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『infant world fablers. ――rapid heart――』 作者:愛飢男 / 童話 リアル・現代
全角36455文字
容量72910 bytes
原稿用紙約105.6枚
『ここはみんなの住むとこホウトト森さ』 それは兎のフレンテルが生き方を探していくお話。 貴方も誰かも悲しいのなら、弱っているなら彼女をごらんなさい。 そしたらきっと明日は頑張れるから。  手ひどい仕打ちにあった兎と、森で生きる動物たちの話。優しくされたり悲しくされたり、きっと誰でも持っている弱さを見詰めるような、たぶんそんなお話。

Tnfant world fablers.――rapid heart――.

―――空ろぐ日々。聞こえない悲鳴。
―――誰もわからないだろうし、認めてくれないだろうが、私は今日も泣いていた。

ホウトト森を南に抜けて、イシラスの泉でお月見をする。独りぼっちの私は本当は誰かと一緒にいたいけど、傷つけない誰かなんてわからないからここでお空に探しているのだ。
『兎よ兎、泣き虫兎。どうしたどうして赤い目を、擦らずポロポロ泣いている。お前の目玉は泣き虫を、教えてくれる大事な目玉ださあそれを、擦って隠して震えるがいい。寂しがり屋は怯えていなけりゃ小人も構ってくれないぞ』
湿り花のベルリミン達が無感動に私を歌っていた。暗く湿った場所にしか咲かない彼等はいつも意地悪だ。まだ心が幼くて、私達の痛みをわからないから無神経に気持ちを突き刺してくる。そうだ、いつだって誰も他人の心なんてわかってくれない。
『兎よ兎、お前は泣き虫弱虫いじけ虫―――』
「違う、違います。腐り花のくせに勝手なことを言わないでください。私は泣き虫じゃなくて可愛そうな兎です。だって、そうでしょう? 貴方達は狼におどされたこともないし、狐にだまされたこともない。妖精達のいたずらに泣いたことも、通りすがりの子鬼に打たれたこともないはずだわ」
『それなら兎よお前はただの、哀れで淋しい泣き虫兎。今日も明日も己を嘆いて涙して、赤目を腫らして過ごすだろう』
意地悪なベルリミン達は声を揃えて私を歌う。笑われた気になった私は彼らにいじけながら、居場所のない泉を後にするのだった。
月明かりの森をトントン跳ねて、家路への道を辿る。真っ暗闇でもよく視える私の眼なら、これだけの光があれば足踏みする事はない。フクロウが鳴く夜の森を、飛んで跳ねて進んでいく。
…その途中で一度だけ、空の開けた広場で夜の空を見上げた。
お空の果てにはお月様がある。その黄金の場所には兎がいるらしい。仲間達がそう語っていた。それからというもの私は、遠明かりをよく見上げるようになっていた。もしかしたら向こうには私の味方が居るのだろうかと、夢を見るように、安らぎをを探すように。
『――兎よ兎、お前は哀れで淋しい泣き虫兎』
くすんと鼻を啜った。再びトントンと森を進む。
早く帰ろう。家に着いてから、静かに泣かなければまた虐められてしまう―――。


…まどろむ瞳を薄く開けた。
覚醒した視界に映るのは白い天井と眩むような斜陽。肌寒さと共に暦の移りを感じた。
視覚的には爽やかな光景だろう。だがその景色に水を刺す情報が一つあるとすれば、頭上の時計がじきに十二時を刺すという事実だった。カレンダーを確認するまでもなく今日は平日の十一月九日であり、水曜日の正午前だ。それにして室内にいるという事は、風邪を引いたか本日は休日であるか、上げられる可能性としてはそのくらいだろう。
けれど私は、そのどちらでもない。
布団から手だけを出してリモコンを掴みテレビを点ける。既に習慣となった行動はスムーズかつ効率的に事を運び、意識してもいないのにエアコンまで作動させていた。そんな自分に呆れながらも状態を起こしてテレビを見やる。
特に何が楽しいという事はない。ただ気だるくて疲れただけなのだ。
そんな状態に陥った理由も、説明すればなんてことはない。人間として社会人として、目まぐるしく変わっていく環境に対応出来なかっただけである。
これまで育った町からの追放。新しく築かなければならなかった人間関係、会社や仕事において求められる対応。甘言を囁いてくれた男。果ては見知らぬの誰かからの強迫や、純粋かつ不条理な暴力まで。全て全て初めての事柄だった私には、その新しい環境や状況に順応できなかった。
…それだけだ。だが、それだけの事に私は堪える事が出来なかった。
そして一年間かけて蓄えた貯金を崩していくことで、この破滅的な引きこもり生活を送っているのが現状。
それもじきに三ヶ月になるだろうか。
「……お湯、溜めよう」
一つだけ誤算だったのは現実逃避他ならないこの状況においてすら、どこにも平穏など無いと知ってしまった事だろう。無常に磨り減っていく日々はどちらにせよ私を追い詰めるだけであり、安らぐ瞬間なんて与えてくれない。誰もいない日々に聞こえるのは神経が磨り減る音だけだった。
惰性による麻酔めいた一日を過ごして、暗闇の不安に怯えながら眠り、また朝が来て目を覚ますと自分の陥っている状況に気付いて恐怖する。だからどうにかして此処から逃げ出そうと踠くのに、その試みは悉く失敗した。
日々を堪えて忍ぶことも、惰性に逃げる事も、人間との会話も、カウンセリングで抱けた希望も。
全て敗北に終って、試みる数だけ磨耗していった。そうしてこびり付いた失敗は不安や恐怖を捏造していく。私が私の密室に絶望するまで、そう時間はかからなかっただろう。
気がついた時にはこの立ち上がるの為の寝室は牢獄に変わっていた。発作的に訪れる不安は全て上手くいかないんじゃないかという幻を視せつけた。
だから、此処にいては駄目だと考える。けれど逃げられる場所なんて何所にもなくて、外が恐くて、人が恐くて私はまた引篭るのだ。
我ながらなんて綺麗な悪循環だろう。愚か過ぎて溜息も出ない。
ありもしない不安に閉じ込められた私は、やがて考えることを放棄するようになっていた。
規則的かつ堕落的なサイクルをなぞるだけ。頭を風船にして、痛みを伝える感情はなるべく遠くに排気して、ただ私は、私を忘れるように呼吸する。
無表情に蛇口を捻ってお湯を溜めると、そのまま服を脱いで裸になった。十一月の浴室はとても寒かったが、この瞬間だけは肉体を確認出来るような気がして安心するのだ。
じゃぶじゃぶと、音と湯気を立てる浴槽を眺めるていると身体ががたがた震えていた。それが寒さのせいだとしても、震える自分に安らぎを覚えるので、体を抱き締めても熱は求めなかった。
…とても、とても心が落ち着く。私は可愛そうだからこうして涙することも、許されるような気になれる。自分を哀れんでも誰にも叱られないで済む気がする。
「――、――――――あ…、はは」
静かに息を吐いたら嗚咽が混じっていた。私は静かに涙を拭う。
さて、お湯が溜まるまでどのくらいだろう。



―――――ある日、ある時。ある森の中、狼のクイクルは森兎のフレンテルに優しく話しかけました。
「兎さん、兎さん、どうして独りで震えているんだい?」
「? 貴方はだあれ?」
「私は心優しい狼です。仲間と離れて森の隅で、ぶるぶる震えてる貴女を見かねてここに来たのです。いったいぜんたい、どうしたのですか兎さん。仲間に苛められたのですか? 仲間に入れてもらえないのですか? よろしければ私に悩みを話してはいかがでしょう?」
「…いいえ、違うのです。別にどうもしていないのです。誰かに傷付けられた訳でもありません。ただ、この森に引っ越してきた私にはまだ友達がいないから淋しかったのです」
「なるほど、それで泣いていたのですね。でもじゃあもう大丈夫だ。よろしければ私がトモダチになりましょう」
「本当ですか? なら私と、お話をしてくれますか?」
「もちろんです。けれどお喋りしすぎて咽が渇いてはいけません。近くのお店でお茶も飲みませんか? さあさあどうぞこちらへ、私は美味しい紅茶を出す店を知っています」
森兎のフレンテルは狼を信じて森の奥へと進みました。ですが狼の連れて言った場所は真っ暗で、どこにもお店などありません。辺りを見回しても、広がるのは森の暗闇だけでした。
狼は優しい微笑で、鋭い牙を剥きながら兎に言います。
「さあ着きましたよ。それでは兎さん、では友情の印に、その可愛いお耳を齧らせてもらえますか?」
「ええっ、どうしてですか? 駄目ですよ。嫌ですよ。そんな事をされては大事な耳が千切れてしまいます」
「そうですか。そうですか。それでは貴女の体をほんの少し、齧らせていただけませんか?」
「それも駄目ですよ。狼さんの大きなお口で私を噛まれては大変なことになってしまいます」
「そうですか。それではそれでは――――」
猫なで声で、狼は兎さんのあちこちを強請ります。ですが当然食べられたくない兎さんは、どんなふうに問われても首を振ります。やがて気の短い狼は、大声を上げて言うのでした。

「―――がああ、いいから食べさせろって言ってるんだよお!」

突然襲かかった狼は、フレンテルにその鋭い爪を伸ばして捕まえようとします。ビックリした彼女は襲いかかる手を寸前で避けると、駆けて飛んで跳ねて走って、森の中に逃げ戻りました。記憶を頼りに一心不乱に、やがて見知った道に出ると迷うことなく自分の住処に駆け込みました。
バタンと扉を閉めると、兎は戸口で耳を澄ませて、狼の足音が無いのを確認します。
やがて深い溜め息を吐きました。
「ああ、怖かった。もう知らない人に声をかけられても、信じないようにしよう」
狼の影に怯えつつ、心に誓います。それからフレンテルはまた、慣れない新しい森で友達のいないまま日々を過ごして行くのでした。
朝は起きて草を摘み、昼は木の家を歯で削って造っていきます。そして夜くたくたになって帰っても、また明日も同じように働かないといけません。それが森のルールなのです。だからフレンテルは必死に働きますが、まだ友達もいない彼女は心細くて日々が憂鬱でしかたありませんでした。
そんなある日、突然彼女の元に電報が届きました―――。

