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『サマースリーブ』 作者:メイルマン / リアル・現代 未分類
全角13004.5文字
容量26009 bytes
原稿用紙約35.55枚

 耳がよく知った夏の音を聞いた。真っ赤に開いた花火が空に消えていった。
 歓声があがって川べりのあちこちから、次々と花火が打ちあがりだした。花火の音に負けない大きなアナウンスが花火大会の始まりを告げた。
 僕は人ごみに押しつぶされそうになりながら、疲れきった両足を踏ん張って、夏の恒例行事を迎えていた。湿った空気が街を覆った夜に5万人以上が由利川に群がると、花火をうまく見られる場所へたどり着くのに、足を何度も踏まれながら汗だくになる必要があった。ハンドタオルはポケットで休む暇も無く、僕の左手で握り締められている。
 階段の途中で渋滞になった。交通整理の警官が大声を張り上げて道を空けるように促しているが、誰も動く気配は無い。聞く人もいない案内を何度も繰り返す警官の横で、カップルがガードレールに腰掛けて花火を見つめている。夜空で種が弾けると、満開の花の光が彼らの顔を照らした。楽しげに笑っている。
 横でビールを飲んでいた男が、奥さんから焼き鳥を受け取った。人ごみの中、至近距離で焼き鳥のにおいをかいだ僕は、晩御飯を食べていないことを思い出した。
――帰りがけに一緒に食べにこう。
 すり抜けることも出来ないくらいに密集した集団は、ゆっくりと階段を上り始めた。花火の音は心臓に響くほど大きい。階段を上るごとに、中空へ駆け上がっていく種火がはっきりと見えた。由利川の穏やかな流れのそばから、断末魔みたいな音を立てて種火はあがる。輝くような破裂の瞬間があって、ポップコーンが弾けるようなパラパラという音は、続いて打ちあがってきた花火にかき消される。
 僕は彼女に電話をかけた。耳元ではっきりと呼び出し音が鳴った。彼女は出ない。
 階段を上りきると由利川はすぐそこに見えた。浴衣を着た女の子が目立った。家族連れや自転車を押す中学生。人々は柵に群がって、長い長い由利川の両端を歓声で囲っていた。
 やっと自由になれるくらいのスペースが出来て、僕は人ごみを抜け出した。
 待ち合わせ場所はおおざっぱに決めていたけれど、これだけ浴衣が多いと見つけるのは大変かもしれなかった。
 結衣はもう来ているはずだった。

 火花が目の奥で散った。マンガの表現は嘘じゃなかった。平瀬のコブシの直撃を食らった僕の右目は、突発的なガス爆発を思わせる熱さで燃え上がった。ボクシングのジムに通っているという噂は本当かもしれない。
 よろめいた体がトイレのタイルにしたたかに打ちつけられた。床は濡れていて、僕には服が汚れたことが、殴られたことより屈辱的なことに思えた。
 平瀬の怒り方は半端ではなかった。仲が良かったわけではないが、高校で同じクラスから同じ大学に来たから、どんな人間かはそれなりに知っているつもりだった。平瀬は頭が良く、大学にも推薦で通った。高校時代はけして勉強している素振りは見せず、よく取り巻きと授業を抜け出すのを楽しんでいた。不真面目でも推薦で大学に受かったのは、平瀬の要領のよさだった。平瀬の教師との会話は機転が利いていて、教師は平瀬の雰囲気になんとなく打ち解けてしまうのだった。見る限り、平瀬はその手の会話をするときは特に力を入れているようだった。
 平瀬の顔立ちはかなり女受けした。彼がいないところで女子が彼の噂話をするのを、僕は教室のすみで耳に挟み、内心うらやんでいた。彼は男から見ても確かに美形と思わせるような端正な顔立ちをしていた。ドラマに出てくる俳優のように、はっきりとした目鼻立ちをして、笑うと八重歯がこぼれた。そして平瀬は結衣と付き合っていた。高校3年生の1年間。
