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『黒龍物語』 作者:ピンク色伯爵 / 異世界 ファンタジー
全角30465文字
容量60930 bytes
原稿用紙約88.35枚
――黒龍がやってくる。かの龍は黒い炎を吐き、毒の体液で大地を枯らし、人の世に大いなる呪いをもたらすと言う。あれを近づけさせてはならぬ。あれに近づいてはならぬ。あれを理解してはならぬ。龍狩りの英雄達よ、心するがいい。所詮、闇を持たぬ身では、あれを滅ぼすことは叶わぬと。光を求め、闇を恐れよ。さもなくば、貴様らは無惨にも果てることになるだろう。絶望と言う名の、美しき闇の腕に抱かれて。
黒龍物語


プロローグ


 それでも少女は『魔女』だった。

「はあっ、はあっ……はっ……はあ……」
 少女に確たる自覚は無く、村人もまた理由を知らない。それでも少女は『魔女』だった。
「いたぞ! 向こうだ! 絶対に逃がすな!」
「っ! ――はあっ、はあッ、はッ……」
 人の悲鳴を好み、人の生き血を啜り、人の四肢を弄ぶ。そのような『魔女』だった。だけどそんな自覚はないし、彼らの内にそんな死に方をした人間などいなかった。
 雨粒が弾ける。ぬかるんだ大地を裸足の足で駆けていく。骨と筋ばかりの頼りない体。どこにそんな力が眠っていたのか、彼女の足は必死に前へ前へと転がっていく。死者の国から逃げ帰る勇者のように。魔物の巣窟から逃げ出すお姫様のように。
「外……っ! お外だ……っ! 冷たい……雨だっ……!」
 ――私は鳥だ。
 篭に入れて周りから観賞される小鳥。少女は『魔女』であり小鳥だった。村人は『魔女』だと忌み嫌うばかりではなかったのだ。死なないように餌を与えてくれた。それは時に黴の生えたパンであり、時に苦味しかないワインだった。まるで人が食べるもののよう。人の血や、蜘蛛の卵、蝙蝠の翼では決してなかった。
 きっと、彼らは分かっていたのだ。
「村の西口の方だッ! 回りこめ! 捕まえろ! 絶対に殺すな!」
 泥が激しく撥ねる音。森の中を荒々しく駆け巡る息遣い。まるでいつか見た人狼の群れ。
「……私は、小鳥……。優しくて残酷な貴方達のもとから……。檻が壊れたから……逃げ出すの。一度も鳴かなかった鳥は、気取っていたわけでも、鳴く力がなかったわけでもない……。空を飛ぶための、力を溜めていたの」
 口をついて出てくるのは古い童謡だ。彼女の大好きな歌。村の子供達が楽しそうに歌っていたのを、檻の中で聞いて覚えた小鳥の歌。美しい歌だ。最初に聞いた時には心が震えた。舌を噛み切って死のうかと思っていたのに。不思議と勇気が湧いてくる歌だった。鳥は鳴かなかった。意地を張っていたわけでも、鳴く機能を失っていたわけでもない。『愛し』の飼い主の元から逃げ出す機会を窺っていたのだ。歌を聞いて以来、少女は魔女であるだけでは無くなった。
 ――私は小鳥。いつか憎いお前達の元から飛び立とうと企んでいた、底意地の悪い小鳥。
 暗い森の中、滝のような大雨に打たれながら村の果てを目指す。彼らは偉い人達に土地に縛りつけられている。効率よく食べ物を生産するため、畑を捨てて逃げないように管理されているのだ。境界線の向こうへ逃亡した少女を追っては来られないだろう。
 でも、彼女の足はそろそろ限界だ。境界線は、多分このあとずっと先。最後に村を出たのはいつだったか、片手の指で足りるくらいの年だったように思える。
 不意に左右の木々の合間から無数の人影が飛び出した。
 ――追手だ! 私に追いついて来たんだ!
 影達は飢えたように目を血走らせて取り囲み、あっと言う間に少女を抑えつける。必死に抵抗した。私は鳥、魔女なんかではなく鳥だ、鳥は捕まえられたら必死に翼を羽ばたかせる――少女は汚れた足をばたつかせた。
「くそ、暴れんな! あんまり暴れるなら殺しちまうぞ!」
「馬鹿、止めろ。殺したらお前に大いなる災いが降りかかる!」
 みぞおちに屈強な拳がめり込む。一瞬呼吸が止まり、体が意図せずして硬直し、その場で動かなくなる。ああ、息が止まると本当に動けなくなるんだと思った。
「分かってるよ。ちょっと大人しくしてもらうだけだ」
 男が少女の体を持ち上げる。目いっぱいの悪意を込めて村人を憎んだ。
「呪い殺してやる……。お前らなんて全部地獄に叩き落としてやる……!」
 掠れた声は雨音に紛れて消えていく。村人たちは一瞬ぎょっとしたように動きを止め、すぐに馬鹿にしたように笑い出した。
「呪う? お前が? 俺達を? 冗談だろう? お前は四つの時にこの村に来て、以来ずっと檻の中だろうが。呪いなど使えるわけがない」
「嘘じゃない。私は魔女だ。お前達を呪って、悪魔を呼んで、全部ぶっ殺してやるんだ」
「へえ……ぶっ殺すねえ」
「本当だぞ! お前らなんて、お前らなんて……」
 震える指で村人達を順々に指差していく。屈強な男に担がれながら、精いっぱい虚勢を張って喚き散らす。
 それを大人達は下卑た笑みを口元に張り付けながら、面白がるような目で見つめてきていた。
「お前らなんて……? 教えてくれよ。お前を怒らせたら、俺達はどうなっちまうんだ?」
 少女は悔しくて叫んだ。少しでも彼らを怯えさせたくて。少しでもベッドの中で嫌な気分にさせたくて。本当に、地獄に落ちてしまえばいいのにと思って。

「お前らなんてっ! 龍に食われちまうんだっ!」

 ぴか、ゴロゴロゴロ……! 空が光り、雲が唸る。大地の巨大な咆哮は、彼らの立っている地面さえも大きく揺らした。
「な……なんだよ。雷かよ。驚かせやが……って……?」
 少女を担いでいた男の言葉が途切れる。彼女は反射的に空を見上げた。
 今、微かに聞こえたのだ。雨音の合間を縫って、何者かの巨大な咆哮が響いてくるのを。村人たちは皆怯えたように辺りを見回している。次の瞬間、誰かが「あっ!」と声を上げた。
 天に向けられる人差し指。少女以外のその場に居た皆がその指の先を辿った。今度は聞き間違いも出来ないほど、はっきりとした咆哮が辺り一帯の大気をびりびりと震わせた。
 そして、神話の龍がやって来た。世界を統べるという龍だ。溢れる生命力で広い世界を所狭しと飛び回る、不滅なる力の象徴。彼は赤い赤い一つの目で少女達を見下ろしながら、濡れた大地に降り立った。
 その龍は人には無い巨大な翼と尻尾を生やしてそこに居た。生命の象徴たるその姿は、しかし少女には何故か間逆のものを思わせた。翼と尻尾。そして、血のように赤い一つの目。だが龍の姿はおかしかったのだ。神話に語られる勇壮さよりは獣としての残酷さを、口伝される英知の輝きよりは、低劣な本能を感じさせた。
 何より一番おかしいのがその体だった。人々に恐れられる龍には必ずあるもの。不死と生命力を示すその所以たる物が決定的に欠けているのだ。
 黒い龍には、うろこがなかった。
「な……んで」
 子供達の口にする龍とは違う。よく分からない怪物を前に、彼女は思わず呟いた。疑問に思ったのだ。しかし、周りの村人にはそんなことはどうでもよいことらしく、皆狂ったように悲鳴を上げて、ある者は逃げ出し、ある者は腰を抜かしてへたりこんでいた。
 空気が震える。いや、凍える。龍が口を開いたからだ。黒いてらつく肌から漏れだす、黒いエーテル。辺りを吸い尽くすような魔素が龍の口蓋に集中していく。そして龍は息を吐き出した。龍の息。ブレスだ。それは炎でも雷でも、水流でもなかった。黒い、腐ったような霧だった。空気を吐く音。密やかなその音とは対照的に、黒い霧は驚くべき速さで辺りに充満した。
 先に逃げ出した村人たちからのどを絞められたような声が上がった。見れば遠くの人影がふらふらとふらつき、つぎつぎに泥の中へと倒れていく。
「あ……ああ……」
 彼女を抱えていた男も、掠れた声を上げて膝を折った。屈強な腕から力が抜け、少女の体を取り落とす。それからの変化は劇的だった。男の顔が醜く変貌していく。肌の血色が悪くなり、血管が浮き出て、口からは涎を垂れ流す。目はどこか遠くを見るようにうつろになり、やがて白く濁りだした。
 龍が嗤った。
「――捨てられたか、ニンゲン」
 少女は何も言わずに、着ていたボロを胸元に引き寄せ、体を龍から遠ざけようとした。しかし生気を失った男の体にのしかかられて思うように体を動かせない。
 龍はまた嗤った。肩を揺らして嗤った。
「貴様は良い臭いがする。深く暗く曇りの無い、闇の臭い。我が喰らうには惜しい程」
 龍の手が少しだけ動く。指先が倒れ伏す男に向けられた途端、男の体は干からびたキャベツのようにしぼんだ。
「……失せよ。何処へなりとも消えるがいい。愚者に囚われず、過去を捨て、愚かしくも醜く生き延びよ。その胸に巣食う闇が、やがて貴様を覆い尽くして熟す、その時まで」
 龍が羽ばたく。地についていた前足を宙に踊らせ、曇天に吠えるように猛々しく首を反らせる。途端、胸が焼けるように痛んだ。見ると本当に燃えていた。黒い邪悪な炎が、痩せこけた胸の中心で呪いのように揺れていた。
 いや、まさにそれは呪いそのものだった。
 誰にだって分かる。炎の中には、吐き気を催すくらい禍々しい刻印がくっきりと浮かび上がっていたのだから。人間なら、誰もが異常に感じるだろう。
「迫害されし異形の者よ。貴様に選択を与えよう。ここで死に、世界を滅ぼすか、ここで生き、世界を救うか」
「う……うぁ、うぁぁぁぁ……」
 口からうめき声が漏れる。刻印に中てられたからではない。何故か自然に口の端に上ったのだ。
 暴風が辺りの木をしならせる。村人の死体が藁束のように転がった。
「『絶望』の申し子よ。貴様にはその権利がある」
 龍は嗤う。口を裂かして嗤う。「愉快ッ! 実に愉快だッ」
 風が逆巻く。雲の合間に紫電が散る。地軸が揺れて、激流が押し寄せる。
 少女は叫んだ。一匹の獣ように、細く高く。土砂の混じった水は腰を浸し、次の瞬間には彼女を押し流す。
 少女はは叫んだ。

