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『仙人坑儒連鎖 《現在完了》』 作者:フラット / 時代・歴史 ファンタジー
全角19908文字
容量39816 bytes
原稿用紙約61.25枚
そして後に語られる事となる。彼は笛の名匠であり、愚かなる狂言師であったと……。


第一章 現在完了

  道――――、一を生じ、一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず。
  天を立つる道は、陰と陽のみ。地を立つる道は剛と柔のみ。人を立つる道は仁と義という。
  名は体を包み、用は体に伴い生ず。
  体たる剛と軟、陰陽と名し、仁と義を用いる。
  天地、この理に回帰せんと欲す。

 四千年の歴史とはよく言ったものだ。人にとってはつくづく気の遠くなる道のりだが、世界に息吹くものは黙々とその迷回廊を歩み続けている。名称、領土、支配者。すべてが万華鏡の様に目まぐるしく、それぞれの時代を極彩色の色取りで飾った。
 そう、お察しの通り。それは天地の中に咲く万物の華であった。
 かの華は見る事も適わぬ程に、大きな花弁を持つという。人々は日夜酒を注ぎ交わし、此れを誇って曰く、「どんな穢れなき蓮よりも泥にまみれず、どんな高尚の丹桂よりも香り高い」。そのすべてを理解しようと、学者達は一生空を学び、幾人もの旅人が、西から東、東から西への道を延々と辿り続けた。
 かの華の輪郭を見通せるだけの広大な視野と充分な時間が欲しい――――。
 それは不老不死という、誰かさん達の永遠なる願い。

 誰かさんの笛が鳴り止んだ頃、そこにいる誰かさんが目を覚ます。





一話 〜掟破り〜




 最近朝廷では、次期王が正式に王位を継承するという大きな転換期を迎えた……らしい。
 役所の前の立て札を見てそれを知ったから、ここに住む民草達には特に実感の沸かない話だ。しかし人々はそうなる度にいつも、天下がずっと安寧でありますようにと願う。畑のイネの様にすくすく育つ子供らは、皆で手を取り合って陽気に歌った。

  ぼくたちが 生きていけるのは 天子さまのおかげ
  しらずしらずに 天子さまに したがう
  ぼくたちが 生きていけるのは 天子さまのおかげ
  しらずしらずに 天子さまに したがう