 そんな平瀬が僕を突然殴りつけた。由利川の花火大会を三ヵ月後に控えたころだった。講義を終えてバイトの前に生協に寄ろうとした僕は、突然現れた平瀬に肩をつかまれ、トイレに引きずり込まれた。口を開く間もなく、目から火花だ。
「おい、結衣と付き合ってるんだって?」
 床に転がった僕を見下ろして、平瀬は僕を睨みつけて言った。僕は次の一撃が飛んでくるのが恐ろしく、体をこわばらせながら立ち上がった。
 そうだよ、僕が言うと平瀬は僕の胸倉を掴みあげた。個室の扉に押し付けられた僕の頬を、平瀬のコブシが2度殴った。口の中の左側が熱くなった。たらたらと流れる感触があって、それを飲み込むと痛みが襲ってきた。鉄の味がのどに張り付いた。
「別れろ」
 平瀬はそういうと僕の髪の毛を引っ張り上げて、首を締め付けてきた。こんな平瀬は見たことがなかった。鬼みたいな表情で歯をむき出しにしていた。
 いやだ、苦しい呼吸の中でそう言うと、腹に重い感触を叩き込まれた。一瞬のど元までこみ上げるものがあったが吐けなかった。
 2年前に別れた女にいまだに執着しているとでも言うのだろうか。それはないはずだった。平瀬のほうから結衣を振ったのだ。最近、構内をサングラスをかけた女性と歩いているのを見た。思いつく答えは一つだった。こいつは僕が嫌いなのだ。
 僕は抵抗するのをやめた。足の力を抜いてずるずると床にしゃがみこんだ。喧嘩をしたことが無かった僕には、わけがわからないほど全身を覆う痛みは新鮮なくらいだった。
「わかったな、別れろよ? 変態」
 平瀬は僕につばを吐きつけて出て行こうとした。お気に入りのジーンズに染みができたのを僕は感じた。
 ヤリステヤロー、僕が平瀬の背中に言ってやると、風よりも速く平瀬の蹴りが飛んできた。顔面に一発、帰り際に右足も踏みつけられた。
 ぶつぶつと何かをつぶやきながら平瀬は出て行った。僕は動けなかった。バイトに行けないことを確信した。めったに人が来ない講堂横のトイレで、幸い平瀬が電気を消していった。寝るにはおあつらえ向きだ。しばらく横になることにして、僕は服が濡れるのにもかまわず横たわった。
 呼吸は荒く、体からは恐怖が引かなかった。争いごとが嫌いな僕の頭の中には、これほどのことをされたというのに、泣き寝入りという言葉が燦然と輝いていた。

 僕に「変態」と平瀬は言った。それは正しい評価だ。
 僕が高校時代に女子の着替えを覗いたのは、偶然でも神様のいたずらでもなんでもない。
 僕はそれを見たくて見た。覗けたのではなく覗いた。計画的に、自主的に、望んだとおりに。だから報いを受けるのは当然だ。自己弁護をするつもりはないし、担任が職員会議でかばったように、年頃の高校生が異性に興味を持つのは当然という論理に援護してもらおうとも思わない。
 僕は3年生の春の健康診断に乗じて、同じクラスの女子の着替えを覗き見た。放送部だった僕は覗きに必要な機材のことも、着替え場所に指定されていた視聴覚室にあるカメラのことも承知していた。教室を割り振った健康診断の責任者の迂闊さに、感謝もしていた。
 唯一の誤算は僕と同じ事を考えた奴がいたということだ。そして僕のほうが、モニターのある放送室に先にたどり着いてしまったことだ。
 小川は扉を開けた瞬間に、「あ」と声をあげた。下あごが伸びきって間抜けな顔だった。僕もきっと同じ顔をしていたに違いない。モニターには女子の着替えが今まさに始まろうとしている視聴覚室がばっちりと映っていて、小川の視線がそちらに動いた。
 小川の脳内コンピューターは僕のよりもはるかに高性能だった。僕が逡巡している間に、小川は答えをはじき出し、踵を返して叫びながら職員室へと駆け出した。ノロマな僕には小川を共犯にしたてあげる間なんてなかった。数十秒もしないうちに、身体測定から姿を消した僕を探していた男性体育教諭が放送室へ現れた。
 あとはあっという間だった。噂は学校の中をあっという間に駆け巡り、学校は見事に僕色に染まった。机は落書きにまみれ、最後尾の僕に配られるプリントは破られていた。
