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『茜色の葉書』 作者:和宮 樹 / 未分類 未分類
全角16198.5文字
容量32397 bytes
原稿用紙約50.7枚
 大学進学のための引っ越しの日、僕は一枚の葉書に出逢った。

『前略
  京介様、いかがお過ごしでしょうか?
  近々そちらに帰れることになりました。
  もし、よろしければ夕凪ヶ浜でお会いしたいです。
  日にちは三月一日。
  きてください。
                           弓華より  かしこ』

 ちなみに僕の名前は涼だから、僕当ての手紙ではないことは確かだし、そもそも引っ越したばかりの僕宛てに葉書がくるはずがない。
 と、そこまで考えてから、ふと葉書の内容を思い出す。
「三月一日、って、今日じゃないか!」
 葉書を後ろポケットに突っ込み、僕は夕凪ヶ浜目指して部屋を飛び出した。
 そして、僕は彼女に出逢った……。

「この辺り、だよな……」
 地図と道とを見比べながら、一人歩く姿は、はたから見ると結構間抜けかもしれない。
(卒業早々なにやってんだろ、僕)
 浜に向かう道がいまの道で間違いないことを確認し、地図を後ろポケットに突っ込む。 そこには一枚の葉書。
 暇だからって、郵便受けなんて開けるんじゃなかったと、いまさらながらに思う。
 ちょっと目を通し、ふたたび葉書をポケットに入れ……――
 ふと、何か変な感じがした。どう変かと聞かれたら困るけど……とにかく、妙な違和感みたいなものが、モヤモヤ、っと頭の中に浮かんで消えない。
 その、モヤモヤ、が晴れるよりも先に、目的地の夕凪ヶ浜は僕の前に姿を現した。
 さすがに三月の海にくるような変わり者はいないらしく、辺りに人気はまったくない。 おかげで彼女をすぐに見つけることができた。すぐに見つけたのだけれど……。
 それはとても不思議な光景だった……。
 誰もいない砂浜で独りたたずむ少女。暮れていく夕陽が落とす哀しげな影。ゆったりとした白地のスカートが茜色に染まって浜風になびき、肩より少し下にまで伸びた髪と優雅にワルツを踊っていた。
 僕は少しの間、その後ろ姿に見入っていたけれど、どこからか聞こえてきた海鳥の声に、ハッ、として、少しばかり大袈裟に足音を立てるようにして彼女に近付いた。
「京介!」
 ふいに、パッ、と彼女が振り向く。
 その瞳の端にうっすらと滲んだ涙。
「あ、あの……」
 お約束な自分の反応に心の中で苦笑しつつ、僕は彼女に話しかけ、
「あ!? ちょ、ちょっと!」
 彼女は口元を押さえながらその場を去ろうと歩き出した。
「ゆ、弓華さん、待って!」
 その言葉に、ハッ、として彼女は足を止め、驚きの表情で僕を振り返った。
「どうしてあなたが、わたしの名前……」
「あ!? あの、これ」
 驚きと警戒を表す彼女に僕は慌てて葉書を取り出し、彼女に渡した。
「そん、な……どうしてあなたがこれを!?」
 力なく膝をつき、葉書を握り締めながらすがりつくように訴えかける彼女に、僕はどうしてここにきたかを説明した。
「そんな……」
「プライベートなことだから、どうしようかと思ったんだけど、日時が今日だったから。教えなきゃ、って思って……」
 無言で座り込む彼女の姿が見ていられなくなって僕は目を逸らし、海へと視線を向けた。 茜色の世界、静寂と形にならない想いが漂う空間。
 ふと、心の中で、何かが動いた。
 けれどそれはすぐになくなり、僕は何か声をかけようと彼女に向き直り、
「あれ?」
 そこに彼女はいなかった。
 視線を外していたうちにどこかにいってしまったのだろうか。まあそれも無理のないことかもしれない。随分と落ち込んでいたみたいだから。
(もっとも、そんな心配をしても仕方ないか、他人の僕が……)
 僕はマンションに向かって歩き出した。
『他人』という響きにどことなく寂しさを感じながら。

