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『星の音』 作者:夏梅 乃楽 / リアル・現代 未分類
全角13379文字
容量26758 bytes
原稿用紙約41.45枚



 星の音


 

 なんだか、ひどく息苦しい。
 面倒な仕事。
 退屈な職場。
 険悪な人間関係。
 ……それはきっと、自業自得なんだろう。よく考えもせずにただ収入面だけを考えて選んだ職場に、生きがいを見出そうなんてこと自体が、そもそも間違いなんだ。
 押し寄せるクレームの波。
 叩きつけられる他人のストレス。
 自分なんかいなくても、この世界は相変わらずグルグルまわっているのに。
 それなのに、なんで俺は、こんな風に我慢を重ねているんだろう。
「それは現代人の誰もが抱えている問題ですよ」なんていう識者めいた言い訳じゃあ、もう俺は自分をごまかせなくなっていた。
 真綿で首を絞められる、こんな表現が妙にしっくりきてしまう、そんな毎日。
 無い物ねだり。永遠に尽きることの無い、どこまでも果ての無い、無い物ねだり。
 この国のどこかには、こんなどうしようもない俺を受け入れてくれる、満たしてくれる何かが存在しているんだろうか。ふと、そんなことを思った。
 気づいたら、携帯を投げ捨てていた。
 貯金を全部下ろして、何着かの服をかばんに入れて。
 そして俺は、息苦しい都会を脱け出した。



 細い峠道を器用に走る古臭い路線バスに乗りながら、俺は車窓の外に視線を投げる。
 紅葉の頃を過ぎた落葉樹林が、断崖の下に広がっていた。いかにも寒々しいその風景は、ほんの数ヶ月前にそこに緑の森が広がっていたと想像するのが難しいほどに寂れている。
 このバスは、どこに向かっているんだろう。バスに乗って一時間ほど経ったとき、ようやく俺はそのことについて考えられるだけ落ち着いてきた。行き先も、今夜の宿も、何もかも一切考えずに、俺はこのバスに乗った。これが、今まで陰でマニュアル人間と罵られてきた俺だとは、自分でも驚きだ。
 バスの中には無愛想な運転手と、大きな荷物を背負った老婆しかいない。先ほど優しそうなこの白髪の老婆が俺に話しかけてきたが、俺はなんとなく無視してしまった。別に老人が嫌いなわけではないが、こんな時にまで相手をさせられるのは御免だ。老婆も何か事情があるのだろう、というような優しげな表情をして、それきり話しかけてこなかった。
 ……今、何時だろう。
 腕時計などという立派なシロモノはつけていなかった俺は、携帯を投げ捨てた時点で、時間の漂流者になってしまった。なかなか不便なものだ。
 だが、まあ後悔はしていない。あんなものは、捨ててしまって正解だ。今は自由だ。束縛から解き放たれた、籠から飛び立った鳥の気分だ。
 それに、あれを持っていたらそれだけで部長のイヤミな声が聞こえてきそうだ。……どうせ飛び出すんなら二、三発殴ってからにすればよかったかもしれない。



「雪野。おい、雪野!」
「は、はいなんでしょうか」
「応接室にお客様がお待ちだ! さっさと行かんか!」
「いや、すみません、こちらも手が離せなくて」
「手が離せない……? お前はやる気あんのか! 他の皆だって同じように手が離せないんだよ。皆忙しいんだ。それなのに、お前は大した仕事も出来ないくせに……」



 駄目だ。こんなところに来てまで、あんなスダレハゲのクソオヤジを思い出してちゃ、せっかく出てきた意味が無い。忘れよう。つまらないことは、全部忘れよう。
 でも俺には、……こんな時に思い出せる楽しい思い出なんて、あるのか。
 もしそんなものがあったら、まだもう少し、あの息苦しい職場にも耐えられたのかもしれない。
 だけど結局、俺は逃げることしか出来なかった。そうすることでしか、自分を保つことは出来なかった。
 ……やめよう。今は、何も考えずにおこう。せめてこのバスが終着点に辿り着くまで、それまでは。
 そう心に決めて、窓の外に再び視線を転じようとした時だった。
「お兄さん」
「え?」
 声の方を向いた。
 そこに、笑顔があった。
 少女くささの残るえくぼを浮かべて、彼女は笑っていた。