 停学処分も親の呼び出しも、あのころの僕をひどく傷つけた。僕はうちひしがれ、停学の間は家でずっと泣いていた。勇気をふるって再び学校に来れたのは、間違いなく結衣がいたからだった。
 学校の中で僕が唯一まともに話せる女子だった。結衣は僕の家の近くに住んでいたことがある。小学校5年生のときに転校してしまったが、お互いに親が共働きだったことで、学童保育で僕たちは仲が良かった。他の子達と少し歳が離れていたせいか、二人で遊ぶことが多かった。高校に入って同じクラスになったときも、僕たちはお互いにすぐわかった。結衣はあのころの快活で可愛い結衣のままだった。少し乱暴な言葉遣いもそのままだった。始業式の日にニコニコしながら近づいてきて、僕に再会の挨拶をした。僕は初恋の相手にどきまぎしながらも、ぎこちない挨拶を返した。交わせる会話はわずかだったが、僕は結衣との再会を喜んでいた。結衣は本当に可愛くなっていた。すらりとした足がブレザーのスカートからのびていて、あらわになった太ももは綺麗だった。小ぶりな顔立ちには女優みたいな清潔感があった。教室の隅っこで一人きりで本を読んでいるような、友達のいない僕からしたら別の世界の人間のようだった。僕は自分が惨めになった。思えば僕はコンプレックスまみれの人間だった。プライドが高く、我欲が強く、それでいて臆病で、何かを変えようとする意思も実行力も無かった。部活もせず、自分はゴミ虫みたいな野郎だなんて思いながらも、本心では他の奴らとは違うと、自分は特別だと信じていた。
 そんな僕が結衣と出会えたことは、僕の人生の中でトップ3に入るくらいの幸運な出来事だ。もう1つはこの世に生まれてきたこと。もう1つは本気で手首を切ったのに死ななかったこと。

 停学中の僕の部屋はカーテンも窓も締め切って、蒸し風呂みたいな湿気だった。カーテンからわずかにこぼれて来る光がうっとおしく思えた。テレビのドキュメントで見たひきこもりの部屋みたいだった。ぎりぎりと募る自己嫌悪と自尊心の崩壊で、僕はベッドの中でのた打ち回っていた。親が扉の外から慰めの声をかけてくると、僕は叫び声をあげてかき消した。部屋につけた自作の鍵は頑丈で、外部からの干渉は許さなかった。
 猛烈に格好悪い自己憐憫に苛まれていた僕は、いつしかカミソリで左手首に傷をつけることを覚えていた。深くは切っていなかった。じわじわと血がにじむ程度に手首を切った。手首を切れば安心するだとか、嫌なことを忘れられるとか、何かの番組でモザイクのかかった少女が話していたけれど、嘘っぱちだった。僕は自分が可愛く、自分を可哀想に思った。自傷は自己嫌悪からの脱出の手段だった。手首を切るほどに打ちひしがれ、精神的にまいっている自分をプロデュースしていた。クラスの友人が突然来て、この手首を切っている光景を目撃すればいい。そして僕に思いきり同情して、クラス中に触れ回って欲しいと思った。そうすれば学校に戻ったときに気丈に振舞う僕は、皆から一目置かれるのではないかなんて馬鹿な空想さえしていた。
 自覚は突然やってくる。僕はそんな風に可哀想な自分を作り上げようとする自分に気づき、猛烈なかんしゃくを起こした。叫び声を上げ、手当たり次第に部屋のものを投げつけた。テレビがパソコンの隣のプリンターを直撃した。目覚まし時計は窓ガラスにひびをいれ、扇風機は支柱が奇妙に曲がった状態で床に転がり、死にかけの昆虫みたいに首を振ろうとした。左手首にカミソリを押し当てて思いきり引いた。狂乱状態でよほど力をいれたらしく、噴水のような勢いで血が飛び出してから僕は我に返った。叫び声をあげながら、僕はばんそうこうが必要だと思った。鍵をあけて階下に飛び出すと、母親が僕を恐怖の表情で見つめた。

 救急車があって、軽い入院があって、僕はほどなく帰ってきた。