 ドラゴンのように。


第一章  訪れる混沌


 活発な初夏の風に、いくつもの黄緑色の花が揺れる。
 ふわりふわりと。
 西方の中海より届く潮風にあおられて。
 クーゲルブルグの宿舎の前にはこの春最後となる隊商がやって来ていた。砂漠を渡って来た面々は、体を振るって砂を落としている。エキゾチックな音楽が溢れ、北方よりやって来た別の隊商が、その音楽につられて待っていましたとばかりに近づいていく。
「北で採れたリンゴはいかがかね? おいしいよ。産地直送だ」
「こっちには洞窟に隠しておいた雪があるよ。キャラバンのおいさん、お一ついかが?」
 淡い赤や、黄色の濁った白、深い緑色のテントが大空に花を咲かせるように広げられた。西方のカザフス帝国ではバザール、西のフランチェスカ帝国ではアーケードと言われる商店街の開幕だ。
 西の帝国フランチェスカ。その最東端にあるこのクーゲルブルグでは、一年に数回は見られる風物詩とも言うべき光景だ。キャラバンの男達は黄金と引き換えに、白く濁った岩塩を取引している。まばゆい金色と白色が乱反射し、人々の黄色い声が飛び交う。一際大きく広げられたテントの下では、美しい黒髪の踊り子が白刃を手に蝶のように舞っていた。
 そんな乱雑で賑やかな空気の中を、一人の少年がふらりふらりと人の合間を縫って移動していた。
「すみません! ちょっと通ります! あ、ごめんなさい、ぶつかっちゃった。ごめんなさい、兄に届けものがあるんです。すみません。火急の用で。通して下さーい!」
 髪はぼさぼさ、服も仕立ては良いのだろうが、人に揉まれてもみくちゃのみっともないものになってしまっている。彼は声の限り叫んでは人込みをかき分けて前に進んでいく。周りの人間達は少年を指差し囁き合う。
 ああ、あれが『英雄』の弟か、と。
 名前は確か、カイ――カイ・ディローザと言ったか、と。
「兄さんに届けものがあるんです! 『英雄』ディークヌート・ディローザに、儀式用の大盾を届けるんです! 道を空けて下さーい!」
 息も絶え絶えにそう叫ぶ少年――カイの胸には、縦横二ミダミトルはありそうな大きな何かが。包んでいる布は目立たない色をしているが、やはり少年の着ている服と一緒で上質なものを思わせた。
 やがて宿舎の前の人だかりを抜けたカイは、転げるように日干しレンガの地面に倒れ込み、「ぷは」と息を吐き出した。地面は太陽に熱されて熱い。温暖な気候のクーゲルブルグだが、ここまで天気が良い日も久々である。こんな日は街の外にある野原で日光浴などすれば気持ちが良いのだろうが、あいにく彼には予定が入っている。聖騎士である兄の『忠実なる従者』としての雑用だ。
 カイはふらふらと立ち上がると再び街路を駆けだした。
 人をかわして、かわして、ディークヌートの居る幕舎まであと少しというところで、またもや大きな人だかりに遭遇。
出来れば迂回していきたいところだが、ぐるりを回った場合、とんでもなく時間を浪費してしまうことになる。この日干しレンガで出来た街は、古のミノス島の伝説もかくやというラビリンスだ。複雑に入り組んだ道はときに階段を上がり、ときに坂を下る。他人の家の中を通って反対側の道に出る道もあるのだ。迂回している最中にすり抜ける家の人間がいなければ、そこで足止め。街の不良や素行の悪い兵士などは構わず通過していくが、生真面目な彼にはそんなことができるわけが無かった。
「よし!」
 意を決して人込みに飛び込む。服はもうもみくちゃ、髪は寝起きのようにぼさぼさ。カイは人込みを泳ぐようにかき分けていく。
 ……と、人の海を中ほど過ぎたところで、隊商を相手に舞いを披露していた曲芸師の一団にぶつかってしまった。数人の男に混じって、一人だけ女がいる。さらさらとした砂のように揺れる黒髪と、目の下の黒子が印象的な艶美な少女だ。ちなみにカイがぶつかったのはその女の前を歩く、血色の悪い男だった。幽鬼のように不気味なその男は、東方の織物を頭からすっぽりかぶっている。かなりの長身だ。布の下から冷たい眼光をカイに送ると、そのまま表情も変えずに歩きだしてしまった。
「あ、ぶつかって、すみません……」
 遅れて声をかけると、後ろの女が振り返って艶っぽくほほ笑む。カイは軽く頭を手で叩いて、手の平を広げた。すると彼女は少し驚いたような表情になり、それからおかしそうに唇に指を当てた。どうやら異国の人間には伝わらぬようである。彼女はもう一度艶やかに微笑むと、踵を返して行ってしまった。
「って、うわ、大変だ! あと数ミニで黒龍討伐隊の儀式が始まってちまう! すみませーん! ちょっと通して下さーい!」
 そうして。
 見た目のぱっとしない少年は、またもや人に揉まれながら、幕舎を目指してわずかな隙間に身を滑り込ませていくのだった。

     ×              ×              ×

 黒龍がやってくる。

 フランチェスカの宮廷魔術師がそう予言した日、帝国領内は騒然となった。
 黒龍。あの黒龍だ。黒い翼と黒い尻尾。残酷な赤い目を持つ伝説の生き物、黒龍。かの龍は黒い炎を吐き、その体から滲みだす体液は生きとし生けるもの全ての生命を奪い去っていくと言う。まさに大地の敵、人の敵である。
 その龍が、数十年に一度の脱皮を行うと魔術師たちは予言したのだ。脱皮とは龍を不死たらしめる変態の一種だ。はるか東方では輪廻転生と言うらしいが、それはともかく龍は体のうろこを脱いで、それを喰らい、ついでに中途半端に空いた腹を近隣の大地の生き物で満たしてまたどこかへ飛びさっていくと言う。その進行ルートにカザフスの重要交易拠点とフランチェスカの政令指定都市が数か所含まれていたのだ。古い文献によれば、龍は進行ルートに有毒な体液をばら撒き、大地を文字通り黒く染め上げ、不毛の地にしてしまうと言う。このままでは帝国の喉元とも言うべきいくつもの拠点が黒い波に破壊しつくされてしまう――そう危機感を抱いた両国の首脳が、一時休戦協定を結び、互いに国内の手練を募って、黒龍討伐隊を結成することにしたのである。
 ここで浮上した問題が、果たして黒龍を殺すことができるのかということである。生きている以上、その生命の源を刺し貫けばおそらくは死に至らしめることが出来るのだろうが、相手は伝説上不死とされている化け物である。心臓を刺し貫けば死ぬのか、首を切り落とせば死ぬのか。人で言うところの急所をついたところで、果たして龍にとって致命傷となりうるのだろうか――。
 分からない。
 分からないから、とりあえず、英雄と言われる人間にその責務を押し付ける。彼らならきっとやってくれる、何故なら彼らは英雄なのだから――フランチェスカの教会などはそう考えた。
 フランチェスカから選ばれたのは、ディークヌート――カイの兄だった。彼は十年前、カザフスによって連れ去られた領内の子供達を、自らの騎士団を率いて取り返すという偉業を成し遂げた人物だ。騎士団員数名とともに敵地に潜入し、敵軍の目を盗んで子供達を解放、そのあとカザフスの追手相手に大立ち回りを演じたのち撃退し、堂々の帰還を決めたのである。不可能を可能にする英雄。その彼ならば、何とかしてくれるだろうということだった。
「兄さん!」
 幕裏にやっとの思いで飛び込んだカイは、簡素な椅子に座っている大きな背中に呼びかけた。
「ん?」
 青年が首を回してカイを見る。何やら考え事をしていたのか、彼の眉間には縦じわが寄っていた。目の下にはうっすらと隈ができている。
「おお、カイか。すまんな、私のミスで」
 青年――ディークヌートは自分の頭を弾き、手の平を開いた。
「いいさ。これが俺の仕事だし。ていうか、今の俺には、これくらいしかできないし」
 うっすらと笑みを浮かべるカイに、ディークヌートは表情曇らせた。彼は視線を宙に彷徨わせ、やがて良い事を思いついたとばかりに顔をほころばせる。
「盾を届けてくれたお礼に、何か欲しい物をやろう。今はこれから黒龍討伐の任命式があるから無理だが、あとで一緒に買いに行こう」
 カイは苦笑した。
「兄さん、俺は今年でもう一八だ。普通なら兵士になって戦争で敵をたくさん殺してるような歳だよ。プレゼントなんて、子供じゃないんだから」
「しかし」
 ディークヌートは、眉根を寄せた。このままではこの生真面目な青年はずっと話題を引きずるに違いない。それこそ、今日の夜盛大に開かれる宴の席にまでずっと。討伐隊に選ばれず、宴にも参加を許されないようなちっぽけな人間のために、本気になって考え込んでしまうのだ。
 だからカイは話題を変えることにした。
「それより、難しい顔をしてどうしたんだ? 目の下に隈作ってさ」
「ああ――、ちょっと考え事が色々あってな。先程は竜をどうやって殺すか考えていた。カザフスの討伐隊が到着したときに、何もアイデアが無いようでは笑われるからな」
 ディークヌートはそう言って懐から古い羊皮紙を取り出す。この街では、はるか東方、カザフスより東にあるという大国から紙が伝わっているから、動物の皮でできた羊皮紙は珍しい。おそらくクーゲルブルグで手に入れた物ではなく、西の方からディークヌートが取り寄せた物なのだろう。カイは黴くさい羊皮紙を覗きこんだ。そこには井戸に尻尾を突っ込んだ竜に立ち向かう、勇ましい騎士の絵が描かれていた。ディークヌートは竜を指差した。
「この絵に描かれる竜は西の果ての街で大変な悪さをしていた邪竜だ。文献によると、この竜は赤い火を吐き、村の家々を焼いてまわったと言う。たまりかねた村人は、竜の好物である乙女を生贄にすることで竜の怒りを鎮めていた」
 ディークヌートは続けた。
「竜は体を見えなくする術を知っていて、攻撃が当たりにくかったらしい。また当たったとしてもすぐに再生してしまう。井戸の水から生命力を得ていたわけだ。そこで討伐に赴いた若い騎士は、全身に深手を負いながらも竜を井戸から引きずり出した。すると竜の再生力が激減した。そのあとようやく尻尾を切り、全身を斬りつけること数十回。ついに彼は竜を失血死させることに成功し、かくして街は救われた。そういう話しだ」
「なるほど。で、兄さんは同じようにすれば黒龍も倒せると言うんだな」
「おそらく」
 難しい顔で頷くディークヌート。「情けないことに、おそらくとしか言えない。火山に住んでいるサラマンダーを狩れというのなら海に放り込んでしまえば良いということになるが、竜を狩れと言われてもてんで対処法が分からない。なにせ俺は竜を見たことが無いのだからな。こうして伝承をかき集めてそこから推測する他ないのが現状だ」
 カイは顎に手を当てた。
「うーん。情報が足りないのはわかるけど、兄さんはこの伝承を本当に参考にするつもりなのか? だいたい竜が井戸に尻尾突っ込んでいるとか、間抜けにも程がある絵面じゃないか。こんな竜がいるとは思えない。竜っていうのは、まず空を飛ぶものだろう? もしくは津波とともに海から襲いかかって来るものだ。登場人物だって考えが足りない。井戸の水が竜の再生を助けていることが丸分かりなんだから、その井戸を何とかしてしまえばいいだけの話なのに、その若い騎士ときたら正面から竜に挑むという無謀な賭けをしている。運よく引きずり出せたから良かったものの、できなかったらただの犬死じゃないか。俺ならこう考える。竜の再生を助ける井戸を逆手にとればいいってね。セメントで井戸を固めてしまえばいいんだ。西の果ての街ということは海に面した街だ。なら埠頭には石材の隙間に海水が侵入してくるのを防ぐ水硬性のセメントが使われているはずで、街の商会に行けばすぐに取り寄せてくれるはず。セメントを発注したら、森の木を伐って原始的な投石機を作る。あとはセメントが到着するのを待ちながら、投げ入れる軌跡を計算。セメントが入ったら、あとは煮るなり焼くなりだ。井戸から出れば囲んでくびり殺せばいいし、井戸に居座るなら遠くからなぶり殺しにすればいい。騎士も魔術師も要らない。必要だったのはちょっとした工夫さ」
 カイがそう言うと、ディークヌートは一瞬呆気にとられたような顔になったあと、思いっきり噴き出した。
「はっははははは! カイ、お前は本当に面白いな。脳みそまで筋肉でできているような私とは大違いだ。なるほど、セメントなあ。はは、お前は、やはり騎士などよりも学者にでもなるべきだ」
 カイは表情を曇らせた。
「そんな。兄さんは英雄と呼ばれているのに、その弟である俺が学者なんかになったんじゃ、家の恥だよ。今は無理かもしれないけど、いつか兄さんを助ける立派な騎士になってみせる」
「頼もしいことだ。本当に」
 山のように大きな青年は立ち上がると、自分の胸のあたりまでしか背が無い弟の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「やめろよ」
「ははははは。だがな、カイ。騎士たる者、この伝承から読み解くのはもっと別の事であるべきなのだ」
「別の事?」
「そう、私のような戦士が研究するのは竜の殺し方であり、伝承では無い。私はこの伝承からこう考える。竜は水の魔素を命の源にしている。すなわち竜の不死性とは、脱皮によるものでもあるが、水によるものでもあるとな。つまり、水気を抜けば殺すことも可能だと」
「それは、俺だって分かっていた」
「ああ、だけど、お前はそこに留まらず、さらに思考を巡らせた。風土や人々の生活にまでな。お前はやはり戦士には向いていない。我々は考えすぎない。雑念があれば、それによって命を落とす。――お前は学者になった方が幸せだと思う。これは兄としての助言だ」
「――――」
 そんなの屁理屈だ――とは言えなかった。どんなに兄に刃向かおうとも、今のカイはただの従者だ。黒龍討伐の際には従者の役目である盾持ちからも下ろされて、このクーゲルブルグで兄の帰りをただひたすら待つ身となる。英雄と、何でもないただの少年。両者の間には決定的な差があったのだった。カイは複雑な気分でディークヌートを見上げた。兄は恩人だ。頭の固いところもあるけれど、それでも弟思いの優しい人物。だけど――。
 カイの瞳にちらりと感情の炎が揺れたところで、不意に幕舎の幕がめくられた。薄暗い幕舎の中に眩い太陽の光が差し込んでくる。カイとディークヌートは揃って幕舎の出入り口を見た。
「ディークヌート様、そろそろ儀式が始まります。ご用意を」
 衛兵だ。精悍な顔つきの彼は、礼儀正しくディークヌートに注視している。カイは表情を曇らせた。
「カイ。そう言うわけで今日はここまでだ。続きはまたあとでな」
 ディークヌートはそう言って顔を厳めしくする。衛兵がカイに恭しく頭を下げると、腕を取って幕舎の外に引っ張っていく。光の当たる表通り。カイは暗い幕舎の中で手を振る兄の姿をいつまでも見ていた。

