 けれど
 今はもう聞こえない
 
2005/01/21(Fri)16:39:12 公開 / ベル
■この作品の著作権はベルさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 
 こんにちは、お久しぶりです。
 またもやパソコンが壊れてしまい、修理するのに何ヶ月もかかってしまいました。 その割りに内容みじけえぞコラと言われたら何の反論も出来ません。勘弁してください(ぇーぇー

 ではでは
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