「――――――――はい、どちら様ですか?」
私は気だるく受話器に返事をする。出勤の手前で電話がかかってきたので、反射的に出てしまったのだ。今思うと、あれが仕事を辞める切欠だったんだろう。
『あ、○×様ですか? 私弁護士の狐田ですが、先日後登録いただいたサイトの滞納料金について電話させていただきましたー。今日中に払っていただかないと訴える事になりますがよろしいでしょうか?』
「はあ? …あの、すいません私○×さんじゃありません。卯佐美です」
『はいそうですか。それでですね、滞納料金が10万円になっているんですよね。なので今日中にお支払いしていただけないと、御自宅に伺わせてもらう事に―――』
ピッ。苛立って電話を切る。身に覚えのない話だし、たぶんこれが架空請求というものなのだろう。
知らない他人に電話番号を知られているのは気持ち悪かったが、着信拒否にして会社に急ぐことにした。今日だけは仕事のある環境がありがたいと思いながら、私は家を出立する。
青のスポーツカーとワゴン車の間にある愛車に乗って、シートベルトを閉めてキーを差し込んだ。エンジンをかけると同時に、何故かポケットが音を立てて振動する。
「え?」
着信を見ると知らない番号がある。不安になってまた切った。
――――ヴーン、ヴンン、ヴーン。
また着信。電源ボタンを押すと、三秒沈黙して着信。
「なに、これ…」
苛立ちから主電源ごと切る。これで一安心するが、気がつけば言いようのない不安が胸に広がっていた。よせばいいのに、電話の内容を思い出してひとりでに恐怖を煽っていた。
……どうしよう、そう言えば家に来るって言っていた。
襲われたかけた記憶と相乗効果。不安に襲われた私は、再び電源を入れてしまう。
そしてまた電話が鳴った。
「――、―――はい」
『ああ○×さん、滞納料金払ってくだいよお。このままだと訴える事になりますがいいんですかあ?』
「え? …あの、じゃあお金を払ったら家に来たり、電話して来ないんですか?」
『ああ。それでは解約料としてもう十万円頂かなければなりませんねえ。それでよろしければ御電話させていただくことも無いと思いますよ』
「そんな、あの、私本当に登録とかした覚えないんですが」
『でもこうして貴方に電話が繋がっているんですから、こちらとしても払っていただかないと困るんですよねえ。ああ、それとも法廷で争われますか? 私共はそれでも構いませんよ?』
「それは…、ああ、もう、わかりました。払いますからもう電話しないで下さいね?」
記憶にない話。過失も無い脅迫。それでも不安から解放されたくて私は頷いていた。
たぶんそれが、私のした唯一の過失なのだ。


フレンテルは朝になる度にポストを見ます。郵便受けにはもう電報は無いようです。けれど、これまでにはうんざりするような数の手紙が届けられました。
溜息を吐いて彼女は涙を一粒落としました。相談した白馬のおまわりさんは、放っておくのが一番良いと教えるだけでした。そうしておけば確かに手紙の嵐は止みましたが、とてもとても心細くて恐くて、彼女は家に閉じ篭もるようになっていました。
勿論もうお仕事にはいきません。元気を失ったフレンテルは家の中でも布団に包まって、どうにか不安を拭おうと息を整えるのです。磨り減った心が元通りになるまでじっと、生きている者に怯えながらそっと息をするのです。
それからまた少したったある日。彼女は布団を身に纏いながら、溜まった手紙を処分する事にしていました。するとその中に一通だけ毛色の違う手紙がありました。手にとって見ると両親からの手紙で、その中には彼女を心配する内容の文章が書かれています。
フレンテルはまた、一筋涙を流しました。これまでと違うのは暖かい涙だった事でしょう。
そして彼女はまとめた手紙を焼き捨てると、とんとん跳ねて森へ跳ねて行きました。
ジッとしていても事態は変わらない。そう考えたフレンテルは森の住人達に声をかける事にしたのです。そうすればもう一度、誰かを信じる事ができるかもしない。怯えたり疑ったりしない自分になれるかもしれない。そう思って、生きている者に声をかけることにしました。
「―――すみません鳥さん、高い高い木にとまっている鳥さん。もしよろしければ少し訊いてもよろしいでしょうか」
「おや、なんだい兎さん。構ていないで尋ねるといい。答えられることなら答えましょう」
「それでは鳥さん、貴方は高い空からこの森を眺めることが出来ます。森を一望できる貴方には、この森の住人はどう映りますか?」
「ふうん? そうだねえ、確かに色んな動物がこの森にはいるけれど、みんな楽しくやっているように見えるよ。鼠には鼠の、梟には梟の、獅子には獅子の幸福があるものだからね。ホウトト森は複雑で、粗雑な環境にあるけどみんな概ね、幸せなものさ」
「みんなが幸せ、ですか?」
「だいたいそうさね。それに、生きているなら幸福であるべきだろう。一度しかない人生を苦しんでいても仕方が無いさ」
フレンテルはカワセミにそう言われても、今はまだ自分の幸福がわかりませんでした。だから彼の言葉にも首を傾げるだけでなかなか理解する事が出来ません。
「まあまあ、気楽に行こうぜ兎さん。悩むのなんて早死にの元だよ」
カワセミは綺麗な羽根を広げて言いました。言葉の意味はまだ理解出来ませんが、なんだかすこしだけ明るい気持ちになれました。
「わかりました。ありがとうございました、鳥さん」
「どういたしまして。それではまた会いましょう兎さん」
カワセミはさっそうと飛び立ちます。兎もトントン跳ねて、また森の奥へ進もうとしました。
ですが、背後から彼女を呼び止める声が聞こえたので、兎は振り向きます。
「駄目駄目、駄目だよ兎さん。お気楽鳥に森の話を訊いても適当ばかりで信頼なんて出来やしない。この世を学びたいなら、私に訊くべきだ」
駆けようとしていたフレンテルに言うのは、腰のよれたお爺さんノームでした。杖を突いているノームは、しわくちゃの顔で言葉を紡ぎます。
「この世は絶望と失望の蔵なのさ。何故ならこんなにか弱い爺一人、誰も構おうとすらしないからね。砕けた腰じゃ林檎も取れないのに、誰も助けてくれやしない。腐った世の中、駄目な世の中。可愛い自分を守れりゃ良しとして、可愛そうな奴には知らん振り。ああ嘆かわしい、嘆かわしい。だけどもそれが、この世の真の姿なのだろうね」
お爺さんは大仰な仕草で顔を覆い、首を振ります。もの悲しげな様は卑屈に思えましたが、兎には否定する事は出来ませんでした。それどころかお爺さんの言葉に、これまでに起こってきた事を重ねると正論のように思えてしまいます。
「ならば、それではノームのお爺さん。そうして誰かが辛い時、悲しい時はどうすればいいのですか」
「そんなのはどうしようもないんだよ。だって、誰も助けてくれたりしないんだからね。堪えるなら一人でじっと過ごすしかないだろうさ。それかさっきのお気楽鳥のように、忘れて適当に遊べばいいだろう。ただね兎さん、何事にも備えていない愚か者は痛い目をみるからね。だから賢い兎さんは私の言う通り生きるべきさ。真面目に出来るだけ無感動に、人と遊んだりしないで日々を実直に過ごすべきだよ。それが自分を守るって事なんだ」
人と関わるから辛い思いをする。心を動かすのは、優しくされた時だけにするべきだよ。
お爺さんはそう付け加え黙りました。兎さんにはお爺さんの語る言葉はよくわかりません。ですがお爺さんの話す生き方は悲しいように思えました。
「ノームのお爺さん、お爺さんはそれで淋しくないのですか?」
「そりゃあ淋しいさ。淋しくて悲しくて死にそうだよ。でも誰も、こんな爺を喜んで構ったりしないからね。一人で暮らしていくなら卑屈にならなきゃやっていられない。どんなに困っていても、辛くても、誰も助けてくれないんだからね」
お爺さん淋しそうに厳しい表情で言いました。お爺さんの皺ばかり刻まれた顔は、酷く暗く見えます。
――――ですが、その曲がった背中にかけらられる声がありました。その声はとても美しく、森中に響きそうなほどに清んでいました。
「いいえ、それは違いますよお爺さん」
その美しい声に二人して視線を向けます。茂みの奥に人影が立っているのは彫りの深い顔に、絹の衣装を纏う躰。そして何より特徴的な、尖った耳を持つ女性でした。
美しいエルフの女性は、私達の目の前に立つと再び美しい声で言葉を紡ぎます。
「卑屈なノームのお爺さん、それは違いますよ。貴方が救われる術は確かにあるのです」
力強くハッキリと、彼女はお爺さんに宣言します。ですがお爺さんも突然の事なのでいぶかしみ、疑いの眼差しを向けながら聞き返していました。
「ふん。お嬢さん、それは本当かね。では誰がこの皺くちゃで気味の悪い老体を、助けてくれると言うのだい。まだ若い貴女にはわからないだろうがね、慈悲というものは私達の自尊心を酷く傷つけるのだよ。本当に好意を寄せてもいないのに、恩着せがましく差し伸べられた手をどうして喜べるものか。そんなのは煩わしくて苛立つだけだよ」
「なるほど、仰ることはわかりました。でも貴方の心配は用を成しませんよ。私は救われる術を教えるだけで、全てを決めるのは貴方自身なのですから」
「ふうん? それなら言ってみるがいい。貴女の言う救われる方法とやらを、私に教えておくれよ」
深い皺を刻みながらお爺さんは問います。フレンテルも、確かにエルフの女性の言葉は不思議だと思っていました。どうしたらそんな事が出来るのか、彼女はわからなくて首を傾げています。本当にそんな術があるのか疑問でしかたがありません。ですが、本当にそんな魔法のような術があるのなら、彼女も知りたいくて耳を欹てていました。
「さあ、さあ。仮に本当に、私が救われる術があるのなら言ってみなさいよ。この可愛そうな老体をすくってみるといい。無論仮にでも、そんな方法があると言うならだがね」
再び強く、お爺さんは詰問します。すると黙っていた女性は手を組んで、眼を瞑りながら厳かに言いました。
「簡単ですよ。神に祈れば救われるのです」
「―――ふん! 何を言うかと思えば神頼みか! それではどうして、万能である神様はこんなに哀れな私を放っておかれるのだ? 体はこんなに枯れてしまい醜くなった。誰に望まれるでもなく、ひっそりと生きるだけの可愛そうな私になってしまった。なのに、どんなに待っていても幸福は与えれないのに、お前は神が存在すると言うのか!」
「困難とは神が与えられた試練であり、幸福とは愛を持つ者にのみ与えられるのです。救われたいと願うのならまず、神を信じる事から始めましょう」
女性は閉じていた眼を開いて、私達を見据えて言います。その瞳はとても清んでいて、澱みなど一切ありませんでした。それはつまり、彼女は少しの疑いも抱いていないという事でしょうか。
フレンテルにはそんな気持ちはわかりませんでした。ですが無意識に羨望と、そして少しの諦観を抱いてしまいます。
もし仮に、彼女のように疑うことなく全てを信じて生きていけるのなら、それはとても素敵な事のように思えていました。
「…あのう、それではエルフさん。信じたくても信じる勇気の沸かない誰かはどうすればいいのですか?」
「それも簡単ですよ兎さん。ただ私達の言葉を聞いていればいい。その大きな耳で言葉を掴み、貴女の心で勇気を奮い立たせるかを選べばいいのです。信仰は強制などされません。ただ心の拠り所として信ずるかどうかなのですよ。私達の稚拙な想いで、貴方が父なる主を信じれるかどうかなのですよ」
エルフの女性は穏やかな瞳でそう語ります。ですがフレンテルにはやはり難しい話でした。だって信じれるかどうかなんて、彼女自身にもわからない問題なのですから。
「ふん、悪いが私には無理だよエルフのお嬢さん。私は神様がいるのなら尚更助けてくれない不遇を呪うだろう。こんな状況から逃してくれないことを恨むだろう。貴方は私の考えを図々しいと言うかもしれないがね、まず叩かれるより先に愛して欲しい。だって今が辛いんだから、それぐらいしてくれてもいいだろう?」
「それではお爺さん。貴女が誰かに愛されたら神様を信じるのですね」
「さあ、わからないがね。まあ仮に私を望んでくれるような人が現れたら、考えたりするかもしれないさ」
卑屈なお爺さんはそっぽを向きながら答えます。するとエルフの女性は、深く頷くのでした。
「わかりました。では毎朝此処に、林檎と水を届けましょう。代わりに貴方が朝食を食べ終えるまでの間、私の話を聞いてください」
彼女はそんな事をあっさりと、やはり清んだ声で言います。ですが、お爺さんの方は皺だらけの目を見開いて驚いていました。やがて落ち着いたお爺さんは、強く警戒しながら質問を返します。
「そうやって、私を懐柔する気か?」
「最初に言いましたよ。それを決めるのは貴方です」
「そんな事をして貴女に何の得がある」
「私の仕事は主の教えを広める事ですから、それこそ得難いほどの得がありますね」
「………」
お爺さんは押し黙りまって、苦い苦い顔をしながら彼女を見詰めました。ですが、しばらくしてからゆっくりと、その首を振りました。
「…いいや、やはり私は遠慮するよ」
「そうですか」
「ああ、悪いが、人を信じるには歳を取りすぎたんでね」
ノームのお爺さんはそう、俯いて言いしまいます。地面を映すその瞳の向こうには何が映っているのか、フレンテルにはわかりません。ですが蟠りのような何かがそこにはあるような気がしました。
やがてお爺さんは、黙って私達に背を向けました。
「お嬢さん達、悪いが私はこれで失礼するよ。勝手に呼び止めておいて済まないね、兎さん」
ノームのお爺さんは振り向かないでそれだけ言うと、森の中へ消えていきます。取り残された彼女は戸惑いながらも見送るだけでした。けれど、隣にいた彼女は声を上げます。
「ええ。それじゃあまた明日来ますね、お爺さん」