 ぼろぼろになった部屋に戻ったとき、僕は自分がなんて馬鹿な奴かと思った。最低のみじめなクソ野郎だった。お気に入りのコンポは電源を入れようとするとガリガリと音を立てたきり動かなかった。テレビのリモコンは僕を無視していて、本体のスイッチでつけなければならなかった。ベッドのシーツは血で汚れていた。手首にはいっぱい傷がついていた。3日後に学校が控えていた。
 僕は泣いた。自分がどれだけ愚かで弱くて、何も無い人間かと悲嘆して泣いた。怒りでも哀れみでもなかった。とてつもなく悲しかった。
 結衣からのメールを見たのはそのときだった。停学になって以来ずっと携帯の電源は切っていた。久々に携帯を見ると、知らないアドレスからからかいのメールが6件ほど入っていた。クラスの奴らが誰かから僕のアドレスを聞きだして送ってきたのだろう。「変態、死ね」とか、「カスカスカスカスカスカスカス」とずっと続いているメールだとか、概ね僕が予想したとおりの内容だった。僕はそんなメールは気にも留めなかった。一体誰が送ってきたんだろうとか、考えることもしなかった。メールの受信画面に谷原結衣という名前がいくつも踊っていたから。
 最初のメールは停学初日に届いていた。「馬鹿じゃないの」という件名で、僕のことを責めていながら気遣っているのがわかった。結衣はそういう子だった。優しさの照れ隠しにきつめの言葉を使った。二件目はその次の日「返信よこせ!」という件名の横に、歯をむき出しにしてヤリを持ったような顔文字がくっついていた。三件目は手首を切った日で、件名には怒りを表しているのだろう、マンガのキャラクターが怒ったときにこめかみに浮かび上がらせるような絵文字が一文字はいっていた。そしてその日の夜にもう一件。件名は無題だった。かなり長く続く慰めの文面の中で、結衣の口調が少しだけ変わったことが僕には読み取れた。きっと僕が手首を切ったことを知ったのだろう。教師の中に口が軽い奴がいるみたいだ。個人情報保護なんてあったもんじゃない。きっと学校中が知っている。僕は学校に行く気が更にしぼんだのを感じた。

 結衣が平瀬と付き合っていることを知った時のショックを、どう言い表したらいいだろうか。僕は平瀬のことをうらやましく思い、ねたましく思っていた。それは平瀬が人気者だからとか、女子にもてるからとかだけではなくて、平瀬の振る舞いの中にいけすかないものを感じ取っていたからだ。僕には平瀬の人付き合いのチョイスや言動や行動の中に、計算されたものを感じていた。平瀬は自然と周りに人が集まるタイプではなく、人気者になれるように行動して人気者になっているタイプの人間だった。
 その平瀬が結衣と付き合いだしたとき、周囲の評価は「お似合いのカップル」という、とんでもなく馬鹿馬鹿しいものだった。かごの中にしこたま入ったゴミをかき出して、僕が自転車で帰ろうとしていると、下校する生徒の波の中に、生徒玄関から出てきたばかりの結衣と平瀬を見つけた。平瀬はなれなれしく、肩がぶつかるくらいの距離で結衣と歩いていた。僕は一瞬状況を理解できずに固まってしまった。凝視する僕に気がついたのか、結衣はこっちを見て少し恥ずかしそうに笑って手を振った。僕は手を振り返すのも忘れそうだった。慌てて手を振ると、結衣の横で平瀬がうんこを見るような目で僕を見ていた。
 あの結衣があの平瀬と付き合うなんて。僕には世界が滅亡のときを迎えていないことだけが救いだった。それ以外のどんな喜ばしいことも、僕の慰めにはなりそうもなかった。
 現代のいじめは過酷だ。みな教師にばれないように、かついざというときに自分が責任を負わなくてもいいように、さりげなく僕を傷つけようとした。グループワークの授業は僕だけが必ず余った。僕と同じように内気で友達のいない斉藤君も、あてつけのように平瀬たちのグループが歓迎して仲間に入れるのだった。僕のほうに消しゴムのカスがいくら飛んできたとしても、他の友人とふざけていて手元が来るって当たったと言えばいい。僕が躍起になって証言したところで、クラス中が(結衣以外は)僕の証言と逆のことをいうだろう。うすうす気づいている教師もいたが、女子の着替えを覗いた非が僕にはあるというのが正常な見方だ。背中に受ける消しゴムのカスがティッシュ箱に変わったときも、教師は知らないふりを続け、クラスはかみ殺した笑いで一杯になった。結衣の手前、平瀬が笑いをもらさないように必死に耐えているのを僕は伏せた目の端で認めた。