    ×               ×               ×

 ……昔から、魔術というものが使えなかった。

 魔術とは読んで字のごとく魔を使う術のことを言う。大気に満ちる四つの属性の魔素とエーテルに働きかけ、錬金術では説明のつかぬ現象を起こす術の総称である。これを専門に扱う者を魔術師と呼び、魔術師は先人の知恵を結集させた帝国の首都にある図書館で数千冊の書を暗記する。記憶した魔術知識をもって帝国の治安を助け、数多の災厄を未然に防ぐのである。
 魔術師ほどの専門的知識は必要では無かったが、フランチェスカ騎士団にも魔術の習得が必須とされた。彼らはそれを神の奇跡と呼び、戦いに使用した。
 騎士とは剣で殴り合うもの。
 しかし、だからと言って魔術を憎むということにはならない。
 そこにあるのだから、使う。弩があるなら弓ではなくそれを使うのと同じだ。
 魔術は――神の奇跡は戦いの道具だ。神は敵を排除するため、騎士団員に風の奇跡を与え、鎧の重量を軽くしてくれる。神は敵から同朋を守るために、火と水の奇跡を与え、鎧を機能的に動かすことを可能ならしめてくれる。神は――フランチェスカの大地を守るために、土の奇跡を与え、城壁を堅固ならしめてくれる。

 その神の奇跡――魔術が、カイには何故か使えなかった。

 理由は分からない。先天的なものだろうとカイは考えているが、とにかく使えなかった。小指ほどの火を熾す魔術すらだ。魔術が使えないと分かったのは、カイが七歳の時のことだった。そのときから西方の大貴族、ディローザ家には秘密ができた。それは、英雄の弟が、神にそっぽを向かれた、魔術的不能者だということ。
 知られてはならぬ。知られてはならぬ。知られては家名に傷がついてしまうから。
 英雄を輩出したあと、かのディローザの家が排出したのが、騎士にはなれないできそこないだったなど、世間のいい笑い者となってしまうから。
 それはディローザ家の全員が、墓の中まで持っていかなければならない、暗い、闇色の秘密だった。

    ×             ×               ×

 衛兵は幕舎から連れ出し、十分に離れたところまでカイを引っ張っていった。
 それからあの辺なら兄上の姿もよく見えますよ、と指で示す。カイは衛兵の腕を引きはがすと荒い息を繰り返した。何とか笑顔を作りながら「案内いたみ入ります」と言うと、衛兵は再度うやうやしく頭を下げて元来た道を戻っていった。通りには、人の流れの中にカイだけが取り残された。
 あの辺なら兄上の姿もよく見えますよ。
 その衛兵の言葉はカイの心を深く抉った。あの辺――どの辺だと言うのだろう? 英雄ディークヌートからどれくらい離れた辺りなのだろう? それは、英雄に手を伸ばせば触れることができる位置なのだろうか。否、そんなことは無い。手を伸ばしても決して届かない、しかしその勇壮な姿だけは隈なく見ることができる場所。
 まるでそこがお前の立ち位置だと彼が言っているように感じた。
 ディークヌートの雄姿を見る気も失せたカイは、通りに並ぶ人の壁の後ろを曖昧な足取りで進んでいく。少し歩いて、彼ははっと我に返ってせわしなく首を横に振った。
「……って、何を感傷的になってんだ、俺は。気合いを入れろカイ。常に明るく前向きに。そう決めたじゃないか」
 この西と東の交わるクーゲルブルグにやって来たのは、前に進むためだ。立ち止まって自分を見つめ直すためではない。この革新的な街では、様々な人が行きかい、様々な出会いに溢れている。変えたい。変わりたい。このクーゲルブルグに来れば何かしら転機が訪れるのではないか――そう思ったから、ディークヌートに無理を言ってまでついてきたのだ。
 まずは剣の師を探す。そこからだ。魔術を前提にするフランチェスカの剣は学べないから、魔術を使わない剣を修めた人物に出会い、頼みこんで弟子にしてもらう。腐っている暇があったら、早々にそれらしい人物を探し求めるべきだろう。
 カイは顔を両手で叩くと深呼吸を繰り返し、思いを新たに足を踏み出した。
 踏み出して、正面から誰かにぶつかった。
 ぶつかった体は細みではあったが巌のように硬く、地面に根が生えたようにびくともしなかった。対してカイの方は簡単に後ろに弾き飛ばされてしまう。
「ってててて」
 本日何度目かの尻もちをつく。尻をさすりながらぶつかった通行人を見上げた。
「すみません、ぶつかってしまっ……て……」
 言葉尻が消えていく。ぶつかってしまったのは、先程、行きしにもぶつかったあの曲芸師の男であった。しかし、今の彼はとてもただの曲芸師には思えないほど凶暴な顔をしていた。不気味な無表情などという甘いものではない。はっきりと分かるような殺気だった顔だった。憎しみに目を剥いて、殺意に歯を軋らせる。物語に出てくる悪魔のような顔であった。
 しかしその男の殺意はどうやらカイに向けられたものではないらしい。彼は大通りの方――正確には今ディークヌートが行進しているであろう辺りから視線を逸らさない。カイにぶつかられたことにも気が付いていない様子であった。男がかぶり物を乱暴に取り払う。東方風の顔立ちだ。髪と眉は闇のように黒く、瞳も同じように真っ黒だ。頬は痩せていて血色も悪い。しかし眼光は鋭く、鼻と口は猛禽のごとき凶暴さを覗わせる。男は背に身の丈ほどの剣を背負っていた。刀身は鞘に納められ、その上から麻布でぐるぐる巻きにしてあるから、どのような剣であるかは推して量るより他無い。しかし酷く不吉な感じのする剣だった。その男が幽鬼なら、その剣は幽鬼の持つ絶命の剣だ。ただただ不吉だった。
 男の隣には艶然とした少女が付き添っている。こちらも先程の女の子だ。カイの頭を叩く身ぶりにくすりと笑みを浮かべた彼女である。少女の方は何も持っていない。紅色を基調とした異国風の踊り子衣装に身を包み、まばゆい物を見るかのように大通りの方を見つめている。彼女も言わずもがな東方の血を思わせる髪と肌の色だった。美しい顔はどこか空虚で哀しくもあった。
 ふと、カイは耳に違和感を覚えた。風に乗って、奇妙な音が聞こえてくる。人の囁き声のような、奇妙な音。周りには儀式の見物客がたくさんいて、それこそ囁き声には留まらぬ大きな声で騒ぎたてているのだが、それが故に一層その奇妙な囁き声は違和感をもって耳に届いてくるのであった。カイは囁き声の元を辿ろうと耳をすませる。カイの視線は石の地面を伝い、東方人の男の足を経由し、腰を上がって、布に巻かれた剣に行きついた。
 ――剣が、しゃべってる……?
 カイが剣を見ていると、視線に気がついたのか二人が振り向いた。カイは視線を彷徨わせる。
「あ、えっと……。ぶつかってごめんなさい。あ、謝るのは二度目だけど、ははは……」
 東方人の男は、
「…………」
 やはり無言で背を向けた。そのまま雑踏の中へと紛れて行ってしまう。
「お怪我はございませんでしたか?」
 対して少女の方は柔和な笑顔を作って気遣ってくる。左目の下の黒子が大人の色香を漂わせていた。カイは頭を掻いた。
「ああ、はい。尻もちついたくらいなんで」
「そうでございますか。見たところなかなか鍛えておられるご様子。うまく転ばれたのですね。――ただ受け身を取るときに右手で自重を支えるのはようございませぬ。今回のように手の平を擦り剥かれるくらいなら良いのでございますが、一歩間違えれば手首の骨を折ってしまうかもしれませぬ故、重々、お気をつけ下さいませ」
「ミミ! 何をしておる!」
 雑踏の中から男が苛立たしげな声を上げる。腹の底に響くような低音だった。ミミと呼ばれた女は「では」と丸めた右拳を左の掌で包み込み、深く腰を曲げる。彼女のさらりとした黒髪が風に揺れ、幻惑するような甘い香りがカイの鼻をくすぐった。
 そのまま水が流れるような仕草で後ろを向く彼女に、カイは慌てて声を掛けた。
「あのさ!」
「はい」
 なんでございましょう、と少し振り返る東方人の少女。カイはわずかにためらった。この大人っぽい雰囲気の少女から放たれる、無言の圧力のようなものを感じたからだった。
「もしかしたら俺の勘違いかもしれないんだけど、君の連れが背中に背負っている剣――」
 カイが指差す。彼女は雑踏の向こうに立つ東方人の男を見た。男は依然として苛立たしげな視線をこちらに寄越している。
「――さっきしゃべってなかった?」
 少女はふっとほほ笑んだ。艶めかしい花がそっと花弁を開いたようだった。
「曲芸師の持つ小道具には、面妖な仕掛けがございますれば」
蕩けるような笑顔にカイは二の句が継げず、結局彼女はもう一礼して踵を返す。今度こそ人込みに紛れて行く二人の後ろ背を、カイはぼんやりと見送るしかなかった。
「痛……」
 手の平に不快感が走る。地面についていた手をあげると、皮が数か所剥けていて、ところどころに赤が滲んでいた。