 三月の夜はまだまだ早くやってくる。マンションに着く頃にはすっかり陽は暮れ、通りの家々からは美味しそうな匂いが風に乗って耳と鼻とを楽しませてくれていた。
 と、マンションのロビーに入ると、どこかで聞いた声が管理人室から聞こえてきた。
「すみません。ありがとうございました」
 丁寧にお辞儀をしながら管理人室から出てきたのは、砂浜の彼女だった。
 彼女は僕に気が付くと、口元に笑みを浮かべ、軽く会釈をした。
 僕は同じように頭を下げると、彼女にせっかくだから部屋に上がらないか、と勧めた。
 間違っても下心があったワケじゃない。ただ、そのときの彼女の笑みがとても頼りなかったから……まるで脆いガラスのように。
 窓際の壁に置かれた段ボール箱とコーヒーを飲むためのいくつかのキャンプ用品以外、何もない部屋。静寂をやぶるアイテムはコーヒーをすする音以外、いまのところない。
 沈黙は苦手じゃなかったけれど、このまま朝までこうしてても仕方ないので、僕は一口も口をつけていない冷めきった彼女のコーヒーにチラリと目をやって、話しかけた。
「どうして、ここに?」
「京介のいまの住所を調べようと思って」
 なんでもこういったところ――マンションとかアパートといった類いのところ――は、今回みたいな先住者宛ての郵便物などが届いたりしたときのために引っ越し先の住所を控えておくのだそうだ。
「それで、わかったの? その、京介って人の住所」
 すると彼女は膝の上に置いた拳を、キュッ、と握り、唇を噛んだ。
「もしかして、わかんなかったとか……」
 頭を横に振る彼女。
「わかったんだけど、場所が、遠くて……」
 彼女に住所を聞くと、ここから電車で半日以上もかかるところだった。
「わたしてっきり京介がまだここに住んでると思ってたからそんなところまで行くお金なんて持ってないし、それに時間も……」
「時間、って?」
 しかし彼女は俯き、肩を震わせたまま、僕の問いには答えなかった。
 また、沈黙が殺風景な部屋にやってきた。
「どうするの? これから……」
 返ってこない答え。そして、沈黙……。
 目の前の少女は俯き、ただひたすらに沈黙を続ける。まるで言葉を、話すことを、忘れてしまったかのように……。
 フッ、と瞳を閉じてしまうと、あの砂浜のときのように、また消えてしまう、そんな気がした。
 結局のところは他人事。いろいろと知ってはしまったけれど、無関係を決め込もうとすれば、できないワケじゃない。まあ、いますぐに追い出すつもりはないけれど。
――でも……。
 僕は他人と関わるのが好きじゃない。
 なぜかって? それは……。
「……手伝おっか? その人、探すの」
 こんなことをいってしまうから。
「え!? でも……」
「ここまで事情知っちゃったら、ほっとけないよ。お金は僕が貸してあげるから」
 そのお金は当面の生活費。家賃込みのヤツ。どれだけ数え直しても、他人に貸すことができるほどの余裕は、ない。これっぽっちも。
 それでも口から吐き出される言葉はそんな感じだ。
――いつも、いつも……。
 なにかにつけて僕は”いいこちゃん“を演じる。
 他人にいいように見られたいから、というのとは少し違う。僕が演じる理由は、
――傷つきたくない……、
 からだ……。
――他人に拒まれるのが怖い……。
――嫌われたくない……。
――独りになりたくない……。
 付き合いが永くなれば永くなるほど、その想いは強くなっていく。自分の昔を知っている者ほど。
 他人に干渉されることが好きではないくせに、他人の目ばかり気にしている自分。
 だから僕はここにきたのかもしれない。
――自分を知らない……真っ白な、この土地へと……。
「いこう」
 僕らは旅立った。
 彼女は京介という人に会うために。
 僕は”いいひと“であるために……。
 陽はとうに暮れ、空には名も知らぬ星が瞬いていた。