 僕の制服が何故かプール学習のときに水面に浮かんでいたり、弁当箱が空になり、中身がトイレをつまらせていたり、自転車の前輪と後輪が一日ごとにパンクしていたり。僕は毎日を戦いながら、結衣と平瀬の噂を集めていた。休み時間は机に突っ伏して、耳に全神経を集中させた。
 平瀬のほうが結衣に告白したらしいだとか、まだセックスはしていないだとか、この間二人で遊園地に行ったらしいだとか、土曜日は学校帰りにそのまま街に出てデートをするらしいだとか、まだセックスはしてないけどキスはしたらしいだとか、公開予定の映画を今度の休みに見にいくらしいだとか、平瀬が結衣にプレゼントをしたらしいだとか、まだセックスはしていないらしいだとか……。
 受験が近づくとみんな勉強に必死になって、僕にかまうような余裕がなくなってきたらしく、いくぶん平穏な毎日だった。秋口、自転車に乗って帰る途中、駅に向かう結衣と平瀬の姿を見かけた。お揃いのマフラーを巻いて、手をしっかりと握り合っていた。平瀬がなにか喋り、結衣は笑っていた。僕は家に帰り、お決まりのようにベッドでうめいた。平瀬の家が燃えれば良いと心から思った。

 国数理英にひぃひぃうめいていた2月と3月が過ぎ、卒業式がやってきた。僕はどうにか大学への進学をものにしていた。平瀬と同じ大学なのがしゃくだったが、僕の学力では精一杯の大学だった。
 結衣は欠席していた。風邪をひいたと担任が言った。卒業式が結衣に会う最後の機会だと見込んでいた僕には残念なことだった。ごくたまにメールをすることはあったが、課題のことや勉強の話をするくらいで、実際に会うような用事なんてなかった。
 退屈な式が始まった。校歌斉唱までの時間、3年生の代表が答辞を読み上げている間、僕は後ろから聞こえて来た「え、別れたの」というささやき声を聞き逃さなかった。平瀬の横に座っている田山の声だった。「ああ、うん」平瀬が答えていた。「マジで? なんでなんで」「いや、なんかうざったくなっちゃってさ。付き合うってちょっとめんどくさいって気づいた」「ぎゃはは、ホント? え、てかやったの?」「やったやった。当たり前じゃん、一年だし、付き合って」「え、どうだった? てかいつ?」「ん、こないだだよ、別れるちょっと前」「なに、じゃあやり捨てじゃね?」「そうかな、そうかも。目標達成みたいな? ぎゃはは」
 耳をふさいでしまいたい気持ちと、全てを聞き漏らすまいとする気持ちが頭の中でぐるぐる渦巻いていた。僕は平瀬がどうしようもなく憎くなり、けれど起こってしまった事は取り返しがつかないという事実も受け止めていた。心の中で結衣が平瀬とそういう仲になっていることを覚悟していたからだろうか。答辞が終わって全校生徒が立ち上がるとき、結衣の空席がはっきりと見えた。
 僕は卒業式を終えたあとの4月が来るまでの涼やかな春を、憂鬱な気分で過ごさなければならなかった。

 結衣と再会できたのは運がよかった。メールで近況を尋ねるのも気が引けたし、平瀬が結衣とやったという話を聞いてからは、僕は結衣のことも平瀬のことも考えたくは無かった。何か心の傷をえぐられる気ような気がしたのだ。
 駅前の書店で結衣は働いていた。立ち寄ったのは偶然だった。驚いた僕はまともに声をかけることもできず、ストーカーよろしく棚の影から立ち読みのふりをしつつ様子を伺った。結衣だった。間違いなかった。
 どうやって声をかけようと考えたが、うまい声のかけ方なんて知らなかった。その日から僕は何度も書店に通いはじめた。遠目で結衣を見かけるだけで満足で、僕は書店に行くたびに、自分が結衣のことを好きだと確信した。ある日書店に紙が張り出された。アルバイト募集と書いてある大きな赤い紙だった。僕は勤務時間も時給も、大学の時間割も見直すこともなく、文具屋に履歴書を買いに走った。