    ×               ×               ×

 ディークヌート・ディローザは濡れた布で顔を拭くと、部屋の松明の日を消して、代わりに燭台に刺さった蝋燭に火を灯した。窓の外は既に薄暮。クーゲルブルグの要塞の中でも割と海抜の高い位置にある彼の部屋からでも、西日は半分以上山の向こうに沈んで見えた。
 間もなく夜がやってくる。夜がやってくれば宴が始まる。
 鎧を手で触って隙が無いかを確かめる。宴は楽しいものだが、きちんと鎧を纏っていなければ自分が殺されてしまう恐れがあるのだ。念入りにしておいて損は無い。
 というのも、フランチェスカでは、料理はかなり大雑把なものが出される。例えば猪肉にしてもほとんど解体されることもなく姿焼の状態で出てくるわけで、宴の参加者は各々好きなだけ切り分けて食べることになる。そこで使われるのが、殺し合いなどに実際使用される大型のナイフなのだ。皆腰に携帯しているものを抜き、我先にと料理に群がる。海洋民族発祥と言われるこの形式では全てのものが早い者勝ち。故に皆必死になるのだ。どのくらい必死になるかというと、殴り合いで相手を叩きのめして上質な肉をかっさらっていくくらいにだ。
 そのような無秩序状態に加え、こうして戦いの前に開かれる宴会には大抵血に飢えた益荒男達が総出で参加してくるのだ。これで殺し合いが起こらない方がおかしい。
 例えば肉を切り分けるときに前に居た邪魔な男の背中に、つい自分のナイフをぶっ刺してしまったり――。
 例えば酒に酔って誰かを殴りたい気分になって、直径10セチミトル、高さ4セチミトルのフィンガーボールを、自分の指を洗うためではなく、隣で馬鹿笑いしているのろま野郎の頭をはたいてやるために使ってみたり――。
 例えばテーブルクロスで口を拭うときに、必要以上に引っ張ってしまい、対面の席の男の料理をひっくり返してしまい、ひっくり返した本人が何故か激怒して腰の剣を抜いてしまったり――。
 それは相手が英雄ディークヌートであっても、気の荒い男達は気にしないのである。
「こんなところで死んでしまっては笑い者だからな」
 一人苦笑しながら、彼は机の上に置いてあった、『宴で負傷したり死亡したりしても構わない』旨の契約書にサインする。まあ、成人男性の二倍ほどの重さのある彼の鎧を着ていれば、そうそう死ぬことは無いだろうが、念のため、である。
 窓の外で虫が鳴いている。コロコロコロコロと。太陽が完全に沈んだ時宴は始まるから、まだ少し時間がある。ディークヌートは躊躇いがちに鎧に指をかけた。少し外して湯浴みでもしていこうか。布で汗を拭いただけではやはり物足りない……。
 そう考えていた彼だが、ふとした違和感を覚えて、鎧にかけた指を離した。糸くずほどの違和感ではあったが、英雄ディークヌートの直感が警鐘を鳴らしたのだった。
 短く聖言を唱える。大気にある風の魔素に働きかける聖言だ。風の被膜が体を覆い、彼の纏う装備の重量を大幅に軽減する。臨戦態勢だ。聖騎士や魔術師は、こうして戦闘の前には自身が最良の状態で剣を振るえるようまず自身に神の奇跡ないし魔術を使う。彼はにじり寄るように机の横に立てかけて置いた自身の剣に手を伸ばす。瞬間、息を呑んで後ろに跳び退った。
 銀閃が走る。蛇が息を吐くような音を立てて、何かが通過していく。それはレンガの壁に鈍い音を立てて突き立った。反射的に燭台をかざすと、レンガの継ぎ目には矢じりを大きくしたような刃物が、毒々しい緑の液体を滴らせながら刺さってあった。
 ディークヌートは目を剥いた。
「何者か!?」
 燭台を夕闇にかざして室内を探る。が、人らしい気配は無かった。窓の外の虫の音が大きくなる。小さく舌打ちをした彼は壁にかけてあった、斧を取りあげた。美しい斧だった。柄は黄金の輝きを放ち、蔦が絡みついているような文様が描かれている。蔦の葉の部分にはエメラルド、茎の先の花にはルビーがはめ込んである。十年前、彼がカザフスに潜入し子供達を助けた際、敵の将軍を斬って奪った魔斧である。名を崩天戦斧。カザフスの戦士に見せては心証が悪いだろうと、黒龍との対峙まで封印することにした彼の愛用の武器であった。
「曲者だ! 誰かある! 誰かある!」
 大股で自室から飛び出し、要塞中に響くような大声を上げる。しかし、警護の兵はどうしたのか、返ってくるのは不気味な静寂だけであった。
「っ! おい、君、どうした!?」
 不意に暗がりに浮かんだ兵士の影が、力を失ったようにその場に倒れ伏す。慌てて助け起こすと、兵士は口から涎を垂らしながら、「あ、あ、あ」と意味の無い音を吐き続けていた。目はほとんど白目を向いていて、涙腺からは血の涙を流している。
 その時長く暗い要塞の回廊に怪しげな風が吹いた。生温かい、しかし、芳しい香りを含んだ風である。ディークヌートが抱き起した兵士はびくりと体を痙攣させると頭をだらりと後ろに垂れさせた。動脈を探るに死んでいる様子は無いが、まともに意識が働いている状態ではない。
 彼をその場に寝かせて回廊を進んでいく。入り組んだ要塞の回廊の中に、誘うような虫の音が響く。ディークヌートは目を細めると、魔斧――崩天戦斧を正眼に構えた。この先は宴の会場だ。あと四十ミニもすれば宴は始まる。中にはフィンガーボールやナプキンを用意した給仕達が最後の準備に忙しく行き来している頃であろう。
 焦る心音。脳裏をよぎる不吉な予感。
 それらを振り払い、彼は会場の扉を突き飛ばすように開けた。
「な……、な……」
 扉を開けた左手が震える。異様な匂いが立ち込める中、風の被膜の中で、ディークヌートは呟いた。
「なんだ、これは……」
 果たして扉を開いた矢先に広がっていたのは、赤い敷物の上に折り重なるように倒れ伏す給仕達だった。皆先程の兵士と同じよう、両目から血を流しながら掠れたうめき声をあげている。
 ディークヌートは茫然として会場内によろめき入り――暗い室内を静かに走る銀色の輝きに、即座に身を捻らせた。
「っ」
 そのまま片手を石の床につけ、反動をつけて後ろに跳ぶ。石の合間を固める水硬性のセメントがディークヌートの重みにミシリと音を上げた。
「そこに居るのは分かっている! 出てこい!」
 会場の北隅、西日が当たらぬ暗がりに向かってディークヌートは吠えた。「暗殺者よ、居場所が割れた以上奇襲はできん。正々堂々とこのディークヌートの刃を受けるがいい!」
 虫の音が止んだ。
 同時に、暗がりから染み出すように一匹の蝙蝠が羽ばたいた。蝙蝠はディークヌートの頭上を旋回すると、やがて天井のくぼみに逆さまに止まった。
「どうしてわしに気付いた?」
 低い、臓腑に響くような男の声だった。ディークヌートはじりじりと蝙蝠から間合いを離す。
「なに、ただの勘だ。私の勘を誤魔化せるほど、君の隠密は高みになかったということだ」
 沈黙が流れる。ディークヌートは片眉を上げた。はっきりとした怒りの情念を感じたからだ。
「わしの隠密は、貴様には通じなかったと」
「そのようだな。しかし君の練度はかなり高い。その技術の高さたるや、おそらく私の騎士団員達では気付く前に三回は殺されることだろう。恐ろしいものだ。君は一体何者なのだ?」
 蝙蝠が嗤った。キィキィと。弄ぶような嘲笑だ。
「何者と言われて素直に答える気は無いなぁ。しかし誰に殺されたかも分からずに死ぬのは不憫であろうから、わしの隠密を破った褒美もかねて、一つ手掛かりをやろう。――貴様、十年前にカザフスに潜入し、奇襲をかけたことがあるであろう?」
「ああ、確かにかけた。うちの弟がさらわれたのでね。助けに行く他なかった」
「そのとき、カザフスにいた三本腕の将軍を殺したな?」
「ああ、彼は強かった。腕が三本あった事もそうだが、それ以上に奇怪な技を使った」
「――そして、岩をも斬り砕く美しい魔斧を使った」
 低い声が、怒りを抑えるように言った。ディークヌートは眉根を寄せた。
「なに?」
「とぼけるな。貴様の持つ、その斧――崩天戦斧のことだ」
「――」
 無言で斧の柄を握りしめる。男の声はいよいよ怒気をはらみ大きく膨らんでいく。
「それは我が民族の秘宝。長らくカザフスに奪われていた、我らが民族の誇りである。それを横からかっさらうなど、英雄が聞いて呆れる。貴様はただの盗人ではないか!」
「この斧を奪わねば私が奴に殺されていた。こいつが君らの魂も同然のものだとはつゆほども知らなかった。悪かったと思っている。よって斧を君に返したいから、ここへ出て来てはくれないか? 蝙蝠では斧を運べまい」
 ディークヌートはそう言って会場内に神経を尖らせた。自室とこの会場の二度、奇襲を受けている。正確な致命の一撃。刃先には毒まで塗ってあった。蝙蝠を媒介に放てるような攻撃では無いことは確かだ。と、するとあの刃を放った何者か――つまり蝙蝠の主は今なおどこかに潜んでいるはずである。
 ――一呼吸、吐息ほどでも空気が乱れようなら、確実に姿を捉えてみせる。
「ふは! そのような見え透いた罠には引っ掛からぬ。それはそうと貴様が奪ったのは崩天戦斧だけではあるまい。――貴様、我らが秘技も盗んだであろう?」
「知らんな」
「ぬかせ。崩天戦斧を手に入れたということは、そう言うことであろう。その斧を使った秘技は、山をも二つに割る。選ばれし者にのみ、斧とともに伝えられる秘伝の技である。それも返してもらわねばならぬ」
「……技を返せとはおかしなことを言う。仮に私がその秘技とやらを持っていたとして、技という概念を、どうやって君らに返せば良いと言うのだ?」
 低い声で逆に尋ねる。蝙蝠はばさりと翼を広げた。
「簡単だよ。英雄――」
 それは威圧感のある男の声にしては、猫を撫でるような優しさのある調子だった。もの分かりの悪い教え子を諭すような響きである。呵々と闇が嗤う。