 そうやって大人になった人々が、王はこの世で一番徳のある人だということを信じ、世襲によって奉られた王を今回も盛大に祝っていた。
「さーあ、さーあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」
 商店街は今朝も城下町らしい賑わいを見せ、出店が道を狭めるように所狭しと並んだ。
「今日仕入れたばかりの立派な冬瓜っ、うちならどこよりも安く手に入るよぉ!」
「隣の店は気をつけろ! ボッタくられるぞっ!」
 一見平和に見えていても、怒鳴り声の轟くここは戦場である。声だけは羽振りの良い売り手達が、呼び込みを競い、雑踏をかき回した。きちんと建物の体裁を保っているところもあれば、地面に筵が敷かれただけの店も多い。しかしどこも負けず劣らず、目に付くものは質より量の産物だ。
 それも仕方がない。王朝は今、権力をさらに揺ぎ無いものとする為、国の柱作りに邁進している。地方に役所や祭祀場が次々と建てられ、民の負う税の負担も馬鹿にはならない。よほど悪いものでない限り、多くて安い方に庶民は食らい付くのだ。豪族御用達でもない普通の商人達は、品質など意にも介さない。大事なのは、如何にして他の店より多くの客を取れるかだ。店同士の他愛も無い小競り合いすら、彼らにとっては立派に生き残りを賭けた戦いである。店のみてくれに関係なく、商売上手の周りには人が群がる。ちゃんと建物に収まっている商品でも、売り込みが足らなければ店ごと廃れてしまう。そして丁度この十字路の一角にも、過酷な競争に置いてきぼりを食らい、閑散と佇む一軒の商店があった。
 野菜の種類が他より豊富な上、少量だが笊や砥石などの台所用品が一緒に並べられている。商品を見た限りでは、この店に好感すら持てた。しかし一つ残念なのは、薄暗い店内の奥で仁王立ちしている男が、妙な威圧感を放っているところだろうか。
「ん……」
 無精髭を生やした店主が、片眉だけを若干尖らせた。
 誰も寄り付かなかったこの店に、ようやく客が寄って来たのだ。しかし店主は客に声を掛ける様子もなく、ただじろじろとその男を睨みつけた。普通なら気を悪くして去っていくだろう。だが、その男も少し変わっていた。店主とは目を合わせないようにしながらも、ずっとそこに居座っている。
 男はここへ着てから、ずっと人参の入った笊ばかりを気にかけていた。他のところで出回るものよりその人参は色が薄く、明らかに萎んでいる。売れ行きも良くはなく、一番余っている野菜――――しかしその男はこれを手に取った。
「オイ!」
 いきなり店主が、その男の胸倉に掴みかかる。
「なっ、何?」
「今盗ろうとしたな!」
「はぁ?!」
 客の男は驚きの声を上げた。店主の恐ろしい形相を見ても尚、あっけらかんとしているのは、状況が把握出来ていないのか。彼はまだ齢十七、八歳ほどの若者であった。
「さっきこの野菜に触っただろう!」
 そう怒鳴る店主に、青年はますます困惑を深めていた。
 彼はけしておかしな行動を取ったわけではない。手に取るくらいは買い物客として、当たり前の行動である。
「他の客だって、普通に触ってんだろ??」
 しかし店主は彼の反論を嘲笑でつっぱねた。
「……はっ、どこにそんなみすぼらしい客がいるんだ? 馬鹿にすんなっ、俺だって客と乞食の見分けくれぇつく!」
「えっ……」
 そう言われて青年は思わず言葉に詰まった。
 確かにみすぼらしい。彼の服装は汚れていて、破れかぶれの作務衣。髪は猿の毛の様に色が薄く、美しい黒髪には程遠い。薄い生地の烏帽子を被って、はねっ毛の爆発頭をどうにか誤魔化している。おまけに肝心の手荷物がない。唯一持ち物だと言える竹笛が、作務衣の重ね襟から少し飛び出て見えているだけだ。
「しらばっくれようったって無駄だからな!」
 青年の身体を揺さぶり、唾を拭きかけながら店主が吼える。その勢いに圧倒され、青年の口からはひどくマヌケな【ハ行】 の発声しか出てこない。
「おととい、斜め向かいの店に盗みにいったろ! 日が立たないうちに連続犯たぁ大胆なことしたなぁ、烏帽子の兄さんよぉっ!」
 全く身に覚えがない、青年は思わず目を剥いて叫んだ。
「な!?」
 ついに驚きが【ナ行】まで達してしまった時、
「大人しくしろ!」
 店主は彼を強い力で突き飛ばし、いとも簡単に地面に捻じ伏せた。筋肉質な店主の全体重が容赦なく圧し掛かり、大して鍛えられてもいない細い腕がミシミシと軋む。
「むりむりむりっ、折れる〜〜〜〜っ!」
「知ってるか? 今朝も盗人の屍が市場の門前でさらし者にされてたなぁ。俺は優しいから腕の骨 一本くらいで勘弁しといてやるぞ。その若さでお役所行きは流石に不憫だ……」
「ちがっ……勘弁してくっ……おぇ! げほげほっ」
 何とか弁解しようと慌てた拍子に、土埃を吸い込んでしまった。
 もはや考えうる限り、最悪な状況であった。無実の罪で骨を一本犠牲にするしかないのか。青年が早くも絶望を感じ始めた時だ。
「オイオイどうしたっ、何の騒ぎだい?!」
 まさに上から天の声。その声に反応して、関節技を極めていた店主の腕力が若干弱まる。
 噎せ返っていた青年も恐る恐る薄目を開けた。周りを取り囲んだ野次馬の隙間を縫うように、一人の男が此方に近づいてくる。
「チャー! 一昨日の盗人を捕まえてやったぞ!」
 店主は勝ち誇ったように叫んだ。駆けつけたツリ目気味の男は、それを聞くと驚いて青年の顔を覗き込む。彼は腰まである髪の毛を三つ編みにした胡人(こじん)で、年は店主より一回り若い印象だ。
「ほら、おめーの言ってた通りの奴だ! 烏帽子にボロイ服きた乞食だろ?!」
「確かにそうだな」
「それに見ろっ、この汚い赤毛!」
「うん、確かに汚い」
 一気に畳み掛ける店主に、チャーという男はただ感心してうんうんと頷く。しかしその後、困ったように頭を掻いた。
「こりゃ……ただの暇人じゃねぇの?」
「は?」
 店主はポカンと口を開ける。
「まーとりあえず退いてやれよ。あんた、ただでさえ重いんだから」
「何言ってんだ、逃げちまうだろ!」
 ムキになる店主をチャーは宥めて、今度は青年の方に呼びかける。
「逃げる理由がないさ。なあ、兄さん」
「……ぁ、……がっ!」
 青年は口を開くが、見事に声が潰れていた。圧迫されている上、擦り切れそうな痛みが咽喉の奥に走る。とりあえず首を必死で縦に振った。寝転んだ状態なので、振るというより動かしているに近いが、気持ちは伝わったらしい。店主は青年とチャーを交互に見遣ると、渋々青年の上から退いた。
 青年はすぐに身体を起し、背中や腕に付いた土を払う。
「ゲホッゲホッ……なん、だか知らんが、ゲホッ、あんたが来てくれて助かった……!」
「安心するのはまだ早いんじゃねぇかな?」
 店主はまだ汚いものでも見るかの様な目で青年を睨んでいた。ついでに蝿も寄ってくるので、青年は手でそれを追い払う。まだ彼は疑われているらしい。
 しかし不幸中の幸いというべきか、斜め向かいの商い人・チャーの出現で、謂れの無い《前科》の疑いだけは、はっきりと晴らすことができた。チャーは飄々として口軽な印象はあったが、二人に比べると非常に出来た大人だ。その後も青年と店主との間に入って、喧嘩の仲裁をしてくれたのである。青年は当然ながらまだ何も盗っていないので、店主には「未遂に終わったのだから許してやれ」と穏便に肩を叩き、その理屈に不満が残る青年には「昼飯を奢ってやるから」と言って双方を宥めた。そして今日の仕事を早めに片付けると、本当に近くの定食屋まで青年を連れて行ってやったのだ。
 定食屋と言っても座る席は無く、料理の盛られた器を持って、茣蓙が引いてある処に腰掛ける。青年は粟の炊き出しと野菜と豆類入りの羹(あつもの)をご馳走になり、加えてチャーが頼んだ叉焼五枚の皿から二枚も分け分をもらえたので、すっかり機嫌も治っていた。
「いやぁ悪かったねぇ」
 バツが悪そうに頭を掻いて、チャーは言った。
「あんたが謝ることじゃないだろ」
「アイツはあれでも俺の小さい頃からの兄貴分なんだ。少し融通の利かない頑固親父だが、言うほど悪い奴じゃない。今回の事は水に流してやってくれ」
「別にいいって、もう気にしてない。今日はどうせ厄日なんだ」
「そうなんかい? そりゃ気をつけないとねー……おっと! そういえば、まだあんたの名前聞いてねぇな」
 箸でこちらを指してくるチャーに答えようと、青年は口の中の物を急いで飲み下す。
「清夫(しんふ)」
「へー……にしてもお兄さんさぁ、どうして人参なんだ?」
 青年の名は、名乗った先からスルーされた。別に名前で呼んでくれとは言わないが、「お兄さん」で済むなら最初から聞かなくてもいいだろう。そんな心中の台詞も、頬張るものと一緒に飲み込んでしまった。
 清夫はお椀の汁を一口啜った後に、返事を返す。
「……理由はないけど」
「おいおい、そんな長い間人参ばっか見てたって言ったら……それこそ不審者扱いされたって文句言えねぇよ?」
 チャーの言う事はごもっともである。
「……最初は別のもの買いに市場へ寄ったんだ。でもそれが思いの外高価でね……、諦めて他に良いもんないかなーってその辺フラフラ探し回ったら、あの人参に目が止まった」
「お兄さんね、本当に目利きの才能ないわ……」
 呆れ顔でため息をつかれ、清夫は少しムッとする。
「そんな事ないだろ、あそこ野菜の質はよかったはずだ」
「さっきあれだけアイツと口喧嘩したくせに、品物は褒めるのかい? あんたホント変わってるよ……。まあね、アイツの親戚はすぐそこの清栄って村にデカイ畑持ってるから、野菜に関しちゃ良いの取り揃えてる。うちも友人の好ってやつで、あそこの野菜いくつかもらってるし。けどあの人参に関しては……、贅沢言っちゃいけないけど……」
 そう言葉を濁すチャーは、清夫の背後にある台の上から、ラー油の瓶を取ろうと手を伸ばした。清夫はそれに気付き、代わりにとって渡してやる。
「知ってる。あれ《首落とし》ってんだろ」
 清夫の意外な切り返しに、チャーは目を丸くした。
「……意外に物知りだねぇ」
 感心したように呟かれたが、清夫はあまり喜ばない。
「たまたま。清栄って俺の名前の由来だから」
「あーそうだったのか、なるほど……。ところでお兄さんの名前って清栄だっけ?」
「清夫(しんふ)だよ」
 やはりチャーは聞いていなかった。しかし込み合っている大衆の中にいては、聞き漏らすのも仕方の無いことだろう。ざわざわと煩い周りの喋り声の方が、よっぽど多く耳に入る。その中でも、騒がしい若大工達の話し声が、二人の会話に横槍を入れた。
「お前さっきの話はホントなのか?!」
「ああっ、この間見に行った親方の話じゃ、今日も夕刻に、また空蝋軒(くうろうけん)へいらっしゃるって!」
「そりゃー良いっ、是非とも拝みたい! 上手くいきゃ俺らも天のご利益に預かれるかもしれねぇぞ!」
 興奮気味に話す彼ら。一体何をそんなに楽しみにしているのか。その話題の中身が気になり、清夫が余所見していた隙に事件は起こる。
 清夫が手元に視線を戻すと、
「あれっ?!」
 彼の器に乗っていたはずの叉焼が姿を消していた。
 最後まで取っておいた一切れ。それが彼の前から忽然と――――。
「悪い。実はオレ、叉焼大好物なんだよー」
 口の中で物を噛みながらおどけて話すチャーを、清夫はただ呆然と見つめるしかない。
「ん〜やっぱりこの肉ダレが絶品……って、おいおい、そんな悲しい顔しなさんなって!」
 無償で恵んでくれた彼を、責めることなどできようはずもなかった。
 しかし期待させてから落とされた時のショックというのは、筆舌に尽くし難い。清夫は心折れそうになりながら、粟に残った僅かな肉ダレの味を噛み締めた。


