オリジナル小説 投稿掲示板『登竜門』へようこそ! ... 創作小説投稿/小説掲示板

 誤動作・不具合に気付いた際には管理板『バグ報告スレッド』へご一報お願い致します。

 システム拡張変更予定(感想書き込みできませんが、作品探したり読むのは早いかと)。
 全作品から原稿枚数順表示や、 評価(ポイント)合計順コメント数順ができます。
 利用者の方々に支えられて開設から10年、これまでで5400件以上の作品。作品の為にもシステムメンテ等して参ります。

 縦書きビューワがNoto Serif JP対応になりました(Androidスマホ対応)。是非「[縦] 」から読んでください。by 運営者:紅堂幹人(@MikitoKudow) Facebook

-20031231 -20040229 -20040430 -20040530 -20040731
-20040930 -20041130 -20050115 -20050315 -20050430
-20050615 -20050731 -20050915 -20051115 -20060120
-20060331 -20060430 -20060630 -20061231 -20070615
-20071031 -20080130 -20080730 -20081130 -20091031
-20100301 -20100831 -20110331 -20120331 -girls_compilation
-completed_01 -completed_02 -completed_03 -completed_04 -incomp_01
-incomp_02 -現行ログ
メニュー
お知らせ・概要など
必読【利用規約】
クッキー環境設定
RSS 1.0 feed
Atom 1.0 feed
リレー小説板β
雑談掲示板
討論・管理掲示板
サポートツール

『[短編] I hate myself』 作者:覆面レスラー / 未分類 未分類
全角8390.5文字
容量16781 bytes
原稿用紙約24.75枚

 独り暮らしの親友が借りている都心近くのマンション五階の一室、おおよそ地上から十メートルからの景色は、大学に通うために上京していた頃に借りていた安アパートの景色より、遥かに見晴らしが良かった。僕が借りていたアパートは軒先に隣家の垣根があって、風情もなにもあったもんじゃなかったのに比べると、ここには、一寸先に遮るものが何もない。部屋ので外さえも部屋の一部になってしまったかのような無限の開放感がある。
 だからってわけじゃないが、僕は3LDKリビングの白い壁にもたれながら、窓の外をずっと眺めていた。
 木目の窓枠に切り取られてぽっかり空いた空の向こう、河川敷沿いの平らな傾斜に、赤く放射状に絵の具を塗りたくりながら、夕暮が沈んでいくところだった。両脇に寄せられたカーテンから黄昏を切り裂くように飛び出したカラスのシルエットが黒く軌跡を描いて、カーテンの端へと消える。窓の外を遮るものが何も無いというのは、これほど気分が良いものなのかと、今更ながらに再確認した。
 いや、こんなことはどうだっていい。
 俯いて小さく溜息を吐くと、鬱積し、濁った胸の中の空気が少し漏れて、煙草のにおいが染み付いた部屋に紛れて消えた。
 酷く憂鬱だ。あと僅かで暮れてしまう陽を遠くに眺めながら、家に帰らなければならない事を思うと、身体が見えない何かに押さえつけられたかのようにこの場から動くことを否定しているのが感じ取れた。
 いつもの感傷が、僕の中に居た堪れない空気を創り上げている。
 視線を室内に戻すと、さっきまでソファに寝転んで野球中継を見ていた正人が、大きく伸びをしていた。トランクス一枚の半裸に、筋肉質な肩をタオルで包んだまま、リビングに続く廊下へペタペタ歩く音を響かせながら「かえらねぇのか?」と僕に問う。
 僕は小さく、いいやと答えた。
「なんだ、そのやる気のない声。かえりたくなさそうだな」
「…………そんなこと、ない」
 そんなことがある、とは口が裂けてもいえない。
「ふーん、そう……。まぁ、ことと場合によっちゃ、好きなだけ居ても良いんだぜ。お前が望むだけ、好きなだけ。オマエが帰ってやらねぇ限り、渚ちゃん一人が、あのひろーいおウチに残ってお留守番することになったとしても、な。こんな馬鹿アニキのせいで一人ぼっちの渚ちゃん。あぁ、なんて可哀想なんだ。一人ぼっちで夕飯食ったあとに、一人でテレビみて、一人でシャワー浴びた後に、一人エッチ? うわっ、想像するだけですげぇ胸が痛ぇや。なぁ、凪?」
 僕が居る白い部屋から廊下を挟んで隔てた洗面所に、正人の冷やかすような、くすくすと芝居がかった笑い声が響く。
 触られたくない傷を明確な意思を持って抉り取ろうとする言い方に、ムカついた。反論しようと喉元まで言葉がせりあがってきた。
「…………」
 ――畜生。
 勢いよく立ち上がって、正人が居る洗面所に殴りこもうとするが、やがてそれは行動に移されること無く、怒りと共に鎮火した。
 正人に面と向かって対峙して――その後、どんな文句を言ってやればいいのかわからなかったから。そして、また座りこんで俯く。
 静かに首を振って、頭を冷やす。
 これが、普段どおりの正人だ。
 斜め上から人を嘲笑うように的確に痛い部分を突いてくる物言いはいつもと変わっていない。そんな正人の発言に、僕自身怒りを覚えたというのなら、僕の中にある一番痛い問題点を突かれたと言うだけだ。
 もう一度溜息を吐いた。
 問題がある。
 そんなことは、とっくに分かってるさ。