「――貴様が死ねば良いのだ」

「ッ!?」
 そのとき、蝙蝠が宙に羽ばたいた。バサバサと耳障りな音を立て、室内の空気を乱暴に攪拌する。それに紛れてディークヌートの背後の闇からしみ出る姿があった。
 ――そこか!
 しかし英雄の名は伊達では無い。ディークヌートは振り向きざまに勘だけで崩天戦斧を振るった。銀閃に斧の金の軌跡が衝突する。しかし敵の攻撃は止まらない。魔鳥のように空間を舞う襲撃者は、さらに三撃の閃光を走らせた。
 幸いにもディークヌートは全身に鋼鉄の鎧を纏っている。故に生半可な攻撃は通るわけが無く、自然、暗殺者が狙う急所も全て頭部だった。
 ――速い。だが、甘い。
 体を捻る。骨が無いかのように。ディークヌートは低く聖言を呟きながら体を大きく反りかえらせる。鋼鉄の鎧もまた軟体生物のように形を変え、ディークヌートの動きに追従していく。火と水の魔素。鋼鉄を溶かし、皮膚を焼く前に冷やす。物理的にはあり得ないその工程を、英雄は持ち前のセンスと魔力のみで無理やり実現させる。
 斧が唸る。黄金の魔斧は異様な音を上げて空気を切り裂いていく。無造作に、しかし力強く。ふるわれたその一撃は、飛来する銀閃を吹き飛ばし、なお威力を殺さぬまま会場の天井を割った。レンガが崩れる。金城鉄壁の天井が、まるで紙細工のように裂かれ、割れた隙間から白い月と深い紫色の空が覗いた。
「ッ」
 わずかに息を呑む音。揺れる空気。ディークヌートは肉食獣のような素早さで音のした方を見た。黒い暗殺者の姿が、ついに闇の中に浮かび上がる。空の月に照らされて、そのビロードのような漆黒が露わになる。
 ――何だ、こいつは……。
 ディークヌートは目を眇めた。暗殺者は奇怪な面をかぶっていた。黒い皿に、細く三つの三日月を作ったような見てくれの仮面。視界を塞ぎ、呼吸を妨げる作りだ。暗殺者はほとんど無呼吸で体を動かしているにちがいない。息が切れる前に勝負をつけると言うことか。面白い――ディークヌートは左手を伸ばしてテーブルクロスを掴んだ。そのまま無造作に引っ張る。瞬間、例の銀閃が走るが、首を傾けただけで簡単に避ける。
 ――私以外ならいざ知らず、その程度の攻撃ではぬるすぎる。
 月明かりの支配する中、白いテーブルクロスが翻る。クロスの上に置いてあった無数のフィンガーボールも宙を舞い、中に入っていた水が飛び散る。暗殺者は咄嗟に背後の闇に跳ぼうとする。
「遅い」
 舞い上がったクロスに向けて、再び魔斧を振るった。
 イメージするのは、巨大な山。それを、この斧は一撃のもとに真っ二つにするのだ。誰も受け止められない。受けた者は須らく暴風のごとき斬撃の嵐に、寸断されて果てるのみ。
「撃ち抜けッ、崩天戦斧ッ!」
 直後、地鳴りが起こった。いや、地鳴りのような轟音が起こった。城砦で気を失っている全ての者を叩き起しそうなほどの、轟音である。大気中のエーテルが奔流となって斧の軌跡に押し寄せる。それは純粋な力となってテーブルクロスを文字通り粉みじんに粉砕した。白い粕のようになって大気に紛れるクロス。その背後で十数枚の城砦の壁が全て切り崩される。
 ――ほう。
 驚天動地の一撃を放った彼はわずかに目を見開く。なんと、暗殺者は生きていたのだ。衝撃に弾き飛ばされぼろ切れのようになりながら、黒い暗殺者は受け身を取っている。
 なるほど、どうやら崩天戦斧の一撃を彼女は既の所でかわしたらしい。その証拠にあれの体はまだ二つには分かれていない。ただ余波が少し体をかすめたようである。彼女の右肩から袈裟に、布が大きく裂けて鮮血が散っていた。
 ディークヌートは暗殺者を観察する。体格は確かに男のようだ。目の色は黒い。唇は赤い。髪の色は――これは黒だろう。鼻につくのは血の臭いと――甘い、幻惑するような匂い。おそらくはこの匂いが城砦の兵士や給仕を仮死状態にまで追い込んだものの正体であろう。東方のさる山岳地帯には、幻惑の術を使う暗殺者集団が住んでいると言う。そこの出身の者か。
 血は赤い。人だ。魔物ではない。どくりどくりと心臓の鼓動に合わせるように血が噴き出している。暗殺者は背中に巨大な剣を背負っていた。白い布に包まれた、不吉な剣。人の囁き声のような音がさざ波のように揺れている。
「ミミ!」
 そのときディークヌートの背後で蝙蝠が叫んだ。