 寅の刻、何はともあれ腹は膨れたので、定食屋を後にする。チャーはこれから仕入先に用があるらしいので、都の外れに掛かった橋の上で別れた。清夫が別れ際に礼を言うと、「もう少しまともな格好が出来るようになったら、また奢ってやる」と返してくれた。そんな時、世の中も捨てたものじゃないと感じる。
 懐に手を差し入れ、小振りの薄い巾着を取り出すと、口を空けて逆さに振った。六つの貝貨が手のひらの上に転がり落ちる。口から漏れるのはどうしてもため息ばかりだ。
「やっぱ買っとけばよかったなぁ、さっきの人参」
 あくまで人参に拘る清夫。ふと橋の向こうに視線を飛ばすと、二人の男の子が此方に走ってくるのが見えた。
 子供は暢気でいいな。少し羨ましい気持ちになり、ある詩を口にした。
 
 子を持つ親は粟を炊き、朝に貧しく、親持つ子供は粟を食い、夜に富む。
 此れ即ち九天における潔白、天帝の徳に値するもの。
 天子も人の親なれば、盗人もまた人の子。
 取るに足らなき《へた》を断つ無かれ。

 その小難しい詩は、勿論彼の自作ではない。店先で見かけたあの人参が、《首落とし》 と別称される所以、その事実を詩にしたものである。
 親は朝から貧しい思いをして子供に飯を用意すれば、子供が夜の間に良く育つ。子に罪はなく、それは天に許された徳である。そんな親子と同じく天子と盗人もあるべきだから、下々の下らない罪は許してやりなさいというのが、その内容だ。今朝の盗人騒ぎを思い出したり、面前にいる無邪気な姿を目にして、自然と頭に浮かんできた。
 最後の方の《へた》とは、人参のへたのことで、同時に人の首を指している。大昔、この《首落とし》を食べた天子が味が悪いと激怒して、宮廷の料理人たちの首を撥ねた。しかし天子が天徳に従うのであれば、《親》 である天子が飯を用意しなければならないのだから、罪の無い《子》である民を責める事は間違っているというのだ。これは天子の暴政を戒めるといった類の意味がこめられているらしい。
 天子と盗人をよりによって親子関係に擬えるなど、一体誰がこんな恐れ多いことを謳ったのか。その人物こそ、首を撥ねられていそうな気がする。しかし子供の頃は親に養われ、ただで飯を食って何ら咎められないのだから羨ましいことこの上ない。子が盗人という表現は旨い。
「待ってよ!」
「早くしろよ、始まっちゃうだろ!」
 そんなことを考えているうち、彼らが清夫のすぐ前を元気よく通り過ぎた。清夫は一瞬それに気を取られたが、また視線を自分の手のひらに戻す。
「んんっ?!」
 貝貨が消えた。
「ちょっ……! 待てっ……あいつら!!」
 清夫は血相変えて彼らの後を追う。
 子供達は清夫が追っ掛けてくるのが分かると、一気に速度を上げて二手に分かれ、複雑な街道へと別々に逃げ込んだ。金を持っている方と持っていない方に分かれて清夫を撹乱し、脇道の多い裏路地で振り切ろうという魂胆だろう。彼らの逃げ足は思いの外早い。
 だが清夫の顔は何故か笑っている。迷わず足の遅い方を選んで追いかけた。
 彼は吹っ切れたのだ。朝から乞食やら盗人やらに間違えられ、食事中に一番の楽しみを奪われた挙句、スリに遭って財布の中身を失った。もうこれ以上何かあるはずがないと、根拠の無い自信すら湧く。
「待てやこらぁっ!!」
 全ての鬱憤を晴らすかの如く、子供相手に全力で走る清夫。これくらいは序の口と、その距離の差はぐんぐん縮まり、子供の背中を捕らえようと手を伸ばした。だが――――、
「ぎゃっ!」
 もふっと、何か柔らかいものが右足に突っかかった。
 清夫はその存在に驚いて前につんのめり、思わずその子供の服を掴んで下に引き摺り下ろす。
「きゃっ……!」
 女の子みたいな悲鳴を上げて倒れこむ子供。
 しめたと思い、その腕を掴んだ。
「誰か助けてーーーっ、酷い人に犯されるーーー!」
 その瞬間、壮絶な金切り声が辺りに一帯に轟く。
 周囲の目が一斉に此方を向いた。
「おいお前! こんな小さい娘に何てことしてんだ!!」
 どこの誰だか分からないおっさんが怒鳴った。
「まあ、何? 強姦?? しかもあんな子供を……?」
「若いのに何て見境の無い……」
 着物が肌蹴たまま、大袈裟に泣き始める少女の姿を見て、清夫に対する非難の眼差しが強くなる。
 嫌な空気に包まれ、清夫は冷や汗をかいた。
「え……いやっ、違いますっ! 僕この子に何もしてません!!」
 勿論彼にそんな気は微塵も無い。何せ彼女を完全に男の子供だと思っていたのだから。
 身の潔白を証明するために、つい掴んだ手を自ら離してしまった。
 少女はこの時を狙っていたかのように素早く体勢を立て直し、人ごみの中に走り去る。
「あっ! この――――」
 勿論追いかけようとしたが、ボンっと誰かに身体をつき返された。
「あ……あの、ホント、僕じゃないんです……悪いのは……」
 周りを取り囲んだ大人達の目が怖い。とにかくここから脱しなければ。
 彼は一歩後退した。
 もふっ――――また何か踵に柔らかい感触が。つい気になって足元を見る。
「うさぎ……?」
 耳の立った白い毛玉が、足にくっついて離れない。
 何故ここにうさぎが――――そう思うと同時に、彼の直感が働いた。すぐにしゃがんでそれを拾い上げ、周りの人たちに向けて強く言い放つ。
「勘違いすんなっ、俺は幼女なんかに興味はない! 彼女一筋だっっ!!」
 これで充分だ。荘園にいる常識的な大人達全員を、石にするだけの威力はあった。