 俺が座る席のすぐ脇の吊り革に手を掛けて、俺の表情をのぞきこむようにまじまじと見つめている。わずかに車内に射してきた西日が、彼女の瞳を鳶色に輝かせている。少し細い感じのする目元は、自然な長いまつ毛に囲まれていた。
 空いた手で肩にかかる程度の短い髪をかき上げながら、少女は言葉を続けた。
「お兄さん、街の人でしょ」
「へ?」
 再び問い返してしまう。質問の意味が良くわからない。
「あれ? 違った?」
「え、ああ、いや」
 なんとなく戸惑ってしまって、俺は視線を下げる。
 それで気が付いた。彼女は、ダークグリーンのブレザーを着ていたのだ。……高校生、か? どことなく違和感があるのは、街中で見かける女子高生と違って、スカートの丈が長いからだろうか。
 話しぶりからして、田舎の女子高生というところか。しかし、その田舎の女子高生が、俺みたいな人間にいったい何の用があるんだ。
「ほら、なんとなく垢抜けた感じがするからさ。きっと街の人だろうなって。違うの?」
「……うん」
 曖昧な返事をかえしてしまう。失望されただろうか、いや、それがなんだというんだ。俺には関係の無いことだ。
「あのさ、となり、いい?」
「は?」
「ほらほら、荷物上に上げてよ。座れないじゃん」
「あ、うん」
 ……なんだってんだ。俺は若干不快感を抱きながらも、仕方なく自分の荷物を荷台の上に載せた。それを見計らって、彼女は素早く俺の横に座り込む。
 他の席はガラガラだっていうのに、なんだって俺の横に座りたがるんだ。……勘弁してくれ。
「お兄さん、どこ行くの?」
 はつらつとした表情で、少女は何の気兼ねも無く尋ねてきた。
 俺は、躊躇してしまう。なんと答えたらいいんだろう。よくわからない。目的地なんて、初めからありゃしないのだから。
「あー」
 急に意味ありげな微笑を浮かべて、少女は俺の顔を指差した。……失礼なヤツめ。
「なんだよ」
「わかった。家出でしょ」
 一瞬虚を衝かれて、俺はたじろぐ。その反応を見て、少女は高らかに笑った。
「なんてね。いくらなんでもその歳で家出はないよね。冗談冗談!」
 ……驚いた。読心術でも身につけてるのかと本気で思った。女の勘というのは凄まじいものがあるな。
「で、どこまで?」
 まだ続いてたのか、その話。
 俺はとにかく何か答えなければ、と考えて口を開く。
「とりあえず、終点まで」
「へー、じゃああたしとおんなじだね。あたしも終点までなんだ。……でもさ、苅谷沢に何しに行くの? ただのものっすごいド田舎だよ?」
「え、それは、えーと、……研究だよ研究」
 ……なんだ、研究って。
「何の?」
「そりゃもちろん、……星の研究だよ」
「ほー、やっぱり見た目通り頭良いんだね。学者さん?」
 俺は内心でほっと胸を撫で下ろす。よかった、単純なコで。
 そう感じてから、俺は改めて思い返す。なんで俺がこんなに戸惑わなきゃいけないんだ。そもそも、俺がそのカリヤサワとかというところに行く理由を、この少女に説明する必要性なんて全く無いはずだ。それなのに、なにを俺は、こんなに訳のわからない嘘をついてるんだろう。しかも星の研究って、嘘のセンスゼロだぞ。
「あ、そうだ」
 少女は突然思い出したように目を丸くして、自分の膝の上に置いたかばんの中をごそごそをあさり始めた。そうして、中から何やらお菓子の袋を取り出す。ポテトチップスの袋だ。
「一緒に食べようよ、学者さん」
 その言葉に俺が答える前に、彼女は袋を開けて中身を一枚取り出すと「ハイ」と俺の方に差し出した。
「い、いや」
 ……なんなんだ。このよくわからない流れは。全然つかめないぞ。なんで初対面の相手に突然ポテチを勧めるんだ。
 俺は今までに味わったことの無い難解な田舎の女子高生のノリにいまいちついていけず、どうしていいやらわからないままに呆然とする。
「ん? キライ?」
「いやそういうわけじゃないんだけど」
「じゃ、はい。あーん」
 あーんって、……仕方ない。俺はしぶしぶ口を開いた。
 そこに、だいぶ乱暴に、それこそ歯ぐきにポテチが刺さるぐらい乱暴に、少女は手に持ったポテチを突っ込む。俺は口の中で「ぐっ」とうめいた。