      ×             ×             ×

「ミミ!」
 それは師が、初めて弟子である彼女を気遣った声だった。同時に念話が飛んでくる。
『ミミ、もう良い、内功を解け。元の体に戻して良い』
 ――はい、我が師グソン。
 彼女は黒い装束を緩める。途端、肥大化し、強靭な骨格を誇っていた彼女の体が、しなやかなものに変化する。敵は少し驚いたように「女か」と呟いた。
 膨らんでいた筋肉が縮む。そのまま筋肉で血管を絞めつけ止血を行った。これで、少なくともあと数分は戦える。面が割れる。粉々になった。それによって彼女の美しい顔が月明かりの下にさらけ出された。ミミは荒い息を繰り返しながら、油断なく身を起こす。
 敵は、化け物だ。
 最初は軽く見ていた。自分の隠密を破れていない彼を。英雄とて所詮は人。陰から一撃の下に急所を断ち切り、一瞬にしてもの言わぬ肉に変えてやろうと思っていた。
 だから失敗した。身を隠すことだけが、彼女にとって唯一の利点だったのに、それをあっさり放棄してしまったのだから。
 こちらのナイフは当たらない。もしくは彼の全身を覆う鋼鉄にあっさりとはね返されてしまうだろう。対して敵の一撃は、攻撃の際に発生する二次的な衝撃に、体がかすっただけで体が千切れるほど。実際この有様だ。一歩間違えれば今頃死んでいた。
 死ぬ――。別に死んだって良いか。……いいや、まだ死ねない。この英雄を殺さねば、自分は死ねない。死ぬのは、この英雄を殺してからだ。それが、生まれてきた意味なのだから。
 目の前には、巨獣もかくやという威圧感を放つ英雄ディークヌート。あれは本物だ。そこら辺の魔物などでは束になっても相手にもならない本物の化け物。
『ミミ。ここでお主を無駄に使いつぶすわけにはいかん。本気を出せ。風鳴きの剣の使用も許そう。全力で事態を切り抜けよ』
 ――御意。
 ミミは頬の切り傷を手の甲でぬぐい、口の中に溜まった血を唾とともに吐き捨てた。そして腰布を一気にひきはがす。濃密な匂いが漏れ出る。息を吸う者全ての意識を奪ってしまうような、強力なものだ。長く吸えば、仮死状態などでは済まない。体質や体力によってはそのまま永眠することになるほどの毒である。無関係の者の命はあまり奪いたくはなかったが、今はそんなことを言っている場合では無かった。
 英雄の纏う風の被膜に、毒の霧が混じる。この霧を嗅いだものは身体機能を失う。筋肉が弛緩し、息をすることもままならぬようになるのである。彼女の里では、彼女以外は誰も耐えられなかった死の霧が、英雄を襲う。
「む……ぅ……」
 英雄がよろめく。
 ――やったか?
 ミミは息を吐く。このレベルの毒は、さすがに彼女でも厳しい。袈裟に斬られた裂傷もある。いよいよ早く決着をつけねば、あとわずかももたない。
「ぬ……ぅ……。ぅ、おおおおおおおお!」
 そのとき、ディークヌートは吠えた。伝説のドラゴンの咆哮も霞むほどの絶叫。しかしそれは断末魔などでは無い。英雄は、毒の霧を前に、ついに奥の手を晒したのだった。
 風が唸る。風が吠える。まるで台風の目だ。ディークヌートの巨体をさながら嵐の渦のように風の魔素が取り巻く。そしてミミは見た。彼の額に輝く、神々しい刻印を。
 聖痕。
 スティグマと言われる、聖なる傷。フランチェスカ教の主神が英雄と言われる人間の夢の中に現れ、自らの手でつけていくという神の刻印である。これを持つ者は人であって人ではなくなる。具体的に言うと、聖痕が具現している限り、死ななくなる。年もとらず、どのような傷もすぐに治癒してしまうのだ。今のディークヌートは人では殺せない神霊。毒の霧など効果があるわけが無かった。
 ミミはたたらを踏む。初めて恐怖を抱いた。こんなものを殺せるとしたら、それはもう伝説に言う龍くらいなものだ。駄目だ。逃げないと。でも、どこから――。
 抜け出る隙間は、天井の穴と、左横の穴。そしてディークヌートの背後にある出入り口だけだ。
『ミミ!』
 念話が飛んだ。ミミは我に帰る。ディークヌートの体が空を跳んでいた。そして隕石のようにミミに向かって突っ込んでくる。
「っ」
 横に跳ぶ。紙一重で避けようなど不可能。全力で跳んでかわせるかどうかだ。
 嵐が通りすぎる。彼女が一瞬前に居た場所には大穴が空いた。紙一重だ。いや、軽々とかわして、ようやく紙一重だった。かすっただけでも体は粉砕されてしまうのだから。
 しかしどうにかかわせた。やるならここしかない。
 ――逃げ切れるか。
 天井と横の割れ目は論外、抜ける途中にあの斧にひき肉にされてしまう。ディークヌートの背後の出入り口――駄目だ、背を向けた瞬間に斬られる。
 ――やはりディークヌート・ディローザを倒すしかない。
 一瞬でそう判断を下す。逃げるなど甘えだ。英雄に狩り殺されるだけだ。ここは前に進む。そうすると彼女の行動は早かった。迷いもなく背負った大剣の柄に右手をかける。
「風鳴きの剣よ。どうか私に力を」
 彼女に剣が答える。刀身を覆っていた布が宙ではらりと解けた。奇妙な声が大きくなる。彼女は地を蹴った。テーブルの裏に回りながら、素早く気を練る。ほとばしる体内のエーテル。火、土、水、風どれにも当たらぬ純粋な力が体内で見る見る間に増幅されて彼女の全身に満ち満ちた。
 ――風鳴きの剣ッ!
 鞘から解放される白刃。闇に煌めくそれは、ただの剣では無かった。白い鋼の刀身には無数の穴が空いている。親指ほどの小さなものから、こぶし大の大きなものまで。それぞれが風を食らうように悲鳴のような音を上げている。
 風鳴きの剣。それは儀式魔術が多い東方の魔術師たちが、戦闘用に造り上げた儀式剣である。刀身に穴が空いていることから強度は下がるが、代わりに特定の魔術行使に陣や詠唱が不要となる。刀身に出来た無数の穴が陣の役目を、風穴をなぞるように響く音が詠唱の代わりとなるのだ。
 そしてこの剣が作りだす魔術は一つ。
 風鳴きの剣。
 風無きの剣。
 風を、消滅せしめる剣である。もっと言えば、風の魔素を完全に封じる剣。風の魔素によってなされる神の奇跡及び魔術行使を一切無効にする剣である。
 風が泣き叫ぶ。
 風殺しの魔剣が、風の被膜を打ち消す。ディークヌートは、なに、と目を見開いた。ミミの目が歪む。これで最後だ。次の機会は無い。故にここで全力を出し切る。全てをぶつけて、この英雄殺しの魔剣を奴に叩きこむ。
 ミミの体が跳ねる。ミミの体がしなやかに舞い踊る。
「秘剣――ッ」
 息を詰める。矢を引き絞るように。蜂が針を刺すように。練りに練った気を刃にのせて。彼女は一呼吸の内に二〇の斬撃を繰りだした。

    ×              ×               ×

 暗殺者の剣が霞む。刹那のうちに繰り出された閃撃は、もはやディークヌートをもってしても不可視の領域に踏み込んでいた。
 ――やるな。カイの師にしたいくらいだ。だが。
 相手が悪かったな。
 ディークヌートは口の端釣り上げた。斬撃は確かに視認不可能だ。しかも風殺しの効果がついている以上、ディークヌートにとって致命的なものになる。それが複数撃――少なく見積もっても一〇は来る。しかし――。
 ――当たらなければ、どうということはない。
 そして最後まで斬撃を出させぬようにすれば脅威度は激減する。故に――。最初の三撃を叩き落とし、次の三撃の軌道を狂わせ――こちらの必殺の一撃を叩きこむ。それで詰みだ。
 敵は確かに強い。おそらくフランチェスカの中にもこれほどの使い手はいまい。ディークヌートも聖痕が無ければ今頃は殺されていた。しかし、所詮はたらればの話。彼女では、ディークヌートに及ばない。それは厳然たる事実としてそこにあった。
 ――残念ながら、私は遠の昔に、半分くらい人であることを辞めているのだ。
 彼女の最初の三撃が迫る。それを勘だけで難なく叩き落とした。崩天戦斧が天井にもう一つ割れ目を作る。彼女の肩から血が飛んだ。それでも怯まず、彼女は英雄に挑み続ける。続く三撃。完全に剣筋を感じ取っていたディークヌートは難なく軌道を逸らす。
 女の目が驚愕に見開かれる。この英雄は神でも殺せぬのではないか――唖然としている様子である。
 ――そして、これで詰みだ。
 崩天戦斧が走る。軌道を逸らされた敵の魔剣は、諦めずに続く斬撃を繰りだすが、いかんせん遅い。もう彼女には身を捻る余裕すらないだろうし、身を捻ったところで、おそらく余波に巻き込まれて肉片になる。

 そのとき。

 何の偶然か、ディークヌートの視界に、床に倒れ伏す若い給仕の姿が目に入った。年はカイと同じくらい。体つきも、割と彼に似ている。
 ――これは。
 巻き込んでしまう。それは――居たたまれない。ディークヌートは斧の軌道を変える。鎧を軟体化させ、迫り来る六撃を完璧に避けながら逸れた斧を再び返す。これも彼女は避けられない。十分に殺せる一撃である。
 瞬間、体を反らせたディークヌートの視界に天井の裂け目が入った。そこから見える白い月も。暗闇に慣れていた彼の目が、白い光に焼かれる。
 その一瞬が、命取りになった。
 硬直が解けた瞬間、風を喰らう魔剣は聖痕の巻き起こす暴風を切り裂いて、ディークヌートの目前に迫っていた。
 ――あ。
 チ、と。
 七撃のうちの一撃。軽い音とともに、彼の額の聖痕に傷がついた。わずか一線。糸ほどの細い傷だった。しかし、魔剣の一筋は絶大な効果をもたらす。聖痕は風の魔素を散らされ、わずかな一瞬具現を解く。弱まる回復力の中で、糸ほどの切り傷がゆっくりとふさがっていく。
 しかし傷が完全にふさがりきる前に、最後の一撃が飛んできた。
 彼はそれを感じながら、脳裏に不肖の弟の顔を浮かべる。
 ――カイ……。

    ×              ×              ×

「え――?」
 その驚きはどちらのものだったのか。
 気付いた時には、英雄と呼ばれる男の首が空を舞っていた。黒い球体は会場の天井に届かんばかりに高く高く舞い上がる。空に浮かぶもう一つの月。それは月触のように本物の月を欠けさせた。ややあって、首は音を立てて石の床に落ちた。
 彼女は風鳴きの剣を手に茫然と立ち尽くし、しばらくしてようやく事の次第を把握した。ミミは震える声で祈るように口にする。
「ディークヌート・ディローザ、討ち取ったり……!」
 口にしたあと激しく咳込む。口を塞いだ右手は赤い血に染まっていた。
 外が騒がしくなってくる。空いた穴から春の夜風が流れ込んできて、幻惑の香りを散らしていく。何人かの給仕がうめき声を上げた。
 ミミは風鳴きの剣を抜いたまま、左手で英雄の首と崩天戦斧を拾い上げた。
 廊下を走り、二階へあがって、窓から音も立てずに跳躍する。木の枝に降り立った時、激しく傷が痛んだが、なんとか気を失わずに耐えることができた。そのまま器用に街の暗がりに滑り込み、巡回の兵士をやり過ごす。影から影へ黒い霧のように移動。内功で筋肉を膨らませ、血がこぼれないように気だけは使った。
 しばらくそれを繰り返し、ようやくクーゲルブルグの城壁の前までやってくる。衛兵は、周りに居ない。この高い塀を越えられる者などいないとたかをくくっているのだろう。ミミは壁に取りついた。そのまま熱に浮かされたように壁を上り、下りも同じように降りようとして、そこで限界が来た。激しく咳こみ、手から力が抜けていく。そのまま地面に体が激突するが、別段痛みは無かった。代わりに耳にグチャリという酷く耳障りな音が聞こえてきた。見れば、月に照らされた草が、赤く染まっているではないか。それどころか、赤い水たまりを作っている。彼女はそれをぼんやりと見つめた。
「ミミ」
 ふと聞き慣れた声が聞こえた。顔をあげると幽鬼のような男が、月を背に忽然と立っていた。それが誰か分かった時、彼女の表情に笑みが浮かんだ。
「グソン師。やりました。ディークヌート・ディローザを討ち取りました」
 彼女はそう言って左手を挙げる。が、そこには何も握られていなかった。途中落としてしまったのだろう。
「なんと、ようやったな、ミミ」
 グソンは陰気な顔に朱を差して喜んだ。それから笑顔を作ったまま手を差し出す。
「あ……。かたじけのうございます」
 ミミはそれに右手を添えるが、グソンは意外にも不快そうに手を引っ込めた。バランスを崩した彼女は再度地面に倒れ込み、ゴフリと肺にまで響きそうな音を口から溢れさせた。
「何をしておる。風鳴きの剣だ」
「ああ……」
 ミミは右手を見る。血に霞んだ視界には風殺しの魔剣は映らなかった。
「ふむ、そこか」
 グソンはそう呟くと、這いつくばるミミの横を抜けて、城壁の方へと歩いていく。小さく咳こみながらミミも体を起こす。風鳴きの剣は、幸いにも城壁から降りるときに落としたらしく、彼女のすぐ後ろに転がっていた。グソンは恭しく剣を手に取ると、懐にしまっていた新しい麻布を取り出した。血に濡れた剣を丁寧に拭うと、剣を胸に抱えて城砦の裏手の暗がりの方に歩み去っていく。
「あ、あの……」
「なんだ?」
 いたのか、とでも言いたげな調子だ。彼女は血の混じった唾を呑みこみながら、どうにか言葉を紡いだ。
「私はこれからどうすれば……」
「ああ、もう自由にしてよいぞ」
「えっ?」
 幽鬼のような男は彼女に振り返って繰り返す。
「お前の役目は終わった。あとは何をしようが自由だ。どこへなりとも行ってしまうがいい」
「…………」
「どうした? もっと喜べ。ようやくこの血生臭い道より解放され、相応の乙女になれるのだぞ? 貴様の長年の夢ではなかったのか」
「そのようなこと……」
「ミミ」
 グソンは呆れたようにため息を吐く。それから彼女の方へ引き返して屈みこむ。艶やかな彼女自慢の髪を鷲掴みにして、彼は優しく囁いた。
「まだ分からんか。貴様はもう用済みなのだよ」
「え……」
 薄々分かってはいただろう。しかし彼女は分からない振りをした。分かろうとしたくは無かった。親に餌を与えられなくなったひな鳥のように、訳が分からないと小首を傾げる。
 グソンは歯を剥いて笑うと、掴んでいた頭を地面に叩きつけた。今度こそ後ろをかえりみることなく城砦の陰に消えていく。
「ああ、何をするにも自由だ。だが一つだけ言っておく。そこでだけは死ぬなよ。死ぬなら森の中ででも死ね。後片付けが面倒だからな」
「あ……」
 彼女はふるふると震えながら右手をあげる。
 今まで親身になって自身を育ててくれたはずの男の影は、もうそこには無かった。