 橋を渡る電車の音に僕は目を開けた。
 どうやらいつのまにか眠っていたようだ。
 と、向かいの席から、クスクス、という笑い声が聞こえる。
 彼女は僕が起きたのに気付き、いったん笑いを引っ込めたが、すぐにまた笑い始めた。
(うわっ、ヨダレが垂れてる……)
 僕は慌ててハンカチでよだれを拭い、軽く咳払いをした。照れ隠しであることはいうまでもない……。
 僕らはいま電車に乗って、彼女、弓華の逢いたがっている京介という人が住んでいるはずの場所へ向かっている。
 念のためにと持ってきたポケットサイズの時刻表で調べると、今日中にその土地へ行くためのタイムテーブルは、いま乗っているこの電車がギリギリ、最終。
 電車に乗り込んでからそれに気が付いた僕らは、お互い、ホッ、としたあとなぜかおかしくなって二人して二駅ぐらいの間ずっと笑いが治まらなかった。けど、笑いながら、僕は頭の中で、彼女と二人きりで一泊過ごしたかもしれなかったことを考え、内心ちょっと、ドキドキ、していた。
 少しだけ、残念……かな。
 ……って、何考えてんだか、僕は。
 彼女はいま好きな人のところに行こうとしてるのに。
「弓華さんは、いままでどこにいたの?」
 暇そうに、ぼおっ、と車窓から見える夜景を眺めていた彼女に僕はそう尋ねた。会社帰りの眠りこけたおじさん二、三人しかいない車内に、僕の声は電車の規則的な音と振動に調子を合わせるかのように自然に彼女の耳に届く。
 彼女は一度僕に視線を向け、またもとのように外の景色に目を移した。
「外国に、一年くらい、かな……」
「へぇ、留学? 帰国子女なんだ」
 彼女は、髪を一筋人差し指に絡めてクルクルしながら、窓に映った僕に不思議な笑みを向け……、
――痛む……胸の奥。
「そういえば涼くんって旅とか好きなの?」
 簡単な自己紹介は駅に向かう途中にすませてあった。相手の名前を知っておきながら自分は名乗らないなんて失礼と思ったから。彼女が僕の名前を下で呼ぶのは、僕が、最初に弓華という下の名前を知ったせいで改めて上の名前で呼ぶのに何となく変な感じがしたからだ。
「ん? どうして?」
「だってキャンプ用品いっぱいもってるみたいだったから。やっぱりそういうのってキッカケとかあるのかな?」
 確かに彼女のいうとおり、僕は旅をするのが好きだった。なぜなら、旅の間は知り合いと関わらなくていいから……。
「べつに……なんとなく、だよ」
 彼女は僕の答えをどうとったのか、不意にまったくべつの話を切り出した。
「京介とわたしが初めて出逢ったのは、高校にあがってしばらくたったころだったわ」
 両手をシートにつき、足をブラブラさせる彼女。自分の爪先を見つめるその瞳には、仕草とは裏腹な大人びた、そして昔を懐かしむやわらかな光があった。
「どこの部活にもはいってなかったわたしは、放課後の屋上で暮れていく陽を眺めるのが日課だった……」
 電車の揺れに合わせて軽やかなステップを踏む黒髪。
「いつもと同じようにわたしの横に、スッ、と寄ってきて、カレ、こういったの。
『風邪、ひくよ』
 って……。
 これから夏にはいるって時期に風邪ひくよ、なんて、ヘンな人だと思わない?」
 彼女はおかしそうに、クスクス、と笑っていたけれど、その笑みは外の凍て付くような冬の寒さとはまったく反対の、春の陽のようなあたたかさとやさしさを含んでいた。
 スッ、と顔を上げ、遠くを見つめる。きっとその先にあるのは過去の思い出と茜色の空。
「やさしかった。ホントに……」
 不意に雫をたたえ始めた瞳に、僕はあわてて話題をそらそうとした。
「弓華さんが留学したのっていつなの?」
 と、いってから自分が馬鹿なことをいったことに気付く。留学、イコール京介と別れることを意味するのだ。
 自分の愚かさに頭を、ガシガシ、と掻く僕に、一瞬、キョトン、としてから彼女は笑みを浮かべ、
「もっと前から予定はあったんだけどね」
 ふと気付くと、電車がスピードを落とし始めていた。どうやらそろそろ駅に着くようだ。たしか次は終点で、乗換えをする予定。
 停車する前に時刻表をチェックする。
 時刻表から目を離し、彼女を眺めると、
「え!?」
 僕の正面にいたはずの弓華がいなかった。――また、消えた……。
「どうしたの?」
「え?」
 ドアにもたれかかっていた彼女が不思議そうな顔をして僕を見ていた。
 いつのまにか彼女は席を立っていたようだ。 そりゃそうだ。人が突然消えるわけがない。
 でもいつのまに席を立ったんだろう?
 初めてあったときもそうだったけれど、彼女は異様なくらい存在感が薄い。
 人一倍他人を意識する僕が感じることがほとんどできないほどの存在感……。
 極端にいってしまえば、そこに”人はいない“という感じ。
 やがて電車は完全に速度をなくし、僕らは両の手で足りるほどの人しかいないホームに降り立った。