「学者さん、ちゃんと食べないと駄目だよ? なんかすごい痩せてるし」
 俺は口の中に血がにじみ出てくるのを感じながら、それはストレスのせいなんだよ、と心の中でつぶやいた。
 ……そうだ、そう、ストレスのせいなんだ。学生時代、テニスで鍛え上げたしなやかな体は、仕事に就いて、仕事に追われる中で徐々に衰えていった。今の俺は、鏡の中の自分を直視することすら辛いほど、貧相に、脆弱に成り下がっているのだ。
 スポーツ、か。そんなものの存在は、忘れていた。せいぜいテレビで野球中継を見るぐらいで、俺は自分自身がかつてスポーツを楽しみ、スポーツの中に生きていたことを完全に忘れ去っていた。
 だけど、それがなんだっていうんだ。遊びでスポーツをやれるほど俺は暇じゃなかったし、仕事っていうのは自分を犠牲にして、その対価として収入を得るものなんだ。世の中みんな、そう、みんなそうやって生きてる。俺だけが遊んで暮らすことは出来ないんだ。
「ところでさ」
「……なに」
 なんとなく、気分が悪くなってきた。それもこれも、この高校生のせいだ。なんだってこんな風に俺を惑わすんだ。迷惑だ。こうなったら、次のバス停で降りてしまおうか。
「苅谷沢、宿無いけど。泊まるところあるの? 最近ボロ民宿が潰れて、今は一軒も無いよ?」
「……へえ。そうなんだ」
 別に構わない。一日や二日野宿するぐらいの体力は持ち合わせてるつもりだ。
「まさか野宿する、とかいうんじゃないよね? やめた方がいいよ、熊が出るから」
「……熊!?」
 声が裏返る。
「うん。村の人口より熊の数の方が多いんじゃないかって、前に猟師のおじいちゃんが言ってたから。え、なに、知らなかったの? 研究に行くのに」
「あ、いや、知ってたよ。よく知ってるさ、ははは……」
 ……どうしよう。職場を逃げ出した時点で人生捨てたようなつもりでいたけど、いくらなんでもこの体を熊に食べさせてあげるほど、俺はナチュラリストではない。獣に食べられるって、なんとも言えず痛そうだ。
「じゃ、どうするつもりだったの?」
「……うん、どうしようか」
 俺は思わず聞き返してしまった。
 それを聞いて、少女はぷっと吹き出した。
「頭のいい人って、なんかこういうところ抜けてるよね」
 大して頭は良くないんだけど。まあそれはいいとして。
 どうしたらいいんだろうか。あれこれと考えてはみるが、これといってよさそうな打開策は思い浮かばない。
「ねえ、その、カリヤサワだっけ、その村のとなりとかには宿無いのかな?」
「となりって、もう遅いよ」
「遅いって何が?」
「だって、もう苅谷沢に入っちゃってるもん」
 俺はそう言われて初めて、大きなバスの窓の外に目をやった。
 遠く、崖の下に数軒の民家が並んだ、おそらく苅谷沢村のメインストリートであろう集落が見える。その脇には太く蛇行した自然の姿を残した河川が流れていた。西日にきらめく金色の水面は、初冬の風にゆらゆらと揺れている。
「で、でも、まだ次のバスがあるんじゃ」
「お兄さん、ホントに街の人だね。このバス、こんな時間だけどもう最終なんだよ?」
 そう言って脳天気に笑われると、なんだか都会人としてのプライドが傷つけられるような気もするが、今はそんなことを言っている場合ではない。この状況をどうにかしなければ。
「じゃあ、さ」
「ん?」
「仕方ないからさ」
「うん」
「ウチにおいでよ。食べる物と寝るところぐらいはなんとかしてあげるから」
 ……え。



 終着点、苅谷沢。そこに降り立つと、夕闇が迫る頃の冷ややかな風が頬をなでた。
「こっち。ちょっと歩くけど、贅沢言わないでよ?」
「うん」
 少女は、先に立って歩き始める。その後ろ姿はなんとなく力強さを感じさせていた。あんなに細い体なのに、なんでこんな風に感じるんだろう。不思議だ。
 彼女の名前は、五十嵐 真弓といった。今は十六歳(もうすぐ十七になるんだよ、と強調していた)で、毎日あのバスで片道一時間の道のりを通り、ここよりは多少栄えた町の高校に通っているらしい。というのも、苅谷沢には高校が無いのだ。この村の中学校を卒業した人間が高校に通う場合、どこかの町の下宿に入るか、真弓のようにバス通学するしかないということだった。……なんだか、気の毒な話だ。