* *

―――私は無音の密室で、息をしていた。
浴槽の中。湯気だらけの視界。
触れそうなほど濃い溜息を一つ吐き出す。きっと熱にあてられたのだろう、まどろみに負けそうな目蓋はとても重かった。
…もしも、ここで眠ってしまったら私は溺死してしまうのだろうか。
そんな終末を描いても感情は伴わない。忌避感なんてわかないまま、ノロノロと風呂場から出るだけだった。
今ならあのお爺さんの気持ちもわかる気がする。たかが数回打たれた程度でも、傷を負った心は治りにくい。辛うじて傷を癒す事が出来たとしても、心は軋んで形を変えてしまう。
それは弱さの証明かもしれない。でも生まれついて人より性能が劣る者はいる。生まれついて心が人より脆い者だっているのだ。
…そんな弱者の存在くらい、覚えておいて欲しい。
こんな想いすらやはり甘えなのかもしれないと、溜息を吐いていた。風呂から上がった私は鈍重に衣服を纏い、また布団に包まる。
こうして今日も惰性に過ごしていく。ここには安息なんて無いのに、何所にも行けない私はこの牢獄で生息するしかないのだ。
いつか、終りが来るとわかっていても抗えない。今はただ惰眠を貪るだけで精一杯だった。

* * *

―――フレンテルはホウトト森のあぜ道をトントンと跳ねていました。ですが先ほどまでとは違い、今の彼女は目的とする場所がありました。目指すは森の奥、熊の先生の病院です。
『さて、兎さん、貴女はどうしますか? 私の話を聞きながら神様を信じる勇気を探しますか?』
『…さあ、わかりません。だって私には神様どころか、森の仲間達ですら信じる事が出来そうに無いのですから。それなのに貴女の話を聞いても仕方がないような気がします』
『そうですか。それではまず、貴女は自分自身について考えたほうが良いのかもしれませんね』
エルフはそう言うと、東の方角を差して兎に教えました。フレンテルも、彼女が指差す向こうを見ます。
『あの樫の木の林を抜けた先で熊の先生が相談所を儲けていると聞きます。そこで話をさせてもらってはどうですか? もちろん、私に語られてもいいですよ』
『相談所、ですか?』
『人に言葉を聞いてもらうというのは、思っているよりも支えになるものです。弱っている貴女独りでは辛いでしょうから、行ってみてはどうです?』
彼女の言葉に、フレンテルは考えるよりも先に頷いていました。それから自分が独りで淋しかったのだと気付いてしまいます。
自分の気持ちに気付いたフレンテルは、エルフにお礼を言うと樫の木林を駆けていきました。颯爽と走る足は風のように速く、まるで鳥のように軽やかに跳ねていきます。彼女がよほど高く飛ぶので、樫の木はあっという間に消えてしまい、やがて草原に出ていました。
…その草原の彼方、遠く向こうには小さな家がポツンと建っていました。きっとそこに熊の先生がいるのだろうと彼女は駆け寄ります。
「―――ああ、やっぱりここだわ」
表札には熊の病院と名打たれ、大きな手形がスタンプされています。兎はその看板を見詰めながら息を整えました。それからゆっくりと、踏み入ることに怯えながら扉を開けました。
「おや、いらっしゃい兎さん」
母屋に入ると、迎え入れてくれたのはボロ人形でした。もとは品の良さそうな、けれど今は汚れてしまったボロ人形が受付にたっています。
フレンテルは彼に、ここに来るまでのいきさつを話しました。
「こんにちは人形さん。実はここに来れば、熊の先生が相談を聞いてくださると教えてもらったのです。どうか、私の話も聞いてもらえないでしょうか」
「ええ。構いませんよ。ですが今日ここに来る事を連絡していましたか?」
「いいえ。…もしかして予約をしていないと駄目なのですか?」
「原則としてはそうですね。でも、今日は一人来れなくなった方がいるので、三十分だけなら時間が空けれますね。それでよろしければ、どうぞ上がってくださってください」
ボロ人形は親切にもそう言ってくれます。ですがフレンテルはこれまで色々な目にあってきたせいで人の優しさを疑ってしまうのでした。
フレンテルはジッと、ボロ人形を見詰めて身を強張らせてしまいます。ボロ人形はそんな彼女をいぶかしんだのでしょう、気さくに笑ってから安心させるように言いました。
「ああご遠慮はいりませんよ。先生はすこし怠け者なのでこれくらいが丁度いいんです。それともまた次の機会に来られますか? 心の準備が必要でしたら、それでも構いませんよ」
汚れてくたびれた人形は、同じようにくたびれた笑みをフレンテルに向けます。彼女は少し迷ってからおずおずと首を振りました。
「…キチンと、お金は取られるんですよね?」
「? ええそうですよ。奇妙な質問ですね。ああ大丈夫、法外な値段を要求したりしませんよ」
「わかりました。それでは、よろしくお願いします」
ペコリとお辞儀をして言うとボロ人形が深く頷きます。それから彼は、先導して奥の階段に向かっていくのでフレンテルも背中を追いかけました。くたびれて汚れたボロ人形は二回に着くと、一番手前の扉で止まりました。そして一息分間を空けてからノックをしてから中に入ります。
「――はい。って、あれ? ウルカ君、今日の患者さんはお休みじゃないのかい?」
「ええ、その通りですよ。だから急患なんです。三十分ほど空いているので診てもらえませんかね」
「むう。熊使いが荒いなあウルカ君は」
「先生が怠け過ぎなんですよ。さあ、諦めて働いてください」
「やれやれ。しかたないなあ」
そういいながら、彼は振り向きました。その姿は背の小さいフレンテルからしたら山のように移ります。
毛むくじゃらな大きな体を持つのは、大きな大きな熊でした。その巨体は天井に届きそうなほど高く、大きな足はフレンテルの体も簡単に収まるようなサイズです。
そんな、部屋を小さく感じさせるほど大っきな熊の先生は、首を振りながら溜息を吐きました。それからフレンテルを席に勧めると彼は鉛筆とノートを持ちます。
「さてとそれじゃあ、こんにちは兎さん。とりあえず自己紹介をしようか、僕は樋熊のブドルフだ。君はなんて名前だい?」
「え? ああはい、フレンテルです。白兎のフレンテル」
「ふんふん、フレンテルさんか。清楚な感じがして良い名前だね。ちなみに好物は? って聞くまでもなく人参か。蜂蜜入りのミルクは好きかい?」
「はあ、ええと多分」
「そいつはよかった。じゃあ、ウルカ君」
「わかってますよ。淹れてきますから、ちゃんとお仕事していて下さいね」
「うんうん。話が早くて助かるなあ。僕はウルカ君のそういうところが好きだよ」
「はいはい、どうもありがとうございます」
二人はそんなやりとりをすると、ボロ人形のウルカは扉へ向い部屋から退出してしまいました。室内には熊の先生と兎が取り残されます
そして二人きりになると、熊のブドルフはのっそりとフレンテルに向き合い、穏やかな目を向けていうのでした。
「さてと。お邪魔虫が出てったところで、改めて今日はどういった御用かなフレンテル」
「あ、はい。ええと――」
「ああ、畏まらなくて良いよ。君の話しやすいように語るといい。内容の整理は僕がするからさ、君は君の思いを余すことなく言葉にできるよう心がけるんだ」
フレンテルは突然雰囲気の変わった先生に少し戸惑いますが、言われた通りポツポツと、彼女はこれまでの経緯を話していきました。あまり要領をえない口調で、それでもゆっくりと。
まず知らない森に来て、友達もできなくて淋しかった事。狼に襲われそうになって他者を無条件に警戒するようになった事。狐からの手紙に騙されてしまい、人を信じるようにできなくなった事。そのせいで仕事も止めてしまった事。…それから、堪えるだけの夜が続いた事。
内容が飛びとびになっても、ブドルフ先生は静かにフレンテルの言葉を聞いてくれるので彼女も落ち着いて話すことが出来ました。そうして言葉を結び終える頃、フレンテルは薄く涙を溜めていました。
「なるほどね。それで兎さん、貴女はこの森の住人達をどう思ったんだい?」
「恐いと、思いっていました。皆は酷く冷たくて、私なんか居ても居なくてもいいんだと言われているような気がしていました」
「ああそうだろうね。誰もそんなふうには思っていないんだけどね、それでも無関心は心を怯えさせるから無理もない。誰とも交われないのに、自分を慰めるのは困難だったろう」
大変だったねと熊の先生は続けました。するとその言葉はジワジワと心を巡り、彼女はポロリと涙を流していました。
「でもね、フレンテル。君も悪いんだよ? 弱さを悪いと呼ぶのは悲しい事だけどね、でも優しい君は脆すぎだよ。森で出会ったお爺さんの言葉も、あながち外れてないさ。それどころか思ってくれる人、優しくしてくれる人にだって依存するような甘え方をしちゃ台無しになる。いいかいフレンテル、生きている限り僕らは堪えていかなきゃ生きていけないんだ。君は君の命にしがみつかないといけないんだ」
そう、熊のブドルフは兎に諭すように優しい口調で語りました。ですがフレンテルはお爺さんに言われた時と同じく、まだわからない気持ちのままでした。
だから彼女はうんうん悩みながら、熊のブドルフに思いのままを吐き出します。
「…でも先生、私は酷くされたら悲しいです。誰だってそうだと思います。それなのに堪えていくのは苦しいような気がします」
「ああ。いいやフレンテル、意外にそうでもないのさ。案外僕達は堪えれるようにできているんだよ。それどころか君のように悩んだりする人の方が稀有だ。だってそうだろう? 生きていく方法を探すなんてそれこそ妥協に等しいのに、そこに感情を挟むなんて非合理的さ」
「……そうでしょうか、そうなのでしょうか?」
「うん。少なくとも、生物というものは皆そこそこの順応力を持っているんだよ。水中を泳ぐ鳥だっているし、空を飛ぶ魚だっている。熊が冬を越すために冬眠するように、君は今を堪えれるよう強くなっていくべきだ」
優しく語るブドルフの言葉を聞いても、フレンテルはまだ迷っていました。そんな彼女の気持ちも察しているのでしょう。熊の先生はもう一言、言葉を紡ぎました。
「フレンテル、もっと鈍感になりなさい。心を揺らしすぎるとそのうち全てを呪ってしまうようになる。君はもう少し、自分にずるくなっても良いんだよ」
熊野先生はそう言って言葉を区切りました。迷っても何も返せないフレンテルはただ黙って考えます。そうして少しだけ沈黙が続いたら、不意に階段を昇る音が聞こえてきました。それでなんとなく二人の会話も終りを迎えていました。ウルカが登ってくるまで、二人は無言で見詰め合いました。
階段の音が止むとノックが響きます。
「失礼します、お待たせしました―――と。ああ、どうやら取り込んでいたようですね」
「いいや、実にいいタイミングだよウルカ君。遅すぎず早すぎない。狙ったように完璧だ」
「そうですか、それは良かったです。それとお茶受けも用意しましたが、よろしかったですよね?」
「気が利くねえ。いやはや、全く以って君は助手の鑑だよ。自称してもいくらいだ」
「しませんよそんなの。それより、ねえ兎さんどうかしましたか? とても難しい顔をしていますよ?」
「え? ああはい、ええと、大丈夫です。どうぞお気使いなく」
「はあ、そうですか?」
少し挙動のおかしいフレンテルにボロ人形は首を傾げます。ですが見ていてもわからないので、彼はミルクとクッキーを差し出しました。それから熊の先生にも届けて、聞きます。
「どうしたんですか。何を言ったんです?」
「彼女は今、自分を納得させている最中なのさ。僕らは暖かく見守ろう」
ブドルフははぐらかすように答えるのでボロ人形は疑問符が浮かぶだけでした。そうして、二人が話をしている間もフレンテルは悩んでいました。正論のように聞こえるブドルフの言葉と、悲しいように思えてしまう自分の心を天秤にかけて揺らいでいました。ですが悩んでも悩んでも、天秤はどちらにも傾きません。
「―――いいんだよ、フレンテル。今はそれだけで十分だ」
もしかしたらそんな彼女を見かねたのでしょうか。悩み続けるフレンテルに、熊のブドルフはそう言いました。
「決められないうちは悩んで考えるといい。そしてどうしても僕の言葉が受け入れられかったら、またそれを話に来なさい。だって、僕はずっと此処にいるんだからね」
樋熊のブドルフは優しく笑いかけて、そう言います。そしてその大きな指で、彼女の手前を指しました。
「ただ今は、ミルクが冷めてしまう前に飲んだらどうだろう?」
フレンテルは言われてから初めて、目の前のミルクを意識しました。湯気の立つカップからは甘い香りがしてきます。急に口寂しくなった彼女はゆっくり、火傷しないように口をつけてました。
口に広がる甘い味のミルクはとても優しく、複雑に絡んでいた彼女の気持ちも溶かしてくれます。ミルクを飲んでいるフレンテルは久しぶりにほんの少しだけ、幸せな気分になれていました。