 細い脇道から金雀大路に出て、少女は初めて後ろを振り返る。柔烏帽子を被った男の姿が周囲にいないことを確認すると、彼女は一目散に待ち合わせ場所に向かった。
 通り沿いの酒屋の前でもう一人の子供の影を見つけると、大手を振って呼びかける。
「お兄ちゃん!」
「――――美々(メイメイ)!」
 少年が駆け寄り、彼女の頭を撫でた。
「よかった、遅いから捕まったんじゃないかって……」
「えへへ……、大丈夫だよ。ほら、これお金!」
 男の子のような格好をしていても、やはり笑顔は少女のものだ。美々と呼ばれたその子は、盗んできた貝貨を兄に差し出す。
「これっぽっちか……。まあしょうがないよな、さっきの男ビンボったらしかったし……」
 少年はあまりの収穫のなさに冷めていたが、一方で美々は期待を込めて聞いた。
「でもあの人から、沢山お金もらえたんでしょ?」
 受け取った貝貨を巾着の中に仕舞いながら、少年は笑って頷いてみせる。
「運が良かったら、今日は中で見れるかもな」
 兄妹は仲良さげに手を繋いで歩き出した。
 金雀大路は直線状に宮廷と繋がる都の主要道路である。その為、道幅も広く人通りも多い。天秤担ぎや、荷物を乗せた手車を引く者が、彼方此方を行ったりきたりするのを横目に、一際壮美な軒反りの楼門を潜る。
 ここは空蝋軒(くうろうけん)という帝都にある民間劇場の一つ。金さえ払えば誰でも中へ入ることが出来る、平民たちにも敷居の低い場所だ。とはいえその入場料はけして安いものではなかった。
 早速、体格の良い門番が二人に声を掛けてくる。
「おいお前たち、拝観料はちゃんと持っているのか?」
「はい」
 兄の方が大事そうに抱え持っていた巾着を、袋ごと門番に差し出す。
「……ふん」
 門番は袋の中身を一目見て鼻で笑った。そして自分の持っている集金袋に全ての貝貨を移すと、空になった巾着を地面に投げた。
 浴びせかけられる冷たい言葉。
「この程度の増額では最後尾で立ち見だ。それでもいいな」
 二人は顔を見合わせて残念そうな顔をしたが、大人の男相手に口答えできるはずも無い。正面に向き直ると渋々返事を返す。
「はい」
 門番の後に付いて、向かった先は大きな建物の正面。もうすでに、沢山の人だかりも出来ていた。そこで待つように言われ、子供達は踏み台になる石垣の上に上る。建物からは少し離れてしまうが、背が低い彼らでは、あの人ごみの中で前が一切見えなくなってしまうからだ。
 建物の前面は大きく開いた演劇用の舞台になっている。その更に上に、豪華な木彫りの演台が乗っていた。あそこに立つであろう主役が現れる瞬間を、人々は今か今かと待ちわびている。 
「間に合って良かったね」
「ああ……」
 笑みを浮かべる妹とは対照的に、兄の方はまだ不満そうな顔をしていた。
 門番には失笑されたが、彼らにとってあれがどれほどの大金だったか。子供の稼ぎなどたかが知れている。それでもこの噂を聞き、日雇いの仕事を繋いで、なんとか金をかき集めたのだ。今日は特別にいい収入もあったのに、やっと必要最低限。
「前席に行くには、一体いくら金が必要なんだ?」
 思わず小言を漏らすと、美々は言う。
「きっと凄く高いんだよ。あそこに座ってる人たち、皆お金持ちばっかだもん……」
 そうこう話しているうち、舞台には華美な服を着た男達が、数人塊になって上がってきた。
「静かにしろ!! もうすぐここに仙人様がいらっしゃるのだぞ!」
 その内の大官風の男がそう怒鳴りつけると、場が一気に静まり返る。
「天界よりいらっしゃったこの仙人様は、現実を思いのままに操ることのできる偉大な力をお持ちだ。お前達のような卑しいものにも同情し、普く恵みを分けて下さる。もし怒らせてしまったら、お前たちの命はないぞ! 謹んでお迎えし、失礼のないようにしろ!」
 前置きを言い終えた彼らは、建物の奥に向かって両袖を合わせ、仰々しく礼をした。屋根のある場所で座している金持ちや、後ろで立ち見している一般人たちも、それを合図に次々と頭を下げる。石垣の上の兄妹も、慌ててそれに習った。
 すると建物の内戸が開き、貫禄のある声が辺り一帯に通る。
「よくぞここへ参った。お前達はこれより天から幸運を賜るであろう……」
 立派な髭をこしらえた初老の男が、ゆっくりと彫りの美しい演台に上がる。彼は絹の着物を着て、翡翠で出来た美しい玉笛を手にしていた。
「顔をあげよ」
 男が演台から集まった人並みを見渡すと、大衆は皆期待に満ちた目で彼を見る。
「私は天よりの遣い、八仙の韓湘子(かんしょうし)だ……。まずはお前達に私の方術の腕を披露しよう」
 男は二言目に、自分が言ったことが何でもその通りになると豪語した。半信半疑の者もいる中で、舞台の上の付き人が、牡丹の大きな鉢植えを彼の前に持ってくる。
 此れを見て、韓湘子という初老曰く、
「これはなんと見事な牡丹だ……。だが見頃にはまだ遠いな、花が咲くには春を待たねばならん……」
 するとまた別の付き人が彼に相槌を打つ。
「しかし韓湘子様。あなたのお力があれば、皆の前でコレを満開とさせる事も出来ましょう」
 初老が口元のシワを深めて笑い、笛を構えた。
「その通りだ。私が一度笛を吹き鳴らせば、どんな固い蕾も忽ち花開くであろう……」
 そう断わって彼が笛を吹き始めると、人々は息を呑む。本当にそのとおり、演台の牡丹の花が曲に合わせて次々に開いてゆくのだ。勿論子供たちも、初めて見る神秘的な光景に感動した。
「す、すごいっ……!」
「やっぱり仙人様の噂は本当だったんだっ……!」
 そう感嘆の声を上げたのはこの兄妹だけではない。
「仙人様!」
「仙人様!」
 大衆が口々に演台の上に立つ偉人に向け、歓声をあげた。
 初老はその状況に満足げな顔をして、尊大に手を広げる。
「さあ、前から順にこの花を持ち帰るが良い。さすれば財は富み、病気は忽ち治るであろう」
 この言葉に対し、人々が騒がないわけが無い。我先にと花を求め、舞台に上がろうとしていた。 しかしその彼らの前に、付き人たちが立ちはだかる。
「ええいっ静まれ! 仙人様のお言葉が耳に入らなかったのか!!」
「前から順にと仰られたのだ! 守らない者はここで容赦なく斬り殺すぞ!」
 刀を向けられ、平民達は食い下がるしかなかった。
 その横を通って、悠々と舞台への階段を上がっていくのは、隣町の大地主だ。
「仙人様、私はこの一番大きいのをいただきましょう」
 演台の前で跪くと、彼はそう言って一際見事な牡丹の花を指し示す。
「よろしい」
 初老が頷いて花を差し出す。すると、また次のものが前に現れる。
「仙人様、私にはこの色が綺麗な花を下さい」
「よろしい」
 そうして次々に前列で見ていた金持ち達が、いい花をどんどん摘み取っていった。
「くそっ! このままじゃ俺等の番が来る前に花がなくなっちゃうじゃないか!」
 悔しそうに空の巾着を握り締める兄の姿をみて、美々も悲しくなる。
「仙人様は、皆に幸運をお与えくださるんじゃなかったの……?」
 彼女の呟きと同じく、貧乏人たちに早くも諦めの色が漂いだした。
 そんな折、
「オイコラてめぇらっ!」
 いきなり大声で怒鳴る声が上がり、人々は思わず仙人から目を逸らした。
「さっきはよくも俺に恥かかせてくれたな……!」
 門前に置かれた獅子の像を通り過ぎ、庭に敷き詰められた白玉石を豪快に掻き鳴らしながら、一つの人影が大股でこちらに迫ってくる。暫くすると日が差込み、姿がはっきりと見えた。
「金返せこのやろうっ!!」
 そう叫ぶのはなんと、白うさぎを小脇に抱えた清夫だ。
「あ、あいつっ……!」
 少年は驚いて妹の手を掴み、逃げようとした。が――――、その前に舞台から降りてきた付き人が、清夫に刀を突きつけ威嚇する。
「この乞食めっ、一体どっから入り込んだ!」
 しかし清夫に怖気づく様子はない。周囲をグルリと見渡すが、あまり空気が読めていないらしく、
「何だー? こんなに人集めて……一体なんの法事?」
 と、軽口で付き人に聞いた。それが気に障ったのか、付き人は顔を真っ赤にして怒り出す。
「無礼者がっ……死ね!」
「うわっ!!」
 清夫はうさぎを地面に放し、振り下ろされる刃をぎりぎりの所で交わした。だが更にもう一太刀と、付き人が動く。その二太刀目が清夫に届く前に、「やめい」と初老の声が轟いた。仙人から出された静止の合図は、まさに鶴の一声だ。付き人は振り上げたもののやり所に困り、ぎこちなく垂直に下ろした。初老は清夫の顔を見て言った。
「この愚か者め、私を誰だと思っているのか」
「さあ、僕にはあなたの事など良く分かりませんが……一体どちら様ですか?」
 言葉遣いと一人称を一新したが、清夫の態度はまるっきり同じ調子だ。
 ついに仙人のこめかみで青筋が立つ。
「私は天から参った八仙の一人、韓湘子だ。その面前で騒ぎを起こすなど……これは天に対する冒涜であるぞ!」
「えーと……はっせん、かんしょうし……八仙……って、あのっ?!」
 驚いた直後、清夫は後ろから二人がかりで羽交い絞めにされる。改めて焦りの色を浮かべたが、もう遅い。付き人だけではなく、ここにいる仙人信者たち全員が彼の敵だ。
「ざまぁみろ、不徳の輩めっ!」
 付き人が振り下ろす太刀が、一瞬にして清夫の首を捉える。美々が小さく悲鳴を上げて顔を覆った。
 直後、――――ゴトン――――と、砂利の地面に彼の頭が落下した。