「はい、コーヒー」
「ありがとう」
 三月に入ったとはいえ、まだまだ夜は冷え込む。渡された缶コーヒーの火傷しそうな熱もいまの身体にとってはありがたい暖かさだ。
「あれ? 弓華さんのぶんは? お金、わたさなかったっけ?」
「ううん。わたしはいらないから」
 遠慮してるんだろうか? でも、上がワンピースとシャツ、ストールだけという彼女の格好はどう考えても僕よりも薄着だ。
 自分の飲みかけのコーヒーを彼女に渡そうとしたが、彼女はいらないといって断った。
「でも、冷えるよ?」
「ホント、いいの。わたしには必要ないから。それとも、そんなにしたい?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なにを?」
「か・ん・せ・つ・キ・ス」
「あ!? いや、その、えと……」
「フフ、冗談よ、冗談」
 まるで年上の女性にからかわれた感じだ。
 カッコわるいな〜、まったく……。
「電車、遅いわね」
 ホームの白線の上に立ち、後ろ手に指を絡ませ、覗き込むように左右を眺める。
 こうやって誰かの一挙一動を眺めることなんて、随分となかったように思う。
「うん。あと十分くらいだったと思うよ」
「ふ〜ん」
 クルリ、とスカートの裾をひるがえしながらターンしてまた僕の横に戻ってくる。
 東京駅ほどではないけれどかなり広いホームには、僕と弓華の二人。
 眼下に見える駅前の街並みは、鮮やかなネオンに彩られている。下よりもホームの方が明るいのがなんとも妙な感じだった。
 明るい中の静寂がこれほどまでに寂しく思えるのはこれが初めてじゃない。伊達に何度も旅はしていないから。
 けれど弓華はこの静けさにたまらなくなってきているのか、両肩を抱きかかえ、うずくまり少し震えていた。
「はい……」
 コートを彼女の肩にかける。
 彼女は戸惑ったように僕を見上げた。
「やっぱり、冷えるから、ね……」
「……ん」
 あいかわらずの”いいやつ“な行動だと思ったけれど、悪い気はしなかった。
 再びやってくる静寂。けれど、それはさっきまでのものとは違う、温かな静けさ。
 僕は彼女に惹かれ始めているのかもしれない……。
 出逢ってまだ半日も経っていないのに。
――彼女には好きな人がいるのに……。
 頭が疑問を投げかける。
 彼女のどんなところに惚れたのかと。
 理性が理屈を求める。
 おまえの恋はそんなに簡単なものなのかと。 そして心の中の自分がこう語る。
――彼女には好きな人がいるのに……。
 と……。
 不意の入線のベルがホームに響き渡る。
 それからほどなくして電車がやってきた。これに乗れば目的地まで行ってくれる。
 僕らは立上がり……、
「きゃ!!」
 まったく不意の突風が僕らを襲った。
 僕は少しよろめいた程度。けれど弓華は、
「大丈夫!?」
 突然の風が羽織っていたコートを目一杯はためかせてしまい、堅いアスファルトの地面に引きずられるように膝から倒れてしまった。
「大丈夫、それより電車」
 そうだ、とりあえず電車に乗り込まないと、これに乗れないと野宿――
「あ!?」
 彼女の手をとって電車に走ろうとしたそのとき、彼女が何かに気付いて立ち止まった。
「どうしたの、はやく!」
「コートが、階段の下に」
 よりによって僕のコートがホームに上がるための階段の一番下まで風に飛ばされていた。
 そして、電車は無情にも、定刻通りに発車していった。
「ゴメンなさい……」
 弱々しい声。
 弓華は僕を見上げ、眉寝をちょっと寄せて、それから頭を下げた。
「いいよ、べつに」
 乗れなくて困るのは弓華で、僕は逆に……。
「それより、膝、だいじょうぶ?」
 と、彼女のケガのことを思うとふいに強烈な不安が僕を襲った。
「大丈夫、なんともないわ」
 彼女は一瞬、ビクッ、として平常を保とうと目一杯の努力をしたけど……はっきりいって、動揺が引きつった笑みのせいでまるわかりだった。
「ちょっと見せてみて」
 かがみ込み、スカートをたくしあげようとする。落ち着いて考えればかなり危ない行動だけど、このときの僕は不安が先立ってそんなことなどお構いなしだった。
「ダメ! 大丈夫だから」
 スカートに手が掛かるより先に、しゃがみ込んで膝を押さえる彼女。
「そんなわけないだろ、あんなに派手にコケたんだから!」
 なぜかかたくなに膝を見せようとしない彼女に疑問を感じるよりも、僕は心の中で膨れ上がった不安で半ば強引に彼女の手をのけた。
「ダメ!」
 手の下から現れたのは、アスファルトの黒い泥と紅い血が滲んだ、痛々しい擦り傷。
「ほら、こんなに血が……」
 僕はポケットからハンカチを取り出し、傷口に巻いた。
「あ……」
「いいからいいから。それより、とにかく駅をでよっか? もう電車ないし」
「ゴメンなさい……」
 僕は軽く笑みを作ってみせ、彼女を立ち上がらせると、二人してホームを後にした。
 
 駅近くに公園を見つけ、巻いたハンカチを一度とり、水で湿らせてから怪我を拭く。
「しみる?」
「ううん……」
 弓華はスカートを膝の少し上までたくし上げ、裸足になっている。寒いかもしれないが、最初に水で軽く傷口を洗い流すときに足先まで水が滴って靴が濡れてしまうといけない。
「寒い?」
「ううん……」
 さっきから彼女はあまり話さない。電車に乗れなかったことを気にしてるんじゃないみたいだけど。なんといったらいいのか、変な言い方かもしれないけど、不思議そうな表情をしている。傷を、ジッ、と見て。
「ゴメンね。ハンカチ」
 傷を拭き終わると、彼女はそういった。
「だからいいって」
 ハンカチを洗い流してから、また傷口にあててずり落ちない程度に縛る。
 それから僕たちは公園のテントウ虫ドームの上に座って、何をするでもなく、景色を眺めた。と、いっても、眺めるほどの風景はそこにはなかったけれど。
 さっきまでの漠然とした、それでいて強烈な不安感はいまはもうなかった。
 あれはなんだったんだろう……。
 とにかく、電車がなくなったいま、きょうはここで一夜を明かさないといけない。単純に金銭的なことを考えたのと、なにより彼女と“泊まる”ということに抵抗、ではないが、引け目を感じたからだった。
 夜の公園は妙に寒々としていて、こんな状況でなかったら、あまりいる気にはなれない。ポツン、と公園の入り口に立っている電灯は、辺りの雰囲気を和らげるどころか、逆に公園の寂しさを増すだけ……。明りに照らされた錆びたブランコや鉄棒は、荒涼感すら漂わせていた。
 ヒュッ、と音を立てて、風が弓華の髪をなびかせる。裸足でテントウ虫ドームに腰掛けた白い服の彼女は、どこか奇妙で、そして綺麗だった。
「中に入ってきょうはもう寝よう。明日は朝一の電車に乗るんだから」
 そういって、拾ってきたダンボールをドームに敷き詰め、僕らはたいした会話もしないまま、眠りにつくことにした。
 なんだか浮浪者の気分……。
 そして横になろうとしたとき、
「ねぇ……」
 彼女が話しかけてきた。
「なに?」
「えっと……ううん、なんでもない」
「なに、いいなよ」
 一度話をフラれると気になるものだ。
 彼女は膝を抱え、少しためらい、
「みえなかった?」
 と顔を半分スカートにうずめながら、そんなことをいった。
 いいたいことがよくわからず、表情だけで、何を? と聞き返す。
「だから、その……ホームで、ね、スカートおもいっきりめくったとき……」
 ポソッ、と、
「パンツ……」
 暗闇で弓華には見えなかっただろうけど、そのときの僕の顔は熟れ過ぎのリンゴよりもまだ赤い顔だったと思う。
「みえてないって、そんなの! いいから早く寝なよ、明日早いんだから!」
 そんなの、といういいかたもひどい気がしたけれど、僕は、パッ、と彼女に背を向けて横になった。
 どんなふうに彼女がとったかはわからないけど、すぐに彼女も横になり
……そして、
「ありがと……ハンカチ」
 コートは貸したままだったけれど、不思議と寒くはなかった……。

