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『It's a...』 作者:ドンベ / 未分類 未分類
全角2115.5文字
容量4231 bytes
原稿用紙約7.95枚


 彼女がファーストネームで呼ぶ男は、実は一人だけだったりする。
 もちろんそれは、彼女にとって彼氏と呼ばれる立場の男だ。


「い、痛い……」
 俺の目の前で彼女は転んだ。
 学校の校庭、夏と言うこともあり青々と輝く芝生の上に、情けない格好で膝をつく。
 俺はわざと大仰な調子で言う。
「足下をよく見ないからそうなる」
「こ、転んだのに怒られてる、わたし……」
「怪我は?」
「……優しくして誤魔化そうとしてる」
 見下ろす俺の顔を、非難気な視線が射抜く。
 その視線だけで、いつもの如く、俺は白旗を上げる。
「ごめん。ちょっと楽しかったから」
「……いいもん。わたし、どうせドジだもん」
「そんなところもなかなかに可愛い」
「ま、またすぐ冷やかす!」
 叫ぶように言って、彼女は立ち上がる。
 顔を真っ赤に染め、それでもまんざらではないような表情で、
「そ、そーゆーところ良くないと思う! わたしっ!」
「大好きだし。これくらいよくないか?」
「は、恥ずかしい!」
 大声での意思表示。
 それから周囲を見回し、身を縮める。
「……みんな見てる」
「見せたれ見せたれ。減るもんじゃあるまいし」
「……」
 無言で睨まれた。
 さすがにやりすぎたらしい。
「着替えてこいよ。時間、もうないぞ?」
「あっ」
 小さな悲鳴。
 校舎の壁にある時計を見て、
「ご、ごめんなさいっ! わたし――」
「行ってきなさい。わかってるから」
「うんっ」
 途端に笑顔になり、彼女は走り出す。
 校舎に入る間際、後ろを振り向いて、
「わ、わたしも結構大好き!」
「なんじゃそりゃ」
「待っててね!」
「……はーい」
 今度はこっちが恥ずかしくて苦笑した。
 一部始終を見ていた友達が歩み寄ってくる。
 そして、
「お前、辛くないのかよ」

 俺にとっての世界って存在は、世間で言われるほどの汚い場所ではない。
 夢中になれるものがあって、気持ちのいい汗を流せる場所がある。
 優しい友達がいて、大好きな彼女がいる。
 俺はその存在を、簡単に肯定できるのだ。
「……見てて痛いぞ」
 友達が言う。
「本人はそうでもないんだ、これが」
 微笑みながらそう答えを返した。


 ――彼女との馴れ初めは、二年前の春、部活で顔を合わせたあの瞬間に遡る。
 あの時からどうにも頼りなく、それでいて何事にも一生懸命な姿に、俺は惹かれた。
 そして簡単に惚れた。
 人より早く彼女との距離を縮め、その想いは加速度的に膨らんでいった。
 自分が得た、自分でも信じられないくらい純粋な気持ち。
 翌日から世界は輝きを増し、俺はその世界の一員であることが誇らしかった。
 辛いことも苦しいこともそれなりにあったけど、彼女の笑顔を見るだけで元気になれた。
 馬鹿だと言われれば……うん、たぶんその通りだ。
 俺は馬鹿みたく彼女のことが好き。
 それだけで、それ以外の全てがどうでもよくなるくらいに。


「……だっておかしいじゃんか」
 友達は言う。
 それだけ気づかってくれることを、素直に喜べる自分がいる。
「そりゃ他人のことだけど……それでもお前さ、もっとなんか他の方法ってあるだろ」
「俺、知らないから」
「……それが幸せなのかよ」
「これも幸せなんだよ」
 体操着から制服に着替えた彼女が、校庭に出てくる。
 やっぱり危なっかしい足取りで俺に近付き、

「ありがとう、先輩」
 俺を、そう呼ぶ。

「ごめんなさい……カバン、見ててもらって」
「言うでない。部室に鍵のついてない我が校が全て悪い。一々更衣室まで持っていくのも面倒だし」
「……辞書入ってて重いし」
「そういう魂胆があったのか」
「う、うそうそ!」
 慌てて手を振るその姿に微笑む。
 俺の隣で、友達はうつむいてため息をこぼす。
「お、お礼のジュース!」
 言って、彼女は缶ジュースをつきだした。
「珍しく気が利くな」
「いつもありがとうございます、先輩」
「世話した料金は後払いだったよな」
「は、初めて聞いた!」
 身を乗り出し、俺に向かって彼女は叫ぶ。
 その肩越しに、校舎の脇に現れた制服姿を見る。
「ほら、待ってるぞ」
 缶ジュースを受け取り、彼女の背後を指さす。
 途端に彼女の顔は赤く染まる。
「こ、校門で待っててって言ったのに……」
「文句は本人に言え」
「……うん」
 優しい表情で彼女はうなずく。
 それから、俺……いや、休憩中の部員全員に向かって、
「お、お先に失礼します!」
「早く行け」
「ま、また明日!」
 彼女は走り出す。
 小さな背中を見送っていた俺の耳に、その声は届く。

「ヒロくん!」

「……よく平気で見られるもんだね」
 友達はやっぱりため息をついた。
「好きな女の彼氏だぞ? 筋違いの嫉妬だって許されるだろうが」
「嫉妬してないからな、俺」
「あー、もう意味わかんねぇよお前」
「俺もよくわかってない」


 この感情の正体。
 それは本当に曖昧で確かめることすら困難だけど……でも、悪くない。
 悪い気分にはならない。
 この輝いた世界の中で、
「先輩」
 そう呼ばれる関係の中で。
 満たされているのかもしれない。

 心の底から好きなんだ。
 その先に考えが及ばないくらいにさ。

2004/05/07(Fri)21:16:01 公開 / ドンベ
■この作品の著作権はドンベさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
単純なラブストーリーです。
こんな人間がいてもいいんじゃないかと。
幸せの定義は人によって異なって当然だと、そんなことを何となく考えて書きました。
軽いのでぜひどうぞ。
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