 空蝋軒のすぐ裏には、人の手の入っていない雑木林がある。
 首と胴が離れた清夫の身体は、二人の付き人達によって敷地の外に引きずり出された。彼らは雑木林に鍬で四尺位の深さの穴を掘ると、適当に死体をそこへ投げ込む。
「ったく……めんどくせぇ。何で俺達がこんな雑用しなきゃなんねーんだ」
 掘った穴に土を戻しながら、そのうちの太った方が愚痴を漏らす。
「しょうがねぇだろ、ここは都だ。その辺に首なし死体放り出したら、へんな噂が立つ……」
 鼻息を荒くして答えたのは、馬面で長身の男だ。
 二人とも行動や言動は非常に粗野で、立派なのは服装だけのイマイチぱっとしない男達である。この二人の名前など、今となっては誰の記憶にも残っていないが、仮に太ってる方を《太いの》、馬面で長身の方を《のっぽ》と呼んでおこう。
「でもよう……、あの中にいた奴等に命令してやらせたらいいじゃねぇか」
「馬鹿だなー、そんな貸し作ったら正直面倒だろ? 《方術が無駄になる》って、仙人様に怒られちまうぞ」
 のっぽが笑いながらそう言うと、釣られて太いのも下卑た大笑いをした。しかし他所見をした瞬間、その声が止む。
「ん? あれ……、こいつが連れてた奴か?」
 太いのが振り向いた視線の先、わずか十二尺ほど離れた場所に白い毛玉がじっと座ってこっちを見ている。
 のっぽは一旦手を止めて、感心したように言った。
「持ち主がよっぽど恋しいのかな……、さっきからずっと俺らの後についてきてやがったぞ。それがどうした」
「いや……あのうさぎ美味そうだな」
「はっ?」
「捕まえて酒の肴にしよう!」
 呆気に取られているのっぽを尻目に、太いのは鍬を握り締め、目の色を変えてうさぎに猛突進する。しかし、ブタがうさぎの逃げ足に敵うわけがない。奇襲は容易く振り切られてしまった。
「あっ、クソっ」
 更にやる気を出して追っ掛けようとする太めの襟首を、今度はのっぽが捕まえる。
「やめろって! そんなみみっちーことすんなよ。うさぎくらい溜まった金で買えんだろ!」
 膨れ面の見た目どおり、太いのは食べ物のこととなると人が変わる。のっぽが四苦八苦して押さえ込み、発作が治まるのを待った。案の定、うさぎの姿が見えなくなると、太いのは急に大人しくなる。
「……確かに体力の無駄使いか」
「そうだぞ、さっさとこの乞食埋めちまって、どっか食いにいこうや」
 二人は再び作業に戻る。穴は掘るより埋める時の方が断然楽で、忽ち元通りの平らな地面になった。すると道具を返しに行くのすら面倒になったのか、彼らはその場に鍬を放り出したまま、食事に行ってしまった。
 街や空はもうすっかり茜色。烏が群れを成し、巣へ向かって飛んでいく。
 一方帝都の街にも、家路に就く幼い兄妹の姿があった。彼らの足取りは重い。そのまま帰る気にもなれず、街中をうろうろしていると、途中で井戸を見つけた。そこで彼らは一旦、休憩をとることにした。
「一文無しだ」
 桶で汲んだ水を、空の瓢箪に移しながら、少年がぽつりと言う。
「ごめんな。結局花は貰えなかったし、貯めたお金が消えただけだ……」
 だが少年はそんなことより、妹のことが心配だ。美々はあそこを出てから元気がなく、殆ど喋らない。今も井戸の周りの石積みに背中を預けて、俯いたまま座り込んでいる。
 少年は少しでも気分が良くなるようにと、美々に汲み立ての水を飲むよう奨めた。しかし、彼女は首を横に振るばかりだ。とても優しい子だから、人が殺されたところを見てしまったのが辛かったのだろうか。
 少年はあそこに行ったことを後悔していた。だがそれでも、自分まで気落ちしているわけにはいかない。
「帰ったら芋を焼いて食べよう。まだ残ってるのがあるから」
 少年は何とか妹を励まそうと、楽しくなるような言葉を賢明に捜した。すると美々が顔を上げて、微かに返事をする。その顔色はあまり好ましいものではなかった。正直なところ、こういう時どうすればいいのか、少年にはまるで検討がつかない。兄とはいえ、まだ十二を過ぎたばかりの子供なのだ。暗くなる前に家へ帰り着かなければと、半ば強引に妹の手を引っ張って立たせた。
 街中を歩いていると、最近よく見かけるようになったのは、朱に染まった祝い飾りの旗。役人などが住む格式の高い家には、必ずといっていい程これが門前に掛かっていた。美しい刺繍が施された旗織物には、決まって「立我蒸民(我らが立っていられるのは) 莫匪極爾(天子様が玉座にお掛けになられているからに他ならない)」と銘打ってある。しかし字も読めない兄妹には、そこに何が書いてあるのかなどさっぱり分からなかった。
 空も赤い、どこを向いても赤い。
 これほど目障りなことがあるだろうか、少年は思った。募る苛立ちを胸の奥に仕舞いこむ。
「あ……」
「どうした?」
 突然横道を見て立ち止まった妹に、少年が話しかけた。
「うさぎがこっち来る」
 少年が横を向くと、本当に白いうさぎがこっちに向かって走ってきた。
「ホントだ」
 彼らはそれを何の気なしに、暫く立ち止まって見ていた。
 だんだん、だんだんと近くなる白い毛玉。そして、少年に向かって突進してきた。
「うわっ!」
 突然足元にへばりつくうさぎに少年は驚いて身を引く。だが、うさぎは前足を無理矢理猫のように伸ばして、上に這い上がろうとしてくるのだ。元々赤い目が血走っている様にすら感じられて、なんだか怖い。手で引き剥がそうとしてしゃがみ込むと、うさぎは驚くほどの飛躍力で少年の膝の上に乗った。
 そして――――、
『俺の金返せよ』
 と、喋ったのである。
「え……」
 少年はあまりのことに目が点になった。
『おい、聞いてんのか? 俺は盗んだものを返せっていってんだ!』
 正直、このうさぎは何を言っているのだろうか。少年はうさぎから何かを盗んだ覚えはない。それ以前の問題として、普通うさぎというものは喋らない。何を言っているのか、分かること自体おかしい。
『ガキだからって甘くはしねぇぞ、ともかく耳そろえて今すぐ返せ! おいこらっ、たった貝六個でとか思ってんだろ! それがお前の人生を台無しにすんだ!』
 うさぎに全うな説教をされ、ますます混乱を深める少年。一方の美々は黙ってうさぎの背を撫でていた。彼女の方がうさぎの話を冷静に受け止めている。貝貨六枚――――それを盗ったのが兄ではなく自分だと、美々はそのうさぎに言わなければならない気がした。
 暫くして、半信半疑ながらも美々がうさぎに問いかけてみる。
「……もしかして、あの時のお兄さん?」
 するとうさぎもすばやく反応し、美々に振り返った。
『そうだった! お前も勘違いすんなよっ、俺は幼女に興味ない!』
 返事の代わりにきっぱりと断言する。萎んでいた美々の笑顔が徐々に戻ってきた。
 信じられない奇跡。嬉しさのあまり、美々は歓声をあげた。
「やっぱりあの時のお兄さんだ!」
 しかしそれでは納得できないというのが、現実派の兄。
「まさか、あんた……そんなことで成仏できなかったのか?」
 普通に考えれば、ここで感動するのはおかしい。もしこのうさぎが青年――――《清夫》 だとするなら、スリに遭ったことが未練で悪霊化し、うさぎに乗り移ったとでもいうのだろうか。変な呪いでも掛けられたらたまらない。
 少年はどん引きして、膝の上に居座るうさぎをなんとか追い払おうとする。
「わ……悪いけど、俺たち今一個も金持ってないし、いきなり化けて出てきてもらっても困るよ。後でちゃんと供養するから、大人しく成仏してくれ……」
 うさぎは負けじと、肩の上にまで飛び上がり、怒りを露にした。
『勝手に殺すな馬鹿野郎っ、誰が成仏するか!!』
「お兄さん、死んだんじゃないの?」
 肩の上のうさぎと格闘する兄を差し置いて、美々がうさぎに聞き返す。
 うさぎは少年の頭に手を置き、上から勝気に顔を覗かせている。
『まあ色々と事情があってな』
 うさぎは耳を揺らしながら、こうも言った。
『お前らもし金が払えないんだったら、その分は労働で返せ』
「な、何をさせる気だ……?」
『別に大したことじゃない、ちょっとそこまで人参掘りだ。今すぐ行くから、明かりがいるな……』
 二人と一匹は、どんどん暗くなっていく空を見上げた。
「明日の朝じゃだめなのか?」
『そこまで待てない。夜明けまでに終わらせないといけないんだ』
「人参って、ご飯にするの?」
『んなこと、子供は知らなくてもいい。とにかく手伝ったら金の件はチャラにしてやる』
 うさぎの申し出に、兄妹は暫く顔を見合わせ黙っていたが、先に兄の方が返事を返す。
「分かった……俺も悪かったし、やるよ」
『お前……えっと名前は……』
「宛喜(えんき)だ」
『そうか。宛喜、少し長引くかもしれない、最悪朝帰りだけど大丈夫そうか?』
「それはいい。ただ妹は具合が良くないから、家で休ませてやりたいんだ」
 美々は驚いて少年に言い寄る。
「私も行く!」
 しかし少年は頑としてそれを許さない。
「女が夜に外をうろつくなんて危ないだろ」
 それは少年にしても大差ないのだが、うさぎも彼の意見に賛同したようだ。美々はまだ何か喋ろうとしていたが、兄がうさぎと喋りながら家に向かって歩き出すと、言う機会を失って黙り込んでしまった。
 暫くとしない内に、帝都の外れにある兄妹の家に着く。清夫と最初に出くわしたあの石橋のすぐ北側に、彼らは住んでいた。そこは廃墟のようにボロボロの家屋で、家畜の鶏達も敷居を跨ぎ、その辺を行ったり来たりしている。
「ただいま」
 二人は中に声を掛けて家に入ったが、返事をする者はいない。
 宛喜が竈のある場所から、灯を出すための松油と埃を被って古びた提灯を持って、玄関の方に戻ってきた。
「これだけでいいのか?」
『充分だ』
 うさぎが先陣を切って走り出すと、宛喜が慌ててその後を追う。
「大人しく母さんと一緒に留守番してるんだぞ!」
 去り際にそう言い残す兄の背が見えなくなるまで、美々はずっと玄関口に佇んでいた。