「え、うそうそ。ホント? 入ったの、ここ?」
 対人恐怖症のケがある僕は奇跡的に面接にパスし、僕が考える限り最高に自然な形で結衣と再会した。接客業向きの人間を見極める才能がない店長には感謝しなければならない。
 結衣は僕を見るなり目を開いて驚いた。僕はもごもごと、まぁね、と返した。結衣は笑顔になって「よろしく」と言った。「先輩だからばしばし行くからね」
 結衣は由利川の近くに住み、短大に通っていた。両親は転勤して東京に行ったが、結衣はこっちで一人暮らしをしているらしかった。
「けっこう一人暮らしって寂しいんだよね。今度遊びにきてよ」
 結衣がそう言ったとき、僕は極限まで自然に見えるように、おっけー、と言った。心の中では一生行く勇気はないだろうと思った。結衣への僕の気後れ具合といったら生半可ではなかったのだ。

 結衣は大学生になってさらに綺麗になっていた。女の子はどんどん綺麗になるというが、その通りだ。
 バイトの帰り、改札までの距離を二人で歩く短い時でさえ、道行く人が結衣に目を奪われるのがわかった。結衣はバイト以外は本当に暇らしく、ときたま二人で遊びに行った。僕は緊張してなかなか喋らなかった。下手に喋るくらいなら黙ってニコニコしていたほうが印象がいい気がしたのだ。会話が下手な僕にはそれが最善の方法に思えた。
「あんたってホントかわんないね」
 結衣が言った。何がだよ、というと「シャイなとこ」と僕の本質を現す言葉が返ってきた。内気とも根暗とも弱気とも消極的ともいえる僕の性格を現すのに、精一杯の前向きな形容だった。結衣のこういうところも好きだった。
 うるせえよ、とぶっきらぼうに返すと「でも、落ち着くわ」と結衣が言った。
 その日の夜は眠れなかった。「落ち着くわ」という声が頭の中で反響し続け、どの音楽を聴いてもリズムに乗せて「でも落ち着くわ♪」という替え歌が出来上がった。
 もう誰が何と言おうと僕は恋をしていた。
 大学二年生になっても、僕たちは週に一回くらいはご飯を食べたりした。ここまで行ったら僕にとっては付き合っているも同然の状態だったのだが、結衣にとってはそんなことはないらしい。一度冗談っぽく、おれたちって付き合ってるみたいだね、と結衣に言ったことがある。思いきり目を細めた結衣が「ヘンタイなのにその自信は何?」と僕に言った。その後に結衣が思いきり可愛い笑い声をあげてくれなかったら、僕は真に受けて立ち直れないところだった。
 街を二人で歩いているとき、平瀬の姿を見かけた気がした。僕はその時メガネを忘れていたので、遠くの方にいる平瀬を見分けられた自信がなかった。結衣はショーウィンドウの中の夏服に目を奪われていたので、きっと見なかったろう。
 気のせいかと思い、その時は話題にもしなかった。
 そうして3日後に、僕は平瀬にトイレでぼこぼこにされた。

 何故平瀬は僕を殴ったのか。たぶんあの日に僕と結衣の姿を見て、あるいは誰かから何か聞かされていたのかもしれない、二人が付き合っていると誤解したのだ。付き合っているのかという問いに、とっさにイエスと答えたのは良かったのか悪かったのか。個人的には平瀬の頭に血を昇らせてやったので満足だ。
 平瀬はまだ結衣に未練があるのだろうか。いや、平瀬のほうから振ったのだったらそれはないはずだ。なら一体なんだろう。
 襲撃された次の日、満身創痍の体でバイトに向かうと、僕の無断欠勤をしかりつけるべく待ち構えていた結衣は、僕の右目を指差して「なにそれ?」と言った。よく見れば頬も腫れ上がっているのがわかるのだが、僕はとっさに顔を背けて、階段から落ちたという世界一カッコいい嘘をついた。これで結衣は僕が誰かと喧嘩をし、勇敢に戦ったと思うだろうという、汚く幼い計算が僕の腹にあった。ところが結衣は足を引きずって敗戦兵のように本を整理する僕に本当にひいてしまったらしく、お大事にと言ったきり、その日はさして会話も無かった。すべて平瀬のせいだ。