「でも、いいんだ。あたし、苅谷沢が好きだから」
 バスの中で、彼女は俺の内心を見透かしたように微笑んだ。好き、その言葉には、心からその土地を愛している、そんな実感がこもっているように感じられた。
「あ、先に言っておくけど」
 物思いにふけりながら後を追っていた俺の方を振り返り、真弓はまた満面の笑みを浮かべる。
「うちのおじいちゃん、ものっっっすごい怖いから。それだけは覚えといて」
「怖いって、何が?」
 そういえばたしかバスの中で、猟師をやっているとか言っていたな。
「何が怖いって、何もかもだよ。顔も怖いし。なんかね、若い頃に熊と格闘したらしくて、その時の傷が顔に残っちゃってるんだ。ちょっとした不良漫画の悪役より数倍怖いよ?」
 俺の中で、真弓の祖父の恐ろしい形相が出来上がった。月を見ると狼に変身しそうな、筋骨隆々の、顔中あざだらけの彼が、俺の頭の中で俺をにらみつけている。
「しかも」
「しかも?」
 まだなにかあるのか。
「趣味は料理なの!」
 ……筋骨隆々の、熊と格闘したこともある怪物のような真弓の祖父が、ピンク色のエプロンを付けて鼻歌交じりにねぎを刻んでいる姿を想像して、俺は若干鳥肌が立った。
「それは、怖いな」
「でしょ? 怖いのよ」
 真弓はその反応に満足したように、振り返って再び歩き出した。からかっているのだろうか?
 冬の陽は、あっという間に沈んでしまう。かすかに西の空に青紫を残しながら、空は闇の中に沈んでいく。林を抜ける未舗装の道路は、いかにも獣が飛び出してきそうな雰囲気に満ち溢れている。
「もうすぐだから」
 振り返らず言った真弓の吐息が白い。
 バス停を降りて三十分は歩いただろうか。ようやく、真弓の家らしきものが遠く、なだらかな坂の上に見えてきた。
 外観は、平屋の横長な大きな家だ。家の脇には倉庫を備えていて、更に畑らしきものも見えている。今は冬だからだろうか、作物の姿は見えない。
「ついたよ、ここがあたしんち」
「へえ、立派な家だね」
「はは、なんせ土地が安いからねー。わざわざ二階を作る必要も無いんだよ」
 笑って、真弓は俺を玄関の方に導いていく。
 冬の寒さ対策だろうか、家の壁全面が濃いブラウンに塗られている。
 ガラス戸に手を掛け、それを開くと同時に、真弓は大きな声で「ただいまー!」と言った。俺はその後ろについて、「お邪魔します」と丁寧に口にする。
 家の中は、何というのだろう、古い民家の匂いというのだろうか。木のかもし出す不思議と心の落ち着くにおいが、玄関を入った瞬間にふわっとにおった。
 玄関を入ると、奥に向かって廊下があり、いくつかのドアが見えている。
 ……さあ出て来い、熊五郎。俺の方はもう心の準備万端だぜ。
「おじいちゃん! ……あれ、いないのかな」
 それならそれで、全然構わないのだが。
「またお酒でも飲みにいってるのかな? ったく、のんべえなんだから」
 そう言いながら、真弓は玄関で無造作に靴を脱いで「いいよ、入って」と言った。そして自分は先に中に入っていく。俺は、だらしないなぁ、と真弓の靴まで直してあげながら中に入っていく。
 居間には木目調を活かした実に落ち着きのある家具が並んでいた。ところどころにどうも趣味が悪い絵皿や木彫りの熊なども置かれてはいたが、それはそれで、なんとなく実家に帰ってきた、というような感じを抱かせる妙な魅力に満ち溢れていた。
「コーヒーでいい? あ、そこのソファにでも座っといて。くつろいでていいよ」
 良く使い込まれた味わい深いソファに腰掛けて、なんとなくいつ熊五郎が帰ってきてもいいようにと緊張しつつ、真弓がキッチンでガチャガチャとやっている音を聞く。……彼女は多分、家事には向いてない。
「ごめん、お湯が沸くまでまだ時間かかるから、その間に着替えてきてもいい?」
「いいよ、どうぞどうぞ」
 俺がいちいちそんなこと俺に断らなくても、と思いつつ返事をすると、真弓はキッチンから駆け出してきてそのまま廊下の方に抜けていった。そうか、真弓の部屋はあっちにあるのか。
 そして、沈黙がやってきた。
 古い壁掛け時計が、振り子をカツカツと鳴らしている。キッチンからは、真弓が火に掛けっぱなしにしたやかんがグラグラと音を立てている。それ以外には、何も聞こえてこない。