* * * *

「―――どうも、ありがとうございました」
私は短くお礼を言い、熊野診療内科を後にしていた。先生が話された内容は少し難しかったけれど、何を掴みたくて何度も反芻しながら歩いて行く。それでも今はまだ悩んでいた。
先生は私の弱さも悪いと言われた。確かにそれは正しいと思う。か弱い兎のような心では、誰かに突かれただけでも泣き崩れてしてしまう。そんな心ではとても生きていけないだろう。
でも、ならば、強くなってまで生きる理由は何所に在るのだろう。
致命的に引っかかるのはきっと、惰性のように生きてきた自分が戸惑うせいなのだ。私は理由もなく命にしがみつく強さも、ふてぶてしさもを持っていない。しぶとく此処で、この町で、この現実で生きていくには決意という取っ掛かりが必要だった。
…私がここで生きる答えは何所だろう。
「―――――やだあっ! やだよお! ねえいいでしょお母さん!」
「駄目よ。ウチじゃ飼えないもの。それに家の壁を引っ掻くし、あちこち汚すのよ」
そんなふうにぼうっとしながら歩いていたら、すぐ横から親子喧嘩の声が聞こえた。私は反射的に視線を向ける。
夕暮れの遊歩道で、少年は腕に何かを抱いて泣いていた。どうやら野良猫のようだ。おそらく家で飼いたいとせがんでいるのだろう。母親はそんな彼を賢明に諌めているらしい。
「あのね、猫さんを飼うならおうちを追い出されちゃうの。そんなのはユウキも嫌でしょ? それに猫さんだって守ってあげられなくなるよ?」
「やだあ! ねえ飼ってよお、飼ってえ! 僕何でもするからあ!」
「だから、駄目なのよ。ちゃんと居たところに置いてきなさい。猫さんにとってもその方が自然だわ」
「やだよお、ねえいいでしょおかあさぁん!」
「駄目だって言ってるでしょ。聞き分けの無い事言うなら、お母さんもう知らないよ」
「やだあ! やだあ! ねえ、おかあさぁん!」
見ていて不憫になるくらいに子供はぐしゃぐしゃになって泣いていた。わんわん泣く少年に、お母さんも手のつけようが無いらしく、困り果てている。それは腕の中の猫も同様に見えた。
…なんだか懐かしい光景だ。私も昔同じような体験をしたことがある。その時は確か犬だっただろう。近所をウロウロしていた大型犬に懐いてしまい、離れるのを極端に嫌がったのだ。きっと、そのときの私も彼のように泣いていたのだろう。
少年はなおも大声でわんわん泣く。そんな彼に疲れ果てたのは親よりも先に猫の方だった。彼が泣くことに必死になっているうちにするりと腕から抜け出して、そのままトコトコ歩いていってしまう。だが泣いている少年はそんなことにも気付かない。母親に言われて気付いて、慌てた彼が追いかけると猫はそのまま走り去っていった。
呆然とした少年は小さくなっていく猫をそのまま見詰めていたが、どうやら母親に諭されたらしい。一言二言囁かれると、さっきまでの泣き声なんて消え去り、涙を拭きながら家路に向うようだった。
―――それは三分も満たない光景だっただろう。だが、なかなかに感慨深いものだった。
少年はきっと、今日の記憶を私と同じように処理していくのだろう。いや、もしくはそのまま忘れてしまうかもしれない。それでも猫には関係なく、これまで通り人間にたかったりして生きていくのだろう。皆そうして生きているらしい。堪えたり忘れたり、嘆いたり怒ったりして生きているらしい。
きっとあの猫の走り去った先にだって、そういう物もあったりするのだろう。
「…なんだ、皆同じなのか」
もちろん誰にだって公平ではないのかもしれないが、それも含めて公平に、多くの人は苦しみながらもその命を続けようとしているらしい。
ならば私も、生き方とやらを決めなければならないのかもしれない。
きっとこの思いも時間によって曲がっていったりするだろう。それは守るではなく心がけるような、目標のようなもの。だが此処で生きれるよう、自分にとって少々都合の良い主義主張。
走り去った猫の命を信じるような楽観性と、あの子供を見た時に感じれた風化の心理を礎にして考えてみる。熟考すること十数秒、これまでに沢山教えられたせいだろう。答えはあっさりと出た。
「…もうちょっと、鈍感にいこうかな。それからとりあえず、神様を信じてみよう」
見えない物が、知らない何かが、未知なる私の未来が救いに満ちているように。
明日に怯えて身を守るより、信じて歩んでいったほうが心に良いだろう。あの先生にそんな事を言われたなと笑いながら、私はこれまで通り家路を辿った。
ああそうだ、ちょっぴり今日のご飯は豪勢にしよう。
軽やかな足取りで赤い空を見やる。とても清々しい景色だった。

「―――だあうっぜえ! チクショウ有り金全部スっちまったじゃねえかよ!」

………だが突然、そんな怒声とも罵声ともつかないような咆哮が聞こえてきた。
とてもとてもビックリしていた。
だって頬が熱くて激痛がするのだ。でもその理由はよくわからない。
ただ私は呆然と地面に膝をついて、ジンジンする頬を押さえていた。
…なんで、私は殴られてるんだろう?
「うわっ、なにやってんすかアキラさん! うーわマジかよ、知らねえ通行人殴ってんじゃないっすか、しかも女だし!」
「あー、あー、あー、あー、だああ、マジ死ぬほど苛つく! あん? 女? 知るか良いだろ。レイプされるのと比べりゃ蚊に刺された程度だっつーの」
「いやホント、マジ勘弁してくださいよアキラさん。さっさとバックレましょうよ、ほら早く! いまケーサツに捕まったら、問答無用でブチ込まれるんですからね俺達!」
まるで冗談のような、白昼夢を見ているような感覚だった。そうして地面に崩れている間に少年達は姿を眩ませていく。私は痛みすら感じる間もなく、ああ打たれたのかと気付くのは頬に涙が触れてからだった。
…どうしてだろう。やっと此処で生きる力を得たのに霧散してしまう。
ポロポロと涙が零れた。だがもう止める術は無い。打たれた拳に心は砕かれたのだ。残っているのは残骸じみた体だけ。骸のような躰だけ。
嗚咽すら忘れて、泣いていた。これを試練と呼ぶなら私では此処で生きられないだろう。それだけ察してただ無意識に涙する。
徐々に加速していく痛みに悲鳴が洩れた。誰かが話しかけるが受け答えも出来ない。ずっと前に気付いていたはずなのに、忘れて信じようとしていた自分の愚かさを痛感する…。
―――ここは、とても恐いて悲しい場所だ。もう誰も信用しないでいよう。

* * * * *

…以上で、回想は終りだ。
腫れた頬はもう傷跡もない。この程度で折れてしまった私も確かに悪いのだろう。あの先生の言う通り私にだって問題はある。
でも、だからと言って被害者たる自分を責める気力も湧かないし、そうまでして固執する理由も無くなった。あの日覚えた希望は錯覚として消え去ったのだ。私に残ったのは自滅までの空白であり、カウントダウンが終わるまで許された自由時間だけなのである。
それをどう使おうかという逡巡も浮かばない。惰性的な現在を震えるのにすら必死で、立ち上がるなんてとても無理に思えていた。希望や期待に身を預けるなんて、考えるのも恐ろしくて出来そうにない。
弱い私はただ惰性に甘えるように、時間を越えることだけで限界だった。

* * * * * *

ホウトト森の片隅で兎は今日も震えてました。外は恐ろしい、他者は怖い。だからここで身を隠すのが弱い彼女にできる精一杯の抵抗でした。
ここにいなければ他者に傷つけられてしまう。傷つけられても誰も慰めてもくれないから、嘆いて痛みを和らげるしか方法は無いのでしょう。今ならノームのお爺さんの気持ちもわかるような気がしました。ここはとても冷たく悲しい場所に思えてしまいます。
悲しくて虚しくて、もう他者に希望を抱けそうにありません。だって、此処には他人を気付くける者が多く居ます。
あの狼はまた誰かに牙を剥くかもしれません。狐は今日も人を騙す事を画策しているかもしれません。乱暴者の鬼は少し不機嫌になっただけで再び暴力を振るうかもしれません。
たまたま彼女だったと言うのなら、次は違うなんて保障をしようもなく、これからは理不尽な痛みなど訪れないと、誰がどうやって約束してくれでしょう。
兎はこの現実を嘆いて、また涙するのでした。