 僕は想像力をはたらかせて、平瀬の気持ちを予想した。かつて付き合っていた女の子が、僕のような変態と付き合ったとしたら、それは平瀬には許せないことなのではないか。僕には平瀬みたいな奴の気持ちはわからないが、平瀬はそういうことにもこだわりそうな気がした。そうだとしたら、やっぱり救いようのないムカつく野郎だ。
 由利川の花火大会が近づくと、僕と結衣は二人で見に行く約束をした。由利川は近いのに、マンションの陰に隠れて花火が見えないのが不満だと、もっと調べてから住めばよかったと結衣は言った。一人で由利川まで出るのも寂しいから付き合えとのことだった。
 花火大会の日は蒸し暑かった。

 結衣との待ち合わせ場所に着くまでに、ハンドタオルは使い物にならなくなった。汗が絞りとれそうなくらいに濡れたタオルをショルダーバッグの中に押し込んで、僕はもう一度結衣に電話をかけた。花火の種類が変わり、低めの花火が何本も地面からシャワーのように噴き出している。その滝のような音をおしのけて、携帯の呼び出し音が鳴る。出ない。
 僕は周りを見渡した。もう結衣は来ているはずだった。子供たちがわたあめを持って走っていった。警官が拡声器を持ちながら人の多い場所をかき分けて行った。大玉があがり、歓声があがる。缶ビールを片手に大学生の集団がとうもろこしにかぶりついている。一人で浴衣を着て立ってる女の子は……いない。
 僕は周囲を歩き回りながら結衣を見つけようとしたが、なかなか見つけられなかった。電話がかかってくるのを待つしかないと思ったとき、僕は人ごみの中、遠くの方に平瀬の姿を見かけた。隣にいるのは、浴衣姿の結衣だった。二人は川面を照らして打ちあがる花火には目もくれなかった。群集は上を見上げているのに、二人だけがお互いを見つめていた。
 僕は驚き、観衆の間を縫うように二人に近づこうとした。その瞬間、目を疑うような事態が起こった。平瀬が結衣にキスをしたのだ。僕は、あ、と声を上げたが、花火の音にかき消された。僕は結衣が平瀬のキスに応えたように見えた。平瀬は結衣の背中に腕を廻し、ドラマのワンシーンみたいに固く抱きしめている。
 僕は立ちすくみ、恐慌状態に陥った。とっさに長袖の上から左の手首を握る。まだ傷跡が残る手首が激しく脈打っていた。汗が全身から噴き出しているのに、背中がとんでもなく寒かった。手首は熱く、血が流れているような錯覚があった。手首を切りたいような、あの時と同じような衝動が体の内側から蘇ってきた。
 僕は恐ろしい仮説に突き当たっていた。平瀬に振られた結衣が、もしまだ平瀬のことを好きだとしたら。平瀬を振り向かせるために、僕と付き合っているような振りをして、平瀬の関心を取り戻そうとしたとしたら。結衣は知っていたのかもしれない、僕が誰に殴りつけられたのかを。そうして平瀬の関心が戻ってきたのを知ったかもしれない。
 そうじゃなければ結衣みたいな可愛い子が、こんな僕と仲良くする理由がないじゃないか。根暗で変態で自殺未遂者の僕と、一緒にいる理由なんて。
 足の力が抜けて、奈落に落ちていくみたいだった。僕は恐ろしくなって目をふせた。見ていられなかった。花火なんて関係なかった。目の前にあるのは世界で一番衝撃的で、恐ろしい、おぞましい光景だった。
 その時、花火に紛れて小気味いい音が鳴った。顔を上げると、結衣が平瀬に平手打ちを食らわせたところのようだった。結衣たちの周囲の人間が、驚いて二人を見つめている。平瀬は何かを言おうとしたが、間髪いれずに結衣が足を踏んづけた。平瀬は痛さにうめき、結衣は怒っているようだった。
 僕は誤解をしていたかもしれない。そう思うと急に体に力が湧いてきた。僕は強引に人波をかき分け、文句を言われつつも結衣のところへ駆け寄った。
「あ、来た。行こう、もう」