 静かだな。俺はそう思いながら、一つため息をついた。雑音の無い、静かな世界。こんな世界に、住むことが出来たならどんなにいいだろう。
 俺は都会に生まれ、都会に生き続けてきた。自分の知らないこんな所に、こんなに静かな満ち足りた場所があるなんて、考えたことも無かった。もちろん、田舎で暮らすことの大変さを俺は知らない。そんな俺が、知りもしない世界のことを褒め称えるなんておかしい気もする。
 でもなんとなく、そう、なんとなくではあるけれど、真弓が「苅谷沢が好き」と言ったその意味が、少しだけわかった気がした。
 ピーー、とやかんが鳴り始めた。それで、思考が途切れる。
 どうしたんだろう、真弓が出てこない。……まあ女の子だし、やることがたくさんあるんだろう。俺はこの家の柔らかい雰囲気に触発されて、まあコーヒーぐらいは自分で淹れるか、とソファから立ち上がった。
 キッチンはアイボリーのタイル張りで、使いかけの調味料などが生活感をを漂わせている。これは、もしかして熊五郎が使用している調味料なんだろうか、と考えて先ほどの想像が呼び起こされ、ちょっとイラッとしたが、俺は気を取り直してガスレンジの火を止めた。
 その時、だった。
「おぉい、真弓! 今帰ったぞぉ」
 想像していた以上に武骨な声が、玄関の方から響いてきた。……やっぱりこれは、熊五郎だろうか。
「むぅ? 真弓ぃ、お客が来とるのか。おぉい」
 ちょっと待てよ。俺は客の分際で勝手にキッチンに上がりこんでいる。しかもここは料理好きの熊五郎にとってはある種の聖地だ。客どころか、不審者と見られても不思議じゃない。例の熊殺しの格闘術でボコボコにされた末に警察に突き出される、なんてことも無いともいえないぞ……!
「なんじゃあ、台所におるのか。真弓」
 足音が近づいてくる。
 まずい。これはまずいぞ。いくらなんでもこれは。こうなったらこっちも素手じゃ太刀打ちできないから、いっそ包丁でも持って応戦するか? いや、そうすると猟銃で射殺される可能性だってある。
「真弓、返事ぐらいしなさい」
 駄目だ。もう絶体絶命だ。どうしようもない。一か八か、先制パンチをお見舞いしてやる……!
「てりゃあ!」
 物陰から繰り出したパンチは、熊五郎の肩にヒットする。
「ぐっ! な、なんじゃ貴様は!」
「ま、負けてたまるかぁ!」
 続け様にワンツーパンチを繰り出すが、その巨体と白髪頭には似合わず、熊五郎はバックステップで回避する。……どうしたらいいんだ!
「さては貴様、物取りじゃな! ウチに忍び込んだのが運の尽きじゃ! 覚悟せい!」
 そういうと熊五郎は何やら両の手のひらを手刀にして、ギラギラとした眼光でにらみつけてきた。恐ろしい迫力だ。真弓の言っていた顔全面の古傷も、その迫力を更に凄まじいものにしている。
「さあ来い! 若造」
 くっ。どこにも隙が見当たらない。一体どうしたらいいんだ。
 その時、不意に金切り声が居間の方から響いてきた。俺と熊五郎は同時にそちらに眼を向ける。
「ちょ、おじいちゃん! なにやってんのよ!」
「来るな! 来てはならんぞ、真弓!」
「お兄さんも、ちょっと、これウチのおじいちゃんだってば!」
「真弓! もしもワシがここで死んだなら、皆に伝えてくれ! ワシは最後まで勇敢に戦ったとな!」
 ……俺としては、こんなおっそろしい爺さんとはもうこれ以上戦いたくないのだが。だが最初の一撃を当ててしまったせいで、どうも熊五郎の方は変なスイッチが入ってしまったらしい。……これは困った。
「おじいちゃん! ……ところでさ、なんかお酒臭いんだけど。まさか、お医者さんの指示をまた無視して、お酒を飲んできた、なんてこと、ないよね?」
「む、むむ、いや、これは仕方ないんじゃ。男には付き合いっちゅうもんがあってだな」
 熊五郎がたじろいでいる。そして真弓の顔に殺気が漂い始めた。
「あのねぇ!」
「い、いや、今回だけじゃ。……のう若造、男には飲まなけりゃならん時がある、そうじゃろ?」
 遂に俺に助けを求めてきた。俺はどう言っていいのかわからず、困惑しながら成り行きを見つめた。