 僕と渚は母が死んだ日を境に片親に育てられた兄妹だ。
 本来なら、同じ屋根の下一つで顔を突き合わせながら、互いに節度を保って、仲睦まじく、助け合って生きていかなければならない、かけがえのない血の繋がりだ。だけど、その繋がりは母親が死んでしまった日に僕の方から、脆く突き崩してバラバラにしてしまった。そんな壊れた兄妹関係と四六時中対峙しながら、渚と過ごすことが僕には耐えられない。
 傍らに居るべき渚の瞳をみられない。
 心が休まらない。
 何故、あの日あの晩、僕は妹を抱いてしまったんだろう、と今でも後悔している。
 もっと別のやり方があったはずなのに――
 もし願いが叶うなら、命と引き換えにしても良い。
 あの日の自分に戻って、過ちなど引き起こさず、今とは違った正しく正常な関係を渚に築いてあげたい。
 渚の中のまともな兄として彼女の傍に僕が居て、ずっと留まっていられるようになりたい。けれど、願いは叶わない。だから、僕は未だに過去を引き摺っている・
 渚の匂いを知らなければ、渚の肌触りを知らなければ、渚の心地よさを知らなければ僕は良き兄として、渚を守ってやることができるのに、渚の身体を抱く代わりに守ってあげているような気がして、臆病な僕は渚の傍に居ることさえできない。
 それはきっと、ずっと変わらない想い。
「……兄として、失格だな」
 そう自嘲して溜息を吐く。溜息を吐いた唇が微かに震えて、溜息の声も震えた。
「あれ、静かになったから帰ったのかと思ったら、泣いてやんの」
「泣いてない」
「あ、そう」
 俯けていた顔を上げて反論すると、僕を興味なさげに横目で流し見た正人は、冷蔵庫のノブに手を掛けた。取り出したミネラルウォーターを飲み干してから、僕の真正面にしゃがみ込んで、僕の視線を少し上から捉えた。
「あのさ、俺、オマエのコト親友だと思ってるからハッキリいうよ。オマエ、俺の家にずっと居たって仕方ないだろ? 大学時代に比べると今のオマエ、カナリ格好悪いぜ。世の中にゃ、男と女しかいねぇんだから、いつかは解決しなきゃなんねぇじゃん。そんなフツーの恋愛みたいにスッパリいくもんでも無いんだろうけどさ。オマエが渚ちゃんを抱いた時から渚ちゃん自体を、妹として愛しているのか女として愛しているのかなんて、どう足掻いたってぶつかる問題だったんじゃねぇの?」
 僕は正人と合わせていた視線を床に外して、曖昧に頷く。 
 それは、知ってる。
 ただ、僕には勇気がなくて、始まりの一歩を踏み出したまま、終りへの一歩が踏み出せないだけだ。
 ったく、お兄ちゃんは情けないねぇ、と肩を竦めながら立ち上がった正人が冷蔵庫を開けて何かを漁る。ぼんやりそれを見つめているとほらよ、と正人が言って、ビール缶を投げつけられた。
 小気味いい音がして、手元に収まる。
「景気づけにはなんだろうよ。良い子はそれ飲んだら帰りな。俺は今から夜のお仕事で一緒に遊んでやれねぇからよ」
「……例のホストクラブ?」
 正人は線が細く、女性に見間違えられるほど整った顔立ちをしている。