「こ……、こんな所で本当に人参なんて採れるのか?」
 何の躊躇いもなく草の根掻き分けて走るうさぎを、宛喜は追いかけていた。
 奥の見えない真っ暗な雑木林を、提灯の明かりに頼って進む。ここへ来る間に日はすっかり落ちて、狼の遠吠えも聞こえ始める時間帯だ。今更だが、ここまでついてくるべきではなかったと宛喜は後悔していた。
『おっと……、こっちの道はヤバそうだ』
 うさぎが時折、物騒な独り言を呟き、進路を頻繁に変える。
「危ない場所が分かってるのか?」
『そんなわけないだろ。勘だよ、勘』
「……なんだよ、それ……」
 素直にうさぎの言うことを聞いているのは、一重に妹の為だ。もし宛喜が行かなかったら、美々が行くと言って聞かないだろうから。うさぎのことなど最初から信用していない。
 逃げた方がいいだろうか。危険な場所に連れ込んで、恨みを晴らそうとしているだけかもしれない。或いは、本当に何も考えてなさそうだ。宛喜の猜疑心が高まってくると、まるでその心を読んだかのように、うさぎは言葉を続けた。
『安心しろ。俺と一緒にいる限り、お前が危ない目に遭うってことは絶対ないから』
「何でそんなことが言えるんだ」
『俺がそう言ってるからだよ』
 納得のいかない理屈に、宛喜はますます顔を顰める。だがうさぎは構わず前進する。暫くそんな調子が続いたが、うさぎがある場所で歩みを止め、後ろを振り返った。
『ここだ』
 地面に何も草木の生えない更地の様な場所に、鍬が二本放り出されていた。
「人参なんて、何処にも生えてないじゃないか……」
『誰が生えてるなんて言った。ちょっと深い場所に埋まってんだ、ヘタの取れた人参が』
 うさぎが後ろ足で土を掻き上げ始めた。本人はそこに穴を掘る気らしいが、中々掘り進まない。
『おいっ、お前も見てないで手伝え!』
 これは手伝うというより、宛喜が掘ることになるのだろう。彼はしょうがなく落ちていた鍬を拾い上げた。面倒だが、貧乏神に呪いを貰うよりかは幾分マシだ。
 地面を掘り進めていくと、何故かその場所だけ土が柔らかく簡単に鍬が入っていく。鐘楼の鐘が戌の刻を報せる頃には、もう三尺近くも掘り進んでいた。さっさと済ませてしまおうと作業速度を上げたが、うさぎが横から現場監督並みに様々な指示を出す。
『ばかっ! もっと丁寧に掘れよ! そっちじゃない、こっちをもっと深く! 余計な傷が増えたらどうしてくれんだ!』
 あまりに煩いので思わず、そちらに鍬の矛を振り下ろした。
『あぶっ……、殺す気か!』
 外した。宛喜が心の中で小さく舌打ちする。
「悪いね。ちょっと腹が減って、腕に力が入らなかったようだ……」
『何だその棒読み! このクソガキっ……嘘ですってモロに顔に出しやがって!』
「ホントだよ、腹が減ってんのは」
 夕飯も取らずに肉体労働させられれば、当然やる気も良心も沸いてこない。宛喜の頭の中を支配するのは、母が作ってくれる料理のことばかりだ。特に兎肉をふんだんに使った山菜炒めなど、空腹を満たすには丁度良いだろう。
『そんな目で俺を見るな』
 うさぎの言葉に宛喜はふと我に返る。そんな目とは一体どんな目だろう。
『ったく、ブタの餌の次は、ガキの肥やしかチキショウ!』
 毒づくうさぎは、近くにある大樹の根元に駆け寄って宛喜を呼んだ。
『宛喜、いいものがある。ちょっとこっちに来てここを掘れ』
 無視しようかとも考えたが、「いいもの」という言葉が引っかかり、宛喜も一旦穴から出た。提灯を手にうさぎに近づく。うさぎの足元の土からは木の板が覗いていた。手で余計な土を払うと、木で作られた箱と思わしきものが顔を出す。
『そこにお前が今一番欲しいものが入ってるはずだ』
 信じられない。
 宛喜は胡散臭いその木箱を開ける気にはなれなかった。
『じゃあ、お前が今二番目に欲しいものだな』
 うさぎが言い直すと、宛喜は恐る恐る土の中から木箱を取り出して蓋を取った。
「あ……」
 箱をあけた瞬間、立ち上る美味しそうな香り。
『腹減ってんだろ? それはやるから今後一切変な気起こすんじゃねぇぞ』
 信じられない。しかしたった今想像していたものが、確かにそこにあったのだ。宛喜は美味しそうな山菜炒めを前にして、生唾を飲み下した。木箱の中にはご丁寧に仕切りがついていて、粟飯と箸も入っている。
 ちゃんと炊き上げた飯を見るのは一月ぶりだ。そんなに月日が経っていないのに、なんだか遠い昔の気がする。宛喜の目から涙が出そうになった。しかし、
「おかしい……」
 うわ言のように宛喜がぽつりと漏らした。
「こんな旨い話、あるわけがない……」
 宛喜は一度掴んだ箸を、また元の場所に戻してしまう。うさぎは興味深げにそれをじっと観察した。
「騙されないぞっ、どうせ食べられないものなんだろ!」
 睨み付けてくる宛喜にうさぎはただ笑っていた。
『そう思うんだったら、その弁当箱ひっくり返してみろ』
「えっ……」
『今、自分でも食えないって言っただろ。なら捨てたっていいよな?』
 宛喜は自分が持っている木箱を見た。蓋を閉じて中身を見えなくしてしまったが、確かに重さを感じるもの。うさぎはこれを地面に投げ捨ててしまえと言う。
 しかし宛喜には何故かそれが出来なかった。例え偽者だと思っても、もし本物だったらという考えがどうしても捨てきれない。何も出来ず固まっている宛喜にうさぎが言った。
『どうして今日あんな場所に行ったのか……後で訊こうと思ったけど、やめた。変わりにこう聞こうか。お前、両親は?』
「父さんは俺が四つになった頃に死んだ。母さんは生きてるよ……」
『じゃあ今その母さんは何処にいる?』
 宛喜は目を逸らして押し黙った。
 どうやら答える気は無いらしい。埒があかないと、うさぎの方が話題を逸らす。
『お前さっき、そんな旨い話が……とか言ったな。確かにその通りだ。けどそれは正真正銘の食い物だぞ。今朝ここに埋めた俺が証人だ』
 と、うさぎは弁当箱の蓋を飛ばして、中身に口を付けた。
「あぁっ!」
 宛喜はつい弁当箱をうさぎの届かない所に持ち上げてしまう。
『なんだ、食うのか食わねぇのかはっきりしろ!』
「いや、あの……、本当にこれ俺が食べていいの?」
 今更遠慮しているみたいな口ぶりをするので、うさぎは呆れてしまった。充分に食べたそうな顔をしているではないか。まだまだ嘘が下手なところは、子供らしさなのかもしれない。
『俺は普段人に奢るようなことはしないんだがな。今回だけは特別だ、生憎今の状態じゃ共食いになる……』
 うさぎがそう言ってやると、宛喜はやっと箸を持つ。最初の箸運びこそ覚束無かったが、だんだんと無心に食らいつく動作に変わっていった。
『それ食ったら、また作業に戻るぞ』
 宛喜が大切なことを忘れてしまわないように、うさぎが掛けた言葉はそれだけだ。無言のまま食べ続ける宛喜の目が潤んでいるのを、今は出来る限り見ないようにした。