 結衣は僕の手をとって平瀬から離れようとした。
「おい、待てよ」
 平瀬は結衣の肩を掴んだ。僕は夢中になっていたので、その手を強引に払いのけてやった。平瀬は僕に気づくと、あの日のトイレと同じような目で僕をにらみつけた。
「変質者が、別れろって言ったろうが、殺すぞ、消えろ」
 僕は何も言い返さなかった。何かを言おうとしたが言葉が出てこなかった。僕は口下手なのだ。その代わり興奮状態だった僕は、ピストルが暴発する感じで平瀬をぶん殴った。
 文系で運動嫌いの僕のパンチはさぞ効かなかったろうが、手を出されるとは思っていなかったらしく、平瀬は少なからず動揺しぐらついた。その後は悪魔みたいな顔になって、僕の鼻を折るくらいの強いパンチで僕の鼻を殴った。たぶん折れたと思う。
「きゃあ」
 ゴマをつぶすような音が鼻から聞こえて、結衣が叫び声をあげると、遠くから交通整理の警官が近づいてきた。平瀬はまたもやぶつくさ言いながら、さっと逃げ出していった。でも警官は会場のいたるところにいるはずだ。
 僕は生来の大人しそうな顔立ちに助けられ、完全な被害者扱いだった。先に手を出したのがこっちとはいえ、鼻から大量の血を流している人間を、反証もなしに犯人扱いできないようだ。警官は優しかった。
 事情を聞かれると面倒くさいことになる。僕と結衣は駆けつけた警官が目を離した隙に、人波の中へもぐりこんだ。かくれんぼみたいで楽しかった。川べりから少し遠い、屋台の並ぶマンションの前まで来ると、僕は鼻につめるティッシュを取り替えながら聞いた。
 あいつ、なんだって?
「もう一回付き合おうだって」
 なんで?
「諦めきれないんだってさ。誰があんな奴」
 僕は事態を上手く飲み込めないまま正直に聞いた。結衣は平瀬とやったんじゃないの?  僕は足を思いきり踏んづけられ、危うく屋台に突っ込みそうになった。
「誰が? そんなわけないじゃない。振られたからってそんな噂流してんの? あいつ、やっぱりサイテーのクズだね。やりたいやりたいって言うから振ってやったの。良いのは外面だけなんだから。あんたも何信じてんのさ、バカ」
 僕は鼻の痛みも忘れて幸福な気持ちで立ち尽くした。
「なによ、なんか言いなさいよ」
 僕は、よかった、と答えた。本心だった。とても嬉しかった。
「ていうかすごかったねさっき。殴ったりするんだ」
 なんか夢中でやっちゃった、僕は言った。二人して笑った。僕の想像ではここで結衣が僕のほっぺにキスをするくらいの褒美があるはずだったが、鼻を折ってもまだキスまでは遠いらしく、そんな素振りは無かった。
 突然、夏の蒸し暑さが戻ってきたように感じた。花火大会はまだ続いている。
「スイカでも食べてく?」
 結衣の一言で、僕はおなかが減っていたことを思い出した。はっきり行くと伝えると、結衣は意外そうな顔をして笑った。服も汚れちゃったしね、と、僕はシャツの赤い汚れを指差した。
「洗濯してあげるよ」
 結衣は言うと、僕を先導して歩き出した。家は由利川からすぐ近くにある。5分もせずにつくはずだ。
 僕はゆっくりと、時折立ち止まるくらいのスピードで歩いた。
「早く来ないと置いていくよー」
 結衣がそんなことをしないのは知っている。後ろで花火がまだ上がっている。
「もう、遅いってばー。どっか痛いのー?」
 正直なことを話せば怒られると思った。でも少しでも長く歩いていたかった。家がもう少し遠くにあったらいいのに。
 結衣が駆け寄ってきた。姿が花火に照らされてはっきりと浮かび上がる。
――僕はまだ、結衣の浴衣姿を堪能していない。
 こんな気持ち悪いことを言ったらきっと家には入れない。結衣が僕の手を握った。
 背中で打ちあがった大花火の音が、心臓を強く震わせた。
 もうはっきりと夏だった。

2008/08/16(Sat)12:37:40 公開 / メイルマン
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