本人もそれを知っていて、与えられたルックスを生かした職業につくことが多い。ファッションモデル、バーテンダー、スタイリスト。幾つかの職を経て、一時期、事務所にスカウトされ、俳優への道を志していたみたいだけれど、才能が無いから、と言ってあっさり諦めた。その潔さは同性である僕の目から見ても格好良かった。
 その後、勤めていたのがホストクラブだった。
「いや、あっこはペナルティが嵩んだから止めた。遅刻とか欠勤のペナが厳しすぎるんだっつーの。ペナ二回で財布から諭吉さんが逃げていくんだぜ? やってらんねぇよ。これからの時代流行るのは女性専用デリヘルよん」
 丁寧にアイロン掛けされた水色のワイシャツに袖を通しながら、正人は襟元から、肩まである金髪をかき上げた。
「なぁ」
「あん?」
「赤の他人と肌を重ねるのって、どんなカンジ?」
 手元でビール缶を手持ち無沙汰に弄りながら正人の背中に問いかけると、正人は露骨に顔をしかめながら振り向いた。
「……オマエね、それを聞くかよ」
 うんざりだとでも言わんばかりに、ハンズアップすると、キッチンのカゴに無造作に放り込まれた林檎を不味そうに齧りながら、デザインチェアーの背もたれに手を掛ける。
「自分の事なんも言わねー癖に、他人の事は知りたいってか……まぁ、いいけどよ。強いて言うなら、楽しさとストレスが半々、てとこかな。他人がな、誰にも見せない表情を俺に見せるんだ。その優越感自体は楽しいけれど、心が重たくなるような悩みを聞かされるのは楽しくない。夫が居るのに上司と不倫してるんだ私、両親に国際線のスチュワーデスやってるって言ってるけど、実は風俗でバイトしてるんだ私。俺から言わせれば、何悩んでんだってカンジなんだけどな。みんな、傍に居てくれる人間には何も理解してもらえないと思ってる。その寂しさを俺みたいなロクデナシとセックスの快楽で癒そうとしてんだから間違ってる。でも、それを俺は言えない。このテの商売は裸のお付き合い以外に、夢のような春を売るのが最優先だからな」
「くだらねぇ……」
 正人の手から林檎の芯が放り投げられ、ゴミ箱に吸い込まれる様を見ながら呟くと、珍しくムッとした表情を浮かべる正人が目の端に居た。
「何がくだらねぇんだよ。オマエもそいつらとかわらねぇっつーの。オマエのその悩み、俺に言う以前に渚ちゃんと話し合うべきなんじゃないのか? あんな可愛いのに粗末に扱いやがって。それともなんだ。オマエ、俺に義兄さん、とでも呼ばれたいのか?」
「呼ばれたくねぇよ」
「渚ちゃん、要らなくなったらくれよ」
「殴るぞ」
「冗談だよ」
 正人はゴムを口に咥え、ロングヘアーを後ろ手でポニーテールに縛りながら目で笑う。紫一色に染まった窓から吹き込んだ夏風に、柑橘系オーデコロンの匂いが林檎の果汁の匂いが混ざって、鼻腔を擽った。
 僕はまた、溜息を吐く。
 窓の外から、夜の気配が忍び寄っていた。夕暮の斜光に仄明るかった室内は、夜の帳に覆われ始めていた。僕は、家に帰らなければならない。だけど、相変わらず気はすすまない。僕は、そんな自分にハッパをかけるように掌で頬を叩くと、ナップザックを肩に下げて立ち上がった。なんだか、家出を親に咎められるのが怖くて帰れずに彷徨い続ける子供になってしまったような気分だった。
 帰る場所はあるのに、帰れない。
 やり場無い、行き場の無い寂寥感が、僕を包んでいた。