――そこはいつだって純粋な空間だった。
――自分を実感できる場所だった。
――打ち寄せる波の音と肌を刺す潮風。
――茜色……空……海……。

 寝返りをうったときに、ダンボール越しに肩の下に小石の感触が伝わってきたせいで、僕は目が覚めた。
(あれ? 弓華さんは……)
 隣で同じように寝ていたはずの彼女の姿がそこにはなかった。
(まさかまた消えたんじゃ)
 べつにいままでも消えたことはなかったのだけど、そんなふうに思ったとき、ふと、ドームの穴から差し込む月明りに影がさしているのに気付いた。
 ドームの外に出て、彼女を見た。
 微かな月明りの中、彼女は膝を抱えて顔をうずめ、白い服は月光の加減で青白く燐光を放っているように見えた。
(綺麗だ……綺麗だ、けど……)
 僕には彼女がとても小さく、弱々しく見えた。
 活発というほどの明るさではないけれど、昼下がりの陽光のような明るさ。物静かと思えば悪戯な茶目っ気をだしてみたり、意外と頑固だったり、不意に塞ぎ込んでみたり……。
 ちょっとした違いの一つ一つが、僕の心を不思議と惹く。
――惹かれて……
「京介……」
 不意に彼女がとても遠い存在になる。
 彼女は顔を伏せ、震え、そして、泣いていた。
 逢いたい人を想って……。
 僕は何もできずにいた。僕にできたのは彼女に気付かれないようにドームの中に戻ることくらいだった。
 いまは、出るべきじゃない。
 いま出て彼女に触れていいのは、きっと京介という男だけだ。赤の他人である僕が、触れてしまってはいけない。
 それは彼女のことを想うがゆえ……。
 そう、彼女のため、なんだ。彼女の……。
 僕は彼女を京介のところへ連れて行く。
 それが、僕にできる彼女への想いの証しになる、きっと。
(絶対に彼女を京介さんのところに連れて行こう)
 それは哀しみと、想いのため……。