「あっそう! そんなに死に急ぎたいわけね! お兄さん、いいよ! 好きなだけぶちのめしてあげて!」
「こら、真弓! こういう時は身内を応援するのが……」
「うるっさい! お兄さん、なんならあたしも手伝う!?」
 ……というような成り行きで、俺の先制パンチはうやむやになり、そしてなんとなく熊五郎に対して同情心が芽生えてしまった。冷めてしまったやかんのお湯を温め直す頃には妙に熊五郎とも打ち解けてしまい、今度熊を撃ったら肉を送ってやる、という約束までとりつけてしまった。
 冬の夜は、まだまだ長い。



 笑い声が、五十嵐家の居間に響いていた。
「大体おじいちゃんの顔が殺人鬼に見えるから悪いんだよ?」
 真弓がズケズケと言うのを、熊五郎、もとい、五十嵐源太は高らかに笑い飛ばした。
「いやいや、それを言うなら一番悪いのはワシに断りもなく男を家に入れた、あばずれ娘のお前じゃ」
「あー、またそういうこと言ってぇ」
 先ほど源太の作った、何ともいえない鍋を三人でつつき、その片づけを終えて俺たちは言葉を交わしていた。
「それにしても、星の研究か。世の中には訳のわからん仕事をしとる奴がいるもんじゃな」
「……はあ」
 もうそこには触れないでくれ。
「まあでも、確かに苅谷沢は星がきれいだって昔から言うよね」
「そりゃ、田舎ならどこでも星はきれいじゃ。きれいなのはせいぜい星と空気と水ぐらいのもんじゃな」
 源太がわずかに皮肉めいた口調で言う。確かに、毒々しさを孕んだネオンはこの村にはないだろう。
 俺は二人の会話を聞きながら、ふとこの二人の関係について思った。……おじいちゃん、ということはやっぱり祖父なんだろう。しかし、だとすると真弓の両親はどこにいるのだろう。なんとなく今日会ったばかりの彼らにそれを聞くのは失礼な気がして、俺はその疑問を腹のうちにおさめておいた。
「むぅ、しかし、星の研究というからには、顕微鏡がいるんじゃないのかな?」
「おじいちゃん、顕微鏡じゃなくて望遠鏡だよ。……でも確かにそうだよね。お兄さん、望遠鏡持ってきてないの?」
 ……なかなか鋭いな、熊五郎め。そう言われてみれば確かに不自然だ。どうしよう。言い訳が思い浮かばない。
「まさか、忘れた、とかじゃないよね?」
「いや、……あはは、それが、その」
「なんじゃ、本当に忘れたのか。まったく、頭のいい奴はこれだからいかん」
 別に大して頭は良くないのにな、と思いながら俺は苦笑いを浮かべた。
「いや、実は今回は観測場所の確認と休暇旅行を兼ねて、ということで、正式な観測はまた後日になるんです。そういうことです」
 ああ、また嘘をついてしまった。しかもちょっと嘘がうまくなってるのが、なんとなく罪悪感だ。
「なんだそういうことだったんだ。それならそうと、早く言ってくれればいいのに」
「真弓の言うとおりじゃ、まったく最近の若いもんは言葉足らずでいかん」
 結局責められるのか。嘘をついただけ損な気がする。
「じゃあ今日は星を見に行かないの? せっかく星を見るのにいい場所、教えてあげようと思ってたのに」
 真弓はどこか残念そうに口にして、源太はそれを見てどこか不快そうだ。……孫娘を取られるとでも思っているのだろうか。
「いい場所って?」
 真弓の善意を無にしてしまうのはどうもかわいそうな気がして、俺は聞き返す。真弓の思わせぶりな言い方が少し気になったのだ。それに、こんな田舎に来たのだ。星の研究とまではいかないものの、きれいな星を見るというのも悪くない気がする。
「ん? 興味ある?」
「うん。教えてほしいな」
 俺がそう言うと、真弓は嬉しそうな表情になる。本当に表情豊かな少女だ。
「じゃあ今から行こうよ。今日は丁度晴れてるし。きっときれいだと思うよ?」
 言いながら真弓は立ち上がり、「じゃああたしはちょっと用意してくるね」と居間を出て行った。
「こ、こら真弓! 若い女がこんな時間に……、聞いてるのか!」
 源太は眉をしかめて叫ぶが、真弓は返事もせずに去っていく。源太は疲れたようにため息をついて、卓上のお茶に手を伸ばし、不機嫌そうに啜った。
「まったく。あいつときたら」
「ずいぶんと……奔放なコですね」