『此処は皆の住む森場所ホウトト森さ。気楽な鳥達優しい精霊恐い狼綺麗なエルフ、皆御座って可笑しく踊るよ素敵だよ。ほらほら今日も誰かが笑って誰かが泣いてる。それすらいつものことで、可笑しいね。ワンワンクスクスギャンギャンスンスンピーチクパーチクグスングスン。誰もが勝手に踊って歌って叫ぶよ聞きな。誰もが不幸を嘆いてる。愛が足りない、金が足りない、名誉が足りない、自由が足りない、全く全然足りてない。君はホントに馬鹿だから、馬鹿馬鹿しくて馬鹿になる。私が正しい貴方が違う。貴方が正しい私が違う。どっちもどっちさ意味もない。愚かなのはお互い様だ。さあさ一緒に踊りましょう。アレもコレもソレもドレも、狂って壊れてガラクタなのさ。そもそも君って誰だい素敵かい? やれやれ小さい事など気にするな。冗談みたいな姿して、今更マトモだなんて言わないだろう? 僕らは十分イカレているさ。誰の痛みもわかならい。誰の痛みも関係ないのさ自分が一番、楽しいならばそれでいい。誰が泣こうと喚こうと、煩わしいから関係ないよ。ほらほら今日も騒ごうぜ。正論謳って正しいフリを、していりゃ問題無いんだろう? 誰が誰より正しくて、間違ってるなんて嘘だらけ。誰も嫌いで怒るのさ。僕が嫌いで怒るのさ。僕も嫌いで怒るのさ。誰かが嫌いで怒るのさ。生意気愚かで嫌悪して、苛めて突き落としならゲラゲラ笑う。これをまともと呼んでもね、それこそただのお笑い草さ。僕らは皆壊れてる。愚図で卑怯の集団さ。僕らは皆ズルしてる。恐くて嫌なら見えない振りさ。だけどね神様そんな湿り花にも、願いがるんだ聞いておくれ。図々しくもたった一つだけ想いがあるよ。それを貴方に望めるならば、どうか可愛い兎さん、彼女をどうか起こしておくれ。優しい心を起こしておくれ。こんな僕らに苛められた、哀れな兎を起こしておくれ。生まれた意味を、その価値知って幸福望めれりゃきっと、彼女は笑ってくれるだろう。彼女の笑顔は綺麗だろう。つられて花も咲くだろう。それをお礼と思えるならば、どうか彼女を愛しておくれ。可愛い兎を愛しておくれ。ランランルンルンクスンクスン』

ホウトト森の片隅で、湿り花のベルリミン達は歌います。彼等は枯れて花散るようになって、初めて心が芽生るのです。だから彼等は、今も泣いている兎を思って唄を歌います。
ですがその池のほとりからではいくらか距離があるので、耳のいい兎の耳でも聞き取ることは出来ませんでした。
それでもベルリミン達は歌います。もうじき枯れてしまう彼等は、それまでにどうか思いを伝えようと歌います。
声を揃えて、きっと届くように大きく。でも兎のフレンテルは自分の家に閉じこもっているので聞こえません。ベルリミン達の唄を聞くのは決まって、近くを行く森の住人達だけでした。
――――けれどそんなある日、彼女の元に電報が届くのでした。
『そこで怯える兎さん、体の調子はどうですか? 心の調子はどうですか?』

突然電話が鳴った。
一瞬、あの架空請求の電話を思い出したが、記憶に残っている番号が表示されていたので恐る恐る通話ボタンを押してみる。
「はい…、ええと、卯佐美です」
『あ、突然失礼します。以前お越しになられた診療内科の者です。熊井先生の助手と言えば、わかりますか?』
「ええ、はい、わかりますが。どういった後用件でしょうか」
『以前相談に来られた際、まだ顔色がすぐれないようでしたから気になりまして…。あのう、失礼な質問ですが、あの後からもカウンセリングなどは受けていますか?』
「………」
本当に、突然失礼な質問を受けて口ごもる。これがやはり私を騙すためのものだったらどうしよう、外に出てまた何か理不尽な不幸に陥ったらどうしようと、不安に襲われているうちに受話器は再び声を上げていた。
『実は熊野先生も気になされていて、今日は別の先生をお呼びしたのです。どうでしょうか、もし宜しければ話だけでも聞いてもらいませんか?』
向こうがどんな思いで電話をしてきているのかいぶかしむ。思い出す顔は人のよさそうな青年だったが、果たして彼の本性が同じとも限らないだろう。
「いいえ、あの、遠慮しておきます」
『そう仰られないで、貴女に負担をかけたりはしませんので、どうか来ていただけないでしょうか』
「大丈夫です。私は大丈夫ですから」
『では、中央駅で待っています。どうか、どうか来てください』
なぜか懇願されて電話は切れる。そんな事を言われても、彼の言葉をどうやって信じていいのか解らない私は、ムズムズした気分になりながらも布団に戻るのだった。
テレビでは芸能人の結婚が報道されている。映画で有名になった俳優とアナウンサーが結婚するらしい。そんなニュースをぼんやり見ていると、画面の端に浮かぶ数字が気になった。
「………」
眉根を寄せて、私は布団をかぶることにした。

* * * * * * *

「ああ、よかった。もしかしたら来てくれないかと思ってました」
診療所で出会ったときと同じように、青年は人懐こい笑みを浮かべて私に言うのだった。
我ながら本当に馬鹿みたいだ。よほど無視してしまおうと思っていたのに、気付けば布団から這い上がって適当な服を着込んでいた。鏡の前で髪をとかしている時には本気でかんしゃくを起こしかけたが、私はどうにか堪えてしまってここに立ってしまっている。
本当、馬鹿馬鹿しくて愛想が尽きる。自分自身に対して、もう好きにしろって感じだ。
「改めまして、僕は比戸型薫といいます。よろしくおねがいしますね卯佐美さん」
「ええ…、よろしく薫君。でも私は貴女を信用してここに来たわけじゃないから、気分が変わったりしたらすぐに帰らせてもらいますよ。いいですね?」
「もちろん承知しています。僕も無理強いをしたいわけではありません。ですがきっと、これから御会いする先生なら貴女を笑顔にしてくれますよ。うん、保障しても良い」
「そうですか。でもどうして、今日は熊野先生ではないのですか?」
「適材適所、というものですかね。それに他の方に話を聞いてもらえば、また新たな解答を示してくれるかもしれませんから」
「………わかりました、じゃあ、連れて言ってください」
「ありがとうございます。それではどうぞ、僕の後ろに続いて来てください。場所は相変わらず、前と同じ診療所ですけどね」
薫と名乗った青年はそう苦笑しながら私を先導する。憂鬱な私は、空っぽの頭を携えて彼の背中を追う事にした。
…どうせもう希望を抱かない心だ。ならばどう過ごしていこうと、変わりは無いだろう。


中央駅から徒歩三十分。そのくらいの距離に例の病院はある。それまでの道のりを私は無言で、彼は時折こちらを振り返りながらも、やはり言葉は無く歩いていた。
人通りの多い場所を御歩くのも何日振りだろう。私は半分麻痺した心を引きずりながら考える。
別に、助けを求めて此処に来たわけではない。何かを期待するような心はもう見失ってしまったのだ。ただこの人の良さそうな青年を、寒空の中来で待たせるのが心苦しかったから着てしまっただけ。
此処に来た理由はそれだけで、他には本当に何もない。
こうして彼の背を追っているのも、期待も絶望もしないなら何が起ころうと関係無いからだ。真実思い描く事すらしなくなった私にはなにもかも惰性で終る。
「―――あのう、すいません。一つ訊いてもいいでしょうか」
「……え、何んですか?」
俯きながら歩いていると声がかかる。比戸型薫と名乗った青年が、振り向かないで問いかけてきた。私は囁くような小さい声で返事を返す。
「ええと、その、何があったんですか?」
「………」
何があったか。つまり何かあったという事は察しているらしい。まあ、私の様子を見ればわかる事か。
「…ねえ薫君、薫君は人に理由も無く殴られたことってある?」
「え? いや、ありませんが…」
「そう、私はこの前そんな事があったんだ。珍しいよね」
「………」
「それでも、話せば癒してくれと思う? その先生ならできると思うの?」
「………」
薫君は黙って歩き続ける。姿勢も変えないままなので顔色も伺えないが、困らせてしまったのは明らかだろう。私は自己嫌悪をしながら呟いた。
「…ごめんね。困らせたかった訳じゃないんだけど」
「いえ、僕は別に。それより、卯佐美さんの方こそ大丈夫ですか?」
不快にさせたのは私の方なのに、彼は気遣う素振りを見せてくれる。しかし惜しいかな、私はもう優しさに揺らされるような心は所有していないのだ。
だから私は無視して俯き続ける。彼は言葉を返さない私に気遣ったのだろう、取り繕うようにただ歩を強めた。
彼と落ち合った中央駅から、熊野病院まではそう遠くない。徒歩でも三十分程度で着くのなら片田舎であるこの町では上出来なほうだろう。私達は道なりに、そこそこ人通りの少ない通りを無言で行く。
…だがそんな場所で、私が途中で歩を止めてしまったのは見知った老人と再会したからだった。
「あ――」
「ん? ああ、あの時のお嬢さんか」
彼の方も私の事を覚えていたらしい。その人は私が外に踏み出そうとした日、熊野医院に行くよりも前に話しかけた老人だった。お爺さんは私が話しかけた時と全く同じ場所で、空を見上げていた。
「奇遇というほどでも無いのかな、私はあれからもよく此処にいたから、君が通りかかれば会ってしまうかも知れない」
「はあ。そうですか」
「だがどうやら、今日は独りじゃないらしいね」
「…そうですね、一応、そうみたいです」
「なら喜んだらだろうだ。よかったじゃないか、これでもう一人で思い悩む事はないだろう」
そんな会話を、老人と私はどちらも視線を交えないままで行なっていた。私からすれば自分の気鬱の原因はわかるのだが、お爺さんが俯くいているのは不思議だった。まるで風船のように空っぽな私達は、自分で放った言葉もわすれたままで立ち尽くす。
いったい彼はどうしたというのだろうか、会った時はあんなに気強い雰囲気を放っていたのに。
「なあ、お嬢さん、ここであったのも何かの縁だろう。一つ私の質問に答えてくれないかな」
そしてお爺さんは、そんな事を私に言う。それは予想もしていないことだったので、私は戸惑いながら反射的に頷いてしまっていた。
「え? ああはい、私になんかに答えれるのであれば…」
「そうか。それなら助かる。いや、難しい質問じゃないんだ。ただ単純な感想を聞かせてほしいだけなんだ」
ほんの少し息を整えなが、お爺さんは私にそう言って確認します。それから俯いてまた何かを探すように、ゆっくりと言葉を紡ぎました。
「なあ、貴女は神様とやらが、存在していると信じれるか? それとも信じられないか?」
「え?」
「深く考える必要はないんだ。素直な気持ちを答えてくれ」
「それは、…そんなの―――」
再開した瞬間から彼は私と同じ考えを抱いていると思った。だから私が戸惑ったのは、何かを期待するようなその声音にだったのだろう。
そんなの居るわけが無い。そう答えたい私は息を飲んでしまう。見た事もないのなら否定する根拠だってないのに、私は反射的にそう言いたかった。そう言って、この現実を呪いたかった。
「―――ねえお爺さん、失礼ですがよろしいですか?」
そんな私の思いを遮ったのは、先ほどまで傍観していた薫君だった。彼は私とお爺さんの間に立つと、力強い声でお爺さんに語りかけていた。
「聞いてくださいお爺さん。私の知り合いの先生は言っていました。疑う事は自衛に役立つと。しかし、信じて生きていかなければ幸福にはなれないとも、仰っていました。確かに打たれれば痛いです。人と関わっていたら裏切られたり、悲しんだり、嫌悪してしまう瞬間だってあると思います。でもそうして外壁を築いて身を守っても、辛い思いは消えないままで、捻じ曲がっていくだけじゃないでしょうか?」
それをどう聞いていいかもわからない。現実を悲観していたはずのお爺さんは、難しい顔をして薫君を見上げていた。だがそうして置いてきぼりにされた私は気付いてしまう。彼が語る、説得しようとしている対象はお爺さんであり、また同じ場所にいる私でもあるのだと。
「疑う事は不安を捏造します。それでは、例え身を守れたとしても心を疲弊させるだけでしょう。信じていれば裏切られるような結果を招く時もあります。ですが信じようとしなければ救われた事にすら、愛されていた事にすら気づけない。ただ惰性のままに全てを享受していたら、救われたり報われたりもしないのではないですか?」
薫君はどこか縋るような目で説明していた。という事は、彼自身も何かに怯えているのだろうか。辛うじて押し付けるようにしなかったのは、彼なりの抵抗かもしれないと感じる。
信仰、というよりは信じるという行為を破棄しないよう願っているのだろう。その綺麗な願望を苦々しく思っているのは、どうやら私だけではなかったらしい。お爺さんは皺を深く刻みながら彼に問いかけた。
「そうは言うがね。ならば信じても信じても、それでも幸せを見つけれなかったらどうするのだ? 思い続けても報われる保障などないだろう?」
「それは、…わかりません。先生なら答えられるかもしれませんが、未熟な僕には何も言えません」
「そうか。そうだろうな」
答えられても、失望はしていないようだった。お爺さんは淡白に頷いて、それから空に溜息を一つ吐き出す。
「…気付いていたさ。疑うばかりでは、悪い事を懸念するばかりでは疲れてしまう。嘆くばかりでは自分が捻くれてしまう。ただそれでも、どれだけ悩んでも、信じる為の言い訳が見付からなかったんだ」
呟いて、お爺さんは立ち上がって、私達とは逆の方向へ足を向けていた。確かあちらには教会があった筈だ。もしかしたらお爺さんは、そこに行くかもしれない。
「なあお嬢さん、もう一度聞いてもいいかな。貴方は神様を信じれるか?」
「…わかりません。私にはまだ、わかりません」
振り向かないまま問うおじいさんに私は答える。だが、実際はその言葉も嘘だった。本音を吐けば信じることなどもう無理だと思う。でもどうしてか、私は言葉を取り繕っていた。
…なんだか自分に胸が苦しくなっていた。
「そうか、私と一緒だな」
お爺さんはそう呟くと、どこかに向って歩き出した。取り残された私は去っていくおじいさんを見詰めてしまう。
きっと私は、さぞ難しい顔をしているのだろう。