――足をブラブラさせる仕草……。
――髪を、クルクル、とするクセ……。
――お気に入りの白のワンピース……。
――走れない……。

(寒いな、やっぱり……)
 再び僕は眠りについた。


 翌朝、予定通り朝一の電車に乗り込み、僕らは目的の駅を降車した。それからまず、コンビニエンスストアに寄って、この辺りの地域マップを買う。
「弓華さん、だいじょうぶ?」
「……え? ん、なにが?」
「いや、なんかさっきから顔色悪いから」
 起きてからここまでの彼女は、逢ってからいままでの中で一番明るかった。はっきりいって。京介さんにどんどん近付いていっているのだから当然といえば当然だとは思うのだけど……。ただ、近付くにつれて、彼女の顔色が悪くなっていくのが気になってしかたなかった。それにときどき話しかけてもすぐには反応せずに、ぼお、っとしていることが多くなっている気もする。
「べつに、なんともないわよ。ぜんっぜん元気!」
 そういって、むん、っと力こぶをつくってみせる。
 空元気には見えない。やっぱり僕の思い過ごしなんだろうか。
「どうでもいいけど……通勤ラッシュの時間だから、あんまり目立つこと、しないでね」
 見た目にかわいい女の子が、仁王立ちして力こぶつくっている様に、街中でキリンでもみたような顔をして、通り過ぎて行く人々。
「や、やだ!」
 パッ、っと顔を赤らめて捲っていた袖をおろし、彼女は逃げるように歩き出した。
「なんだかなぁ……」
 彼女のそういうところが……いや、やめよう。
「弓華さーん! そっち逆方向だよー!」
 と、いうことで彼女のお願いもあって、取り敢えず人通りのほとんどない朝の海岸線に移動――けっこう恥ずかしかったらしい――。
 そこで地図を調べる。目的地は歩いて行けない距離じゃないみたいだ。
「さて、じゃぁ行こうか」
「うん。でもその前に」
「どうかした?」
「いい景色だと思わない?」
 腰くらいの高さの防波堤に肘をついて弓華は海を何か感慨深げに眺めている。
 朝靄が薄れ、朝焼けと朝陽とがまるで潮の満ち引きのように、寄せては返していた。
 海のその身は一刻、また一刻、微妙に色を変え、囁くような声音は永きに渡る追憶の日々の想いを馳せるかのよう……。
「不思議よね……海も、空も、その土地々々によっていろんな顔を持っているけれど」
「そこにあるのは、やっぱり海と空。どんなにそこに違いを見つけようとしても……」
 ハッ、として彼女が僕を振り返る。
 僕は、いま……何を……。
「この、景色のせいかしら……」
 一瞬の心の共鳴。
 次の言葉が自然と口をついて出てくる。
 わかる……その言葉の続きが。
「行こうか」
 けれど僕はその続きを口にすることはできなかった。口にしようとした瞬間、脳裏に昨日の彼女の寂しげな姿がよぎったから……。
――彼女を、京介さんに逢わせなきゃ。
 その考えが、僕を思いとどまらせていた。
 大きいとも小さいともいえない街を、地図を頼りに僕らは歩いていたのだけど、
「ほんと、だいじょうぶ?」
 どうも弓華の様子がおかしい。肌の色は最初に見たときから透き通るように白いとは思っていたいたけれど、どちらかというといまは青白い。
 けれど、本人はいたって、
「心配症ね。なんならこの商店街抜けるまで競争してもいいわよ」
 そういって笑い返す。その言葉が僕にどれほどの不安を生んでいるか気付かずに。
 けど、何か……何かが引っ掛かっていた。
「どうかしたの? 涼くん」
「いや、いこう。もう少しだ……」
 一歩一歩が妙に重い。
 開店にはまだ時間がある商店街は、異様な静けさをはらんでいて、僕らの足音だけが無機質に響いていた。通りを挟んだ店をつなぐように造られたアーチ型アーケードが、仄暗い洞窟を連想させ、出口へと向かっているのに、僕にはまるで洞窟の奥深くに潜り込んで行っているようだった。
 その奥には……。
 唐突に陽の光が瞳を刺し、僕は眩暈を少し感じながら、辺りを見回した。どうやら商店街を抜けたらしい。
 いつのまにか隣の弓華がいない。
 彼女は僕よりも遥か前を歩いていた。
 不安がまた僕の胸を締め付ける。
 それは恐怖にも似た感覚で、僕は走り出さずにはいられなかった。
 遠くに見える彼女の姿が朧気な、霞のように感じられ、僕は全力で走る。けれど、近付くどころか、その距離はどんどん引き離されていき、ついには見えなく……。
「涼くん?」
 気が付くと僕は彼女の隣にきていた。
 全身から、ドッ、と冷たい汗が吹き出す。痛いくらいに動悸が激しい。
「どうしたの? 気が付いたら後ろのほうで立ち止まってるし、かと思ったら全力疾走してくるし……」
「あ、いや……靴の紐がほどけちゃって」
 心配そうな顔。気遣ってくれている……。
 たったそれだけのことが、うれしかった。
 無理に演じなくてもすむ、意識しなくても、彼女は僕のことを気に掛けてくれる。うぬぼれでもいい。自信過剰でもいい。そう思える存在が、僕にはいままで……。
「ここだ」
 住所と地図とを確かめる。
 中に入り、階段脇の郵便受けから確かにここに住んでいることも確認する。
 いよいよこの短い旅も終りを告げてしまう。
 そう思うと、彼女に対する想いが言葉を紡ぎそうになったけど、彼女の喜びに満ちた顔がそれを押し止める。結局のところ僕は”いいやつ“しか演じれないのかもしれない。
――じゃあなぜ、彼女のためにここまで?
 弓華は軽い足取りで階段をかけ上がっていく。顔色が悪いのはあいかわらずだが、満面の笑みで、瞳は喜びの涙で潤んでさえいる。
 部屋の前。僕は彼女より一段下がったところで彼女を見ていた。彼女は両手を胸の前に組んで深呼吸をし、ドアのノブに手をかけ、
 と、そのときだった。
「おい、はやくしろよ」
「はーい! おばさん、おじゃましました」
 中から男女の声がしたかと思うと、ドアが内側から開かれ、
「京介くん、今日はどこいくの?」
「そうだな、ん?」