               †


 夜に溶け込みそうなほど黒いジャケットに身を包んだ正人と、マンションの玄関先で別れる。地下駐車場に向かおうとした正人がふと振り返って、送っていってやろうか、と言ったけれど断った。少しでも良いから、心の準備がしたかった。
 正人のアパートがある静かな住宅街の傍、河川敷に掛かる橋を渡って、深夜にも車の流れが絶えない国道沿いに数分も歩くと、この界隈で一番大きな繁華街に出る。
 夜が終わっても、朝が来ても人並みの途絶えない光り輝く街並みは羨ましかった。何も無いくせに、自分だけにしかない何かがあるフリをして何も変わらない。パソコンショップのネオンにライトアップされたアニメのキャラクター、大安売りの看板を掲げるソフトショップのモニター、30分〜60分〜の文字が踊る風俗店のけばけばしい装飾で彩られた世界に、呼び込みの人間、カップル、大きなリュックを下げた男、何かを待ちぼうける女がひしめき合って澱んでは、流れていた。
 僕はその中を一人、俯きながら歩いていく。
 顔を上げると、通りすがりの人間の表情全てが僕の事を笑っている気がした。僕が、妹と関係を持ってしまうような弱くて、気持ちの悪い性癖を持つ人間だと知っていて、みんな僕にだけ知らないフリをして、僕の事を影で笑っている気がした。そんなバカバカしい妄想が、独りで人ごみをすり抜け、肩を擦れ合わせるたびによぎる。
 アスファルトの上で交差する人の靴の群れを見つめる目が、乾いて痛い。
 肩に下げたバイト先の衣服が入っただけのナップザックが身体よりも重い。
 まるで、どんよりと頭の中に靄がかかっているようだ。
 通りすがりのサラリーマンとOLのカップルが笑っていた。
 笑われた気がした。
 二人組みの女の子が携帯を弄りながら笑っていた。
 笑われた気がした。
 手提げ袋からポスターをはみ出させた男が笑っていた。
 笑われた気がした。
 その辺のゴミ溜まりになった路地裏にでも逃げ込んで、できるだけ人の群れとすれ違わないように顔を背けて歩きたかった。アスファルトの上を運ぶ足が妙に煩わしくて、まともに歩けず倒れこみそうになる。
 どうして人の道を外れた僕が人と同じ道の上を歩いているんだろう。
 ふと、立ち止まる。
 周りの人間が、時折チラと目線をくれながら、僕を障害物のように避けて流れていく。このまま天を仰ぎながら、
「愛していない人間を抱いてしまうのは可笑しいだろう!」
「妹とセックスするなんて可笑しいだろう!」
「さぁ、僕を笑え! 可笑しい僕を笑え!」
 そう叫びたかった。
 そして、道行く人が差し伸べる哀れみや蔑みの視線に塗れて僕はきっと安堵するだろう。世界から切り離され、どうしようもない自分自身の存在を確認しながら、心底安心しきったようにゆっくりと、静かに呼吸を始めるだろう。自分の中にある醜い姿を隠すことなく他人に曝け出して、醜いと認められることによって、僕は生きていける気がする。全てをリセットしなければ何も始まらない気がした。
 僕は、正常じゃない。
 それだけでいい。
 それだけでいいから、認めて欲しかった。
 それを、認める地点からもう一度、始めたかった。