    ×              ×              ×

「グソン様、崩天戦斧を回収いたしました」
 城砦の裏手に回ったところで、彼の連れてきた影の一人が美しい魔斧を持って現れた。グソンは無感情な顔を装い斧を取りあげると、しげしげと観察する。彼の目には、静かに欲望の炎が燃えていた。
「よくやった」
「城内に落ちていた血痕その他も全て処理してございます。ただ、ディークヌート・ディローザめの首だけが見つかりません」
「良い。街の愚民どもに見つけさせるのも一興である。英雄のかんばせに似た首が路傍に転がっているのだ。さぞ、驚くことであろう。ふは、ふはははは」
 掠れた声で笑う。影は一つ呼吸を置いた。
「グソン様、ミミ殿は……」
「ああ、あれな」
 グソンは斧を下や横、様々な角度から見ながら生返事を返す。
「捨てた」
「左様で。死体の処理はどうしましょう」
「いや、殺してはおらん。長年旅をしたこともあり、少し情が湧いてな。より安らかな死を与えてやろうと思った」
「……?」
 首を傾げる影。グソンは天空の星を見上げた。あの女が今頃どんな顔で森の中を彷徨っているか、想像するだけで気分が晴れる。弟子のくせに師よりも優れた武人であったあの女が、スラムの片隅でゴミを漁っていたくせに、気がつけば山の翁の技を全て修めていたあの女が、どんなにみじめな死に方をするか楽しみでならなかった。
「のう、ミミ。そなたは知っていたか?」
 グソンはそっと呟く。
 ――人は誰しも、心の中に鬼を飼っているのだということを。

    ×              ×              ×

「うっ……うっ……うっ……」
 一歩進むごとに傷が痛む。もう内功で止血をする力も残ってはいない。血は森の中に入ってからいよいよ多量に滴り落ちていた。
「死ぬなら、見つからないところで。死ぬなら……」
 うわ言のように繰り返す。
 ……幼少の頃、グソンに拾われてからずっと秘宝を取り返すためだけに修練を積んできた。それ以外の記憶はあまりない。社会術を学ぶためにときたま街に送りだされたくらいか。技の研鑽をしていなければ、街で見た綺麗な服を思い返しては一人笑っていたように思える。それだけだ。特段の思い出はない。
 だから生きる目的を果たした今、彼女の中には何もなかったのだ。
 何も無い。これから何をして良いのかさえ分からない。死んでもいいと思ってしまう。しかし皮肉なことに、山の翁の術を修めた体は執拗に生きようとしていた。
 ほとんど自我というものがなく、ただ体は生命を欲しているという点で、今の彼女は亡霊も同然だった。彼女の体は森の奥――より効率的に気を回復できるところを探して彷徨っていた。
 ……ふと思う。ここは自身を捨てたグソンに怒りの感情を抱く場面ではなかろうか。彼女の理性は客観的に自分を見つめていた。長年苦楽を共にした師に路傍の石のごとく扱われたのだ。一個の人間として、憤りを感じて当然の状況である。しかし一方で思う――グソンは本当に自分を捨てのだろうかと。そもそも、彼は本当の意味で自分を拾ってくれていたのだろうかと。ただの道具としてしか見ていなくて、人として見られていなくて、それも薄々分かっていて――それで彼の事を人でなしとなじる方が間違っているのではないか。
 ――私は、自他共に認める人形だったのだ。
 だいたい、ディークヌート・ディローザにしても、彼女は別段恨みや辛みがあるわけでは無かった。ただ秘宝を取り返すよう教え込まれ、その過程で彼が立ちはだかったから斬ったまでだ。やはり人らしい感情を発露させて及んだ行為とは言えまい。命じられたから、殺した。別段何の合理的理由もなく、だ。
「そうか。私は、人ではなかったのか……」
 呟いてみて、目じりに熱い物がこみ上げてくるのを感じた。分からない。もう何も分からない。胸が冷たい。闇が、怖い。
 ミミは年相応の少女のように嗚咽を漏らした。洟を啜り、下唇を噛み、顎から涙を滴らせた。
 暗い中、不意に木の根に足をとられる。彼女はバランスを崩し、うつぶせに倒れた。仰向けになり、肩に手を当てる。手は真っ赤に染まっていた。血濡れの手を空にかざす。木の葉の向こうに、満天の星空が見えた。
「血を、止めないと」
 血を止めないと、死んでしまう。でも、血さえ止めてしまえば、山の翁の秘技は、彼女を生きながらえさせてしまう。
「血を止めたら、死ねないのか……」
 それは、嫌だ。
 ミミは涙にぬれた顔を歪ませた。
 ――ああ、本当に綺麗な星空だ。
 天に向かって伸ばされた手。それがゆっくりと、柔らかな草の上に崩れ落ちた。

    ×              ×               ×

 コポコポと水の流れる音が耳朶に響く。吸い込めば香る、草と水気を含んだ夜の香り。空を見れば宝石のような星達が燦然と輝きを放っている。雲ひとつない夜空だった。
 クーゲルブルグの外の森の中。
 カイは特に何をするでもなく、両手を頭の後ろに組んで仰向けに寝転がっていた。
 ここは空気が綺麗でひんやりとした実に過ごしやすい場所なのだ。しかも昼間には心地よい日差しが体を撫でてくれる、日光浴の穴場なのである。カイはこの場をちょっとした現実逃避の場に使っていた。ここに来ると何もかも嫌なことを忘れることができるのだ。ただし効能は一時的なものではあるが。
 そしてその一時的な効能も次第に薄れつつあった。
 ……あれからカイは剣の師を見つけるべく、儀式が終わるまでひたすらそれらしい人物を探し求めた。狙いは、東方の武僧だった。カイの生まれた街の古老によれば、はるか東方には魔術を使わぬ剣の型があるという。大分怪しい話しではあった(東では呪術が盛んであると言うし、呪術がある以上それを使わないのは不自然だと思ったからだ)が、仮にその話しが本当だとすれば、そこからその剣の使い手に辿りつくのも容易になるはずだった。運が良ければ本人がその使い手だったという場合もありうる。
 古老の説明によれば、武僧は老人でもないのに頭に髪がないのだという。そして肉料理を食べず、青い葉っぱばかり食べるので、顔に脂のてかりがなく、ぱさぱさに乾燥している。また贅沢を極端に嫌うので体には橙色の汚れた布を一枚だけしか纏わないらしい。この条件に合致する人物が、古老曰く東方の武僧らしいのだが、そんな奇妙な人間は半日歩きまわっても見つけ出すことはできなかった。
 というか、今日まで暇さえ見つけてはそのような人物を探していたのだが、一向に出くわす気配がなかった。隊商の人にも聞いてみたが、皆首をひねるばかりである。
「ふう」
 それにしても、と思う。昼間ディークヌートに聞かされた伝承と言い、人の口から出たものはどうにも信用ならないものばかりだ。この調子ではかの伝説の黒龍も一般に言われているものとは違うかもしれない。まあ、黒龍が伝説と違っても、別段カイは特に困ることは無い。実際に討伐しに行くのは兄のディークヌートだ。彼は不可能を可能にする英雄。放っておいても勝手に龍を屠って帰ってくるに違いない――カイは寝がえりを打った。
 このまま武僧が見つからずにディークヌートが龍を倒してしまったら――そう思うと目の前が真っ暗になる。龍の討伐が済めばディークヌートに故郷に連れて帰られるに決まっている。何の収穫も無しにだ。そうしたら、いよいよ本当に学者にでもなるしかなくなってしまう。学者にでもならなければ、家の財産をただ食いつぶすだけの寄生虫の人生だ。それは――たまらなく嫌だった。
 せめて、あの訳が分からないほど重い鎧を軽くする奇跡だけでも使えたら――カイは傍に落ちている枯れ葉を見た。低く聖言を唱える。魔術理論は兄の魔道書をこっそりと拝借して暗記した。方法は分かっているのだから、あとは根性で何とか……なるわけがなかった。
 風の魔素は嘲笑うようにヒュルリヒュリと大気に紛れていく。枯れ葉はぴくりとも動かなかった。カイが聖言を口にするのをやめると、泉の裏から微風が起こり、それがそっと枯れ葉をめくっていく。
 そよ風にも負ける『圧倒的』魔術の才能。カイは肩を落とした。
 その時だった。
「……ん?」
 鼻を微かにうごめかす。今、風に乗って金臭い臭いが漂ってきたのだ。カイはこの臭いが何なのか知っていた。
 ――血の臭い。
 素早く身を起こす。風はクーゲルブルグの方向から吹いてくる。と言うことは、この森のどこか、クーゲルブルグ方面にこの臭いの源がいるはずだ。血から連想するものは、死体だ。死体か、それの一部。この風の先には死体が転がっているということだろうか。いや、あるいは、死体を作った何者かがいるのかもしれない。
 カイは唾を嚥下した。この森には、大型の魔獣は出没しない。魔獣が出そうなところで、ここから一番近いのは要塞の裏手の荒野だろうが、さすがにあそこからこの森まで魔獣がやって来るとはにわかには考えられない。とすると、血の臭いの元はそれ以外の何か――やはり、死体か、それに準じるもの。
 ここで場に留まるほど臆病者でいるつもりはなかった。いずれは英雄の横で戦いたい。むしろ兄を越えていきたいとまで思っているのに、この程度でたたらを踏んでいるようでは先が思いやられる。
 肝は太く、大胆に。しかし、できうる限り細心の注意を払って、慎重に。
 カイはゆっくりと森を進んでいく。
 しばらく進んでいくと、苔のたくさん生えた柔らかな地面に出た。木々の本数が多い。見通しも悪かった。
 ――血の臭いが濃い。
 カイが慎重に大木の影を回る。
 大木の先は、日差しを奪われたのか木々が生えていない。苔は相変わらず多く、まるで緑の絨毯のようだった。
 そこでカイは、ようやく臭いの元を見つけ出した。
 月光に照らされた苔の絨毯。その真ん中に赤い水たまりを作って、少女が倒れ伏していた。
「おい!」
 慌てて駆け寄る。背は高い。カイと同じくらいだ。それに野生の獣のようにすらりとしている。肥満体質の多いフランチェスカでは珍しい体型だ。
「君! 大丈夫か!」
 屈みこんで体を起こす。瞬間、女の子の肩口から噴き出した血が顔にかかって絶句した。酷い傷だ。全身に十数か所の裂傷。一番深刻なものが右肩から左わき腹まで袈裟に走る傷。普通はその場で死んでしまってもおかしくないレベルの傷だ。しかし、少女は信じられないことにまだ生きていた。呼吸は弱々しいながらも確かにあり、形の良い胸もきちんと上下しているのだった。
 カイは着ていた服を脱ぐと、手早く裂いて包帯を作っていく。
「待ってろ! 絶対助けてやるからな……!」
 彼女に呼びかける。カイはわずかに目を眇めた。
 今気がついたが、この少女は、昼間に出会った東方人の少女だ。あのときの踊り子の衣装ではなく、ビロードのような黒い服を着ているからすぐには分からなかったが、確かにあの――ミミとか呼ばれていた少女だ。
 ――この子、曲芸師なんだよな。それがどうしてこんな酷い目に?
 例の連れの男の姿も見当たらない。単にはぐれたのか、あるいはのっぴきならない事情に巻き込まれたのか……。
「っ! ぼーっとしてる場合じゃねえ! 止血、止血!」
 気を取り直したカイは少女に覆いかぶさった。
 血で固まった衣服を乱暴に剥いでいく。肌にくっついて剥ぎ取りにくい部分は携帯していたナイフで切り裂いていく。胸の部分の服を剥がすと、彼女の綺麗な胸が露わになった。わずかに息を呑む。腹の方の衣服も切り裂くと、彼女の引き締まった腹筋が見えた。うっすらと腹筋は割れ、肋骨も浮いているが、年相応の少女のような柔らかそうな肌だ。腰もきゅっと引き締まっている。
「目の毒だ……」
 カイは弱々しく呟いた。鼻の奥が熱いと思ったらいつの間にか鼻血が垂れている始末である。傍から見ればカイが少女を強姦しているような構図。カイはついに下にまで手を伸ばす。
「ごめん、許してくれ!」
 カイはナイフを入れると、最後の布を勢いよく引き裂いた。露わになる少女の肢体。カイはうめき声を上げた。