「妹と決めたんだ。母さんがいつ帰ってきてもいいように」
 再びその話を切り出したのは、意外にも宛喜の方だ。黙々と鍬を振るう中、提灯の淡い明かりが穴の中を照らす。抑揚も無く、淡々と語る姿は、まだ幼さを残す少年のものとは少し違って見えた。
 真実はこうだ。
 母親はほんの一月前に、彼らの前から姿を消した。鶏を売りに行くと言って出ていったきり、何日も戻ってこない。その失踪に子供達は何の心あたりもなく、最初の三日間は二人で心当たりの場所を探したが、ほんの僅かな手がかりすら得る事が出来なかった。
 そのうち宛喜は考える。母がいないこと事実を周りに覚られてはいけない。もし知られてしまったら、自分達はあの家にいられなくなる。母方の親戚に引き取られることになるだろうが、そこでもきっと歓迎はされないだろう。
 兄は妹に言った。そうなるくらいなら自分達で生きていこうと。
「帰りが遅くなったから……きっと母さんも気にして、家に帰り辛くなってると思ったんだ。だから、いつもと変わりなく過ごそうって……。母さんがいつでも家にいると思って過ごせば、いつ帰ってきても笑って出迎えられるから。父さんが戦にとられたって、母さんは女手一つで俺たちをここまで育ててくれた……。母さんは気が強くてやさしい人なんだ。だから俺たちを捨てるなんてこと考えられない……待っていれば絶対に戻ってくるんだ。それまで俺があの家と妹を守らなきゃ……」
 獣気配すらなくなって、辺りに聞こえるのは、鍬が土に刺さる音と宛喜自身の声だけだ。疲れはさほど感じない、話していたから楽だったのかもしれない。まるで独白のような宛喜の話は、黙って横で聞いているうさぎが、ふいに深い穴の中に飛び込むまで続いた。
 暗闇にも映える白い毛玉が、穴の中で一瞬光を帯びた気がした。
『鍬はもういい。明かりをこっちにくれ』
 言われた通り、宛喜は近くの低木に引っ掛けてある提灯を取って、足元を照らす。うさぎが後ろ足を使い、地面の土を蹴った。何か棒の一部が見えたので、宛喜が手を伸ばしてそれを拾い上げた。
「……竹笛?」
 まじまじと観察すると、一尺前後の竹の棒に八個の手孔が空いている。
『笛が見つかったってことは、もうそこらへんにあるな……』
 うさぎは何かを確信した様子で、地面に鼻をひっつけ、犬の様に臭いを嗅ぐ仕草を見せる。うさぎらしさの微塵もないところが滑稽だ。だがお構いなしと言った感じで、ここを掘れとまた宛喜に指示を出す。余計な土を掻き分け、宛喜はやっと目的の物を見つけた。
 うさぎの明言した通り。色の薄い萎んだ人参が、ヘタがついた部分と本体で真っ二つに切れて埋まっていた。
『宛喜、それを木箱に入れろ』
 頷きで返し、木箱を取った。湿り気を帯びた地面を掘り返すと、鉄錆の匂いが鼻をつき、何故か急に気が遠くなる。
『早く!』
 うさぎの声が急かした。宛喜は襲いくる眠気を押さえつけ、その木箱に人参を入れると蓋をする。その途端、天上の糸が切れた操り人形の如く身体全体が崩れ落ちた。