ノームのお爺さんと別れた後、残されてしまった兎は何処か暗い気持ちになり、呟いてしまいました。
「どうして狼も、狐も、小鬼も、私を傷つけたのでしょう」
「そうですね、それが問題なのです。誰も貴女の傷が見えない。誰も貴女の痛みがわからない。だから貴女がどれだけすすり泣こうとも、彼等は振り向くことすらしないのでしょう」
「…どうして、傷つけられたのは私だったのでしょう」
「たぶん、ただそこに君が居たからでしょう。雄々しく立つ者よりも、弱弱しく震えている者から奪うほうが容易い。淋しがりやな貴女が手頃な獲物に見えたのです。意図して選んだのではなくて、そこに君がいただけで手を伸ばしたのです」
「…この森は、悲しくて淋しいですね」
「此処がそうで、何所は違うという話ではありませんよ。生きている私達は時々浅はかで、時々傲慢な行いをしてしまうのです。だから貴方のような優しい人を傷つける」
ボロ人形は兎にそう教えます。ですが彼自身も、フレンテルと同じような悲しみを抱いているようでした。
「ウルカ、私は、悲しくてもう壊れてしまいたいのです…」
「貴女を僕のくたびれた腕で君を抱き締める事もでます。でもどうか堪えてください。ボロ人形に慰められてはみっともないでしょう?」
布の掌が私の頬に触れます。ウルカの瞳はとても清んでいて、優しさを感じさせてくれました。
どうしてこの森には、騙す者と優しくする者がいるのでしょう。血の通っていないウルカは優しいのに、生きている狼達はあんなにも冷たい物だったのでしょう。
フレンテルは、もう何もわからないような気がして悲しくなりました。
「フレンテル、一緒に魔法使いの所に行きましょう。彼はとても多くの術を知ってしる、きっと貴女の心を救ってくれる筈だ」

* * * * *

ボロ人形のウルカと、白兎のフレンテルは森のあぜ道を行きます。ですがお爺さんと別れてからというもの、二人は口数も少なく森を歩くだけでした。彼女が抱けた熱を掻き消すようなことをしないために、自然と無言になっていたのです。ですがそれも、一軒の家の前に着くことで終りを迎えます。
母屋の前で立ち止まったウルカは悩んでいるフレンテルに向かって言いました。
「さあ着きましたよ。心の準備はいいですか?」
「…本当に、その方に相談すれば私は立ち直れるのですか?」
「ええ、きっと。貴女が心よりそれを望んでいるのなら言葉を授けてくれると思います。ですがそれから先は、貴女自身が立ち上がろうとするかですよ。わかっていますよね?」
ウルカはそう言って、自分の心と向き合うことを念押ししました。本当に立ち直ろうと思うのなら最後は彼女自身で決着をしけないといけないのだと、彼は瞳での奥で訴えています。フレンテルもウルカの言葉に深く頷きました。
「よろしい。それでは行きましょう」
重そうな扉を音を立てて、二人は中に入りました。前に来た時と同じように、中は小奇麗な雰囲気でキチンと整えられています。部屋の奥では青年と樋熊が座って、コーヒーを飲んでいました。ボロ人形は片方の青年に向って声を上げました。
「――――魔法使い様、お忙しいところをすいません。彼女を連れた来たので、どうか相談に乗って頂けませんか」
ウルカの声に青い瞳の青年が振り向きます。彼はその吸い込まれそうな瞳で二人を捕らえると、微笑みながら答えるのでした。
「ああ、待ってたよ。そろそろ来ると思っていた。さあ彼女を連れて来るといい」
まるで来るのがわかっていたかのように魔法使いは答えます。そして立ち上がるとサイフォンへと赴き、コーヒーを淹れ出してしまいました。そんな彼にフレンテルが戸惑っていると、ボロ人形が手を引きながら言うのです。
「行きましょう。彼はいつもこうなのです。私達に求められるのは質問に答える事です。それ以外は要求されません。席に着けと言われたならば、そうしましょう」
「わかりました。けれど、本当にそれでいいのでしょうか?」
「―――ああそれで構わないんだよ、兎のフレンテル。彼はお客さんをもてなすのが楽しいのさ。気遣うのなら、ウルカ君の言う通りに座ってあげるといいよ」
さきほどまで座ってコーヒーを飲んでいたブドルフが、そう教えてくれました。彼は渋いコーヒーが苦手なのかチビチビと中身を啜っては顔をしかめています。彼までもがそう言うので、フレンテルは手前のソファーにウルカと共に座ります。そうして、ゆっくりと蒸留されているコーヒーを待っているとブドルフが話かけました。
「やあフレンテル。気のせいかな、酷く落ち込んでいるようだね」
「…そうですか?」
「ああ、顔に書いてある。得に君のはハッキリ見えるよ」
「………」
「やれやれ、僕は言ったのになあ。此処にいるからいつでも来なさいって。なのに君ときたら、何の音沙汰も無いんだもん。そりゃあ僕だってウルカ君を使って呼び出すさ」
心配してたんだよ? そう樋熊のブドルフは続けてから、またコーヒーを飲みました、フレンテルはその大きな体を見上げます。
「…ごめんなさい」
「謝るような事はしていないさ。図々しかったのはこちらの方だ。でもねフレンテル、今度があるのならちゃんと相談しなさい。僕じゃなくてもいいから、ちゃんと誰かに聞いてもらおうとしなさい。だいたい僕ら生物ってのは、堪え性ってやつを大して持ってないんだからさ。抱え込んでいてもしかたないよ」
樋熊のブドルフはそれだけ言うと、残ったコーヒーを煽りコップを空にしてしまいました。そして口直しにチョコレートを一つ摘んでから、彼は立ち上がります。
「よし。ちゃんと伝えたからね? じゃあ僕は上にいるから、もし用件があったら戸を叩きなさい」
「貴方は、一緒にいてくれないのですか?」
「そうゆう訳じゃないけどね、でも皆一斉にして、君の話を聞くのもデリカシーがない。僕の言葉も求めるのなら二階に来なさいと言っているのさ。これで三度目だけどね、僕はいつでも此処にいるんだよ。わかったかいフレンテル?」
「……わかりました。その時があったらちゃんと、貴方に会いに行きます」
フレンテルの解答にブドルフは満足気に頷きました。それからサイフォンの前で、熱心にコーヒーを淹れている魔法使いに人声かけます。
「ということだ。僕の患者を頼んだよベントミール」
「ああ、任せてくれていいよブドルフ。最高のコーヒーをご馳走してみせよう」
振り向かないまま、ベントミールと呼ばれた魔法使いは答えます。樋熊のブドルフはそんな彼に溜息を吐きながらリビングを後にしてしまいました。
「それじゃあ、またねフレンテル」
「はい、それではまた」
大きな体をのそのそ動かして、ブドルフは二階に上っていきます。その姿を追っていたフレンテルも、彼が部屋の中に消えると視線を下ろしました。
ブドルフの部屋の扉が閉まると同時に、突然魔法使いは叫びます。
「よおしっ! 出来たぞ!」
突然叫んだので飛び上がるウルカとフレンテルを他所に、魔法使いは淹れたばかりのコーヒーを慎重に慎重に注いでいきます。やがて二杯のカップに茶色の液体が満たされると、二人の前に差し出しました。
「さあ、冷めないうちに飲みたまえ。ブドルフみたいにミルクと砂糖は必要かな? だとしても、ひと口飲んでから入れてくれないかな。今日のは美味しいと思うんだ」
「ええと、はあ…」
「おやっ。そう言えばそのブドルフがいないな。奴め、また蜂蜜を採りにいったのか?」
ぶつぶつ呟きながら魔法使いはお茶受けのクッキーを齧ります。フレンテルはそんな魔法使いを眼を丸くしてみつめますが、視線に気付いた彼はコーヒーをもう一度勧めました。
言われるまま、すごすごとカップに口をつけます。するとまろやかな苦味が味覚を刺激しました。
「あ、美味しい、です」
「うん、本当だ。匂いからして全然違う。とても柔らかい味ですね」
「ふふふ、そうだろうそうだろう。我ながら改心の出来なんだ。もう一度やれといわれてもきっと出来ないね。だから二人とも、心して飲むようにね」
ひとしきり自慢のコーヒーを褒められて、魔法使いは得意そうに胸を張りながら椅子に座ります。それから、彼は思い出したようにお辞儀をレンテルにしました。
「やあ、これは失礼した。そういえば名乗るのが遅れていましたね。私は人の願いを叫ぶ代弁士にして医療もこなす万能の博士、人はそんな私を魔法使いのベントーミルと呼びます。以後お見知りおきを」
ベントーミルは流暢な自己紹介の後、胸ポケットからそっと名詞を差し出しました。そこにはそのまま、魔法使いのベントーミルと名打たれています。
「―――さてと。それではさっそく仕事をしようか。はじめまして兎さん、よろしければ貴女のお名前を教えていただけませんか?」
「え? ああはい、フレンテルです。白兎のフレンテル」
「ふむ。フレンテル、素敵な名前だ。いやはや、貴女に会えて光栄ですよ。噂はかねがね窺っていた気がする。いや、初対面だから勘違いかな?」
「いいえ先生、僕がちゃんと伝えていましたよ。少し気弱な兎さんがくるので診てくださいって、今朝言ったじゃないですか」
「おおそうだったかな? ああそうだったかもしれない。まあこうして無事出会えたのだ。もう言葉に価値はないから忘れても構わないだろう」
魔法使いは大仰な振る舞いをしながら、その場にいる二人に言います。ボロ人形は彼をどう叱ったらいいのか悩みますが、すぐに諦めました。それから再び、脱線した話を戻してフレンテルへ語りだしました。
「さてとフレンテル、依頼内容は君の心を診ることだったね? ふふん、でもねフレンテル、実のところ君の救済はもうほぼ済んでいるようだよ? 君は多くの人に沢山言葉を授けてもらっていたからね。あとは君が踏み出すかどうかだったんだ」
「――え、はい?」
そんな彼の言葉を聞くと、キョトンとその赤目を見開いていました。フレンテルは魔法使いの言いたい事がわからなくて首を捻ります。ならば、どうして魔法使いは彼女を此処に呼んだのでしょうか。
「うんいい疑問だ。それはねフレンテル、君に私の手伝いをしてもらいたかったからなんだ。それはきっと君の為にもなる。どうかな、一つこの無力な魔法使いの手助けをしてくれないかい?」
妖しく笑う魔法使いはそう言いながら手を差し伸べました。その手を取るべきかどうか、わからないフレンテルは困惑して身動きできません。
ですがそんな彼女すら気にしないで、魔法使いは言葉を続けます。
「どうしても救われない人というのもね、まあ確かに存在するがまずそれ以前に救われようとしていない者の方が多いんだ。嘆くばかりでは悲しくなる一方なのに、際限すら忘れて暗い妄想をする者がとても多い。確かに虐げる者は呪われるべきなのかもしれない。だがね、悲観している者もまず顔を上げるべきなのだよ」
すらすらとまるで用意していた台詞を読み上げるように、魔法使いのベントミールは喋ります。その視線はフレンテルを捕らえているようで、別の誰かを見ているようでもありました。
「なあ、そうは思わないかいフレンテル。例え絶望に陥ってるとしても、救済や逃避の手段が無い、なんて事のほうがよほど少ない。破綻に追いやったのは他人だとしてもね、破滅に追い込むのはいつだって自分なのさ」
饒舌な魔法使いはそう区切るとくるりと首を回転させます。それから更に、一言続けました。
「なあ、それは思わないかい? ボロ人形のウルカ君?」