 男は腕に一人の女性を絡ませたまま自分を見つめて硬直している弓華に気付くと、
「どちらさま?」
 一言――
 その一言は彼女の何かを打ち砕いた。
たった一言、たった、一言……。
「弓華さん!」
 彼女は口元を手で押さえながら、階段を駆け降りて行った。
「弓華、だって!?」
 僕は振り返り、京介の胸倉を掴むと、
「あんた、なんであんなこといったんだ!」
 あれだけ、外国から帰ってきて、ここまでずっと彼のことを想い続けながら旅してきた彼女。深夜に、一人うずくまって泣きながら名前を繰り返していた寂しげな姿。
 くやしいほどの想いが、短い旅の中で僕の心に伝わってきていた。それなのに……、
「あんたは、あんたは……」
「そうか、弓華だったのか……」
 京介は自分の横にいた彼女に部屋の中で待っているよういうと、ドアを閉めて、階段に腰掛けた。
 僕はすぐにでも彼女を追いかけたかったのだけれど、彼がそれを止めた。
「わからなかったな……」
 膝の上に肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せ、呟く。
「そういわれると、あの頃と髪の長さが違うくらいで、外見はあまり変わりなかったな」
「じゃぁどうして、すぐに彼女だと気付かなかったんですか」
 彼は、ちょっと考えた後、不確かな答えを手探りするように答えた。
「彼女らしくなかった……とでもいえばいいのかな。さっきの彼女はあまりに、その、なんというか、存在感がなかったんだ」
 その言葉を聞いて、ハッ、とする。
 この人も僕と同じことを感じたのだ。
「弓華はとりわけ元気とか、活発って感じの娘じゃなかったけど、存在感だけは人一倍あったんだ。積極的に行動するタイプじゃないけど、気が付くと、彼女が中心になっていたり、そんな感じだ」
 あれ? それって、どこかで……。
「涼くん、っていったね」
「はい……」
「僕が、弓華を忘れて他の娘と付き合っていることに腹がたつかい?」
 無言で頷く。
「だろうね……でも……」
 視線を階段の狭い踊り場に向け、
「弓華は、僕のことを好きだったワケじゃないんだ。僕に好意を持ってはいたけれど、それとは別に、常に僕に誰かの面影を重ねていたふしがあった……」
 懐かしげな、そして寂しげな吐息を、フッ、と吐く。
「いつ、どこだろうと、自分は自分。けど、今の自分はこの瞬間にしかいない……」
 その言葉は……。
 京介は立ち上がり、ドアに手をかけ、
「弓華は高三になったとき、もともと弱かった身体がさらに悪くなって、外国の病院に入院するために日本を離れたんだ。あの様子だと、もう治ったんだろうな」
 身体が弱い……?
「さて、そろそろ戻らないと、今度はあいつが泣くから」
 そして彼はドアの向こうへと消えていった。 何かがわかりかけていた。いや、初めからそれはわかっていたことなのかもしれない。 僕は走った。洞窟のような商店街を、地図を買ったコンビニを、二人で眺めた海岸を、思い付く限りの場所を……。
 しかし、彼女はどこにもいなかった。
 無一文の彼女が電車で帰れるはずがない。この街のどこかにいることは確かだ。
 やがて、太陽が頂上にさしかかる頃、僕は砂浜で寝転んでいた。コートが砂だらけになるのも構わず、大の字になって。もっとも、走り回っていたおかげで、汗がコートにまで染み渡っていたので、いまさらどうでもいい感じもしたけど。 全身の疲労が睡魔となって、僕の瞼に襲いかかる。心地好い潮風と、BGMとしてはなかなかの潮騒を耳にしながら、僕は深い眠りの回廊へと誘われていった。
――どれだけ自分を変えようと思っても、結局、自分は自分。変われないのよ。
 知っている……この言葉、この声。
――心配症ね、涼くんは……。
 茜色の空と、大人びた少女。
――転校するの。お父さんがもっといい環境のところに引っ越そうって……。
 病弱で、でも、明るい少女。
――わたしもね、あなたと同じなの。いつも他人の瞳ばかり気にして……。
 髪を指に絡ませるクセ
――でも、あなたには、違う……。
 瞳を開くと、誰かが僕を覗き込むようにして見下ろしていた。夕陽の逆光と瞳を開けたばかりということもあって、相手の顔はよくわからない。でも、それが誰かはわかる。
「ようやく起きた? 居眠りくん」
 軽く砂を払い、立ち上がる僕。
「やっと思い出せたよ……」
「え?」
 キョトン、とする彼女。
「ゆか……」
 その言葉に、彼女は金縛りにでもあったみたいに、ビクン、として僕の顔を凝視し、
「そう、だったのね……」
 スッ、と視線を落とす弓華。
「なんでいままで忘れてたんだろうな」
 彼女を柔らかく包み込む、茜色の空と海。 閉ざされていた記憶が、ゆっくりと……布に水を落としたように広がる。
「名前を聞いてもなかなか思い出せなかったはずだよ。あの頃のゆかは満足に走ることさえできなかったんだから……」
 そっと手をのばし、彼女の頬に触れる。
 僕に気付くと決まって走ってそばに寄ってくる彼女を心配してたしなめていた頃を思い出す。僕の中の時間が止まった彼女は、走れない、病弱な女の子……。
 と、弓華は身を引いて海へと歩き出した。
 波打ち際に近付き、僕は足を止め……
「ゆか……?」
 そのまま海の中に入っていく弓華。
 海水が膝までつかるあたりで振り向き、
「もう、時間がないわ……」
「なに、いってるんだ……?」
「わたし、いま病院のベッドの上にいるの」
 唐突な言葉に僕はそれを理解できずに……いや、本当はわかりかけている。けれど、心がそれを拒否しているのだ。
「なに、いってんだよ、ゆか」
 気付けば僕は濡れるのも構わず、海の中に入っていっていた。
 そして手をのばし、彼女の頬に触れようと、
「そ、んな……」
――すりぬけた……。
 確かにさっきは感触があったのに……
――触れることができない。
 それだけで、その事実だけで、僕はすべてが終わった気がした……。
 そして弓華は語り出した。