 どこかで梟がホーと密やかな鳴き声を上げた。





                                                     『続く』

―――――更新履歴――――――
4月12日。プロローグと第1章を投稿。
4月16日。第一章までを修正。
2013/04/16(Tue)19:39:44 公開 / ピンク色伯爵
■この作品の著作権はピンク色伯爵さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 読んでいただきありがとうございました。規約に触れるようならば削除します。作品が完成した暁にはどこかに送ろうかと思っているのですが、リスペクト先の物書き様が首を横に振られるのでしたら自粛いたします。感想等お待ちしております。

 改稿前に読まれた方へ。第一章の概要。
 カルヴァン、アグニ、ヴェステンチカは一章では登場しません。

シーン@
 プロローグ 黒龍と少女の契約。

シーンA
 主人公カイ・ディローザが兄のディークヌート・ディローザに盾を届けます。黒龍の討伐方法について二人で議論。カイは自分なりの考察を述べます。ディークヌートに「学者にでもなったらどうか」と意見されます。

シーンB
 神の奇跡が使えず、騎士団員でないカイは幕裏から連れ出されます。黒龍討伐隊任命のセレモニーには参加できません。カイは、この間にクーゲルブルグにやってきた目的である、『神の奇跡(魔術)を使わない剣の型』を修めた東方の武僧を探すことにします。その矢先、妙に目立つ曲芸師の一団に出会います。

シーンC
 カイは知りませんでしたが、この曲芸師の一団は東方の暗殺者の集団でした。彼らの狙いは、民族の魂も同然である『崩天戦斧』を取り返すこと。『崩天戦斧』はディークヌートがカザフス帝国より簒奪した魔法の斧です。自然、彼らの狙いはディークヌートになります。

シーンD
 暗殺者の中でも最も技に長けたミミ・ロウランにディークヌートは暗殺されてしまいます。黒龍を狩るはずの英雄ディークヌートがまさかの死亡。ディークヌートの『崩天戦斧』は暗殺者の手に渡ります。ただし、彼の首はどこかに行ってしまい、行方不明に……。

シーンE
 ミミは師であり、育ての親である、グソンに捨てられます。師よりも優れた弟子は要らないと言われます。ディークヌートとの戦いで深手を負っていたミミは、城塞の外の森でひっそりと死のうとします。彼女は気を失います。

シーンF
 一方のカイは師匠探しに成果を出せず、城塞の外の森で一時休憩をとっていました。血の臭いを感じ、彼は周囲を探索、血まみれで倒れているミミを発見します。彼女の服を脱がせて止血をするところで、第一章は終わりとなります。
この作品に対する感想 - 昇順
 こんばんは、ピンク色伯爵様。上野文です。
 ご健在のようで良かった!
 御作を読みました。導入部の少女とドラゴンが実に黒々とした雰囲気が出ていて良かったです。これからどのような物語が始まるのか、わくわくしながら引き込まれました。
 さて、以下はどこかの賞に応募すると仮定しての辛めの感想となります。

少女 ドラゴン カイ カルヴァン ディークヌート アグニ ヴェステンチカ ミミ グソン 東洋人の女

 いくらなんでもキャラ出しすぎです。88ページの大半を新キャラで埋め尽くされては、せっかくの盛り上がりがキャラを覚える作業でパンクします。今回の焦点はカイと兄貴なんだから、割り振りは二者に集中させて、ミミとグソンは主役?であるカイのキャラ立てに成功してから出したほうが良かったんじゃないかなあ、と感じました。
 辛いことも書きましたが、面白かったです。

精霊にドラゴンに


2013/04/14(Sun)22:30:190点上野文
 ↑失礼。最終3行は消し損じです。申し訳ないm(_ _)m
2013/04/14(Sun)22:33:270点上野文
 おひさしぶりです、作品読みましたー。
 これって……『タイトル未定』? いや違ったら申し訳ないけど、導入部はまさにあれ。規約違反になるのなあ……なるとしたら「二次創作の禁止」になるんだろうけど。これは本家の作者さん次第。ただその張本人は「つづきは諦めてくれ」なんて言って、書くの諦めてるっぽいし。いやほんとあの方のさじ加減か。けど最近見ないし死んだんじゃないですか。
 いや冗談はさておき内容を。自分も登場人物多い、ちょっとゆっくりしてって書こうとしたんですが、上野さんに先を越されてしまった。いや導入として、最初の投稿として色んな人たちが出てきて、その中には敵やら敵じゃないのかわかんないやつがいるのはワクワクするですが、うーんやっぱり多い。しかもそれがほぼワンシーン、カイくんが盾届けるって行動だけのシーンで描かれてますから余計ですね。
 けど、後半ですよ。ミミとディークヌートのバトルは、いや盛り上がった。風呂場で読んでいたんですが、危うくのぼせるところだった。ここは読みいってしまいましたね。状況もよくわかったし、有利と不利が入れ替わって、そのたびにお互い技をだしてしのいでいって、最終的に全力でぶつかったのに不運が負けにつながる。良いですね。いや「あ、こいつ絶対に死ぬわ」というのは、登場シーンからなんとなく感じ取っていましたが。
 さて、こっからどうなっていくのかちょっと読めない。バトルに夢中になったせいで黒龍のこと忘れてましたけど、誰があれ狩りにいくことになるのか。カイくん?
 とにかく、つづき楽しみにしております。
2013/04/14(Sun)23:06:240点コーヒーCUP
 ピンク色伯爵です。お二方、感想ありがとうございました。

 上野文様。
 あっちゃあ、登場人物が多かったか……。構成はかなり考えたつもりだったんですが、これはあかんなあ。というのも、コーヒーCUP様からも同じ指摘をいただいているんですよね。これは構成を変えざるをえない。とりあえずちゃちゃっと変えて、今夜中にでも第一章を再投稿します。カルヴァン、アグニ、ヴェステンチカを削りますので、大分分かりやすくなるはず。視点も前半はカイ視点で進行するようにしますので、多分主人公が誰か分からないという事態は起こらないはず。た、多分……。
 この小説は電撃ではなく(電撃は時期を逃しました)、9月の小学館にでも送ろうかと考えています。ガガガ文庫ですね。なので、規定枚数の上限もかなりゆるくなっています。450枚まで大丈夫だったかな。この作品は原稿用紙500枚くらいで完結予定なので、ちょっと削らないといけませんが。
 読んでいただきありがとうございました。また次回もよければお付き合いください。

 コーヒーCUP様。
 感想ありがとうございました。
 『タイトル未定』です。本家様が「書かない。諦めろ」とおっしゃっていたのを、これはもったいないと思いまして。あのプロローグ、本当にかっこいいんですよね。黒龍とか少女とか。僕なんかより、もっと手練の方に書いてもらった方が作品も喜ぶんじゃないかとは思いますが、多分誰も書いてくれないんだろうなあって思ったので、こっそりしこしこやってしまうことにしました。一応プロットはもう完成しています。なので最後まで行けるとは思います。一章はもう改稿し終わっているので、修正版は今夜にでも上げられるんじゃないかと思います。現在は二章執筆中。
 それにしてもリアルタイムで連載するのは久々だなあ。この一年短編か中編しか上げてないですから、連載するのは一年半ぶりくらいですかね。連載には体力が要りますので、短編や中編とはまた違った緊張があります。こうして感想がもらえるのは何よりの励みになります。
 読んでいただきありがとうございました。次回もよろしければお付き合いください。

 感想をいただいているのに、お二人の作品を全く読めていません。不義理をしてしまって申し訳ありません;
2013/04/16(Tue)18:33:560点ピンク色伯爵
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