* * * * * * * *

ボロ人形のウルカは目を丸くして魔法使いを見詰めていました。ですが黙っていても始まりません。ウルカは恐る恐る、ベントミールに言いました。
「…何を仰っているのですか? 僕はただの同伴者なので、意見を挟んだりは出来ないのですが」
「ちっちっち。とぼけてもらっちゃ困るなあ。僕は君の意見を求めたんじゃない、君はどう思うかと尋ねたんだ。ならば答えてくれるのが自然じゃないかな?」
魔法使いは薄く微笑みながらウルカに問いかけます。言葉に窮したウルカは黙って視線を落とすだけでした。
「それに前から聞きたかったんだけどね、くたびれた人形さん。どうしてお前は穢れた痩躯を持っているんだい? 元は艶のある上等な姿であっただろうに、どうしてそんな姿に成れ果ててしまったんだ。きっとそこにはそれなりのエピソードがあるのだろう? どうかそれを僕と彼女に聞かせてくれないかな。それは恐らく君と彼女のためになるのだよ」
魔法使いは饒舌に語り、問いただします。ですがそれでも止まらないで、魔法使いは言葉を紡ぎ続けした。視線を彷徨わせているウルカを余所に流暢に、まるで演説をするかのように大仰に。
「隠し事があるだろう? 怒らないから話してごらんよ。なあに、悪いようにはしないさ。君の懺悔を聞くわけじゃないけどね、僕にも僕なりの目的がある。君は言われたとおりに語ればいいのさ。ついでに僕か神様にでも告白した気にでもなればいい。もしかしたら心が軽くなるかもしれないぜ?」
誑かすような笑みと、身振り手振りを交えた荘厳な軽口。魔法使いは悪魔の囁きすら扱えたのでしょうか。俯いて黙っていたウルカは、やがて唆されるように重い口を開くのでした。
「……確かに、そうです。そうですよ。――僕は誰かも解らない誰かを傷つけたんです。だからボロ人形になってしまったのです」
ウルカは地面をじっと見つめて、よくようのない声で言いました。
その姿は責められるのを怯えるように弱々しく映り、けれど救いを求めるているようで、声は止まりません。
「―――僕は見知らぬ嘘つき狐から葡萄を奪うため、羊が集まる場所を教えました。その場所は本当はどこかも解らない、適当な森の片隅です。ですが、僕の言葉を信じた狐はその場所に赴いたのです」
ウルカが言葉を紡いでいくと、どういうわけかその体はどんどん汚れて穢くなっていきました。毛糸の髪は乾いてボロボロの枯草に、布の腕は痩せ木の寄せ集めに、来ていた服はどんどん汚れて穴だらけになって、元の彼の姿はまるで幻だったように、どんどん汚れていきました。
それでも、フレンテルが赤い実を丸くしている間にも、彼は言葉を止めませんでした。
「もしかしたら、そこで狐は嘘を吹き込んだかもしれません。もしかしたら誰かを騙したかもしれません。あるいは誰とも出会わなかったかもしれないし、嘘を吐くのを失敗したかもしれません。ですが、泉の女神に恋をしていた僕はその浅はかな行動がとても醜いように思えました。なのに探しても探しても狐は見付からず、僕は僕自身に失望してボロ人形になったのです」
体のあちこちに葦をはやして、もはや人形としての原型も失ってしまいます。ウルカは枯れ木のような姿で佇んでいました。木々や草の眼はまるでウルカが言葉を紡ぐたびに成長していきます。
「きっと、下らない悩みだと思っているのでしょう。ええ確かにそうかもしれません。もしかしたら、僕がした事は大して人の迷惑になっていないのかもしれません。でも、それならもしかしたら、僕のした事でとても傷ついた人がいるのかもしれません。きっと真実はもう誰にもわかりません。でも僕はとても浅はかで卑しい事をしました。これだけは真実なのです」
ウルカの声は自責のような独白でした。まるで誰かに聞かせるように呟き続けます。そんな彼をどうしたいのか、フレンテルは小さな鼻を摺り寄せて、舌で体を舐めていました。
「…フレンテル、僕は狐の方棒を担いだんだ」
「そんなことをしようと思っていた訳じゃないのでしょう? なのに自分を責めないで。貴方に悪意はなかったんでしょう?」
「それでも僕は、行なってはいけないことをしてしまった」
葦はどんどん深く、ウルカを幹にするように伸びていきます。フレンテルはウルカが消えてしまうような気がして葦を歯で千切りますが、それがどれだけの抵抗になるでしょう。彼女の体を覆うまでに葉や茎は伸び、やがて視界も暗くなってしまいました。
「…貴女のように、酷く傷つけたかもしれない。なのに、その誰かに謝る事も出来ない。もう僕は何所で生きるのも苦しいんだ」
告白は続きます。葦はやがて渦巻いて一つの樹木になろうとしていました。その細い木に引っかかった衣服がウルカの残骸に見えてしまい、フレンテルは泣きそうなくらい動悸を強くしてしまいます。彼女は涙が溜まった赤目で、ウルカだった物を見上げます。
「―――なるほどそういう事だったか。けれどねボロ人形よ、お前は償いを求めて彷徨ったのだ。せめて汚れた体を誇るがいい」
彼女の背後で明るい魔法使い様の声が響きました。そして魔法使いは指を一度だけ鳴らします。
すると轟いた声は葦を静め、みるみる内に姿を戻していきました。部屋の床にまで根を張っていた葦は姿を消し、生い茂っていた青い葉は辺りに散らばってしまいます。それはまるで魔法のような光景でした。
…そして、ボロ人形のウルカは元のくたびれた姿でフレンテルの前に立ち尽くしていました。