2010/07/15(Thu)15:26:28 公開 / フラット
■この作品の著作権はフラットさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 初めまして、こんにちは。フラットと申します。今まで何度か他の方の作品に感想を書き込んだりしていましたが、自作の小説を投函するのはお初です。元々イラストや漫画などを描いていた絵描きで、小説の書き方に慣れていないところがあるので、バシバシつっこみの方、お願いします。
 ジャンル表記がこれで合っているのか微妙なんですが、あえて自分で「中華風ファンタジー」とでも提言しておきます。展開の構想は自分なりに大分練ってから書き始めました。しかし今まで書いたことのないくらい長い話で、正直困ったと頭を抱えていました。とにかく始めてみなければ、得るものも得られないので、こちらで長編について参考になるご意見を頂ければと期待しています。
 本作品には、八仙を始めとする多くの仙人や道教の神様の名前が出てきますが、あくまでキャラクターのモデルとして使用しているだけなので、そのままのイメージで読まれてしまうと、痛い目みるかもしれませんよ(私が)。
 舞台も一応中国ということになってますが、中国の史実などは殆ど無視して書いています。どの時代かということも曖昧にしているのは、その時代に固執すると正直話が膨らまないからです。一から組み立てていくという意味でも、これは「中華風ファンタジー」と呼ぶのが妥当かと。中国(真実)は遠いから、中華(空想の世界)へ行こう!
 すいません……そんな私ですが、八仙は大好きです。「西遊記」もいいけど、「東遊記」にもスポットが当たる日をひっそり待ち望んでいます。
この作品に対する感想 - 昇順
 はじめまして、フラット様。上野文と申します。
 御作を読みました。
 良い意味で(日本風?)中華ファンタジーという印象で、読んでいて心地良かったです。
 食事のシーン、チャーシューとかとても美味しそうですし、日常シーンがテンポと雰囲気を両立させていて、うまいなあ、と思いました。
 反面、約70ページを割きながら、起承転結が弱く、構成に若干の疑問点も感じました。とはいえ、まだ始まったばかり。頑張ってください。
2010/07/18(Sun)19:47:100点上野文
はじめまして、上野文さん。感想有難う御座います!
良い意味で中華ファンタジー、そう捉えていただけて正直ホッとしました。やはり中国っていうより、どうしても日本っぽくなってしまいますね。描写ではもう少し中国エッセンスを取り入れたいなと自己反省したりしてます……。勉強不足なところも否めません。中国の読み物は、日本人の私の感覚からして「これは無いわ」と思ってしまうところがあります。中国人の感性って凄く特殊だと思うし(悪い意味でなく)、それは真似することも出来ないので、舞台は中国だけど国民性は日本人、みたいな感じでこれからも描いていくと思います。
 あと、この膨大な文量に対するつっこみ(笑)大変的を射たご指摘だと思います。というのも、最初書いた時はスリムだった話が、どうも薄っぺらくて全面的に改稿した結果こうなりました。驚くべきことに、まだ起承転結の「起」「承」くらいです。一話だからって、何でもかんでも入れようと欲張りすぎたのか……。うん、まだ丁度良いところを自分でも見つけきれていないのかなと思います。
 上野文さんは長編を長く連載していらっしゃるので、いただいたご意見は大変参考になりました。精進して執筆を進めますので、これからの展開も温かく見守ってやってください。
2010/07/19(Mon)12:34:180点フラット
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