 俺が気を使って言うと、傷の刻まれた顔に疲れたような表情を浮かべて、源太は俺を見つめた。そこには何か、複雑な感情が含まれている。
「……珍しいこと、じゃよ。あの子がこんなに、誰かに心を許すのは」
「え?」
「若造、雪野といったか。お前が都会の人間だから、なのかもしれんな」
「なんですか、それ。どういう意味です?」
 その問いには答えず、源太は懐からタバコを取り出して火を点ける。吐き出す煙が源太の中にある言い知れない思いを代弁しているように、どこか悲しく、音も無くはためいた。遠くを見つめる視線は、いったい何を捉えているのだろう。
「雪野」
 沈黙を破って、源太の声が居間に響いた。言葉には表し難い緊張感が、空気の中に漂っている。
「はい」
「真弓は、あの子はな」
 その言葉が結末に至る、その前に廊下から足音が聞こえてきた。思わずそちらに目をやると、そこには黒いウインドブレーカーにブルージーンを合わせた、ずいぶんとラフな格好の真弓が立っていた。
「さ、行こうよ。お兄さん」
 その明るい声が、居間を覆っていた重苦しい空気を払拭してしまう。源太は言いかけていた言葉を飲み込んで、溜め息とともにタバコを灰皿に押し付けた。
「真弓、夜の山は危険じゃからな。十分気をつけるんじゃぞ」
「わかってるよ。大丈夫、すぐ帰ってくるから」
 源太はまだ何か言いたげだったが、それ以上はくどくなるだけだと自ら悟ったのか、黙り込んでしまった。
 先ほど源太が何を言おうとしていたのか、それが気になったが、今すぐに聞かなければならない理由はないだろう。帰ってきてからでも遅くはない。俺はそう割り切って、立ち上がった。
「それじゃあ、ちょっと行ってきます」
 俺の言葉に源太は手を軽く上げるだけで応え、残っていたお茶を飲み干した。
 玄関を出ると、突き刺さるような冬の寒気が体中を包んだ。空を見上げると、都会では絶対に見ることの出来ない星の海がそこには広がっていた。果てしない、星の海が。
「またちょっと歩くけど、我慢してよね」
 真弓が笑い、そして先に立って歩き出す。星明りと月明かり、ただそれだけに照らされた、暗く青い道を。
 ホウホウとフクロウの鳴く声。風にざわめく木々の囁き。自然、それはこういうものだろうか。凍えるような空気にさらされながら、ふとそう思った。こんな自然の中に人が生きている、そのことがどこか感動的にすら感じられた。
「……寒いね」
 結局口をついて出るのは、単純なこんな感想だったりするのだが。
「そうかな? 大したこと無いと思うけど。でもまあ、雪が降る前の方が、雪があるよりも寒いっていうのはあるかもね」
「雪? ここ、雪降るの?」
「降るなんてもんじゃないよ。豪雪地帯だね」
 真弓は笑い飛ばすと、小さく息を吐いた。
「雪が降り出すと、バスの時間が変わってくるんだよね。朝起きる時間が三十分も早くなるんだよ」
「へえ。……真弓ちゃんは今、何時に起きてるの?」
「ん? 五時だけど。多分来月からは四時半になっちゃうよ。ね、田舎なんて不便なだけでしょ?」
 そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。隣の芝生は青、所詮俺の感覚なんてそんなものなんだろうか。そして、そんな負の面をひっくるめて、苅谷沢を好きだと言い切ってしまう、そんな真弓の愛情の深さを改めて実感させられた。
「それにしても、さっきはびっくりした。いきなりおじいちゃんと闘ってるんだもん。あのおじいちゃんに向かってくなんて、珍しいっていうか無謀っていうか。なんかスゴイね、お兄さん」
「……いや、あれには事情があって」
「どんな事情? まあなんにしても、根性は認めるよ。でももしあたしがあと数分遅れてたら、お兄さん多分死んでたけどね」
 さらっと怖いこと言うな。しかしおそらくそれは事実だろうから返す言葉が無い。
「都会人の割には、根性あるんだね」
 ……そこでふと、俺は先ほどの源太の言葉を思い出した。「お前が都会の人間だから」。何故だろう、真弓は、源太は、妙に俺が都会人であることを必要以上に気にする。
