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『もう一人の私』 作者:辻原国彦 / 未分類 未分類
全角4130.5文字
容量8261 bytes
原稿用紙約11.8枚
 可もなく不可もなくといったところ。しかし、以前よりは数倍良くなった。稲森優子は毎朝鏡に自分の顔を映しながら、心の中でそう一人ごちる。意味もなく笑ってみたり、頬を膨らませてみたり。どんなに顔を歪めようとも、以前とは比べ物にならないほどいい。毎日が楽しくなり、大学へ通う足も軽くなった。周りの友人からも評判は良く、優子は新たに敷かれた人生のレールに満足していた。
 今朝も変わりなく、鏡の前でひとしきり自分の顔を眺めてから大学に向かった。季節は春。少しずつ暖かくなる風が頬を撫でるのが気持ちいい。その風に乗って、どこからかサクラの花びらが舞ってくる。
 大学の門をくぐると、友人である田畑美香が声を掛けてきた。
「優子、優子。おはよう」
「ああ、おはよう美香」
 美香とは、考えてみれば長い付き合いである。初めて出会ったのが小学校三年生のときで、美香は転校生だった。席が隣になったこともあり、すぐに仲良くなった。それから、クラスは違えど、大学まで同じ進路をたどることになった。
「それにしても、すぐにあんなことしちゃうなんて、優子も隅に置けないね」
 はじめ、美香の言っていることがよくわからなかった。どこか遠くの、もしくは今受講している中国語のような響きを持って耳朶を刺激した。
「え? 何のこと?」
「もう、しらばくれちゃって。ちょっときれいになったからっていきなりラブホにいくなんて。優子ってそんなに大胆だっけ?」
 美香は冗談っぽく肩をぶつけてきた。その顔には、いやらしい笑いが張り付いている。
「なに言ってるの? 昨日は私どこにも行ってないわよ。今日の心理学のレポートで大変だったんだから」
 美香は少し不思議そうに優子の顔を見つめると、眉間に皺を寄せて考え込み始めた。
「そうよね。考えてみればまじめっ子さんの優子がレポートを忘れるはずないし……でも、昨日見たのは確かに優子だったと思うんだけどなあ」
「もう、変なこと言わないでよ。まだ彼氏もいないんだから、そんなとこに行きません」
「ごめん。でも、もしあれが優子じゃなかったとしたら、すごい似てたのよ。もう、今の優子に瓜二つなんだから」
「そう言うのをドッペルゲンガーと言うの」
 後ろから声を掛けてきたのは、ホラー映画大好きの柴谷恵美。優子たちとは大学で知り合い、今はオカルト同好会の会長を務める変わり者だ。オカルト同好会と言っても、恵美を入れて六人しかおらず、そのうちの二人は名前だけをおいている優子と美香だった。
「私聞いたことがあるわ」美香が言う。「もう一人の自分ってやつでしょ? そのもう一人の自分を見ちゃったら死んじゃうってやつ」
「そうよ。美香が見たのは優子のそれじゃない?」恵美がいやらしく言う。
「もう、二人とも変なこと言わないでよ。ただの他人の空似だって。それに死ぬなんて、そんな怖いこと言わないでよ」
「そうね。他人の空似。そういうことにしておきましょ」
「ところで美香、あなたレポートやってきてないでしょう。ほら、見せてあげるからやっちゃいなよ」優子はトートバッグからレポート用紙を取り出す。
「いつも悪いね、優子。ほんと、よくできる友人を持って幸せだわ」

 朝は軽い気持ちのただの会話であったが、その日の夜のバイトの帰り道、優子は街中で見てしまった。それは一瞬で、すぐに人波にまぎれて見えなくなってしまったけれども、目の前を通り過ぎた女は確かに優子だった。
 着ている服は決定的に違い、優子はジーンズに白いブラウスだったのに対し、もう一人の優子は派手なブランド物を身にまとっていたけれども、首から上は、本人ですら驚くほど優子と瓜二つだった。
 興味半分恐怖半分で家に帰り着くと、優子の頭に今朝の美香の言葉が蘇ってきた。
「もう一人の自分を見ちゃったら死んじゃうってやつ」
 朝はただの戯言に聞こえたその言葉が、今は妙な現実味のある恐怖を伴って聞こえる。
 いや、まだまだ死ぬわけにはいかない。私は生まれ変わったんだから。きれいに生まれ変わったんだから。これから、きっと楽しいこともいっぱいあるんだから。そんな、幻の自分に殺されるわけにはいかない。
 優子は携帯電話を取り出すと、恵美に電話を掛けた。
「恵美? 今大丈夫?」
「どうしたの? 優子から電話なんて珍しい」
「あのね、今朝言っていたことを詳しく聞きたいの」
「何?」
「ほら、あれよ、ドッペル……」
「ああ、ドッペルゲンガーね。ドッペルゲンガーって言うのはね、幻のもう一人のことで、昔は高山地帯で霧が発生してそれに自分の姿が映ったものだといわれていたんだけど、日本ではいつのころからかそれを見ると死んじゃうって言われるようになって、まあ、一種の都市伝説みたいなものよ」
「そう。それで、それを回避する方法はないの?」
「回避? あんたまさかあの話を本気にしてるの? そんなに気にすることないって」
「いいから。教えてほしいの」
「う〜ん、聞いたことないけど、相手を殺しちゃえばいいんじゃないの?」
「そうか。自分が殺されるより前に相手をね。わかった。ありがとう」
「ちょ、ちょっと優子。ほんの冗談よ。あんまり深い意味はないんだからね」
 優子は電話を切った。
 そうね。単純なことだわ。先にあっちを消しちゃえばいいのよ。だって、私が本物なんだから。そうよ。そう……