               †


 五年前の夏休み。僕が生まれる前に記録された最高気温を更新した日。
あれがどんな日だったか、僕ははっきり記憶している。一番鮮明に覚えているのは、始まり。当時でさえ古く、型遅れだった回転式ダイヤルの黒電話が鳴り響いているシーンだ。
 渚と一緒に夏休みの課題に取り組んでいた、夕方だった。
 一日が終わる前に精一杯の力を振り絞って鳴く蝉の声に対抗するかのように、ジリジリジリジリと喚きたてる電話から、熱くて重たい受話器を取り上げた。
「はい、朝倉です」
「あ、もしもし。こちら府中総合病院、脳外科に入院されている朝倉陽子さんを担当している笠原というものですが」
「はあ」
「お父様はいらっしゃいますでしょうか」
「いえ」
 喉をつぅ、と汗の滴が伝う。嫌な予感に胃の奥が軋んだ。
 そんな僕の状態を知る由もなく、病院の人の声は淡白で、それでは保護者の方は居らっしゃいませんか?と聞く声さえ、どこか遠かった。
 いません、と答えた。
 すると、電話の向こうの人は僅かに言いよどみながらも、お悔やみ申し上げます、と母がつい先程息を引き取った事を告げた。僕はすぐ行きます、とだけ言って受話器を放り投げた。そのまま、暫く、蝉の声を聞いていた。
 気がつくと、心配そうな顔をした妹が僕の隣に立って、シャツの袖を掴んでいた。それで、僕はようやく、遠い世界からこっちの世界へ戻ってきた。ぼんやりとした頭を抱えながら、妙にだるくなった手で電話メモを捲る。隣に立つ妹の視線が注がれているのを知りながら、父さんの職場に連絡を入れ、麻痺してしまった感情が任せるままに告げた。
「母さんが死んだんだって」
 自分がその瞬間に吐いた、この台詞は一文字として消えずに胸に刻み込まれている。他に何を話したのかは雰囲気程度にしか覚えていないのに。その時は自分ではない視点が自分自身を天井から見下ろしているような錯覚に陥っていた。
 虚ろな無表情で渚に向かって、確認するようにその言葉を再度告げる自分。僕の言葉を聞いて、母さんが死んだという事実が現実だと知って、泣き出した渚。緑色の垣根に囲まれた縁側から地面に差し込む、赤茶と黒の陰影。入道雲をたっぷりのせた、オレンジ色の青空。激しすぎる蝉の鳴き声。湿った夏の風に揺れる風鈴の音。
 暑さの陽炎に身を包まれながら、涙は一滴も出ていなかった。
 ぐしゃぐしゃにシャツを濡らして、赤い目をした渚の手を引いて、病院行きのバスに乗り込んだときも、そして病室に横たわる母さんの安らかな死に顔を見たときも。病室のクリーム色の壁に、ブラインドの隙間から漏れ出した真っ赤な日差しが掛かっていた時も。
 夏の光が、ベッドの足の一本にも届いていた。
 僕はなんとなしにそれが母さんの命を持っていってしまったんだろう、と思った。母は、入院する前、見舞いに訪れたとき、楽しそうに話していた母と何も変わっていなかった。変わったのは、無菌仕様の白衣やマスクで身を包まなくても、病室に入ることが出来た僕と渚。そして、緑と黄色の波が揺れるグラフモニターが無くなっていたことだけだった。
 病院のベッドに置かれた母の眠る表情はいつもと変わっていなかった。
 ふと、僕の掌から、渚が零れて、母に駆け寄った。
 母の身体に駆け寄って、洗いたてのように白いシーツに顔を押し付けて、叫ぶような泣き声を押し殺して、押し殺せてやしないのに、押し殺したつもりで大声で、世界の果てまで届けでもするかのように、泣いていた。
 そんな渚と、母の亡骸を包む黄昏の斜光に塗れながら、僕ははっきりと明確な感情が沸きあがってくるのを感じていた。渚の温もりを残した掌を閉じたり、開いたりしてみる。
 ――もう、何も失いたくない。
 この現実で現実みたいじゃない世界で、唯一、確かな、感情。