 確かに、都会の人間が田舎暮らしに憧れるように、あるいは馬鹿にするように、田舎の人間にも都会人に対する羨望や嫉妬があって当たり前だ。だが、彼らのそれは、そういった誰しもが持つ感情とはどこか違う気がする。何故だろうか。理由はわからないが、あまりにも不自然で、異様だ。
 さっきの、あの源太の言葉。あの言葉の結末に、その秘密が隠されているような気がして、俺はすぐにでも源太の元に戻りたい、そう思った。しかしここまで来てしまったのだ、今更やめるというのも真弓に悪い気がする。とりあえず、今は星を見に行くこと、ただそれだけを考えることにしよう。
「ところで、お兄さん漠然と『星の研究』っていうけど、何が専門なの? なんか、色々あるんでしょ、そういうの」
 ぐっ。また難しい質問をするな。さすがにそこまでは考えていなかったぞ。
「え、ああ、ははは、まあ色々やってるけど」
「それじゃあ、特に力を入れてるのは?」
「う、そうだな、まあ、主に太陽系の惑星について、かな」
 ……こんなテキトーな嘘をついてしまっていいのだろうか。
「へえ、じゃあなんかそれについて面白い話、聞かせてよ」
「ん、あ、いや、ほら、俺は話するの苦手でさ、うん。だからちょっとね」
「えー、なにそれ。つまんないの」
 つまんないって言われても、話すことが無いんだから仕方ないだろ。まあ、嘘をついてる俺が悪い、という考え方もあるが。いくらなんでもこれ以上口からでまかせを並べ立てるのは気が引けるし。
 それにしても、随分歩くんだな。そろそろ疲れてきた。朝からのバスの長旅が、いよいよ響いてきているのかもしれない。眠気が上まぶたの辺りを徐々に覆い始めている。早く布団に入りたい気分だ。あとどのくらい歩くんだろう。もう三十分は歩いている気がする。未舗装の山道だからだろうか、足が妙に疲れる。
 帰りも同じ道のりを歩くことになるんだよなぁ、と俺はかなりげんなりとしながら、着実に歩を進めた。
「あたしさ」
「ん?」
 歩きながら、真弓は急に真剣な表情を浮かべ、俺の横に並んだ。……唐突に、真弓が発する空気感が変わった。真昼の太陽のようだった、少しやかましいぐらいだった真弓が、突然深夜の青白い月のような、静かで冷たい雰囲気を帯びる。
 どうしたんだろう。俺は何か自分が彼女の癇にさわるようなことを言ったのだろうか、と心配になる。もしかして、嘘がバレたのか? いや、だからといって、突然のこの変わりようはないだろう。
「あたし、ね」
 冷ややかな視線を正面に向けたまま、少女は白い吐息と共に声を発した。
「……つらいんだ」
 その言葉の真意を窺い知ることが出来るほど、俺は彼女について知らない。つらい? 一体、何のことを言っているのだろう。話の流れが、またつかめなくなった。
「つらいって、何が?」
 その疑問を口にしてから、いや、ここはしばらくこのまま、聞き役に徹しておくべきだったか、そんな後悔も浮かんだが、言葉にしてしまってからではもう遅い。
 真弓は力の無い瞳で、軽蔑するような、信じられないというような、そんな表情を作った。俺に向けられたその非難の眼差しは、再び暗い夜道に転じられる。
 それきり、真弓はもう何も言わなくなった。数十秒間、並んで歩いたあと、彼女はまた俺を置き去りにしようとでもいうように先に立って歩き始めた。
 少しずつわかり始めた気がしていた、五十嵐真弓という少女が、またわからなくなった。



 続く。
2007/11/23(Fri)05:16:23 公開 / 夏梅 乃楽
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■作者からのメッセージ
 初めまして。夏梅 乃楽(なつめ のら)という新参者です。以後お見知りおきを。
 日々研鑽を重ねられている皆様と同列に作品を掲載させていただけるほどには力はありませんが、少しでも楽しんでいただけるようにと苦心しました。
 更新は割合遅めになるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。
 それでは、出来ましたら感想などお聞かせいただけましたなら、幸いの極みです。
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