「わたしは四日前、心臓の手術を受け、そして気付くとわたしはあの夕凪ヶ浜に立っていた。手に、回復したら出そうと思っていた京介宛ての葉書を持って……どうしてかはわたしにもわからなかったけど、それを直接郵便受けに投函し、そしてあなたと出逢った……」
 そういえば、よく思い出してみると切手は貼ってあっても、どこから出されようとそこに当然あるはずの消印がどこにもなかった。最初に感じた違和感はあれだったのだ。
「最初は京介に最後に逢うチャンスを神様がくれたのかと思った。でも違ったのね……」
 そういって、弓華は柔らかく、そして微笑んだ。……哀しげに。
「あなたに、逢うためだったのね……」
 叩き付けるような浜風で僕のコートは大きくはためいたけれど、彼女の髪や服は少しも乱れることがなかった。
「でも、そのことがバレないようにするのって結構大変だったのよ」
 弓華の言葉が右から左へと流れていく。
 あるのは確かな事実の認識……何も感じられず、泣くことさえもできずに……。
「コケたときなんかアセっちゃったわ。だって、いまの身体で怪我なんて、できるのかどうかわかんなかったから。でも食べ物とか寒さとかを感じないのはけっこう得かもね」
 そのとき、
「ゆか!?」
 一瞬、ほんの一瞬だったけど、弓華の身体が、消えたのだ。
 心臓にナイフを突き立てられたとはこういうときのことをいうのだろうと僕は思った。
 絶望という名のナイフが、油断なく僕の心を狙っている。
(この、感覚……まえにも)
 「もう、ほんとに時間みたいね……」
 弓華の身体は、スッ、と浮いたかと思うと、海面すれすれを滑るように、後ろに引いていった。
「もう、お別れね……」
――別れ……。
 頭の奥の方で、何かが砕けた。
 次の瞬間、
「ゆか――!!」
 僕は濡れるのも構わず、海の中に駆け出していた。
「涼!」
(あのころも、そうだった……)
 いますべきことが、僕にはある。
(神様、まだ、まだ弓華をつれていかないで。あと少し、ほんの少しの時間でいいから、僕に、僕に時間を……)
 弓華のそばまで近付いたとき、海水は僕の胸の辺りまでの深さになっていた。
「涼! ダメ、はやく岸にあがって! そんなことしてたら」
 海面に立った弓華が、瞳一杯に涙を浮かべて、僕に叫ぶ。
 僕は頭を横に振って、
「いまいわなくちゃ。あのときにいえなかった、そしていまもいえずにいたことを……」
 いつも他人のことばかり気にして、何一つ自分の意見を主張しようとしなかった僕。
 他人に疎ましく思われるのが、嫌われるのが、そして何よりも、自分が傷つくことを恐れていた……。
(だから僕は恋をしなかった)
 恋は、他のどんなことよりも傷つけ合うことが多いから。
――どれだけ自分を演じてみても……。
 あのときも僕は別れ行く彼女に何もいうことができなかった。
――転校するの。もっといい環境のとこへ。
 そして、ひたすら僕の言葉を待ち続けた彼女は、微笑み、去っていった。頬を濡らし。
――バイバイ……。
 溢れ出る雫で顔が、ぐしゃぐしゃ、になっている弓華。心から僕を心配してくれる弓華。子供っぽい仕草と大人びた雰囲気を合わせ持つ弓華。
――弓華 ユカ ゆか――
「お願い! 早く岸にあがらないと!」
 春にはまだほど遠い季節。海の水は、ぞっ、とするほど冷たく、気を抜くとそのまま海に飲み込まれていってしまいそうだ。服はすでに氷のよう冷たい重りでしかなく、僕の体温を急激に奪っていく。
 けどそんなことは問題じゃない。この先のことよりも、いま一番大事なのは……、
「涼、お願い! もうこれ以上、ここにいちゃダメ!」
 海面から、僕の目線の位置にまで弓華は降りてきて、もう自分の意思で身体を維持することができないのだろう、触れることのできなくなった手で一生懸命僕を岸に押し戻そうとしている。
「ゆか……」
 止めどなく流れる雫。夕焼け色に染まった涙はとても温かく感じられる。それだけで彼女の想いのすべてが伝わってくるようだ……。
 過去、別れ行く彼女にいえなかった言葉。 現在、想っている人がいるからと自分をだまし続け、怖くていえなかった言葉。
――たった一言……
「好きだ……」
 唇を重ねる。
 触れることはできなかったけど、確かに。
 永い、永い刻を経て、やっと手に入れることができたもの……。
 ほんの一握りの素直な自分が与えてくれる何ものにも代え難いやさしさ……。
――たとえそれがつかのまのだとしても……。
 スッ、と身体を引くと、待っていたように、彼女の身体は透け始め……
「…………」
――そして、消えた。
――いままでの中で、一番の笑顔を浮かべたまま……。
  波間に漂う一枚のハンカチを残し……。
 茜色の世界。無音の時間。

 そして数カ月後、一枚の葉書が届く。

『前略 涼くん
 お元気ですか? どうやらわたし、生きてたらしく、いまは体力
 づくりのリハビリをがんばってます。
 すごいのよ、いまじゃ百メートルくらい全力で走れるんだから!
 えへへ……。
 おっと、忘れるとこでした。
 今度そっちに帰国する予定です。よかったら逢いたいな。
 場所は、例のあの砂浜で……。

                            ゆかより かしこ』

 



2004/04/25(Sun)01:53:47 公開 / 和宮 樹
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■作者からのメッセージ
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
いかがでしたでしょうか?
現実の隅っこにあるかもしれない、ちょっと不思議なお話……そう感じてもらえたなら幸いです。
皆様はどんな風に思われたでしょうか?
それでわまた…………
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