               †

 夜遅く、父からの電話が、自宅に掛かってきた。
 父親は出張先に居たため、帰ってくるのは次の日の夜になると言った。
 受話器を置いた途端、僕を襲った空虚の感触を、僕は今でも覚えている。
 僕には、もう渚しか居ないんだと、僕は悟った。
 間違った真理でも、僕は知ってしまった。
 僕にはもう、妹以外に誰も居ないんだと。
 その日、初めて涙が頬を伝った。
 電気も点いていない暗い部屋の隅で、毛布にくるまって蹲る渚の隣に力無く腰を下ろした。渚に毛布の半分を貰って、それで自分を包んだ。僕と渚はガランとした居間の片隅で肩を寄せ合って、電気も点けずにじっとうずくまっていた。呼吸音が重なる音と、外で鳴いている虫の音だけが、僕の意識をぎりぎり現実に引きとめていた。僕ら二人以外に誰も居なくて、完結してしまったように静まる家の空気は夜の空気に澱んで、涙腺を悲しみで満たした。
 肩を寄せ合うだけでは、肌で温もりを感じるだけでは、互いの汗が一つになって溶け合うだけでは全然、足りなかった。僕は、無性に誰かと繋がっている証が欲しくて、渚の身体を強く抱き締めた。小さくて、華奢な渚の身体。強く強く抱き締めると折れそうなほど柔らかい癖に、骨の硬さが二の腕と、手首に触れた。指先で渚の頬に落ちた涙を拭ってやると、渚は振り返って、僕の瞳から頬に落ちた涙の滴を舐めた。舌の生暖かい柔らかさが刹那触れ、舌が離れると同時に冷たくなった。
 その後は、実際、よく覚えていない。
 渚の弱さにつけ込んだ自分の醜さに耐え切れず、本能が記憶を消去したのかもしれない。
 気がつけば、下半身をはだけた僕と、僕の下に倒れこんでぐったりとした渚の身体と青臭い臭いと、錆の匂い、固まった何かで性器の皮膚が突っ張る感覚だけが残っていた。僕は放心状態で跪いたその姿勢で性器が力無くダラリと垂れる重みに、心がどんどん沈んでいった。ぼんやりと目じりから涙を流す、渚の無残に爛れた性器をウェットティッシュで拭きながら、暗闇ですら判る黒みがかった赤を目にして罪の意識の塊になっていた。
 少年だった僕は、僕の中にある別の存在のように僕を見つめている。
 その行為をなした僕が少年であった僕にも関わらず、今の僕を蔑むように冷たい視線で僕を突き刺し続けている。


               †


 僕はあの日、妹を犯した。
 だから、今生きている僕は、あの日の与えられ苦痛を抱え込みながら、あの日の僕ごといつか僕自身の手によって殺さなければならない。
 そうすれば無くしてしまった綺麗な関係を、もう一度手に入れられるはずだから。そのためだけに僕は今を、生きている。後悔に溺れて自分への憎しみに耐え切れなくなった日も、たった一つの想いのためだけに生きている。
 これもきっと間違いだけれど、僕は逃げるわけには、行かないんだ。

「――お兄ちゃん、お帰りなさいっ!」

 玄関の扉を開くと、渚が僕の胸に飛び込んでくる。僕は、その重みをしっかりと抱き締める。その重みに、守らなければならない、大切な絆の感触を覚える。
 そう、僕は逃げない。
 こうして渚が、僕の傍に居続けてくれる限り。
 僕は、幾度自分の心が砕ける音を聞いても――

「ただいま」

 ――生きていける、気がするから――
  
 
2004/11/16(Tue)01:58:47 公開 / 覆面レスラー
■この作品の著作権は覆面レスラーさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
『Lost Heaven』も読んで頂けたら嬉しいですね。それと念のために、一つ言って置きますが僕は変態性的嗜好の持ち主じゃありませんから、ね。(言い訳するところが怪しいなどのツッコミは無しでお願いします)
この作品に対する感想 - 昇順
感想記事の投稿は現在ありません。
名前 E-Mail 文章感想 簡易感想
簡易感想をラジオボタンで選択した場合、コメント欄の本文は無視され、選んだ定型文(0pt)が投稿されます。

この作品の投稿者 及び 運営スタッフ用編集口
スタッフ用:
投稿者用: 編集 削除