「貴方が悪いことをしたんじゃないんでしょ。じゃあ――」
「でも、ですね。僕はどう償っていいかわからなくて、罪の有無もわからなくて。なのに忘れるのは辛いんです。そんな自分になるのが嫌なんです…」
「ふう、やれやれだね。君の方がよほど精神が磨り減っているよ。どれ、口を開けなさい。薬草をあげよう」
今にも崩れそうなほど暗い顔をした薫君は、枯れ木のように佇んでいた。若い瞳の青年は、そんな彼に葉っぱを差し出し、ちっとも動かない口に無理矢理ねじ込んだ。
それは実に下らない話だ。彼は架空請求のサイトに適当な番号を打ち込んでしまったらしい。ただ、その適当な番号には持ち主がいたかもしれなくて、私のように迷惑を蒙った者がいるかも知れない、という話。彼はそんなネガティブな可能性に怯えているらしい。
それは、確かに全く無い話ではないのかもしれないが…。
「…違うんです、嘆いて同情を誘いたい訳じゃないんです。だから、放っておいて下さい」
「そうは言うけどね、医学も嗜む者としてここは弁える場じゃなのさ。薫君、君は少々自傷癖が強すぎる。潔白に生きて行けるのは、万人に守られている子供ぐらいなものだよ? 生きるって事は汚れていくのと同義なのさ。極論じみてはいるけどね、君はそれくらいの気構えを持つべきだ」
「…でも人は、人間は痛みを嘆く者を嫌悪します。誰だってそうでしょう? じゃあ僕なんて構うべきじゃないですよ。見苦しいなら罵倒するのが僕らじゃないんですか?」
「ああ、そうかもしれないね。誰だってそんな薄暗い部分は見たくないしさ、特別な人間でもないのに助けるのは疲れる。それにそう言う人は大体が助かろうとしていない、嘆くだけで生きるのすら恐れている人達が多いから余計にだ。なのにそんな人に手を差し伸べたりしたら、そりゃあ大変な労力を奪われてしまうだろうさ」
佇み、ぴくりとも動かない薫君の眼や脈を計り、診察のような事をしながら先生は言う。確か弁護士と言っていた筈だが果たして本当だろうか。
そんなどうでもいい思考を拡げながら、私は黙って俯く彼を見詰めるだけだった。そんな些細な事で悩んで苦しんでいる彼を困惑しながら、ただ見詰めるだけだった。
彼の姿に親近感のような好意を抱く自分を戒めながら、か弱い男を眺める。彼は私に似ているから、助けようと思ったのだろうか。彼が傷付けたと思う人に近しいから、優しくしてくれたのだろうか。
「―――さてと、ねえ卯佐美さん、貴女は彼を見てどう思ったかな?」
そんな、つまらない思考を広げていると、ベントーミルが振り向いてそう聞いてきた。私は意識を取り戻しながら彼の問いに答える。
「…どう思うか、ですか? それはやはり、可哀そうだと思います」
「ああそうだね。僕も彼を哀れで愚かだと思うよ。だってそうよね、起きた事は起きた事。どうしたって時を巻き戻す術もないのに、過ちに捕らわれて自傷する。本当に償いを求めるのなら未来で優しくするしかない。悔い改めるしか術はないのさ。後悔をするしないは個人の勝手だがね、この現実という世界しか僕らは知らないんだから、どうしたってそれ以外があるはずないんだもん」
やれやれ本当に愚かだよと首を振り、大仰に流暢に、ベントミールはそう主張する。彼の言葉が聞こえている筈の薫君はそれでも視線を下げたままだった。
そんな薫君を放置して、ベントミールは私に近寄り方を抱いて更に言うのだ。
「卯佐美さん、彼をよく見詰めなさい。彼は君によく似ているだろう? ああして俯いていても、見付かるのは自分の業や与えられた痛みだけなのだ。それを数えていても得なんて何所にもない。どうせ見るなら空をごらんなさい。雲行きなど気にしてはいけないよ。見上げることは未来を探すことに近しい。それそのものと言っても過言じゃないね。うん。だからね卯佐美さん、君は彼のように過ちを犯していないのだから、もっと多くの物を探してみなさい。いいね?」
「え、それは、でも…」
「うん? でもなんだい? 君の問題は解決に向っているよ? 少なくとも新たな指針を示して親展はしているだろうね。それなのに君は、いったい何を拒むのさ」
「だって、それじゃあ薫君は――」
「彼の問題は彼自身のものさ。それにこの子はこうして自分を苛めていないと堪えられない人なんだろう。悪いが自分で助かろうと出来ない人を救う術なんて僕は知らないな」
そう言って魔法使いは薫君にさじを投げてしまう。それでも私は未練のようなものを抱いており、それを上手に棄てられなくて彼を捕らえていた。
俯く視線。光を得ない瞳は閉じこもっていた私によく似ていた。ああなるほど、確かにこれでは私とそっくりだ。ということはつまり、私も彼と同じように自分を追い詰めていたのだろうか。
なんとなく納得していた。彼は私と一緒だ。全く同一という訳ではないが、それでも同じように暗闇に閉じこもっている。
それを理解すると、私は魔法使いの腕から離れて彼に歩み寄っていた。俯いていた視線が私を射る。怒りが沸くぐらいに、暗い悲しい瞳だった。
…私はその感情を堪えることなく腕に込めてみた。
パシン、と乾いた音がしたのはそのすぐ後だった。
「いい加減にしなさい、薫君。悔やんでいるだけじゃただのバカでしょ。本当にどうにかしたいなら、これから変えていくしかないじゃない」
襲われかけたのがなんだ。騙されたくらいでなんだ。理不尽にぶたれたからってどうしたんだ。私は私のような誰かの顔を掴んで、思いの丈を言い強く放っていた。
「いいから顔を上げなさい。願いの在処はこれからに探しなさい。償いも幸福も未来にあるのよ。それを手に入れたいなら、キチンと顔を上げなさい」
涙目で驚いている薫君と眼が合う。酷く不思議な物を見ているような眼だ。どうやらこんな私が珍しいらしい。だが兎だろうと子犬だろうと、怒る時には怒るのだ。
至極当たり前だ。だって私は、あんなに暗い顔を見せられたら腹が立つ。
「く…、ふっ、あは、あははははっ! ―――いいね、いいね卯佐美さん。素晴らしい啖呵だ。録音してなかったのが実に勿体無いよ。あは、は、あはははは!」
堰を切ったような笑い声。背後を振り返るとベントミールが手を叩いて笑っていた。最初はからかっているのかと思ったが、心底楽しそうに笑っているので違うらしい。自称魔法使いの笑い声はしばらく続き、私達はそんな彼を眺めていた。
そして笑い終えた彼は、はあはあと息を整えながらまた口を開く。
「ふふっ、あはは…、ああさてと、それで、気分はどうかな卯佐美さん」
「あんまり良くはないですね。なんだかもう、全部のことが馬鹿馬鹿しくなってきました」
「ほほう、それは素晴らしい。うん僕も深刻に考えるより楽観したい派だからね。いやはや二人の気持ちが全然わからなくて少し困っていたんだが、どうやらこれで一人、話の通じる相手ができたらしい」
「…それでも貴方とは話が合いそうに無いですけどね」
「おっとおやおや、つれないなあ」
私の拒否もどこ吹く風で、にやける魔法使い。何が悔しいかといえば、彼の手で転がされた気がするのがとても悔しかった。
「さてと、それじゃあ薫君は?」
けれどそのニヤニヤ笑いも姿を潜め、彼には穏やかに問いた。
薫君はまだ少し俯きながらも難しい顔で答える。
「……わかりません。そんなふうに自分を慰めていいのか、また未来を歩む権利が僕にあるのかと迷ってしまいます」
「ははは、大変だねえ、罪を捏造するしかない君は。まあ今はそれでもいいさ。さっきの彼女の怒声で、少しは君の何かも変わったんだろう?」
「はい、それでも僕は卯佐美さんの言う通り、未来に優しくしてみようと思います」
薫君は迷いの在る顔でそう呟く。ならばそれは、少しでも遠くを見れたと言うことなのだろうか。
私にとってもそうだが、決して明るいとは限らない未来を…。
「それでいいさ。少なくとも僕の仕事は済んだ。あとはおいおい、自分のやりやすい理屈を形勢すればいいだろう。ここにはいつだって話を聞いてくれる人がいるからね、彼にでも相談しなよ」
魔法使いのベントミールはそう言って立ち上がり、脇にかけてあった帽子をとって身支度を整えていた。言葉どおり彼の仕事は終ったから帰るのだろう。人を怒らせたり秘密を暴露させたりしておいて、案外淡白な対応だ。
「おや、不満かい? 引っ掻き回しただけだと言われれば、確かにそれだけだものねえ」
「別に構いませんよ。貴方を不謹慎な人だと思うだけですから」
私の言葉に魔法使いはまた笑い、無言のまま去っていく彼だった。だがしかし、彼は戸口に立ってからこちらを振り返る。
「では、真面目な僕を見たければ名刺の住所まで来なさい。その時は正式なお客様として、責任を持って君と関わろう」
大仰に盛大に、彼は両手を広げて宣言する。まるで舞台に立つ俳優のようだが、それが彼なりの誠意なのだろう。どうせ行きはしないが彼の株は少しだけあげておいてやる。
「それでは御機嫌よう。ああ、片付けは頼んだよウルカ君」
帽子を上げて会釈を一つ。それだけで魔法使いは行ってしまった。まるで嵐か台風のようだったが彼の性格も相まって、まあ、悪い気分にはならない。
少しくらいは感謝しておこうかなと思い、バイバイのあとに魔法使いの名前を呟いた。

* * * * *

ベントミールが出ていって、フレンテルとウルカの二人だけが取り残されていました。ウルカは少し気まずそうにしながら、コーヒーカップの片づけを始めました。そんな彼を眺めながら、フレンテルは口を開きます。
「ねえ、ウルカ、一つ聞いてもいいですか?」
「はい、構いませんよ。どうぞ聞きたい事を尋ねてください」
「そうですか。では一つだけ、私に気をかけてくれたのは貴方の罪悪感からですか?」
「………」
ボロ人形のウルカは手を止めて黙ります。視線は考え事をしているように遠く、何処か彼方を見詰めていました。
…やがてまた、ボロ人形は言葉を紡ぎだします。
「そうだと思います。でも、貴女が気がかりだったのも事実です。どちらが強かったかと聞かれれば、無論罪悪から来る感情の方が大きかったですけどね」
カチャカチャと食器をお盆に並べていきます。コーヒーカップを四つと、お茶受けを一つ。そうして片付けも一通り終えると、今度はウルカの方がフレンテルに聞きました。
「フレンテル、貴女こそどうして、僕を叱ってくれたのですか?」
「………、あれは、貴方が暗い顔をしているのが嫌だったからですよ。なんとなく自分に重なって見えてしまい、思わず怒鳴ってしまったのです」
だからごめんなさいとフレンテルは続け、小さな頭を下げました。ですがそんな彼女にウルカは強く首を振ります。
「そんな事はありません。僕はきっとあの時に救われたのです。貴女の必死な顔を見て、考えを変えれたのです」
ボロ人形は真っ直ぐフレンテルに向き、真摯な瞳でそう告げます。それから二人はまた沈黙して、何か残っているわだかまりを、伝えられるように言葉を探します。
先に口を開いたのはウルカでした。
「フレンテル、僕は一つ貴女に約束をしましょう。僕はこれから先に何があっても、僕の未来を棄てたりはしません」
「…わかりました。それでは、私も約束しましょう。私はこれから先に何があっても、未来に希望があると思っていきます」

「―――だからどうか、貴女も未来を棄てないで下さいね」
「―――だからどうか、貴方も希望を棄てないで下さいね」

視線が交わり、頷くと二人は離れていきました。兎は扉を出て自分の住処へ、ボロ人形は食器の片付けをしに台所へ。二人は振り向く事も無く、各々の生活へ戻ります。
フレンテルはトントン跳ねてホウトト森を進みます。家路を辿るその途中、まだ蕾のベルリミンが歌っていました。

『此処は良いとこホウトト森さ。誰もが勝手に生きている。適当真面目に生きている。弱い貴方も強い私もおんなじように、時に楽しく時に辛くも暮らしてる。貴方もやがて言うだろう。アレが足りない、コレが足りない、なんにも足りない、全然足りない。不満を零していくだろう。でもねホントはそれほど悪くもないのさご覧なさい。兎が楽しく走ってる。綺麗な瞳で走ってる。彼女にあやかり真似ればいいよ。楽しくないなら笑ってみよう。貶していても始まらないぜ。大きく強く言ってやろう。ここは良いとこホウトト森さ。たいした物はなくたって、何にも全然なくたって、それでも楽しい事がある。それでも愛しいものがある。そのうち虚勢がホントに変わさ。だから大きく強く言ってやろう。ここは良いとこホウトト森さ。誰かといれる大事な場所さ』

トントントントン、軽快なリズムでフレンテルは家路を辿ります。ベルリミン達の唄に乗せて、風を切って進んで行きます。
彼女は家に帰ったら手紙を書くでしょう。書ききれないほどの内容を手紙に書くでしょう。それを家族に送ったりして、それから少し眠ってまた起き上がります。
そういうふうにしてきっと彼女は此処で生きていくのでしょう。何処でもない、此処で。

Fin.

2010/03/14(Sun)01:39:11 公開 / 愛飢男
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