 次の日、優子は大学には行かずに、昨晩偽者の自分を見た街角に立っていた。もうすぐ日が落ちる。かれこれ十時間以上はそこにいた。
 しきりに視線を感じるが、今から自分がやろうとしていることの罪悪感からであろう。通り過ぎる人間が、まるで今から自分が何をするか知っているかのように視線をこちらに投げていくような気がする。できれば誰か自分を止めてほしいという考えが、幾度となく頭をもたげたが、それはあっさりと殺意にかき消されてしまう。もう引き返せない。
 疲れからか、ふと緊張の糸が切れかかったそのとき、やっと見つけた。偽者の自分が、悠々と目の前を通り過ぎていく。
 優子は後をつけた。人ごみの中を器用にすり抜けていく偽者の後を付けていくのは、思った以上に骨が折れる。やがて、電車を二回乗り換えてたどり着いた先は、寂れた住宅街が並ぶ小さな町の駅だった。偽者はその静かな町には似合わない派手な格好で、これまた不釣合いなぼろぼろのアパートの一階のドアを開けた。
 優子はドアの前に立ち、インターホンを押すかどうか迷っていた。一瞬、静かな背後から視線を感じて振り返ったが、そこには誰もいなかった。どうやら、ここまで来ておきながら、まだ誰か今から自分がやることに気付いて止めてほしいという考えが残っているようだ。しかし、右手にはもう包丁が握られている。もう遅い。やるしかないのだ。明るい未来のために。
 逡巡しながらも、やっと決心がついてインターホンを押そうとしたとき、ドアが開いて偽者の自分が姿を現した。
 まったく同じ顔を持つ二人は、少し見つめあったままであった。見つめあったまま、優子はその似方に驚愕した。目の大きさから鼻の高さ、唇の厚さまで寸分違わぬその顔は、まさしく自分のものであった。
 偽者が口を開けかけたとき、優子は包丁を振り上げた。その切っ先は偽者の顎から左目の下までにきれいな一筋の赤い線を描いた。偽者は驚き、とっさに後ろを振り向いて逃げようとしたが、優子がその背中に再び包丁を振り下ろしたために、床の上に無様に転んでしまった。振り返り、玄関口に立つ自分と同じ顔を持つ女を見上げ、偽者はすでに何もする気になれなかった。傷口から血が流れ出し、痛みと恐怖で意識が遠のいていく。
 優子は、目の前で恐怖に顔を歪めた自分の顔を見下ろし、すこし心が疼くのを感じた。今、醜い傷を伴っているのはまさしく自分の顔だ。しかし、これを終わらさなければ、自分の明るい未来はやってこないのだ。
 優子は偽者の体に馬乗りになると、自分と瓜二つの顔に何度も包丁を振り下ろす。眼球がつぶれ、皮膚がずれ、唇が切れ、辺りは血まみれになった。やがて、偽者の顔は、自分とは似ても似つかない無残な肉片に変わった。
「ごめんね。でも、これは私の顔なの。散々苦労してバイトして、やっと貯めたお金で整形手術を受けた私だけの顔なの。あなたは……えっと……名前はなんていうの?」
 優子は、傍らに転がっていた財布を取り上げた。
「免許証ぐらいは持って……」
 そこにあったのは、見覚えのある名詞。淡いクリーム色で、『大賀美美容形成外科』とだけ書かれている。
「あら、あなたも……」
 その後の言葉は、痛みと驚愕に飲み込まれて喉から出てこなかった。振り返ると、そこには自分と同じ顔をした女が立っていた。手には、血にぬれたアイスピックを握っている。首の後ろに感じたちくっとした痛みが、だんだん熱くなってくる。そっと首に手を当ててみると、熱い液体が溢れているのがわかった。そして、それは耐え難い痛みとなって優子を襲った。体の自由がきかなくなり、手足が痙攣を始める。
 もう一度振り返ってみると、再びアイスピックを掲げる同じ顔をした女が見えた。
「ああ、この子もきっと、手術を……」
 優子の思考はそこで途切れた。

「聞いた? 美香」
「優子のこと?」
「それもだけど、優子が整形手術を受けた病院の話」
「ああ、そっちね。聞いたわよ。なんでも、娘を亡くした先生の気が触れて、来る患者の顔をみな娘と同じ顔にしたんでしょ。どうやら、優子が三人目だったらしいじゃない」
「そう。それで、今月に入って、その、優子と同じ顔をした女の人が十人も死んでるのよ」
「もう忘れましょう、恵美。あの病院を紹介したのは私たちよ。なんだか、私達にも責任があるみたいでいやだわ」
「そうね。優子には悪いけど、本当に悪い偶然だったんだもの」
「ええ、偶然よ」
 そのとき、にやっと笑った田畑美香の顔を見た者は誰もいなかった。参考のために言っておくなら、田畑美香が稲森優子と小学三年生で出会い、その瞬間から彼女の押し付けがましい優しさにうんざりしていたことも、この地球上では美香本人しか知らない。

 了
2003/10/26(Sun)14:22:36 公開 / 辻原国彦
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■作者からのメッセージ
「ドッペルゲンガー」が今回のテーマです。
けれど、それを超自然的なものとはせずに書いてみました。
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